開化日棉譚 小栗虫太郎 五文剣舞  古老の話によれば、元治元年の六月はひじょうに暑かった そうだ。空梅雨の|早《ひでり》が月越しになって、いま豪商軒をならべ る日本橋の往還も、橋から四丁目を吹きぬくもうもうたる砂 挨。その、通り三丁目を右からかぞえると、1|大《ぽうむい》、伊豆屋、 中居屋となる。その中居屋の店先が、いま西日も何かはのた いへんな人だかり。  のぞくと、居ならぶ番頭どもがぺたりと平伏しているのを 尻眼に、どっかと権に腰をすえているのが二人の撰夷浪人。 1ひどい国託りをむきだしての、威丈だかな物腰だ。 「白を切るな。|主人《あるじ》が不在ということはない」 「左様ではございません。あいにくと、昨夜きゅうに大山詣 りにたちまして、なんとも、さような話は手前どもでは……」 「こやつ、あくまで云うか」と一人が連れにむかって意味あ りげに笑い、 「貴公も、聴きおよぶとおり、飽くまでいぬと申す。どうす るロ」 「出かけたというならば、止むを得んではないか。たとえ、 あるじが唐天竺へゆき、百年になろうとも、戻りくるまでは 分時たりともここを動かん。当家も、大家のことなれば余分 の寝具はあろう。格式にかけても、粗飯はだすまいて」  と、蒼くなった番頭どもを、じろじろっと見渡したがら、 「のう番頭、身共らその間に相果てたならば、葬礼は頼む ぞ」  中居屋重兵衛は、当時撰夷浪人らの憎しみの的。町人なが らも、かつての開国派の巨頭松代藩の偉人、佐久間象山の恩 顧をうけた達識の士だ。したがって、絶えず店先は撰夷浪士 らの見張り。その眼をくぐりくぐり上田、松代の|生綜《いと》を、野 沢、吉村などの|横浜《はま》の仲買へだしていたのだ。  そんなわけで、浪士も偶には欝憤ばらしにくるというわ け。しかし、この撰夷浪士にも幾色もあって……頑迷鎖国撰 夷派という弘化以来のものもいれば、開国の必要はわかって も倒幕の具にという、やや開けた人たちが後日維新の業をな したのだ。  ところがなかに、撰夷商売というはなはだ下等なのがあ る。これは、ほとんど無頼の徒の集団。悲憤懐慨に嚇し文句 をつらねながら、豪家紳商から応分を|強請《ゆす》るという、これは 前二者にくらべれば徽菌のような|代物《しろもの》。  でいまも、二人の浪士がひじょうに派手なことをやりだし た。一人が、顔をまっ赤にしたがら、朗々と吟ずる。 「平兵衛、虎狼の欲に飽かずして、万民餓ゆ。夷商と通じ、 国威を軽ろうずる。頑児一念、ついに到るか」  と、一人がそれに応じサッと大刀をぬき、 「かくの如くに死す、死なお生」  と、帳場格子を蹴とばし、どうどうと床をふみ、 「神速、好商らの首を獲て、諸竿頭につらぬかん」  いやもう、たいへんな騒ぎになってしまった。ときどき、 眼のまえヘピカッピカッとくると、いい|齢《とし》のやつがキァーッ と悲鳴をあげる。統|梱《ごお》りを切る。|掲《さげ》や島田の造り統がバラバ ラっとこぼれる。  と、その騒ぎのなかヘポンと奥で手が鳴った。  平兵衛はいた。胆も度量もからだに似付かわしい、五十 四、五のでっぶりとした男だ。そこへ、手代の一人が閾に膝 をつき、 「また、撰夷浪人めのいやがらせで御座います」 「ほう、それで騒いでおる」 「さぞ、お耳にも入りましたろうことで。やれ旦那をだせ の、さもなければ焼きはらうなどと申します。とんともう、 手前どもの手端にはおえませぬことで」 「そうかい。では、十両ほどつつんでそっと挟へいれなさ い。いずれ、主人がもどりますれば、とっくとお話を伺いま す。どうか、今日のところはこれでと云って、卒辞ないよう にお前さんにやって貰いましょう」  これが、目当て。さんざん愚図ったあとで二人が立ちあが ると、店先の人波がサッと分れる。  すると、その中からぬうっと腕がでた。と思うと、先をゆ く一人が|筋斗《もんどり》うって……。 「うぬ、なにをする」  と、柄へ手をかけようとしたもう一人の浪人にも、肱と眼 ヘバパパッと手刀がとぶ。そうして、よろめく腰を蹴られ、 ぺたりと平太ばれば、さっきから、|業《こう》を煮やしていた見物が 承知しない。  この野郎てんで、袋叩き。袴のやぶれ目に越中をのぞかせ ながら、その二人の浪人がほこりを蹴たてて逃げだしてしま う。  あとには、ずっしりと重いさきほどの金包み。それを、拾 いあげた男に、いっせいに眼がそそがれた。  みれば、|惣月代《そうさかやき》の御家人|体《てい》。齢は二十七、八、苦味ばしっ たところは、姿もいいし、ほどな凄みという……いま入日を 浴びる三日月というような人物。たちまち、 「|関三《おわりや》、|八名川町《やながわちよう》!」  と、はや気のはやいやつが掛け声をする始末。 「嬉しいよ。あの、パパッ、ずしんと来たときにゃ、ゲエッ と出ましたよ。おおかた、百年の溜飲とはこんなこったろ う」 「そうとも、まだ江戸っ子は種切れにゃなんねえ。薯や肥後 ずいきが、幅ア、利かしやがって。たまにゃ、こういう親玉 にぬうっと出て貰わねえことにゃ、俺たちは通じが付かねえ で、いけねえ。