颶風グワムにあり 小栗虫太郎 「赤い闘牛」 號の一匹の|猛牛《プル》  わが南洋諸島中の、マリアナ群島の最南端に位する唯一の 米領である、グワム島の首府アガニアの軍港1。その、司 令部構内にある軍法会議法廷において、今しも一つの公判が 開かれようとしている。 「法廷成立」  会議補佐の候補生のひとりが、大声で場外にいい、左右に 手をふりながら遠い国旗桿の下にかたまっている、一団の水 兵になん度も合図をした。と、するすると星条旗がのぽって 行く。椰子や|鐵木《タガヤサン》の見あげるようた梢をぬきながら、やっと 桿頭にとまった旗を引きちぎらんばかりにしごき抜く……こ の烈風は、魔風季のまえ報せ。まい年、この八月末から九月 十月にかけ、いわゆる後季の雨季に入るとともに踊風がやっ てくる。  きょうも、「強風、|半《パ トリ》 |曇《  クラ》 り」の|気《ウド》象旗だ。 「おいおい、きょうの被告は|日本人《リヤツプ》だって云うじゃねえか」  国旗掲揚がおわると、ひとりの水兵がいう。 「そうだ、いつぞやナラの|岩礁《リ フ》で難破したチリー船のな、 『|赤《ト ロ ヴ》い|闘牛《エルメホ 》』号のたった一人の生存者だ。たしか名前を、 ヤツシロなんとかいう、|一《チ》等|運《 》転|士《フ》の日本人だよ。野郎め、 どうも軍人臭いってんで審判にかけられたそうなんだ」 「ふふん、じゃ野郎が、ここの防備をさぐりに来たとでも云 うのかね」 「うん、お偉がたの腹は、そんなとこらしいのだ、つまりだ な、なにしろ野郎は一等運転士なんだから……。わざとナム の岩礁にぐわんと船をぶっつけといて、もし助かったらここ へ|上陸《あが》ろうくれえの根胆を、きっと俺ア、していたにちげえ ねえと思うよ」 「なるほど、日本人ときたら、悦んで死ぬからな。それに、 日本人どもにとりゃこのグワムの島は、奴らの歯んなかにあ るムシ歯みてえなもんだから……」  いかにも、このグワムの島はムシ歯のようなものである。 位置もわが南洋諸島中のちょうど中央にあり……。かてて加 えてここは、ハワイ、ミッドゥェー島、ウェーキ島、フイリ ッピンをつなげる米海軍太平洋作戦に、あたかも襖の位置を 占めるがごとき|海上拠点《ネ ヴル べ ス》であり……しかもここ数年間中に高 度に要塞化され、いまは宛然浮城の観を呈している。  したがって今、この米軍島グワムはまったくの秘密境であ る。どこに軍用飛行場があり、どこに重油タンクがあり、ま た軍港アガニア港外の海図的明細はもちろん、はるか領海外 の暗礁の端くれにいたるまで、1すべてが米海軍の厳秘中 のものにた…っている。 だから、国際規定の「三マイル領海」のごときはこの島で は通用しない。絶えず、空に海に哨戒艇が飛び涯び、いっさ いこの島の周囲十カイリ以内には、いかなる外国船の接近を ゆるさず寸分の窺覗の余地もない。それを|強《し》いて冒そうとす ればどういう報いがあるかということは、今更ここに明記す ることもないであろう。  そうしてまた、ここは|汎《はん》アメリカン|航空《トラン》の|太平洋横断《ス パシフイツク》空 路の|発着地《ステ シヨン》。じつに、軍事に経済戦にわが大領海「南洋諸             やとり齢 島」中にあり……さながら寄生木のごとくムシ歯のごとき存 在になっているのが、この米海軍の秘密港グワム島なのであ る。 「だいたいお前、まい日、汗水たらして俺たちが|哨戒《パトロ ル》をや る。それを野郎みてえな奴に安直に覗かれた日にゃ、なんで 苦労するんだか分らなく宏るじゃねえか。ねえ、大金を払っ ているボーイング|横断旅《クリツ》客|機《 》のお客さんだって、この島に近 附くと|遮蔽窓《ブヲインド》をおろされる。暑いなかでフウフウ云っている うちに、こっそりアガニアの|蕾港《オ ルド ハ バ 》におろされるんだ。あ すこじゃ、|船渠《ドツク》の音も聴えねえし、たにも見えやしねえ」  その最中、法廷では宣誓が済み、主理が立ちあがり告訴状 の朗読を終えた。