航続海底二万哩 小栗虫太郎 前篇 狂乱のパナマにて 半夜の疎鐘、 聖ドミンゴの寺  絶海の詩、おそろしい死の冒険も……、この一篇ではほん の添えものでしかあり得ない。いや、作者の私はうんとこさ 書くだろう。しかし、皆さんを魅了するのはそういう類のも のよりも、むしろ主人公花崎の画期的性格に驚嘆し、男が男 に惚れるあの魅力のなかに陶酔し、思わず若人よ、潜水艦に ゆけと叫ばずにはいられない、あの無上の感激であろうかと 思われる。では、花崎はたにをしたのだろうかロ 熱海の炎 荘下においてさえ一味の涼風を感ぜずにはいられない、この 前潜水艦水兵花崎の物語とはロ  身、艦を退くといえど槌せぬ、潜水艦乗りのたましいが ・…-、いまも帆船時代の怪奇をつたえる南大西洋の一孤島、 有名な「|遺棄者《デザ タ ス アイ》の|島《ランド》」であるヴィクテン島に端を置き、は るかに大弧をえがいてパナマ運河におよぶ物語II。で、こ こで、一まず私の筆をこの一篇の語り手である、尾形老の舌 のほうへ移すことにする。  この尾形老之斌、-記憶のいい皆さんは御承知のことであろ うが、まず、「南印度洋の悲歌」を物語り、あの日本の血をま じえた薄命のマダガスカルの女王、ラナヴォロナ四世を庇護 した豪快な七十翁といえば、もう老についてなにも云うこと はないだろう。在外四十年間を|暗黒大使《シヤドウ アムバッサダ 》として、国際謀 略の闇に出没した奇談的人物である。しかも、|齢《とし》をわすれた かのごとく|嬰鎌《カくしやく》ぶりも物凄く、身心壮者も圧するさかんな《 フフ》|る この老も……、いまは胸せまる回想に粛然と声をのみ、しず かにこの泡雪の夜、花崎を語ってゆく。 「わしもな、娘があったら潜水艦乗りにくれたいよ。あの、 列国潜水艦中最悪といわれるほどの、ひどい生活条件によく 辛抱をしとる。魚雷の搭載数を増し、航続力を増すために、す べて自分らの環境を犠牲にし性能の餌とする、彼らこそ見上 げたもんだと儂は思うのだ。その忍苦i。そうして、鉄の 規律に鍛えられた男はどんなものになるだろうロ わずか一 瞬の操作の誤りが重大た危機となり、一人の|弛緩《しかん》が全艦の運 命を左右する潜水艦に記いては……、持場の理解をふかめる 科学的精神と、沈着、俊敏、明晰の三拍子が必要だ。いやそ れ以上、上官への尊敬と同僚愛が必要だ。そうしてだ、滅 私、犠牲をもって本分とする最高理念に達するまで、わが潜 水艦は苛責ない訓練をする。この新生文化のとき最高男性型 とみられる連中が、潜水艦からはどしどし生れてくるんだ よ」  尾形老は、娘よ、潜水艦乗りに惚れろーという。それ が、言外の意味としていかに花崎が立派かということが、ま だ話を聴かぬにも拘らず、浸々と私に触れてくる。では老 は、この話をどこで得たのだろうロ 闇ではじまり消えたこ の物語を、どうして知ったのだろうロ  まず、老とともに定期船「サンタ・クララ」号にのり、大 西洋側から。ハナマ運河にはいることにしよう。          ×  去年の五月のことだった。わしをニューヨークでのせたグ レース|社線《ライン》の「サンタ・クララ」が、いま運河にはいるベく リモン湾の水をわけてゆく。ト1ロ・ポイント防波堤のむこ うで、停船二時間半。そして、検疫をおえ、やっと湾内にい る。とまた、コロン港の税関で四、五時間の暇つぶし。無風 帯のパナマで微風もないうえに、近附く雨期の湿気でゆだる ようなその暑さ。  土人町のコロンから白人居住区のクリストバルにかけ、た だいちめんの|陽炎《かげろう》に直視もできぬ熱射下の眩擢は、この世界 の熱地の様をさこそと頷かせる光景というよりも、むしろ運 河の防諜上天賦の好条件のように思われる。まったく、明る 過ぎるということが何も見えぬというのに等しいということ を、儂もその時はじめて知ったというわけだ。  とそこへ、わしの|船室《ケピン》に点検がきた。検疫のとき乗りこん だ防衛司令部の士官である。 「規則上……、不本意なことですが、暫時お邪魔をいたしま す。御所持の写真機や双眼鏡は、お預けくださいましたでし ょうね」と、物情騒然たる面つきでスーッ・ケースのなかま で調べたが、もちろん儂は怪しいものなど持っとらん。だい たい儂は、謀略者だで。大きな仕事はするが、端ものは御免 蒙っておる。一国の要路を相手に闘わす虚々実々は得意じゃ が、そんな豆写真機などを揮の結び目にかくすような芸光 は、まだ三下のころから一度もせんかった。むかし、明石大 佐に愛されて謀略界に登場し、いまは斯界のお|職歌手《プリ マドソナ》なるわ しは、ちと巨きいでな。マアこんな若僧のことは、不間に附 するより手はない。  |甲板《デツキ》にでた。防衛司令部の海兵が、要所要所にたってい る。この、運河を通過する十時間ほどのあいだは、機関部、 樋信すべてを防衛司令部が管理する。また、船の進行も|運河 案内人《キヤナル ノイロツト》がやることになる。じつに物々しく阿呆たらしゅう《フフフ フ》|な るくらいだが、自国の生命線とあらばこの処置も已むを得ま い。と、この厳戒裡にやっと船がでた。  |移動起重機《ステ ム クレ ソ》の塗料が陽に熔けてジュウと軌道に焼ける厭ア なにおいが、しだいに船尾のほうに遠ざかり岸壁をはなれた 本船は、いよいよ運河の湾内水路である|水溝《デイッチ》のロヘむかって ゆく。と儂が、|遊歩甲板《プロムナ ド デツキ》の|手摺《レ ル》りにいるとこの航海中馴染 になった、ドイッ人の農具商人のデュルバーグ君がやってき て、 「聴きましたかね」と、わしに曝く語気が唯事ではないらし い。かれは、唾をのみのみ、暗色を眼に漂わし、 「さっき、われわれドイツ人だけに、点検があったのです。 えっ、あんたにもロ こりゃ、御同列とはいよいよ親交の度 を深めますな。1で、そのときゴブレンツ君の持物から、 ポラ円イド  めがね 偏光膜の眼鏡がでたというんで…-.」 「ホゥ、引っ張られたというのですか」 「ええ、不幸にもスパイ視されてですな」  わしも驚いた。日独両国人に対する厳戒ぶりもこう行き過 ぎるとなると、少々大合衆国の襟度のため、遺憾に思わざる を得なくたる。なぜなら……、たかがその偏光膜とは眩濯消 しではないか。てっきりセロファンと思えば間違いのない透 明な膜質で、これが、奇妙にも眩擢を消すので、面白い。自 動車のヘッドライトにかぶせれば、すこしの眩しさも感じな い。というやつを、わざわざゴブレンツ君が眼鏡に作ったの を、わしは知ってもいるし、拝借もした。1湾外停船の、 ちょっと前のことだった。  海は、無色の焔をあげ、広荘たる光源のよう……。つい眼 のまえに停っている巡洋艦の「ニュー・オルレアンス」も、 意気な|淡青色《ライト ブル 》が眩光のなかに消えてたく、マストや|揚荷機《デリツク》な どの外縁の突出物はみな、この熱大気の膜動に水に映ったよ うに揺れている。というところへ、この偏光膜の眼鏡をつか うと、パット眩擢が消えうせる。宛然渋い定着をもった、一 幅の|海景画《シイ スケ プ》だ。おまけに、水面の反射が消えるので、吃水下 までが見えてくる。|舷側装甲《サイデ ア マ 》のしたにこんもりと膨れてい る、魚雷防禦の張|出《ルジ》しの厚みまでが計れるとなると、少々こ の偏光膜も物騒なものになってくる。  しかし、見られていかんものなら出すほうが悪いのだし、 また、そういうものは決して出して置く気遣いはないのだか ら、どうもゴブレンツ君をひっ張った運河当局のやり方が、 感情八分のヒステリックなものに思われてくる。すると、最 後にデュルバーグ君が警告の意味をふくめ、 「ねえ、尾形さん、気をつけてくださいよ。大西洋側はドイ ツ人につらく、太平洋側は日本人に辛いというのが、いま運 河当局の定石的やり方ですからね。どうか、第二のゴブレン ツとならんよう、御自重をねがいますよ。あの、『ナオス』、 『ベリコ』、『フラメンコ』の三島をつなげる大|要塞連絡 堤《グレ ト フオ ト コ ズウエ 》のあたりに来たときは、マア、船室をお出にたらんほう が、いいと思いますね。くれぐれも、軽はずみをたさらんよ うに……」  わしは、デュルバーグ君の忠告に、心から感謝した。