このファイルは未校正データです。 小栗虫太郎「完全犯罪」     1 経文の断片  苗族共(ぴようぞく)産軍1ーこの、支那全土唯一の規律あ る兵団は、正確に云うと中華ソヴェート共和国 西域正規軍となるが、筆者は便宜上苗族共産軍 の名で呼ぶ事にする。.  勿論、軍の主体が西域の夷蛮(いぱん)苗族である事は 云う迄もないが、この異彩ある赤軍組織は起 因を先年の雲南(うんたん)奥地大地震に発している。その 時一番被害の甚しかった瀦江(るこう)上流苗族の一部 が、耕地を失って大浮浪団と化し、遙々印度支 那国境に近い麻栗(まりつ)の辺まで流れて来た……その 時、ソヴェートの触手が伸びたのである。所 が、この苗族軍は、まず各処の遊撃(ゲリラ)戦的小兵団 を併せて、雲南に於ける十数度の戦闘に勝利を 占め、堂々四川(しせん)の省境を越えた。そうして、揚 子江(ようすこう)の南岸を塗り潰してしまった頃には、既に 押しも押されもせぬ革命政府の実質が具ってい た。  ワシリー・ザロフー此の若い指揮官の名を 除いては、苗族軍の何事も論ずる事は出来な い。全く、劣質の兵を率いて奇蹟に近い勝利を 続けているのが、彼である。しかし、本篇の彼 は拡大鏡を手にしているのだが、それが決して 偶然でないと云うのは、次に記す彼の略歴に 依って明らかであると思う。  ウズベク猶太(ユダヤ)の雑種である彼の戦闘経歴は、 クバン平原の戦闘に参加した十七の年から始っ ている。けれども、彼が本領を発揮したのは、 むしろ社会主義聯邦完成以後の事で、モスクワ 大学の理科を終え畑違いの非(チ)常委(エ)員会(カ)に投じた のが、抑(そもそも)ζである。クルナコフの化学に培われ た彼はスクスク鋭鋒を現して、瞬く間に、非(チ)常 委(エ)員会(カ)の後身である「GPU」の脳(ゲ ぺ ウ )髄と云われ る迄になった。彼が扱ったのは主(おも)に政治警察附 帯の殺人事件であって、……「プラウダ」誌の 幹部八人を毒害した前社会革命党( んエスエルヒう)の残党、・・ハイ ロフ事件、モスクワ雀ガ丘に於ける反幹部派三 巨頭会合を暴露したウハノフ射殺事件、仏人シ ニヨレの女秘書毒殺から発覚した有名な産業同・ 盟大検挙…-などが、彼を燦然(さんぜん)たらしめた大事 件であった。その他、検事総長クルイレソコの 懇請に依って、一般の殺人事件を解決した数 も、恐らく彼の年齢以上、四十に近かったであ ろう。しかし、最近になってようやく彼は、陰 惨な秘密警察生活に倦怠を感じ始め、かってコ ロニコフと戦った、南部コーカサスの澄明な碧 空(あむぞら)を憧れるようになった、、今に腐ってしまうぞ ーそう云う生活の転向を求める心が、遂に彼 をリビヤソカ広場から駆り出して、南支那に走 らせた。そして、東洋語に専念した平和な三年 を、上海(シヤンハイ)で送ったのであったが、今年に入るとー 突然苗族赤軍指揮の指令が下って、彼は再び、 第三イソターナショナルの拡大計画に参加しな ければならなかったのである。  さて、一九三×年五月十一日、銃一万二千、 砲二百、航空機五台を備えた黄色い歯の悪魔 が、いよいよ省境を冒して、湖南(こなん)の西端に当る 八仙案(せんさい)に侵入した……と云うのが、そもザても本 篇の開幕である。そうして筆者は、八仙塞の神 秘と云われる異人館に起った、世にも不思議な 殺人事件の事を綴ろうとする・:-.。  八仙塞の街路は、祭礼日のように喧喚を極め ていた。号令、靴鋲(くつぴよう)の行進、砲車の轍音(きしり)、装甲 自動車の爆音……とそれに、やっと培薄軍(ぱいひよう)の劣 悪な兵質から解放された土民達の歓喜の合唱 だ。が、街道から一粁程離れて、森閑とした静 寂(しヒま)の中を、コトソコトノとローレル夫人の松葉 杖が単調な音を立てる背後で、指揮官ザロフの 拍車が軽やかに鳴った。ザロフは夫人の案内で 室々を見歩くうちに、豪著な浴糟や趣味豊かな 書斎が、こんな南支那の奥地にあるのを仰っ た。それ以上彼の目を瞠らせたのは、先年一人 娘の夫人を残して八仙塞の土と化した、オック スフォードの人類学者ヒユー・ローレル教授の 研究設備である。なかにも解剖学研究室は、一 流大学のそれに匹敵する程の本格的なもので あった。 「全く神話ですな。こんな僻地に支明の精髄が 埋没しているなんて」とザロフの驚嘆に、夫人 は廻転の鈍い機械のような調子で答えた。    しゆう.てききよう 「父は周秋峡の原人骨発掘に、余生の全部を 捧げる決心でおりました。それで、リーズの研 究所をその儘移したのでございます」  司令部に選ばれた八仙塞の異人屋敷-蔦(つた)と 鎧(ヴエネチ)   扉(アン シヤツタ ) に囲まれ塗料が剥げ落ちて、外観 は古めかしい英国風の破風(はふ)造りであるが、内部 には、地下室と自家用の小発電所を除けて㌔、 二十に余る室があり、雨洩りの汚染(しみ)一つない天            心いはちゆう 井には、太い樫の角材が大爬虫のような骨格を 張っていた。室々の扉には、各ζに様々な花が 浮き彫りになっているが、それは、現今(いま)でも教 授の生地であるアバージソ地方に残っている、 典雅な貴族趣味の一つだった。  ザロフはかねがねから此の八仙案の事を耳に していた……。桂湖(けいと )山塊と湘江(しようこう)の支流に挾まれ て、十幾つかの浅い泥沼を背にした貧しい部落 の事を。曇天の西風の日には、ぬるっとした湿 気を含んで、 膣(なまぐさ)いような生暖かさで、嘔気(はきけ)を 催させるようた濃霧(ガス)が、沼の方から襲って来 て、それが部落の人々を、鴉の肉を煮るような 悪臭で包んでしまうのだが、さて風が東に変る と、今度は武陵桃源(ぷりようとうげん)さながらの仙境に化してし まうのを。それから、教授が死に、発掘隊が解 散した後も、十年の青春を八仙暴に埋めて不思 議な孤独生活を送っている、洋医エリザベス・ ローレルの事も。……みな、彼から離れない執 拗な記憶だった。それに極く最近になってか ら、夫人と呼ばれている彼女が、その実未だに 処女を失っていない老嬢であると云う事や、輝 ける学徒の一人として、緑汗熱(りよくかんねつ)の病原菌を発見 した功績などを……、彼は知ったのであった。  所が、ローレル夫人の実物は、ザロフが曾つ て耳にした風聞以上に、陰惨な存在だった。三 十四五と云えば、皮膚から熟れ過ぎた果物のよ うな芳香を放つ年齢(とし)頃だが、肝腎な肉に塊量と 言った感じのない、古い象牙のような硬さであ る。額が抜け上って輪郭の小さい、灰黄色の 屍(しかぱね)色をした顔には、底に眼球のある黒い孔だ けが見えて、ノッペラと何処にも突起らしいも のがない所は、ちょうど水族館で、暗い奥の方 からヌウッと出て来て、ガラス窓にちょっと鼻 先を触れる、魚の顔のあれだ。その一見して四 十を越えて見える凋(しぼ)んだ小柄の肉塊が、レース のついた旧式な黒いドレスをまとい、不自由な 右足を松葉杖で支えていた。  一渉(ひとわた)り巡視を終えると、ザロフは軍の主脳(スタツフ)を 夫人に紹介した。冒頭に引き合わされた四十が らみの雲南人は、政治部長の鵬輝林(にうきりん)、鵬の革命 経歴は、安南大学鉱山科在学中に発していて、 一九二七年海防(ハイフアン)の暴動では追放をうけ、今度も 苗族浮浪団の赤軍改編を実現させた偉勲者であ るが、その風貌は頗る大陸的で、まず古廟の武 人像と思えば間違いはない。その次が、縁(オち)の厚 い眼鏡をかけて熱情的な瞳を持った、エルスク 生れの軍医ピョートル・ヤソシソ。それから日 本士官学校出の若い南京(ナンキン)政府叛逆将校が二人、 一人のいかにも精桿らしい、ちょうど蟷螂(かまきり)みた いな容貌をした男は、江済沢(おうさいたく)と云う航空司令、 もう一人の短脇で滑稽な髭をつけたのは、砲兵 司令の葉稚博(ようちはく)だった。いずれも服装の統一に困 難と見えて、なかでも江と葉は、奇抜た蹴球服 としか見えぬダライラマの近衛儀杖服を着てい た。  四人の中でも、夫人の厭人癖を伝え聞いてい るものは、単に掌を触れ合せるだけの所作(しぐさ)をし たに過ぎなかった。ただヤンシンだけが、瞬間 にショックをうけたような眼付になって、異様 な顧動(せんどう)を全身に現わした。が、あとで訊いてみ ると、彼はいきなり真剣になって、 「君は、死後体温が微かに残っている屍体に 触った事があるかい?あの手が、生きていて 恰度(ちようど)そうなんだよ」と答えた。それ程、夫人の 掌は生理的にも無感動だったのである。  こう云う夫人の不気味な傾向には、後で茶に 招いた時、ザロフも悩まされた。対坐した正面 に、凍った仮面のような顔が何時迄も静止して いるのを見ると、困難な動物を手がけねばなら ない訓練師になったような気がするのだが、し かし、世才に長けた彼は、懸命に話の端緒(いとぐら)を見 出しては巧みに弾(はず)ませるので、それに釣られ て、夫人の唇がやっと動いて来た。そのうち、 頃加減な潮時を見計い、 「時に、無躾けなお訊ねのようですが」ザロフ は突然改まって切り出した。 「ねえ夫人(おくさん)、貴女の青春を葬った墳墓(はか)を、僕に 発(あぱ)かせて頂けるでしょうね。こんな不可解極ま る隠遁生活ってη まるで罪業妄想患者の苦行 としか思われないじゃありませんかη」 「勿論仔細があります」夫人は沈痛な面持で頷(うたず) いた。「しかし、それを恋愛犯罪信仰等と云う 見当で解釈したら、それこそ大変な間違いです わ。実を申しますと、その原因が私個人の事情 に依るものでないと云う事だけは判っているの ですが。さて、何故そうしなくてはならぬかと 訊かれると、私には、父からお聴き下さいー と云うより、お答えの仕様がございませんの。 と云うのは、父の意志が私を固く此の土地に縛 り付けてしまったからです。そして、父はその 秘密をとうとう墓の中へ持っていってしまいま した。……それをもっと詳しくお話し致しま しょう。ちょうど私が二十四の夏で、ストック ホルムのカロリソカス医大を出た年の事でござ います」 「御専攻は?」ザロフがちょっと口を挾んだ。 「細菌学でしたが、でも、父に叱られさえしな ければ、恐らく女だてらにない法医学に走って いたでしょう。ですから、暇さえあると、エッ クマソ先生を聴講に参りましたし、フローリソ 教授が夫人に毒殺されて、一時嫌疑が論敵のマ ソネル教授に掛った時なども、私のちょっとし た助言が、意外な役に立った事がございまし た」この一言が、後段に現われる殺人事件に於 いて、ザロフに論争者を意識させ、彼をひどく 心理的に圧迫している。火花のような推論と冷 やかな批判的態度ー-此の対立が殆んど終局間 際まで続いたのだったけれど、ザロフは、彼一 流の華やかな饒舌が終った後には極めて、夫人 の唇を、むしろ、怯儒(きようだ)に近い感情で盗み視るの であった。  それから、夫人は前の続きに戻って、 「その時、父に招かれて、私は初めて八仙塞を 踏んだのでしたが、恐らくそれが宿命だったの でしょう。着いた三日目に起った父の急死が因 で、私の涯しない墜落(ついらく)が始まりました」 「すると、ローレル教授の死因は、傭兵共の反 乱ですか? それとも、土匪ですか?」 「いいえ」と首(かぷり)を振って、「尤も、此の家の外 郭にある無数の弾痕を見ればお判りでしょう が、父は同化策を採らなかったので、傭兵共に は非常に悪い感情を持たれていました。所が、 私の代になると、私が彼等にとって換け代えの ない医者である所以(せい)か、今度は却(かえ)って、向こう の方から、掠奪品の献納に来るんですのよ」と 軽く笑ったが、不意に視線を落して「実は、毒 蛇に噛まれたのです。そして、その時から、私 は不可解な無抵抗を強いられて、残酷な運命の 裁断に任せなければならなくなりました。生体 の埋葬1をですわ」 「では、遺言か何かですね?」 「そうです、臨終の間際に父が頻りと右手を動 かしますので、私は試みに紙と鉛筆を当てがっ てみました。すると、将に消え往こうとする父 の意志が、絶え絶えな文字を、それは見るも痛 ましい努力で連ねて行くのです」 「と云いますと?」 「こう云うのです……。八仙塞から一歩も踏み 出してはならんー故国は愚か支那のどんな都 会でも、仮りにも教会が存在する土地では、お 前には一塊(ひとかけ)の土も与えてはくれんぞーフック スが俺から離れたーもう絶望だ。……と書い て少し経つと、クリーム色の封筒と書き掛けま したが、その時父の心臓が停止したのでした」 そう云って、夫人はスウッと頬を凋(しぼ)めた。広い 額と鼻の尖りの外は、一斉に暗い陰影(かげ)の中へ沈 んで行く。「とにかく、私に与えた父の戒律が これだったのです。内容は少しも判りませんで したけど、私にとって愛と信頼の全部だった父 の言葉は、寸毫も疑う気にはなれませんでし た。それで、隊員が四散した後の十年を、マア 何とか狂人にもならず、墓穴のような暗い生活 を続けて参りました。でも、そう云う悲しい断 念を獲(う)る迄に、私はどれ程の苦痛と闘9た事で しょうロ」 「すると、今仰言ったフックスと云う人が、遺 言の秘密を知っている訳ですな」 「多分そうらしいのです。バワリヤ生れの父の 助手で、私とは幼な馴染でしたが、私が此処へ 来る途中上海の埠頭(ふとう)で遇った時には、妙な冷笑 を浴せただけで、不意と外方(そつぽ)を向いてしまいま した。父との間に何か争(いさか)いがあったらしいです わ。所が、帰国して間もなくあの人は死んでし まったのです。原因不明の熱病と云いますか ら、多分緑汗熱(りよくかんねつ)でしょう。あの風土病は潜伏期 が三月もありますからねえL 「それから、クリ】ム色の封筒と云うのは?」 「それを、最初のうちは解せなかったのです が、漸(や)っとそれに当るものを、父の所持品の中 から見付け出しました。封筒の中には一枚の経 女が入っているのです。唯今お目に掛けましょ う」夫人は胸衣袋(かくし)からそれを取り出した。  経文の断片と云うのは、相当年代を経たもの と見え、黄色い地が殆んど文字の色と同じ程度 に変色している。それに現われた木版字が、次 の様な観無量寿経の一節だった。   仏手一。浄指端。一一指端有梵八万四千情 画。如印洛。一一画有八万四千色。  それを蹟(みつ)めているザロフの顔面には、見る見 る真剣な神経が浸び上って来た。 「私、何となくこれが暗号のように思われてな りませんの」ザロフの表情の変化と符合したよ うに、夫人が言った。「ですけど、私には生憎(あいにく) と文字力がございませんので」  ザロフが重たげに頷(うなず)くと、その時、牛車らし い轍(わだち)の軋(きし)りが窓外から聴えて来た。と、得体の 判らない多人数の喚声(わめき ニえ)が、それは、未開人が往 往感情の激騰に際して発する所の、あの間の抜 けた歌謡的な歓声が、軍兵共の屯(たむろ)している方面 から、ドッと一斉に上る。 