寿命帳 小栗虫太郎 第1編 天来の殺人者 1点鬼簿宣言 わたしーすなわち作者が|広津修平《ひろつしゆうへい》を知るに至ったのは、ちょうど六年前、犯罪学協会 秋季例会の席上だった。 紹介者は亡父の親友|比佐《ひさ》理学博士で、その時博士の口から、広津理学士が×大学軽金属 研究所の逸材であること、かれが研究の途上にある特殊軽量金属が完成された暁には、全 世界の航空機製作に一大革命を来すである?1ーということなとも知ることができた。 のみならずかれは、エンリコ・フェルリの流れを|汲《く》む犯罪社会学に深い|造詣《ぞうけい》を持ってい た。その席上でも、"罷業その他の場合における集団的犯罪"という論題について、当時官 界にあった刑法学の権威|矢田《やだ》博士と猛烈な論争を始め、一歩も譲らなかった。それが、と くに目覚ましい記憶となって残っている。 それにも増して驚かされたのは、広津の特異な|風貌《ふうぽう》だった。 |痩《や》せひなこびれた|矯小《わいしよう》な|体躯《たいく》の上に、左右に象のような大耳を持った、それもあまりに 大き過ぎる|頭顔《とうろ》が、ちょうど|円錐形《えんすいけい》を逆さにした形で載っている。額はぐっとメフィスト 型に抜け上がって、|疎《まご》らな縮れ毛を無雑作に|撫《な》でつけ、広い額の下に薄い|眉毛《まゆげ》と、|瞼《まぷた》から むくれ出た|牡蠣《かき》のような黄色い出目があった。鼻はいまにも、肢足を張って伸び出すかと 思われる縮んだ尺取り虫。口は道化役者のように、物を言うと三日月型に広がる。おまけ に、俗にいう白っ子皮膚はミルク色の不気味さで|陽《ひ》を背にして|掌《て》を広げると、指の血 管がすっかり透き通って、周囲の脂肪が海藻のようにゆらゆら揺らめきはじめる。それが なんとも言われぬ|妖気《よ つき》だった。 しかし、そう言った中世の魔法使いめいた感じの中からも、かれが万年着のようにして いる黒いダブルを着ると、それが妙に板について、陰気ではあるが一種の威圧みを帯びて くる。たぶん、かれの脳髄のどこからか|滲《にじ》み出てくるものが不気味な鬼形を忘れさせて、 高い神性に似たものを感じさせるのであろう。 わたしはこうして、広津修平と知ることができたのだが、その後わたしたちの交情は日 に増し|濃《こま》やかさを加えていった。そして研究所に寝起きしながら、精進しているかれの研 究が一歩一歩完成に近づいていくのを、自分事のように喜んだものだった。 また、そうなっていくにつれ、最初は隠していたかれの身辺の事情がだんだんわたしに も分かってきた。といって、単に次の二つの事柄だけなのであるが……。 1ー広津の係累は短期間中に残らず死に絶えてしまい、現在では一人の身寄りすら残っ ていない。しかも、それがどういう経路において死に絶えたのか、その辺いっさい不明な のである。 1広津にはかつて、|妾《めかけ》みたいにしていた一人の女があった。が、最近産後に死に、残 された男の子も里親の手もとで、いまや母親の後を追わんとしているそうである。 とにかく、科学者としての明るい一面以外にはどこもかも|荘漠《ぽうぱく》としていて、広津修平は いっこうに実態を明らかにしなかった。どこを|覗《のぞ》いても、わたしの目に映るのはかれの仮 面としか思われなかったのだ。 ところが、ふとした起縁から広津の身辺に一変化が起こるようになり、それにつれてか れの秘密がわたしの眼前へ暴露されるに至った。 ところで、冒頭に書くのを失念したが、わたしは親譲りの歯科医なのである。 |亀沢《かめざわ》歯科医院といえば、たいていの人ははーんと|頷《うなず》くほど|斯界《しかい》の|老舗《しにせ》であって、明治の 末期には、|円喬《えんきよう》・小さん・|円右《えんう》などを連ねた寄席の高座から、小児の病気はお|玉《たまが》ケ|池《いけ》の|赤 羽《あかぱね》さん、歯の患いは一ツ目の|多胡《たこ》先生1と|噂《うわさ》されたくらい、当時から町医の|双壁《そうへき》として 認められていた。 そんな具合なので、長い歴史が物を言わせるとみえ、なかには三代も続けてわたしの診 療所に通いつづける家庭さえ少なくはない。その中に、日本新興財閥の巨頭政友党の実権 を握る、大政|商角倉要之助《すみのくらようのすけ》一家があった。ちょうどその当時は、要之助の一人娘|楽子《らくこ》が左 |上顎犬《じようがく》歯の骨膜炎手術をした予後手当てと、義歯を製作するためにわたしの診療所に通い つづけていたのだった。 角倉楽子とだけでは知る人も少ないだろうが、|日置《へき》楽子という筆名では女ボードレール と呼ばれ、詩壇に特異な地位を占める女詩人であった。かの女は好んで悪と|汚穣《おわい》と|狼褻《わいせつ》と を歌った。痩せぎすで背の高い、美人というほどではないが江戸前の顔立ちで、|目尻《めじり》から 鼻筋にかけ|剃刀《かみそり》のような険があった。文壇だれやらの戯作歌の中に、"黒づくめのお召仕立 てに水色の湯巻〃という一節があったが、それが実に、かの女の容姿から好みまでも|髪髭《ほうふつ》 とさせるものであった。 かの女は三十を越えても、まだ定まった結婚というものをしたことがなかった。関係し た男はかなりな数に上るらしいが、それでも別れるときにはべつに問題らしいものを起こ したことがなく、いつの間にか|蠕《さなぎ》から成虫が飛び出すように手際よくすーっと|脱《ぬ》け出して は、けろりとしていた。いかなる場合でも楽子は、かの女自身の|聡明《そうめい》に併せて父親の金力 を利用するのを忘れなかったのである。 わたしが院長室で楽子を診察してからドアの外に送り出すと、入れ違いに広津修平が入 ってきた。かれは楽子の背に注いだ視線を返して、 「きみ、いまの女は、ありゃいったい何者だね?」 「名前を言えばたぶん知ってるだろうが、例の日置楽子さ」 「日置楽子!ふむ、あの女がそうか」 広津は何度も繰り返した。 「ぼくはあの女の『|阿呆《あほう》の言葉』を読んだことがあるが、あれほどずば抜けた空想力を持 った女はちょっと日本にはいないぜ」 「おや、ばかに褒めるじゃないか。だけどあの女の正体が分かれば、きみだって一遍でい やになってしまうぜ。きみ、あれが角倉要之助の一人娘なんだよ」 「なに、角倉の娘ー7品」 広津は|鶏鵡返《おうむがえ》しに叫んだ。 「ああ、きみも知っているだろう、例の角倉要之助さ」 わたしの一言が広津に異常な衝撃を与えたらしく、かれはたちまち凍りついたように動 かなくなってしまった。極度の放心状態によく見るところの、全身の神経がほぐれ|弛《ゆる》み切 ったという形で、見詰めた目にも鋭い意識がない。そして両手をだらりと下げたまま、ま るで夢遊病者のような足取りでふらふらドアの外へ行こうとする。わたしは何度も呼びか けたが、広津は振り向きもせず、とうとう診察室から姿を消してしまった。 この不可解な行為はあとになって分かることだが、当座のうちは白昼の幽霊のようにわ たしを絶えず悩ましつづけたものだった。 ところが、不思議なことには、それきり広津からは|杏《よ つ》として消息が絶えてしまった。わ たしは心配になるので研究所を訪ねると、広津はあの日を最後に研究所からも姿を消して しまったことが分かった。行きつけの酒場から|煙草屋《たばこや》まで捜しても、かれの消息は影さえ 捕らえることができなかったのである。 そうこうしているうちに、ふた月余り|経《た》ってしまったが、四月のある朝だった。|枕《まくら》もと に置かれた来信を順繰りに開封していくうちに、ふと広津らしい書体が目に止まった。は っと息を詰まらせながら裏を返すと、それはまさしく広津には相違なかったが、封筒には 角倉商事株式会社と印刷されてある。内容には、久しい無音の|詫《わ》びから、今回都合によっ て特殊軽量金属の研究を放棄して、未完成のままを(それだけでも大したものなのだが) 角倉商事株式会社に譲渡し、そしてかれ自身は角倉要之助の娘楽子との間に婚約が成立し た、という旨が記されてあった。 その夜わたしは、なんとしても広津に思い|止《とど》まらせるべく、血の出るような|諌止《かんし》を交え て筆を執った。するとその折返しに、結婚披露会の招待状に添えてかれから長文の返信を 受け取った。が、それによって初めて広津修平の陰惨な秘密と、かれの恐るべき計画を知 ることができたのである。以下その全文を掲げることにする。 ××× 多胡くんー 前便を読まれたきみの|驚樗《きようがく》と憤慨とは充分推察される。それでこそ温厚なきみには珍し く、ああいう|苛烈《かれつ》な詰責文をよこしたのだと思う。学徒の節操と|衿侍《きようじ》を|縷《るる》々ご教示くださ れたことは、変わらないきみの友情として深く感謝する。だが、すべては過去のことだ。 今夜わたしは、角倉楽子と内祝言をすることになっている。明日からは|競《しやちほニ》のついた御殿 の後継者となって、あの|唾棄《だき》すべき政商要之助を父と呼ばなければならないのだ。 多胡くんー ぼくの今度の行動について非難するのは、一人きみばかりではない。同僚の|大友《おおとも》・|蓮沼《はすぬま》 の両くん、それから恩師比佐老博士、そして助手の|谷口《たにぐち》までが最大級の形容詞を使って、 金権魔に節を売ったわたしを|罵倒《ぱとう》し、学徒の自殺を|憐《あわ》れんでいる。みな無理のないことば かりだ。わたしは一言もなく頭を下げる。 つい十日ほど前のことだが、わたしは近年にない感傷の一夜を過ごした。 実に久方振りで、あの懐かしい赤|煉瓦《れんが》の教室を訪れたのだ。それにはわたしの意志とい うよりも、なにか目に見えない物の|怪《け》がわたしをぐいぐい引っ張っていって、最後の告別 を強いたかのように思われるのだった。構内には、小砂利の上に桜の花弁が散り、雨|催《もよ》い の空が低く迫っていた。わたしは教室の正面まで来て、芝生の上に小半時間も立ち尽くし ていたが、どうしてもドアを押す勇気が出なかった。 そのうち、横手へさっと明かりが|射《さ》したので、そっと忍んでいってみると、研究室で実 験が終わったらしく大友が窓際で手を洗っている。わたしはすぐ向こう側に行って、クル ムプホルツ教授の胸像の背後からしみじみ室内を|窺《うかが》うことができた。すべてが|三月《みつき》前と同 じ姿でおのおのが別個の感傷を誘って、わたしを思い出に浸らせずにはいない。 そのうち、わたしの視線がふとある一点に集中されると、全世界が足下から崩れ落ちた ように感じたーわたしのレトルトに|蝶形《ちようがた》の喪章が結ばれてあったからだ。 あれほと裏切られ背かれたにもかかわらず、去っていく一学徒に対する友の告別1を 判然と見たのだ。わたしは瞼の内側に熱いものを感じた。と、喪章の蝶形がみるみる膨れ だし、大友が|歪《いびつ》になって倒れていった。わたしは|頬《ほお》に冷たいものが当たるのも知らずに、 視界を|塞《ふさ》いでいる大きな水紋をばかり意識していた。 多胡くんー きみは読んでいくうちに、不思議な情景を想起したことと思う。悩ましい春の一夜を桜 の木陰で雨に|濡《ぬ》れそぼちながら、老異人の胸像に頬擦りして泣いている男を、しかもこの うえもない醜い男をーきみは存分笑ってくれてもいい。 だが多胡くん、わたしはきみにだけ一言弁明したいと思う。なるほどわたしの行為は、 あらゆる周囲の意志を踏みにじり、裏切り、離れていった。いかにもそれに相違なかろう。 そして表面だけから見れば、金力に対する屈服、一女性を得んがために節を売ったとしか 信ぜられぬであろう。が、いったんわたしに背負わされた恐ろしい宿命が分かると、わた しの|辿《たど》ってきた道に曲がりなりにも軌道を認めていただけるだろう。 では、きみを信じて、広津一家の|惨《むき》たらしい悲劇と、わたしの半生を打ち明けることに する。 きみは、角倉要之助の驚異的な出世物語をご存じだろう。とんとん拍子に巨富を重ねた かれでも、明治の末期には|小松川《こまつがわ》紡績の一職工に過ぎず、同じ工場にわたしの父広津|甚吉《じんきち》 は職工次長を務めていたのだ。わたしの父は|黎明期《れいめいき》の労働運動者で、|瘤甚《こぶじん》といえば相当知 られたものだった。当時は日露戦争直後で、戦争景気の反動がようやく|萌《きざ》しはじめたのを 見込み、会社側が横暴極まる賃金値下げを行おうとした。それがために、最初に立った父 の一団に誘導されて全職工が団結し、いよいよ日本労働運動史の第一ぺージを飾る小松川 紡績争議の流血が開始されたのだった。 争議の経過はだいたい労働者側の有利に展開していき、いま一歩で会社側に原案撤回と まで|漕《こ》ぎ着けたのだが、土壇場になって会社が捨て身に行った買収が意外にも効を奏し、 争議団の足並みがたちまち乱れはじめ、もののわずか六時間ほどの間に、無残や木っ葉|微 塵《みじん》に|叩《たた》きつけられてしまったのだ。その時の憎むべき裏切り者はだれあろう、昨日までは 勇敢な闘士として自他共に許した角倉要之助だったのだ。かれはその報酬として小一万円 を手に入れ、それが|因《もと》で今日の巨富をなしたのだと言われている。 ところが、|卑怯者《ひきようもの》はそれのみでは飽き足らなかった。今度は目の上の瘤である父を除こ うとして、さらに陰険な触手を伸ばした。そして、角倉の言を信じてうっかり帰宅したの が父の運の尽きであり、広津一家にとんでもない悲劇が起こる因となった。 生来父は用心深い性質なので、争議中にも絶えず居所を転々して検束を逃れていたが、 警察側で争議終了と同時に検挙打ち切りが内定した-1という角倉の虚言を信じたのと、 争議中生まれた女の子を一度も見ないので、一つには親心から、夜半|秘《ひそ》かに自宅の|閾《しきい》を|跨《また》 いだ。そこを、雨戸を叩き破った土足の一団が|閣入《ちんにゆう》してきたのだ。父は頑強に抵抗した。 争議中の|敵撫心《てきがいしん》が一度に爆発して、|強靭《きようじん》な腕力が闘牛のように荒れ狂った。 そのうち、組みつほぐれつしているうちに、父の足へ絡みついていた刑事の一人があっ と叫んで飛び|退《の》いた。そして部屋の一隅を指差して、あああああと口の利けぬような声を 立てる。それを見ると一同が格闘の手を思わずも忘れ、立ち|煉《すく》んでしまったのも無理では なかった。 そこには、生まれて一週間とならない|嬰児《みどりき》が、まだ薄い膜のようにぶよぶよしている後 頭部を横ざまに踏み|潰《つぷ》され、ところどころの足型に灰黄色のどろどろした|脳漿《のうしよう》がこびりつ いている。