螢 織田作之助  |登勢《とせ》は一人娘である。弟や妹のないのが寂しく、生んで下さいとせがんでも、そのたび母の耳を |報《あい》くさせながら、何年かたち十四歳に母は五十一で思いがけず|妊《みごも》った。母はまた報くなり、そして 女の子を生んだがその代り母はとられた。すぐ乳母を雇い入れたところ、折柄乳母はかぜけがあ り、それがうつったのか赤児は生れて十日目に死んだ。父親は傷心のあまりそれから半年たたぬ内 になくなった。  泣けもせずキョトソとしているのを引き取ってくれた彦根の伯父が、お前のように耳の肉のうす い女は総じて不運になり易いものだといったその言葉を、登勢は素直にうなずいて、この時からも う自分のゆくすえというものをいつどんな場合にもあらかじめ諦めて置く習わしがついた。が、そ のために登勢はかえって屈託がなくなったようで、生れつきの|砂眼《すがめ》もいつかなおってみると、思い つめたように見えていた表情もしぜん消えてえくぼの深さが目立ち、やがて十八の歳に伏見へ嫁い だ時の登勢は、鼻の上の白粉がいつもはげているのが可愛い、汗かきのピチピチ弾んだ娘だった。  ところが嫁ぎ先の寺田屋へ|著《つ》いてみると姑のお定はなにか思ってか急に頭痛を触れて、祝言の席 へも顔を見せない、お定は寺田屋の後妻で新郎の伊助には継母だ。けれども、よしんば生さぬ仲にせ よ、男親がすでに故人である以上、誰よりもまずこの席に|列《つらな》っていなければならぬこのひとだ。そ れを頭痛だとはなにごとかと、当然花嫁の側からきびしい、けれども存外ひそびそした苦情が持ち 出されたのを、仲人が寺田屋の親戚の内からにわかに親代りを仕立ててなだめる---そんな空気を ひとごとのように眺めていると、ふとあえかな螢火が部屋をよぎった。祝言の|煙《こちニニつ》々たる灯りに恥じ らう如くその青い火はすぐ消えてしまったが、登勢は気づいて、あ、螢がと白い手を伸ばした。  花嫁にあるまじい振舞だったが、仲人はさすがに苦労人で、宇治の螢までが伏見の酒にあくがれ て三十石で上って来よった。船も三十石なら酒も三十石、さア今夜はうんと-…、飲まぬ先からの 酔うた声で巧く|捌《さば》いてしまった。伏見は酒の名所、寺田屋は伏見の船宿で、そこから大阪へ下る淀 船の名が三十石だとは、もとよりその席の誰ひとり知らぬ者はなく、この仲人の下手な酒落に気ま ずい空気も瞬間ほぐされた。  ところが、その機を外さぬ|蓋事《さりずきごと》がはじまってみると、新郎の伊助は三三九度の蓋をまるで汚い 物を持つ手つきで、親指と人差指の間にちょっぴり挾んで持ち、なお親戚の者が差出した蓋も盃洗《いせん》 の水で丁寧に洗った後でなければ受け取ろうとせず、あとの手は|晒手《さらし》拭で音のするくらい拭くとい うありさまに、かえすがえす苦り切った伯父は夜の明けるのを待って無理に辛抱せんでもええ、気 に食わなんだらいつでも出戻って来いと登勢に云い残したまま、さっさと彦根へ帰ってしまった。  伯父は何もかも見抜いていたのだろうか。その日もまた頭痛だという姑の枕元へ挨拶に上ると、 お定は不機嫌な唇で登勢の江州誰をただ|喧《わら》った。小姑の椙も喧い、登勢のうすい耳はさすがに真報 になったが、しかしそれから三日もたつともう喧われても、にこっとえくぼを見せた。  その三日の間もお定は床をはなれようとせず、それがいかにも後家の姑めいて奉公人たちにはお かしかったが、いつまでもそうしているのもさすがにおとなげ無いとお定も思ってか、ひとつには 辛抱も切れて、起き上ろうとすると腰が抜けて起たなかった。医者に見せると中風だ。  お定は悲しむまえに、まず病が本物だったことをもっけの|倖《ざいわい》にわめき散らして、死神が舞い込 んで来よった。