南印度洋《バハール》の悲歌 小栗虫太郎 秘密結社「|海《オ ラン》|人《ラウ》」  六月二十三日、わが尾形恒吉老瓢然と帰るI。海外に於 いてはあまりにも有名であり、一方、故国に於いてはあまり にも知られなさ過ぎるという、この不思議な老人がひょっこ り帰ってきたのだ。  世界を股にかけること、およそ四十年。その間、国際謀略 の闇に若競のごとく出没し、時に雷電を駆使する陽謀ありと いった底の老には数多くの大奇談がなければならない。風雲 の裏側をちょっぴり見せて貰っただけでも、二十や三十の小 説はたちどころに出来るだろう。と私はタネ欲しやのはなは だ虫のいい考えから、遠縁なのを倖い一夕老をおとずれた。  嬰錬ぶりも、老に於いては異常という感じさえする。これ が七十翁かと、しばらく私も呆れたほどのものである。  りゃ  膚艶は、矢ロの頓兵衛のよう。巌丈な体躯、燗々たる眼 光。房々とした白髪は鼠のごとく、全身、これエネルギー、 |活力素《ヴアイタル フォ ス》という、尾形老とはこのような男だ。まったく、 老にはふしぎなエレキがある。それは、|礼譲《エチケツト》につつまれた野 性というべきか、はたまた、ゴリラの蛮力を内蔵する知性の 輝きか。人を圧しながらも惹きつけずには置かぬ老には男惚 れさえしよう。  で、私が、|機《おり》をはからい今宵来たわけを云うと、 「うん、よし」と老は簡単に頷いてくれた。 「わしの、在外四十年間は冒険の連続じゃで……君が堪能す るような話はうんとこさあると|思《フフフフフ》うてくれ。で儂は、二十八 のとき軍籍をはたれた。それは、ある任務のため渡欧せにゃ ならんかったからだ。えっ、なんのためP マアその辺は、 触れんで欲しいと思うな。しかし、それから儂は大いにやっ た。|前独帝《カイゼル》とも会ったし、クレマンソlとも交わった。知っ とるか、例のフランスの猛虎、クレマンソlだ。ああいう、 |蒙古人《モンゴ ル》の血をひいたようた熱血児がいないばかりにhいまの フランスはあんな|醜態《ざま》になってしもうた。さぞや、|英霊殿《ソテオン》の 地下で泣いとるこっちゃろう。あの|海豹《あざらし》みたいなクレマンソ ー髭が、グチョ濡れになるほど、きっと泣いておるぞ」  と、話がちょっとしんみりとなったところヘ、俄然老の眉 が昂然とあがって、 「とにかく、いま肩を抱きあっている人間が、明日は敵にな る。一朝国の政策変らんか私情をなげうっても、儂ら謀略者 たちは、首の捻り合いをする。それも、脱風一過後にはたが いに褒めあうような、わしらには左様な襟度もある。いいじ ゃろう。天晴れな振舞に対しては、敵も味方もない。やられ たと、苦汁三斗を詰め込まれるような思いのときは別じゃ が、してやったりと、ほくそ笑むときの酒の味といったら、 マア河岸酒が「|四《フオア 》つ|薔薇《ロユズ》」くらいに匂うかな。  で儂は、どうやら尻尾を抑えられずに、凌ぎとおして来た がね。しかし、そのあいだに暗殺の危険あり、絶えず密偵の 眼が網のような細かさで、わしの身辺をとり囲んでいたもん じゃった。だから、いま君の眼のまえにいる儂というこの人 間は、いやに若々しい人魚親爺だけではたいぞ。これこそ、 祖国日本の秘密外交史の断片だ。いま君が、わしに敬意を表 し談話を聴こうと参趨したのも、すなわち、祖国日本とこの 老中尉の熱血が、いかに不可分であるかを証明せんがため、 参ったと考える。いや、以てはなはだ結構なこっちゃ」  と、老の気焔に|膏《あぶら》がのってきたあたり、ハッと気が付いた ように私の用件を思いだしてくれて、 「では、君、なにを話そうか。こうっと、差し障りのないと ころで、何にしようかとなると、どうも数が多くて気迷いが するよ。そうだ、古い話はまず扱て置いてだね。今度、帰路 の船中でえらい事にぶつかったんだ。ために、わしも少々冒 険をせにゃならず……それよりも、曝露というかなんと云お うか、まったくこの儂さえも|吃驚《ぴつくり》したような話だ。で、君 は、有色人種の秘密結社をいくつ知っているね」 「サア、支那には大分あるようですが」 「いや、支那のではたい、もっと南。たとえば、。.Z|旨匹口《ヌヤ ビソイイ》.ξ.. のようなもんだ」 「分らんですよ。一体、そのヌヤなんとかさえが、どんなも んだか……」 「それはね、アフリカ黒人の秘密結杜なんだ。 つまり、『白 きものの死』という意味になる。IIIわれ等を苛酷に扱って きた白人どもを、母なる地アフリカから逐いだせというの が、この運動の主眼とするところなんだ。で、その本部がど うやらニューヨークにあるらしい。サ、ミ・アモラというコン ゴオ生れの黒人が、総局を指揮してさかんにテロをやってい る。黒人眼醒めたり、団結せよー-というビラが、いくら剥 がしても|紐育東川沿区《イ スト サイド》に貼られる。しかし、わしが云うのは それではないよ。西印度洋でいう.、}|口三《アヲ ミ》..、蘭印ではいう ..08ロ㈹い●|口《オ ラン ラウ》..のことだ」  老の顔が、だんだんにひき緊ってくる。国際謀略場裡の千 軍万馬の|強者《つわもの》でも、どうやら充奮をおぼえたような面持だ。 「つまり、前のほうのは『東海岸の海賊』蘭印でいうのは、 『海人結杜』という意味になる。むろんこれは、二つながら 同じものを指すのであって、『|馬来《マライ》人の馬来』建設というの が、この一派のスローガンになっている。で、醒めたる馬来 とは、これは大変であると1英、蘭両政府とも躍起となっ たがね。困ったことには、なにも分らない。いったい、本拠 というのが、何処にあるのか、どういう連中が幹部で首領が 何者か1一切合財がどうしても分らん」 「初耳だ」と私は岬くように、いった。大体が、怠けもんで 早熟早老の彼らに、独立意識などはてんから無いように考え られていたから。いま老の口からでた「馬来人の馬来」なん てえ言葉は、まったく正直なところ喧ってしまうより他にな い。すると、その気振りをさとったように、老は、 「そりゃね、馬来の男ときたら、たいへんな怠けもんさ。所に よりゃ男が遊んでいて女が働く。島にいるくせに、大洋をお それる。青年にしてすでに年老りであり、澄刺ざかりであり ながらオール腎虚であるーというのが馬来人の現状さ。し かしだよ、その馬来人種がつくった秘密結社にだね、なぜ、 万里印度洋の波濤を思わせるような『海人』という名がつい ているのだろう。1君、じつに問題はそこだ」 「といいますと」 「つまり、その本拠があるのが、蘭印ではない。馬来連邦で もないしフィリッピンでもない。かえって、本舗にはなく出 店のほうにあったと云えば、君も商売柄ハハアンと気がつく だろう」 「では、マダ……」 「そうそう、マダガスカルだ」と老は悦に入って、うなずい た。  アフリカ東海岸に葡領東アフリカをのぞんで、マダガスカ ルの大島がある。