猪狩殺人事件 覆面作家  猪狩町一帯の高原は、例年十一月には降雪期に 入るのである。が、今年はどうした訳か、寒さの 割には雪を見るのが遅い。…二日で、十二月だと 云うのに、まだ一度も白いものを見ていない。そ れは、南方七里のところに、白ちゃけた|室蘭《むろちん》湾を 控えているせいか、折々海流の関係で斯うした現 象があるとかと云う話だ。  その猪狩の町は、十年ほど前は名もない一寒村 だった。それが、鹿野沢の盆地に炭脈が発見され てから急速に開けはじめて、今では万余の戸数を 数えるまでになった。庁立病院や裁判所や、二三 の中等学校なども出来、今では教会もあり、猪狩 報知などと云う日刊新聞もあると云った具合で、 漸くこの炭坑町に、都市らしい体裁が具わって来た。  わけても、この町は、発展を松猪軽便鉄道に負うところが多い。|臼熊《うすくま》地の山系を真っ縦に横 切り、本線の松音内駅に連絡している。その、全長僅かに五哩、駅と云えば、両端にある二つ だけと云うお粗末なものが、日夜猪狩に新鮮な血液を送り込んでいるのだった。もちろん、上 述しただけでは、猪狩と云う画然たる印象が|涯《うか》び出て来ない。いや、事実に於いても、雑色混 清と云った有様で、地下足袋や|印半纏《しるしばんてん》の群に、水兵服が|点綴《てんてい》されたり、|瀟酒《しようしや》な音画館の前で、 抗なまぐさ にんじようざ た 血腱い刃傷沙汰が行なわれるのであった。  しかしそうした猪狩の空気に、実に似付かわしい人物を、一人冒頭に登場させたく思うので ある。  縁の下った黒いソフトに、垢染みたモーニングを着て、チョッキの鎖には時計がなく、唇の 薄い、|眦《まなじり》が安酒で赤く滲んでいると云った風体1。その男が、「猪狩報知」の外勤記者、|田 母澤大五郎《たもざわだいごろう》なのである。  昨夜からの雨が、小止みになって、両側の屋並には、砂糖菓子のような|氷柱《つらら》が下っている。 ちょうど、朝が終って、街が一呼吸入れる十時頃に、田母澤は、せかせかと町外れに向って歩 いて行った。  何しろ、土地が狭いのであるから、彼ものべつ矢鱈と記事の|払底《ふつてい》に悩んでいた。そうそう無 暗に、炭坑が爆発する訳でもないし、と云って|罷業《ストライキ》もなく、近頃では、とんと刃傷沙汰も聴 かれなくなってしまった。そんな訳で、選挙でもない限りは、炭坑に異状なしが何よりの苦痛 なのであった。  斯んな事じゃ、今に新聞の半面は、白紙にせんけりゃならんぞと、主筆も宜い加減気を腐ら せてしまって、いっそ止めるか、そうして、副業の印刷に身を入れた方が、とまで云うように なってしまった。そうなると、差し当り困るのが、田母澤であって、流れ流れて、北海の涯で 漸く衣食にあり付いたのであるから、何とかして、この危機を未然に防ごうと焦り出したので ある。  で、それからは、|蚤取《のみとま》り|眼《なこ》で記事を|漁《あさ》る傍わらにも、町中を、平身低頭して広告を頼み歩い たり、際どい、かなり悪らつな手段を用いてまで、有力者の醜聞を嗅ぎ出そうと努めていた。  その日は、前夜の聴き込みで、かねて美人看護婦と庁立病院で名の高い、|潮定代《うしおさだよ》が妊娠し たらしいと云う噂を知った。そこで彼は、一番物にして記事にするか、それとも、あわよくば 幾らかの金でも握りたいと考えたのである。その噂を聴くと、田母澤には、ピインと痛に触れ たものであって、まじまじと、眼が|楠川《くすかわ》医員に向けられたのであった。  楠川医学士は、却って出歯医者と云う、綽名の方が通りの早いくらい、それほどの色豪であ った。これまで田母澤も、楠川を|繞《めぐ》る様々な噂を聴き込んたので、その都度、生餌を狙う獣み たいに附纏ってみたが、いつも肝心な土壇場でヌルヌルッと抜けられてしまう。そして、|時偶《ときたま》 僅かな金を煙草銭と云って、掴まされるに過ぎなかった。  庁立病院は、町の西端にあって、開拓当時の遺物らしい丸木小屋の集団に囲まれていた。し かし彼が、名刺を突き出して、受付に来意を述べると、 「いいえ、楠川先生は、まだ御出勤では御座いません」と云う答えだった。  ここらで、普段なら一理屈|捏《こ》ねるところであるが、田母澤は何と思ったか、その儘|踵《きびす》を返 して病棟の方へ歩いて行った。 「フフウ、奴、居留守を使っているか。だが見てろよ、今日は何としても、尻尾を掴んでやる からな」  と、小砂利を踏み踏み、楠川主任の婦人科病室の囲りを歩きはじめた。すると、耳ざとい彼 に、ふと足を止めさせたものがあった。 