織田作之助 漂流  漂流した十二人のうち、最後まで生き残ったのは僅か三人であった。揖取りの甚八に、水主の仁 三郎と平三郎である。  右の三人は、生国はいずれも遠州荒井村。代々禅宗を宗旨としていた旨、口上書の写しに見えて いる。筒山五兵衛の持船で生れ故郷の荒井を船出したのは、|享保亥年《きようほいどし》の秋の頃であった。当時甚八 は四十六歳、仁三郎は四十歳の、いずれも男盛りであったが、漂流の後八丈島へ無事に帰って来た のは二十一年振りの元文|未年《ひつじどし》であったというからには、もう甚八は六十を七つも過ぎ、また仁三郎 も本卦の六+一歳、それぞれ年相応轟轡て記憶薮刺なく耳も轡していたので・江戸城内吹 上上覧所で御取調べがあった時、満足に応答も出来ず、故に主として若い平三郎が代って口上する ことにした。平三郎は漂流当時二十一歳、戻って来たのは四十二歳、記憶もたしかで、無論耳も良 く聴え、口調も甚だ明快であった。  以下は平三郎が述べた口上である。 53 平三郎にござ'ります。 はい。算用見積りますれば、 当年とって四十二歳に相成ります。御覧の通り、 面やつれは致して おりますが、四十二歳でござります。  御覧の通り、眼も落ち窪んでおります。頬骨も立っております。鐵も寄っております。眉毛も白 うなっておりますが、これは永年の憂き暮らしのせいにござります。まだ私若うござりまする証拠 には、この通り歯は全部櫛の目のように生え揃うております。いや、見苦しく歯などむき出しまし て、なんともひつれ致しました。  ありていに申し上げますると、私いまだ身体も気も若うござります。|記憶《おぼえ》もたしかにござりま す。ちょっとも老毛砥はいたしおりません。私十八歳で|姿《めと》りましたが、はい、お政と申す女めにござ ります。お政十六にござりました。鼻の横にちいさいちいさいほくろござりまして、これは人様に は見えず、私ひとり見つけ出しまして、お政たいへんその事を気に病みましたかのようにござりま す。ほんにちいさいほくろにござりまして、ちょっと|見《   》には|雀斑《そぱかす》のように見えました故、なにも大 騒ぎに、お前は鼻の横にほくろがあって見苦しいなど、申すほどのこともござりませなんだ。想え ば、お政に気の毒いたしました。はい。  そんな些細なことも記憶いたしております。それほど、私物おぼえはしっかりしております。な にもかもちゃんと記憶しております故、私吹き流されました一部始終、甚八、仁三郎にかわって口 上|仕《つかまつ》ります。何なりともおきき下さりませ。  はいはい。ここに下田御番所御切手所持いたして居ります通り、私共は遠州荒井筒山五兵衛船に 乗り込みましたに紛れござりません。船頭左太夫、|水主《かこ》共九人で乗り出しまして、江戸表にて|増水 主《ましかこ》二人頼みまして、以上十一人乗り組みになりまして、享保四亥年秋の頃でござりましたか、仙台 荒浜で御城米積み請けまして、上乗一人乗りまして、船頭以下都合十二人の乗り組みになりまし て、荒浜を出船いたしまして、段々走り申しましたところ、順風たいへん悪くなりました故、銚子 ロヘ入津いたしまして、同所でお役人方御指図をもちまして、御米払いいたしました。右御役人で ござりますか。御尋ねにござりますなれど、私共はとんと御名失念いたしました。恐縮にござりま す。  それより空船にて中南部へのうんちん木積み請けまして、同所を出船いたしまして、仙台小竹浦 へ入船いたしまして、同年十一月二十六日、同所を出船いたしました。はい。はい。十一月二十六 日に紛れござりません。  段々走り、房州九十九里(浜)へ|罷《まか》り|越《こ》しましたところ、|晦日《みそか》のことでござりました。大|西風《にし》に 逢いまして、たいへん沖に吹き出されました。次第に浪風強うなりまして、中々船も保ちにくうご ざりました故、これでは中々たまるまいと、帆柱を捨て、十二人の者共、|元結《もとゆい》を払い、竜神に祈誓 を掛けましたが、浪風はますますひたとはげしく、|一《ヤヘ》日一夜流されましてござります。船の流れま すことは矢よりも早うござりました。  |其《そ》の節はいずれも船の内に膝を突き立てて坐っておりましたが、流れるに任せて倒れました故み なみなうつ臥しに打ちふしておりました。海上は真暗で何も見えませなんだ。海坊主も見えませな んだ。私うつ臥しに打ちふして、瞼にお政の顔をうかべまして、落涙いたしました。  夜も明け方に成り、風も少々ずつ止みました故、いずれも起き上り、四方を見渡しましたとこ ろ、海まんまんとして、どこにとて眼の当てもござりませなんだ。それより日の出になりまして、 あたりはだんだんに明るく成りましたので、ようようと東西南北も相知れるようになりました。  そこでみなみな寄り合いまして、半日一夜の空腹をなんとして満たしたものかと、談合いたしま したが、何やかや大方のものは、前日の難風最中に海へ流し捨てまして、僅かに飯米は七八俵も船 底にござりましたなれど、のみ水はみな揺りこぼれまして皆目ござりませなんだ故、ほとほと思案 に困りまして、醜悪な話にござります。皆腹をきゅうきゅう鳴らして居りましたところ、船頭左太 夫の申しますことには、 「先ずなま米をかみ、潮でのんどをしめすことにしよう」  そこで、私どもそのようにいたしまして、やっと空腹をこらえこらえいたしまして、さて、あわ れ人の家のある島でもないものかと、流れ流れながら四方に心をつけて見張っておりましたとこ ろ、船の流れ行きます向うの方に、雲ぎれのようなものが幽かに見えました。気のせいでござりま するか、どうやら島山と覚しゅうござりました。雲とは思えませなんだ。なんとしても島山のよう でござりました。口々に、 「島じゃ。島じゃ」  命に掛けても、島じゃと申しました。  船の流れ行く方向にござりました故、だんだん近寄ることは必定じゃ。とみなみな悦びまして胸 をわくわくさせながら、三|時《とユさ》ほども流れて行きますと、その島の近辺に近寄ることが出来まして、 みなみな泪の顔をそむけもせず、 「嬉しいぞ。嬉しいぞ」  と、言い合ったことでござりました。ところが、だんだん近寄るにしたがいまして、本船は岩に 当り、浪に打たれ、大方破船いたしまして、|霧《おびただ》しく|塗《あか》がはいりまして、おまけにその辺は遠浅の故 にござりましたか、一向に動きませなんだ故船底にござりましたてんまを|取《ヤ  》り出しまして、まず十 二人の内五六人も乗り移り、はい、私もその一人にござりました。