奇獄囚「ビルマ亀」 小栗虫太郎 砂漠の墓を掘る  このピルマ亀とは……どんな身分の男で、どういう経歴が あり、また英官憲の手になぜ捕えられたかーすべてが、い かなる点も分っていない。ただ、シンガポ1ルの旧要塞、フ ォ!ト.カンニング内に幽閉されている。また、この男の名 が亀というのであることーそれから、日本人であるのが想 像されているのだが、ーマア、それだけ云えばこの男につ いて、ほかに云うことがたくなってしまうほどである。  私はしかし、この一篇に小説は書かないつもりだ。小説に すればこのピルマ亀を救いだす、波瀾重畳の南海の物語とな るが、かえってそれでは荒唐無稽になり、せっかくこうした 物語に必要な現実感がなくなってしまう。で私は、ジャブの バタヴィヤの.、|一《ジヤ》p|声巾《ヴ ボ 》o|号《デ》..紙に続いていた、この奇獄囚が 捲きおこした実話の紹介をしようと思う。そのほうが、直接 この囚人に触れていないでも、はるかに事実というものに忠 実であり得ると、信ずるから……。          ×  胃が重い。からだ中の水分がなくなって、とめどない渇。 いま、焼砂を踏み稻み強烈な日光のなかを、泳ぐように歩い てくる、ひとりの青年がある。ここは、アラビアの東端オー マンのムスカットを、やや離れたところのオIマン湾の一 角。砂漠が海と合し、烈日に燃えている。 「ああ、やはり海だった」  岸辺の破船のかげにどっかと坐ると、もうその青年は動き もならないようである。すると、その破船のなかから、女の 顔がとび出して、 「うるさいねえ。海だ海だって、なに云ってんのさ」 「僕は、いま海が見えたのが、|蟹気楼《イマ ジユ》ではないかと思ったの です。やっとこれで……。水が皮袋になくなってから、半日 にもなります」 「そう、じゃ、持ってきてあげよう」  やがて女は、水をのんでいるその青年の顔を、興味と警戒 をまじえながら、まじまじと眺めはじめた。ちょっと、頬骨 のたかい伝法な顔で、鼻筋のかげが|巴旦杏色《アルモンド》のようにうつく しい。 「いま、あんた、御免なさいよ。あたし、午睡の最中だった もんで、つい云ってしまって」 「いや、飛んでもない。お蔭で、僕も生き返ったような思い です。しかし、この辺には砂蚤がいますね」 「海に近いとこ、たいていいるわよ。ホホホホホ、あんたは まだ、砂漠に馴れていないわね」 「そうですよ、|不定期貨物船《ト  ツソイノ フレ タ 》から逃げだしたばかりです。僕 は三日三晩、砂漠のなかにいましたよ」 「マア、なアゼ」 「墓を掘りにです。この、バントナの砂漠に掘らねばならな い墓がある。ただ石塊だけを積んだ、無名者の墓ですが」 「どうして……。あんたはまるで、話のようなことを云う ね」と、女は顔いっばいに好奇心を燃やし、まるで枯草の ようなアラピヤ女の体臭を、男の身近くにぶんぶん匂わせて きた。 「どうか、詳しくは喋れぬことですから、訊かないでくださ い。ただ僕は杉崎という名の日本の男ですが」 「そう、日本の方。あたしの名は、 フプウジーナっていう の」  そうして、ファウジーナの午睡を醒ましたことが縁とな り、当分杉崎はその家にいることになった。  ファウジーナの家は、いわゆる|椋欄帆船《バツガラ》持ちであるペルシ ャ湾に群れている、.∪9≦.、の大形の、綜欄帆船を数十隻と 持っていて、印度のゴヤやセイロンのコロムボまでゆく。す なわち、濃藍の印度洋を突っきる商船隊の持主である。 「もう、あんたとも大分お馴染になったわね」と、暫くした ころに、ファウジーナが云い出した。 