おやっ、あすこへ飛んでくるのは左内町の頭 だ。頭ア、火事は終ったよ」 「えっ、|逃《ず》らかりやがったか。おらア、野郎っちの首根っ子 をこうとっ捕まえて……」 「おいおい、俺の手だよ、乱暴しちゃいけねえ」 「済まねえ。つまり、こう、|纏《とうばん》みてえにぶん廻そうと思っ てたとこだ。へえ、どちらの殿さまか存じませんが、相済み ませんこって……。なアにね、あっしが間に合や、お手を借 りるまでもなかったんで」  その辰頭が、さっきは庇っぴり腰で横町から首をだし、形 勢観望のうえ頃やよしと、|章駄天《いだてん》をきめこんだとは知ってか 知らずか……大事ないと、その人物はにっこと笑い、金包み を手に店先へあゆんでゆく。 「調べてくれ。さっきの、馬鹿どもがとった金は、これであ ろう」 「有難うございます」  と、店のひとがいっせいに頭をさげる。 「お蔭をもちまして、あの無法どもにもしめしが|付《フフフ》いたこと でございましょう。程なく、あるじも参りますこととて、御 悠っくり、どうぞ」 「ほう、あるじが居るか」  ちょっと、その人物の眼が異様にひかったかと思うと、 「では、こう申してくれ。それがしは、撰夷の志をいだく一 島大二郎と申すもの。あるじ、平兵衛どのに詰責の条々あ り。お目にかかりたいと、こう告げてくれ」  これには、店のもののみならず、見物が驚いた。騙され た、味方と思いきや意外な敵。頭ア、と呼んではみたが、影 もない。  すると、気の利いた小僧の一人が、ばたばたっと馳けこん でいって、 「且那、さっきの浪人を懲らしめたやつがまた、たいへんな 奴なんで」 「なんだ、落ち着いて云いなさい」 「撰夷の志をいだく一島大二郎と申すもの。あるじ、平兵衛 どのに詰責の条々ありーと申します」 「うむ」 「ちょっと、|服装《なり》だけでは貧乏旗本。そいつが、|浅黄《あさぎ》の頭巾 をぬぎますと、撰夷浪人」 「気取らないで云いなさい」 「まあ、何でしょうな。さっきのを、胡麻の蝿としますな ら、これは五右衛門ぐらい……」 「いいから」  と、平兵衛には動じたような色もたい。 「失礼のないように、ここへお通し申してくれ」  その浪人は、さあこちらへと云われると群集のほうをふり 返り、ちょっと、指をあげて合図のようなものをした。と、 その中からおそろしい大兵の浪人が、かれに続いてのっしの っしと奥へ消えてゆく。 二つの情熱  そこは、中庭ぞいの土蔵よりの小座敷。軒には、合斎風の 風鈴がかわいらしい音をたてていた。  平兵衛は、この座敷を雪象堂と名づけている。かねて恩顧 をいただいた佐久間象山の遺物。床には、先生発明の迅発銃 が置かれ「海防十策」の草稿が額になってかかっている。 「よく、いらっしゃいました」  と、あるじは下座について、 「手前、中居屋平兵衛、お見知り置きくださいませ」 「拙者は、一島大二郎」 「それがしは、五味伊太夫」  と云ったのが、さっき大二郎にまねかれた、見あげるよう な大兵の男。四十がらみのひじょうに髭の濃い、あるけば糊 の|強《こわ》い|浴衣《ゆかた》のように鳴りそうな、ギクシャクとした頑固そう な人物だ。まったくこの二人が面白い対照をなしている。  大二郎は撰夷浪人にはめずらしい粋な江戸っ子でありちょ っと見ただけでも融通無碍なのに、これは郷まる出しの一徹 ものの伊太夫。 「御主人」  と、引き据えるような権幕だ。 「訊ねたい義がある。昨夜ここへ、横沢弁天通りの吉村屋が まいったであろうが」 「参りました。お眼くばり、ほどほど感服仕ります。が、い かにも吉村屋はまいりましたが、なんぞ……」 「吉村屋幸兵衛は、私利のまえには獣臭さえ|厭《いと》わぬやつ。さ だめしそちと、夷商におもねるごとき商談をなしたであろ う、申せ」 「これは、きついお叱りで恐縮いたします。さりながら、昨 夜のおもむきを申しあげましたならば、さぞや、五味さまの 御感に預ることでございましょう」  とたんに、伊太夫の|顧瀬《こめかみ》がびりりっと顛えた。  こやつ、それがしを嘲弄する気であるか。好商のなんじ が、御意に入るとは何事であると……それを、顔にいわせる おそろしい権幕に、マアマアと、なだめるように大二郎が分 けて入り、 「暑いのう、主人」  と、|団扇《うちわ》をばたばたっと使いだす。 「あるじ、そうそう競ちょこ張らずに、くつろいで呉れ。平 岩か|四季庵《なかナ》ならばともかく、ここは暑い。暑いところで鹿爪 らしくやられては、聴き手の身共がやり切れん。  五味、貴公も顔の紐をとけ」  しかし、伊太夫は蟹のような顔。それにひきかえ、これは 粋な殿さまでと、平兵衛は微笑み、 「ゆうべ、吉村屋がまいったのは、かような訳でございま す。この度、アメリカ六番館が吉村屋へまいっての話に、生 統のみならず、日本棉花も、この機会にあちらへ出しては と:::」 「ふうむ、いよいよ国土の産を悉く掠める気であるた」 「マア、話はしまいまでお聴きなすって」  と、平兵衛はやんわり抑え、 「聴けば、近年あちらでは稀有の不作続き。