本朝話人伝  野村無名庵著 昭和十九年四月、協栄出版社 目 次 巻頭に一言 文耕と瑞竜(一) 交耕と瑞竜(二) 文耕と瑞竜(三) 瑞竜と竜山 立川焉馬(一) 立川焉馬(二) 森川馬谷(一) 森川馬谷(二) 三笑亭可楽(一) 三笑亭可楽(二) 桃林亭東玉(一) 桃林亭東玉(二) 東玉と伯円(一) 東玉と伯円(二) 東玉と伯円(三) 東玉と伯円(四) 東玉と伯円(五) 伯山と伯円 可楽と良斎(一) 可楽と良斎(二) 可楽と良斎(三) 南鶴と南窓 宗叔と古喜 湯島の燕晋 むらく、正蔵 三遊亭円生 講談三名誉 石川一夢(一) 石川一夢(二) 石川一夢(三) 石川一夢(四) 名人しん生(一) 名人しん生(二) 初代の南竜(一) 初代の南竜(二) 扇橋と扇歌(一) 扇橋と扇歌(二) 馬琴と北梅 潮花と花清 二代目藍洲(一) 二代目藍洲(二) 柳橋と柳枝(一) 柳橋と柳枝(二) 柳橋と柳枝(三) むらく異変(一) むらく異変(二) 典山と貞山(一) 典山と貞山(二) 典山と貞山(三) 典山と貞山(四) 一立斎文車(一) 一立斎文車(二) 竜玉と正蔵 二代目伯円 三遊亭円朝(一) 三遊亭円朝(二) 桃川大如燕 談洲楼燕枝 松鯉の伯山(一) 松鯉の伯山(二) 文治と文楽(一) 文治と文楽(二) 文治と文楽(三) 放牛舎桃林 伊東燕尾(こ 伊東燕尾(二) 伊東燕尾(三) 春錦亭柳桜(一) 春錦亭柳桜(二) 春錦亭柳桜(三) あとがき  巻頭に一言  江戸が東京となってさらに大東京に拡がり、東京都と発展して、大東亜、否八紘一宇《いなはつこういちう》の中心地 になろうという時の勢い、これに伴って何事にも浮沈消長は免れがたく、新聞雑誌あるいは単行 本の速記物やラジオの放送によって、読むだけの講談、聞くだけの講談は大いに普及発達いたし ましたが、反対にその本元たる、演者を見たり聞いたりして味わう定席の講談は却《かえ》って振わず、 講談の席即ち講釈場《こうしやくぱ》は都内にただの二、三軒という、空前のさびれ方を示すに至りましたこと、 当業者の遺憾も嚥《さぞ》かしと同情されます。もっとも数の少なくなったのは、講釈場ばかりでたく、 色物はじめその他の寄席《よせ》という寄席が、その盛んなりし昔から思うと嘘のように少なくなってお りますのは、これに代るべき大衆の娯楽場、とりわけて映画館が、非常な勢いで増加して来た影 響を、まずその原因の第一に数えねばなりますまい。  ところが昨今、決戦態勢重大時局の関係から、映画の方にも統制が行われる一方、内容的にも 転換があり、それらが動機で実演ものへ一般の興味がふりむけられた結果、講談、落語、色物等 寄席の演題も、再び時流に迎えられて興隆の兆《きざし》を示して来たとのこと、これは我ら同好者にとり 誠に喜ばしい現象でありますが、何にせよその以前は、神田の須田町を中心に、小柳《こやなぎ》、白梅《はくはい》、立 花の三席が目と鼻の近い所へ鼎立《ていりつ》し、三軒ともそれぞれ繁昌をして土地の名物にもなっていた。  それが白梅まず失《な》くなり小柳姿を消し、さらに残った立花も、数遍の代替り、三軒も一ツ所に 栄えていたのが一軒になり、つまり神田の一局部だけでもこれだけ変化があったということにな りますが、今申した三軒のうち、小柳だけは講談席、しかも由緒のすこぶる古い家で、表看板へ 大々的に「正徳四年創業」と書き出し、これを何よりの自慢にしていました。  もちろん経営者は何代も変りましたろうが、この看板が真実とすると、正徳から現代まで二百 何十年、おまけや掛値があって話半分として見ても百何十年ということになります。随分古い家 柄だと思いますが、この小柳に、その創業の始めから、ずっと伝わったという釈台がありました。 釈台とは高座で演者が前に控える机で、講談師が張扇《はりおうぎ》や拍子木で叩《たた》き立て叩き立て、調子をとり ながら弁舌を揮うには、最も肝要な道具であります。これをそもそもの創業から使ったとすると、 古来数百数十人の大家小家、名人不名人、長老末輩、有名無名の講釈師たちが、この釈台を前に して毎日毎夜弁じ立てたことを考えると、恐ろしいくらいの感じもしましたが、ひどいもので釈 台もこうなると不思議な功能を現したといいます。  何しろ何遍か削り直して、かなり薄くもなっていましたが、それでも机の表面に、ピシリピシ リと張扇の当るところは、誰が叩くにしても大てい場所がきまっていますから、そこだけが深く 凹《へこ》んで溝になっていました。そして天気の悪くなるときは自然天然とこの釈台に湿りが来まして、 まるで汗をかいたようになる。いくら拭いてもまたジットリとして来たそうで、その反対にこれ が乾いて来ると、降り続いた雨もきっと止んで、カラリとした快晴になる。それはもう判で捺《お》し たようだったと席主がいっていました。つまりこの釈台によって気象が予測出来たわけで、こう なると無心の机も何だか性ある化け物のようにも思われます。  もしもこの釈台が今まで伝わっておりましたら、写真にも撮れましょうし、実物を展覧会など へ出陳も出来ましょうが、惜しいかな、大正十二年関東大震災の時に、神田区は一番最初に火の 手に見舞われ、小柳ももちろん類焼、名物珍物の由緒古きこの釈台も灰になりましたのは、返す 返すも惜しいことでありました。  否、机ばかりではありません。この震災によって、講談や落語に関する参考書画や物品も、烏 |有《ゆう》に帰したものが少なからず、さらぬだに文献や記録に乏しき斯道の考証には、一層大きな障碍 となりましたが、幸いにもこの震火災の少し前から、関根黙庵先生の苦心してお蒐《あつ》めになった材 料及び、それによって編纂せられた『講談落語今昔讃』と申す書物が辛うじて祝融の厄を免れま したこと、まだしもの仕合せと申すべく、しかしこれが原因で先生は病を得て間もなく永眠せら れましたのは、まったく斯道のことを記録するために殉ぜられたとも言えるのであります。  爾来いささかその御遺志をつぎ、心がけて集めました材料や、見聞の筆記により、とにかくこ の名人誌がまとまった次第、努めて年代順に述べるつもりではありますが、読物としての興味も 考えねばなりませんから、記事の配置に陰陽の色どりをも配慮いたしましたので、順序の前後や 脈絡の飛び飛びになりましたところもありましょう。そこは及ぶ限り年代的な書添えをしてあり ます故、御熱心の研究家が、これによってさらに整理して下されば、講談落語年表といったよう なものも自然に出来ようと存じます。そして小うるさくいろいろと、参考になりそうなことを書 き入れましたのも、全く後世への記録資料を提供したい微衷でありますゆえ、お目ざわりの点は、 あらかじめ御寛容を願いまして、しからばこれより、そろそろ本文へ入ることといたします。   ○神田白梅亭 大正末年廃業。   ○同 小柳亭 昭和十三年廃業。   ○同 立花亭昭和十一年前席主大森氏の手より一竜斎貞山へ譲り、さらに他の手へ渡り、現在東宝の手    にて直営。  文耕と瑞竜 (一)  宝暦八年九月十六日の晩、日本橋|榑正《くれまさ》町の家主|安右《やすえ》衛|門店小間物《もんだなこまもの》屋文蔵方ヘ、多勢の聴衆が集 まりました。これは例夜の通り、ここへ出演して快弁を揮《ふる》う馬場文耕《ぱばぶんこう》の講釈を聞こうためであり ます。〔注 夜講の開始は九月十日〕  まだこの時分には専門の、寄席《よせ》という営業がなかったため、少し広い普通の商家や住宅を借り て、臨時に人寄せの場所に宛てたものと思われます。これは今でも地方などにそういう例もあり ますから、大体の想像はつきますが、馬場文耕は程遠からぬ日本橋松島町に住居《すまい》があり、ここか ら通《かよ》って出演した次第。この人本姓を中井、名を文右衛門と申しまして、生れは四国の伊予であ ります。初め通称を左馬次と申しましたが、一旦僧侶になったのを中途で還俗《げんぞく》し、江戸へ出て来 て馬場文耕と改めました。一旦坊さんになったくらいだから、仏学は元よりのこと、漢籍、易学 の心得もあり、文筆も達老で、著した書物も沢山あります。元来馬術をよくしたところへ、文も 出来るというところから、さてこそ馬場文耕という名を自選したのでありましょうが、弁才もあ るので本を書いているだけでは物足らず、多くの人を集めて講釈をやるようになった。これが宝 暦七年の春で、場所は采女《うねめ》が原の野天だったということ。但しこの人が講談の元祖ではありませ ん。元祖はもっと以前にあります。  明治十五年の八月に、警視庁から講談の営業者ヘ、「軍書講談の起原を記して差し出すように」 と達しましたところ、当業者から、 「人皇七十四代鳥羽天皇の御宇《ぎよう》、保安年中、洛陽一条の辺りに立って、天下の治乱、世の中の浮 沈を説き(中略)往来に立って講じ、人々これを聴かんとして山をなし」云々。  と仔細《しさい》らしく書き出したとありますが、何分にも見て来たような嘘をつくのが本業の講釈師だ。 はっきりとあてにするわけには参りません。元来、講談とは近世の称《とな》え方で、講釈といったのが 本統であります。つまり、軍談や物語、記録の類を講義読釈、わかりいいようにといて聞かせる という意味でございましょう、、  そもそもの始めは慶長の頃、赤松《あかまつ》法印という人が、徳川家康公の御前で、源平盛衰記、太平記 等の類をたびたび進講し、続いて諸侯にも召されて軍書を講じたのが濫膓《らんしよう》であるとしてあります。 これが正確のところらしい。}てれゆえ世間では、このことを太平記読みと申しまして、だんだん その流れを汲んでそれに倣《なら》う者が出て来た。それが講釈師の元祖ということになりますが、右の 赤松法印に続いて、赤松青竜軒という人が元禄十三年に、原昌元と名乗って軍談を講じました。 場所は堺町の葭賓《よしず》張りだということ、やはり野天であります。講談は始めが青天井の下から出発 したらしい。まことに解放的よ一ば演技であります。その系統を引いて大道講釈が、つい近世まであ ったわけで、またこの青竜軒と並んで、名和清左衛門という者も現れ、これを町講釈の始めとし てあります。ずっと後れて享保の頃には、神田白竜子という大家も出で、同じ頃浅草寺境内に、 霊全《れいぜん》という坊さんが奥山の銀杏《いちよう》の大木の下へ葭簑張りの小屋を設け、多くの聴衆を喜ばせました り、少し後には、滋野瑞竜軒、成田寿仙、村上魚淵、さては有名な深井志道軒らが出でまして、 講談の仕事は次第に繁昌の一路を辿《たど》ったのでありました。  こんな具合に各人各様、いろいろの特色をもった記録読みが、多勢現れたその中に、最も異彩 を放ちましたのがこの馬場文耕で、前申したごとく文武両道何でも出来る多能多才の代りには、 気魂《きはく》も鋭かった人に相違なく、諸侯の邸へ出入して、いろいろな内情もわかるところから、表面 は軍書批判講という名目をつけ、実は諸家の家政を批判したり何かした。秘密というと聞きたが るのが、人の欠点ではあるが共通性だから、この素っ破抜きが評判になって、毎日毎夜聴衆は殖《ふ》 えるばかり。