一週一夜物語 小栗虫太郎 一、|大人《サヒ プオ 》○.Q|二《グリ 》〇  僕は、「実話」というのが大の嫌いだから、此処には本当 のことを書く。  というものの、どうもこれが難題なので、弱る。作らず、 嘘でなく、実際僕が聴いた他人の告白なんてーよくよくの |天邪鬼《あまのじやく》でないかぎり、云えた芸ではないと思う。  とにかく、これはいわゆる実話ではない。飽くまで、僕が 経験し、実際に聴いた話である。  で、冒頭に、僕の経歴の一部を明らかにする。これまで、 経歴不明の神秘性があるーとかなんとか云われるのが心外 であったが、この機に、残らずぶち撒けてサバサバとしてし まいたい。それは、中学を出て一年遊び、翌大正八年五月か ら十一年二月まで、横浜山下町一五二番地、メ1ナlド.エ ス・ジェソップ商会というのに勤めていた。この店は、ブロ ンズ扉や、ボード・ジョィンターや特殊錠、欄間調整器など の建築金具を輸入し、輸出のほうは、印度、蘭印方面へ日本 雑貨を向けていた。もちろん僕は雑貨掛りのほうであった。  ところが・大正十年十一月九日・年に一度は二蟹ふ廻りに 出かけるジェソップ氏の伴をして、はじめて北回帰線を越え カルカッタに上陸した。印度だ。|頭被《ク メン》、|綿布《めんぷ》、|目餌《マハヲ》ξ|邑夢《リア》の 国だ。僕は、象に乗り|蛇使《スネ クチヤ マ 》いを見、=|畠《リンガ》8|日《ム》の散在す る印度教寺院を見歩いた。しかし、そのバドナやヵルカッタ にはなんの物語もない。それから、汽車で南行、中部印度の プーリという町にきてはじめてこの話が起る。  そこの宿は、ホテル「|風《ウインド 》の|宮《パレス》」という酒落た名であった が、部屋は、か|冨牙碧着《アバドラヴ ヤ》という裏町に向いて汚い。露台が、 重なり合っている狭くるしい通りは、また、更紗や麻布の日 覆いでしたの土が見えない。しかし、夜は美しい。更紗を洩 れる灯、昼間は気附かなかった露台の|影絵《シルエツト》、パタンやブルマ ンの|喧翼《エロクエント》たる|取引《 コムゴマ ス》は、さながら、往時バグダッドの繁栄その ようである。|平太鼓《ケム クム》が聴える……。それを子守唄に、寝れば また「|一千一夜物語《アヲビアン ナイト》」を夢みる。バクストの|装置《ヂザイン》、カルサヴ イナが踊るシエヘラザーデの陽炎。まるでそれは、僕が|冒《ハ 》㌣ 8ξ|巴寄《ル ンアルヲシツ》9|三《ド》qで、此処へ彷径い着いたようであった。  ところが、そうして滞在三日目の夕のことである。  窓からみると、砂堤の蔭に首絞め台のようなものが見える。 それが、最初の日から気になっていたので、ジェソップ氏を 誘い散歩がてら出かけて往った。が、側へゆくこと、それは |目器三《マスヲ》凶という名の、車井戸だったのだ(この|目器《マスヲ》E⑳とい うのは、あるいはこの地方の小舟の名であったかも知れぬ。 いずれにせよ、いまは時経て記憶に定かでなし)  水牛が、釣瓶縄を引くと、絞め殺されるような音を立て る。陽は落ちんとして、マハナディ|三角洲《デルク》はくらい露のした にあった。するとそれから、螺をつないであるアカシヤのし たまで来ると、とたんに、側の草叢がガサガサっと動いた。 (|眼鏡蛇《コプヲ》かなー?H)  それは、傑っとするのと飛び退くのと、同時だった。しか しジェソップ氏は、からだを屈め顔を地に摺れ摺れにして、 とおく残光が、黄麻畑の果に漂うあたりに透した。間もなく 彼は、手の泥を払いながら顧える私を眺め、 「ありゃ、君、人間だよ」と、膿うのだった。  そこで、|竃戸《ミスク  オ》O.Oユoが|安《グリ 》堵したことは云うまでもない。 しかしジェソップ氏は、顎を撫でながらじっと考え込んでい る。