海狼白夜を行く 小栗虫太郎 密猟船 「エリザ・アダムス」 の帰帆  この話は、一八八八年すなわち明治二十一年、北米合衆国 西海岸のカナダ境いの州、ワシントンの一港町アバーディン からはじまる。  十月になると、はるかなオリムパスの連嶺がめっきりと白 くなる。山火事を消す鱈雲がひろがって雪になるまで続く凍 えるような雨のたかを……|幌車《ワゴン》の十台ばかりを連ねた、ささ やかなサーヵスの、.、Ω|三《シルク 》8|目《メドラ》&お9.、がアバーディンへ|着《きノ》 いた。前與行地のポIトランドからオレゴン|開拓道《オ ルド オレゴン トレイル》を縫い、 この|太平洋岸《コ スト》中での最北の港アバーディンヘくるには二百マ イルの旅。 「湿けるでのう。これさえないと暮しは楽だし、アバーディ ンも満更ではないがのう。時にゆうベの話は連中にしてみた よ」  翌日の午後、町の牧師でマッケーブという、いかにも |森 林《テイムパさ ラ》 |地《ンド》の説教者というような骨酪たくましい老人が、親方の メドラーノとならんで小屋建てをながめている。  メドラーノは、鼻下にピンとはねた|奈翁三世髭《アンペリア ル》をつけ、さ て紳士淑女諸君と|演芸司会《リング マスタ 》をやるが、そういう、|円戯場《アリ ナ》上の 彼よりも興行師としてのほうが、小才も利きなかなかの凄腕 だ。今度も、まず町風教を預かるマッケーブ牧師を抱きこ み、いちばん眼を瞑ってもらって一儲けという魂胆。  頭上の、栂の上枝へはザアッと雨があたっている。しかし 下の、酪駝色に枯れたやわらかな野草のうえは、ただ滴くが ポタリポタリと落ちてくるだけ。ゆうべ、暮夜ひそかに門を 叩いたマッケーブ牧師と、ここでメドラーノがひそかに会っ ている。 「お骨折りさんで」  と、牧師にぺこんと頭をさげ、 「で、首尾のほうはどうで御座んしたな?」 「それがね、少々親方にも泣いて貰わにゃならんことになっ たよ。じつは、わしと|判事《ジヤツジ》と|監察官《シユリフ》と三人で、匿名組合をや っておる。なんせい、このアバーディンも開拓早々じゃで、 ぜひ人も呼びたいし居付かせもしたいーということになる と無くてはならんのが、酒と女とサイコロの場所じゃ。しか し、なんぼ町の発展じゃからちゅうて野放図にされては、治 安、風教の点でわし等が困る。こりゃいっそ、|他人《ひと》まかせに せずに儂らがやろう。わしら、聖職公職のものがその衝にあ ったら、まさかに馬鹿な真似もできんし、いちばん無難じゃ ろう。てんで、マアこれは内密じゃがね。四人が出しあって ..一9Q..という酒場をやっておる」       サ川ン          つきあ 「なるほど、悪魔のほうとも大分お交際いのようで」 「ハッハッハッハ、こんな開拓地にいりゃ、自然そうなって しまうよ。ところで、今度お前さんが、。9ローO目..を持ちこ むと云う……。あの|大変《ノウテイ》な踊りにぎゅっと眼を瞑ってくれ と、ゆうべは儂んところへきてお頼みだったがね」  この、カンカンという踊りは十九世紀の華、|現今《いま》のレヴュ ゥのような|体操式《ジムナスチツク》なものではたい。裳の裏側には七重のだん だら、ちょいとその端をつまんで胸のあたりにたくし上げ、 スイスイ肢を踊らすと霜か煙かともつれあう。それに、なが い黒の手袋にまっ黒な靴、靴下も黒ならガーターも黒。おま けに、そのガーターがべらぼうに大きく、現今のあんよのシ ョウ以上の効果をそのガーターでみせるところが、カンカン のじつに粋なところである。  また、カンカンの踊り手は小娘ではない。男の、好さも憂 さもさんざん甜めたし、浮世の苦労も一応はしたしというよ うな、年増かあるいは白痴美というような娘が、ガーターを みせダミア式の声をだす。まったく、デカダンスといわれ頽 廃とそしられても、ともかくこのカンカンは一世を風靡した ものだ。  そんな訳で、州により宗派により禁止されたところがある ので、これで一儲けとたくらむメドラーノは、まずマッケー ブ牧師を説き黙過させようと云うのだった。  ちょうど今が、町民の懐ろがゆっくり膨んでいるところ。 漁期も終ったし、山もおしまい。フヲッタリー|海床《パンク》からかえ る鱈船があとを引き、山でも、雪をみてくだる|喬木伐《トリ  トツパ 》りや |樵夫《アクスマン》。まい日、荷物を|摩《ユルク》に積んで五人十人と、アバーディン の泥路へ現われてくる。  そこを狙ったメドラーノにカンカンを演られては、せっか くの、吾々の酒場.、一9甘..が空々になるとーまずマッケー ブの云い草がそうであった。で結局、カンカンはサ1カスで 演らず、、甘-甘..で演り、儲けは仲よく|半《フイフテイ》   々と、さ《 フイフテイ》|ん ざん摺った揉んだのあげく決定をみたころは、相当ラムの酔 いが二人にまわっていた。 「お骨折りさんで」  と括りをつけたメドラーノがにこっとなって、 「お噂はね、まえの與行地ですっかり伺いやした。アバ1デ ィンには、マッケ1プさんという大和尚がいらつしゃる。そ の方は、もういいお年だがお気は若い。助平で、気前がよく て、塞ころが好き。そのうえ、腕っぶしが強く、いまだにこ れもお用いだと、あっしに話してくれたやつが|拳固《れこ》をだしま してね。ざつとマア、マッケーブさんのはこの倍くらいだろ うって。だから、|喧嘩《でいり》といや、かならず顔がでる。アバーデ ィン一の人気男で説教はまずいが、浮世万端にかけては大通 でいらっしゃる。お前も、アバーディンヘゆくならあの方を 頼れと、とうにポ!トランドで伺っておりましたんです」 「恐れいったよ。なんだか、お前さんに棚卸しをされてるみ たいだ。どれ、|天幕《テント》ができたようだし、覗かして貰おう。