後光殺人事件 小栗虫太郎 1 合掌する死体 前捜査局長で目下一流の刑事弁護士である|法水鱗太郎《のりみずりんたろう》は、招かれた精霊の去る日に、新 しい精霊がなぜ去ったかーを突き究めねばならなかった。というのは、七月十六日の朝、 |普賢山劫楽寺《ふげんざんニうらくじ》の住職1というよりも、絵筆を捨てた|堅山《けんざん》画伯と呼ぶほうが著名であろう がーその|鴻巣胎龍《こうのすたいりゆう》氏が奇怪な変死を遂げたという旨を、|支倉《はせくら》検事が電話で伝えたからで ある。しかし、劫楽寺はかれにとってぜんぜん未知の場所ではない。法水の友人で、胎龍 と並んで|木賊《とくさ》派の|双壁《そうへき》と唱われた|雫石喬村《しずくいしきようそん》の家が、劫楽寺とちょうど垣一重の隣にあって、 二階から二つの大池のある風景が眼下に見える。それには造園技巧がないだけに、かえっ てもの|鄙《ひな》びた雅致があった。 |小石川清水谷《こいしかわしみずたに》の坂を下ると、左手に|樫《かしは》や|榛《しばみ》の大樹が|欝蒼《うつそう》と繁茂しているその高台が 劫楽寺だ。周囲は|桜堤《おうてい》と丈余の|建仁寺垣《けんにんじがき》に囲まれていて、本堂の裏手にはこの寺の名を高 からしめている|薬師堂《やくしどう》がある。胎龍の死体が発見されたのは、薬師堂の背景をなす杉林に 囲まれた荒廃した堂宇の中であった。 三尺四方もある大きな敷石が本堂の横手から始まっていて、薬師堂を|卍形《まんじがた》に曲がり現場 にまで達している。堂は四坪ほどの広さで、|玄白堂《げんばくどう》という|蒙額《てんがく》がかかっているが、堂とは 名のみのこと、中には板敷きもなく、入口にもお定まりの|狐格子《きつね ごうし》さえない。そして、残り の三方は分厚な六分板で張り詰められ、それを二つの大池を|繋《つな》ぐ池溝が|馬蹄形《ばていけい》になって取 り囲んでいる。さらに堂の周囲を説明すると、池溝は右手の池の|堰《せき》から始まっていて、そ れが堂の後方を過ぎて馬蹄形の左辺にかかる辺りまでは、両岸が擬山岩の|土堤《どて》になってい る。樹木は堂の周囲にはないが、前方に差し交わした杉の大枝が|陽《ひ》を遮っているので、早 朝ほんの|一刻《いつとき》しか陽が|射《さ》さず、周囲は|苔《こけ》と湿気とで深山のような土の|匂《にお》いがするのだった。 細かい|砂礫《されき》を敷き詰めた堂の内部には、|蜘蛛《くも》の巣と|煤《すすし》が|鍾乳石《ようにゆうせき》のように垂れ下がってい て、奥の暗がりの中に|色泥《しきでい》の|劔《ま》げた|伎芸《ぎげい》天女の等身像が、それも白い顔だけが不気味な生 なましさで浮き出していた。それに石垣にあるような大石が、天人像近くに一つ転がって いるところは、ちょうど|南北物《なんぽくもの》のト書とでもいったところで、それがなんとも言われぬ鬼 気なのであった。 法水の顔を見ると、支倉検事は親しげに目礼したが、その背後から例の野生的な声を張 り上げて、捜査局長の|熊城卓吉《くましろたくきち》がその脂ぎった|短躯《たんく》をのっしのっし乗り出してきた。 「いいかね法水くん、これが発見当時そのままの状況なんだぜ。それが分かると、ぼくが わざわざきみをお招きした理由に合点がいくだろう」 法水は努めて冷静を装ってはいたが、さすが心中の動揺は覆い隠せなかった。かれはひ どく神経的な手つきで死体をいじりはじめた。死体はすでに冷却し完全に硬直してはいる が、その形状はさながら怪奇派の空想画である。大石に背を|兜《もた》せ、両手に数珠をかけて合 掌したまま、沈痛な表情で奥の天人像に向かって端座しているのだ。|年齢《とし》は五十五、六、 左眼は失明していて、右眼だけをかっと見開いている。|灯芯《とうしん》のような|身体《からだ》の身長がせいぜ い五尺あるかなしかだが、白足装を|穿《は》き|紫欄《しらん》の|袈裟《けさ》を着けたところには、さすが争われぬ |貫禄《かんろく》があった。創傷は|顔頂骨《ろちようニつ》と前頭骨の縫合部に空けられている。円い|塾型《たがねがた》の刺傷であっ て、それが非常なおでこであるために|頭顔《とうろ》のほぼ円芯に当たっていた。創傷の径は約半セ ンチ、創底は|頭蓋腔《ずがいこう》中に突入していて、周囲の骨には陥没した骨折もなく、砕片も見当た らない。創傷を中心に細い朱線を引いて、蜘蛛糸のような|裂《れつ》が縫合部をうねり走っている が、いずれも左右の|襖状骨《けつじようこつ》にまで達している。そして流血が|腫起《しゆき》した周囲を塗って火山型 に盛り上がり、凝結しているところはさながら|桜桃《さくらんぽ》を載せたアイスクリームそっくりであ るが、それ以外には外傷はもちろん|血痕《けつこん》一つない。のみならず、着衣にも汚れがなく、|襲《ひだ》 も着付けも整然としている。泥の付着も地面に接した部分だけで、それもきわめて自然で あり、堂内には格闘の形跡はおろか指紋はもちろん、そのほかのいかなる|痕跡《こんせき》も残されて いないのだ。 「どうだい、この死体は実に素晴らしい彫刻じゃないか」 と熊城が、むしろ挑戦的な調子で言った。 「どこからどこまで不可解ずくめなんて、ぴったりときみの趣味だぜ」 「なーに、驚くことはないさ。新しい流派の絵というやつは、とかくこういったものなん だよ」 擬山岩の土堤 右手の池へ 堰 日和の跡、 像●● 人体●● 轟新離占石 大石□敷 □ □□ 玄白堂付近 ◇ ◇ 左手の池へ 法水はやり返して腰を伸ばしたが、 「だが、妙だな。この像の右目だけが、盲目なんだぜ。 それに像だけに|埃《ほ り》がついていないのは、どうしたとい うものだろう」 と|眩《つぷや》いた。 「それは被害者の胎龍だけが、しげくこの堂に出入り していたというからね。たぶんその辺に原因があるに 違いないぜ。それから、今朝八時に検死したのだが、 死後十時間以上十二時間という鑑定だ。しかし、傷口 の中に|羽蟻《はあり》が二匹巻き込まれているところを見ると、 絶命は八時から九時までの間と言えるだろう。昨夜は そのころに、羽蟻の猛烈な襲来があったそうだよ」 「すると、凶器は?」 「それがまだ見つからんのだ。それからこの|日和下駄《ひよりげた》は、被害者が履いていたのだそう だ」 堂の右端にある敷石から、そこと大石との間を往復している|雪駄《せつた》の跡があって、もう一 つその右寄りに、二ノ字が大石の|側《そぱ》まで続いているのだが、日和下駄はそこへ脱ぎ捨てら れてある(前ぺージの図を参照されたい)。その問、検事は日和下駄の歯跡の溝を計ってい たが、 「どうも、体重の割には溝が深いと思うが」 「それは暗い中を歩いたからさ。明るい所と違って、とかく体重がかかりがちになるから ね」 と法水は検事の疑念に答えてから、なんと思ったか巻尺を足下の辺で縦にすると、それ がころころ左手に転がっていく。かれはそれを無言のうちに眺めていたが、やがて熊城に、 「きみは、殺人がいったいどこで行われたと思うね」 と|訊《たず》ねた。 「歴然たるものじゃないか」 熊城は異様な所作に続く法水の奇問に、目をぱちくりさせたが、 「とにかく見たとおりさ。被害者は日和を脱いで大石に上がってから、やんわり地上に下 りたのだ。そして雪駄を履いた犯人が、背後から凶行に及んだのだよ。しかし死体の形状 を見ると、むろんそれには破天荒なメカニズムが潜んでいることだと思うがね」 「メカニズム?」 検事は熊城らしくない用語に|微笑《ほほえ》みかけたが、 「うん、確かにある」 と|頷《うなず》いて、 「その一部が死体の合掌さ。あれを見ると、絶命から硬直までの間に犯人がよほど複雑な 動作をしたとみなけりゃならん。ところが、そんな跡はどこにも見当たらないときてみん だ」 法水はそれにはべつに意見を吐かなかったが、ふたたび死体を見下ろして頭に巻尺を当 てた。 「熊城くん、帽子のサイズで八インチに近い大頭だよ、六十五センチもあるのだ。むろん 手近の役には立たんけれども、とかく数字というやつは推論の行き詰まりを救ってくれる ことがあるからね」 「そうかもしれない」 熊城は珍しく神妙な|相槌《あいづち》を打った。 「場所もあろうに、頭のてっぺんに|孔《あな》を空けられて、それでいて抵抗も|苦悶《くもん》もした様子が ないなんて。