W・B会綺譚 小栗虫太郎 ジェネヴィエヴの部屋 「ねえ、おまえさん」 と、落語家|蛤蜆楼唇楽《コうけんろうしんかく》の忌まわしい|伴侶《はんりよ》が言い出した。そういうかの女は|女曲独楽師《きよくコまし》の |源嬢《げんじよう》、豚にしたらさぞ飛び切りの優良種になるだろうと思われる。 「だって、|這《は》い込んでいる|蔦《つた》なんか切ってしまえばいいじゃないか。それに、いくら外側 の|漆喰《しつくい》が|剥《は》げていたって、ほらご覧な、中はこのとおり雨漏り一つないのだよ。まあ考え てみておくれな、おまえさん……」 と芳紀まさに四十一歳の源嬢は、事ひとたび蛋楽の|鼎《かなえ》の軽重を問う段になるとなにもか も忘れてしまうものらしい。 傍らに△△大学柔道師範整復術接骨師の|赤山《あかやま》氏が厳然と控えていて、悠々|長髭《ちようぜん》を|撫《ぷ》して いる姿もかの女の目には|燈芯蜻蛉《とうしんとんぽ》ほどにも映らないとみえる。 「だいたい考えるまでもないよ。近ごろの寄席の景気ときたら、|出方《でかた》のほうがお客の数よ り多い始末だろう。それに、おまえさんときたらわたしみたいにお座敷はないのだ し……」 「|無代《ロハ》だとなりゃ、そりゃおめえ」 と蟹楽が鼻毛を一本ちんと抜いて、|嘘《くしやみ》の出そうな顔をすると、傍らの赤山氏が助け船を 出した。 「師匠、そう気を|揉《も》まんでもええのじゃ。この洋館を持っとる|無条《むじよう》公爵という方はな、元 来わしの教え子じゃで。初めは赤山はん、あんた住まわんかなと言うてな。ところが、わ しには道場という厄介物がある。そこで、ちょうど今年が|故越川秋浪《こしかわしゆうろう》先生が『怪人鉄塔』 を発表して以来、三十年目に当たるものじゃから、ここを『|武侠《ぷきよう》会館』と名づけて、千古 の大英雄蛮勇侠客を記念することにしたのじゃ」 「そりゃお勇ましいことで。すると、なんでげすかい、先生、|梁山泊《りようざんぱく》といった具合で」 「そうじゃそうじゃ」 拍子に乗り過ぎた赤山氏は、|髭《ひげ》を扇の要にひっかけて、目を白黒させた。 「ところで、さしあたってほかに事業といってはないし、設備に必要な寄付金もおいそれ とは集まらんらしいので、とりあえず師匠たち二人に留守番がてら住んでもらいたいとい うわけじゃで。こう荒れ|煤《すす》けておっても、べつに化け物屋敷というわけではないし、いっ こう|首総《くびくく》りがあったという|噂《うわさ》も聞かんのじゃからな」 と言って、赤山氏は横綱|千太刀山拳右《ちたちやまけんえ》衛|門《もん》以下三十余名の会員名簿を示してから、厳然 と申し渡したのであった。 「そこでな、毎夜表扉の錠を下ろしてはならんちゅうことを、忘れないでもらいたい。そ れから、ひと部屋|鍵《かぎ》のない部屋があるはずじゃが、そういう所は無理に開けたりせんよう にな。いや、それだけじゃよ、あとは心のままに使うてよろし」 こういった赤山氏との縁が動機となって、その翌日にはさっそく唇楽夫婦は|浅草田中町《あさくさたなかちよう》 の|晒居《ろうきよ》を引き払い、|代《よよ》々|幡狼谷《はたおおかみだに》の武侠会館に住み込むことになった。 しかし、何年人が住まなかったものかそれはひどい荒れ方で、|濡酒《しようしや》な中庭のついたスパ ニッシュ|伝道館《ミツシヨン》式の塗り家も、触る|側《そば》から打ち物の菓子みたいにぼろぼろ剥がれていく。 けれども、室内はガラス扉の|隙間《すきま》から這い込む蔦さえ切ってしまえば、さした荒廃の跡は ないのである。 元来、源嬢はデパートの便所以外西洋扉を潜ったことがないこととて、これがまったく 生まれて初めての洋館住まいだった。したがって、かの女を有頂天にはしゃがせたことは 言うまでもない。で、一日席を抜いて蛋楽の|尻《しり》を|叩《たた》いて這い回らせた結果が、武侠会館の 面目を一新したことはもちろんであった。 