金胃人 小栗虫太郎 怪異境「|煙死嶺《ヤン シイ リソ》」 「串焼き羊肉、一丁」 「ゴッタ煮、一丁」  いま「ユキの家」は夕食時の大繁昌。満洲国|恰爾浜《ハルピソ》埠頭区 新城大街の、中銀支店のうらにこの品のいい店がある。  お食事とピールーという看板に偽りなし。下素な恰爾浜 にもこんな店があるかと思われるほど、感じがよく、客種も いい。附近のサラリーマン、満洲国軍日本人将校が、この 「ユキの家」の常顧客というところ。  料理は二の次で、女主人のユキを目がけて腕におぼえの連 中が、千客万来、押すな押すなの盛況だ。  ユキは、まだ二十三、四の、うら若い娘だ。清楚な感じに 鋭さを併せ、見かけは近代令嬢の見本のようでありながら、 どうして場合によれば啖呵もきるし、相当世渡りもしたらし い度胸っ骨もある。  それでいて、時にはむずかしい洋書などを読んでいる。か と思うと、映画でなければ聴けないような俗語まじりのアチ ラ語で、無礼な外人どもをペラペラっと遣っ付ける。とい う、一体どんな経歴で、何をしてきた女かーいっさい合財 が複雑怪奇という、ユキは文字どうりの謎の娘。 「あの顔で、蜥蜴食うかや山ホトトギス……」  と今、隅のテープルをかこんでいる日本人将校の一団が、 帳場のユキをみながら、あれこれと品定め。そこへ、その連 中を見つけたユキが親しげに手をふりながら、帳場からその テーブルヘやって来た。 「日高さん、暫くみえなかったけど、どこへ行っていらしっ たの」 「大興安嶺へ、宋匪を退治にさ」  その日高という愛矯のある髭男は、興安東省警察隊本部長 補。満洲国治安の癌といわれる大共匪宋馬山を、ついに大興 安嶺へ追いこみ、仕止めてきたという。 「マア、偉い」とユキはぐいと乾杯した。 「見直すわ。これから、あんたの|悪口《あくこう》は決して云わないか ら」  すると、どうした訳か苦笑をうかべた日高さんが、ちょい と待ったと、遮るように云う。 「|性急《せつかち》め。話を聴きア、|落胆《がつかり》するぞ」 「どうしてよP」 「それはね、どうも|宋《ソン》の最後が合点がゆかぬ。あまりに、変 テコにも変テコ過ぎるというんだよ」 「変テコってP そんな意味曖昧なことが、軍隊で通るP」 「やられた」と日高さんはカラカラと笑って、 「とにかく、俺は|宋《ソン》のやつを完全に葬むったと思う。しかし それが、俺の力か魔境の力かとなると、どうもそれだけは|執《ど》 っちとも云えないように思うね」 「妙ねえ。魔境だなんて一体、どういう訳なの」と、ユキの 澄んだ眼がくるくるっと動きはじめる。そこで、日高さんも 本腰になり、 「じゃ、話そう」と語りだしたのが、つぎの大奇諏。 「匪賊退治には、いわゆるダニ戦法というのがある。一度く い下ったら最後、あくまで離れない。その、ダニのように縦 いてゆく得意の戦法で、とうとう宋のやつを大與安嶺ヘ追い こんだ。それが、去年の十二月のことだった」 「寒かったでしょう」 「寒いのたんのって。零下四十度なんてことは、ザラだった からね。でまず、僕らの大興安入りを、地理的に説明しよ う。そこは、|海拉爾《ハイヲル》から北東へ三百キロばかり、ドブコール 川の源をなしている|紅蛇肚《ホン シエ フドウ》の連嶺だ。  湿地のうえには雪が積っている。足場の悪いなかを追い廻 しているうちに、とうとう俺たちは方角をうしなった。しか し、その辺にはオロチョン土人がいる。鹿や山羊の毛皮を着 たエスキモーのようなやつで……。たいてい其奴等がいるの は山また山の、いわゆる未踏地にちかい幽谷のなかだ。する とある日、宋のやつが獣肉をねだりに来た。運の尽きー。 そこで、追跡がはじまった。  もう、部下とも十五、六人になったやつを、高さを加えれ ば加えるほど巨木の密林となる、紅蛇肚の横腹で追い廻す。 すると、そこへ非常に困ったことが出来たというのは、案内 のオロチョン人が動かなくなったことだ。俺ア、この先ヘは 行ったことがねえだ。この方角は|煙死嶺《ヤンシイリン》だで、マアこの辺で 御免蒙りますべえilというのだ」 「うまいわね。幾らかあんたにも、オロチョン人が混ってい るわね」 「|巫山戯《ふざけ》るな。で俺は、煙死嶺とはいかなる所かと、訊いた のだ」 「っまり、魔境というのが、そこの事なんでしょうね」 「そうだ。すると、そのオロチョン人が顛えながら、いうの だ。この紅蛇肚の連嶺のいちばん高いところが、世にも怖ろ しい煙死嶺になる。そこにゆけば、人間がたちまち吸い込ま れる。あたかも、煙のようにスウっと消え失せて、地底ふか くへ呑まれ、で、その名があるーというのだ。しかし、そ んなことに|関《かま》っちゃいられない。まったく、無我夢中という のは怖ろしいもんだ。  