十五夜物語 織田作之助 第一夜  千一夜物語の向うを張り、十五夜物語と題して、今夜から+五夜の間私が書くことにする。  新聞小説は面白くなくなったとは近頃の定評であるが、面白くない新聞小説というものは、近頃 大阪の町々で売っている、色だけ赤くついていて少しも甘くないイチゴ水みたいなものであるか ら、私はせいぜい奮発して砂糖分の多いイチゴ水のような小説を書くことにする。  何故新聞小説が面白くなくなったか。1思うに新聞小説の主人公は近頃歴史上の余りにも有名 な人物が多すぎたのではなかろうか。余りにも有名な人物は一般に余りにも尻尾を出さぬ人間であ りすぎる。尻尾を出さぬ人間なぞ小説の中に出て来たって、面白い道理がない。  次に近頃の新聞小説には、またかと思う程、美丈夫で時局的で行動家で正義漢で、独身で、自分 では異性に心をひかれぬ癖に、異性からはいやという位慕われて困るという果報者が主人公になっ ていた。こういう修身の教科書みたいな鼻持ちならぬ果報者が主人公になって、のさばっている小 説なぞ如何に作者が努力しても面白くなる筈がなかろう。  ここに於て、私は些か趣向を変えて、全くの無名で歴史の教科書にも修身の教科書にも出ていな いが、極めて風変りであると思われる人物を書こうと思う。  この風変りな人間はその名をーーいや一寸待って貰いたい。私は今ここでわが主人公のことを語 る前に、物の順序として暫く人間界を離れて、雷のことについて述べることにしたい。  ある日、大雨が降った。 (もう小説が始っているのである)六十余州かくれもなき|謄《へそ》取りの名人 その名を雷助という、不届きな雷は今日こそ雷の書入れ日だというのでゴロゴロと咽喉を鳴らしな がら、下界に向って落下した。  そして、出隣、曲り膀、黒謄、白膀、怒り膀、笑い瞬など、取ったは取ったは、珍妙なる騰ばか りまんまと奪い取って、人間共に泣きベソをかかした挙句、可愛い女房や伜の待っている雲の上へ 帰って行った。折柄伜の雷太郎は太鼓をゴロゴロ敲きながら遊んでいたが、女房の雷子は亭主の留 守をいいことに|軒《いぴき》をかいて昼寝をしていた。その軒は女だてらにはしたないと言ってもいい位物凄 く、まさに雷のような軒とはこのことだ。 「やい起きろよ」  雷助に蹴り起されて、雷子はびっくりして飛び起ると、あわてて火をおこしに掛った。  そして亭主の土産の膀を串にさして附焼にしながら、 「お前さん、下界には何ぞ変ったことはなかったの」  と訊いた拍子に、雷子は一番うまそうな出膳をこっそり帯の中にかくした。大方この出瞬をヘソ 繰にする積りであろう。  亭主はそれには気がつかず、 「いやもう下界には変った話もない。だいいち人間って奴はどいつもこいつも佃煮にする位詰らぬ 奴ばかしだからな。しかし、強いて言えばたった二人だけ一寸風変りな人間を、今日は見て来た よ」 「へえ? 風変りってどう風変りなの?」 「一人は猿飛佐助という奴なんだが、この男と来た日にゃ、顔一面にアバタの穴だらけで、あんな 汚ないアバタ男はまず雷の社会には見られるものじゃない」 第二夜 第一夜は、雷の雷助が下界で見て来た二人の風変りの人間のうち猿飛佐助という稀代のアバタ男 のことを、女房の雷子に物語った所までであった。  一体この猿飛佐助という人物は立川文庫によれば、なかなかの美男子になっているが、私の調べ た所によれば(或は私の想像した所によれば)子供のころ庖瘡に|罹《かか》って、|二目《ふため》と見られぬ醜いアバ タ面1そのアバタ面を人眼からかくすために忍術を修業したという妙な人物である。  さて雷子は亭主の話をきくと、 「へえ? しかしそんな汚いアバタ面の男の膀は、かえってうまいかも知れないよ。お前さんどう して盗んで来なかったの」 「莫迦をいえ、その猿飛という奴は忍術使いというから、うっかり近寄ったらひどい目に会う」  と、言った途端、雷助は、 「あッ! 痛ッ!」  と、頭を押えた。いきなり鉄扇のようなもので、ポカリと頭を撲られたのである。 「誰だッ?」  雷助はカソカソになって見廻したが、傍には女房と伜がいるだけで、鳥一羽飛んでいなかった。 「こりゃ不思議だぞ。今たしかに俺の頭を撲った奴がおるが、影も形も見えぬとは、はて面妖な。 女房油断すな! あッ痛ッ! また、撲りやがった。やい誰だ!俺の頭は太鼓じゃないわ。出て 来い!」  そう怒鳴った時、雷助の頭上でカラカラと笑い声が聴えた。1と思うと、一条の煙がすっと立 ち|騰《あが》った。そして、その煙の中から忽然と現れたのは……。 「あッ! そのアバタ面は……」  雷助は叫んだ。 「あはは……。誰だかわかるか」  と、煙の中から現れた男は気取った口調で、 「遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえ る、信州にかくれもなきアバタ男猿飛佐助幸吉とは俺のことだ。雷様を下に見る不死身の強さは日 本一の醜男のこの俺が、今飛行の術で雲の上を飛んでいると、貴様のそしり声が聴えた故、鉄扇を くらわしてやったが、どうだ、雷助! 少しは応えたか」 「命ばかりはお助け」  と雷助はぶるぶる顧えていた。  雷子は亭主の危機と思ったので何を考えたのかいきなり頓狂な声を挙げて、 「おお、これが猿飛とやらいう男か。アバタ面とは話に聴いていたが、聴きしにまさる醜い男だ わ」  そう叫んだ途端、ぱっと煙があがった。1かと思うと、今まで眼の前に突っ立っていた佐助の 姿はかき消す如く消えてしまった。  雷子が思った通り、見栄坊の佐助はアバタ面のことを女の口から言われると、さすがに恥しくな って、途端に姿を消してしまったのであろうか。  雷子はやれやれと胸をなぜ下して亭主に向い、 「なるほど風変りな男だねえ。