紅い喇嘛仏 小栗虫太郎 序、秘密国目旨  一九二九年六月、四川第二十八軍第七混成旅長瞬継助が、 旅団全軍をひきいて叛変し、赤化して紅軍第六軍となった。 当時四川は、永年の軍閥抗争と、はなはだしい搾取のため、 じつに十年さきの租税をとられたというほどで……、ために、 抗租抗掲の神兵会などがおこり……、やがてそれが、紅軍第 六軍と合流することになった。  下川、すなわち重慶下流はいうまでもなく、上流の上川地 方にまでしだいに赤旗はなびき、ついに、川名が金沙江とな る雲南ざかいまで、同軍の偵探がいり込むようになった。  密使、≡|一《ミリ》一にきたる! つひに、秘境「ミリ」にまで|共 産主義《コムミユニズム》の手がのびたのである。  雲南の、北端|麗江《リ チヤン》から金沙江をわたり、標高一万五千フィ ート以上の連嶺をゆくこと二十日。そこに、この西南奥支那 に国中国をなしている「ミリ」の|喇嘛《ヲマ》王国がある。絶簸を、氷 触谷を覆う、九千方マィル。しかも、人口と云えば二万二千 に過ぎず、喇嘛その他の西域夷蛮IZ|器《ナシ》三εω|三《リユシ》などが 秘境楽土をいとなんでいる。そうして、川をわたれば草鮭に 沙金がつくという、|理化河《の タン》の宝域を擁し……、さらに、むか し世祖皇帝に封ぜられ満人の血をほこる、藩王が奥殿ふかく にましますのだ。  こうして、秘教喇嘛を奉じ天険にかこまれた、・・リの神秘と 謎は窺うものもないのである。外人もこず探検もない。ただ 中央政府からの駐在官だけが、唯一の漢人というだけであっ た。  ところが、この秘境に日本人がいるのだ。久我泰蔵という 地理学者であるが、フランス婦人を妻に雲南境からいり込み、 ようやく迫害をきりぬけたのが二十年前というから、おそら く清代にこの秘境の土を踏んだとみえる。  そうしてから、あるいは医師となり徽毒を治療し、また、 砂金取引に狡猪な漢人をこらし、さらに段丘状耕地を土民に 教えて、ミリを物資不足から救ったのである。こうして、政 府には顧問、土民には神となった。その久我も、天寿には敵 せず六十五で死んだ。すると、十日と経たぬまに妻のロザリ ーも、あい次いでこの世を去ってしまったのである。  ちょうど、娘の伊代子が夏季休暇で、東京から帰省してい る最中のことだった。  そうして、一時に両親をうしない孤独の身となった、この 混血娘のその後はどうなったであろうーり一秘密境、ミリの神 秘も最奥ともいう、喇嘛の宮殿奥ふかくの彼女。さらに、作 者はもう一度ここで、紅軍第六軍の密使きたるーという。 一、 |理化河《リ タン》の牧歌  幼時を追想すると、いつも伊代子にはいろいろの記憶がう かんでくるが、それと絡って……、懐かしい乳房。慈愛のこ もった白髭の父の眼、うつくしい花園、とげだった|石南《しやくなげ》の下 枝などが思いだされる。  しかしなお一つ、おそらく親身のものよりも一層深く、か の女の心に刻まれているものがある。それは、この、・・リの町 の目標ともいえる、大きな建物がほど遠からぬところにあっ たからだ。  そこは、石垣が幾重にもめぐっている。六層の、ぴかぴか 光る石漆喰の外廓が、じつにミリの町の半分もあろうかとい うような、ひろい地域をわが物顔に占めている。窓には、こ まかい格子編みの金色の扉がはまり、縢脂や、玉虫色のうつ くしい力iテンが透いている。  庭には、四季の樹木が無数にならんでいて、夏は、|密《こま》やか な葉で苔むす壁を覆い、白い花からは芳ばしい匂いが漂って くる。  しかし伊代子には、それがおおきな積木のようにしか思え なかった。むしろ、母の本にあるクリスマス菓子で、それ も、全部お砂糖のそれは巨きなもんで、黒い彊がチョコレー トだろう。と、まだ喰べたことはないが聴かせられているだ けに、伊代子はじゆっと唾を感じてくる。しかしそこが、、、、 リの大宮殿だったのである。  土民がそこを、お|寺《ゴムパ》、お|寺《ゴムパ》と|西蔵《チベツト》語でいうように、ひとり、 藩王のいます宮居というだけではない。|活仏《げげん》と、むしろ藩王 よりも尊崇をあつめている、噺嚇の頭領が奥ぶかくにいるの だ。つまり、寺院でもあれば宮殿でもあり、すべて政教の全 部がこの一個所にあつめられている。  とある日、礼装をした久我が、娘の手をとって、 「伊代子や、これからお館へお前をつれてゆくからな。よく 粗相のないように。それから、お|幽甘族《みうち》の誰かがお言葉をかげ るかも知れないが、そのときは還慮なくお答えして:::」  伊代はそのとき、六つだったので雀躍りして喜んだ。  まえまえから、灯火のきらめく金色の窓をみて、いろいろ 子供の世界の突飛な想像をしていたし……父や母からもお春 族のみな様が、みんな良い方でたいへん美しく、ことにプラ マタムダ様などは天人のようだと聴いていたので……。どん なに、御殿へゆけたら楽しかろうと考えていたのだ。もう、 そこにどんな方がいようとも、じぶんの飽きてしまったこん な|玩具《おもちや》と同様に、古い馴染ででもあるような気になってい た。  やがて、父に伴われて宮殿へはいった。内門をくぐったと き低く|頭包《テユルパン》をまいた衛兵の祖の、豹皮の裾にびっくり眼をみ はった。それから、階段をのぽり経輪の脇をとおり、しばら く、室をいくつかゆくと、突き当りの扉が開かれる。  そこには、うつくしい女性がすうっと立っていて、こちら を見あゆみ寄ってきて、手をさし伸べた。  きらきらする、ロ9|母《ベナレス》8金欄のなかで宝石が燦めく耳輪、 頭飾、小石ほどもある櫻路の一粒。それよりもたかい満人の 血をほこる聖家族の、浄らげな御女性の一人だったのであ る。  伊代子はもう、懐かしさがいっぱいになってきて、父が挨 拶しているにも頓着なく、たまらなくなってしまった。それ で、御女性にとびつき腕を頸にまいて、ちょうど、母にする ように無性に頗を摺りつけた。  すると、御女性はたいへん嬉しそうな顔で、伊代子の髪を なぶりながら、お笑いになったのだが……。久我は娘をいき なり引はなし、かような無作法者は、もう二度とは連れて上 れぬというのだった。  伊代は、何がなんだか分らなくなってしまって、無性に悲 しく、眼には涙が溢れそうになってきた。そしてそのまま、 広間を飛びだし階段を駈けおりて、家にもどると、わっと母 の腕に泣きくずれた。 「どうしたの? ええ、伊代子や、どうしたの?」 「お母ちゃま、私ね、いまお父さまと一緒に、潟春族さまの ところへ往ったの。そうしたら……だって、お母ちゃまのよ うに、私を可愛がってくれそうだったから……あたし飛びつ いて、かじり付いちゃったの」 「おやまあ、|不可《いけな》いことをしたねえ。あの方とは、お前、お 近附きでもないんだし、尊い、よその方だからね」 「よその方ってロ」 「ええ、よその方よ」 「だけど、私を可愛がってくれる人を、可愛がっちゃいけな いのかしら……」 「そりゃ、可愛がるのは、そりゃいいの。だけど、飛び付い たり、頼摺りなんかしては、いけないということなの」 「だって?」 「だってって、どうしたの」 「だって……じゃ、可愛がるのは良くってそんぼことを、す るのは不可いなんて、何故なの」 「それはね、お前が変に思うのは道理だけれど、いまに、も っと大きくお成りだと、きっと分りますよ」  その日は、伊代にとって、一日中悲しかった。しかし間も なく、やがては悲恋ともなる|端緒《いとぐち》の日がやってきた。  それから、まいにち日課のようにして、伊代は、お館へゆ き誰かれとなく遊んだ。とそのうち、はじめてプラマタムダ という若殿に会うことができた。  プラマタムダは、伊代からみると十ばかりも上で、始終病 身で、あまり喋らないほうだった。