おまけにその|側《そば》には、|瞳《ひとみ》を上擦らせて|輩膜《きよろまく》を|剥《む》き出し、恐ろしい形相をしてわ たしの母が|仰向《あおむ》けざまにふんぞり反っている。慌てて医者を迎えたが、母は心臓|麻痩《まひ》を起 こしてすでに事切れていた。 しかし、原因は一見して明らかだった。1無我夢中に格闘を続けているうち、だれの 足ともなく、それもほんの無意識のひと踏ん張りが幼い生命を奪ったものらしい。そして それを見た母親の弱い心臓が、致命的な興奮に耐え切れなかったのであろう。 わたしはその夜限りで、父を見ることができなくなった。 父はその場で発狂し、ちょうど四十九日目に|巣鴨《すがも》病院で最期の|呼吸《いき》を引き取ったのであ る。しかしわたしは、それきり泣かなくなってしまった。神棚に張った白い紙と三基の白 木の|位牌《いはい》とが、わたしの心に絶えず何事かを|曝《ささや》いて、ある一つの根強い意志を植えつけよ うとする。それが初めのうちは、霧の中の光のようにぼーっとしていたのだけれど、ふと した機会で、父の恩顧を受けた|兼子《かねこ》という老人から争議の|経緯《いきさつ》を聞くに及んで、ようやく 自分に負わされた重大な使命を判然意識するに至った。 そして、それから二十余年の間、絶えず|狙《ねら》っていた機会がきみの家で楽子に会った のがそうだーいまや熟そうとしている。 多胡くん1 目をもって目に報い、耳には耳を打たなければならない。角倉要之助は父の最期をその ままに、鉄格子の中で病態のように狂い死ぬだろう。流れ出した妹の脳漿はそっくり、楽 子に、目も当てられぬ惨状を最後の記憶とした母の死は、角倉血族の残るすべてに及んで いく。 ヘンリー・フェーバーの『昆虫学の思い出』という著述の中に、スフェックスという|膜《まく》 |翅類《しるい》の話が載っている。この虫は砂地に数個所の穴を掘って、その中に捕らえた生物を殺 さず、単に麻痺させたままで|貯《たくわ》えておく。そして、|貧林《どんらん》女な幼虫がそれを食らうのだが、た だ生きているのみの犠牲の生物は、仲間が食われる惨たらしい光景を眺めながらも動くこ とができず、じーっと自分の順番を待つより仕方ないのだ。 角倉一家1なかにも楽子は、ちょうどスフェックスの生き|餌《え》のように、間もなくこう いった恐怖生活を経験しなければならない。しかもかの女は……醜悪なわたしのどこに興 味があるのか結婚を非常に喜んで、過去の清算と貞潔を誓ったかの女は……初夜と同時に、 肉体的にも絶望の|深淵《しんえん》に突き落とされるのだ。 多胡くんi 何を隠そう、わたしの肉体は楽子のような三十女の情欲はおろか、老衰した老婆の要求 すら満足させることができないのだ。いや、自分から故意に去勢手術を行ってしまったの だよ。最近、|鼠瞑部腫瘤《そけいぷしゆりゆう》で入院したことがあったのだが、その時レントゲン線を遮断する 鉛被覆を巧みに動かして、自分で自分の性的能力を奪ってしまったのだ。ああ、わたしに はもう、あの|熾烈《しれつ》な欲望が燃え盛ることはない。もちろん自分の|身体《からだ》の一部だけは、どう することもできないのだ。 きみがゾラの『テレーズ・ラカン』を読んだことがあれば、必ずや主人公のテレーズが 送った、世にも悲惨な生活記録に胸を打たれたことだろう。楽子はテレーズの苦悩を味わ いつつ、絶え間ない恐怖に|標《ふる》えながら、わたしの手で|生命《いのち》を絶たれるまでは|煉獄《れんびごく》に等しい 生活を送らねばならない。そこに、わたしの狂気じみた去勢手術の原因が潜んでいる のだ。 しかし、わたしは楽子の|反嘘《はんぜい》を予期している。かの女の教養と生まれついての聡明な性 質は、|唯《いい》々|諾《だくだく》々としてわたしの手を無抵抗に待つとは思われない。そこに、わたしが楽子 を選んだ理由の一つがある。死に餌を|啄《ついば》むよりも、ぴちぴち跳ね回る生き餌を|弄《もてあそ》びながら ついにそれを仕止めて|餌食《えじき》にする食肉鳥の生活に、わたしは限りない|憧憬《どうけい》を覚えるのだ。 多胡くんlI- さて次に、わたしの寿命帳に載って、隠微な刑罰を待っている六人の名を記すことにし よ・つ。 角倉要之助 同楽子 ひようどうかくさぷろうかにゆうざわむら 俵藤格三郎。この男は要之助が故郷に残した私生児なのだが、現在では北信鹿入沢村で 軽便鉄道の機関手を務め、同村の村長俵藤家の養子になっている。この男についてはあま りよく知らない。 |帆足亮一《ほたりりよういち》。というよりも、単に帆足検事というほうが聞こえが早いくらい、|数多《あまたと》の|漬職《くしよく》 事件を手がけて有名な男だ。要之助の兄の子で、楽子の|許婚者《いいなずけ》だったのだが、楽子のほう で嫌い、いまだに独身を続けている。 帆足|広玄《こうげん》。有名な邪教天霊教本部の理事長を務めている人物で、要之助の兄。亮一には 実父に当たる。右耳三半規管を欠いて、右の耳がまったく用をなさない老人であるが、天 霊教の大勢力者。同教の巨額な収入とそれを運用する角倉財閥との間に立って、この老人 は実に重大な役割を務めているのだ。 |城浩作《しろこうさく》。要之助の妹の子、実家は没落してしまって現在では角倉家に寄食している。病 弱のため×大仏文科を中途退学したほどで、そのうえ夢中遊行の奇癖を備えた神経病患者 である。しかし、まだ浩作ほど純情な青年を見たことがない。楽子もこの弱々しい|従弟《いとこ》に は、姉らしい愛と|憐欄《れんびん》を忘れないのである。 一以上の六人だ。しかし、わたしはここで筆を|欄《お》くことにする。たったいま、郊外の百姓 家に預けてあるわたしの子供が死んだという知らせを受けたからだ。このうえ筆を進める 勇気はない。|今宵《こよい》式が終わると、二人は|蜜月《みつげつ》の旅に上る予定になっているが、おそらく楽 子は甲州境に近い|奥多摩《おくたま》の一農家で、わたしの死児を抱いて一夜を過ごすことになるだろ ・つ。 多胡くん いずれ近い将来に、|偏狂者《パラノイヤ》の犯罪記録をきみの足下に捧呈することを約束しておく。 ××× かれの秘密が恐ろしい|呪誼《じゆそ》であらんとは、いまのいままで覗き見すら許されない事実だ った。その夜わたしはまんじりともできず、広津修平の悪魔的な宣言に|愚《つ》かれたようにな ってしまって、とうとう眠らず一夜を明かしてしまった。 しかし、かれの報告は待てど暮らせど来なかった。・そして、一月二月と経つにつれ、い つとなくわたしの気持ちも変わってきて、かれの言葉を真正面に信ずるのが|馬鹿《ばか》らしくな ってきた。あんな手紙をよこしたのは、きっとあいつの芝居げたっぷりな|遁辞《とんじ》に違いない。 自分の唾棄すべき行為を塗り隠そうとして|虚仮嚇《ニけおど》しの鬼面を|被《かぷ》り、かえってその陰で楽子 を抱いてぺろりと舌を出しているのではないだろうか……とまで考えるようになると、ま るで恋人でも待つような自分の振舞いがひどく情けないもののように思われてきた。 そうなると、広津の姿はしだいと薄紙を|剥《は》ぐように薄らいでいき、その年の暮れごろに なると完全にわたしの意中から影を潜めてしまった。 ところが、年を越えた一月の二十日過ぎ、わたしは思いがけなく広津からの音信を受け 取った。かれはわたしの秘かな|嘲《あざけ》りに|応《こた》えて、第一回の殺人記録を送ってきたのだった。 2飛来した|阻鉄《いんてつ》 多胡くんー ずいぶん永い間ご|無沙汰《ぷさた》した。きみはとうの昔にわたしのことなど忘れてしまったこと と思うが、もし絶えず思い出していてくれたとすれば、わたしは自分の気ままを筆不精の せいにしてお|詫《わ》びしておく。 いや事実のところ、いままではきみに知らせねばならぬような、めぼしい出来事がなに ひとつなかったのだ。しいて言えば、楽子が案外無気力なことぐらいで。……かの女はわ たしの肉体の欠陥を知っても、死児を抱かされても、不思議なほど無感動なのだ。しかも、 |傲岸《びごうがん》無比だった日置楽子の|悌《おもかげ》どこへやらで、わたしにはまるで奴隷のようにまめまめしく 仕えていてくれる。だから|反曝《はんぜい》を予期していたわたしは、いささか拍子抜けのした|態《てい》なの だが、しかし必要な警戒だけは常に怠らないでいる。 あの無感情な白面の下に、いかなる|刺《とげ》が潜んでいないとも限らないのだから。 ところで、多胡くん1 以前きみに、角倉一族の寿命帳を送った記憶がする。いまでもきみはそれを保存してい るだろうと思うが、その中で帆足広玄の上に朱線を引いて、一月二十一日卒と添え書きし てくれたまえ。いよいよ機会が熟して、最初白羽の矢を立てたのが天霊教の実権者帆足広 玄だったのだ。そして、わたしはついに仕止めることができた。 では、いかなる方法でかれを殺し、いかにして犯罪の|痕跡《こんせき》を消すことができたか、記す ことにしよう。 (断っておくが、広玄の死は政友党にとって大打撃なので、総選挙前には絶対発表されな いそうだから) ××× 一月二十一日の夜十時過ぎになって、突然広玄が|王子《おうじ》の角倉邸を訪れた。いつもは前も って電話で問い合わせるのだが、それもせず不意にやって来たところをみると、よほど緊 急な用件らしかった。ところが、折悪しく要之助は不在だったので、帰るのを待つと言っ て、その夜は一泊することになった。 ここでまず、部屋の位置と相互の関係を説明しておかねばならない。広玄の寝室に当て られたのは本館の二階で、左端から三番目の部屋に当たっている。真下が食器部屋で、た いして上等の客間ではないのだが、広玄はこの灰色ずくめの部屋を非常に好んでいるらし かった。 その部屋から扉一つで浩作の居間に続き、そこには神経病患者の浩作が窓を閉じたきり で、終日思索に|耽《ふけ》っている。それから、浩作の部屋の前にある|傭人《ようにん》用階段から三階に上る とすぐ楽子の部屋があり、わたしの部屋はそれと向かい合わせになっていた。 広玄は部屋に通されるとすぐ衣服を着替えて、十二時になったら緩下剤を持ってくるよ うに命じて、暖炉の前で書見を始めた。だから、それまではだれ一人この部屋を訪れなか ったのだが、十二時になると小間使いの|登美《とみ》が緩下剤と冷水を盆に載せて扉を開いた。す ると、登美はきゃっと悲鳴を上げて廊下に飛び出した。 窓庭窓 |咽喉《のど》を射抜かれている広玄の死体を発見したのだっ た。 かの女昼削庭に面した大窓2則で、 時計 下 廊 扉 炉 暖 炉扉 広玄の死体 垂れ幕 寝室 浩作の部屋 わたしは知らせを受けると、現場はそのまま にしてすぐ息子の帆足検事に電話をかけた。|大 塚《おおつか》に住まっている検事は、十五分足らずの間に 駆けつけてきた。が、実父の死が即座に財産相 続を意味するからであろうか、検事は冷酷と思 われるほどの硬さで、態度にも職業的な現場検 案以外のものを見ることができなかった。それ 以前、すでに医師が絶命を宣告して、死後二時 間以上経過していない旨を付け加えた。 死体は開け放った大窓と丁字型になって|仰向《あおむ》 けに倒れ、右手を傷口に当てていた。後頭部を 大テーブルの脚に当てたらしく、縦五ミリほど が丸形になって切れ、周囲の|腫脹《しゆちよう》が暗紫色を呈 している。おそらく|脳震沮盗《のうしんとう》を起こすに充分な打 傷だったらしい。 医師を戻してから、検事は死体を調べはじめた。傷口は甲状軟骨の右一ミリほどの所に 空けられた、ひどく不規則な多辺星形をしたもので、周囲の肉が真っ黒に焦げて、それか ら|矢《あぷ》り肉のような臭気がする。突き破った|頸動脈《けいどうみやく》から流れ出した血は、胸もとから床にか けて一面の湖水を作っているが、なにより注目されたのはいまだかつていかなる銃器にも 見たことのない大きな、しかも無残このうえもない裂け口だった。 「なぜ伯父さんは、この窓を開けたのでしょうな?」 わたしが口に切ると、 「では、天霊教の|祈薦《きとう》を知らないのですね。教祖の何とかいう|婆《ばあ》さんが死んだ時刻には、 大空を仰いで祈らなければならないのです。ですから、|親父《おやじ》の死は十禁時に違いないと信 じているのですがねえ。だが、これなんぞはちょっと神秘的な気分がするものでしょう。 そんなことで信者に|愚《つ》いているいんちき宗教なんですから、親父の死も|搾《しぽ》り上げたいわゆ る浄財の|崇《たた》りかもしれませんよ」 実父の死に対する検事の感情は、ざっとこういったものだったが、事件そのものには|焔《ほのお》 のような熱情を持っていた。かれは窓際に立ってしばらく大空の星群を眺めていたが、振 り向いた顔には深刻な懐疑が現れていた。 「ねえ修平さん、地平線が見える丘陵のようなのが|工廠《こうしよう》なんですね。すると、その間半里 ばかりの間は|把漠《ぎうぎく》たる空間じゃありませんか。おまけに、死体を動かした跡がありません。 ---------------------[End of Page 20]--------------------- 一発食らうと同時に、背後へ棒のように倒れたのですよ。それから、もう一つの|謎《なぞ》がこの 傷口です。なにかこういう、残酷な|炸裂《さくれつ》する銃器をあなたはご存じですか」 「さあ、非常に奇抜な方法で、近距離から撃ったのでは」 「はあ、地上から射撃したのでないことは、傷口だけでも分かります。それに、三階の窓 には張出し縁はないし、まさかに楽子さんが綱を下ろして逆立ちに撃つ気遣いはないでし ょう。たといそうにしても、だいいち標的が定まりませんよ。とにかく、銃弾を見ること にしましょう」 そう言って、検事はナイフの|錐《きり》の先を曲げてそれを傷口にずぶりと突っ込んだ。しかし 引き出されたものを見て、かれはあっ!と叫び声を立てた。 「いったいなんだろう、これは?」 それは長さ三ミリばかりの、細長い鉄鉱のようなものだった。だいたいが|鐵《やじり》に似た形だ が、それよりも遊泳中の|蛭《ひる》と言ったほうが適切であろう。 「ははあ、|阻鉄《いんてつ》ですね」 わたしは手にとると、すぐに言った。 「|物凄《ものす ご》い速度で落ちてくるのですから、当たったら人間などはひとたまりもありませんよ。 それに阻鉄の熱ときたら非常に高いので、,傷の肉が焦げた理由もこれで分かります。