ひとぎも 人膽質入裁判 小栗虫太郎 一、乳房を含む生首  明治三十八年七月四日の明けがた近く、長野県上伊那郡朝 日村上平出の県道を、人とも獣とも、なんともつかぬ異様な 坤き声を立てて通るものがあった。  そこは、通称を岡谷街道と云って、上諏訪から平出までが ちょうど二里、それから伊那、赤穂と、天竜の流れに沿い、 飯田に達する道であった。しかし、当時はいまの伊那電鉄も なく、汽車は、松本からのが塩尻までと、南は、前年に富士 見までが開通したばかりli。  従って、諏訪の湖畔だけが未成線であり、当時は岡谷街道 にも飯田行きのガタ馬車が走っていた。駆者の吹く剛帆が、 天竜の早瀬を渡り山峡に餌するーと恰度そう云ったよう な、伊那渓谷にあった駅馬車時代の物語である。  所で、その人獣の差別もつき兼ねるような瞭き声は、最 初、平出尻の水車小屋あたりからはじまって、寺前を過ぎ、 いまは闇の街道筋を西へと流れてゆく、その声が時折止む と、天竜の瀬の音が、蓋をするように耳にかぶさってくる。 と、街道筋の、一軒の雨戸から、チラッと灯影が洩れた。 「|姉《あんねえ》さま、あの声はなんだろうか?」  三時半と云えば、農家では一番の桑摘みで、竹淵と云う、 その家も姉妹ふたりが出掛けようとしている。 「そうだのう、猫でねえようだし、犬でもねえようだし、え らアく、風邪引いたような声だが酔いどれじゃねえかえ」 「なんの姉様、とぼけるでねえ。糸安で、村|中銭《かんす》なし者ばか りだて、酒え喰うようなら、よほどの|金持《おでい》だべい。オラア、 怖いけん、その|提灯《ばしよう》りさ点けてゆくっか」  それは硬れた人声のようでもあり、聴きようによっては、 なにかもの悲しい、病獣の坤き声のようにも思われた。遷音 もなく、声は、十数間向うの|痘瘡祠《しぷがみ》の辺りにまで迫っている。 「姉様、なんにもいねえだよ」  小窓から、そっと戸外を覗いた妹娘の眼には、ただ曙を告 げる瀬の霧しか映らなかった。生暖い、昨日の照りが冷え切 らぬ間に、はや今日の暑さを、告げ知らせるかのような霧の 流れ。しかし、やや暫しの後に、光りはじめた、裂け目のな かから異様なものが現われ出て来た。妹娘が、思わず叫んだ 声に姉が代ったけれど、 「ホゥ、犬でねえかよ。白と黒斑の、見かけねえ犬だし、首 っ玉には縄切れがつないであるし、だが、身体つきはどうに も太郎犬みてえだし……」 「姉様、太郎犬なら、白むくだべえが。それにあの|狂犬《やみいぬ》だち ゅう評判だにな。そおれ、ほんや、まっこと太郎犬だ。ー晩 で、いつの間に斑になり居ったのか、こりゃ魂消たこんだ」  一、二年まえ、岡谷から流れて来た宿無しの犬で、誰一人 かまい手のない、太郎犬と云う野犬があった。全身、混り毛 なしの白で、飛騨犬であったが、近頃ではとみに狂暴性が募 って、狂犬ではないかと噂されていた。それに常日頃、|川場《かわせ》 の馬場水車附近を根城にしていたので、水車主の勝太郎から も、太郎犬の撲殺願いが届けられていたのである。  その、痩せさらばえた犬が不思議にも、一夜のうちに毛並 が変ってしまっている。しかも、嗅れた悲痛な声を振りしぽ って、明けそめた薄明のなかを彷僅っているのだ。その薄気 味悪さーなにか曰くありげなうそ寒い感じがして、姉妹は その場に煉んでしまった。すると、その様子に、タケと云う 祖杜が険しそうに、土間へ下りて来た。この老婆は、文久元 年の生れで、村でも有名な|気丈婆《べいたぱぱあ》であった。 「これ、なに|解《すめすな》らぬこと云って、出かけねえだ。