で、追い廻すこと半月ばかりの後に、密林がきれまっ黄色 な禿山がみえる。よく大興安嶺にある、円錐形の死火山だ。 しかも、その時は吹雪のまっ最中。と、驚いた。その禿山へ は一向に雪が積らない。雪が、地面へ落ちると団子のように 土をまるめて、ころころと斜面をすべってゆく。オヤッ、こ りゃ妙な地質だわいと1思ったとき吹雪の波の合間に、逃 げてゆく宋馬山等の姿がみえる。それも、滑稽なことに、斜 面を這ってゆくのだ」 「マア、どうしてよ」 「つまり、脆い地質なんで、足耐えがない。そこで僕は、い よいよ野郎め年貢の納め時P 帰順を薦めようにも向い風で 聴えない。ようし、と云うんでモーゼル拳銃の狙いを、奴の 背中にピタリとつけたのだ。すると、その刹那不思議なこと がおこった」 「   」 「不意にだね。奴と側にいた二人ばかりの姿が、地上からか き消えたように見えなくなった。途端に、こっちからはダダ ダダッという掃射。みるみる、十余人のやつが|紅《あけ》に染まって、 ごろごろ斜面を転がり落ちてくる。しかし、宋馬山ほか二 人ばかりの姿は、それなり消えてしまったように見えないの だ」 「じゃ、何じゃないの。そこに、大きな穴ボコかなんかが」 「それがない。やがて、後隊が歩兵砲をもって来たんで、そ の地点を目がけて打っ放してみたがね。砂塵はあがるが、絶 対に穴がない。やはり、人を呑みこむ煙死嶺かと思うと、さ すがの俺もぞっと気味悪くなったよ」 「じゃ、あとでそこへいらっしたの」 「それがね、風が変って山頂から吹きおろす風で、下手をす りゃ飛ばされてしまいそうだし……それに、その風があくる 日も続いている。僕らは、食糧もないことだから探検は|断念《あきら》 めて、やっとこさでオロチョン人の部落ヘ帰ったよ」 「で、お終い」と、ユキはにこりと笑ったが、しばらく|煙草《たばこ》 をふかしながら、じっと考えている。なんだか、彼女にはこ んな予感がしたのである。 (死んだ宋馬山が、生きている。なんてことに、或いはなる のでは……) 青春国上陸第一歩 (どうだ。こいつ奴まるで、処女のようじゃないか。)  と、云うような意味をきっきっと眼配せをしながら、はた の将校連がユキをながめている。考えているユキーという と画題のようであるが、聰明、純潔のほかは何物もないよう な気高さ。  それまで、こいつは娘鉄火じゃないか。この、人種の掃溜 めといわれる恰爾浜へきて女手一つでこうした商売をやれる のは、よほどの食い詰めものか|強《したた》かものかーと、考えてい たのがいまこのユキの、全身から発する爽やかな薫風。五月 の処女i。ますます思えば思うほど、分らなくなるユキで ある。  そこへ、将校の一人がゲラゲラっと笑って、 「日高がね、なぜ煙死嶺の探検をしなかったかと云うと、じ つを云やこんな訳がある。君にもし、亭主か|悪足《ひも》ができたら 大変だというんで、里心が一遍についちまったんだよ」 「いるわよ」とユキがクククッと笑って、 「亭主は関羽、悪足は|成吉思汗《ジンギスカン》。ねえ、どうP」 「やられた。ここが、誰でもユキ公にぞっこんとなる所だ。」  やがて、その|嘉落《らいらく》な将校連中が帰ってしまうと、入れちが いに、一人のデップリとした五十男が入ってくる。  酒と脂肪で大兵肥満、欲と色気でブクブクというようなや つ。これは、以前は大陸のダニのような満洲ゴロだったが、 時を得たか浜江鉱山という、 一鉱業会社の杜長に納ってい るーー名を、浜中正風という男。 「来た、来た。マダム、野郎が来ましたぜ」  白糸露人のボーイがそっと曝いたが、ユキはとうに知って いたのだ。|吝《けち》なやつで金は落さないが、ユキヘは色気の万遍 もふり撒くというーこないだ、掌の甲をそっと撫でられた ときの、あの悪感がぞっと蘇がえってくる。 「マダム、黄砂がひどいが、咽喉はいいかね。誰でも満洲第 一年には、|咽喉《ここ》をやられるで」  厭なやつ、と思うがそこは商売で、ユキも合槌ぐらいは打 ってやる。やがて、浜中が串焼き羊肉を注文して、その最初 の一串を口に入れたときだ。じつに、なんとも云えないよう な表情で、それを嚥みこもうとも吐き出そうともしなくたっ た。その一塊の肉が四、五分ほどのあいだ、彼の口中にふし ぎや止まっている。 「いけねえ。事によったら、石でもあったんかなア。きっと 野郎、そうなると地金を出しますぜ。満洲ゴロの前身を露き だして、歯の治療費をださせるくらいのことは、やり兼ねね え奴だから……」  と、ボーイがオドオドいっている間に、浜中がまた異様な ことをやり出した。それは、会計とちょっと手をあげて、 |紙幣《さつ》を一、二枚置くとスウッと出ていってしまったのであ る。ところが、後へいったボーイが驚いた。  