「行って見ましょう」ザロフは夫人を促した。  玄関に出て見ると、夫人は両眼を暉(みは)った儘思 わず棒立ちになった。戦陣であると云うのに、 何と有り得べからざる光景であろう! 水牛の 牽く三台の幌車には、妙齢な中国婦人がギッシ リ鮨詰めにな.っている。車が停って、痢高い矯 声と共にゾロゾロ降り立ってくると、周囲を囲 んだ兵士達の疲労した眼が、俄かに粘液的な霧(うるお) いを帯び、肩に、水牛の呼吸のような波動が、 高く低く弾んで行く。 「あれを見れば、吾が軍規の厳正な理由に合点 が行ったでしょう」ザロフはニッと笑った。 「と申しますと」 「判りませんか。あれは僕等にとると一種の糧 食庫なのです。官能が空腹を感じた時に与える 食糧を、尊敬すべき女性の同志が生産してくれ るんですよ。しかし、旧い道徳から言えば、淫(みだ) らな家畜かも知れませんがね」  とその時、夫人の驚樗がもう一つ加えられ た。二人が会話しているうちに何時の間に現わ れたのか、一人の白人婦人が、ニタニタ臆面の ない笑いを投げながら近附いて来る。その婦入 は荒目な半毛服を着て、年の頃二十六七である が、厚い嚥脂(えんじ)色の唇と真黒な瞳、それから、黄 ばんだ輩膜(しろめ)、梢(やや)ζ膨み過ぎる鼻翼(こぱな)と揃った所 は、髪が亜麻色でさえなければ、紛れもないジ プシイだ。しかし、肩幅が不均衡に広く、骨太 で、太い胴体がズソドウで、全身に曲線が乏 しい所を見ると、或はウクライナ辺の百姓女か な、とも思われるのである。 「この人は、私達士官だけの友達です。ヘッダ さん、サアご挨拶したら」  ザロフは、挨拶もせずにポカーソと突っ立っ ている女を、険(けわ)し気に促がした。そして、二人 の婦人の間に興味ある対比を感じた。思索の深 い如何にも学究的な容貌であるが、夫人は女性 の美と情緒を全く欠いている。それに反して ヘッダは、一見して判る精神低格者だが、何と 毒々しい迄に、女である実感が滲み出ている事 か。 「ヘッダさんですのね」夫人が先に言った。 「ヘッダ・ミユヘレッツエですわ」薄髭が生え たヘッダの唇から、棒のような言葉が出ると、 突然夫人は強い好奇心を眼に活べて、この珍ら しい姓を、殆んど衝動的に口ずさんだ。 「奥様は私共の事をご存知ですか? ポーラン ドでは鑑札のある犬の方が、、・・ユヘレッツエよ り余程人間様なんだそうです」そう云ってか ら、ヘッダは自分の姓を口汚く罵るのだった。 「いいえ、貴女の事は存じません」夫人はさり 気ない態で、「ただ独逸風の名前なので、上部 シレジアの方かと思いましたわ」 「それが、ルブリソの在です。両親は其処で生 れたのですが、国中を流れ歩いて、あげくに惨 めな死に方をしてしまいました。お袋の話で は、、・・ユヘレッツエを名乗るのが、とうとう私 一人になってしまったそうですが、この名は余 程神様がお嫌いと見えますのね。その証拠に は、生れ落ちた百姓の納屋から先頃の曲馬団(サ ヵス)迄 の間に、ついぞ自分を人間だと思わせた生活が ありませんでした。でも奥様、幾ら愚鈍な私 だって、一生に一度位は自分の室と云うのを持 ちたいと思いますわ」と、妙な抑揚で、光の鈍 い眼で……、自分の悲惨な過去を問われもしな いのに訴えるーそれが、ヘッダには殆んど本 能になっているらしい。  夫人はヘッダの凡てを観察して、これが、退 化した人類の通型であると思った。が、その童 心的な単純さには、全く強い憐欄を感ぜずにい られなかった。 「マァ、お可哀そうに」夫人は真実を面に現わ して、「では、此処にいる間だけでも、私の室 をお使いになったら……。私は書斎へ参りま しょう」 「有難う」夫人の言葉がヘッダを有頂天にさせ た。「そうすると、私生れて始めて、寝台(ベツド)らし い寝台(ベツド)に臥られるんですのねえ」  と熱っぽく夫人の手を握力締めた途端、ヘッ ダの口からプーンと酒臭い呼息が洩れた。 「ご覧の通りの曲馬団脱走者(サ カスくだり)で」ザロフが小声 で夫人に嚥いた。「本能で生きる事しか知らな い女なんです。それに、此奴(こしつ)の酒癖にも弱りま したが、何より注と葉の仲が、此の女を挾んで どうも面白くありません。行末ヘッダの存在が 兵団の癌になりはしないかと思って、実はそれ を秘かに催れているんですよ」 2 袋部屋の侵入者  それから十日目、阿廊(あろう)の集落を中心に、培薄 軍との主力戦が開始されたが、三日後には湘江(しよハニ う) の右岸に敵影を見なくなった。しかし、共産軍 は戦術上進出を見合わせて、先頭に調子外れな 軍楽をつけた隊列が、再び挺々八仙塞に戻って 来た。戦勝の夜は、何よりまず情慾の飢餓が充 されねばならない。  司令部に当てられたローレル家でも、三日間 殆んど不眠不休だったザロフと鵬とヤソシソの 三人は、夕食も採らずに宵の口から寝台(ベツド)に潜り 込んでしまった。が、それ以外の五人は、その 中の一人を今宵ヘッダの主に定めねばならな い。鐵(くじ)1を引く前に、昼間細心なザロフが、 戦勝の弛みに乗じようとするスパイの警戒を命 じて置いたので、建物の隅々迄も厳密な検査が 行われた。それが済むと、悪鬼の入れ札が始ま る。札が開かれて、食焚(どんらん)な光に燃える四つの眼 が閉されるのだ。息を引いた瞬間-江が当っ た。そして空(くスノ)を飛ぶ花婿は、いそいそと極楽の 扉を押したのである。  その夜は新月が現われた。八仙塞の初夏は甘 美な葵(あつもの)のように欄れ熟(う)れて、物の面と影が淫 らがましい抱擁に揺れている。残された四人 は、ヘッダの隣室で麻雀(マ ジヤン)を囲み始めた。ヘッダ の室の窓外は、東京李桃(トンキンすむも)、春木犀(はるもくせい)、杏(あんず)なド、しの花 盛りで、その廿酸っぱい強烈な芳香は、圧の歓 楽に濾(も )されて、牌(パイ)を打つ四人の嗅覚には、悩ま しい情(なさけ)の残津(おり)となって訪れて来る。すると、そ れから一時間程過ぎた頃になって、死んだよう に寂れた夜気の中を、彷律(さまよ)うが如く、忍びやか な風琴(オルガン)の音が聞え始めた。 「ハハア、ローレル夫人だな。地下室の釜場(ポイラ )に ある小汚ない風琴(オルパ ン)で、一体何を弾いているんだ ろう」一人が牌を上げた儘で云った。 「あれかい" あれはマーラーの『子供の死の 歌』ってやつさ」小心な感傷家である葉は洗惚(うつとり) 合槌を打ったが、すぐ打牌(だパイ)が続けられた。  ーこんな荒天(しけ)た日には、こんな嵐には、  戸外で遊ぶ子はないのだけれどー  この、悲痛た然し渋い、むしろ形而上(けいじじよう)的な感 情に訴える巨人の最後の作品は何とローレル夫 人に適(ふさ)わしい事であろうロ  さて、此処で、ヘッダの室の周囲を説明して 置く必要があると思う。ヘッダの室は所謂(いわゆる)袋部 屋なのである。一つしかない扉の外が、狭い長 方形の空室になっていて(そこは調度も装飾も ない文字通りの空(がら)ん洞(どう)で、窓もなく、宛然密閉 された木箱である)、それからまた一つの扉で、 今しも麻雀が行われている士官連の集合所に 通じている。その室も一つきりの扉が廊下に開(あ) いているのだが、士官達の麻雀卓はその反対側 の向う隅にあるので、双方の扉から出入する者 があれば、立ち所に判らなくてはならないの だ。それから、中央の空室の右隣りは、廊下か 廊下 戸棚 。寝台 所便  所 合 集 官 士麻雀卓○ 室空 子椅 卓長○ ヘッダの室  力ーテン ぴ。鯛 嫉,∵泡㍉ん け 石シャワー○ 溜水 浴 槽 ら出入する便所になっている。つまり、二つの 室に挾まれた短冊(たんざく)形の空間が、中央から二つに 割られて、一つは空室に、一つは便所に区分さ れているのだ(図参照)。そして、どの室の周 囲にも、分厚な鼠色のアッシュ材が豪華な色沢 を誇っているし、各ζの室の扉には、ー便所      庭園 には燕子花(アイリス)、士官集合所には花蘭(オ チツド)、空室には 常春藤(アイヴイ)、ヘッダの室には蔓陀羅華(マンドラゴ ラ)の花が、1 浮彫りになっていた。  十時三十分L風琴(オルガン)の音は依然同じ調べを 繰り返しているが、今度は誰が弾(ひ)いているの か、マーラーの「子供の死の歌」が無開と煩わ しい騒音に過ぎない。そのうち、廊下の扉が開 いて、夫人の下碑が入って来た。 「オイ、今弾いているのは誰だい?」葉が待ち かねたように訊いた。 「やはり奥様ですが、手を取って教えているん です。非番の女連が七八人も押しかけて来て、 そりゃ五月蝿(うるさい)ってありゃしない。私はヘッダさ んの御用を伺いに参りました」 「いかん」一人が狼褻(わいせつ)な手附をして言った。  が、その時意外にも空室の扉が開いて、今宵 一夜をヘッダと褥(しとね)を共にすべき筈の、江の姿が 現われたのである。 「オヤッ」一同の視線は半ば驚きをこめて、一 斉に江の顔へ注がれた。 「何時迄も、酔いどれの介抱なんかして居られ んよ」江は不機嫌にムツっと閉じてなかなか開 こうとしなかった唇を、やっと苦笑で綻ばし た。「さっき俺が入って行くと、あの女は浴槽(パスタツプ) の中で石鹸(シヤボン)の泡と喧嘩しているんだ」 「フム、それからどうしたね?」 「それで、後は看護兵って訳だよ」ベッと唾を はいて、注はその儘、廊下へ出てしまった。  所が、江と下碑が去ると間もなく、ヘッダの 室に、彼女の異様な咲笑が起ったのである。そ れが殆んど、狂気染(きちがいじ)みた調子で、硬い金属をか ち合せるような高音で、今に止むか止むかと 思っていても、依然衰えもせず、二呼吸程の間 を置いては続けられる。それが士官達を不安に した事は云う迄もない。一人が間の空室に入っ て行ったが、すぐ打ちのめされたような顔に なって戻って来た。 「オイッ、ヘッダの部屋に男がいるぞU」  一同は半信半疑ながらも、そっとヘッダの室 の扉口まで行くと、成程その男の云う通り、 ヘッダの狂笑に交って、ウッフフフフと太い低 音(ス)で忍び笑いするのが聞える。鍵孔からは何も 見えないが、流石(さすが)に把手(ノツプ)を廻す事だけは躊曙さ れた。一同はもとの室に戻ってからも、顔を見 合せただけで声が出なかった。しかし其処へ来 てしまうと、ヘッダの声だけは依然として耳に 入るが、男のは聞えなかった。 「確かにいる"」一人が捻るように言った。 「だが、一体其奴は何処から入ったのだろう?」  と云う迄の所では、恐怖と云うよりも、半分 は珍奇な妖異(あやかし)でも見る気持で、不思議な現象に 陶酔する感じの方が強かったのであるが、次の 瞬間事態が急転して、一同は氷のような戦傑に 襲れた。ヘッダの笑い声が不意に止んだのであ る。それもジワジワ衰えて行って消え去るよう に止ったのでなく、頂点に達した時にブスッと 杜絶(とぎ)れ、その後は擦(かす)り音一つしない。ちょう ど、一杯に張った錨錆(くさり)が船体の縦転(ピツチンゲ)でブーンと 切れたように。その余りにもあわただしい消失 からは何かしら自然でない恐怖的なものが思わ れるのだ。こうして一方依然と鳴り続ける風琴(オルガン) の音を聴きながら、一同の不安は刻々と高まっ て行く。 「とにかく、誰か行って見る事にしよう」葉が 耐り兼ねて言った。が、此の発言には誰一人応 ずる者がない。その時廊下の扉が開いて、江の 長身が現れた。 「オイ、皆で団(かた)まって何をしてるね?」 「それより」葉が問い返した。「君は今まで何 処へ行ってたね?」 「何処って……、夜風に当って来たんだ」 「すると、君が出てからも、ヘッダの室にもう 一人男がいた訳になるんだが」 「馬鹿言え。それでは、君の妙な夢を醒まして やろう。第一、窓の掛金は全部僕が掛けたん だ! ヘッダにシャワーを浴せて身体を拭いて から、衣裳戸棚から夫人のシ、・・ーズを出して着 せてやったり、コニャックを探すので、室の隅 隅から寝台(ベツド)の下に迄潜り込んだと云う訳なん だ。そうすると、その男って奴は、一体何処に 隠れていた事になるね」 「では、窓の外にいる歩哨を訊ねる事にしよ う」葉は自眼をジロッと江に浴びせて、「とに かく、此の室にいた四人以外の者が、窓から 入ったに決っているんだから……」  しかし、すぐ葉は浮かぬ顔で戻って来て、 「いよいよ判らんぞ。歩哨は先刻から窓の向こ うの楊柳の下に立っていたそうだが、窓から忍 び込むどころか、人間一匹通らんと云うんだ ぜ。そうなると、もう現場を確める以外に策は ないだろう。よし、僕が行って見よう。或はそ の結果で、僕の考えている事が、大変な思い違 いに終るかも知れないんだから」と拳銃の安全 装置を外して、ヘッダの室の扉を閉いた。  しかし、そこからは物音一つ聞えなかった。 そして、不気味な静寂が十五分余りも続いて、 人々がそろそろ葉の身辺に不安を感じ出した頃 になって、やっと葉は姿を現わした。が、彼の 顔色は僅かな間に死人色(しびといろ)と変り、高熱にうれた 様な両眼から唇にかけて、異様な痙撃が起って いた。 「誰もいないんだ11…実に不可解極まるよ」葉 は一つ二つ故意(わざ)とらしい咳をして、「ヘッダは 寝台(ペツド)に蚊帳を吊ってスヤスヤ眠っている! 浴 室の小窓迄も全部掛金が下りている」 「妙だな」江は子供のような云い方で小首を傾 げた。「僕が出る時、あの女は床の上にふんぞ り返っていたんだぜ。てんで正体がなかったの だから、足腰が利いたとすれば、それこそ奇蹟 ものだよ。で、どんな服装(たり)だったね?」 「シミーズ一枚さー。それだけが君の云った 通りだよ」と葉は無造作に言い放ったが、その 手で卓上のウィスキー盃(ヵツプ)を取り上げ、グイッと 神経的な手附であおるのであった。  それから夜を徹した打牌の音が、何故か棺を 打つ釘音のように湿っぽかった。果せる哉、不 思議な侵入者のあった翌朝、ヘッダは屍体と なって発見されたのである。 3 ザロフの懐疑 \ 下脾の急報に依って、ザロフは洗面もそこそ こに現場にやって来たが、その時まで格別気を 入れて見もしなかった此の室を、今度こそは仔 細に吟味せねばならなかった。  日本風に云うと六坪ばかりの室には、庭に面 した側に、鎧扉のついたガラス窓が三つあり、 その下には、やはりこれも鎧扉のついた、短冊 形の掃出窓(はきだしまど)が明いていた。右隅に寝台と衣裳戸 棚、扉の前辺は、小卓と長椅子だけで空(がら)んとし ていた。左側は力ーテソを隔てて浴室に続き、 室の中央から見ると、開け放した力ーテンの間 から、シャワーと浴槽の半分だけが見える。浴 室には、庭に面した側にはないが、反対側に、 小さな高窓が一つ明いている。その外側は、汚 水の溜りになっていて、周囲は終日陽の目を見 ない湿地だった。  