嫁が来た日から病に取り|愚《つ》かれたのだというその意味は、登勢の胸にも冷たく落 ち、この日からありきたりの嫁苛めは始まるのだと咄嵯に登勢は諦めたが、しかし苛められるわけ は強いて判ろうとはしなかった。  けれども、寺田屋には、御寮はん、笑うてはる場合やおへんどっせと口軽なおとみという女中も いた。お定は先妻の子の伊助がお人善しのぼんやりなのを倖い、寺田屋の家督は自身腹を痛めた椙 に入智とってつがせたいらしい。ところが親戚の者はさすがに反対で、伊助がぼんやりなればしっ かり者の嫁をあてがえばよいと、お定に頭痛起させてまで無理矢理登勢を迎えたのだ。してみれば 登勢は邪魔者だ…-。登勢は自分を憐れむまえに先ず夫の伊助を憐れんだ。  伊助は櫻こそ掛けなかったが、明けても暮れてもコトコト動きまわった。しかし、客の世話や帳 場の用事で動くのではなく、ただ眼に触れるものを、道具、畳、蒲団、襖、柱、廊下、その他片っ 端から汚い汚いと云いながら、歯がゆいくらい几帳面に拭いたり掃いたり磨いたりして一日が暮れ るのである。  目に見えるほどの塵一本見のがさず、坐っている客を追い立てて坐蒲団をパタパタはたいたり、 そこらじゅう拭きまわったり、ただの綺麗好きとは見えなかった。祝言の席の仕草も想い合わされ て、登勢はふと眼を|掩《おお》いたかったが、しかしまた、そんな狂気じみた神経もあるいは先祖からうけ ついだ船宿をしみ一つつけずにいつまでも縞麗に守って行きたいという、後生大事の小心から知ら ず知らず来た業かもしれないと思えぱ、ひとしお哀れさが増した。伊助は鼻の横に目立って大きな ほくろが一つあり、それに触りながら利く言葉に吃りの癖も少しはあった。  伊助の潔癖は登勢の白い手さえ汚いと躊蹉うほどであり、新婚の甘さはなかったが、いつか登勢 にはほくろのない顔なぞ男の顔としてはもうつまらなかった。そして、寺田屋をいつまでもこの夫 のものにして置くためなら乾いた雑巾から血を絞り出すような苦労もいとわぬと、登勢の朝は奉公 人よりも早かったが、しかし左|器用《ぎつちよ》の手に重い物さげてチョコチョコ歩く時の登勢の肩の下りぐあ いには、どんなに苦労してもいつかは寺田屋を追われるのではなかろうかというあらかじめの諦め が、ひそかにぶらさがっていた。  その頃、西国より京・江戸へ上るには、大阪の八軒屋から淀川を上って伏見へ着き、そこから京 へはいるという道が普通で、下りも同様、自然伏見は京大阪を結ぷ要衝として奉行所のほかに藩屋 敷が置かれ、荷船問屋の繁昌はもちろん、船宿も川の東西に数十軒、乗合の三十石船が朝昼晩の三 度伏見の京橋を出る頃は、番頭女中のほかに物売りの声が喧しかった。あんさん、お下りさんやお ヘんか。お下りさんはこちらどっせ、お|土産《みや》はどうどす。おちりにあんぽんたんはどうどす-・…《ちヤ ヘヤヤヤヤヤ》|。 京のどすが大阪のだすと擦れ違うのは山崎あたり故、伏見はなお京言葉である。自然彦根育ちの登 勢にはおちりが|京《ヤちヤ》塵紙、あんぽんたんが|菓《ヘヘヘもへち》子の名などと覚えねばならぬ名前だけでも数え切れぬく らい多かったが、それでも一月たつともう登勢の言葉は姑も|喧《わら》えなかった。  一事が万事、登勢の絞る雑巾はすべて乾いていたのだ。姑は中風、夫は日が一日汚い汚いにかま け、小姑の椙は芝居道楽で京通いだとすれば、寺田屋は十八歳の登勢が切り廻していかねばなら ぬ。奉公人への指図は勿論、旅客の応待から船頭、物売りのほかに、あらくれの駕籠かきを相手の 気苦労もあった。伏見の駕寵かきは揮一筋で銭一貫質屋から借りられるくらい土地では勢力のある 雲助だった。  しかし、女中に|用事《もの》一つ云いつけるにも、先ずかんにんどっせと謝るように云ってからという登 勢の腰の低さには、どんなあらくれも暖簾に腕押しであった。もっとも女中のなかにはそんな登勢 の出来をほめながら、内心ひそかになめている者もあった。