看板も最初、「大日本治乱記」と書いて出したところ、どうも穏やかでないと差し 止められました。これは止められるのが当り前で、乱の字がよろしくありません。そこで今度は 「心学表裏話」と訂正《なお》して出した。というのは、この時分手島堵庵一派の心学が、大いに行われ ていた最中なので、それへ目をつけてこんな看板を下げたというわけ。しかも、表裏話というか らには、心学者の内幕や裏面の攻撃という意味も含まれています。またこれが聴衆の好奇心をそ そるようなことになりました。  文耕と瑞竜 (二)  果せるかな馬場文耕、こういう看板を掲げて決して心学をほめません。ここが文耕という人の 奇警なところ、心学は今日から考えましても、仏道儒教いろいろな教えを折衷《せつちゆう》し、人の我意我執 をすてさせようという、精神修養には好適のまことによく出来た教えでありまして、ことにその 道話の話し方は、軟らかでよくわかり、十分に徹底するところ、話術としても至極すぐれたもの であります。けれども世間には、またその悪口をいう者もあって、そういう連中は交耕の心学攻 撃が面白くてたまりません。我も我もと殺到して痛快がっていた。文耕もますます張り合いがつ いて、古戦記や他の物語の中へ、心学の悪口を交ぜて盛んに罵《ののし》ります。心学者連中これを聞いて 納まりません。中にはたまりかねて、談判に押しかけて来るものがある。文耕は平気なもので、 「何を言おうと、私の口で私の思ったままをしゃべるんだ。大きにお世話じゃアないか。打っち やっといてもらおう。どうも私には心学に感服しかねるところがあるから、その思った通りを述 べたまでだ。お前さん方本当に心学が腹へ入っているなら、文句なんぞはいえないはずだぜ」 「そりゃまたどういうわけで」 「だってそうじゃねえか。心学は我を忘れろ、自分をなくせというのが極意《ごくい》だろう。もっともそ れは心学には限らねえ、何の学問でもトドのつまりは、我というものをなくなそうというところ に、最後の目安があるらしいが、その心学を本当にやっているなら、何を言われたって腹なんざ ア立たないはずだ。決して逆らわず争わず、打たれたら私は構わないが、貴方のお手は痛みはし ませんか、とまで悟れというのが心学じゃアねえか。乃公《おれ》に何か言われたって、赤くなって押し て来るようじゃア、まだまだ本当の心学者とはいわれめえ。修行を仕直して出直して来たッ」  とこんな具合、その上で得意の毒舌をあびせます。突っ込んだ方が、あべこべにやり込められ るようなことになる。傍聴している他の聴衆は面白がって、一層人気が高くなるばかり、この喧 嘩腰の変った気象が、やがて自分の累《わざわ》いになりましたのは是非もないことでありましたが、文耕 も酔興で毎夜講釈をしていたわけではなく、これが営業なのでありますから、講釈場に行灯《あんどん》の看 板をかけ、これへ自分の名を大書し、その下へ、 「席料の儀は思召し次第、無料お出はお断り申上候」 「はき物お心づけ被下度《くだされたく》候」  等と書いた紙を下げました。これが寄席の行灯看板の始めとなっておりますが、この榑正町の 小間物屋《とまものや》へかかったのが、前にも申したごとく宝暦八年九月十日の晩からで、即ち夜講《やこう》でありま す。門口ヘ、 「武徳太平記、珍説|森《もり》の雫《しずく》、毎夜|暮六《くれむ》つ時より、演舌者、馬文耕申上候」  と書いた行灯を出しました。この太平記の方は何でもありませんが、後席の森《もり》の雫《しずく》が問題にな った。これが何だというと、その頃、美濃国|郡上八幡《ぐじようはちまん》の城主三万八千八百石、金森《かなもり》式部|少輔《しようゆう》のお 家に騒動が起って改易《かいえき》にたりました。その金森家騒動の実説を、早速材料として講釈に用いたか らで、何しろまだこのお家騒動が世に知られたばかり、公の裁きも落着しなければ、事件も解決 していないというのに拘《かか》わらず、勝手の想像をして、秘密になっている事柄を口演したのだから、 これは今だって問題になりますよ。そればかりか文耕は念入りにも、筆に任せてこの事件を書き 綴り、「平仮名森の雫」という小本《こほん》に印刷いたし、 「サアサア唯今拙者が弁じました金森家の一条、続きは明晩も申し上げるが、お宿元へのお土産 として委細はこれに書いてありますよ。本来は今晩おいでの方々へ残らず進呈するといいのだが、 如何せん残念ながら、部数に限りがあるから御一同へ残らずというわけに行かない。そこで怨み っこのないよう圏取《くじと》りにしてお分けしよう。お求めの方は紙代|板行代《はんこうだい》ただの三百文でよろしい」  と触れた。何がただの三百文なものか、その頃三百文といえば相当なもので、ちっともただの ことはないのですが、そこは群集心理だから、 「此方へも貰《もら》おう」 「私にも引かして……」  と人々争って圏《くじ》を引き、この小本《こほん》が飛ぶように売れました。しゃべるばかりでなく書いたもの まで出したのだから、言論の取締りの厳重だったその当時、これが官の忌避にふれないはずはあ りません。捨て置きがたしとあってここに前述の同月十六日、文耕を逮捕のため、数人の捕吏が 文蔵の席へ出張いたしました、 ○文耕の著書 「江戸著聞集」「歌俳百人選」「百化物語」「武野俗談」「愚痴拾遺物語」「武士なまり」「翁  叙論」「盲千明一論」「そしり草」、その他すこぶる多し。 ○太平記読み 元禄十五年の刊行に係る。「元禄曽我物語」巻の三に「やつす模様の旅姿、まづ大津屋弥  六は太平記読になりて、塩谷判官竜馬進奏の巻を懐中すれば」云々とあり、また「譜録集」には「昔あ  つて今無きもの、すたく坊主に太平記読」云々。 ○赤松青竜軒播州三木の郷士にて、赤松円心の末喬、また同時代に京都にも原永傷という者、やはり記  録を読みて行わる。 ○名和清左衛門京都の産、自ら南朝の忠臣名和長年の末喬と称し、出願の筋ありて江戸へ出た時、滞留  中費用に窮し、浅草見付の小高き所にて、人を集めて太平記の理尽抄を講じ、後に訴願のかなわざりし  を恥じ帰洛せず、そのまま江戸へ止り、日女軍書を舌耕して大いに繁昌す。 ○別の一説赤松青竜軒と名和清左衛門とは兄弟といい、また他の説には、清左衛門が本姓を揮りて赤松  と称し、同一人たりとも伝う。 ○太平記場清左衛門は享保二年八月中没し、その子清次郎家主を兼ね、講釈読みの業を続け、子孫百年  近くも同所に住み、世人これを太平記場と称せり。浅草見付の傍の高き所とは、見付土手の東の方にて、  のち蔵前に移りし稲荷社の旧地、天台宗にて高照山勝福寺といい、馬喰町四丁目の鎮守たりしこと古記  に見えたりと、Lかして清左衛門の講じたる理尽抄とは、寛永の頃北国に法華法印日勝という僧、名和  長年の遠縁より伝われりとて、著作したるものなりとぞ。 ○記念の石碑 「太平記場起原」の碑は安政五年の夏席主竹原常右衛門が、宮城玄魚に書を乞うて建立後、  薬研堀荒沢不動境内に移りしが、大正十二年六月三十日、東京講談組合員一同は、この碑前に集まりて、  講談祖先祭を催したり。 ○神田伯竜子 専ら大名旗本の家へ招かれ軍書講談を読み、大いに行われしが、見識ある人物にて、町家  へは招かれても行かざりしとあり、伯竜子また白竜子とも記す。 ○霊全 浅草奥山の銀杏の大樹の下に、葭費張りの小屋を設け、一人前十六銅宛の座料を取りしが、能弁  にてよく人を笑わせ、日々三百人余も聴客来集、常にここを場所とせるため、人呼んで銀杏和尚といい、  風来山人(平賀源内)のごときは、その戯著に「よごれ銀杏が弁舌には、蘇秦張儀も閉口すベし」と記  せしが、しかもいうところ皆仏道の本旨に適《かな》い、不知不識の内に人を教うるところありき。後の深井志  道軒は、全く彼を学びしものなりと。 ○滋野瑞竜軒俗称を喜内といい、如竜また如翁と号し、多く山の手辺の手習師匠の宅にて軍書を講ぜ  り。寛延三年秋「なぐさみ草」を板刻し、宝暦の初め諸方へ出席の瑚《みぎり》、これを抽筆で分ちしと。 ○成田寿仙初めの名寿左衛門、名を改めて後に惣髪となり、太閤記以外は読まざりしが、後に伊達、黒  田等の家政を講ぜしを官より止められて、以来日蓮聖人の伝記を講じて大いに行わる。 ○村上魚淵伊達評定を初めて講じたる人にて、その外諸家の家政を材料とす。席料を定めず、高座の前  に箱を置き、聴客より志を何程とても投入させ、後にそれを数えては、三分を席主に与えたりという。 ○深井志道軒 名を栄山、号を無一堂といい、以前は知足院の僧玄栄とて、成満院、護持院等の納所《なつしよ》を勤  め、遊蕩のため追放され、浮世を達観して本所石原に住み、著述を業とする内、かの霊全を学ぴて、と  ころも同じ浅草の境内に辻講釈を営む。しかも学問に造詣深く、仏門にあって悟りにも努めしこととて、  説くところ該博にて警句を連発し、滑稽の戯言を交えては人を絶倒せしめ、また手に怪しき形の木塊を  持ちて机を叩き立て、座に婦女子と僧侶のあるを見れば、口を極めてこれを罵り、座に堪えざらしめた  という。まことに一世の奇人というべく、前座を勤めさせし一子三之助は夫折、志道軒も明和二年三月  七日八十四歳をもって没せしとぞ。父子ともに金剛院に葬る。「元無草」は彼の著書にて辞世には、   東よりぬつと生れた月日さへ、西へとんとん、我もとんく  とあり、   遠近の人をたつきに呼子鳥、覚束なくも通るとし月   思ふことあるも嬉しき我身さへ、心の影の世につながれて  等皆その詠なり。平賀源内の風来山人は「風流志道軒伝」を編作し、本人父子を招待してその朗読を聞 かせしことなど、 あまねく世の知るところなり。  文耕と瑞竜(三)  馬文耕を召捕りのため文蔵方へ向ったのは、南町奉行土屋越前守手付の同心某と、その手先と でありましたが、手先はそれと心づかれぬよう、普通の町人風をしております。いずれも聴衆の 中へ交って聞いているうち、文耕はいつものごとく高座へ現れ、十分に一席弁じました。その一 席目が終って、休息のために文耕が高座を下りたところを狙《ねら》い、同心の目くばせに手先の一人が 立ち上って、 「文耕、御用だ。神妙にしろい」  激しく声をかけました。イヤ驚いたのは同席の聴衆で、すわ何事ぞと目を見はりましたが、当 の文耕はビクリともしません。静かにふり返ってジロリと睨み、 「何、御用だと。そうか、わかった。しかしマア静かにしねえ。交耕はこれでも侍くずれだ。逃 げも隠れもしねえから、弁当を使うまで待っていてくんな」  顔色も変えないで、悠々と食事を始めました。その落ちつき払った不敵の態度に、捕手もムッ としたものと見え、 「この乱心者め」  罵ったところ、文耕はフフンと笑い、 「何の乱心なものか、腹がへったから飯を食うのに不思議はあるめえ。お前たちこそ正気じゃね えぞ」  嘲《あざけ》り返して食事を終り、自若《じじやく》として縛に就きましたのは、取り乱さぬ立派な態度とほめていい やら悪いやら、思うに幾らか慢心の気味もありましたろうし、義憤を感じて講材とした金森事件 について、力を入れたあまり興奮もしていたものと思われます。小間物屋の席では大騒動、肝心 の文耕が縛られて、引かれて行ったからにはモウ講釈どころではありません。