僕は、その腹芸を怪語に思い、とにかく、螺を引いてき てお乗んなさいとばかりにすると、 「君、ちょっとあの男を呼んで来てくれんかね」と云うの だ。 「でも:…・何でです?」私は、なにがなんでも得体が分らな いので、躊蕗するとジニソップ氏は手をあげ、 「いや君は分らんだろうが、これには理由がある」と、声を 低め、云い訳顔に語りはじめた。 「このね、マハナディ川の上流には、ダィヤモンド鉱地があ る。昔とちがって、いまは萎廃凋落のどん底にあるが、それ でも、|肉紅玉髄《カ ネリアン》、|柘榴石《ガ ネツト》などに混って|偶《たまたま》々出ることがある。 それもなんだ、|藩王《マハラジア》の経営だから採収法が古い。警備も、南 阿の諸鉱地とは、てんで比較にならんのだ。鉄条網もない。 電気柵もない。南阿じゃ、着物を縫目まで解いて身体検査を すると云うが、此処じゃそれほどでもあるまい」 「では、発見した鉱夫が逃げられるじゃありませんか」 「そこなんだ。|宝石《いし》が、たまたま出るとそれを持ち逃げして 追手を避け避け、外国船に売り込む……。いや。あれがそう だとは、必ずしも云わんよ。しかし、万事こうしたことは、 カン一つだからね」  それが、ジェソップ氏の持つ、最大の悪癖だった。賭けた がること、相場が好き、ボロ株が好き、おまけに、角力が好 きで光風が贔負であった。しかし、それも考えれば理由のな いこともない。草叢という、|眼鏡蛇《コプヲ》の通路に這い寝そべって いるのは、なんぽなんでも並々のことではないからだ。  やがて僕は、主命もだしがたく、草叢に近寄って往った。 そうして、怪人"ΦヨO|言巳《ヲムチヤンド》君の出現ということになったの である。そこで断って置くが、ジェソップ氏は印度語が喋れ ない。僕も、|一邑一彗勺希器寄巴臼《インデイアンプレツスリ ダ 》の初級くらいのところ、 けだし僕を引っ張り役にしたのも、理由がその辺にあるらし い。が、僕とは云え……ペラベラやられたら冷汗もののとこ ろが、運よく、その青年は正統の英語が喋れた。かれは、す ぐ飯を食わすというと獺るそうに起きあがり、のそのそと僕 のあとを破いてきたのである。  それから、僕が日本語でやる生檎の報告中、チャンドを見 るジェソップ氏の眼に、失望の色が濃くなってきた。服装は 汚い、それも泥だらけで紛々たる臭気だ。が、顔は、印度ア ルヤン族の正系ともいう、どう見ても、サンブルプールあた りからのダィヤモンド鉱夫ではない。しかし、人は見かけに よらぬと云うーおそらくジニソップ氏の腹も、同じだった ろうと思われる。とにかく、チャンドの気品は、絶品という に近かった。たとえて云えば、キップリングの.、Zき|一鼻言《ナウヲ カ》.. に出てくるラホールの王子1といっても、僕自身には褒め 過ぎとは思えない。  しかし、そのチャンドには何の用もないのだ。といって、 ブラプラさせては不安がるだろうと云うので、おもにジェソ ップ氏の身廻りの用をさせていた。がその間、僕には大命が 下っていた。それは、チャンドをそれとなく探ることで、ジ ェソップ氏は、まだまだダイヤならずば|黄玉石《ト パズ》くらいの夢を 見ていたらしい。  しかし僕は、いつかチャンドの別の方面に、興味を持つよ うになった。それは、ジェソップ氏に対しても決して|大人《サヒ プ》と は云わないこと、印度人が、自らを卑くして酪駝のように膝 を折る、あれがチャンドの雰囲気にはないのだ。  やがて、イギリス嫌いの僕は、この青年が好きになった。 実際ジェソップ氏のような、ズポラで人の良い英人はいない のだから、僕には、クラィヴもへースチングも村井長庵と大 差ないのだ。そんなもんだから、チ+ンド君に打ち込んだせ いもあり、今度は彼の健康が気遺われてきた。はじめ来たと きは、二、三日食わないとこんなかと思ったのが、五日、十日 となっても少しも回復しない。樵惇、脱力、眼に力はなく、 気獺るげに動いている。