そこには、日本銀行紙幣の百円札が二枚。 「マダム、あの吝ん坊がこんなに置いてきましたぜ。沸々 公、陽気のせいで気違いになったんじゃ……」 「マア、二百円ね」と、ユキも暫くは二の句がでない。  二円五十銭の串焼き羊肉に、二百円。おまけに、その肉を 大切そうに持ち帰っている。  こりゃ何か、あいつに魂胆があるらしい。ようし、明日は 杜のほうへ行って、叩き返してやろうとlIそのあくる日、 午まえに出かけていった。  五月の末、黄砂で恰爾浜は眼もあけられない。そのなか を、自系露人の馬車や満人の人力が、自動車にまじって|稜《おぎ》の ように縫いかよっている。浜中の杜は、地段街にあって、す ぐに分った。 (馬鹿野郎。|赤螺《あかにし》なら赤螺らしくすりゃいいのに、余計なこ とをするもんだから、こんな手数が掛る。)  ユキは、応接室で待ちながら、プリプリしている。すると 浜中が、どうした事かなかたか出てこない。輝れをきらして 廊下へでて、暫くブラブラしていると、社長室のまえへ出 た。と|内部《なか》で、なにやら声高な話し声。しきりと、息張って いるような、浜中の声が聴える。 (なにか、こりゃ普通のことじゃないらしい。いちばん、隣 りの室へはいって、聴いてみてやれ。)  と、はからずも燃えた|悪戯《いたずら》っ気が奇縁の因。これが、かの 女の一生の重大なものの始め、また、魔境「煙死嶺」へ招き よせられる因となるのであった。がともあれ、合いの鍵穴に つけたユキの耳へは……。 「君は、わが社の使用人であるのに、わしに反く気か」と、 浜中の声が聴えてきた最初の声。するとそれに、じつに落着 いた青年らしい声が、答える。 「これは、どうも問題外のようですね。僕は、詐偽の加担な どは、まっ平御免です」 「なんだ、詐偽とは」 「詐偽でしょう。僕に、この金粉を鉱層になすり込んで置け と、いう。それであなたは、あのクズ|鉱山《やま》を馬鹿高に売ろう という。それが、詐偽でなくて、なんです」 「コラ馬鹿、詐偽、詐偽って大声で云うやつがあるか。しか し君は、わしが君を引きあげて坑夫長にしてやった、その恩 義も一考の価値があると思うね」 「なるほど、では僕があなたに薦めて、そんなことはお止め たさいと云うのは、どうですP」 「|痴《こ》け。こう云えばああ云うで、なんと云うやつだ」  それなり声がちょっと杜絶えたが、なんだかユキはその青 年が嬉しくなった。金の誘惑や出世を棒にふっても、正義の ためにはあくまでも拒む。軽挑浮薄な今時の青年には、じつ に珍しいような人物だ。どんな人だろうーと思うと、浮き たつような心のときめき。  きっと、眉の濃い鼻筋のとおった、肩幅のひろい純朴そう な方だろう。一度見たい。そうだ、応接間にあったあの帽子 の主ではないかーと思ったとき、またも聴えてくる。 「よろしい、では明日から路頭に迷おうと、わしは知らんか らな。君は、今日かぎりでこの社と関係はない」 「有難う。誠の件は、よろこんでお受けします。で、去り際 に一言、御注意しときますが……。社長も、いまに良い加減 にせんと喰い込みますぞ」 「|八釜《やかま》しい。満洲国開発の偉人をつかまえて、なんたる事を いう。相川がなんじゃ。わしの献策がなくて、なにが出来 る」 「ハッハッハッハ、インチキ産業開発の偉人ですかね。しか し社長、この件はけっして口外はしませんよ。どうか、御安 心のうえ御妾宅めぐりでも、精々マメにおやり下さい」  ユキは、その青年が出そうなので、応接室へとび帰った。 やがて、間の衝立のむこうにその青年が現われる。ああ、い まのユキの夢想とピタリというような……。坑夫長とはいう ものの荒くれ型ではなく、ガッシリしたなかにも均斉のうつ くしい、見ればどこかインテリ臭さもある。  ユキは、この青年に惹かれるようなものを感じてきた。す ると、衝立のむこうにユキがいるのを知らないらしく、その 青年はアーッと伸びをして、 「やれやれ、俺も追んだされて行き暮れにけり!か。楓爽 と、|苦力《クリ 》もよし、|糞夫《おわいや》もよし」とこの快青年、呑気そうに咳 いている。  さては、失業第一日で困ってしまっているな。それたら、 宅の二階でむさ苦しそうは御座いますが11と、まさか|居候 的《いそてき》に来てくれと云い出す訳にもゆかないし。困った。これな り、この人と別れてしまうのか。 (ユキ公、お前、惚れちゃったんだなロ)  只ひとりでヤキモキするユキの耳へ、その青年が新聞を繰 るような音。 「募集(男子部)と。なんだ、蒙古黒鉛|満俺《マンガン》株式会社、支配 人を求む、但し信認金を要すーか。ハッハッハッハ、こり ゃどうも浜中式らしいな。じゃと……、これは、どうだ。出 前さん一人、自転車に乗れる方、年齢を問わずー。