その左には、日本人八城慎太郎が自若たる 面持で、腕をこまねき、黙然と判士長をながめている。  その、海風をきるマドロスの壮年美。むしろ、彫塑的とも いいたい精桿な横顔と、この期におよんでも動じない不敵な 面魂をみた眼では、いまこの男が裁かれる身であることを、 思うものは一人もないだろうと思われる。  そこへ判士長が、いま読んだ告訴状の事実を被告はみとめ るや、それとも、然らざるやと八城にたずねると、 「そりゃね」と、彼はぶっきら棒に云い出した。 「よしんば私が認めないと云ったところで、おいそれと承知 するような貴方がたでもないでしょう。一国の機密のなかへ 迷いこんだが災難と、とうに私は|断念《あきら》めきっているんです よ」 「では、告訴状の事実を被告は認めるのであるな」 「と仰言るのは、どんなことですね」 「よく聴いておれ。  当司令部において、日本軍人と推察する被告八城は、当軍 港の秘密防備をさぐろうがため海難に名をかり:-・、このた び潜入したものと認める。チリー国籍の貨物船『|赤《ト ロ ヴ》い|闘牛《エルメホ 》』 号の遭難は、同船の一等運転士なる被告の故意の措置により .:.o  すなわち被告は、生死を賭して潜入を企てたものである」 「ハッハッハッハ」と、いきなり八城が豪快な笑い声を立 て、 「海難に名をかり……、また、いま仰言った何といいました かね、そうそう、一等運転士なる被告の故意の措置により ーなんどとはいやはやデモクラシーも呆れたものじゃない ですか。どう理窟をお附けになろうとも、それは御自由です が・:・、しかし、意志にない事、事実なかった事だけは、飽 くまで、ない、なかったと|云《フフフフ フ》うほかにはないのです。  それにです。僚友二百五十を海底に葬ってまで己れの目的 を遂げようなどという|海員《マドロス》は、おそらくわが日本には一人も いないだろうと思います。さような精神をお|承弁《わきま》えない判士 長どのであればこそみずから問わず語らずのうちに己れを露 わすものと、推察いたします」  しいんとなった。その沈黙の間に海鳴りが聴え、はげしい 鹸風とともに横榔の花粉が舞ってくる。  陽がかげり、また照りだした。白壁と判士たちの白服がき らきらと閃きかわすこの室に、よりも純白な、よりも荘厳 な、しかもおそろしい精気が裁かれようとするこの男の、全 身をつつみ、圧倒されんばかりに感じてくる。 二 秘密防備をこの眼で見たなれど  八城は云った。 「判士長、あなたも海員の一人でありながら、|河童《かつば》の世界を 御存知ない。われわれ河童には暗礁も避けちゃくれんし、風 も待っちゃくれん。ただ自然の摂埋にまかせ、生れながらの 感情で生活をする。  友情と、相互扶助はわれわれの信仰であり:…また|於持《ほこり》で もあり生命の全部でもある」  と云うとちょっと口を閉じ、なにか感慨ぶかげな顔で、窓越 しに海のほうをみる。その、船渠のむこうにみえる、濃紫藍 の水平線。それが、荒れに荒れたあの運命の夜、「赤い闘牛」 号を海底ふかくに呑んだのだ。  その夜を思ってか、八城はくわっと激したようになり、 「貴方がたは、わが『赤い闘牛』号が発した無電を知ってい ますかッ。危急に瀕す、至急本船前面の海面に探照燈を向け られたしーと打ったんだ。グワムはすぐ、ほとんど北東端 から四、五カイリのところだった。それに干潮だ。あのと き、暗礁という暗礁は海面に露頭をあらわしている。それを 照らしてもらえば、どんなに助かることか。騎そらく、今時 分はブリスベーンに着いていたでしょう。ところが、グワム からはなんの音沙汰もない。照射はおろか、返信もない。く そっ、海の仁義を知らねえ何て奴だと思ったとき、ぐわん と、ナムの暗礁の衝撃にあれは投げだされたんだ。  われわれ海員には、いや、貴方がたをもふくめる広義のマ ドロスには……海の不文律なる、仁義というものがある。