太郎犬だ とロ 犬の見合けがつかねえで、どうするだ、鱒やなまずな ら、ちと無理かもしんねえが、太郎犬だぞ。う、う、ほんこ にこりゃ、斑になってるだがあんしたってこったろう」  と、流石のオタヶ婆さんも、度謄を抜かれた体だったが、 こんなことで、怯むような気丈婆ではなかった。 「狂犬が、なぜ怖いのや、噛まれたら、黒砂糖ば塗っとけ。 ようし、おらが一番追っ払ってくれるか」  イキと云う名の、木割斧を手に戸を開いた婆さんが、片手 の松薪を犬めがけて投げつけると、キャンと一声、残しただ けでまっしぐらに逃げ去ってしまった。 「そうれ、見ろ。太郎犬なら、|狂犬《やみいぬ》だで手向いするじゃろ う。あれは、他の犬じゃけん。サアサア、早よう|愚図《ごぜ》つかず に、行けと云うたら」  所が、投げた松薪を拾って再び土間に入ったとき、さしも の気丈婆も、樗っとしたように顔色を変えた。ちょうど、犬 に当ったと覚しい部分に、なにやら黒くベトリと附着いてい るものがある。灯にかざすと、色もあれ、プーンと|鼻《フフ》を撫で る、血腫ぐささに便っとなった。血、血だ。太郎犬に、斑と 見えたのは、まさしく血だ。しかも、総身を殆んど血ぬくる ほどの、量。婆さんは、思わず薪を土間に拠り出して、近隣 の人たちを大声で呼び歩きはじめた。 「惣太どん、起きてくれんかよ。太郎犬が、どこかの|赤《につかつ》 |児《こ》 を、喰いよったけん」  そうして、駐在所の巡査水久保信三を先頭にして、点々と 連なる血の跡を辿りはじめた。すると、それは、いつも太郎 犬の寝る馬場水車で終っていた。しかし、調べてみると、そ こには別に異状もなく、更に新しい、血滴の跡が発見された のである。つまり、太郎犬は一度水車小屋へ戻り、それから 街道筋へと、彷径い出たのであるから、今度の血の跡がまさ しく現場へ導くものと考えられた。  そこで、水車小屋の、馬場勝太郎を加えた一行は、それか ら、血の跡を再び辿りはじめたのである。すると、そのほう は意外にも遠く、はや同村を出外れようとする下平出の北端、 街道下の、田圃中にある一軒家の前でとまった。そこは、雄 子謄丸と云う、売薬を行商する武田儀三郎の家で、常時儀三 郎は、飛騨の高山に赴いていて留守だった。  遠く東のかたの連山が、小豆色に染んできて、重畳たる、 峰の分れが呼吸づくかのようにはっきりとしてくる。しか し、四辺はまだ灰暗く、雄子謄丸の看板が、暁の風に揺れは ためいているだけだ。  この寂とした早暁に、儀三郎の留守宅では、何事か起って いるに相違ない。  そのとき、戸袋の脇で、水久保巡査がそれは異様なものを 発見した。無残にも、切り落された赤児の片腕で、村民は、 それを見るやアッと声を立てて後へさがった。実に、驚いた ことにはオタヶ婆さんの予言が1赤児が喰われていると云 う、あれが適中したことである。しかし、それは明白に切り 落したもの、太郎犬はまったくの冤罪であることが分った。 「だが、オタヶ婆さん、よくお前、知っていたのう。犬に喰 われてやせんが、これはまさしく赤児の片腕じゃ」 「いんや、俺アなんにも知んねえだ。犬は、よく赤児を喰い よるで、そう云っただけですよ」  そのオタヶ婆さんの狼狽中に、一枚戸を開いた一人が、ア ッと叫んで飛ぴ退った、瞬間、差し入れた|角燈《カンチヲ》の光の中に、 まこと空前とも云う、加虐屍体が発見されたのである。  苦しげに、眼を剥き空けた女の生首が一つ、その側らに、 頑是ない当歳児の首があどけなさそうに微笑んでいる。しか も、なおより以上奇怪なことは、その二つの首が、それぞれ 唇にしっかと双の乳房を含んでいることだった。  