よう し、俺がハイお待ち遠さまをやるのも、人生修業の一つだ」  ピリッと、その欄をやぶく音がして、その青年はあたふた と出ていってしまった。どこへ行ったのだろう。と、その新 聞を手にしたとき、アッと驚いた。 (あたしん|家《ち》だわ)と、思わず叫んだのも道理、それが 「ユキの家」。 串焼き羊肉ライスの出前さん募集広告を、きのう新聞に頼 んだユキの懐ろへ、計らずこの青年が転げこむことになった のである。 (なんて、縁だろう。あたしこれで、恋をしてしまうのかし ら……)  ユキは、なんでか甘く櫟られるような気持で、楽しそうに 口笛をやり出した。そこヘ、給仕が現われて、こちらヘi という。 「やあ、待たした待たした」と浜中が立派な椅子のたかで、 揉み手をしながら淫らそうにユキを迎える。 「今も、なんじゃ。経済部大臣の秘書が来おって、一時間も 粘りおる。あの件はどう致しましょう、これについての御意 見はi。というような塩梅式じゃから、わしも云うてやっ たよ。今はよいが、もし儂百歳のあとは、どうする気じゃ。 儂がいんでも政治が|出来《でけ》るように、大いにあんた方も勉強せ にゃならんーとな」  へん、|法螺《だぼ》吹き。と、舌をだしたいのをやっと抑えたユキ が、二百円の札を卓上にだして、 「これを、ゆうべお忘れでございましたわね。お返し致しま す。代金の二円五十銭は細かいので、頂きます」 「アッ、これがP。これはあんたに差しあげんじゃよ」 「こんなものを頂く、理由がございません」 「寸志じゃよ。と云うのは、こんな訳じゃで。たア、ゆうべ 儂が食った串焼き羊肉の肉な。あれを、あんたは何処で手に 入れたね」  はてなと、ユキもひき緊った顔になってくる。浜中は椅子 を進めて、 「あれはな。露名を『アンテロスパ』という、大興安嶺の玲 羊じゃ。それも、西北部の|紅蛇肚《ホソシエドウ》連嶺の、魔境『|煙死嶺《ヤンシイリン》』の 附近でのうてはいぬ、めずらしい獣じゃ。わしは、若いころ 一度あの肉を食ったことがあるで、味はようこの舌に浸みて おる」  魔境「煙死嶺」と、ユキがじっと眼を据えはじめたのは、 次のような物語があるからだ。 蒙古人の背中調べ  ちょうど、去年の十月ごろの話。恰爾浜名物の|古物市《バラホルカ》に、 一頭の|西蔵《チベット》熊を連れた怪しげな老人があらわれた。それが、 二度ばかり来ての、三度目のある日。 「どうだ、今日あたり、やって来そうなもんだな」  黒紹の毛皮の埃りをはらいながら、その、毛皮売りが隣り の男にいうのだ。いずれも、獣皮の三角帽をかぶった蒙古人 である。 「うん、あの西蔵熊の爺さんかね。そう云えば、そんな気も するが」 「だが、|彼奴《あいつ》は俺たちを集めて、なにをするんだ?」 「なにって、事はねえのさ。ただ、肌脱ぎにさせて、背中を みるだけなんだ」 「それだけかP」 「そうよ。ちょっと薄気味悪いが、いい銭をくれる。だいた い、たんの目当があって、そんな事をするんだか……。さっ ばり訳は分らねえが、不思議な野郎にアちげえねえ。それ に、なんだ。ほかの種族には振り向きもしねんだから……」 「ふむ、蒙古人にかぎりか……」 「そうなんだ。お前も、今度一番あやかったら、どうだね」  頓狂か、酔與か、どんな目的があるのか1lその老人はじ つに奇怪なことをする。齢は、六十くらいでまん丸い顔を し、頬は、童気が濃く林檎のように艶々しい。  そして、|旧支那《フ チヤテン》町、|極貧街《ナハロフカ》などの泥棒市に現われて、蒙古 人をあつめ背中をみる。なんと云っても、これは得体のしれ ぬ老人である。  ところが、十一月の半ばごろ、こんな事件があった。ある 夜、ユキと露人ボーイが買い出しの帰りに、短街の豆粕倉庫 の角でぐわんと|打衝《ぶつか》ったものがある。みると、闇のなかに欄 欄たる二つの眼、ううっと、ひくい獣らしい坤き。 「アッ」と跳び退こうとしたとき、足もとで声がした。 「お嬢さん、悪いやつに追われているのだ。匿まって、くん なさい」  みれば、それが背の低い老人だ。憐みを乞うようにユキの 外套をおさえた、その手も怖ろしさに顛えている。  ユキには、その老人の言葉がまんざら嘘ではないと思われ たので、すぐ自動車を呼びとめ、家へ連れかえった。 (これだな、古物市にあらわれて蒙古人たちの背中をみると 云う……いま噂のたかい西蔵熊の老人はP品そしてやはり、 怪行動をするだけに、敵もあるらしい。)  ユキに、そんなことがチラっと掠めたけれど、別に気にも とめず、訊きもしなかった。と翌朝、雪のような霜のなかへ 真白な息を吐きつつ、なん度もペコペコ頭をさげて礼をいっ た老人が、熊を連れていず方へか去ってしまったのである。  しかしそれで、ユキと怪老人との関係は終いになったので はなかった。