1竹などは本船にござりまし た故、それでてんまを漕ぎまして、その島へ上陸いたしました。  そして、五六人で手わけいたしまして、眼を皿にして、水の在所はどこじゃ、人の家は見当たら ぬかと一心に探しましたが、一|時《とき》、二|時《とき》、到頭水も人家も見つからず、精のない顔で、てんまの|傍《へちち》 へ戻って参りまして、半分泣きまして、又々てんまに乗りまして、船足も重く本船へ戻りまして、 これこれじゃと、仔細を語っております内、本船もあちこち大分くずれかかりして、破船に間もご ざりませなんだから、船頭左太夫の申しますことには、 「折角当てにして来た島じゃが、水も人の家もないとあっては、上陸してみたところで、何の益も ない。わしはむさい話だが、夢の中で屍を踏んだような、虚ろな気持がして、がっかりした。が、 そうは言うてもおられん。この船は追付け破船じゃ。いま半時も保つまい。そうと決まれば、ここ はあくまで急いで上陸することじゃ。いっそそれに越した法はあるまい」  言うている内にも、漆がだんだん増して来て、船も大分傾いたと見えました故、手道具や何やか や残っておりました品々を、てんまへ積み込みまして、十二人の者が乗り移りまして、島へ運び上 げましたところ、はや|其《そ》の日も夕方に及びまして、日が傾きまして、七ツ頃と見えました。  そこで、何はともあれ今夜の寝所を見つけねばと、いずれも手わけいたしまして、島の内じゅう 見廻りまして、せめてしかるべき木かげなどを尋ねましたが、更にござりませなんだ。  日も落ちて参りまして、だんだんあたりは暗く、胸の中も淋しゅう暗うなりまして、 「おうい、|見《め》っかったか」 「おうい、|見《め》っからん。われの方は|見《め》っかったか」  などと言い合っておりますと、むやみに悲しゅうなって参りまして、しまいには、 「この分なら、今夜は馬のように立ちながら眠ることじゃ」 「いやそう悲しむことはない。野良犬のようにそこらで横になって、眠ればとて、いっそ故里の夢 が見られまいでもない」  こんな風に声ひそびそと、何ともはや浮かぬ心地でござりましたが、する内、山の中程と覚しい ところに、大きな岩穴が見つかりました。また、それより二十間ほど離れたところに、又々一所同 じような岩穴がござりました。  天にも登る気持で、はじめの穴の中へ這うてはいりまして、見積りましたところ、二間四方もあ るかに存ぜられました。今一つ岩穴の方は、それより少々狭うござりました。はい、どちらも立居 など自由に出来るかと見えました。また、以前にもこの島へ吹き流されて来た者があって、ここを 仮の住居といたしましたらしい証拠には、少々窪んでおりますところの砂を掘り出して見ますと、 下に炭のようなものが見えました。  これはと思い、みなみな暫らくその炭のようなものに手を触れたり、鼻をすり寄せて嗅いだりし まして、まぎれもない炭だと、手を見せ合い、鼻の頭の黒いのを、笑い合ったりしました。そして |其処《そこ》を又掘りくぼめ、釜などを掛けて焚立所にすることに決めまして、其の穴の中へ、さきに申し ました飯米の残りや道具などを運んで居ります内、はや日も暮れてしまいました故、その二つの穴 へ六人ずつわかれましたが、其の夜は中々眠る心地もござりませず、夜中同音に念仏など申して居 りましたところ、夜が明けました。早々にてんまを繋いで置きましたところへ参り見ましたとこ ろ、其の夜も風が余程強く吹きまして、浪の音も殊の外聞こえたくらいでござりました故、本船も てんまもろともに破船いたして居りました。  かくなる上は、是非もござりませなんだ故、その島に滞在いたしました。もっとも、磯草・魚鳥 などはござりましたからこれを食べて居りましたが、飲水は一滴もござりませず、海しおは誠にに がしおでござりました故、一口もたべにくうござりました。それで、咋日本船より持って参りまし た道具のうち、打桶や小桶を岩山のくぼみに置きまして、天水を溜めて、助命いたしました。其の 後、大きな材木が流れ着きましたので、取り上げて、それを釘をもちまして桶のように掘りまし て、これへも雨水を溜め囲いまして、飲水にいたしました。  何ともはや、退屈とはこのことにござりました。一日、二日、三日、四日、同じ日が同じ日が続 きまして、しまいには|欠伸《あくび》する元気もござりませなんだ。みなみな退屈のあまり互いに脛の毛や、 胸の毛を一本ずつ丹念に抜きとり合いまして、誰もかれもさっぱり脛にも胸にも毛はござりませな んだが、そのうち、これも痛いばかりで面白くないと、無精いたしまして、脛の毛も胸の毛も伸び 放題に仕りました。  私事にわたりまして、恐縮でござりまするが、私幼少の頃より悪い癖で、これはお政にもたびた びたしなめられたことでござりまするが、恥ずかしながら、空腹いたしますると、爪を噛むのでご ざります。噛んで食べてしまうのでござります。爪という奴は可愛い奴でござりますな。するめほ どにはござりませぬが、噛めば噛むほど味が出るようにござります。そのようなわけでござります から、ただでさえ始終空腹、暇さえあれぱ、いや、暇はありすぎるくらいでござりましたから一日 中爪を噛んでおりましたところ、船頭左太夫が、 「平三、行儀がわるい。なんぼ無人島じゃからとて、むさいことするな。わしはわれが爪噛んでる とこ見ると、見苦しい気がして、ならんのじゃ」  と、こうたしなめるのでござりました。そこで私の申しましたことには、 「それを言われると、わしは辛い。お政めも左様言うとった。お政は良い女子じゃ。わしは爪を噛 むのは、お政を想い出すためじゃ。お政を想い出すなと言うのか」  と、言いますと、左太夫が申しますことには、 「女房のあるのは、われ一人じゃないぞ〕|揮《はばか》りながら、みなみな一人ずつは女房のある身じゃ。女 房のこと言いたければ日中に言え。日が暮れてから言うのは、勝手気儘じゃ。のう、平三、われに 爪を噛むなと言うたのは、お政のことを想い出すなと言うたのではないぞ。爪を短こうして置くと 退屈な時、耳掃除をするのに難儀じゃ、と言うたのじゃ」  と、笑って、笑っております内左太夫はわっと泣きだしました。すると、みなみな声をあわせ て、故郷恋しやと泣きました。  さて、左太夫は涙を拭きますと、こう申しました。 