こんな分からずずくめの事件には、ひょっとするとこくつまらないとこ ろに解決点があるのかも分からない。ときにきみは、手口に何か特徴を発見したかね?」 「たったこれだけのものさ。1|尖鋭《せんえい》な璽様のものが凶器らしいが、それも強打したので はなく、わりあい|脆弱《ぜいじやく》な縫合部を|狙《ねら》って|錐揉《きりも》み状に押し込んだというだけだ。ところが見 たとおり、それが即死に等しい効果を上げているんだ」 意外な断定に二人は思わず、あっ!と叫んだが、法水は微笑みながら注釈を加えた。 「その証拠には、尖鋭な武器で強打した場合だと、周囲に小片の骨折が起こるし、傷口が かなり不規則な線で現れる。ところが、この死体にはそれがない。のみならず、糸のよう な|亀裂《きれつ》の線が襖状骨にまで及んでいるのや、傷口がほぼ正確な円をなしているのを見ても、 この刺傷が瞬間的な打撃によるものではなく、相当時間を費やして押し込んだーという ことが分かるよ。それから、頭蓋の縫合線を狙うとい・?1ーきわめて困難な仕事を成し遂 げたということも、一応は注目していいと思うね」 「それならなおさら、苦痛の表出がなけりゃならんが」 検事は|固唾《かたず》を|呑《の》んで法水の言葉を待ったが、その時別人のような声で熊城が遮った。 「ところで、きみに最後の報告をしておこう」 とかれは、驚くべき二人胎龍の事実を明らかにしたのである。 「信じる信じないはきみの判断に任すとして……実は細君の|柳江《やなえ》が昨夜十時ごろに、薬師 堂の中で祈念している胎龍の後姿を見たというのだがね」 「すると、それが死体だか犯人の仮装だか、それとも奇跡が現れて、被害者がそのときま で生きていたのか……」 と法水はしばらく明るい|楓《かえで》の|梢《こずえ》を|睨《にら》んでいたけれども、それにはたいして信を置かぬも ののように、ふと別なことを熊城に訊ねた。 「では、昨夜の事情を聞かせてもらおう」 「それは、宵の八時ごろに被害者が薬師堂に上がって、護摩を|焚《た》いたというのが始まりで、 それなり本堂へ戻ってこず、今朝六時半になって寺男の|浪貝久八《なみがいきゆうはち》がこの堂内で死体を発見 したのだ。それに、境内は四ノ日の薬師の縁日以外には開放されないのだし、建仁寺垣の 内側にも越えたらしい足跡はないし、周囲の家を調べてみても不審な物音や叫び声はいっ こうに聞かなかったという。また胎龍という人物は、歌と宗教関係以外には交渉の少ない 人で、|怨恨《えんこん》などはてんで外部に想像されないばかりでなく、この|三月《みつき》ほどの間は外出もせ ず、絶対に人と会わなかったそうだよ。それでなくとも、犯人寺内説を有力に証明してい るのは、この雪駄が被害者の所有品だということなんだ」 そう言ってから、熊城は大仰な|咳払《せきぱら》いをして、 「だから法水くん、ちょっと考えただけでは、ぼくらはぜんぜんこのアクロバチックな殺 人技巧に征服されているようだ。けれどもその実質となると、たかが五から四を引くだけ の、単純計数問題に過ぎないのだよ」 法水は真剣な態度で聞いていたが、 「もちろん犯人は寺内にいる。ところできみはいま、胎龍が三月ばかりだれにも会わなか ったと言ったね」 ともっともらしく|歯軋《はぎし》りをして、まるで夢見るように視線を宙に|馳《ま》せた。 「すると、やはりあれかな。いや断じてそれ以外にはない」 「というと、何を考えついたのだ?」 「大したことじゃないがね。ぼくは地史学者じゃないが、一つの骨片を発見したのだよ。 それで、骨格の|全貌《ぜんぽう》だけは想像つくというものさ」 「ふむ、そうすると」 「といって、指紋のような直接犯人の特徴を指摘できるものではない。いまも言ったとお り、死体の|謎《なぞ》を貫いている|凄《すさ》まじい底流なんだ。つまり殺人技巧の純粋理論なんだが、そ の軌道以外にはこの変種が絶対に咲かないことを記憶してほしいと思うね」 「冗談じゃない」 検事は目を丸くした。 「ぼくらの発見はとうに尽きているはずだぜ。そして流血の形一つだけでも、凶器の推定 が困難なくらいだ。だがそれより、傷の成因がきみの説のとおりだとすれば、当然この死 体に|驚愕《きようがく》・恐怖・苦痛などの表出がなけりゃならんがね」 法水は検事をじっと見返して、死体の顔面を指差した。 「その解答がこれさつまり、一本の脈線なんだよ。死体の謎が各自に分裂したもので ない感じはしていても、いままではそれに漠然とした観念しか持てなかったのだ。ところ が、そういう不可解現象のシンボルとでも言いたいものがある。顔面にその形体化したも のが現れているよ。どうだろう、この表情は聖画などの殉教者特有のものではないだろう かね。先年外遊中に、シスチナ礼拝堂の絵葉書をよこしたきみなんぞは、まっさきにミケ ランジェロの壁画『最終審判』で何か思い出してしかるべきなんだぜ。ねえ、絶望と法 悦?確かに悲壮な|悦惚《こうこつ》状態と言えるじゃないか。そして、それからぼくの仮説が出発し ているのだよ」 「なるほど」 検事が思わず|膝《ひざ》を打つと、 「すると、,催眠術かね?」 と、熊城も思わず引き入れられたように叫んだ。 「いや、催眠術じゃない。というのは、胎龍が三月も人と会わなかったのでも分かる! 当人に気づかれずに施術できるような術者は、おそらく寺内にはおるまい。むろん、数力 月前に暗示しておいたのち催眠現象が発したのではないかという懸念があるけれども、そ れには胎龍に豊富な催眠経歴が必要なんだよ」 と法水は、まず入念に熊城の疑惑を解いてから、かれの説を語りはじめた。 「ところでぼくの|仮説《セオリ 》というのは、しごく単純な観察から出発していることなんだ。だい たいきみたちは、この死体を見た瞬間に何か触れたものがあったはずだよ。この不可解な 無抵抗・無苦痛を現すためには、肉体を殺す前にまず胎龍の精神作用を殺さねばならない とは考えなかったかね。しかしそういう超意識状態を作り出すのは、とうてい単一な 手段では不可能なことだ。だいいちレトルトや力学の中にも……もちろん脳に剖見上の変 化を起こさせる方法なんて、絶対にあり得るものではない。すると、最後に一つ想像され るのが、心因性の精神障害を発病させるプロセスなんだ。まあ空想だと笑わないでくれた まえ。よく考えれば分かることだからね。で、その去勢法なんだが……それに非常に複雑 な組織が必要だというのは、胎龍の精神作用を徐々に変型していったすえの最後のものを、 凶器の構造とぴったり符合させなければならないからだよ。つまり、そのプロセスがきみ の言うメカニズムであって、その結論がぼくの言った悲壮な洗惚なんだ。そして長い道程 と日数とを費やした揚句に、とうとう犯人の破天荒な意図が成功したのだ。さぞその間に、 不思議な型の歯車が食い合ったり、|独楽《こま》のようなピストンが動いたりしたことだろうが ……そうしたすえに作り出された超意識が、最終の歯車と|噛《か》み合って恐怖装置を回転させ たばかりでなく、さらに凶行直前の状態を、凶器が下っても中断させなかったのだよ。ど うだい熊城くん、きみはこの理論が分かるかね。つまりこの事件を解く|鍵《かぎ》というのが、二 つの装置を結びつける歯車の構造にあるのだがね。またその中に、ぼくらの想像さえもつ かないような、不思議な凶器が隠されているというわけさ」 そう言い終わると、急に法水は力のない吐息をついて、 「だが、そこで問題なのは、絶命と同時にはたして硬直が起こったかどうかなんだよ。支 倉くんは硬直前に犯人の手が加わったのではないかと言うけれども、ぼくには硬直が同時 でないと、死体の合掌を説明する方法がまったく尽きてしまうのだ」 熊城は|晦渋《かいじゆう》な霧のようなものに打たれて沈黙したが、検事は懐疑的な目を見据えて、 「それで、ぼくはあれが気になるんだよ。ほら、像の頭から右|斜交《はすか》い上に五寸ほどの所と、 左右の板壁に二つとIそれを直線で結ぴつけると、ちょうと死体の|頸筋《くびすじ》辺で結びつくん だが1節穴が三つあるだろう。もとより作ったものじゃないけれども、あんな所から、 非常に単純な仕組みで、それでいて効果の素晴らしい、何か|弛緩《しかん》整形装置とでも言いたい ものを犯人は考案したのではないだろうか。