|合俥夢権妻《あいばこゆめのごんさい》殺し 小栗虫太郎 1|柳橋水調一曲 暮雪霧《やなぎばしみずのしらべのいつきよくぽせつは》れて|長街寂《ちようがいせき》たりなとという風景はいまとき夢にも見られないけれとも。とに かく両側が|浜町《はまちよう》一丁目の|青物市場《やつちやば》、家並みに大戸が下りていて、河岸に積まれた|除《の》け飾り の竹の後ろから|櫓《やぐら》の音が聞こえようという寸法。明治二十五年一月十二日の夜十時ごろと ご承知あられたい。|蔵前《くらまえ》で太ったお師匠さん風の|大年増《おおどしま》と|阿嬌《あだ》っぽい|丸髭《まるまげ》を乗せた|合悼《あいばこ》が、 今夜だけは|鉄輪《かなわ》の音も立てず、|浅草橋《あさくさばし》を越して|薬研堀《やげんぽり》を過ぎ青物問屋町に入ると、 「阿兄さん、ここで下ろして」 と、太ったお|高祖頭巾《こそずきん》のほうが声をかけた。|挽子《ひきこ》は|幌《ほろ》を外して、 「しますと、お連れさまは?」 「あいさ。|回向院《えこういん》」 「へえ、お寺さまで?」 と珍しくその挽子は、上方弁丸出しのお目見得口上。 「おや、どじだねえ、おまえさんは」 と年増は軽く|睨《にら》んで、 「|両国界隈《りよう ヰびくかいわい》の若い衆が明日何があるか知らないなんて、てんから聞こえた話じゃないよ。 ねえ、あれをお聞きな」 と耳を澄ませは、おりから流れを越えてくる呼出しの|寒稽古《かんげいこに》-|西《 いし》い、|釈迦《しやかが》ケ|岳《たけ》。 「なるほど、お相撲じゃな」 「だから、さ、じれったいね。しっかりしてまごつかないでおくれよ。木戸の前を通り過 ぎると板囲いがあるからね。その中を入っていくのさ。突き当たりが年寄り衆の|溜《たま》り場な んだから」 こう伝法に言い捨てて、お高祖頭巾の年増は|側《そば》の軒灯に『|亀鉄《かめてつ》』とある路地を入ってい った。 なにしろ恐ろしく太った女だったので、挽子は|揮《ふんどし》の結び目までをぐっしょり絞るような 大汗。だが、今度は軽々と|梶棒《かじぽう》を上げて|矢《や》の|倉《くら》から両国橋をひと駆けに春場所の小屋掛け の前を過ぎると、はたしてそこに年増の言ったとおり板囲いの入口があった。しかしその 中に入ると、|本所《ほんじよ》七不思議の新景が一つ|殖《ふ》えたというのは、いくら行けども行けども尽き せぬのは両側の板塀だったのだ。それも幾度か突き当たり、引き返すとまた突き当たり、 また行くと、今度は二本木のある平地に出て、そこから逆戻りしてどうどう巡りをしても、 結局行き止まってしまうのは、やはり高い塀に囲まれて木の二本あるその袋地以外にはな かったのであった。一時間余りもそうしているうちに、やがて挽子は目が|眩《くら》み、精も根も 尽き果てて地上にべたりと|坐《すわ》ってしまったのも無理ではない。それにさっきから薄気味悪 いことには、何度後ろに声をかけても車中の主はぷすりとも答えないのである。 「お|新造《いえ》はん、えっ、お新造はん」 と挽子は汗を|拭《ぬぐ》い、ようやく腰を起こしてからもうたまらなくなったように幌を外すと、 かれの手にどっと|兜《もた》れかかってきたものがあった。ぷーんと脂粉の香りというまでは無事 だったが、ぴたりと合った|頬《ほお》の冷たいこと。うわーっ!と、その挽子、|尻餅《しりもち》をつくかと 思いのほか、左手で抱えて右手を懐に差し入れて乳下に当て、じっくり心動を確かめた心 憎いほどの度胸。さては|只者《ただもの》ならずと思われるうちに、その死体を|蹴込《けこ》みに横たえておも むろに|饅頭笠《まんじゆうがさ》をとったが、その男振りをひと目『ぷろふいる』の読者に見せたかったと思 う。それがちょうど、明治十二年先代|左団次《さだんじ》が|竹若《たけわか》といったころの東京初お目見得そっく り、ぎくりと大向こうを睨んで見得を切ると、一日間違えて、その時三日月が出たという のだから大したものだ。