皆な掛り合いを恐 れて逃げ帰る始末、その文耕は奉行所へ引かれてからも、取調べのたびごとに恐れ入るどころか、 「揮りながら申し上げる。全体このたびの金森家事件について、幕府のお捌《さば》きには私の計らい多 く、甚だその意を得ぬことばかり、もっての外と心得ましたので、この事件の顧末を講ずるにあ たり、自分の意見も述べましたるまで、そのいずれが是なるかは、天の判断に待っ外はござるま い」  と理屈を並べ、あべこべに役人を諭じ込める始末、これではわざわざ憎しみを買うようなもの で、このために大体は、遠島《えんとう》くらいの刑で済むべき罪でありましたのを、無残にも同年十二月二 十五日、松平右近将監差図、土屋越前守様の中し渡しにより、町中引き廻しの上、浅草において 死罪獄門という重刑に処せられることになりました。それも本人ばかりでなく、家主、世話人、 貸本屋など、関係者がそれぞれ相当の処分を受けたのですから、今日から考えますと、随分思い 切った極刑を課せられたものと思われます。  つまりこれは馬文耕自身が、破廉恥な罪を犯したのではありませんが、書いたりしゃべったり したことがいけたかったので、今日でも言論の取締りはもちろん行われておりますが、旧幕の頃 は一層それが厳しかったため、これに引っかかって筆禍と舌禍とを、兼ね併せて罪になった次第、 全く題材によほど注意せぬと講演の出来なかった時代であります。  これと同じような事件がこの後にまた一つあったというのは、前に名の出ました滋野瑞竜軒、 この人の子に二代目の瑞竜という者があり、一説には佐藤某の子で、元は医師が本業であったの を、瑞竜の養子になったのだとも申し、また一説には養子でなく初代の実子で通称|甚蔵《じんぞう》、初めの 名を随宗と称したとしてあります。中途から姓を赤松と改めましたが、この赤松瑞竜の住居は日 本橋呉服町平七店で、諸侯方へも出入りし、町方の席へは夜講ばかりへ出で、その講釈ぶりも巧 かったと見えて、いつも大入りを取っていたと申すこと、記録によると文化十三年九月一日夜よ り、高砂町|寿亭《ことぶきてい》において義士伝を講じ云々と出ております。 「時は元禄十五年十二月十四日……」  と来れば、誰しもアア義士の討入りか、と早くも合点をするくらい知らぬものなき赤穂義士元 禄の快挙が、何よりも講談の読物として絶好の題材でありますことは、今さら申すまでもありま せんが、有名になればなるほど真実の事件へおまけがつき飾りがつき、本伝、外伝、銘々伝と、 上は大石内蔵助より下は寺坂吉右衛門に至るまで、四十七士の誰彼へ、いろいろな他の美談逸話 を集めて来て結びつけたのもありますので、もうこの時分には、義士伝もかなり誇張の加わった、 興味中心の面白いものに出来ていたことでありましょうσ 「それ今夜から瑞竜が義士伝を読む」  と評判が立って一層入りがふえます。瑞竜もこんたものばかり演《や》っていたら無難でありました ろうが、これも読み切って新たに気を変え、同月十八日の夜講から、同じ寿亭で新しい読物を始 めました。これが当ってなお大入りになったが、そのためにまた官のお答《とが》めをこうむり、赤松瑞 竜はからずも、縄目の苦しみを受けるということに相成りました。   ○金森騒動芝金杉の将監橋向うに上屋敷のありし、美濃国郡上八幡の城主三万八千八百石金森式部少輔    は、金森五郎八以来の名家なりしが、国政を家臣に任せて顧みざりしため、老臣根尾甚左衛門、粥川仁    兵衛、渡辺佐仲等、私腹を肥して苛政を行い、公辺の裁許を受くべき事件をも専横に取り計らい、神官    杉山左近を放逐し、吉田、白川両家の支配争いに依沽の裁断を下す等、横暴至らざるなく、ついに領内    西気良村の農民等、江戸屋敷へ強訴するに至りしを、老中本多伯書守、若年寄本多長門守、大目付曲淵    豊後守、勘定奉行大橋近江守、代官青木次郎九郎等に請託して、事を隠滅せんとせしこと発覚し、金森    家は改易となり、式部少輔は宝暦八年九月二十六日南部大膳大夫へ預けられ、事件に連座せる本多伯者    守以下前記の諸役いずれも御役御免、逼塞、所領没収等の処分を受け、その累を及ぼすところ極めて広    かりしため、天下の耳目を從耳動せしむるに至れる、かなりの大事件なり。 瑞竜と竜山 高砂町の寿亭で赤松瑞竜の講釈、 文化十三年九月十八日からの読物というと、これは看板に、 「中山瑞夢伝」と出し、中山《なかやま》物語を読んだのでありました。  中山物語と題だけを聞くと、何か上古時代の閑雅な物語のように思われますが、どういたしま してその内容のやかましいこと、即ち勤皇の精神烈火のごとき、硬骨の公卿中山大納言季親卿が 寛政五年二月勅使として江戸に下り、幕府の横暴非礼をめちゃめちゃに痛責して、将軍始め閣老 以下一同を震え上らせ、平伏して罪を謝せしめた上、朝廷よりの御要求を恐れ入って奉仕させた という、血沸き肉躍る痛快た読物でありますゆえ、事柄が事柄だけに、少々むずかしい点はあり ますけれども、日本人としてこれを聞けば、誰しもいい心持にならざるを得ません。  しかし徳川幕府にとりましては、有名な白河楽翁公の松平定信ほどな智者でさえ、道理の前に は勝たれない、問答をして中山大納言に取って押えられギュウギュウ言った、さんざんの失態を あかるみへ出されますと、まことに具合が悪くて幕府の威信にも関わります。そこで京都の人の 手になったこの中山物語の原本も、頒布をさし止めて享保年中に絶版としましたが、禁ぜられた ものは見たいのが人情、苦心をして原本などを手に入れ、それからそれへ又貸しをして、そっと 読んでいたものもあったくらい。もちろんそんなものでも見つかれば、すぐに焼捨てを命ぜられ たり、科料をとられたりしていたのでありますが、赤松瑞竜どこからこれを手に入れたものか、 この中山物語を材料にして点取りにいたし、この台本によって講釈をしましたので、サア評判に もなれば聴衆も争って押しかけたわけではありますが、その多くの聴衆の中に、隠密の役人が交 っていたからたまりません。とうとう捕縛とたりましたのが、同月二十三日、即ち中山問答を開 講してから七日目の出来事でありました。  直ちに入牢《じゆろう》を命ぜられ、掛り北町奉行岩瀬加賀守の手によって取調べられましたが、何しろ絶 版になったほどの原本を種にして読んだ講談だから、よくないには極っています。容易ならぬ罪 科とあって、重ければ馬文耕の先例同様、死罪になるか、軽くとも遠島《えんとう》は免れまいということに 相成り、実に瑞竜の危うさは、風前の灯火のごとき立場となりましたところ、この瑞竜におたみ という、当時十二、三の娘がありまして、少女ながら健気《けなげ》にも坂本町の成田不動尊ヘ日参り夜参 り、頭上から冷水を浴びまして、 「南無大日大聖不動明王、私の命はどうなりましょうとも決して構いませぬゆえ、どうぞ代りに お父さんのお命の助かりますよう、お救いを願います」  と祈誓をこめ、また町役人のところへ参りましては、 「どうか私を代りに牢へ入れて、年とったお父さんをお助けたすって下さいまし」  と哀願に及びました。この少女の詠みましたのが、   罪あらばこの身に代へていとふまじ、助け給はれ父の答《とが》めを  という和歌でありました。父を思う一心が歌にも行いにも現れております。  この至誠が人を動かさぬはずもなく、そのいじらしい有様には、見る人同情の涙を絞らぬもの とてないくらい、何人も不びんに思いましたものと見え、赤松瑞竜は江戸払いという軽い処刑で 事済みにたりましたのは、孝子の一心天に通じたものと思われます。席亭の主人伝蔵や、五人組 月番嘉左衛門も、巻添えを食って五貫文ずつの科料に処せられ、この一件十月十八日落着となり ましたが、孝女おたきはこのことによってその名を知られ、後にある大家から望まれて嫁に参り、 父瑞竜もその家から扶養を受けて、半生を安らかに送りました。これ皆孝行の徳でありましょう。  ついでながらこの瑞竜に、赤松竜山という弟子がありまして、以前は徳川の旗本だったと申し ますが、本名が詳らかに伝わっておりません。その竜山がある時、信州へ善光寺参詣に行きまし たその不在中、吉原で妓楼をしていた叔父が妻女へ不都合な行いをしたというので大いに怨み、 碓氷峠の山中でその叔父を手にかけたのであります。講談の中でこそ、そんな場面はいくらもあ りますが、自分で実演しては困ります。大胆にも赤松竜山、これほどの罪を犯しながら、平然と して席へ出ていた。ちょうどその翌年、江戸神田白壁町の席(一説には遠州浜松の席ともいう) で、いつもの通り夜講をしているうち、何と思ったか竜山が、前席の「太閤記山崎合戦」を終り 後席へかかろうという時に、目礼をして座中を見渡し、 「私もこれまで永らくの間、皆様の御ひいきを頂き、ありがたく御礼申し上げます。しかしなが ら古人の言にも、人の運命迫る時は、動ぜずしてよく修めよ。何事も天の然らしむるところなれ ば、終りを量《はか》るものこそ人中の人とも賞すべし。すべて覚悟は常にあり、と申しまする。今晩御 来客の内、私に御用の筋ありて、御出役の衆四、五人相見えます。さればこれが今生《こんじよう》のお暇乞い にも相成りましょうと存じますれば、お名残り惜しゅうはござりますが、今晩をもって読み納め といたし、これより後席一くさりにて御免をこうむります」  と妙なことをいい出したので、聴衆一同何のことやらと怪訪《けげん》に思いましたが、竜山それより山 崎合戦の続き、山路将監|討死《うちじに》の条《くだり》まで(一説には味方が原合戦ともいう)滔々《とうとう》と述べ終ったとこ ろ、果して客の中から捕方《とりかた》が四、五人、バラバラッと高座へ近づきましたのを、竜山ニッコと笑 って後ろの刀架《かたなかけ》にかけてあった大小を投げ出し、自若《じじゃく》として縄にかかったとしてあります。かく て吟味の上死刑に処せられましたが、これは文政二年八月十三日、即ち瑞竜の事件より三年後の ことでありました。  立川焉馬 (一)  本編に題して、「講談落語名人誌」と名乗りました以上、講談の方ばかり申し述ベましては片よ ります。そこで項を別にして落語の方も交互にお話を進めますが、何といっても落語道で肝要な 先人は、中興の祖と仰がれております立川談州楼|烏亭焉馬《うていえんぱ》であります。中興と申しますからには、 無論その前に始祖がある。そのそもそもの始めはというとこれがあまり判然《はつきり》いたしません。  元来、落語とは何ぞやということになりますと、思うにこれは後世の称呼《よびな》で、最初は単に、は なし、または、落《おと》し噺《ぱなし》と称えたものと考えられます。落しといい、オチといい、あるいはサゲと いう、この落の字は、落首のそれから来たという説もありますが、要するに、頓才的な洒落《しやれ》や奇 抜な変化をもって局を結び、人を笑わせる滑稽な談話のこと、これが即ち落語でございましょう。 初めは小話、一口噺の簡単なものから次第に発達して長編ともなり、種類によって、素話、仕方 噺、音曲噺、芝居噺、その他の区別をも生じたのであります。  