つま り、祈薦するので窓を開けて仰向いたところを、阻鉄に打たれたというわけですよ。とこ ろで、創道の角度はどうですか?」 「|頸《くぴ》を縦にすると、ほぼ水平になるんですけどね。あいにく創辺がめちゃめちゃになって いますから、その時父の頸の仰角がとの程度のものだったかは1明白に分かりかねます。 だが、そういう天来の殺人者が証明されたとすると、いよいよ|天謎説《てんけんせつ》が濃厚になってきま すね」 最後に検事は軽口を|叩《たた》いたが、その唇をきゅつと引き締めて、 「では、ひとつ詳細に調べていただきますから。万が一にも、人間が下した天謎の|痕《あと》がな いとも限りませんから」 わたしは阻鉄を水で洗い、灯にかざして調べはじめた。が、まもなく一つの発見が現れ た。 「ねえ帆足さん。阻鉄に特有なウイッドマン・ステッチン模様が現れていますよ」 「ほほう、と言うと」 「注意してみれば分かりますが、両側の膨らんだ部分に|微《かす》かな横線が現れているでしょ 、つ」 検事は|脇《ふ》に落ちぬらしく、、 「銃身を|擦《こす》った痕なら、縦につかねばならんでしょうがね」 「いや。それが阻鉄特有の現象なんですよ」 そう言って阻鉄を擦ると、美しい線条の交錯が現れた。 「元来、固有のままでは現れないのですからね。表面を摩擦しなければならないのです、、 それに酸をかけると、もっと奇麗に出てきます。ですから、ステッチン模様の現れている 二つの点が、銃器の口径に当たるわけですよ。つまり、犯人の過失なんですな。おそらく 阻鉄を焼いて発射したのでしょうが、あいにくぴったり符合した銃器を選んだので、それ で口径が分かってしまいましたよ」 ステッチン模様の発見はむろん、|進行表《スケジユえル》上欠くべからざる項目の一つだったが、はたし てそれが検事の心理に重大な影響を与えて、それ以後わたしをこよない助言者として扱う ようになった。 「ありがとう。実際恩に着ますぜ」 検事はにわかに元気づいて、阻鉄の二つの点に精密な計測を始めた。 「二十四口径です。しかも、その口径のル1ガ1を叔父は持っているのですよ。寝台の横 に隠し|抽斗《ひきだし》がついていて、いつもその中に仕舞ってあるのです。持ってきましょう」 検事が戻ってくるまでの間に、わたしはこの部屋の状況を説明しておくことにする。 四間と七間の長方型の部屋で、右三分の一は垂れ幕で区切られた寝室、廊下に出る扉は 垂れ幕のすぐ|脇《わき》ついている。扉の左手には壁炉風の電気暖炉があって、その上の壁に大型 の円時計、暖炉の前には白麻の覆いをした|長椅子《ながいす》が一つ横たわっている。窓は前庭に面し た側に二つ|鎧窓《よろいまど》があるのみで、その右寄りの一つがガラス窓とも開け放されていて、窓際 から一尺と隔たっていない所に、広玄が足の平を立てて|撞木型《しゆもくがた》に倒れているのだ。 なお、向こう側には浩作の部屋と連なる扉が、死体を挟んで電気暖炉と向き合っている。 そしてその上の回転窓が、水平に開いていた。 検事は戻ってくると、拡大鏡をルーガー|拳銃《けんじゆう》と禁緒に突き出して、 「修平さん、これだけでも犯人は邸内の者でなくてはならないのです。指紋はおろか|脂垢《あぷらあか》 の跡一つありません。奇麗に|拭《ふ》き取られているのです。何もないということは、故意に重 ねた指紋などよりかえって不自然な現象なんですよ。それからこの窓の下から、空弾の |薬爽《やつきよう》が一つ発見されました」 弾倉の中には、まだ銃弾が三発残っていた。それを一つ一つ抜き出してみると、弾底に |明瞭《めいりよう》な乳頭状線が現れている。しかしこれはあとになって、当夜不在だった要之助のもの であることが分かった。 「なるほど、明白な隠滅行為ですね。だがそれにしても、どこから撃ったのでしょうか。 前は|激荘《ぴようぽう》とした空間だし、死体には動かしたらしい形跡はないのだし……」 検事も唇を|噛《か》んでしばらく黙っていたが、やがて|憂欝《ゆううつ》な声を出した。 「わたしにも、まったく見当がつきません。この問題はすべてを総合してからということ にして、とにかく関係者を調べてみることにしましょう」 それから、検事の前にずらりと並んだのは、わたしたち夫妻をはじめ浩作と二人の雇い 人だった。 「きみは登美といったっけね。さあ、発見当時の事情を聞かせてくれたまえ」 検事は鉛筆とメモを引き寄せ、案外優しい目つきで小間使いを見た。気丈らしい登美は すらすら要領の良い答弁を続けたが、それは型どおり感動符の連続に過ぎなかった。聞き 終わると検事は、 「そうすると、父は十時半に来て、十二時には死体となって発見されたわけだね。しかし、 その一時間半の間に、何か変わった個所が室内にできていやしなかったろうか?」 登美はぐるぐる見回していたが、 「ございます。あの回転窓が、前には開いておりませんでしたが」 「|馬鹿《ぱか》言うな、登美」 浩作は真っ青になって声を震わせた。 「おまえは、ぼくが何か関係でもあるというのか!」 検事は目で浩作を制しておいて、登美を|退《さが》らせた。そして次に、四十がらみのコック|体《てい》 の男をテーブルの前に差し招いた。 「きみはぼくに、どういう知恵を貸そうというのだね?」 「ご冗談を。実は、銃声を聞きましたので」 「ほほう、すると聞いたのは?」 「最初聞きましたのは、十一時でございました。徹夜業をやっております工廠のポーと同 時で、|桜田町《さくらだまち》さま(広玄のこと)がおいでになってから間もなくのことでございました」 とコックが言い出したのを遮って、 「最初とは?」 と、検事が鋭く問い返した。 「二度聞きましたからで、へい」 コックは頭を|掻《か》いて自分事のように恐縮した。 「で、最初のときはポーが鳴っておりましたので、遠いパンクの音ぐらいにしか聞こえま せんでした。なにしろその音に気づいたのが、三人ばかりの中でわたし一人だけなくらい なんで。ですから、そんな気がしたと言ったほうが本当かもしれません。しかしそれに続 いて、ドシリと床の上に大きなものが落ちたような音がしたのです。その時もべつだん不 審がる者はいず、静かにしやがれ!とだれか|呑気《のんき》そうに怒鳴り返したほどでした。ああ そうそう、言う前にお断りしておくのを忘れましたが、その時わたしは、この部屋の真下 に当たる食器部屋におりましたので……」 「それ以前には、何か物音を聞かなかったかね?」 「さっぱりどうも」 コックはふたたび頭を掻いた。 「あとにも先にも、その二度きりでして」 「ねえ修平さん、こういう大きな建物では、よほどの音でないと響かんものですよ。天井 すなわち二階の床というのでなくて、その間に広過ぎるほどの|空隙《くうげき》がとってあるのですか らね。ですから、妙な響き方をすることがあります。それに工廠は夜になっても銃器試験 があるのですから、この家で音の性質を判別するのは非常に困難な仕事ですよ」 検事はわたしにちょっと|曝《ささや》いてから、質問を続けた。 「すると、二回目は?」 「二度目が聞こえたのは、十五分ばかりあとのことでした。今度は相当強く、ゴム風船が 破裂した程度でパンと響きました。けれどもわたしは、近所で自動車がパンクしたなli ぐらいにしか考えませんでしたが、今度のは前回と違って、床に物が落ちたような音がほ とんど銃声と同時に聞こえました。それがあとになってみると、人間が倒れた音だったそ うで」 「では、この点は確実なんだろうね」 検事は特別に念を押した。 「床へ打ち当たった物音が最初のときは銃声の直後で、二度目はそれとほとんど同時だっ たということは」 「絶対に間違いございません」 コックは悪びれずに答えた。 「では楽子さん」 コックを去らせると、検事は楽子に向き直った。 「あなたは銃声を聞きましたか?」 「音どころですかηわたしはいい気持ちに眠っているところを起こされたのですわ」 楽子はいっこう無反響だったが、一瞬顔面を|掠《かす》めた不安の影をわたしは見逃さなかった。 つづいて、わたしも楽子と同様の答弁をしたので、検事の質問はいよいよ一人残った浩 作に向けられた。 「ところで浩作くん、ぼくは職掌柄きみを怒らせるかもしれませんが、きみはだれよりも 銃声を確実に聞き分ける位置にあったはずですね」 「ぼくが単純に寝ていたとでも思われちゃ、困りますよ」 浩作は|突樫貧《つつけんどん》に言い返した。 「九時ごろジアールを|嚥《の》んだのです。ジアールの睡眠の深さはあなたもたぶんご存じでし よう。|嘘《うそ》だと思うなら、尿の検査をして構いません。とにかく、軽率に登美の言葉なんぞ を信じられちゃ困ります」 「ところが、あの開いている回転窓にどんな意味があるのか、まだ分かっていないのです よ」 検事は皮肉に|微笑《ほほえ》んだ。 「しかし、つまらないところで|疑《うたぐ》られるよりも、かえって言ってしまったほうがいいでし ょう」 「では、言いましょう。開けたとも開けなかったともi記憶がないとね。人間の記憶な んて、その辺がいちばん正直なところです。だいたい、わたしは鎧戸を開けたことがない ので、ときどき換気がてらに回転窓を開けることがあります。だが、そんなことであなた が妄想を凝らしているところをみると、何かわたしが回転窓を種に玄妙な殺人方法を編み 出したとでもお考えなのですか。いや、そんなことならあなたにかかわっちゃいられませ んよ。睡眠を中断されたので、頭痛がピてならないところですからね。ねえ修平さん、わ たしを釈放してくれるように、検事どのを諭していただけませんか」 そう言い捨てて、浩作は足音荒く室を出ていってしまった。 3消え|失《 つ》せた二発目 「ははははは、だいぶ怒ったな」 検事はべつに顔色も変えず、 「ときに、浩作くんが夢中遊行を起こすのは毎夜何時ごろですね?」 「たいてい、夜半の一時近くだそうですがね。十二時以前には一度もなかったと、家の者 は言っております。だが、浩作くんはいま意味深長な言を吐きましたね。玄妙な殺人方法 1それを聞いて、天井のガス灯の形が気になってきましたよ。ひどく変わった型じゃあ りませんか」 天井には二個所、以前に使ったガス灯の器具が残っている。|月桂冠《げつけいかん》になぞらえたホルダ くすぷくわてんびん ーが、どす黒く燥ったグローブを街え、管の中途にある開閉栓が古代フェニキア天秤の型 で、その末端に青銅で作った|籠目《か ごめ》の|蹴鞠《けまり》がぶら下がっている。おそらく、要之助が外国か ら購入したものらしい。しかし角倉邸では、五年前にガス灯の使用を廃したので、鉄管は 天井裏で切断されているのである。 検事はそれを聞いて笑い出した。 「そんなことを言うと、浩作くんに|軽蔑《けいべつ》されますぜ。とにかく、|阻鉄《いんてつ》が犯人の手に入った 経路を調べることですな」 「それは無駄でしょう。公に発表されたものならすぐに分かりますが、個人的に発見した ものだと、その間にこの事件は時効にかかってしまうでしょう」 「そうですか」 検事は暫時黙然としていたが、やがて太い吐息をついて立ち上がった。 「|親父《おやじ》がなぜ窓のほうを向いて倒れていたか9ー。それが分からなくて、一時でも浩作 くんを|疑《うたぐ》ったのはわたしの誤りでした。しかし周囲の部屋を調べることには、あなたも異 存はありますまい。とにかく、今夜は浩作くんによそへ寝てもらうことにしましょう」 そうして、わたしは当夜の調査から退くことになったが、翌朝になると二発目の銃弾の 捜索が開始された。周囲の部屋はおろか、窓を中心とする半円に入る部分は相当遠方まで 行われたが、ついに結果は|空《むな》しかった。 「ところが、あれが錯覚ではないのですからね。ほかにも二、三、コックの言を証明する 者が出てきましたよ」 食堂で顔を合わせた検事は、昨夜一睡もとらないと見え、充血した目をしていた。 「ああ、それはそうと浩作くんは?」 わたしは何よりも、それを|訊《たず》ねねばならなかった、、 「まだ寝ているんでしょう。わたしたちが食堂に入るまでは、目を覚ましてならない理由 があの男にはあるのですよ」 検事は妙な言葉を吐きながらも、なんとなく聞き耳を立てているかの様子だった。そう しているうちに、傍らの卓上電話のベルが三度続けて鳴ると、かれはにっこりとして立ち 上がった。 「浩作が部屋から出たのを、登美が知らせてくれたのです。さあ行きましょう」 検事は早足にわたしを促して現場の部屋を横切り、境のドアを開いた。内部は真っ暗で、 正面のキャビネットの上にある置時計のみが円く光っている。検事はわたしを片隅へ押し やって|囁《ささや》いた。 「いまにすぐ来ますよ」 はたしてそれから一分と|経《た》たぬ間に、足音が部屋の前で止まって廊下側の扉が開かれた。 浩作だった。かれは扉を閉めると、まっすぐに二つある窓の右手のほうの前に立った。そ してガラス窓を開いたとき、|闇《やみ》の中から検事の声がした。 「おはよう。昨夜は左で、今日は右ですね」 わたしはほとんど衝動的に壁のスイッチを|捻《ひね》ると、正面に浩作の恐怖に|充《み》ちた顔が現れ た。かれは失神したように立ち|煉《すく》んでいる。瞬間わたしの胸は歓喜で燃え上がった。ああ、 ついに検事を導いて勝ったのだ! 「右と左がどうしたというのですη品」 浩作は|捻《うな》るような声を出した。 「それが、二発目の弾の行方なんですよ」 検事はわたしを顧みて、得意げに|微笑《ほほえ》んだ。 「この部屋にも同じように、ガス灯の器具だけが残っているのですが、銃弾は開閉栓に下 がっている青銅の蹴鞠の中にあります」 はたして、かれの言うとおりだった。検事はわたしを左手の窓の前に伴って説明した。 「浩作くんの奇癖で、|鎧戸《よろいど》を永らく閉じっ放しなのをご存じでしょう。が、昨夜鎧戸の目 隠し桟を水平にした跡が残っています。桟の両端に当たる|権《かまち》の上に、わずかですが|剥《は》げこ ぼれた金具の|錆《さび》が落ちているでしょうーーそれで分かったのですよ。またその時、カラス 窓は一文字に開かれていたとわたしは言いたいのです。なぜかというと、かりにガラ ス窓が閉じられていたのだとすると、昨夜この方角へまともから吹きつけた風が、永らく 桟と桟の間に|溜《た》まっていた|煤《すす》を吹き払うでしょうから、当然ガラス窓と鎧戸との間に目に 見えたものがなければなりません。が、事実そんな形跡はさらにないのです。