力 ンカンの姐さんや太夫連の、|白粉気《おしろいけ》のないとこも乙なもんだ ろう」  はじめは、儂とかのうとかいやに|牧《  》師振っていたのが、だ んだん酔いが廻るにつれ、マッケーブの生地がでる。気さく で、道楽もので情にも脆く、|偶《たま》にはきたない仕事もするが、 悪どくはない。齢は五十四、五で白髪まじりだが、どうして 肌をぬげば隆々たるもの。それが、牧師でいて顔役という、 このアバーディンの名物男にさせたものだ。  天幕は、外廊だけがあらかた出来上っている。こんな、小 サーカスでは人足などはいず、道化師のトトが|側《マッド リフ》 |杭《ロック》を打 ちこんでい、|裸馬乗《エクエストリアンヌ》りのブラドーナ嬢が|滑車綱《タツケル》を鳴らして、 懸命に綱絞めをやっている。その、まだまだダブ付いていて 不安定な天幕のたかはザアッと雨の音がこもり、寒々と佗び しい。と、そのうす暗いなかから背の低い少女が現われて、 「親方、海のほうをちょっと見て来たいんだけど」 「なんだ、みんなが遣っているとき、油を売っちゃいけね え。マアいい、がすぐ帰ってくるんだぞ」 「ええ、ついでに。、Zε.、の|餌《ネツプ》も買ってきますわ」  その娘は、色の浅黒い|二十《はたち》がらみの子で、どこか冷々とし た意地のわるそうた感じがする。まして、肌も眼鼻だちも白 人ではない。それをまずマッケーブが訊いた。 「あの子は、君、インディアン|混《メステイ》血|児《 》だね《ゾ》|」 「いやいや、牧師さまのお|鑑識《めがね》ちがいで。あの子は日本の|千 島列島《ク リ  アイランズ》とかでうまれた、土人の娘です。幼さいときから手 なづけた、|膿胴獣《おつとせい》を持ってまして……ホラね、このポスター にあるネップというやつ。それを、梯子にのぼらせまして鼻 面で玉をまわさせる。マア、あれなら、どこへ行っても相当 た太夫でしょう」 「はあ、これかね。日本娘サクラさんという……」  どうした訳か、里心が一度についてしまったような顔で、 マッケーブがじっとそのポスターをながめている。そのこ ろ、娘は荷揚場になっている、海岸の泥んこ道をあるいてい た。 (マア、久しぶりだわ。まったく、久しぶりに海がみられた わ。北へ北へとゆくにつれて馳んでくる水の色は、やっばり 千島もここもおなじことだわ)  冬の、先触れのつめたい雨霜が、この港町をじっとりと包 んでいる。鱈船の|後《バ》橋|縦《 》帆|船《ク》、材木をつむ四橿の|前橿横帆《パヨカンテイソ》 船。その、ぼやっと量けた橿群のしたは、水面を覆ういちめ んの流木だ。まったくこのうす暗いもの悲しさや、腐魚のに おいが千島を想いださせてくる。  その娘は、北千島のホロムシロ島でうまれた。母は、どこ かの密猟船夫の種の|白人混血児《クレオ ル》、父は、かの女が生れるまえ とうに島を去っていた、日本人の漂着漁夫であった。そして、 名は、、|幻碧《ラヨ》9|三丙《チ ク》口|目《ンネ》o..土語で「黒い虹」という意味であ る。そのころ、ホロムシロ島のみならず北千島の土人はじつ に哀れた生活を続けていたのだ。  海獣は、有名な密猟者英人スノゥ船長をはじめ、英米密猟 船のため絶滅に瀕していたし、南千島の栖原角兵衛の船もこ こまでは来ず、春の鮭でやっと食糧は得ても、漁具の不備も あり大量のものは漁れない。そうして土人は、餓え、凍え、 薬もない悲しさに、当時は滅びるよりほかになかったのだ。  そんな訳で、密猟船の帆影は悪魔よりも恐いと、幼ないラ ヨチの頭にもハッキリと刻まれていた。すると、ラヨチが十 ニのときである。|末別飛《シ ベツトプ》沼の、水藻にあたった母がぽっくり と死に、ラヨチは天涯孤独の身になってしまったのだ。とそ こへ、滅多にこない栖原商会の船がきて、ラヨチが、磯でひ ろった艦胴獣の子を上手に使うのをみて、こりゃ珍らしい、 この子を場所にだしたら大変な儲けになると、わずかな物品 を餌に土人頭を説き、ラヨチを東京に連れてきたのである。  最初が、明治十四年の春内国博覧会にでた、仏人スーリエ の洋人曲馬。それから|羅蓉智《ラヨチ》嬢の芸名で鳴らしているうち に、どうだいちばんアメリカヘいって一稼ぎしてはと、誘う ものが一座のなかに現われてきた。ラヨチは、そこでとっく と思案してみた。  アメリカというところは、聴けばひじょうなお金になると いう。そうしたら、島の人たちを倖せにすることができる。 食糧も、金さえあれば栖原から買える。漁具も、いいのが出 来るし船もつくれる。第一銃器があれば密猟船を追っ払え る。と、そこで決心をしてアメリカヘ渡り、以来このメドラ ーノの花形になっていたのだ。 (この水をみたら、ネップもさぞ悦ぶだろう。ホロムシロで はまだヨチヨチとした赤ん坊だったけれど、もう八年子の立 派な成獣だ。ホロムシロ! 島の人たちはどうしているだろ うか)  アメリカヘ来て、まる二年の後にはじめて北の海をみた。 ラヨチは、ツンドラ湖を思いガンコウランの花を思い、はる かな母なる土の郷愁に咽び泣きながら、降りしきる雨に濡れ るのも知らなかったのだ。すると翌日、ラヨチの身辺に思い がけないものが訪れてきた。  その日も雨、縦や|赤杉《レツド シタ 》の林のしたに丸太小屋がたらんで いる。アバーディンの町の騎そろしい|泥道《ロビロリ 》を、踊珊の足どり でよたりよたりと歩いている、マッケープ牧師をラヨチが見 たのだ。昨日の人だ、と思ったときマッケーブに声がかか り、 「おい、坊さん」  と、呼んだのが|監察官《シエのフ》らしい男だ。 「なんだ、葬いかね」 「冗談しゃねえ。きよう、『エリザ・アダムス』号が帰帆し てくるんだとよ。けさ、ホーキアムヘ着いてから|駅馬車《ロ チ》をと ばして、もう俺んとこへ言伝があったんだ」 「そうか。