そしてまず大体の初めということになりますと、講談がその源を慶長時代の赤松法印に発した のと同様、落語もやはり、慶長元和の頃を年の盛りとした安楽庵策伝を、その初祖と見ることが、 最も当を得ているように思われます。何しろ豊太閤が天下平定の大業を遂げ、四海ひとたび静穏 に帰し、いわゆる桃山時代の文化が昇平の華を結んだ頃でありますから、風流も遊楽も一時に興 隆したものに相違ありません。  もっともその昔、源大納言隆国卿が、毎年五、六月の頃、避暑のために宇治の平等院へ籠り、 ごく平民的に打ちとけた態度で、往来の人を誰彼となく呼び集めては様々の物語をさせ、これを 一々草子に誌されたのが「宇治大納言物語」で、その後「今昔物語」「宇治拾遺物語」等も出ま したのを、落語の始めとなす説もあり、吉田|兼好《けんこう》法師の「つれ人\草」も、これの一つに数える 論者さえありますが、どうもちと遠過ぎるお話で、やはり今申した安楽庵策伝の著した「醒睡笑」 あたりを落語の沿源と認めねばなりますまい。策伝は太閤の御前で、小さな桑の見台を据え、こ れらの本をのせて、お話を申し上げたということ、有名な曽呂利《そろり》新左衛門もこれに倣って、同じ くおどけ話を太閤へ申し上げたというので、「本朝話者系図」には、その曽呂利の名も挙げてあ ります。  ところでこれより後、延宝天和《えんぽうてんな》の頃には、京都に辻話の元祖、露の五郎兵衛という頓作軽口の 巧者が現れ、同じ頃大阪に米沢彦八という老が出て大阪落語の祖人となりました。この二人を京 都大阪の落語の初祖とすれば、江戸にもそれがなくてはなりません。これぞ鹿野武左衛門で、座 敷|仕方咄《しかたぱなし》というのを始め、またこの人に倣いまして、横山町の休慶、中橋大鋸町の伽羅小左衛門、 同四郎斎等も仕方話を演じたとしてあります。これらが江戸落語の初期時代で、その後数十年の 間一向振わなかった落語が、前に申した立川焉馬の出るに及んで、再び盛大になりまして、以来 ずっと今日に至ったのでありますから、この焉馬こそは重要な画期的人物ということになる。  もっともこの時代、即ち天明・寛政・享和・文化・文政の頃は江戸文学の欄熟期で、天下泰平 年久しく、武事を推奨した二代三代の頃と違い、五代将軍の文学勃興時代から、江戸は次第に趣 味享楽の都となり、安永の初めから、草双紙《くさぞうし》や洒落本の刊行を見るに至り、  「多田の爺、夢中山人、塩屋艶二、風鈴《ふうれい》山人、朱楽管江、田螺金魚、梅暮里谷峨、志水燕十、  恋川春町、唐来三和、振露亭、宿屋飯盛、山東京伝、為永春水、十返舎一九、式亭三馬、さて  は大田蜀山人等」  の名家大家相っいで出で、これらの多くは大てい変名で、多くは大名の御|留守居《るすい》とか、御家人 や蔵前の札差《ふださし》、文人、学者というような連中、それがこんな変名をつけて嬉しがっていたのです から、一般に洒落た世の中で、八犬伝の著者曲亭馬琴のような物堅い先生まで、正徳馬鹿輔とい う狂名で、狂文を草し、落語も作ったくらいの時勢でしたから、歌舞伎と花街と、江戸の繁華を 集めた二大歓楽境を中心に、花やかな遊楽生活が、一般を支配していた潮流に促され、粋しLも通 客も、続々輩出したはずであります。  焉馬がこの時代に出て来て、風流に長じ滑稽に富み、一代の寵児となったのも、決して偶然で はありますまい。そして天明の四年四月二十五日、柳橋の河内屋《かわちや》に、宝合せの会があり、その席 上、万象亭竹杖|為軽《すがる》が、自作の「宝合せの記」三巻を披澄し、焉馬も、自作した「花のお江戸太 平楽」の巻物を披講しましたが、そのあとで短い落語を二つ三つ演じ、来客一同に腹を抱えさせ ました。  これがそもそも焉馬という人の落語を公演した最初でありまして、天明四年四月二十五日は、 落語道の記念日と申せましょう。   ○安楽庵策伝 京都吉田に住し、本姓は平林、通称を平太夫と呼び、後に誓願寺中竹林院の住僧とたり醒    翁と号し、茶事を金森宗和に学び、常に諸侯の門に出入し殊に豊太閤に愛せらる。性すこぶる頓才に富    み、笑話に巧みなりしため、諸方に召されては座興を助けたるより、このこと大いに世に行わる。文筆    にも長じ、板倉侯のため、己れの演ずる落語を輯録して八巻の書物とし「醒睡笑」と名づけて刊行。こ    れぞ落語本上木の始めにして、元和九癸亥年に稿を起し、万治二年これを版に付せり。また即席の落語    にも長ぜしため、同じ頃滑稽の妙をもって鳴れる曽呂利新左衛門と同席しては、新左が狂歌を作るごと    に、策伝は直ちにこれへ一席の笑話を付し、互いに打ち笑ぜしという。「曽呂利狂歌話」もまた安楽庵    の筆に成れりとあり。晩年に至り聾となれるため、筆談をもって応答せしが、寛永十九年正月八日行年    八十九をもって没す。   ○露の五郎兵衛 辻噺の元祖にして、軽口頓作の巧者なり。祇園、真葛ヶ原、四条河原または北野の辺に    芝居を張り辻噺を催して世にもてはやさる。後に薙髪して露休と号し→また、露の字を二つに分け、略    して雨路とも呼びぬ。その落語を書物にして伝えたるもの、四、五種あり。元禄四年版の「露のはな  し」五冊、同十一年版の「露の新話」、宝永二年版の「露休置土産」五冊、正徳二年版の「露休はなし」  五冊等にて、露休置土産には「露とのみ消えし法師が言の葉は人の耳にもおきみやげかな」とあり、元  禄十六年五月九日没、行年六十一歳なりき。 ○米沢彦八 生得軽口話に妙を得たるため、生玉《いくたま》を定場として辻噺をなし、元禄の末より正徳年間にかけ  大いに行わる。その著せる軽口話の冊子「御前男」の序に「此頃京都ヘ上りけるに、都の若き衆、何と  彦八、難波に新らしい事はないか承はらん。さればタベ、淀川にて水が物を申しました。何と何と、水  が物いふ不思議にあらず、こちの都には、露が咄をする」とあり。没年不詳。 ○鹿野武左衛門 江戸長谷川町に住まい、塗師職を業とし、座敷仕方咄の達者をもって聞ゆ。貞享の頃、  勧むる人ありしため、中橋広小路に莚張りの小屋をかけ、野天の辻話ゆえ晴天八日間興行、木戸銭は当  時六文なりしと。「武左衛門のゐるは賑はし涼み台」、これもその頃の句なり。貞享二年「鹿野武左衛門  口伝咄」を刊行、のち元禄六年「鹿の巻筆」五冊を出せしに、折柄同年四月下旬、江戸にソロリコロリ  と呼ぶ悪疫流行、死者たちまち一万余人の多きに達せしところ、この病を防ぐには、南天の実と梅干と  を煎じて服すれば即効あること、しかもこのことは某所の飼馬が、人語を発して告げ教えたること等を  まことしやかに流言せるも(旧、あり。不安に脅えし市民等は争ってこの教えに従いしが、遂にはその方書  を小冊子として出版せるも(りさえありしにぞ。果ては地方へまでも売り弘まり、南天の実と梅干の値は  従来の二十倍三十倍に騰貴する始末となれるをもって、官にても捨て置かれず、同年六月十八日、町奉  行能勢出雲守より、その迷信なること、流言者を厳重に制裁すべきことの触書を配付するに至り、きび  しく詮議の結果、この流言の犯人は神田須田町八百屋惣右衛門、浪人筑紫団右衛門の両名なること発覚、  しかもその根もなき流言は、武左衛門が「鹿の巻筆」中に輯録したる、甚五兵衛という下廻りの役者が  馬の後足となり、ひんひんと噺《いなな》きながら舞台中を刎ね廻れる笑話に示唆を得、梅干まじないの書物も、 武左衛門が執筆せることまで告白せしにぞ、あわれや武左衛門も召捕られ、元禄七年三月士二日、浪人  の団右衛門は江戸中引き廻しの上斬罪に処せられ、惣右衛門と武左衛門は、従犯の故をもって流罪とな  り、武左衛門は伊豆の大島に流され、板木元の弥吉は江戸追放、例の薬方書はもちろん、「鹿の巻筆レ  の板木まで焼却を命ぜられたるが、武左衛門は配所にあること六年にして、元禄十二年四月、赦《ゆる》されて  江戸へ帰りしも、多年の疲労にて病を発し、同年八月五十一歳を一期として卒しぬ。 ○立川焉馬 本姓中村氏、俗称を和泉屋和助といい、本所相生町に住み、本職は大工の棟梁にて、傍ら足  袋木綿類を鷲《ひさ》ぐ。文学を好み俳譜をよくし、狂歌戯女にも堪能の聞えあり。烏亭焉馬または談州楼と号  し、狂名を本業の大工に因んで繋釘言墨曲尺(ノミノチョゥナゴンスミカネ)と呼び、その外、桃栗山  人、柿発斎等の号をも用いた。しかして「太平楽之巻物」「落語六義」、その外の著書多く、大部の「歌  舞伎年代記」を編み、劇界の重要記録を残したる功労も、よく人の知るところなり。 ○宝合せ その頃市谷左内坂の名主に、島田左内という人あり。酒を好み、面白き人物にて、酒上熟寝  (サケノゥエウタタネ)と号せしが、安永二年三月初めて宝合せの戯をなし、狂文を草せしを始めとし、  爾来各所に催されたる遊びなり。 ○太平楽の巻物焉馬の自筆にて上下二巻あり。丈《たけ》六寸ばかりの巻物にて、外箱は最初の持主たりし浅草  蔵前の札差板倉屋治兵衛の好みにや、島桐の印籠蓋へ、抱一上人の筆にて「太平楽之巻物」と六字を記  しあり。蓋の裏にはその一の筆にて、助六が蛇の目の傘を肩にして後ろ向きの立姿を描ける稀代の逸品  なりしという。しかして巻物の本文は、別に板本としても伝えらる。  さて天明の六年四月のこと、前に申した宝合せの会で好評を博したことから、ますます乗気に なりました立川|焉馬《えんぱ》は、初めて落語の会を主催することになり、万事は四方赤良《よものあから》が参謀になりま して、この催しのチラシまで書きました。四方赤良とは申すまでもなく蜀山人《しよくさんじん》大田直次郎先生の ことで、このくらいまた万能に達し何でも出来た通人は珍しい。これらが本当の先生でありまし ょう。四方赤良とは狂歌の方に用いる戯号、走書きで四方山人と書いたのを、人が間違えて蜀山 人と読んだ。大田先生横手を打って、 「ウム、蜀山人とは、それも面白かろう」  とそのまま別号に用いたのだと申します。そのくらいしゃれた先生のことだから、チラシの書 き方も面白い。 「このたび、向島の武蔵屋に、昔はなしの会が権三りやす」  という文章、武蔵屋権三郎というのは、その頃有名の料亭であります。だから武蔵屋に昔はな しの会が権三りますと、引っかけたその洒落はわかっていますが、受け取った人が妙な顔をして、 「権三りやすはわかったが、肝腎の日取りが書いてないじゃないか」 「粗々っかしいなア。落語の会だからとて、日を書き落すのはひどいよ」  いっているところへ、顔を出したのが、当時数寄屋河岸におりました鹿都辺|真顔《まがお》で、 「わかってるよわかってるよ、それは二十一日だよ」 「どこに書いてある」 「ちゃんとそこにあるではないか。昔はなしの会がごんざります。昔という字を分ければ廿一日 となるだろう」 「アアなるほど、これは趣向だな。しかしそんな当て推量をして、大きに違っていた日にははる ぱる向島まで無駄足だぜ」 「何しろマア出かけて見よう」  と当日行って見ましたら、果して会場の前に幟《のぽり》なんぞを立て、盛んな会であったと申します。  