ところがある日登勢が大阪へ下って行 き、あくる日帰って来ると、もう誰も登勢をなめることは出来なかった。  それまで三十石橋といえば一艘二十八人の乗合で船頭は六人、半日半夜で大阪の八丁堀へ著いて いたのだが、登勢が帰ってからの寺田屋の船は八丁堀の堺屋と組み令うて船頭八人の八挺櫓で、ど この船よりも半刻速かった。自然寺田屋は繁昌したが、それだけに登勢の身体は一層忙しくなった。  おまけに中風の姑の世話だ。登勢、|尿《しし》やってんか。へえ。背中さすってんか。へえ。お茶のまし てんか。よろしおす。半刻ごとにお定の枕元へ呼びつけられた。伊助の神経ではそんな世話は思い も寄らず、椙も尿の世話ときいては逃げるし、奉公人もいやな顔を見せたので、自然気にいらぬ登 勢に抱かれねばお定は小用も催せなかった。  登勢はいやな顔一つ見せなかったから、痒いところへ届かせるその手の左利きをお定はふとあわ れみそうなものだのに、やはり三角の眼を光らせて、|鈍《どん》臭い、右の手使いなはれ。そして夜中用事 がなくても呼び起すので、登勢は帯を解く間もなく、いつか眼のふちは|鋤《くろず》み、古綿を千切って捨 てたようにクタクタになった。そして、もう誰が見ても、祝言の夜、あ、螢がと叫んだあの無邪気 な登勢ではなかったから、これでは御隠居も追い出せまいと人々は沙汰したが、けれどもお定はそ んな登勢がかえって癩にさわるらしく、病気のため嫁の悪口いいふらしに歩けぬのが残念だと咳い ていた。  ある日寺田屋へ、結い立ての細銀杏から伽羅油の匂いをプソプソさせた色白の男がやって来て、. 登勢に風呂敷包みを預けると、大事なものがはいっている故、開けて見てはならんぞ。脅すような 口を利いて帰って行った。|五十吉《いそきち》といい今は西洞院の紙問屋の番頭だが、もとは灰吹きの五十吉と 異名をとった|破落戸《ごろつき》でありながら、寺田屋の婿はいずれおれだというような顔が癩だと、おとみな どはひそかに塩まいていたが、お定は五十吉を何と思っていたろうか。  五十吉は随分派手なところを見せ、椙の機嫌をとるための芝居見物にも思い切った使い方するの を、椙はさすがに女で満更でもないらしかった。  五十吉は翌日また渋い顔をしてやって来ると風呂敷包みを受け取るなり、見たな。登勢の顔をに らんだので、驚いて見なかった旨ありていに云うと、五十吉はいや見たといってきかず、二、三度 押し問答の末、見たか見ぬか、開けてみりゃ判ると、五十吉が風呂敷包みを開けたとたん、出てき た人形が口をあいて、見たな、といきなり不気味な声で叫んだので、登勢は肝をつぶした。そし て、人形が口を利いたのを見るのははじめてだと不思議がるまえに先ず自分の不運を何か諦めて、 ひたすら謝ると、果して五十吉は声をはげまして、この人形はさる大名の命でとくに阿波の人形師 につくらせたものだ。それを女風情の眼でけがされたとあってはもう献上も出来ない。さア、どう してくれると騒ぎはお定の病室へ移されて、見るなと云われたものを見て置きながら見なかったと は何と空恐しい根性だと、お定のまわらぬ舌は、わざわざ呼んで来た親戚の者のいる前でくどかっ た。  うなだれていた顔をふと上げると、登勢の眼に淀の流れはゆるやかであった。.するとはや登勢は 自分もまた旅びとのようにこの船宿に仮やどりをしたのにすぎなかったのだと、いつもの諦めが頭 をもたげて来て、彦根の雪の朝を想った。  ところが ちょうどそこへ医者が見舞って来て、お定の脈を見ながら、ご親戚の方が集っておら れるようだが、まだまだそんな重態ではござらんと笑ったあと、近頃何か面白い話はござらぬか。 