ところでお前さん、もう一人の風変りな男って一体どんな男なの」 「ま、待ってくれ。あんまりびっくりしたので、息の根がとまりそうになった。女房まず水を一杯 くれ」  そして、雷助は水を飲み終ると、 「ああ、これで落ち着いた。1もう一人の風変りな人間というのは、夢想判官|源《みなもと》ノ豹助という男 だ」      第三夜  第二夜は雷の雷助がもう一人の風変りな人間i夢想判官源ノ豹助の名を、女房の雷子に紹介し た所までで終った。  さて、この夢想判官こそわが主人公である。この人物が如何に風変りな人間であるかは、これか ら追々語って行くことにするが、まず雷助をして言わしめると、 「この夢想判官という男は第一に妙な癖を持っているんだ。一体に人間の癖という奴は、一に意地 っ張り、二に二枚舌、三に猿真似、四にしみったれ、五に強情、六に老檜、なくて七癖、探して十 癖、種々さまざまだが、この夢想判官という男の癖はそんなものではない。この男の癖は、生れつ いての妄想狂、朝に夢み、夕に想い、日がな一日夢想三昧、だから夢想判官というわけだが、しか しこの夢想判官は天下無双(夢想)の意味もある」 「へえっ? |然《しか》しそんな男の麟はかえってうまいだろうねえ。お前さんどうして盗んで来なかった の」  雷子は猿飛佐助の噂をきいた時と同じように言った。 「莫迦をいえ。夢想判官という奴は判官即ち牛若丸を気取って鞍馬山に籠って、剣術の修業をして いる莫迦男だから、大方百日も風呂へはいったことがない。まるで体中垢をかぶったみたいだ。こ とにあいつの謄と来た日にゃ、真黒けで泥の中の田よりまだ汚いという代物だ、あんな騰など盗ん で来た所でとてものことに食べられたものじゃないよ」  雷子は好奇心に富んだ女だったから亭主のその話をきくと、早速|遠眼鏡《とおめがね》を取り出して来て、夢想 判官のいるという鞍馬山の方ヘレソズを向けた。  すると、遠眼鏡に写ったのは折柄鞍馬山の山道をひどくあわて込んで、駈け降りて行く一人の大 男の姿であった。  その男の眼はまるで夢をみるような眼であったから、雷子はてっきり夢想判官に違いないと思っ て亭主に遠眼鏡を渡して訊いてみると、果してその通りであった。  さて、我々はここら辺りで、この不届きな雷の夫婦と別れて、我々の主人公夢想判官の後を追う ことにしよう。  しかし、彼は物凄く足が速いから我々も急がねば見失う|倶《おそ》れがあろう。1夢想判官がそんなに 急いでいるのは、実は彼は関ケ原の戦の噂を風の便りに聴いて、 「時は来た。今こそ槍一筋で十万石の機会だ」  と許り、よせぱいいのに関ケ原目指して駈けつけようとしているのである。  山を降り、野を越え、川を渡りノッポの大股で急ぎに急いで、やがて関ヶ原に辿りつくと、夢想 判官はここぞと許り大音上張りあげ、 「やーや。遠からん者は音にも聴け! 近くぱ寄って眼にも見よ。眼にも止らぬ早業は、これ ぞ夢想一刀流、我こそは六十余州かくれもなき天下の狼籍者夢想判官源ノ豹助なり、いざ尋常に :…」  ところで誰一人として手向って来る者はいないぱかりか、見渡す限り大野原の中に、人影旗影一 つ見えず寂として静まり返っていた。 「さてはこの俺の威力に恐れを成して逃げ隠れたりと読めた! ははは・一・…。弱武者許りよ」 かねがね空想に耽りすぎて少々常軌を逸していた判官は、得意満面、そう|囎《うそぶ》いた途端、 「おい!」  いきなりうしろで声がした。      第四夜  わが主人公夢想判官は関ヶ原へ駈けつけて来たところ、誰一人手向って来ないので、些か得意満 面となっていたから、いきなり背後から声を掛けられて、少からずあわてた。 「だ、だれだI」  振り向くと、年の頃はまだ二十歳前後らしいが、年に似合ぬ精桿な眼差しの中に気負った表情す ら浮べて、まるで巖を削り取って置いたような恰好で、突っ立っていた。 「俺か。俺ア信州宮本村の新免武蔵という郷士よ」  と、その若者は囎いた。 「新免武蔵……? ついぞ聴かぬ名じゃが、ははあん、大方雑兵であろうがの」  夢想判官は途端に相手を軽蔑した。 「まあそうよ、所で貴様は……?」 「身共かな。身共は山城国土岐村の夢想判官源ノ豹助だ」 「夢想判官……?」 「左様」 済ましこんでいた。すると、 「ついぞ聴かぬわ。i大方貴様も雑兵であろうがの」  とやられたので、判官は少からず狼狽した。明日は十万石取りになるとしても目下の所は・…-。 「目下の所はまアそうよ」 「西か-…?」  と訊いた武蔵の声は鋭い。 「う……?」 「東か・--・?」 「う-…? 西方でも東方でもない。西か東か天下分ケ目の戦さときいて、たった今駈けつけて来 た許りよ」  と正直な所を答えると、武蔵は急に笑い出したので、 「何がおかしい。ははあん、さては貴様気が狂うておるな」  判官は常規を逸した男だから、まともなもっともらしい人間を見ると、かえって正気でないよう に思うという癖が日頃からあった。 「莫迦をいえ! 貴様こそ気が狂うておるわ。というのは、.関ケ原の戦さはとっくに済んでしもう たわい」 「え、何だとー・済んだ・-…?」  常に夢み勝ちに放心したような判官の顔は、この時毛虫を噛んだような表情を涯べた。 「そうよ。金吾中納言め関東へ内通した許りに形勢逆転、石田・小西・浮田・島津の陣は総崩れよ。 貴様知らないで来たか。あはは……」  武蔵の笑い方には、若者の血気で故郷を飛び出して西方の陣に馳せ参じて戦ったあげく、戦い破 れて今は落武者となってしまった虚しさが、さすがにあった。 「南無三宝、しまったッ! 万物|逝《い》いて|復《かえ》らず大事は既に当りしか。この判官ただ一人だにあらば みすみす関東に天下を渡さざりしを-…」  判官が地団駄踏んだのを見て、武蔵は背中にさしていた旗差物を捨てると、貴様は阿呆よ、さら ばじゃとスタスタ歩きだし、やがて見えなくなった。  