催主の焉馬や、四方赤良は申すに及ばず、朱楽管江、鹿都辺真顔、大屋裏住、竹杖為軽、津無 理《つむり》志賀多、宿屋飯盛等、狂歌の大家たちや戯作者等が百余人も集まり、立川焉馬が判者《はんじや》となって、 昔話を披講いたしました。これがそもそも落語の会の最初であります。当日は床に、桃太郎宝遊 びの掛軸をかけ、お神酒と黍団子《きぴだんご》を供えるなど、いろいろ凝った趣向があったそうで、盛況も想 像されますが、その翌年は、前年の秋に江戸中大洪水のありましたため、世間へ遠慮で一回休み、 越えて天明八年正月二十五日、向両国|尾上町《おのえちよう》の京屋において第二回を催し、この時は五代目の市 川団十郎も出席いたし、   我国のはなしに咲ける梅の花  白猿  と詠じましたのに対し、   香《か》を聞きに来る春のもろ人    焉 馬  とつけました。続いて寛政兀年二月一日には柳橋大のし富八楼で第三回、同二年と三年は前の 京屋で開会、翌年からは毎年正月二十一日を例会と定め、「来る正月昔咄の開口につき一席ずつ 披講一ム々」と書いたチラシを配り、この会を咄初《はなしはじ》めと称しました。(桃太郎の軸はこの時にかけ たという説もあります)。  ところが、寛政六年になりますと、幕府から万事簡素にという取締令が出た。有名ないわゆる 御改革のあった時だから、この連中も、咄初めというのを揮りまして、宇治拾遺物語披講という 名をつけて例会を尾上町の柏屋吉五郎方で開きました。ここにまた落語と「宇治拾遺物語」との 関係が考えられるわけでありますが、この外、狂歌雅号披露とか何とか名目《みようもく》をつけてやっていま したところ、同九年十月になって北町奉行小田切土佐守から、断然禁止の厳命が出ました。これ がため折角盛りかけた落語も、ちょいと出端《てぽな》を挫《くじ》かれましたが、そのうち享和三年になって焉馬 は正月七日、例の京屋においで.六十の賀莚《がえん》を開きましたところ、交遊広く、文名を知られた人の ことだから、四方からの祝文山をなし、余興もあって非常な盛会、これより十余年の後、取締り も緩和されたので、落語の会はまたも興隆して参り、文政三年正月二十八日、焉馬は亀井戸の藤 屋楼上に、一世一代の落語会を開催いたしました。蜀山人はこの時に、   万年の亀井戸なればおはなしの七十八と聞くはうそかへ  という狂歌を詠みました。うそかえは御案内のごとく、亀戸天神の有名な神事であります。  越えて文政五年六月二日、焉馬は高齢をもって大往生を遂げましたから、知るも知らぬも惜し まざるなく、この葬式の立派だったこと、江戸の諸名家、狂歌連、戯作者の輩《やから》を始め、落語家、 講釈師はもちろんのこと、七代目三升始め俳優が十七人も施主に立ち、三座の俳優出方関係者悉 く会葬、それを見物するもの沿道に堵《と》を築き、相生《あいおい》町から表町の菩提所最勝寺まで、路は人をも って埋められ、怪我人《けがにん》の出来る騒ぎであったと申すこと、本所深川の大工左官三百余名も同業だ から会葬し、見送りの総勢一千五百余人に達したとしてあります。焉馬は寛保三年に生れ、行年 時に八十歳、最勝寺に葬って、法号を三楽院寿徳焉馬居士と申します。まことに落語中興の祖先 たる烏亭焉馬の終焉は、花々しいものでありました。 ○武蔵屋 有名な中田屋一名葛西太郎に次ぐ料理店なるも、この頃すでに中田屋は衰微して武蔵屋が盛り、  他には大黒屋、丸屋等が知られいたり。 〇二度目の賀莚文化十一年一月、焉馬は七十二歳の高齢に達せしにつき、親友、門人等またも賀莚を開  く準備をなせしところ、その筋より「寛政九年十月中、和助事焉馬、尾上町料理茶屋吉五郎方借受、新  作落咄度々催し候に付、北町奉行小田切土佐守殿より御沙汰有之、向後左様の事致す間敷、又料理茶屋  亭貸申す間敷旨御請証文差上候処、近来新作の落し咄致し候老多く相成、心得違之者も有之候に付、以 後落噺立会不致様、神田造酒右衛門殿より名主へ申含候」との厳命到達、俄かに会場と定めし柏屋を変  更し、同月十七日に本所五つ目天恩山雁渡寺にて催すこととし、家根船、荷足船四、五艘を一つ目に繋  ぎ、柏屋へ入り来る客を、船にて五つ目へ送りし由。 ○禁令の解除文化十二年さらに重ねて、落語禁止の厳令出たるも、流行の風潮は大勢を動かし、文化十 三年には「北町役所御年寄方孫田六郎右衛門殿御口達、近頃諸方にて落噺相催し候者多く有之候、右は たわけ笑ひ、俗におどけたる噺は不宜候に付、可成昔物語忠孝の道を述べ候様、其方共より申諭し可申 御内達に付、此段御達し申候。二月六日、年番肝煎」との達しあり、即ち制限つきの解除と見るべく、 これにより落語の会は再び興隆を来すに至れるなり。  森川馬谷 (一)  時代は享保と思われますが、尾張の浪人で、森川庄左衛門という人物、江戸へ出て来まして馬 喰町の四丁目に浪宅を構えましたが、浪人のことゆえこれという生業もなく、この裏屋の表に粟 島という質屋があったので、初めのうちはそこの伜《せかれ》へ謡などを教えていましたが、家族八人ぐら し、かなりの多勢だから生活も楽ではありません。何かいい仕事はないかと思っていると、その 頃浅草見付の脇に開きの講釈場がありました。何しろ両国広小路の盛り場で、昼のうちは群集雑 踏する。それを見込んで大道講釈、いつも一杯に聴衆が入っていますが、夜になるとあいており ました。これが前にも申し上げた名和清左衛門が元禄年間に往来の人を集め、太平記を披講した 場所の遺跡であります。元より仮小屋でありますから、清左衛門亡き後は見る影もなくめちゃめ ちゃになり、わずかに昼間だけヒラキの講釈に使われていたのでありますが、これを見た庄左衛 門が、名和清左衛門や赤松青竜軒の昔を思い出しまして、 「名和という人も浪人だったとのこと、そしてここで太平記を講じた。自分も同じ浪人だから、 一っ故人に倣って見よう。何も悪いことをするのではなし、外見をいとっている場合でない。遊 んでいるよりはましだ」  と考えまして、思い立ったが吉日と、その晩からさすがに被り笠で面体を隠し、手丸提灯《てまるちようちん》を携 えてこの場所へ出張しました。何しろ夜は使わずにあいているのだから、誰も答《とが》めるものもない。 そこでよき所へ提灯をさげ、左の手へ太平記その他歴史の書物をのせ、右の手に扇子をもち、拍 子を取って叩きながら、朗々と面白く講述した。元より人通りの繁《はげ》しい広小路だから、一人立ち 二人立ち、たちまちの間に多勢が群がり立って聴聞しましたが、声は美いし調子は立っ、物知り で講談も面白いから聴衆はいずれも感服いたし、お冥加《みようか》として志の座料をそれぞれ差し出しまし た。そこは昔の人で物堅いから、無代《たた》で聞き逃げをするような風の悪い者ばかりはおりません。 庄左衛門も思いの外の収入があったので大いに喜び、その頃の四ツ、ただ今の二十二時少し前ま で読み、丁寧に一同へ礼を述べてまた明晩と帰りましたが、一日一日と次第に聴衆がふえる。所 の地主だの家主その他近所の有福な連中が、近所ではあり、立っていてはくたびれるので、自分 の家から各自縁台だの床几《しようぎ》だの腰かけを持って来て熱心に傾聴し、面白い面白いと大そうな評判、 そのうちにある晩のこと、済んじまってから有志の面々が、 「実に先生の御講義恐れ入りました。どうぞ毎晩続けてお願い申します。しかしそれにしてもこ のままではあんまりひどい。どうでしょう、手を入れて板でも張り、薄べりを敷いて皆が坐れる ように用意し、高座をこしらえて先生はその上で口演なされたら、先生もきく方も楽だろうと思 いますが如何でしょう。先生が御承知なら、我々が取り計らいますが」  と相談した。庄左衛門も喜んで、 「それは誠に恭《かたじけ》ない。何分よろしくお任せいたします」  ということになり、これから有志が金を出し合って大工を入れ、羽目や床板を張って屋根も柿《こけら》 葺でふき、雨天でも差悶《さしつか》えのない席場が出来上りました。こうなると聴衆はふえるばかり、それ からそれへと語り伝え聞き伝え、諸方から集まって参りますので、日のくれにはスグ満員になる ほどの景気。これが各自に多少ずつ志を包んで差し出すのですから、庄左衛門一晩の収入はなか なかの額に上る。聴衆の中には勧める者もありまして、 「先生どうです。何とか名をつけて出したらいいでしょう。先生を知っている我々はいいが、知 らない者は、ただ浅草見付の傍で講釈をやってる先生とばかりじゃア、何だかたよりないようで はありませんか。それゆえ何とか、先生の名なり号なり行灯へでも書いて、看板に出してはどう でしょう」  と言った。庄左衛門も道理《もつとも》と思い、 「それでは何と名をつけたものだろう」  と考えましたが、ちょっとした思いつきが成功して、案外の成績になり、毎夜毎夜沢山の収入 がある。お蔭で一家八人が楽々と今日を送ることが出来る。これはまことに幸福な次第、そこで 馬喰町に住んで、八人の口を養うという因みにより、馬谷《ばこく》という仮写を考え、森川馬谷と名乗る ことになった。これが即ち初代の馬谷で、馬は馬喰町の馬、谷は八人の口を一字につめたもので ございます。いずれも由来を聞いて感心し、 「さすがは学問のあるお武家の考え、違ったものだ」  と褒めましたが、これから馬谷という、今なら芸名だが、これをつるし行灯へ大字に認《したた》めて席 場の入ロヘ掲げたから、一層人の目につくようになりました。……と以上は筆者が先代馬琴小金 井三次郎翁から聴き取った筆記でありますが、この馬谷のことはまだ続きます。  森川馬谷 (二)  横山町、鍔店《つはたな》、 橘町《たちばなちよう》、米沢町、馬喰町、この付近一帯の人々が集まって聴聞をいたします中 にも、馬喰町には有名な郡代屋敷がありましたから、郡代伊奈半左衛門の家来など、武士も多勢 聴衆の中へ交り喜んで聞いたもので、何分にも時問が長いことだから、聴客の方でも煙草も吸い たくなる、咽喉《のど》も乾くというわけ、そこでまた有志が相談して中には大丁さんもいるから茶釜の 台などを持え、大きな茶釜を買って湯を沸かし、茶袋へ入れた茶を投り込んで煮出す。茶呑茶碗 も三、四十備え、一席ずつの合間にはその周囲へ来て休息するというような具合、毎夜済んだあ とも留守番の爺さんを置いて掃除をさせるなど、だんだん本行になって来て、盛るに従い手狭を 感じ、改築ということになった。そこで今までの仮普請を取り崩して新たに本建築にかかる。今 度は総て本式に設備もととのい、立派な席が出来ました。  .兀来この辺を鍔店と称《とな》えまして、席の両隣には楊弓場がありましたから、それに狭められて間 口は三間しかなかったが、中へ入りますと左右へ橦木《しようぎ》に拡がり十分の余裕がある。その正面ヘ高 座が出来、うしろの突当りは見付の土手ですから、夏なんぞの涼しいこと、実にいい席でした。 ここがその昔、名和、赤松等の人々の太平記を披講したあとだというので、世にこれを太平記場 と称えるようになったのでございます。  と、これまでが初代馬谷にっいての馬琴翁の談話筆記でありますが、関根黙庵先生の『講談落 語今昔讃』によると、馬谷は町医森川玄昌の次男、滋野瑞竜軒には弟に当り、俗称は伝吉といい、 初めは馬文耕の門にあったが、後に独立して一派を立てた。