それに、蛋楽夫婦の居間から二つほど間を置いて廊下の末端にある部屋一つだけは、は たして赤山氏の言ったとおりに鍵がなかった。けれども、その禁制然とした部屋のことも その時にはいっこうに懸念されなかった。 というのは、そろそろ日が|経《た》つにつれて源嬢に|狡猜《こうかつ》な計画が|湧《わ》きはじめたからだった。 かの女がそれを言い出したのは、この洋館に落ち着いた日から八日目の夜のことで、すで に冬が近く、葉鶏頭の下葉の落ちるのがめっきり目立ってきたころであった。 「ねえおまえさん、部屋の数が多過ぎるじゃないか。ひとつ赤山先生に言って、二階だけ でも貸したらどんなもんだろう」 「そうよなあ」 蛋楽が気のなさそうな返事をすると、源嬢は鼻声になって、 「だって、わたしだっていつまでもいい|年齢《とし》をして塗りたくった顔を|曝《さら》したくはないやね。 十五、六もある二階の部屋だけでも、全部|塞《ふさ》がったとしてごらん。その人たちの世話をし ただけで、わたしたちはけっこう暮らせるというものさ」 「なるほど、うめえ話だがね。おいらはどうも、あの部屋のことが気になってならねえん だよ」 唇楽は初めて、最初の日以来かれの胸中に|欝積《うつせき》していた本音を吐いたが、それがいわゆ る予感とでも言うのであろうか、その夜とろとろと寝入ったかと思うと、まもなく源嬢に 起こされてしまった。 「おまえさん」 「ううん」 屡楽は二ノ腕を|孤《つね》られて、思わず飛び上がった。 「どうした、どの歯が痛い」 「冗談じゃないよ。あれをお聞きな。なんだか、この|家《セつち》が妙な揺れ方をするじゃないか」 屡楽はじーっと耳を澄ました。 なるほど、ある異様な物音がずしりずしりと床を震わせて響いてくる。だれか人でも歩 いているような。それにしては、ちと音の響きが重いようである。しかもそれが、廊下の 突き当たりのほうから聞こえてくるのだった。 「あっ、あの部屋に」 蛋楽は一度で青くなってしまったが、そのとたん、源嬢の重い|身体《からだ》がかれの上へずしん と落ちてきた。というのは、その歩き回るような足音がばったり|止《や》んだかと思うと、異様 な|坤《うめ》き声が聞こえはじめたからだった。 それが、|坤吟《しんぎん》というような苦痛的なものではなく、妙に軽く昇っていくようなところが あって、またそれに交じって、くっくっと含み笑うような太い|濁声《だみごえ》が聞こえてくる。その 声を聞くと蚕楽には、ぴーんと直感的にある一つの光景が想起された。 それはいつぞや|贔贋《ひいき》先で見せられた|北尾重政《きたおしげまさ》の春画であったが、少女に二ノ腕を|噛《か》みつ かれている雲助の顔になんとも言えぬ|悦惚《こうこっ》の色が表れていたことで、その一事が|脳裡《のうりひ》に|閃《らめ》 き渡ると、現在鍵のない部屋付近で行われていることがひどく残忍な、そしておそらく常 軌を超絶しているだろうところの、ある病理的な仕業のように思われてきた。 またそう思うと、押し|被《かぷ》さってきた陰惨なものがすーっと一時に外れたような気がした ので、それで唇楽は源嬢の重い身体を突き|退《の》けて、つっと立ち上がることができた。 しかし、扉に手をかけて、初めて自分たち二人が閉じ込められたのを悟ったのであった。 「安心しねえ、おっかあ。外から錠を下ろすようじゃ、入ってくる気遣いはねえ」 「だからさ、なおさらのことじゃないか」 源嬢は安心すると、相変わらず胸算用を忘れない。 「早く赤山さんに言って、二階を貸すことにでもしたら。そうしたら、わたしたちは階下 にいて何のことはないのだよ」 しかし、そう言った源嬢の語尾がすーっと消えてしまったというのは、その時陣き声が ぱったり止んだかと思うと、ふたたびもとのようにずしりずしりと響いてくるあの妙な足 音が、今度はかれらの間近に迫ってきたからであった。 「しいっ」 二人が目を見合わせ息を凝らしていると、その足.