僕もしまいには、心配になってき て、あれこれと、なだめ瞭しては問い訊した結果、ついにあ る夜口を割らしてしまったのである。  それは、|黄玉石《ト バズ》でも、ダイヤでもなかった。|愛《ヵ マス》 |経《 トニラ》の印度、 |淫婆《シ ヴア》の破壊をいまだに疑わぬ印度1その板挾みに、哀れや チャンド君はペシャンコにされ、青春の泉を洞々にしてしま ったというのである。  この告白は、多分惰気と暑さで、諸君を困らしめるにちが いない。それほど、印度も暑いがこの話もそうである。 娘味絶々 (以下、ラム・チ+ンドの告白)  言鴫・O.Oき、あなたは、紳士にも似ず執拗いですね。さっ きは、僕の生家もなにも訊かないと、約束した癖に・:…。だ が、教育を受けた、学校だけはお話しましょう。それは、印 度の北西部カシュミールの首都、スリナガールにあるプリス コー氏の学校というのです。此処には、印度教徒も回教徒も キリスト教徒も、すべてこの地方の上流の子弟が集るので す。聴いて御覧なさい。→|旨《テインダル》9|一由蓼《 プリスコ ス》8。.ωω98|一《 スク ル》といえば、 大抵のものは知っています。  で、そこの、教程を終えてから何をしたかというと、まず 助教師、そしで最近は、校主の知己のヘミングウニー嬢が、 本土から来られたに就いて案内役となりました。その、、、、 ス・ロバータ・ヘミングウヱーは、財団の有力者である国璽 尚書の令嬢です。まだ二十二か三くらいでしょう。匂いはな い代りに、清純な線があります。ところが、方々見歩いてこ の町に来たとき、偶然ガンデイの示威運動が起ったのでし た。町は、兵士の発砲以来、廃櫨のようになりました。雨が 降る、汗が蒸し暑さに腐るように匂うー、事の起りはそう いう晩だったのです。  そうそう、宿は「|神王《ヲジユヲ ナ》」館でしたよ。そして僕は、その ときヘミングウェー嬢の部屋にいました。外は、ザクザクガ チャガチャという音で巡遷が絶えません。しかし僕は、地図 を見ながら、南行のスケデュールを組んでいました。と、隣 りから、湯のはねる媚めかしい音がする。いま、ミス・へ、ミ ングウェーが御入浴中なのです。  すると、そこから、 「パドミー二、パドミー二や」とお呼ぴになる声がします。  尻あがりの、声を聴いただけでも一人娘の、ぴりびり轟の つよいところが触れてくる。  しかし、下牌のパドミー二は此処には居りません。私は、 なんと入浴中のレディにお答えしていいものかと、惑ってい るうちに、二度目のお声です。 「パドミー二、パドミー二はいるんじゃないの、そこに。駄 目よ。黙って、拗ねていたって、ちゃんと分るんだから… .:」  と、湯の面にぴしゃりと何か叩き付けたらしいのです。 「パドミー二、パドミー二ってば……」  そういって、ミス・ヘミングウヱーは暫くのあいだ、耳を 澄ますようにじっと湯の音をさせませんでした。 「じゃ誰よ、そこにいんのは? さっきから、かさこそ音を させていて、|給仕《ボ イ》?」 「いや、僕です。パドミー二は、さっきから此処には居りま せん」 「ああ、なんだ、チャンドさんか」  しかし私は、爽やかな、処女を|粧《いろど》るさまざまな香りに、こ う隣ったことを、たいへん有難く思いました。とやがて、 「チャンドさん」と蓋らったような声で、 「ちょっと、あんたにお願いがあるんだけど……、実は、パ ドミー二がいないんで、お願いするんだけど……、そこにあ る、|三角海綿《ル フア》を此処へ持ってきてくれないロ」  とたんに、私は、ぱちぱちっと瞬きました。ゆらゆら、鍵 穴を洩れる湯気が、肢体のように妖しく見えます。 「でも……」と、やっと返辞はしたが、子供のような答えで す。すると、ヘミングウニi嬢は、 「アラ、厭なの。