しかも、寝台の上に横た わったままで、宮臣二人に運ばれてかの女たちの遊びを見に くる。そして飽きると、そのまま旧のように運ばれて去るの であった。  その蒼白い顔、痩せて、しかも愛らしく、気高くうつくし かった。いつも、白い毛蔑にくるまって情の光を輝やかせ、 手で招かれなくてもいつの間にか傍へいってしまう。  伊代はよく、若殿のそばで、考え込んだものである。 (こんな方でも、やはり他人なんだろうか。飛び付いては ーと、いつぞや母に戒められたことがあったが……)  しかしそう云うときには、若殿が手をだしてそっと伊代の 頭へ戴せてくれる。その気持……。伊代は、嬉しさのあまり 総身が痒れたように、身動きもできず凝っと声もださずに、 ただ美しい双の眼をみつめるだけだった。  それは、おそらく、恋の芽ばえが童心に潜んでいるときの 感だろう。思えば後年のあのことがそのとき決められていて、 二人は、運命の糸に動けなくされたのかもしれない。  伊代は、若殿のことを男の天人だといっていた。そして、 頼りなさそうに寝台に横たわったまま、一生を歩きもできず 楽しみもなく、ただ日を送るのだと思うと、ぞっと暗い感じ がした。  こんなことなら、なぜこの世に生れてくることがあったろ う。絵で見るように楽しく、天上で暮したら良さそうなもん だと思った。  すると、それから暫く経ったころ、'日プラマタムダが子 供たちを集めて云った。 「今日はね、あたしの誕生日なんだけど……」  といいかけて、プラマタムダさまは淋しそうに微笑む。 「じつはね、間もなくみ仏から、お迎えがきそうなの……私 は、みんなと一緒に何時までもいたいんだけど……み仏のお 指図とすればいたし方ない。それで、指環を|遺品《カたみ》にみんなに 上げるよ。みんなは、まだ|幼《ちい》さいんだから最初は人差指に、 それから、だんだん次々の指へ移していって、大人になった ら小指にはめるの。分ったロ 一生あたしのことを忘れない でいられる口」  そうしてプラマタムダさまは、指をひろげて名残惜しげに、 五つの指環を暗然と見つめている。  伊代はもう、それを見ているのが、堪えられなくなってし まった。胸はせまり、涙が|盗《こぼ》れそうになってきて、やっと眼 を閉じうつ向いて堰き止めたほどだ。やがてプラマタムダ は、第一の指環を抜きとってそれを従弟にあたえ、第二、第 三、第四も、いずれも縁続きの子たちの柔らかな掌にのせ た。 (私には、来ない)  そばに立って、プラマタムダさまの痩せた手を見ているう ちに、自分は、そうだ|他《よそ》の人だからと、幼ないながらも|健気《けなげ》 な|断念《あきらめ》がうかんでくる。  しかし、指環はまだもう一つ残っている。  するとプラマタムダは、疲れたような様子でうしろへ寄り かかっていたが、ふと伊代の眼とがピタリと出合った。子供 の眼は……なにより心を正直に語るものだ。プラマタムダは、 またもや起きあがって伊代の額をなぜ、なにかの、影を求め ているようにじいっと瞳をみている。  やがて静かに、最後の指環を抜きとったのだ。 「これはね、あたしのお母さまの遺品なんだから、せめてこ れでも身につけて逝きたいと思ったんだけどどうも、そなた に遣って憶いだしてもらったほうが、良いようだ。君は、《フ》|や んちゃだけども、やさしい|心《フフち》をもっている。きっと君なら、 これを離したり忘れるようなことはないだろうね」  そのときの、伊代の心のなかはとうてい言葉ではあらわせ ない。病める、少年プラマタムダのこの世ならぬ美しさは、 伊代を魅さずには置かなかった。六つだのに……。それでも 伊代は、プラマタムダをまったく愛していたのだ。  幼女の愛……。育った、少女や娘にはない汚れのない熱情 と、真底からの、純愛とでまったく愛していたのだ。そし て、指環をもらった。これまでは、他の人だから決していけ ないと思って、滅多に、言葉もかけず甘えたこともない。そ れが……今はもう隔てが除れた。……伊代はもう、いまはプ ラマタムダさまと他人ではないのだ。 (一緒にいる……) (同化している……)  と、幼ないながらも、そう思うようになった。  しかしプラマタムダさまは、せめてこの指環だけは身につ けて逝きたいと云ったではないか。とたちまち、昂まってく る感情に耐らなくなって、伊代は声を顛わせてこう云ったの である。 「お返ししますわ。プラマタムダさまの、お身体についてい るなら、私のものも同様ですわ」  すると、プラマタムダはこの幼女がというように、まるい、 吃驚したような眼をした。  薄暮が、|理化河《リ クン》の河谷をとざしくらい露のそこに、、、、リは 眠ろうとしている。伊代は、読経の合間合間に経輪がまわる、 おもたい響のなかで宮殿をとびだした。残照に、連嶺の頂き がぽうっと染み、山裾の細径をゆく|型牛《やく》の列も、もう見さだ め難くなっている。  しかし、伊代はただ水紋をみるばかり……。とおく薄れて ゆく|梨牛《ヤク》追いの笛が、逝こうとするプラマタムダの声のよう に思われた。 三、 劇盗ニョ口プフ  夜になった。その年はじめての雪が旋毛と吹雪きはじめ た。やがて、石瓦の庇が重そうにたわむころ、一個所、ある 場所をめぐって足跡がつけられはじめる。  ざくざくと、膝ほどの雪を踏む調子をとった楚音。しかし この場合、問題なのはその巡濯ではない。  あちらの軒、物蔭'に添うてたつ秘やかな人影が、いずれも 僧衣をまとい前方の塀を見張っている。それは…:・連ねてみ るとこのながい、塀をめぐる人間の|係蹄《わな》のようであった。  しかし、突風をともない山顛から吹きおろす、雪は囲み地 の最奥のものをかくしている。  空地か、いや。そこが伊代子の父久我泰蔵の家だった。 「考えるとな。去年と今年とでは、たいへんな相違ではない か」  石塀を横手にみる庇のしたで、一人が、同僚に得たり顔で 麟いていた。 「誰かが、顧問の家をたずねると、われわれが駆りだされ る。それほど、|活仏《げげん》と王家との|反目《そりめ》がひどいのかな」  |剛嚥《ヲマ》だった、活仏の従僧たちが監視の眼を投げている。は たして、久我の家の奥まった一部屋に、主人と一人の男がひ そめやかに話している。  それが、宰相のナイエーダだった。ながい薄髭をはやして でっぷりとした、忠誠五十年をほこる人物だ。 「どうも活仏め、財布の口をきゅうに締めおるでな。いま に、官費がどもならんようになりますわい。喇嘛に、庇を貸 して本屋をとられるー。合わん話ですわ」  ナィエーダが、財政の窮迫を久我に述べたてている。  それはミリに、喇嘛僧を扶養するという悪制度があるから だ。自給自足の、西蔵寺院制度とはちがい寄生虫を腹にもつ、 ミリの王室が痩せるばかりにひきかえ、布施や寄進はあって も支出というもののない、活仏ははち切れんばかりに肥って ゆく。  そういう、王室の衰微と宗門勢力の増大が、ナィエーダの 頭痛の種なのだった。  喇嘛を、制圧すれば民心が去る。じつに、、、、リの土民には 生命よりも尊い、大喇嘛仏を活仏がまもっている。  そこへ、久我が改革者らしい意見をいった。 「だが、本を|矯《あらた》めずに変り花はできぬたとえ……」  いつも、久我の声が当路者には辛い。因習のこの国に改革 をさけぶ、政治顧問が宰相をしかりはじめる。 「土民が、|生計《たつき》の基を砂金に置いている。あれが、そもそも なによりも不可んことだ。かれ等は、わずか働けば一年分が でる。……しぜん癩惰になって労するを厭う。……農耕、牧 畜、紡織と国力の大本が、栄えんのもそこに意味がある。宰 相、すべて労して作るものは他領から仰いでおる、現状を変 えずに繁栄が願われますか。民の労蓄、王家の栄え……」 「では」 「つまり、喇嘛にも富ませるが、それ以上富む。