屍体は、寝台(ベツド)の上に仰臥の位置で横たわり、 両脚をややはだけ気味にして、右手を胸に載 せ、左手は寝台の端から垂れているが、顔は紫 地の枕覆いの上に行儀よくのせている。昨夜葉 が言った通り、シ、ミーズが膀の辺まで捲れ上っ て、恐ろしく好色的(エロチツク)な肢勢(しせい)だった。  ザロフに続いて邸中の者が集った。夫人とヤ ソシソはザロフが来た時には既に此の室にい て、屍体の口腔を調べていた。二人共医者だけ あって、極めて事務的に処理しているが、流石 に夫人はヘッダの腰部を布片(きれ)で覆うたりして、 如何にも女性らしい細心な心使いを示してい た。室中の窓には、鎧扉とガラス扉と双方に掛 金が下りていて、鎧扉の桟は全部垂直になって いるし、その内外には足跡は愚か服の繊維一本 落ちていない。浴室の高窓は暫く開かないと見 え、煤とくもの巣が氷柱(つらら)の様に下っている。昨 夜の出来事に刺戟された連中が、指紋を消さぬ 様に注意して家具を除(ど)かしたり、床や壁を叩い て反響を確めたけれど、結局隠扉(かくしど)らしい所もな いのだ。また、変死を立証するものは何一つ発 見されない。  ザロフは、昨夜此の室に不思議な侵入者が あった事実を聴き取ってから、鵬を片隅に引 張って行って囁いた。 「実に弱った事が出来たね。鵬君」 「ウソ」鵬も苦り切った表情で、「君も知って の通り、最近長沙(ちようさ)のポーラソド領事分館を通じ て、曲芸団(サえカス)の持主がこの女の引渡を僕等に要求 しているーそんな矢先だからね。多寡が一淫 売婦の死だけれども、余程扱いを慎重にせん と、却って政治的に逆用される虞れがあるよ。 清朝時代には、外人の変死が此の国の海岸線を 癩癩(らいてん)みたいにしてしまったんだぜ。それでなく ても、相手がソビエスキーのポーランドだから ね。この事件が反ソヴェートの有力な宣伝材料 になる事は、言わずと明らかなこったよ。そう するとザロフ君、僕等は今のうちに、対策を決 定して置かなければならんよ」 「ウム」ザロフは暫く沈思に耽っていたが、不 意(いきなり)ニッと笑って、「やはりこの一つだろうー つまり英国人(ヘヘヘヘ)であるローレル夫(ヘヘ)人を死因発表者 に利用する事だよ。だから、他殺にした所で、 決して赤裸々な真実を恐れるには及ばんと思う ね。何しろ、対照がヘッダと来てるんだから、 個人の感情生活以外に、動機があろうとは思わ れんじゃないか」 「成程」鵬はホッと生色を浸べて、「それなら、 デマの発生する余地がない。名案だ"」  こうして、端なく㌔ザロフは、四年以前モス クワに於ける彼に立ち帰ったのである。しか し、夫人は後で同意を求められた時に、如何に も彼女らしい冷やかさで、あなたの推諭に誤謬 さえなければーと答えた。  それから、ザロフは旧の位置に戻って、 「君が発見したそうだが、その時と別に変って はいまいね」と夫人の下碑に訊いた。 「ハイ、唯、白麻の蚊帳だけが」 「それは、僕が取り外したんです」ヤソシソが 屍体から離れて言った。「では、ローレル夫人 に検案の結果を発表して頂きましょう」 「サア」夫人は眼色で拒んだ。「私だと、余計 な主観が混るだけでも、却って危険ですわ。そ れより貴方の方で、平凡でも雑色のない報告が 出来るでしょう」 「それでは」とヤンシンは態(かたち)を改めて、「でも、 今の所では、此の屍体が死後十二時間以上を経 過していないーとしか云えませんな。解剖し て胃中食物の消化状態が判れば、もっと正確な 時間を指摘出来るでしょう。それから、死因は 心臓麻痺です、咽喉に数ヵ所に軽微な擦過傷が ありますが、右手の爪の間には、それに相応す る表皮が残っています。他には、皮下出血の跡 はない! 排泄物も一向にないのですから、外 力を加えた形跡は絶対にありません。それに、 外容だけの話ですが、毒死を立証する徴候も現 われて居らんのですL 「所が、君も今聴いての通り、一つだけだが、 歴然(れつき)とした他殺の情況証拠が挙ってるよ」ザロ フは遮ぎるように言った。「それから、或る種の 毒物を極めて技巧的に使った場合やショック死 などは、医学的には自然死でも、その実外力が 加わっているぜ。だが、そう云う場合は大抵、 屍体の表情で見当が附くがね。1顔面だけで なく、全身に表出しているものがある」 「すると、これがそうでしょう。下顎をグッと 引き気味にして口を角笛形(ホルンがた)にあけています。そ の過大な間隔と瞳が極度に釣り上っているの が、確かに衝撃(シヨツク)の跡と言えますね。しかし、顔 面以外は殆んど常態じゃありませんか」 「いや、消(ヘヘ)えちまったんだ。と云(ヘヘヘヘヘヘ)うと、不可解 なようだが、事実は極くつまらん事なんだよ」 何事かを灰めかしてザロフは自信あり気に云っ たが、夫人へ向けた顔には、苦笑が浸んでい た。「どうも観念が纏りませんでな。大体ショッ クの表出と言うやつは、薬物の作用ばかりでな く、幻覚や絶命時の夢中心理でも現われる事が ありますからね。けてれに、作用の瞬間的な毒物 で説明したくも、生憎ヘッダには呼吸がないの ですから、もう静脈血が物を云えませんよ。 .・.・また、それだけで死因( ヘヘヘヘヘヘヘヘ)に定義(ヘヘヘ)を附(ヘヘ)けよう(ヘヘヘ)と すると、今度(ヘヘヘヘヘヘ)は、「完全(ヘヘヘ)な密室(ヘヘヘ)の殺人(ちヘ)」が全然 解決不可能(ヘヤヘヘヘヘヘヘヘ)になってしまうのです(ヘヘヘヘちヘヘヘヘ)」  一同にはザロフの云った意味が判らなかった が、夫人は批判的な眼を向けて頷いた。  それから、解剖の準備をするために、執刀者 のヤンシンと夫人が出てしまうと、ザロフは 寝台の裾に近い床上から、落ちていた卓上暦を 拾い上げた。それは、様々な色のセルロイド板 が一月(ひとっき)の枚数だけ揃っていて、表面には日附の 大女字だけが印刷され、備(メ)忘録(モ)を兼ねるもの だった。彼はそれを繰りながら、 「ねえ鵬君、これは以前彼処の卓子(テ プル)の上にのっ ていたんだが、あんな所まで運ばれた所を見る と、相当激しい動作が行われたらしいね」. 「だが、これと云う物音はしなかったと云う ぜ」鵬は一向無関心の態だったが、ザロフもそ れきりで此の問題には触れず、丁寧に卓上暦を 旧の位置に置いてから、下碑に訊ねた。 「君は今朝、蚊帳の中でヘッダの死を発見した そうだが、その時沼蚊(ぬまか)がいなかったかね」 「たしか蚊は一匹も居りませんでした」下碑は 要領よく答えた。「居りますれば、沼蚊みたい な虻(あぷ)程もある大きなものは、すぐ眼につきます し、それに、この蚊帳は裾を布団(マツトレス)の下で留める 仕掛になっているのですから、いても判らない と云う程の広さではございません」 「すると鵬君」ザロフは鵬を屍体の側に招き、 用意した拡大鏡を下腹部に当てて、 「君、何か見えやしないか?」 「アッ、注射の痕u」平素は悠々迫らぬ鵬も流 石(さすが)に度を失った。胃と下腹部を区切る膀上の鐵 に、ポツと突いた針先程の傷があった。 「所が、こんな菱形の注射針なんてあるもん じゃない。これは黄斑沼蚊(きまだらぬまか)の刺痕(さしあと)なんだぜ。よ く見給え。周囲に四ところ、あの蚊特有の肢鈎(しきん) をかけた痕が残っているよ。所で、これからが 非常に大切な所なんだが……」とザロフは俄然 厳粛な調子になった。 「と云うのは、此の刺痕に腫脹が残っていない 事だよ。つまりそれは、心臓が動いているうち の刺傷でないーと云ラ証拠になる。しかし、 また一方では、蚊と云う奴は屍冷を嫌うし、血 球の破壊した血液は決して吸わん。そればかり でなく、人間には感じなくても、屍体の臭気に は恐ろしく敏感な奴なんだ」 「フム、それで」 「そうすると、こう云う結論になる。この刺傷 は、心臓が停止する以前であってもならんし、 また停止後僅かでも時間が経ってはいかん。つ まり、心臓の停止と同時か或いはその瞬後でな ければーと云う、微妙な制限が置かれている 事なんだ。だから、其処へ今の下碑(げじよ)の証言を 持って来ると、ヘッダが最後の息を引いた時の 状況が明かになって来る。その時はまだ、蚊帳 が吊られていなかったのだよ」 「無論、吊ったのは例の笑い男ですよ」葉が待 ち兼ねたように云った。「僕が行った時には、 ヘッダは蚊帳の中にいたのですから。尤もその 時既に死んでいたのかも知れませんがね」 「所が葉君、てんで僕は、そんな男がいたとは 思わんがね」そう云って、ザロフは自分が投げ た石の波紋を、面白そうに眺めた。 「莫迦(ぱか)な"」鵬は魂消(たまげ)て叫んだ。「君だって、 この事件に男の笑声がなかった日には、犯人を 探すなんて気は、よもや出なかったろう。葉君 は実に正確な想像を云ったんだぜ」 「それでは、僕の理論を聴き給え」ザロフは不 思議な確信を灰めかせて、云い出した。 「まず、君達の狂信を醒ますために、完全(ヘヘヘ)な密 室(ヘヘ)に於(ヘヘ)ける殺人(ヘヘヘ)と云う構想が、探偵小説家の理 想郷(ユきトピア)だって事を云って置こう。小説でさえ完全 な条件では絶対に書けるものじゃない。第一、 扉のない鋼鉄函みたいな場所へ、どうしたら、 妖魔みたいな変幻出没が出来るだろうね? 恐 らく百万年後でも、それには不思議現象以外の 説明は附くまいと思うよ。つまり、空想でさえ 構想の不可能なものが、現実どうして実行出来 るかーそれを考えて貰いたいんだ。所が昨夜 は、この室が完全な密室だったのだよ。それは、 凡ゆる状況が余す所なく証明している事だ! 万一を繋いだ秘密の通路も、先刻の調査で全然 望みを絶たれてしまったのだ。だから、もしそ んな神話的人物が事実いたとすれば、僕はアッ サリ事件を投げ出してしまうよ。ねえ諸君、そ うなれば、解決は天国にありーじゃないか」  と彼の舌が漸く熱して来た時、解剖の用意が 整ったと云う通知があった。それで、ザロフの 話は一先ず中断されねばならなかった。その間 彼は、浴室から自分の足下にかけて視線を数回 往復させていたが、いきなり片膝をついて、寝 台寄りの床に白墨で印をつけ、 「石鹸(シヤポン)の泡が二所落ちているんだ。それも、こ こから浴室迄の絨椴(じゆうたん)にはなくて、ここへ来て始 めて現われている。まだ何を暗示しているのだ か判らんが、何(いず)れにしても、この発見は注目し ていいと思うね」 「指紋を」鵬が突然言った。「無論大した事は あるまいが、君の想像が思い違いに終った場合 に、或は役に立たんとも限らんからね」  此の事件が指紋に依って解決するような単純 なものではないとは言え、型だけでも冒頭(はじめ)に行 うべきものに見向きもしないでいるのは、ザロ フの驚くべき確信と、それから、彼の狂気染み た神経が、最初から或る一点に向って、ひたむ きに注がれている証拠ではないか17 拡大鏡と アルミニユーム粉とで、鵬の巨躯が窮屈そうな 屈伸を続けていたが、やがて、採集が終り屍体 も運び出されたので、ザロフは、 「では先刻の続きだが、もう少し序論を云わせ て貰おう」と再び円陣の中心になった。 「所で今度は、諸君の信仰を仮りに事実である として、まず侵入者自身を吟味して見よう。す ると、真先に気が付くのは、その男の如何にも 犯罪者らしくない露出行為なんだ1君達が隣 室にいるのが判っていて、何故あんな笑声を立 てたのだろうか? 尤もこの点は、他人の秘事 を発(あぱ)きたくないと云う心理を逆用して、君達の 閥入を防いだとも云えるだろうが…-・、それは マアいいにしても、全く真理ってやつは、いつ も平凡な形で足下に転っているものだね。その 男の姿に目撃者がいないーと云う点を、僕は 危なく見逃す所だったよ。つまり、耳で見た音 響が、侵入者と云う概念像を作ったのであっ て、それを君達は、単純に聴覚だけで認めてい るんだ。すると、その一事で僕は、この事件の 癌を摘出する、かけ代(が)えのない方法を暗示され た気がしたよ。その男の存在が聴覚現象以外の ものでないのだから、そこにまだ再吟味の余地 があると思われたのだ。そうして、推敲検討を 繰り返した末に、とうとう仮面を引ん剥(む)いた、 笑声の方程式を作り上げたのだがね。所がどう だろう……意外な事には、それがヘッダ個入の 内部から発生している。実に、その母胎と云う のが、ヘッダの狂人笑いなんだよ」  最後の一句で、五人の聴き手は失神したよう に荘然となった。ザロフは鵬を見て云った。 「君は先刻、男の含み笑いだけで他殺の情況証 拠は充分だと云ったが、僕は、それがヘッダの 咲笑(たかわらい)だと云いたいのだ。それを分析すると、男 の笑いが理諭的に消滅してしまうのだ! 蔭で ヘッダを操っている素晴らしい毒殺者の姿が、 僕の網膜に映って来るのだよ。だから、たとい ヤソvシソが自然死の報告をしても、僕は飽く迄 それに固執(とつつ)いている積りだぜ」そう云って紙巻 を取り出したのを見て、 「それが君の説の前提かね」と鵬が訊いた。 「ウソ、所で僕の解釈を云う前に、ちょうど恰(かつ) 好な引例をお目に掛けよう。それは、僕が十八 の時に、白軍の捕虜から聴いた話なんだが」 と、ザロフはポツリポツリと語り出した。 「その男は、オースタリーの男爵でヨーゼフ・ ザイフリードと云う、可成り年配の医者なんだ が、当時クラーゲソフルトの寄席で興行してい た、力、・・ーラと云う女腹話術師に恋をしたの だ。舞台のカミーラは、もう一人の対手とシー ソーに乗りながら、腹話術を応用した掛合噺で 入気を博していたが、ザイフリードは遂(とうとう)々数多 ある恋敵に打ち克って、カミーラを自分の妻に する事が出来た。しかし、カミーラはザイフリ ードの金力には従ったものの、内心ではオスカ ール・シュレーゲルと云う若い銀行員を諦める 事が出来なかったのだが、それが、抑(そもそも)ζ悲劇の 始まりだったのだよ。・無論二人の僅(はかた)い逢瀬は、 何時か判らずにはいない。けれども、それと 知っても流石(きすが)に維納(ウインナ)貴族である彼は、表面荒 立った真似をせず、カミーラを南チロルの猟小 屋に連れて行ってしまった。すると、或る雷雨 の夜、力、・・ーラが激烈な胃痙璽を起したのだ が、そのうち不思議な事には、ザイフリードが 注射したモルフィネに依って遂に安眠した筈の 彼女の室から、ちょうど君達がヘッダのを聴い たような、物凄い笑声が響いて来る。不審に 思ったザイフリードが隣室まで行くと、女の笑 いの外に、一度だけだが、男のを聴いてしまっ た。シュレーゲル…一・突嵯(とつさ)にこう信じた彼に、 端なく殺意が起ったのも、決して無理ではあ るまい。そこで彼は、側にあった砂糖壼の中か ら、角砂糖を全部取り出して、四つだけ残して 置き、その中を丹念に剖り抜いて、其処へ自分 の喘息に使うジアセチール・モルフィネを詰め て置いたのだ。所が、翌朝行って見ると、コー ヒー盃一(カツブ)つと、角砂糖二つしか失(なく)なっていな い。