きの うは人の身、あすはわが身1ということもある。まして儂 があの偏光膜の眼鏡を覗いたなどということも、あるいはゴ ブレンツ君の口から出ないともかぎらない。Ilいま、敵意 と監視の重囲下に、わしはいる。どんな不測の事態がおこる かもしれぬ、その|前夜《 フフフ》にわしはいる。と思うと、わしを運ん でくれるこの船の一進が、まるで運命のエスカレーターのよ うに思われてくる。  しかしだな、これもわしをひき摺って花崎の遺書に逢わせ るぺく、あの奇しい一夜にわしを導いてゆく、冥府からの花 崎の手だったかもしれないよ。マア、これからは小説以上だ な。お前さんのような小説屋をまえにして、事実は小説より も奇なりなんぞと、わしが庖えたてると云うのもだ。あま り、これからのことが劇的であり過ぎる。そのつもりで、し っかり聴いてもらおうよ。  で、そうしている間に、……船は速力をおとして|水溝《デイッチ》のな かを縫いながら、まずさいしょの|間架《ロツク》であるガツンの間門ヘ むかってゆく。  やがて、ながい岬のような|導壁《ガイド ウオ ル》がみえ、船はその横腹 にびたりと横付けになる。と、水中にあって間扉への衝撃を ふせいでいる、太さ三インチもある|防止鎖《フエンダ  チエ ン》が沈下する。 いよいよ、|鵬《とも》と舳に|牽引用電車《エレクトリツク ミユ ル》がむすばれた。船は、それ に牽かれて三つの間扉を過ぎ、まず二十七フィlトのぼるベ く第一の間架にいる。  と見ると……さっき点検にきた士官どのは、交代で消えて おる。今度は、まえにも倍したひじょうた警戒で、ちょうど 支那の城門のような|間架操縦塔《ロツク コントロ ル タワ 》の楼上には、機銃もみ え、鈴鳴りの兵士の眼。が、とにかく、太平洋岸まではなん のこともなかったよ。  その、パナマ市に着いたのが深夜の一時半。わしが、夜だ が、領事館へゆこうと|舷《ギヤング》 |梯《ウエ 》を下りようとすると、もしもし と、背後からわしを呼び止めたものがいる。みると、一見し てわかる、|秘密警察員《シ クレツト サ ビス》だ。 「上陸は困ります」と、安葉巻のにおいをプーンと吐きかけ てくる。 「不可んというのは、儂だけに云うのかね」 」さあ、あっしの受け持ちは、あんただけですかられ。外様 のことは、一向に知りませんや」 「日本臣民が、日本領事館へゆこうかというのに、妨げる理 由はないだろう。あれば聴くが、どんなことだ」 「そんな事はね。あっしみたいな端下人足が、知るわけはな いでしょう。マア、今回の上陸だけは、ぜひ御容赦に預りた いと……あっしが代表で、お願いにあがったみたいたもので すよ」  こういう会話が、倦きるほど続けられたがのれんに|腕《フフフ》押し で、おやおやもう、ゴプレンツ君があれを云ってしまったん かいな。それにしては、儂のなんたるやを知るせいか、馬鹿 に手ぬるいじゃないかーと、思えば櫟ったくもなってく る。しかしだ、ここらで退けんのが男の意地とかいうやつで、 「茄いおい、茄れがリオ・ハトの飛行場にいって機数をさλぺ、 るとか、十八インチの隠見|砲塔《タモレツト》がどこかとか|沿岸防備《コリストさテフエンス》を六. ぐるのなら……、オッと待ったというのも、そりゃ聴えるが ね。たかが酒場……」  と、云いかけてひょっと声を呑んだのは、そのとき舷梯の うえから景気よさそうに下りてくるものがある。だいぶ酔っ ているらしく、踊珊の足どりだ。大兵肥満の体重に釣橋のよ うに舷梯をゆりながら、ううーい、ずしりずしりと下りてく るその男の鼻歌に……、わしは思わず気を惹かれ、ハッと聴 き耳をたてたのだ。  さいしょはな、儂も自分ながら、じぷんの耳を疑った。気 のせいか……、その歌の文句が日本の言葉のように聴えたけ れど……。一瞬見たか見ぬかの流星の軌跡をさぐるような気 持は、よもやこの毛唐が日本の歌をと否定する。やがて、わ しの横をかすめて下りてゆくのを見たが、かなり老人だ。プ ランテIンの葉で編んだ|鍔広帽《オ ヘダ》を阿弥陀にかぶり、牡牛の頸 のような激を三重にも噸にたるませて、ちょっと気骨のあり そうな顔だちも不断の酒気で荒れている。これは……一見し て、ラテン・アメリカ系であるのが分る。するとだよ、とつ じょその老人が頓狂な声をはりあげて、おそらく知り合いら しい秘密警察員の肩のあたりを、よう|大将《カビタン》1と、叩いた手 がはずれ、くらくらっと蹟鼠いた。が、立ち直るとまた、捻 りながら下りてゆく。  日本語だ。じつに可怪しなもんだが、はっきりと聴きとれ た。 「ううい、はんやのそしょう、サン・ド、・・ンゴのてら」  はてな、はんやは|半《フフフ》夜か。半夜の疎鐘、聖ドミンゴの寺 11と、繰りかえし繰り返ししているうちにかっと胸の血が 湧き立つとともに、とつぜんその夢語のごときものが力強い 響きで、迫ってくる。わしは踏みとどまって、はてなと思っ たよ。どうもそれが、藤田東湖孤囚中の吟に似ているよう だ。半夜の疎鐘、浅草寺。一黎の膏雨小梅村1をもじった ように。 「独居鋼中の東湖をおとずれて、春愁いや増さしたのは…・:、 待乳山の月、浅草寺の鐘。これは、その感傷を借るような、 聖ドミンゴの僧院の……」  と、儂はじっと沈思した。  海は暗かった。月が没したあたりのサン・ホ1ゼ岩礁の辺 はぽうっと余映で明るいが、そこから港にかけては摘頭燈が 瞬くのみ。おまけにこの、準戦時下の港は荷役中も灯りはな い。|捲《ヒ プ》け、捲けーと、仲仕のかけ声や、|揚荷機《ウインチ》の音はするけ れど、よくよく瞳を定めぬかぎりこの青闇の夜空に浮く、|煙突《フアンネル》 のすがたも見定めがたいような闇である。  しかし儂には、そういうものは一切視野にない。ただ、万 里異郷の涯で老外人にうたわれた、この東湖幽居中の吟に似 たものがどんな意味であるかを考えていた。いや、考える余 地などは更々にないことだと思うたよ。  孤燈影淡き獄中に聴く、聖ドミンゴの鐘Iこのパナマの 獄に悶々孤囚の情を訴えていた、ひとりの日本人がいたとす るのは行き過ぎた想像だろうかロ いや、闇に消えたひとり の男が失われまいと腕きぬく、絶叫に似たものとするのが不 可ないのだろうかロ  と、血の気の多い儂がくわっとなった瞬間に…-儂はわれ 知らず、自重の線を越えてしまったのだ。いま儂をとりまく 情況がどんなものかと云うことも、ポカンとわしを見ている 秘密警察員もうち忘れ、ただ想到するのは、この熱地の獄の 秘密囚。II多感なわしは、われ知らず誘われた。  月天心に冴ゆる夜また、一点の星華獄窓をてらす夜。夢魂 郷国をさまようも醒めて聴く|聖《サン》ドミンゴの鐘の音は、いかな 大丈夫といえど断腸の思いであるにちがいない。では、その 因人はなんという男だろうロ どうして……どんな理由のも とに、投獄されたのだろうか。また、なぜいまの老人がその 吟を知っているのだろうロ  と、感傷におぼれるよりも追うて訊きたい気持のほうが、 しだいに桿馬のあがきに似て、焦燥とともに強まってくる。  するとだよ、そのとき岸壁燈のしたまでいった老人が、く るっとふり向いた。|沙霧《へ ズ》に淡いその灯りのそばへ殊更顔を近 づけて、わしを見るやにやりと笑うのである。 二 |快《ツ  コム》々|亭《フオ ト》の一夜  とたんに儂は、ああそうだった、ディエゴのやつかと気が ついた。わしがその、ディエゴ・コンテ1ノを知ったのは、 二十五年ばかり前。ちょうど、まえの大戦の二年目で、ヨ1 ロッパを引き揚げた。そうして、いちばん南米で気候のいい アルゼンチンヘゆき、まず、ブェノス・アイレスに一年、サ ンタ・フェに二年いた。そのサンタ・フェでの生活中もっと も愉快だったのが、この|牧童《ガウチヨ》あがりのコンテiノを使ったこ とだった。  、、999..とは、|誰《ガウチロ》でも知るアルゼンチンのカウ・ポ1 イ。一望千里の|大草原《パンバス》に牛羊の大群を駆りたてて……「|投《ォ》げ |輪《ソ》索」宙に吟心ればいかなる桿馬もからめられ・:…「|錘《ポ》り|鞭《ラ》」 の一襲よく駝鳥をたおす、神技者だ。