呆然と見送っていた判官は、何患ったか、おおそうだと叫ぶ<武蔵が捨てて行った旗差物を拾 って、厳粛な面持ちでそれを自分の背中にさした。すると判官は自分がにわかに一かどの落武者に なったような気がして来たが、判官はかねて憧れている九郎判官義経もまた落武者であったことを 想い出すと、大いにわが意を得た。  判官は暫らく夢みる如く空の一角を仰いでいたが、やがて眉をあげ、胸を張り、肩で風を切っ て、颯爽として歩きだした。 判官よ、 何処へ行く? 第五夜  わが風変りな主人公-夢想判官は既に戦いが終っているとは知らずに関ヶ原の戦場へかけつけ たことを新免武蔵と称する怪しげな若者より喧われて、すっかり味噌をつけてしまった(以上第四 夜まで)が、けれども常に比類なき空想力に富んでいるのがこの男の味噌であったから、途端に自 分が一かどの関ヶ原の落武者になってしまったような錯覚を起して、竹のようなヒョロヒョロと伸 びた背中に「西」と書いた旗差物を背負って、さまよい歩くのだった。  そして行く程に、彼の耳に聴えて来たのは、蹄の音だった。見れば、月毛の馬を先頭に数騎の侍 があわただしく落ちのびて行くのであった。①の字の旗印は島津の落武者と読めた。  判官は感嘆これを久しゅうして見とれていたが、やがて、 「おお、あの月毛の馬の速いことよ。まるで空を飛ぶようじゃ」  と眩いた咄嵯に自分が馬を持っていないことに気がついて、ひどくがっかりした。-俺も一か どの落武者ならば、あのような月毛の馬に乗って落ちのびねばならぬ……。 「おお、そうじゃ」  と叫ぶと、わが愛する人物は月毛の馬を探し出すことを、まだ見ぬ恋人に誓った、  やがて何処をどうさまようたのか、それから数日の後判官はいつの間にか、あるけちくさい城下 町をチョコチョコ歩いている自分を見出した。  不思議なことには、この城下町はしんと静まりかえって、人声一つ聴えなかった。すれちがう人 人は誰もかれも口を利かず、ただ欠伸ばかりしているのだった。いわぱ鉛のような沈黙に閉ざされ た町であった。  ところが、突如としてこの沈黙を破って聴えた声がある。それは馬のいななきであった。判官は おやっと思った。見れば、一人の薄汚い馬方が欠伸をしながら一頭の馬をひいて、ヒョコヒョコ歩 いて行くのである。  その馬は見るからに貧弱な栗毛の痩馬で、おまけに肢を引いていた。しかし夢想判官にはその馬 が自分の探しもとめる月毛の名馬であるように思われた。  そこで判官は喜び勇んでその馬方を呼びとめて、 「その馬はお前の馬か。美事な月毛じゃのう」  というと、馬方はびっくりしたような顔をして、何かいいかけたが、何思ったのかあわてて口を 押えると、黙ってうなずいた。 「なかなかの名馬じゃ。どうじゃ下郎、その馬を譲らぬか」  判官はそヲ言って小判一枚出すと、馬方はあっけに取られていたが、やがて黙ってうなずき、小 判を受け取った。  判官は面白おかしい身振をして、その肢の痩馬に跨がったが、途端に自分が一かどの侍大将のよ うな気持になって、爽快の念を覚えた。ところが、ふと侍大将ならば家来というものがついている 筈だということに気がつくと、判官ばにわかに狼狽した。そこで、その馬方に向って、こう言っ た。 「どうじゃ下郎、この馬と共に身共に仕える気はないか。もし俺が十万石の主になればお前には五 万石やろう」  馬方は三たび黙ってうなずいた。 「なんだ、貴様は唖なのか」  そう訊くと、馬方は首を振ったので、判官は不思議に思って、黙っている理由をきくと、馬方の 返答たるや世にも奇怪なものだった。      第六夜 第五夜は、わが風変りな主人公-夢想判官が不思議な城下町で召し抱えた馬方に謎の沈黙を守 っている理由を訊ねた所までだった。  さて|件《くだん》の馬方は判官から黙っている理由を訊ねられると、しばらくもじもじしていたが、やがて 思い切ったように口をひらくと、ヒソヒソした声でこういった。 「お侍様、ものをいっても苦しゅうござりませぬか」 「妙なことをいいよる。口に税金は掛らぬものを」  判官がそういってわらうと、馬方は滅相もないと言うように手を振って、相変らずのヒソヒソ声 で、 「税金どころか、下手すると命が危うござります。お侍様は旅のお方らしいから、何にもご存知な いかも知れませんが……」  そう言って、あたりを見廻してから語ったのは、こうだった。  -この国は近年相続く大飢謹で、民の苦しみは言語に絶する位である。ところが、家老の穴山 権右衛門はおのれの私腹を肥やすために、苛酷この上もない取立てを行って、民の最後の一粒まで 年貢米を取り上げてしまって、今や人民は餓死を待つ許りである。当然心ある人々は政道の非を鳴 らしたが、家老の穴山はたちまち|嵌口令《かんこうれい》を発して、政道についての一切の不平、発言、献策を禁 じ、城下町で天候の挨拶をしている二人の老人を見れば、政道を批判しているものとして処罰する という有様である。故に人民たちには唖の一手以外にない。しかも物言わねば腹ふくれるどころで はなく、腹はへる一方、今ではもう誰も口を利くなと言われなくても、口も利けぬ位の半病人にな ってしまっているー  この驚くべき説明をきくと、判官はことの意外に呆れながら、 「物も言わず、物も食わず……。では人間の口は一体何の為についているのじゃ」  と言うと、馬方は大きな欠伸をして、 「ごらんの通り、この口でせっせと欠伸をしております」  そこで判官ははじめてこの城下町の人々が一人残らず鉛のような沈黙を守って、無気力な欠伸ぱ かりしながら歩いていた理由が判ったが、判った途端に判官の正義の血は五体を逆上した。 「その家老、穴山権右衛門とか言ったな。下郎、もはや一刻の猶予はならぬ! 