「そうですよ、楠川先生ですよ。先刻から、申し上げているじゃありませんか。先生は、昨晩 松音内にお泊りで、まだ御出勤になって居りません。申し伝えますとも、|蒲原道平《かんばらみちへい》さんでいら っしゃいますね」  その電話の調子だけで考えても、さっきから、いるかいないかの押問答が続いていたらしい。 しかし田母澤にとると、それが思いがけぬ発見であった。 「なんだ、蒲原道平だと。ホホウ、あの風紀改革家の牧師が、ドン・ファンに一体何の用事が あるのだ。事によると、こりゃ聴きものかも知れんぞ」  何にしても、それで楠川の不在が明らかになったのであるから、止むなく門前で彼を待つこ とにした。  するとその時、前の往還を、一台の緑色のシボレーが掠めて行った。さとくも彼の眼は後尾 の番号札を捉えてしまった。 「二四号! 若い、こりゃ官用だぞ」  と、手帳を繰ってみると、それが松音内検事局の専用車であった。  と、田母澤は、金も恐喝も一切忘れてしまって、何か記者だけの知る、本能的なものが燃え はじめて来た。その時、いま車の去った、方向に当って、鋭くパアンと響いたものがあった。 「しめたぞ、パンクしたかな」  と、半ば疑いながら、小走りに行ってみると、ちょうど丸木小屋の蔭あたりでその車が停っ ていた。運転手が、ジャッキで左前輪をせり上げている。  覗いてみると、内から馳せる視線と|打衝《ぷつか》って、田母澤はハッと胸を躍らせた。 「これは|最上《もがみ》さん、いや失礼します」  そこは、馴れたもので、相手の応えも待たずに、ついと車内に入った。それは、最上と云う 若い検事で、主に|強力犯《ごうりきはん》を担当している。 「ああ、君か。『猪狩報知』の、何と云ったかな、君はP しかし、今日のは私用だぞ」 「そうでしょう、私用かも知れませんな。大分今日は、皆さんがお|解《さぼ》りになるようで。つい今 も、|樫本《かしもと》警部が私用だと云って、出掛けましたからな」  と田母澤が、柄になくヤマをかけたのが、案外この出鱈目、図星だったのである。 「フム、樫本君がかね。すると君は、この事件を何時知ったのだp」 「今、社から電話があったのです。僕は、病院にいたんですがね。しかし、炭坑なら兎も角、 この方角で血とは珍らしいじゃありませんか」  なるほど、車の行手は文化村で尽きて、先は漠々たる大草原になっている。その文化村は、 官吏や炭坑の上位社員などで、猪狩町にとると頭脳に当る人々が住んでいた。 「全くそうだ。蒲原牧師の娘が殺されるなんて。流しでもなけりゃ、あの一画に予想もされん こったよ」 「エッ、蒲原牧師の!」  思わず叫びたいのを、危うく噛み殺したが、彼の胸はドドドッと鳴りはじめた。いま聴いた 楠川への電話が、彼に異様な|使嗾《しそう》を|齎《もた》らしたのである。i事によったら楠川が、何か一役こ の事件に勤めているのではないか、しかし、表面は一向然りげない|体《てい》で、 「実はねえ最上さん、あの|笠尾《かさお》と云う娘が、大変な代物でしてね。艶種を、背負っても背負い 切れんと云う|偉物《えらぶつ》なんですよ。僕の新聞でも、散々叩きましたがね」  しかし、そう云った彼も、蒲原笠尾と楠川の関係だけは知らなかったし、またその時、検事 の瞼がピリリッと|頭《ふる》えたのにも気が付かなかった。そこへ、修理が終って、|機関《エンジン》が再び唸りは じめた。車は二人を乗せて、なめらかに滑って行った。  間もなく、狭い切り通しを上り切ると、視野がひらけて、文化村が俯轍される。松猪軽便の 土堤が、弧線を描く内側に、俗っぽい洋瓦の屋根が点在しているのだ。  その時、落葉松林の蔭から下りの二両連結が現われた。その咽さえ、玩具の綿のように見え て、行手に、よもや変死体があろうとは思われぬ、和やかさであった。ふとその時、何に気付 いたか、検事は、時計に落した眼をはね上げて、 「ホウ、こりゃ珍らしいことだ。あの下りは七分ばかり進んでるぜ。いつも、発着の正確を、 自慢にしてるんだがなア」  とその時、猪狩の駅を発車したらしい、上りの|汽笛《ポオ》が聴えた。途端に、二人の眼が再び時計 に落ちたが、それは、何とも異常なものを知らせているのだった。  これも、同じく七分ばかり進んでいる。十時四十六分発であるべき上りが、いま即ち、十時 三十九分に駅を出ているのだ。  上りも下りも、それだとすると、或は一夜のうちに、全線の時計が狂ってしまったのではな いか。 猪狩殺人事件のトップを切った覆面作家はナント小栗虫太郎氏であ った。 