よ しんば、要塞地帯にもせよ、難行中の船の救援に、外方をむ くなんて事は、絶対に許されることではない。多分、面倒の 種だから拠っとけぐらいのところで……。それが二百五十の 命を、魚腹にくれちまうことになったんだ。だから、判士長、 貴方がたのほうですぜ。故意の措置云々の遭難の責任は、む しろ一等運転士の私よりも、貴方がたのほうにある」  判士長をはじめ、唖のように黙っている。この人だちに、 あの遭難の夜の責任はないにしろ……しかし、直接のものは ないにしても、連帯の面映ゆさ。一々、八城の言葉が痛いと ころを衝いてくるのである。 「だからです」と、かれは最後に沈痛な声でいった。 「告訴状の事実は、全面的に否定する。しかし、御処置の点 はいかなるものも甘受する。この、一介の不定期船乗りが愛 国者として死ぬ! じつに名誉であり、得難い運ですよ」  いわゆる、胆斗のごとしとは、このことを云うのだろう。 判士長をはじめすっかり呑まれたようになり、まず第一回の 公判はこれまでと云うことになったのだ。判士長は立ちあが って、閉廷を宣し、 「被告人退廷、国旗降下」 と命令した。  総員起立。ただ、八城だけが平然と坐したまま。すると、 国旗降下がおわって一同が座につくと、今度は彼ひとりが立 ちあがり、はるかに北へ向き、います御一人に恭々しい礼を したのである。  それから、護送兵とともにながい廊下をゆくうちに、ちょ いちょいこの軍港の極秘のものが眼に映ってくる。R級の、 |沿岸潜水艦《コ スタル》ーそれが十四、五褒ほど|縄《も》やってあるのが見え たり、埠頭の地下の水上機の格納庫や、重油タンクの位置も すぐ地図に作れそう……。  しかしこれは、こうしたものを公然と見せる以上は、すで に彼の運命は決したものと見なければならぬのだ。いずれ、 遅かれ早かれ死がくるであろうが、それを思うとさすがの彼 も、暫しのあいだ胸せまるような気持になる。と、そのと き、護送兵の指揮の候補生がそっと彼に曝いた。 「御立派でした。小官も、さっきのあなたの態度には感激の ほかはありません。あれが、日本軍人精神の真髄とでもいう のでしょう。どなたです? こっそり、僕だけにお洩らし下 さいませんかね」 「知ってるでしょう」と八城は呆れたように、相手を見、 「たかが、一介の|不定期貨物船《トラムプ フレヨタ 》乗りですよ。窮屈な、杜船に はいられないような奴なんで……。マア、七つの海の無宿者 みたいな男です」 「御冗談を」 「冗談にもなんにも、それだけじゃないですか」 「いや、たしかに貴方は、名のある方でなくてはならん。わ が|海軍兵学校《アナポリス》の先輩、|提督《アドミラル》ヤシロの御令息でも……」 「ハハハハハ、あれは、八代、僕は八城という片々たる無名 人ですからね」  と云ったが、すうっと笑いが引っこんだ。次回の公判を決 定的なものにするために、どうやら此奴、判士長に頼まれた た。爵れを、感激がてらにうまく誘導し、たんとか隠してい る身分を吐かせようというのだろう。が、さてさて、そう思 って貰うのは光栄であるけれどーと、さすがの八城も櫟っ たいような気持になってくる。  けれど今はもう遁れる道もなく、よしんば遁れたにせよ、 ここは敵地の孤島、ぐるりは蟻の海。とうに彼は、断念め切 っていたのであるが……。  軍港アガニアの背後にある|茅《かや》だらけの荒蕪の丘が、「|巨人《セロ デ 》 ロス・ヒ以ントネス 女の丘」という名で、監獄がある。  監房は、旧スペイン領当時からの占い石積で、採光のわる いじつに陰気な部屋である。そして一枝、|檸檬《マラザル》の小枝が高窓 からさし込んでいる。それが、このうす暗いなかのたった一 色なのであった。  かれは、終日そのなかにあって或いは暑熱にうだり、観念 してみたり遁れたいなと焦ったり……。 「畜生め、みすみすこの秘密防備をこの眼でみながらも……。 また英領マキン、アベママの諸島に給油所設置のことを聴き ながら……せっかくそんな宝をだきながら、死ぬとは情けな い。