一昨年は、アメ リカ棉産地に黒疫はびこり、昨年は、|森雨《ながあめ》続きでほとんどが 腐り、かの棉産国にしてからが、ひじょうな不自由をしてお りますとのこと」 「うむ」 「就きましては、これは商人個人としても又とない機会。ま た、国の商勢を張りますにも、絶好の|機《とき》。かてて加えて、敵 国に塩をおくった謙信公の故事もあり、これには、御浪士さ ま方も御異存はないと存じまして……」 「だまれ」  と、いきんだ伊太夫の顔をにやりと大二郎がみて、 「では、御主人に荷をだせと、吉村尾がまいったのですな」 「左様。手前、七千俵ほど受け合いました」 「利は、一俵について、いか程に相成る」  と、いよいよ本筋とばかりに、伊太夫が突っこんでゆく。 「三州上銘や阪丹上銘程度が、俵九貰目について、三両半ば かりでございます。それを、|横浜《はま》へ持ちこみますると洋銀十 五ドル。まず近年にない莫大な利でございましょう。  手前は、米を買占めるがごとき不将事とはちがい、かよう な、名分に添いまする儲けは傭仰天地に恥じずと、存じま す。もし、御必要ならば運上、倉敷等にわたり、いかほど、 微に入りまするも包まず申しあげますが」 「うむ」  と、伊太夫はきりきりっと歯噛みをして、 「ではその方、醜夷と通じ利をなすを、公明の道と心得おる のか」 「左様、国をまもるにはまず、富まねばなりません。それ は、五味さまも御承知のことでございましょう」  海は、大なるほど波静かなりーという。いま、信念に加 えるに大器量人の平兵衛は、いつ白刃を抜くかもしれぬ浪士 どもを前にして、いささかの悪怯れさも示さない。艶そら く、浪士万をもってしても揺がぬであろう貫録を、ただ、ひ しと感ずるのみであった。 「それにはまず、米、英、蘭国が運んでまいりまする、洋銀 と対抗せねばなりませぬ。彼らとくらべ、わが銀価は相当下 直でございます。さすれば、交易上の利は悉く彼らにうばわ れ、当方にはなんの益なしと相成ります。いずれは、この神 国に洋銀汎濫し、われは国あれど幣権なしとなるでございま しょう。されば、生糸のような利益あるものはますます生産 し、加おいに彼らに買わせ、蒜価をたかめ、銀価の平衡を計 らねばなりませぬのに……」  そういって、伊太夫の顔を開き直ったようにみながら、 「したがここに、なんとも、手前にとって分り兼ねるような ことがございます。それは、公儀をはじめ、薩、長、土、肥 の四藩が、新式鉄砲をさかんに買いますること。ために、横 浜の商館どもはひじょうなる儲け。|和蘭《オラソダ》四番のスネール、お なじく五番のデレージン、英一番、英二十四番などがその頭 でございます。  してみますると、買うもの多く売るもの少ければ、当然、 交易尻は当方の|補填《うめ》。これでは、先々のことが案ぜられます るにも拘らず、ここにまた、手前にとってすこぶる|怪講《けぶ》なこ とがございます。と申しますのは、その四藩とはけっして御 他人でない御浪士方が、なぜか交易尻をうずめるに恰好な生 統の売買を、自昼白刃をもってお妨げになること。  国富、日々に減る折柄それを補う生綜の持ちこみを、絶や そうなどとはたんたる思慮のなさ。皆さまは、口に唱えるこ ととはちがい国を思わず、洋銀国内に汎濫するころにやっと お気が付き、|祝詞《のりと》をお唱えになるもそれは後の祭り」  伊太夫は、ただウウンと苦しそうに坤くだけ。  いちばん、撰夷思想の根強い神舐派のかれも、これにはさ すがに弱ったらしい。また、大二郎は平兵衛をみて、ひそか にこれはと舌を捲いたのだ。  みれば、どこから打ち込もうにも鵜の毛ほどの隙もない。 おそらく、武術の修練などあるまい平兵衛が、|算盤《モろばん》、矢立一 丁できたえた大町人の風格は、やはり武道の至妙境と、おの ずと一致するのであろう。  二人はもう、最初のときのあの意気込みはない。 「では、御両所さまに御納得がゆきますよう、いかに、さよ うたなされ方が国富を損なうか1逐次に申しあげることに いたします。交易開始初年は、両に大間々平造りが二百十五 匁でござりました。売上値段は、洋銀一枚につき三十三匁、 イギリス一番のケスウィッキ、二十三番のケプナラなどが買 いました。  そのうち、おかげで地方の蘇価がだんだんにせり上り、両 につき百五十匁換え、つまり一個九貫目で六百両となりまし た。なかにも信州の|提綜《さげいと》はますます高くなり、万延元年には 六、七十匁の高値。したがって、商館の買入値段もこれにと もない、六百五十ドルから八百ドルまでを往来。1それが で御座います。  しだいに、御浪士さま方のために出荷が鈍うたりました。 値は、八、九百ドルをとなえても、品がないという始末。せ っかくの、交易港もしぜん閉鎖の姿で、国内の銀は流れでる 一方となりました。では、なぜ武器は買っても蘇を売っては いけませぬ。売買の、出のほうはやり、入りはさまたげる。 薩、長、土、水、肥と御因縁がおありなだけ、手前は御浪士 様方のなされ方を恨みます」  そういうと、平兵衛は|褥《しとね》をすべって、手をついた。 