喇嘛が、百 を得るまに万を得る」  そこで、声がひくまって密談になった。  がもう一つ、ナイエーダがそれ以上悩んでいるものがあ る。それは、つぎの藩王となるべきプラマタムダさまが、病 弱明日をもしれぬということだ。  ミリでは、藩王の継位が世襲ではなく、兄弟、|従兄弟《いとこ》間か らなるという奇習がある。それで……、唯一の王籍間の男子 プラマタムダさまの、万一の場合がたいへんな問題となるの だ。  そこへ活仏の眼がもし光ったとすれぱ、ミリの王系がここ で絶えるかもしれない。二人も、落ちるところはその話であ った。 「別殿を、理化河の対岸へつくらせる……。この窮乏時に、 たいへんな冗費じゃ。なにか、そうせんでも済むほかの手 は、ないもんかな」 「ありません」  久我はきっぱりといい切った。 「財政の危機と、王系の断絶とどちらが重いか、いちばん宰 相に秤ってもらいましょう」  プラマタムダの、病気は脊椎カリエスだった。  おおきな、山蔭に覆われて一年中陽の目をみない、ミリに いては死を待つのみである。そこで久我は、海抜八千フィー トの陽の丘といわれる、理化河の対岸に別殿をつくり、豊富 な紫外線でプラマタムダを治そうとした。  がここに、ミリの町に不思議なことがあるのだ。  それは、久我の家からほど遠からぬところに、ひそかに油 火を覆うて灯影をかくし、相当ひろいなかにポツネンひとり いる、まだ十五、六の少年がある。 「そうか。御身の眼でも、寸分の狂いがないーと。では、 あとはもう時の問題じゃ。わしはあの若者に、幼時の記憶、 宮廷の作法を仕込んでおる。それで、足らぬところを、一番 そなたにも肩入れをねがいたい。憶えておるであろう。いつ か儂が、えらい拾い物があったといったではないか。まさに、 プラマタムダと瓜二つ……。はよう、幽霊と思われるときが くればよいが」  以上の会話は、読者諸君の想像を物したものだが、この少 年が、じつに瓜二つというもおろか、プラマタムダにそっく りなのである。しかもそれが、喇嘛と王家の確執のあいだに、 なにか陰謀を暗示する役割を勤めそうに思われる。  しかし私は、その間をいわず十年後のきょうの、ふたたび ミリを訪ねた混血娘のことを語りたい。  その翌々年、学齢に達した伊代は東京へやられた。父から は日本語、母からは仏語。それにミリには、Z|器《ナシ》三,い|静三《リユシ》, |一《ロ》〇δなど|六《ロ》種族がすみ、当然六つの|言語《ことば》をおぽえねばなら ず、都合八ケ国語をわきまえた不思議きわまる少女が、親戚 から小学校へあげられたのである。  そして十年。女学校も四年になるまで一度も父母をみず、 伊代は文明のなかにいた。ところがその年、轟の知らせかき ゅうに遇いたくなった。矢も楯もなく、日数七十日と飛脚代 百フランかかる、ミリヘ向い問合わせの手紙をだしたのであ る。  雲南の、|麗江《り チヤン》でさえ蛮姻の地といわれるのに、そこから飛 脚にして十二日の旅。劫賊に怯かされ密林をぬけ、だい一、 届くことさえ疑わしいのであるが1運よく、夏のはじめに 返事がきた。そうして、仏領印度支那の|海防《ハィマオン》で、父泰蔵と十 年ぶりで会うことになった。  それから、昆明へゆき汽車を捨てると、いよいよ、北雲南 ヘの連嶺中の旅となる。ことに、|大理《クヨ》から先は探検同様で、 武装した護衛が輿脇をまもり、麗江をやっとみることができ た。  するとそこに、ミリの王室からの派遣隊が待っていた。お よそ、数えれば五百人あまり。これなくば先へは一歩も路み だせぬほど、途中は劫盗の巣なのである。はたして、伊代勺、J のその後を数奇にもてあそぶ、最初のものが途上に待ってい たのだ。 「どう、ミリに変ったことはないロ いま、王さまはどなた なの。お弱い、プラマタムダさまはお成りになれなかったろ うけど……」  伊代子が、|梨牛《ヤク》をひいている老兵に話しかけるようになっ たのも、やっとこの、おそろしい旅に馴れた三日目あたりか らだった。  かの女は、父にプラマタムダのことをどうしても訊けなか った。おそらく、十年まえじぶんが去ると間もなく、あの少 年も他界したことだろうと思われたからだ。  すると、その老人がひじょうに意外な返事をした。 「どうしてお嬢さま、王さまはまだ御存命中でいらっしゃる だよ」 「では……、その王さまとはどなたなの」 「ほうれ、いま仰言られたプラマタムダさまだよ」 「ええ、じゃまだこの世に……」  伊代子は、必死に顔にあらわすまいと、激情をおさえ付け た。意外だ、夢に夢みるとはこのことではないのか。どうし て、あのお弱いからだを保ちつづけてきたものだろう。指環、 あのとき聴いた梨牛追いの笛。  と、峯も難も一閃のまに消え……、伊代子は、回想の快よ さにねむるように眼を瞑じていた。 (まあ、プラマタムダさまが王さまになって……)  その年、伊代子にも訪れるものがきた。童女期から大人に うつろうとする境界になって、あまい悶えや遣る瀬なさにと きめいているとき、この、蛮地をゆくおそろしい旅がはじま った。  そうだ、この旅はやがて終るだろう。しかしそこから、女 の一生をあゆむながい旅路が、はじまりそうなそんな予感さ えした。 「じゃ、どうなの。プラマタムダさまにも、御評判ってある でしょう」 「さあ、それがですよ。ずいぶん、御発明でお立派な方だけ んど……、以前、お嬢さまがいらっしったあの頃みてえに、 ミリの人間は暮せねえようになっているだ」 「まあ、どうしてなの?」 「それは、めっきりハア、近年砂金が採れなくなったで それも、可怪しなこんで急になくなっただよ」      りークン   か み 「じゃ誰か、 :・」  と、いいかけたが非常にまずい想像であることが、 代子の胸にぴいんと響いた。 かなるものか、知っていたからである。  理化河は、ミリにきてはじめて盆地にでる。 理化河の上流でさらってしまうような人が:           すぐ伊 それは伊代が理化河の流域がい そこまでの、 砂金区域をふくむ百マイルばかりは、じつに、雲をさく|山簸《ビイヶ》 からくらい深淵の河床にかけ、見事にも描くおそろしい直 線。それが、一枚岩というか解風岩といおうか、数千尺をき り下れる大絶壁の底を、理化河がうねりくねりと流れてい る。  鳥も、峡谷のくらさにあまり飛ばないところへ、人が、ど んなに腕こうとけっして往けるわけはない。そこへ、誰かが 入りこんで砂金をさらおうとは、伊代子にしろあまりに子供 じみている。  ところが、その老兵が驚いたことに、伊代子がいうとこく りと頷いたのである。 「ほう、じゃニョロプフのことを知ってお出でだね。活仏さ まが、生きた仏さまならあいつは悪魔でがす。おれが、理化 河へ下りて砂金をさらうんだと、よく|掠《うぱ》った里人に現物をみ せるそうでがす。それに、あの野郎はこんな云い草をします だよ。lIおめえ等、活仏さま、活仏さまというが、あれは 詐りだ。もし、ほんまの生き仏ならそんだけの力があんべえ。 砂金を、おれに採らせなくしてこそ、ほんまの生き仏だと ーニョロプフめが|吐《ほざ》きますだよ」  その、ニョロプフという劫賊の首頷が、いま、王家活仏を はじめミリの人たちを、顛えあがらせてる大怪物なのであ る。  わかい、土民にはめずらしい房々とした髭。それだけでも、 髪髭というものが人種的にも考えられぬvこの辺ではたしか に驚異である。しかも、神出鬼没、白昼大宮殿をおそい…. 活仏を罵り革新をさけぶところは……どうして、文字の素養 さえも窺われる。  快隼、賊というよりも変革者であろう。しかも、貧民には めぐみ王家をうやまい、なにより、喇嘛教の害毒から領民を 救おうとする1活仏の大敵であるのだが……。一方、、、、リ の人たちにもじつに苦い、かれは警告者であった。  