一度?、そうだ、たった一度でいい。なんとか、祖国の 要所にこれを伝える方法が……」  しかし、鉄扉はかたく、どうにもたらないことである。か れは、脱出はもう絶望と観念し……またすぐその下から、こ こで、犬死してはと、奮いたってはみるがなんの手段もうか ばない。おもたい涙が止め度なく流れてくる。眼に、なつか しい顔や故郷の風物がちらついて、ことに深夜眼醒めたとき のその哀れさといったら……。 「死にたくない」 と、かれは涙をたがし髪の毛をかきむし り、まるで濫の中の獣のように部屋中を歩きまわりながら、 声はたてぬが狂気のようたその叫び。 「死にたくない。おれは飽くまで、死んではならないと思う のだ。そりゃ……、いかに恐いもの知らずの俺だって人間で ある以上、生への執着は致しかたないと思われる。  しかし、いま俺はそれだけでは叫ばない。  おれが、ここへ落ちこんだことは大変な不運だが、それ も、考えようによれば少しも嘆くには当らない。かえって、 母国の神がおれを見立てたようにも思われる。この秘密港を さぐる千載の好機を与えられーと、おれは聖なる本分のよ うにさえ感じている。  そうだ。おれは万死中一生を得なければならぬのだ。絶体 絶命の境地に奇蹟を発見し、おれは、祖国に資せんがためこ の島を脱出し、なんとか、ここの秘密防備のさまを伝えねば たらぬ義務がある。義務ロ いや、義務ではない、日本人の 本分だ」  と、かれは気力を奮い立たすのである。絶望であろう。し かし、最後の瞬間まで希望を保とうと努力した。ーまた、 時には甘い回想もくる。 「ヤスジ」と、  鉄窓なりの影を落している床の月光を見つめながら、かれ は、じぶんを助けてくれたチャモロ族の酋長の娘、ヤスジを たつかしそうに呼ぶことがある。 三 珊瑚、 赤い賜 生† 地上に花を開く 号が沈没した、翌朝のことだった。  コルクをばら撒いたような破片がうかぶ、嵐のあとの海、 浜の、|泥樹林《マングロ プ》から突きでている塗礁のうえをゆきながら、ヤ スジは、まい朝の日課の|烏賊《いか》刺しをやっていた。と、ふと、 礁間にはさまっている、血だらけな一人の男。それが、八城 で手当の甲斐もあり、数時間後にやっと蘇生したのであっ た。  それから、彼はすっかり元気附くまでヤスジの家にいた。 カナカ族にくらべれば相当文化度のたかい、チャモロの酋長 の家は、作りこそ土民風であるが、なかにはピアノもあり、 教育をされ、|服装《なり》もながい|西洋儒絆《シユミさズ》のような小ざっばりした ものだった。  それが、ヤスジの瑚排色の肌とひじょうによく調和する。 祖母がメキシコ人のせいか洋風の顔立ちで、その、濃オリー ヴの|縮《フリツジ 》れ|毛《 へ ア》のうつくしさ。豊醇な脂肪層がえがく腰へかけ ての線の微妙さは……まさに南海の精、地上の花珊瑚ロ  八城は、この娘とはすっかり仲良しになり、すべて看護か ら身の廻りの世話にいたるまで、ヤスジ一人が取り仕切って やっていたのだ。 「出てみませんか。すこしは無理でも、お慣れにならないと ・::」  松葉杖を除った、あくる日の午。ヤスジは、八城を塗礁の ほうへ誘ったのである。  沖は、濃紫藍のうつくしい帯をはり、いま散在する島々や 雲一つないその下は、水平線の賓隆がくっきりと盛りあが り、万物熱射下に眩まんばかりな晃擢だ。 「危ないですわ。まだ、お手をとらなけりゃ、いけないのか も知れませんわね」 「大丈夫です。いつまで、手をとられていたんじゃ、自信が つきませんからね」  八城は、大きく息をした。  百尋下まで透きとおるかと思われる|緑玉色《エメラルド》の海中は、百花 の触手をひらいている、珊瑚轟の大花園。三尺もあるような 大ナマコがのたくり、ベラや|半月魚《ハ フ ム ン》というながい鎌鰭のあ る、うつくしい魚が礁間にひらひらと。 「もう、あなたとも大分馴染になりましたわね」と、暫くし たころヤスジが云いだした。 