現今も昔からのままを踏襲している 講談席の看板や配りびらの書き方は、この馬谷がその始祖である云々としてあります。こうなる と迷いますな。  一、馬琴翁の話では、尾張の浪人で森川庄左衛門という名だといい、  二、関根氏の調べでは江戸の町医の伜《せがれ》で森川伝吉という名であったという。  三、同一人を二様に誤り伝えたものか。  四、それとも庄左衛門と伝吉は別人か。  という疑いが起ります。別人だとすれば、庄左衛門が初代で、伝吉はそのあとをついだ二代目 の馬谷かということも考えられますが、そうなるとこの初代の庄左衛門なる人の、生年も没年も 一切わかっていないのです。伝吉の方は明らかにわかって、寛政三年正月八日、行年七十八歳で 没し、浅草松葉町浄土宗清常山涼源寺に葬り、法号を松誉栄順居士といった、とまでハッキリし ております。しかして、関根先生のお調べによると、 「馬谷は、天明五、六年の頃から、読物を、初、中、後の三段に分け、軍書もの、お家騒動、世 話ものと区別し、なお前席一人を使う例を開いた。彼は文学もあり、一家の見識を備えていたが、 気性至って閥達、また壮時は酒色に耽溺して、時々持席を休んだので、彼の技芸を喜んで集まる 聴衆も、自然と愛想をつかし、不入りになるところから、終には看板の下へ『づるけなし』と書い て貼り出したという。しかして馬谷が常にいうには、講釈はかように文飾を添え、俗に直して講 ぜねば、おのおの方も退屈して面白くござるまい。よって万々承知の上でいろいろ戯言も交えて 申し上ぐるものの、正史の事実は何と申す書物には云々、何某の記録にはこれこれと出ておりま すと、一々引証して断ったと伝える。つまり、頭脳がよくてしかも物事に頓着せぬ人物であった ろう。川柳点にいう、講釈師見て来たような嘘をつき、けだしこれもまた馬谷に始まるものと思 う。著者(黙庵氏)の家父只誠、かつて山東庵京山の許で馬谷自筆の扇面を見たが、それには、   一声も二ふしものどの呼吸にて、伊勢の故事記にあいの山かも。……づるけなし馬谷君。  と認《したた》めてあったと、その筆記にしるされてある。馬谷は例年正月の初席に、   大岡仁政談。伊達大評定。理世安民記。  と三っの講題を看板に並書した。即ちこの三種の読物を、初中後三段に分けて講ずるのである が、三題の題字を合せると、大伊理となる。大伊理は大入りで、その縁喜を祝ったものであろう が、後に初代典山なども、この例に倣ったという」  としてある。この大伊理の思いつきなど、前の馬谷の名の由来と同様、まことに面白くこの辺 同一人かとも思われますが、ちょいちょい席をぬいて信用を欠き、ずるけなしと断り書きを出し たなどは人が違うようにも考えられる。しばらく記して後の叱正を待つといたしましょう。   ○馬谷の代々 この森川馬谷を初代として、二代三代四代の馬谷が相ついで出で、またその枝流をも生じ    た。二代目馬谷は初代の門人で、初めの名を馬章といい、これはヒラ場読みの上手で、山崎大合戦を読    む時など、特に別びらをまいたという。文化七年実子に三代目を譲り、自分は浅草天王町に恵比寿屋と    いう待合茶屋を出し、その後柳橋の船宿吉田屋の入聾となったが、文政の頃没したとあり、その子馬遊   が三代目馬谷をついだがこれは早世。四代目は東流斎馬琴の弟子で琴梅といい、神田佐久間町で家主を    していた。文久三年四代目馬谷を相続、その後廃業して日本橋川瀬石町に古着屋を営んでいたが、明治    十九年八月十日六十一で没ったという。  三笑亭可楽 (一) 斯道中興の祖と仰がれる立川談州楼烏亭焉馬が落語全盛の源《みなもと》となりましたものの、この焉馬 は今日で申せば落語作家でありまして、口演を営業とする本職の高座人ではありません。ここに これを本業にして寄席出演の元祖となった人があります。これは日本橋馬喰町に住んでおりまし た櫛《くし》を持《こしら》える職人で、京屋又三郎という江戸っr、やはりそういう天才が備わっていたものと見 えまして、幼少の時分から頓智頓才が発達し、ちょっとした洒落《しやれ》なんぞをいった。末恐ろしい小 児があったもので、しかもその洒落が、大人も舌を巻くくらいアクぬけて鮮やかなものだったと いうから驚きます。そんな風だから、本を読んだり物を書くことも好きで、稗史小説に目をさら し、自然と見聞も広く物知りにたって、文筆もよくしたと申します。そこへ前申し上げたごと く、立川焉馬を中心の落語が勃興して来ましたから、こういうことの好きな又三郎何でのがしま しょう。方々の会へ出かけまして、飛び入りに演らせてもらう。これはもちろん自作であります。 好きこそ物の上手なれで、たかなか巧者だからヤンヤと喝采、こうなると当人ますます熱は上る ばかりです。  ところへ寛政十年六月に、大阪から岡本万作というものが下って来た。これはその前にも、寛 政三年の二月に一度出て来まして、橘町二丁目の駕籠屋の二階を席場に宛て、夜興行をしたこと がありますが、万作は軽口頓才に妙を得た巧者でありましたから市中の評判極めてよく、二度目 にこの十年六月出て来たときは、神田豊島町藁店で、頓作軽口噺の看板を揚げ、辻々には絵入り のビラを出して客を呼んだ。これが咄の寄席《よせ》の始めであると申します。果せるかな非常の盛況、 叉三郎これを見まして、 「何も江戸っ子が上方の芸人に儲けられていることはないよ。乃公《おれ》たちも一つ、向うを張って演 って見ようじゃないか」  ということになった、これが又三郎二十三の時です。しかし一人では出来ないから、同好の友 だちを誘うと、 「よし、そいつは面白かろう-」  と賛成したものが三人ほど出来ました。同勢四人です。何か芸名がなくてはいけないというの で、又三郎は山生亭花楽と名乗り、あとは立川金升、春夏亭草露、梅亭瓢我などという面々、こ のうち立川金升は、その後間もなく廃業しましたが、草露は後に亭号を春秋亭と改めました。こ の人は櫛屋の乙次郎略して櫛乙といって、花楽の櫛叉さんとは同業であります。瓢我は後に、芝 の切通しの軍書読み鈍口《どんこう》という人の養子になり、伊東燕慶と号して有名な太平記読みになりまし たが、これは皆後のお話であります。しかして花楽を真打に、この面々が同年六月下谷柳町稲荷 杜境内の寄席へ、看板をかけて出演した。珍しいから面白がって客は相当に来ましたが、そこは 素人の悲しさ、たちまち種が尽きてしまった。仕方がないからまた同じものをやる。これではお 客も面白くないから入りが減ります。とても岡本万作の向うを張るどころの騒ぎじゃアありませ ん。とうとう五日目に看板をおろしてしまった。他の連中は、 「だから乃公《おれ》はいやだといったんだ」  などと苦情をいうものも出で.来る始末、しかし花楽はこの経験によって大分自信もつきました 上、何しろこれが大好きな道なのですから、どうかしてこれを本業にし、この道で立とうという 志を起しました。  そこで同年九月二十八日、目黒の不動尊へ参詣して所願|成就《じようじゆ》を祈り、その足で家へ帰るとバタ バタ片づけて肝心の櫛を造る本業の道具から、伝来の家財まで皆売り飛ばしちまって金子《きんす》に代え、 これを路用にして江戸を出立、芸道修業の旅に出ましたのは、思い切りのいい人もあったもので、 まず初めに辿りついたのが武州の越ケ谷です。ここで十月一日から木戸銭十二文ずつを取って開 演したところ、大そう当って大入りを占め、まずこの分では幸先《さいさき》がいいと喜びましたが、興行は 水もの、どこへ行っても当るとは限りません。いつも柳の下に鰭《どじよう》はいないとやら、ここを打ち 上げて松戸へ行くと、越ケ谷に引きかえてちっとも来ない。考えて見れば無理もありませんな。 近頃でこそラジオのお蔭で全国にその趣味が普及され、地方の辺鄙《へんび》へ行っても落語を知らないも のは少なくなりましたが、つい近年までは、地方によると、ハア落語とは何だね。怪詞《けげん》な顔で質 問するところなんぞもありました。こういうものでと話して見ると、アレマア対手《あいて》もねえに受答 えをして、ハハハ一人|狂《ぐれ》えかと笑った。狂人と間違えられては始末に悪い。こんなところさえあ ったのですから、況んや百何十年も前に、江戸以外の土地で、落語などといってもわからないの は当り前でしたろう。客も来なければ興行をしてくれるところもない。路用が豊かにあるではな し、サア花楽が進退|谷《きわ》まって大いに困った。  旅へ出て芸人に御難はつきものです。珍しくもありませんが、するとこの松戸に山口父五郎と いう人がありました。苗字のあるところを見ると、帯刀御免の名主ででもあったかと思われます。 この叉五郎さんが、こっちも櫛屋の又さんで同じ名だから、同名相あわれむという洒落でもあり ますまいが、大いに花楽に同情して、いろいろ心配してくれ、この人の世話によって、興行も出 来れば入りも取れるようにたった。すると山口氏が花楽に注意をいたしました。  三笑亭可楽(二)  それはどんなことかと申しますと、山口又五郎が花楽に向って、 「お前さんの芸名は、どういうところから考えてこれをつけたのだね」 「どうといって別に深い考えもありませんが、よくこの、山椒《さんしよう》は小粒でヒリリと辛い、なんてこ とを申します。そこで亭号を山生亭、名を花楽としましたので」 「たるほど、私もそんなことだろうと思ったよ。面白くていい名だが、どうもこの字面がいけた いね。山生亭花楽、何だか、生花か何かの師匠のように思われる。それより他の字にとりかえて はどうだろう」 「ヘエ、何かいい字がありましょうか」 「人を笑わせる落語なんだから、滑稽に縁のある方がいい。唐土に虎渓の三笑という故事もある から、それに倣って三笑亭としたらどうだね。花楽も可楽の方がよかろう」 「ハアたるほど、こりゃアどうも、ありがとう存じました」  そこで早速、教わった通りに改名した。即ち三笑亭可楽、この人が初代であり、しかも本業と して寄席へ出た江戸落語家の元祖であります。可楽はこの山口という人に、よい名をつけてもら ったりいろいろ世話になりまして、芸道の自信もつけば生活にも苦しまず、上首尾で江戸へ帰る ことが出来、それよりこれがいよいよ本業になって諸方の寄席へ現れ評判をとりまするうちに、 追い追い門人も出来て盛大になり、寛政十二年可楽が主催で落語の会を開きました時など、すこ ぶる盛会、この時の摺物《すりもの》は、深川親和の門人|華渓《かけい》という人が書画を揮毫し、立川焉馬、桜川慈悲 成、三笑亭可楽、この三人の狂歌をのせてあり、   よい落しはなしの会の桃太郎、ぢどとばズとに他から入来る  というのが焉馬の作でありました。さらに文化元年六月、下谷広徳寺門前の孔雀《くじやく》茶屋で、落語 の夜興行をいたしましたが、この時はただ、「はなし」と書いた立看板を出したところ、 「腹がへってるんだ。早くしてくれ」  と催促した客があった。