「いい加減に、気になるような話は、うち明けるもんです よ。ホラ、あんたが、バントナの砂漠のなかヘ行って、墓を 掘ったこと」 「ああ、あれですか。あれはどうか、もうちょっと我慢して ……。僕には、どうしても云えない理由があるんですよ。た だ、墓を掘ったがなにもなかったと云うだけを、お世話にな ったお礼に、申しあげて置きますが」 「骨がないロ」とファウジーナは|吃驚《ぴつくり》してしまい、 「じゃ、さいしょから何もなかったんだわね。墓とはいうも のの、|内容《なかみ》がなけりゃ……」 「そうです。僕がたずねる男がそこで死んだのではないと云 うことが、分りました。それを知りたいばかりに脱走までし て……、あなたに助けられたわけですよ」  なにか、ふかい秘密を抱いているらしい杉崎というその男 は、世話になった、ファウジーナにもそれしか明さない。フ ァウジーナも、そうなればなるほど訊きたくもなるが、よほ どの事であろうとじっと我慢をし絶えず男の挙動を見守って いたのである。そのうち、だんだん二人のあいだには、親密 の度が加わってゆく。  晴れた朝で、東よりの微風が椰子の葉をそよがせ、砂丘の むこうにエメラルドの波をたてている。散在する島々や雲一 つないその下は、水平線の究隆がくっきりと盛りあがり、熱 射下に押しつぶされんばかりの閃めきだ。そこへ、小形の .、∪9≦..の女言8宕..というのに乗った、二人が浜ヘあがっ てきた。 「あたし、あなたの国の人で、たった一人知ってるんだけ ど」と、ファウジ1ナが寄り添いながら、云いだした。「"ヒ ルマ亀って、あんた、あれを知っていろ」  とたんに、杉崎のからだが、顧えたように思われたがすぐ ふかく|呼吸《いき》をして、笑いながら、 「知ってます。案外故国じゃ、知られてないんですがね。印 度洋から、西じゃ、たいへんな噂じゃないですか。ビルマ 亀、あなたが知っているとは、じつに意外でした」 「ムスカットヘ、くる船くる船が、それは噂するんですの、 それに、その囚人はたいへん威張っているそうね」 「じゃ、なにかお聴きになったことが……」 「えっ、多分それは作り事でしょうけども、イランの石油船 の人がこんなことを云っていました」  と、ファウジーナは聴きかじった事を、杉崎にすっかり話 すのだった。  囚人の頭というものは、いつも奇怪な空想で充たされてい る。が、それは、いつも|緯糸《よこいと》のない布地のように崩れてしま うのだ。 「どうしたって事だ。これしきの獄が、破れないなんて」  涙が、両頬を止め度なく流れてゆく。胸は波うち、眼にな つかしい顔がいっばいに拡がるとき、かれは目前の扉が打ち 倒れたような、幻想をみる。 と、ある夜1、夜更けには珍らしく、監房の扉かひらか れた。とたんに、 「ふうむ、君は」  不意の、しかも予想もされなかったその訪問者に、囚人は 驚きの眼をみはった。二人はしばらく、沈黙をはさんで凍っ たもののように、動かなかった。その相当の身分らしい男は 扉に、囚人はただ跳ね起きた姿勢のまま……。 「暫くだった。あの際の取引を決めにやってきたがね。君も 馬鹿ではあるまいし、異存はないと思う。どうだ、この扉を 一歩でも出たいとは思わないか」 「ふうむ、此処をでるロ」  囚人の顔に、一筋二筋、警戒の色がかすめた。その男は、 |杖《ケ ン》をついてじわりじわりと近附いてくる。その動作にも一分 の隙もない。 「場合により、話によってはだ。今夜にも取り計ってあげよ う。どうだ、ここへ来て、はじめて分ったろう。自由とは、 まったくよいからな。