ゆらゆら暁の微光が、たゆたい揺めくなかに、チカッと眼 を射るのは女の裸身である。しかも、首がない。血は臓器を 交えて、胸からしたを、布のように覆うている。またそれが 下腹部の辺りで海松のように乱れ、くわえ出した腸綿の端が、 犬の足跡と共に隣室にまで及んでいるのだ。  しかも、屍体はその二人だけではなかった。更に、仏間と 覚しい一畳半の部屋にも、咽喉を挟られた六、七歳の娘が転 がっていた。その、こもった熱気、むっと轟をつく血の異 臭1。人々は、雨戸の蔭をおそるおそる覗き込んでは、い まにもこの惨劇が、疲れたとき見る悪夢のように消えてしま うのではないかと考えていた。  そこで、作者が思うのは、この辺りの敏述が、少々読者諸 君の印象を夢幻的ならしめる催れがあると云うことだ。しか し、これは歴然たる実話である。で、次にその証拠として、 長野地方裁判所飯田支部の予審判事鈴木虎雄氏が作成した、 予審決定書の抜文を掲げることにする。 1同日午後十時頃、室内の闇黒なるに乗じ南入ロより侵 入し、乳児由美と添ひ寝中なりし、芳野の咽喉を手拭にて苑 し窒息せしめたり。それより洋燈に点火し、芳野を六畳の間 に引き出し、携ふる七首を以って、芳野の咽喉部を刺し通し てまったく絶命せしめ、更に芳野の胸部より腹部にかけて、 十字形に切開し(中略)。それより被告は、芳野方にあり合せ たる、予押第一号の脇差にて、芳野の首を斬り放してその脇 差をば、首級の断面より購下辺まで刺し通し、且つ芳野の首 級は、乳児由美の首級と共に、切開したる芳野の腹中に入れ たり。  1前掲坂本芳野を殺害し、まさに腹部を切開せんとする に際し、兇行の間に寝臥しゐたる、子守武田しんが泣き出し たるにより、発覚を防止するため、しんの咽喉を刺し貫き殺 害したり。なほ間もなく、乳児由美も眼を醒まし泣き出した るにより、被告は前記坂本芳野の首を斬りたる脇差にて、由 美の首も斬り殺害したり。  すなわち、悪鬼の手で屠り尽されたのは、武田儀三郎の内 縁の妻坂本芳野(隣糾轍厳げ杣辣鵬帥巨)、その子由美(蔚)、それ に子守として雇ちた、武田しん毎購趾艀卿濁鯛コ鮒)、の三人 なのであった。そうして、その日のうちに、赤穂の分署から は、多田部長、小間木刑事、飯田の長野裁判所支部からは、 余語検事鈴木予審判事の一行が、馬車を駆って平出へと急行 したのである。 二、虐鬼を知る手鞠歌  所が、捜査の結果は、なにものをも齋らさなかった。芳野 も身持がよく、痴情方面には見当もつかず、夫の儀三郎はそ の日の打電で、飛騨の下油井にいることが分った。  そうなってみると、捜査の前途には、暗雲を見るより外に ないのだった。第一、奪られたものが何一つないのだし、凌 辱の形跡もないしするのだから、誰がいかなる目的で、かか る酸鼻の極みとも云う、犯行を演じ去ったのか見当がつかな い。おまけに、現場には、手掛りの塵葉一つも残されてはい ないのである。悉く、太郎犬が荒し乱してしまって、ただ床 の柱に、栂指紋が薄く残されているだけであったがそれさえ も、殆んど顕出が望まれないのである。  所が、そうこうして絶望のうちに午を過ぎた頃、ふと多田 部長の耳に、重大な聴き込みがあった。それは、その前日、 高徳寺の裏で遊んでいたしんの友達で、鎌田みきと云う尋常 二年の娘であった。その娘が、見馴れぬ大阪誰りの、五十男 を見たと云うのである。  けれども、往来の繁い岡谷街道で、日に一人や二人の、上 方男は異とするに足りない。それに、場所と云うのも街道筋 で、いつも行き交う人々の、午睡場所であったからだ。 