探偵ラジオ・ドラマ赤馬旅館     小栗虫太郎・作  J・O・A・K放送台本 昭和十三年十二月三十日夜     A・Kより放送 シャーロック・ホームズ 江戸川乱歩 助手ウオトスン及ぴカーミハエル 水谷 準 アン・ウインスロープ 勝 伸枝 駅馬車の馭者 城 昌幸 村の牧師 小栗虫太郎 カムデン 大下宇陀児 女房マーサ 海野 十三 唖の倅フィル 蘭郁二郎 従僕グレン 延原 謙 解 説 木々高太郎 演 出 久生 十蘭  ギャロップ風の音楽。最後に、それが蹄の音に変る。轍の 響き、馬の嘶き。それが、やや低まって解説者の声現わる。  解説者 一八九九年  。十九世紀が終ろうとする年の、暮の二十九日。イギリス、ノー ザムプトン州ロッキンガム村にちかい街道を、一台の馬車が軽やかに走ってゆく。  ホームズ アンさん、あたたから、ウォトスンに話してやってくれませんか。どうも僕が いうんじゃ、本気にしませんでね。そんな、莫迦気たことがこの世にあるかって、藪医者め、 てんで受けつけんのですよ。  ウォトスン (低く、極めつけるように)おい、藪っていうがね。しかし、その藪をだな。 君は、相当こき使ってるぞ。  アン (極く軽く) ホホホホホホ、じゃ、ホームズ先生に、手綱へ代って頂きますわ。 (馬車緩くなる。やがて、鞭の音がし、また走りだす) さあ、なにからお話していいやら ……。あたくし、順序だった話をするなんてこと、ほんとうに下手たんですから。  ウォトスン じゃ、こうしましょう。要所要所を僕が訊きますから、それに答えて下さい。 で・…:、最初にですね。あなたが、カーミハエル家へいらしったのは、何日頃からですか。  アン 十月ですから、まだ三月とはたりませんわ。  解説者 アン・ウインスロープが、新聞広告の秘書募集に応じたのが、そもそもの事の起 りである。そのとき、数百人のたかから好運にも択ぱれて、すぐカーミハエル家へ行くこと にたった。ロツキンガム村の、隠者カーミハエル氏。もとは実業界で相当活躍もしたが、い まは、すべてを退いてその村に隠栖している。金持で、妻子もなく身寄りもないという、ま ったく天地間の孤独をひとり占めにしているような老人だ。ところが、アンがいっても何の 仕事もない。これじゃ、なんの為に秘書を雇ったんだろうと、怪訝に思っているうちに、 ふしぎ 奇異なことを命ぜられた。              アン それが、行った翌あくる月の、八日のことでして。老人が、古めかしい青色の着物を出し て来て、どうか、きょう一日はこれを着てくれというのです。みると、肩のだぶだぶさや、                                スカートの膨らみ加減——。どうみても、いまから三、四十年前の流行はやりですわ。  ウォトスン なるほど。  アン すると、どうでしょう。それを、私に着せた一日だけは、御老人がまったく病いを 忘れています。元来、腎臓が悪いところへ、ロンドンヘいったのが無理だったらしく、寝込 んでいたんですけど、奇妙にも、その日だけは見違えるような元気なんです。そこで、私は なぜ着るんでしょうかと訊きました。しかし、御老人は笑って理由を仰言いません。それば かりか、翌月の八日にも、やはりそれを着せるんです。  ウォトスン じゃ、きっとこうでしょうよη なにか、その八日という日に因縁があるん でしょう。では貴女が怖ろしい目に逢ったというのは……。  アン それが、今月の十日の晩のことでした。眠っておりますと、オイ起きろと小声で起 こすものがあります。まっ暗でした。私が、顫えあがって泥棒かたと思ったとき、その声の 主がなんといったとお思いになります!? すぐこの家をでろ。もし、居据るようたら、とん だ非度い目に逢うぞ-と云うのです。  ウォトスン じゃ、たにかその声に、特徴といったようなものが……。  アン それが、御座いませんのです。かすれたような……、妙に含みがあるような……、 まったく、男か女か、それさえ決められません。で私、二度目にきた後で、じっと考えてみ ました。扉も……、調べましたし窓もみました。でも、どこも鍵がおりていて、こじ開けた ような跡はございません。  すると……おなじ合鍵をもつ家のたかの者では1と、自然そうなるじゃございませんか。  ウォトスン そうでしょうなア、ところで、お宅の召使というと……。  アン 下男夫婦と、十年ばかりいるグレンという従僕です。