そう云って自分から語り出したのは、近頃京の町に|見《ヤヤ》た|人形《ヤヤ》という珍妙なる|強請《やすり》が流行っているそ うな、人形を使って因縁をつけるのだが、あれは文楽のからくりの仕掛けで口を動かし、また見た なと人形がものを云うのは腹話術とかいうものを用いていることがだんだんに判って奉行所でも眼 を光らせかけたようだ……というその話の途中で、五十吉は座を立ってしまい、やがて二、三日す ると五十吉の姿はもう京伏見のどこにも見当らなかった。  そして、椙がなに思ってか寺田屋から姿を消してしまったのは、それから間もなくのことだった が、その行方をむなしく探しているうちに一年たち、あの寝苦しい夏の夜、登勢は遠くで聴える赤 児の泣声が耳について、いつまでも眼が冴えた。生まれて十日目に死んだ妹のことを想い出したた めだろうか。ひとつには登勢はなぜか赤児の泣声が好きだった。父親も赤児の泣声ほどまじりけの ない真剣なものはない。あの火のついたような声を聴いていると、しぜんに心が澄んで来ると云い 云いしていたが、そんなむずかしいことは知らず、登勢は泣声が耳にはいると、ただわけもなく惹 きつけられて、ちょうどあの黙々とした無心に身体を焦がしつづけている螢の火にじっと見入って いる時と同じ気持になり、それは何か自分の指を噛んでしまいたいような自虐めいた快感であっ た…:b  赤児の泣声はいつか消えようとせず、降るような夏の星空を火の粉のように飛んでいた。じっと 聴きいっていた登勢は急にはっと起き上ると、蚊帳の外へ出た。そして表へ出ると、果して泣声は 軒下の暗がりのなかにみつかった。捨てられているのかと抱いてあやすと、泣きやんで笑った。蚊 に食われた跡が涙に汚れてきたない顔だったが、えくぼがあり、鼻の低いところ、おでこの飛び出 ているところなど、何か伊助に似ているようであったから、その旨伊助に云い、拾って育てようと はかったところ、う、う、|家《うち》のなかが、よ、よごれるやないか。伊助は唇をとがらし、登勢がまだ 子をうまぬことさえ喜んでいたくらいだったのだ。  けれど、ふだんは何ひとつ自分を主張したことのない登勢が、この時ばかりは不思議なくらいわ がままだった。伊助はしぶしぶ承知した。もっとも伊助は自分が承知してもお定がうんと云う筈は ないと、妙なところで継母を頼りにしていたのかも知れなかった。ところが、いつもそんな嫁のわ がままを通す筈のないお定が、なんの弱みがあってか強い反対もしなかった。  赤児はお光と名づけ、もう乳ぱなれする頃だった故、乳母の心配もいらず、自分の手一つで育て て四つになった夏、ちょうど江戸の黒船さわぎのなかで登勢は千代を生んだ。千代が生まれるとお 光は継子だ。奉公人たちはひそかに残酷めいた期待をもったが、登勢はなぜか千代よりもお光の方 が可愛いらしかった。継子の夫を持てばやはり違うのかと奉公人たちはかんたんにすかされて、お 定の方へ眼を配るとお定もお光にだけは邪険にするような気配はないようだった。  お定は気分のよい時など背中を起してちょぼんと坐り、退屈しのぎにお光の足袋を縫うてやった りしていたが、その年の暮からはもう臥た切りで春には医者も手をはなした。そして梅雨明けをま たずにお定は息を引き取ったが、死ぬ前の日はさすがに叱言はいわず、ただ一言お光を可愛がって やと思いがけぬしんみりした声で云って、あとグウグウ軒をかいて眠り、翌る朝眼をさましたとき はもう臨終だった。失腺した椙のことをついに一言もいわなかったのは、さすがにお定の気の強さ だったろうか。  お定の臥ていた部屋は寺田屋中で一番風通しがよかった。まるで七年薬草の匂いの|褐《あか》くしみこん だその部屋の畳を新しく取り替えて、蚊帳をつると、あらためて寺田屋は夫婦のものだった。登勢 は風呂場で水を浴びるのだった。汗かきの登勢だったが、姑をはばかって、ついぞこれまでそんな ことをしたことはなく、今は誰はばからぬ気軽さに水しぶきが白いからだに降り掛って、夢のよう であった。  蚊帳へ戻ると、お光、千代の寝ている上を伊助の放った螢が飛び、青い火が川風を染めていた。 