もちろんいまのところでは空想に過ぎないの だが、実際もし硬直がすぐ起こっていなかったとすると、そういったものを当然欠いては ならないと思うよ」 「うん、ぼくもさっきから気がついているのだ。おまけに、どの孔の前にも蜘蛛の巣が破 れている」 法水はちょっと当惑の色を浮かべて言ったが、その顔をくるっと熊城に向けて、 「関係者を|訊問《じんもん》して何か収穫があったかね」 「ところが、動機らしいものを持った人物が一人もいない始末だが、その代わりどれもこ れもひと目で強烈な印象を受けるーまるで仮面毎踏会なんだよ。しかしそういう連中が 神経病患者の行列ではなくて、真実芝居しているのだとすると、その複雑さはきみでもと うてい読み切れまいと思うがね。とにかく訊問してみたまえ。ちょうどいまし方、この傷 口にぴったりと合う彫刻用の塾が、同居人の|厨川朔郎《くりやがわさくお》という洋画学生の部屋で発見された ところなんだ」 一同は本堂に向かったが、その途中、|渥青色《れきせいしよく》をした大池のかなたに、裏手の雫石家の二 階が倒影している。本堂の左端にある格子戸を開けると、四坪ほどの土間から黒光りした 板敷きに続き、つぎに陰気な茶の間を通って回り縁から渡り廊下で連なっているのが、厨 川朔郎の部屋である。 しかし、そこには不似合いに大きな柱時計とカンバスや洋画道具のほかに、蔵書と|蓋《ふた》の ちようつが〜 蝶番が壊れたポータブル蓄音機があるだけで、朔郎はこの部屋を捜索するために柳江の 書斎に移されていた。柳江の書斎は茶の間から回り縁に出ず、左折して廊下をすこし行っ た所のどん詰まりの部屋で、その塀向こうが寺男の浪貝久八の台所になっていて、朔郎の 部屋とは小庭を隔てて並行している。またその廊下は、回り縁になる角から幾つもの部屋 の間を貫通して、本堂の|僧侶《そうりよ》出入り口で行き詰まっていた。つまり、どの部屋からも直接 廊下伝いに来られるのだが、昨日から今日にかけて非常に気温が低いので、障子の間は真 冬のように|隙《すき》がなかった。 二人の私服に挟まれて、アトリエ着の青年が歎妖と|煙草《たばこ》を|燥《くゆ》らしている。llそれが厨 川朔郎だった。二十四、五で美術学生らしい頭髪をし、整った貴族的な|容貌《ようぽう》の青年だが、 肩から下には炭坑夫とも|見紛《みまが》うような隆々たる肉線が現れていた。 かれは法水を見ると、にっと微笑んで、 「やあ、やっと助かりましたよ。実は、法水さんのご出馬を千秋の思いで待ち焦がれてい たところなんです。まったく熊城さんの無茶な推定にはやり切れません。塾が一本発見さ れたくらいのことや、ぼくの部屋の窓外にある裏木戸から薬師堂の前へ直接出られるくら いのことで、ぼくを犯人に擬するという始末ですからね。それに、塾と言われて探してみ ると、もう一本あったのがいつの問にか紛失しているのですが、それをどんなに述べ立て ても、ぼくをすこしも信用してくれないのですからね。では、昨夜の行動を申し上げまし ょうか」 と言って1四時に学校から戻って、それから部屋でコーカンの伝記を読んでいて、七 時に夕食に呼ばれ、九時ごろ|萄蕩閻魔《こんにやくえんま》の縁日に出かけて、十時過ぎに帰宅したという旨を 要領よく述べ立てた。その堂々たる|弁説《エロキユきシヨン》と容疑者とは思われぬ明朗さには、一同の度 肝を抜くものがあった。 その間法水はそっぽを向いて、この部屋の異様な装色を眺めていた。いま入った板戸の 上の|長押《なげし》には、土蜘蛛に|扮《ふん》した|梅幸《ばいこう》の大羽子板がかかっていて、振り上げた押絵の右手か らは十本ほどの銀色の蜘蛛糸が|斜《はす》に扇形となって広がっていき、末端を横手の丸い柱時計 の下にある格子窓の|裾《すそ》に結びつけてあった。 「ははあ、|鉄輪《かなわく》の|悼《るま》があったころの趣味だね」 と、法水は初めて朔郎に声をかけた。 「ええ、奥さんという方は古風な|大店《おおだな》のご|新造《しんぞ》さんといったタイプの人ですからね。それ に、これは去年の暮れ、わたしが頼まれて作ったのですが、蜘蛛糸は本物の小道具なんで すよ」 「すると、きみは背景|描《カ》きをやっているのかい」 そう言って法水が端の一本を|摘《つま》むと、それは|紙芯《かみしん》に銀紙を着せた柔らかい|紐《ひも》だった。 その時、窓外からポンと一つ、零時半を知らせる沈んだ音色が聞こえた。それは朔郎の 部屋にふさわしくない豪華な大時計で、昨年故国に去った美校教授ジューベ氏の遺品だっ た。しかし、正確な時刻は格子窓の上にある時計の零時三十二分で、その時計には半を報 ずる装置はなかったのである。 それから、朔郎の|饒舌《じようぜつ》が胎龍夫妻の疎隔に触れていって、さんざん夫人の柳江を|罵倒《ばとう》し てから、最後にすこぶる興味のある事実を述べた。 「そういう風に、今年に入って以来の住持の生活はまったく見るも痛々しいくらいに寂し いものでした。それでこの三月ごろには、ときどき失神したようになって持っていたもの を取り落としたり、しばらく|荘然《ぼうぜん》としていることなどありましたし、そのころは妙な夢ば かり見ると言って、ほくにこんなことを話したことがありましたっけ。1なんでも、自 分の身体の中から|株儒《こびと》のような自分が|脱《ぬ》け出していって、|慈胆《じえい》くんの|面飽《にきび》をいちいち丹念 に|潰《つぷ》していくのです。そして全部潰し終わると、顔の皮を|剥《む》いて大切そうに懐中に入れる というのですがね。しかし、そのころからこの寺に兆しとでも言いたい雰囲気が濃くなっ ていきました。ですから今度の事件も、その結果当然の自壊作用だとぼくは信じているの ですよ。法水さん、その空気はいまにだんだんと分かってきますがね」 2一人二役ー|胎龍《たいりゆう》かそれとも 朔郎を去らせてから引き続きこの部屋で、柳江・納所僧の|空闊《くうだつ》と慈胆、寺男の久八ll と以上の順で|訊問《じんもん》することになった。|裾《あ》せた油単で覆った|本間《ほんけん》の琴が立てかけてある|床間《とニのま》 から、|蜻蛾《なめくじ》でも出そうな腐朽した木の|臭《にお》いがする。それが、朔郎の言葉に妙な連想を起こ すのだった。 「厨川朔郎という男には、犯人としても、また優れた俳優としての天分もある。けれども、 |疾《やま》しいところのない人間というものは、ちょっとして|悪戯《いたずら》げからつい芝居をしたくなるも のだがね。それに……」 「いや、あの男はもっとほかに知っていることがあるんだぜ」 検事はそう言って法水の言葉を遮ったが、法水は無雑作に|頷《うなず》いたのみで、 「ねえ熊城くん」 と|塾《たがね》を示して、 「これは凶器の一部かもしれないが、全部じゃないことだけは明らかだよ。といって凶器 がどんなものだか、ぼくに全然見当がつかないのだが」 それからかれは窓の障子を開けて、丘蜥蜘の押絵をあちこちから眺め透かしていたが、 いきなり背伸びをして右眼の膜を|剥《は》ぎ取った。 「ほほう、恐ろしい|賛沢《ぜいたく》なものだな。|雲母《マイカ》が使ってある。ところが、左眼にはこれがない のだ。どうだね、光ってないだろう」 法水がそう言ったときに、静かに板戸の開かれる音がしたーそれが胎龍の妻柳江だっ た。 柳江は過去の名声を持つ女流歌人で、先夫の|梵語《ぽんびご》学者|鍬辺来吉《くわべらいきち》氏の没後に胎龍と再婚し たのだった。形のいい|細魚《さより》のような肢体それを包んだ黒ずくめの中から白い顔と半襟 の水色とがくっきりと浮き出ていて、それが四十女の情熱と反面の冷たい理知を感じさせ る。会話は中性的で、被害者の家族特有の同情を強いるような態度がない。むしろ憎にく しいまでに冷静を極めている。法水は丁重に弔意を述べたあとで、まず昨夜の行動を|訊《たず》ね た。 「はあ、午後からずーっと茶の間におりましたが、たぶん七時半ごろでございましたでし よう。主人が|雪駄《せつた》を突っかけて出ていった様子でございましたが、ほどなく戻ってきて、 薬師堂で|祈薦《きと つ》すると言い、慈胆を連れて出かけまし♪、んのです」 「では、あの雪駄がηすると、いったん戻ってきてから履いたのが日和なんですね」 熊城はびっくりして叫んだ。てっきり犯人の足跡と|呑《の》み込んで、深く|訊《き》きもしなかった 雪駄の跡が住持のものだとすると、いったい犯人はいかなる方法によって足跡を消したの だろうか?