ここは、中部高原に棲むウーヴ族も、東海 岸絶壁帯を占めるマラガッシー族も、じつにアフリカにあり ながらも黒人ではなく、土着ヴァジムバの血三分、馬来七分 というーほとんどこれは馬来人といえるのだ。  ことに、マラガッシー族中のアンタイサカ族は、勤勉、 刻苦をいとわず正義心に富み、標桿、海をおそれぬこと、 |人《ヲス ロ》 |鰹《ヨカム》の称がある。片舟「|椋欄《ムテ》帆|舟《ベ》」を駆って南印度洋を 乗っきり、ときには船隊を組織して海賊をやる1南印度洋 の恐怖、.、|青口三《アラ ミ》..がこれだ。まして、このアンタイサカ族は 雑婚をしなかったため、いまでも純粋の馬来の血をもってい る。本土、蘭印には消えた純粋の血をいだき、崎蝿たる絶壁 下に怒濤の飛沫をあびながら、はるか南印度洋をへだてて蘭 印をのぞんでいるーアンタイサカの胸裡に浮游するのは、 何か?  そこに老の物語がはじまるのである。 「だが君、わしは君にむかって、小説を話すんじゃないよ。 小説家の君に小説を話すなんて、わしは、そんな愚なことは やらん積りだからな。しかし、世のなかには、こう云うこと がある。おそらく、あり得ないような信ずべからざる事実と いうものは、おおむね、驚かれるか廟笑されるかの二つだ。 絶対に、そのあいだの中間というものはない。で、これから 儂が話そうというのも、その範囲に属する。君は、驚死する か、アハハッハと曝うかだ」 「と云いますと」 「たとえば、わしが君にこういうことを云ったら、どうだ。 日本人、女王ラナヴォロナ四世と……」  私は、ちょっと暫く煙にまかれたような思いだった。ラナ ヴォロナとは、母音が多いところをみるとラテン系の名のよ うであるが、おそらく南米にさえ左様な女王はいまい。では、 蘭印のどこかの島の|旧王《テジヤ》の妻か。と思うが馬来的な名ではな いし……。とにかく、日本人でいて外国の女王になっている  ・はてな、はてなと、繰りかえしているうちに、尾形老 が、 「では、そのラナヴォロナ女王のことは暫時預かるとして、 わしが、『|海人結社《オヨラン ラウ》』の首領に偶然出会った話からはじめよ う。じつは、今度帰りしなにシンガポ1ルで降りたのだ。用 件はすぐに終ったが、日本船がない。滞在はいいが、蒸し殺 されそうなんで、やむなく|日《ジエ 》・|支《 シ  フ》・|瓜社線《シユモ エル》の『テイパナス』 号にのった。こいつは、六千|噸《トン》ばかりの蘭印の社船で、しょ っちゅう華僑ばかりを運んでいるせいか、むっと|韮《にんにく》くさ い。その匂いのなかで儂ひとりが日本人という、まったく、 |甲板船客《デッキ パツセソジヤ 》の奴らにぎょろっぎょろっと睨まれる気持は、 正直なところ、あまりよいもんではたいな。しかし、香港ま ではなんの話もない。ローマンスと冒険がこの老血を待って いたのが、香港着の数時間まえのことだった」 二 地上の肉珊瑚  |荒天《しけ》ていた。南西|季節風《モンス ン》の吹きすさむ南支那海のこの頃 は、三角波が荒れてひどい揺れかたをする。おまけに、この 船には|水平《ジヤ》保|定《ィ》装|置《ロ》がない。ズシンズシンと、三角波特有の 突きあげるようなやつが、ぐいぐい胃の騎にこたえる気持 は、じつに云えんもんだよ。そこへ、船客への触れ出しがで た。香港着が払暁の四時だというー。やれやれ、まだかれ これ九時間もあるんかと、儂はうんざりしてしもうた。ちょ うど、その時は日没がはじまったばかり。  土堤のような雲が、落日点を覆うている。波浪の谷がだん だんに暗くなり、それまで左舷にみえていたコーディネート |暗礁《リ フ》の環泡も、しだいに濃くなってゆく、暗紫色のなかに溶 けていく。見せたいよ。やがて、絵具という絵具をぶちまけ たような、南支那海の壮麗な日没がはじまる。  でわしは、北西の空を焦がしている噴射から眼を避けて、 澄んだ、淡い、桔梗の花のような東のほうの残光をながめて いた。すると、そばに誰か立ちどまったような気配がする。 見ると愛らしい|食堂給仕《メス ボ イ》が一人。 「あのう」と、やがてその食堂給仕がわしに声をかけてき た。「跳ねましたでしょうか。もし、そうでしたら、お許し 願いたいと思いますが」 「跳ねたとは、なんのこったね」 「吐きましたので」とその少年は簡単にそういって、首をさ げる間もなく、欄干に突っ伏した。  おやおや、食堂給仕のくせに船酔をするなんて、さてはこ いつ新米だなと思いながら、ふと横顔を頸越しにみたとき だ。わしは心中オヤッと思ったよ。ねえ、お岩様の|台辞《せりふ》にな んとあるね。これが|真《ほん》まにわしの顔かいなーとあるがこの 場合、この少年の「テイパナス」号甲板上では、これがほん まに男かいなーと、いいたいのだ。  とし                      せい  齢は十七、八で、五尺二寸くらいの背丈はあり……濃オリ ーヴ色をした|縮《フリツジ 》れ|毛《 ヘイア》のうつくしさ。チョコレート色の肌を もりあげる豊醇な脂肪層がえがく、肩から腰へかけての線は 得もいわれん思いじゃて。馬来か、しかし、馬来人にしては あまり顔が端正過ぎる。その少年には|金属的《メタリツク》な美のかげに、 微塵の妄影すら描くをゆるさぬ威厳のようなものがある。こ れにもし、王冠を頂かせ|左手《ゆんで》に宝|笏《しやく》をもたせたら、わしは南 海を統しめす夢の国の王子さまと、土下座し頭を|擢《す》りつける だろう。いや、|法螺《ほら》ではない、まったくの話だ。  とにかく、わしには異端を愛する芸術家の素質があるて ・…・・この少年にあらわれている異様な性の混清を、さながら 名画をならべた大ギャレリーのなかを行くかのごとく、しみ じみ鑑賞し、つくづく感に堪え、これこそ地上の肉珊瑚と讃 嘆これ久しかったのである。すると、少年の気分がやがて直 ったらしく、儂になん度も詑びをしたあとでこんなことを云 うのだった。 「お客さまは、日本の方ですね。すると、鮭という魚を御覧 になったことがあるでしょう」 「あるとも、見るばかりじゃない、さかんに食ったもんだ。 だが、君のような南海うまれが、どうして知っているね。あ れは、寒い寒い、北のほうの川で獲れるんだから」 「私の、|祖父《じい》にあたる人が、いつも云っていたそうです。あ の色は鮭の色だって……。ほら、いま頭のうえにある雲です ね。陽がしずむ時にでる鱗形の雲が、夕焼した色をそう云っ ていたそうなんです」  頭上には、巻層雲が|鮭赤色《サヨモン レツド》に焼けている。海面ははや暗 黒をやどし、蒸し蒸しする|沙霧《ヘヨズ》が、一面に漂うてきた。が、 いま少年がいった鮭と雲のこと。ほのかな哀愁を漂わせ北の 国を見つめているような、いまの言葉には混乱せずにはいら れない。いや、わしは訊かずにはいられなかった。 「じゃ、君のお祖父さんというのは、北の国の人なんかね」 「いいえ」少年は首をかしげて、笑いながら答えた。 「すると、君の生れはどこだね」 「蘭印のフローレス島です。僕は名をマナンナ・チェンとい いますが。あっ、もう食事の時間です。