そこで、ガ ラス窓が開かれていて、吹かれた煤が床上へ散乱したことが分かりました。さてここまで 言えば、おおよその見当だけはおつきになるでしょう。目隠し桟を水平にして鎧戸だけを 閉じ、ガラス窓を開かねばならなかったのは、つまり一種の換気法だからです。他人の|嗅 覚《きゆうかく》に触れてはならぬ臭気を散逸させると同時に、内部を|窺《うかが》われないためなのです。しかし、 それはむろん火薬の|臭《にお》いではありません。この部屋にあってはならぬ異臭が|籠《こも》っていたか らです。そこで、わたしの目が反射的にこの部屋の天井にあるガス灯へ向けられたのです が、他の部屋のと見比べると、はたして異状があるのを発見しました。他のは開閉栓が左 へ傾いて栓が閉まっているのに反し、この一つだけは右へ傾いて栓が開放されています。 それは点灯が廃止された今日でも、以前使っていた場合を考えれば明白に不自然な状態で あると言って差し支えないでしょう。そこで、わたしは一つの結論に到達しました。この 部屋のガス灯を廃止するときには、見たとおり器具は取り外してないのだから、たぶん天 井裏の鉛管を切断したに違いない。こうして切り口を|塞《ふさ》いでしまえば、切り口から開閉栓 までに溜まっているガスは永久に散逸する虞はないのです。ですから、残っている問題は 五年前の石炭ガスを発散させた力がそもそも何によるかということです。しかし、それに は平凡な理論で、この部屋で失われたものを想像すればよい。つまり、二回目に発射され た銃弾がそれなんですよ。それが垂直に近い線を下から逆に突進していって、蹴鞠の籠目 の間に食い込んだのです。そしてその上昇力が、錆びついていた栓を回転させたというわ けですよ」 「どうも解せませんな」 わたしは首を捻ってみせた。 「いったいどういう事態が、この部屋に起こったのでしょうか?」 「それは、少しでもコックの陳述を|玩味《がんみ》すれば分かることですがね。最初のときは銃声の 一瞬後に倒れた音が聞こえ、二回目はその二つが同時だったという点です。むろん、そう いう同時性が起こる場合が一つしかないからですよ。つまり浩作くんが、|仰向《あおむ》けに倒れた 弾みに|拳銃《けんじゆう》が発射されたからです。といって、偶然倒れたのではありません。ある重大な 錯誤を犯したために、浩作くんが自殺を企てたところを背後から支えた女性がありました。 そして、その二人が絡み合って争ううちに、重なり合って仰向けざまに倒れたのです」 「というと、だれです?」 「樂子さんですよ。わたしはすでにあなたの奥さんの口を割らせました」 その時、浩作は突然叫んだ。 「ぼくを犯人にするならするでいい。だが、いったいきみの親父の死体はなぜ窓のほうを 向いて倒れていたんだ?」 「浩作くん、それはきみが親父の耳を知っているからです」 検事は静かに言った。 「右内耳の三半規管が十前ほど前、耳疾のためにまったくやられてしまいました。わたし は当時|函館《はこだて》地方裁判所勤務だったので、詳しい事情は知りませんが、三半規管についてこ れだけの想像なら、あながち過ぎたものと言われないでしょう。つまり、こうなのです。 三半規管が全身の平衡感覚を|司《つかさど》る機能であることはご存じでしょう。ところがそれが破壊 されると、まっすぐな運動でも欠けたほうの側へ捻じれるようになって曲がってしまうの です。しかし視覚上の注意や筋肉の感覚などで、しだいに回復していきますが、それは精 神が常態の場合のことで、いったん平衡を失った際にはたちまち偏行運動が現れるのです。 昨夜がちょうどそれなんですよ。まず浩作くんは、わたしの父に言葉をかけて、こっちへ 向いたところを|狙撃《そげき》したのですが、その時、父が後方へ逃げ出そうとした瞬間、偏行運動 が起こって右へぐるっと一回転して、窓を正面にしたとき均衡を失って仰向けに倒れたの です。そして後頭部を強打して、意識を失ってしまったのです。つまり、開いてある窓と |祈薦《きと つ》、それから偏行運動とが、浩作くんの実に優れた結合だったのですよ」 「|馬鹿《ばか》な、何がぼくのせいなもんか」 浩作は狂気のように|喚《わめ》き立てた。 「ぼくがやったとしたら、夢中遊行の最中です。あるいは、犯人がほかにあるのかもしれ ません。昨夜の事情をそのまま言いますから、その偏見だけは|止《や》めてください」 「言いたまえ」 検事は冷たく促した。 「実を言うと、ジアールなど|嚥《の》んでいなかったのです。それで、少し眠ったと思うころ、 鋭い音響で目を覚まされました。時計を見るとちょうど一時でした。しばらくうつつのま まベッドの上に|坐《すわ》っていると、隣の部屋でうーむと|陣《うめ》き声がするのです。扉を開けると、 どうでしょう、伯父さんが|朱《あけ》に染まって倒れているではありませんか。近寄ってみると、 脈拍がまさに尽きなんとしています。わたしは思わず|荘然《ぽうぜん》となって、立ち疎んでしまいま した。ところがそのうち、いつの間にか自室に戻ったとみえて、わたしは自分が寝台の|側《そば》 に|停《たたず》んでいるのに気がついたのです。ふと妙な手触りをマットの上に覚えると、全身に|怖《お》 じけ立つような悪寒を感じました。わたしは拳銃に触れたのです。すると|咄嵯《とっさひ》に|閃《らめ》いたも のが、午前一時1いつも夢遊病の起こる時刻ということです。全身の血が一時に下がる ような思いでした。ところが、恐怖はそれのみでは尽きません。なんだか闇が怖くなって きたので電灯を|点《つ》けると、思わず目を覆いたいような現象が時計に現れているのです。つ い何分か前に一時だったのが、今度見ると十一時を少し回ったばかりなのです。わたしは とうとう悲惨な転落を覚悟しなければなりませんでした。よしんば犯人に擬せられたにし たところで、これまでの時間内に起こっていれば、多数の証言があるいはわたしを救うか もしれません。けれども、、二時間の差はとうてい運命です。おそらく、わたしを|奈落《ならく》の底 に突き落としてしまうでしょう。そんなわけで、むらむらと自殺する気になったのですが、 銃口を|顧纈《こめかみ》に当てた|刹那《せつな》、銃声を聞いた樂子さんが飛び込んできました。それから、しよ う、させまいとの争いが、ふとした弾みであなたが推定されるような結果を生んでしまっ たのです。しかし拳銃を樂子さんに持ち去られてしまうと、わたしも自殺の決意が鈍りま した。それに、一度ならずの銃声にもだれ一人騒ぎ立てる者がないので、あるいはと思い、 万事成り行きに任せる覚悟になったのです。だが亮一さん、あの不思議な時計の動きはい ったいどんな悪魔が作り出したのでしょう?」 |水痘《すいとう》のような脂汗を額に浮かべて、浩作くんは必死の弁明に努めたが、検事は長い黙考 ののちに口を開いた。 「いや、それだけはいかにも事実でしょう。Il時計の指針が変わったというのだけはね。 ピいって錯覚でも神業でもありません。単に回転窓が水平に開いていて、きみの部屋が真 っ暗だったからーというのみのことなんですよ。つまり、扉の正面にある向こうの部屋 の時計がきみの部屋の置時計に、不思議な一致を作って投影したに過ぎないのです。つま り、十一時を指す指針の角度が反対に映ったので、それが一時のように見えたのです。し かしその刺激が、きみに殺意を起こさせる直接の原因だったのですね」 「えっ、何を言うのです」 検事の推測は、せっかく|掴《つか》もうとした浩作の|藁《わら》を奪ってしまった。 「もちろん|臆測《おくそく》だと言われるでしょうが、きみにはわたしの父を殺してよい動機がありま すね。父の天霊教のために、きみのお父さんは全財産を|蕩尽《とうじん》してしまったのですからね。 いや、殺すのが当然ですよ。わたしも父の悪徳を恥じています。むしろいままでは、いつ かの機会を得て、お報いしなければならぬと考えていたくらいです。ですから、動機につ いては充分の同情を持っているのですよ。そんなわけで、きみの心中には幾つかの殺人方 法が生まれていたことでしょう。昨夜図らずも、その一つを実行する機会を得たのです。 きみが仮睡から覚めると、隣室に足音がしました。すぐ一つの思い付きを用いて、それが わたしの父で、祈薦に移ろうとしているのを知ったのです。右耳三半規管を欠いた父に阻 鉄を利用するのには、まさに絶好の機会と言わねばなりません。おまけに、時計を見ると 一時なので、たとい殺人流星の仕掛けが暴露したにしろ、罪を夢遊病に転嫁する|術《すべ》もあり ましょう。そこできみはストーブのコイルの上に阻鉄を置いて熱を加え、その間に叔父の 部屋から拳銃を持ってきたのです。そしておりからのポーを利用して扉を開き、父が振り 向いたところを発射したのでしたね。はたして万事筋書きどおりに運ばれましたが、凶行 を終わって部屋に戻り、電灯を点けて時計を見ると、きみは実に運命的な錯誤を犯してい たのに気がついたのです。その不可解な動きは、たちまちきみを懐疑の底に|叩《たた》き込みまし た。ですから、解き悩んで荘然としているところを、銃声を|覚《さと》った樂子さんに発見されて、 揚句に自殺を決意せねばならなくなったのですよ」 ほとんど間然するところのない検事の推論だった。浩作は辛くも最後の気力を起こして、 「それなら、回転窓はだれが開いたのです?それから、わたしが時計を見たとき正一時 だったのですから、同時刻に鳴る|工廠《こうしよう》のポーとの間に、拳銃を取りに行く余裕がないわけ でしょう」 「はははは、自分で知っているくせにηでは、回転窓を水平にして、それに隣室の情景 を映したのはだれです?つまり、きみは下から眺めて、父の動作をしったのです。それ から、あの時計は十分ほど進んでいるのですよ。ところが、父の懐中時計は天文台の証明 書がついているほどの逸品なのですから、自分の時計以外は見ない習慣になっています」 そう言って、検事は|欄笑《びんしよう》するような視線を浩作に送った。 「それにしても、浩作くん、きみはなぜもっと口径の大きな拳銃を用意しておかなかった のです。そうしたら、修平さんにステッチン模様を発見されることがなかったでしょうが ね」 ××× 多胡くんー こうしてわたしは帆足検事を誘導して、広玄殺害事件に落とした影を|拭《ぬぐ》うことができた のだ。 が、わたしの犯行がどういう経路を|辿《たど》ったかということは、もっとも平凡な方法を想像 していただけばよい。しかし、あの善良な青年の引かれて行く姿があの日以来、絶えざる 悩みの種になっているのだ。なんとかして、凶行当時夢中遊行だったことを証明して、浩 作を獄中から救い出そうと考えている。 といって、なにも仏心が起こったわけではなく、遅かれ早かれかれも変死を遂げねばな らない運命にあるからだ。それがためには、わたしの手の届く範囲内において、何よりス ケジュールの保全を図っておく必要があるのだ。一人欠けてもならない。角倉全血族の|塞 殺《おうさつ》を果たしてこそ、わたしの使命が終わるのだから……。 では多胡くん、これで筆を|欄《お》くことにするが、終わりに臨んで、次回の犠牲者の予告を しておこう。 帆足亮一ー 第2編 告げ口幽霊 1 奇人|丹下《たんげ》弁護士 ×××年四月二日に広津修平から送られた第二信。 多胡くんー きみは前便を読んで、わたしの犯行が予想外にも平凡だったのに驚いたことと思う。け れども、もともとわたしには、きみに赤本めいた|戦標《せんりつ》を贈ろうなどという意志はない。血 を血で打つ真剣な|血讐《けつしゆう》を|綴《つづ》った記録を、きみの手で保管してもらいたいと思うからなのだ。 それに五人の一族を完全に|屠《ほふ》り尽くすまでは、なによりわたし自身の安全を図っておかね ばならないことも、理由の一つになっている。 つまり、完全に犯罪を行・?ーーその概念を会得するのに、わたしはまず苦しんだのだ。 探偵小説を|漁《あさ》り尽くし、あらゆる犯罪記録を読破したが、帰着するところはやはりもっと も平凡な方法をスムーズに行えという一事に尽きていた。 たとえば毒殺事件にしてもだが、湿地に建てられた家の家族に|亜砒酸《あひさん》を、それも数年の 間に隔てて用いたとしたらどうだろう。ヒョスチアミンを主剤にしたハーヴエー・クリッ プンの魔術よりかも、急性腸カタル類似の症状を起こす愚人の毒のほうが、はるか完全に 近いのではないだろうか。 それにもう一つ、捜査官の心理操縦にも力点を置かなければならないのは、やはり犯罪 史が実証的に指摘するところだったのだ。それには二つの型がある。一つは一八八一年、 ヨハネスブルグの|手斧殺教者《ハチエツト スロ タ 》ジクムンド・キュー不のように、あらかじめ否定材料を捜査 の進路中に伏せておき、自分がまず嫌疑者となって現れることで、もう一つは犯罪者自身 が捜査官の仲間入りをすることなんだ。 わたしがどっちを選んだかということは、前回の事件を見れば分かることだが、以上述 べた平凡な真理はたぶん最後の五人目までも続くことと思う。だから、きみの心動に変化 を来すような華麗な殺人方法をもしもきみが期待しているのだったら、この一文を証拠に わたしを告訴してくれても差し支えない。ただ、わたしは|蝋《さそり》のように音もなく|這《は》い寄って いけばよいのだ。そしてひと|咬《カ》み加えたらぽたりと床の上に落ちて、それからはまっしぐ らに隅の暗がりの中へ這い込むだけのことだ。 だが、今度の事件が前回と異なって、非常に派手な色彩に包まれているというのは、最 近世上で話題の種を独占した形になっている例の暗号様の数字|文《ぷん》が、偶然にも後段に現れ る殺人事件中重要な役割を務めることになったからだ。というときみは、かねての予告ど おりわたしが帆足検事の生命を奪ったと早合点するだろうが、二回目の犠牲者になったの は意外にも予定の五人以外の人物だったのだ。 その人物はわたしに招かれ、わたしの希望を|充《み》たすべく努力して、その結果ついに殺さ れねばならなくなったのだ。 (作者付言1。その暗号様の数字文というのは、この一月以来、大新聞の広告欄に毎週 一回そのつど変わった姿を現すのだが、いまだに|何人《なんぴと》もその解読を成し遂げた者がない。 