それを、君が買う、わしが売る……」 「なるほど、さすが大陸に鳴るだけあって、鮮かたもんだ。 それが、君という男の、外交術の妙か」 「ハハハハハ、飛ぴつきたいのを、我慢してちゃ毒になる ぜ。だが……」 「ふむ、とにかく話だけ聴こう。君の要求というのはどんな 事だね」  と、こんな具合でときどきその囚人には、身分あるらしい 男の訪問者があるのだった。話によれば此処を出してもいい と云うのは、いったいどんな事だろう。 「それが、作りごととはどうしても思えないんです」  と、ファウジーナが真剣な顔でいい出した。 「私たちには、^^ゆ9㌣…吋詩ゴζ という排外結社がある んです。それは、『悪魔の口』という意味ですが・:-・。とに かく、シリヤの対|猶太人《ジユ 》争闘以来、急激に膨脹しました。む ろん、イギリスにとれば、眼のうえの瘤でしょう。で、その 結杜の首領の名をなんと云いますか。ねえ、ピルセ・アプ ー・カメッドというのです」  ふうむ、と杉崎がちょっと硬ばった顔になる。似ている、 ビルマの亀、ピルセ・カメッド。たんだか、記って伝えられ たようではないか。 二 悪魔のロ 「似ています。ビルマ亀、ビルセ・カメッド・…・.」 「ねえ」と、ファウジーナが男の顔をのぞき込み、 「ピルセ・カメッドは、ここ暫く、行方がわかりません。た とえ、語呂が似ただけとはいえ、あの人ではないか。フォー ト・カンニングの囚人が、ピルセ・カメッドではないか。私 は、その考えをどうしても払えないのです」 「なるほど、」と、男はじっと顔を伏せている。たんだか、 胸のなかで渦巻いているものがあるような、杉崎はそんな様 子だったのが、 「では、そのビルマ亀が、出されたとは思えませんか。さっ きの話のやつを、承知してですね。いまビルマ亀は、白昼潤 歩しているーと」  ファウジーナは、男の顔をじっと見つめていたが、それな り、この事については、なにも、語らなくなった。すると、 それ伽ら数日後の夜、ムスカットに集会がひらかれた。頭巾 や、|白衣《え ナス》が闇にゆらめいている、「悪魔の口」 のおそろしい 集会が……。 「つまり、俺は縦けようと思うんだ」 「ええ、お前が」  並いるものが、一斉に声をあげた。 「殺られるー。これだけは、保証付きだからなア」 「だが、男子死所を得るということが、ある」  と、その男は、一歩も退かない。 「どうせ、あの|密偵《でか》が逢かというからには、首領株でしょ う、ですから、この機会に根絶やしが出来れば……」 「やれるか?」 「   」 「君、独力かね」  危ぶむ、一同の眼がその男の顔にあつまってくる。  数日前、「悪魔の口」をうかがった。密偵がとらえられた。 これはむろん英人であって、ちかく首領株に会うという命令 を書いたものを、その男が懐中にしていたのである。それ で、跡をつけてそこを突きとめ、その大物を葬り去ろうとい うのである。  やがて、その結社員が立ちあがって、云う。 「あいつ等は、南京轟だから。しょっちゅう咬まれていち ゃ、戦いが不自由です。どれ、俺がこれから燃蒸してやろう か」 「そ巾もいいが」  と、まだ一同は腹を決めかねている。 「だが……、どうも考えると、成功はおぽつかないた」 「いや、遣ってみんことには、なに屯分らんよ。成功、不成 功は、賭けた運にある」  と、それから間もなくの事である。ファウジーナの家の奥 まった一棟に、番人がたって、近よれなくなったのである。 どうやら、「悪魔の口」の策が成功したらしい。新たらしい、 その捕虜は何者だろう。大物とはいうが、なんと云う男か。 俄然杉崎は、好奇心を燃やしたのである。 