じゃ、ふんだんに密猟して、膨らんで帰ってきた な」 「オイオイ、大きな声をして、密猟密猟って。だから、俺は 酔っばらいは厭なんだ。今度は、日本沿岸までいったんで、 千島種はあるし……」  えっ、千島PIと、ラヨチは思わず息をのんだ。このア パーディンは、さては海獣密猟船の根拠地でもあったのか。 千島、母なる土千島を掠めた? と、送りでる憤激にくらく らっとなり、ラヨチは支えをもとめるように、物蔭へしゃが んでしまった。監察官は、マッケープを抱えてなおも云って いる。 「とにかく、|獲物《えもの》もどっさり、話もたっぶりさ。今度の航海 は、日本の近海じゃ漂流小僧を助けるし、そいつがまた、い ま『エリザ・アダムス』に乗ってるという話なんだ。チェ ッ、この極道牧師、寝てしまってやがる」 死の海に生を  それから数日後、町はサーカスとカンカンで湧きかえるよ うな騒ぎになった。カンカンの踊り子は、まえから、、甘-甘.. にいる女たちとの反目がひどいので、寝起きは天幕でして通 うだけにしていた。夕方、|呼《バリ 》び|込《フさ》みがはじまって開演という ころに、のこのこ彼女らは腫れぼったい眼で起きてくる。  ラヨチが、ネップに|刷毛《プラシ》をかけている天幕のそとの、井戸 のあたりからこんた話し声が聴えてくる。 一人はメドラー ノ、一人はマドモアゼル・シャルルという踊り子の一人、す べて、カンカンの踊り子の芸名は男の名になっている。 「へえ、あんな酔いどれが、そんなに偉いのかね」 「マア、..冒-冒..の女どもにぐいと睨みの利くのは、あのマ ッケープのほかは誰もあるめえ。お前たちだって、因るだろ うが。踊ってりゃ皿は壊すし、|烏賊《いか》の墨をふくませたスポン ジを投げるし。あいつ、嫉かみで気違えになってるんだ。俺 はよく、マッケーブに頼みこもうと思っているよ」 「お願いするよ。こっち.は芸一本、向うはからだ一つだろ う。どう考えたって、さし障りはないんだからね」 「それには、まず坊主に薬を利かせたくっちゃなんねえが・: …。どうだ、シャルル、お前に頼めるか」 「なにをさ」  楊子を口からはなしたらしく、はっきりと女の声がした。 「マッケーブはお前が好きらしい。シャルルが、伝法で気さ くで、いちばん好いって云ってたぜ」 「へえん、やっばり親方にも鑑識ちがいはあるんだね。あの 酔っ払いさんの、御執心もんならお門がちがうんだよ。しょ っちゅう、とろんこの眼でサクラさんを見ているーあれ を、親方は気がつかないのかい」 「なに、サクラだ口」 「そうさ。あいつは、いかもの食いさ」  そんなことも、ああ嫌だと思ったのもほんの一時の間。ラ ヨチの頭のなかは「エリザ・アダムス」が助けた、日本の漂 流小僧というだけで他念の余地などはない。  どこにいるんだろう、「ニリザ・アダムス」はとうに帰っ てきている、それだのに、その日本人というのがいまだに現 われてこない。多分、会うことができたら千島の様子がわか るだろう。そうだ、いつかの監察官の話では今夜^へ≦|亭邑《ウイル ウイル》一《 》|・ ヨ|夢《マ 》、.に密猟してきた毛皮の取引があるというが……。そこ へ行ったら、何処にいるくらいのことは、聴きだせるかもし れない。  .^ミ|芦三一《ウずル ウイル》-|日夢《 マき》..というのは、インデアンの言葉で「銀の着 物」という、五、六マイル奥にある若縦の林の名である。そ この小屋に、今夜密猟毛皮の秘密取引が行あれる。おそら く、見付かれば命はあるまいし、ときどき|野牛《ノイソン》や狼の声を聴 くのもその辺であるが……千島のにおいに誘われる本能のよ うなものが、ラヨチを駆りたてるようにしてしまったのであ る。 「ああ、やっと来た」  ぽつりと一つある灯りの洩れた小屋に、ラヨチはようよう に辿りついたのだ。窓の隙間の細ながい空間には、ただ唾の 散っている床や長靴しかみえないが……話し声は手にとるよ うに聴える。 「|露国種膿納獣《コマンドルスキご》は、三等品でも異存はねえがね。ちっと、こ のクラルク(プリビロフ群島膿胴獣の名)のほうは、はずん で貰わたくっちゃ。みろよ、灯色の|光沢《つや》はあるし、ものが違 うだろう」  とその|濁声《だみごえ》は、どうやら「エリザ・アダムス」の船長らし く思われる。 「これを、アラスカ・カムパニーはいくらで買っている?」  「マア、十八ドルから二十二ドル半かな。しかし、じぶんの 国のを密猟したんだから、アラスカは駄目さ。少々、危険は 覚悟でロンドンへいってだね。ラムブソン商会ヘ持ちこみ ア、九〇シリングはくれる」 「そうか、じゃアラスカ並の七掛といこう」 「よろしい、後へひくような、|判事《ジヤツジ》でもあるめえ。だが、こ の|千島種《ク リ 》のほうは云い値で頼むぜ。だんだん減ってくし、姿 もいい。それに、下毛の白まじりがお値打ちというもんだ」  千島の膿胴獣、それを掠められることはラヨチをはじめ、 土民たちの血をしぼられるようなことである。畜生、私たち が滅んでゆくのもお前らのためだーと、歯がゆさ、口惜し       のぼ                           うしろ さにくわっと逆上せたところへ、ふいに、ラヨチの肩を背後 から掴んだものがいる。あっと、ふり向けばマッケーブの 顔。捕まった、ほかの事とはちがいもうこれ切りか。マッケ ーブ、こんなマッケーブの冷たい顔をみようとは……。  と、戦くなかにさっきシャルルがいった、自分にああだと 云う、あの言葉が活んできた。  ラヨチは、ただ遁れたいばかりに懸命な媚。いきたり、マ ッケーブに抱きついて胸に顔をうずめ、まるで恋する人にす るように|悦惚《うつとり》とした声で、あ あ、とかすかに|咳《モン デイユゥ》いたのであ る。と、どうした事か、いきなりマッケーブがラヨチを抱き あげた。