筆者はここに問題の全文を掲げて、まず冒頭に|謎《なぞ》を提出しておこうと思う) 五は一なれども、また十五にてもあり 65 85 30 35 81 68 1 11 10 11 61 61 81 11 81 25 15 0 65 1 26 51 55 85 81 66 63 66 45 50 81 3 0 31 66 81 85 31 50 80 15 25 50 61 50 81 25 50 81 25 50 86 66 11 25 31 50 81 25 50 43 45 51 85 5 23 21 0 51 35 11 65 85 5 85 23 8 50 10 68 50 86 25 0 多胡くんー その殺人の兆しとでもいうのは、ちょうど帆足検事の体臭がわたしの|嗅覚《きゆうかく》を|誘《いざな》ってなら ない矢先に現れた。なんだか、わたしの背後に立ってじっと見詰めている人物がいるよう な気がした。 といって、まだわたしが毒のある|咬牙《こうが》を持つ生物だということは気づかないらしいのだ が、いつかはその人物の比類ない頭脳に、わたしが鰍だか|深山鍬形《みやまくわがた》(|鬼虫《おにむし》)だか、映らず には済むまいと思われたのだ。こうして前方に横たわっている恐ろしい破滅を|覚《さと》ることが できたので、わたしは心中|秘《ひそ》かに決するところがあった。すべての生物が生存条件を脅か された場合には、続いて起こるのが本能的な拒絶行為ではないか! 実にそういう急迫した事情が動因となって、東京地方裁判所構内に|丹下《たんげ》弁護士の横死が 起こったのだが……神聖な裁判所を|劔《ちぬ》ったほとんど空前ともいう事件に、意外な犯人が挙 げられたーというのは、つい二、三日前のことだろう。 しかし、それは何を隠そう、わたしという|黒衣《くろこ》が背後から糸を引いて、あの|凄惨《せいさん》な操り 人形を踊らせたのだったよ。 まず犯行を述べるに先立って、帆足広玄殺害者と目されている城浩作に、わたしがどう いう善後策を採ったかを言わなければならない。そして公判廷に至るまでの推移と、その 折わたしの目前に思いもよらぬ恐怖が出現するまでの法廷風景を、簡単に綴ることにしよ う。そうしないと、わたしがなぜ故丹下弁護士を手にかけねはならないかーその理由が きみに判然と|呑《の》み込めぬだろうと思うから……。 予定表の保全という意味で、城浩作の救出を計画していたことは、前便にもちょっと|灰《ほの》 めかしたとおりだが、そのために、わたしは|気賀《きが》法学博士と丹下|義道《よしみち》氏を弁護人の首脳と して選んだ。それに、わたしの取り返しのつかない過失が含まれていたのだ。 気賀博士はかの有名な|牧場《まきば》博士との対立でも知られるとおり、刑法新派の総帥としてコ ールマンやテザール、遠くはリストの正統的な継承者であり、かつまた在野法曹界の第一 人者だ。わたしがケトレーの翻訳者である関係から博士とは辱知の問柄なので、法理論的 総論を負担していただく意味でご苦労を願うことにした。むろんこれには問題はなかった。 わたしを危地に追い込んだのは、次の丹下弁護士にあったのだ。 丹下氏の刑事弁護士としての無類な鋭さは、その実証的な弁論と有名な毒舌とですでに 折紙つきのものだが、ことに刑量に対する闘争ではなしに、あわよくば一挙に黒白を逆転 させようとする独自の探偵手腕に、わたしは心秘かに期待するところがあった。 つまりは、そこにとんだ危機が潜んでいたことになるのだが、一言で言うと、丹下氏が まさかにこれほど大物とは思わなかったからで、いわば相手にたかを括った結果が丹下氏 には不慮の死をもたらし、わたしは不倫の血を浴びる破目となった。 丹下氏との密接な交渉は予審廷が終了して、浩作に面接を許された当夜から始まった。 わたしはその夜初めて、丹下氏をしげしげ眺めることができたのだが、見たところではい っこうに|風采《ふうさい》の上がらない中老の一紳士に過ぎなかった。 折り目の分からなくなっただぶだぶのズボンを|穿《は》いて、その黒いサージもよほどの時代 物だった。背は低く丸々と太っているが、鉛色をした弾力のない太り方で、のっぺらぼう `な感じのする顔がふた筋ばかりの厚い|鐵《しわ》で胴体に|繋《つな》がっていた。会談中は|砒《まなじり》の切れた三日 月形の目を絶えずしょぼつかせているだけで、動作も言葉の調子も非常に緩慢だった。そ してその無表情な顔は、ぼやけた霧のような|沈欝《ちんうつ》なものに包まれていた。だいたいが弁護 士に似合わしからぬ、|瞑想的《めいそうてき》な人物だったのである。 その席で、わたしと丹下氏は広玄事件を精密に検討したのであったが、丹下氏に熱がな いのであろうか、いつも話が例の暗号文のほうへ|逸《テて》れがちで、主力弁護士とも思われぬあ っさりした素振りだった。しかし、最後に話題が夢中遊行に触れると、そこに初めて丹下 氏らしい異様な持論が現れた。 「夢中遊行中の動作には、目的意志がありますよ」 丹下氏は相変わらず、例の物憂げな調子で言・つ。 「その意志というのは|覚醒時《かくせいじ》の意志なんですよ。だいたい明白な学説がありませんでして な。睡眠中の脳から起こる運動刺激という概念だけは確かなのですが、さてその主体がど こにあるかというとちょっと独断じみた解釈のよ・つですが、わたしは病者の筋肉の一団に あるのではないかと思うのです。いつでも無意識中の刺激に|応《こた》える不思議な調節が、その 中にあるのです。そしてそれが、一つの刺激につれて動いていくのではないかと考えられ るのですがね。つまり、病的なのは、高等機能に関係のない運動神経の配列にあるのでし て、現れる動作は、平素覚醒時に抱いている健全な意志によるものなのです」 わたしは一度で驚いてしまった。なんという|奇矯《ききよう》な理論であろうかηわたしはさらに |訊《たず》ねた。 「すると浩作くんは、広玄殺害の意志を平素から抱いていたということになりますね」 「もちろんそうなりますな。浩作くんは手を洗う動作をするかわりに、|拳銃《けんじゆう》を発射したの です。文献にはもっと複雑な動作をした報告が現れていますよ」 「では、夢中遊行の起こる時刻については、どうお考えですか?」 「その点には、遺憾ながら定説がありません。元来が実験に困難な神経病なのですから、 その時刻を統計的に|纏《まと》め上げるということはほとんど不可能なのです。しかしわたしは、 随時に起こるのではないかと思いますな。人間の脳組織なんてものは、高等なだけに規則 的ではないと思います。ですから浩作くんが時計の指針の変化によって殺意が起こったと いう帆足くんの説よりかも、これはご当人自身でも疑問に考えていることですが、当時夢 遊病が起こって、その夢中に広玄を殺害したというほうが、なんとなく事実に近いような 気がするのです。しかしその証明は、もう絶対に不可能です」 「でも、監房内に起こったものを統計したらどうでしょう」 「あなたには、マクベス夫人を頭の中から追い払う必要がありますな」 丹下弁護士は冷ややかな|嘲《あざけ》りを浮かべた。 「毎夜一定の時刻に起き上がって、手を洗う動作をしながら歩き回るというのは、シェー クスピアの巧妙な劇作術で、科学的な論拠はありません。その証拠が、この屋敷の雇い人 たちの証言です。浩作くんの夢遊病発作が夜半十二時から一時ごろの間に限られていると か言っているそうですね。しかしそんな証言は、権威ある精神科医や心理学者の目が光っ ている法廷では、何の役にも立たないことです。だいたいその証言が何から生まれたと思 いますか?まず、その時間の性質を吟味してみるのです。その時分にはまだ、奥向きの 雇い人たちの中には幾人か起きている者があるでしょう。また下働きの連中にとると、十 時が就寝だという話ですから、いちばん睡眠の深い寝入り|端《ばな》の二、三時間を過ぎて、|膀胱《ぽうこう》 の拡張がそろそろ覚醒を刺激してくる時刻なのです。つまりその刻限ごろが、浩作くんの 不気味な姿をいちばん多く見る機会を与えられるのと、それに夜半という条件も手伝って、 そういう証言が生まれるのだと思いますな。いくらも、宵の口や他の時刻に起こったこと もあったでしょう。けれども、そういうときには、際立って奇妙な動作を行わないので、 しぜん目につかなかったのですよ」 そう言ってから丹下氏は、その驚くべき奇抜な説に結論をつけた。 「つまり、わたしの説を総合するとですね(夢遊病というものは、他の病的無意識状態と 異なって、厳密な意味で言う他の精神妄弱状態ではないと思うのです。その点で、リープ マンが|観念妄用症《アイデアトリ アブラキシア》といった定義を排斥しますな。あの説の中心になっている高等神経 には、なんらの故障もないのですからな。因果関係は心にあるのではなく、奇妙な反応作 用をする筋肉にあるのですよ。また、その無意識状態というのも、夢遊病者のみが持って いる第二の肉体を指して言うのです。ですからわたしが司法官なら、夢遊病者の裁きには、 世界じゅうの判決に新例を作ります。まずなにより、直接刑量のことを考えますな」 ああ、これが弁護士の所論であろうか。しかし、一見奇を|街《てら》うとしか思われぬ理論の中 に、なんとなくわたしどものとうてい及びもつかぬ力が隠されているような気がしてきて、 そうなると、|捉《とら》えようのない|繧激《ひようびよう》たる氏の|風貌《ふうぽう》の中に、何か侵し難い厳粛なものがあるよ うに思われてきた。 のみならず、氏の学識のほかにわたしが心秘かに驚嘆したのは、|微塵《みじん》も職業意識のない ことであった。おそらく丹下氏は、信念のいかんによっては進んで司法官の胸中にある刑 量よりも過重な申告をするかも分からない。しかし夢遊病に対する氏の奇説を知ると、こ の人々によって浩作が救われる唯一の道が閉ざされてしまったような気がした。 やがて、丹下氏は帽子を取り上げると、わたしにこういうことを言った。 「とにかく、浩作くんを救い出す道はもう一つしかないのです。夢遊病などに重点を置い てはいけません。それより一歩進んで、あの人がこのドアから一歩も出なかったというこ とを証明するのです」 そして、丹下氏は目前のドアをじっと見詰めている。瞬間わたしは、|微《かす》かに|怖《お》じけ立つ ようなものを感じたが、その時すでに恐怖すべきものが丹下氏の|脳裡《のうり》で頭を|擾《もた》げていよう とは、神ならぬわたしにどうして知る|術《すべ》があったろう。しかし、その不安も丹下氏の姿と ともに、その場限りで消えてしまったのだ。 それから公判日までには、|一月《ひとつき》ばかり間があった。けれどもその間に、丹下氏から受け 取った情報というのは、浩作がいぜん犯行を否定しつづけていることと、陪審を拒絶した という二つの事柄のみで、氏自身もわたしの屋敷にはそれなり姿を現さなかった。そうし ていよいよ公判が開始されて、その第三日が来た。 きみはあの日の劇的場面を……七時間にわたった緊張と興奮との連続を、いまだにまざ まざと記憶していることだろうが、わたしは戦標を新たにして筆を執らねばならない。 三月十九日午前十時、東京地方裁判所刑事二号法廷に開かれた、帆足広玄殺害事件第三 回の公判には、当日検事の論告と気賀博士の弁論があるので、持ち出した補助|椅子《いす》までも 朝野の名士で|埋《うず》もれてしまった。医学者・心理学者・朝野法曹大家のあらゆる顔触れを網 羅して、、その凝視と緊張のうちに開廷が宣せられた。 被告の城浩作は新しく差し入れられた|久留米緋《くるめがすり》の対に|袴《はかま》をつけて、開廷に先立って入廷 したが、思いもよらぬ災厄と獄中の|悶《もんもん》々たる懐疑とで見る影もなくやつれ果ててしまって、 被告席に着くときも看守の腕を借りなければならなかった。浩作は席に着くと、探し求め るように背後を振り返って傍聴席のわたしに弱々しい微笑を投げたが、その時わたしは、 思わず自分の|動悸《どうき》を聞いたような気がした。 といって、わたしはもうあらゆる道義上の刺激には無感動になっている。浩作を見ても、 陶器製の|骸骨《がいこつ》としか思えない。ではそれが何であるかというと、一わたしをびくっとさせた ものが、まさに生気の尽きなんとしているかれの姿体にあったのだ。急がなければならな い。ぐずぐずしていると、わたしの触手が伸びる先に、盲然の大きな破壊力が下ってしま うかもしれない。 いらだ^たて ーそういう苛立たしい気持ちが頭を擾げてくると、もうわたしは矢も楯もたまらなく なってしまって、何かむっと込み上げてくる|腫《なまぐさ》い興奮を覚えてきた。 やがて、開廷後証拠調べの残りを終わると、やおら係り検事|由良泰三《ゆらたいぞう》氏が立ち上がった。 2 寿命帳の一筆 由良検事はまず、浩作の犯罪に計画性を指摘して、それに|苛烈《かれつ》な解剖を試み、堂々四十 分にわたる大論告を次のような結論で結んでいる。 「要するに城浩作の犯罪は、叙上の深刻な計画によるものでありましで、被告は自身の夢 中遊行癖を利用して刑罰から免れんと企てたものであります。しかしながら、被告の夢遊 病は本事件にいかなる因果関係を有するものではなく、単に犯罪を転嫁せんとする小道具 に過ぎないのでありまするが、ここに具眼者の注意を求めたのは、夢遊病以外に被告が危 険極まりない精神病的体質者だということであります。すなわち、知能の優れた精神低格 者特有の良心の鈍磨と徹底せる性格を、被告浩作にも認め得るのでありまして、かかる体 質犯は猛獣毒蛇と同様、一般社会を危険に脅かすものであります。もちろん、社会は自身 の防衛上、それを除去せねばなりません。原始社会においても、かかる改善不能犯に対し て、いわゆる"|狼《おおかみ》の自由〃なる追放刑が存在していたことは、つとに聞くところでありま す。つきまして本官は、被告に対し無期懲役を求刑するものでありますが、その不定期刑 は、単なる"悔い改めしめんがための刑罰〃ではなく、危険極まりない退化者に対する、 永遠の隔離を意味するものであります」 こうして検事の論告は終わった。その論旨は言うまでもなく刑法最左翼だった。 傍聴者一同は|溜《た 》めていた息を一度にふーっと吐き出したが、浩作は求刑を聞いた瞬間か ら、二人の看守に両|脇《わき》から支えられねばならなかった。そのうち傍聴席からざわめきが起 こったので見ると、弁護人席には気賀老博士が立ち上がっていて、いましも老眼鏡をかけ 直し、卓上の覚書きを取り上げるところだった。わたしにとると、丹下氏に希望を失った 以上、頼るところはこの老博士一人だと言ってよい。まったく、丹下氏の奇説を聞いたそ の夜から、わたしは希望の全部がこの人の舌の魔術にかけられていたのであるから……。 