そうして、性遊侠をこ のみ、驕激、果敢の熱血児、五歳はやくも馬にのり、長ずれ ば|長鞭《むち》をとり……無法御免の大草原に男をみがく牧童道。  という、わが侠客道にも似、さらに|浪漫的《ロマンチック》な存在が、この 南米の名物牧童というやつなんだ。  で、コンテ1ノはその逃亡者l。|牧場《ユスタンシヤ》での出人りから 間違いをやらかして、一鞭|草原颪《パスペロ》にのり、里へと逃げこん だ。そこを、わしが拾ったが、こんないい奴はなかったよ。 じつにスッキリとして、厭味がない。まず牧童とはこんなも のかと云うようた、草原の騎士たる面目躍如たるやつじゃっ た。しかも、分別もあり、貫録もあり……。こりゃきっと、 もとは相当な|親分衆《トロ ベロ》だったにちがいないと、わしも下男扱い はせず、面倒もよくみたよ。すると、とつぜん奴が暇をくれ と云い出した。  どうも、このサンタ・フェも危なくなったように思うか ら、いっそこの際思いきって、外国へゆこうかと思います ーという。で奴は、わしから金を貰って、騒然と旅立っ た。それなり、二十五年も会わなかったコンテIノがいま、 旅魂祖国に翔けるような悲痛な詩句を口ずさみ、わしを誘う かのように、にっと笑うではないか。  信義にかたい、牧童中の牧童。このコンテ1ノの良さを、 いまだに儂は信じている。がまた、そう思うのが危険なよう にも、考えられてくる。二十五年まえと今のコンテ1ノをお たじに見るということは、少々儂にしてからが、人のいいこ とだったかも知れないし…-。まして今、どんな策謀があ り、どんな罠があり…・:ロフレーム.アツプ  例のメリケンの俗語の「芝居仕立て」というやつが、まず 秘密警察員をだし、次にコンテIノをだし・…:、そうした効 果を狙うかとも思われるじつに微妙なこのときに、二十五年 まえの男が依然変らぬと信じながら行くこの儂は、マア年甲 斐もないうかつ者だったかもしれないよ。  しかしだな、そんな考えは|蝸牛《かたつむり》の角みたいなもんじゃっ た。触れば引っこむような、屍みたいなもんじゃった。  浮世のひかりの外に、ぽうっと見える一人の影を知る以 上……、わしは、そのひとりの同胞のため、征矢のごとくに 飛ぶだろう。いやもう儂は、戻れない身になっている。  で、まず秘密警察員にコンテIノのことを訊こうと思い、 「ねえ、君という男も殺生じゃないか。いま此処を下りてっ た、あんな爺を見せといて……。|上陸《あが》るな、飲むなとは、ち と非度いように思うがね。飲んで、御婦人を歓待してふんだ んに金を落す日本人が、ここへ上陸るということが、防衛法 規に触れるのか」 「ハッハッハッハ、あんたも相当なもんらしい」と、ちょっ と警戒の紐をゆるめたように、秘密警察員がうす笑いを し、 「いまの爺はね。ありゃ、この市のナイト倶楽部の『|快《ツ  コム》《フ》|々 |亭《オ ト》』のオヤジです。相当、われわれ仲間にも信用のあるやつ で……、マア今夜もあの辺にゆくんでしたら、あっしも、こ の眼をぎゅつと、瞑ることにしましょうよ。ハッハッハッ ハ、話がわかるって、踊っちゃいけません。そのかわり、兵 糧はいいですな。下手アすると、オケラにされますぜ」  道がひらけた。わしは、秘密警察員と連れだって、艀梯を 下りてった。しかし思うに、ここの防衛当局にそんなに取り 入っているようならば、もう儂が思うような、むかしの彼で はたいかも知れぬ。が、マアいいと、わしは運を天に任せ、 銀行裏の通りへいったのである。そこは、まず取っ付きが 「バルボア・ビーア・ガーデン」それから「|小獅子《リオンシロ》」とな り、つぎが「快々亭」いずれも、パナマの歓楽中いちばん暗 黒なものが、|賭博場《キヤジノ》をはじめ洩れなく揃えられている。 「快々亭」は、ふるいスベイン風の建築でひじょうに天井が 高い。窓には蚊をふせぐ、細かい金網がはられている。床の 喧騒にひきかえ、天井のくらい佗びしさは、やはり神を忘れ た人間の集まる、この熱地の風景だ。はいると、ルーレット の|熊手《ロ ド》の音がきこえてくる。キャバレーからは「あたいの|好《マイ スイ ト 》 きな|込矢棒《ラムロツド》」という、狼雑きわまるメリケン水兵の馬鹿唄  と、そこヘコンテ1ノがにこ|付《カ      》きながら、現われた。それ を指で招いたわしが、あれというように|顎《フフ》をしゃくって、 「君、あすこにいる小柄な|金髪《プロンド》だがね」というと、かれは百 も承知というように、恭々しく頭をさげ、 「ああ、サリーでございますか。旦那さまはさすが、お眼が 高ういらっしゃる。マア、あの子たんぞに、レース|服《ボレ ラ》でも着 せて御覧じろ。だれが見ようが、良家の子女でございます よ。よろしゅう御座います。お席は|分劃室《コンパルトマン》に用意いたさせ ます」  というようなわけで、情約が成りたった。すると、秘密警 察員がぎゅっと片眼をつむってコンテlノを見、オイ頼むぞ と云うように、合図をするのを尻眼にかけ、わしはコンテl ノのあとに縦いて階上の分劃室へいったのだ。二十五年まえ とはてんから違う空気のなかで、わしとコンテ1ノがここに |見《まみ》ゆることにたったのである。  椰子の繊維で編んだ大団扇が十幾つと天井で動いているそ のしたで、しばらくわし等二人は、感慨無量のていで声がで なかった。回顧やら、親愛の情やらが、噴泉のように吹きで てくる。コンテiノはまるで、半泣きのような顔をして、 「尾形の旦那、お久しぶりで……」と、こう一言いったな り、また喉をつまらせた。 「まったくだ。二十五年といや、けっして短かアないから な。世の中も変りゃ、人間も変るよ。お前が、こんなところ へ来て、ナイト倶楽部をしているのだって……。いや、盛ん たのはたにより結構だ」 「皮肉ですかい」と、ややコンテlノが恨めしそうた眼で、 わしを見て、 「ですが旦那、このパナマにくりゃ、誰でも変るから……。 |海軍兵学校《アナポリス》や|陸軍士官学校《ウエストポイソト》をでたばかりのヒヨッ子みたいな 連中が、ここに三月もいるうちにゃ、どんなものになります ね。|赤酒《リオハ》をくらって、上官に突っかかる。|送状《インポ ズ》で送りこまれ たような地獄女に血道をあげて、射った、殴ったになるの も、けっして珍らしかアないですよ。ねえ、ここじゃ人間が 腐ります。雨と暑さのなかじゃ、明日が消えちまう、いや、 消えちまわなけりゃ、不思議なくらいなもんですよ。  あっしもね、そう云や馬鹿っ変りをしたほうで……。ずる い金儲けを考える、お追従はうまくなる。運河のお偉方にと り入って、そっちのほうの汁も吸う。バス・オピスポ以南の 水草除去請負というやつが、このコンテlノ|商事会社《コ ポレ シヨン》の看板 にたってます。そいつはね、運河の水路にはえる水草をとる んです。「ウォータ!・ヒアシンス」という綺麗な草ですが、 拠っておきあ、べらぼうに殖えてくる。すぐ水路をふさぐ し、蚊をふやすー、てんで、あっしが人足を入れて、苅り とらしていますがね。で、そいつが看板で添えものというや つが、旦那は曝うかもしれねえが、葬儀杜だ。  やはり此処じゃ、相当に死ぬからね。例の八角の棺のスト ックの二、三百は、絶やされねえって訳ですよ。それに、た いていは埋葬までやるんです。ですから、あっしの商売は第 一が|溝波《どぶさら》い、つぎが、葬儀社から坊主の請負から、墓地の周 旋やら、隠亡もやる。ハッハッハッハ、旦那、わらっても駄 目ですよ。旦那がね、そうして曝いながらあっしを見る眼と いうやつが……、ディニゴ、なんてえ見下げ果たものになっ たんだ。ナイト倶楽部の亭主なんざア人間のゴ、・・くれえのこ とは……そのお口を出たがって、うずうずしてたさるだろ う。そりゃ、あっしのほうにも云い訳はありますよ。世界の ゴミが集まる此処じゃ、ゴミにならなけりゃ……、暮せねえ くれえのことは、云うのは知っている。だが、百の云い訳よ りゃ、一つの証拠といいますぜ。あっしに、牧童の魂がけっ して死んじゃいねえと云うことを……。ホラ、さっき、舷梯 を下りながら、あっしが鼻歌に捻っていた……」  眼が合った。