やがてピリピリと吹き鳴らした呼子に慌ただしい|侃剣《はいけん》の音が近づ いてきたが、それがようやく|辿《たど》り着いたのはかれこれ三十分ものち。 「おお、|落葉《おちば》くん、それに、この婦人は死んどるではないか」 と角灯を差し向けて思わず棒立ちになったのが、後年殉職警官映画のパイオニアとなっ た|吉富《よしとみ》巡査(明治四十二、三年ごろの小屋掛け活動で、全巻四分ほどの大探偵活劇をたぶ んご記憶の方があるかと思う)。そう言われてみると、このじじむさい|悼挽《はこひ》きの正体が、今 回京都警察から転任になった名刑事落葉|拳三郎《けんざぷろう》氏の変装だったことが分かる。 「そりゃもう|蘇《よみがえ》らせようたって無理じゃがな。それにこの婦人は|仮名屋小柿《かなやこがき》というてな、 署長の|権《 ごん》ノ字じゃ」 「権ノ字?」 「そうじゃよ。その位正妻本婦の次に班し、しかも|権寵《びごんちよう》かえってその右に|出《い》づと|成島 柳北《なるしまりゆうほく》が言うちょるよ。だが吉富くん、ここはなんち齢う|阿呆《あほ》らしい所じゃい。行けど尽き せぬ船板塀……とんと二十四孝竹の子掘りのようなわけにはいかんのう」 「はははは、転任早々で知らぬも道理ですが、ここは|八門遁甲《はちもんとんこう》という|八幡《やわた》の|藪《やぷ》知らずです。 いわゆる迷路の興行物ですな。しかし、なんとかここを出なけりゃならんが、では小官が 梶棒を握りましょう」 と吉富巡査が挽き出しても、いっかな出らればこそ。|詮方《せんかた》尽きてふたたび呼子の音、そ れが江東一帯に反響して集まったの集まらないのって、みんな|蛙《いなびご》みたいに悼の横後ろにく っついての後押し、そのうち一人の老巡査が妙策を|捻《ひね》り出した。 「うん、そうそう、|呪《まじな》いがあったっけな。この八門遁甲は日本では明治の初年、|横浜野毛《よこはまのげ》 |山《やま》の花園に作ったのが始まりなんだが、迷い込んでどうにもならぬときには、この歌を唱 えよと言われたものじゃ」 と一同が挽き出しながら、声を|揃《そろ》えて、 へ野毛の山からノー工、野毛の山からノー工…… と歌いながらえんさえんさと駆けだしたが、そうして二時間、三時間と過ぎるうちには、 髄も筋も抜け果ててへたへたと地面に坐り込んでしまうという、げにや恥も外聞もない醜 態。おりから暁天に|冴《さ》え切った|擾《ばち》の音、一天四海と打ち出した櫓太鼓、こうして夜明けを 待ってようやく救い出されしという……まずは明治異聞警官危難の一景。 2ご|贔負宝亭一口上《ひいきたからていひとこうじよう》 「なんちゅう|醜態《ざま》じゃ」 |愛妾《あいしょう》の死に遭って紅涙|潜《さんさん》々たる署長が盛んに部下へ当たり散らす。 「くだらんことに非常警笛を鳴らして、SOSとはなんたることちゅうかというのじゃ。 諸外国に対しても、顔向けができるかちゅうのだ。実はあの呼子の|音《ね》を聞いてな、ユダヤ のデカポリスからも、人員派遣を外務省に問い合わしてきたとかいう話じや」 あいのりばこていとしま 「とにかく、合乗悼の中で絶命しおったのですから、同乗した遊芸師匠体の太った年増女 が怪しいという点には一致しておりますので」 部下の一人がおそるおそる言う。 「すると、何か見込みはあるかな」 「はっ、|婆《ばあ》さん芸者やお師匠さんは、たいてい太っとりますので」 「ああ、なんたる情けないこっちゃ」 と署長は天を仰いで慨嘆やや久しかったが、 「だが、なにゆえにそういう連中を引っ括らんのじや」 「実は、法医学教室で他殺とは認められんと言いましてな」 「なんだと」 「いいえ、その、なにしろ窒息の徴候は歴然たるものですが、あいにくとあの大口がIi- あんぐり開いたあの|態《ざま》では、どうにも窒息させた方法の見当がつかんそうでして」 「それをだれが言うのじゃ。いやさ、執刀者は?」 「|両山国悪《りようやまくにあく》博士でした。拒・圧・|塞《そく》・統・覆、いずれにも|些細《ささい》の|痕跡《こんせき》もないと言いまして な。