音が床をギイギイ|軋《きし》らせながら、扉の 前を通り過ぎて階段を降りていく。そして、間もなく玄関の扉を|鎖《とざ》す音が聞こえた。 しかし、いかに鈍重な蛋楽でさえも、そうなると簡単な引き算にぶつかって、|標《ふる》え上が らざるを得なくなってしまった。なんと、二から一引く一ではないか。 いま降りていった足音の主があの太い濁声の人物だとしたら、もう一人のほうの異様な 坤き声の主はまだあの辺りのとこかに残っていなければならない。1という、いかにも ぞっとくるような解答にぶつかってしまったのだった。 しかし、それからあとは、コトリとも物音はせず、それを聞こうとしてとうとうその夜 はまんじりともせずに明かしてしまった。 朝になると、待ちかねていたようにその付近を調べはじめたけれども、どこにもこれぞ という異状はなかった。そして、まさしく昨夜の物音は、鍵のない閉鎖された部屋に違い、 ないというところに結論が行き着いてしまった。 それでとにかく、一応その旨を赤山先生の耳へ入れておくことにして、屡楽が氏を訪ね たけれども、あいにく旅行中とかで会うことはできなかった。しかし、蚕楽の戻りを大変 な人物が待っていたのだった。 「いよう師匠」 源嬢と長火鉢で差し向かいになっているのが、探偵小説家の|斗南土留《となんどる》である。小説家と は言い条、四銭の『|撫子《なでしこ》』に|丸孔《まるあな》を開けたのを前に、いずこも|蓬《ぼうぽう》々たる体たらく。 「まさに、ポウ、ホフマン、ガボリオ、工ーヴェルスときたね」 「おまえさん」 と源嬢は|自棄《やけ》ぎみに|煙管《きせる》を|放《ほう》り出して、両手を|頸《くび》の下辺りで|揃《そろ》え、半泣きの顔でちんち んみたいな|恰好《かつこう》をする。 「これなんだとさ。いま、,ここにいる大先生に聞いたところなんだがね」 「本当かね、先生」 唇楽は|紙撚《こより》のように、くねくねと|坐《すわ》ってしまった。 「冗談にもなにもこれだけの小説ができれば、ぼくはネーヴィー・カットでも|喫《ふ》かせるよ。 とにかく聞きたまえ。この話は結局、宗教・教育界の権威問題に触れることとなるので、 当時は公表されなかったのだがね。いや事実だともさ。ちょうどそれが大正末年のいま時 分、たしか暮れ近くのことだったよ」 と、斗南土留はこの洋館を|続《めぐ》る一場の怪異談を得意げに語りだした。 「××聖女学院でフランス文法を受け持っていた、ジェネヴィエヴ・レクランという美し い尼僧がいて、それが伯父のピエ」ル・ムッサゲルと二人でこの家に住んでいたのだ。す ると因果なことに、尼僧のジェネヴィエヴに思慕の情を燃やす男ができてしまった。その 男というのは、ときおりその女学院へ宗教心理学の講演に招かれる若い文学士だったのだ。 そいつがなんと師匠、|悶《もんもん》々たる心中を書き連ねたものを尼さんへ送ったときた」 「|文《ふみ》かね」 「そうさ。下俗の|輩《やから》は、文なんぞと言うだろうがね。だがどうだい、いままでにこういう 色事の文を聞いたことがあるかね」 i僧房とか|学苑《がくえん》とかいう静寂な境地で受けた影像というものは、もっとも強烈な印 象となって残るという。それは決して珍しいことではないのだが、あれ以来あなたの面 影はわたしの念頭を去らず、しかも、一つの考えが閃いた。というのはほかのことでは なく、あなたすなわちジェネヴィエヴ・レクランを、わたしの妻にしたいという野心な のである。 「まあ、裁判所のようじゃないの」 いつぞや|店立《たなだ》てを食らったことのある源嬢は、どうやら半分ほど感心したらしい。 「ところが、一方の尼僧も心中ではまんざらでもなかったのだが、さすがにその手紙を焼 き捨て、返事さえ出そうとはしない。けれども不思議なことには、ジェネヴィエヴの腹が しだいにせり出していったのだ」 「おっと待ってくれ」 蛋楽がやにわに遮り止めた。 「もう一度、最初からやり直してもらおう。