「でもまだ、貴方がほんとうにどう云う方なんだか、ついぞ 私、一度も伺いませんでしたわね」 「海員です。それも、実にしがない奴ですよ」 「ほんとう?」とヤスジが覗きこむような表情になり、 「お役所の人たちは、貴方はきっと軍人だろうと云っていま すけど」  それを聴くと、八城はハッと不安になったのだ。今まで漠 然とあったものが急に形をしたように、覚悟、観念ありとは いえ、あまり気味よいことではない。軍港関係のものが俺を 軍人だというようじゃ、おそらくこの島を永遠に出られま い。と、かれは急に窮った顔になったのだ。  礁脈とならんで、海鳥が群れている。ヤスジはそのほう を、眩しそうに見ながら、 「外国の軍人さんは、この島では大の禁物だそうですの。で も、日本のような大きな国の方はただ調べられるだけで、な んの事もないと云いますわ」とかの女は|邪気《あどけ》なさを現わし て、朝まだきの微風をスイスイと吸りている。 「この風は北東貿易風ですわ。これに乗ってゆけば、.ハラオ ヘゆかれるでしょう」 「ああ、パラオヘね」と、ふと、八城も釣られたように云っ たのである。するとヤスジの顔が急に大人びて、 「ゆきたいロ もうあなたは、帰りたいのね」 「どんな意味でも……、会ったものには別れがありますよ」 「じゃ、何時つ・・」というと同時にヤスジのからだが、ちょっ と|鎗践《よろめ》いたように男の胸に|雪崩《なだ》れると、また、その一瞬後に はサッと跳びすさり、かの女は眼を伏せ荒い呼吸をはじめた のである。  八城は、いまヤスジが自分にどんたことを考えているの か、その時はっきりと知ったのである。そしてそれも、いま は昔の遠い夢のよう……。かれは、ヤスジの記もかげを獄窓 裡にしのぶ身になったのだ。  と、第一回の公判があった数日後のことである。ふと彼 が、ヤスジに関連して、気が付いたものがあったのだ。  まい日、高窓から差しこんでいる檸檬の花に、蜜蜂がわん わんとくる。そして、その飼養所はこの島ではヤスジの家以 外にはない。  彼は、それに気付くと同時に一つの事をかんがえた。 「あの蜜蜂で、ヤスジとのあいだに通信ができないものだろ うか。巣へ帰ったところをうまアく見付けてくれさえすれば ……、この監房の位置も、俺がどうなるかと云うことも伝え ることが出来るんだが……」  そうして彼はひじょうな苦心ののち、花房へきた一匹の蜜 蜂をつかまえた。それに、次のように書いた紙片をつけて、 放したのである。  いま、「|巨人一女《セロ デ ロス ヒガン》の|丘《トネス》」の監獄にいる。 枝が差しこんでいる、窓を見当に…… 獄房は、|檸檬《マガザル》の Y  よ  り 「見付けてくれ。むろん、それが届いたところで、どうなる ものでもない。だが、だが、潤いにはなる」  八城も、そういう以外にはなんの期待ももてなかったので ある。しかし、日一日と経つが、なんの便りもない。公判も ないし、無蓼の日々が続いた。 「やはり、駄目だった。蜂めが落してしまったか、それとも 届いたか。おれに、触れるのが怖ろしさに、便りを寄越さぬ か」  すると、その蜂便りのことも薄らぎかかった頃である。そ の日は終日要塞砲の射撃があり……ずしんずしんと、この獄 房を地震のように揺っていた夜。それまで、公判がたかった 意味が、おそろしい現実となったのだ。  暁がた、扉がひらかれると典獄を先頭に、カトリックの教 講師をはじめ、ぞろぞろっと入ってくる。八城は、ある何事 かに気が付いて、ハッと跳びおきたのである。 「今暁、いよいよ君ともお別れしなければならぬことになっ た」と典獄が言葉短かに云うのである。ついに、公判省略の 意味がはっきりと分ったのである。  それから、八城をかこんだ一小隊の兵が、ながい廊下を黙 黙とあゆんでゆく。やがて、構内のはずれの煉瓦塀の区劃の なかにいり、海を見晴す塀際に立たされた。  いよいよ来たーと、ただ八城はそれのみを感ずるだけ。 もう、悔もない。怖れもない。死の直前にみるという、幻影 さえもうかばない。