直ちに穴山を退治 せねばならぬ! 案内致せ!」  馬方はその言葉をきいて驚いた。一体にこ0男は抜目が無さそうでいて、その癖母親の腹の中へ 智慧と分別を忘れて来たような男であったから、判官から栗毛の馬を月毛じゃといわれても、口を 利くのが怖さに反対もせず黙っていたおかげで、肢の痩馬の代に小判一枚貰ったうれしさに逆上し た余り、ぺらぺらと何もかも言ってしまったのだが、こうなってみると、はじめてそれが後悔され て来たのである。  ところが、この男は利巧ではなかったが律義な所がなくもなかったのでひょんな工合から判官の 家来になってしまった以上、一応主人の命をきいて置こうと思った。それにこの主人の言いつけを 守っておれば、約束通り五万石くれるかも知れない。  そう思ったので、思い切って判官を穴山の屋敷へ案内することに決心して、馬の口を取った。  ところが、その怪しげな肢の痩馬はいくら判官が尻に鞭をKれても、一向に進もうとしなかっ た。 第七夜  夢想判官が悪家老の穴山権右衛門を退治にいよいよその屋敷へ乗り込もうという、 肝腎の所で惜 しくも第六夜は終ったが、今夜は大急ぎでその行動を語らねばならない。  しかし、私が如何に急いでも、破で痩馬であるところの判官の愛馬は一向に進もうとしない。 「はいよウ! はいよウ!」  と掛声だけは一人前に出して、馬の尻をしぱくのだが、馬はそのたびに悲しそうにいななくだけ で動こうとはしない。  馬方は見るに見兼ねて、 「御主人様、こりゃ馬から降りて歩いて行った方がようござんすぞ。元来この馬は走ったためしが ありませんぞ」 「莫迦を申せ。こめ馬は左様な駄馬ではない。一鞭千里の空を飛ぶとはこの馬の如きを言うのじ ゃ」  あくまで名馬と思い込んでいる判官は、そう言い放つと同時に馬の尻へ十何度目かの鞭を当てた !その途端、不思議、不思議! 哀れな肢馬は判官を乗せたままみるみる空へ舞い上って行っ た。そして馬の口を取っていた馬方の五体も一緒に雲の上へ登って行くではないか。  馬方はあっけに取られてパクパクと雲のかけらを吸い込んでいたが、判官はさもありなんという 表情で、悠然として満足の微笑すら浮べていた。  やがて、気がつくと彼等は馬もろともふわりと地上へ降ろされたが、そこは悪家老穴山権右衛門 の屋敷の庭であった、  穴山権右衛門は折柄算盤片手に百姓から取り立てた年貢の勘定をしていたが、ふと眼をあげると 怪しげな男が馬に乗って庭に立っていたので、仰天した。  判官もまさか自分の眼の前にいる男が穴山であるとは思わなかったので、馬の口を取っていた馬 方から、それが穴山であることを耳打ちされるとさすがに少なからず驚いた。  一瞬ばつの悪い空気がみなぎった。そして判官と穴山は暫らく睨み合っていたが、やがて、穴山 は、 「無礼者!」  と叫ぼうとした。その途端に穴山の鼻はコロリと下へ落ちた。鼻が落ちてしまったので、穴山は 明瞭に発言することが出来なくなって、「無礼者」というつもりが、 「ぽれえぽの!」  と聴えて、何を言っているのかさりぱり判らなかった。が、判官は穴山の言葉の意味を悟ろうと する前に、成すべきことがあると思った。そこで判官はおもむろに口をひらいて、穴山の罪状を忌 輝なく指摘した。そしてそれが終ると、いきなり刀を抜いて、穴山に斬りつけた。  穴山は片手をかつて鼻のついていた場所に当て、片手で落ちた鼻の肉を拾おうとしていたので、 防ぎ様がなく、簡単に斬られてその場に於て絶命した。  騒ぎをききつけた穴山の家来は手に手に武器を以て駈けつけて来て、判官に迫った。  途端に、判官の五体はあれよあれよと言う間に馬もろとも空へ舞い上った。律義な馬方も馬の口 にしがみついたまま空へ上った。  そして空を飛ぶこと数刻、判官と馬方はやがてある街道の真中に馬もろとも降立っている白分た ちを見出した。同時に、頭上で、 「判官さらばじゃ」  という声が聴えた。判官は驚いて見上げたが、声の主の姿は見えなかった。何故ならもはやその 時に声の主ー猿飛佐助ははるかの雲の上を飛んでいたからである。 第八夜  想像力に富む読者諸君は、昨夜のくだりで、判官の馬を空へ舞い上げたのも、舞い降したのも、 そしていきなり悪家老穴山の鼻をコロリと斬り落したのも、すべて稀代のアバタ男猿飛佐助の忍術 の仕業であることを、いち早く察したであろうが、判官自身はあくまで馬自体に空を飛ぶ力がある ものと信じてこれぞまことに名馬なるかなと悦に入っていた。  一方、判官の家来即ち風変りな馬方は、かつての持馬にそのような神秘的な力があるとは思えな かったから、これはてっきり判官に魔法を行う力があるのだと信じ込んでしまった。だからこの主 人に仕えておれぱ、きっとぼろいことがあるだろうと浅墓に思った。  そこで馬方はまず自分が三蔵という者であることを述べて、五万石の約束を改めて判官に訊すの だった。  やがて日はとっぷりと消えた。馬上豊に跨った判官はふと、どこからか聴えて来る妙なる笛の音 を耳にすると、うっとりとした表情になって、 「おお、三蔵聴け、あの笛こそこの判官恋しさにさまよい歩く静御前の吹く笛の音じゃ」  と、あらぬことを口走った。三蔵は眼を白黒したが、神妙な顔をしてだまっていた。しかし、続 いて判官が、 「十六夜の月のあかりもこの笛の音にうるんでいる。真にこれもののふの風流の道じゃ」  と、溜息をついた時は、もうだまっていず、言いたいことを言う人間の特権を発揮して、 「判官様、お言葉ですが、月なぞ出ておりませんぞ。今宵は闇夜ですぞ」、  と言った。すると判官少しもあわてずに、 「はてさて、恋に迷えば心の中は闇にもなろうて。したが三蔵、、恋をすればとて、ゆめはしたなき 山家育ちに心を許すなよ。