今度は、つい先達の五月の月はなに、山羊のよ うな獣肉を土産に、久方ぶりに現われた。その肉が、多分浜 中の食った串焼き羊肉になったのではーと、ユキはこう考 えたのである。          ×  そんな訳で、|大興安玲羊《アンテロスパ》という珍獣の肉とすれば、ますま すその老人が神秘的に思われてくる。|殊《こ と》にそこは、魔境とい われる煙死嶺の一帯。と不意に、煙死嶺に呑まれた大共匪宋 馬山のことが、さながら一瞬の閃めきのように、・ハッと現わ れては消える。  だがさて、これが大興安玲羊と知ってその出所を訊きたが る、浜中の意志は奈辺にあるのだろうロ 老檜強欲、一筋縄 ではゆかぬ……彼の根胆も知りたいものの一つだ。 (ようし、)と、ユキは意地のわるい考えをした。  たとえ、なんと云われようとも、決して明かしてはやら ないぞ。このゲジゲジめ、焦らし抜いてやれと……ユキの意 地わるな轍り戦法に、百戦練磨の浜中もだんだんに釣られて ゆく。 「では、二千円でどうじゃな」と、しまいには途方もない額 を切りだした。 「簡単に一言、あの肉を何者から手に入れたか、云えばよ い。どうじゃ、たった一言が二千両になる」 「さあ、当今は諸物価騰貴でございますからね。ことに、こ の満洲国は物価が高うございます」 「ふうむ、二千円では不足というのか。では、もう、五百円 がとこ弾むかな」  と、しだいに騰ってゆき五千円にまでなったが、ユキは決 してウンとはいわない。しまいには、浜中も悲鳴もあげて、 「では、いくら出せば、云うロ あんたも、大抵なところで 折り合ったら、どうじやな」 「条件があるんです」とユキが静かにいった。  たった一言、あの肉の出所に五千円出す。この赤螺にそん な気前が出るというのも、なにか途方もない秘密があるから だろう。なんだ? 魔境「煙死嶺」についてか、怪老人につ いてか。と、ユキもさすがに元奮するのを抑え、 「簡単に一言……」 「真似をしちゃ、いかん」 「なぜ、それをお知りになりたいのか、理由を仰言って頂き ます。でないと、たとえ五万積もうが十万積もうが……」 「そりゃ、困る。大金をだせばこそ、絶対無条件じゃ」 「では」とユキは冷然と立ちあがる。 「御決心がついたら、何時でもいらっしゃいまし。ただ、な んでお知りになりたいのかその理由を仰言ることが、いまも 申したように絶対の条件です。アッ、そうだ。ゆうべのお勘 定、二円五十銭頂戴」  と、散々やられて去られた後の浜中は、訊きは訊きたし明 かしたくはなしという、痛し痒しの見本のような有様。痛恨 骨に徹したが、平太張るような彼ではない。 「くそっ、蛙の面に小便とは、このこっちゃ。あんな、頑固 な餓鬼とは思わんので手を焼いたが、いまに見ろ。あの、可 愛いい口をこじ明けて、云わしてみせてやる。そのとき、秘 密とともにお前のからだも、儂が頂戴するが、泣くではない ぞ」 怪老人か、 宋馬山か  その日からはじまった、ユキとその青年との主従生活は? 「串焼きライス、田辺商会さん」 「よう、来たい」  と、こんな具合にだんだんに馴れてきた、名を吉村邦夫と いうその青年の素性は……。  いや、私なんぞは百姓の伜でと、云うくらいで決して明さ ない。だがたしかに、邦夫は私大くらいは出ている。それ が、内地の会杜などでケチケチ暮すよりも、一望千里の大陸 で青年の夢を築こうと、裸一貫をぶち込んできたものに違い ない。  と、ユキはそう睨んでいたし、また、事実もそのとおりで あったのだ。ところが、おなじ思いは邦夫のほうにも……。 (どうも、うちのマダムは並の女じゃあるまい。姐御のよう でもあり処女のやうでもあり、凄い啖呵をきるかと思えば、 教養を灰めかす。分らん、いったい何者だろレ。)  そんな具合に、関心を深め合ったころ、一事件がおこった。 ちょうど、邦夫が来てから二十日目あたりの夜、その日は公 休でユキ一人のところへ、裏口を割れんばかりに叩く音。 「マダム、開けてください」と邦夫らしい声だが、ひどく冗 奮した……。 「開かるわよ、そこに鍵がかかってないんだから……」 「抱えているんで、両手が……塞ってるんですよ。早く」  あけると、泥と汗まみれの邦夫が一人の老人を抱え、ハア ハア息せき切りながら、|鎗娘《よろ》めくように入ってきた。アッ怪 老人、それが西蔵熊を連れた、あの老人だったのだ。 「あんた、この人をどうして連れてきたの」 「お知り合いですか」 「まあ、そんな見たいだけど……」  老人は、息も絶え絶えに、ぐたりとなっている。ユキはそ の老人を寝台に臥かし、プランデ1などを与えて気付くのを 待っているうちに、邦夫から一部始終の話を聴いたのだ。 「|極貧町《ナハロフカ》を、出外れたところに溝がありますね。