やがて、しーんと静まり返った廷内に、荘重な声音が流れはじめた。 「ただいまの論告は、遺憾ながら本弁護人をただただ|唖然《あぜん》たらしめるのみでありました。 ことに、心気症性精神低格者とヴェルテル式神経病者との判別は、遠くポシドニウスの 『トラキァ人の|饗宴《きようえん》』の中にも見いだされるものでありまして、精神科学に完全な体系の 整った今日、知ってか知らずか由良検事が平然その二つを混同しておりますことは、権威 ある論告としてまことに悲しむべきことと申さねばなりません。さて、本事件を見まする に、被告城浩作を|続《めぐ》るものは、すべて不利な情況証拠のみであります。しかるに、被告は 依然、当時の行為を意識しなかったと主張しおるのでありまして、そこに被告の素質に関 する解釈が本事件の裁断に、重要な分岐点をなす理由が潜んでおるのであります。事実に おいて、当時被告が夢中遊行中であったかどうかを証明することは、まったく不可能であ りまして、今日では被告の特質によって推断を下す以外には、方法はないのであります。 ここに至って、権威ある学説を有することを本弁護人は|欣快《きんかい》とせねばなりません。すなわ ち、被告のごとき夢遊病者は|覚醒時《かくせいじ》においてはいわゆるヴェルテル式神経病型に属するも ので、それには自殺者の定型として認められる以外に、|毫末《 ごうまつ》の犯罪性はないのであります。 しかも実行意志に乏しく、|小鳩《こぱと》のように優美な感情の所有者であることは被告自身そのも のが証明するところでありまして、この一事のみでも、ただいまの論告は根本から修正さ るべきでありましょう。由良氏のいわゆる改善不能の犯罪体質と呼ぶものが被告にもしあ るとすれば、それは夢遊中の第二人格以外にはないのであります」 |辟《へき》刀|頭《とう》の|駁論《ぱくろん》を口火にして、気賀博士は被告の高い情操を称揚し、動機論に及ぶと、天霊 教によって浩作の父が家産を失ったことが、かえって被告に|瞑想的《めいそうてき》な性格を与え、その結 果|隠遁《いんとん》と文学に走らしめたのであると喝破した。 その引証該博、あらゆる情理を尽くしたところは、まさに近世の大弁論として|花木卓三《はなきたくぞう》 氏の|野瀬礼斎《のせれいさい》事件以来と言われたが、犯行を実証的に再吟味するいわゆる反対推理が見ら れなかったことは、最初から気賀博士に期待していなかっただけになんとも致し方ないこ とだった。 こうして、博士の弁論は帆足検事の精密な推理を背景とする由良氏の論告と|対時《たいじ》して、 裁断の機微を紙一枚の際どさに残すものと思われた。 廷内にはとうに電灯が|点《とも》っていて、うっすら黄ばんだ薄暮が窓外に迫っていた。裁判長 はやおら立ち上がって次回公判日を読み上げ、閉廷を宣しようとしたが、その時、丹下弁 護人が突然発言を求めて立ち上がったのである。 「お待ちください、裁判長。本弁護人は帆足広玄殺害が城浩作以外の人物によって行われ たという推定を得ているものであります」 「ほう、なんと言われるη」 裁判長はがぜん色をなしたが、より以上の|喧騒《けんそう》が傍聴席から巻き上がった。わたしは瞬 間冷たい重圧を脳天に感じただけで、そのまま何もかも|痺《しび》れて分からなくなってしまった。 丹下氏は続いて、 「もちろん浩作は無罪でありまするが、まだ現在のところは、単にそう言うのみの消極的 な推論だけに|止《とど》まっております。けれども、わたしはもう一歩進んで、公判終結日までに 真犯人の指摘を実現させようとするのです。本弁護人の発言はこれで終わります。裁判長、 閉廷を宣してください」 傍聴者一同は酔ったような目を見交わして、互いに何か興奮した言葉を投げ合いながら どっと廊下に流れ出た。 多胡くん、開廷当初のわたしと浩作の地位は、こうしてがぜん転倒したのだ。見よ! 浩作は喜悦に震えて退廷していくではないか。それに引き換え、わたしは傍聴者の流れに |揉《も》まれて、深い地底のように見える廊下をあてどもなく運ばれていくのだ。そのうちにポ ンと肩口を|叩《たた》かれて、初めて目が覚めたような気がした。見ると、丹下弁護士が和やかに |微笑《ほほえ》んで背後に立っている。 悪魔"わたしは心の中で|呪誼《じゆそ》と|毒罵《どくば》のあらん限りを浴びせながらも、表面はいっこう さりげない態度で、 「ありがとうございました。先生。しかし浩作くんは真実救われるのでしょうか?」 「むろんそうですとも。その理由をあなただけにお聞かせしましょう。さあ、ここへいら つしや、 )」 そこは帝都弁護士会の応接室だった。ニスの|剥《は》げた粗末なテーブルに向き合うと、 「やはりねえ角倉さん、浩作くんはあのドアから一歩も向こうへは出なかったのですよ」 「なんですってη」 わたしはごくんと|唾《つぱ》を|呑《の》み込んだ。 「出ないという意味は、|拳銃《けんじゆう》を持った下手人としてです。あの部屋には、もう一人何者か が侵入した形跡が残っているのですよ。わたしは先日お屋敷へ伺った際に、あなたには秘 密でしたが、女中の一人にあの日、置時計のある棚を掃除したかどうか|訊《たず》ねたのです。す ると、その女中は案外|頭脳《あたま》の良い女でしてね。すぐ思い出してくれました。夕方五時ごろ、 棚から時計にかけて|濡《ぬ》れた|布巾《ふきん》で|拭《ふ》いたと言うのです」 「濡れた布巾η」 「そうです。それが乾いていたら、わたしの発見は生まれません」 丹下氏は誇る色もなく、例の物憂げな調子を続けた。 「ところで、あの置時計に凶行現場の部屋にある時計の文字盤が映ったと言います。しか しあなたは、それを奇体な偶然の出来事としてお見過ごしになりますか?いや、わたし はそれに、何か作為的のものを直感したのです。それで、|僥倖《ぎようこう》な何物かを|掴《つか》もうとして焦 ったのですが、まずなにより、現場保全に適宜な処置を誤らなかった予審判事に感謝しな ければなりません。どうでしょう、あの時計には動かした跡が現れています。しかも、濡 れた布巾で拭いたあとの|僅《きんきん》々七時間のうちに起こっているのでして、むろんそういう仕掛 けがあったために隣室の時計の指針が|邪《よこしま》な影となって映ったのですよ」 「すると、それは?」 「といって、ごく|些細《ささい》な現象なんですがね。置時計の下には、|絨艶《じゆうたん》とゴブランとで交ぜ織 りになった敷物が敷かれてあるでしょう。そしてあの当時、置時計の底にある四つのエボ ナイトの|疵《いぽ》が、ゴブラン織りの|枡形《ますがた》の上に載っていたのです。ところがそれを子細に見る と、かなりの数の絨艶の細毛が四つの涜の下に落ちているのです。さて、これがどういう 行為の結論なのでしょう。わたしのそういう発見があったために、あの置時計を動かした 邪悪な人物の存在が明白に分かりました。つまり、エボナイトの涜の上を1半ば強迫心 理ですね、革手袋をつけていても、その特徴を知られるような|痕跡《こんせき》を残すまいとして、丹 念に拭いたのですよ。さあ角倉さん、これだけの材料で思い出してください。あなたが小 学校の理科の実験で何をしたか?」 わたしの胸もとにどきんと|衝《つ》き上げたものがあった。正に千慮の一失だった。 「なるほど」 わたしは必死の努力で、明るく微笑んでみせた。 「エボナイトの棒を|鹿皮《しかがわ》で|擦《こす》って、よく女子の髪の毛を吸いつけたものでしたがねηそれ がこの事件では、絨藍の細毛だというのでしょう」 「そうです。もう一つあるのですが、それはまだぼーっとした星みたいなもので、形には なっておりません。だが角倉さん、真犯人の指摘はもはや時日の問題です。わたしはもう あの暗号文には用がなくなったのですから、これからはただ一心不乱にこの事件を凝視す るだけのことです」 「そうすると、次の公判期日にですか?」 わたしは思わず|喘《あえ》いだ。 「ところが、次の三月二十九日には、わたしにちょっとした考えがあるのです。実は、今 度ふとした機会から天霊教に関する種々な材料が手に入りましてね。ことに、故人の広玄 をはじめ|領袖《りようしゆう》どもの私行を暴いた好適なものがあるのですよ。ですから、次の順番に当た っている|丸山《まるやま》くんに頼んで、動機論にかこつけ天霊教の悪を根底から暴いてやろうと思う のです。むろん帆足検事は憤慨するでしょうが、社会正義のためには|止《や》むを得ません。だ が、このことは固く内密に願いますよ。ああ、ちょっと失礼します」 そう言って丹下氏は、傍らの|長椅子《ながいす》の上に横になり、ポケットから注射器を取り出した。 「シャーロック・ホームズにもこの悪癖があったそうですね。わたしはホームズを気取る わけじゃないが、とんだ幽霊に|愚《つ》かれているんですよ」 わたしはそれを見て初めて、丹下氏の|気怠《けだる》いような|陰欝《いんうつ》な|風貌《ふうぽう》が何に原因しているのか 分かった。 が、その時、わたしの頭の中できらりと|閃《ひらめ》いたものがあって、現在目の前でぴちぴち生 きている丹下氏の|経帷子《きようかたびら》を見たような気がした。そうだ、次回の公判日に。……それから、 帰途の自動車の中から引き続いて、昼夜|棲愴《せいそう》な思索が始まった。 そうしているうちに、だんだんとばらばらな線や角がまとまってきて、ついに丹下弁護 士を首の座に据える絞首台が築かれたのであった。 3 丹下氏は何を告げんとしたか 「丹下くん、ぼく、きみにちょっと話したいことがある」 第四回公判が済んだ翌日、次回弁論の打合わせを終わって、わたしと丹下氏が控え室に 赴く途中だった。目を不気味に据えた帆足検事が、こう言って丹下氏を呼び止めたのであ る。 前日の公判には、かねての筋書きどおり丸山氏が立って、動機論中のここかしこに天霊 教指弾の材料を伏せ、ことに故人広玄の私行を遺憾なく暴き立てて、子息亮一の洋行費の 出所までも公開したのである。 それゆえ、丸山弁護士を詰問して裏面の人を知った帆足検事が、顔色を変えてじりじり 詰め寄るのも無理はない。 「では、きみに怒られるとするかな。それから角倉くん、お使い立てして申し訳ありませ んが、小使いの|溜《た》まりへ行って、わたしの|外套《がいとう》を持ってくるように言いつけていただけま せんか」 丹下氏はしゃあしゃあとして検事と肩を並べ、その足で地方裁判所建物の二階にある検 事局に赴いていた。そして帆足検事の|訊問室《じんもんしつ》に入ると、ぴったりとドアを閉め切ったのだ が、戸口で別れたわたしが二足三足歩むうちに、早くも検事の|罵声《ぱせい》を聞いたのだから、会 談の内容は言うまでもなく険悪なものに違いなかった。 それが午後の四時のことだった。ちょうどその日は土曜日に当たっているので、退勤後 の裁判所の廊下には人影も|疎《まば》らで、廷丁や小使いがちらほら見えるだけである。わたしは 丹下氏に頼まれた用を足してから、検事の部屋と中庭を隔てて向き合っている|粘土版《ヘクト》印刷 室に入っていった。むろん常人の出入りできる場所ではないが、折よく見知り越しの|越智《おち》 書記がいたので巧妙に話を持ちかけながら窓際の|椅子《いす》を占め、そこから対岸の検事の部屋 を眺めることができた。 その時、わたしが入口のドアを故意に開け放しにしたと言ったら、敏感な多胡くんはそ こに何事かを|覚《さと》るに違いないと思う。 検事の部屋には、窓が三つあった。両端の二つは全部窓掛けが下りているが、中央の一 つだけは上から五寸ばかりしか垂れていないので、下にある力ード箱との間がわずか四、 五寸ほど明るく透いている。そこから、内部の模様がおぼろげに見えるのだった。 そうしているうちに、小使い|態《てい》の男が三人連れ立って廊下を通りかかると、越智書記が その中の一人に声をかけた。振り向いた四十がらみの一人が、丹下氏の外套を抱えていた。 「|馬頭《ばとう》くん、まだ帰らんのかね」 「ええ、丹下さんが外套を持ってこいと言うのです。たぶん例のやつをひと|筒《フフ》やるんでし ょう」 小使いの一群がドアから消えてしまうと、わたしの異常な緊張が始まったーそのうち、 検事の部屋のほうから別の小使いが一人やって来たが、その男はいったい何を見たのか、 いきなり戸口の所で立ち止まったかと思うと、ずかずか室内に入ってきた。 そして窓際に突っ立って、|加藤《かとう》書記に前方の窓へ|顎《あき》を|掬《すく》ってみせた。 「おかしいんですよ。帆足さんがあんな所に立っているじゃありませんか」 「それがいったい、どうしたっていうんだ」 「あの人は、たったいまし方ですが、下腹を押さえて便所のほうへ歩いていったのですが ね。それにここで見ると……」 その言葉に釣られて、わたしと越智書記がひょいと振り向くと、対岸にある検事の部屋 の窓には、ちょうど検事の背丈に相当した力ード箱の上の所に左半面の横顔が見える。そ れが、一見して|紛《まが》う方ない検事自身であるというのは、例の短く刈り込んで、先をぴんと |擾《は》ね上げた特徴のある|口髭《くちひげ》だけを見ても明らかだった。 「帆足さんがいたって、自分の部屋にいるのなら、べつに不審がる必要はないじゃないか。 きみはどうかしているぜ」 越智書記は面白そうに笑い転げながら、窓掛けをぴりっと下ろした。 「これならもう、きみの目障りでなくていいだろう」 わたしはそれを見て立ち上がった。 「じゃ、もう話が済んだのでしょう。おや、五時二分ですね」 それからゆったり検事室のほうへ歩いていった。すると検事の部屋は、便所へ行く通路 側にある横手のドアが開いていた。検事はその|閾《しきい》を棒立ちに|跨《また》いだままで、|荘然《ぽうぜん》と立ち|煉《すく》 んでいるのだ。 「見たまえ、修平さん」 いきなり検事はむんずとわたしの肩口を|掴《つか》まえた。 「た、丹下弁護士が死にかかっているんだ。ああ、ぼくの部屋で……」 見ると、窓寄りに検事の机と向き合っていて、いつもなら被疑者の占める机の上に丹下 弁護士は両手を投げ出し、|術《うつむ》き加減に上体を横たえているのだ。 もはや臨終に近いとみえて、|喘息《ぜんそく》に|疫《たん》が絡みはじめ、そのゴロゴロいう遠雷のような響 きが四方の壁から不気味な反響となって戻ってくる。見るからに、|標然《りつぜん》と五体が疎み上が るような光景だった。顔面は濁った|藍色《あいいろ》に変わって、薄い磁器のように透き通っている。 