「ファゥジーナさん、奥にだれか、入れられているようです ね」 「えっ、いるんですけど、私には分らない」 「顔は」 「顔はみましたが、白人ですわよ。四十幾つくらいの、それ は好い男」 「云いなさい。あんたはたしかに、名を知っている筈だ」 と、とつぜん杉崎がするどく云うと、女は、ミモザの|棘《いばら》のよ うな瞼しい眼をして、 「じゃ、あんたの墓掘りのことを、交換でいいましょうよ。 あれを云ったら、あたしも云うから……。どんなことロ は るばるバントナの砂漠まで来て、無名の墓を掘るなんて」  いつも、そんな事で聴きもできないし、また、杉崎も話そ うとはしなかった。と、その翌日のことである。かれが、ム スカットにある椋欄酒を売る家へゆくと、そこに、|快走船《ヨツト》の 水夫らしいのが、四、五人ほど話している。それは、次のよ うにひじょうに意外なことであった。 「まったくだ、本船をおそった大将が、女だとは意外だった よ。海賊の首領が、阿魔だなんてことは、おらア、バイヤス 湾以外にはあるめえと思っていたが……」 「あれは、覆面はしているが、たしかにアラビヤ|女《アラブ》だ。偉え もんだと思ったら、手足がすくんで、|船鎗《ピルジ》へ逃げこんだ間に、 大将がさらわれた。もう、拐われたらコードゥェルもねえ。 |卿《ロきド》で、前大臣で、ヨーロッパ一の美男子で……なかなか女の ほうにも凄腕だというがね。それが、どこにどうして御座ろ うやらと思うと、ちょっと、こうやっているのが、|気不味《きまず》く なるよ」  ははあ、では、拐われたのが、コードウェルであるか。 と、杉崎の顔が見る間にひき緊ってくる。してみると、快走 船を襲ってコードゥェルをさらっていった海賊の女首領と は、何者であろうか。ファウジーナ、いや……と、うち消し てはみるが、消しきれないものが、杉崎には多分にあるのだ った。  ファウジーナ、数十の|椋《ダ》欄帆|船《ゥ》をひきいる、オlマン湾の 海賊1。  道理で……かの女が連れてきたためか、風来坊のじぶんさ え、あの界隈では疑われもしない。また、これほど親密にな っても恋にはならず、いつも、けじめを知っていてすうっと 身を外すのは、じぶんよりも彼女のほうである。それに、落 着きはあり分別はあり……と、もうそうだと決めてしまった ほど、ファウジーナには楓爽たるものがあるのだ。  秘密をいだくものには、秘密を知るカンがあるlーとは、 まさにこの事。  しかし、以来、この浜はひじょうに穏かになった。椋欄帆 船の船夫たちは愉快そうに遊び、相変らず暑いが、微風は絶 えずある。一日、.、=8鷺..という小形の椋欄帆船にのって、 ニ人は印度洋に出、サゥキラーの|礁湖《ラグ ン》へいった。  ファゥジーナは、栗色の髪を微風になびかせ、朝まだきの 陽にきらきら輝いている、うつくしい礁湖を見渡していた。 その、あらわに露きだしたしなやかな手足には、椰子の葉蔭 が光斑をゆるがせている。男は、風を吸いながら、ファウジ ーナをみて、 「この風は、南西季節風ですね。これに乗ってゆけば印度へ ゆかれるでしょう」 「行きたいの」とファウジーナを狡そうな眼をして、「もう あんたは帰りたいのでしょう。それとも、帰る約束の日が近 いのじゃありませんη」 「印度」と、杉崎は事実のように驚いて、「僕は、印度など にはなんの用もない。どうして、ファウジーナはそんなこと を云うのです」 「御存知のくせに」 「ええ」 「いいえ、もうそんな話は止しにしましょうよ。でも、この 風は印度へ吹いてますわ。むろん、ビルマヘもシンガポ1ル ヘも…:」  さぐり合うような沈黙が、二人のあいだに流れた。