これはなめしと間違えたのだたどという笑話も伝わっておりますが、 この孔雀茶屋へかかった時に可楽が、聴衆から出題を求めましたら、「弁慶」「狐」「辻君」の三 題が出ましたので、これを即席に頓作して一つの話にまとめ、その場で披露しましたので、一同 手を拍ってその奇才に感心した。これが即ち三題噺の始めであります。  そのうちに文化十一年の冬になりますと、浅草の奥山に謎ときをやる坊主が現れました。葭管《よしず》ハ 張りの小屋を設けまして、ここを常場所に曲|独楽《ごま》をしながら歯みがきの薬を売っている松井源水 と共同で出ましたが、これは十八、九の盲僧で、高座には机をひかえ、傍ヘ傘だとか下駄だとか、 菓子たどの景品を飾ってあります。  どうするのかと思うと拍子木を打って見物から謎をかけさせ、即座にこれを解いて答えるとい う芸です。もし解くことの出来なかった時は、これをお詫びに差し上げますというので、これら の景品を並べてあったわけですが、実に当意即妙うまく解いて鮮やかに答え、いかにも早くてf 際がいいから一遍も景品を取られたことがなかったそうで、聞くものいずれも、 「早いものだたア恐れ入った。何と早く解けるのだろう、春の雪のようだ」  というところから、そこで号を春雪と名乗るようになり、この謎坊主大そうな評判、その頃曳 尾庵という狂歌師が、   かけわたす春の霞にをちこちの雪さへとけて笑ふ山々  と詠んだというほどでありました。あまり評判が高いから、可楽もためしに奥山へこの春雪を 聞きに行ったところ、なるほど早いには早いが、なんぽ大道の芸でも下がかった文句ばかり言っ て品が悪すぎます。心ある者はみな眉をひそめて苦々しがっている様予がわかったから、可楽が、 「これではいけない、一っ乃公《おれ》が謎解きの見本を示してやろう」  という意気組み、翌十二年正月二日から、芝神明杜内の寄席ヘ出まして、いつもの落語の間ヘ この謎ときをはさんで中入《なかいり》にこれをやりました。いろいろな書物を読んで物を心得、懐ろが広い から叶《かな》いません。鮮やかでその上に品のいいこと、到底春雪坊主なんぞとは比べものにならない。 「さすがは可楽だ、謎も日本一だ」  と、この大評判、江戸中へ鳴り渡り、春雪坊仁も辟易《へきえき》したと見えて、その後間もなく現れなく なっちまった。 「春の雪だけに解くのも早かったが、消えるのも早かったな」  と笑いの種になりましたが、この謎解きをするので可楽の席は倍も入りがあった。しかし謎の ために客をふやしたといわれては、落《おと》し咄《ばなし》を興した甲斐がないといって、断然これをやめたとい うこと、この辺にも可楽の精神が窺われます。   ○桜川慈悲成 焉馬の門人には非ざるも、常に立川杜中にありて別に一家をたし、焉馬と共に落語を中興    したる人にて、通称を大五郎といい、宇田川町に住して彫物を職とし、桜川杜芳の門人にて戯作をたし、    最初は親の慈悲成と称せしが、後に桜川と改め、五代目白猿より芝楽亭の号も譲らる。落語の実演はな    さざりしも作話多く、門下よりは実演者も多く出で封m間となりしもあり。箒間にて桜川を名乗る者の多    きは、皆この人に流れの源を発せしものなりという。   ○可楽の落語会 文化八年の春、可楽は再び落語の会を両国柳橋の大のし富八楼上に開きしが、この時の    配り物は団扇を用い、表に喜多武清の筆にたれる、大名が遊女と禿を相手に酒宴の図を描き、裏には露    の五郎兵衛と鹿野武左衛門の落語を抄録し、これに可楽が添書せる趣味深き逸品なりしとぞ。   ○謎合せ このことの専ら流行したるは、延宝の頃よりにて、しかもその由来はかたり古く、慶長の頃洛    陽に宗鉄居士というもの謎百句を作りしとも伝え、「其後いつの頃にやありけん。なぞく何に、菜切    庖丁長刀、納戸のかき金はづすが大事、といひし昔のふりを伝へて、宝永の頃『御所謎の本』上木せり」    云々と蜀山人が「謎のことば」にも見え、この書にはなお「唐土には後漢の世、我朝には小野篁」云々    と記せるを見ても、由来きわめて古きものと思わる。しかして明和七年に至り、湯島天満宮三月の開帳    に際し、弥太坊主というもの、杜地の往来に立ちて木魚を叩き、謎を解いては鳥目を乞いたりとか。春    雪の出たるはその後なりと。  桃林亭東玉 (一)  森川馬谷現れて以来、だんだん本格の軌道へのって興隆して参りました江戸の講談界には、相 ついで幾多の大家上手《たいかじようず》を出しましたが、その中でもズバぬけて、名人の誉を得ましたのが桃林亭 東玉であります。  天明六年の生れで通称を阿部桃次郎といい、若年の頃は禅宗の坊さんだったのが、還俗して聖 堂学問所の小使に住み込み、子、れから独立の講釈師になって初めの名を塚田太琉と申しました。 何分にも話術には天成の妙を得ていて凄いほど巧く、元来講釈は堅苦しいものとしてあったのを、 この太琉は女子供にもわかりやすいよう、小説物語に模して和らげて講演しましたので、これが 時世に適《かな》って婦女子の聴衆も数多聞きに来るようになった。講釈が、堅い読み口から現今のよう に通俗に変って来たのは、この人から始まったのだと申します。  後に名を改めて初めは桃林亭桃玉と号しましたが、まことに素行が修まらないというのは、酒 はそれほどでなかったが至っての勝負好きで、年中それがためにピイピイしております。何しろ 相当の年になってからでも、これほどの大家でありながらその日の米にまで差支えたことであっ たというのですから、賭事のために始終貧乏していたものらしい。しかし食わずにはいられない。 「伜《せがれ》や、ちょっと来な」  呼ばれて参りました二人の男の子、桃次郎の子だからというので総領を桃太郎とつけ、そのま たあとへ男の子が出来たから今度は金太郎とつけた。十軒店《じつけんだな》へ行ったような塩梅、その桃太郎と 金太郎に、 「お前たち御苦労だがな、ちょいと平松町の小父さんとこへ行って来な」  と申しましたのは、その頃平松町に小金井|北梅《ほくぱい》という、これまた当時の大家がおりましたから で、そこへ米を借りにやろうという考え、小児は毎度のことだから、 「お父ちゃん、またお米を借りに行くのかえ」 「アアそうだ。早く行きな」 「いやだい。いつもいつもキマリが悪いや」 「キマリの悪い奴があるか。お前が借りるんじゃアねえ、お父さんの使いだ」 「なおいけねえや」 「仕様がねえな。よしよしそれじゃア乃公《おれ》が、ちょいと手紙をつけてやろう」  端紙《はがみ》ヘサラサラと認《したた》めまして、 「サァこれを持って行きな」  と出してやりました。二人の少年よんどころなく、北梅の所へ来て、 「小父さん今日は」 「オウよく来た、何だ何だ」 「あんまりよくも来ませんよ。ちょっとこれを見て下さい」  差し出したから北梅が開いて見ると、 「一升の米あるならば貸し給え」  としてあります。思わず吹き出した北梅が、 「相変らずだなアお父さんは……しかし人のことは言われねえ。面目《めんほく》ねえが、小父さんとこも同 じくなんだ。ちょいと待ちな」  筆を染めてその下へ、 「我等も無くてままにならない」  とつけたという洒落《しやれ》た話が伝わっております。年配になってさえそのくらいだ。況《いわ》んや若い時 分はなお乱暴です。江戸を飛び出して旅を廻り、足を止めたのが常陸の水戸で、寄席の楽屋へ泊 り込んで外出もしません。出られないわけで、先生ここでも取られて裸になっていたのです。  ところへ俄かに水戸様のお犀敷からお召の使いが来た。もっとも当人講釈は巧いのですから、 聴客《きやく》は毎夜多勢来て大そうな評判、その中には御家中の侍もおります。その人々が感心をして、 御殿へ出てはその評判をするのが御隠居烈公|斉昭《なりあき》様のお耳に入って、さてこそその者を召せとい うことになった次第、席亭も喜んで早速このことを取り次ぐと、どこへも出られず夜具へくるま って楽屋にクスぶっていた桃玉が、 「どうも折角だが、乃公は窮屈な所が嫌いだから断ってもらいたい」  というのを、そんなことをいわないでと席主が勧める。当人も渋々起き出しては見たが着物が ありません。拠所《よんどころ》なく寝巻の上へ楽屋にあった赤合羽を引っかけて、のこのこお屋敷へ出て来た には御家来方も驚いて、 「何ぽ何でもこの扮装《いでたち》ではひどい、拙者のお小屋まで参れ。衣類を貸して遣わそう」 「イエ思召《お しめ》しはありがとうございますが、私は我儘もの、どうも借着というやつは、心持が悪く ていけません。土台、私は講釈をやるために来ましたんで、服装《なり》を御覧に入れに参ったのではご ざいませんから、これで悪かったら御免をこうむります」  という挨拶、帰られては困るから、それではというので御前へ案内をしたが、ちょうど夏のこ とで、御隠居様は葭戸越しにお聴きになる。夕景ですから桃玉の左右へ燭台を立てるのだが、ア ラが見えるといけないから、なるたけ灯火《あかり》を離してボロの目立たないようにする。イヤもう御家 来方は大へんな苦心であります。  桃林亭東玉 (二)  本人は澄ましたもので、それから稻々と読み始めたが、実にどうも弁舌流るるごとく、古今の 名人でありますからその面白いこと、曲録《きよくろく》にもたれてお聴きになっていた烈公様がことの外の御 満足で、一席が済むと今一席をという御所望、よほどお気に入ったものに違いありません。二席 の立て読みが済むと御隠居は思わずホッと息をおつき遊ばし、 「さすがは江戸の軍談師、天晴《あつばれ》の者よ」  と御賞美になったが、御家来方は赤合羽がお目ざわりになりはしないかと、ヒヤヒヤハラハラ していましたところ、豊《あに》はからんや御隠居様のおっしゃるには、 「さてさて講釈師などと申すものは、面白い風采をいたしておるものじゃの、余の面前へ出ると いうので、今日は朱の被布《ひふ》を着て参ったのは珍しい」  とおっしゃった。怪我の功名赤合羽が、御隠居には大そう立派なものに見えたのでしょう。こ れには鉄面皮な桃玉も、いささか冷汗をかいたそうですが、御隠居は重ねて、 「あの者は何と申す」  というお尋ね、そこで近習から、桃林亭桃玉と御披露をすると、 「ウム桃玉とは桃の玉か。しかしまことに名誉の芸であるから、今日から文字を改め、東の玉と 記して東玉と名乗れ」  という仰せ、当人もまことに面目を施して上々の首尾で御前を退《さが》り、これから東玉と改名した のですが、烈公様から芸名を頂いたのだから大したもの、これが御縁になってその後両三度お召 しになり、沢山な頂戴物をしたから、こうなるとモウ赤合羽で御前へ出る必要もなく、スッカリ立 派に服装も調って、ようよう江戸へ帰ることが出来ました。もちろんこのことが噂になって一層 の高評、その頃は昼席も一人の真打で一年乃至永いのは三年間も、同じ看板をあげて打ち続けて いたのですから、芸も巧く材料も広くなくては、その永い間|保《も》ちこたえることが出来ない。力量 のすぐれた人ばかりであったことも想像されますが、さてその東玉が今度は一っ大阪へ行こうと いうことにたって、江戸お名残《なごり》の読切《よみきり》を催しました。読切というのは今なら講談大会というよう な具合、名人大家が一堂に集まって全部出演をする。