ザイフリードは思わず愕然としたが、果し てカミーラの室には、彼女一人の屍体しか横 わっていないのだ。おまけに皮肉な事には、そ の翌朝配達された新聞に依って、シュレーゲル が一週間も前に、グラツで自殺を遂げていた事 を知ったのだったよ。……そうなってみると、そ の夜力、・・ーラと室を共にした男は誰か? 1 と云う疑念が当然起って来るのだが、流石(さすが)ザイ フリードはすぐにこの謎を解いた。1実は、 力、・、ーラの室には彼女の外誰もいなかったの だ。力、・・ーラの笑いはモルフィネに依る愉快な 幻夢を見たからで、それだけは間違いのない事 実だけれども、男の笑声の方は、別に一人の男 性が存在していたからでなく、やはり、それも カミーラが発したのだったよ。では、どうして そうなったかと云うと、クロダイソを過量に嚥 むと経験する事だが、寝台に接触する部分の皮 膚がモルフィネに依って知覚を失い、それから 落下の感覚が起るからなんだ。それで、力、・・ー ラの場合も、爽快な夢を見ているうちに、そう 云う下降感が起った事は云う迄もない。けれど も、その時どうして腹話術に依る男の笑い声が 出たかと云うに、それは……恰度その下降感が 寄席の舞台でシーソーが下る時の感じと符合す  るからなんだ。つまり、彼女の求める間の習 性がそうさせた訳だが、同時にそれが、ザイフ  リードに恐るべき錯誤を冒させてしまったのだ よ。だから、あの男も自暴自棄の末、自殺する 目的で白軍に投ずるようになったので、僕にそ れを聞く機会が出来たと云う訳さ。しかし君達  は、此の話を聞いて、ヘッダの室に起った男の 笑声を、なんと解釈するかね?」  「だが、腹話術なんてそんな器用なものは、  ヘッダには思いも依らぬ話だぜ。元来あの女は 歯力(しりよく)芸人なんだ」鵬は半分嘲笑(せせうわら)っていた。  「では率直に云おう」ザロフは頁剣に坐り直し た。「二種以上の毒物を併用すると、偶(たまた)・ゝそ(ま)れ が競合して、異様な二重意識を起す事がある。 僕はそれを、ヘッダの場合に主張したいんだ。 .それで、もう一つ例を挙げるが、僕は以前に戦 地病院で、微量だけれども猛毒の峻下剤である  コロシット果粉末が、誤って抱水クロラールの 中へ混ってしまった結果を見た事がある。その 時は、全身麻酔に陥る筈の患者が、俄かに激烈 な腹痛を訴え始めたのだ。だが、そのうち抱水 クロラール特有の灼(や)けるような麻痺感が、胃中  一杯に拡がってしまうと、患者は半仮睡(うつつ)の状態 になって、苦悶が間歌的になって来る。いま考  えると、そのグツグツという声に、君達が男の 含み笑いと聴いたものが、何となく似てやしな いかと思うのだがね。しかし、間もなくその患 者は、猛烈な下痢が因で虚脱してしまったよ。 それで、適量の抱水クロラールにも小動脈壁が 抵抗出来なくなって、とうとう心臓麻痺を起し てしまったのだが、此れもヘッダの場合を考え ると、貴重な一例だと思うのだが、どうだろう" つまり、こういう薬物の競合現象があるのを、 肴達に知って貰いたいんだよ。……所で、犯人 が何か技巧的な方法で、ヘッダに二種類の毒物 を試みたと仮定しよう。すると、最初に作用の 迅速た方の毒物のために1少量なら腐蝕毒で も差支えないがーヘッダは先ず苦悶を始め る。しかし、すぐにもう一つのーそれは神経 毒である事を絶対に必要とするがーその毒 物の作用が夫梢神経に現われるので、今度は苦 痛が幾分緩和されて、それに症箪と間歌性が 伴って来る。そしてその冗進時と鎮静時とが頗 る不規律に交錯うのだが、それについて、君達 の記情を喚び起す事にしよう。つい先頃、アス ピリンと誤って昇ユ水錠を嚥下した兵士があった ね。その時、ヤソシソが卵白で胃洗液をした時 に、君達はそれとそっくりな現象を見た筈だ よ。で、そうすると、冗進時には呼吸が強く圧 迫されるから、苦悶の声がグツグツという低い 断続音になって現われるじゃないか17 勿論、 その声だけを単独に聴いたのだったら、ちょっ とのうちは音符以上のものが悟れなかったかも 知れないのだが、あの時は、その声と電光形(ジグザグ)に 喰い違って、ヘッダの喚笑(たかわらい)を聴いたのだから ね。それで、男の含み笑いという聯想が、早速 にピイソと響いて来たって訳だよ。だから、こ ういう聯想に依る錯覚というものは、異った場 合もやはり同じ事で……、もしあの時ヘッダが 泣いていたとすれば、恐らく君達は、あの声を 悲哀憤怒というような、全然反対の情緒で解決 したに相違ないと思うね。所で、そう判ると、 鎮静時に起ったのが、例の喚笑である事はいう までもないが、それが死の直前に現われている だけであって、何となく怪奇(グロテスク)な気がするだろ う。けれども、もともと或る種の神経毒には決 して稀(めず)らしくない現象なんだ。つまり、その毒 物が肝臓に変調を起すからで、その結果症状と は似てもつかぬ愉快な幻覚が、往々に現われる 事があるからだよL  それから、ザロフは最後の結論に広った。 「で、こういう具合に、苦痛の冗進時と鎮静時 とで、交互に、二つの異った性質の声をきかさ れる!また、その出没が非常に不規則なの で、聞いたものはそれが因で、途方もない倒錯 に陥ってしまうのだよ。君達は集会所に来てし まうと、男の笑声は全然聞えなくなったといっ たね。だから、ヘッダの最初の苦悶は耳に入ら なかったのだ。喚笑(たかわらい)が始まったので、それに 導かれて始めて、音声の妖術をきくようになっ たのだよ。さて、これで笑声の分析は終ったの だが、僕の説がまだ仮説(セオリ )から一歩も出ていない 事は云うまでもあるまい。けれども、あの不合 理極まる存在を非存在とするためには、それ以 外には絶対に理論がない事を、是非承知して欲 しいと思うね。それから、僕が笑声の原因とし て想像する神経毒が、直接ヘッダを殺したもの でない事を、断って置きたいんだ。そういう性 能を持っているものには、即死に近い峻烈な作 用を現わすものが、絶対にないのだからね1 何より発作の開始から絶命迄の時聞が、確実に 証明している事だよ。ねえ諸君、この事件には 中世の毒殺万能時代にもないような、三つの毒 物の素晴らしい芸術が見られるだろう。けれど も、以上の事が判ると、この事件の恐怖的な謎 は残らず解けてしまうぜ。今迄のような密室の 束縛から脱れて、僕等は全く自由になる事が出 来る。つまり、単一な毒殺事件に纏(まと)ったからだ よ。笑声の部分は、技巧さえ許されれば時間空 聞が開題にならん、第三の毒物が使われた時に は、多分此の室は密室でなかったろう。だが、 僕は今暫く凡ゆる行動を控えようと思う。どの みち犯人は逃げっこないのだからね。ヤンシン の鑑定が僕の仮説(ム オリ )を証明してからでも、決して 遅くはないよ。また、僕が故意(わざ)と毒物の名をい わなかったのは、何れヤンシンが指摘せずには 置かないと信じてるからさL  如何にもザロフらしい空想の火華だった。語 り終った彼の前には、五つの放心した顔が並ん でいた。しかし、どれもこれも最初のうちは、 論弁だ! と、心の中で警戒を弛めなかったの であるが……。 淡藍色(ライトプル )の寝衣(パジャマ)を着た男 「所で注君、君から始めて、昨夜の行動を聴か せてくれ給え」一息吐(つ)くと、ザロフは顔の紅潮(ほてり) を収めて、事務的な口調で云った。が、注の陳 述は、昨夜と寸分も異ならなかった。 「だが、君はどうして、ヘッダの室を出るとす ぐ戸外(そと)へ出掛けたんだね。そして、その間は?」 と鵬が口を挾んだ。 「沼向うに、蜀楽院(しょくらくいん)とかいう日本寺(につぼんでら)があります ね。裏ロから出て、昼間だとあの屋根が見え る、丘の間を往復しました。戸外へ出たのは、 頭が痛かったからです。それに、冗奮を冷まさ にゃなりませんよ」それから、注は露骨(あけすけ)に昨夜 の感情を曝け出した、「一週間も人殺し作業を 続けてやっと帰って来ると、折角当った女が、 ずぶ六で役に立たぬと来てるんです。浴槽の中 で石鹸(シヤポン)だらけになっているのを引っ張り出し て、それからやっと襯衣(シヤツ)だけを着せて寝台(ペツド)の側 まで引き摺って来ると、今度は其処の床にふん ぞり返って、もう挺子でも動かんのです。何し ろ、馬鹿力があって足腰の利かない、あんな重 い奴を扱ったのですから、僅か五六米の距離 に、ザッと一時間足らず掛ってしまったのです よ。……そうなりゃ鵬さん、誰だって頭も痛く なるでしょうに"」 卓○. ◇卓上歴 屍体 石けんの泡の痕 窓 窓 ・「無論、戸外(そと)では誰かに遇っ たろうね?」 「人っ子一人いやしません。 大体昨夜みたいな晩に、誰が ノコノコ出歩くもんですか」 「そうすると、君が戸外にい たのが立証出来なくなるぜ」 と鵬がちょっと気色ばんだ が、それが、直情的な江に不 快な刺戟を与えた。 「オヤ、それでは貴方はγ私 を見掛けた煙草屋の主婦(おかみ)なん てものが、こんな土地にある と思ってるんですね」ジリジ リ彼の表情が硬くなって行 く。「とにかく、事件が起った土地の状況をよ く頭に入れてから、質問して下さい。大体不在(アリ) 証明なんてものが、運命です。あれは八分通り まで、捜査官が犯人製造(つレ ム アリプ)の必要上要求するんで すよ。大都市の居住者でも、日常生活の中に求 められたら、まず大概は犯人になってしまうで しょう。もし十人のうち三人もあれば、私は戦 闘機に空気銃(ダイアナ)を載せますぜ。だが、それよりか も私が知りたいのは、昨夜お二人始めヤンシン 君に、果して完全な不在証明(アリパイ)があったかどうか ーですがね」 「止(や)め給え」鵬を救うように、ザロフが注を 叱った後で、「所で、君に特別念を押して置き たいのは、君が部屋を出る時に、ヘッダがどん な状態であったか、という事だが」 「寝台の裾の左脚の所で、手足を枕木みたいに 拠り出して、仰向けに臥転(ねニろ)んでしまったので す。横腹を金棒に当てて、上体を寝台の底辺と 窓の間へ斜めに突き出していました」 「成程」ザロフは軽く頷いて、江に対する質問 を打ち切った。「それから、葉君以外の者には 用がないから」  すると、残された葉は、元気な声でザロフの 質問を俣たずに、云い出した。 「ねえ指揮官、とうとう私が第一の容疑者にさ れてしまいましたね。これから貴方は、私が蚊 帳を吊ったかどうかーお訊きになりたいので しょう。とにかく、笑い男が論理的(ロジカル)な消滅を遂 げてしまったのですから、そうなれば、蚊帳が 独りで動ける訳ではないし、結局此の室へ最初 に入った私に、疑が掛るのも無理ではありませ ん。実際、そうなるのが厘毛誤りのない計算で すよ。その上、この室で私は二十分近くも費して いますll尤も、それは念の行く迄調べた所以(せい) なんですがね。しかし、あの時、私が夢中遊行 をしているのでなければ、事実をその儘信ずる より外にないですよ。で、もう一度云いましょ う。あの時、笑い声が止む1江が現われる、 という奇体な暗合が現われたので、入る決心を したのですが、私の眼に映ったヘッダは、蚊帳 を吊った寝台の中でスヤスヤ眠つていた様に思 われたのです。或は既に死んでいたのかも知れ ませんが、その時は別に不審な気は起りません でした」 「フム」ザロフは顎だけで頷いたが、鵬は、 「それは僕も認めている」と真剣に合槌を打っ た。そして、 「とにかく、ヘッダの屍体を床から寝台に移し て、それに蚊帳を吊った人物がいる。また、其 奴が犯人である事も確かだよ。衝撃(ショツク)の跡が、屍 体の顔面以外の部分から消えているのだけで も、充分いえると思うね。だが、今度こそ、そ の人物に何とか説明が付きそうなんだ。まだ見 当が、昨夜麻雀(マ ジヤもノ)をやった四人以外のーという 程度だけどねえ」と自信を灰めかすと、 「すると、多分こうでしょう」と葉の眼から神 経的なものが消えた。「昨夜私達四人が、男の 笑声を確かめに間の空室に入った事がありま す。その時、背後からこっそり忍び込んで来 て、隅の闇の中に隠れた者があったのです。其 奴は、間もなく吾々が集会所に戻った隙に、こ の室へ入って目的を果したのですが、終るとす ぐにまた、旧(もと)の位置に戻っていたのです。で、 多分私が独りでこの室に入るのと、入れ違い だったのでしょうが、それからその人物は、私 が出たのを見定めて、再び此の室に入って、今 度はヘッダの屍体と一所に、脱出の機会を狙.っ て朝方まで暮したのでしょう。つまり、其奴の 目的は、情況証拠の埋滅をして、自然死らしい 外観を作ろうとしたのですよL 「明察だ。その時以外に時機のない事は明かだ よ」ザロフは澄んだ瞳を葉に向けて、「だが、 君の推定は時聞的に証明されなきあならんが ね。それに就いて訊きたいのは、君達四人が空 室を出てから、君が独りでこの室に入る迄に、 一体何分位費やされているね?」 「全部で十二三分位でしょう。空室を出てから 笑声が杜絶(とだ)える迄が、さよう二分位、それか ら、注が来てから私が歩哨を訊(ただ)したりして、結 局此処へ入る迄が、十分も掛ったでしょうか」 「成程、十二三分……。では、その数字で君の 推定を割ってみる事にするが、それには、三通 りの解答が予期されているんだ。無論、君の説 が証明されるかどうかで、正否の二つがあるの は云う迄もないが、万一天秤が水平になるとだ ね……」といって、ザロフは不思議な冗奮を現 わし九。「そうなると、あの見るからに単純な 江が、実に素晴しい性能を隠している、と信じ なけりゃならんよ」  聴いた瞬間、二人に電撃のような衝動が現わ れたが、ザロフは眼もくれず続けた。 「所で、僕の計算の基礎と云うのは、絶命時刻 と屍体の顔面表情なんだが、絶命時刻は最大限 に見積って、ヘッダの笑声が絶えた時としよ う。けれども、屍体の顔面表情になると、それ に少し説明を加える必要があると思うね。… 大体、四肢の筋肉には強直が始まる際に緊縮を 起して、往(ときたま)々それが不気味な運動をする事があ るんだが、顔面筋肉には、破傷風患者の強直が 弛む際以外には、恐らく変貌がないといって差 支えないのだ。また、人工的に表情を変えると いう事は、改悪に終るのが眼に見えた話だよ」 「すると」葉がちょっと神経的な訊き方をし た。 「その時見た顔面表情と現在のとが、同一であ るかどうかーーそれを君に証明して貰いたいん だよ。つまり、その変貌如何で斯う云う結論に なるんだがねえ」と、ザロフの口から、平淡な 調子で、驚くべき峻烈な内容が吐かれていっ た。「まず、その時と現在とが同じものだとす るねρそうすると、絶命は君が此の室に入る以 前である事はいう迄もない話だ。しかし、ヘッ ダは蚊帳のない所で死んだに相違ないのだか ら、もし変貌がないとすれば、君のいう十五分 足らずの間から、まず蚊の吸血に適した静かな 時衙を差し引かねぱならんよ。