「そのオッ様は、薄い痘痕のある人で、俺にえらアく怒った げな」 「なんで、怒ったね。よく上手に云えたら、この叔父さん が、たんまり御褒美をやろう。そのときお前は、高徳寺の裏 で、何をしていたね」 「しん公が、|赤《につかつ》ん|坊《こ》を負って、俺と二人で鞠ばついていただ。 すると、|藪《やぷ》のなかから、そのオッ様が出て、えらく怒ったげ な。この|悪《たんこ》たれ|共《ども》、ギャアギャア五月蝿いと、|叩《くらし》き|殺《つける》すぞ ーって云っただ」  それを聴いて部長は、やや淡い失望の念に襲われたが、し かし何とかして、その男を怒らせた理由を知りたいと思っ た。それで試みに、そのとき唱ったと云う、手鞠歌を唱わせ たのである。  1父もし、この子が男なら、下には置かまい泣せはしま い。銀の団扇で煽って、三つ四つまで御手車で育て、五つ六 つから髪結ってくれて、七つ八つから手習いさせて、手習い 嫌いで賭博が好きで、賭博打ち打ちうち負かされて、鉄砲担 いで雄子打ち御座る……。  と唱いかけたとき、部長がいきなり慌てたように遮った。 「オッ、ちょっと待った。その男はお前が、鉄砲担いで雑子 打ち御座るーと唱いかけたとき、飛び出して来たのだろ う?」 「そうじゃ、よう知っとるなア。するとお前様は、あのオッ 様の|親類《ひとつや》の衆かのう。俺が、雑子はケンケンパッタパター と云うたら、あのオッ様が、えれえ顔で飛び出して来ただ」 「そうか。いい子だ。これは、馬市までお小遣いにとっとく んだぞ」  と、銀貨を何枚か握らせた部長は、それからも、さんさん とそそぐ烈日のもとで立ちつくしてゐた。草鮭脚絆の扮たち に、白緋、その尻をはしょって、頭には鳥打帽子。その風体 が、鼻下の|長尖髭《ポウンタ ひげ》としっくりせぬところ、きょう日の刑事諸 君を思うと、隔世の感があるのである。その側には、同じよ うな扮りで、小柄な小間木刑事。水久保老巡査一人だけが官 服で、部長の長思を怪誇そうに見やっていた。  その、平出神社神楽堂の裏は、真夏の昼特有の、水を打っ たような静けさであった。  風のない、朽ちた下生えの、むっとくるいきれ。ジーン《ちフフ》|と 耳元を襲う小虻の羽音に、はやウトウトと、睡気がさしてく るのだ。しかし、部長は眠っているのではなかった。やがて、 生気が顔に充ち溢れ、ピシリと頸筋のぶゆを音高に潰した。  此処で部長は、捜査の針路を漠然とながらも、描くことが 出来たのである。  なぜなら、殺された一家の職業は、雄子謄丸の行商であ り、それ故、雄子打ちと云う無心の手鞠歌が、犯人の神経に ズキリと刺し立ったとも云えるからである。しかも、その鞠 歌を、よく知る大阪誰りの男1と、早速手配が、塩尻へ、 鉄道工事の飯場へと飛んだ。  しかし、さだめし読者諸君は、多田部長の推定に多分の疑 惑を抱くことであらう。鞠歌の一句から、犯人の心理表出を捉 え得たと云うことは、思えば、それは余りにも探偵小説的で ある。けれども、この部長は俳人としての名も高く、後年「粕 味」と号して、南信の俳壇を率いたのを見ていても頷かれる ことだ。それにこの、部長の心理探偵はともかくとして、な ぜ彼が、直観だけで鉄道の飯場を目したのであろうかーそ れも、漠とした見込みだけではなかったのである。  所が、この折角の名察にも、異議を唱えた男が二人ほどい たのである。一人は、朝日村駐在所の水久保巡査で、彼は竹 淵の気丈婆を疑わしく思っていた。なぜなら、赤児の死を予 知していたような言葉と言い、それに平素も、芳野を悪しざ まに云い触らしていたからである。  