半夜の疎鐘、聖ドミンゴの鐘Iのあの韻 が、また新たな感傷をわしの胸に吹きいれてくる。ちょっ と、眼をしばたたくような小酸っばい沈黙のうち、コンテI ノが静かに云いだした。 「それが、去年の九月で雨期のまっ盛り。あっしが、牧童時 代使ってたヴァカ・デ・カストロというやつが、ひとりの日 本人をひっ張って、あっしを訪ねてきたんです。名前をきく と、花崎権四郎という…:。いまは|不定期貨物船《トラム フ フレ タ 》の運転士を しているが、もとは国の潜水艦の乗組員だったというので す。みりゃ、二人ともひじょうな苦心をして、やっとこのパ ナマに潜りこんだと云うのが分る、えらい風体だ。で、訳を 聴いたが、これには驚いた。どうも、偉いことなんだ。と云 ってです。なにも、運河を壊そうの、ここの防備を探ろうの という、よくあるようなスパイではないらしい。いや、それ に数倍も数十倍も輪をかけたようなことを、その花崎さんが 単身でやろうてえんですよ。  あっしもね、国の犠牲にゆくときの日本人がどんなものか と云うことは、かねがね旦那から、話には聴いていた。が、 さて……、いよいよ現物をみると、あまりな烈しさに驚いた。 第一、その花崎さんがなんで来たと思います。命令かロ… …そうじゃねえ。頼まれたんでもない、云い付けられたんで もない。ただ私は、じぶんの意志だけで来たんですーとい う。その花崎さんの言葉にゃ、驚いたのなんのって。で、あ っしがね、そりゃまたどういう訳なんでと訊くと……しばら く説明に困ったようでしたが、こう花崎さんがいうのです。  これはね、外国でいう|義務感《デユ テイ》ともちがいます。義務という からには、権利の裏にある。与えられればこそ、捧げるとい う意味になりますね。むろんこれは、それとはてんで性質が 違うことですよ。第一が、日本の国にうまれたという、自覚 です。ひいては、いつでも生れた土には悦んで帰るという、 悟りです。それが、食う、睡るとおなじ、本能になってくる。 それをわれわれは、本分の自覚といいますがね。  でコンテlノさん、あなたは、食う、眠るということに義 務感を感じますか。また何故そうしたいのか、疑うようなこ とがありますか。1それですよ。日本人というやつは幾つ かの本能に加えて、もう一つ本分というのを持っている。じ ぶんの意志だけで発動する、貴いものを持っている。1 と、花崎さんがこんなように云うのです。  あっしは、驚いた。そういや今、運河の連中がこれだけは                 入ーサゥド日フレーン・リスキング 防ぎようがないと云っている、日本の自爆爆撃とい うやつも、こりゃ、やれる哩と思ったよ。気に入った。第 一、その気っぶしが牧童そっくりだ。天を相手にして人を相 手にせず、金も命も名も要らぬという草原の申し子が、幾分 花崎さんのなかにも巣喰っているのを知ったときの、あっし の恥かしさ……。そうだ、案れも旧は牧童だったんだと思う と、今のあっしの|醜態《ざま》が情ないのなんのって。で、花崎さん の頼みを、きっばりと引き受けた。下手アすりゃ、こっちの 命もなくなるが……、もうその時は完全な牧童になってい た」 「お前を蘇えらした、その花崎という人の力は、儂も感じる ね。それにもう儂は、お前をこの『快々亭』の亭主として の、|無頼漢《やくざ》には見ないことにする。牧童だ、 コンテIノこ そ、真実の牧童だ」  と、わしが云うとコンテ1ノは悦んで、もうその一言で死 んでもいいとさえ、云うのだった。侠気と気概が売りものの 牧童中の牧童ーコンテlノが花崎に、力添えを約したその 後のことは……。 「で、あっしが何かと、お膳立てをしましてね。いよいよ、花 崎さんが運河のなかへ行くことにたった。その別れのとき、 あっしにくどくどと礼を述べたその揚句、むろん、生きて帰 れるなどとは露ほども思いません。しかしそういう時、おそ らく貴方が私の死体を扱うだろうと思います。その際に、ど うか右の上顎の奥歯の、三本目に注意してください。おそら く、その根元に糸が結びつけてあるでしょう。それを引っ張 れば、食道に嚥みこんである小筒がでると思います。そのな かに、もしも私の目論見があたれば偉大な貢献を国にするこ とができる、ある重大なことを書いた、私の書き物がはいっ ている筈。どうかそれを、これなら確かと思う日本人に托け て、国へ送ってくださいーと、花崎さんがこうあっしに頼 むんだ。すると、とうとうそれが当っちまうようなことにた って……」 「ふうむ、死んだロ」 「アルプルック・フィールドの、衛戌監獄で死んだんだ。そ の死んだという意味は、お察しを願いますがね。とにかく、 三十四、五のさかりで身の丈は豊かだし、きりっと緊った顔 は好男子の部に入ろうという、その花崎さんの氷のような口 をあけ……。と、やはり云うように、糸がある」 「で、どうした?」 「とにかく、あっしは持ち帰ってきましたがね。だが、細か い字で書いた日本語なんざア、読めるわけはない。また、そ れを托そう日本人にも、砥なもんはない。で、心に掛けなが らも半年ほど過ぎた今日、偶然「サンタ・クヲラ」の舷梯に 且那を見かけたじゃねえか。しかし、拙いことには秘密警察 員がいる。というんで、いちばん旦那の気を惹こうと思っ て、あれを捻ったよ。  花崎さんが書いたなかに簡単な禁行があったんで、それを 丹念になぞって、日本人の床屋に見せてみた。すると、これ は乙なもんだと云うんです。都々逸とやらいう、|俗謡《パラ ド》にはい る詩吟だというのですよ。で、あっしはね。おそらく、国の 歌を唱やあ、旦那もあっしを見るだろう。この肥っちまった 老嚢にも、むかしのコンテ1ノを思いだすだろう。てんで :…」  といって彼が、ポケットから出したのが……その食道から ひき出したという、花崎の遺書だった。あらゆる種類、あら ゆる形の紙がまざっている。それに、短い鉛筆の芯で書いた らしいのには一種の鬼気があり、また、その痛苦を思うと、 じいんと鼻の奥が浸んでくる。そこへ、コンテ1ノが喧せた ような声でいう。 「あっしもね、これで旦那に渡したかと思うと、ずんと重荷 が下りました。旦那もどうか、今夜は花崎さんのお通夜のつ もりでね」  コンテ1ノが去ったあと暫くのあいだ、わしは順序乱雑に なった、そめ遺書を整理した。階下では、「もはや|渡《ノウ モア リバア》るに|川《ス ツウ》 なき|身《 クロツス》」という海軍兵学校の卒業歌を、酔った、もつれた舌 で士官たちが怒鳴っている。わしは、花崎を悼みながらもな ぜ彼がここへ来た? 運河を破壊するでもなく、防備をさぐ るでもなく、とにかくコンテiノに云わせればもっと重大な ことだという、それを誘かりながら最初の紙に眼をおとした のである。 後篇 海ゆかば水漬く|屍《かばね》 |遺棄者《デザ タ ス アイ》の|島《ランド》 まず最初が、 経歴になっている。  島根県浜田のうまれー。中学を出、海軍に志願し、潜水 艦伊××号に乗り組んだが、病を得て帰休す。その後、高等 商船学校にいり、卒業後、海にでる。同僚の多くは社船を希 望するが、私は敢然と|不定期貨物船《トラムプ フレ タ 》におもむいた。なるほ ど、大客船にのって、盛装を凝らすもよい、|作法《エチケット》をまなび、 ダンスをし、文学を語り、芸術を論ずるもよい。しかしそれ は、少くとも誇りにはならぬだろう。真の、心ある海員のむ かうところではないと、考える。  思うにいま、世界の海運界を席捲する英海運の強みといえ ば、その全商船|噸《トン》数の七割が不定期貨物船であることだ。ま た、まえの大戦のとき掃海に活躍した、雲霞のごときトロー ル漁船があったことも考えよう。そうしてそれ等が、一朝有 事の際は通商船を頑守する。私も、祖国に対しその一人たら んの念願のもとに、だれも厭がる不定期貨物船におもむい た。ー小商船の運用に|長《た》けた海員を一人でも多くすること が、ささやかながらも御奉公であると信じたからである。  で、九年間に三度船を変え、最後に|智利《チリ》の捕鯨船「|大当《ゴルド》 り」号にのりこんだ。これは、船主、船長とも…・:利欲の権 化というような船だった。