そのまま、小屋へは入らず|雨需《もや》の樹間へ分けいっ て、もう一軒の番小屋のなかへ入っていった。 「|莫迦娘《ノウテイ》」と、いきなり床ヘおろすとラヨチの頬を、マッケ ーブがぐわんと殴りっけた。なにしろ、アバーディン一の腕 力家のマッケーブ。ラヨチは、一枚の板のようにぺたんと床 へのめった。が痛さより、あまりに思いがけないマッケーブ の仕打ちに、火花が散るようななかをぼんやりと顔をあげ、 得体の分らぬような眼でマッケーブを見はじめた。 「見損なった、いまの|醜態《ざま》はなんてこった」  とマッケーブの吐き捨てるような顔。 「おれの、ふだんの|所作《しぐさ》からみて、惚れてると思ったのだろ う。だが、お前みたいな薄汚いやつに、だれが粋興に惚れる もんか。|海狸《ピさヴア》だって気の利いたやつなら、お前よりゃよっぽ ど縞麗だ」 「あたし、あたしだって、酔っばらいは厭だよ」 「ふうん、加れの幻をめちゃめちゃにしやがって」  と、マッケーブがいきむような声で云いだした。 「話してやるが……。俺は、若いころインディアン|混血《メステイ ゾ》女と 一緒にいた。気のいい女で、モードという女の児まででき た。ところが、その女はまもなく死んで、俺はモードと二人 だけになってしまったよ。それから、十五、六年のあいだは |鯉暮《やもめぐら》しさ。俺は、男の手一つでモードを育て……あの子は、 アバーディンヘきた時は十八になっていた。するとモlド が、ここの湿った気候で胸をやられた。でとうとう、一年も 煩わずに俺を置いてっちまったんだ。俺は、それからぐう《フフフ》|た らになった。もともと、|俺《フ》という男は支えの要る人間だ。|支《つつ》 かえがなけりゃどこまでも行っちまう、それをモードがぐい と締めててくれた」  マッケーブは、もうラヨチをまともに見てはいない。半顔 に、影をきざむ痛々しそうた雛。もう|森林《テインバ  ラン》 |地《ド》の極道説教 者の加もかげは、佗びしい人生の吐露にうっすらとかすれて しまっている。 「いい子だった、わが子ながらも讃嘆に価いした」  マッケーブはつまったような声で続ける。 「死に際の透きとおった美しさといったら、天使にもないだ ろう。それに、正義感のつよい意地のつよい娘だった。眼 が……そうだ。お前の、三文の値打ちもない造作のなかで も、眼だけ……。それがモードにそっくりなんだよ。俺は、 はじめてお前をみたとき、ハッとした。1老マッケーブの 枯れはてた野が……うるおって……俺ア泣いた」 「そんなら、なにも打たなくたって……」 「そいつを、いまの|醜態《ざま》ですっかり壊しやがって。おれは、 モードの幻をお前んなかにみていた……。それを、妙な色気 で台なしにしやがって」 「あれ、また打つ。あたしが、お前さんの胸のなかが分ろう 道理はないじゃないか。それを、自分勝手な理屈をつけて人 を打つなんて、アッ。打たないで、訳もあるこったし打たな いでよ」  その、..≦一一-三一・日夢..の一夜が結びとたって、きゅうに、 ラヨチとマッケーブのあいだに、親愛の情が深まった。ラヨ品 チは、すべて残らずのことをマッケーブに話したし、マッケ ープは、船の|濫禁所《ブリツグ》のなかにいる日本人の若者を、釈放する ことにひじょうな努力をした。そして、それから十日ばかり の後、はじめてその若者が|陸《おか》ゆきを許されたのである。  毛皮の帽子に、指までくるようなダブダブの服をきて、久 かたぶりの外気を嬉しそうに吸いながら筏のうえを浜沿いに あるいてゆく。と、小柄な娘がいっばい微笑みながら、 「ちょいと」  と日本語で声をかけたのだ。むろんそれは、出るのを待っ ていたラヨチであるが。 「お前さんは、『ニリザ・アダムス』にいた日本の人だろう。 私も、加前さんとは同国の人間だよ。まあ、やつれて、可哀 相心に・::・」  その若者は、まるで夢かとばかりに砥々口もきけず、こん な異郷で逢う思いがけない日本人に、先だつものは涛泊たる たがれだ。|鹸《とし》は十八、九でちょっと凄味があり、面長な顔は 役者にも見まほしい。聴くと、名を鷺崎兼次郎といい東京の うまれi外神田の|旅籠町《はたごちよう》だというのだ。で彼は、|繧緻《きりよう》が禍 いしてか早くも女、それからお定まりの悪の道という順序。 これまで、由良港の感化船にいて、ときどき淡路の島から、 外洋にでたという。この由良丸が感化船のはじまりで、続い てのものが分捕清国艦の、例の鎮辺号であった。 「じゃ、誤って落ちて浮いているところを、『エリザ・アダ ムス』に助けられたというんだね。私は、お前さんからぜひ 聴きたいことがある」  それから、林木を積み加ろす|轄櫨《ろくろ》小屋にいり、雨の港をな がめながら二人は話しはじめた。兼次郎は、エリザ・アダム スが千島沿いに行ったというのだ。ラヨチは、急きこむよう にホロムシロのさまを訊く。 「いやしないよ。ホロムシロの島には、人っ子一匹いるもん か。あっしが行ったときは大きな鯨が、海岸に一匹骨だけに たっていたがね。ほかには、狐もいたし罷黒もいたが、人間と たると墓もないんだ。なんでも、墓を熊が掘って死人をしゃ ぶったらしい。死んだやつまであの島にゃいたいよ」 「そんなことは、ない筈だがねえ」  とラヨチは不審そうに眼を曇らした。 「私は、まい月とった金をそっくり送ってるんだよ。日本の 外務省へ宛てホロムシロヘやってくれとザッと、積もってみ りゃ四、五千ドルにはなっている。それが、一体どうしてし まったんだろう」  ラヨチには、その死の島の光景は聴くだに耐えないこと。 聴けば北千島土人は一括されて|色丹《シコタン》島に移されたというが、 おそらく、そのまえに全減していたのではないか。鯨の骨と いえばその腐肉を食ったのではないか。