そうなると、そ  のこり                ・ペツド の余剰の時間で、屍体を寝台の上に運んで蚊帳 を吊ったり、手足に現われている衝撃(シコク)の跡を一 一常態に戻したりするなんて事は、到底人間業 では不可能な話だよ。いいかい葉君、君の説に は世界中の時計が不賛成なんだぜ。所が、その 反対の場合、つまり変貌が事実あったとする と、今度は、それが君に対して相当不幸な暗合 になってしまうのだがねえL 「しかし、あの女は術伏せになっていたんで す」葉は聡明にも一つしかない逃路を覚って、 平然と答えたが、其処に陥穿があった。 「いや、それでもまだ見たものがある筈だよ」 「といっても、亜麻色の髪毛(かみのけ)だけですが」 「亜麻色η 君が見たのは?」ザロフが突然 棘(とげとげ)々しく反問すると、 「亜麻色という以外に、あの色をどう表現した らいいんです?」と葉は冷かに嘲けった。 「そうすると」ザロフは峻厳な態(かたち)で断定を下し た。「君がヘッダの屍体を寝台に運んだのだね。 そして、蚊帳を吊ったんだH」 「馬鹿らしい。途方もない冤罪です"」 「といって、優秀な砲兵士官である君の視力を 疑う訳じゃないがね。しかし、君が見たのが事 実だとすると、光覚上の法則が根本から覆えさ れてしまうぜ。君はヘッダが術伏せになってい たというね。そして、髪毛を亜麻色に見たとい うね。だが、そうなると、白麻の蚊帳に覆われ て、ヘッダの頭は紫地の枕覆いの上にあったの だから、君は当然亜麻色以外の色を見なければ ならんのだ。ねえ葉君、白い紗を透して紫地の 中に置かれた灰色を見ると、それが鮮かな緑色 を呈して来るのだよ。そういう対比現象が必ず 現われるものさ」  葉は思わず顔を伏せた。が、やがて、血の気 のない唇から微かな嗅(しわが)れ声を絞り出して、 「実は、殆んど注がいケ通りの位置で、ヘッダ は床の上に侑伏せになっていたのです。あの 時、最初に部屋を一巡してから、体温はあるし 顔が見えなかったので、うっかり眠っていると 信じて、私は愛する女を寝台に運んで蚊帳を 吊ってやったのですが、蚊帳の中で意外な絶命 に気が付いたのです。そうなると、それ迄費や した時間が因で、必ず自分に疑いが掛ると思わ れたので、とうとうあんな小細工をしてしまい ました。四肢(てあし)の轡曲(まがり)や指先の不気味な反りを自 然の状態に直して、蚊帳の裾をキチソと留めて から後を見ず逃げ出上)たのです。けれども指揮 官、私は断じてヘッダの下手人ではありませ ん。それから、あの室には、花粉の匂いが軍(こ)め ていただけで、人間は愚か、音も臭気もありま せんでした」  ザロフはそれ以上追及しなかった。そして、 昨夜の歩哨を呼ばせる事にして、葉を去らせて しまうと、鵬は眼を円くして、 「実に驚いた。今のがGPUの本(ゲ ぺ ウ )体だろう」 「だけど、葉は最初、僕に先手を打って来たん だぜ」ザロフはちょっと白い歯を見せて、「だ から、こりゃ一筋縄では往かんと思ったので、 一10n一という平凡な真理を証明するのに、大 袈裟な天文学数字を使ったと云う訳さ。やっと これで、此の事件の謎が全部片付いて、僕は爽 爽(すがすが)しい気分になったよ」  それから、彼は浴室に入っていった。浴槽に は、殆んど石鹸水に等しい昨夜の残り湯が、腐 敗した牛乳のようなドス黒い混濁を見せてい た。ザロフは送湯の捻栓(ねじ)を捻って見て、 「オヤ、捻栓が壊れてるな。それから鵬君、君 は此の蛇口が少し下過ぎるとは思わんかね」と 水面から少し潜(くぐ)っている蛇口を指差す。 「成程:…・。尤も、此の湯栓(ねじ)は風琴(オルガン)のある釜場(ボイラ ぼ) に続いているのだが、昨夜の風琴(オルガニ)の音がこの事 件にどんな関係があるんだね」 「冗談じゃない。両方の栓が開いていたって、 ここへは廊下で聞く程に聞えやしないぜ。何も 僕は、不可能な事を無理矢理信じようとして、 そんな小説染みた空想を組立ててるんじゃな い。唯、あの石鹸泡の痕と浴槽とを結び付ける ものを、探してるだけなんだよ」  その時、小柄で猿みたいな顔をした男が現わ れた。昨夜窓外に立った歩哨の鄭大釣(ていだいきん)である。 所が、この海南島(かいなんとう)産の洋僕上りは、実に意外と もいう事実を陳述したのだった。 「昨夜は誠に申訳ない事を。実はこの室を覗き 見しましたんで。恰度(ちようど)十時半の点鐘が鳴る少し 前の事で、その頃からヘッダさんが大きな声で 笑い出しまして、それに、ウフフフと云う可笑(おか) しさを耐えているような、男の声が交り始めた のです。こりゃてっきり、法外な巫山戯(ふざげ)方をし てるんだなと思うと、ちょっと妙な気持になり ましてな。それで、悪い事とは知りつつ、銃剣 の先で掃出窓の鎧扉の桟をこづいて、とうとう 其処から硝子(ガ つス)越しに覗いてしまったのです。す ると右足に、白い襯衣(シちミ  ス)が捲れ上って、腰から下 を露(む)き出しにしたヘッダさんの後姿だけが眼に 映りました。両足をバタバタさせている所は、 悪ふざけを嫌がるような態(かたち)でしたが、多分私か ら見えない所にいた男が……Lと云い掛けた 時、ザロフは思わず、 「なに19」と鶏鵡(おうむ)返しに叫んで息をつめた。 「はい、男がおりまして、其奴は……、続いて ウームと力を入れるような太い喰り声がすると 同時に、クルッと男女が入れ変ったと見えて、 今度は男が肩から背筋にかけて現や㎞ヤ代ので す。その男は、無地の薄い薦色の西洋寝衣を着 ておりました。しかし、それも眼に映ったと思 う瞬間に消えてしまって、同時に寝台の脚に身 体を打衝(うちつ)けるような音がしたのでしたが、それ きりで、私は窺覗(のぞきみ)を止めなければならなくなり ました」 「どうしてだね」鵬が光りのない眼を向ける と、 「やはり」とザロフは深い嘆息をした。 「その時私の脚に打衝(ぷつか)ったものがあったから で、一時はハッと飛び退きましたが、すぐにそ れが、首環を付けた白犬である事が判りまし た。暗い紺色の首環でしたから、閣下のイゴー ルだったのですよ。いや、それでなくても、二 度と覗く勇気が私には出なくなりましたので。 と云いますのは、ヘッダさんの笑声が続きなが らも、絶えず力を軍(こ)めて、ものを締めるよう な、低い男の稔り声が交りますし、それに、二 人の動作を考えますと、何となく唯事ならない 事態(ありさま)に思われて……、急に傑然(ぞつ)となると、もう 意気地なく私はその場に疎んでしまいました。 そんな事で、とうとう窺覗(のぞきみ)を断念したのです が、間もなく男女の笑声が不意に止んだので、 変に思って今度は、上の鍔扉に耳を付けまし た。すると、ヘッダさんが獺(ものう)そうに眩くのが聞 えたのですL 「フム」 「たしかそれは、ネーメーールーリーケ ーツークと云ったように覚えておりますが ……。それなり、室内からの物音は一切絶えて しまいました。で、葉砲兵司令がお出になった のは、それから直ぐの事ですが、しかし、ぞの 後の事は多分ご存知でいらっしゃいましょう。 とにかく、こういった所が、昨夜私が経験した 全部でございます。それ以外には、二時の交代 前に気が付いて、掃出窓の鎧扉を旧通りに締め た位の事でして……」 「では、君が戸外で見たのは葉だけかね」 「ハイ」 「交代後は真直ぐに宿舎へ帰ったのか?」 「いえ、ヤソシソ軍医殿のお云い付けで磨きま した靴を、地下室に降りる階段のロヘ置いて、 それから屯舎へ戻りましたのです。あそこが ちょうどあの方の室の直ぐ前ですから」  鄭の陳述を聞き、彼と問答を重ねているうち に、ザロフは両掌を固く握り締めて、ひどく不 規則な呼吸を続けていたが、いよいよ彼が長後 の質問に入った事は、その顔色で窺われた。 「所で、君がその男の服装を、薄い藍色と見た のは間違いないだろうね」 「間違える所か、とても鮮かな色でして」 「その男の姿を見たのは? 時間にすると?」 「それこそ、ホソの一瞬間で、土塁の銃眼孔か ら、走る馬の脚を見るようなものでした」 「では、君が掃出窓から眼を離して、それから 僕のイゴールが見える迄の時間は?」 「身体を一廻転(ひレまわり)廻しただけですが、暗い中でも 白い色と首輪だけは、明瞭眼(はつきりめ)に映りましたん で、尤も、犬はすぐいなくなりましたが」 「兎に角」鵬がいった。「性質は判然とせんが、 二人の争いは相当激しかったと見えるね」 「ウソ、周囲にぶつかる家具はないし、絨織で は物音が立たんよ」ザロフは鵬の説に頷いてか ら、鄭に口止を誓わせて立ち去らせた。 「とうとう、君のバベルの塔が崩れてしまった ね。しかし、犯人の定義が決っただけでも、 却って楽になったよ」と鵬がほくそ笑むのを、 「そりゃいう迄もない事さlI戦争ルソペソの 吾々に、下着のかけ代えが乏しい事はね。だ が、淡藍色(ライト プル )の寝衣(パジヤマ)という段になると、さしずめ ヤンシンを除いた四人が容疑者の筆頭になって しまうぜ。君は厭がって着ないので、忘れたか も知らんが、巫嶺関(ふりようかん)の戦闘で、ドイツ人顧問の 所持品を分配したのを覚えているだろう。あの 時お裾分に預かった連中は、とにかく運命なん だよLとザロフは皮肉にいって、長椅子ヘゴロ リと横になった。そして、 「だけど鵬君、とうとう僕が一番怖れていたも のがやって来たんだ。この事件がいよいよ密室 の殺人という事になると、風琴(オルガン)の挽歌と甘酸っ ぱい花粉の香に浸って、笑いながら死んでいっ たヘッダよりかも、僕等の方が遙かに恐怖を覚 えるじゃないか」と半ば絶望的に眩いた。  その日の昼の食卓には、ザロフ、鵬の二人と ローレル夫人が参加したのみだった。ザロフが 午前中の経過を縷々夫人に話すと、 「では、これは如何(いかが)?」といって、夫人はチー ズで白布の上に、次の様な公式を書いた。 「Xが淡藍色(ライト ブル )の寝衣(パジャマ)ですね」鵬は苦笑した。  ザロフはしばし黙考を凝らしていたが、突然(いきなリ)、 「成程」と叫んで莞爾(にニつ)とした。が、それと同時 に彼は、まだ一度も経験した事のない不思議な 戦傑に襲われた1怖るべき諭争者H 5 石鹸(シヤポン)泡の膜  その夜、夫人の書斎にザロフと鵬が加って、 ヤソシンは三人に解剖の結果を報告した。 「蒐集(あっえ)めた指紋からも結局得る所がなかったそ うですが、私の鑑定もそれと同じ事で、やはり 自然死以外のものを、医学的に証明する事が出 来ませんでした。死因は確実に心臓麻痺です。 唯、血管に腫脹が見られますが、多量の酒精分(アルコ ル) を摂取しておる屍体には、結局大した価値があ るものではありません。また、全体の粘膜部に も毒物を使用した痕跡は見当りませんし、概し て毒死を証明する反応が、明確に現われて来ん のです。それから、声帯附近に粘膜が剥離した 部分があって、そこに少量の出血があるのです が、そういう現象は、過度の発声が連続した場 合に屡ζ起る事で、さのみ注目するには当らん だろうと思います。内臓にも、過去の病歴を証 明するものがあり衷せん。殊に心臓に就いて は、空気栓塞(せハ そく)まで調べましたが、この臓器が絶 命瞬前まで躍如たる活動を続けていた事は、全 然疑う余地がないのです。要するに、不可解な 死であると云う一言で、云い尽せましょう。自 然死を目的にした他殺-とでも云える変則な 場合が、もし有り得るとしたら、私はそれで ヘッダの死を解釈したいのです。しかし、それ 以上の想像は、医師の領域ではありません。私 は自分が見た真実以外の事には、一切ロを曝み たいのです。所で、最後に絶命推定時刻を申上 げますが、胃中残留物の消化状態から推して、 食後即ち午後六時から約五時間後、つまり昨夜 の十一時前後がそれに当るのです。これだけ が、本日の解剖から得た、唯一の収穫であると いえましょう」と講義(レクチユァ)めいたヤンシソの報告が 終ると、  ・ 「有難う。所でヤソシン君」とザロフがいっ た。「君は屍体の脾臓を調べたかね?」 「内臓には特別注意を払いましたが、どうして、 あんな特殊な臓器をお訊ねになるのです?」 「実は、途方図もない空想を描いてるんだよ。 りよう      血きさつ 遼代の古書に櫟殺という刑罰の事が記してなく ても、過度の笑いは稀に脾臓を破裂させるとい うじゃないか」 「ワッハハハ」鵬が突然無遠慮に笑い出した。 「君らしくもないぜ。大体、今時そんな悠長な 殺人をやる奴が、何処にあるもんかη」 「所が鵬さん」ヤンシソは半分出掛けた笑いを 急に引っ込めて、「それはあながち空疎な説と はいわれませんぜ。植物神経系に超過的な刺戟 を与えると、それが脾臓出血の原因になる事が あるんです。また笑いとか欠伸(オくび)とかには稀れに 心臓麻痒を伴う事がありますからね。だけど、 指揮官のいう脾臓の破裂というようなものにな ると、まず、そんな超意識的な笑いを起させる 方法を、吾々の経験中では判断できませんな。 また、それを緩漫な方法で進めて行くとするに は、何より永い間の禁獄などで、肉体を衰弱さ せる事が条件ですよ。所がヘッダは、健康な野 獣みたいな女です」 「しかし」ザロフは力のない咳をして、「無諭 それは鄭が目撃したと云う男女の姿態から判断 する事だが、櫟(くすぐ)るという以外に、あの笑声の見 当が附かんよαとにかく、他人の閥入(ちんにゆう)を防ぐの が目的だったろうが、咽喉の掻き傷だって、犯 人が櫟っているのを止めさせようとして、その 時誤って付けたのかも知れんね。勿論薬物的に 考えられぬでもない。けれども、それには一定 の設備が必要であって、その容積がああいう秘 密の侵入を許さんしね。それから、最後の1 心理的に笑いの幻覚を起させる方法となると、 もう完全に正確科学の領域を離れてしまうん だ。つまり巫妖術(ウイツチクラフト)だよ。そうすると、ヤンシ ソ君、スエーデンボルグみたいな天才でさえ、 それを考え詰めて、挙句にとうとう狂人になっ てしまったんだぜ」  スエーデンボルグー。夫人はこの名を胱惚(うつとり) と眩いたが、再び重大な暗示を投げた。 「ですけど、ザロフさん、この事件を陰微科学 に捧げてしまうのは、まだ時期が早過ぎます わ。密室と笑声と侵入者1とこの三つの疑問 は、一つの謎が、三様の異った形体(かたち)で現われて たるように思われるんですの」 「或はそうかも知れません」ザロフは明かに動 揺した。「それに、江が出ると直ぐ笑いが始っ たのですから、犯人がどうして江が出たのを 知ったかーそれも疑問の一つですがね」 「だが、動機だけで充分だH」鵬は結論をいう ように、テーブルをコツンと一つ叩いた。 「見給え、江と葉とー…、ヘッダを続って三角 関係がある。