また、もう一人は小間木刑事で、彼は犯人村内説をかたく 持して譲らなかった。そして、これには、なにか伏在した動 機があろうと云い、部長のように、流しの所業など目するこ とは飛んだ偏見であると主張した。そればかりか、こうと信 ずる、犯人の特徴もまたちがっていた。  それが部長の云う、背の高い上方詑りの男とはちがって、 むしろ刑事は、低い常人以下のものを犯人と云うー。そ の、意見の背馳は、何故であろうか。 「部長、御承知とは思いますが、床柱の上方に栂指の痕があ りましたね。所が、そのうえの釘に、松本の飴市の袋が揖っ ていました。御存知のように、犯人はそれを引きちぎって指 の血を拭ったのですが、そこへは、常人ならば楽に手が届き ましょう。しかし、その下に指の痕がある1私は不審に思 って、次のように考えました。恐らく犯人は、私のような背 の低い男であって、背伸びして、とろうとした機みに蹟眼い たのではないか……」 「フム、悪くはないが」部長には、その全部を肯定するよう な気振りはなかった。「すると、犯人が二人と云うことにな るね。つまり、上方誰りの男に、その小男だ。で、水久保 君、君が主張するオタヶ婆さんだが、儂にも、あの婆さんが 満更の他人とは思えん。君たちは、わしが、塩尻の飯場を狙 ったについて、とかく云うようだが、それがオタヶ婆さんに 偶然つながりを持って居る。聴かそうか。なぜ犯人が、首に 乳房を含ませたか・…:」  と、云われて刑事の眼には、それまで描いてゐた、半ばま じえた軽蔑をもって描いていたところの-杉糸の鞠に、お 煙草盆をひっこめたあの小娘の代りに、おのれの、乳房を含 んだ坂本芳野の生首、それに母の乳首と知ってか、うつらと 眼を瞑じている幼な児の首が、悪夢を強いるかのように男髭 と浮んで来るのだった。 「そんな訳で、この事件の動機を、痴情を原因にした怨恨沙 汰と睨んで居る。それは、芳野の夫の儀三郎だが、先年、塩 尻の駒居屋にいた酌婦と馴染んだそうだ。なにしろ、儀三郎 には小金がある。お千代と云う女も、大阪生れの情夫を、捨 ててまでの逆せ方だった。で、結局、女は男の種を宿して双 生子を生んだ。いいか、双生子だよ。それに、捨てられた土 方の情夫は、大阪生れなんだ。しかし、双生子は間もなく死 んだそうだし、お千代も手切れ金を貰って、他へ住み換えた そうだが、その間、口利きをしたのが、あのオタケ婆さんな んだ。所が、謝礼が少い。それから、芳野を事毎に悪ざまに 云うようになった。どうだ、これであらましの、結着がつい たじゃないか。その上方の男が、なぜ乳房を、斬った首二つ に含ませたかと云う理由も分る」 「ですが、何時どこで、それをお聴きになりましたね」 「赤穂の、署内でだよ。小使の神名七蔵な、あれがこの村 の、出身なのを知っとったもんだから、平出の、武田と聴い たんで、あらましを聴き取って置いたわけだよ」  しかし、工事場を流れ歩く、土方と知ったとき、犯人を、 いまこの手で挙げることは、到底不可能だと恩った。が、間 もなく、部長のその説に、とんだところから反証が挙った。 それは、小間木刑事が念のためと思って、例の、男が出たと 云う、藪のなかを探したからである。  すると意外にも、なかには入り乱れた草履の跡があって、 しかも土のうえには、薄く、胆、質1と書いた二字が読ま れる。  胆、質1。  しばらく刑事は、その=字と睨み合ってゐたが、やがて踵 を返して駐在所に駈け込んで往った。多田部長は一什始終を 聴き取ると、いきなり瞼りはじめた。 「こりゃ小間木君、飛んだ拾い物だぜ。分るか、儂も不審と は思っていたが、どうにも分らない。