これまでお前らは、織りバタをとり、耕すのを忘れた1 砂金に毒されたことを、ようく知っているだろう。そうい う、天理にそむいた人間どもに決して幸福はこない。つま り、|理化河《リ クン》の砂金がおれの手にはいるということも、天がお 前らに働けという意味とおなじだ。  働け、そうしていれば決して見捨てられることはない。万 一、天変地異があり飢饅がきたとき、お前らを救うだけの富 が活仏の手にあることを……、最近働きだしたことにめで、 おれが教えておこう。  この貼紙が、宮殿のまえの松姻櫨に貼られたのが、つい去 年と思うまに試錬の臼がきた。  どうした変調か、五月も雪六月も雪……。ミリ盆地の、山 裾を覆う大麦も碗豆もまだ芽ばえに過ぎない。  これでは、実るまに冬がこよう……。まして、砂金採取量 の激減から物資移入のできない、、・・リのこの冬はどうなる?  飢饅だ。ニョロプフの貼紙がもし本当なら、活仏よ救え ーの声が高くなってきた。ミリは……物情騒然しだいに危 機をはらんでくる。  そのあいだ、伊代たちは|雪線《スノ ヲイン》にそい、あるいはすこし下っ て一万フィートあたりの、石南帯を東へと進んでいた。巨 峯、鋸歯状の尾根が二万フィートをぬき、峡谷は|濃霧《ガス》にみち 電光がきらめく。そして……電、石のような雨。  またその間に、|雪櫓《たるき》や岩蔭に標桿な眼をむく、土賊を追え ば黒豹におどされる。まったくこの、五百の護衛がなければ ミリ入りは不可能である。  すると、間もなく、..K|口畠三畠《ユンニン》."に着くというまえ、一事 件がおこった。  |鴉襲河《あろうか》の、一支流にかかっている木橋をさして、一匹の飛 脚馬が猛烈な勢いではしってくる。そこは、峡谷もひらけて 八千尺の高所ながら、すでに人里もちかい。 「おう|慈仏《オムフス》、おう|慈仏《オムフス》」  やがて、蹄の音がしだいに近づき、馬の鼻面が難霧のなか から現われてきた。 「オーイ、待て」  隊の一人が、飛脚にむかって精いっぱいの声をはりあげ た。 「止まれ、その馬、止まれったら……」  馬の歩みがいきり止まって、足掻きが霧をみだしている。 「なに、止まれ? おおきなお世話だ。これは、維面へゆく 駐在さまのお荷物だ」 「オィオイ」  兵はなだめるような、うち明けるような調子でいう。 「ミリの、ほれお前も聴いてるだろうが、久我顧問さまのお 調べがある。下手をすると、おめえ、取りかえしのつかぬ目 に遇うぞ」  しかし、それは飛んだ嘘である。  どんな中国兵にもある兵匪根性で、威を笠に奪ってしまお うというのだ。おまけに、小休時で久我はねむっている。兵 がべろりと舌をだす。  ところが、尻に積まれている箱をあけたとき、思わぬ久我 の顔がぬうっと背後からあらわれた。 「なにをしてる? なんだ、検閲だと?」  と、皮肉な一瞥をぐるりの兵になげて、ともかく、箱の蓋 を久我がもたげたのである。すると、なかのものに金目はお ろか、なにかの印刷物がぎしりと詰っている。  それから、一部一部、眺めすかしているうちに、久我の眼 が凝然と落ちて動かなくなった。  ビルマ境いの、シャン族語で刷られた共産党宣伝物。 四、群燕と|騎馬隊《ガヴアルゲさト》 「ううむ、なんてことだ!」 さすがに呆れて、久我もしばらくは声がなかった。  とそのうち、漢文で「古怪歌」とある見返しの一冊がある ので、ひらいてみると「民権初歩」だった。上海で「紅旗」 や「上海報」とともにでる、パンフレットの一つである。続 いて、「伏狗術」が「蘇兆徴」となり、「国語読本」が「武装 暴動」となった。  すべてが、民族をくさらせ国家を崩壊に導こうとする、バ チルスの培養床なのである。 「お前」とふるえている飛脚に、久我がいった。 「これは、誰にたのまれた? また、頼んだ人はどこにいる ね」 「知りましねえ。おらが、あに知るだ? ただ、荷をうけ継 いで走るだけのこんだに……」  そうしてやがて、飛脚はその荷を積み山蔭へと消えていっ た。おそらくこれは、雲南のシャン、ステーツからピルマに かけての、シャン族赤化のため点検のないこの難路をえらん で送りこもうとするのだろう。すると、ここに一つに次いで また一つLちょうど、:くξσq|三畠《ユンニン》..を見おろす山径中一 事件があった。  それは、傾斜を覆うているまっ黒な縦のあいだに、ちらほ ら、彩点をちらつかせて一隊の人馬が近づいてくる。その、 また先頭が美々しい|仮装《なり》の男。  金色の、縁取りのある上衣のうえに、真紅な、眼ざめんば かりの半祖をまとっている。そして、豹皮をつづった鞍覆い にまたがり、一行の前方にぴたりと馬をとめたのである。不 敵! 兵も銃もてんで眼にいらぬらしい。  すると、髭だ髭だという声がざわめきとなって、隊中を騒 然とながれはじめる。髭、すなわちニョロプフなのだ。 「待て、発砲はならん」  どうしたわけか、いきりたつ兵を久我が押しとどめた。 「みれば、わずか二十名足らずだ。その賊に、五百の、ミリの 兵が狼狽したとあっては……他領への聴えもあることだ。よ いか、合図のあるまで発砲はならんぞ」  そうして、隊をはなれて久我だけがあるいてゆく。すると、 ニョロプフが右手をあげ、親指をたてて尊崇の意思表示をす る。はじめて、音にきく桿盗ニョロプフを、伊代は二十メー トルほどの前方にみた。  髭で、老けてみえるがたしかに若者だ。標桿、雪に焼け朔 風に削けたなかにも、凛とした気品さえ感ずる。すぺて、伊 代がうけたニョロプフの印象は、こういう不思議なものばか りであった。 「ミリの顧問、久我どのであると察するが」  ニョロプフの、それが第一声であった。しかしかれは、に んまりと懐かしげに微笑んで、白髪の久我をじっと見つめて いる。 「わたくしは、はじめて見参もうすニョロプフです。悪者の 常で里にはおりませぬ。また、山霊に愛でられてか、いまだ 捕われませぬ」 「分っておる」と久我の声もふしぎにも顧えている。 「なにか、本隊に用事でもあるのか。それとも……」 「はっはっはっはっは」ニョロプフがいきなり|咲《たか》笑いをはじ めた。 「こんな、百なしどもを追い剥いで、なにになりましょう。 じつは一人、ミリに護送をねがいたい者がいるが…:・」  といって、鞍のしたを指さすと鞍覆いのかげに、結いつけ られた漢人らしい顔がみえる。蒼ざめて、血の気もなくぐた りとしている。 「なんでも、|維面《クイジフ》へゆく駐在官とかです。しかし私に追い剥 いだあとの内身は要りませぬ。といって、ここへ捨てれば虎 豹の餌食でしょう。反漢の、、K≡σq三品..の気風では存命も なりますまい。お願いします。ミリの三災もこの功徳に消え るでしょう」  最後の一句にことさら力をこめ、ニョロプフが意味ありげ に瞬いた。  やがて、縛を解かれて漢人がわたされた。聴くと、思央連 という濾県の小吏だそう……。しかし、眼の険わしいドスつ いた印象が、この男を唯者ならずとみせている。  案の状、数時間まえの箱の主だった。紅軍第六軍党部委員 から本部附きになり、シャン族叛乱使倣のため南雲南へとゆ くII本名を呂舜階という男。  しかし、なにより不審なのは久我の態度であろう。この男 が、危険な赤化運動者であるのを百も承知のうえで、、・・リヘ 連れてゆくとはなんといっても奇怪だ。まして、唯々諾々嶽 盗ニョロプフの一一、日葉に……  それも、運命の戯れであろうか。ニョロプフがこの呂舜階 を追い剥いだばっかりに、かえって赤化の種子がシャン、ス テーッには落ちず、ミリの秘密境に咲くことになった。  が、こうして、万事思う壷にすらすらとはこび、ニョロプ フが悦ばしげにいうのだ。 「お礼はします。明日、、|貞《ユン》≡oQ|三畠《ニン》、.をお発ちになったら、 .