それから、ヘッダの事を兵団の癌 だと公言した人物が、確か一人いる筈だよ」  鄭が淡藍色(ライト プル )の寝衣(パジヤマ)を証言して以来、それを 持っている四人は、互いに相手を疑惑の眼で見 るようになった。が、遂に鵬が、それをズケリ と云ってしまったゆ 「成程」ザロフは皮肉な微笑を活べて、「けれ ども鵬君、僕は先刻君のいる前で、葉を罠にか けて口を割らせたっけね。あれを見ても、自白 に体って犯人を立証する事が、どんなに困難な 業(わざ)か、判らん筈はないと思うのだがねえ。動機 と殺人方法の概念だけで片付くような、この事 件はそんな単純なものじゃない」 「そうです」夫人もザロ.フに同意した。「犯人 が唱(うた)った音楽を、正確に音符で再現するので す。それ以外に、解決の方法はありません」  鵬はひどくテレ気味だったが、 「時に、ネメルリケックという言葉をご存知で すか?」と夫人に訊ねた。 「ネメルリケックですって17」夫人は暫く視線 を宙に揺っていたが、「多分ケネムリックの事 でしょう。ポーランドの伝説にある、縦(もみ)の樹の 梢に住むという妖婆(ウイツチ)です。鼻の大きな、額が狭 くて尖っている。そして頬が鞠みたいに膨れて いて:・…、聖(セント)ヨハネ祭の前夜に、夜鴉(よがらす)を嗜かせ て凶(わる)い兆(きざし)を伝えるというのですよ」 「すると、実に重大な発見です。その人相に当 る者の中に、犯人がいる訳ですからな」そう いって鵬は、指でテーブルに二つの人型を書 き、その一つを消した。  ヤソシンは少し驚いて鵬を見た。    } 「貴方は、私を犯人にするんですかー7 しか し、ヘッダは日頃私の事を、ピヨートルとかぺ ーチャとか呼んでいるのですから、もし私があ の女を殺そうとしたのでしたら、何も、そんな 迂遠な言葉でいう気遣いはないでしょう」 「成程、ヤソシソ君のいうのは正しい。所で -…」とザロフは突然素晴らしい話題を持ち出 した。「昼間夫人(おくさん)に暗示された事から、僕はヘッ ダを殺害した方法を発見したのだよ」  それから、一同の緊張した視線を浴びて、ザ ロフは語り出した。 「その出発点は、あの石鹸(シヤポン)泡の痕なんだがね。 それと同じものが、浴室との境から彼処迄の間 にないという事が、僕にこんな想像を起させた んだ。一つ前置を抜きにして並べて見よう……。 最初ヘッダが渇を訴えたのだ。笑いを猛烈に強 いられた後だから、それは当然だと云って差支 えあるまい。すると、犯人は水を取りに浴室へ 立っていって、そこで簡単な装置で発生する或 る有毒瓦斯(ガス)をカップの中に充し、その上に石鹸 の泡で蓋をしたのだ。それをもっと詳しく云う と、最初はカップを倒(さか)さにして、その中へ騰(のぼ)っ て来る瓦斯を入れ、それから石鹸の泡で下から 蓋をしてから、カップを通常の位置に戻したの だよ」 「空気より軽いって云うと、それは青化水素で すね」ヤンシンが口を挾んだ。 「そうだ。青化水素だよ。あれは空気より少し 軽いばかりでなく、発生させるのに大した設備 は要らないし、無論携帯する事もできるんだ。 で、そうすると、ヘッダは石鹸泡の膜を水面と 錯覚して、飲もうと顔を近附けたのだが、その 途端に呼息(き)が膜を破ってしまったのだ。そし て、衝撃(ショツク)をうけた瞬間、ケネムリックと叫"竹 その場に昏倒し、カップは手から落ちて、内部 の泡が絨鍛の上にあんな痕を残したーと云う のがヘッダの死の謎を解く方程式ではないだろ うかね。それに、極( こく)微量の青酸中毒は、その症 状が心臓麻痺と殆んど異わないし、また、窓外 にある種々な花粉の匂いが、此の場合恰好な偽 装迷彩(カムフ フ ジユ)だったのだ。でなければ、あの特異な臭 気が、一間(ひとま)を隔てた集合所で判らぬという筈は ないよ」 「成程、実は私もシアン化物を想像していたん ですが」ヤンシンが沈痛な顔で頷いた。  ザロフの顔は再び憂欝に弛(たる)んで来た。 「だが、それだけ判った所で、どうなるもん じゃない」と咳いた。 「つまり、事件の一部が、非常に変則な露われ 方をしたからですわ」夫人がいった。「一番底 にあって、この事件の謎と直接豚絡(かかわり)のない、純 粋の殺人理論だけが、最初に判ってしまったの ですよ。勿論それだけでは、もう此の上想像を 発展させる余地がありま,せん」 「全くそうです。あの石鹸(シヤポン)の泡は、犯人が僕等 の視覚の中へ残して行った、唯一のものなんで す。ですから夫人(おくさん)、これからの戦闘力は、とう とう空想だけになってしまいましたよ」とザロ フは力のない微笑を浸べたが、立ち上って、夫 人に現場の鍵を要求した。 「事件が落着する迄、あの室を当時の儘で保全 して置きたいのです。それに、まだ調査を完了 しておりませんから」 「でも、どうしてヘッダは、断末魔にケネム リックと叫んだのでしょう」ヤソシソは鍵を取 り次ぎながら、ザロフにいった。 「ちょっと防毒仮面(マスク)がケネムリックに似ている とは思わんかね」といって、ザロフは奥歯をギ シリと鳴らした。「所が、それを冠った奴は、 今でも僕の前を平気な顔で歩いているんだ」  その翌日から、夫人は終日読書に耽ってい て、松葉杖の音が殆んどきかれなかった。ザロ フは全然ヘッダの室から出なかった。時たま食 事を運ぶ下脾が扉を開けると、濠々たる莫(たぱこ)の煙 の中に、見るからに憔惇(やつ)れ果てたザロフが、ま るで影のようになって長椅子の上に横わってい た。所が、それから三日目の夜、彼は瓢然と夫 人の室に現われた、 「時に夫人(おくさん)、蜀楽院(しよくらくいん)に就いてご存知ですか」 「よくは存じませんけど」それでも夫人はザロ フに説明した。「寺といっても仏像が三体ある だけですが、とにかく、沼向うへ三哩(マイル)ばかり 行った所にある、日本寺なんですのり何でも、 大戦の一年程前に、四川(しせん)の奥へ金鉱を視察に 行つた、大戸倉(おおとくら)とか云う日本の百万長者が、帰 り途に彼処で、土匪のために殺されたんです。 それでその跡へ遺族の者が、追善に建てたとか 云われてますわ」  そして、詳しく道程(みちのり)を教えると、ザロフは ピヨコソと子供らしいお辞儀を一つして、その 儘何も云わずに行ってしまった。  所で、その翌日である。鵬とヤソシソが昼食 後の雑談を広間で交していると、何時の間にか 背後の椅子ヘザロフが坐り込んでいて、それ が、まるで魂の脱殻(ぬけがら)のように、二人の背中を キョトソと瞳(みつ)めている。二人が訴(いぷ)かって訊ねる と、それで漸っと意識が戻ったらしく、彼は 濁ρた光のない眼を挙げて、苦笑した。 「実はいま、あの晩とそっくりな出来事が起っ たんだ。あの室が再(ま)た、不思議な侵入者にやら れたんだよ」 「何だってη」鵬は驚いて飛び上った。「ヘッ ダの室に衛兵をつけたって事は、つい昨日君か ら聞いたばかりだぜ」 「そうなんだ。それにも拘らず、十時半頃から 今方迄の間に、僕が外出した隙をやられてし まったのさ。扉へ付けた兵も窓の外で張番させ たのも、二人共知らんと云うしね」 「すると、誰だね? 今度の被害者は」 「屍体はないんだ。その代り紛失ったものがあ る。君等は寝台(ベツド)の裾の方の床に、備忘録を兼ね たセルロイドの卓上暦が、落ちていたのを覚え ているだろう。あれが見えないのだ。所が、浴 槽の中にそれが焼き捨てられてある。日附数字 の個所(ところ)を上から突き砕いてあるが、丹念に剥が しながら数を調べてみると、三十一枚ある筈な のが三十枚しかない。夫人に訊くと、全部揃っ ていたというんだぜL 「残りの一枚が、犯人に必要だったって訳です な」ヤンシソは静かに唇を噛んだ。 「それもきっと、あの時表面に出ていた一枚に 相違ないよ。日附の字は忘れたけど、確か、あ れは黄色だと思ったがね」ザロフは忌々しそう に、キリキリ音を立てて歯噛みした。  そうなると彼等は、真昼間(まつびるま)幽霊を背後に感じ ているような、一種異様な恐怖に襲われた。と 同時にそれが、いいようのない侮辱であると 思った。1まるで風のように出没して鼻をあ かした犯人が、何処かの隅で無気味な横手を指 して、イヒヒヒと嘲笑している姿が、まざまざ と脳裡に活んで来るのだ。 「僕は、犯人が多分それを離すまいと思うよ」 鵬が頗る興味のある推定を云った。「というの は、苗族(びようぞく)にこういう迷信がある。犯行後現場に 再び忍び込んで、其処にある品物を何でも一つ だけ持ち去ると、犯罪は永久に発覚しないー と信じられてるんだよ。それから、黄色が彼奴(あいつ) 等の縁起色なんだがね」 「フム」ザロフは暫く考えた後で、「では、女 達に含ませて、兵士の着衣を一々秘密に探らせ て見よう。屈辱だが、もう止むを得んよ」 「すると、女共を集めて云うのかい?」 「いや、吾々五人が各自(めいめい)一人一人に当って、座 談的に伝えるのさ。それで報酬を条件にした ら、恐らく秘密の漏洩はないと思うね」  こうして、不思議な犯人の捜査区域が、俄然 館の内部から離れてしまった。と云うのは、ザ. ロフが示した時間に依って、今迄の関係者五人 全部に、各ζ完全な不在証明(アリバイ)が成立してしまっ たからである。  所がその翌日の午後、更に驚くべき出来事が 突発した。鄭が犯人を指摘したのである。  正三時の歩哨交代が済むと、鄭はザロフの室 に呼ばれて行ったが、}ての時ザロフは頗る不可 解な態度をとった。元来、少しも尊大癖のない 彼であるが、態(わざわざ)ζ鄭を呼んだにも拘らず、何時 になっても用件を切り出そうとしない。そし て、室の隅に情然突(しよんぽり)っ立っている鄭を忘れてし まったかのように、各ゝゝ地図の上でコンパスを 捻り廻している。また、一方の鄭は、これとい う落度を演じたおぼえがないので、こう妙に落 着がない存在になってしまったけれども、別に それを気に掛けるでもなく、ただ手持無沙汰の 余り、荘然(ぼんやり)窓外を眺めていた。その時刻頃は、 昨夜洞迷(どうめい)を夜襲した部隊の、ちょうど午睡時に 当っていたので、戦陣の日中には珍らしく、物 音の死んだ静けさだった。ジイッと幽かな耳鳴 がする。それを、聞き取れる程に、鄭は静寂(しじま)の 中へ沈んで行った。  さてこうしているうちに、毎日江の偵察機が 帰着する三時半になると、その日も時刻を違え ず、熊蜂の捻り声みたいな鈍い爆音が聞えて来 た。と、いきなり、鄭が血相を変えて喚き出し たのである。 「指揮官! あの男ですー!"薄い藍色の寝衣(パジヤマ)を 着て、ヘッダさんの室にいた……」  と、ザロフの右肱を固く握って、狂気のよう になった鄭は、慌てた唖(おし)みたいにググググと妙 な吃音を立てながら、窓外を指差すのだ。所 が、その時偶然であろうか、ノッソリ窓から首 を突き出したのが、白い支那服を着た鵬であっ た。が、ザロフはこんな切迫した事態にも拘ら ず、微笑を合んで鵬にいった。 「ねえ鵬君、今この窓の外を、右手から通った 者があるそうなんだが、君は見たかね?」 「だが、一体何者だい?」鵬は鶏鵡(おうむ)返しに問い 返した、「僕は今、妙にかんばしった声を聞い たので、それで引き返して来たんだが」 「それが、淡藍色( リイト ブル )の寝衣(パジいマ)を着た男だと、この鄭 がいうのさ。つまりヘッダの下手人だよ」 「痴呆(たわけ)H」鵬は真赤になって、鄭を睨み据え た。「いま此処を右から左へ通ったといえば、 俺より外にないぞ。その何処が藍色だ17」  何故だろう? 現実此の眼に、薄い藍色の服 が、ああも鮮やかな色で映ったのに……。早変 りーそんな気がチラとしただけで、鄭は昏迷 から脱け出す事が出来なかった。そして、何時 迄も放心した態で立ち辣んでいた、 6 暗号と心理試験 「実は、今迄も今日みたいな条件(コンデイシヨン)を狙ってい たのだがねえ。偵察機が帰着する三時半前後 が、大部隊の午睡で森閑としてるなんて、全く 願ってもない機会(チヤンス)なんだ。それで、兼々気に なっていた実験を、罪な話だけど、やってみる 気になったのだよ」ザロフは、鵬の冗奮が鎮ま るのを待って口を切った。 「罪な実験って17 それでは、君が鄭にあんな 事をいわせたのか?」 「そうじゃないよ。マァ終りまで聞き給え。と 云うのは、多分君は気付かなかったろうが、鄭 のあの日の陳述の中に、一個所致命的な矛盾が あったのだ。君も知っての通り、鄭は、自分の ,網膜に淡藍色(ライト プル )が映ったのは、殆んど瞬間に近い 時間だといったね。それを分析したからこそ、 僕に実験の必要が起ったのだよ。で、鄭の眼に 映った時間を測定してみると、通例十一秒以内 で走る百米走者の一米の差は、約十分の一秒な んだから、極く充分に見積って、仮りに五分の 一秒としよう。所が、藍のような色彩光覚は、 五分の一秒では人間の網膜に飽和した色覚を残 さないんだよ。つまり、鄭の所謂(いわゆる)鮮かな色とい うのを、見る事が不可能なんだ。また、それか ら鄭は、淡藍色を明るい場所で見てから間もな く、僕のイゴールの混り気なしの白を、明瞭(はつきり)知 覚しているのだから、光度の強い色彩から起る 残像がないというのも、これも亦、頗る不可解 な話じゃないか。けれども鵬君、あの善良な海 南島の男は、決して嘘をいっちゃいない。実 際、見た通りの真実を僕等に話したんだぜ。す ると、その時間では全然飽和の不可能な色を、 鄭はどうして見たか?-1という事になる ねL 「まず、訂正は不可能だろうと思うが」 「所が、その解決が或る一つの法則に繋がって いる。で、それを鄭が証明するか否か-トが問 題なんだよ。全く人間の世界では、これ以外に は絶対ないのだが……、万一成功すれば、残像 の疑問も同時に解消してしまうのだ。けれど も、それが千万に一つ、いやそれ以上稀薄な存 在を狙わなけりゃならんのでね。だから、幸い こうして、鄭が証明して呉れたからいいような ものの、僕は実験の結果を見る迄は、てんで毛 筋程の期待さえ持っていなかったよ。所で、そ れは、フエッヒナー等の所謂(いわゆる)幻覚的聴覚色感な んだ」 「たしか」鵬はすかさずいった。「音を聞いて 色感を催すという、変態心理現象があったね」 「ウンそうだ。脳髄の中の一つの中枢にうけた 刺戟が、他の中枢に滲み込んで行くからだよ」 とザロフは軽く頷いたが、「けれども極く稀れ に、そういう共感現象で色感の幽霊を躍らす人 物が出て来るんだ。それには、物音のない静か な環境と音響が単音の場合1とこう二つの条 件が、僕の今云った不思議な脳髄に揃わなけれ ばならんのだが……、そうすると、無形の情緒 だけだった色感が、明瞭(ばつきり)と外形化される。そし て、その幻像が不規則な塊や幾何学的な輪郭 で、網膜に映って来るのだ。