じゃ、何かそこでしていんじゃないロ 抽 斗や、下着入れを覗いているんだったら、今のうちに蔵うこ とよ…・:」  やがて私は、パドミー二が出しわすれていた三角スポンジ を手に、|把手《ノツプ》をやんわりとひねっていました。が、実のとこ ろは、動作に現われているような、そんな落着きはないので す。 (なにを……ミス・ヘミングウェーのこれは、意味するのだ ろう。処女が、娘の媚態ともいう蓋恥心を捨ててまで、自分 に、浴室に入れとは、戯れだけと云えないことだ)  と、妙な自負心に、私はからだ中浮いてしまったように… …ああ、|目《ミスタ 》プ○.Oユの、|曝《 オきグリ 》いますね。が、それも、あなたは、ミ ス・ヘミングウェーを知らないからです。  つぶらな瞳、弾力のあるふっくらとした頗、顔もからだ も、程よく締っていて、弾みだしそうです。神品ですよ。触 れようとしても出来ぬものは悉く神品です。私は……だが、 いかなる場合でも、ブリスコーの生徒でした。 「じゃ、此処へ置きますから」 「そう。有難う。でも、ちょっとの間なら、此処にいてもい いわ」  私の、そのときの驚きは、何ものに例えようもありませ ん。しかしミス・ヘミングウェーは、続けざま云うのです。 「どう私、頭のほうもそう悪かアないでしょう。湯気で、あん たの眼鏡が曇って、なにも見えないのを知ってるんだから。 見えて?…私が、いま、どんなことをしているか」  と、はげしい湯の音がして飛沫がかかると、|淡紅《とき》色の、量 やっとした塊りが、眼前の講のなかにあらわれました。揺れ る、くねる。私は、咽喉がからからになって自分の喘ぎが、 ガンガン鳴る耳のなかへ響いてきます。 「では、御ゆるり」  私は、やっと咽喉をうるおし、これだけを云いました。す ると、ヘミングウェー嬢は、 「マア、あんた、あんたは割と世帯染みてんのね」  そう云って、くすんとお笑いになったようです。が、その 頃から、|鏡玉《レンズ》が室の温度に馴れ、やっと講が舞れはじめてき ました。と、|灌水《シヤワ 》のひらいた、夕立のような音がする。  それも、湯のほうが捻られて、濠々と立ち軍めてくる。せ っかくの、喘ぐような瞬間がまた旧へ戻ってしまったのです。 「お気の毒さまね」ミス・ヘミングウェーが、嘲けるように 云いました。 「なにがです」 「知っている癖に。……もっと黒檀紳士は、明けっ放しの人 かと思っていたわ。つまり、四十|礁《ヤ ド》スクラムからス加ηクオ ーター.パスになって、それを、私がカットして好蹴をタッ チに蹴出す。一挙これじゃ、三十礪挽回ね」 「分りませんね、何です、それは」 「分らないの、マアいいわ。いいから、出てないと水を引っ かけるわよ」  私はさんざんに翻弄され、それでも、若葉を嗅ぐような、 爽やかな匂いをつけて戻ってきました。それから、部屋へ戻 って寝台にころがっているうちに私は、四肢五体を揉みほご されるように狂わしくなってきたのです。 (なんのためだ……なんのために僕を浴室なんかへ呼んだの だ?)  それは、あるいはミス・ヘミングウニーの気紛れかもしれ ないが、一概にそう云い切ってしまうには、あまりに、奔騰 的だ、噴油だ、欝積しているものが悶え出ようとしているの か。 (ふむ、よくあることだ。よく、青葉病といって、急に憂欝 になるか、それとも、見境いなく噛りつくように、|冗進症《ニムフオマニ 》に なるかー。とにかくあれは、殻を割りたくても、割り得な い悩みなんだ。あの娘は、心のなかじゃ充分熟れ切ってい る。そこへ、破ろうとしても、させないような潔癖さがある のだ、そうだ、たしかに処女性の病的なものがある)  と、決めてしまうのも、独り合点でしょうか。分りませ んロ ミス・ヘミングウェーと、私とのあいだには人種の壁 がある。そして、これも一夜のほんの戯れだけでしょうか。 私は、そうして右せんか左せんかと悩み、奇怪な謎を投げか けたヘミングウェー嬢の行為を思いあぐみ惑乱に悶えており ました。  