餓鬼道1、獣さえ 骨もささらに清せ衰えている、ホロムシロは死の島とたった のか。  ラヨチは、なんだか千島の|海霧《ガス》の呼び声のようなものを感 じてきた。 「お前さん、いま帆前船一艘、どのくらいで買えるだろう ね」 「サア、百|噸《トン》のバーク型が七千両くらいかね。だが、姉さん はなぜそんな事を訊くんだつ-・」 「ゆこうと思うんだよ。ホロムシロの有様をぜひとも見たい し、それに、私たちを滅ぽした密猟船の国の、膿胴獣をめち やめちゃに|殺《や》ってやるんだ」  だいたい、冷たい感じのするラヨチの顔が、そのときはじ つに怖ろしかった。頬には、紅味が消え凍ったような白眼、 こうして、種族の復仇の鬼となったラヨチ・クンネは、やが て行きたい行きたいと、子供のように泣きはじめたのだ。  アラスカS・Sのシスコ|行《スチ ム シツプ》きが、いま|外車輪《サイド ホイ ル》をかきた てながら港をでようとする。船出の幸をいのるマドロスの仁 義が、あちこちの帆船から夕霧のなかを漂ってくる。   |海《エ 》はちいさし、|神《リトル シイライイン》の|大《グ 》なる|眼《ビニ ス 》のもとには…《ゴツズ アイ》|. 「ゆくとも」  とラチヨはふらふらと立ちあがった。 「私は、千島からべーリングの海ヘゆく」 外神田講武所  その日から、|舞《で》台の暇をみては兼次郎とあい、ラヨチは密 猟のことをいろいろと聴きだした。それによると、第一がま ず棲息所を襲うこと。それから、棲息所の膿納獣の食事場所 である、ちかくの海上にある|求食地点《シ リンク グランド》をさぐること。し かし、以上の二つよりもいちばん普通なのは、大洋をゆく廻 游路の襲撃だ。  その北太平洋における脇胴獣廻游路は、のちにラヨブの手 で精密なものがつくられた。日本海獣猟獲者にとっての大宝 典ともいう、いわゆる「ラヨチの廻瀞図」というやつだ。  それによると、露領コマンドルスキi群島にくるロシア種 は、二月には日本東部海上の東経百四十七度、北緯.二十六 度、四十一度間にいる。それから北上し、六月には北緯五十 一度のパラムシル島の南方、そして八月には、コマンドルス キー群島の五度以内の範囲にくる。  また、べーリング海のプリビロフ群島にくるいわゆる|米国 種《クラ ク》は、サン・フランシスコ東部の海上あたりからしだいに北 上し、六月にはカナダのシトカとアリューシャン列島間にい る。それから七月にウニマク島とアクン島間、いわゆるウニ マク|瀬戸《バス》の危険た海峡を通るということが、のちにラヨチの 銘記すべき発見となる。いずれにしろ、この海上猟獲は棲息 所をくるしめ、どこでも密猟の惨禍に島民は泣いているの だ。  ラヨチは、兼次郎の口からかねがね案じていた、千島海獣 の絶滅をはっきりと確めた。これは、明治初年にパークス公 使の庇護をうけ、公然千島を密猟して絶滅の因をなした、「ネ モ」号の船長英人ジェームス・スノゥも、次のようにはっき りと云っている。  わが輩が、一八八一年千島列島を訪れたときは、スレトネ フ島で五千頭、|牟知島《ムシル》では数千頭を獲たが、その二年後の八 三年にふたたび訪れたときは、ただ|雷公計《ライコク》島に数千頭を見た のみであるーと。続いてロシアの調査官ステイネゲルは、 一八八六年にはまったくいずーと報告している。すなわち 英、米、加の密猟帆船によって、千島土人の母、海獣は全滅 したのだ。  ラヨチは、もう決して泣かなかった。一つの、かたい決意 をしっかりと抱いて、與行も中日を過ぎた霊のある夜のこ と、町のあちこちにマッケーブをさがしていたのだ。、、甘へo.. の扉をおして酒場へいり、 「マッケーブさん、来てるかしら……」  と訊いた。 「それがね」  と一人が笑いをこらえるようた表情で、 「太夫さんよ、お葬いの世話なら断ったほうが、いいぜ。あ いつにゴニョゴニョとやられたら行けるものまでが、妙に小 酸っばくなって天国ゆきが駄目になるよ。野郎はいま、力ー ドで負けて五、六人ひっばたいたとこだ。それから、飲みア がって庖えやがってさ。いま、ラッシーの部屋へやっと納め たところだよ」 「マア、なんてこったろう」  と、さすがにその部屋へはゆき茨ねているところへ、ひょ っくり、ラッシイというその女が踊り場のほうからやって来 た。 「なアに、あたしの部屋ならお|関《かま》いなく。さあさあ、悪口の 種にたんと見てらっしゃいよ」  と、皮肉な|流師《ながしめ》をあびてその部屋へ入ると、尿瓶と安白粉 のにおいがぶんと鼻にくる。マッケープは、|牧師《クレリカル》カラーをひ んまげて大の字にたり、床のうえで海馬のような軒をかいて いる。 「マッケープさん、ちょっと起きてよ」 「うう、ううい、誰だ? マッケーブさんだなんて……先生 と云え」  ちょっと薄眼を開くとびっくりした表情で、まるでわが子 に閨をのぞかれたように、マッケーブはきまり悪げに起きあ がった。 「いまマッヶーブさんは、人を打ったそうね」 「うん、年老りのくせに、健康なのがいかんのだ。時に、ラ ヨチはこんなところへ何の用できた?」 「あたし、マッケーブさんに博変をして貰いたいんだけど」 「なに」  とマッケーブはぽかんと眼をひらき、暫くフラ付く腰を据 えながら、相手をながめていたが、 「うん、なにかラヨチは決心をしたね。顔に書いてある。そ れで、金が要るんで、おれに|賭《は》れというんだろう」 「ええ、いよいよ私、国へかえる決心をしました。こないだ 話したように帆船を買って、いままで、私たちを苦しめた国 の海獣を狩るんです。眼には眼、そういう言葉が聖書にもあ りますわね」 「そうか、いよいよ行くか」  ちょっと胸せまったような息をして、暫く顔を伏せていた が、 「じゃ、おれに|賭《は》らせる|資本《もとで》は、いくらあるね」 「二百ドルに、ちょっとなんですけど」 「それから、俺に儲けて欲しいという金額は?」 