実は、芳野の屍体に は、胆嚢がなかったのだ」 「そりゃ、あの太郎犬が喰ったのですよ。切った、胆嚢を持 ち歩いて、一体何になります」  水久保巡査は鼻で嘲笑い、相変らず気丈婆のオタヶ説を主 張するのだったが、部長と刑事は、村民を駆り出して太郎犬 の狩りにかかった。もしそれが、生捕と否とに拘らず太郎犬 から立証されればともかく、それでない限りは、更に一重 の、この事件を包む奇妖の|覆衣《ヴエ ル》が殖えることになる。  しかし、太郎犬の狩りは、失敗に終ってしまった。|鯨波《とき》の 声をあげて、村内をあちこちへと追いまくっているうちに、 ついに天竜を泳ぎ渡られ、対岸に逃してしまった。切戸尾山 から、静かに這いくだる夕霜のなかに、太郎犬の毛並が、量 っと次第に消えゆくように霞んでゆく。今はこれまで、鴛然 と火蓋を切る猪打ちの数発。その硝煙の霧れ間には、ただも の悲しい裂声のみが残り、謎を背負ったまま、太郎犬の姿は 密林のなかに消えてしまった。  しかしその問も、部長の頭をめぐるのは、次の謎語であっ た。胆、質とは、胆の質を云うのか、それとも、胆を質入す ると云う意味か……。 三、太郎犬の首縄  天竜の瀬に轟く銃砲を最後に、この事件は迷宮に入ってし まった。実に、芳野の胆嚢を、太郎犬が食ったかどうかが勝敗 の岐れ目で、犬を逃し目標を失ったいまは、ただ悪鬼の冷笑 を背に感ずるだけであった。それに、塩尻の調査も徒労に終 って、竹田千代と云う、儀三郎の情婦の行衛も分らなかった。  ただ、今は時折思い出したように、オタケ婆さんの逮捕 を促しては、水久保巡査が上申書を送って来る。やがて、署 内の意見もそれに一致して、翌三十九年三月二十日の夜に、 小間木刑事は再び平出に向った。所が、翌日の十時ごろ朝日 村の駐在に着くと、意外にも、水久保巡査が血走った眼をし て、 「いや、小間木さん、わしは何とも仏に済まんことをしてし もうた。驚きなさるな、昨夜オタケ婆さんが殺されてしもう たのじゃ」 「なに、殺された。オタケ婆さんが:::」  しばらく、水久保巡査の言葉が、信ぜられなかったほどに、 それは小間木刑事にとって異常な衝撃だった。現に、押送の 任を托されたその老婆を、いまは自分が検屍しなくてはなら ぬ。しかし、その反面には気丈婆の死が、さしも濃い、迷霧 の一角を吹き払うことになった。  彼女も、首を斬られ、しかも、腹を十字形に切開されて、 そのうえ、今度も胆嚢がない。それには、いつかの太郎犬どこ ろか、周囲には鼠の足跡もないのである。分った、胆取りだ!  気丈婆オタケの屍体は、高徳寺から五町余りの距離にあ る、|字仏石《あざぼとけいし》と云う小山のうえにあった。それで、屍体を引き 摺ったらしい跡を逆に辿ってゆくと、やがて山を下り、高徳 寺門前の田の中に入り、それから畝をあがった、道路の中央 に吐潟物を見出した。すなわち、オタヶ婆は最初此処で首を 絞められ、それから仏石の大石のうえに運ばれて、前回どお りの庖丁をうけた訳である。 「小間木さん、こりゃやはり、胆取りですわい」 「そうです、それで困っているんですよ。これが、怨恨によ るとかあるいは流しの物奪りならいいのですがね。なにし ろ、目的物が人間の胆なんですから。それで、この界隈に癩 病患者はいませんかね」  癩と人間の生胆ー殊に迷信として、二十歳から四十まで の、婦人の生胆に奇験があると云われている。その云い伝え を因に、小間木刑事は癩患者を調べはじめた。所が、平出か ら山越しの、洗馬に一人あったのみで、実に四月にわたる、 痩骨の苦心も空しかった。