それとも、接近せずに目的を果たし得る凶器があったのだろうか?しかし、 法水はさらに動じた気色を見せなかった。 「はははは、熊城くん、たぶんこの矛盾は間もなく分かるはずだよ。それから奥さん、そ の時ご主人の様子に、何か平生と変わった点があったのをお気づきになりませんでした か?」 「はあ、べつに最近の主人と変わったようなところはございませんでしたが、どうしたわ けか空闊さんの日和を履いてしまったのでございます。それから十五分ほど|経《た》って、慈爽 せきばらわきだんか が戻ったらしい咳払いを聞きましたけれども、空闊さんはその時、本堂脇の部屋で檀家の 者と葬儀の相談をしていた様子でございました。主人は二、三日来|咽喉《のど》を痛めております ので、|黙薦《もくと つ》とみえて読経の声も聞こえず、夕食にも戻りませんでした。ですから、、毎夜の 例で十時ごろにわたしが池のほうへ散歩にまいりました途中、薬師堂の中で見かけました のが最後の姿だったのでございます」 「ところが、その時とうにご主人は玄白堂の中で死体になっていたはずなんですがね」 「それをわたしにお訊ねになるのは無理でございますわ」 柳江はぜんぜん無反響だった。 「決して、偽りでも幻覚でもございませんのですから」 「すると、扉が開かれていたことになる」 熊城がだれにともなしに言った。 「慈胆はぴったり閉めて出たと言うのだがね」 「きっと、護摩の煙が|籠《こも》ったからだろう」 法水はたいして気にもせず質問を続けた。 「ところで、その時何か変わった点に気がつきませんでしたか?」 「ただ、護摩の煙がだいぶ薄いなーと思ったくらいのことで、王人は行儀よく|坐《すわ》ってお りました。ほかにはどこといって……」 「では、帰りにはどうでした?」 「帰り道は、薬師堂の裏を通りましたので。……それから十一時半ごろでしたが、主人の 部屋のほうで人が歩き回るような物音がいたしました。わたしはその時、戻ったのだと信 じておりましたのですが」 「足音η」 法水は強い|動悸《どセつき》を感じたような表情をしたが、 「しかし、寝部屋の別なのは?」 「それには、この二月以来の主人をお話ししなければなりませんが」 と柳江はやっと女性らしい抑揚になって、声を震わせた。 「そのころから、何か|只事《ただ ごと》でない精神的打撃を受けたとみえまして、昼間は絶えず物|思《ち》い に聯り・夜になると取り止めのない嚢を一言うようになりました。そして議に目に見え た衰えが現れてまいりました。ところが先月に入ると、毎夜のように薬師堂で狂気のよう な勤行をするようになったのです。ですから、しぜんわたしから|遠退《とおの》いていくのも無理で はございませんわ」 「なるほど。……ところで、今度はすこぶる奇妙な質問ですが、|長押《なげし》にある押絵の左目は、 あれはとうからないのですか?」 「いいえ」 柳江は無雑作に答えた。 「一昨日の朝は、確かにあったようでしたけども……それに、昨日あの部屋には、だれ一 人入った者もございませんでした」 「ありがとう、よく分かりました。ところで」 と、法水は初めて鋭い訊き方をした。 「昨晩十時ごろに散歩に出たというお話でしたが、昨夜はそのころから曇って、非常に気 温が低かったのですよ。たしかそれは、散歩だけではなかったでしょうね」 その瞬間血のけがさっと引いて、柳江は衝動に耐えているような苦しげな表情をした。 ところが法水はどうしたわけか、その様子を|一瞥《いちべつ》しただけでかれもまた深い吐息をつき、 柳江に対する訊問を打ち切ってしまったのであった。 柳江が去ると、熊城は妙な片笑いを浮かべて、 「訊かなくても、きみには分かっているだろう」 「さあ」 法水は|曖昧《あいまい》な言葉で濁したが、 「しかし、似れば似たものさ。もちろん偶然の相似だろうが、この顔が実に|伎芸《ぎげい》天女そっ くりだとは思わんかね」 「それより法水くん」 検事が|煙草《たぱこ》を捨てて坐り直した。 「きみはなぜ、押絵の左目を気にしているんだ?」 それを聞くと、法水はいきなり熊城を促して|閾際《しきいぎわ》に連れていき、板戸を少し開いて言っ た。 「では、実験をすることにしようかな。昨夜、この部屋にこっそり侵入した者があって、 その時目の膜がどうして落ちたかという……」 そして、かれ自身がまず閾の上に乗って力を加え、片手で板戸を押したが、板戸はひど い音を立てて|軋《きし》った。ところが次に熊城を乗せると、今度は滑らかに走る。と同時に、押 絵を見ていた検事がうーんと|捻《 つな》った。 「どうだい。閾の下がった反動で長押の押絵がガクンと傾いたろう。その弾みに剥がれか かっていた膜が落ちたのだよ。熊城くんは十八貫以上もあるだろうが、ぼくら程度の重量 では戸が軋らずに開くほど閾が下がらない。つまり、戸を軋らさせずにこの部屋に入るこ とのできる者は、熊城くんと同量以上すなわち朔郎か、あるいは二人分以上の重量で なければならないのだ」 二人分lそれは犯人と死体とを意味する。はたして一人か二人か?そして、この部 屋で何事が行われたのだろう?それとも眼膜|剥落《はくらぐ》は、法水の推測とはぜんぜん異なる経 路において起こされたのではないだろうか?と、さまざまな疑問がさながら窒息させん ばかりの迫力で押し|被《かぷ》さってくる。が、その空気は間もなく空闊によって破られた。この 老達な説教師は、|摩詞《まか》不思議な花火を携えて登場したのであった。 空闊という五十|恰好《かつこう》の|僧侶《そうりよ》には、被害者とほぼ同型の|体躯《たいく》が注目された。僧侶特有の妙 にぬらめいた、それでいてどこか図太そうな物柔らかさで巧みな弁説を|弄《もてあそ》んでいくけれど も、|容貌《ようぽう》は羅漢さながらの醜怪な相で、しかも|人参色《にんじんいろ》の皮膚をしているーその対照がひ どく不気味なのだった。かれは問いに応じて、1夕食後の七時半から八時ごろまでの間 は、檀|家葛城《かつらぎ》家の使者と会談し、それから同家に赴いて|枕経《まくらきよう》を上げ、十時過ぎ帰宅したと いう旨を述べ終わると、にわかに襟を正し威圧せんばかりな語気になって、この事件の|鍵《かぎ》 は俗人には見えぬ法の不思議にあるーと言い出した。そして眼を閉じ、数珠を|爪繰《つまぐ》って 語り出したのは、|灰暗《ほのぐら》い霧のかなたでぼーっと燃え上がった異様な鬼火だったのだ。 i三月|晦日《みそか》の夜、月が出て間もない八時ころのことだった。突然慈胆と朔郎が駆け込 んできて、玄白堂に|妖《あや》しい奇跡が現れたというのである。それが、天人像の頭上に|月量《つきかさ》の ような|浄《きよ》い後光が|射《さ》したとのことなので、ともかく一応は調べることになり、胎龍と空閾 の二人が玄白堂に赴いた。ところが堂の内外にはなんら異状がないばかりか、試みに頭上 の節穴から光線を落としてみても、髪の毛の漆が光るに過ぎない。そして、とうとう不思 議現象のまま残ってしまったのだが、その翌日から胎龍の様子ががらりと変わって、懐疑 と思念に耽るようになったというのである。 「しかし、朔郎はなんとも言いませんでしたよ」 聞き終わると、法水はちょっと皮肉な質問をした。 「そうでしょう。あの大師外道めは、だれかの念入りな悪戯だと言いますでな。てんで念 頭にはありますまい。しかし科学とやらでは、どうして解くことができましょうか。いや、 解けぬのが道理なのですじゃよ」 「すると、像の後光はその時だけでしたか」 「いや、その後にもう一度、五月十日にありました。その時見たのは、ついせんだって暇 をとった|福《ふく》という下女でしてな」 「今度のは何時ごろでしたか?」 「さよう、たしか九時十分ごろだったと思いますが、ちょうどその時わたしは時計のね《フフ》|じ を巻いておりましたので、時刻は正確に記憶しとりますので」 次の慈艇はもっとも他奇のない陳述で終わり、一日じゅう外出せず自室に暮らしていた というのみのことだったが、|頭蓋《ずがい》がロムブローゾなら震いつくだろうと思われるような一 種特異な形状を示していた。法水は慈胆に対する訊問を終えると、胎龍の部屋に赴いてな にやら捜していたが、ふたたび戻ってくると、つづいて寺男の浪貝久八を呼ぶように命じ た。しかしーそのおずおずと入ってくる老人を見ると、熊城は法水の耳になにやら|囁《ささや》い た。