「失礼をかえりみず、お耳障りなことのみを申しあげまし た。それと申すも、今度の棉花を皮切りに貿易復與の念願。 もし、お目こぼし願いますれば復興をみましたる暁には、お 手討ちさえも厭わぬ平兵衛でございます。道は二つながら |至誠《まこと》は一っ。皆さまの御辛苦も手前の心労も、帰するところ は憂国の一途でございます」 「うまいことを申す。町人の口先には呆れるて」  と、伊太夫がやっと声をだした。 「利のまえには餓狼にひとしき、此奴ばら。のう、儲けるに は骨折だのう」 「手前、さりながら、中居屋でございます」  と、平兵衛が眼をぴたりと相手に据え、 「いささか、経国の道も心得おるものでございます。その一 つに、手前は各御藩へのお金御用達は、一切いたしておりま せぬ。兵令一途より出でざれば、私兵徒党に過ぎず。各御藩 を強めまするはいよいよ兵備の分散、兄弟塙にひしめく私争 の因でございます。つぎに運送商船の改良は手前一代の仕 事。  大舶建造、嘆かわしきことに御禁令がございます。それゆ え、年々沿岸の難破船千艘あまりにも相成り、米穀貨物の海 底に没するもの数しれず、かくては、船体、|船夫《かこ》の生命は申 すにおよばず一大国損と存し、手前、家産を賭してもの大覚 悟にて……」  と、平兵衛のからだがぐいと昂ったように見えると、 「じつは手前、ただいま洋船化を試みております」  と、云った。 「うむ」 「と申しても、御禁令の石数を越えぬよう一致すことなれ ば、多くを狭きに盛る無理でさんざんでございます。やれ模 様換えの、またこの雛形も駄目というような有様。ちかご ろ、この平兵衛も痩せる思いでございます」 「ほう、では、その雛形船はいずこでお造りかな」  と、大二郎の気になったような訊きかた。 「深川霊岸町の船大工七五郎方でございます。で、その棟梁 七五郎が手前に申しまするには、惣領に音松というやくざも のあり、五年ほどまえより寄り付かずとのこと。この者おれ ば、なかなか諸事にカンがよろしきものゆえ、雛形船もかほ どには悩むまいと中します。さてさて、浮世とは盤にならぬ もので御座いますた」  とたんに、大二郎の面上がしぼるようた、汗になった。団 扇を、ぽろっと落すと伊太夫の膝へ。それを、合図のように 取りちがえたか、伊太夫は立ちあがり、 「問答無用」  と、荒々しくさけんだ。 「あるじ、夷商への棉花はいかなることがあろうと、送らせ ぬ。その方、もし|強《た》ってするならば飛んだ憂目にあうぞ。よ いか」  そうして二人は、中居屋をでたが、ものも云わない。無言 のまま、細川越中殿を向うにみる福島町の河岸にくると…… 編幅のとびかよう夕闇の|河岸縁《かしべり》へ、伊太夫がべたりと坐って しまった。  大二郎はぴっくりして、 「おい、どうした貴公。見っともない、立たんかよ。」  みると、両膝に手を置いてきちんと正座した、伊太夫の頬 は涛花たるながれ。 「五味、したの舟から船頭が見て加るよ。さあ、駄々っ子し ゃあるまいし、立ってくれ」 「片々たる町人ばらの言に……」  と、伊太夫がふり絞るような声をだした。 「一言の、云いかえしも出来ず、傾聴させられてしまう…… この伊太夫のあまりな偲甲斐なさ。おれは、わが身がつくづ く情のうなった」 「御時勢だ」  と、大二郎はなぐさめ顔、 「町人が、ああした言を吐くも貴公らが働くのも、公儀の威 令地に墜ちた変革前のすがただ。それに……貴公と平兵衛で は、食いものが違う」 「それが、どうした?」 「マア、そう思って貴公も|断念《あきら》める。どうも、貴公という男 は正直過ぎて、いかんて」  という、大二郎もどうしたことか……しばらく伊太夫をそ のままに河面をながめている。1大二郎の悩みは他のほう にあったのだ。 桝屋小さん 八月十三日ll深川八幡祭礼の宵宮のまえの夜。尾花、 山 本、梅本など一流の茶屋の裏手に、「青柳」と云うささやか な会席がある。その中二階に、いま大二郎がごろんと寝そベ つ1し:::o  |透綾《すきや》に、自博多の帯という粋なつくり。これが、撰夷浪人 とは誰あろうが思うまい。 (おれが、七五郎の伜音松なのを、中居屋は知ってか知らず か……だが、あれを云われたときの冷っとした気持は、いま 考えても|標《ぞ》っとなるようだ。)  頸のうしろに、手枕をして天井をにらみながら1今宵の 大二郎は沈々たる面持。 (俺には、どうも中居屋の考えのほうが、ぴたりとくる。い ま、撰夷、撰夷と鼎の沸きたつようななかに、身を時代の先 駆者として白刃のなかに投じようという1中居屋はあっば れな男だ。といって……また五味の誠心こそこの神国の基。 おれは、五味にも惚れ、中居屋にも惚れ……)  と、ほろ苦い笑いは、困り切っている証拠ロ このまま、 大二郎でとどまるか音松へもどるかーかれはいま、ひじょ うな岐路に立っているのだ。  船大工七五郎の惣領にうまれ、算数力理の道を仕込まれた 設計者としての素質。