身共も十万石の主とならば、露に悩める白百合か、霜にふるえる白菊の 如きみめうるわしき姫君を迎える所存じゃ」  と、またまたあらぬことを口走ったので、三蔵はこの人は何と変なことを言う人だろうと、あっ けに取られていると、判官は、 「お前にもやがて雨に打たれし|海巣《かいげら り》の如き目くらむぱかり美わしい女を|姿《めと》らすであろう」  と、言う。三蔵は「目くらむばかり」という言葉を「目くらばかり」という風にきいたので、 「へえ、もう私なんざア盲目でも結構です」  と謙遜した。  その時、判官の眼に前方の一筋の灯が見えた。すると空想力に富むこの風変りな人物は、あの灯 こそ怪しき城郭の天守閣より洩れているものであり、天守閣に幽閉されているみめ美わしき姫君が 救いを求める合図の灯であるーという風に思い込んでしまった。  そこで判官は、もはや一刻の猶予もならぬ、直ちに姫君を救い出すのじゃと、声をはげまして三 蔵に下知した。  三蔵はあわてて判官の指す方を見たが、なるほど灯は見えているが、天守閣なぞどこにも見当ら なかったので、 「お言葉ですが、判官様、天守閣なぞどこにもありませんぞ」 「莫迦をいえ! 俗眼に見えぬようまぎれて築いたのが|曲者《くせもの》じゃ。それ急げ!」  判官はそういいながら、愛馬の尻に鞭を当てた。が、哀れな肢の馬は例の如くなかなか進行を開 始しなかった。 第九夜  わが主人公は前方の灯を見て、これこそ天守閣に幽閉されている姫君が救いを求める合図の灯だ と思い込んでしまったので、直ちに救援に赴かねばならぬと、愛馬の尻に鞭を当てたのであるが、 哀れなる肢の痩馬は、徒らに悲鳴をあげる許りで、一向に進もうとしなかった。以上第八夜に述べ た所。  ところがわが主人公は名こそ判官ではあるが、判断力に欠ける所を多分に持っていた男であった から、あくまで自分の愛馬は空を飛ぶ力があると信じ込んでいる故、馬の迷惑をも顧みず、ピシッ ピシッと鞭を当て、ハイヨハイヨと号令をかけつづけた。しかし、判官にはまことに気の毒ではあ るが、肢の痩馬は鞭の痛さに堪えかねて前肢を、ハタバタさせる許りで、一向に前進しないばかり か、現在の位置より二間ばかり後退するという有様である。  この情勢を見て、さすがの判官も態度を改むべきであると悟った。そこで判官は実に情けない声 を出して、三蔵にこう言った。 コ一一蔵! 馬の尻を押してくれL 「へい!」  三蔵は両手で馬の尻を押すと、やっとのことでヒョコヒョコと歩き出した。肢の馬の背にまたが って進むのは凸凹の道を駕籠で揺られて行く以上に動揺のはげしいものであったが、しかし判官は 自分の身体が動揺するたびに、前方の灯が揺れて見えるということの方に気を取られていた。つま り判官は、前方の灯が揺れるのは、それこそ情勢の急迫していることを告げる合図のあわただしさ であると思い込み、一層武者ぶるいをしていたのであった。  やがて、彼等が辿りついたのは竹藪の中のあばら屋であった。三蔵は自分の思うところを遠慮な く述べるということにしていたから、 「判官様、こりゃ天守閣ではありませんぞ。竹藪の中のあばら屋ですぞ」  と叫んだ。が、判官は、 「はて将もない。竹藪と見せかけたのが曲者じゃ。三蔵! 直ちに大門を敲け」  と、命じた。三蔵は、 「判膏様、敲けとおっしゃるのなら敲きますが、しかし敲けばこわれてしまいそうな戸ですぞ!」  と言いながら、ドソドソ敲いているうちに、案の定、戸がこわれてしまった。その隙に判官は戸 の中へ乱入した。  すると、そのあばら屋の中で笛を吹いていた一人の薄汚い坊主がおもむろに笛を口から離して、 「たれじゃ」  と言った。そこで判官は自分の生国、姓名、流儀などを述べて、 「まったこれなるは身共の家臣、馬方の守三蔵伴左衛門」 と、三蔵を紹介すると、|件《くだん》の坊主は自分の名乗りをあげる順番が来たとばかり、気取った口つき で、 「われこそはもと信州真田の鬼小姓、法螺も吹けば笛も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を、破った数は 白妙の、衣を墨に染めかえて、入道姿はかくれもなき、三好清海入道だ」  と七五調の酒落た文句で名乗りをあげた。どうも猿飛佐助といい、三好清海入道といい、さすが に「工夫に富める」上田の城主真田幸村の郎党だけあって、その名乗りの文句にも工夫を凝らして いる所は、天晴れである。  さて判官と三好入道との奇遇はどのような発展をするか。      第十夜 昨夜の続きを物語るまえに一寸断って置きたいことがある。  この物語の連載が始まって間もなく、読者から極めて風変りな手紙が二通来た。その一通は、 「前略。十五夜物語を読んでいる者です。正直にいってあの小説は感心しません。たとえば第三夜 のくだりで夢想判官の膀を『泥の中の田よりもまだ汚い』とあるが泥の中の田とは一体いかなるも のか甚だ諒解に苦しみます。文章を書くなら少しは解り易い文章を書いてくれ給え。八千万総ザソ ゲの今日貴下も少しは反省して貰いたい」  というきびしい手紙であった。なるほど泥の中の田はおかしい。作者も了解に苦しんだ。がこれ は作者の罪ではない。実は作者は夢想判官の騰は「泥の中の田にしより汚い」と書いて置いたのだ が、印刷の誤りで「田にし」の「にし」が落ちてしまったのである。ことわが主人公の膀に関する こと故ここに一言断って置く。  さてもう一通の読者の手紙は、 「前略。十六夜日記好調、断然貴下の傑作と信じております。つきましては金子五百金お貸し下さ いませんか」  という虫のよい手紙であった。 「十六夜日記」とは何のことであるか。私はかつて「十六夜頭巾」という放送劇を書いたことがあ るが、 「十六夜日記」などという平安朝の女性みたいな文章を書いたことは断然ない。