どうも、一カ所合点のいかないところがあ る」 「いや、これが想像妊娠だろうと思うのだよ」 さすがに斗南土留氏は落ち着いたもので、先手を打った。 「まず、心身相関の化け物だろうな。尼僧のような内攻心理の強い女には、たまたまにあ ることなんだがね。ところで、その異状に気がついたのが伯父のムッサゲルなのだ。なお 始末の悪いことには、こいつが|伊右《いえ》衛|門《もん》みたいな残忍な男ときてるんだよ」 「よし分かった。それで、いろいろと責め立てられるのが|辛《つら》さにその女が自殺をして、 |怨霊《おんりよう》が伯父の野郎を|愚《と》り殺したーと」 「ところが、そこまではいかないのだ」 斗南土留は妙な言い方をして、 「女の毒薬自殺はいかにも事実なんだが、伯父のムッサゲルはこの家を引き払ったまでの ことで、まだどこかにぴんぴんしているという話だがね」 「そうすると」 蟹楽は、目を不気味に据えて詰め寄った。 「その男はことによったら太った|奴《やつ》じゃないかい」 「そうなんだが、どうしてそれを知ってるのだね」 斗南土留も気味悪そうに相手を見返したが、それを聞くと、蛋楽はうーんと|槍《うな》って危う く壁に身を|兜《もた》せるのだった。 昨夜ずしりずしりと響いてきたあの足音が決して、優しい、体重を持った人物とは思わ れないからであった。 「ところで、そこが相談だが」 斗南土留はそろそろ、職業意識を出しはじめていた。 「ひとつぼくに、この事件の探偵をやらせてはもらえまいか。とにかく最初に、あの部屋 を|秘《ひそ》かに開けることなんだ」 それにはむろん屡楽夫婦も異存はなく、ただ開いた|痕《あと》を残さないようにすればーとい う条件で、万事の|詮索《せんさく》を斗南土留に任せることになった。 そうして、かれが探偵小説家特有の、天馬空を行くがごとき空想力を駆って、いかなる 奇想天外な仕掛けのもとに鍵のない扉を開けるだろうと、夜になっての恐怖も忘れてしま うほどに好奇心を|湧《わ》き立たせていたのだった。が、ふたたび一時間ほど経って現れたかれ は意外にも、背後に錠前屋を従えていた。 けれども、開けるという効果において同一であることは言うまでもない。やがて、何本 目かの鍵が合って扉が開かれると、息を潜めた三人の眼前には、てんでこれまで片影さえ も|窺《うかが》えなかったところの、美しく飾られた部屋が現れた。 そこには|塵《ちり》一つも|留《とど》めていないばかりでなく、中央の小卓には昨夜入り込んだ人物が|喫《す》 ったとみえて、『ホープ』の吸殻が五、六本転がっている灰皿が載っていて、その|側《そば》に花札 と|騎士《ナイト》の|棋人《こま》を一つ載せた、市松の美しい|西洋《チエ》象|棋《ス》盤があった。 それを詳しく言うと、騎士の棋人の位置はちょうど四四の場所にあり、花札のほうは|燕 子花《あやめ》の十の札が一枚めくられていて、それ以外の札は傍らに積み重ねてあった。結局、室 内の調度といえばそれ一つのみで、周囲の壁はいくつもの短冊形のパネルで仕切られてあ った。 斗南土留は壁を叩き歩いたり、テーブルのニスの上を拡大鏡で眺め回したりして、しき りと名探偵ぶりを発揮していたが、かえって発見というのは傍らで|荘然《ぽうぜん》としていた蛋楽師 匠のほうにあった。偶然、裏返しに積み重なっている花札を手にすると、かれは突|然頓狂《とんきよう》 な声を上げた。 「こりゃ驚いた。全部カラスじゃないか」 と、みるみる桜のかす|札《フフ》のみが、落花紛乱の|態《てい》で床上へ散り敷かれていく。 2、花札と|騎士《ナイト》の|棋人《こま》 「二十枚」 桜のかすばかりの|積《フフ》み札を一枚一枚数え終わると、源嬢が言った。斗南土留は腕をこま ねいて|岬《うめ》きはじめた。 二見、いかにも不可解らしく思われる。しかし、ただ一つの原理さえ発見すれば、それ によって容易に解決し得るのである」 「すると、何か分かりましたかい」 蛋楽は、斗南土留のいかにも名探偵らしい独り言に力を得て|訊《たず》ねた。 