叱られますから、こ れで失礼いたします」  と、男性ソプラノとでもいいたいようた美しい声を響かせ て、少年は司厨室のほうへ去ってしまった。わしは、鹸風の なかに、ぽんやり立っていた。いくら逐っても払いきれぬも のが、あの少年の女体としての影だったのだ。  するとその時、薄闇のなかでひょいと気がつくと、いま少 年がいたちょうど足許あたりに細ながい紐切れのようなもの が落ちている。拾ってみると、たにかの根っ子らしく思われ る。つまり、植物の細根のようなものなんだ。で儂は、それ をポケットにいれて、食堂へいった。おそらく、余人ならば 拾いもしなかったろう。大体わしは、左様な屑屋めいた真似 は大嫌いたんだから……。  その夜更け、ちょうど十二時にギャプ|岩礁《ロツク》という、香港港 外諸島の南端へ達したのだ。水平線がはなつ、サーチライト の光荘数条。はや焦慮香港のうろたえ|態《ざま》が見えるような気が する。船は、そのとき針路をグリーン・アイランド燈台に向 けていた。そこで水路をさぐる|水先案内《パイロァト》をのせる。その|舳板《サンパン》 の灯を闇の海上にまさぐりながら、危険きわまる急水門にか かっていった。 「|停《ストツプ》れ、|全速力《 フル スピえド ア》で|後退《スタ ン》」  ときどき、ジャンクと衝突しそうになるので、|船橋《プリツジ》はひじ ょうな忙しさだった。まもなく、舳板が着いて、水先案内が あがる。その時|二等無電手《セカンド ワイヤレス》が駈け足のような早さで、船橋ヘ ゆく姿がわしに見えたが……、思えばこれが「海人結杜」と、 儂とつなげる最初の|縁糸《きずな》だったのだ。すると、その時わしに 妙なことが起ってしもうた。  それが、マナンナ・チェン少年が落したらしい根っ子のよ うなものなんだが、わしは、なんの気もなく取りだして、そっ と嗅いでみたのだ。するとだよ、急に胸のなかが、むかむか っとなってきた。こりゃいかん。と思ったが、どうにもなら ぬ。七つの海を乗りまわしても一度も酔ったことのたい、こ の儂がゲロゲロっとはじめたのだ。で|右舷錨庫《スタ ボ ト アンカ 》のそばで 盛んにやっていると、わしの脊をポンと叩くものがある。顔 見知りの、|三等運転士《サ ド リユ テ》だ。 「おやおや」と其奴が利いた風に|吐《ぬか》しやがる。 「まったく、尾形さんの船酔とは、珍らしいことがあるもん で。|公海《ハイシイ》で|荒天《しけ》ている時なんぞは平気なもんでいるのに、海 が静かになるとお酔いになるなんて……こりゃ、あんたの船 酔は新形のもんですぞ。そうそう、本船は今夜、珍らしいも の続きです」 「なにがあったね」わしは、出かかった胃液をぐいと嚥んで、 いった。汚ない話だが、|機《はず》みに入ってしまったんだ。 「秘密結社『|海《オ ラン》 |人《 ロウ》』の首領、女王ラナヴォロナ四世がこの 船に乗っているというのです。大至急、取り調べて、捕縛し ろという、無電がいまバタヴィアから入ったんです」 「ふうむ、ラナヴォロナ四世」と、わしは胸持ち悪さも、わ すれたようになってしまった。 「では、船客中にか、船員中にかね。アマさんは|全《スチユウォ ドネス》部、白人 だけど」 「いや、白人ではないですよ。マダガスカルのやつで、すご い美人で齢は、二十五から七、八くらい。|椋《ダ》欄帆|舟《ウ》の船隊を ひきいて、海賊もやるし、とにかく、オール馬来連合とい う、独立陰謀者です。マアそいつは、|人蟻《ヲス ロユカム》といわれる魚み たいたやつだから、あなたみたいな、ゲロゲロ屋中にはいま せんな」  よかったと、わしはほっと胸を撫で加ろしたのである。マ ナンナ・チェン少年に女体を想像すればするほど、いまラナ ヴ菖ナ四世と聴いた『海人結社』の首領が、あの|個月《みめ》15㌔わ しい少年のように思われてくる。しかし彼女は、南印度洋で 活躍する人鰹の頭目。してみれば、わずかな揺れにゲロゲロ っとやるようた、マナンナ・チェン式な柔弱ではなかろう。 よしよし、あの美少年はそんな姐御ではないと、わしもホッ としたようなわけだよ。  そのとき、船は港内にはいっていた。 「捌鎧堪点㌔ス柑、ノ5号」と・水先案内が景気よく怒鳴ってい る。暁まえの香港-|標識灯《ハ バ  ライト》を小雨がつつんでいる。山の 手ヴィクトリアのピラミッド形の灯、対岸の|九龍《コウルン》のおびただ しいジャンク。油と、|渥青《チヤン》のにおいと、排水の音。まだ|欧亜 混血児《ユ ラシアソ》・香港は、|雨舘《もや》のなかに眠っている。  するとだ、|船室《ケビン》にはいると、また喜劇がはじまった。灯り をつけると足許の床に、あの妙な根っ子のやつが儂を待って いるではないか。ううむ、又かとーうんざりしたが考えて みると、どうも先刻のゲロゲロがこの|所以《せい》だとは思えない。 そこで、取りあげてみたんだが、つうんと鼻にくる。とたん に、胃の脇のなかがゴロゴロっとはじまった。こりゃ、いか んーとよく見ると、それが「吐根」だ。日本薬局方にもあ る、吐剤の薬草の根。  わしは、そう分ると|鎗娘《よろめ》くような気持だ。危機、まさに、 少年マナンナ・チェンに迫るlと。 (やはり、そうだ。あの少年こそ、ラナヴォロナ女王だろ う。じぶんが、「海人結杜」の首領なのを押しかくそうとし て……海に馴れぬように見せかけようと、吐剤を使ったにち がいない。道理で、道理で……)と、わしは何度も合点をし た。  けれど、いま彼女には危機が迫っている。いずれ、検疫ま でに一斉捜査があるだろう。そのとき、あの少年が女性であ ることも、また美しい|女酋長《チ フテネス》であることも、すべて見露わさ れるにちがいない。救おう。「馬来人の馬来」とは、|果敢《はか》な くも|健気《けなげ》だ。おなじ有色人種として看過すべきではない。こ とにいま、東亜にしてヨーロッパであるというこの香港を見 るにつけ、いよいよ彼女のため敢然と立つ決意をしたのだ。  が、老血は湧くが、いかにして救うかー、わしにはなん の思案も出てこない。おそらく、検査が終るまでは上陸禁止 だろうし、一っ空を飛ぶか、繋留索でも伝わるか……とにか く、|船梯《ギヤング ウエ 》を塞がれたら一つの出口もたいことになる。困 った、困ったと、わしは空のあたまを抱えて橿の獣のよう に、部屋中を歩きまわるに過ぎなかったのだ。  ともすると、曳かれてゆく情ない姿の彼女や、それを物珍 らしげに見ながら曝きあう群集やーいろいろ不吉た想像が 幻影のようにうかんでくる。まったく、そのときほど切ない ことはなかったよ。事敗れて、安住の地をもとめている、女 王ラナヴォロナを救う途なきやーと。  実際、わしの額からはタラタラの汗だ。しまいには、ない 智慧を絞ろうにもどうにもならぬことを悟ったが……しか し、一応はマナンナ・チェンに報せて、かの女の覚悟を促さ ねばならぬと考えた。そこへ、ボーイの一人が|氷《アイス ウ》 |水《オゴタ 》を換 えにきたので、わしは一つ、うまい方便を使ってやったよ。 