ああ、○、Oユρあなたは、それからの|私《オ グリ 》をお曝いになるでし ょう。暇さえあれば、留守を狙ってヘミングウェー嬢の部屋 へ忍び込み、部屋に残っている|薫香《かおり》に鼻をうごめかしたもの です。O.OユP≧=ωoq一〇乏ヨσq一9目三口四ξのヨ三ヨ㌍  馬鹿です。しかし天はこの馬鹿に恵み給うたのか、翌日も 雨、その次も雨、しかも暴動の気配が絶えず、ときどき銃声 がする。風もない、ただ雨が滝のように地を打っている。と ころで、その日からはじまる八日のあいだが、カリーの女神 を祭る精進日となるのです。水浴をし、あらゆる慾望を絶ち、 子羊を犠牲にする。そしてもって、破壊の女神カリーをお慰 め申しあげるのです。けれど、いま此処では祭典どころでは ない。雨に暴動、加えて、湯気のようなおそろしい湿気で す。  しかしそうした時、ごろごろ瀬いままに転がっている姿は、 だんだん、心も獣のようなそれと同じになるのではないでし ょうか。私も、自分ながら、理性を失わんとしているのが分 ります。やがて、暗い空が一層暗くなり、雨脚も消え、煮ら れるような夜となりました。  ところが、その夜へ、ミングウェー嬢に、神経痛の発作が起 りました。前年、ポロの競技中落馬が原因で、その後は、暑 さ寒さにつれ、右肩が痛むのです。それでパドミー二と交代 に、患部の湿布を代えて居りました。甲斐甲斐しく、腕まく りしてギュッとタオルを絞る、すべてが、われながら驚くほ どマメだったのです。とその|時《フフ》、通りをザッザッっと、靴音 でない一群が通ってゆく。 「アッ、あれ、きっと何だわ」 「なるほど」 「あらッ、私まだなんにも云ってないのに……」  私は、ときどき失敗をやってはぎゅうぎゅうな目に逢わさ れ、それが久しく外道的な快楽となっているのです。いま私 は、右手でタオルを抑えながら、左手は、ミス・ヘミングゥ エーの莫に灰受けを捧げている。  ああ、いかに場合とはいえブリスコーの生徒が、落ちに落 ちたにも百面相とはなったものです。 「ああ、そうか」  私は、ポンと手を打つ代りに灰皿を上げて、静かに|莫灰《はい》を 落させる。 「分りましたよ、非常時の馬鹿力というのが。あれほど、お 痛みだったのが土民がとおると、瞬間ケロリと忘れてしまう ……。いや、気が張っとりますと、感じないのですなア」 「そうかしら」 「処世上、その点には、都度都度考えさせられます」 「じゃ、処世哲学ね」  ミス・ヘミングウェーが、クスンと笑いながら、 「あたし、まえにはチャンドさんを、ちがう人かと思ってた わ。口説き上手で、パドミIニのような娘を悦ばせるかわり に、かならず只じゃ済ませない。よく、世間にあるあの類型 ねP」 「  -」 「ところが」  と、云いながら、ヘミングウニー嬢は痛そうに顔をしかめ 始めたのです。けれどまだ、それは忍べぬというほどのもの ではないらしい。 「ただ、あんたは実にまめだと|思《ちヤ》う」 「まめですか、僕は」 「そう、他にも良いところが、きっとあるんだろうと思うわ。 だけど、なにしろまめすぎるんで、|他《フフ》が分らなくなるの」  彼女一流の毒舌が、このときはまったく苦痛のなかから発 せられました。 「パドミー二、パドミー二を呼んで」  腰の痛みだけは、私にもさすが触らせない……しかしパド ミー二は、いつになってもこの室へ戻ってこない。 (パドミー二がいない。それをさっきから、私は、・・ス・へ、ミ ングウェーに、思い出させまいとしていたのだ。彼女は、い まコック部屋にいる。回教徒だから、カリーさまのこの日に も、なんのお瞥めもあるまい。  そしてその間、私が万事取り仕切ってまめまめしく|働《フフフフ》き、 ほとんど、触らんばかりの身近にいる愉悦を、パド、ミー二が きて妨げられまいとしていたのだ。