で、その三人が……、もしや 欲ばって、遺言を期待してるんじゃないでしょうかη 独りぼっちのカーミハユル様が、も し万が一のとき、いくらか自分達にも分け前がと思うのが、人情としても当然かと思います わ。  ウォトスン ふうむ。  アン また、そうなれば、私が邪魔になりますわ。私がいなけりゃ余計多くにと、思えば 追いだしにも掛るでしょう。ねえ、ウォトスン様、邪推でしょうかしら……。  ウォトスン そうですなア。                 アン すると、続いて今度は、慄ぞっとするようなことが起ったのです。じつは、そのまえ に職人を連れてきまして、扉の錠前装置を新式なものにしてしまったのです。ところが、そ の夜よもやと思っていたのに…:・、あれが、またも現われるんです。  ウォトスン えっ、本当ですか、それは?  アン 嘘を、だれが申しましょうη 密閉した部屋ですわ。今度こそ合鍵が役に立たない と安心しておりましたのに……。悪魔か、風か知りませんが、ぬうっと入ってきたのです。  ウォトスン じゃ、仕掛があるんでしょう。どこかに、こっそり秘密の通路といったよう か……。  アン それが、御座いませんの。私、部屋中を納得するまで調べました。しかし壁にも床 にもなんの異状もございません。すると、その人問はどこから入ってこられるのでしょう。  ウォトスン (云う力もなくなったように) そうですかア!  解説者 密室である。扉には特殊錠が下り、ぐるりは、隙間一つない箱のようた部屋に、 人間が入り込めるというのは、いかなる方法によるだろう。またそうしてまで、アン・ウイ ンスロープを逐い出さねばならぬ理由。更にその、魔か風かのような人物が何人なにびとかとなると、 さすがのホームズでさえ途方に暮れてしまうのだ。間もなく、ホームズとウォトスンはアン の馬車を降りた。そして、ただの旅客風を装って宿場で待ち、一時間後には駅馬車に乗り込 んでいた。 (駅逓の音楽、馭者の角笛の音、猛烈な疾駆) 解説者 やがて、馬車はロツキンガム村へと入っていった。 (馬車の音響にまじって、犬の吠えかかる声がする) 馭者 お客さアん、石橋の向うがロツキンガム村だがな。いったい、どこへ着けるだね。 (やがて、石橋を渡る轍の音、家鴨の逃げ走る声)  ホームズ どこへって、宿屋があるだろう。  馭者 そりゃあるだが、じゃベルヘ着けべえ。ほかに、「赤馬」というのがあるだが、柄                          が悪いで。うっかり、他所の衆がいった日にゃ、散々に暴利ぼられるだよ。ほう、こりゃ、牧師 様が御座らっしゃっただ。 (馬を弛める。牧師の馬車と、轍の音が二つ重なる)  めっきりハァ、冷えますでエ。どちらへ、ござらっしゃっただ。  牧師 カーミハエルさんを、見舞ってきました。あの方に、まだ神様のお召しがないよう に、力付けてきました。ねえあなた、カーミハエルさんが、ここへお出でにたってからは、 見違えるような村になったでしょう。病人には恵まれる。無利息の、金をお貸しになっては、 仕事をさせて下さる。えらい方じゃ。わしもあの方とたらば仕事のしばえがありますじゃよ。 ああ、これこれ、わしとの話にかまけて、馬車を弛めてはならん。行きたさい。なかの客人 が大変な御迷惑じゃ。  馭者 じゃ、御免蒙りますだ。 (再び速力が加わる)  解説者 すると間もなく、ちょうど馬車が赤馬旅館の前にさしかかった時、とつぜん何と 思ったのか、きゅうにホームズが停めろと云いだした。  馭者 (驚いたように) お客さアん、ここはさっきも云った暴利宿だぞ。  ホームズ いいから、停めろといったら、停めてくれ。 (下り立つ)                      ウォトスン ホームズ君、君はたいへんな悪宿わるやどというのに、なんで泊る気になったんだ。  ホームズ (小声で) いやね。いまこの宿屋の横手の窓に、アンの顔がみえたのだ。(考 え込むように) しかし、アンが赤馬なんかにいるとは……分らんなア。いや、とにかく行 ってみよう。 (その間に、馬車が遠ざかってゆく)  解説者 そうして二人は、赤馬旅館の酒場のなかへ入っていった。亭主のカムデンは、赤 ら顔の見あげるような大男で、そして店は、フィルという唖の倅がこづかれたがら動き廻っ ている。  カムデン (小声で) おいフィル公、そっちのラムじゃねえ。安物のほうでいいんだ。