あ、螢、螢と登勢は十六の娘のように蚊帳中はねまわって子供の眼を覚ましたが、やがて子供を眠 らせてしまうと、伊助はおずおずと、と、と、登勢、わい、じょ、じょ、浄瑠璃習うてもかめへん か。酒も煙草も飲まず、ただそこらじゅう拭きまわるよりほかに何一つ道楽のなかった伊助が、横 領されやしないかとひやひやして来た寺田屋がはっきり自分のものになった今、はじめて浄瑠璃を 習いたいというその気持に、登勢は胸が温まり、お習いやす、お習いやす……。  伊助の浄瑠璃は吃りの小唄ほどではなかったが、下手ではなかった。習いはじめて一年目には土 地の天狗番付に針の先で書いたような字で名前が出て、間もなく登勢が女の子を生んだ時は、お、 お、お光があってお染がなかったら、の、の、野崎村になれへんさかいにと、子供の名をお染にす るというくらいの凝り方で、千代のことは鶴千代と千代萩で呼び、汚い汚いといいながらも子供を 可愛がった。宇治の螢狩も浄瑠璃の文句にあるといえぱ、連れて行くし、今が登勢は仕合せの絶頂 かも知れなかった。  しかし、それだけにまた何か悲しいことが近い内に起るのではなかろうかと、あらかじめ諦めて 置くのは、これは一体なんとしたことであろう。  果してお染が四つの歳のことである。登勢も名を知っている彦根の城主が大老になった年の秋、 西北の空に突然彗星があらわれて、はじめ二三尺の長さのものがいつか空一杯に伸びて人魂の化物 のようにのたうちまわったかと思うと、地上ではコロリという疫病が流行りだして、お染がとられ てしまった。  ところが悪いことは続くもので、その年の冬、椙が八年振りにひょっくり戻って来るとお光を見 るなり抱き寄せて、あ、この子や、この子や、ねえさんこの子はあての子どっせ、七年前に寺田屋 の軒先へ捨子したのは今だからこそ白状するがあてどしたんえという椙の言葉に、登勢はおどろい てお光を引き寄せたが証拠はこの子の背中に……といわれるともう登勢は弱かった。お光は背中に 伊助と同じくらいのほくろがあり、そこから二本大人のような毛が抜いても抜いても生え、嫁入り まえまで癒るかと登勢の心配はそれだったのだ。が、今はそんな心配どころかと顔を真蒼にしてき けば、五十吉のあとを追うて大阪へ下った椙は、やがて五十吉の子を産んだが、もうその頃は長町 の貧乏長屋の家賃も払えなかった。致し方なく五十吉は寄席で蝋燭の芯切りをし、椙はお茶子に雇 われたが、足手まといはお光だ。寺田屋の前へ捨てればねえさんのこと故拾ってくれるだろうと思 ってそうしたのだが、やっぱり育ててくれて、礼を云いますと頭を下げると、椙は、さアお母ちゃ んと一緒に行きまひょ。お父ちゃんも今堅気で、お光ちゃんの夢ばっかし見てはるえ。あっという 間にお光を連れて、寺田屋の三十石に乗ってしまった。  細々とした暮しだとうなずけるほどの椙のやつれ方だったが、そんな風にしゃあしゃあと出て行 く後姿を見ればやはりもとの寺田屋の娘めいて、登勢はそんな法はないと追いついてお光を連れ戻 す気がふとおくれてしまった。頼りにした伊助も、じょ、じょ、浄瑠璃にようある話やとぼそんと 云うだけで、、あとぽかんと見送っていた。  おちりとあんぽんたんはどうどす……と|物《ヤちヤ ちヤヤヤち》売りが三十石へ寄って行く声をしょんぼり聴きなが ら、死んだ姑はさすがに虫の知らせでお光が孫であることを薄々かんづいていたのだろうかと、血 のつながりの不思議さをぶつぶつ咳きながら、登勢は暫らく肩で息をしていたが、あ、お光といき なり立ち上って浜へかけつけた時は、もう八丁櫓の三十石は淀川を下っていた。暫らく什んで戻っ て来ると伊助は帳場の火鉢をせっせと磨いていた。物も云わずにぺたりとそのそばに坐り、畳の一 つ所をじっと見て、やが左手で何気なく糸屑を拾いあげたその仕草はふと伊助に似たが、急に振り 向くと、キソキソした声で、あ、お越しやす。