「さっき、|繧緻《きりよう》のいい食堂給仕に煙草を云ってやったんだが ね」と、さも持って来んがどうする気だとばかりに云うと、 やがて、当のマナンナ・チェンが怪誘そうな顔で入ってきた のだ。 「煙草とは……何時でございましたでしょう」 「いや、ラナヴォロナ女王」と、わしは軽く一揖したのだ。 とたんに相手のからだがグラグラっと揺れた。|把手《ノツプ》をおさえ て、危く倒れそうなのを、彼女は支えているように見られた のである。 三 世が世ならばマダガスカルの女王  わしは、それから掻い摘んで|理由《わけ》をはなした。纏々、この わしが味方であるのを説明すると、かの女は、わしの手をと って、泣きたがら感謝した。もうそのときは、完全た女だ。 落着きをとり戻し……きっばり観念している。 「お志はたいへん有難いんでございますけれど、ここを遁れ ることは、どうしても駄目だと思います。検疫までもう、四 時間でございましょう。あたくし、最後だけは潔ようしたい と思います」 「早まっちゃ、いかん。」とわしは叱るように、云ったのだ。 「事敗れて他国へ逃げるのを、儂の国では亡命というんだが ね。つまり命を亡ぼすと書く。しかし、実際に於いては助か っているわけだ。よくその辺を噛みしめて、わしに頼んなさ いよ。字でもそうだと思や、希望も持てるでしょう」  わしは、吾ながらうまい理屈を云ったもんだと思ったよ。 すると、それに釣られて、智慧が出てきた。A・Pの通信員 で香港にいるやつに、マクナマラというスッ頓狂野郎がいる が、奴ならなんとか話になるだろうと思った。ツゥてばカア のヤンキlのことだから、こっちの餌さえよければ、きっと 話になる。というんで、電報をうつと、奴め寝ぼけ|眼《まなこ》を擦り たがらすぐにやって来た。  わしの召喚だで、きっと偉いこっちゃろうーと、のっけ から|事件《ネタ》を訊きアがる。で、わしは、やつに一勿始終を話し た。力になってくれ、この御婦人をもし安全の地に移すこと ができたら、君に一切全部を特種としてやる。どうだと、詰 めよるとマクナマラ先生、あまりいい話なもんで、わしゃ|気《クレ 》 が|変《ジイ》だーと云う。  昇給もするだろうし、名声もあがるだろう。クリスマスの ボーナスもたんまり出るだろうが、それより、わしゃこの御 婦人に気が変だーという。まったく、その時のかの女を見 たらマクナマラならずとも……と、わしは太鼓判を捺すが ね。  マクナマラは女性だといわれたとき、ハッと息を窒めてし ばらく見守っていたほどだ。いまかの女には、|虚飾《みえ》も|媚態《コケツトリ 》 もなく、絶望があるのみ。金属色な鳶色に一染蒼みを|刷《は》いた その色は、ぴたりと表精狐庇仏庚顔之比もに、棲槍にちかい 美しさだった。これが南印度洋の女酋王の、ラナヴォロナ女 王。さあ、近うよって拝みましょうと云っても、マクナマラ のやつ、笑いもしない。しかし奴は、マア俺に任して置けと 云って、船室を飛ぶように出ていってしまった。  国際通信員のことだから、出入は自由だ。やがて、一抱え の包みをもって船室へ戻ってきたが、あけると、なかから出 たのが一着の支那服。それを、ラナヴォロナに着せて廊下へ だし、なにやら喚きながら襟髪をつかみ、ぐいぐい引きたて |舷梯《ギヤソグ ウニ 》のうえまできた。はて、一体やつに、どんな魂胆が あるのかロ わしは、胸を躍らせてじっと様子をみている と、なんと、やつも相当の役者ではないか。 「オイ」と、いきなりラナヴォロナを舷梯のうえからつき飛 ばした。 「サア、出てけ、出てけ。潜りこむんなら、検疫後にしろ よ」と、ラナヴォロナを港の女扱いにしてマクナマラ先生大 見得を切ったのである。その間に、ラナヴォロナは蹟鼠きな がら舷梯を降りてゆく。  ちょうどその時は、したに藁蓑をきた苦力が蟻のように群 がっていた。その前方に四、五人ほど立っている、いかがわ しい支那婦人がしきりに合図をしている。だから、かの女を 舷梯のうえから突き飛ばしたことは、潜りこんだ、港の女を 逐っ払ったみたいで、極くこの場合、自然なものに見られた のである。  助かったーと、わしは重荷を茄ろしたような気になっ た。そこへどうじゃわしの|戦術《タクチツクス》はと、鼻高々にマクナマ ラ。 「ホラ、君、見えるだろう。彼女は、いま麦の穂のレーンコl トを着た、苦力のかげにいる。恩に着給えよ。わしは、鳥渡 してもこんなもんだからな。で、彼女の処置はどうすりゃ、 いいね。女王にして、|女酋王《ソルタヨナ》であり独立陰謀者であり、秘密 結社の首領であり海賊の頭であり、しかも、事敗れたる薄命 の亡命別嬢を……おれは、どうすりゃいいんだ」 「もう、一度頼む。次は、君のA・Pの|自動車《くるま》にのせてもら って、英領を突破する。日本軍占領区域の、|深瓠《シユムチユン》か、|沙 頭《シヤオタオ》まで君に送ってもらう」 「次いでだ」と、放胆な記者|気質《かたぎ》をむきだして、マクナマラ は頷いた。 「だが、大将みたいな老ぼれにあの別嬢を渡すかとなると、 少々おれも名残り惜しいようた気がするよ。  おれの、|熾烈《ヲジカル》な情熱を伴にする一夜もない。やれやれ」  それからの、わし等の冒険は省略ということにして、とも あれ、深別の守備隊へ辿りついたのだ。わし等は、顔見知り もいて、歓待されたよ。ラナヴォロナは、急に疲れが出たら しく床についたが、その枕辺にいるわしに向って、彼女の生 い立ちから如何にしてこうなったかーあの南印度洋を舞台 とする驚くべき話をしてくれたのだ。  湿けた夜だ。泥藁と、麻茎で葺いた小屋には、むっと異臭 がする。わしは、ずうんずうんと響いてくる砲声を聴きなが ら、ながいながいラナヴォロナの話を聴いていた。どうだ、 ええとこじゃろうが。  わしは、彼女の額の汗を絶えず拭ってやるし、かの女も、 激してくると儂の手をにぎる。青春の残津、おのずと撫ぶっ てくるというlーマアそういったようなロマンチノクな一夜 だった。ラナヴォロナはまず、生い立ちから語ってゆく。 「マダガスカルの島は、一八九六年までは仏領ではありませ んでした。女王ラナヴォロナ三世の慈愛ふかい統治のもと に、ウーヴ王室下の島は、それは平和だったのです。女王 は、首相、元帥を兼ねているライニバイ・アリヴォニーと結 婚し、その長女に生れたのが、あたくしの母でした。  ライニバイ・アリヴォニーは、おそらく島の人間としたら 稀有の偉材で、すべて軍備からなにまで実権をにぎり、よう やく侵冠の徴をみせてきたフランスにそなえ、とにかく、重 軽砲百六門、小銃三万五千という……アフリカの蕃土にはめ ずらしい軍備をつくったのです。  しかし、駄目。とうとう、一八九六年の八月六日に、マダ ガスカルはフランス領となりました。翌年の二月、女王は首 府タナナリーヴを逐われタマターヴから乗船し、はるか印度 洋中のレ・ユニオン島に送られたのです。それは、ナポレオ ンの永別に比すベき光景でした。