だから、前名「|征服者《コンキスタド ル》」という のを「|当《ゴルド》り|籔《ミ》」と名をかえて、いかにも大当りせんずの魂胆 から、南極地方に出漁した。ところが運わるく、さんざんの 不漁だったのだ。すると、「大当り」号の船長が、たいへん な事をやりだした。実際海に、歴史と伝統を持たないという ことは仕様のないもので、他船の標識鈷をたてた、仕止め鯨 を拾いだしたのである。  これは、手に触れないのが、鯨捕りの仁義になっている。 まさに「大当り」号は公海上の鼠賊であり、海員精神を汚す ことこれより甚だしいものはない。で、私は口を極めて、船 長にいったのだ。それが反目の因となり、ひじょうに危険視 されるようになり……、ついに魔薬をつかわれて昏酔状態に なった身を、南大西洋の孤島ヴィクテン島に捨てられた。西 経二十四度六分、南緯四十三度半l。古来帆船時代より名 だかい「|遺棄者《デザ タ ス アイ》の|島《ラント》」である、ヴィクテン島に遺棄者とし てくらす身になったのだ。  わしは、眼をむいた。文字どおり絶海の孤島である、ヴィ クテン島に遺棄されたロ 古くから遺棄者の島として、この ヴィクテン島は航海史上に名高かったのである。位置は、や や北東東五百マイルのへんに「トリスタン・ダ・クンハ」|島群《グル プ》 があり、西は、アルゼンチンの聖マチアス湾まで千マイルを 越え、リオ・グランデ|海底隆起《ジユヴユキレ》の東南端から長針のように突 きでているのが、この遺棄者の島、ヴィクテン島なのであ る。しかもこれは、名目だけのノルゥエー領Il。  では、遺棄されるとは、どういうことであろうか。ダニニ ル・ド・フォーの「ロビンスン漂流記」とはスコットランド の水夫である、メトローズ・アシュトン・セルカ1クが南太 平洋の一孤島、ジュアン・へルナンデス島に遺棄されたのを 脚色した物語であり……。また、海獣で名だかい氷島べーリ ングに遺棄された、ヤコフ・マニコフの惨苦も有名な話にな っている。1いわば、海上の刑罰、残忍なる私刑法。この 慣習がいまだ現代にもあるのである。  不邊なもの、暴動の企画者。反目の犠牲者、勢力あらそい の惨敗者。人間の捉にてらして当然なのはむろんのこと、あ るいは好計に落ち、|無事《むこ》の罪に泣き……、この孤島の土とな るのも決して珍らしくはない。また、絶望に狂し、殺し合う のも稀ではない。  では、この遺棄者の島の花崎に、なにが起ったのだろう。 孤愁中のかれを訪れた意外な展開を書くことは、むしろ儂の 話よりも、君の文体のほうがいいじゃろう。そのつもりで、 しっかり書くこった。          ×  きょうも、相変らず暗潅とした空。南米の東南岸をおそっ て|風《テンペスツ》 |踏《ラス》とよばれる風が吹き薙ぐなかに、この孤島にもタ 暮がおとずれてくる。海も空もただ一色のあつい|灰鉛色《リ ド グレさ》の なかに、明け、そうしては暮れてゆくこの孤島の佗びしさ はロ 潮鳴りをつん裂くような|信天翁《あほうどり》の叫声や、|海豹《あざらし》の庖嵯 を添えておなじように暮れてゆくーこのヴィクテンの日々 の、滅入るような単調さ。それを、花崎ともう一人のヴァカ ●デ・カストロというアルゼンチン人が、味い味い、八ケ月 も過しているのだった。  この小屋は、ほぼ数えて五十年ほどまえに建てられた。難 破船の流材によってこの小屋を建つ。一八八九年、エッゲル ト・トールソンlI刻んだのが、まさに朽ちなんとしている 入口の扉にあるのだ。おそらく、そのトIルソンという男は 大工だったのだろう。ともかく雨雪をしのぎ、風にも倒され ず、よく永いあいだ小屋らしさを保ったもんである。そして なかには、鯨骨の灯皿に、石積みの炉。海豹の脂肪を焚くの で、まっ黒に煤けている。 「兄貴、午ごろ沖合いをとおった|帆船《パ ク》をみたかが。ありゃ、 久しぶりの眼の毒みたいなもんだった」と、|陣菜《いぬがらし》を乾した 寝草のなかに寝ころんで、カストロがこう花崎にいい掛け る。これが、もとは|牧童《ガウチヨ》だったのである。 「エル・マリオン」|牧場《とスタンシヤ》に生れた生え抜きの牧童。しかし、 旧来の牧童が機械文明に押され、また、ドイツ人やアイルラ ンド人移民の根づよさに負かされて……、ここで永いあいだ の衣を脱ぐか、退散するかの破目になったとき。すなわち、 その牧童の転換期にカストロもぶつかった。 「あっしはね、牧童に牧童らしさが出来ねえようなら、もう 終いだと思ったよ」と、以前花崎に身の上話を語ったとき、 こう彼はいう。 「で、あっしは牧場を飛びだした。しかし、飛びでたはいい が、なにをするロ と、思い付いたのが、海だった。ねえ、 秋の|草原《パムパス》といや兄貴は知るめえが、まったく、一目千里はお ろかな葡の海になる。そこへ、草原颪がふいて、サアッと波 立ってくるなかへ、あっし等が追う、牛や羊の大群のまた波 だ。とおい島影は、|王蜀黍倉《トロ へ》かってことになると……、そう だ、草原にいた人間なら海で働けるロ てんで、あっしは水 夫になったんだ」  と、たんでもこんなように浪漫的た考え方をする……カス トロとはなんて愉快な男だろう。まったく、この、警抜さ、 愛すべき図々しさ。しかも、正義感につよく、気一本の気っ ぶしは……、|水夫長《ボ スン》の貸金の利息が高いので代表してぶん殴 り、ために遺棄されたという頗るつきの奇男子だ。齢は花崎 よりは十も多いだろう。しかし、かれを尊敬して、兄貴、兄 貴といっている。  いま、達観した花崎とこの風来居士の暢気さが、孤島の生 活をひじょうに明るくしているのだった。するとその時、ふ と海のほうをみたヵストロが、オヤッというように息をひ き、 「兄貴、ありゃまさか、星じゃねえだろうな」  花崎もみた。しかし、|海霧《ガス》は暗さを増す、一刻ごとに濃く なってゆく。|大劇臥《テユ バ》のような潮鳴りがこの孤島をつつみ去ろ うとし、海霧の裂目をふきぬく氷のような|疾風《はやて》を思うと、も うまもなく流氷がくるらしい。と、うすれた海霧をとおし て、微荘たる一点のひかりが…・: 「ふうむ」と花崎もうなった。 「おい、ありゃ、碇泊燈らしいじゃたいか。晴れた闇夜な ら、五|浬《カイリ》くらいのものは見えるというが……、こんな天気に ああはっきり見えるんじゃ、思ったよりも大分近いかもしれ ないぞ」 「へえ、じゃ、お出なさるかね」 「ハッハッハッハ、当にすりゃ、また|落胆《がつかり》する」と、花崎が 黙々と釣鉤をとぎ出した。が、助かるかしらと思うと、カス トロは落着けたい。絶えずきょろきょろして、立ちあがった り坐ったり……。それを、花崎が呆れたようにみていたが、 「オイオイ、性根がそんなようだから、愚痴がでるんだぞ。 人間が、仕向けてくることばかりを考えていたらたとえ一分 でも、こんなところに暮せるもんじゃないんだぞ。たア、こ こは航路に千マイルもはなれている。|偶《たま》さかくりゃ、新入り くらいなもんだろう。たんと病人でもできて、補充に困るよ うなとき……一人二人と連れてったのは、帆船時代のことだ った。どうだ、人間がしてくることは、砥なことはないだろ う」 「じゃ、今度のも新入りかな」 「そう思え。それよりカストロは、天を相手に考えろ。天の 気まぐれがくりゃ、たしかにここは抜けられる。そう思って いりゃ、愚痴もでなくなる」  花崎が、こうした心境までにくるのは、容易なことではな かったのである。最初のうちは、皮膚に爪をたて髪をかきむ しり、絶望と憂悶に気も狂わんばかりであったけれど、ひょ っとして、曾つてじぶんが暮していた潜水艦の胎内を思いだ すと、妙に心気が澄み、身が軽々とたってくるのだった。  一度彼は、こんなことを考えたことがある。蓄電池から放 出される水素の量が、艦内の空気の量の四パーセント程度に 達すると、もうその空気は爆発性を帯びてくる。しかしその ために、水素の量をたしかめる|検定計《ゲ ジ》があるけれど、その微 妙な感度にもし狂いができたとしたならば、もうそれは天命 といわなければならぬ。Il往々、潜水艦をしずめる、人力 以上の原因になる。  してみると、いつもわれわれは、天命のとなりに坐してい る。