印度、 ビルマ、シンガポIルとはどういう意味だろうか。また、フ ァウジーナがいま疑うようにいった、彼が帰る日の約束と は、いかたる事だろう。そうなるといま礁湖の縁にいるこの 杉崎が、ある英大官との約東で一時的監禁を解かれた、フォ ート・カンニングの内のビルマ亀のようである。それを、フ ァウジーナが見破ったように見える…:.。 「悪かったわ」と、ファゥジーナはしずかに頭をあげた。 「気を悪くしたのなら、勘弁してね。あたし、そんな積りで 云ったのじゃないわ」 「何でもないですよ。でも、会ったものには、別れがありま すからね」 「何時」というと同時にファウジーナのからだが、男の腕の なかへとつぜん|雪崩《なだれ》こんできた。とまた、一瞬ののちにサッ と跳びすさり、 「これでいいの。これさえ忘れたければ、いつ別れてもいい わ。人って……十年、三十年|交際《つきあ》っていても、なんでもない 人もいるし、たった一目でも、生涯わすれられない方もあり ますわ。ねえ、私がいった意味、お分りになって」  そういう、情熱の礁湖の一日と……浜へかえったファウジ ーナとは、別物のようになるのだ。翌日は、きょう|大椋《バッ》欄|帆 船《ガラ》に乗って|遠航《トラズ》をするから、ぜひ一緒に乗れと、命令的にい うのである。  帆に、|塔婆《ゴダバ》をえがいた一隻の大形椋欄帆船が、朝まだきの この浜をすうっと滑りでたのだ。痩せた、頑丈なモルディヴ 島人の|水夫《ナル 》、ぐうんと、ぐうんとーと|索《オ ベスォさベス》具引きの懸け声。 船は、南西季節風にのって、印度洋をすべっている。どこへ ゆくーそんな疑問などは一切感じないほど、この椋欄帆船 による、太洋上の帆走は、暫くのあいだ何事も忘れさせてし まうのだ。  しかし彼は、その大形椋欄帆船にはめずらしい船窒附きの 船にいて、どうした事か、甲板に止まらされている。 「しばらく、私がいうまでは、下に降りないで」  とまた、ファゥジーナが命令的にいうのである。では、こ の底になにかあるのではないか。稻む、この板のしたがうす 気味悪いように、彼にはそんな感じがしてくるのである。や がて暗礁が多くなって、|環礁《アト ル》がみえる。バテ、ラムルi.ほ とんど地図にはなく海図だけにあるような、|暗礁《オアソジヤラス》の海にあ やうげな水路をもとめてゆく。  やがて、夜になる。  と、この船には微荘さえもなくなってしまう。全部灯りは 消され煙草の火もゆるされず、ただ女丈夫ファゥジーナの小 声の指揮でゆく、この船は、文字どおりの闇であった。なん で、一体こんなことをするのだろう。と、ファウジーナに訊 いたが、答えようともせぬ。  翌朝、水平線を焦がす朝焼けのなかで、杉崎はアッという ようなものを、見たのだ。そこには、|濃藍《インデイゴ》の印度洋は消え、 見渡すかぎり眼のゆくかぎり、暗礁がたてる緑色の泡沫。海 は泡立って、叢のような飛煙。こりゃ、なんだ。たとえ、ど んな小船でもこんな暗礁の海では、|二重外壁《ダブル スキン》をぶち破るばか りではないか。とそこへ、船は帆をおろし、碇を投じたので ある。 「驚いたもんだ、こんな危なりかしい海を、よくゆけたもん だ」と杉崎がファゥジ!ナにいうと、 「これが大形椋欄帆船の特徴みたいなもんですわ。すべて、 器械力によらず、経験に頼ります。あの星のしたには、なに があるか、水脈の、かたちと色で水路をもとめてゆく。つま り、太陽と季節風が、私たちを導くのです。