というのは……先刻の訊問中に久八が突然|癩痛《てんかん》発作を起こしたために、夕刻の六時か ら八時ころまで寺の台所で立ち働いていたーという以外には聞き取っていないことと、 それから富裕な質屋の|主《あるじ》であるかれが、なぜ寺男の生活をしているかという理由だった。 久八は永年の神経痛が薬師如来の信仰で治ったとかいうので、それ以来異常な狂信を抱く ようになり、ついぞこの一月退院するまで郊外の病院で暮らしていたのであった。ところ がこの薬師仏に仕える老人は、いちいち犯人の足跡を指摘していった。 「たしか十時半ごろでしたが、だれが鎖を解いたものか、飼犬の|哺《な》き声が池のほうでしま すのでした。それで、捕らえに行こうとして薬師堂の前を通ると、中では方丈さまがご祈 薦中らしく後ろ向きに坐っておいでになりました」 「なに、きみもか」 瞬間、思わず三人の視線が合ったけれども、久八は無関心に続けた。 「ところがその時、おかしなものを見ましてな。縁日の晩にしか使わない赤い|筒提灯《つつちようちん》が両 脇に|吊《つ》るしてありまして、二つともに灯が入っておりました」 「ほう、赤い筒提灯がη品」 と法水は衝動的に|眩《つぷや》いたが、その下から目を上げて先を促した。 「それから池の|畔《ほとり》に行ったのですが、真っ暗なので犬を探すことができません。それで致 し方なく、口笛を鳴らしながらかれこれ三十分近くもしゃがんでおりますうちに、向こう 岸の雫石さんの裏手辺りにだれかいたとみえて、煙草の吸殻を池の中へ投げ捨てたのが目 に入りましたので。そのくせ、寺では煙草|喫《の》みはわし一人だけでございますが」 「では、帰りにも提灯が|点《つ》いていたかね?」 「いいえ、提灯どころか、扉が閉まっていて真っ暗でしたが」 それで、関係者の訊問が終了した。久八が去ると、法水はぐったりとなって眩いた。 「なるほど、動機と言えるものがない。それに、こういうだだっ広くて人間の少ない家の 中では、元来|不在証明《アリバイ》を求めようとするのが無理な話なんだよ」 「けれども、きみの言うメカニズムの一部だけは、分かったじゃないか」 と検事が言うと、法水はちょっと|凄《す ご》みのある微笑を浮かべた。 「ところが、いま全体の陰画が分かったのだよ。胎龍の心理がどういうふうに|蝕《むしば》まれ、変 化していったかという…・:」 「ふむ、というのは」 「それはこうなんだ。実は、さっき胎龍の部屋を捜して、ぼくは手記めいたものを発見し たのだ。もちろんほかには注目するに足る記述はないけれども、夢を書き|遺《のこ》してくれたの で大変に助かったよ。1五月二十一日に、近ごろ幾晩となく、木の錠前に腰をかけた夢 を見るのはどうしたことだろう、とある。それから六月十九日に、自分の一つしかない右 目を躰り抜いて、天人像に欠けている右目の中に入れたーとあるのだよ。ところで、ぼ くはフロイドじゃないが、さっそくこの夢判断をすることにした。実にそれが、胎龍の|歪《ゆが》 められていく心理を正確に描写してあるのだ。で、まず最初に、三月ごろ胎龍に之きどき 起こった失神状態というのを説明しておくが、それは性的機能の|抑欝《よくうつ》から起こる|麻痺性《まひせい》の 疲労なんだ。その証拠が|面飽云《にきぴうんぬん》々の夢で、それが満たされない性欲に対する願望だという のは、面飽を|潰《つぷ》した|痕《あと》が女性性器のシンボルだからだよ。つまりそれによって、柳江のほ うで胎龍から遠ざかっていったということが分かるだろう。それから次の木の錠前だが、 錠前もやはり女性性器を表している。しかし木という言葉は、結局木像を意味しているの ではないだろうかηすると、像の不思議な後光にぶつかって、初老期の禁ぜられた性的 願望がいかなる症状に転化していったかーそのプロセスが|明瞭《めいりよう》になる。それは、 |彫像愛好症《ピグマリオニズム》なんだよ。そうして胎龍は精神の転落を続けていったのだが、もちろんそれに 伴って性的機能が衰滅することは言うまでもない。で、その症状を自覚したのが一転機と なって、その後のことが最後の夢なのだ。胎龍が自分の一つしかない目を到り抜いて天人 像に|捧《ささ》げるというのは、|沙門《しやもん》の身であられもない尊像|冒漬《ぽうとく》の罪業を犯した懲罰として、仏 の断罪を願望としたからなんだ。ねえ、ジャネーが言ってるだろう。肉体に受ける苦痛を 楽しむよりかも、精神上の自|己膚懲《よ つちよ つ》に快楽を感ずるというほうが、より典型的なマゾヒス トだと。そういうふうに非常に変わった|態《てい》だけれども、ともかく一種の奇跡に対する|憧慢《どうけい》 とでも言えるものが胎龍の落ち込んだ最終の帰結点だったのだよ。すると、今年に入って から胎龍の心理に起こった変化が、これではっきり説明がつくじゃないか。そして、それ がぼくの想像する去勢法のプロセスを|辿《たど》っているので、その間、主要な点には必ず外部か ら働きかけたものがあったに相違ないのだ。だからもうすこし分かってくれば、凶器の推 定がつくというわけさ」 言い終わると、法水は|唖然《あぜん》とした二人を|尻目《しりめ》にかけて、悠然と立ち上がった。 「さて、空闊に案内してもらって薬師堂を調べることにしよう」 薬師堂の階段を上ると、中央には香の燃え|津《かす》が山のように堆積している護摩壇があり、 その背後が|厨子形《ずしがた》の|幟幕《とぱり》になっている。幕が開け放しになっているので、目が暗さに慣れ るにつれて、中の薬師三尊がいかにも熱帯人らしい豊かな聖容を現してきた。中央は|坐像《ざぞう》 の薬師如来、左右の|脇侍《きようじ》、日光・月光は立像である。、薬師三尊の背後は六尺ほどの板敷き になっていて、その奥の壇上には聖観音の像と左右に四天王が二体ずつ載っている。堂内 で採集した指紋には、もちろん推理を展開せしめるものがなかった。 「どこを見ても、|埃《ほこり》がないですね」 と法水が|怪訪《けげん》そうに、空闊に言うと、 「縁日の前日が掃除日でして、まだ三日ばかりしか|経《た》ちませんのですから、足型が残ると いうほどの埃はありません。その時、この筒提灯の中も掃除しますので」 そう言って空闊が両手に提げてきたのは、伸ばした全長が人間の背丈ほどもあって、鉄 板製の口径が七寸にも及ぶ真紅の筒提灯が二つ。|蝋燭《ろうそく》は二つともに|鉄芯《てつしん》が現れる間際まで 燃えていて、そこで消したらしい。法水はこの提灯から結局、何も得るところはなかった。 はんにやしんぎようひ一つさんまいそく 護摩壇前の経机には右端に般若心経が積み重なっていて、胎龍が唱えたらしい秘密三昧即 |仏念諦《ぷつねんじゆ》の写本が中央に広げられてある。|杵鈴《きねれいお》を|錘《もし》に置いて開かれている面というのは、"五 障百六十|心等《しんとう》三重赤|色妄執火《もうしゆうのひ》"という一節だった。 [この一巻を始めから唱えていたとすると、ここまでに何分ぐらいかかりますね?」 「さよう、二、三十分ですかな」 と空閨が答えた。 「すると、八時から始めたとして、八時三十分かなη」 検事が分かったような顔をすると、 「うん、あるいはここで死体にしたのを、玄白堂に運び込んだのかもしれない。筒提灯が 一つ加わったので、とうとう|天秤《てんびん》が水平になっちまったよ」 と熊城は当惑したように言ったが、その鼻先に、法水は小さな紙包みを突き出して、 「これを鑑識課に回して、顕微鏡検査をしてくれたまえ。黒い|煤《すす》みたいなものなんだが、 薬師三尊のうちの月光の光背にだけついていたんだよ」 と言ってから、 「赤と赤、火と火!」 の小声で、夢見るような眩きをした。 薬師堂の調査を終わってから池畔に出ると、法水がいつの間にか喬村のもとへ使いを出 したとみえて、一人の刑事が一通の封書を手に戻ってきた。それには走書きで、次のよう な文章が|認《したた》められてあった。 胎龍くんが殺害されたとは実に意外だ。だがそれ以上驚かされたのは、ぼくがいつ の間にか事件中の一人になっているということだ。きみは柳江が、ぼくと結婚するために 胎龍くんのもとを去りたがっている旨を告白したという。いかにも、それは事実だ。事実、 ぼくは柳江を愛している。