それだけでも、通常の急性死であるとは言えない。 「いつです。発見したのは?」 「たったいまし方です」 検事は声を震わせた。 「ぼくがここのドアを開いて中へ入ると、丹下くんが妙な|恰好《かつこう》をしているので、近寄って みるとこの体たらくなのです。ぼくは|咄嵯《とつさ》に思案に窮して、ここで荘然考えていました。 そこへあなたが着いたというわけなんですよ」 「すると、発見した正確な時刻は?」 「五時十七分です。いまは五時二十四分 ですね」 わたしと検事の会話はそれで終わった。 下窓この不吉な突発事が、さっそく当直検事 に知らされた。その日の当直は|千成来太《せんなりらいた》 窓|郎《ろろ》氏で、見たところ三十から幾らも出て いないらしく、きりっと締まった|精惇《せいかん》そ 窓うな人物だった。 廊二人の裁判医を伴って駆け込んでくる と、すぐ丹下氏に触れて、 「ほう、裁判所構内の変死かな、もうほ とんど脈がありませんぜ。珍しいことだ 7 画像 電灯o通路 -書棚 一書棚一 隣室} 便所 - V 園國圃 死⑩体 字町鏡電気暖炉 冒 一一一 が、丹下さんに自殺するような動機があるのかなあ」 ここでこの部屋の模様を説明しておく必要があると思う。 裁判所を一度でも訪れれば分かるとおり、間口が狭く奥行きの長い部屋で、中央には机 を六つ合わせたのがあるだけ、部屋の右側には長い書棚が二列に並んでいて、その間が通 れるようになっている。ドアは正面に一つ、右手の便所通路側に開いているのは、その一 つがちょうど書棚の外れになつていた。さらにもう一つは、対岸の壁の窓近くにある隣室 に通じているもので、そこと机との間は大きな|衝立《ついたて》で仕切られてあった。 こうして、すべてが殺風景な検事室の風景なのであるが、それでも、だれしも目に止ま るような異様なものが二つあった。 その一つは入口のドアの横に掲げてある百号ほどの油絵で、それには初代検事総長|川辺 鎮一郎氏《かわべりよういちろう》の横顔が普通の三倍ぐらいの大きさで描かれ、|無髭《むぜん》のとげとげしい|狐《きつね》のような顔 が壁面を占めていた。なおもう一つは、検事の机から窓寄りの所に|宙吊《ちゆうづ》りになっている二 つの鏡であって、V字型に下端を合わせて吊るされてある。検事が|浄破璃《じようはり》の鏡と命名して いるとおり、それが自慢の精神拷問道具であって、訊問の際には被告の眼前に下ろし、被 告に自分の表情を見せながら訊問を行うのである。そしてさらに対質訊問の際にも用いら れるよう、二つの鏡をV字型に合わせてあるのだった。 「むろん駄目でしょうが、とにかく応急策を講じてください。それから|藤堂《とうどう》さん」 と千成検事は裁判医の一人に向かって、 「あなたはここへ残っていただきたいのです」 ところが、丹下氏を動かすと、右の手の下から短い手帳鉛筆と新聞の切抜きが一葉現れ・ た。それを見て、一同はあっ!と叫び声を立てた。 ああ、その紙片が物もあろうに、昨今話題を独占している例の暗号用の数字|文《ぷん》ではない かη品しかも予細に見ると、その上に薄く鉛筆の筋が 二にマも轟轡 1181251506512e 6681853150801525 31タ06ユ2興輝卿 伊'緬8舳6250 ついていて、ところどころの数字の上にぐっと強く押 した跡が現れている。 「やはり、さすがは丹下氏ですな。死期に臨んで、わ れわれの捜査を指導しようというのでしょう。ところ で、この数字の|謎《なぞ》は解けているのですか」 ーわたしが初めて千成検事に言葉をかけると、検事は わたしを|睨《にら》んでちょっと|胡散臭《うさんくさ》い目つきをしたが、す ぐ|側《そば》にいた帆足検事が口を添えてくれたので、千成氏 はにわかに愛想のよい笑みを浮かべた。 「いや、いっこうにです。しかし、あなたのような科 学者に立ち会っていただくことは、われわれにとって 存外な幸運と言わねばなりません」 と言ったが、ふたたび数字文の上に視線を落として、 「だが、鉛筆の印にはどういう意味があるのでしょう」 「|痙撃《けいれん》の跡かね」 帆足検事が分かったような顔をすると、 「そうだと、線がほぼ正確な角をなしているのが、無意味になります。丹下さんはいちい ち鉛筆を上げて、数字の上を押していく気力がなかったのですよ。ですから、鉛筆をずら しながら必要な所で強く力を加えたのです。しかし何でしょうな、犯人の名か、それとも 何か、ほかの暗示でしょうか」 「すると、他殺に決まったのですか?」 藤堂裁判医はいきなり不審な顔をしたが、千成氏はただ苦笑したのみ、今度は視線を転 じて、ガラスの薬筒を見詰めはじめた。が、やがて裁判医を振り向いて、 「丹下さんのペットも、この|一《フフフ》筒以外にはないようですが、ところでどうですかな。この 水溶液全量の注射が、丹下さんのような中毒患者の致死量になるものでしょうか」 「さあ、それはちょっと推定に困難です」 藤堂裁判医は心持ち|眉間《みけん》を狭めて、 「しかし、普通致死量の六十倍ぐらいで死なない人間が、市中の留置場にはごろごろして いますよ」 その時、わたしは軽い|坤《うめ》き声を発して、割れた薬筒の先端を取り上げた。そして、敏感 にもわたしの挙動に注意したらしい千成検事の視線を覚えると、いきなり|爪先《つまさき》で先端を押 した。すると、意外にもぐにゃりと|潰《つぷ》れたのである、. 「あっ、何です、それは」 「たぶん硬質のゼラチンでしょう」 わたしは冷然と答えた。 「あなたが先のほうを、数字文の上で転がしたので気がついたのですが、この部分全体を |透《とお》って紙の上に落ちる電灯の光線が、|微《かす》かな紫色を帯びているのです。ゼラチンはスペク トルの中で、紫をいちばん多く透すのですからね」 「ああ、そうでしたか。しかし割れ目のジグザグまで作って、何で上手に加工したもんだ ろう。たぶん丹下さんは、もう少し下の方を|叩《たた》いたのでしょうが、その拍子に継ぎ目が|剥《は》 がれたのですよ。そうなると藤堂さん、中身の薬液が問題になりますね」 軽く舌の上に当てた藤堂裁判医の表情は、みるみる硬ばっていった。やがて、|唾《つば》をぺっ と吐き出して、 「非常に苦みが強いようです。少なくとも、これはモルヒネではありません」 ここ五分足らずの間に発見された二つの不合理な現象は、丹下氏の死を他殺と断定する に充分なものだった。千成検事の顔色は急に厳粛な輝きを帯び、帆足検事に向き直った。 「帆足さん、いったい丹下弁護士は、どういう必要からあなたの部屋におられたのです か」 帆足検事は土け色をした顔を上げて、一、二度神経的な|瞬《まばた》きをしたが、上席検事である かれも、この場合は従順に答えねばならなかった。 「ぼくは、丹下くんを詰責する必要があったのだ。すでに故人である父の恥を神聖法廷で |晒《さら》し者にした、道義上の責任を問いたかったからだ」 「それで、どういう結果になりましたか?」 「結局それが、ぼくの浅慮から起こった誤解に過ぎなかったのだよ。丹下くんの目的がよ り大きな社会正義にあることが分かったので、二人の間の|幡《わだかま》りがさっぱりとなって、例の 数字文の話なんぞ始めたものだ。そこへ、馬頭という小使いが丹下くんの外套を持ってき たのだが、ぼくは昼ごろからの頻繁な下痢で、その時も急に便意を催してきたので、馬頭 が去ると間もなく便所へ立ったのだ」 と帆足検事はごくんと唾を|呑《の》み込んで、 「それで約二十分ばかり過ごしたかと思うが、便所から戻ってくると、薄暗い中で丹下く んが不審な恰好をしているので、さっそく室内のスイッチを|捻《ひね》った。つまりその時、変事 を発見したので、それが五時十分かっきりだったよ」 「すると、それまで部屋の中は薄暗かったわけですね。それから、この通路にある電灯 は?」 「便所へ行くとき、ぼくが|点《つ》けたのだよ」 「ところで、|無躾《ぷしつけ》なお|訊《たず》ねのようですが、ちょっと|脇《ふ》に落ちない点があるのです。ここの 横手のドアは、いつも衝立で|塞《ふさ》がっていたと思いましたがね」 、「それが……」 帆足検事は|喘《あえ》ぐような|呼吸《いき》をした。 「実は、最初丹下くんと部屋へ入るとき、正面のドアにそっと錠を下ろしたのだがね。い まから考えると汗が出る話だが、あの時はまったく前後を失っていたのだ。だから便所へ 行くときには、いまさら|鍵《かぎ》の音をさせるわけにもいかないので、仕方なく衝立をどかして このドアから出たのだよ」 「すると、馬頭はどこから入ったのです?」 「やはり、横手のドアからだったよ。正面のドアをガチャガチャさせている音が聞こえた ので、横のドアから入れと怒鳴ってやった。丹下くんは馬頭から外套を受け取ると、ポケ ットから注射器と薬筒だけを取り出して、外套は帽子掛けに掛けるように言いつけたと思 ったがね」 「なるほど、そうすると丹下さんは、注射器と薬筒をその時どこへ置きましたね」 「さあ、たしかこの辺だと思ったけれども」 と帆足検事は、三つ並んでいる大きな力ード箱のうちで、中央のと左手にある一つlI との中間を指差した。そこは、三寸ほどの|隙間《すきま》になって空いていた。 「ああ、よく分かりました。すると、こうなりますな。あなたが便所に立たれた留守中、 丹下氏がいつものモヒ注射をしたのですが、その内容がモヒでなく他の毒物であったため に急激な中毒症状を起こしたのだーと。どうでしょうな。角倉さん」 「正確です。それ以外の推定はありません」 わたしは頷いた。 「要するに問題は、この薬筒が以前から外套のポケットにあったか?それとも丹下氏が 持っていた正真正銘のモルヒネを、犯人が巧みに|拘《す》り替えたかにあるのです」 「そうなったら大変です」 千成検事は仰山な身振りをして、 「犯人の範囲が裁判所の構内から一歩でも出たら、事ですよ。,家庭の事情から交友関係、 それに弁護士仲間にだって、敵と名のつく人物は幾らもいますからな。とにかく、ぼくら の仕事はまず捜査区域を縮めるにあるのです。それが不成功に終わったら、この数字文に こびりついた、鉛筆でつけた丹下さんの声を、|否《いや》が応でも聞かなけりゃなりません」 そう言ってから、千成氏は帆足検事に軽く会釈したが、その声は明らかに命令的だった。 「お引き止め申してすみませんでした。では、どうぞお構いなく。それから角倉さんには、 もう少し残っていただきたいのです」 帆足検事が不安げに去ってしまうと、それと入れ違いに、もう一人の裁判医が入ってき た。 「お気の毒ですが、駄目でした。絶命は六時二分です。ところで千成さん、丹下氏が皮下 注射をした毒物はエルフィンなのです」 「そうでしょう」 検事はあっさり頷いて、 「実は、いま薬筒に仕掛けを発見したところでしたよ」 と言ってから、わたしに向かって、 「ところで、あなたはポウの『盗まれた手紙』をお読みになったことがありますか?」 「というのは、どういう意味で?」 「それが、掬り替えた薬筒の行方なんですよ。至極虫のいい考えかもしれませんが、ぼく は七という目が出そうな気がしてならんのですがねc実は、いまちょっとした思い付きが 浮かんだところなんです」 「ほほう、ではボール紙の名刺入れですかな」 「そうです」 千成検事はにやりと|微笑《ほほえ》んで、裁判医を見た。 「ぼくが犯人なら、あなたの部屋の薬晶棚の中へ置きますがね。所内の人間なら見つかっ たところで、いくらも言い訳があるはずです」 「なんですってー7品」 藤堂裁判医が思わず目を丸くすると、検事は慌てて手を振って、 「本気になっちゃ困りますよ。ただ、丹下氏の所有品という特徴を消すことができるいち ばん賢明な場所というだけの仮定に過ぎないのですよ」 「いや、探します」 裁判医は真剣に言い放った。 「そう言われると、なんだかそんな気がしてきました。わたしは場所柄安心して鍵など掛 けたことがないのですから、もしも犯人が所内の人物だとしたら、おそらくより以上の隠 し場所はないわけでしょう」 藤堂裁判医が飛び出してしまうと、検事はぷかぷか|煙草《たばこ》の煙を吐きながら、部屋じゅう を見回りはじめた。最初の隣室との境のドアを開いてみて錠が下りているのを確かめてか ら、中央窓と力ード箱の中間辺で何やら拾い上げてきた。 「ちょうどV字型の鏡の下辺りに、円形の電気暖炉が逆さに引っ繰り返っているのです。 おまけに、このとおりコイルが接触部から外れていて、その上を踏みつけた跡が残ってい ます。ねえ、素焼きがめちゃめちゃになっているでしょう。だが角倉さん、これがさっき 帆足さんを敬遠した理由なんですよ」 「なぜです」 わたしは|訊《き》き返した。 「でも、容疑者に捜査の内容を聞かせるという法はないでしょう」 検事は目を細めて|狡《ずる》そうな|鐵《しわ》を作った。 「一族の帆足さんのことを、あなたが口に出さないのは無理もありませんが、しらばっく れちゃいけませんぜ。ぼくは事件を知らせにきた|神谷《かみや》という小使いからすっかり聞いてし まってるんです。あなたが五時二分だなiと言って腰を上げた数秒前に、加藤書記はじ め三人が、真ん中の窓際に帆足さんが立っているのを見たと言っています。ところが帆足 さんの陳述によると、その時刻には便所の中にいなければならないのですよ。ですから、 それが帆足氏か、あるいは他の人物の変装か、それとも……」 「幽霊ですかね」 「当たりましたな。検事局に|怨霊《おんりよう》が現れても、それは場所柄いっこうに不思議ではありま せん」 と検事は一度は笑ったけれども、ふたたび真剣な調子に戻って、 「しかし、幽霊ということは、川辺さんの半面像に口髭でもあるのならなんとか頭を絞る 気にもなりますがね。この事件では、あの画像もV字鏡も……二つとも思わせぶりたっぷ りな代物に過ぎないのです。たとい外側の一面が窓の外から見える位置にあったにしても、 その作用を証明する条件に欠けているのですからね。とにかくこのコイル一つで、丹下氏 が知らぬ間に窓際へ忍び寄った人物のあるのが分かります」 その時、ドアを手荒く開けて藤堂裁判医が入ってきた。 「ありましたよ。同じ会社の製晶なので判別はつきませんが、貯蔵薬物台帳の残数が十一 本なのに十二本あるのです。これで犯行の|全貌《ぜんぽう》が分かったというものでしょう。きっと犯 人は構内のどこかで掬り替えを行ったのです」 しかし、千成検事がなんとなく|冴《さ》えない顔色になったというのは、裁判医の医務室は建 物のはるか外れにあって、この部屋からそこまでの往復には十五分近く要するからだった。 