動物集 織田作之助 十|姉妹《しまつ》  人みな十姉妹を飼うた時に、その男ばかりはこれを飼わず、あの烏は見るのもいやだと言いふら して、わざとらしかった。下駄のちびるのを惜しんで、小石の多い道は避けてあるき、始末第一の 男だった。|天邪鬼《あまのじやく》で飼わぬのではなかった。  ある日、小鳥が一羽追われて、盲目のように方向を失いながら、町から町へ飛んだ。十姉妹だ、 の声をかさねて、かさなり合い、駈けて来る人々を、その男は家の前に立ってながめ、阿呆な奴ら めと咳いた。途端にふところへ十姉妹が舞い込むかと見え、男は思わず手を伸ばして、一羽一円。 いや、一円五十銭。けれど、可憐な小鳥はひらりと手をはなれて、飛んで行った。男はなにごとか 叫んで、もう無我夢中にあとを追い、日頃上を見て歩かぬ男だったが、このときばかりは足もとに 気がつかず、いきなり小石にけつまずいて、足がぐねり、倒れた。ぽきりと骨の音がしたのを聴か ず、しまった、鼻緒が切れたと、咄嵯の想いが痛く地面を這うた。真蒼な色が足にも顔にも見え、 しばらく起き上れなんだ。  医者にみせろと人が言うのを、なに構うものかと、けれど言っておれず、はやらぬ骨つギ屋へ一 週間通って揉んでもらったが、二十円治療費つかった挙句、到頭|跛足《びっこ》同然になってしまった。  何の因果かと男はなげいたが、また考えなおして、もうこれで一生下駄の鼻緒を踏み切ること も、歯のちびることもあるまい、死ぬまでに見積ってどれほどの得かと、趾足を口実に、以後外出 せず、親戚の葬式にも出向かなかった。坐業の職人ゆえ、それで結構こと足り、仕事もはかどるの だった。 土佐犬 肥後国上益城郡矢部ノ花田所村の産、大空武右訂門は身のたけ七尺六寸であったと、伝えられ る。文政十|丁亥《へのとい》年五月の出生で、早くも十歳の頃、路傍に訂いだ牛を跨いで行き過ぎ、牛股の異名 をとった。日本近世第一の巨人である。最近では力士出羽嶽の六尺六寸が群を抜いている。  なお、渚方見蹴図絵によれば、文政五年三1、堺町■興行に牙是二尺三寸0小∴月三ハ昌、一、、見 物が群集した。また延宝八年には、大阪道頓堀に身長正味一尺二寸の一寸法師が児世物に出たと伝 えられているが、其仙は疑わしい。もし真とすれば、本邦沫備洛附の筆頓であろう、最近では氾録 がない、巨人とちがっ!・.、…侏儒は畸形としてもあまりに陰惨ゆえ、現存者を記録にすろのが酷だと いう理由もあろう。  わたしは三尺二寸○男を知っている。齢三十を過ぎてもこの身長ゆえ やはり侏儒といつてもよ かろう。のみならず、彼は頭のまわりが人の三倍ぐらいはある。だいもんじゃと|異《ヤヤヤヤヤ 》名があった。広 島県三原町森安正二郎長男正雄(一三)は七歳の折から頭がふくらみ出し、昭和二年五月には頭の まわり一メートルもあったということだ。昭和二年五月三十一日の東京日日新聞の夕刊によると、 『此の福助さんの頭のふくれるにつれて、同家の財産もふくらみ、今では二十万円以上、正に福助 さんだ』とある。ところが、わたしの知っている三尺二寸の男は頗る貧乏だった。稼がねば食えな かった。  十年ばかり前、京都の撮影所で「一寸法師」という探偵映画をとった。どうしても保儒の役が必 要であった。少年を使っては感じが出ぬゆえ、方々探しまわって、やっとこの男を見つけだした。 グロテスクなメーキャップをした彼が、きょとんとした表情で荒れ果てた夜の墓地にたたずんでい るシーソを常設館で見た。  全く芸なしで、その映画一本きり、あと使えず撮影所を戯首になったのか、その後彼の姿をスク リーソで見うけることもなかったが、大分経って大阪の町々をちょこちょこ忙しそうに歩きまわっ ているのを見た。広告のチラシを配っているのだった。赤い甚平さんを着せられていた。口のまわ り、髭が濃かった。  問もなく、それもよしたらしい。暫らく見うけないと思っていたら、ある冬の誓文払いに、心斎 橋の呉服屋の軒先に坐っていた。小高い台をつくってもらい、その上にちょこんと坐っているのだ った。鉢巻、|襖《たすき》で威勢がよかった。しばしば、目茶苦茶の大投売だっせと口上を|敲《たた》き、げらげら笑 っていた。初冬の風が白く走っていた。これも一回きりだった。  暫らくして、郊外電車の駅の構内で、しばしば彼を見た。旅行会の受付役に雇われているらし く、ちょっとした旗の下にぽかんとたたずんで、しきりに扇子をつかっていた。