そして二人の関係は、去年の暮れ以来続いているのだが、それ が単純な思慕以上には一歩も踏み出していないことを断っておきたい。もちろん昨夜も十 時ごろだったと思うが、物干から下りて十分ばかり池の畔でかの女に会った。しかし、い くら世事に|迂遠《うえん》なぼくでも、密会に等しい場所でだれが煙草なんぞ|喫《す》うもんか!以上、 きみの質問にお答えしておく。独身の|絵描《えか》きに確実なアリバイのないということは万々承 知のうえだけれども、正直が最善の術策なりと信ずるがゆえに……。 読み終わって、法水は悔やむような苦笑をした。 「友情を裏切って、かまをかけて……そして|分《フフ》かったのは、柳江が言えなかったものだけ だったよ。ざまを見ろ法水!」 それから、かれは一人で池の対岸に行き、水門の|堰《せき》を調べてから探し物でもするような 恰好で|侑《うつむ》きながら歩いていたが、やがて一本の|蓮《はす》の花を手に戻ってきた。 「妙なものを見つけてきたよ」 そう言って花弁を|雀《むし》り取ると、中には五、六匹の|蛭《ひるう》が|姦《ごめ》いていた。 「堰近くにあったのだが、どうだ良い|匂《にお》いがするだろう。タバヨス|木精蓮《レセダはす》という熱帯種で ね。この花は夜開いて昼|凋《しぼ》むのだよ。そして、閉じられた花弁の中に蛭がいたとすると、 犯人が池の向こう岸で何をしたか分かるはずだがねえ」 「」 検事と熊城は、煙草の灰がしだいに長くなっていくけれども、ついに答えられなかった。 「分からなければ、ぼくのほうから言おう。犯人が池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、 その時付近に水浸しになっていた木精蓮の一本があったとしたらどうだろう。もちろん血 の臭気を慕って蛭が群集することは言うまでもないが、それから間もなく、|犯人《フフフ》は|浮遊物《フフフ》 を|流《フフフ》すために、|水門《フフフフフち》の|堰板《フフフ》を|開《フフ》いて|水《フフフ》を|流《フフ》したのだ。すると|水《フフフ》面が下がっただけ、木精蓮 は空気中に突出するわけだろう。だから朝になって花が閉じたときに、残った蛭が花弁に 包まれてしまったのだ。だがそれは要するに、偶然現れた現象に過ぎない。堰板を開いた 犯人の真実とする目的というのは、玄白堂内の足跡を消すのにあったのだよ」 ああ、法水はその水流から何を|掴《つか》み上げたのだろうか? 「分からなくては困るね。犯人でなくても、だれしも水位の異なった二つの池があれば、 それを利用するだろうからね。つまり、この池の水面をわずかほど下げてから、玄白堂の 右手にある池と池溝との間の堰を切ったのだ。すると、池の水が水面の低い池溝の中へ一 度に押し出すので、岩の尽きた堂の左側に来るとどっと地上に|氾濫《はんらん》する。その水勢が地上 の細かい|砂礫《されき》を動かして、堂の左側から胎龍の背後にかけて、そこに残されている足跡を 消してしまったのだよ。ところが、ぼくが巻尺を転がして試したとおりに、堂内は右手か ら左手にかけて|勾配《こうぱい》がついているのだから、|雪駄《せつた》と日和の|痕《あと》がある辺までは水が届かない。 そしてあの辺は早朝だけ|陽射《ひざ》しが落ちるので、そうして|濡《ぬ》れた跡が死体を発見するころに はとうに乾いてしまったのだよ」 「すると、いよいよ胎龍がどこで殺されたのかー!分からなくなってしまう」 熊城は|瞳《ひとみ》を据えて唇を|噛《か》んだが、検事は濃厚な懐疑を匂わせて、 「だが、犯人はなぜ煙草を吸ったんだろうな。殺人を犯した人間が、だれが見ているかも しれないのに煙草を喫うなんて……その心理がぼくにはどうしても分からない。それとも、 喬村が捜査官の心理を逆に利用しようとしたのかもしれないが、動機らしいものとそれだ けでは、どうしても喬村を縛る気が出ないじゃないか」 ,検事はさらに語を続ける。 「それから、|謎《なぞ》はもう一つある。というのが、提灯の奇体な出没さ。十時に柳江が見てな かったものが、十時半には灯が入って下がっていた。またそれが、十一時になると姿を消 しているのだ。その三段階の出没に、いったいどういう犯人の意図が含まれているのだろ う?」 「うん、まったくあれには惑殺されるよ」 熊城も暗然となって眩いた。 「それまでぼくは、てっきり犯人の変装だと信じていたのだが、あれにぶつかってその考 えが根底から崩れてしまったよ。護摩の火の光だけなら、一おそらく有効だろうがね。あの ように左右へ提灯を吊るすとなると、煙草の火と同様正体を暴露する虞がある。といって、 それを死体だとすることはより以上現実に遠い話だからね。だいたい法水くん、きみの意 見は?」 しかし、法水にはなぜか生気があった。 「ところがねえ、ぼくはきみたちと違って、あの提灯を動かさずに観察してみたんだよ。 提灯の中の蝋燭の火だけをじっと見詰めていたのさ。すると犯人の不思議な殺人方法が、 なんとなく分かってくるような気がしてきたんだ。いまに天人像の後光と筒提灯との光と の間に、いったいどういう不思議な機械が回転していたものかそれが、きっと分かる 時期が来るに違いないよ。とにかく今日はこれだけで打ち切って、ぼくによく考えさせて くれたまえ」 そうして、・事件の第一日は謎の山積のままで終わってしまったが、はたして熊城は柳 江・喬村・朔郎の三名を拘引したのだった。 3二つの後光 その夜法水に三つの方面から情報が集まった。一つは法医学教室で1創傷の成因では 法水の推定がことごとく裏書きされ、絶命時刻も七時半から九時までというのに変わりな いこと。次は熊城で朔郎が失ったというも・つ一本の|整《たがね》が発見され、その個所が、久八 がしゃがんでいたという場所の直前五メートルの池中だったということ。そして最後に、 法水が月光の光背から採取した黒い|煤《すす》様のものが、ほぼ円形をなした鉄粉と松煙であると いうことーそれは、鑑識課によって明らかにされたのであった。ところが翌朝、能城は 力のない顔をして法水を訪れた。 「いま朔郎を放免したところなんだよ。あいつに|不在証明《アリバイ》が現れたんだ。朔郎の部屋の垣 向こうが、久八の家の台所になっているだろう。八時半ごろそこで立ち働いていた久八の 孫娘が、朔郎が時計を直している音を聞いたというのだ。最初に八時を打たせて、それか ら半を鳴らしたので、自分の家の時計を見ると、ちょうど八時三十二分だったという。そ こで朔郎を|質《ただ》してみると、あいつはうっかりしていたといって躍り上がった始末だ。もち ろん|些細《ささい》な点に至るまで、ぴったり符合しているんだ。法水くん、昨日朔郎の部屋の時計 が二分遅れていたのを|憶《おぽ》えているだろう。そして、あのように重い沈んだ音を出す時計と いうのは、寺には一つもないのだからね」 しかし、法水のどんより充血した目を見ると、夜を徹した思索がいかに|凄烈《せいれつ》を極めてい たか……が想像されるのだが、そうして熊城の話を聞き終わると、その目がにわかに|欄《らんらん》々 たる光を帯びてきた。 「そうかい。すると、とうとう劫楽寺事件の終編を書けるわけだな。実は、朔郎にアリバ イが出るのを待っていたのだよ。ああ、それを聞いたら急に眠くなってきた。済まないが 熊城くん、今日はこれで帰ってくれたまえ」 その翌日だった。法水は開演を数日後に控えている、|蝦十郎座《えびじゆうろうざ》の舞台裏に姿を現した。 午前中の奈落は人影も|疎《まぱ》らで、厨川朔郎は白いアトリエ着を着て余念なく絵筆を動かして いる。その肩口をぽんと|叩《たた》いて、 「やあ、おめでとう。ときに厨川くん、きみは昨日柱時計を修繕したのかい?」 「なんです?ぼくにはいっこうに|呑《の》み込めませんがね」 朔郎は|怪詩《けげん》な面持ちで言った。 「でも、あの日からきみの時計の時鳴装置が、どんな時刻にも一つしか打たなくなったは ずだがね。それが今日きみの留守中行ってみると、いつの間にか普通の状態に戻っている んだ。しかし、きみはおそらく口を|際《つぐ》んでしまうだろうから、ぼくが代わって言うことに しよう」 と最初、法水はきわめて平静な調子で言い出したのであったが、それにつれて朔郎の唇 に現れた|痙撃《けいれん》がしだいに度を高めていった。 「それには最初、準備行為が必要だったのだよ。