「いかにも、指導原理だけは分かっとる」 相変わらず斗南土留は、深刻そうな模倣を続ける。 かぎ、チエスあ㍉め 「ただ一つー解く鍵を見つけることなんだ。しかし、西洋象棋や藏子花の札には、なん らの意味はない。だいたい、桜のかす|札《フフ》ばかりをなぜ二十枚集めなければならなかったか ーいまは未知数である既知数は、そこにしかないのだ。その正体さえ分かれば、結果は どうしても避けることのできない。必然的なものである。的確に段階を進んで、最後の解 決に到達するのだ」 「だからさ」 源嬢がじれったそうに叫んだ。 「いったいどこまで分かったのだよ?」 「きっと、いまに分かる」 斗南土留は初めて本音を吐いた。 それからしばらくの問、かれの四つん|這《ば》いと背伸びの行が続けられたが、結局かれの言 によると、もう一人の岬き声の主はこの部屋から奇怪な消失を遂げ、その|謎《なぞ》を解くものは、 二十枚の桜のかす|札《フフ》を科学的検査によって鑑別するよりほかにないという。 そして、その日は探偵理論を威丈高に述べたのみで、とにかく二十枚の札を持ち帰って いったが、翌日の午後になってもついに斗南土留は姿を見せず、ただずたずたに寸断した 札のみを小包郵便で送ってきた。 「だから、あの人も原稿が売れねえというわけさ」 蟹楽はいまいましそうに|眩《つぷや》いた。 「いつも決まって、靴の形がどう、左手の小指の跡がねえから左手の小指のねえ男だろう なんて、こちとらでせえ分かり切ったことばかり書いてるんだからな。だがなあおっかあ、 おれにだってちょっぴりは分かってるんだぜ」 「おや、そいつは聞きものだよ」 普段から|軽蔑《けいべつ》し切っている源嬢は、知れたも んさというような顔をしたが、案外、この蚤楽 という男、妙なところに才能があるのだった。 「ところでおめえ、燕子花の十がなんだか知っ てるかい」 「知れたことさね。だがわたしア、いままでた て三本なんてついたことがないのさ」 「そんなぎんみの|話《フフフ》じゃねえ」 と蟹楽はちょっともったいぶって、 「実は、こいつが|高島屋《たかしまや》なんだよ。|籠釣瓶《かびごつるべ》だ。 ねえおめえ、八つ橋じゃねえか」 「冗談じゃないよη-では、いったい何を振るんだい。|側《そば》にあるのはチェスなんだよ。なん だい、百人一首の神主が鈴を持っていやしまいし」 「まあ聞きねえ」 と蚕楽は、ちょうど昨日の斗南土留そっくりな顔をして、 「実は、その八つ橋というのを、八つ端と解釈したんだ。つまり、|伊呂波《いろは》で七つ目にあた るのがとだ。だから、その|次《フ》のちに、|何《フ》か意味がありゃしまいかと思うのだよ。それから あのチェスの棋人だが、.おいらの若い時分、ブラックから聞いたことがある」 「へえ」一 源嬢はいつの間にか熱心に聞ぎ|惚《ほ》れている。 「あれは騎士?て言うんだよ。つまり、馬に乗る武士だな。|桂馬《けいま》だ。ところが日本の桂馬 と違って、動き方は同じだが前後左右へ自由に歩けるんだ。だから、あの棋人を時計の針 と思えばいいだろう」 「なるほど」 「ところが、問題はそれからだ。おいらは最初こういう風に考えたのだ。伊呂波を八つ橋 で解釈して、ちから|順《フ》々に|象棋盤《しようぎばん》の|画《かく》の中へ並べていく。すると、ちょうど"四ノ四〃の 場所に置いてある騎士の棋人は、前後左右の四方に二カ所ずつ、都合|八《や》とおりに動けるん だから、それに当たった文字を並べたものに、何か秘密を解くものがありゃしないかと思 ったのだ」 「それで」 「ところが、駄目だったんだ」 唇楽は|狡《ずる》そうに笑って、首を縮めた。 「象棋盤の画は|八八《はつぱ》六十四なんだよ。おめえだって、四十九の伊呂波なんて知りゃしめ え」 「当たり前さね」 源嬢はそう分かると、相変わらず毒舌を忘れなかった。 