はるか、高原をうづめる旅 人木をのぞみ、涙は、首府出発から絶えなかったと申しま す。  しかしその前に、祖父のライニパイ・アリヴォニーはアル ジェリアヘ送られて……そこで毒殺されたという噂でした。 その私の祖父にあたるライニバイ・アリヴォニーが、どうや ら母の話では日本人らしいと云うのです」 「えっ」と、わしは驚いてかの女をみた。 「そう云いますの。ずいぶん、日本の写しものが沢山あった とか申しますわ。大体、祖父という人は|貴族《アソドリアナ》ではなく、ど こから来たか分らない、|自由民《ウ ヴ》だったのです。一妻一妾十七 子というそれは精力家で、豪毅不屈な日本的人物でした。多 分、漂流民で馬来あたりにいたのでしょう」 「なるほど、あんたが鮭を知っているのは、珍らしいことと 思ったが……」 「そうですの、祖父が日本人だったという証拠には、こんた ものがあります。あたくしには、なんのことか一向に分らな いのですが、日本人の、オジサマだったらお気付きにたるか も知れませんわ。これは、祖父がいった独り言のようなもの をもの覚えのいい母が忘れなかったもんです。申します。ニ シドマリ・オヤグラ・ソウジュンマル……」 四 |火曜市《ズ マ》の選遁  わしはそれまで、マダガスカルの|臭雄《きようゆう》ライニバイ.アリニ ヴォイが、日本人だといわれても信ずる気にはなれなかっ た。よく、有色非征服民族のなかには日本に秋波をおくるた めに、こうした事を|附会《こじつ》けていうものがあるからだ。しかし いま、かの女の口から出たニシドマリ以下は……。  西泊とは、長崎における福岡藩上本陣の所在地。御櫓と は、お船手方二人扶持六石のもの。さらに、ソウジュンマル とは幕末に福岡藩が買った、蒸汽船の蒼準丸のことだろう。 わしは、こう結びついてくると奇縁ということよりも、鵬途 空しゅうして憂悶裡に死んでいった果雄ライニバイの配所の 月を思わずにはいられない。  さぞ故国では、大たぶさを海風になぴかせて加子どもを叱 陀しながら、櫓声、鼓声にあわせ、御座船を曳いていたのだ ろう。それとも洋式帆船の大鵬丸以下にのり、明日の海軍の 礎だった人かもしれない。ともあれ、ライニバイ・アリニヴ ォイは無名の一日本人。わしは、そう思うと胸せまるような 気持にたった。  ジョン万次郎ならぬ、埋もれた漂流記。万里、南印度洋の |涯《はて》へゆき仏兵と戦った、無名の英傑はいまこの娘を残すの み。まったくいそうわかると感慨無量というか、思えば、世 が世ならばマダガスカルの女王、晴れのラナヴォロナ四世と もたれたろうにと……わしは、不欄さが増し血の親しみに駆 られ、しばらく吾知らぬ手を、相手にかさねていたのだ。 「それから」と、うつくしい女酋王の話は続いてゆく。 「お|祖母《ばあ》さまラナヴォロナ三世は、続いて移されたアルジヱ ールで残りました。それが、一九一六年の五月二十七日のこ とでした。あたくしが、まだ三つのときで、もうお祖母さま の記憶もありません。父は、私が十一のとき……母は、その 翌年この世を去ってしまったのです。そうして、あたくしは |孤児《みなしご》になりました。けれども、年金がありますので暮しには 事欠かず、教育もうけましたし、パリーヘもゆきました。す ると|二十歳《はたち》のときの暮のことでした。とつぜん、乳母のラソ ヘリナと一緒に、四、五人の男がやってきたのです。  一人は、東海岸のアンタイサカ族の代表でしたし、他は、お もに蘭印の土語新聞の記者で、|瓜畦《ジヤヴア》のバタヴィヤの、、ω一口勺o.. や、スマトラのメダンの.。㌧日α巴器..や、、。ω冒貰=品口冨ゴ貧ー.. というマカサールたどでしたが……。はじめて、『海人結社』 という秘密結社の名を聴かされました」 「それで、あんたを推戴するということに・…:」 「そうですの。蘭印の、|旧王《ラジヤア》たちは腐り切っていて、駄目 だ。純粋の馬来の血のあるアンタイサカ族を本拠にして、や がては、『馬来人の馬来』たる全連合をつくりたい、それに は、マダガスカルのほうが気付かれなくてよい。一つ、前王 の孫であるあなたを戴いてと、まったく、二十歳のあたくし には思いがけない事でした。  もちろん、あたくしは最初断りました。でも、マダガスカ ル亡国の実際をラソヘリナに聴かされますし、第一、こうし た場合意外に働いてくれるのが、ふだんは自分さえ忘れてい る王血ということです。いいえきっと、身うちにある日本の 血のためでありましょう。あたくしは、手を伸べてくる馬来 人を拒めなくなりました」 「あんたにとりゃ、よくよくの事だったろうね。よく、境遇 の変化に我慢できたもんだ」 「夢中でしたわ。私は、自分で自分がわからなかったので す。前方は、南印度洋の波濤がとうとうと巌をかみ、うしろ は、大絶壁で滝が落ちています。アンタイサカ族は、しょっ ちゅうそんな風に飛沫に濡れているのです。麗風がきます. 帰らない船際を待つオカミさんたちの眼は、岸辺の破船を見 るにつけ、いっそう暗くなるのです。アンタイサカは一生海 と闘います。海に宿命を置いて死ぬのも恐れません」 「うん、わしも|人饒《ラス ロ カム》といわれる、|黒人海賊《アラ ミ》の勇敢は聴い ている」 「|亜《ア》刺|比《ラ》亜|人《プ》の船隊や、白人の貨物船などには復讐の意味で やります。ずいぷん、隔されたり虐められたりして、アンタ イサカはひどい目に逢っているのですから。でも普通は、船 隊を組織してザンジバルあたりヘ行って、スマトラや、コロ ンボゆきの積荷をさがすのです」 「では、あんたを中心とする結社の運動のほうは」 「中心だなんて、そんなことを仰言られると、恥かしくなり ますわ。あたくしは、ただウlヴ王朝の血があるだけの、飾 りもんですものね。それに、『海人結社』にはなんの力もな いのです。人物にも、財力にもなにもありません。インドの 運動やアラビヤ統一などに刺戟されて、ただ不平分子が自慰 的にやっているだけです。それが、あたくしには間承なく分 りました。馬来は、どうして|現在《いま》のような有様では、独立な ど出来ませんわ。ただ、白人の躁麟から解放されてですね。 ……これは私の身うちにある日本の血がいわせるのでしょう か」 「いやいずれ、よりょい政治のなかへ、馬来全部がはいるで しょう。しかし、なぜあんたは今、追われているんですね」  というと、かの女はスゥッと眼を瞑じてしまった。そうそ う、ここでこの娘の本名を明かすことにしよう。マニオニッ クや|玉黍蜀《とうもろこし》を食いながら即位式もなく継いだ、ラナヴォロナ 四世の名よりも本名のほうが親しまれる。ヴェ、ミダー。儂 もこれから、この名で云うことにする。で、なぜヴェミダに 破綻がきたかというと……それは、青春の苦悶と、カルサと いう、かの女に近附いてきた黒人士官があったからだ。サ ア、文体を変えて、しっかり書いてもらおう。          X  マダガスカルの首府タナナリーヴには、毎週火曜に大市が ひらかれる。