げんに書き つつあるこの小説は「十五夜物語」である。 「十六夜日記」ではない。私はその読者の人格を疑い たい。  しかし、このような手紙が来る所を見ると、どうもこの物語は失敗らしい。何だかそんなような 気がする。例えば昨夜のくだりなんかなっちゃいない。作者もほとほと不満足である。だいいち、 竹藪の中のあぱら屋を天守閣だと思い込んでしまった判官が、折角この中に幽閉されている(筈 の、と判官は決めていた)みめ美わしき姫君を救い出そうとして駈けつけた所、そこには三好清海 入道という薄汚い坊主がいたとは、実に興冷めである。判官自身も内心面白い気はしなかったこと であろう。  けれども、如何に作者が不満足であろうと、如何に夢想判官が内心面白くなかろうと、当の三好 清海入道自身にとっては、その時そのあぱら屋の中にいたという事情に就ては、それ相当のれっき とした理由があったのである。伊達や酔興でそんな所へ忽然と降って湧いたわけではない。  実は、関ケ原の合戦がまだ続いていたのなら、三好清海入道もそんな所にいなかったろう、信州 の上田城に立て籠って、せっせと関東の大軍を悩ましていた筈だ。げんに彼はそうしていたのであ る。所が関ケ原の合戦は石田方の敗北に帰した。そこで石田のために上田城に拠って関東の大軍を 食い止めていた真田幸村は、もはやこれ以上の戦いは無益であると悟って潔く城を明け渡し、紀州 の九度山へ落ちのびることになった。  三好清海入道も当然幸村に随行する積りであったが、途中でふと気が変ったのだ。侍をやめても との坊主に還ろうと思ったのである。  もともとこの男は坊主だったのに、少しばかり腕っぷしが強いのをたのんで、侍になり真田へ仕 えたのであったが、その彼がもとの坊主に還ろうとしたのに就ては、ざっと数えて三つの理由があ った。 第十一夜  三好清海入道が侍をやめてもとの坊主に還ろうという気になったのに就ては、ざっと数えて三つ の理由があるーと書いて、その三つの理由を述べぬうちに、惜しくも第十夜は終ってしまったか ら今夜はまずそれに就て書かねばなるまい。  その理由1  まず第一に、人間はすべて皆平等であるべきだのに士農工商の区別をつけて、侍だけがあたかも 特別の人間であるかの如く、その特権を振りまわして来た。 「平家にあらざれば人にあらず」の如く侍にあらざれば人にあらずとすら思われるくらいである。 このことを三好は反省したのである。  次に、今や天下麻の如く乱れ、群雄割拠しておのおのその勢力を伸ばすための戦いは遂に果てる 所がない。そしてこの戦国時代の出現のために、道義はすたれて強弱即ち正邪の思想がはびこり、 弱き民は徒らに苦しんでいる。これを思えぱいち早く武器を捨てるべきだと、三好は考えたのであ る。  最後に三好は、万物逝いて復らぬという人生流転の相に無情を感じたのである。  ざっと以上の理由によって、三好は侍をやめ、もとの坊主に還るべく、故郷へ急ぐその途中、竹 藪の中のあばら屋に仮の宿を見つけたのであった。そして毛むじゃらけの脛を投げ出しながら、そ の脛よりも長々しい夜の慰めにと、下手な笛など吹いている所へ、突如として乱入して来たのは、 夢想判官とその家来三蔵及び愛馬であった。  しかし、判官には毫も三好に危害を加える意志がない。そしてまた三好にも判官をその無礼さの 故に答めて、流血沙汰に及ぶ意志はない。何故なら両雄とも臆病者ではなかったから。臆病者はえ てしてこういう場合流血沙汰を惹き起し易いものである。例えば橋の上で武器を帯びた二人の人間 がすれちがうとする。こんな時必ず互いに斬り結ぶのは、両者が臆病者の場合に限るものだ。  けれども、判官も三好も勇者であり、互いに毅然としていたから両者の間には何の血なまぐさい 事件も起らなかった。二人の間にはただ次のような風変りな言葉のやりとりがあっただけである。 「この天守閣にはみめ美わしき姫君が幽閉されておる筈じゃが、御身はその在所をご存知であろ う」  と、判官が言った。すると三好はもともと「笛も吹けぱ法螺も吹く」という男であったから、す かさず、 「おお、そのみめ美わしき姫君なら先刻野武士共にかどわかされて、連れて行かれた。まだ遠くは 行くまい」  と、大法螺を吹いた。  ところが、夢想判官という人物は、自分の夢想したことをつねにあくまで信じ、また人にも信じ て貰いたいと思う代りに、人の言葉を信ずるという美徳を持っていたから、途端に三好清海入道の 法螺を信じてしまった。  そして、みめ美わしい姫君が猿ぐつわをはめられて、かどわかされて行く姿を夢想すると、 「ああ、おいたわしや」  と、ハラハラ落涙したが、次の瞬間にはきっと|眺《まなじり》をあげて、 コニ蔵、一刻も猶予はならぬ。直ちに後を追うのじゃL  そう言ったかと思うと、あたふたと闇の中へ消えてしまった。が、野武士の姿はおろか、みめ美 わしき姫君の姿は、遂に見当らなかった。 第十二夜  もう大分前の話だが、私はある活動小屋で活動写真を見ているうちに、いきなり噴きだしたこと がある。  それはある二枚目の俳優が酒場でビールを飲む場面であったが、その俳優はその酒場へはいって 行く時には無帽であったが、さていよいよビールを飲んでいる所を見るといつの間にかちゃんとパ ナマ帽を被っているではないか。  私はその俳優の(或は監督の)うかつさに、むしろ痛快を感じて噴きだしたのであったが、しか し観客は大人しく黙って観賞している。しかし、そのように大人しい観客も、その次の場面で年代 が一足飛びに十年も飛んで、二枚目の俳優がにわかに中年男になって出て来たのを見ると、期せず して爆笑した。芝居小屋でも幕と幕との間に年月がたちすぎて、前の幕の役者が次の幕で急に老け て出て来ると、何となく笑うものである。  