また、同門の影響をうけての武道の鍛 練。まったく、そのままゆけば若い名人として、はやくも音 松は名をなしたであろうが……。  ちょうど、六年まえ横櫓の芸者、小さんと馴染んだのが横 道のはじまり。親の小使いだけでは逢瀬にとぼしく、通う |手段《てだて》も尽きたときふと眼についたのが、その頃はじまりかけ た撰夷商売。  誠.実、窮乏を意ともせず黙々と運動をつづける、伊太夫と 交ったが音松はそうでない。蔭で、こそこそとやる良からぬ 金で、小さんと切れられぬ六年もの悪縁。  いつも、伊太夫へは心のなかで、済まないと詑ぴ続けてい るのであるが……また、そういう矛盾を清算しきれぬ弱さ は、やはり音松が街の子であるためか。 (おれの、俄か侍も、ちょうど六年)  と、大二郎が坤くような声をだした。  その六年目1。中居屋平兵衛になにを聴かされたP 時 勢のうごきその先へゆく先駆者の気慨。洋船化も、自分がお らぬため行き悩みと聴けば、かれには、いてもたってもいら れぬはげしい悶えがくるばかり。それに、一時は消えていた 船づくりの情熱が……。 (やってみたい。おれが、定規をにぎり、定分儀をもてば… …。なアに、洋式取り入れくらいは朝飯まえのことだ。)  と、思うけれども伊太夫を裏ぎって……、とかれの悩みは ますます募るばかり。眠られず、顔はまっ蒼に樵惇した大二 郎、三月まえとは別人のようた変りかた。  そこへ、とんとんとんとんと|梯子《はしご》段をふむ音がして、 「待ったロ」                  ,  と、あがり端からぷうんと丁字のにおい。壁縞の帯にうす ものの小さんは、あすの手古舞の男髭。 「あたし、待たしたかしら……」  と、そばへ来てぴたりと坐る。一重瞼もうつくしい険の、 意地と|伊達《だて》との|櫓下《はお》芸|者《り》らしい小さんも、今夜は、どうした ことか、げっそりとしている。 「なんの用だ。待つ待たねえはいいから、用をいってくれ」 「騎や、初手から剣つくとは、なんてこったろう。こんな、 汚いところへお前さんを呼んだんで、それで音さんは怒って いるのかい」 「怒りゃしねえ。男まげといや、洗髪同様だ。さぞ、あした は……藤しるしが|耐《こた》えられねえというだろう」 「よしておくれ。音さんも、たいがい甚助だよ」  いつもなら、ここでなんなんと痴話になるのだが、きょう は、小さんはしんみりとしている。二十で馴れそめて二十六。 朋輩はたいてい|落籍《ひか》されているなかに、あらゆる客をふりき って音松ただひとり。  それも、六年にもなれば考えずにはいられたい。 「音さん、今夜はぜひ身イ入れを聴いて思いたいことがある んだよ」  と、小さんが思いあまったように、切りだした。薪川の酒 問屋の矢島屋藤兵衛が、いよいよ本腰に落籍せる相談を持ち かけてきたのだ。 「あたしも、ずいぶん音さんのためには義理首尾を欠いて、 うちじゃ、お前が客だというとあまりいい顔はしないよ。ま ったく、無理を承知の六年問さ。だから、今度『梅本』さん にぜひといわれると、なんぼ藤兵衛がゲジゲジのようでも、 あたしゃ振り切れなくたったのさ」 「悪足で……気の毒だったよ」 「おや、厭味かえ」  冷えた盃をぐいとあおって、小さんは無理にも笑おうとは するが……。と、ちかくの二階で、   、見世やお部屋の影口に、浮名たつほど深くなり、義理   も遠慮もわきまえて、無理なこととは知りながら、よそ   の座敷におる空は、泣いてこがれて我儘に、お客を捨て   て主のそば……。 「聴いたかい」  と、大二郎はじっと小さんを見て、 「ありゃ、なんだか俺の棚卸しみたいだぜ。ぐずらぐずらと 六年間。ずいぶん、苦労をさせたたア」 「おや、そんな事はどうでもいいから、ここで音さんに一分 別たのみたいのさ。じつは、この事をうち明けた人があるん だけど……」 「誰だ」 「中居屋の旦那、知ってるだろう」  とたんに、大二郎は狼狽をかくせず、投げだした足をすっ とかがめて、起きなおった。 「どうしたのさ」 「なアにね、蚊やりが絶えたところへ酒があるんで、蚊のや つが寄ってきてならねえ」 「済まないねえ。だけど、こんなところのほか、音さんとあ たしには逢う家がないんだからね」 「で、その中居屋はなんというんだ」 「もし、その音さんとやらが|実家《うち》へかえるか。で、なけりゃ 当日の晩」 「というと、お前が藤じるしに落籍されるのは、いつのこっ たP」 「あさって、十五日の晩の亥の刻ごろ、舟を仕立ててにぎや かに来るというのさ。旦那は、そのころまで『梅本』 へき て、もしお前がきて一目でも且那に逢ってくれりゃ、その場 で旦那が落籍してやる。あとは、好いた同士だもの一緒にな るがいいーと、マアこういう訳なんだよ」 「ふうむ」 「おや、妙な顔をして……。じゃ、音さんはあたしが可愛か アないのかい」 「なにか、中居屋がおれの事をいったろう」 「こないだ、音さんに一度逢ったって」 「それから」 「それだけさ。別に、気まずいことはたいんだから、きっと 来いーって。