その……いま|火曜市《ズ マ》の雑沓まっ盛り。せまい、 曲りくねった道に|印度人《ブルマン》の店がでる。乾鮫や、丁字や陶器や 綿布のあいだに、アラブ|帽《トゥカス》や紅い|頭巾《タ バン》やヘルメットが、黒い 膚と薯のようにこすり合っている。そうして、うす陽の空が ふり撒く暑熱はいっそう烈しく、雨期ちかい、タナナリーヴ でのいちばん厭な季節であった。 「おカミさん、いらっしゃい。|六法《フラン》、二法、一法。負けとけ い」と喧鷺たるなかに古着の店がある。酒落れた、どんな 貴婦人がはいたかと思うような乗馬用の女靴や、金色の舞踊 靴などがフランス人の豪著と、虐げられている土人の哀れさ を物語っている。と、その店のまえにヴェ、ミダが立ってい て、ぼんやり、レースの美しい婚礼着をながめているのだ。  どうして売ったのか。うれしい初夜をしのぶ凋んだオレン ジの花が、そのまま服についているのも、いとも哀れであ る。白いヴエールも塵によごれて、いまは歓喜の夜を偲ぶよ すがもたいのである。が、ヴェ、・・ダのうっとりとした眼、そ の衣裳のまえを釘付けられたように動かない。かの女は、最 近大分変っているのだ。  あたし、もう二十五にたった。二十五、この五年をなにし て、送ってきたろう。鹸風のなかのアンタイサカ族との生活 で、ヴェミダはじぶんの青春が|耗《す》り減ってゆくのに、気がつ いた。それは、欝とうしい痛ましいほどの焦だちだ。この衣 裳だってーと、かの女は泣きたいような気で眩いている。 (きっと、不幸な結婚に終った|女《ひと》のだろうけれど……、私は、 こんなものさえ着られそうもない)  と、いまはヴェミダも悔むような気になっている。なま じ、じぶんにある王室の血が呪わしい。せっかくの青春を早 まったばかりに、私は、めぐり会う人もなく、埋もれてゆく のではないか。と、その衣裳をながめながら|呼吸《いき》付きさえも 忘れたように、ヴェミダは暫くぼんやりと立っていたのだ。 すると、かの女の肩へやさしく触れたものがある。 「眠っているんですか。あんたは、立ち乍ら眠っているみた いですぜ」 「あらっ」と、ヴェミダがハッとふり向くと、ひとりの眉目 形のいい黒人の青年が、かの女を見たがらまっ白た歯をむけ ている。 「失礼なこと。あたし、眠っていやしませんわ。あんな衣裳 なんぞも、けっして欲しいとは思いませんわ」  それが、ヴェミダとカルサが、知りあう|因《ムァご》であった。カル サは、英領モンバサの廻船商の伜で、守備隊にはいって操縦 士となり、英空軍中の黒ダイヤといわれていた。かれは、視 力に優れていること鷹のごとく、いまは退役しているが名操 縦士として、カルサの名は守備隊中に高かったものだ。そう して今、彼はぶらぶらマダガスカルヘ遊びにきたという。し かしどうも、どこか潤達のようでいて、淋しい影がある。そ れに、いつまで経ってもマダガスカルを去って往かない。  可怪しいな、と、ヴェミダは思ったが気にも止めず、日に 増し、二人の仲は深まってゆくばかり……。カルサはいま、 ヴェミダにとっては、離せないものになっている。  すると、だんだん|交際《つきあ》っているうちに気がついたのである が、カルサにはまた|航海術《ナヴイゲ シヨン》の智識がある。これはいい、い まこのカルサを離すまいとするためには、アンタイサカ族に 欠けている航海術の智識で、みんたの信用を得るよりほかに たいことだ。まったく、かれ等の航海法ときたら貧弱極まる ものだから……。  アンタイサカ族は、せいぜい十|噸《トン》ばかりの|大椋《バツ》欄|帆船《ガラ》にう ち乗って、印度洋を内海のように突っ切ってゆく。しかしそ の、航海法ときたらじつに幼稚なもの。木製の六分儀に、 |航《ナヴイゲヨ》 |海《シヨン テ》 |表《 ブル》が一つ。それに、枠へ蘇をはって星を測ると いう、大時代な天測具が一つだけ。じつに、一切合財それだ けのもんで、不敵にも印度洋を突っ切るのだ。  したがって、遭難船が多く、悩みの種となっている。そこ へ、新式航海術を携えてカルサが現われたら、おそらく大事 とりの老人までが双手を挙げて迎えるだろう。しかし、問題 は当のカルサが、そんな僻地へゆくかどうかと云うことであ る。一日、ヴェミダはそれとたしに訊いたのだ。 五 |簡易魚雷発射《キャリエ ジ》管 「アンタイサカは、まい年海で二百人も死ぬんです。|羅針盤《カンバス》 もない航海を昔からやっていて、それも、今になっても改め ようとはしません。おカミさんや、子供たちがほんとうに可 哀そうですわ」 「じゃ、僕がゆきますか」とカルサが昂然といった。 「ただ、あなたの種族に容れられるかどうかが、僕は疑わし いと思います。不審なやつと見られたら、それっきりでしょ うし……」 「大丈夫、あたくしがいる以上、指一本差させませんわ。き っと、アンタイサカが歓迎すると思うのです。でも、もう間 もなくお帰りになるんじゃない」 「帰りません。僕が、今のように云ったのは、別の意味で す。きっと僕を連れていっては呉れまいと、思ったからで す。僕は自分のことより、あなたを考えていた。あなたを失 うことを、いちばん怖れていた。ところが……」と、ヴェ、・・ ダを嬉しそうに見つめ、 「ヴェミダ、あなたは僕を愛している?」 「知ってるくせに」ヴェミダは、顔を両掌で覆い、消える ようた声でいった。ほそい銀の隈をつけた、新月がのぼって いる。その反対の空には|森焼《タ ビ 》きの火が、旅人木やナトの梢を くっきりと涯ばせて……。  そういう、甘美な空気に溺れきっているヴェミダには、お そらく何を云われても気が付くまいとさえ思われる。どうし て、カルサがゆくと云うのだろうか。近い|警備所《セクッ ル》さえ五|十哩《マイル》 という鋸状絶壁帯のアンタイサカ族の地ヘ、たんでカルサが 行く気になったのだろう? |故国《くに》へ帰りもせず僻地へゆくと 云うには、たにかカルサに目的でもあるのか。1と、誰し も感じてくるこんな疑問さト4ヴェミダには灰のりとさえ湧 かないのだ。  やがて、二人はタナナリーヴを去り、東海岸も南端にちか いイサンドラ川の河口lアンタイサカ族の絶壁下の集落ヘ でた。そこは、海岸線が鋸のような断崖で、いくつもの滝が 虹をかけながら落ちている。岩礁にくだける南印度洋の波 濤、直下千丈の飛爆の|水煙《けむり》iーアンタイサカの地はこう云う ところであった。  が、そこで、カルサは迎え入れられただろうか。新式航海 法という持ってこいの好餌で、彼はこの種族にまんまと取 り入ったのである。疑うものも、彼を害なしとみて入れるの を主張したものも、カルサが試みたモロニ島への航海で、す べてが証明され、歓呼裡に迎え入れられた。こうして、疑え ば切りのない青年カルサは、いま、南海の人鱗、アンタイサ 力の一人がここに、ヴェミダの乳母のラソヘリナだけは、こ の青年に疑いの眼をむけている。一日、「お嬢さま、ちょっ と用があるだ」と、ヴェミダを破船のかげに招きいれた。 