、≦|轟一昌《ウアヲピ》一..丘の裾の、廃寺のなかを忘れずにみてください。 そこに、ミリヘ贈るお礼があるはずです。さらば……」  と、ニョロプフが半馬身をかえしたとき、偶然伊代子の視 線とぶつかったのである。その瞬間、精桿豹を駆る嶽盗のか れも、まったく一時ながら呆然となってしまった。しかし、 痴けた主人を馬はしらず、おもわず締めた手綱に一散にはし りだした。  群燕と、茜色にそむ雪線のかなたへ、点々とつらなる|騎兵 隊《カヴアルケ ド》が消えてゆく。  その夜、伊代は、、K|口畠甘畠《ユンニン》二の宿でまんじりともできな かった。ねむると、プラマタムダではなくニョロプフがあら われる。そしてそれが、なんだか過去のとおい記憶にあるよ うな、漠とした親しさで迫ってくるのだ。  陰湿の、宿のきたなさは露営のほうがましだった。転々反 側、もうねむるまいと小窓をあけたとき……伊代の眼に異常 なものが映ったのである。  暁がはじまって、銀色に染みだした若木の縦のしたを、ザ アっと、下生えを鳴らしながら風のように近づいてくるもの がある。それは、。.|勺口畠《フンキヤ》ヨ|彗《ン》o。品..に通ずる桟道のような近道 だった。  すると間もなく、空虚なとおりの向うに一点のものがみえ、 やがて、砂塵につつまれた騎馬者の姿となったとき、なにか 下からぐいと衝きあげるようなものに伊代は思わずもたちあ がった。 その騎薯は、妙痛だかい音の笛のよう奄のを鳴ら し、通りを疾風のように駈けぬけてゆく。伊代はなんだか唯 事でないように、余韻を聴きながらドドドッと胸が鳴ってき た。  すると間もなく、あらゆる種類の物音を一時に合したかの ようなざわめきが、、、K≡σq三畠..のいたるところに湧きおこ った。  |剛嚥《ヲマ》僧院のある丘のほうから、あるいは裸馬にのり牛車を ひき、一隊の僧が馬脚をあおって駈けてくる。車が、轍のふ かい溝にはまってぐいと傾くと、機みにいつ盗んだかと思う ような、小豚がころげ落ちる。馬無しが、ここを先途とかじ りつく馬の尻には、バタバタ苦しそうに羽ばたく難が結いつ けられてある。  巡礼に、姿を変えたニョロプフの部下だ。が、それ以外に 掠奪はなかった。  すると間もなく、蹄がかきたてる砂塵のなかに、あっと人 たちが驚くようなものが現われてきた。 家畜! おう、喇嘛の牧場の全家畜が、潰えた堰堤のよう にながれこんでくる。  盛りあがるうねりが砂煙の飛沫をたてながら、両側からど っと街道にながれこんだ。山羊にもいる、馬も、羊も、梨牛 も一鞭くれられ、群性に、ただまっしぐらに隊列をしたって 駈けはじめた。  やられた?  喇嘛の、牧場が根こそぎやられたのだ。  しかし、追おうとすればパアンと銃弾が飛んでくる。喇嘛 たちは、ただ手をつかね口惜しそうな顔をして、洪水の退い てゆくさまを眺めていた。  それが、。.≦|轟《ウアラ》ζ|甘《ピ》..の廃寺にやがていれられて、通りか かった久我たちに贈られた。まさに、機略縦横ニョロプフの 実力が、ここで遺憾なく示されたのである。  やがて、十七日のおそろしい旅がおわった。  ところが、十年ぶりにみる山蔭の町、ミリの暗いこととい ったら……  といってそれは、年中陽の目をみないという、それではな い。だい一、物々交換の交易市がひらかれてない。牧草や大 麦をしょってくる農婦のキャラバンが、十年まえはいたると ころに見られたのだが……、さらに、|虚飾《みえ》の一つになってい る四川鍍金貨の頭冠も、大切な、獣皮の上衣も女から消えて いる。  スグ人たちは、ただ暗漕となすこともなく、やがてくる天 謎にふるえていた。  しかし、伊代はなつかしい母を十年ぶりにみた。また目含一 という乳母だった、老脾にも久しぶりで逢ったのである。が それ以上に、かの女としてはプラマタムダをみたかったの だ。  と、着いた三日目の朝、伊代に思わぬ手紙が舞いこんでき た。衛兵が、尊崇のしるしに栂指をあげたのに、伊代は応え られなかったほど荘然となった。  懐かしい伊代子よ1  僕は、あなたがミリに戻ってきたのを、側臣から聴きまし た。まったく久しい……ほんとうに、何年もみないで夢のよ うに考えられます。僕は、あなたの成人をみないで、逝くの かと思っていましたのに……  懐かしい伊代よ1  僕は、はやくお会いしたいと思うのだ。まったく、僕がこ れまで生きながらえていたのも、ただただあなたの成人をみ たいためだったか…・  明日、逢いましょう。 伊代は、なんだか夢のなかのものが実現するようぼ気がし た。 数えると、今年は二十六におなりのはずだ。私は、十六l  と、数える気持もてんであのときとは違った、いまは匂わ しいものになっている。甘い、期待1。櫟らさるような、 あの戦懐1。ああ、もう私は十六になっているのだ。  翌日、伊代は宮殿へあがったのである。宮門は、末寺や 僧、尼僧の住家にかこまれ、はや、鼓や銅羅や袖貝の音が、 だるげな|低音《バス》の経声とともに湧きあがってくる。しかし伊代 は、いまひらけた眼でみる宮殿の暗さ、なんとなく異臭さえ する未開のさまに、よくプラマタムダさまがお育ちになった ものだと思った。  そうして、くらい廊下をゆき階段をあがると、天鷲絨の、 獣皮でない西蔵靴をはいた、宮臣が接見室へ招じ入れたので ある。それが、十年まえのあの部屋であった。  一々、それには見憶えがある。葉のひろい、|常春藤《きずた》のある 窓も椅子の象眼も……。そうしていま、二人とももう子供で はない。  やがて、十年まえのあの時そのままのように、二人の宮臣 が寝台をかつぎ込んできた。プラマタムダは、やはり静かに おなじように横たわっている。 (十年も、マア、十年もおなじ姿勢のままで……)  伊代は、込みあげてくるものに、耐らなくなってしまっ た。しかしプラマタムダは、宮臣が室を出るまで二言もいわ なかった。  冷静な顔をして-…・、二人だけになると、そっと首をめぐ らした。相変らず、昔のような人を魅する眼。しかしだんだ んに、眼も唇も微笑に綻ろんでくる。 「僕たちは、旧い馴染なんだから、きっといまも、昔と変ら ないと思うんだが……」  伊代は、黙って肱掛のうえに手を置いた。そして、ずいぶ ん永いあいだじっと黙っていたが、 「ほんとうに……お眼にかかれて……お便りを、しようしよ うと思っていたんですが、お忘れかと思って」 「忘れやしない……」  伊代の、声がふるえるように、プラマタムダさまも瞳を漂 わしている。 「忘れるもんか。人間というやつはね、つまり云えば鳥みた いなものなんだから……。誰とでも、好きな枝にとまって一 緒になって、好きな歌を、さんざん唱いたいと思うんだから ・…」 「でも」  伊代は、やっと落ち着いてきた。 「でもなかには、臭と小鳥のような間もありますわ」 「そう、それもあるね」  と、プラマタムダは、伊代の眼を窺うようにみやったが、 それが、親しさのあまりの冗談とわかると、ぽうっと、頬が 染んで冗奮してきたらしい。 「だが、それも初めからでは、ないと思うよ。君、憶えてる ……? 僕の、指にあるのが何んだか」  と云って、毛藍のなかから女のように、しなやかな五本の 指を出す。伊代はそのとき、指環が一つ、きらりと光ってい るのをみた。  ああ、あれ?  一度、プラマタムダさまが私に呉れ私がまた、プラマタム ダさまにお返ししたものではないか。とたんに愛されたい子 供のように、伊代は無条件で身をなげだしたくなってきた。 (この人、この一族)  ニョロプフさえ、近郷をあらし喇嘛殿まで掠めるが、この、 御一家には指一本ふれぬではないか。その、聖家族が活仏の 檀頭、現主病弱のため崩壊へと急ぎつつある。  するとそのとき、苦痛のような色をプラマタムダがうかべ た。 