氏は|茲《ここ》に感想を寄せて|曰《いわ》く・ 「探聖」になり損ねた連作 小栗虫太郎  先月号に載った、連作「猪狩殺人事件」の書き出しは、実に小生がものにしたものであ る。と云って、頼まれたのでもなく、僕の方から自発的に呈上したものである。いつだっ たか、大慈君がやって来たときに、近々連作をやる予定だが、その書き出しを、既成作家 の誰かがやってくれまいかと云う話しだった。僕は元来、連作と云うやつが大嫌いで、こ れほど無意味な代物が、世に横行闊歩するのは嘆わしき極みと考えていた。論より証拠で ある。最近の「黒い虹」までいくつかあるが、どれもこれも砥なものではない。  所が、大慈君に云われると、僕はちょっと考えさせられた。いやむしろ、むずむず|唆《そそ》り たてるような、好奇心だったかも知れなかった。そこで大慈君に、適当なものが、一つあ るから、使ってみたらと云った。実は僕に、かなりな旧作で、「魔童子」や「紅殻駱駝」 の頃に、十五枚ばかり書いた未完成ものが一つある。これには、柄にもないことを企てて、 他愛もない、莫迦莫迦しいことを、終りまで、さもあり得るかのように粉飾する事が出来 ないものか。  それを、一字で云えば、しか|見《アインシヤイネニ》えるーである(|井《デス》上良夫氏の評論中に、何かこれに似 た言葉があったと思ったが)。その、しか見える、或は、如きかの観1が、僕は技術上最 高のものではないかと考えていた つまり、鉄道全線の時計が、七分狂ってしまったー と云う、あれがそうであるが、それを中心に一三ω一を作って、終りまで持って行けたら大 したものだと思った。それこそ、探聖である(音楽に楽聖あり絵画に画聖あるにも拘わら ず、探偵小説に「探聖」と云う用語なきは如何)。現在日本の大家にも、まだこれをやり 遂げたものはない。  そこで、野心満々として、十余年前のものを引っ張り出したのが、去年の夏のことであ る。「奥の奥」にやるつもりで、一度読み、さてそれから先を考えたが、駄目だった。 |如《アインシヤ》きかのーではなく、|依《イネンデス》然として、あるが|儘《アインザイエンデス》  である。そこで、再びもとの抽斗 に|窮命《きゆうめい》仰せ付けたのであるが、さて大慈君の顔を見ると、また浮んで来て、必ずしも、 同人中に「探聖」の出現なきを保せずーと考えた。その点で見ると、僕の失望、非常に 大いなるものがあるが、しかしそれは、元来無理も甚だしい望みなのである。で、その点 にはこだわらぬ事にして、以下感想を述べることにしよう。  全体に渉って、筋立ての乱雑、コースもなし、|継走相者《リレ ランナ 》が、しょっちゅうバトンを落し たり、リレーゾーンを飛び出したりしている。これは、先輩諸氏が、|屡《しばしば》々範を垂れ給いた るところであれば、問わぬことにする。しかし、我慢のならぬのは、クスターロフと云う 男が、終回まで一度も顔を出さぬことである。私よりも、むしろこれには、終章を書いた 荻君が、吃驚仰天したのではないかと思う。第一、筋の受渡しをやって、書かせることを せず、中途頃から全く停頓状態だったので、これでは、風のない海に帆を張れと云う底の ものであろう。  そこで、遠慮のない所を云うと、村正君から伊志田君までの、最も本格的な部分である が、その三章で、筋の発展が全く死んでしまった。尤も、その点は、前の二者-大慈君 と平塚君にも、一応の責任はある。幾分助ける気味の、締め括りをやるのも、両君、仏心 ではないか。そんな訳で、解決に近いその三章で、俄然推理の必要が起りーこれは、突 風的推理を、むしろ余儀なくされたのであるが1与えられたデータが少ないために、こ の三章は最も生彩のない部分に終ってしまった。思えば、三君には気の毒である。  そこで、要約すると、通読するには、連作の弊があまりに酷く、と云って、章別に見れ ば、各自の持ち味が、相当の役割を果している。殊に中島君が使ったクスの符合は、後半 の興味を唆る意味での大功であるが、惜しい哉、折角のこれも有効に使われなかった。ま た、荻君も、前走者数名の意想奔逸が、あまりに甚だしいので、あれを埋め、これを弁じ て|奔命《ほんめい》につとめねばならず、そのために、結尾の余韻を聴かせることが出来なかったので あろう。そして、蘭君の雰囲気描写のみが、唯一の絶章となってしまったのである。  しかし同人諸君よ。  連作に現われる、技量と云ってはホンの一部なのであるから、いずれこの酷評を尻眼に かけるような、作品を私は期待している。 (「探偵文学」一九三六年九月号)