そこで、|坊間《ぽうかんう》の|噂《わさ》では署長のお名前が自殺の原因ではないかと……」 「なに、わしの名前?」 と署長は小首を|傾《かし》げたが、すると、 「|甚助《じんすけ》だが……あっ|馬鹿《ばか》!うぬらは|揃《そろ》ってわしを」 とその時会議室の扉が開いて、名刑事落葉拳三郎の|斌爽《さつそう》たる姿が現れた。といってもお 定まりの鳥打帽子、紺無地の|筒袖《つつそで》、|尻《しり》をからげてメリヤスの|股引《ももひき》が|覗《のぞ》いていようという|風 態《ふうてい》ながら、さすがにどことなく役者刑事は争われぬもの。 「署長、事件は解決じゃがな」 「では、だれじゃ犯人は」 「そんなものまだおりゃへんがな、これからじゃ」 「すると、自殺かのう?」 「いや他殺じゃが、まあ聞いておくんなはれ。あの太ったお|高祖頭巾《こそずきん》の女を、わしは男の 変装と|睨《にら》んだ……」 「ちょっと待ったり、たしかおまえじゃったな。ああいう玉を転がすような声は、女でも 下地がのうてはと言ったのは?」 「たしかそうでっしゃろ。だが、そこには手品がある。一つこれを見なはれ」 と落葉刑事は、懐中から直径一寸五分ばかりのゴム輪を二つ取り出した。 「なんじゃ、それは」 「ちと西洋のことも知らんではな」 と落葉刑事は署長を|蔑《さげす》むように見て、あなたはサラ・ベルナールというてもたぶん知ら んじゃろうが、そういう名前の女役者がフランスにおりますんじゃ。ところが、その女は 元来ポーランド・ユダヤでしてな、最初は男より|酷《ひど》い|濁声《だみびヰ え》がどもならんによって、当時の |国立俳優学校《コンセルヴアトワ ル》ではこの二つの|鞠《まり》を口に含ませて発声を直したとか言われておりますのじや。 さてこの二つは、あの年増女が入った路地を探しますと、|芥溜《びサびみだめ》の中から発見されましたの じゃよ、署長」 「だがなあ落葉くん、法医学教室では他殺説が疑わしいと言うとるがな」 「どもならんぞ。そんな|馬鹿《ばか》なこと言いくさっては」 「では、どこに他殺という証拠が?」 「それが洋食だす」 「なんじゃη品」 署長は|漢《はな》を噴き出して|魂消《たまげ》てしまった。 「するとあんた、サンドイッチというものを食うたことないやろうな。犯人は力士ですの じゃ。たぶん小柿はんを飽きたんだろうが、切れたら最後悪事を口走られるかと思うて考 えついたのが太鼓腹じゃ。あの合悼の中で甘いことを言いよってな。小柿はんが夢中にな って、あいさと|膝《ひざ》にしがみついたところをぱっくり人鼓腹を|被《かぷ》せよった。どうじゃ、サン ドイッチやろう。その頭が肉で、悪力士の腹の|賛肉《ぜいにく》がパンという趣向じゃ。つまり、|柏餅《かしわもち》 のように小柿はんの頭を両手ごとそっくり太鼓腹の中に収め、|隙間《すきま》を|塞《ふさ》いだもんじゃから、 呼吸をしようと大口を開きながらのお|陀仏《だぷつ》じゃ。むろんそんな風では、悲鳴を上げられよ うもないじゃろうて」 というわけで、|鼻獅子胡座右《はながじしあぐらえ》衛|門《もん》を捕縛したという、名刑事落葉拳三|郎東下《あずまくだ》りの一席。 さればこの人、老来『黒白』誌の世話をすることになっても相変わらずの脅威的存在。む かし取った|杵柄《きねづか》にて、原稿奪取の腕前いとも鮮やかなれば、まさに|驚異《エキストロ ジナリ 》!と言い つべきも、なぜか筆者にこの一談を語り終えるとはらはらと落涙し、|涕泣《ていきゆう》久しきにわたる。 筆者、|訪《いぶか》しく思うて問うに、かれ『|神明恵和取組《しんめいわきうのとりくみ》』と|微《かす》かに声を|標《ふる》わせ、やがてその意を 語るに左のごとし。 「実を言いますとな、わしの祖先というのは何を隠そう、め組にその人ありと知られた|三 河屋藤松《みかわやふじまつ》じゃが、一方奇体なことに、鼻獅子の先祖というのが|四《よ》ツ|車大八《ぐるまだいはち》なのじゃ。じゃ によって、|狐狸《こつくり》はん、わしは偶然そこで先祖の|仇《あだ》を討ったわやーい」