「あっ、どうか……どうかなさいましたんですの」 「いや、ただ喋り過ぎたんですよ。医者から、僕は時間を制 限されてましてね」 「お医者って?」 「あなたの、お父さん……。それも、また昨日からですが」  伊代は、どきりとした。おたがいに、いま感情が甘く響き あっている。しかしそれも、やがては花が散るように優いの ではないか。この方に、死期がまたも近いのではないか。 五、|魔《ネ》 馨 |香《ツ》 そうしているまに、伊代はおおきな悲劇に見舞われたのだ。 馬鼻疽が、両親をつぎつぎへと麗し……、この、孤絶境で ひとりぼっちになった伊代は、ただもう頼るのはプラマタム ダの一人だ。そうして、二人の交情がますます濃やかになっ てゆくとき、ミリは、飢樺をまぬかれ難い有様になった。 「分ります。お気持はよう察せられます」  呂舜階は、久我の死後活仏にとり入って、きょうも、観音 の巨像のしたで茶をのんでいる。呂は、.=ヨ〇|三缶耳鼻《ミンチフツクツ》2.. さまと事ごとにいう。それは、活仏の敬称生き仏さまという 意味だ。 「私にも、あの生き観音さまがお|没《さ》りになったあとのお寂し さがようく分ります。しかしそれは、考えれば、別の意味に もとれますことで、つまり、なにをされようと絶対御自由に なった……まあ、ひとり旅の気でお振舞いにはなれますな」 「それも、よいが……」  まだ、活仏にはうつくしい尼僧だった、|生《ミンチク》き|観音《ワンノン》の面影が こびりついている。 「ここにも、よくあれが忍んでまいったものだが」 「しかし、この世に変転だけはまぬかれませぬで」 「そうだ、変ったのはわしだけだ」 「変ったのは……とそう仰言いますね。しかしながらたまに は私めも|男後家《やもめ》になりたいと、以前よくそう思うことが御座 いました。時に、こないだは、どうなさいましたな」  呂舜階が、指をまるめてピインとはじく真似をした。上層 の腐敗は、赤化の第一階梯である。 「だが、……まだわしに、あの放欝ないまわしい考えがでな い。膝が、だるく緊めつけられるようになる。からだは湯の なかのようにとろとろと眠くなってくる。しかし、まだ生き 観音へ心飛んでいかん」 「ああ、さすがお立派でございます。しかしながら、生き仏 さまにはお下地がございますぞ」 「ほう、わしに下地とは?」 「それは、あなたさまの感がとてもお宜しいからで……。|碑《おんな》 が、あのとき私にお顔と1申しましたでしょう。ところが、 座にかえるとお姿がない。わたくし、馬鹿らしいやら呆れる やらで……。ずいぶん、あなた様もお察しがいいと思いまし た。あんなことが、どういう場合におこるかちゃんと|弁《わきま》えて いるなんて、仕込みようじゃ末怖ろしいと思いましたな」 「駄目、わしなんぞはまだ駄目だ」  いつか、呂に唆かされて忍びにでた夜のことで、いまさか んに手玉にとられている。活仏は、いままで周囲に人なかっ たばかりに、王家の衰退にも食指をうごかさなかったのだが ……、いまここに呂舜階があらわれた。 「では、久我の娘の伊代はいかがで。あれなら、|活《ミンチフ》き|仏《クツク》さま のお嗜みにぴたり……」  と、いいかけたとき一人の喇嘛がはいってきて、人民ども が御面接を得たいと申しておりますーといった。  しかし、なん度活仏にいってものれんに|腕《フフフ》押しで……間も なく、、・・リの全民がたおれると分っていても、呂の差金が|効 血《きゆさじゆつ》を拒みつづける。事実も、活仏にはさしたる富はない。そ れを、どうしたことかニョロプフが煽る。  また、松姻櫨のまえに貼紙がでたのだ。  喇嘛の教えに、釈尊大乗のおもかげ露ほどもなし。|悪《ボ》魔|教《ン》 の交配により活仏とは、すなわち魔神を拝むことなり。かれ は、生ける多聞天として巨富を擁し、聖天の荒淫をほしいま まにす。  人たちよ、剛瞬の富をうばい王家をおこし、さらに冬期の 飢餓にそなえんの意志なきや。  そのころ、秋もしだいに深まって、連嶺の雪線が一日ごと にくだってくる。しかし、伊代とプラマタムダの仲はますま す|熾《さか》ってきた。と、ある日、乳母のムドニが云いにくそうに、 「お嬢さま、おらはお嬢さまを館へやりたくねえだが:…・」 「いけないって、なアぜ……」  まったく、乳母からそんなことを聴こうとは思わなかった だけに、伊代にはそれは意外なことであった。 「いろいろ、いい解いたところで、分りますめえが、ただ一 言、お嬢さまに御注意だけにいっときてえだ」 「なんの、ことなの」 「それはでがす、もう決して、プラマタムダさまをお騒せし てはいけないと云うこと……。わすは、ゆうべも徹夜で附き っきりでがしたよ。なア、御符や叩几い責めじゃおっ死ぬだ に。幸い、おらが旦那さまのやり方を知ってたもんで……」 「:::」 「お前さまも、プラマタムダさまのお命を大切だと思うた ら、決してもう、お館へゆくこんでねえ。いいかね、疲れさ せちゃなんねえと云うことだ。お前さまがプラマタムダさま をお悪くさせるだから……」  伊代は、冷やりとした。事実そのころは、もう恋といって もいいほどに、成長していた仲だったから。 (事によったら、それを乳母が、覚ったうえの事ではないの か)  しかし、誓いを強いるかにみえる乳母の眼は、ただそれだ けの理由のみとは思えなかった。伊代は、恋をしているとき の鋭敏さに、なにか漂っているくらいのものを感じた。しか し、 (だが、プラマタムダさまを二度見てはならぬという……)  それには、乳母にたいする反感よりほかにないのだ。 (もし、喋っていけないのなら、黙って坐っていよう。一言 も、話すなと云うのなら、話さずにもいよう)  ただ、プラマタムダさまの側にいれば、それで嬉しいの だ。たとえ世界が欠けても、プラマタムダを一日と見ずには いられない……それこそ、永遠の砂漠、無窮の闇路を辿らね ばならぬ。  伊代は、それからさかんに駄々をこねた。すると、ムドニ が詮方ないように、 「じゃ、お嬢さまにわす訊くだが、旧いことを、プラマタム ダさまはあまりお憶えではねえだろうが」といって、なんだ か迫ったような呼吸をする。 「そうね。そういえば、私のほうがずうっと憶えているわ。 でも、乳母やなぜそんなことを訊くの」  すると、ムドニにいきなり狼狽の色があらわれて、 「いやなに、病のせいでそうなるというこんだ」  と、それ以上訊かれてはと催れるような色を、ムドニがは っきりと現わした。しかし伊代は、行こうーとかたく決意 をした。  乳母が癒せなければ、私が癒してみせよう。薬や診断より も、愛と熱情がどれほど強いか、見せてやろうと、とうとう、 乳母に反抗してまでと心を決めた。  しかしそれも、意外なことから妨げられるようになったと いうのは、プラマタムダの、平癒祈願が大主殿でおこなわれ、 かの女も参列することになったからである。そこに、伊代を 待つおそろしい危難があったのだ。  その日、すっかり伊代は西蔵風に装われた。椴子綾錦の衣 装に真珠帽をいただき、耳には黄金台の|耳飾塔《エ ゴ》をさげ、髪 は、添毛をして緑光櫻路にたれる。そうしてはや、鋼羅や長 劇帆が轟く、大主殿にむかったのだ。すると、むせ「、ぽい香 姻や原色の交錯に、なんだか伊代は眩電のようなも○を感じ てきた。くらくらっとした、眼前のものがすうっと遠退いて ゆくように思われた。  ところが、気がつくと別室に臥かされていた。黄色い絹の 天蓋に群彫りの椅子-一目で活仏の部屋であるのが分る。 と、頭のほうからすうっと影がながれてきた。活仏のおおき な獣のような影に、やがて伊代の全身が覆われてしまった。 「お気がつかれたな」 「はい」  まるで、歯のあいだから消えるような声だった。|暗欝《グル ミ 》な、 すべてが|圧《の》しかかるようなこの部屋の空気。