という考えが、いわゆる「人力を尽して天命を待つ」と いうあの悟り。また、天に面するものの、極端に嘘を恥じる こと。そうして更に、普通はひとりの人間に決してこの二つ はないだろうと思われる、細心と放胆の両極を授けてくれる のだ。で、そういう……慈愛と鍛錬の門をでた彼がはじめて その成果を知ったのが、この絶海の孤島に遺棄者となったと きー。その試練にもめげず、じつに心の静かなことを、か れは祖国のとおい母艦に感謝した。  夜になると、岩はまっ白な泡をかぶり、持ち去られるよう な荒れになってきた。カストロが、キイキイ軋る灯皿を気遣 わしげに眺めていると、ぴしゃッぴしゃッと、まるで娑婆で よく聴く雨桶のあふれるようた音が、この小屋の入口にむか って近附いてくる。と、扉がバタンと明いたのだ。サッと、 横なぐりの雨とともに吹きこまれた一匹の海雀が、灯皿に落 ちてまっくらな闇になる。と、扉のそばで年老りらしい声が して、 「さあ、灯をつけたさい」と、マッチをぽんと投げいれたの である。  ふたたび灯がついた時ll、入口をながめた二人の眼が、 唖然たること暫しだったのは……。ひとしく荒天着の油套を 着て邊しい体躯をしているとはいえ、よくそれが、不定期貨 物船などに見かけるような荒くれではない。  先頭の老人は、いわゆるノールス髭という三角の顎髭を し、さも昔はと思われるような老船長の体。海の酸いも甘い も噛みわけた、もの分りのいい老人らしいことは、すぐ二人 にもピンとくるのだった。また、その背後にいる水夫らしい 三人も、まだ童顔をのこしている十七、八の少年で、しか も、その肩越しにみえるまっ白な一つの顔。  女1。もしもそれが新入りの遺棄者だとしたならば…:。 また、この極楽からきたような一行が、見掛けどおりのもの でないとしたたらば……。と、カストロの眼が異様に燃えあ がり、ぐびぐぴ唾をのむ音が花崎にも聴えてくる。 二 革命的重油機関 「驚かして、済まん。また、お二人の境遇には真底から同情 する」と、老人が錆びのある声で、云いだした。 「しかし、わしという人間は、古くさい頑固なものでな。こ の遺棄者の島のものを救った船には、砥なことがないという 云い伝えを、どうしてもこの頭から消してしまうことができ ん人間じゃ。が、それにも拘らず、押して来たには|理由《わけ》があ る。iそれでだな、もしもあんた方二人のうちで儂を満足 させる答えをした方は、誓っていますぐに、娑婆へだしてあ げるが、どうじゃロ もし二人がそうならば、二人とも救っ て進ぜよう」 「……とは、どんなこってすね」と、ヵストロが喘ぐように 訊くのである。 「それだよ、儂というより此処にいる姪のユリアナが、じつ に永いことかかっている探しものがあるんだよ。むろんそ の、現物の破片でもあれば、それに越したことはない。が、 なくてもだ。たとえば、前住者から聴いたことでも、正直に 云えばよい。で、それは……。ここ十年ほどのあいだに、こ の島にだね。緑色の|示錨浮標《ナン ブイ》がながれ付いたことがあった か、どうかロ」  示錨浮標というのは、元来錨の位置を標示する円錐形の浮 標であるが、また、沈没船の位置を示すときにも使われる。 そうしてみると、もしやこの近海でしずんだ難破船のーと いうことが、まず花崎の頭ヘピンと来たことである。しかし 彼は、そんなことは一向に聴いたことがない。期待が軽かっ たとはいえ、ちょっと落胆気味のところへ:・…、そばのカス トロが、とつぜん妙な呼吸をしはじめた。髭と垢だらけな顔 がてらてらに光るような汗になり、ちょっと、花崎のほうを 窺うような眼をしたが、いった。 「あっしゃ、知っている。あっしが来るとすぐ死んだエリッ クセンという男から聴いたがね。なんでも、ながれてきた示 錨浮標についていた|縄索《ケ ブル》を使ったのが、この灯皿の吊しだと いうそうなんだ。どうだ、こりゃ見りゃわかるが、|浮標《ブで》の縄 索だろう」 「それ、本当でしょうか」と、それまで男たちの肩にかく れていた、ユリアナが乗りだしてきた。それはもう、娘とい う年頃ではないかも知れないが、じつに珍らしい|灰銀色《シルバ  クレ 》の 髪の毛に、淡い碧の眼の、澄みきったような処女らしさ。ち ょっと尖った顎やうすい鼻筋も、北欧女の典型的な顔といえ るだろう。1老人も娘も、デムマーク人なのである。 「本当ってロ だれが、お嬢さん、嘘をいうもんか。兄貴、 お前はどうも、口が重たくて……」と、なにやら眼配せする ように花崎を見やったカストロが、瞬後にはハッと身を退く ような表情になったのだ。じつに爽かな、峻厳なものが花崎 を包んだと思うと、 「なるほどね。このヵストロのほうが半年ほど私より早いの ですから……。おそらく、この縄索もその浮標のもんでしょ う。これは、この男のいうのが、間違いはないと思います。 しかし、私は一向に知ってない。知らないとあれば、資格はな いわけだ。カストロは行っても、私は残らなきゃアたらない」  というと、見るまにカストロの顔がくしゃくしゃになって きて、花崎の腰に抱きつき、わっとばかり泣きだした。 「済まねえ。兄貴。俺ア、ここを出たいばうかりに、嘘を吐 いたんだ。地獄から、娑婆へもどれる機会なら、だれでも嘘 をつくだろう。それが、これほどの事にもプスリとも云えね えなんて……。なんて、兄貴は素晴らしい男だろう」  沈黙がたがれた。誰もが感動に堪えぬ眼で、じっとこの二 人をながめている。男が男に惚れたようなクリステン・ニμ ップ船長も、ひどい眩しいものを見ているような上気したユ リアナも、ただ一塊のかたまりのように、蒲い灯影にゆられ ている。と、やがてユリアナが伯父の船長にむかい、 「お立派な方ですわ。伯父さまも、お助けしなきゃアなりま せんわね」と曝いた。船長もうなずいた。と、今度はユリア ナがヵストロにむかい、 「あなたも、お倖せな方ですわ。もうちと、私がくわしく訊 ねたら、曝れなきゃアなりませんでしたもの。実はあれには、 ひじょうな浮揚力を与えるための、|浮舟《デインギ 》というのが附いて いるんですの。ただの示錨浮標じゃございませんわ」という と、それに言葉を返したのがヵストロではなく、ひどく惹か れたような眼になった、花崎であったのだ。 「それ……、もしやしたら潜水艦用のものじゃないですか。 万一、不慮の事故で艦が沈んだようなとき、その位置を示す ために自動的に浮きあがる浮標がありますね。たしか『ヤン グマン』浮舟というのがアメリカにあったと思いますが」  娘はうなずいた。その顔にはまた、一つの驚異を加えてい る。さらに、その思いは花崎にもおなじだったのである。こ の娘の探しものがその浮標とするならば、とりも直さず沈ん だ潜水艦をたずねることになる。なんのため、どこの国の ーと、花崎は救われた悦びとともに、この娘に湧く疑問を 抑えることができなかったのである。が、とにかく、二人は この遺棄者の島からやっと解き放されることになったのだ。  その船は、四|橿《マスト》のバークで、「バミール」号というのであ った。元来、運賃の低廉ということが帆船の取り柄であり、 しかも、汽船があまり寄らないような、港から港へと貨物をひ ろってゆくーこの「パミール」も、やはりそうであったの だ。それにこの船は、ドイツやデムマークの青少年を訓練が てらに乗せている。ために気風もよく、航海学校の体であり …:、いま南太平洋を|智利《チリ》沿岸にそい、聖アムブロジオ島を かすめ、カナダヘと向ってゆく。この一月半ほどのあいだに 花崎への信頼が、ユリアナには動かせないものになってしま ったのである。  かの女は、ついに花崎にうち明けた。なぜその潜水艦用の 浮標を、さがし廻っているかということを……。 「父というのは、潜水艦の|重油機関《デイヨゼル》の研究者だったのです。 ことに、水面も水面下もおなじ機関ではしらせる、単一動力 の完成に一生を賭そうとした人でした。で、アメリカヘ赴い て工場を建てました。また四十五、六なのに、まっ白な髪の 毛になり……、そのおそろしい情熱には、子供の私でさえ恐 くって」  で、とうとう、その単一動力が完成したというのである。 