それが目印になる らしかった。一日いくら貰っているのか、毎日旅行会の仕事があるわけでもないのにと思っていた ら、すぐそれもよしたらしかった。  最近土佐犬をつれて歩いている彼の姿を見うけた。実に遅しい立派な土佐犬だった。鎖の端に両 手でしがみついて、汗ずくになっていた。大きな額が湯気を立てていた。笑い顔一つせず、あわれ だった。土佐犬好きの金持ちに雇われて、毎日犬の運動に歩いていると|覚《おぼ》しかった。物好きな金持 ちもあるものだ。 鴉金  家業は寿司屋だったが、はやらず、年中貧乏していた。|頼母子《たのもし》を落し、無尽を食い、保険を食う たあげく・いよいよ食うに阻って、高利貸しに借りた。百円借りて、三十日限りの利息天引きで、 六十円しかはいらず、毎日日が暮れると、自転車で来て、その日の売りあげをさらって行った。俗 にいう鴉金だ。ひどい奴めと、その後姿へまく塩すら、諸事倹約の暮らしだった。  売りあげの少ない時は、自転車に錠をかけて、高利貸しの居催促がきびしく、女房は日の暮れる のを待たず、質屋へ走った。たび重なっては風呂敷包みでは恥かしく、出前用の提箱(岡持)に|質 種《しちぐさ》をいれて、外聞をかくした。  |界隈《かいわい》にあるほどの質屋の暖簾をどれ一つくぐらぬことはなかった。通っているうちに、ものによ っては|他店《よそ》より高く貸す店がわかり、一軒で質入れした金を握って、べつの店へ出向き、そこで受 け出した品を、またべつの高く貸す店へ質入れすれぱ、少しは手に握る金も多くなるだろうと、こ のやりくりに質屋から質屋へ提箱をさげてかけずりまわった。  そのようにしょっちゅう提箱をさげて町をかけずりまわっている姿を見て、ひとびとは、よう出 前のある店やな。えらい繁昌しているやないかと、目を|瞠《みは》った。だんだんにそれが評判になり、本 当に繁昌した。もうこれで、食うに困ることはあるまいと、夫婦はほっとした。  しかも女房は相変らず、提箱をさげて質屋の暖簾をくぐった。けれど、その提箱のなかには、質 屋が注文した寿司がはいっているのだった。 馬地獄  東より順に大江橋、渡辺橋、田簑橋、そして船玉江橋まで来ると、橋の感じがにわかに見すぼら しい。橋のたもとに、ずり落ちたような感じに薄汚い大衆喫茶店兼飯屋がある。その地下室はもと どこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけない。それが妙に陰気くさいのだ。また、大 学病院の建物も橋のたもとの附属建築物だけは、置き忘れられたようにうら淋しい。薄汚れてい る。入口の階段に患者が灰色にうずくまったりしている。そんなことが一層この橋の感じをしょん ぼりさせているのだろう。川口界隈の煤煙にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川 の水も濁っている。  ともかく、陰気だ。ひとつには、この橋を年中日に何度となく渡らねばならぬことが、左様に感 じさせるのだろう。橋の近くにある倉庫会社に勤めていて、朝夕の出退時間はむろん、仕事が外交 ゆえ、何度も会社と訪問先の間を往復する。その都度せかせかとこの橋を渡らねばならなかった。 近頃は、弓形になった橋の傾斜が苦痛でならない。疲れているのだ。一つ会社に十何年間かこつこ つと勤め、しかも地位があがらず、依然として平社員のままでいる人にあり勝ちな疲労が|屡《しぼしぼ》々だっ た。橋の上を通る男女や荷馬車を、浮かぬ顔して見ているのだ。  近くに倉庫の多いせいか、実によく荷馬車が通る。たいていは馬の肢が折れるかと思うくらい、 重い荷を積んでいるのだが、傾斜があるゆえ、馬にはこの橋が鬼門なのだ。鞭でたたかれながら弾 みをつけて渡り切ろうとしても、中程に来ると、|轍《わだち》が空まわりする。馬はずるずる後退しそうにな る。石畳の上に爪立てた|蹄《ひずめ》のうらがきらりと光って、口の泡が白い。痩せた肩に湯気が立つ。ピ シ、ピシと敲かれ、悲鳴をあげ、空を噛みながら、やっと渡ることができる。それまでの苦労は実 に大変だ。彼は見ていて胸が痛む。轍の音がしばらく耳を雛れないのだ。  雨降りや雨上りの時は、蹄がすべる。いきなり、四つ肢をばたばたさせる。おむつをきらう赤ん 坊のようだ。仲仕が鞭でしぱく。起きあがろうとする馬のもがきはいたましい。