「こう味気ない日ばかし続いては、泣きたくもなろうが、男同志が見苦しい。もう泣くのは止せ。 昔から言うている。男というものは、生れる時と親の死ぬ時だけ泣くものじゃ。いずれ花の咲く日 もあろうじゃないか。昨夜の夢見では、来年の秋によいことがあるということじゃ」  案の定、翌年秋の末頃でござUましたが、乗捨船が一艘、波風の強いせいでござりましょう、島 の方へ流れて来ました。あれよと見ておりますと、磯辺の岩へ打ちつけて忽ちに破船いたしました ので、近々と駆け寄って見ますると、岩の間々に米が打ち寄ってござりましたので、手に及ぶだけ 六十俵ほども拾い上げまして、棲家といたしておりました二個の穴へ持ち運ぼうとしております内 又々波が強くなりまして、折角拾い上げました俵を、沖の方へさらって行きまして、やっと≡二十 俵だけ手に残りました。  その外には、木綿帆の類の破れたのや、船板などが時折流れ寄って参りましたので、これも拾い あげまして、それぞれ用に立てました。この外に二十年余り在島中、海上を通る廻船の見当たるよ うなことはなかったか、との御尋ねでござりまするか。はい。二十年余りというもの、明けても暮 れても海上を見張らぬ日とてはござりませなんだが、只今申しあげました乗捨船の外には、何ひと つ海上を通りませず、また、流れ付くことも一切ござりませなんだ。はい。  拾い上げました米は、干立てする場所もござりませなんだ故、俵のまま穴の中へ積み囲うて置 き、ちびちび食べ惜しみ食べ惜しみ、それはもう一粒一粒押し戴かんばかりにして、食べて参りま したところ、物というものは、食べると減るものでござりまするな。二三十俵もございましたもの が、だんだんに減って参りまして、あと三俵という心細いことになりまして、こうなりますと、か えってもう米がのんどへ通りませず、一粒一粒歯にしみ、胸がちくちく痛む想いでござりました。  ところが、翌春と覚しい頃でござりましたか、余程暖かくなって参りました頃、残りの三俵のう ちの一俵が急に吹き出しましたので、これはと仔細に見ますると、それまで一向に存じ付きませな んだが、なんと|籾米《もみごめ》にござりました。そこで、皆々手をうち、膝をたたきました。また、そこらじ ゅう転げまわりました。倖い、岩の間のかやの茂みのところに、一坪二坪ずつ土気がござりました ゆえ、前に拾い上げて置きました船板の大釘をとび口のようにこしらえまして、それを鍬代りに掘 り穿ち、芽を出しておりますくだんの籾を蒔きつけました。  それまでは、魚を釣ったり、鳥を捕ったりして、まことに芸もない味気のない日々でござりまし たが、もうそれからというものは、蒔きつけました籾の実りますことをせめてもの慰みに、魚のわ たやあらい水を養いに掛けますことを、一日一つのたのしみにして参りました。  十二人のうち誰一人百姓などそれまでにいたした者とては、ござりませなんだが、それぞれに頭 を絞り、さまざま工夫いたしまして、かたわら朝夕米のなりますことを神に祈り続けて参りました 心が、さすがに通じましたのでござりましょうか、米など実りそうにも思われませなんだ地に少々 ずつ実りました。  そこで年々春と覚しい頃、暖かになります節、その種を蒔きつけましたところ、一カ年に二俵ず つもとり入れ出来ました。その後は、土が馴れましたのでござりましょうか、人が馴れましたので ござりましょうか、二俵が三俵になり、三俵が四俵になり、とり入れの量もふえましてござりま す。  このように、年々とり入れいたしましたけれども、これまで何にも知らずに食べていたが、米と いうものはほんに苦労してつくるもの、むざむざ食べては罰があたる、とみなみな申し合わせまし て、平生はけっして食べませず、病人の出来ました時だけ、少々ずつ粥に焚きまして、薬の代りに 用いましてござります。もっともけ病など使う者はござりませなんだが、わしは一ぺん病気になっ て粥を食べてみたいとみなみな二度三度は申しました。                               ㌔  島の広さは何程あったかとの御尋ねでござりまするか。はい、はい。申しおくれましたが、まわ りは凡そ一里もあるかに存じられました。また、島山の高さは三町程もござりました。一体|火山《やけやま》に ござりまして、|殊《こと》の|外瞼岨《ほかけんそ》にござりました。勿論山は平生も燃えておりますと見えまして、煙など が立っておりました。木立も、大木はござりませなんだ。山の中ほどより下へは、桑とぐみの木ば かりでござりまして、外の木は一切ござりませなんだ。其外、かやの類、萩などがござりました が、もとより小屋など作れる筈とてござりませなんだ故、焚物にいたします外、かやは刈り取って 岩穴の中へ敷くことにいたしました。もっとも、ぐみの木は御当地でも薪には嫌います故、焚きは いたしませなんだ。  年々とり入れする米だけでは、知れたもの、常々何を以って|夫食《ふじき》にいたして居ったか、との御尋 ねでござりまするか。はい。夫食と申しましては、最前申し上げました通り、魚・鳥をたべており ました。鳥は私ども御当地はもとより在々所々で見馴れませぬ鳥にござりました。総体に羽は白 う、形は白鳥のようにござりまして、|嗜《くちばし》するどく、足も長く、風切羽をぱっと延ばしますると五六 尺もござります何とも|変挺《へんてこ》な鳥にござりました。もとより名は存じませなんだ故、大鳥と称ぶこと にいたしました。どうせ、名などあってもなくても、一向に不便のない無人島ぐらしでござりまし たが、日々助命の糧といたしております物に名がのうては、あんまり愛想が無さすぎると申しまし て、左様に名づけましたのでござりまする。はい。  大鳥とやらは餌には何をたべるか、との御尋ねでござりまするか。はい。眼にとまりましたとこ ろでは、蟹を餌にしているようにござりました。この蟹は随分大蟹にござりました。磯辺の岩間に 棲んでおりまして、色はかき色で大きさはけまり程もござりましたか、もっとも大小はいろいろに ござりました。これははじめ私共も捕えて食べましたが、風味は少々苦うござりまして、其の上、 |肉《み》はござりませず、ただ甲の中にみそをかきまぜたようなものがあるだけでござりまして、食べる ところもござりませなんだ故、其の後は食べませなんだ。この大鳥は、側へ近々寄って行きまして も、少しも怖れませず、きょとんとして飛び走りもいたしませなんだ故、釘のとび口でたやすく敲 き殺すことか出来ました。  