所が鵬君、僕の実 験で、そういう心の、遅羅(シヤム)兄弟が(二人一体の 崎形双生児)、鄭の脳髄から見事摘出されたん だよ」 「フム、それで」 「すると、鄭の視覚に起った矛盾は云う迄もな い。勿論、捻声i色感の幻像となった時に、 寝衣(パジヤマ)の背が眼に映ったからだが・…-、その時偶 然にも、.重なり合った二つの輪郭が殆んど符号 した事は、結果から見ても明らかじゃないか。 それから、色感に現われる色は、主に幼ない時 からの情緒聯想が多い。だから、潮鳴りに似た. 音響で淡藍色が現われたのは、鄭の海南島時代 に原因があると思うね」 「しかし、残像の疑闇は?」 「所が、聴覚色感の幻像は、残像にも対比にも …-ありと凡(あら)ゆる光覚上の約束に束縛されない んだぜ。だから、あの時も残像に妨げられず、 犬を見分ける事が出来たのだよ」 「成程、それで今度は、その音響が偵察機の爆 音だったって訳だね」鵬は卒直に頷いたが、 「すると、鄭の見た色が幻覚だとなると、真実(ほんと) の色は一体何だったのだろうか?」 「それは絶対に判らん」ザロフは無造作に頸を 振ったが、「ただ、それが白か、或は殆んど白 に近い淡彩のものだという事だけは、断言して もいいね。と云うのが、イゴールの首輪なんだ よ。実をいうと、後で調べた事だが、あの晩イ 、コールは終夜(よつぴて)繋がれていたんだ。つまり、鄭が 見たのは、恰好がよく似た白い野良犬だったの だ。首輪をつけた犬といえばこんな辺郡な所で は、恐らくイゴールの外にはあるまいよ。にも 拘らず、どうして鄭は有りもしない首輪を見た のだろうか?1そこに、寝衣(パジヤマ)の色を幾分判ら せた理由が潜んでいるんだ。……で、それと云う のは、寝衣(パジヤマ)の何処かに幻像と符合しない部分が、 細い帯状で残っていたからで、その残像が偶然 白い犬の頸に落ちたからだよ。恐らく、その部 分に鄭の注意が及ばなかったのだろうが、残像 だけは絶対に正直なんだぜ。それに、元来残像 と云うものは、最初は原色と同じだけど、間も なくその補色に変る性質を持っている。つまり 「紫と緑」「青と燈(だいだし)」という具合に、混ぜると 灰色になる正反対の色に変ってしまうんだ。だ から、鄭が犬を見る迄には、充分補色に変って いたのだから、寝衣(パジヤマ)の真実の色は、それを裏返 しにすればいい訳だろう。それで、白か淡黄と いう解答が出て来るんだよ」 「成程、素晴らしい明察だが」と云って、鵬は 眩惑を退ける様な強い表情をした。「しかし、 事件の展開にはもう何の役にも立たんよ。現在(いま) になって、古証文の計算違いを正した所で、肝 腎の淡藍色(ライト プル )に関係のある僕等は、昨日で容疑者 の圏内から離れてしまったんだぜ」  その時、ザロフの唇が綻んで傍若無人な笑い が奔り出した。彼は顔を餐(しか)めながら、 「君、あれを本気にしているのかい"」  「なに」瞬間に嘲弄されたのを覚って、鵬は半 分怒りを交ぜた表情で相手を見た。  「何(いず)れ、犯人でなかった人達には謝罪する積り だが、実は、あれが僕の仕掛(トリツク)だったのだ。実際 云うと、卓上暦は一枚も盗まれてやしない」し、 浴槽の中で焼き捨てたのも、僕の仕業なんだ よ」ザロフはすぐケロリとなっていった。「所 で、僕があんな真似をした理由を云うと、それ は、犯人の推定を、全然反対の角度(アングル)から確めよ うとしたのだ。つまり窮余の一策だよー。た とえば、鄭に行った実験が成功した所で、それ だけでは、ただ歪みを矯めて白紙に還元(もど)しただ けの話だろう。到底あの神変不思議な犯人を、 影の匂いさえ抑える事が出来やしない。だか ら、僕は思い切って奇道を選んだ"H僕自身は 故意(わざ)と忘れたといったけれども君達四人はあの 卓上暦を何度か見ているのだから、開かれてい た一枚の日附数字を記憶しているだろう。しか し、その中には忘却もあるだろうし、無論正確 さは保証の限りでない。いや、人間の記憶なん て一致しないのが当然なんだよ。で、そこを 狙って僕が試みたと云うのは、君達四人が各自(めいめい) 女達にいった日附数字の中から、犯人でなけれ ば見る事の出来ない、数字の横顔(プロフイル)を発見しよう としたのだ」 「平面な数字に横顔は少し変じゃないか」 「いや、僕が蒐めたものを見れば判るよ。君と 夫人は唯黄色いセルロイド紙といっただ甘だ が、江はn、葉は24という数字を口にした。所 が、8といったのがヤンシンなんだ。これだよ 鵬君、数字の横顔というやつはロ」 「……」鵬は吃驚して莫を取り落した。 「それはこう云う訳なんだ」ザロフは息も吐か ず続けた。「君も知っての通り、あの卓上暦は 寝台の裾の方の床に落ちていたのだから、誰で もそれを傭鰍した姿勢で見たに相違ない。そう すれば、この正確な記憶は飽くまで3でなけれ ばならない。しかし、そんな超人的な記憶は到 底望まれない話なんだから、今度は、それに想 像や聯想が働いた場合を考える。すると、夫人 が室をヘッダに渡したのがU日だし、ヘッグが 死んだ夜が24日だから、江と葉の場合はそれに 該当するものと見て差支えあるまい。所が、ヤ ソシソが8と云ったに就いては、頗る疑念を挾 む余地がある……。ねえ鵬君、鄭の目撃談で、 男女とも寝台と斜(はす)かいに横臥(よこたわ)って窓の方を頭に していた事が判った筈だ。すると、その位置か ら落ちていた卓上暦を眺めたとしたら、3の字 の左側の切れた個所(ところ)が視野から外れて、恐らく 8に見えやしないかと思うのだがねえ。いや、 そう見えるのが、最も自然だと僕は信じてる よ。それも、たとい犯罪行為であるにしろ、櫟 るというような、至極ユーモラスな動作を行っ ていた時の事だから、卓上暦に眼を止める位な 余裕(くすぐゆとり)は無論あったろう!……、また、場合が場 合だけに、その数字の記憶は、焼印を押された も同様だったろう。それで、まず虚偽の不在証 明(アリパイ)を僕の方から作って置いて、一先ず君等を安, 心させて置き、その虚を衝いて、こういった心 理試験を行ったのだよ」 「成程……、だが、此処に重大な反証があるー-こ 鵬は椅子をグイと進めて、「ヤソシソの寝衣(パジヤマ)は、 細太で荒目の白い縞物なんだぜ」 「それなら闇題はない。第一、眩輝(ハレ シヨン)が考えら れるね。また、徽臭い探偵小説の技巧(テクニツク)だよ。鎧 扉の水平になった桟が、太い縞と一致する事も あるだろう。そうしたら鵬君、一体何が見える かね」とザロフが凱歌を挙げた時、扉の外に、 慌ただしく去って行く建音が起った。鵬が矢庭 に立って扉を開いたが、廊下には人影もない。 が、それから僅かな分秒が過ぎると、何処かで パーソと銃声が轟(とどろ)いた。と、注が飛行服(コンピネ シヨン)の儘 で飛び込んで来た。 「ヤソシソが自殺を……、夫人の室です」  現場には顔色を土器(かわらけ)色に変じた夫人が、それ でも冷然と突っ立っている側に、左の轟額(ニめかみ)に無 残な弾痕を現わしたヤンシソが、椅子の中ヘク タクタに崩れ落ち、顔面には臨終の痙簗が起っ ている。夫人は鋭い語気でいった。 「ザロフさん、あなた何か、ヤソシンを陥穽に かけましたね。今も突然飛び込んで来て、自分 が犯人でない事を貴方に告げて呉れーと云う が早いか、この体(てい)たらくです」 「何もかも晩に……」ザロフは明るい顔でいっ た。「その時、一切の解決が付くのです」  その夜は、日没頃から風向きが変って気温が 下り、沼の方から濠々たる濃霧(ガス)が襲って来た。 それは、夫人の室の扉を開いたザロフの姿が暫 く見えなかった程に、猛烈を極めた。しかし、 その夜のザロフは平素と異って、全身に凄槍な 気力が涙っていた。彼は挨拶もそこそこに切り 出して、まず、自分が試みた心理試験の結果を 話し、さてそれから、 「……無論確証という訳でもなく、また、ヤソ シンの記憶上の錯誤と僕の想像とが、偶然一致 したのかも知れませんが、仮りにもヤソシンに 不幸な暗合が現われたからには、それを飽く衷 で追及しなければなりません。で、ヤソシソが 自殺したので、貴女にお訊ねするより外に、方 法がなくなったのですが、あの室には確か、秘 密の通路がある筈ですね」 「秘密の通路ロ」夫人は驚いて叫んだ。「そん なものを、.マアどうして……私が」 「その第一が、あの室の扉にある曼陀羅華(マンドラゴ ラ)の浮 き彫りです」ザロフの態度は、まるで仮髪(かつら)をつ けた法官のように厳粛を極めていた。「何故あ んな不吉な花をつけたのでしょうか。ご存知の 通りあの植物はアトロピン類似の毒草で、この 国では狼毒(ろうどく)といわれてますし、またドイツで は、絞首台に吊された罪人が漏らす尿や精液か ら、生え出すといわれてるんです。で、それが 取りも直さず、あの室にある何物かを暗示して るんじゃないか1私にはこう思われるんです が……。それから、こんな僻地に住む外国人な ら、何より土匪の危険を考える筈ですがね---。 それで夫人(おくさん)、この二つが私に妙な使喉を起して 来るのですよ。でなくても、根本の理由と云う のが、この事件の発生形式です。あの不思議な 侵入は、奇蹟でさえなければ、結局隠扉で解決 するより外にありません。尤も、周囲(ぐるり)の反響は 調べましたが、それだけでは到底脇に落ちない のです」 「すると、御自分の敗北がお判りになったので すね」夫人は皮肉な微笑を潭べた。「苦しくな ると、よくそんな妄想が出るものですわ」 「では、あなたがどうしても知っていなくては ならぬと云う、証拠を御覧に入れましょう」ザ ロフは狡猜そうに笑って、衣袋(ポケツト)から一葉の写真 を取り出した。それには、三十恰好で人品の余 り良くない、エストニア辺りの農婦らしい服 装(り)の女が、一人の幼女を膝に抱いて映(うつ)ってい た。その裏には、イルマ・オルンドラーケ・キ ヴイ(一『ヨ四〇ヨα声9の〇三乏)と認められて ある。多分此の婦人の名であろう。 「何ですのη」夫人は何気なくいったが、妙に 引き歪んだ笑いが片頬に活(うか)び上って来た。 「貴方から拝借した経文の断片が、こんな碕形 児を生んだのです。あれは、案に相違せず暗号 でしたよ。そして、この写真にもまた、秘密な 解釈が含まれているのです」 「誰ですか? こんな女の方は私知りません」 夫人の声に嘲弄するような響が軍(こも)っていた。 が、「けれども、どうしてこれをお手に……」 「それには、暗号の解読から始めねばなりませ んが」ザロフは例の経文を取り出して卓上に載 せ、掌でゴシゴシ鐵を延ばしながら、 「これは、仏説観無量寿経の一句ですが、原文 とは少々異なって、≡二加筆した個所がありま す。しかし大体に於て、逝った教授は、この文 章が自然の儘の暗号であるのに、気付かれたの でしょう。つまり、作った暗号と云うよりも、 本質的に発見した暗号だと云えるのです。所で 管(くだくだ)々しい苦心談は抜きにして、早速解読してみ ますと、こういう具合に解けて行くのですよL そして、ザロフは一字一字を次のように朱線で 消して行った。   仏手一。浄指端ーチ嚢林蓋オ情   ㎡月如印洛。ノη乙胤君λ7角ア色。 「まず見た所では、同じような数字が二様にあ るので、それにどうしても惑わされ勝ちです が、こうして同字を全部消してしまうと、後は 音読にちょっとした苦心が要るだけです。それ で、残った文字は、    仏手一浄梵情如印洛色。 となりますが、それを音読の同じ文字に置き換 え、それから、「手一」と云う二字を一つに合 わせて「生」に造り上げてしまうと、結局次の 様になるのです。    仏生上品上 如 院楽蜀  すると、それを逆さに読めば、その上に、 「蜀楽院」と「上品上生仏」という二つの固有 名詞が発見されましょう。つまり、この写真 は、蜀楽院にある三体の仏像のうちで、上品上 生という蒙額が掛っている一つが……、仏手一 とある通り、その開いた方の掌の中に持ってい たのです」と暗号の解読が終ったにも拘らず、 ザロフは間を置かずにいい続けた。 「そこで私は、このキヴイと署名のある写真を 見た瞬間に、これは二重暗号ではないかと考え たのです。いわゆる子持ち暗号というやつで、 暗号の中からまた一つの暗号が糖び拙けいラ忙い う仕組なんですよ。何故なら、ζヨ臼○ヨ号9ま 〇三(キヴイ)乏と云うバルト的な名から、私は奇妙な発 見をしました。と云うのは、それが、四つの花 の名から成立しているからです。即ち、ヘッダ の室とその周囲にある四つの室の扉に彫られて あるー-、便所の一蓼(アイリス)(燕子花(かきつばた))、集合所の オーチツド             ァイヴイ  つ   た ○言三〇(蘭)、空室の一ξ(常春藤)、ヘッダの 室の目(マン)⑳己(ドレキク)βき(曼陀羅華(マンドラゴ ラ))1と以上の四つ なんです。それで、此れを解剖して見れば、私 が眼を蹴った理由がお判りになりましょう。実 に、こうなってしまヶのです。   岸塁○≡年・争Φ9揮   蒸十計 測計翻徽   轟   轟蝋粛  けれども、私は折角其処まで辿り付いて、行 き詰らねばなりませんでした。単純に考えただ けでも、文字が半分しかないのや、二つに分割 されているのや、また、その上後尾を欠いてい るの欝が、一体何を意味しているのだか1薩 張り見当が附きません。まして、それを図面的 に配置して見た所で、四つの室の間に帰結点が 見付かろう道理がないので、とうとう匙(さじ)を投げ てしまいましたよ。しかし、それが暗号である 事だけは、毛頭も疑う気になれません。…-・そ れで夫人! 僕にこういう無躾(ぷしつけ)な想像が起って 来たのですーたといあなたが暗号の事は知ら なくとも、その解答だけはとうに御存知の筈だ LiとL 「マア、滑稽なお伽噺(とぎぱなし)ですこと。その名は三つ とも、フィソラソドやエストニア辺には有る事 ですわ」夫人はおかしさを耐えるように、顔を 餐(しカ)めて云ったが、「でも、そう迄仰言(おつしや)るのは、 満更単純な想像だけではございますまいね」 「勿論です。それに就いてお訊ねしますが、先 夜貴女は、地下室の釜場(ポイラ ぱ)にある風琴(オルガン)で、マー ラーの『子供の死の歌』を弾いておいででした ね。その時二三回目辺りから、何故符表を無視 した弾き方をなさったのです?」 コ人の手を取って、教えながら弾いたからで すわ。他人の手を握ってやる事ですから、自分 の思うようには参りません。ですけど、何故そ んな事をお訊ねになるんです?L 「思い切って露骨(あけすけ)にいいましょう」ザロフは乾 いた唇をペロリと嘗めて、指先を神経的に傑わ せた。「無論お怒りになられても止むを得ませ んが、貴女が速度(テンポ)記号を全然度外視したという のは、それが一種の音響通信だからです"" つ まり、ヤンシンと貴女との間に、ヘッダの殺害 に就いてあらかじめ打ち合わせが済んでいたの です。