朝日の位置、夕 日の位置……」 「では、曇りゃ闇夜のときは、どうするんです」 「それは……、そのときは、アーラの神に頼ります」  こういうことを、ファウジーナは平気でいうのである。白 人の、印度洋進出前そのままの海で、けっして近代的航海術 を使わず、ガムシャラに進んでゆく。そこが、いま時めずら しい、椋欄帆船の面白さである。すると、いつもの祈りの司 会をやる老人の舵手が、碇を下すと、ファウジーナにいうの だった。 「かしら、相談はあらかた決ったらしいですな。しかし一応 は、代物どもの処置に就いて、わしの意見も聴いてもらいた い」 「そうお、そりゃいったい、どんなこと」 「外でもない。ただ、あのなかに一人、許せないやつがいる んだ」  その数秒後は、息を堰きとめたような、重苦しい沈黙であ った。やがて、船底からひき出されてきたのがあの、快走船 「カリンシア」号の船長らしい男。とそれヘ、老舵手の拳が 顎をめがけてとんだのである。 「こいつだ、こいつの顔を忘られるもんか。わりゃ、十年ほ どむかし俺がの舟にぶつけた癖に、俺らを見捨てて行ってし まったのではねえか。  船の持主らしいお|娯《か》アが汚ねえからと云ったって、われも 永年の船乗りだんべえ。海の仁義も、挨拶もしらねえこの野 郎の顔が、なんでわしに忘れられるもんかよ」  老舵手は、せまってくる息に、言葉を継げなくなってしま った。  ポロボロに裂けた、舟の残骸にすがりついて漂流したなん 日か。そのあいだも、知りつつ彼を見捨ててゆく冷酷な汽 船。そうして、十数年間たまり欝積し切ったものが、いま船 長の顔をみると同時に、すさまじく爆発した。  その船長は、床にながながと伸びたまま、身動きもしなか った。ただ微かに、頬をふるわせるだけで、血の気もない。 たしかに俺1と、今はただ、悔恨の色をうかべるだけ……。 「これは、皮膚に色もつ者の、当然の復讐です」  と、ファウジーナが顔色もかえず云う。  しかし、問題は、次に来るもの。快走船カリンシア号の捕 虜は、二人だけのはず。その、つぎの一人にはどうした事 か、杉崎の眼が異様に輝いてきたのだ。 三 私 刑 船  コードウェルーと、胸をはずませて咳く、杉崎の顔はロ よもや、コードウェルには逢うまいと思っていたらしく…… とつぜん船長が引きだされて来たあたりから、顔色がちがっ てきた。揚げ板の辺をじっと見つめるその眼は、これまでの 彼にはてんでないものであった。そこへ、ひき出されてき た、コードウェル卿、顔色樵停し、やっと立っているよう .::.o 「あれを、あなた御存知でしょうね」と、杉崎にコードゥ ェル卿をさし示し、ファウジーナが見入るような眼をしてく る。 「サア、誰でしょう」と、杉崎が棒のような声で、いう。 「そう、あなたは御存知ない……」  と、云うとコードウェル卿のそばへ行き、かれと杉崎を |真正面《まとも》に見合せたのである。それが、まるで無言の拷問のよ うに、たらたら杉崎はしたたる汗、海風のなかで日蔭にいる くせに……かれは、宣告をうける囚人のような惨め↓、フになっ ている。一度、コードゥェル卿の口ひらかんかー見よファ ウジーナの残忍にもみえる笑。  が、しかし、どうしたことだろう。コードウェルの眼は、 当途たげに廻っている。どんよりとした光りのない瞳をはり ……かれは、杉崎をみるが、なんの表情も出てこない。(狂 った。おそらく、ひどい拷間をさせられたのだろう。)と、 杉崎は突然そう思ったのである。ファウジーナが、強く叱佗 するようた声で、 「コードウェル卿」  と、呼んだが、なんの返事もない。 「この人は、あくまで自分がコードウェルではないと云うの です。