ところが、夏の頃と思われます時候になりますと、大鳥は二三ヵ月は何方へ渡りましたものか一 向に島には見えませなんだ故、その内は魚を釣って食べることにいたしました。まず、釘をおしま 、げまして、釣り針のようにいたしまして、流れ寄りました切帆などをはずしまして、ぬき糸などを より合わせて、これを釘針へつけまして、石を重りにいたしまして、御当地にて使っております長 縄のようにこしらえまして、かねて潮へひたして置きました大鳥の身をひらひら引きさきましたも のを、餌にいたしまして、それを磯辺の岩の上より、はるか向うへ投げ出します。そして暫らく間 を置きまして、引き上げますると、縞鱗、あこう、もいおの類、その外御当地では見たこともござ りませぬ魚が、大分釣れましてござります。これをうしおで煮たり、または干焼きにいたしまして 食べました。針にいたしました釘は、船板が流れ寄って参りました時、抜きとって置きました故、 沢山にござりました。御参考までに申し上げまするが、餌にはいま申し上げました蟹のあしを折っ て付けてもよろしゅうござります。  大鳥と申すものの外、小鳥の類、獣類を見掛けなかったか、との御尋ねでござりまするか。は い。何でござりまする。雁、鴨の類は見掛けるようなことは、ついぞござりませなんだが、総体鼠 の色の羽をしておりまして、頭が赤く、尾は黒い、|鳶《とぴ》などより余程大ぷりに見えまする鳥が、時た ま磯辺の岩の上などに、ひょいと居るのを見掛けたことはござりまする。これも蟹を食べておるよ うにござりました。  小鳥はかやの中や、ぐみの木立、桑の木立の中に下りましたこともござりましたが、何鳥という ことはわかりませなんだ。ところが、たぶん春から夏へかけてと覚しい頃でござりましたか、鶯が 嶋きましたので、それと心をつけてきいて居りますと、聞き馴れぬ小鳥の音もいたしました。殊の 外面白いさえずりでござりましたが、形は見えませず、何鳥だろうかと、沙汰いたしておりまし た。  獣は居りさえしますれば、何獣にいたしましてもすぐ目にとまりまするが、一向に見当りませな んだ。もっとも、天気よく浪のしずかな時、島の西南の方、…二町はるか向うの岩に妙なものが上 がっておりました。これはどうやらあしからしゅうござりました。引潮の時分にござりました。其 の外、川おその毛色をしております牛などよりはるかに大きな図体のものも、その岩の上にのっそ り上がって居ることも折々は見うけました。何という獣か、名は存じませなんだ。もっとも海上を 余程隔てて居ります故、形もしかとは見えませなんだ。ただ、日中出ております際は、毛の色だけ が、川おそのようだと、知れましてござります。勿論、潮が満ちました時や、浪のござります時は 見えませなんだ。平日浪のしずかなことは、稀にござりました。或る夜、住居といたしておりまし た岩穴の三十間ぱかり下、磯辺の方にかや、萩などが茂っておりますところを、風もござりませぬ のに、さわさわと人十人も走って行くような音がきこえて来まして、まことに気味わるくござりま したが、さだめてこれは今申し上げました獣が島へ上がって来て、駈けあるいているのであろうと ひそびそ評定いたして居りました。総体、島ではいつも雨風がござりました故、船板をもちまして 岩穴を蓋して置きました。  島へ吹き流された節火打石、かま、ほくちなど、所持いたして居ったか、どうか。また、所持い たしていたとしても、二十年余りも保たぬように思われるが、常々如何していたかとの御尋ねでご ざりまするか。はい。島へ吹き流されました節、いずれも火打石、かまとも所持いたしておりまし た。いかさま二三年の内は用立ていたしましたが、ほくちはその間に絶えてしまいましてござりま す。もっとも、島にちがやの様な草がござりまして、これを焼いてつかいますると、よく火が燃え 移りましたので、これで用を足して参りました。二三年も過ぎますと、かま、石ともに絶えてしま いました故、まきが沢山ござりましたのを倖い、随分と昼夜ともに火をいけて置きまして、火を絶 やさぬ用心をいたしました。  そうしておりましても、やはり時折は火の消える事もござりましたゆえ、そんな時には、島山の 上の煙の立って居りますところへ、三町も登って行きまして、平生火の消えました用意に、かや、 萩でつくって置きました|松明《たいまつ》のようなものに、火を移して参りましたが、先ずは火の消えませぬよ うに心掛けて居りました。雨などが降りました節折角松明にいけましても、火が湿って消えます故 その時は殊の外迷わくいたしました。  鍋釜の類は如何したか、二十年余も保つまいと思われるが、との御尋ねでござりまするか。鍋釜 はその島へ漂着いたしました際、てんまへ積み込みましたかどうか、その時のことは、私しかとは 覚えて居りませぬが、ともあれ鍋二つ、釜一つでござりました。さだめててんまへ積み込みまして 持ち上がったものと存じられます。はじめから岩穴にあったものとは、存ぜられませぬ。お言葉で ござりまするが、この鍋釜は二十年余り保ちましてござりました。最前申し上げました通り、大鳥 を第一の|夫食《ふじき》にいたして居りました故、その油で鍋釜が保ったのではござりますまいか。  漂着の節十二人の処、三人存命、後九人の者は其の|瑚病《みぎり》死でも致したか、との御尋ねでござりま するか。はい、はい。ひつれでござりまするが、よく御尋ね下されました。はい、はい。只今申し 上げるでござります。船頭、水主、便船人とも、都合十二人の内、船頭左太夫、水主吉三郎、喜三 郎、八太夫、善五郎、善左衛門、江戸にて雇いました|増水主《ましがこ》善太郎、八兵衛の両人、南部より武州 神奈川迄の積りで便船いたしました権太郎、都合九人の内、左太夫、吉三郎、喜三郎、八太夫、善 五郎、善左衛門の六人は遠州荒井の出生にござります。善太郎、八兵衛の両人は武蔵の生れ、権太 郎は伊豆の岩地村の者のよしにござります。この九人の者どもは島漂着以来三カ年ほどは、残らず 存命いたしておりましたが、その後十カ年の内に、だんだんと相果ててしまいました。もっとも年 月等は一向分りませなんだ故、覚えて居りませぬ。老衰のように自然と衰えました者もござります るが、大方は食物がよろしゅうござりませなんだ故、むやみに身体が腫れましてそれがもとで相果 てましたのでござります。