そこで刑事は、飯田署に転じてい る、多田部長の意見を求めた。 「そう、落胆せずにいて貰いたいね。実は、わしの方にも、 その後思い当ったことがある。それは、例の太郎犬だがあの ときに首に縄切れが附いていたじゃたいか。ねえ君、あの犬 は狂犬だと云われていた。所が、その首玉に縄切れがついて いる……」 「むろん、不審ですが。私には徹するまでの、考えが出ませ んので」 「では、説明しよう。当時太郎犬は、川瀬の馬場水車附近に いた。するともし、犬を連れて、兇行現場にのぞんだとし て、し了せたあとで結び縄を解いたとしよう。分ったかね。 そうしたら、胆嚢を奪っても、それを犬に転嫁が出来る。ま た、途中もし血痕などを残したにしても、犬の帰り怜、とすれ ば、誰も疑うものはあるまい」 「ああ、では」 「そうだ。犯人は馬場水車の主、馬場勝太郎だよ」と云い切 った多田部長を、まだ小間木刑事は信じ切れずに見詰めてい る。「だから君、一まず癩病のほうは断念め給え。そして、 勝太郎を挙げて、思う存分に叩くんだね」  しかし:…・と、刑事は心のなかで、繰り返し反問を続けて いた。なるほど、馬場水車の主勝太郎ならば、いかにも成算 どおり、五尺ない小男である。けれども、彼の周囲知己の間 には、一人の癩患者もない。およそ、癩治療の目的をさて置 いて、他に、生胆の効用があるだろうか。胆か|質《しつ》かーあの 文字の、奥深い底の底に、真実ほんとうの、解決が潜んでい るのではないだろうか。  と半ば信じ半ば疑いながら、刑事は赤穂の分署へ戻って往 った。所が帰署して、いつものように留置人名簿に眼を曝す と、意外、その日の日附で、馬場勝太郎の名が読まれるでは ないか。 「アッ、馬場勝太郎。二十九歳、婦人暴行未遂……」  小説とちがって、実話は常に竜頭蛇尾に終るものである。 胆取り犯人は、果して部長の推察どおり馬場勝太郎だったの だ。次に、告白を記して、この実話と銘打つ一篇を終えるこ とにする。  ーこの数年、営業が思わしくなく、絶えず債鬼に苛まれ 続けていた勝太郎は、一日旧知の大阪生れの男に逢った。そ の男は、十年ほど前に、同村の長田増太郎方で働いていた男 で、勝太郎は、姓も名も知らぬのであった。  所がその男から、癩を療す生胆が欲しいと云うのを聴い て、即座に彼は百五十円の報酬で引き受けた。そして、第一 の武田方を襲ったのであるが、いざ胆を渡すと、その男の態 度が俄然一変したのである。勝太郎はあべこべに嚇されて、 意気地なくも告白文を書かされた。そして、金もわずか二十 円ほど渡されたに過ぎなかった。 (つまり、胆と云うも|質《しつ》と云うも、みな教わり教わり、勝太 郎が書いた告白書のなかの文字である。しかも、宛名を何と するかと訊くと、その男はカラカラと喧って、いいから、大 阪質屋様にして置けー。その質の一字に、部長も刑事も散 散に悩まされたのであった)  1次いで第二の殺人竹淵タケを終えると、やはりその男 は小額の金を渡し、今度は旧盆にまた遇おうから、そのとき は都合もするしもう一度頼むと云い置いて、男は大阪に発っ て往ったのであった。そして、三度目が九月の二日で、同村 字上平出の、岩垂キク(37)を狙ったのが運の尽きだった。 キクは有名な力自慢で、却って同女と、通行中の伊藤忠治郎 のために組み敷かれた。しかし、キクの抵抗が強く殺意を感 ずるまでには至らなかったので、単に、婦女子暴行未遂とし て、送られたのであった。  読者諸君は、読み終っても、多分犯人勝太郎の印象は薄い ことと思う。却って、天竜の瀬の音や、消える太郎犬に、物 語りらしい鬼愁を忘れ得ないにちがいない。