やがて、とおく彼の前面に執行分隊が整 列する。それも、まだぼやっとした影絵のようにしか見えぬ のである。が、そばへ典獄が寄ってきて、 「|彌撒《ミサ》は」 「断わる」 「では、なにか云い遺したいことは」 「私が以前泊っていた、ラディネのチャモロの酋長の娘、ヤ スジによろしく云ってくれ。おれは、死ぬのはなんでもない が、まだ生きられぬのが残念だーと」 「よろしい」と、典獄はしげしげと彼をながめていたが、 「小官は、あたたの誇らしげな態度に驚嘆する。いま、日本 人を敵とする怖ろしさを、はじめて感じたよ」  その八城の最後のときー。ふと彼は蜂便りのことを思い だしたのだ。溺れるものは藁をも掴むというが、どうやら、 俺もあれに期待をかけていたらしい。笑止なことだIlと、 末期にうかぶのはその苦笑のみだったのである。やがて、指 揮者の剣がサッと曙光にひらめくと、その一隊の兵が銃尾を 肩にした。 「打て」と、かれは釦をかきむしり、胸を露わにはだけた。  そのとき、水平線を焦がして、壮麗な朝焼けがはじまっ た。が八城は、その曙に蜂巣のように射抜かれたのである。 四 黒 い 独力 木イ 舟プ の 帆  夢だった。からだ中が、しぼるような汗だった。しかし、 夜半の夢は逆夢というではないか。と、こんな境遇にいれば 御幣かつぎにもたり、また暫くわすれていた蜂便りのことを 思いだす。  と、それが来た。あくる日、窓からブウンと飛びこんで来 たものがあったのだ。 「オヤッ」と、拾いあげたのが、一つの実。まだ半熟の|洋燈《コロボオ》 の実が一っ。 「ふうむ、石投げ器を使ったな」と、見れば果皮に字が書い てある「食え」1と、簡単ながら唆るようたその言葉。 「食えロ はて、これを食えとは、どういう意味か」と、 しばらく|摸索《きふムフ》ぐるようにその洋燈をみていたが、どうにも、 ヤスジの意思が奈辺にあるのか分らない。かれは、夜更けに なって、その洋橿を食べたのだ。  すると間もなく、八城の身心におそろしい変化が起ってく るo 「開かるぞ、開かるぞ」と、鉄扉をにらみながら、狂った ように叫びはじめた。しかしそれが、続いて動作となった時 は、さらに欄めなものだった。ずしんずしんと皮を裂きなが ら、扉にぶつかってゆく。やがて、衛兵総出で寝台に縛りつ けたのである。 「なア、おい、どうしたんだろうなあ」と、日頃の八城の糞 落着き加減を知るものは、このとつぜんの狂乱に云う言葉さ えないのだった。 「そうだとも、この大将ときたら怯付きもしねえんだから ・…。それが、こんなようになるとは、じつに分らねえ。オ ヤッ」  と、ひとり兵が寝台に馳せよった。驚いたことに、八城は だんだんに蒼ざめてゆく。脈もかすかに、呼吸も浅く、爪や 唇にはチアノーゼが現われている。 「オイ、医務室だ」と、軍医を呼びに、バタバタっと駈けて ゆく。八城は、その夜暁方ついに死んだのである。今度は、 夢ではない。まさしくの現実だ。 「分らん」と、ただ軍医は首をひねるのみである。ほんの、 形式ながら死亡診断が要る。それで、ペンをとったが、どう にも分らない事務の下士官はその事情を知らぬので、 「軍医どの、ただほんの形式だけでよろしいのです」 「じゃと云ってだよ、わしに死因が分らぬということは、格 式にも係わるからな。あれは、なにも知らん医者だーなん どと云うことをきっとお前等が触れ散らすだろう」 「御冗談を」 「だが、いっ葬るね」 「また、髄風がくるようで、早目にしたいと思います。今 夜、マリキョクの丘に埋めようかと思いますが」 「よかろう」  また、髄風がくる。空には、紅味に染んだ鳥のような雲が 飛んでいる。風は、南西々の湿熱風となり、すべてに崩れよ うとする天候の威嚇が、天地をおそろしげに覆うてきた。 と、夜、棺をのせた水牛車が門をでた。  多孔性の、珊瑚岩の道をごろごろとゆくうちに、したに椰 子園がみえる石灰岩の丘にたる。そこに、八城の棺は確実に うめられた。