潜水艦の動力については誰もが知るように、水面航走は重油 機関であり、潜航時は電力に切り換えることになっている。 というわけは、水面下において密閉されてしまうとなると、 重油機関の熱の放散や空気の汚濁が障碍となり、艦内の生活 がまったくできなくなるからだ。  しかしそうだとすれば、もし艦内の空気に開放されてない 機関ができたとすれば……、いわゆる、空気取入口を一つも 持たない密閉機関ができたとすれば……この問題は九分どお り解決されたことになる。従って、莫大な容積と重量を要す る蓄電池が不要になり、燃料は多く積めるし、航続距離も長 くなり、戦闘力においても格段の差を示すことになるだろ う。じつに永いあいだの、潜水艦学者の夢として……。  そういう、革命的な機関をユリアナの父が、完成した。す なわち、その機関は全然外気にひらいてない。名も、|自《セルフ 》 |給《フイ》 ーデング.エンジン        二・キゾ1スト.アブソ1ブ.サ1十二レ11シヨン 動機関といい、排気吸収循環装置というよう に、機関の排気を化学的に処理する方法らしいのだ。で、こ れは、むろん花崎の想像ではあるけれど……、たとえ排気中 の水素をパラジウム海綿に吸収させるように、メタン、一酸 化炭索などが混ったのを清浄して空気だけにしたものを、ま た|旧《もと》の|汽笛《シリソダ 》へ送りこむ循環法ではないのか。それとも、無炭 素燃料ともいうような劃期的なものが出来ただろうか。と、 花崎は夢中になってしまったのである。  が、そうしてみると、なぜ世の中を驚かさぬ間に闇のなか へ消えてしまったのだろうロ ー1その点を、こうユリアナ がいうのだ。 「花崎さんは、ユダヤ系の会社の『ペツレヘム造船』を御存 知でしょうか。父は、その研究の譲渡を『ベツレヘム』か ら求められたのですが、なにしろ一徹な性格なもんで、ぴた りと断ってしまったのです。するとそれから、陰に陽にベツ レヘムが妨害をはじめ、とうとう、それまで好意をみせてい た合衆国海軍までが、父の研究を喧ってしまうようになった のです。そこで父は最後の手段として、身をもって示そうと したのです。」六号という古い|沿岸艇《コ スタル》ですが、その払いさげ の船殻を買って、その機関をすえ、どれほど驚異的な性能を 示すか試舵の途にのぼったのが、ちごうど十年ほどまえの、 四月三日のことでした。カネチカット州ニュー・ロンドンを 出て、ロング・アイランド|瀬戸《サウンド》の朝焼けを衝いたまま、父の 艇のかげがこの地上から消えてしまったのです」  |航輪《ヘルム》のそばの|止索栓《クリ ト》のうえに腰かけて、陽覆いの縞目のか げを顔いっばいに浴ぴたユリアナが、愛する父の不幸を切々 と花崎にうったえてゆく。|海豚《いるか》の背、航跡にむらがる海蜂の 群、|洋漆《ニス》をながしたような水に総帆の影を描きながら、「パ 、ミール」はいま、南回帰線を衝っきってゆく。 「そうして、父の艇の消息が絶えてから、二年ほど経ったこ ろ、とつぜん、ひとりの生還者があらわれたのです。アラ ン・ピアスンという名の、古い潜艦乗りの兵曹で……、父の 航海のとき、副長として乗りこんだ男です。それで、父の最 後の場所や原因が分りましたけれど、どうもそれが、私には 信じられません。第一、最後の場所が、ヴィクテン島の近海 だというのです。とつぜん、機関の破裂から|艦橋《プリツジ》にいたのを 投げだされたと云いますが、あの航路にはずれた絶海のまっ 唯中で、どうして助かるまで、泳ぎ続けることができるでし ょう。おそらく所もちがい、原因もちがうのではないかロ と、疑ぐり出したところへ、ひょっと気が付いたのが……、 やはりヴィクテンという島が、ベlリング海にもあることで :::。いいえ、そこんところが、一番大切なところですわ。  だってもし、あの『遺棄者の島』のヴィクテソまでなら、 八千マイルくらいでしょう。それが、アラスカ近海のそこま で行ったとしたなら、二万マイルを越えますわ。わずか七百 五十トンの小艇が、無給油航続二万哩です。父の天才、父の 名誉。私は、なんとかしてそれを証明したいと考えて……」  まず、沈没時に浮揚する緑色の|示錨浮標《ナン プイ》を、ピアスンのい う遺棄者の島附近に探しはじめたというのである。しかし花 崎は、ユリアナの歎き、その父の不幸はともかく、ただ航続 二万哩が真実ならばとばかり、湧きたってくる。ユリアナの 話によれば設計図まで、盗難をおそれて父が艇内へ持って行 ったというのだから、もしアラスカ近海のさまで深くないと ころに沈んでいるのだったら、ユリアナの許しを得て引き揚 げることも出来るではないか。そうして、精鋭無比なわが潜 水艦を、いやが上にも強められるではないか。  けれどそれには、なにか秘密をもっているらしい、ピアス ンを突き詰めねばならぬ。で、かれはこう訊いたのである。 「そうすると、そのピアスンなるものが、ひじょうに大切な 存在になりますね。いまその男は、どこにいるのです」 「パナマ運河の太平洋岸にちかい、ペトロ・ミゲル間架の操 縦塔の主任をしています。臭いやつですわ。潜艦で、自分ひ とりが助かるなんて、まったく妙ですし……、第一、どこを どう通って国へ帰ってきたのか、その点もいっさい不明な男 です。それにですわ、父を中傷した『ベツレヘム造船』に 引き立てられて、運河に入れたのもその為だったといいます わ。あいつ、父の艇になにをしたんでしょうロ と、思うん ですけれど、独りぼっちじゃ……」  しかし、顔はきっばりとした決意の色を湛え、やがて花崎 さんと迫ったような声で云いかけた。 「御迷惑でしょうか。あなたのお国のため、あたしの父の名 誉のため、この仕事をひき受けて頂けませんでしょうか。ピ アスンを問いつめて、どこに沈んだかという|真実《ほんとう》のことを、 あなたのお手で吐かして頂けないでしょうか。そりゃ、まか り間違えばなんの効果もないでしょう。しかし、当ったとき は、なんという驚異でしょう。お厭P あたし、お厭だなん て云われたら……」  盟約が成り立った。が、思えばこれは、なんという|果敢《はか》な い仕事。|艇《ふね》が、アラスカ近海のヴィクテンに沈んでいなけれ ば、なんにもならぬことである。もしそれが外れたときは、 一切が水泡に帰するのである。しかし、花崎よ、凡庸の生を ねがうやーと、かれは自分をきびしく叱陀した。所詮はず れたとて、自分ひとりの死ではないか。当れば、祖国に貢献 すること、なんと大なるものであろう。それに目指すピアス ンは合衆国の潜水艦乗り。鍛錬に、訓話に常にいつか|見《まみ》える 敵と教えられていた国の、しかも、じぶんと同じ潜水艦にい た男。  日が暮れた。センタウルスの輝星や|南十字星《サザン クロツス》が輝く星空の したで、かれは、一つ一つ、毛穴から吹きでる猛烈な闘志に 酔い、怒りともちがい、怖ろしさともちがう、意識のなかで 顛えるような軍陣の戦標を感じていたのだ。  パナマ、かれは死闘を決意したのである。 三 この二人を見よ  最初はかれも、全土要塞ともいう運河地帯へどうして入り 込めるかと悩んだが、それを、カストロに相談すると、コン テーノのことを云いだした。あっしの|以前《まえ》の親分に、ディエ ゴ・コンテlノという偉いのがいたんだよ。それがいま、バ ナマのどこかで水商売をしているというからね。まあ、あの 人ならば、頼り甲斐が、あるだろうーという。  そこで、パナマ市の西のチェポ川の河口で船を下り、フィ リッピン人に化けた花崎とカストロの二人が、ジャングルを わけながらパナマ市にむかったのである。それからの事は前 篇の終りごろのコンテlノの話と重複するので、改めてここ では書かないことにする。  で、引き受けてくれたコンテ1ノが、どんな策を立ててく れたかと云うと、まず、水草除去人夫のなかに入れて、ペド ロ・ミゲルの間架の辺にゆき、そこで、間扉開閉の大歯車が ある、|主輪《マスタ  ホイ ル》のマンホ1ルに潜りこむ。そこはいま、爆 撃をおそれて十|呪《フイ ト》のベトンに覆われている。で彼は、そこ で深夜を待って夜勤のピアスンを加そうのだ。  