毛並みに疲労の色 が濃い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは、彼には近頃自虐めいた習慣 になっていた。|側隠《そくいん》の情もじかに胸に落ちこむのだ。以前はちらと見て、通り過ぎていた。  ある日、そんな風にやっとの努力で渡って行った轍の音をききながら、ほっとして欄干をはなれ ようとすると、一人の男が寄って来た。貧乏たらしく薄汚い。哀れな声で、針中野まで行くにはど う行けぱよいのかと、紀州誰できいた。渡辺橋から市電で阿倍野まで行き、そこから大鉄電車で ーと説明しかけると、いや、歩いて行くつもりだと言う。そら、君、無茶だよ。だって、ここか ら針中野まで何里……あるかもわからぬ遠さにあきれていると、実は、私は和歌山の者ですが、知 人を頼って西宮まで訪ねて行きましたところ、針中野というところへ移転したとかで、西宮までの 電車賃はありましたが、あと一文もなく、朝から何も食べず、空腹をかかえて西宮からやっとここ まで歩いてやって来ました、あと何里ぐらいありますか。半分泣き声だった。  思わず、君、失礼だけれどこれを電車賃にしたまえと、よれよれの五十銭|銭《ぜに》を男の手に握らせ た。けっしてそれはあり余る金ではなかったが、側隠の情はまだ温かく尾をひいていたのだ。男は ぺこぺこ頭を下げ、立ち去った。すりきれた草履の足音もない哀れな後姿だった。  それから三日経った夕方、れいのように欄干に|任几《もた》れて、汚い川水をながめていると、うしろから 声をかけられた。もし、もし、ちょっとお伺いしますがのし、針中野ちゅうたらここから…・-振り 向いて、あっ、君はこの間のー男は足音高く逃げて行った。その方向から荷馬車が来た。馬がい なないた。彼はもうその男のことを忘れ、びっくりしたような苦痛の表情を馬の顔に見ていた。 |臭《ふくろう》 相変らず貧乏しております。月給ですか、 五円あがりました。七十円です。 この十月から、女房 が内職をしてくれています。その方で十円はいります。下駄の台磨きです。婦人雑誌で読んだので す。いや、読んだのは女房じゃなくて、このわたしです。随分いろんな本を読みますよ。この頃は 科学書が沢山でますな。おかげで一かどの通俗科学者になれましたよ。  貧乏していても、相変らず本は読みますよ。いや、貧乏しているおかげで、沢山本が読めるので す。おかしいですか。無理もありません。全く、貧乏しているおかげで沢山本が買えるなんて、説 明しなきゃ、わかりません。  構いません。説明しましょう。あとで、うんと笑って下さい。この頃笑いが欠乏しているそうで すな。いや、これもなにかで読みましたよ。  今も言いました通り、収入が女房の分を合わせて八十円でし'う。子供が二人、なかなかやりに くいです。しかしまあ、とにかくやって来ました。ところが、近頃はなんでも現金制でしょう。困 りました。これまでは、月末の収入一杯一杯のくらし方でよかったのです。が、いまは月のはじめ にその月分の生活費を現金でもっていなくちゃならないのです。と、いって、これまでのやり方が やり方ですから、家に現金なぞありゃしません。会社f、もなかなか前借させてくれません。よしん ば、無理に頼んで前借できても、月給から差引かれますから、こんどは家賃や電燈代の払いに困り ます。そこで、誰しも考えるのは質屋ですが、これもそうたびたび利用するわけにもいきません。  そこで、考えました。本を買うのです。会社へ毎日本屋が新刊書をもって来ます。この方は現金 払いでなくともよいのです。月末払いです。それで、買うた本をすぐ読んで、古本屋へもって行け ば、定価の二割引きか三割引きで買うてくれます。これはむろん現金でくれます。それを女房に廻 してやるのです。沢山現金がはいる時は、沢山本を買えばよいのです。こちらも早く金がほしいし、 また早く読んでもって行けば、高い値で買うてくれますから、実に猛烈なスピードで読みます。夜 も寝ず、読み明かすこともあります。随分眼が充血してるでしょう。まあ、私ほどの読書家もざら にいないでしょう。もっとも、本屋の持って来る本を選って買うというわけにもいきません。まあ、 手当り次第ですな。  会社の本屋には月末に貰う月給のなかから払うのです。むろん、全部というわけにはいきませ ん。少しずつなしくずしです。