そうでありながら、白を切るために、よけいな責苦を どんなに受けたでしょう」 「どうなんだか、気が変なようですが」 「あなたには、そうお見えになるロ」鼻先でかすかに喧い、 じぶんは、そうは信じませんと云うように、ファウジーナが くるっと背を向けたのである。と、また思い付いたように、 杉崎を見て、 「私が、いうとおりの事をコードウェルに云って下さい。極 く、自然に、あなたが云うように……」  それはちょっと、杉崎のからだがビクッとしたようである が、素直に、ファウジーナの言葉を入れて、コードウェルに いいはじめた。 「あなたに、ここで会えるなんて、じつに意外でしたよ」  というと、しばらくコードウェルは杉崎をみていたが、あ るいは、記憶を失ったか、脳力がみだれたか。依然、変らぬ 眼できょとんと眺めている。続いて、 「あなたは、いずれ此処を出て、シンガポ!ルヘ帰れます。 僕は、あなたを救いにきたんですよ」  するとコードウェルは、妙な呼吸付きで喘々と咽喉をなら し、しきりと、たにかを思いおこそうと努めているかに見え た。しかし、記憶の糸は完全に絶たれている。と、ファウジ ナーが焦ったような声で、 「シンガポ1ルのフォ1ト・カンニングのたかで、あなたに お目にかかったのは、|何時《いつ》だったでしょう? と、サア」  とたんに、むしろ憎悪の意をこめた眼でファウジーナをに らみ、杉崎はなにも云わなくなってしまったのである。まる で、見たところでは精神拷問のようなものに、もう彼は堪え られなくなったのだ。 「止しましょう。あなたが云いたければ、御自分で云うが、 いい」 「云いましょう。なぜ、コードウェルは自分であると、云わ ない」  そういって、コードウェルの瞳をじっと覗きこんだ。しか し、明らかに錯乱の兆。瞳孔は洞のように拡がっている。す ると、コードウェルがはじめて声を出した。 「わしには、ひとり妹があったよ。あなたがその妹ではある まいな。妻はない。エリザベスなんて女は、わしは知らぬ」  これが、ヨーロッパ全土に鳴るコードウェル卿かと思う と、杉崎には胸を突いてくるものがある。一世の、|伊達《だて》男で あり謀略家であり、ロンドンの財界ロムバート|街《ストリ 》、さらに《ト》|、 海を越えたウォール街までの、彼は金権猶太人の代弁者とし て鳴らしζいたのに……。  いまや……、それからファウジーナがはじめた、酷たらし い拷問。舳の|斜摘《やりだし》から宙吊りにされ、潮煙を浴ぴながら、独 楽のように舞っている。 (ふうむ、これがそうか、)と、はじめて杉崎は気が付いた ように、叫んだ。  これだ、これがたしかにビルセ・カメッド。はじめ、男性 としてビルセ・カメッドと名乗っていたのが、もとの女性に 帰れば、ファウジーナではないか。ことにこの復讐結杜をひ きいる。女性らしい残忍さ。ピルセ・カメッドはビルマ亀ど ころではなく、いま目のまえにファウジーナとしている。  シリヤの猶太人の、後援者であるコードウェル卿をとらえ たら、むろん全アラビア族の恨みとしても、これくらいの事 は当然かもしれないが……。  またもし、コードウェル卿が正気でいたとすれば……、と 思うと鳥肌が立ってきて、杉崎は傑っとなるような気持にな る。すると、あとでファウジーナがこんなことを云ったので ある。 「私は、されようとした事にも、思い晴さなければなりませ ん。たとえその人が、私のそばへ来て気持が変っても、それ だけの事はきっと仕返ししますから。ねえ、蛇のような女 で、お嫌になって……」  これは、いろいろな意味で、杉崎を衝いている。