それでヤンシンは室の位置が一番近いの を利用して、貴女から送られる音響信号を聞き 取って、そうして、ヘッダの室から江が出たの を知ったのでしょう」 「マア、何というロ」夫人は呆れたような深い 溜息を吐いたが、冷やかに相手の顔を見た。 「全くあなたは、今夜頭の調子がどうかしてい らっしゃいますわ。初めて、八仙塞の濃霧(ガス)に 逢ったというお話でしたが、あれは、そんな有 毒なものではございません。たしか、負担が余 り重過ぎるので、それから起った自家中毒の所(せ) 以でしょう。とにかく、冷静に私の云うのをお 聞き下さい。で、何より最初に申し上げたいの は、ヘッダもヤンシンもつい十日許り前には、 全然路傍の人だったと云う事です。そして、あ の二人と私は、何れ何日かの後には、また旧の 関係に戻らねばならない運命にあるのです。そ う云う風の気紛れで偶然一所に集ったような人 間同志の間に、どうして殺人の動機が生れま しょうη それからザロフさん、貴方はありも しない秘密の通路を持ち出して、とうとう密室 に卑怯な眼隠しをなさってしまったのね。一体 あの笑声の謎は、どうお解けになりまして、そ の二つをもっともっと苦しんで解決なさろうと せずに、安易(イ ジ )な奇道を選んだーそれがいけな かったのです。ヤンシンを破滅させて、部分的 には成功したでしょうが、今夜の事は、余りに 童話染みた独断です。つまり、其処までが貴方 の極限(マキシマム)なんでしょう。けれども最初のうち貴方 が街学的(ペダンテイツク)な推論を振り廻していた頃には、もし やという期待がしないでもなかったのです。そ れで、二三ご注意した事もありましたが、ヤソ シソを犯人に陥れた事が判ると、私は失望のあ まり、力が抜け果てた気が致しました。ねえザ ロフさん、あんな野蛮な判断とひどいトリック が効果のあったのは、そりゃ、宗教裁判前期の 事ですわ。尤も責任上解決の形式だけは纏めな ければならない貴方の立場は、私に㌔ようく 判っておりますの。けれどもそういう気持より かも、犯人に征服された間の悪さを隠そうとし て、何とか恰好な遁辞(いいのがれ)を作ろうという方が、現 在の貴方には多いのではございませんか。ね え、たしか当ったでしょうη」  遂に攻守顛、倒した。ザロフは真蒼になって、 顧える唇をかみしめていたが、夫人は弄(もてあそ)んで いたペン軸をポソと掘り出して、 「つまり、程を越えた火遊びをなさったからで すわ。ヘッダを自然死の儘でそっとしておけ ば、万一にもお負傷(けが)はなかったでしょうがね。 無論、これから先は私の領域に違いありません けど、こう云う時機の来るのが、私にはとうか ら判っていたのです。そこで、昼間貴方が仰 言(おつしや)った言葉を、もう一,度繰り返しましょう。何 もかも明日ーになりましたわ」といい放って から、指頭を扉に向けて、 「もうお寝みになったら、ザロフさん」  そうして、遂に最終の解決が到来した。 7 種の悲劇 翌日の正午頃、占領した洞迷の屯舎にザロフ が着くと、鄭はあちらで渡してくれと夫人から 頼まれたー!といって、ザロフに一通の封書を 手渡した。封を切った瞬間彼はクラクラとよろ めいた。実にその紙片からは、完全犯罪を宣言 する妖気の咲笑が響いて来たのである。彼に とって、生れて最初(はじめて)の敗北だった。  ザロフ様  昨夜は女だてらにない思い切った事を申し上 げて、さぞかしお怒りでございましたでしょ う。けれども、私の吐いた大言壮語には、あな がち根拠がない訳でもないのです。私が必ず解 決して見せると豪語したのは、どんな阿呆でも 自分のした事に解らぬ事がない通りで、実は ヘッダの下手人が、この私だったからです。し かし、余り判り切った理窟というものは、却っ て見付からないものです。また、たとい気付か れたにしても、私には何の恐れる必要もありま せん。何故なら、私のなし遂げた犯罪は、貴方 には夢想さえ出来ない、殺人史上空前の新形式 だからですりでは筆を追うて、私の犯罪が如何 にして行われたか、また、それが如何なる動機 に依るか、1簡単に書き記す事に致しましょ ・つo 実を申しますと、私が地下室の調子の狂った 風琴(オルガン)で弾いた、マーラーの「子供の死の歌」 は、ヘッダに饅(はなむ)けた悲痛な挽歌であったと同時 に、恐怖すべき殺人具だったのです。と云った のみでは、到底お判りになりますまい。或は、 音が人を殺すとでも考えて、殺人音波の類をご 想像でしょうが、事実は、極く簡単な装置で風 琴(ガン)から飛び出した道化師が、ヘッダを殺したの です。また、笑わせもしました。  まず、風琴(オルガン)の最低音に当る二つの管(パイプ)に、芝生 で使う四つ股の護護布管(ゴムホ ス)を取付けて、これを、 浴室に通ずる送湯管と連絡させました。それか ら、残った二つの支管は、風琴(オルガン)の内部に隠して おいた、ある二つの装置に連なっていたので す。その一つは第一酸化窒素即ち催笑瓦斯(ラフイングガス)、も う一つは青化水素の発生装置でした。大体、こ の二つの瓦斯はすこぶる簡単な装置で発生する ものでして、青化水素はご承知の通り、催笑瓦 斯は硫酸アソモニウムとチリー硝石の混合物 に、熱を加えればよいのです。そして、これ等 の仕掛のうちで外側へ露出する部分には、布類 や雑家具等を使って、全部巧妙に隠蔽しておき ました。  所で、私はそれをどう扱ったかと云うと、ま ず毎夜の例にかこつけて下碑(げじよ)を遣り、あの室の 様子をそれとなく探らせましたが、果してヘッ ダは泥酔しているし、注さんがちょうどいま室 を出たと云うので、いよいよ犯行の第一階梯を ふむ事になりました。それで手始めが、催笑瓦 斯の発生装置に、あらかじめ点火して置いたア ルコールラソプを近付ける事でしたが、それは 前以って距離を定めておいた糸を、足で引いて 難なく成功しました。そして、一人の女の手を 持って、譜表(スコア)の符号を押しながら、秘かに片方 の手で、催笑瓦斯に当る鍵(キイ)を押して、笑わせる 気体を押し出したのです。つまり、蹟板(ペタル)と鍵が ポンプの役をつとめた訳ですが、ここで是非見 逃してはならぬ事は、風琴(オルガン)の弁から金属管、そ れから布管(ホ ス)から浴槽迄の長い道程が、一本の長 い管(パイプ)に化してしまった事です。即ち弁によって 発生した音響は、はるばる浴槽迄行って其処の 壊れた捻栓(ねじ)を通り、かなり低い位置につけられ た蛇口の端に至って、そこで始めて、催笑瓦斯 を放出すると共に、その鍵(キイ)に定められた音響を 発したのです。従って、私が余計に一つ押して いる鍵の音は、周囲の女達には絶対に聞えませ ん。と、そこまで云えば、成程と合点がいった でしょう。ヘッダの狂笑の原因も……。それか ら、ウフフと聞えた男の含み笑いも11それが 実に、速く小刻みに押している低音鍵(キイ)の風琴(オルガン)の 音である事が。  さてこうして、浴槽の水面より低い蛇口か ら、断続的に這い出して来る催笑瓦斯は、空気 より重いので、忽ち水面ヘブクブク浮んで来 て、そこに溜ってしまう。それが後から後から と起る送気のために、床上に吹き落されて拡散 を始め、遂にあの狂笑を起させたのですが、そ れはいわば犯行の予備行為であって、いよいよ 最後の止めを刺さねばなりません。  私はまず、風琴(オルガン)の調子を直すと云って、内部 に上半身を差入れて、用意のマスクを簸(は)め、密 閉した装置の中で青化水素を発生させました。 あの空気より軽い気体は、見る見る管(パイプ)の中への ぼって行きます。そこで今度は、それに当る鍵(キイ) を極く緩やかに長く、次に、不用になった催笑 瓦斯の鍵をそれより幾分短か目に強く押して ーそれが例の捻り声に当るのですが、音と瓦 斯をかわるがわるに送りました。所で、今度は 何故緩長音を用いたかと云うに、それ菰い湘槽に 残った石鹸水から、青化水素によって石鹸玉を 作りたかったからです。と云うのは、無益なし かも場合によれば、事前発覚のおそれがある散 逸を防ぐのと……、僅少な量で一郷粉砕の効果 を挙げるために、ヘッダの鼻粘膜に触れる迄は 外気から遮断して置きたいのと・…-、もう一つ、 自由な浮動性を与えたいからでした。また、男 の含み笑いと稔り声の擬音を起したので、もう 効果は充分とも思われましたが、尚念のために 侵入者の存在を、ヘッダの声で確実にしたかっ たからです。何故なら、管(パイプ)の切断面積に比例し て、相当大きな石鹸玉が出来る筈ですから、そ の一つが稔り声の風に煽られて、ヘッダの眼前 に転って行った時、ヘッダの酔眼は球面に映っ た自分の顔を見て、必ずや錯覚を起すに違いあ りません。そして、何事か叫ばずにはいられな いでしょう。案の定ケネムリックという、球形 の顔をした妖姿(ウイツチ)の名で現われたのです。  で、万事筋書通りに運ばれました。果して青 化水素の石鹸玉は、ヘッダが驚いたはずみの強 い呼肝で膜を破られて、屍体とあの石鹸泡の跡 を床に残したのでした。無論それ牝は、絨椴の 繊毛とヘッダの石欝馨癖とが、与かって力 あったのですが、松樹脂を釜の中に投入した事 も、構成要素の一つだったのです。  完全犯罪1それはいう迄もありません。 が、一面観賞的に見えても、充分芸術(ヘヘヘ)として(ヘヘヘ)の 最高(ヘヘヘ)の殺人(ヘヘ)といえるでしょう。人を殺す歌謡曲 ・…:何と女性らしい、切々たる余韻をお聞き取 り下さい。しかも、それと同時に、完全無欠な 不在証明(リ ドアリパイ)を作ったばかりでなく、超自然的な侵 入者の存在を確認させて、事件を迷路に導いた のでした。所でこう判ると、鄭が目撃した侵入 者の本体が自(おの)ずと明らかになります。無論ヘッ ダの一人二役に相違ないのですが、原因もちょ うど写絵(うつしえ)の一捻りと同じ事で、その結果、男女 入れ代りと云う錯覚が現われたに過ぎません。 つまり、表面に出ていた、まだ色感の幻像が現 われない間のヘッダが、突然動いて裏返しにな ると、今度の異った輪郭に、幻像が偶然符合し てしまったからです。それでも貴方が、聴覚色. 感幻像から一歩も踏み出す事が出来なかったの は、ケネムリックと云う擬人的な言葉と男声の 擬音とが、やはり、越ゆべからざる障壁だった. のですね。  さて、続いて犯罪動機に移りますが……。動 機に於いても此の事件は、恐らく犯罪史上に類 を見出す事は出来ないでしょう。或は、十年後 の社会では、犯罪でなくなるかも知れません。 と云うのは、一つの神聖な理想が法の将を越え て実現されたからで、それは、人種改良学(ユ ぞニツクス)なの です。永遠に救う事の出来ない種は絶滅させね ばならぬー-こういう信仰が、私のみならず良 心的な医学者の胸には、一様に火の如く燃えて いるのです。例えば、合衆国のジューク一族、 イシュマエル一族、シチリアのツイオマラーノ 一族の如き、犯罪、乱酒、怠惰、乱淫、自漬的 貧困、悪性神経病等の悪徳を代々伝える血統に は、是非にも外科手術による去勢を叫ばずには いられません。  するとザロフさん。  ポーランドのジューク一族であるミユヘレッ ツエ一族の最後の一人が、偶然私の前に現われ たのです1云う迄もなくヘッダでした。しか し、最初のうちは毫(すこし)も積極的な意志がなかった のですが、ふとあの女を診察する機会があっ て、その時私は忌むべき妊孕力を見ました。売 笑生活にも拘らず、性交が頻繁でないのと防毒 が完全なために、健全な人妻と異ならない旺盛 な細胞が、生きた小魚のようにピチピチ跳ね 返っているのです。ですから、一応はそれと云 わずに、ヘッダを去勢手術に誘って見ました が、彼女の無智な恐怖のため、見事失敗(しくじ)りまし た。そこで、私は神聖な啓示をうけたのです。 次代の社会のために、或る重大な決意をいたさ ねばなりませんでした。  所が、ザロフさん。  運命と云うものは、何と皮肉な悪戯(いたずら)をするも のでしょう。一つの悪系を絶滅せしめた私は、 続いてもう一つが現われたため、今度は自分の 心臓に刃を立てねばならなくなりました。父が 残した暗号といい、私をこの土地に封鎖した事 .といい、みな、私の体内を流れる血のためなの です。貴方が経文の暗号から発見した写真にあ る幼女は、何を隠そう私です。そうして、イル マと云う婦人が、飽くまで父が秘し隠していた 私の生母であろうとは……。実に呪うべき血系 ーポーラソ▼ドのミユヘレッツエと併称され る、リトワニアのキヴイH  こうして出現した第二の悪系にも、私はヘッ ダに対すると同様の処置を採らねばなりませ ん。しかし、そうなっても、不思議なくらい感 傷が湧いて来ないのです。生の執着は愚か…-・、 ヘッダの殺害に悪徳を負う必要がない以上、無 論悔もなければ良心の悩みもありません。凡て が、学究として最善の結論に過ぎないと信じて いるのです。ですから、この一書も在来(ありきたり)の告白 書等と異って、一片の完全犯罪報告書である事 をご記憶下さい。  それから、最後に申し上げて置きたいのは、 ヤンシンの自殺ですが……、成程、あの場合貴 方の推理拷問が、たしかに一つの刺戟には相違 なかったでしょうが、真因は此の事件とは何等 関係のない事です。実をいいますと、ヤンシン は私がカロリンカス医大在学当時の婚約者でし て、七年も音信を絶って私を探し求めるため、 貴方の軍に加わってはるばる南支那の奥地に迄 やって来たのです。しかし、私はヤンシンの申 し出でを拒絶しました。父が残した意志は、私 にとって何物よりも強く、殆んどそれには宿命 的な信頼がおかれてあったのですから-…。果 して、ヤソシソは絶望の余り自殺を遂げまし た。けれども私は、それが眼前で行われたにも 拘らず、あの蒼っ白い旧世紀の幽霊が滅んで行 くのには、瞳毛(まつげ)一本動かす気になれませんでし た。さて、私の報告はこれで終ります。永い旅 路を終えて、私の肉体は何より快よい仮睡を欲 しているのですが、それも出来ません。という のは、三十四年の生涯を通じて唯の一度も経験 しなかった、いやその機会を与えられなかった ものを、最後の一つしかない機会に、此れから 鄭の臥床で味わおうとするからです。処女の祭 壇に捧げられた聖燭を、今賓限りで吹き消しま しょう。そして、明日は心臓の火を・…-。  では、幼稚にして聡明な指揮官よ! さよう なら…           エリザベス・ローレル  ザロフは読み終ってもなお暫くのうちは、悦 惚とした墜落感から脱れる事ができなかった。 其処へ夫人の急死が伝えられた。「では風琴(オルガン)を 弾いているうちにだね」彼は使者を見て静かに そういってから、ペンを取り上げた。そして、 「ヘッダ・ミユヘレヅッエ毒殺事件顛末」と、 大きく標題(みだし)を書いた。           (『新青年』昭和八年七月号)