そこへ、むくん だ活仏の顔がちらっと覗いたとき、伊代は、総身がひきしま るような思いだった。 「よかった。では治るまでゆるりと休むがよい。ときに……」  と、今度はいっそうの底光り……。伊代の頭のてっぺんか ら爪先まで、活仏が甜めるように見まわしはじめた。と、ど こかに香が焚かれたらしい。はじめは、ちくっと鼻孔を刺戟 したが……、間もなく、吸うにつれて全身の関節が、気獺く ほぐれそうになってくる。なんの香? はっと、危機を思っ たがからだが動かない。ただ、うつらうつらと夢心地にひき 入れられてゆく。 「この、|魔《ネ》馨|香《ツ》のかおりを嗅げば、|生《ミンチク》き|観音《ワンノン》になれる。|多聞 天《ナムトスヲ》の、富宝に|聖天《ガネシヤ》の愉楽。そなたは、生きながら浄土へゆけ るというものじゃ」  しかしそのとき、伊代は|半覚《うつつ》のなかで東京にいた。かの女 といる青年はプラマタムダではなく、どうやらそれがニョロ プフらしい。 「僕は、これで空々になりましたよ。お嬢さんを、愛してい るという一言だけいってしまえば、もう僕のからだにはなに ものこりません。これまで、ただ僕はそれだけに生きてた男 だ」  そういって、伊代子の手を膝のうえへ引き寄せた。伊代子 は、その手を引くのかまかそうとするのか、ただ狼狽えて、 うつらうつらとなってゆく。 「ああ、お嬢さん、泣いてますね」  とたんに、伊代はわっと泣きだした。蹟いから、爆発ヘゆ く口火のようなものが、よくこうした片句のなかにあるもの だが……  騒雨がきた。かすかな、そよぐような音が遠くからはしっ てきて、サアッと音たかく庭の葉が鳴りはじめた。 「降りだしましたね。吹きこむから、雨戸を閉めましょう」  伊代子は、駄目だ、いけないと思ってもとめる力がない。 圧倒されて……眼をまぶしそうに覆い、壁ぎわにすくんで いた。 その瞬間、伊代は誰かにがんと殴られたような気がした。 はっと、眼をあくとそこにいるのは、活仏ではなくニョロプ フだった。活仏は、ながながと床に横たわっている。 五、王者無名のまま死す  ところが、その夜暴民が蜂起した。  喇嘛殿を包囲して投石をはじめたころ、ミリの秩序を根底 から覆えそうとする、呂舜階の暗躍がはじまったのである。 かれは、土民の暴動をいかにも真らしく王家の使咳であるよ うに説いた。活仏は、怒り王宮を襲撃した。王族は、プラマ タムダをはじめバラパラになり、しばらくは行衛さえも分ら なかったのだ。  とある夜、伊代の家の戸をそっと叩くものがあった。宮臣 の、一人がそっと忍んできて、プラマタムダが無事であると 告げた。伊代は、いよいよニョロプフが噺瞬僧と対時はじめ たころ、危険をおかしてそっと家を抜けでたのである。  伊代は、逢いたさ一図にあゆみ続け、ついにその潜伏所へ きた。空室の、徽臭さにむせびながら二階へあがって、指さ された戸をそっと開いたときー。そこに眠っているプラマ タムダを見た。  高熱で、額には粒々の汗がうかんでいる。衰弱は、しばら く逢わぬまに別人のようで、やつれほそった顔はいっそう神 神しくみえる。  伊代子は、眼の縁にほんのりと隈ができたープラマタム ダの眼を撫でさするように眺めている。  しかしかれは、ハッとわれを疑うように、ふるえる瞼にか ざして、 「ああ、|貴女《さなた》だったの……」  と、それなり、眼は数万言を発するが、口はうごかない。 伊代子も、とたんに浴れてきた涙で、なにも見えなくなった。  やがてすると、咽ぶようなプラマタムダの声が聞える。 「ああ、やはり君だった? 僕は、君にきてもらえるとは、 思ってもいなかった……」 「じゃ…・:お叱りにならないのね。来てはいけないと云われ ても、来ずにはいませんわ」  そういって、伊代子はプラマタムダをやさしく抱きかか、κ た。夜具は、高熱で灼けるようである。 「僕はだめだ。あなたを、愛せることだけは、永遠にも誓え る。だが、僕のからだはもう直きなんだ」 「プラマタムダさま」  伊代子はつよい決意のなかで、ぽうっと顔を緒らめた。 「御自分で、プラマタムダさまは気をお病みになっていらっ しゃる……。お命のことは、十年もまえから直きのように伺 ってますわ」 「君は」プラマタムダの眼がおどろいたように輝いた。 「君は、実際そう思っているのかい」 「ええ」伊代子は、プラマタムダの手をとって、そっと胸に あてた。 「プラマタムダさまは、ただ私を道連れにしないように、私 を、苦しめまいとーそれしかお考えじゃないのですわ。癒 ろうと、考えずに死ぬことばかり、プラマタムダさまはお数 えになっているのです。  私、プラマタムダさまをお癒しできると思うのです。別れ るなんて、そんなこと決してありゃしない」  伊代子は、臆病らしい媚をあつめてプラマタムダをなまじ な道義心からひき離そうとしはじめた。  しかし反対に、プラマタムダはますます冴えてくる。相手 が、熱すれば熱するほど、理性がもたがってくる。 「だけど、僕はこの関係が、永続するかどうか疑うよ、たと え僕の命が当分あるにしてもだ」 「マア、また仰言りたいのね」  その、まるくした眼には優しい睨みがこもっている。 「いや、そうじゃない」  プラマタムダは、懸命にうち消した。それでは彼が伊代子 の犠牲にまで背いて主張したいのは何であろうか。 「君は、僕の一家がやられたのを、割合単純にみている」 「:・:・」 「なんだと思うね?」 「暴民の、掠奪でしょう?」 「いや……じつは、活仏に殺されようとしたんだよ」 「殺される? まあ、プラマタムダさまをなぜにでしょう ?」 「それが、分らない」  プラマタムダは、撫然といった。じっと天井をみつめる、 顔には小鼻が落ち死にちかい影があらわれている。 「でも、なにも|抵抗《てむか》いをなさらず……、盗りたければ勝手に 盗らせたんでしょう」 「そうだ」 「だのに、プラマタムダさまのような、なにもなさらぬ方を …:・」 「ふむ、なにもしないにも、これほど出来ない人間はないか らね。それに、ながい病人だし、先も知れてるんだ」 「・:…」 「それだのに、追っ払っただけでは、済まされぬ理由がある らしい。多分、先方だけの、勝手気櫨な理由だろう」 「だけど、どうしてそれが、お分りでございますの」 「爺やが、聴いてきた」 「:・…」 「捜査隊が、こんな兎みたいな人間を、虎豹のようにして狩 っている」 「……」 「ここへも、けさ暁がたごろ来たがね」 「ええ」 「ところが、爺やの頓智で追っぱらってくれてね。煤や泥を 肌へ塗ったし……、それに、立っていたもんだから、僕とは 思えなかったらしい」 「・…:」 「なぜって、そら。・僕は、しょっちゅう安静にしてたじゃな いか。それを……、足腰利かない片輪のように思って、やっ とだが、歩いているのを別人と考えたらしい」 「じゃ、これからは見つかりっこない訳ね」  伊代子の、不安がきゅうに霧れてしまった。 「プラマタムダさまには、なにより御運があるんですもの。 じきに、訳もなしに、きっと済んでしまいますわよ」  そういって、プラマタムダをやさしくなだめる態度には、 なにか媚めかしい手練の娼婦のような感じがした。それはこ の機会に、いつまでじぶんに結びつけて置きたい、支配した い……、占有したい、強烈な欲求である。 (これからの生活。二人におくられる、豊醇な日々)  伊代子の、まだ未発達の童心にちかい、非世間的なものが しきりに幻をさぐっている。  しかし、プラマタムダの眼は、ますます暗く霧ってゆく。 (とうていこの恋は、この世ではなし遂げられるとは思え ぬ。かなしい、不幸な、絶望的な恋1。それにこの少女を 陥れるようなことがあってはならぬ。  そうだ、ここでじぶんは犠牲になろう。