駕籠かきが送って来た客へのこぼれるような愛嬌 は、はやいつもの登勢の明るさで奉公人たちの眼にはむしろ蓮っ葉じみて、高い笑い声も脇に落ち ぬくらい、ふといやらしかった。  間もなく登勢はお良という娘を養女にした。樽崎という京の町医者の娘だったが、樽崎の死後路 頭に迷っていたのを世話をした人に連れられて風呂敷包みに五合の米入れてやった時、年はときけ ば、はい十二どすと答えた声がびっくりするほど美しかった。  伊助の浄瑠璃はお光が去ってから急に上達し、寺田屋の二階座敷が素義会の会場につかわれるな ど、寺田屋には無事平穏な日々が流れて行ったが、やがて四、五年すると、西国方面の浪人たちが ひそかにこの船宿に泊ってひそびそと、時にはあたり|揮《はま》からぬ大声を出して、談合しはじめるよう になった。しぜん奉行所の宿調べもきびしくなる。小心な伊助は気味わるく、もう浄瑠璃どころで はなかったが、おまけにその客たちは部屋や道具をよごすことを何とも思っていず、談論風発する と畳の眼をむしりとる癖の者もいた、煙草盆はひっくりかえす、茶碗が転る、鉄子は割わる、興奮 のあまり刀を振りまわすこともありへ伊助の神経には堪えられぬことばかしであった。  登勢は抜身の刀などすこしも怖がらず、そんな客のさっぱりした気性もむしろ微笑ましかった が、しかし夫がいやな顔をしているのを見れば、自然いい顔も出来ず、ふと迷惑めいた表情も出 た。ところが、ある年の初夏、八十人あまりの主に薩摩の士が二階と階下とに別れて勢揃いしてい るところへ駈けつけて来たのは同じ薩摩詑りの八人で、鎮撫に来たらしかったが、きかず、押し問 答の末同士討ちで七人の士がその場で死ぬという騒ぎがあった。騒ぎがはじまったとたん、登勢は さすがに這うようにして千代とお良を連れて逃げたが、ふと聴えたおいごと刺せという言葉がなぜ か耳について離れなかった。  あとで考えれば、それは薄菊石の顔に見覚えのある有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押え つけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、 と叫んだ,この世の最後の声だったのだ。  精一杯に張り上げたその声は何か悲しい響きに登勢の耳にじりじりと焼きつき、ふと思えば、そ れは火のついたようなあの赤児の泣声の一途さに似ていたのだ。  その日から、登勢はもう彼等のためにはどんな親切もいとわぬ、三十五の若い母親だった。同じ 伏見の船宿の水六の亭主などは少し怪しい者が泊れば直ぐ訴人したが、登勢はおいごと刺せと叫ん だあの声のような美しい声がありきたりの大人の口から出るものかと、泊った浪人が路銀に困って いるときけば三十石の船代はとらず、何かの足しにとひそかに紙に包んで渡すこともあった。追わ れて逃げる者にはとくに早船を仕立てたことは勿論である。  やがてそんな登勢を見込んで、この男を匿ってくれと、薩摩屋敷から頼まれたのは坂本龍馬だっ た。伊助は有馬の時の騒ぎで畳といわず壁といわず、柱といわず、そこらじゅう血まみれになった あとの掃除に十日も掛った自分の手を、三月の間暇さえあれぱ嗅いでぶつぶつ云っていたくらい 故、坂本を|匿《かくま》うのには気が進まなかったが、そんなら坂本さんのおいやす間、木屋町においやした らどうどすといわれると、なんの弱みがあってか、もう強い反対もしなかった。  京の木屋町には寺田屋の寮があり、伊助は京の師匠のもとへ通う時は、そこで一晩泊って来る習わ しだった。なお登勢は坂本のことを|慮《おもんぱか》って口軽なおとみも暫らく木屋町の手伝いに遣った。とこ ろがある日おとみはこっそり帰って来て云うには、お寮はん、えらいことどっせ。