リオ・グランデ|住宅地《レジデンス》というところにある、自宅ヘゆくの もいいけれど、いかにフィリッピン人に化けたとはいえ、五 |哩《マイル》の道をゆくことはロ また、途中襲うなどよりも燈台元暗 しの例えもあり、かえって深夜の操縦塔のほうが成功をみる のではないかと思われた。そうして、かれを脅してグウの音 もでないようにさせ、じぶんは、ゴルフ道具をかついでお伴 のようにみせかけて、じつに晴れの誘拐を「パミール」号に しようと云うのである。 「あっしがね、ゴルフ道具を隠しといた場所を、間違えない でくださいよ」と、コンテーノがなん度も注意する。 「いつも野郎は、早朝の退けとともにリンクヘ行くんです。あ っしが調べると、|明後日《あさつて》が、その番だ。で、そういう時は|非律 賓人《フイリツピノ》の下男のやつが、暁方ごろ道具を持ってゆく。それに、 あんたが化けようてんですよ。どうか、難かしいこったが、 御運がおあんなさるように……」というと、まるで自分のこ とのようにカストロが、 「親分、あっしからも礼をいう」と、コソテーノにべこんと 頭をさげ、 「それでこそ、親分だ、牧童にもいろいろとありやして、合 衆国じゃカウ・ボーイ、メキシコじやξ393..|智利《ヴアケロチリ》の .、|出《ウア》89."、パラグァイの 、.09083..と、いろいろ|名《ソチヤクレロ》があ りやすたかにもアルゼンチンの『ガゥチョ』といえば……う ん、あのコンテlノかというほどの、聞えた大親分。I恐 れ入りやした」と、燥ぎだしたのも哀愁をまぎらすためか。 笑っては鼻をつまらせる、カストロの純情さ。花崎にもこん な事をいふ。 「兄貴はね、時々ユリアナさんが泣いていたのを、知ってい るかね。兄貴が船長の部屋に、持ちものを預けたろう。それ を、こっそり自分の部屋へもってって、じっと見ては泣いて いる。ハッハッハッハ、あの水仙みてえな娘に惚れられやが って……。だが、兄貴のほうも満更じゃねえだろう。云え よ。兄貴もサムライじゃねえか」  別れのまえの日の、そんなような事を……いま主輪へゆ く、暗い坑道のなかで思いだしている。間扉の開閉ごとにギ イッときしる大歯車の音や、|大暗架《グレヨト カルバ ト》から出入する注、排 水の水流のとどろきが、ここへは地鳴りのように聴こえてく るのだ。思えば、奇運に導かれたとはいえパナマ運河の心臓 ともいう、主輪のそばにいま日本人がいるなどと云うこと は、まさに日米数億の人間の夢にも一度もなかったことだろ う。花崎にも、夢のように思われることだった。  と、やがて夜半が過ぎ、いよいよ時がきた。  運河通行人に対するのや、港湾あたりの厳しさにひき換え て、こう中まで入ってしまうと割に|放漫《ル ズ》たもの。間架操縦塔 の最上階の主任室まで、かれは楽々とゆけたのである。扉を ひらいた。右手に拳銃をもち、ズカズカと入っていった。 「オィ、なんだ」  と、ピアスンは両手をあげながら唖然たる面持で、場所 柄、振って湧いたかのようなこの閣入者をながめている。 1五十五、六の、狐のような顔をした男である。 「命は惜しいか」 「なんで、訊く」 「惜しくないもんたら、早いとこ話を決める。日本人は気が 短いからなア。しかし、惜しいもんなら、おれは相談があ る」  ちょっと、静寂がきた。たがいに腹をさぐり合うような、 隙を窺うような沈黙が…:。  正面には、この間架の模型がある。すべてが本物同様に、 注、排水もし……、間扉の開閉も、本物と同時におこなわれ る。つまり、本物の間架の操作に|同時連絡《シソクロナイズ》しているのだか ら……、平時、毎分二フィ1トの注水率などが厳守されてい るかどうか、それでピアスンが絶えず調べているわけだ。  それにここには、雇員の|悪性妨害《サボタ ジユ》をふせぐための、|基本《メイン》ス イッチがある。故意に排水を早めたり、時ならぬ開閉をする ようなときも、この基本スイッチの操作で、瞬間防ぐことが できるのだ。  すなわち、その基本スイッチは万能なのであり、階下の操 縦室でなにをしようとも、それを不可能にさせ、|悲《つつが》なく進行 させる力をもっている。  ピアスンが云った。 「云ってみろ。おれに、どんな用がある。また、君はなんと いう男だ」 「云うまいよ、俺が何者かと云うことはな。しかし、命が惜 しいものなら、すっかり打ち明けろ。 ハラルド・二ールセ ン、あの新重油機関を発明した男の艇は、どこで沈んだね。 また、どういう理由で、なにを貴様がして……」  と、ピアスンの額から一筋、すうっと汗が滴った。ちょっ と、なにか云おうとしたらしく、口が動くが、声はでない。 しかし、まもなく彼は|不貞腐《ふてくさ》れたような表情になり、 「頼まれたな。それが誰だか、応見はわかるがね」 「ふむ、ハラルドの娘の、ユリアナ・マリアだ」 「そうか。とにかくあの機関は、驚くべきものだった。普 通、一塒燗」馬力を発生させるために二百五十ポンドも要る 重さの蓄電池を、ポンと、潜水艦から拠りだしたのは、なん にしても偉功だよ。それに、空気は要らないし、熱はださな いし、たいして重量の増減もないし、水中速力もすばらし い」 「早くいえ。そんな能書をならべて、愚図付いてみたところ がだ。誰が来ようが、ちょっとでも変な真似をしてみろよ」 「分った」と、ピアスンは観念の色をうかベ、あれは「ベl リング海のヴィクテン島附近まで行ったのだ。じつに、無給 油航続二万二千六十哩」  航続二万二千六十マイルー。かれは、|決勝点《ゴモル》間近に達し たことを、祖国の神に感謝した。ピアスンは、脅され脅され いっている。 「わりと、浅海だ。おれは、貴様も察しているように、『ベ ツレヘム造船』に頼まれた。それで、機会をみて、沈めてし まう任務をもっていた。  しかし、一連托生というやつはなんにしても御免だし、俺 だけ遁れて、他が死ぬーてな手を、しっきりなしに考えて いた。|油槽《タンク》に、乾電池をつなげてバンとやらせるかIとい うようなことも考えるが、すべてが捲き添えだ。やはり、一 連托生をのがれるには、あの手より外にない。というんで、 いよいよ決行となった。  ヴィクテンの近海で、潜行することになった時だ、おれ は、|舶蓋《ハツチ》の内側で、|潜行警報《ダイビイング アラ ム》を鳴らしていた。艇長のハ ラルドがはいって、胎蓋を閉める。で普通なら、おれがハム マーで水密を緊にするところだが、いきなり、船蓋をひらい て、艦橋にとび出した。なにしろ、潜ろうって時なんで、溜 ったもんじゃない。開った船蓋から、ガアッと海水が……」  と云いかけたとき、なんとも云えぬ物凄い音響が、窓外の 間架のほうでしたのである。ぐわんとれ|衝《ごつ》かるような音、|金《か》 |属《ね》と金属が擦れあうような音、人間の狂喚、パッと窓へくる |火花《スパ ク》1。と、ふと側の模型を見るとである。二段目の間架 の水が、からからに退いている。思わず彼も、アッといって 驚いた。その瞬間、手にした拳銃を、ピアスンに叩き落される。 「どうだ」  と、拾った拳銃をポンと窓外に投げ捨てて、むしろピアス ンが捨鉢気味にわらうのである。 「分ったろう。命が助かりたいと思や、なんでもする、おれ が、この基本スイッチを後手でいじっていたのを……」 「ふうむ、貴様が水を退かした……」 「そうだ。ただ気の毒なのは、駆逐艦の『ディウェー』だ。 通り縄ったが災難で、さぞ壊れたろうよ。ハッハッハッハ、 こうでもしなけりゃ、俺は助からない。すこしの懲役くらい は、結構我慢する。貴様は俺を、ハラルド・二ールセンの娘 のところへ、牽いてゆく魂胆だったのだろう」  これには花崎も、声がでたかった。もう終りだというより も祖国の艦船を、自分ひとりを救うためには破壊すろさえ厭 わない、このピアスンには呆れるより外にはなかったのであ る。しかも、自分とおなじ港水艦にいた……。  と思うと、この惨めな負け方にも、ほのかな快びが……。 いつかはくる全体の勝利が、感じられてくる。  とおい空を、|焼肥土《  ちルバス》をつくる森焼きの火が染めている。こ れは、尾形老人がこの遺書を読みおわった時、聖ド、・、ンゴの 寺の方面にみた、それと同じものであった。