もし、か れの秘密が明らさまになれば、じつに、これは深い意味があ るということを、皆さんはお分りになるだろうに……。  そうして、大形椋欄帆船の帆走は続いてゆく。 「あたたは、コードゥニル卿の処置をどうなさるつもりで す。」と、舳の潮煙を浴ぴながら、|橿網《リソギ》につかまって、いま 桔梗色に暮れてゆく東の空をながめている:・・-ファウジーナ に杉崎がいうのだ。 「狂ったものを、殺してもね。どこか、適当なところで、帰 そうと思います。あなたは、それが何処がいいと、お思い」 「シンガポ1ルの、、】W9|鼻《ベドツク》..のゴム園あたりがいいでしょ う。そのとき僕を|陸《おか》へあげて貰おうと思いますが」 「そう、あなたが……」  と、しばらく相手の顔をじっと見ているうちに、ファウジ ーナの頭がだんだん下ってゆく。杉崎は、しずかな声で、 「これは、|例《たと》え話ですから誤解ないように願いますが……。 いま、ひとりの男がいて、幽閉されているとします。する と、その男にある才能を使おうとして、もし成功したならば 釈放するのを条件に、もう一人の男が仕事を強いたとしま す。その男はその申し出でをいれ、監房を出て、いずこかへ 旅立つ……」  聴いている、ファゥジーナのからだが、あやしく揺れはじ めてきた、満天の星をうつした絢びやかな夜に、い養この大 形椋欄帆船はコロムボヘ向っている。 「その男は、目指す人物にやがて近附きました。しかし、ど うしてもそれを、殺すことが出来たくなってしまう。恋と か、友愛とかいうような美しいもののために、とうとう、|殺《や》 り了せられず、帰らねばならぬ」  と、ファウジーナが急にその言葉をうばい、 「その男が、ある場所でもう一人の男に会いました。それが もう、意識もなにもなく、狂いきっているのです。ですか ら、そこで身の安全を計ろうとするたら、訳なく出来るので すが……」と杉崎を見つめる眼はうすらと濡れ、なにかの感 動にはげしい呼吸をしている。 「でも、その男は約束を思いだしま11)た。もし、仕遂げられ ぬときは、かならず此処へ帰るという、監房のなかでしたか たい約束です。逃げようとすれば訳はない。そこを、ただ一 片の口約を重んじて……おそらく生涯をそこで暮すかもしれ たい、もとの監房へ帰ろうというのです」 「止めなさい」杉崎は叱陀するように、いった。 「云わせて」ファウジーナはおろおろ声で、 「義を重んずるソての男の高さには……それまで、仕返しのっ もりでいろいろに虐なんだ、ある女が、とても悔いているの です。ねえ、いつぞやの|礁湖《ラグヨン》のとき……」 「あれだけで、いつ別れても僕はいいと思います。しかし、 あれから|貴女《あなた》は、ちょっと変りましたね」 「それが、また礁湖のときの、ファウジーナになっていま す。でも、あたしは別れたくはたい……」  鹸がたまっているファウジーナの眉が、新月のしたで、燃 し銀のように輝いている。別れに近附けてゆく追風をはらん だ、|帆桁《ヤヒド》のきしりが挽歌のように……」  いま、ファゥジーナの恋が悲しくも終ろうとする。         ×  ここで、.、甘<口■o号.、紙のこの稿の記者は、杉崎がビル マ亀ではないかと云っている。彼は、コードウェル卿に頼ま れて、対英復讐結杜をひきいる、ファウジ!ナを殺そうとし たのだ。しかし接近すればその意が消え、かえって、ファウ ジーナに恋をおぽえる。その恋の終末のかなしさもまた、義 を重んずる気高いかれの姿。しかし、ビルマ亀とはいかなる 人物であるかー、それは「ジャブ・ボーデ」紙のこの稿の 記者も知らないのである。