あ んた、ふりの客なんぞに、普通あたりまえのことをするこたあねえ。さあ貸せ。(と土間を歩き卓上に 盃カツプを並べると) やあ、お出でなせえ。といって、あんまりお客さん達にいい話じゃねえん だが、生憎と今日はグランタム狩猟クラプの連中が此処で昼食をなさるんだ。それで……、 なにもお前さん方を邪魔にするってえ訳じゃねえが、はっきり云や、帰って貰えてえんだ。 その代りだ。赤馬のラムというどえらい酒ものを-飲ましてやる。こいつはね、ディッケンズ とかいう小説家がいたってそうだが、そいつが赤馬のラムとか云ったって云う、いわれ付き のものたんだ。普通なら、お前さん方の口には到底入るもんじゃねえ。そこが、あっしの気 性だ。銭もいらねえ。ただちびちび舐めてねえで、ぐいとやって……帰ってもれえてえ。 マーサ(二階で呼ぶ声)爺つぁん、勢子さんがたのほうは、どうするんだねえ。 カムデン あっ・そうだ一た。とにかく、じゃ頼んどくぜ。一と二階へゆく一 ウォトスン 驚いたご一んた離なところにも、大窪やっがいるもんだ。だが…ホi ムズ君、あいつは土地訛りはないし、渡り者らしいね。          二一 ホームズ そうらしい二ころでディッケンズのラムというのを頂戴してみるカフけツ 一吐き出す一こりゃ非度い。てんで、ロンドンの河岸あたりで売つている五ペンスぐらしの もんだ。一と調子を菱て一ところ著いまひよつと考えたんだがね。たしか君は、唖 が指先でやる手真似言葉を知ってたはずだね。  ウォトスン うん、だが速いと困るよ。 ホームズ とにかく一っ・あの唖と話してみてくれんか。あツ、此方を向いた!一と テープルを指先で手招くように叩く一此方だ、一フイル、唖独特にアウウと捻り祭らく る一じゃ二っこう云呈忌訊いてみてくれ。いいかね、二階に、カ、ミハエル家のア ン一ウィンスロープがきているか-と。  ウォトスン よし分った。      (間)  フィル (静かに、否定するように稔る)  ウォトスン 君、いないと云うぜ。  ホームズ そんな筈はたい。もう一度訊いてみてくれ。      (問)  フィル (やや興奮したように唸る)  ウォトスン ホームズ君、どうも自信がたくなってきたよ。此方はその積りでやってるん だが、通じないらしいんだ。妙にこんがらかって来てね。(緩く)去年カーミハエルさん       の所には、父とつちゃんと一緒に家ん中を直しにいった1と云うだけたんだ。  ホームズ じゃ、あの親爺は大工あがりだな。だが、とにかくアンの事を訊いて貰わなけ りゃならんよ。落ち着いて、君、もう一度やってみてくれ。  ウォトスン (嫌々)もう自信がないがなア。      (問)  フィル (物凄く興奮し、続いて、苦悶するような焦だったような声を発しはじめる)  ウォトスン 駄目だよ、君。アン、アンといっても、向うは、カーミハエルだ。で、今の はこうだ。(緩く)私がカーミハエル家へ行った時にーと云ったきり、先生、二つの句 が出ないんだよ。アヅ! (急に物凄く叫びながら、唖が駈けだし、壁の額縁をめりめりっ と剥がす。フィルの興奮極度に達す) あっ、どうしたんだ。唖が、額縁の片っぴらを剥が してしまった。  ホームズなんだか、意味がありそうだ。あれで、なにかカーミハエル家へ行ったときの 事を、報らせようというんじゃないか。 (と、そこへ階段を駈けおりてくる音)  カムデン (坤るように)うう、野郎、額縁を壊しやがった1 どうも気に食わねえ事が あるってえと、すぐ物に当りやがる。畜生、(大声に) フィル公 (殴りつける音、唖の叫    てめえ び声) 手前、なんで……、こう、こう、こうか。(唖の悲鳴、壁に叩きっけられる音)           マーサ これさ、爺とつつあん、フィルを叩くんなら、まん中でしてくんろ。ほれ、時計がお ん曲って、ほれ、もうちょっとで落ちるとこだ。(時計を直す音、祈るような声で) やれ やれ、ハア、災難せえなんをのがれただ。聖セントバトリツク様、散財をのがれましただ。(チクタクの音 が聴えてくる。それがやがて、大きな据置時計の音に変る)  解説者 その夜のカーミハユル家。媛炉のまえで、ホームズ、ウォトスン、アンの三人が                            つむ 食後を休んでいる。1さてここで、聴取者の皆様に一寸眼を瞑って頂きます。そしてその 中へ、真四角た額縁の姿を泛べて頂きます。