刻限にはずれたら取り返しのつかない事にな るから、マア、出来るならそのまえに、音に実家へかえれ ーって、旦那はこう云っているのだよ」 「そうか、中居屋が……」  と、大二郎は岬くような声をだした。  恋を、全うすれば伊太夫を裏切らねばならず、また、ここ に加重される苦しみがきた。その遣り場を男の無理が……。 「手前、ずいぷん腕のいい女郎みてえなやつだ。中居屋ま で、男にしてたとは、俺ア知らなかった」 「なんて無理なこと。あたしゃ、苦労してまで、お前さんと だけ……。アッ」  小さんは、打たれても顔をよけなかった。うれしいような 苦しいような、坤き声を立てて、男の腕にとびついた。 「分ったよ、音さんはきっとやって呉れるね。まだ、音さん はあたしに惚れていてくれるんだね」 棉船襲撃計画  それまでに、浪人たちはひじょうな苦心をして、さぐって いた。一つは、吉村屋の棉花をいつ積みだすかということ。 もう一つは、平兵衛をあの世へやってしまう機会であった。 これは、一度仕損じているだけに……。  で、小さんと大二郎が逢った日の七、八日まえに、平兵衛 をめぐってこんな出来事があったのだ。 「且那、山崎七九郎という、御浪人体の方がみえまして……」 「ほう、会いたいというのか」  どう考えても、山崎という名はじぷんの記憶にないので、 逢うまいとは思ったがもし断れば、いずれ繁々来るにきまっ ているので、とにかく逢ってみようIIと平兵衛は考えた. 「では、こう申してくれ。外出をひかえておりますので、長 時間は困ります。ほんの四半刻くらいでよろしければお蓬い いたしましょうーと、町寧にお訊き申してくれ」  番頭は、店先へいったが、すぐ引きかえしてきて、 「それでは、四半刻で宜しいそうでございます。お連れいた しますか」 「そうか、じゃ此処へ……」  その浪人は、齢は二十四、五だが、じつに落着いている。 着衣のきこなしもよく浪人前は、さぞ身分あるものの子息だ ったろうと思われる。 「さあ、手前中居平兵衛でございます。時を、区切りまして たいへん失礼でございますが……」  と、町寧に会釈をして褥をすすめると、 「失礼いたす」  と、しずかに坐ったが、じっと考えるように、その人物は なにもいい出さぬ。しかも、どうしたことか、伏目にさえな っている。  ははあ、斬りにきたなーと、平兵衛はさっそくに直感し たが、 「どうたされました。して、御用向きは、どういうことで御 座います」 「ハッ」  どうも煮え切らない。ただ、ハッハッというだけで、なん となくモジモジしている。ふと気がつくと、帯刀がずうっと 離れたところにおいてある。おやおやと、さすがの平兵衛も 分らたくなってきて、 「もう、御約束の四半刻も近いのでございますが、御用向き はなんでございましょう」  平兵衛がうながすと、はじめて山崎というその男が口をひ らいた。 「あるじ、どうも先夜は相すまぬことをいたした。身ども、 きょうは詑びにまいったのである」 「ほう、詑ぴにきたP というのは、どういうことで」 「身どもは、先夜あるじを殺害しようとしたのだ」 「へえ、わたくしを……」 「うむ」  平兵衛はちょっと驚いたが、その男はますます落着いた調 子で、 「身どもは、あるじの夷商との交易に憤慨した一人だ。はな はだ失礼な言葉ではあるが中居屋平兵衛という、大好を倒し て清掃せねばならぬーと、身どもはこう考えてな」 「では、西福寺わきのあの|事件《こ と》で御座いますな」  というのも、棉花がまだあるかないか1浪士たちがさぐ りにくる|手段《てだて》であった。いつ出す? それは海路でか陸路で か。もし水をゆくとすればどこをどう通る。まず、それをさ ぐって置いてから計画をたて、棉花船を襲撃しようというの だ。  あるいは夜、小舟をかって竪川、古石場あたりの、|縄《もや》いの 伝馬をそっと覗きまわったりする。と一夜、大二郎こと音松 の父、船大工七五郎の家へ二、三人がしのび込むことになっ た。  深川霊岸町1。  ここは、霊岸、浄心寺のほかに、秋元但馬邸。その、浄心 寺という浄土寺の裏が、卵塔姿で建仁寺垣がある。  それが、音もなく崩れるほどに朽ち切ってい、ザクリと腕 がはいったときは、さすが浪士も気味よくたい。はいると、 寺内の裏手は丈なす雑草の海。やがて、月が落ちて無風の闇 のなかへ、柳も卒塔姿も白張りも包まれてしまう。  と一人が、頃合いを見はからい雨戸に手をかける。  寵燈をともす、墓が灯りのしたでじっと見あげている。八 月であれば降ろような轟の音、|蠕蝉《こおろぎ》が飛びかよい|蜻蟻《なめくじ》のあと が続いている。  浪士たちは、雨戸をあけたときプウンとくる、湿気と徽の 匂いにオヤッと思ったのである。まもなく、縁伝いにゆくと 足跡があり、それが、陰陽の龍がからみ合っている、欄間し たの襖につづいている。 「柴田、こりゃ違ったようだぞ」 「ふうむ、ここを船大工たれば仕事場と眼をつけていたが ……。さては、寺と七五郎とのあいだに、この空屋敷があっ たのか」 「そうだ、夜眼はいかん。