伊代子を、この部 屋に鎖じこめて爺やをやり、乳母のムドニにこのことを告げ させよう)  そうして暫く、眼でおくる純潔な愛撫をたのしんでいた。 ともすると、腱毛が濡れ恋のおわりの、かなしい影がせわし くたびあがってくる。 「ちょっと、爺やに食事をいってきますからね。灯りを消す まで、窓の戸は、そのままにして置いてください」 「マア、素晴らしい」 伊代子は、さも驚嘆したようにさけんだ。 「はじめて、あたし、お立ちになるのをみたわ」  しかしプラマタムダは、眩量をこらえてやっと立ちあがっ たのである。 「それに……今度はお歩けになるし」 「……」 「ああ、歩けるわ。こんなことなら、臥って欝々としている よりも、どんなに良いかしれない」  それに、プラマタムダはやっと微笑んでみせた。しかし、 動悸がはやく晦むような眩量がする。  死期が……すでに彼には、数えられるほど分っている。 「でも、なんだかお危ないようね。爺やのとこなら、あたし いって来ますわ」 「いいよ。こうして、苦しいけど馴れなきゃあいけないし、 だい一、君だと人目につく催れがある」  そうして、伊代をプラマタムダは一歩ごとに離れてゆくc (もう、二度とはみられぬ)  閾越しに、振りかえってもう一度、伊代子の顔をみた。呼 びかえしてくれたらと、念じながらもこれが別れの、情のこ もった接吻を愛くるしい眼許になげた。 (さようなら)  が、そのときー。それまで聴えていた、車|案山子《かかし》の音が 絶えたのである。むこうの水田に、キイキイ廻りながら鳴く 車案山子がある。その音が、ふと杜絶えたかと思うとむこう の丘に、黒く星空を、区切って四、五人の人影があらわれた。  鎗身の閃めき、角灯のひかりー  それは云わずと、かれには死を意味する、剛瞬僧たちにち がいない。 「あっ、あれ、プラマタムダさま」 「なに、どうしたの。君」  プラマタムダは、伊代子の声にひき摺られ、また戻ってし まった。 「あれですわ、あれ、なんでしょう?」  伊代子が、眼ざとくもさいしょに見つけてしまった。顧え るように、……熱いプラマタムダの胸へからだごと投げかけ た。 「あ、あれ、噺嚥…じゃ……」 「いや、なんでもない、ただ静かに、じっと落ち着いていま しょう」  伊代子を胸にかかえてじっと息を凝らしているうちに、も う望みもなく、これなり狭まる網のなかへ捉えられるのかと 思ったが:…・  翌朝……やはり朝の陽がねむる少女の顔を照していた。  とみると、きのうまであった黄赤の剛瞬旗が、きょうは大 宮殿の屋上から消えている。勝った、ああ、ニョロプフが勝 った。しかし……プラマタムダが寝台のうえから消えて《フ》|い る。 (|悪戯《いたずら》なら、プラマタムダさま、悪ど過ぎるわ)  といって、遠くへゆける健康ではなし、おそらく、稻石の 昇降も儘ではあるまい。どうしたのだろう? 「プラマタムダさま……」と、とうとう口に出してしまっ た。  しかしそれにも、答えはおろか衝一つ戻ってはこない。や がて、不安は刻々にたかまり、不吉なものに息苦しくなって きた。  すると眼が、ふんわり寝藁のうえに落ちている紙きれにと まった。ああ、かすれ勝ちなプラマタムダの筆が・::・  伊代子さまー  あなたが眠っているあいだ、充分お別れをしました。云い たいこと、別れの接吻もなん度としたことでしょう? けれ ど容赦なく、別れのときが私にせまってきます。  考えれば、なんという悲しいおめもじだったでしょう? しかし、あなたのお蔭でつらい病苦の闇にも、私は光明をつ かむことができました。  それだのに……、なぜお別れをしなければ。こうまで悲し く思いながらお別れしなければ……。それは、私がプラマタ ムダではないからです。  伊代子さまー  ともかく、驚かれるまえに、私のいうのを聴いてくださ い。曽つて、私とそっくりなプラマタムダという少年がいま した。顔も、生き写しならこの病いまで、私とおなじものを 持っているのです。それでもし、その少年の経験を書くとす れば、それは大体次のようになりましょう」 「1師久我泰蔵の発案で別殿がたてられ、私はそこで陽光 に浴すことになった。しかし、だんだん快途につくとはいえ 師の深謀は、|喇嘛《ヲマ》の撞頭をさまたげ弊風を改革するため、 一つの急手段がとられることになった。それは、|理化河《リ クン》の川 砂を燧道によって、別殿の地下ふかく採取場に導くことだっ た。  これがため、砂金はミリの盈地へはでず、かえって王家の 別殿の地下で採取された。そうしてそれを、喇嘛勢力の崩壊 まで蓄えることになったのだ。といって喇嘛の害毒を民心ふ かく植えつけることは、なかなかもって容易なことではない。 そこで、一つの考えが久我師の胸にうかんだ。  それについて……、私、すなわちプラマタムダは、次のよ うなふしぎな経験をしるすことができる。いわや  宮殿、別殿の両建造物の、地下をつなぐ窟の道ができた。 そこで一日、その間道をゆき着くまでと辿っていったのであ る。  ぐるりは、しつけた鋤んだ堅岩にかこまれ、ちりばめえた |鉱気《かなけ》が星空のように輝いてみえる。そうしてその地行は、い つ終るか涯しなく見えたのであるが、ようやく、一枚の鉄扉 に衝きあたることができた。  ひらくや余は、ゆらゆら緑の|陽炎《かげろう》がたぎりあがるのをみ た。かくて余は、宮殿の境域にて苔蒸した、井戸の底ちかい 端れに抜けでることが出来たのである。  下をのぞくと、くろい鏡のような水面がみえ、水滴の音も、 洞のなかの不思議な柔かさをもっている。ああ、なんたる静 寂ぞや。やがて、井戸の吐くつめたい吐息に身をふるわせな がら、ここを緑の隠れ家と名付けたのである。  しかし間もなく、底の鏡にうつる少年の影をみとめた。釣 瓶があがって、余は水の静まるのをまっていた。やがて、緩 やかになり消えゆくにつれて、余とそっくりな顔が波紋のな かからあらわれた。  そうして二人は、たがいに見あい面をかさねている。しか し、物を云われぬというのは、耐えられぬことではないか。 かくて余は、プラマタムダの名をこの少年にのこし雪嶺の奥 ふかくへゆくことになった」  それから、私という少年が大宮殿へゆきました。いろいろ、 王家の作法、過去の記憶などを教えられ……、一方プラマタ ムダさまは山へゆき、かのニョロプフになったのです。剛健 質実の気風は王者みずからが、体し味わなくてはなりませ ん。またそれには採取砂金の貯蔵所をつくる意味もありまし た。そうして、ひそかに喇嘛打倒を策し、……ついに今日そ の機がきたのです。私はこれで、ながいながい代役を終える のです。忠誠が、ひとりの少年の手でかほどに果されたこと は、まずどんな国にもあまりなかろうかと思います。そうし ていよいよ、あなたをここでプラマタムダさまにお渡ししま す。  しかし、あなたを純潔のままゆうべ一夜を過すことが、ど んなに私にとって辛いことだったか。しかし私は、もっと恋 よりもすぐれた高いものを、絶えず見つめていなければなり ません。王妃と、いや未来の王妃としばしでも、恋をかたっ た私はなんという倖わせものでしょう。では、伊代子さま、 おさらばを申しあげます。あなたは、多分プラマタムダさま のもとで、私の名を聴くでしょう。  ああと。しばし伊代は荘然となっていた。あの嶽盗ニョロ プフがプラマタムダさま。またプラマタムダさまは容貌酷似 の臣下i  とそこへ、呂舜階引きまわしの行列が繰りこんできた。橿 車を中央にあかい旗や、|頭包《ク バン》をつき刺した槍がいりみだれ、 熱くるしい、その行列がひとりあまさず捲きこんでゆく。そ のあと……連嶺の一つに雪煙がとんでいるほか、風のそよぎ も水の曝きもなくなった。伊代は、しずかにここでプラマタ ムダに微笑み、また、無名の臣下には膝まづいて黙薦をささ げた。