いま唖のフィルが、額縁の上のほうの辺と向っ て左の一辺をもぎとったのでありますが、それには何事か、ホームズ等に告げようという意 志があるのでしょうか。またその時、アン・ウインスロープは実際赤馬にいたのでしょう か? いまホームズが、アンにその事を訊している。  アン マア、困りますわ。私がなんで赤馬なんかへ参りますもんですか。  ホームズ しゃ、僕の見違えかもしれませんね。ところで、例のふしぎな人物はその後現 われましたか。  アン 十月中に二度きたのが最後で、まだあれ以後一度も参りませんわ。でも私、どんな に恐ろしくても此処にいようと思いますの。私が出てしまえば、独りぼっちのカーミハエル さんがどんな目に逢うかしれませんわ。  ウォトスン たしかに……ねえ。とにかく、なにをするにも、あなたが邪魔なんだ。まず、 あなたを除いてから、カーミハエル氏にという訳でしょう。  カーミハエル (遠くで呼ぶ、かすかた老人の声) ミス・ウインスロープ……、ミス・ウ インスロープ……o (しかし誰もその声に気が付かない)  アン (怯えたように) どんな事が起るんでしよう。お金があって、病身で、独りぽっち のカーミハエルさんに、どんな事が起るんでしょう。  従僕のグレン ミ、ミ、ミ、ミ、ミス、ウ、ウィンスロープ、お呼びでございます。  アン カーミハエルさんがお呼びだそうです。一寸いって参りますわ。 (足音遠ざかる)  ウオトスン あの、グレンって従僕め、感じの悪い奴だ。吃りで、螳螂かまきりみたいに細長くて、 じろじろっと、人をみやがる。ところで、そろそろ調べはじめるかね。  ホームズ 待ち給え。炉に、松薪に、ウィスキーと、冬は田舎に限るよ。悠っくりとしよ う。(パチパチと薪のはぜる音) あっ、狐狩りの連中が帰ってきた。さっきカムデンがい ったグランタム猟士会の連中だ。……が、帰ってきちゃ、今夜は駄目だ。  ウォトスン 君、何を云ってるんだ?  ホームズ 実はね、今夜赤馬へゆこうと思ってたんだ。何しにってη マア、行きア分る がね。 (多数の蹄の音と、数十匹の犬の吠え声が近付いてくる)  解説者 その夜、部屋を調べると境いの腰羽目に、一、二枚外れる部分があるのが発見さ れた。そうなると、極く瘡せた人物たらこの部屋に入ることができる。そこでホームズは、 赤馬のカムデンをはじめ、ずうっと思い泛べてみたが、結局、その狭いところを通れる瘡せ た人間というのが従僕のグレン以外にはないということになった。しかしグレンは吃りであ る。アンに訊くと、あの奇怪な人物は決して吃りではないというので、折角、明るみかけた 事件がまた迷宮にはいってしまった。で、その夜は明け翌三十日の晩。二人はばりばりと霜                      柱を踏み砕きながら赤馬旅館の裏手からそっと内部なかを窺っている。  ウォトスン (バシャリバシャリと歩きたがら、小声で) ううう寒い。ひどい目に逢うも んだ。うえの女の子は風邪気味だったし、つくづくこんな目に逢うと家が思いだされてくる よ。 (豚の鳴く声)                                   かいぱおけ  ホームズ こぼすな。どうせ、君は流行らん医者じゃないか。オイ、そっちは飼糧槽だ。 気を付けろよ。うっかり家鴨なんか騒がしたら一度でオジャンだ。  解説者 そうして二人が裏側の羽目を覗き廻るうちに、一個所、灯がポツリと洩れる穴が ある。眼を当てても小さすぎてみえないが、耳を当てると話し声だけは聴える。ヵムデン夫 婦、それに、娘のような声がアンらしいので、二人は全く意外な感にうたれた。  ホームズ (呆れたように小声で) アンだよあれは。  ウォトスン ううん、やっばり食わせもんだったか。  解説者 ところが、アンらしい娘はヒクッヒクッと泣きじゃくっている。それをカムデン         夫婦が、嚇し、賺すかし、いろいろと手を代えては説き伏せようとしている。  カムデン おい、往生しろよ。どうせおれの手からお前は逃げられやしねえんだから。そ れを、意地っばりやがって厭だと云いやがる。  アンらしい声 (しゃくりあげている)  マーサ のう、厭な男に添えとか云うでアねえし、出世がお前はなぜ厭だ。早う、度胸を 据えてしゃんとなるだ。  カムデン オイ、多分お前は危ながってるんだろう。だが、こんな確かな仕事って、また とあるもんじゃねえぞ。