しかし、活動写真や芝居と違って、小説の場合は一行のうちに一ぺんに百年たっても、読者は余 り笑わぬようである。1というこの事情を利用して、私は今この物語を、昨夜と今夜の間に一足 飛びに十年経過させようと思う。 「昨日は今日の初昔」という言葉もあるから、一夜のうちに十年飛んでもそんなにおかしくはある まい。  さて、この十年間にわが主人公夢想判官は何をしていたか。  彼は相変らず破の痩馬にまたがって、律義なる家来三蔵を道連れに、みめ美わしき姫君(三好清 海入道の言によれば野武士にかどわかされたという)の行方を探していたのである。  しかし、みめ美わしき姫君にうまくめぐり会えたかどうか。それは判官の口からきくことにしよ う。 「昨日は東、今日は西、みめ美わしき姫君の行方を探しもとめて東西南北さまよう内に、はや十年 の歳月は流れたが、今以てめぐり会えぬとは何としたことか。まごまごしていると姫君はお婆さん になってしまうわい」  判官がしみじみとそう述懐すると三蔵は、 「ねえ判官様、もうみめ美わしき姫君の方は諦めて、早いとこ十万石の方を探しましょう。まごま ごしていると、ほかの浪人共にまんまと十万石を取られてしまいますぞ」  と、極めて現実的なことを言った。三蔵は十年も判官に仕えているのに、今以て約束の五万石は おろか一万石の扶持もくれないので、どうやらこの主人は空約束をする人ではないかと、疑い出し ていたのである。世間には空約束でぎりぎりまで引っ張って置いて、いざという時に約束を破った あげく、お前の方が悪いなどと逆ねじを食わすような人が多いので油断ならない。 「ほかの浪人共が取ろうと、十万石はこの世の中にただ一つだけしかないというわけではない」  と判官は落ちついていた。 「しかし判官様、浪人だってただ一人しかいないというわけではありませんぞ。世間には豪傑がう ようよしていますぞ。一に岩見重太郎、二に二刀流の新免武蔵……」 「なに新免武蔵……? あの関ケ原の残党が当時天下の豪傑とは、はてさて豪傑の相場も下ってし まったわい」 「三に猿飛佐助、四に信州上田の寛十蔵、五に後藤又兵衛、六に浪人坊主の塙団右衛門、七つ名前 も鬼の熊蔵、八つ柳生但馬守……」      第十三夜  咋夜は夢想判官の忠実なる家来三蔵が、天下の豪傑を八人まであげた所までであった。  さて九人目は……。 「九つ雲風群東次-・…」 「なに雲風群東次……? ついぞ聴かぬ名じゃ」  と判官が言うと、 「野武士の頭目ですぞ」 「はてさて、豪傑の相場もいよいよ下落したわい」 「さて最後は真田幸村……。まずこの十人が世に知られた天下の豪傑ですぞ。ところが判官様、夢 想判官源ノ豹助の名は誰の口の端にも上っておりませんぞ」  と三蔵が言うと、判官は極めて厳粛な口調でこう言った。 「光る螢のみが夜飛ぶ虫ではない」  判官はわれながらこの言葉が気に入ったので、言い終ると、ひどく感傷的な気分を覚えた。  ところが、この感傷的な気分は次の瞬間はや消し飛んでしまった1判官の眼に次のような看板 がとまったからである。 「武芸百般指南所 天下無敵坊 真剣試合二応ズベシ」  判官は途端に今こそ「光る螢のみが夜飛ぶ虫ではない」所以を見せる時が来たと思った。そこで 判官はその看板の下へ駒をとめて、 「頼もう!」  案内を請うと、前垂をかけた禿頭の律義そうな男が出て来た。 「どーれ」 「われこそは夢想一刀流の使い手夢想判官源ノ豹助と申す未熟者、真剣試合を致したい」  判官がそういうと、前垂をかけた禿頭の男は、 「ははあ、表の看板を見て参られたのじゃな」  と言ったので、 「左様!」  と、うそぶくと、 「はて将もない。当所は武芸なぞ指南致しておりませぬて」 「したが、看板には…・-」 「あれでござるか。あの看板は泥棒の用心でござる」  判官はすごすごと引きかえしたところが、ものの二町も行かぬうちに、また看板が出ていた。 「諸流剣法指南所 天下無二斎 天下豪傑ノ入来ヲ待ツ」  判官は再び駒をとめて案内を請うた。 「どーれ」  と、出て来たのは棺桶に片足を突っ込んだようなよぼよぼの爺さんであった。この前の前垂れを かけた禿頭の男が天下無敵坊らしくなかった如く、どうやらこのよぼよぼの爺さんも、天下無二斎 らしくなかったので、判官は失望したのか、こんどは、 「われこそは夢想判官と申す一刀流の使い手、試合致したい」  と、ごく簡単に述べた。すると、 「ははあ。表の看板を見て参られたのじゃな」  と、前垂先生と内じことをいった。 「左様」 「はて将もない。当所は武芸なぞ指南致しておりませぬて」 言うことがいちいち変らない。判官はますます興冷めして、 「したが、看板には……」 「あれでござるか。あれは……」 「泥棒の用心でござるか」 と、すかさず半畳を入れると、. 「いや、あれは天下の豪傑を呼び寄せる為の苦肉の手段でござる」 その言葉をきくと、判官ははじめて活気づいて、 「おお、これは近頃耳寄りな。して天下の豪傑を入用とされるその訳は- ・・?」 第十四夜  昨夜はわが哀れにして風変りな主人公夢想判官が、天下無二斎と自称するよぼよぼの老人に天下 の豪傑を入用とする理由をたずねた所までであった。  よって今夜は、天下無二斎の返答から述べねぱならぬが、その前に断って置きたいのは、この自 称天下無二斎こそよぼよぼではあったが、精神までもよぼよぼにはなっていなかったから、彼の言 はあたかも尾崎行雄氏の言の如く、まことに聴くべきものが多いーという一事である。  さて自称天下無二斎の語る所によればー。  この城下を去ること余り遠からぬ会議山という山の中に、雲風群東次と呼ぶ高等山賊が、あまた の子分手下共を従えて立籠っている。