「五千ドルは、どうしても要るんです」 「ううむ」  と彼は呆れかえったと云うように、暫時捻り声を止めなか った。 「二百ドルで、五千ドル儲けとは大変なことになったもん だ。だが、『エリザ・アダムス』の船長とでも闘って運よく ばだね、そのくらいの金は掴めるかもしらんが……生憎、こ こんところ俺は曲り続けなんだ。そうだ、よし。おれは、こ れから十回ばかり費をふる。もしそのなかに一度でも、|五《ハン ツ》ゾ ロがでたら|俺《ウ》は|賭《ま》ることにする。いよいよ、三リンポウもこ れでしまいとして、俺は洋々たるバク運にのってみる」  しかし、ついに五ゾロは一度もでなかった。|落胆《がつかり》した、ラ ヨチには眼もくれず獣のような足どりで、暫くマッケーブは 部屋中をあるいていたが、とつぜん、 [そうだ」  とぽんと手を打って立ちどまった。 「ここに俺は、やや確実にちかい方法があるのに、気がつい た。やるかね、ちょっとラヨチには難しいかもしらんが……」 「どんなことですの」 「いやね、それは|恐喝《プラツク メ ル》なんだ」  と、ちょっと息を引いたようなラヨチの顔を見やりなが ら、マッケーブは小声でいいはじめた。 「今度の、『エリザ・アダムス』の密猟毛皮には、米国種が まじっている。他国のものたら、密猟が分っても不問に附さ れるが、自国の、海獣を密猟したとなると没収懲役はまぬか れん。そこを、あすの晩ここで連中が集まるで、お前が来て ぐいと挟るんだ」 「出来ますかしら、そんなこと」 「出来るも、出来ないも、お前の度胸一つだ。で、方法はこ うしたら、どうだ。例の、日本小僧の鷺崎兼次郎、あれを |明朝《あした》の一番駅馬車でホーキアムヘやる。ちょうど、監察官の 荷という名で毛皮を積んだ船が、明日はホーキアムの泊り だ。いいか、この組み合せがひじょうに大切なんだ」 「   」 「ホーキアムは、いまアバーディンと競りあっていろ港だ。 林木を呼ぶためにはどんな手段をとろうとも、アパ1ディン を陥れようとしている。そこだ。もし金をださなけりゃホー キアムヘ曝らす。あすの朝までなんの便りもないときは、こ んた|醜《スキヤンダ》 |聞《ル》がアパーディンにありますと、ホIキアムの役所 へ鷺崎がでるーとマアこんな具合に嚇すんだ」 「私に、そんなこと、出来そうもないけども」  と、ただラヨチは心許なげに瞬いている。 「やるんだよ。俺も、なんとか上手にロ添えするよ。いいか ね。いきなり入ってきてこう怒鳴れ。ホーキアムが船火事だ といえば連中はびっくりして、その方角の窓際へゆくだろ う。そうしたら、お前が大きな声でワッハッハッハッハと|供 笑《たかわら》いする。それくらいは、お前も曲馬にいるだけ芝居気はあ るだろう」 「   」 「いいかね、お前たちが出演のときやる|呪《まじな》いみたいなものを して、その部屋へ楓っとはいって来い。俺は、離れてもいて もお前の手を握っている。しっかり気をもって、怯けずにや れよ」 「有難う」  とラヨチは感きわまってわっと泣きだした。その、胸にき た頭をマッケーブは撫でながら、 「なあに、俺が|内儀《かみ》さんに引っばたかれりゃ、それで済むこ った。今年の毛皮は、いずれ分前が五百ドルばかりにたる が、その当てにしたのがフイテコになったら、さぞあの婆が 怒るこったろう。また賭ったか買ったかで大嵐になるが、な あに、それくらいは、お前のためなら……」  その、千番に一番ともいう大離れ業が、見事にも翌夜成功 したのだ。ここで、ラヨチは八千ドルばかりを握り、いよい よべーリングの海ヘとアメリカを発つことになった。  別れの日はひくく雲が垂れ、ひゅうひゅう虚空に風が荒れ て、粉雪がちらついた。町外れにあるマッケープの|娘《こ》の、モ ードの墓をでると駅馬車が待っている。 「じゃ、からだに気をつけて、便りをしてくれ」  マッケーブは、鼻をつまらせて、やっとそれだけを云っ た。ラヨチは、ただおろ茄ろと口もきけずマッケーブの手を とってしばらく頬につけていたが、 「お世話になりました。ふしぎな御縁から、御迷惑ばかりお かけして」  マッケーブは、うごき出した馬車に四、五間縦いてきて、 「俺はいま、馬鹿と無法でぴんしゃんしているが、もう四、 五年もしたらすっかり老いこむだろう。お前も、この寒い港 町で内儀さんにいじめられている、年老がいることも偶には 思い出せよ。じゃ、ラヨチ、さようなら」  泣いている、マッケーブの姿が尾灯のかなたに遠退いてゆ く。馬車は、別れの哀愁から希望の日本へと、降りしきる雪 のアバーディンを出ていった。          X  ラヨチは、東京にくると兼次郎の家に落着いて、まずなに より先に外務省を訪れた。すると、これまでかの女が送った 金は便船がないために、ホロムシロヘは送れずに保管してあ ったという。それはいい。またラヨチが、転々とするサーカ スにいるので送り返せなかったというのも、頷かれる。しか し、北千島といえばてんで念頭になく、実用価値皆無のため 国土でありたがら、あたかも外国の辺土のようにいう属官の 口吻に、まずラヨチはさいしょの不快を覚えたのである。  ちょうどそれが、明治二十二年二月九日。市内は、二日後 の紀元節に行われる憲法発布御儀の祝祭で、|山車《だし》や|緑門《アヨチ》はで きるし、たいへんな賑いである。兼次郎の家は外神田の講武 所で、御家の母親がひとり絵草紙屋をやっている。裕な暮し で小ざっばりとした店、ぐるりは外神田芸者の旅籠町の|花柳 地《かりゆうち》。 「サア、こちらへきたらこちらの|服装《なり》をなすって、そんな窮 屈袋などは脱いでおしまいなさいましよ」  兼次郎のお袋は四十のあとさき、ちょっと情波洩れこぼれ るといったような、仇っぽさのある女だ。 