「いま、この|乳母《ぱあや》が苦えことをいうだが……、それを嬢は、 気にすることはなんねえぞ。齢を老ってるものは、間違えは いわねえだ」 「なんのこと?」ヴェミダは微笑んで、乳母をみた。この乳 母はたしかに苦手だが、ひょっとしたら、じぶんとカルサの ことを云いだすのではないか。ちょっと胸がざわ付いたが、 その予感があたって、 「あのカルサとやらと云う他郷ものを入れて、お嬢さまはど うする気じゃ」と、ラソヘリナがむっとした顔で、云いだし た。 「昔も昔も、ずうっと昔から、このアンタイサカの地には他 郷ものが入らねえだ。いや、来たくとも容易に、来られねえ ところだよ。だから、馬来の血の混り気のねえやつが、いま もそっくり伝わっているだが……、ほんに、事を起すには、 こんな屈強なとこはねえ。そこへ、あんな氏素性もしれぬ野 郎をしょっ引いてくるなんて、お嬢さまはあんまり考えがね えだ」 「カルサはそんな方じゃないよ。乳母は、|僻目《ひがめ》でものを見る からそんたように見えるけど……あの人、あたし達に危険な 人なもんか」 「いや、違えねえ。この『海人結杜』をかっ散らかそうとい う、あいつは隠密にちげえねえだ。お嬢さまみてえなボンヤ リものを隔して、此処をええように|料《はか》ろうと云うだ」 「そんな……もんか」とヴェミダはのんびりと節をつけた。 しかし、眼も唇もニコリともしていない。じぶんが知ったは じめての世界、はじめての歓喜を放すまいとするだけに……。 「いや、違えねえ。真の性悪というやつは、見かけはええだ からな。それが分らねえで、惚れてる人がいるだ」  ヴェミダは、ハッとなって沖のほうへ眼をやった。どうに も、乳母の顔が眩しくてならなかった。陽ざかりで、漁具の 戯気が》一ぷんにおい、巌は鶴値に照りつけられκ、る。そ こへ、海豚の脂肪を新造船の船体に塗っている、舟手の唄が のんびりと聴えてくる。ラソヘリナは執拗に続けて、 「ここを、よく量見なさらねえと、飛んだことになると思う だ。惚れるは、ええ。だが、お嬢さまには、王さまの血があ るだ。もしライニハイさまが日本人たら、諸王の王になれる 尊い筋もござるだろう。大体、お嬢さまは、自分が分ってね え。どういう立場に自分があるか考えてみたら惚れた腫れた も軽卒にゃできめえと思うが」 「じゃ、カルサと別れろって、云うの」と口をとがらせたが 別れるもんかと云う気合が、ヴェミダには言外に灰見えてい る。 「そう、お貰い申してと思って、云ってるではねえか。い ま、お嬢さまは並の女ではねえぞ。御自分のからだであっ て、御自分のもんでねえ。御自分の心でいて、御自分の自由 にはならぬ。この種族をはじめ馬来全部のうえにある、嬢に 軽はずみはなんねえだぞ」  ヴェミダはもう充分にこじれていたりまるで、からんだ紡 のように、解けなくなってしまっている。利発で、いい娘だ があまり|初心《うぷ》過ぎる。これがヴェミダのいちばんの欠点であ った。 「分らんかのう、お嬢さま。おらは、あんたをお幼さいころ から一番、よう知っている人間だ。虫気もたい、むずかりも しない。それは|従順《すなお》な、御発明なお子じゃったのに……この 膝を、おしっこで汚された、わしの事ではねえか。乳母やの いうこっちゃ」  しかし駄目だった。濃藍の南印度洋をもし埋めることが出 来る日がきたら、カルサがヴェミダの心から離れるかもしれ ないが……。  一方、乳母のラソヘリナが臭いやつと睨んでいる、カルサ の声望は日に増し高くなってゆく。大体、このアンタイサカ は非常に純朴な民で、よく他人を信じ、己れをあざむかな い。カルサは、まず将来にそなえ、武装の必要を説いたの だ。それで、銃や弾薬なども相当買い入れたし、モザムピイ クの古金商から拾得魚雷を手に入れて、一艘、|椋《ダ》欄帆|船《ゥ》の舷 側に|露出発射装置《キヤリエ ジ》をつくり、それを|魚雷艇《ガン ボ ト》に仕立てたのであ る。  露出発射装置は、極く初期の魚雷発射装置で、金枠を組み 立てれば雑作なくできる。圧搾空気も手に入れたし魚雷艇が できたーと、いつも悲憤僚慨だけで徒然と飯をつくってい る、「海人結社」の幹部などは雀躍りしたほどである。その うち、この南海の|海賊《ヴアイキンダ》に船出の日がきた。一日、山のほう を見ていた酋首のメキが、 「ホラホラ、もう|山霧《ヱリカ》が立ちはじめて来たわい。これが始ま ると、赤道流とともに吹いていた、東風が止む。南の、フォ ート・ドウフィンからくる貿易風がはじまって、それが南西 |季節風《モソス ン》に入り、追風続きになる。そろそろ、椋欄帆船の季節 になったわい。わし等は、船隊を仕立てて、コロムボヘゆこ う」  南印度洋の水をきる椋欄帆船の大船隊、産ぶ声に鹸風を吸 ったアンタイサカの若もの。滅多に定期船がこないあたりか ら荷を拾ってゆく……アンタイサカの船隊はやがて船出をす ることになったのだ。  |清水壷《ゲルバ》、米、乾魚、オレンジなどが積みこまれる。回教の 珠数をかけた部曾の祈りが終ると、深海の神にささげる、船 出の踊りがはじまる。   アナララヴァの|阿魔《ベナト アル アナララ》っ|子《ヴア》たち   |北風《レ  チヤマ》に《ロ》|、   |陸風《レ  ハルバ》に|迷《ヨル》う  浜では、カミさんや子供たちの祈りがはじまっている。船 隊はもう磯をはなれていた。曇りの日で、おどろと|鼠《かみ》をふり たてる羊の群のような波の頂きが、揉みたて、高く持ちあげ たかと思うと、まっ蒼な底に落しこむ。やがて、舳に描かれ ている眼形の案|護符《ま もり》が、ぐいと廻頭し、一斉に見えなくなっ た。船は、総帆を展じ貿易風にのり、アヲーの|恵《アヲ フ アクバ》みあれ《 ル》|ー の祈りを脊に、公海にでたのだ。 六 南印度洋は、 歎きて、歌う  カルサは、椋欄帆船に乗るのが初めてであったし、ヴェミ ダも、彼と離れられず指揮船にのっていた。それが、「|神《フイラソぴ》の |輿《ヤナ》」号という長たらしい名で、露出魚雷装置がつくられ魚雷 艇になった船である。途々、乳香、獣皮、象牙、|棘梛子《デイト》、海 綿などが積みこまれ、|胎底《ビルジ》にはとって置きの防水布がかけら れた。この儘ゆけば、船隊の前途は幸福なものだったろうけ れど……。  ちょうど、英領モルディヴ諸島の南、百カイリあたりを走 っている頃、いま、印度洋の落日が七十いくつの帆を焼いて いる。やがて、陽がしずみ切って沖の一線だけに、暗碧の反 射もせず帯が横たわっている。その頃、カルサとヴェ、・・ダが |舷培《フルウオさク》によりかかり、センタウルスの輝星を東の空にながめ ていた。 「あの星です。あれが上りはじめた、落日間際のときでし た。僕は、標的艦爆撃の演習をやっていたのです。ちょうど ペガサス・ハート機や、ホッカー・アゥダックスなどの急降 下爆撃機が、イギリス空軍で羽振りを利かしていた頃です。 僕らは、|段状編隊《ステツプス》を組んでマリウディ沖を飛んでいました」 「いいお話ね。