きみは自分の部屋の時計に綿様のものを |支《か》って、時報を鳴らなくしたはずだったね。そして七時前に部屋を出て、裏木戸から薬師 堂へ行ったのだが、それ以前に留守の部屋の時計ときみの手に代わるものを、柳江の書斎 に作っておいたのだ。ところで、きみの偽造アリバイを分解しよう。まず柳江の書斎にあ る柱時計の長針と短針とに、安全|剃刀《かみそり》の刃を一定の位置に|貼《は》りつけておいたのだ。それか ら、時計の右手にある|釘《くぎ》に糸を結びつけて、それを斜めに数字盤の|円芯《えんしん》の上から八時三十 分以後に刃の合する点を通して、末端を自分の部屋から携えていったポ1タブル蓄音機の 回転軸に縛りつけたのだ。蓄音機は前もって扇形に張ってある|蜘蛛糸《くもいと》の下へ、適宜な位置 で据えてあったのだが、それも細工がある。きみはたしか速度を最緩にして、ちょうどふ た回りで止まる程度に|発条《ゼンマイ》をかけておいたろう。それから送音管を外して、それを逆さま に中央の回転軸に縛りつける。すると、サウンドボックスが|傭《うつむ》くからちょうど|卍《まんじ》の一本と 同じ形になるのだが、それが済むといよいよ停止器を動かして回転を始めさせたのだ。も ちろんそれだけでは糸が盤の回転を許さないのだが、そのうち八時三十分を少し過ぎると、 両針につけられた剃刀の刃が合うから、糸がぷつりと切断される。そうして回転が始まる と、サウンドボックスの針受けが上の蜘蛛糸を|弾《はじ》いて、あの時計に似た沈んだ音響を立て たのだよ。つまり、最初の回転で六つ、二回目で一つそれが三十分の報時に当たると いうわけだが、その二回で発条の命脈が尽きてしまったのだ」 「どうかしてますね、あなたはη…」 朔郎は突然、引っ|撃《つ》れた声で笑った。 「あんな|絹紐《きぬひも》から、どうしてそんな音が出ましょう?」 「なるほど、十本のうちで両端の二本ずつは単純な絹紐だよ。ところが、うちの八本は本 物の小道具なんだ。土蜘蛛の糸にはもう二十年この方、電気用のヒュiズを芯にして使っ ている。しかもその中の一本には、ごく太目のものをきみは芯にしているんだ。だから最 初八つ打ったのだが、七本の細いヒューズはその場で切れてしまって、残った太めの一本 だけは二回目のときに、ボlンと一つ鳴ったってわけさ」 「いや、実に奇抜な趣向です。しかし、いったいそれは、あなたの独創なのですか」 朔郎は|膏汗《あぷらあせ》をたらたら流し、辛くも|椅子《いす》の背で倒れるのを支えていたが、しいて|嘲《あざけ》るよ うな表情を作った。 「いや、きみのちょっとした手抜かりからだよ。が、いたい発条が全部|弛《ゆる》み切れているなん て、使っている蓄音機には絶対あり得る状態じゃない。きみは凶行後にあらゆるものを原 形に戻しておいたばかりでなく、故意に自分の口から出さず他人に言わせて、アリバイを きわめて自然なように見せかけようとしたのだ。だが、たった一つ発条を巻いておくのを 忘れたんだよ。ぼくはあの蜘蛛糸を見たとき、これならアリバイを作れると直感したのだ。 だから、それでアリバイが証明されるようだったら、きみが犯人だと信じていたのだよ」 「すると、もうそれだけですか?」 朔郎は思わず絶望的にのけ反ったが、なおも必死の気配を見せた。 「まだある。今度は像の後光だよ。しかし、実に|巧《うま》く月の光線を利用したもんだなあ。月 夜には頭上にある節穴から、約五分ほどの間だけ像の後頭部に光が落ちる。それを知った ので、像に後光が現れた時刻を調べてみると、二回とも節穴から月光が|洩《も》れる刻限に当た っているらしい。それで、後光の|全貌《ぜんぽう》が分かったのだよ。つまり最初の夜は、臭化ラジウ ムと硫酸亜鉛とで作った発光塗料を、あらかじめ黒い布帽子に丸く点在させておいて、そ れを像の後頭部に|冠《かぷ》せ、その布帽子に長い紐をつけて、紐の末端を敷石の上に置いた|鋲《ぴよう》に 結びつけておいたのだ。そして刻限を計って慈艇を誘い出したのだが、月の光が頭上に落 ちている間はそれに遮られていたけれども、月の位置が動いて堂が真っ暗になると、発光 塗料が蛍光色の光円を作って|棲愴《せいそう》な擬似後光を発光させたのだよ。もちろん慈胆は仰天し て逃げ出したのだろうが、きみは鋲を|下駄《げた》で踏んでそれを引き|摺《ず》って駆けながら、途中で 取り外して懐中に入れたのだろう。どうだね、厨川くん。ー1それから、凶行の夜になる と、今度は胎龍の面前で後光を発光させたのだ。しかし、その時の順序は前の二回とは反 対で、擬似後光が胎龍の目に触れるとすぐ、月光で消すようにしたのだったねーたし かη」 暴露された犯罪者特有の醜い表情は、とうの間に消え|失《う》せていて、朔郎の顔は|白蝋《はくろう》の仮 面さながらだった。 「だが、いったい胎龍はどこでどんな凶器で殺されたのだね?それから、死体の状態と あの不可解極まる表情は?それ以外にも、この事件には数かずの|謎《なぞ》が含まれているのだ |力《や 》…・:?」 と、熊城はひと息入れる|隙《すき》を法水に与えなかった。 「うん」 ゆったりと唇を湿して、法水の舌がふたたび動きはじめた。 「では、厨川くんの計画を最初から述べることにするから、その中から現れてくるものを よく注意していてくれたまえ。ところでこの事件は、三月|晦日《みそか》の天人像の怪異で幕が上が るのだが、それ以前に、胎龍の語る夢を精神分析的に解釈して、最初の機会が熟するのを 待っていた。そして案の定、投げた|般子《さい》に目が出たので、しだいに胎龍は一昨日ぼくが話 した夢判断とおりの経路を|辿《たど》って、一路衰滅の道へ|堕《お》ちていったのだ。ーつまり厨川く んは犯罪としては実に破天荒な、大脳を侵害する組織を作り上げたのだったよ。また、胎 龍から意識を奪ってまったく無抵抗にした原因というのも、実はそこにあることなんだ」 「」 朔郎は機械人形のように|頷《うなず》いた。 「そして厨川くんは、それ以外の|三月《みつき》余りの間を、絶えず夢を語らせてはその精神分析に よって胎龍の脳髄中に成長していく組織の姿を、冷然と見守っていた。というところまで がデッサンであって、あの日にいよいよ絵筆とパレットを持ったのだよ。で、その手始め に、|三度《みたび》天人像に後光を現したのだ。胎龍はそれを超自然界からの啓示と信じて、やがて 下ろうとする裁きに|畏怖《いふ》と法悦のほか何事も感じなくなってしまった。それがいわゆる、 健否の境界なんだよ1精神の均衡が危なくなって、まさに片方の|錘《おもり》が転落しようとする。 つまり厨川くんの作った組織が、わずかひと筋の健全な細胞を残すまでに食い尽くしたの だが、それが表面平素と変わらぬように見えたけれども、その実胎龍の内心には、空闊の 日和下駄を無我夢中で引っかけたほどに、|凄惨《せいさんあ》な|嵐《らし》が吹き荒れていたのだ。それから、胎 龍は薬師堂に上って護摩を|焚《た》き、必死の祈願を込めて薬師如来の断罪を求めたのだ。とこ ろがその時、厨川くんは薬師仏にも奇跡を現したのだよ。突然、如来の光背の辺りで後光 が輝いたのだ」 「なにηH」 熊城が思わず|煙草《たばこ》を取り落とすと、 「ああ、あなたは実に恐ろしい人だ!」 と|岬《うめ》くように朔郎が嘆息した。しかしながら、法水にとってはその真相も一つの事務的 な整理に過ぎなかったのであった。 「ところが、それが線香花火なんだよ。厨川くんは薬師仏の背後の壇上にある聖観音の首 に、鏡をやや下向きにかけておき、薬師三尊のうちの月光像の背後で線香花火を燃やした のだ。すると、もちろんその松葉火が鏡に映るわけだが、それを胎龍の座所から見ると、 護摩の煙で拡大されて、ちょうど薬師仏の頭上で後光が|閃《ひらめ》いたように見えたのだよ。と同 時に、強烈な|精神凝集《コンセントレ シヨン》が起こるということは、心理学上当然な推移に違いないのだ。い まに|兜率天《とそつてん》から|劫火《 ごうか》が下って薬師如来の断罪があるだる?lIと、そういう疑念を鋭敏な 膜のように一枚残しただけで、胎龍の精神作用を|司《つかさこ》る|瀕死《ひんし》の|生体組織《オルガニズム》どもがいっせいに作 業を停止してしまったのだ。そうしてこの状態は、低い絶えだえな経声とともに、おそら く数十秒の間続いたことだろう。