「薄利休かなんかの品のいいお召しもので、文金かなんかお 結いだったら・そりゃ似合いますよ。これから・私がお糠り の指南番で、せいぜい兼次郎の御恩返しをしますからね」  と云ってから、ベロリと舌をだす。そこへ絶えず近所の芸 者がラヨチをのぞきにくる。 「たあに、おばさんとこにいる、あの妙な女?」 「あの人かえ。私はあれに、いまに文金を結わして見世物に するからね。ほんとだとも……。あれでも色気のほうは、い っばしなんだから……」 「ホホホホホホ、でも、冗談はとにかく、どういう人?」 「土人さんさ、いまに何万という膿胸獣を獲ってくるんだっ て、小夏ちゃんも、旦那に話して申し込んどきなさいよ」 「ワア厭だ。あれよか、精分がついたら、フルフルっとなる よ。時に、おばさん、兼次郎さんいて?」  ちょっと、権十郎ばりの兼次郎の顔は、始終眼ひき袖ひき されるだけに、東京へ帰って以来、あれほど、ラヨチを扶け るとかたい約束をした、その決意もぐらついて来たように見 えた。ラヨチは、帰ると意外にも軽薄な人心に、すっかり望 みを絶たれうち挫がれたようになってしまった。それから、 犯罪者などの多いハマの船夫宿をさがし、乗員と、六十噸ば かりの古いバークであるが、ともあれ幌莚丸と名づけるそり 帆船を手に入れたのだ。四月二十日、日本最初の海獣猟獲船 が、ハマの朝霧のなかを発っていった。 |銅島《メ ドヌイ》の白夜  この海獣猟獲船は、当時も現在もすこぶる有利な事業。は や、最初の年に|投《も》資|額《と》がかえると云うほどだ。ラヨチの出費 は、船体七千百円をはじめに、ざっと一万円ばかり。これ で、一猟期平均四百頭膿胸獣を獲ば、一頭安く見積って四十 円にしても、ちょうど、給料食費などを合した額とトントン にたる。しかし、ラヨチの目的はそこにはたい。ホロムシロ を死の島とした元兇スノウの船を、北太平洋の海上で追おう というのだ。  変った。ラヨチはさいしょの意志を捨てたのだ。  米、加の膿胴獣を狩るという大いたる復讐をねらわずに、 ただただ狭い個人のじぶんに関するだけの、生地を根こそぎ にしたスノウを狙うということは……、結局女心の偏狭に落 ちたわけである。 「じっさい、|姐《あね》さんの顔ときたら女ばなれがしてるんで、俺 たちはどれほど助かるかしんねえよ」  遠慮のない、たかには刑余の者もいよう犯罪者もいよう が、いわゆる|不定期船《トラム フ プレ タ 》の帆船ばかりをあるいている、船夫 どもはこんなことを云うのだ。冷灰というよりも執念の鬼と なった、ラヨチにはいささかの笑いもない。船夫は、女がい ても女とも思えず、下手に夢にみれば魔されてしまう。やが て、水の藍色がきゅうに馳んできて、船は冷々とした親潮の なかへはいってゆく。水温摂氏九度、尻矢岬をさる百カイリ のこの海上は、もうどこかに廻游群をみなければならない。 「姐さん、いよいよその船が見えたら、戦うんかね」 「そうさ、なん人殺そうとなにを盗ろうと、向うに退け目が あるんだから、関やしたいよ。ねえ、誰かお前さんたちんな かに、海賊だったのがいるかい」 「冗談じゃねえ、コチョコチョした奴ばかりで、そんな親分 はいませんよ。じゃ、この捕鯨砲でも偶にゃ習いましょう」  船には、 .、→o|鴨《トツグ》一〇".|捕鯨砲《ルガン ハ プン》という旧式なのが具えてある。 その操作を絶えずやっているうちに、一夜猛烈た|荒《し》けに襲わ れた。|国後《クナシリ》島にちかい根室沖。遠雷のような潮鳴りと、船首 にあたる衝水のとどろき。どしんと衝きあたっては、ザアッ と|舷《ふなぱた》をきしってゆく。すると翌朝、霧れて、海霧の裂け目 を水上にうかんでいる、五つ六つの黒点のようなものを見つ けたのだ。 「おうい、膿胸獣がいたぞオ」  橋楼から、|戯風《かんぶう》をきる胴間声がして、四、五人、|下桁《プ ム》をく ぐりながら、|船首《みよし》のほうへ馳せてゆく。すぐボートがおろさ れたが、それは死骸であった。傷口も、生々しくついばまれ た跡もない。 「昨日中だよ」  と、みているラヨチの眼がだんだんに燃えてきて、 「昨日のような、波のたかい日は射止めても駄目たんだ。こ んな具合に、ボートヘ引きあげもできず流してしまうんだけ ど、こんなようじゃ、スノゥの船がよほど近いかもしれない よ」  廻游群を追って北上する英人ジェームス・スノウの「ネ モ」号を、いまにも錫色をした水平線上にのぞむかもしれな い。それからホロムシロ島で回想の一夜をすごしたが、海 は、すでに北海の灰色。海霧と波は無限の荒野のように、と きどき冷雨がふり、くらい日々が続いてゆく。やがて船がす でにべーリング海に入ったと思うころ、海霧の土堤を背に帆 影のようなものを、認めた。 「いたいた、あの|横帆船《シツプ》にゃ見覚えがあるぞ。あれが、ハマ でみた『ネモ』号かどうか。たしか|後摘最上帆《ジツガ  スカイスル》が新品だった はずだが」  と|水夫長《ボ スン》の檀崎というのが双眼鏡でみていたが、まもな く、息をはずませまっ赤な顔になった。 「姐さん、あれに違えねんだが、おっ始めるかね」 「やるともよ」  とラヨチは昂然とさけんだ。 「いま追風だし、総帆で追っておくれ。あいつに、なんでホ ロムシロの死霊が、船脚をださせるもんか」  そこで、幌莚丸はぐいと廻頭し、総帆を展じ疾走をはじめ たのである。|帆桁《ヤ ド》のきしり、はり裂けんばかりの帆。たちま ち、山系のように艇りがばっと緑にさけ、潮煙が叢のように 前橿帆にふりかかる。帆船の、十度ほど傾いではしる満帆の 疾走は、まさに公海上の大飛魚であろうが、ここでは、死へ の距離をしだいに縮めてゆく、冥車の陰々たるとどろきロ  やがて、八海里ほどあった距離が|呪尺《しせき》の間にせまった。