七五郎方はあの灯りであろう」  やがて、雨戸にぴたりと耳をつけると、なかから男の話し 声がする。 「そうか、旦那はお前に、ほんとうにそう云ったのか」 「そうともよ。おれにゃ、みじんの駈け引きもねえ。旦那に は、あるかもしれねえが、俺にゃねえよ」  大二郎の弟の、伊助と源太郎。ことに伊助は、横浜の八十 五番にいるバルマンという仏人から、帆船操縦術の理論を教 わっている。 「あん時つくづく俺は、中居屋の旦那というのは偉い方だと 思ったよ。いま、一年後れることは先々になると、十年にも 百年にもあたることになる。加れは、国のためには命も要ら たい。交易を、さかんにして国の力を増す。それには、ぜひ 和船を改良しなければーというんだ」 「そうか。じゃ、どうあっても仕上げなけりゃ……」  と、なんだか源太郎の自信なさそうな咳き。 「そうだ。だが、兄貴がいなけりゃ出来ねえことだけが、は っきり分っているだけに、よけい陰気になるよ」 「うん、兄貴がいたらなア」  と、伊助も合槌をうっ。 「俺たちが、今やっている雛形のやつを水にのせたら、ちょ つとの風くらいでも引っくり返ってしまうぜ。音兄イも、|武 士《りやんこ》姿で浮かれていねえで……」 「時に」  と、源太郎が声音をひくめ、 「おめえ、今度の棉船にのるってえじゃねえか」 「そうよ。福島河岸から左へ水谷町へでて、それからお浜御 殿のわきを通って、海へでる。道順はこうきまっている」 「何時だ」 「十五日の、暮れると間もなく……」 「|三角帆《ラデン セル》を、はじめて使うというが、本当かね」 「そうだ、海へでたらあれで追っばしる。ちょうど、右斜か ら逆の風がふくけれど、おれが、三角帆を使や、なんのこと はねえ」 「船足はでるか」 「出るにもなんにも……。痩せ腹どもがきっと来るだろう が、|逆風《さかかぜ》もものかはの一散ばしりだ。さぞ、|奴《やつこ》さんたち|魂消《たまげ》 るだろう」 「だが、お前、気をつけろよ」  と、源太郎がしんみりといった6 「脇坂中務さまあたりから、町家がなくなるからな。お浜御 殿と、尾張さまあたりの葦の中なんかは、お前、屈強の隠れ 場所だ」 「なるほど、あすこは小舟くらいなら、分りゃしねえ。好賊 とか、なんとか云って、バヲバラっと出てくるか。しかし、 お前、命はだいじだ。」 「そうとも、音兄イはあんな風だし、兄弟といや俺とお前だ けだ。軽はずみをしねえで、気イ付けてくれよ」  こうして、十五日の日暮れると間もなく、中居屋の裏手の 福島河岸から、水谷町へでて脇坂中務の角をまがり、お浜御 殿と、尾張邸のあいだをとおり、海へでるーこの道筋がは っきりと分ったのである。  いまは、襲撃計画は成り、当日を待つのみ。日本棉花を、 アメリカに与えようというこの劃期的壮行を、浪士たちがは ばむのは、陸か水でか……。しかしこれには、大二郎はまっ たく途方にくれ、襲撃も、平兵衛殺害も小さんがゆくこと も、おたじ十五日の一日中ということ忙なってしまった。 名月八幡祭  なにもかも、明日は決してしまう十四日の午過ぎ。三十間 堀のうす汚い長屋にいる、伊太夫を大二郎がたずねた。  軒下で、伊太夫はさかんに洗濯をしている。 「ほう、精がでるのう」 「おう五味か。とんだところを見られて、はなはだ面目な い。独身ものはこれが辛いでのう」 「大分、手付きも上手ではないか。だが、これ、これは女の 儒神であろう」 「となりの内儀のである。たらいの借賃に、洗うて進ぜてお る」  やがて、露次へわたした竿のうえへ、伊太夫の越中をはじ め満艦飾がはじまる。伊太夫は、たらいの水を切って、隣り に声をかけ、 「御内儀、有難うござった。洗濯相済みましたれば、ここへ 置きまするぞ。サア、五味、あがってくれ」  二人は、芯のでた畳のうえに、すわる。洗濯もので西日が こず、ときどき赤子の泣き声にかアっと暑くなるだけだ。  大二郎は、伊太夫の顔をにやりとみて、 「貴公、きょうは髭をあたっておるな」 「ふむ、それがしの死装束である。あすは、平兵衛殺害の大 任をひきうけ、まかり間違えば身どもの命はたい。死出をか ざる晴着もなければ、せめて揮なりとかえ、むさ髭をとり ……」 「ハッハッハッハッハ」 「元禄、桜田の義挙は雪であったが、あすは残暑のきびしい 些中。見ごと、やり遂げてみせるぞ」 「頼む」  という、大二郎の顔を伊太夫はのぞき込み、 「貴公、とんと近ごろ顔色がすぐれんが……」 「大事ない。飲みすごしたせいか、腹工合がわるいのだ」 「そうか、それなら身どもも安堵して冥土へゆける。時に、 あすの得物を貴公に見てもらうかな。それがしは、神主の子 なれば、|業物《わざもの》はない」 「無銘かな」 「そうだ、奉納とあるのを、引っ|剥《ぺ》がしてまいった。そのか わり、直々身どもが手にかけたものとて、切れ味はうけ合 う」 「拝見しよう」  と、すらりと抜いて焼刃にうつった自分の顔をみて、たぜ か大二郎はぶるっと頗えた。まるで、じぶんの宿命を見つめ ているようたその顔を、伊太夫は怪誘に思い、 「どうした、寒気がするか」 「ふむ、昨夜はだかで寝て、暁がたにぞっとした。