その間に、厨川くんは背後の物陰に回って、辛うじて聞 き取れる経文の唱句をじーっと耳膜で数えながら、最後の1殺人具をもっとも効果的に するーある一節に達するのを待ち構えていた。言うまでもなく、その時胎龍が唱えてい た『秘密|三昧《ざんまい》即仏|念諦《ねんじゆ》』1それは、厨川くんが平素から熟知していた。だいたい、経文 には火に関する文字が非常に多いのだから、必ずしもそれに限ったことはなかっただろう が、その『秘密三昧即仏念諦』は、たぶん|暗諦《あんしよう》できるほどに耳慣れがしていたに違いない。 それで、線香花火を燃やすに適切な時間などもあらかじめ錯誤せぬよう、目的の一節を基 礎に算出することができたのだったよ。ところで、いよいよそれが到来すると、がぜん胎 龍の悲壮な|悦惚《こうこつ》がクライマックスに突き上げられ、完全に現実から離脱してしまった。と 同時に凶器が下ろされたのだよ。で、その一節というのは、経机の上で開かれていた"五 障百六十|心等《しんとう》三重赤|色妄執火《もうしゆうのひ》〃という一句なので、その唱句が終わった|刹那《せつな》に、突如胎龍 の頭上に赤色妄執火が下ったのだ。というのは、背後から厨川くんが例の赤い|筒提灯《つつぢようちん》を胎 龍の頭上に|被《かぷ》せて、それをしだいに縮めていったからだ。胎龍のその時の状態では、てん で識別できよう道理がない。そして提灯の縮小につれて、妄執の火がしだいに濃くなって いく。もちろん、胎龍はその刹那に火刑iとでも直感したことだろうが、それを反復す る余裕もなく、ひたすらこの恐怖すべき符合のために、|脆弱《ぜいじやく》な脳組織が瞬時に崩壊してし まったのだ。しかし、それが超自己催眠とでもいう状態なのか、あるいは魅惑性精神病発 作の最初数分間に現れる、硬直性の意識混濁状態だったのかーいずれにしろ、その点は 至極分明を欠くけれども……とにかくこうして、厨川くんの侵害組織はついに最後のピリ オドを打つことができ、意識と全感覚の|剥奪《はくだつ》に成功したのだったよ。つまり、その結果実 現された怪死体の制作が胎龍の大脳を、厨川くんが理論的に|歪《ゆが》め変形していった結論だっ たのだ」 それから筒提灯が何をしたかi法水の説明は、最終の|断頭機《ギロチン》に及んでいった。 「そこで厨川くんは、数珠の垂れを合掌している両手に絡めておき、あらかじめ鋭利に研 ぎ澄ましておいた提灯の鉄芯を|顔頂部《ろちようぷ》に当てて、それを|渾身《こんしん》の力で押し込んだのだ。しか し胎龍は、|焔《えんえん》々たる地獄の業火と|菩薩《ぽさつ》の広大無辺な法力をほんの一瞬感じただけで、その まま微動もせず無痛無自覚のうちに死んでいったのだよ。すると熊城くん、その脳組織侵 害法が、きみのいわゆるメカニズムだったということが分かるだろう。それからぼくが、 そのメカニズムと殺人具とを|繋《つな》ぐ不思議な型の歯車といったのが、とりもなおさずあの筒 提灯だったのだよ」 「だが、どうしてそれと分かったね?」 熊城は|溜《た》めていた息をふーっと吐き出して、汗を|拭《ぬぐ》った。 「その一つは、厨川くんは線香花火と月光像との間に、何か仕切りを置くのを忘れたから だよ。線香花火は硝石と鉄粉と松煙の混合物だからね。そして、鉄粉は松葉火になって空 中に出ると、酸化して角が丸くなってしまうのだ。それからもう一つは、数字的な符合な んだよ。というのは、提灯の口金と胎龍の|頭蓋《ずがい》とのサイズであって、刺傷|痕《こん》と鉄芯が双方 の円芯に当たっているからだ。もちろんよく|剃《そ》りの当たった|僧侶《そうりよ》の頭蓋なら、縫合部の位 置にほぼ見当がつくだろうからね。そしてそこに偶然の一致があるのを、厨川くんは発見 したのだ。すると、それから考えると同じことだけれども、喬村くんと空闊の|体躯《たいく》が被害 者そっくりだったということや、また柳江と|伎芸《ぎげい》天女の相似なども、たしかにあれは自然 の悪性な戯れに違いないのだよ。もちろん玄白堂の板壁にある三つの|孔《あな》なんぞも、一その念 入りの一つに過ぎないのだがね」 「なるほど」 熊城は頷いて、目で先を促した。 「で、ここまで分かれば、死体が絶命前の硬直状態をそのまま持続したということが確実 になる。事実、数珠の緊縛を解いて重心を定めたので、ちょうど|祈薦《きとしつ》中さながらの姿を保 つことができたのだ。おまけに、蝋受けの皿がぺったりと被さったので、流血がほぼ火山 型に凝結してしまったというわけなんだよ。さてそれから、薬師堂の扉を開け放して提灯 を|点《とも》し、目撃者を作ったことは言うまでもないが、久八が通り過ぎたのを見定めると、今 度は胎龍の日和下駄を履いて|坐像《ざぞう》の死体を玄白堂に運び入れたのだ。つまり、支倉くんが 少し溝が深いと言ったのはその時の足跡なので、帰りは|裸足《はだし》で石の上から左壁近くに跳び、 その足跡をすぐ池溝の|堰《せき》を開いて消したのだ。そうして厨川くんは、犯行の全部を終わっ たのだよ」 「なるほど、それで提灯を点した理由が分かる」 「うん、あれにはすんでのことで|騙《だま》されるところだった。まったく自然な|隠蔽《いんぺい》方法だから な」 法水は|櫟《くすぐ》ったそうに苦笑した。 「なにしろ血に染んだ個所というのが、鉄芯から蝋受け皿の内側にかけてだけだろう。だ から、その部分を洗ったにしたところで、あとで|蝋燭《ろうそく》を鉄芯の間際まで点すから、|尖鋭《せんえい》な |槍先《やりさき》から下の不自然な部分が流れる蝋ですっかり隠されてしまう。しかし、それを|吊《つ》るし て人目に|曝《さら》したのは、|狡猜《こうかつじ》な|擾乱《ようらん》手段に過ぎないのだ」 「すると、堰を切ったのも厨川だろう」 「そうだ。久八が堂の前を通ると、すぐに灯を消して池の|畔《ほとり》へ出たのだ。それは喬村くん と柳江が毎夜会うのを知っていたので、それを利用してぼくらの視線を喬村くんに向けよ うとしたからだ。ところで厨川くんは、最初に久八の犬の鎖を解いて池畔で放し、その鳴 き声によって久八を|誘《おび》き出してから、今度もまた向こう岸で線香花火を使ったのだよ。前 もって血粉を混ぜたのを一本作っておいてそれに点火したのだが、血粉が溶けるので松葉 火が出ず、一塊の火団となって池の中へ落ちたのだ。つまり、それが|喫《す》い終わった煙草を 捨てたと見た、あの目撃談の正体なんだよ。しかしその時、厨川くんは見当をつけて昼間 のうち一本水浸しにしておいた、タバヨス|木精蓮《レセタはす》の中へ落としたのだよ。そうすると、血 の臭気で|蛭《ひる》が集まってくる。そこへ、堰を開いて水面を低下したので、朝になって残って いた蛭が花弁に包まれてしまったのだ。玄白堂内の足跡を消す以外に、厨川くんにはこう いう陰険策があったのさ。たぶんぼくを目標に計画したことなんだろうが、事実ぼくも、 喬村くんの影をどうしても払い切れなかったのだ」 と言ってから、朔郎に向き直って、 「しかし、きみはなぜに喬村くんを陥れようとしたのだね。それに胎龍を殺害した動機と いうのは?いくらぼくでも、きみの心中の秘密だけは分からんからね」 朔郎は|囚《とら》われた犯罪者とはとうてい思われぬような、澄み切った|瞳《ひとみ》を向け、冷静な言葉 で言った。 「ぼくは父の|復讐《ふくしゆう》をしたのです。父は胎龍と年雅塾の同門だったのですが、官展の出品で 当選を争った際に、胎龍は|卑怯《ひきよう》な暗躍をして父を落選させ、自分が当選しました。父はそ れを気に病んでから発狂し、一生を病院で終わってしまいました。ですから子たるわたし は、どうしても目で目に報いてやらねばならなかったのです。それから、喬村には理由は ありません。ただ、動機と目されるような行為を続けていたので、それを利用したに過ぎ なかったのでした」 と言い終わるが早いか、朔郎は突然身を翻して、背後にある|配電函《キヤビネツト》の|側《そぱ》に駆け寄った。 ガラスがパンと砕けると同時に、法水は思わず目を|瞑《つぷ》った。|閃光《せんこうま》が|瞼《ぷた》を貫いて、裂くよう な叫び声を聞いたが、一瞬後の室内は焦げた毛の臭いが漂うのみで、さながら水底のよう な静寂だった。|顧額《こめかみ》に高圧電流を受けて、この若い復讐者はふたたび|蘇生《そせい》することがなか ったのである。