ここに控えております甚八、仁三郎の両人、それにこの私の三人は、倖 いに|悪食《あくじき》の|障《さわ》りを免れました故、二十一年無事に永らえることが出来ましたのでござりましょう。 もっとも、私どもとても悪食の障りがなかったものでもござりませなんだ。時折、何ともいえず気 分わるくなることがござりまして、その折は最前申し上げました粥を食べまして、いつか気分がよ くなりましたものでござります。  十二人のうち九人は病死、其の方ども三人、何れも金銀など所持いたしては居らなかったか、と の御尋ねでござりまするか。はい。仰せの通り、十二人の者はいずれも金子一分二分ずつ、|鳥目《ちようもく》な ども少々ずつは所持いたしておりましたが、何分島では入用のこともござりませなんだ故、誰が何 ほど所持いたして居りましたものか、吟味もいたしませなんだ。左太夫と申します者の死後懐中を あらためますと、小粒で一両二分、送状のような書付けに包んだものが現われましたので、其の外 の者どもの所持いたして居りました金銭と一緒に岩穴のくぼみの中へ入れて置きまして、その後入 用もござりませぬままに、打捨てて置きましたところ、このたび島を出船いたします節見ますると、 銭はみなみな朽ちて、細かにくだけて居りまして、金もさびて居りました。その節勘定しまする と、金小粒で四両二分ござりました故、島を出船の折、打捨てて置くのも勿体ないと、はじめて欲 が出まして、三人で一両二分ずつ平らにわけることにいたしました。其の外印形脇差しきせるなど も、吹き流されました当座はござりましたが、いつとなく朽ち失せてしまいましてござります。  二十一年の間、衣類など如何いたして居ったかの御尋ね、|尤《もつと》もにござります。漂着の際は人並み に着用いたして居りましたが、着替えなど勿論ござりませなんだ故、恥ずかしながら、最前申し上 げました乗捨船や破船などの木綿帆を衣服がわりに着用いたしましたり、また、だんだん相果てま した者どもの衣類などを用いては居りましたが、それも中々数年も保ちませなんだ。  そこで食事にいたして居りました大鳥の皮を、羽毛と一緒に干し上げまして、暫らく敷物にいた して居りますと、自然と柔らかになりました故、あちこち継ぎ合わせまして、これを着用して|凌《しの》い で参りました。勿論冬の頃と存ぜられます節も、随分暖かな気候でござりました故、つづれ一枚だ けで結構凌ぐことが出来ました。夏の頃も涼しゅうござりまして、総じて御当地よりは、暑さ寒さ は凌ぎようござりました。  在島中、風・雨・雪・あられなど降ったか、雷地震などは如何であったか、との御尋ねにござり まするか。今も申し上げました通り、冬の間も随分と暖かにござりました故、雪はついぞ降りませ なんだ。粥をすすりながらせめて故里の想い出に、雪見をしてみたいなどと風流の気持も起りはい たしましたが、一向に降りませなんだ。もっとも鳥の皮のつづれ一枚をまとうて居りまして裸同然 の暮らしでござりました故、雪など降りましては、やはり凌ぎにくかったことでござりましょう。  雪は降りませなんだが、雨はたびたび茂く降りましてござります。雷も時折は鳴りました。二十 一年の間、一度よほどの地震らしゅう、はげしく揺れまして、夜中飛び起きたことがござりまし た。ここに控えて居ります甚八ははね起きざまに、 「お常、お常」  と、異なことを口走りましてござります。たぶん、甚八はその時故里の夢でも見ていたことでご ざりましょう。人の想いはみな同じにござります。私とてもその時、お政の夢を見ていませなんだ とは、申しませぬ。  その時、島には私共三人だけが居残っておったように覚えて居りますが、詳しい年月は記憶ござ りませぬ。はじめ、私記憶は随分たしかと申し上げましたが、年月のことは、何分途方もない永い 間のことでござりましたゆえ、今日は何月何日といちいち心に畳むことも、はじめの三四年でござ りまして、あとは正月も大晦日もござりませず、いつ月が変り、いつ年が変ったのやら、昨日が今 日やら、今日が明日やら、とんと心に掛けなくなりまして、自然年月のことは、記憶にござりませ ぬ。二十一年ということも、あとになって、やっと分ったような次第にござります。  風は毎日吹きましたが、大風と存じられますことは、|適《たまたま》々のようにござりました。時折は浪のし ずかなこともござりました。浪のしずかた日は、気もいくらかはれましてござります。たまη大風 の日は、なんとなく物悲しゅうござりました。きょとんとして、風が走るのを岩穴から見て居りま すと、自然泪が出て来るようにござりました。  その他、日月星辰の様子など、何ぞ変ったことは無かったかとの御尋ねでござりまするか。は い。御尋ねでござりまするが、何も変ったことはござりませなんだ。空の模様、日月ほしの渡りな ど、すべて御当地で見て居りますのと、ちっとも変りはなかったようにござります。ただ、夏の頃 でござりましたか、一度、大鳥でも集まって居りましたせいか、夜分に海の中がぱっと明るく光っ て居りますのが、岩穴の中から見え、美しいというより恐ろしゅうござりました。しかし、その光 が空へ移るようなことはござりませなんだ。  |斯様《かよう》にいたしまして、二十年、想えば永い歳月をわびしく島暮らしして参りましたが、今年の、 そうでござります。時節はいつの頃とも分りませなんだが、ある日のことでござりました。私共三 人のうち、甚八、仁三郎の両人は、かねてより蒔きつけて置きました稲草を見廻りに参っておりま して、私ひとり岩穴の中に居りましたところ、誰やら穴の中を覗きまして、そうして、|殊《こと》の|外《ほか》ぎょ うてんいたしましたらしく、あとも見ずに|其《そ》の|儒《きま》磯辺の方へ駈け下りて行きました。  後姿はまごうかたなく人間にござりました故、私もすぐさま穴からかけ出しまして、其の者の後 を追い駈けながら、|詞《ニとぽ》を掛けまして、 「おうい。おれも日本の者じゃ。遠州荒井の者じゃによって、気遣いなさるな、おうい。こっちを 向いて、物を言うてくれ。話がしたいぞ。停ってくれ」  と、大音に申しましたところ、其の者はやっと引き戻して参りまして、 「たしかに人間か。日本の者か」  と、うさん臭そうに、こわごわ訊ねました。 「日本の人間であらいでどうする? その証拠にはこの通り日本の言葉で喋っているではないか」  と、私申しますと、はじめて其の者も安堵いたしまして、 「なるほど、そう言えぱ、鬼でもあるまい。