いや、埋められようという、一瞬まえのことで ある。 「あのう、騎願いがございます」と、野性の|黒柿《バツドリきル》のかげか ら、まっ白なものが飛びだした。 「おい、なんだ。嚇かすない」と、一度は怒鳴ったが、見れ ば女だ、それもグワム全島に聞えたラディネ・チャモロの酋 長の娘、ヤスジであるのを知ると俄然やさしくなって、 「おい、ネエちゃんや、惚れた腫れたの山道通いとでも云う のなら俺はなにも訊きアしねえがね。しかし、夜、こんなと ころに何をしてるんだ」 「あのう、そこにあるのは、記棺ですわね」 「そうよ」 「どなたので御座います」 「えっ、なんてえ気味の悪いネエちゃんだ。だが、お前、な ぜ訊くんだね」 「それ、まえ私の家にいた、日本人の方ではないですか。八 城さんがお残りになったそうですけど」 「うん、マア云や、そんなようたもんだがね。しかし、これ にネエちゃんはなんの用がある?」 「お別れしたいのです。僅かな間でも、御縁ですものね」 「そうかい。義理固えんだか、惚れやがったんだか知らねえ が、マア、ネエちゃんのことだし、会わせてやろうかね。い いかい、ぜひこれは恩に着てもらうよ」  蓋がとられて、灯りが向けられた。一沫の鬼気漂うなか、 穏かな死相のうえに、しばらくヤスジの顔が停まったよう に、落ちている。 「サアサア、得心がいったら、騎終いにねがいますよ。けえ っ、お前、泣いてるじゃねえか」 「|理由《わけ》があるんです」 「へえん、色っぽい理由なんざア、聴きたくもねえ。だが、 くれぐれも云うが、恩に着てくれよ、こりゃ、俺らでなけり ゃ、計えねえことなんだから」  やがて、水牛車がごろごろっと動きだす。ヤスジは、どう した訳か、そっとその跡をついてゆく。          X  ときどき鍬をやすめ、ヤスジはなん時間と掘っている。ち ょうど埋められた棺の真上のあたりを……。と、それから間 もなくのことだった。掘りだされた八城がヤスジの腕のなか で、ふうっと世にもふしぎな蘇生の息を吐いたのである。 「あっ、ヤスジ。それに……此処はどこなんだ」  監房内ではない。風荒い夜とはいえ、広潤なる大気のなが れ。おれはおれは一体どうなったんだろうと、詔かる八城に ヤスジがいった。 「私よりも、あなたのお国の神さまに感謝なさいまし。こ の、グワム防備の秘密をにぎった世界に一人の貴方を、なん でお国の神さまが殺すようなことをなさいましょう。世界の 神なる日本の大神が、きっと私という女をお見立てになった. のだろうと、思います」 「有難う。あなたになんと感謝していいか……」 「私は、あの蜜蜂の手紙をみて、しばらく泣いていました の。でも泣いているんでは、なんの事にもなりません。あな たをお救いして、このグワムから逃がさなければ……」 「僕は、逃げられる」と、八城は悦びに泣きだした。 「それで、思いついたのは、コホバの粉なんですの。ハイチ 島や、アマゾンにあるこの|合歓《ねむ》科の木の種は、粉にして嗅ぐ と、大狂乱になるんです。むろん、飲めば仮死状態にたりま すわ。で、それを仕込んだ洋燈を石投げで拠りこみ、どうか 食べてくれるようにと、一日中祈っていましたの。つまり、 一時あなたは、生きるために死んだのです」  その翌夜、近附く魔風の海へ、八城がのり出した。海は荒 れに荒れ、一面の波がしら、まるで羊の群のように波の頂き が、叢をふりたて、岸辺に疾駆してくる。哨戒を、外すため のまっ黒な帆。左右に両腕のついた、一隻の|帆《カ》走|用《イ》独木|舟《プ》。 この、南西西風にのれば一日の航走で、かれは日本領ロータ 島に着くのである。 「じゃ、ヤスジ、丈夫で」と、さすがの彼もオロオロ声でい うのである。ヤスジは、舟を押しながら胸の辺まで水に入り ながら、 「貴方も・:…。それは、偶には思いだして下さいよ。グワム 島にこのヤスジがいると云うことを……。たまには、思いだ して下さいね」  独木舟は出た。哀愁のグワムから希望の日本へと、防備の 秘密をのせた片舟が波を蹴る……。