水のない、 澗々の大溝が…-。そこを、通り槌ると、吟心り声がする。ハ テナと思って覗きこむと、この老人が死んだように倒れてい る。ぐわんと一つ、喰わせるとやっと気がついた。1儂は、 もう駄目だ。どうか、お願いだから知り合いの家へ連れてっ て呉れ。というんで何処だと訊くと、どうでしょう、『ユキ の家』って」 「熊が、いたでしょう」 「いましたが、死んでましたよ。散弾を大分浴ぴてね」 「じゃ、この人は襲撃されたのね」 「そうらしい。私も、此処へくるまで、縦けられていたよう です」  そこへ、老人の手がかすかに動き、咽喉からううんと岬き の声。気が付いた。ユキは、老人の耳へ甜めんばかりに、口 を近附けて、 「お爺さん、あたしが分る?」 「分るだ。なんとも、あんたにはお世話にばかりになって ……。だけど、儂や腹へ一発射られているだで、もうハア、 永いことはねえだ」 「じゃ、誰がやったの。あんたを、誰が虐めたの」 「分んねえ。儂をひっきりなく狙っているのが、何者だか …-。ただ、儂というもんを殺さねえで、生きながら絡めた いちゅうらしいだよ。今夜も、足を狙えーと、しきりに云 ってただが、その一発が運悪く……」  浜中の一味がーと、ユキは直感的に気がついた。大興安 鈴羊の、肉の出所をしきりに知りたがっていた事といい、ど うも、見当がその辺にゆくのだが……。だがさて、老人のあ の怪行動は?  それから、間われるままに絶え絶えな声で、老人がじぶん の話を語ってゆく。 「儂が、蒙古人をあつめて背中をさぐる。多分評判だろう で、御存知であろう。がそれは、わしが煙死嶺の生れらしい からなんだ」 「えっ、煙死嶺P あの、誰もゆけない怖しい魔境の……」 「そうだ、わしは、赤児のころ煙死嶺の附近で、オロチョン 人に拾われた捨児らしいちゅうことだ。で、わしには、背中 に楓形の痔がある。それが、成吉思汗さまのころ|乃蛮《ナイマン》の王様 から始まった、金胃人の印しだちゅうのだよ」 「金胃人P」とユキはその不思議な言葉に、思わず好奇心を 燃やし、 「金胃人ってロ 金の胃袋の人なんて、そんなものが……」 「あるとも、それには斯ような話がある。成吉思汗さまが、 乃蛮の国を滅してそこの王様の、|塔陽牢《タヤソカン》という者の首をおは ねになった。その時、乃蛮の宮廷に彩しい宝玉があるのをみ て、成吉思汗さまは斯ようにお考えになった。  こんなものを置くと、後々わしの血筋に争いがおこる。い っそこれは、塔陽空-の死体とともに葬ってしまえと云うの で、その霧しい宝石を塔陽窄の口から、ぎゅうぎゅう胃袋へ 詰めこんでしもうたのじゃ。そして、それに助けた塔陽牢の 妻妾春族を附けて、送りこんだのがあの煙死嶺。つまり、い まだにその宝石類が煙死嶺にある、と云うようた、|伝説《いいつたえ》があ るでの」 「では、蔚爺さんの背中にある濾というのは」 「その濾が、乃蛮の王家に代々現われる。とすれば、わしは 取りもなおさず乃蛮の血筋。あれ以来、魔境のたかに秘かに 棲んでいる、金胃人の|喬《すえ》ということが、出来ますじゃろう。 だがさて、いかにどう腕こうとも、あの山へはゆけぬ。ま た、そこを赤児の儂がどうして出てきたのか、その辺は考え ても分らぬ」  老人は、もう視力もない。死の影が双頬を覆いはじめてい る。 「そこで儂は、誰か儂のほかにも金胃人の畜がいるのではな いか。赤児の儂が抜けだして来たように、この人里へ出たも のが他にもいるのではないか。と考えると、もう溜らぬの だ。懐かしさのあまり……、ぜひ、儂の一族にめぐり逢いた い気持から、あの蒙古人の背中さぐりをやったのじゃ」  金胃人の末喬Iiと、ユキは驚異の眼でじっと老人をみて いる。しかしまた、考えようによれば別の意味にもとれて、 老人が実にいじらしくなってくる。  もし、その癒のかたちが偶然の符合だったら……。自ら金 胃人たりと信ずる老人のその夢は、哀れはかない白痴の夢に なってしまうのだ。  しかし、それで浜中の目的がおおよそ分ったのだ。彼は、 金胃人塔陽軍の宝玉のことを知り、おそらくその老人が煙死 嶺から出る、暗道のようなものの所在を知っていると睨んだ のだろう。そして、この老人を誘拐しようとしたことが、計 らずも、老人に非業な最後を遂げさせることとなったのだ。  とその時、ユキの胸に異常なことが閃めいた。 (もしかしたら、この老人が宋馬山ではないのか。煙死嶺の たかで不可解な行方不明となった、大共匪宋馬山がこの老人 ではないのか。  第一、それは現われた時期が証明する。最初は去年の十一 月に現われ、それ次り、今年の五月まで一向に姿を現わさぬ。 その間は、満洲国警察隊の討伐中だったのだ。そして、今年 の四月初めに煙死嶺で行方不明。