名分、そ のせいであろう」 「気をつけろ。で、ときに無心があるが……」 「なんだ」 「貴公、二分ほど持ち合せはないかな」 「あるとも、ざっと小一両ほどある」 「貸してくれ。今夜はそれがしも姫荻の顔をみたい」 「ハッハッハッハ、貴公にもさようた|尤物《いうぶつ》がおるのか」 「おるとも、|吉原《なか》の福大黒という切り見世におる。なにを笑 う。勇士は色をこのんで、溺れずである」 「   」 「元暦のむかし、九郎判官義経を土佐坊が|殺《あや》めにまいったと き、堀川の館にはだれも附き人がおらん。弁慶、片岡の両人 は六条なる女のもとへ……。佐藤四郎、伊勢の三郎は室町な る女のもとへ……、根尾、鷲尾の両人は、堀川へとある。か かる勇士にして尚且であれば、身どもが、姫荻を愛するとも 笑うことはない」 「怒るか。で、その姫荻というのは、なん歳になる」 「明けて、三十。ただいまは、二十九だ」 「ほうお」 「驚くな。それがしと馴染んでより、はや十年。姫荻の年が 明けそれがしが大望をとげれば、ともども帰農して、一緒に なることになっておる。鍬をとれば一流の達人。姫荻はさよ うな女である」 「そうか」  と、大二郎は撫然とつぶやいた。  じぶんと小さんは、たかが六年を持ちこたえられぬのに拘 らず、十年とはなんという根強さだろう。街の恋、|耕土《つち》の 恋。江戸一流の小さんと切り見世の安女郎。しかし、かれは 伊太夫が羨ましかった。  朴訥も、伊太夫ほどになれば、神にちかい。帰村する、そ して、耕土にかえる二人の生活を、かれは祝福したくなった のである。 「可愛がってやれ。貴公はけっして死なぬ」 「なぜだ」 「分っておる」 「どうも、貴公は相恰も変だし、きょうはどうかしておる ぞ」  と、伊太夫が不審げに腕をこまねくのだ。 「|易《うらな》いであろう、予感であろう。とにかく、貴公は平兵衛を おそっても決して死なぬ」 「分らん。マア、それはいいが、金はたのむぞ」 「よろしい。だが、その姫荻とやらは丈夫であろうな。から だに於いても……志操においても……」 「それはもう」  と、伊太夫がちょっと相恰をくずして、 「腕はふといし、力もある。それがしの如き痩せ腹とはちが い、しょっちゅう客から食わされるので、すこぶるの大兵 だ。田舎に於いては、四斗俵をさげたという……」 「それでは、関取ではないか」 「マア、左様であろうた。ところで、今夜はかようた勘定に なる。姫荻は、しょっちゅう二子をまといおるによって、今 度上等の衣類を買って進ぜることにした。マア、それが二朱 ぐらいに就くかな」 「よいよい、一両もあったら足りるではないか。だが、貴 公、その姫荻とやらは可愛がってやれよ」 「また、貴公、しんみりとなる。どうした、訳があるなら云 ってくれ」 「なにもない。どれ、あすは元治の快挙か」  と、大二郎は瀬さそうに、立ちあがる。  その一日も、そうして無駄。心も、ときには中居屋へむく が、かれには決意がでない。そしていよいよ、翌十五日の 夜、いぬの刻半。          ×  佐賀町をでて、松平和泉どのの塀そとにかかる辺り。ここ は、祭りのなかでもわりと人通りがない。そこへ、飛ぶよう にきた一挺の駕籠。  暗がりできらっと光った、と思うと、棒さきの|提灯《ちようちん》がまず 二つに割れ……。 「ワアッ」 と、駕籠やは|章駄天《いだてん》のように、逃げだした。と、垂れをつ らぬいてズブリと刺す。たしかに、手耐えとみて垂れをあ げ、 「好賊中居屋平兵衛、天訣.をうけい」  と、ふと顔をみたとき、べたりと尻餅。五味伊太夫、しば らくは口も利けない。 「い、い、一島、ぬしは、なんで……」  たかには、大二郎が黙然と座している。肩先の傷からこん こんと溢れる血。苦痛に、歯をくい縛り、ほんの洩れるよう た声で、 「おん身を裏切った、それがしは当然のものをうける」 「なんだ、これはどうしたと云うことだ」 「賞れは、中居屋へ内通した男だ。中居屋の卓見に服し、棉 船の道すじを変えさせた」 「貴公、獅子身中の虫に、一島がなろうとは」 「いいか、水谷町をとおる船は別ものである。本ものは、永 久橋から大川へ出、それから竪川から調練場へ抜け、いまご ろは台場にかかったか」 「ふうむ」 「お浜御殿の、葦のなかに伏せている一隊は、ありゃ永遠の 待ち伏せになる」 「   」 「それゆえ、貴公の一太刀を当然うけねばならぬ。そして、 これから俺は中居屋の船をっくる」 「そうか」と伊太夫はながい吐息をした。傷に、布をあてて 手をついて引きおこし、肩に支えながらやわりやわりと歩き はじめた。 「いい月だ。ときに、いま|何刻《なんどき》ごろだ」 「もう、亥の刻ちかいであろう」 「そうか」と、大二郎は苦しそうな息をしながら、 「五味、姫荻とやらを可愛がってやれよ」と、 じぶんの身 に引きくらべ去ってゆく、小さんへの哀別の吐露。  祭のしゃぎりと、ぼうっと明るい空。したをゆくのは、小 さんの迎え舟か。