ところがこの雲風群東次という男はもともと某国の城主に仕 えていた役人で、最初は山賊退治に派遣された男であったが、さて山賊の山塞に到着してみると、 忽ち山賊と意気投合してしまった許りか、ついに当時の頭目木鼠胴六なる者を巧く懐柔して、自分 の配下にしてしまい、自ら山賊稼業に入ってしまったという男であったから、かねがね悪事ならど んな事でもやるという代りに、善い事は何一つやりたがらぬという主義の男である。  そして、この主義に忠実の余りこの城下を荒し廻り、その罪状たるや掠奪、強盗、放火、かどわ かし、殺人、傷害、詐欺、贈賄、その他数えるに暇のないくらいである。ために人民の苦しみはそ の極に達している。  ところが、この土地の役人共は雲風群東次から掠奪品の裾分けを貰っているので、見て見ぬ振り をしているばかりか、彼等の城主にはことの一切を隠して雲風のクの字もいわない。だから城主は 自分の領土にそんな悪党がいるなどとは夢にも思わず、人民共はすべて安楽、平和に暮しているも のと信じ切っている。  しかし、事実は城主の想像に反して人民は一日として安らかな日はなかったから、当然役人共に 掛け合って、山賊退治をしてくれるように頼むのだが、役人共は一向に取り合わず、 「そりゃ大方天狗の仕業だろう」  と空とぼけてしまうのである。そして言うことには、 「天狗というものは箒がきらいであるから、家の前に箒を立てかけて置けぱ、天狗は寄りつかぬで あろう。各自みなきっと箒を立てかけましょう」  と、まるで長尻の客を追っ払うようなことを言うのである。  ところが、役人共が嘘つきであると同じ程度に、人民共は愚昧にして信じ易かったから、本当に 天狗の仕業ではなかろうかと思いこんでしまった。ために箒屋は随分儲けたということである。|因《ちなみ》 にこの箒屋の娘はある役人に嫁入っているということである。  さて、天下無二斎はさすがに年の功で、役人共が未だ嘘を言わなかった時代をも知っていたか ら、天狗説などにまどわされず、あくまで雲風群東次を退治ねばならぬと思い、よって天下の豪傑 の力に頼ろうとしたのである。  ところが、この雲風群東次は催眠術を使うので、いかな豪傑も歯が立たず、逆に退治られてしま った。が、たった一人、新免武蔵という豪傑だけは、君子危きに近寄らずと許り、山塞をよけて通 ったので危く助かった云々1。 「なに新兎武蔵が……? 君子危きに近寄らずなどとは、小賢しくも尤もらしきことを言い㌔言い よったが、所詮は臆病者よ」  聴くなり判官はそう叫んだ。 最後の夜  いよいよ最後の夜、十五夜である。  三日月の頃より待ちし名月である。暗雲一掃、大空を光の海となす十五夜の月の出に似つかわし い結びがなくてはかなわぬが、思えばこの物語もいよいよ最後の夜に到って、わが夢想判官の山賊 退治という場面になったことを、作者は読者と共に喜びたい。しかし暗雲を払うも払わぬも、夢想 判官の働き如何に懸っていると思えば、作者も気が気でない  暗雲即ちその名も雲風群東次。催眠術の名人。手下は大勢ー。  一方、夢想判官は夢想一刀流の達人、従者は律義なる馬方三蔵。そして、破の痩馬。  その破の痩馬に打ち跨り、その馬の尻を三蔵がエッサエッサと押しながら、彼等は今会議山の山 道を登って行く。判官の背中に差した「西」の字の旗印が、折からの烈風にひるがえる。雲行あや しー・  と、その時、稲妻がピカリと光ったかと思うと、|沸然《はいぜん》として降り出して来た雨1これは例の雷 の雷助が降らせたのである。  思えば、人間世界と雷の社会では何もかもアベコベである。例えば、人間世界では女房たちの洗 濯は天気のよい日ときまったものだが、雷の社会ではそんな不便な真似はしない。雨の日こそ雷の 女房の洗濯日である。即ち鬼のいぬ間の洗濯。  鬼とは電子にとっては亭主の雷助である。即ち雷子は亭主が瞬を取りに下界へ降りて行った留守 をねらって、彼女の命の洗濯である昼寝をはじめた。例のごとき文字通りの雷の軒をかきながら。  ところが、雷子は突然眼を覚した。折柄地上より天にも響けとばかりでかい声が聴えて来たから である。その声は、 「遠からん者は音にも聴け、近くぱ寄って眼にも見よ、眼にもとまらぬ早業は、これぞ夢想一刀 流、われこそは夢想判官源ノ豹助なり! 会議山中の山賊共、いで尋常に……」  と聴えた。雷子はこの声に眼を覚すと、あわてて遠眼鏡を取りだして来た。  そして遠眼鏡に写ったのは、見よ、今雲風群東次の山塞へ乱入して行く判官主従の奇妙な武者振 りであった。 「何を小癩な!」  と、雲風群東次はすかさず催眠術をかける。すると三蔵はたちまち居眠りをはじめて、やがて他 愛なくごろりと寝こんでしまったが、判官の眼はどういうわけか、キラキラと輝くばかりで、一向 に催眠術の効目が現れなかった。何故なら、判官は絶えず夢想三昧に入っている男であったから、 このはじめから催眠術にかかったような夢み心地の男には、雲風群東次の取って置きの武器も効を 奏さなかったのである。  そこで群東次は第二の手段を取ることにした。即ち彼は大勢の子分手下に命じて、判官に向わせ たが、判官は瞬く間に彼等を|整《たお》してしまった。  もはや群東次にとって残された手段は、自ら刃を取って戦うか、いち早く逃げるかの二つよりな かった。群東次は前者の方を選んだ、そして、判官の刀の錆となってしまった。かくて会議山の山 賊は一人残らず平らげられてしまった  雷子はその一部始終を遠眼鏡で覗いていたが、騒ぎが収まると、急に大きな欠伸をして、 「あーあ、人間というものは何を好んであんな血なまぐさい喧嘩をするんだろう。人間って詰らな いものだねえ」 そう言いながら、ごろりと横になると、やがてまた大軒をかきはじめた。  その後の判官主従については知る所はない。知る必要もない。                                   (昭和二十年秋)