しかし、びっくり桃の木山椒の木だった。ありよう は、その形体じゃ」  と、笑いながら申しましたが、言われてみると、なるほど、二十年余り、乱髪、長髪のままでご ざりまして、湯も遣うたこととてはござりませず、不断日に照らされ、おまけに、潮のため顔色は 赤黒く黄色く、眼ばかりぎょろぎょろいたしておりました故、一眼鬼と見えたことでござりましょ う。それに、身には鳥の毛をまとうて居りました故、一層人間とは見えなんだことでござりましょ うo  さすがに私も|苦笑《にがわら》いいたしまして、 「いかにもこれでは鬼に見えぬことはあるまい。しかし、未だおれなどは見よい方じゃ。もう二 匹、もっとひどい鬼が居るぞ」  と、甚八、仁三郎をすぐさま同道して、参りまして、其の者にひきあわせますると、其の者は、 「いかにも、これはお主のいう通り、お主以上に鬼のようじゃ」  と、申しましてござります。  そこで、私共三人はこもごも、二十年余り前難風に逢うて、この島へ漂着いたしました仔細を物 語りまして、 「したが、お主は何国の人か」  と、訊ねますると、其の者は江戸堀江町の宮本善八と申します者の持船に、沖船頭富蔵水主とも に十七人乗り組みまして、難風に逢い、私共同様此の島へ漂着いたし、あちこち水を探して歩いて いる内、私共岩穴を見つけ、覗いたとのことにござりました故、それより同道いたしまして、磯辺 へ参りますと、その者の申しましたに違わず、一艘の船が破船いたしておりました。  見れば、もはや随分|注《あか》がはいっておりますらしく、船の傾きますのも間もないかのように見受け ました故、其の者のほか、同じく水を探すため伝馬で上陸いたしておりました同行四五人の者に、 島の様子を|篤《ムしヰち》と申しきかせまして、 「当島は出水はないが、天水を溜め置いているし、なお又今後溜め与える故、まず水の心配はない。 食のことも、不充分ながら命を支え得る証拠には、われわれ永年生きながらえて来た。よって、か くなる上はみなみな船に残っている者も、伝馬で上陸し、暫らく島に暮らして、順風をまって帰国 を図る方が得策だろう」  と、語りますると、みなみな異議もござりませなんだ故、伝馬に一同乗りまして本船へ赴きまし て、その旨申しまして、本船に残りおりました飯米一俵のほか、諸道具を積み込みまして、十七人 残らず島へ引き揚げました。勿論、伝馬は帰国に是非是非なくてかなわぬものにござりました故、 まかりちがっても吹き流されるようなことがあってはならぬ。万が一吹き流されては、帰国の望み はないものと覚悟しなくてはなるまいぞと、用心に用心して、厳重に囲うて置きましてござりま す。  このようにいたしまして、島には都合二十人の住人が出来ました故、十人ずつ二つの岩穴にそれ ぞれわかれまして、さまざま物語りに夜を明かしましたが、だんだんきけば、この者ども漂着の仔 細はこのようにござりました。  最前も申しあげました通り、この者どもは江戸堀江町宮本善八船のものにござりまして、去る|午 年《うふニどし》十二月三日朝、順風にござりました故、塩魚、干物類其の外紙、綿等を積み入れまして、船頭水 主十七人乗り組みまして、江戸表を出船、翌年正月末方に南部八戸湊へ入津いたしまして、積み入 れておりました代物を売り仕舞いますまで、南部に滞在いたしました。  さて南部を出船いたしまして、三月はじめ仙台で大豆、蕎麦などを買い取り積み入れまして、三 月二十一日順風をまって仙台東南の浦より出船いたしましたところ、房州の崎辺へ参りました節、 にわかに|戌亥《いぬい》の大風が吹き出しまして、帆を下げましても、余り風が強うござりました故、平廻り も成りかねまして、かれこれ|周章《あわ》てております内、日暮れになりまして、ようよう風はもはや静か になりましたが、其の日に百里余も沖へ吹き流されたということにござります。  流れ流れて、三月二十六日の夜中に成りますと、またもや風が悪しくなりまして、もはや船も保 ち難うござりました故、積み込んで居りました大豆、蕎麦などの俵物を、みなみな海へ投げ捨てま した。する内、帆柱も吹き切れてしまいまして、十七人のものども、死する|許《ぱか》りにかんねん致した とのことにござります、  やがて夜の明けました故、四方を見渡しますると、風は余程吹き止みましたが、依然島影も見当 りませなんだようにござります。昨夜中に何百里吹き流されたのかも計り知れませなんだ故、流し |碇《いかり》の小さい碇がござりましたのを、六七十|尋《ひろ》ござります綱を付けまして、海へ投げ入れ、深さを試 みましたところ、底へは届きませなんだ。  船の内へおびただしく|楡《あか》が入って居りました故、十七人精出して、かい干しましたなれど、船は 大分痛んでおりまして、あちこちより注が入って来るのでござりました。けれど、それにもおそれ ず、十七人力を合わせまして、いよいよ精出しまして、かわるがわるかい出しながら、三月二十七 日、二十八日、昼夜流れ次第に流れて居りまして、あわれ何国になりとも、人の住む所へ船の流れ つくようにとただ神仏を祈るばかりのようにござりました。  二十六日の風の吹き廻しにござりましたか、二十七日の夜に入りますと、また大風が吹き出しま して、船はむしょうに流れまして、二十八日の昼夜ともに風が吹きまして、二十九日の明け方に、 私共の居ります島へ吹きつけられたということにござります-…・。  そんな仔細にござりまして、私共ははじめてその日が|未《ひつじ》の三月二十九日に当ります由、判明いた しまして、 「すれば、わしらば漂着以来二十一年この島に生きながらえて来た算用になる」  と、指折り数えまして、想えばそんなに歳月が経ったものかと、改めて驚きましたことにござり ました。  さて、私共その二十一年間、主に大鳥を命の糧といたして参りました由、物語りますると、沖船 頭の富蔵は随分物識りにござりまして、 「その鳥ならば、この島にだけ居る鳥ではない。南部や松前の浜辺などへ|適《たま》に来ることもある鳥じ ゃ。わしはまえかたあの辺で一度見かけたことがある。しかし、それを食にするとは、初耳じゃ」  と、申しましたので、 「それは思い掛けぬことをきいた。して、その鳥はその辺で何と称んでいるのか。わしらは名も知一 らぬこと故、大烏と称んで来たが……L  と、訊きますと、 「しかめと言うたようじゃ」  と、富蔵は申しました。 