そのとき、センタゥルスのあの星がみえたん でしょう」 「そうそう、そのとき、守備隊長がたいへんな張り切りかた で、僕らにこんな訓示をしましたがね。1合衆国に於いて は、独艦『フリースランド』号を標的とする、破甲効果に成 功した。しかしそれは、ぽんやり停まっている艦である。わ れわれは、曳行艦に曳かれてゆく、動くやつをやる。敵も、 機影をのぞめば、煙幕を張るだろう。しかし諸子は、すでに 猛訓練により生理的にも馴れている。いまは、急上昇による |耳鳴《イア ドラムス》も起すものはない。われわれは、米提督、・・ッチェル の報告を凌駕するため、ここに諸子に信頼し、最大の効果を 期待する。ゆけ」  と云っているカルサの眼が、しだいに言葉が重むにつれ、 あやしく血走ってくる。呼吸使いも早く……おそらくその回 想に苦々しいものでもあるのだろう。ヴェミダもなんだか、 気味が悪くなってきて、 「止めて。あんた、変にたってきたわよ」 「そうですか。何でもない積りですが、どう見えますね」 「こわい眼、髪が一本一本逆だつような、お顔」 「ハッハッハッハッハッハッハ、それはね、そのとき厭な ことがあったんです。なにしろ、艦影をみたのが、日暮のこ とでしょう。日中だと|陽中近接《アゥト オブ サン》といって陽のなかに隠れ、|艦《ふね》 のちかくにくるとパッと飛びだすんですが、生憎、日没時の ことですぐに見付かった。いや、僕らのほうが曳行艦に見付 かったのです。だから爆撃がなかなか巧くゆかない。|急上降《 フル アウト》 のときフラフラになるほど、僕らは何遍もやらされた。する とです。いつか曳行艦が警戒区域を出てしまった。そこへ、 椋欄帆船の船隊がゆったりと近附いてくる」  云いながら、なに者かを睨めるような、カルサの充奮。止 索栓のうえへ、どっと腰をついてしまったのだ。 「そのとき、僕の|爆弾《ボム》がぐわんと砲塔にあたった。しかし、 僕は黒人ですからね。白人の操縦士たちは鼻を明かされたと 思ったのか、それとも、破甲効果を見られてはと機密上のこ とでしょうか。すぐ、一、二機が椋欄帆船隊のうえを掠め、 酷たらしい一斉掃射をはじめたのです。血を吸った……南印 度洋がまっ赤に血を吸ったのです」  この英空軍の暴虐が、カルサに退役させた原因で、める。ま ったく今も、奴隷時代さながらのこうした虐殺があるのだ。 ヴェミダは、カルサの肩を抱いて、やさしく慰めた。 「ずいぶん、われわれ種族には辛いことがありますわ。でも それは、もう直きによくなるでしょう。色のある人間が、白 人を使う時代が、私たち一生のうちには、きっと来ると思い ます」 「君は、夢をみてんね」と、カルサはむっとしたように、立 ちあがった。  するとその夜、妙に険しい顔をした酋首のメキが、カルサ を|斜橋《やりだし》のそばへ誘ったのである。舳にきられる水が|舷塙《プルゥオヨク》を 越え、甲板に夜光虫のしずくを滴らせる。 「訊きたいんだがね」と、メキは相手を凝っと見つめなが ら、 「どうも、お前さんのいう位置が、妙に思われるんだよ。そ りゃ、わし達は器械の事は分らない。だが、一日走る相場は 大抵極っているし……お前さんの、|測《ロ》程|器《グ》とやら云う器械で なくても、カンで分るんだ。ねえ、ここはモルディヴの南端 から百カイリほどのとこじゃないね」 「冗談じゃない」と、カルサはからからと曝ったが、一時に 顔からは血の気が退いた様になってしまった。「では、ここ が何処だというんだ」 「モルディヴから南東へ外れている。獅子座の鎌がもうちっ と高くなると、印度のコーモリン岬が見えてくる。どうだ、 なんの根胆でこんな事をするのだ」 「   」 「隠密かP 『海人結杜』のおれ達を蘭印警備船に捕縛させ ようと、この印度洋を|迂路付《うろつ》かせようとするのか。オウイ、 みんな来い」  すると、|腰衣《フゥタ》一つの|脂《やに》っこい体臭の連中が、手に|半月刀《ジニムピヤ》を もって、カルサをとり巻いた。サッと、舷側からあがる潮煙 が足許をはらってゆく。その、「|神《フラインジ》の|輿《ヤヨ》」号のうえで演ぜら れて息詰まるような光景を、ヴェミダは他の船にいて夢更知 らなかったのだ。 「うん、では俺も潔よく往生しよう。だが、俺は蘭印の密偵 ではない」と、カルサはそれから一伽始終のこと1昼間ヴ エミダに話した虐殺のことを語った。その復雛のため印度洋 を迂路ついて、英艦を見つけ次第雷撃するつもりだったー と。しかしそれは、誰も信ずるものがない。蘭印の、密偵だ 密偵だという声が、しだいに高まつてきた。 「では、俺はどうしたらいい、どうしたら、君達は俺を信用 して呉れる」 「嘘ばかり吐きアがって……なんて奴だ。そんな、魚雷なん どで言い訳になると思って……もう、おら達はそうは往かぬ ぞ。えっ、そんなものが飛びだすもんか」 「もし、飛びでた時は、どうするね」 「ハッハッハッハッ、出ても出なくても、お前は死ぬんだ。 ねえ、末期の思いに飛び出させてみるかね」  そのとき、闇の海上をゆく微錐たる光があった。ときど き、パッパッと明滅するのは、発火信号らしい。英艦ーロ この最後のときになって、天の恵みか。カルサは、その信号 を読み終るとスクッと立ちあがり、舷側にある発射管のそば へ行った。そこで振り向いて、一同にむかい、 「ヴェミダに、云ってくれ。カルサは、君を利用したことを 真底から詑びるーーと」          ×  その、カルサが発射した魚雷だがね。命中はしたが、薬力 不足で駄目だった。しかしそれで、椋欄帆船の船隊が壊滅す ることになった。あるいは捕われ、あるいは射たれ、倖い、 ヴェミダだけは辛じて遁れたが、捕虜の口から一勿始終のこ とが分って、七つの海のお尋ねものになったわけだ。ヴェミ ダは、わしにこんな事を云ったよ。 「私は、やはりカルサの愛を本当のものだと、信じていま す。また、乳母のラソヘリナが云った言葉も、身に浸みるよ うですわ。仮りにも王といわれる人の血を継いでいるものは ……自分の射備であって、自分のものではない。自分の心で あって、自分の自由にはならぬーと。  私は、ラソヘリナの罰が当ったんです。祖父や、祖母の、 ほこりを忘れた愚かしさから、アンタイサカのあんな純朴な 人たちまで、海へ沈めた私はなんという恐ろしい女。ああ、 私はなんと云う愚かしい……」  それから儂が、これからあんたは、どうする積りだと訊く と、 「やはり、アンタイサカヘ帰りたいと思うのです」という。 しかし、おそらくそれは駄目だろうと思われる。けれども、 微々たりとはいえ「海人結社」という、「馬来人の馬来」な る独立運動があったことだけは、ひそかに、英蘭両国の秘密 史にのこるだろうが……。  わしは、それから眠ってゆくヴェミダの顔に、|火曜《ズ マ》市のあ の婚礼着を思いうかべたよ。青春を追ってついに徒党をうし なった、女王ラナヴォロナの痛恨にも似た……。ハッハッハ ッハ、いい文句だと思ったら、小説に使いたまえ。