木屋町にはちゃ んと旦那はんの妾が・-…しかし登勢は顔色一つ変えず、そんなことを云いに帰ったのかと追いかえ した。おとみは木屋町へ帰って何と報告したのか、それから四、五日すると、三十余りの色の黒い 痩せた女がおずおずとやって来て、あの、こちらは寺田屋の御寮人様で、あ、そうでございました かと登勢の顔を見るなり云うのには、実は手前共はもう三年前からこちらの御主人にお世話をして いただいておりましたが、一度御寮人様にそのことでお詫びやら御礼かたがた御挨拶に上らねばと 思いながらもつい-…・。公然と出入りしようという図太い|肚《はら》で来たのか、それとも本当に一言謝る つもりで来たのか、それは伊助の妾だった。  登勢はえくぼを見せて、それはそれは、わがまま者の伊助がいつもご厄介どした、よその人とち ごて世話の掛る病いのある人どすさかいに、あんたはんかてたいてやおへんどしたやろ。けっして 皮肉ではなく愛嬉のある云い振りをして、もてなして帰したが、妾は暫らく思案し!、伊助と別れて しまった。あとで思えば気の良さそうな女だった  登勢は何かの拍子にそのことを坂本に話し、色の黒いひとは気がええのんどっしゃろかと云う と、俺も黒いぞと坂本は無邪気なもので、誰にも云うて貰っては困るか、俺は背中にでかいアザが あって毛が生えているので、誰の前でも肌を見せたことがない。登勢はその話をきいてふっとお光 を想い出し、もう坂本の食事は誰にも運ばせなかった。そろそろ肥満して来た登勢は階段の登り降 りがえらかったが、それでも自分の手で運び、よくよく外出しなければならぬ時は、お良の手を煩 わし女中には任さなかった。  もうすっかり美しい娘になっていたお良は、女中の代りをさせるのではないが坂本さんは大切な 人だからという登勢の言葉をきくまでもなく、坂本の世話はしたがり、その後西国へ下った坂本が やがてまた寺田屋へふらりと顔を見せるたび、耳の附根まで報くして喜ぶのは、誰よりも先ずお良 だった。ある夜お良は真蒼な顔で坂本の部屋から降りて来たので、どうしたのかときくと、坂本さ んに怪談を聴かされたという。二十歳にもなってと登勢はわらったが、それから半年たった正月、 奉行所の一行が坂本を襲うて来た気配を知ったとたん、裸かのまま浴室からぱっと脱け出して無我 夢中で坂本の部屋へ急を知らせた時のお良は、もう怪談に真蒼になった娘とも思えず、そして坂本 と夫婦にならねば生きておれないくらいの恥かしさをしのんでいた。それは火のついたようなあの 赤児の泣き声に似て、はっと固唾をのむばかりの真剣さだったから、登勢は一途にいじらしく、難 を伏見の薩摩屋敷にのがれた坂本がお良を|姿《めと》って長崎へ下る時、あんたはんもしこの娘を不仕合せ におしやしたらあてが怖おっせど、ついぞない強い眼でじっと坂本を見つめた。  けれども、お良と坂本を乗せた三十石の夜船が京橋をはなれて、とまの灯が藍の落かげを縫うて 下るのを見送った時の登勢は、灯が見えなくなると、ふと視線を落して、暗がりの中をしずかに流 れて行く水にはや遠い諦めをうつした。果して翌る年の暮近いある夜、登勢は坂本遭難の噂を聴い た。折柄伏見には伊勢のお札がどこからともなく舞い降って、ええじゃないか、ええじゃないか、 淀川の水に流せばええじゃないかと人々の浮かれた声が戸外を白く走る風と共に聴えて、登勢は淀 の水車のようにくりかえす自分の不幸を噛みしめた。  ところが、翌る日には登勢ははや女中たちと一緒に、あんさんお下りさんやおへんか、寺田屋の 三十石が出ますえと、キソキソした声で客を呼び、それはやがて淀川に巡航船が通うて三十石に代 るまでのはかない呼び声であったが、登勢の声は命ある限りの螢火のように精一杯の明るさにまる で燃えていた。                                    (昭和十九年十月)