「なるほど、ひょんなところで一つ賢うなつた」  と、それより、しかめ、しかめと|称《ちヤ へちヤ》びはじめましたが、何ともしかめでは|永《  ち》年捕え馴れ、食い馴 れて来た大鳥の気がいたしませなんだ。 「これはあくまで大烏でなくては、かなわぬ。どうも、しかめでは味も酸っぱく落ちるようだ」  と、このように咳き咳きますると、富蔵も別に異議を立てませず、 「なるほど、そう言われてみれば、しかめとは感心せぬ名じゃ。誰が付けた名か知らぬが、しかめ とは下手につけたものじゃ。大方、しかめは食べられぬ鳥じゃと思うて、そんな名をつけたのじゃ ろ。郷に入れば郷に従えという諺もある。ここは一番わしらも大鳥と称ぶことにしよう」  さて、二十人の者は只今申し上げました大鳥や魚、磯草などを捕えて食べながら、互いに助命い たして居りまして、日々|日和《ひより》を待っております内、江戸の者ども漂着いたしましたのは、三月二十 九日のよしにござりましたが、四月二十七日の明け方になりますと、やっと順風に見えましたの で、まずさきに島へ引き揚げて置きましたてんまを、みなみなで磯辺の方へ持ち出しまして、帆道 具や、さきに申しました一俵の飯米に、私共島で作って置きました籾米二斗ばかりござりましたの を積み入れました。また、二十一年|遣《つこ》うて参りました鍋釜も入れました。その外、身にまとうて居 りました大鳥の毛もはぎ取りまして、皮二枚でござりましたのと一緒に入れました。これらは、も しいずれも|患《つつが》なく日本へ帰国出来た暁には、|咄《はなし》の種と存じまして、積み入れましたのでござりま す。  なお、丹誠につくって参りました稲草は、あるいは誰かまたこの島へ漂着した節、それを観て私 共同様籾をつくるよすがともなろうかと存じまして、名残りの養いを存分に掛けましてござりま す。  そして、早や出船の用意も整いましたところ、沖船頭富蔵ほか二三人の|年嵩《としかさ》の者が、分別顔に申 しますことには、 「まこと今日の風は順風ではあるが、さて何れを当てに乗り出したものか。勿論、此の島の暖かな 様子を見れば、どうやら南へ寄った島と見えた。故に、日の出のつもりを考えて、北東へと乗り出 すのがよろしかろう」  と、いうことでした故、そのように帆を上げますると、何分小船の事にござりました故、矢より も早く走るような心地がいたしましたが、見渡せど見渡せど、何も見えませず、ただ海まんまんと 見渡すばかりでござりました。  その内に日も暮れて来まして、だんだん暗く、方角も分らぬようになりましたので、|暗《やみ》のせいも ござりまして、余り心細くなりました故、 「いっそ夜の内は帆をおろし、夜明けにまた帆をあげてはどんなものか」  と、一人が申しますと、また、誰ともなく一人が答えまするには、 「たとい夜の内帆を上げず、流れ次第にしていたところで、中々思うところに行きつくものではあ るまい。ここは運を天に任せて夜中も帆をこのままにして置こう」  と、これも尤至極でござりました故、二十人の内|船霊《ふなだま》の祓の詞を知っておりますものは、これを 一心に唱えまして、その外の者はあるいは観音経、又はさんげさんげ六根しょうじょう、石尊不 動、あるいは六字の名号やら題目など、おもいおもいに大音に夜もすがら申して居りましたところ、 夜中風も申し分なく、船はたるみのう走りましてござります。  夜の短い時分でござりました故、程なく東の方と見えますあたりが、だんだん白み、ほのぼの明 けわたって参りましたところ、一つの小島へ流れ寄りました。  そこで、もしや人の住む島でばなかろうかと、胸を躍らせまして、岩に船を繋ぎまして、いずれ も上陸いたしまして、ここかしこ見廻りましたところ、人も見えませなんだ。島の大きさは凡そ間 数に見積りまして、ようよう五六十間四方もござりましたか、水辺の方には、太いかやの類などの 草もござりました。また、島の上の方は大方岩でござりまして、その間々に土気がござりますの か、御当地の大草、又はわらとの草の葉のようなものが、所々生えておりました。その外には何も 見えませず、人の臭いもいたしませなんだ故、再び船を繋いで置きましたところに戻りまして、乗 船いたしました。  なお、その節、この島で中のくぼんで居ります丸い岩と枯草を拾いとりまして、昨日元の島で焚 き入れました食事も、もはや食べつくしてしまいました故、この岩に枯草を入れまして、それで飯 を焚きまして、いずれも食べましてござります。  さて、船に乗りまして、私共三人は、つくづくあたりの海をながめまして、 「お前様方が吹き流されて来なければ、この先はともあれ、まずここまでも来られなかった。お前 様方は仏の手引きでござった。しかし、お前様方は何とも思わなかっただろうが、わしら三人は昨 日あの島を出船の際は、苦難ながらも二十年余り住み暮らしていたことなど心残りがして、島の見 える間は、何度振りかえり振りかえり、名残り惜しんだことか。しかし、もはやその島も見えなく なり、この先何処を当てに流れて行くのかと想えぱ、ほんに心細いことじゃ」  と、愚痴っぽく申しますと、堀江町の面々は、 「なるほど、永年命ながらえていたところ故、無理もない。しかし、きのうより是まで|悪《つつが》なく来た ことは、いうも愚か、仏の加護じゃ。この上は、いよいよ仏の加護にすがり、帰国できることは疑 いない。左様になげくものではない。はや日も余程上り、海上もしずかに、風も申し分のない順風 ではないか」  と、みなみな慰め、力づけてくれましてござります。  そして、風の間に間に海上を走り乗ります内、丁度無人島を出船いたしまして三日三夜、忘れも いたしませぬ当元文四年|未《ひつじ》の五月|朔日《ついたち》の夜明け頃でござりました。あっと一人が声を立てました 故、何ごとならんと遥か海の彼方を見渡しますると、かすかに煙を立てて居りますのは、あわれ人 の住む島らしくござりました。  嬉し泪ながらに乗りつけ、我先にと駈け上がりますると、島人が怪しんでみなみな寄って参りま した。見れば、日本人にござりました故、二十人の者はいずれも泣きましてござります。泣きまし たのは、二十人の者ばかりではござりませなんだ。他の十七人は知らず、私共三人はさきにも申し 上げました通り、鬼にもまごう風体でござりました故、島の子供どもも、怖れてわっと|許《ばか》りに泣き ましたかに、記憶いたしまして居ります。  