他人の自叙伝(第一回) 小栗虫太郎  本篇について筆者からのお断わり  特に断わって置きたいのは、これが僕の自叙伝ではないということだ。別に僕は、筆にのせ るほどの経歴をもった男ではない。またそう云うことは、柄でもないし、嫌いなことだとも考 えている。そんな訳で、なにより僕の自叙伝でないということを、この際はっきりと承知して 置いてもらいたいのである。  そこでその証拠として、同君から二葉の写真を送ってもらった。一つは七つ、一つは十一の とき  見ればわかるが、僕はこれで見るような好男子ではない。つまりこれを、僕を知る範 囲の人たちに、とっくと見て頂く。そして、個人鑑別をしてもらって陥りやすいところの、僕 ではないかなどと云う臆測を止めて頂くのだ。  それでは誰か、そして、なぜ他人の自叙伝を私が書かねばならないようになったか?  小布施|倉《そう》三郎(雛)ー1ーこの男と私は家も日も隣りあって生れている。すなわち私は、明治 三Ll四年三月十四日の生れ、彼は遅れて、その月の末日であった。家も、神田区旅籠町二丁目 十一番地が私なら、彼は垣一重の、九番地で|芳林《ほろりん》通りとなっている。もちろん、二人の関係は これだけではない。学校もおなじなら着物もおなじ、私が転校すると、彼もそれを追うて、い た学校をはなれてしまう。むろんこれには親同士の親交という理由もあった。  私は、.練成」という小学校で尋常一年をやり、二年のとき、女子高等師範の付属ヘ転校した。 すると翌年には、彼も入ってきて一緒に通うというようになる。そんな訳で、だんだん彼と僕 とのあいだが異様なものになって往った。もちろん、親愛は感ずる。しかし反面には、たがい に反擾しあい競いあうようになった。  どうして二人が、こうまで似せられなければならないのだろうか  そういう疑問を、はや 一二年のころ執拗にいだくようになった。そしてその原因も、いま考えれば容易に首肯される ことなのだ。  二人の家は、声望も資産も門閥というような点にまで、それに、伜二人の成績まで割ったよ うに似ていたのである。従って、相手を凌いで優越をほこるということ、それはこうした場合 自然の人情であろう。しかし二軒のあいだには、そういうような露骨な表示は慎まれていた。  その理由は、とくに多く小布施がたのほうにあった。それは地境いや、出入口のことなどで 黙認されていることが多く、そういう好意に対しても、私の家の感情をかき立てるようなこと は出来なかったらしい。ただ追いつけばいい。自分たちが、劣勢さへ自覚しない程度ならば、 それだけでいい  そういう自慰的な気持ちで、小布施と私とはあらゆる点で似せられてしま った。  云はば私たちは、たがいに優劣を争わねばならぬ宿命のもとに生れたものである。  それは、実際話のほかであった。着物の柄、玩具、学用品にいたるまで  たとへば私が、 これを南明館(駿河台下にあった勤工場)で買ったといえばそれを真似る。フーレベル館でとい えば、はや次の日にはおなじものが彼の手にあった。そうして第一に、物の所有、独占という 観念が害された。  およそ、どんなことよりも、優越感を奪われた子供ほど惨めなものはない。私はなにを拐置 いても、彼に似たくないと考えるようになった。そして出来るならば、相手を劣等なものとし て眺めたいーそういう考えが、彼にもあって闘争がはじめられたのである。  それから七ハ年ーたびがいに離れ離れになるまてを親愛の蔭て競りあっていた  それを 綾にして、小布施倉三郎の少年記をしるしてゆこうとする。特に、彼をもっとも地上的な子供 として……。  それから最後にもう一つ断わって置きたいことがある。  これは、要するに私の我儘ではあるが、もし書きたくない日があれば休載ということ、従っ て、たまにひびが|入《ちち》ることがあってもそれは答めないで頂きたい。  (実はこの断わり書きを終えて、本文中に入ったのであるが、生憎く、肝心なところで寝冷えをし、続け られなくなってしまった。もう一日とも思ったが発行は遅延するし、どうにも今回は割愛の止むなきいたっ た。この点、御諒怒を乞いたし。)