私は、心のなかで、チェ ッと舌打ちをしました。ところへ、 「呼んで……、ねえ、早く」  とヘミングウェー嬢が、胸をそらし、苦しそうに坤きはじ めました。 「はやく、チャンドさん、引っ張って来てよう」 「ですが」さすがに私も狼狽え気味になって、「考えてみ ますと……あれから、もう四、五時間も見えないのですか ら」 「そう、そう云えば……」と、痛みを忘れたように、不安気 に眼を据え「あれ、何時だったろう。パド、・i二は、食堂か ら出て、たしか……」  と、だんだん、ミス・ヘミングウェーの顔は蓋らったよう になり、観念の色がなに事かを決めようとしました。とその 時、通りのどこかでワアッと喚声があがると、数発の、銃声 とともにおそろしい音が部屋に起りました。窓硝子が木葉微 塵となり、どこか、|蒲団《マツト》のしたからキナ臭い匂いが立ちのぽ って来ます。  その瞬間、せっかくの機会がぶち壊れてしまったばかり か、ミス・ヘミングワェーは、恐怖に駆られワアッと泣きな がら、地下室の酒倉へ逃げ込んでしまったのです。  つまりこれは、カリーの女神の|嘉《よみ》し給わなかったことでし ょうか。それからも、ミス・ヘミングウェーは相変らずの態 度で、おお|機会《チヤンス》と、叫ばせられたのも何度かありました。が、 私には、印度教徒の戒律を思わぬ訳には、往きません。最初 の夜の、神意的破壊的の銃声が、もし啓示としたならばこの 次はどうでしょう。ああ、O.(}|号《オ グリ 》、煩悩はたけり、信仰は脅 かす。精進潔斎のその日に、女人を得ようとしたのは、返す 返すも悲しいめぐり合わせでした。  私はそれから、来る日来る日うつらと送りましたが、しか し、希望はまだ九日目にあります。精進明けの、その日には 何事も自由です。そして雨も、その前々夜にはからっと上り、 町にはすでに火薬の匂いもありません。朝の風が、黍畑をひ たす出水のうえを渡り、湿原で鳴く、印度犀の声を手近のよ うに送ってきます。ヘミングウェー嬢は、その朝|高台公園《ハイ パ ク》の 遊歩場へゆき、八時頃には、木蔭を縫う馬蹄の響が聴えてき ました。  そこで私は、とって降した彼女の手をかるく握りますと、 どうでしょう、そのうえに、ピシリと鞭が降りました。ああ、 私はとたんに自己を失い……思わぬ変り方、あまりな恥辱に そのまま面を伏せ、ホテルには入らず一目散に駈け出しまし た。それからの放浪です。私はつくづく、祭、祭に縛られる 印度民族が厭になり、と云って、遠い祖先の収穫をいのる声 がふり椀ろうとしてもどうしても離れないのです。おお、O. O=Φ、なに事にも印度民族はこのディレンマに|困《くる》しめられま す。信教と、民族発展とに背反するものを持つ……。おお、 ○.Oユoお国へ行きましょう。  しかし私は、聴いているうちにも、ほかの事を考えてい た。それは、ミス・ヘミングウェーのことで、ああさせた、 》bζ8三9なものは何事であろうか。近傍の・…:|日天《ス ルヤ》の堂 でも見たのか。そこには、奇矯のかぎりを尽す群神の矯態が ある。それとも、爵香、沈香、素馨の香りに1熱帯の香気 に眩量を感じたのではないか。いずれにせよ、八日間精進の ことは知っていたにちがいない。そして、雨後の冷気が、ム ラ気と火遊びを鎮めるに充分だったーと。  やがて、夜が明けかかり闇が白みはじめたころ、私は、菩 提樹の梢をとおして暁にふるえる、ユニオン.ジャックのへ ん翻たるのを見たのである。印度の朝、しかし真実の黎明に は遠い。私は、チャンド君の寝顔と見くらべ、 そう眩いたのであつた。 五、一週一夜物語(昭和+三年ハ月号「新青年」)  これは、滞印中じっさいに聴いた話である。ただし、ラム・チャンド君というのはホテルの|番《アロ》 頭で、いかに、旅の女性がかくあるかという、その話を潤色したものである。