とその後、四十日ばかり後 にひょっくり現われたのが、今度のこの出現ということにな る。  宋馬山、これが大共匪宋馬山のはかない末路ではないの か。もし、そうだとしたら、私はどうなるだろう。隠匿罪で 罰せられやしないだろうか。)  ユキは、途端にまっ蒼になってしまった。老人を揺ぶって 必死の声で、 「お爺さん、あんたの名はなんて云うの。名を、名をいって 頂戴」  すると、懸命な気力で老人の顔がふるえてくる。やがて、 「|宋《ソン》……」とボツリと一つ。が、その声はそれなり続かな い。  喘鳴がはじまって、もはや絶望。謎を抱いたまま、老人は 死んでいったのである。  宋ロ 一体、宋……なんと云う男だろうロ 暫くユキも気 掛りだったが、やがて、その杷憂が本物にたってしまった。 ユキが、|恰爾浜《ハルピン》警察へ引致されてしまったのである。  ところが、邦夫が差し入れにゆくと、驚いたことにユキが いない。とたんに、誘拐ということが、ピンと頭ヘ来たの だ。折も折、浜中の一隊が煙死嶺へ出発した。同時に、邦夫 の姿も恰爾浜から消えたのである。 金胃人の呪い  大興安嶺上も|紅蛇肚《ホンシエドウ》に近附くと、まず騎馬者を没せんばか りの、おそろしい茅の草原。それに、苦蓬や野碗豆などがか らまって、丈余の高さで瞬荘と視野を覆うている。そのたか は、虻や、蚊や、|蛸《ぶよ》や、おそろしい毒蝿の巣。  たちまち、牛馬の全身が淋鴻と紅くなる。苦痛を和らげる ため身を地上に投げだして、七転八倒の大苦しみ。追えば離 れるが、たちまち蠣集する。  人は、蚊帳帽子をかぶり撫煙して避けるが、そうは行かな い牛馬はみすみすの苦しみを、手もつけられず艶死するのを 眺める哀れさ。1これが、魔境を衝く、難行のはじまりだ った。  それから、密林帯にはいると猛獣の害。 |櫨《まつやに》や黒樺や縦の 大樹のしたは、大興安特有のユキザー|羊歯《しだ》の群生。|塵《かしわ》をねら う虎の庖噂や、赤狼の大群に怯やかされつつ行くうちに、高 度はたかまり暑熱はゆるみ、やっと煙死嶺の魔の火山丘へで たのだ。 「どうも、隣りのテントが眼の毒で、いかん。ユキのやつを 掠ってきたお蔭で、肝心要めなところで、知恵が出んで困 る。いったい、煙死嶺征服はどうしたら、いいもんじゃろ う」  やはりユキは、浜中の一行中にいたのだ。しかし、そこは さすがに|齢《とし》のせいか、じりじり行こうと云うのが、浜中の魂 胆。  とそこへ、天幕をまくって、老人の人夫がはいってきた。 「旦那、儂イ、煙死嶺を衝くべえと思うだが……」 「行くか」 「行くともさ。誰も、旦那をはじめ怖ろしがって、φかね え。儂イ、綱アつけて先へ行くだから、もし儂の姿が消えた ら|怖《おつか》ながらずに、その場所へきっと行きなせえよ」  翌朝、その|達瑚爾《ダウさル》土人の老人が先頭にたって、ながい綱を 浜中に結び、最後がユキという順序で登行を開始した。緩や かな斜面だが魔の手を秘めている、煙死嶺のあの怪境へと。  なにしろ、地質がボロボロたので、足掛りがない。じりじ り葡うようにしてゆく老人の体力は、驚異、精力ざかりの若 者のような強さ。  とやがて、葡っていた老人がスックと立ちあがる。まっ黄- 色な山頂のあたりをずっと見つめている、その姿は暫くうご かない。と、アッ、煙死嶺の怪か、なんたる不思議。  別に老人が後|退《にさ》った様子もないのにしだいに、彼のからだ が斜面を下ってゆく。と、突然、その姿が消えたように見え なくなった。 「呑まれた」と浜中はまっ蒼になった。  老人にいわれたように縦いてゆきたくても、彼にはその勇 気がない。しかし、そこへ、綱をピンピン引く、地底からの 合図。 「ううむ」と浜中が思わず捻った。 「暗黒河、たしかにこれは砂川じゃ。地底から湧きでて地底 へ消える。砂川の落ち口ヘ堕ちこんだのじゃろう。ようし、 虎穴に入らずんば、虎児を獲ず……」  観念した浜中が、老人がいた地点にたつと、はたして下の 砂がじりじりっと動くよう。やがて、ずんと落ちる感じに、 ハッと眼をつむる。息苦しさもほんの瞬時であった。  砂層をぬけると大空洞らしい、暗黒のなかの冷々っとした 空気。しかも、その空洞は相当深いように思われた。彼のか らだは、まだ宙吊りのまま、ブランブランと振れている。 と、ユキが斜面をのぼって行くらしく、綱がしだいに下へ垂 れてゆく。  地底に着いた。まもなく、ユキも降りてきた。 「旦那、|炬火《たいまつ》をつけるだから、マッチを貸してくだせえ」  老人の声が、闇のなかでする。やがて、洞穴の壁をゆらゆ らさせながら、鈍いひかりが一杯にひろがった。とみると、 足下に一人の死骸がある。 「宋馬山」とユキが叫ぶように。  やはり、あの老人は宋馬山ではなかったのだ。