「そんな風だから、いつもわたしア、おまえさんが三|題噺《ばなし》でとちりやしないかと、びくび くしてるんだよ」 「だがなあ」 蛋楽は、思案げに唇を|噛《か》んだ。 「桜のかすは、|二《フフ》十枚で花見幕じゃねえか。ところが、これから先は皆目見当がつかねえ ってんだ」 源嬢は表面では自分の古7王を軽蔑しながらも、まず斗南土留よりは取り柄があると 内心ではそう思わざるを得なかった。 しかし、前夜も、またその夜も怪しい人物は訪れなかったが、こうして昼間は花札とチ エスの謎に熱中していても、夜になると二人の恐怖が頭を|撞《もた》げてくる。 ジェネヴィエヴの亡霊と、いまだに生存を伝えられている残忍なムッサゲルの幻とが、 しきりとかれらを脅かすのだった。 ところが、それから四日目の午後、唇楽の師匠に当たる四代目|悟賛《フ ヒさん》の家から戻ってくる と、いきなり源嬢は風邪で寝ていた蛋楽を揺り起こした。 「おまえさん、風邪どころの話じゃないよ。なぜ今日、師匠の家の運座へ出なかったのだ ね」 「いったい、今日の運座がどうしたってんだい?」 唇楽は|掻巻《かいまき》から首を出そうともしない。 「どうしたって?いまに、わたしア警視庁にも運座の係ができやしないかと思うのさ。 あれはきっと、もともとが探偵のものなんだよ」 「なにっ」 唇楽は|軍鶏《しやも》のような顔をして、飛び起きた。 「では、おめえ分かったのか?」 「分かったともさ」 源嬢はぷうと煙の輪を天井へ吐いて、 「たったいま、見届けてきたところなんだよ。やっぱりおまえさん、|上《うえ》つ|方《がた》などというも のは、あらゆることをし飽きてきたとみえてねえ……」 と、すこぶる色っぽい目をして蛋楽を見返すのだった。 しかし、源嬢はかの女が見届けたという事実の寸分すらも、蛋楽に語ろうとはしない。 そればかりでなく、その夜からかの女の態度に驚くべき変化が現れたのであった。 寄席から戻ってきても、高座着のままで化粧を落とそうともせず、なおも入念に塗りた くって薄気味悪い|嬌態《しな》を作りながら例の部屋へ赴くのだった。そして決まって一時ごろに なると、ふーっと|遣《や》る瀬ない吐息をついて戻ってくる。もちろん蛋楽は、その真相を知る 由もなく、ただ夢中になってその部屋の中を|掻《カ》き回してみたけれども、いっこうにかれの 手に触れて現れるものはなかった。 そうなると結論は、源嬢の気が触れたとするよりほかになかったのである。その前夜は 歯の根も合わぬほど|標《ふる》えていたものが、悟賛師匠の宅から戻ってきたのが切っ掛けとなり、 今度は事もあろうに真夜中かけて問題の部屋で過ごそうとする。そういう得体の知れぬ慌 ただしい転変に働いていったものは、|畢寛《ひつきよう》するところ神業とするよりほかにないのだった。 ところが、それから二日ほど|経《た》つと、その夜ついにいっさいの真相が判明するに至った のである。 相変わらず源嬢はそそくさと出ていってしまったが、ちょうど十二時を少し回ったころ に表扉の|軋《きし》る音が聞こえた。 そして、ずしりずしりと階段を踏む音が始まったかと思うと、それが蛋楽の部屋の前に 近づいてくる。 「今夜のは、すこし軽いぞ」 屡楽は足音の響きをじっと耳で計測して、先夜の人物とは違うわいと思った。 すると、相変わらず足音は部屋の前を通り過ぎて、問題の部屋に入ったらしい。そして しばらく歩き回る音が聞こえていたが、やがて、ギャー!という女の悲鳴が聞こえた。 と、続いてドシリとだれか床へ倒れたような物音が響いて、それなりコトリともしなくな ってしまった。 源嬢と女の悲鳴i女房の危難を瞬間に|覚《さと》ると、かーっと一度に血が脳天へ上ってきて、 蛋楽は何もかも忘れその部屋に飛び込んでいったが、扉を開くと、その場で|荘然《ぽうぜん》と立ち|煉《すく》 んでしまったのも無理ではない。 なんと、部屋の中央に突っ立っているのはムッサゲルはおろかなこと、これもぽかんと なった赤山先生だったのである。 