やがて、検事はいままでにない力の抜けた声で言った。 「では、外套を持ってきた馬頭でも調べましょう。だが角倉さん、どうやらこの数字文が 必要になりそうですよ。それから、明日午後にここでお目にかかれますか?日曜日です が、ぼくはこの事件の研究をあなたと一緒にやってみたいのです」 その夜は久方振りの安眠をとることができて、翌朝十一時近くまで死んだように眠りつ づけたが、目が覚めると|枕《まくら》もとに一通の速達が載っていた。それは千成検事からのものだ った。 内容は丹下弁護士殺害の真犯人捕縛を報じて、もはやわたしとの会談が不必要になった 旨を丁重に述べ、そのあとで次のような驚くべき推論が|認《したた》められてあった。 4 告げ口::? 1さて、順序として、昨夕お聞き及ひの目撃談を、さらに詳細に述べることにいたし ます。小使い神谷|吉三郎《きちさぷろう》は民事六号法廷の掃除を終わって、現場前の廊下を通りかかった 折に、帆足検事が下腹を押さえながら便所の通路を歩んでいくのを目撃しました。その時、 前室の時計が五時を打ったのを聞いたと言いますが、その時計は四分ほど進んでいるので、 正確な時刻は四時五十六分だったのです。以上が、印刷室からの目撃談に前提をなすもの でありまして、前後の連関にはいささかの|欠隙《けつげき》もありません。わたしは上述の証言によっ て、帆足検事の行動を吟味することにいたしました。 まずそれを、氏の陳述と対照して判断しますに、その時間内において氏は二つの行動を 許されております。もちろんその一つは、氏の陳述どおりでありますが、次の一つははな はだ|無躾《ぷしつけ》の想像であるとはいえ、状況から推してあながち空疎な推断とは思われないので す。 かりに氏が、横手のドアから便所へ赴く振りをして、四、五歩歩んだのちに引き返した としたらいかん。すなわち、こっそり書棚の間を抜けて窓際に出、そこに|踵《うずくま》って二つのカ ード箱の間から手を伸ばし、丹下氏が卓上に置いたモルヒネの薬筒と持参したエルフィン の薬筒を交換したとするのも可能ではないでしょうか。そして皮下注射が効を奏して、丹 下氏がその場に|昏倒《こんとう》したのを見定めてから立ち上がったのではないか。さらに氏が最初正 面のドアに錠を下ろしたのは、その真の目的が|鍵音《かぎおと》をことさら丹下氏に聞かせて、横手の ドアからの出入りを不審がらしめないための細慮にあったので、通路の電灯を|点《つ》けたのは、 便所に行く自分の姿を廊下通行者に判然認識させるためではなかったか。……わたしには 以上のように考えられたのです。 もちろん皮下注射の神速な奏効から推して、三人の目撃時刻もそれにほとんど合致した かのごとく信ぜられました。のみならず、帆足氏には動機があり、計画と準備は一日で充 分なのであります。ところが、そこで行き詰まらねばならなかったのは、帆足氏にはその 後に約十五分を要する医務室との間を往復する時間がなかったからです。わたしはばった り高い|培壁《しようへき》にぶつかって、方向転換を余儀なくされました。そうなって、次に|外套《がいとう》の持参 者馬|頭兵之助《ひようのすけ》を調べました。 馬頭は外套を丹下氏に渡した際に、丹下氏はそれから注射器と薬筒とを取り出してから、 確かにと申されたと述べ立てるのですが、廊下を通行中の|拘《す》り替えは二人の同伴者を 条件とするまでもなく、わたしの注視するところではありませんでした。要点は、かれと 帆足氏との|容貌《ようぽう》の酷似にあったのです。 しかし、二人の顔には一見したところ、顔面器官の特徴に著しい隔たりがあるように思 われます。けれどもそれは、近距離から見たときの話であって、相当距離を隔てた場合に は目や鼻の特徴よりも、骨格と各器官の間に陰影を描いている筋肉の隆起曲線のほうが重 要になってくるのです。その詳細な|読貌法《どくぽうほう》は、ガルやスパルツハイの骨相測定学を|嘲笑《あざわら》い、 新説を称えたデージュの説によるもので……性格は顔面器官それ自身の特徴よりも、器官 相互の空間にありーと言って、百七十の新相法を著した毎学の奇人1。その著述の中 には、実験心理学者を|瞠若《どうじやく》たらしめる記述があるのです。 このいまどき珍しい方面に趣味のあるわたしは、従来もそれを利用して再三個人鑑別に 奇効を奏した経験を持っているのですが、今度の事件でも、|口髭《くちひげ》を除いた二人の素顔に現 れる特徴は、与えられた距離を条件にしてわたしの容易に観破するところとなりました。 考える必要もないことです帆足氏のような知能優れた人物が、とうして犯行中軽率に も自分の姿を|晒《さら》すような愚かな|真似《まね》をするでしょうかη そこでわたしは、馬頭が作り髭をつけて帆足氏を装い、目撃者を作ったのではないかと 考えました。すなわち、馬頭は外套を渡したのちに、帆足氏が便所に立つのを見定めて左 手の空き部屋に入りました。そこから、間のドアをある方法で開けて帆足氏の部屋に忍び 込んでから、わたしが帆足氏に推測したと同様の行動に出たのではないでしょうか?そ れから、馬頭は立ち上がる弾みに電気ストーブを足にかけたのです。そして、その音響が 意識まさに去らんとしていた丹下氏に馬頭を認めさせたので、それが丹下氏に最後の|棲愴《せいそう》 な気力を振るわせた原因になったのではないかと考えたのです。 で、さっそく馬頭に|不在証明《アリバイ》を求めると、五時半ごろ小使い|溜《だ》まりに戻るまではだれ一 人かれを目撃した者はなかったのですが、馬頭は頑強にも自分の受け持ちになっている刑 事参考館を戸締まりしていたと申し立てます。ところが角倉さん、刑事参考館には百種に 近い精巧な錠前外し道具が保管されてあるのですよ。 こうして、動機のある帆足氏には犯行完了までの行動に中断があり、円滑な説明のでき る馬頭には動機の|匂《にお》いすらないのです。そうなって、いよいよ最後の切り札を探さねばな らなくなりました。わたしは無我夢中で、丹下氏が鉛筆の跡を残した、数字|文《ぷん》にかじりつ いたのです。しかし|僥倖《ぎようこう》とでもいうのか、ついにそれを解くことができました。解読の結 果は、次の点のとおり実に驚くべきものだったのです。 言うまでもなく、『五は一なれども、また十五にてもあり』という一句が、キイの役目を 務めているのですが、それは|算盤《そろばん》を暗示しているのです。 つまり、上の五の玉は一つですが、下の五つの玉をおのおの一つ一つに勘定しないで、 一の玉、二の玉、三の玉というふうに、順位が示すとおりの価値に数えると、その和が十 五になるからです。それで、算盤特有の数の配列を応用した算出方法を、ゑゐおの|三《フフフ》文字 を除いた四十五字のいろはに|当《フフフ》てていくと、次のとおりになります。すると、最初のイは《フ》|ー むろんーに違いないのですが、次のロになると|少《フ》々勝手が違ってきて、算盤では二つ|弾《はじ》く から、!と2の和すなわち3になるのです。したがってハは|三《 》つの玉の和で6、|二《フ》は10で すが、ホになると|下《フ》の段を残らず払って上の玉を一つ下ろすので、今度は数が逆に減って 5になります。ですから、次のへが6になり、ハと|同《フフ》数になりますが、これはそれ以外に ワとタ、ムとク、テとキしかありませんから、|大《フフフフフフ》した障害にはなりません。それから、《フ》|ト が8、チが11、リが15、|十《フフ》番目のヌが20ですから、r|位《フ》が20をもって単位とするようにな り、二十番目のネが40になります。こうして、あるいは|増《フ》えあるいは減りして、数の転換 を続けていくうちに、最終のンが85になって、|解《フ》読の全部を終わるのです。こう分かれば、 字頭の欠けたものが濁音であることは、ことさら説明を加えるまでもないことと思います。 さて、以上の解読を終わると、数字の羅列が次の文章となって現れました。 三月十一日午後七時より埼玉県|志木《しき》駅の背後、|曾木《そぎ》人造肥料工場硝石貯蔵場裏のマ ンホール。マソチ三本を投入せよー 角倉さん、丹下氏が指摘した名は5ーマ8ト50ウ、やはり馬頭でした。わたしは思わず|凱 歌《がいか》を挙げたのです。そこで以上の材料によって、今朝馬頭を|質《ただ》したのですが、意外にも馬 頭と丹下氏との不思議な関係が暴露しました。 実は、暗号文の正体は、毎週転々とする|阿片《あへん》喫煙所の所在を会員に通告するものだった のですが、さらに驚くべきことには、丹下氏がすでに暗号文を解いていて、それに指定し てある場所へ出かけたことです。ところが、その場所で偶然馬頭に出会いました。馬頭は 薄給の身で大家族を養わねばならぬ|辛《つら》さから、つい誘惑に打ち|克《か》ちかね、その団体の手先 となって働いていたのです。 しかし、丹下氏はその場で馬頭を詰責すると思いのほか、かえってそれを交換条件に入 会を強要し、それ以後今日まで|嬰粟《けし》の実の天国で|妖《あや》しい夢を|貧《むさぽ》っていたのです。が一方、 馬頭自身はそういうことのあって以来、丹下氏には絶えず不安を感ぜずにはいられなかっ たと告白しています。 さて角倉さん、こうしてわたしは馬頭兵之助を丹下弁護士殺害者として挙げることがで きたのですが、馬頭当人は頑強に拒みつづけ、かつ作り髭の所在がいまだに発見されない のです。しかし、それは起訴理由を妨げる何物でもありません。最後に……どうか、この ことを帆足氏にお伝えください。 そうしてその末尾に、日本一の思想検事はやはり|畏敬《いけい》するに充分な人格だったと、 付け加えていただきたいのです。 多胡くん、わたしは読み終わったあとに、 さっそく次の返信を|認《したた》めた。 (前文略)千成氏よ、 あなたは川辺氏の画像を注意しましたか?初代検事総長の 横顔が何を語ったかーあの画像には秘密があったのです。実を言うと、あの絵は帆足氏 が懇望して当邸から持ち去ったものなので、わたしはとうにあの画像に|彩色幽霊《ペンチメント》が現れて いるのを知っていました。 ペンチメントという現象は油絵の上絵具に透いてくる性質のものを使った場合に、時代 が|経《た》つうちには上塗りが透いてきて、塗り隠してある下絵が現れてくるのを言うのです。 で、あの絵は最初に帆足氏のとそっくりな、髭のある人物を描いたうえを暗調で塗り|潰《つぷ》し てあるので、年月を|経《ふ》るにつれペンチメントが現れて、タッチの加減から左横の光線を受 けるとその現象が|明瞭《めいりよう》に現れるのです。現に、ヴェラスケスの『フィリップ四世騎乗之 像』にも四本の馬の足が八本に見えるという醜態が現れるのですが、この事件では当時、 室内が暗く、左横のドアから光線を受けたことが主要な原因だったのですよ。 さて、そのペンチメントが告げ口をしたのですが、それを説明するためには古いあなた の記憶を呼び覚ましていただきましょう。 日露戦争後に|流行《はや》った『露営の夢』という見世物をご存じですか?たしかそれは、黒 |羅紗地《らしやじ》に黄色い|肋骨《ろつこつ》の服を着た兵士が、幕が上がると|荒叢《あらむら》の書割りの前に横になっていた と思います。そこへ『庭の千草』の奏楽がおどろに|湧《わ》き上がると、兵士の|側《そば》に|忽然《こつぜん》と故郷 の妻が現れるのです。兵士は夢中で手を伸ばして妻を抱こうとしますが、それがまるで風 のごとく、どうしても|掴《つか》むことができません。そのうち疲れてぐったり地上に倒れると、 それを切っ掛けに今度は奏楽が変わって、『神よみ許に近付かん』とともに、妻は名残り惜 384 しげに消え|失《う》せるというのですよ。もちろん、それが光学上の|詐術《さじゆつ》であることは申すまで もありません。 しかし、帆足検事の部屋にはそれまで使わなかったドアが開かれたので、その瞬間に道 具立てがいっせいに整ってしまったのです。 窓際に|吊《つ》るされた検事のいわゆる|浄破璃《じようはり》の鏡と、その真下で|仰向《あおむ》けになっていたコイル の外れた円形反射ストーブがそれなのです。つまり、現れたペンチメントが最|初二稜鏡《にりようきよう》の 内側に映り、それが下にある電気ストーブの凹面反射鏡に落ちて、さらにその反射が窓か ら見える外側の鏡に映ったのです。むろん完全な実像は期待できませんが、目撃者を惑わ すにはあの特徴ある口髭だけで充分です。 千成氏よ、初めは|紛《まが》う方ない帆足氏と言われたものIIそれが次に、あなたの読貌法に よって作り髭をつけた馬頭となり、ついに最後には、目口のない口髭一つだけになってし まいましたね。いわゆる目撃像などというものの正体は、たいていこんなものなんですよ。 おまけに、あなたがそれによって侵入者の存在を推定した電気ストーブも、とうとう犯人 のトリックの一部になってしまいました。 しかし、そうなると薬筒掬り替えの事実と、丹下氏が残した犯人の名に疑念が起こって くるのは当然です。あれはたぶん、丹下氏が毒殺と察した|刹那《せつな》に馬頭との関係が直感的に 鉛筆を執らしたのですよ。また、当時あの部屋には丹下氏以外の実在の人間が存在してい なかったのですから、薬筒の掬り替えはむろん便宜な妄想に過ぎないことです。 千成氏よ、馬頭は無罪です。ですから、あなたはまず昨日書記が退出した零時半以後に、 帆足検事の部屋へ侵入した人物を突き究めなければならないのです。 多胡くんIl。以上の一文を草したけれども、わたしはそれを破り捨ててしまったのだ。 もうここまで分かれば、わたしの犯行を説明しなくもよいだろう。すべてきみの想像に 任せるが、ただ帆足検事と昼食を共にした際に、相手のコーヒー|茶碗《ぢやわん》の中ヘフラングラ粉 末を投じたこと。そして、あの下剤特有の長時問にわたる便意を催させたことと、千 成検事の読貌術をわたしも利用して、その結果馬頭に悲劇の主役を振ったことー以上の 二つを付け加えておこう。 今朝の新聞には、留置中馬頭が発狂したという記事が載っていて、その欄内に、六人の. 幼児を抱いて途方に暮れているかれの妻の写真が挟んである。 だが多胡くん、これは統計に現れた一つの数字に過ぎないのだよ。神も人も、日夜幾つ となくこうした誤審を残していくだろう。そして、ぼくらはいまその一つを知っただけで、 目に触れない幾千幾百のものは知らないのだ。