カーミハエルが、なぜ青い着物を八日の目に着せるか、その納得が つきア、餓鬼でも乗りだすぞ。いいか、いまから数えて三十年ばかり前の話だ。おれはカー ミハエルの工場で木挽をやってたんだが、その頃、一粒種のアリシャという奇麗な娘さんが                       死んでしまった。それが八日だ。カーミハエルは落胆がつかりした。しかし、商売はとんとん拍子で、                  寄附や、慈善を山ほどやっても、まだ老耄おいぽれの手にゃ何百万かの金が残っている。ところが、 床について先が思われてくると、やはり泛んでくるのがアリシャの面影だ。そこで娘によく 似た年頃のを探しだして、それに娘の着物を着せて自分の側へ置き、余生を終ろうてえのが 老耄の量見だ。どうだ、そのアリシャにお前がそっくりなんだ。  マーサ 聴いたかね。ええだろうが。百万長者の養女並に、なんで尻込みするだよ。して えざんめえだ……。腕次第で財産も継げるだ。それを・…:。 (間があって) (意外なように) おう、おう、行くかη (喜悦に溢れ) おう、そうかい                         そうかい。(興奮してぶるぶる顫え) もう、おらア、紙幣さつ束握ったような気だア。                       カムデン ようし、そう決ったら一時も早く女あま……。 (と、そこで扉が閉って聴えなくなる)  ウォトスン あああ、ついにホームズ、娘っ子にしてやられにけり-か。だが、いま聴 いた老人の話を考えると、なんだが鼻の奥がつうんと痛くなってくるよ。僕にも、上の娘に 風邪ぴきの子がいるんだ。もう、なんと云っても帰るぞ。  解説者 そうして翌大晦日に、二人はこの村を発っていった。ところがどうしたことか、 ホームズだけがまた戻ってきて、カーミハエル家の、アンがいる部屋の扉の横手に、夜更け                           てからじっと蹲まっている。それが、外しの利く腰羽目の側そぱではないのだ。新式錠の装置に かたく閉っている、人手には開かない扉の前である。すると、まさに年も終ろうという五分 ばかり前に、廊下の向うの方へ曇っと人影が現われた。 (近づいてくる建音、秒刻の音)                          その人影は、鍵をおろした扉を魔物のように押して内部なかへはいり、しばらくカタコト音を させていたが、やがて出ようとした。が、今度はどうしても開かないのである。その苛つく 様子に……。  ホームズ オイー。  影の声 ううむ、しまった。 (ばたつく音、手錠)  ホームズ (静かに) カムデンだな。せっかく、扉にこんな仕掛をつくっても、倅にいわ         おととい れちゃ駄目だぜ。一昨日君の倅が額縁を壊したね。僕にはそれだけで分ったんだ。この扉は いくら厳重に鍵をかけても……、うえの鴨居や横枠などの外縁ごとに開かる仕掛になってい る。だから君の倅は、あの額縁をこの扉になぞらえて、鴨居や横枠にあたる部分の額縁をこ わしてみせた。ここに秘密装置がある1と。なア、父つあんに改心をさせようという、感 心な小倅だ。                      カムデン 畜生め、去年ここんところに修繕なおしがあったのを倖い……腕におばえの俺さまが、                       ちょっと細工をしてみたんだが……それも……手前てめえのお節介で目茶苦茶になっちまったぞ。 第でえ一、アリシャに似た女をやっと探しだしてきたのに……。(微かな吐息)ああ、もう愚 痴もいうめえさ。  解説者 じつは、アンの外にもう一人、カムデンが探して来たアリシャに似た娘がいる。 それを、アンを逐いだして後釜に据えようと、昨夜カムデン夫婦が責め立てていたのであっ た。  ホームズ とにかく、朝までこの部屋にはいって、ゆっくりと考えろ。明日になったら、 ディッケンズのラムでも飲みながら、とっくと意見してやる。サア、入れ。 (扉のしまる音) (オルゴール時計が十二時をうつ。それと同時に、子供たちの正月の歌 の合唱が聴える)  アン (與奮して) ホームズさん、あたくし、なんといってお礼を申しあげていいか……。  ホームズ ああ、アンさん!           アン (ちょっと羞はじらったように) いいえ、きょうから、アリシャ・カーミハエルたんで すの。 (子供の合唱しだいに高くたる)