のみならず、羽目の一枚が開いていて、その中に源嬢がだらしない|恰好《かつこう》でふんぞり返っ ている。 「いったいぜんたい、先生、この場の仕儀はどうしたってわけなんで」 屡楽は何度も|唾《つば》を飲み込んで、やっと声を出した。 「それより、|訊《き》きたいのはわしのほうじゃ」 赤山先生もきまり悪げながら、不審げに問い返したが、 「いやとにかく、この仕掛けを源嬢に知られたうえは、隠さずわしのほうから話すことに しよう」  一二三四五六七八 一わそうまあひいと 二をれむやてみすへ 三 四るたら えめせほ 五ぬよなおこゆもに 六 七りかねのふきしは 八ちわつゐけさゑろ 城 騎 僧 王 女王 僧 騎 城 とまず、この怪事件の起因を語りはじめた。 「実は、わしらである会を組織したのだが、 きみらに気取られてはいかんので、ある品物 の所在をその都度転々させることにして、一 つの暗号を作っておいたのだ。つまり、チェ ス盤の上に載せてあった騎士の棋人と花札が、 その暗号に相当するものだったのじゃ」 と燕子花の十札と騎士棋人の解釈を、屡楽 の推測どおりに説いてから、 「ところで、ちから始める伊呂波を六十四の 画に|嵌《は》め込むのが、二十枚の桜のかす札なん じゃ。なあ師匠、かすが二十で花見の幕じゃ ろう。うーん、幕のうち溶けぬは幸蔵主ばかりなりlIとな。それで、象棋盤の縦の八筋 のうちで、僧正の二筋が消えてしまう、どうじゃ|六八《ろくは》四十八じゃろう」 「なるほど、坊主も溶ける。……こいつは近ごろの趣向でげす」 さすが芸人だけに、唇楽ははたと横手を打った。そして、いつぞや源嬢が師匠悟賛の運 座の席上から戻ると、即座に謎を解いた理由を悟ることができた。 「どうじゃ、意味深長じゃろう」 と赤山先生は嫌らしい笑いを|洩《も》らして、 「ところで、僧正の二筋を除いて残りの四十八|餉《こま》に、ちから|始《フ》めた伊呂波を当て、"四の 四〃の場所にいる騎士を前後左右の八方に動かすと、よれうあゆみふねとなる。だが、|前《 フフフフフフフ》 半の四つには意味がない、問題は後半の四字じゃ。弓と船。……どうじゃ師匠、この上げ 扉の|椎《かまち》には弓と船の彫り物があるじゃろう」 そう言われて初めて、その下らない彫り物の中に上げ扉を操作する装置が隠されている のを知ったが、同時に薄暗い上げ扉の内部を|覗《のぞ》き込んで屡楽は思わずあっ!と叫んだ。 「おや、ゴム人形がありますぜ」 そこには、高さがほとんど等身ほどもあるゴム製の人形が横倒しになっていた。蜜楽は しばらく考えていたが、 「すると、なんでげすかい先生。その会というのは、やはり、その、へ、変態のほうで」 「|馬鹿《ばか》を言っちゃいかん。W・B会じゃ」 と突然、赤山先生は|叱咤《しつた》するように息巻いたが、急に耳の根もとまで赤くして、 「実はな、大きな声では言えんのじゃが、W・B会とは≦|幕零冒嶺《ワイフピきテング》を略したのじゃ。 つまり、女房を撲るの会なんじゃよ」 「うっふっ」 蛋楽は口もとまで込み上げてきた笑みを、危うく噛み殺して、 「つまり、ご家庭の|欝憤《うつぷん》をこれで晴らそうとするご趣向で」 「そうじゃ、人形の横びんたを張るんじゃ」 と赤山先生は、間の悪さをごまかそうとして|砲嘩《ほうころ》したが、すぐ思い直したように声を落 として、 「したが師匠、源嬢くんはどうしてここへ来たのじゃろう。わしは中の電灯をつければよ かったのじゃが、それをせずにいきなり殴り倒したもんじゃから」 「この|淫乱阿魔《いんらんあま》ですか」 唇楽はいまいましそうに笑って、 「だれしも、これを見たら妙な遊びだと思うでしょうからね。ですが先生、この間の晩の は、いったいどなただったんでげすな」 「あ、最初の晩の男かな。あれは、横綱の千太刀山拳右衛門じゃよ」 とそれだけは|他人事《ひとごと》だけに、 赤山先生は|長髯《ちようぜん》をしごいて厳然と答えた。