し かし、「ネモ」号は悠々として、じぶんを追うてくるこの怪 帆船に、まだなん等不審を感じたいようにみえる。  と、一発、幌篭丸の船首からばっと火光があがった。折れ 釘や、ボロを詰めた|粘土霰弾《ラングリツデ》というやつ、これで、甲板上の ものを傷つけ、帆は焼き払おうというのだ。しかし、古砲で もあり薬力もにぶく、弾は、ネモ号に届かず、サッと水面を |飛沫《しぶ》かせた。すると、ネモ号からもダーンと小銃の音、これ は、見事にも|斜橿《やりだし》の綱をきる。 「|間抜《ぶま》、粉微塵にたる気で、どんと|打衝《ぷつか》るんだ。五|鍵《ケ プル》もゆ かない弾なんぞは捨てて、どんとゆこうじゃないか」  ラヨチの、しずくの垂れる髪、食いしばった唇。種族の仇 ともいうスノゥの船をまえにみて、いまラヨチは羅刹のよう に燃えさかっている。しかしその時、べーリングの空に急変 が起ってしまった。  海霧の一部に、白光をながしていた陽がだんだんに窮りは じめ、さっと、雲が切れたかと思うと吹き茄ろす突風。|縣 風《サィクロン》1と、船夫たちは戦いをわすれて、叫んだ。たちまち、 豪雨の帯が土堤のように押しよせてくる。と、また風が空間 をくるくる廻るその濃淡の波に、それまで吸尺の間にみえた ネモ号の帆が灰色をした壁の向うに消えてしまうのだ。 「姐さん、これでも戦えたって、相手がみえねんだ。サア波 に掠われねえうちに、|温和《おとな》しく下りなせえ」  全員で、鰭門を閉じ主帆を捲きおわったが、小帆は間に合 わずぴりっと裂かれる。帆桁に、マストを倒すまいと横木を 縛りつけ、ホッとする間もなく排水ポムプの音。 「また、出てきた姐さん。けえっ、なんて強情な女だい」 「あたしは、こんな千載に一遇の機会をのがしたら、死ぬほ かはない。いまに、接触でもしたら、躍りこもうと思って……」  ラヨチは、両舷からくりこむ砂塵のような潮を浴ぴ、まる で狂ったように帆影をさがし求めている。しかし、幌篭丸は ついに坐礁した。それが、メードヌイ島の|海豹岩《ネルヒ チ  カ メン》であっ た。  土民は、幌篭丸の捕鯨砲をみ、また獲った海獣類が船中に ないことから、これは密猟船ではなく捕鯨船だと信じた。そ して、食料をはこびなにくれの世話をするのだった。この島 は、コマンドルスキI群島中の|猟虎《ヲツコ 》の豊猟地。隣島の、コマ ンドルスキl島にくらベれば、相当裕かな島である。とまも なく、島の向うがわの|老大獣入《セカチンスカヤ》江に、舵器を損じた「ネモ」 号が漂着しているのを、聴きだした。  ラヨチは、まい日山沿いのツンドラ帯をあるきながら、い つかスノゥに逢うかと、望みを捨てなかったのである。足首 の挫傷、それがなければ迅雷のように襲いかかったろうに ..::o  ロッペン島の、糞のたかから苔花が咲いている。ふかふか と柔かな泥炭層のそこは、所々に自樺はあり川柳はあり、と    サ 久ナ きどき苦百合をふんで北極狐が消えてゆく。すると、この島 へきて十日ばかり経ったころ、ラヨチは、残雪のなかをゆく 背のたかい自人をみたのだ。それは、よく見ると副木をあ て、右手をどす黒いボロで吊っている。 「スノゥさんですね」  とラヨチが試しに声をかけた。すると、その白人は思わず 立ちどまり、じっと、相手をみながら近づくのを待ってい る。 「スノゥです。だが、あなたは?」  ちょっと瞬間、ラヨチの隠しにもぐもぐうごく手や、銃口 らしい突起に警戒の色をうかぺたが、別に、スノゥには動じ た気色はない。それにひき代え、ラヨチはあふれてくる殺気 を覆おうとしても、声がふるえ、どうすることも出来ないの だ。 「助けてよ、マッケーブ」  と、いまは遠いかなたのアバーディンヘ声をなげ、あの森 林地の極道説教者の温かい血を、気附けのように感じながら 振い立とうとしたのである。すると声がでた。 「こないだ、あなたの船を襲った帆船があったでしょう。あ れは、ホロムシロ土人の私の指図でした。あなたが、滅した ホロムシロの人間には、また、あなたを葬ってもいい権利が あります」 「こりゃ、|強《きつ》い」  と、スノウはにっことした。  胆斗のごとく一帆船に乗じ、北海を荒しまわると云えば、 並々の男ではない。学識もあり、「|千島諸記《ノ ッ オン ゼ ク の アイラ》」のご《ンド》|と き名著もあり、ともあれ、日本に害をしたとはいえ|偉物《えらぶつ》であ るにちがいない。かれは、白髪を頂いた見あげるような偉 魑。 「お娘」  と、スノウは|鎌《さと》すような声でいう。 「天地万物の摂理は、力というに尽きる。いま、あたたは私 を射ちたいだろう。しかしそれは、ただこのスノウという人 間ひとりを消すにとどまる。あんたがた、千島土人を滅した 力というものには、そんなことでは微理も入らんのだよ。お 分りか。これは、個人のことではなく国の力だということが ……」  ラヨチは、隠しの引金を、どうしても引けなかった。まる で、胸のなかへ襖を打ちこまれたように、喘げば喘ぐほど身 うごきができなくなる。まったくだ、この人ひとりを殺した って、どうにもなるもんか。  と、きゅうに眼先がひらけた広潤な感じと、種族に済まぬ という熱い胸に、ラヨチは泣き笑いして云った。 「分りました。いずれ私は、日本のスノウとしてお国に恨ま れるようになりましょう。喜望峯までいって、南阿の脇胸獣 を狩りましょう」 「ハッハッハッハ、いい子だ。あんたは、たんという名だ ね」  と、はじめてスノゥが親愛の笑いをみせた。  陽がしずんだが、またすぐに出た。白夜の青白さがこの荘 漠たる寂蓼のなかで、二人の歴史的対立者を照しでいる。一 人は、国の峠を下り、一人はのぼる。じつに、いま北太平洋 を席捲する日本の海上猟獲は、ラヨチがスノゥに会ったこの 瞬間にはじまったことである。