自分たちの ように綱がたかったため、そのまま直下、洞底でくだかれ た。  よかった。このうえ、自分の身がどうなろうとも、あの懸 念が去ったことは何よりと、ユキは思った。と、突然、老人 がアッといって倒れたのである。  みると、木切れを握りしめた浜中の眼が、形相もの凄くス ウっと血を引いている、老人の後頭部をほくそ笑みながら眺 めているのだ。と、浜中は吐き捨てるように、 「化けやがっても、儂の眼は胡麻化せんぞよ。せっかく、骨 を折っても、無駄折損じゃ。吉村、オイ、口惜しいか」  老人の髪の毛をつかんでむんずと引くと、それは仮髪であ った。邦夫の変装1。と、ユキが走りよらんとすると、立 ちはだかって、 「どうじゃユキ、こいつは間もなく冥途行きじゃで。そろそ ろ、この|老酒様《ヲオチユウ》のことも考えてもらおうか。今夜、この魔境 のなかの地底の婚礼とは、どうじゃ、嬉しいだろうな」  ユキは、邦夫に逢ったと思えば昏倒して人気がなく、あま つさえ、虎狼にひとしい浜中の急迫。あまりな事続きに気力 が尽き、ユキはその場に昏倒してしまったのである。それ を、縛りあげた浜中は憎々しげに、 「サア、これで儂も、有卦に入ったというもんじゃ。どれ、 金胃人の宝探しと」  やがて、闇を辿ってゆく浜中老のまえに、とおい昔の骸骨 がいくつも現われてくる。金胃人塔陽牢の一族は、数代生き ていたらしく、かなりな数だ。とそのなかに、一つの深い穴 がある。覗いたとき、浜中がアッと声をあげたのである。  邦夫は、やがて闇のなかで気がついた。さっき、浜中から ぐわんと殴られたことは知っているが、それから、どうなっ たのか自分にも分らない。  ただ、心配なのはユキのこと。手さぐりで行くと、髪の毛 にさわる。さっそく、縄を解いて抱きあげると、まだ気は付 かないが、夢中裡の璽言。 「邦夫さん、なにも私の素性などに気を使わなくてもいいで しょう。西丸伯爵の娘が、どうしたって云うの。|許婚者《いいなずけ》が嫌 さに満洲くんだりまで逃げてきた、唯の娘と思えば何でもな いでしょうに……。あたし、あなたをどうしても離せない」  璽言とはいえ、聴くと邦夫の全身が、くわっと熱ばんでく る。しかし、ユキの素性がわかった。西丸伯爵の娘とは、さ もあろう、あの品、あの教養と1邦夫はしばらく唖然たる 思い。しかし、浜中はどこへ行ってしまったのか。  やがて、ユキが気がついて、 「ああ、いてくれたのね。あたしを助けてくれたのね」と点 いた炬火の緒黒いひかりのなかで、 「もう、あたし達はなんといっても、離れない。ああ、あた し…:・」  身分のちがいが、何あろう。ところが、浜中がいつになっ ても、帰ってこない。来たら、あの排々爺め、取っちめてや ろうと、手ぐすね引くが楚音もしない。  洞中は森閑たる死の闇。遠いところで落ちる土くれの音さ えも、聴えるのに浜中の楚音は。 「どこへ行ったのでしょう」とユキも不審がり始めてきた。 「さあねえ。どこか反対側にでも、抜け穴があるんでしょ う。しかし、僕等をこの儘にして、行ってしまう訳はないし ……」  とにかく、洞中をさがそうと云うことになって、二人は前 方へ進んでいったのだ。すると、骸骨のなかの深穴のまえに 来た。とそこに、浜中の腺跡の手がかりがある。 「ねえ、マダム」 「あら、マダムなんて言葉は、云わないって云ったでしょ う。それに、私の名のユキって云うのも……」 「と云いますと?」 「あたしの本名は、頼子っていうんですの」  と、何気なし気にのぞき込んだユキの眼に、なにやらぽう と光るものが映る。 「なんだ」と炬火を差し入れたとき、身を退くようた驚き。  暗い底に散りばめた燦欄たる宝玉類の輝き。すでに、土化 したらしい数本の肋骨。それをかい抱くようにして打っ倒れ ているのが、余人ではない。浜中だ。 「どうしたんでしょう」とユキは好奇心を顔いっばいに燃や して、 「落ちたのかしら、それとも」 「奴さん、手に炬火を持っていますから、落ちたのではない でしょう。はて、あれかな」  なにやら気付いた邦夫が炬火の端を削ぎ、それに火をつけ て穴のなかへ投げこんだ。と、底近くへゆくと、スゥッと消 えるのだ。邦夫はポンと手を叩き、 「分った。これは猛毒ガスの砒化水素のせいです。日本に も、おたじ意味の殺生石というのがありますね」 「それ、近附いた人が死んでしまうのでしょう」 「そうです。この宝石をみた浜中め、嬉しさのあまり、前後 の考えもなく、ポゥっとしたんでしょう。それで、底に溜っ ている砒化水素にやられた。マア、欲で死ねば本望でしょう が」  それから二人は、金胃人の塔陽窄の霊に弔意を表し、二人 にとれば新たなる世界になる、外界への抜け道をさぐりに行 ったのである。