暫らく口も利けませず、ただもう泣き泣き泣いております内、お役人方が来られまして、それよ り御代官斎藤喜六郎様の御吟味をうけましてござります。申しおくれましたが、この島は八丈島の よしに承りましてござります。  それより御江戸表へは、特別の御船に御乗せ下さいまして、ありがたき仕合せにござりました。 また、私共只今は鬼の面体もいたして居りませぬは、八丈島御役人方の御情けをもちまして|髪月代《かみさかやき》 の儀をお許し下されましたためにござります。なおありがたきことには、,時々衣類など下し置かれ ました故、御覧の通り、さっぱりいたして居る次第にござります。  無人島を出船の節、積み入れた鍋釜、籾米、外に大鳥の毛皮などいかが致したとの御尋ねでござ りまするか。はい。無人島におきまして永年遣うて参りました鍋釜は、八丈島着船まではござりま したが、八丈島へ着きました節、余りに悦びまして、我先にと駈け上がりました故、鍋釜ともみじ んに踏みくだきましてござります。また、大鳥の毛皮は、何分小船に二十人も乗りまして、其の上 帆の上げ下げなど致しまして、殊の外狭うござりました故、鳥の皮も邪魔になりましたままに、無 人島出船の翌日にござりましたか、流れつきました小島へ捨て置きましてござります⊂  島で作り取りました籾二斗ほどは、八丈島御役人中の内、当分御預り置き下さるよう、御用船御 出船の節、私共へ御断りござりました故、八丈島にござります。なお、二斗ばかりと申し上げまし たが、計り見いたしませなんだ故、其の程はしかとは存じ上げませず、相済まぬことにござりま す。  無人島より八丈島まで、|凡《およ》そ何程あったかとの御尋ねでござりまするか。無人島より八丈島まで の海上は、何分どことも知れず走りましたこと故、計りがとうはござりまするなれど、三日三夜の 間でござりますれば、大概に見積りまして、凡そ海上七八百里ほどもござりましたかに存じ上げま す。  八丈島へ着船いたした節、どのような気がいたしたか、との御尋ねでござりまするか。はい。何 分とも夢のようにござりました。はい。その外に何ごとを思うたかとの御尋ねでござりまするか。 私ごとにわたりまして、恐縮にござりまするが、やはりお政のことを頭に涯べましてござります。 お政の鼻の横のほくろも想い出しましてござります。ここに控えております甚八、仁三郎の両人な ど、もはや女房の名さえ忘却いたして居りますような態たらくにござりまするが、私それとは大違 いにござりまして、二十一年前のことどもも、手にとるように記憶いたしております。それ故、私 最前より申し述べました段々、一つのこらず真実のことにござりまして、私申し述べましたこと と、私共いたして参りましたことと、何ひとつ相違ござりません。はい。 81  吟味が済むと、三人の漂民は御暇を賜わって、堆子橋の外にある御厩の宿に引き下った。暫らく して、再び召し出されて、八丈島の役人に預けてあるという無人島で作った籾米を、公儀に差し出 すようにとの、お達しをうけた。なお、 「其方等久しく無人島にて苦難いたした段々、誠に不便故、一人へ三人|扶持《ぶち》ずつ三人へ九人扶持、 其の身一生の内下し置く。生国荒井とやらへ帰国の上は、最はや渡世の儀は相止めて、一生楽に送 ることにせい」  と、いうありがたい御慈悲の言葉を賜わった。三人の者は頭を上げよといわれても、暫らく頭を ようあげず、はらはらと落涙していた。  いよいよ遠州荒井へ帰ることになった。船が荒井の浜に近づくと、お酒落の平三郎はしきりに|讐《びれ》 のそそけを撫でつけ、襟元をなおした。  転げ落ちるように、浜へかけ上がり、出迎えの人々を見渡したが、お政の姿は見えず、甚八、仁 三郎の女房の姿も見えなかった。きけば、甚八、仁三郎の女房は数年前それぞれ死亡し、お政は生 死不明。きけばお政は、夫平三郎をもはや亡きものと諦めてか、五年前、旅の者と出来合っていず こともわからず駈け落ちしてその後行方知れずということであった。  甚八、仁三郎の二老人はもぐもぐと泣いた。平三郎はだらんと胸壱はだけ、二三日気がふれたよ うに怒号し、それがおさまると、暫らく賄抜けていた。荒井の浜へつくまでは、どこで手に入れた か、毎日船中で鏡を覗いていたのだったが、もうそのことを知ってからは、一向に身のまわりも構 わず、四十二歳の顔は一つも見せず、.にわかに爺むさく|老《ふ》けてしまった。  三人扶持をもらうことになったから、渡世をやめても食うのには困らぬままに、平三郎はぶらぶ ら懐手で暮らした。その身分を羨んで、お政の後釜に坐りたい女もないわけでもなかったが、女は こりたと、平三郎は独身でくらした。  平三郎は欝々として朝夕たのしまなかった。何のために生きながらえて来たのか、何のために苦 心して帰国したのか、あれほど故郷を恋い焦れていたのが自分でも不思議なくらい、精のない気持 に重く沈んでいた。日が暮れるとすぐ寝て、これでは無人島での暮らしとすこしも変らぬではない かと、われながら浅ましかった。いや、無人島ではまだしも、籾米をつくるという張りはあった と、平三郎はむしろその時のことをなつかしがった途端に、ふと、無人島でして来たように僅かな 土地を見つけて、そこで籾米をつくって見ようかという気が起きた。  すると、平三郎は妙に元気づいて来た。平三郎はまず甚八、仁三郎を誘って、地主にかけあいす こしの土地を借り入れて耕し、籾米の種を蒔きはじめると、隠居の甚八、仁三郎もよぼよぼやって 来て、肥料をかけたりなどした。そうして、黙々として立ちはたらいていると、やがて日が落ち、 海上を大鳥が群れとぶように思えた。とっぷり暮れて、もはやあたりに人影も見えず、やがてとぼ とぼ帰る所がしずかに暗い岩穴のような気がした。稲はつつましく成長した。  三年経つと、甚八は死んだ。仁三郎はその翌年死んだ。平三郎は六十五まで生きた。籾をつくり はじめてから死ぬまで、平三郎の口から、お政をののしる言葉は一つもきかれなかった。二十一年 の無人島ぐらしで、平三郎が覚えたただ一つのことは、黙々として籾をつくること、そのことだけ であったかも知れない。晩年は無人島の物語を人にきかせるのも、億劫がった。そしてただ一人海 風に吹かれて、小さな田の中にちょぼんと鉛のように置かれていた。                                  (昭和十七年十月)