しかし、よく待ってくれますよ。なにしろ良い顧客ですからねμ 狸  老人はこのたび三度目の結婚をするに際して、年齢をかくしたり、サバを読んだりするようなこ とはしなかった。わたしはことし六十三ですよと、正確に仲人に言った。仲人はそれを六十六歳だ といつわって女に告げた。へえ、もうそんな齢ですかと、女は微笑した。女は二十九歳、老人の財 産は少なく見積って十万円はあろうとの仲人口に、そんなにあるんですかと、はきはきした口利い た。ありますとも、ないのは身寄りや子供だけだと、仲人は酒落ていい、だから死ねぱ遺産はみな あんたのものだと、言外に匂わせた。白髪だってないじゃないのと、女はだらしなく言った。い や、あれは全部染めてあるのですよと、仲人はいっそ老人が羨しかった。女は永年の水商売に洗わ れて、垢ぬけし、三味線も弾けた。  老人は毎夜女の三味線で下手な端唄をうたった。昼は浄瑠璃をうなった。この方はうまく、しぱ しば素義会に出た。けれど、そんな時の会費や寄附は出し渋った。さすがに金をためる人はちがう と、そんな老人の出しぎたない癖はひとびとに噂された。  女は毎日市場行きの小銭を老人から手渡された。一文の金も自由にならなかった。どこに金かく しているのか、どこの銀行に預けているのか、見当がつかなかった。下駄一足買ってもらえず、籍 も入れてもらえなかった。  老人の機嫌とりとり辛抱した一年の間に、女は毎日籍のことを言った。老人は、子供うめば入れ てやろうと言った。女は子供うめぬのが悲しかった。  間もなく老人に一人の甥があるとわかり、女はだまされた想いが強かった。けれど、わかったの は、その甥が死んだ知らせと同時で、|些《いささ》か心慰まった。葬式に出向いた老人は三つぐらいの男の子 を連れて戻った。甥の遺児ゆえ、ひきとって育てるのだと、老人は言った。  女はこの子の守しなければならなかった。子供はよく泣いた。女はこの子供が老人の遺産をみな とってしまうのであろうと、ひそかに子供の尻ひねった。子供は一層泣いた。すると、なにか不櫻 に思えた。やがて、子供の顔はだんだん女に似て来た。女は子供が可愛くなった。  老人はまる三年間、女の若さを食い、子供の可愛さを愉しんだあげく、ぽくりと死んだ。老人が 死んだという知らせに、方々から借金とりがやって来た。死ぬまで尻尾を見せず、実は、老人は一 文の財産もなく、あると見せかけての借金でくらしていたのだった。それとわかると、女は泣けも しなかった。  女はよそへ嫁いだ。老人の甥の子を連れて。      猫の蚤  岡部太市。三十六の男。平凡な顔の、平凡な男。  たったひとつ、ひどく吝箇である。焼芋なぞめったに買うようなことはないが、買えば、その包 紙の搬を伸ばして、丁寧にしまって置く。鼻紙に使うようなこともしない。(汚い話だが、|手漢《てぼな》を かむ)  太市に一人の叔母がある。裕福なくらしをしている。残酷な話だが、太市はこの叔母の死ぬのを 待っている。  叔母が死ぬ。太市は駈けつけて、かたみわけに無理言って狐の襟巻を貰う。着物なぞ貰うより値 が張ってよいと、太市はこれを喜ぷ。  吝薔の癖に太市はくらしに困る。太市は狐の襟巻を売ることにする。しかし、今の時節に狐の襟 巻のような賛沢なものを首に巻く人はない。従って売れない。質屋もうけつけぬ。  太市は困る。  ある日、太市は年来貯めてある紙片、|反古《ぼご》の類を整頓する。その一枚にふと目がとまる。古い小 説本の切れはしらしく、こんなことが書いてある。 「五十歳位の男が、風呂敷包を肩にかけて、猫の蚤とりましょ、猫の蚤とりましょと触れ歩く。猫 好きな隠居方が呼び入れて、猫の蚤をとってくれと頼むと、一匹三文ずつに極めて、とり始める。 まず猫に湯をかけて洗い、濡れた体を狼の皮で包み、暫らく抱えていると、蚤共は濡れた体をきら って、皆狼の皮に移ってしまう。そこをすかさず大道へ振り落す」  太市は狐の襟巻を肩にかついで、猫の蚤をとりましょ、猫の蚤をとりましょと触れ歩く。大猫一 匹十五銭のつもりである。仔猫は十銭。なお、道々、蚤の卵子もとりたいが、これはどうすればよ いだろうかなど、考える。しかし、一軒も呼び入れてくれない。昔と今とではこんなことでもちが うのかと、一銭にもならず、すごすご帰る。                                  (昭和十六年十二月)