座料も高い代りに顔揃いで面白いから、聴 衆もウンと来る勘定であります。数多の上手が代る代る登壇して得意の弁舌を揮った最後に、い よいよ真打の東玉が上る。この席は神田新石町の立花亭で、東玉の読物は得意の得意とした文覚《もんがく》 の荒行《あらぎよう》でありましたが、名人の芸というものはえらいもので、東玉がこの荒行のところを読んで、 「那智のお山の峰々に、雪|鎧々《がいがい》とふりつもり、肌をつんざく山颪《やまおろし》は、五体の血汐も凍るばかり、 滝の飛沫に巌石の、氷柱は剣の林のごとく……」  とその場の光景を手に取るように弁じていると、時は七月の中旬で夏場の昼席だから、ごく暑 い盛りです。聴衆一同みんな暑がって市場の若い衆たんぞは威勢がいいから、大肌ぬぎで聴いて いましたのが、だんだんと講釈に釣り込まれ、次第に何となく寒さを覚えるようになり、肌をぬい でいた連中はそろそろと肌を入れるやら、中には萸盆《たばこぽん》を膝へ抱え込んであたる者さえある始末、一 同暑いどころではなくなって身体を堅くして聴いていたところ、いよいよ講談が進行して文覚が、 「荒縄をもってギリギリと腹を巻きつけ、必死の覚悟を極めたることにして鈴《れい》をロヘくわえ、合 掌のまま身を躍らせ、ザンブとばかり滝藍へ……」  飛び込むという条《くだり》になり、 「高さは四十九丈に余り、幅は四十九間に至る、梛智の大滝物凄く、九天直下百雷の響をなし、 ドーッという水の音……」  と、ここまで弁じて来ると、こは如何《いか》に、高座の一番前に坐っていた一人の聴客がウーンとい うと仰向けに引っくり返り、口から泡を吹き出して気を失いました。サァ満場総立ちの大騒ぎに なって、モウ講釈どころじゃアありません。そのまま中止して打ち出しましたが、席亭も驚いて 急病人の手当をする、楽屋からも皆出て来て介抱したので、ようやくに正気づいたが、だんだん 聞いて見ると、この人は性来の水でんかんであったということ、水癩摘《みずてんかん》といえば海とか川とか湖 とか、大きな水溜りを見ると病の発作するものですが、目の前に本物の水を見たのではなくとも、 東玉の講談が真に迫って、あたかも那智の大滝が目前に現れたように思い、持病が起ってこの始 末とわかりました。もって如何にこの人の芸が神妙の境界に入っていたかが察せられます。話を しただけで人を気絶させるなどというのは大した芸術もあったもので、これは後世に伝わった有 名な逸話であります。  これより東玉の大阪行となりますが、この名人を続《めく》って、伯山伯円腕くらベという物語、これ は事実へ脚色を加えて申し述べることにいたします。   ○東玉の信条東玉あるとき門人の東円に教えていうよう、「同業の中には、講釈師は芸人でないなど、    身分も一格違うよう自惚れで、いるものあれど、それは心得違いなり。講釈師は学者にはあらず、されば    楽屋を学屋とはいわぬなり。同じ楽屋ならぽ落語家も講釈師も平等ならん。すべて講釈は面白くよむべ    し。誰は名人也上手也と誉められたら、追い追い客はへるものと思え。表面には容儀を整えても、裏は    飾り高ぶるべからず」と。また一家の見識を見るべく、東玉は文章もあり絵も画き、風流の嗜みもあり。    若き頃、ある婦人のため欺かれし時「美しき草にとげあり紅の花」と詠じ、また、ある席主の妻の多弁 を戒めて「風鈴もしやべり過ぎてはかしましい」と詠めりという。嘉永二年八月十九日六十四歳をもっ て没し、本所柳島本経寺に葬る。法号を智光達道居士。辞世に曰く「人問は間友達どもが迎ひにて浄土 の席を打つと答へよ」。  東玉と伯円 (一)  江戸軍談神田派の開祖、伯竜先生に三人の高弟がありまして、一番弟子を伯鶴《はつかく》、次を伯海、三 人目を伯山《はくざん》と申します。この中の伯海という人は、南伝馬町一丁目の講談師、堀川嘉兵衛の伜で 本名を源次郎、男前が好くて気が利いている上に、芸もキビキビして歯切れがようございます。 従って三人のうち一番人気があり、師匠も可愛がっておりましたが、いわゆる粋《すい》が身を食うとや ら、持って生れた美貌が累《わざわ》いして、どうも品行が修まりません。見るに見かねて伯竜が厳しく意 見を申しましたところ、年は若いし鼻息は荒い。 「べら棒めえ。江戸ばかりに日は照らねえ。乃公《おれ》だけの伎禰《うて》がありゃア、どこへ行ったって立派 に一人前の講釈師で通るんだ。面白くねえから上方《かみがた》へでも行って見よう」  無分別にも遠走りをすることにきめた。するとかねて伯海の源次郎に女の方から打ち込んで深 い仲になっていたお梅という、これは両国の並び茶屋へ出ていた女ですが、その頃の人気役者瀬川 菊之丞に生写しというところから、路考《ろこう》のお梅と呼ばれたほどの美人です。このお梅が源次郎に、 「お前さんが上方とやらへ行くなら、私も一緒に連れて行って下さい。私は一日でもお前さんと 離れてはいられないよ」  とせがんだ。 「冗談いっちゃアいけねえ、上方までお前なんぞに行かれるものか」 「何のお前、行けないことがあるものかね。私ア川崎という所まで、お参りに行ったことがある よ。随分遠かったが、上方は川崎よりもモット先かえ」 「何を言やがる、それだからとても駄目だてえんだ。大阪までは百三十何里、幾日も幾日も、泊 りを重ねる長旅だぜ。っい隣りみてえな川崎と一緒になるかえ」 「オヤマァいやだよいやだよ。そんな遠い所へ行っちまうのなら、なおのこと私はお前を一人で は手離せない。どんなつらい辛抱でもするから連れて行っておくれ」  お梅が泣いて頼みました。伯海の方でも出来ることなら別れたくはない。十分に心残りのあっ た場合ですから、それではというので、酷《ひど》い工面をしてお梅に店から暇を取らせ、手に手を取っ て東海道を大阪へ参りましたのが、嘉永二年のことでありました。  夫婦とも初めての土地とて心細くは思ったが、同地の席主やら講釈師仲間の世話でとりあえず 二階借りをいたし、伯海は寄席へ出演しました。「芸人に上手も下手《へた》もなかりけり、行く先々の 水に逢わねば」などと申すものの、やはり巧いものは、どこで誰が聞いても巧いと思うには相違 ありません。最初のうちはお馴染も薄くてやりにくかったが、だんだん叩き込んで来るうちに、 「さすがに江戸前の講釈師、さっばりとして結構やなア。大したもんや」  追い追い評判を取るようにたりました。ところが伯海の源次郎、これがこの人の病と見え、 だんだんとお尻が温まるに連れ、そろそろ持ち前の道楽が始まりました。何だというと、飲食《さけ》に 女狂《おんな》に勝負事、いわゆる飲む買う打つの三拍子が揃っているのだから始末が悪い。サアそれから それと遊び廻って、寄席も打《ぶ》っこぬけば宅《うち》へも帰らないという乱行が次第に募って参りましたか ら、女房のお梅が心配いたしまして、 「講釈師も芸人であって見れば、交際《つきあい》でお酒も飲まなくてはなるまいし、遊びにも行かなくては なるまいから、私は決して嫉妬《やきもち》らしく止めやアしません。けれどもどうか勝負事だけは、御禁制《ごはっと》 を破ることでもあり、お願いだから止めて下さいねえ」  泣いて意見をしたのだが、伯海の源次郎、どうも思い切れたいと見えて相変らず、賭場入りを しては借金だらけになっております。それがために仲間の受けも悪く、客の評判もよろしくない。 本人ますます自棄《やけ》になって、自堕落に身を持ち崩していると、ある日のこと伯海が博変《ばくち》に負けて スッテンテンにたり、荘《ほん》やり帰って来た佗住居、 「オイお梅、……今帰ったぜ。-…何でえ、……夕方だってえのに灯火《あかり》もつけず、真暗じゃアね えか。第一陰気くさくていけねえ。早くどうにかしろ間抜けだなア。・…-オイ、いるのかいねえ のか、……何を押し黙っていやアがるんだ」  ブツプツ言いながら行灯に探りよって灯火をつけて見ると、お梅の姿が見えませんから、 「何だ、いねえのか、いなくちゃアなるほど返事も出来なかったはずだ。銭湯へでも行ったのか な。……階下《した》の小母さん、女房《うちのやつ》はどこかへ行きましたか」 「アア伯海さんでしたか、お帰りなさい。サアお梅さんはどこへ行きましたかねえ。お昼前から 出たっきり帰らないんですよハ、アアそうそうお出かけの時に、貴方《あんた》がお帰りなすったら、これを 上げてくれとおっしゃって、この書状《てがみ》を置いて行きましたよ」  階下《した》の女房が何心《なにげ》なく、封書を一通差し出しました。  東玉と伯円 (二)  受け取った源次郎、ハテ何であろうと怪訊《けけん》た顔をいたし、封押し切って見ればこは如何に、 「想い合って夫婦になり、大阪|三界《さんがい》まで一緒に流れては来たものの、とてもお前さんには末の見 込みがない。愛想が尽きたゆえ、私は今から別れて江戸へ帰ります。どうぞ、これまでの縁と思 ってくれ」  という意味が認めてあります。びっくりした神田伯海、あまりの突然《だしぬけ》だから不意を食って、狼 狽と同時に激しい憤りを感じ、 「畜生、何てえ我儘女だ。自分の方から是非連れて行ってくれとせがんだから、乃公《おれ》は随分不義 理な思いまでして、彼奴《あいつ》を自由な身体にしてやったんだ。今さらになって、行く末の見込みがね えとは何をいいやがる。ようし、見込みがあるかねえか、これからの乃公をよく見ていろッ」  腹立ち紛れに神田伯海、これからは道楽もやめ、熱心に高座へ身を入れ出しましたのは、いわ ゆる心機一転と申しましょうか。元来上手《もともとじようず》なのだから勉強すれば客に受けます。受ければ席主も 喜んで優遇する。看板の位置も進むというのは当然の結果。 「伯海さんは客取りだ」  と仲間からも羨まれるくらい、本人も面白いからますます精を出し、押しも押されもせぬ一方 の真打にたって好評を博しておりますうち、気がついて見ると江戸を離れてから、もう足かけ五 年になりました。 「アア師匠や家の者たち、朋輩の連中なんぞはどうしているか、乃公を棄てて逃げやアがったお 梅の奴、どうしやアがったか」  などと考えますと、故郷|忘《ぼう》じ難しとやら、サア俄かに江戸へ帰って見たくてたまらなくなりま した。大阪の連中は惜しがって引き止めましたが、こうなっては帰心矢のごとく、 「また出直して参りますから」  と振り切るように、久々《ひさぴさ》で江戸へ帰って参りましたが、当今と違って東海道を百三十里の旅行、 随分昔は億劫《おつくう》なことだったろうと思われます。それだけに懐かしさ嬉しさも深かったはずで、よ うやく江戸へ着いて見ると、何しろ五年という年月が経っておりますから、その間には様々の推 移があり、様子も大分変った中に、何よりも驚いたのは、師匠の神田伯竜が、先年世を去ったと いう一件。 「エエッ、それほどのお年でもなかったに、アア乃公は恩師の死も知らず、うかうかと旅の空で 自儘をしていたのか。申しわけがない」  とさすがに胸を打たれ、早速仲間に逢って、 「して師匠のあとはどうなったろう」  聞いて見ると、 「されば一弟子の伯鶴さんは、故郷の常陸《ひたち》へ帰って師匠の名をつぎ、水戸伯竜と呼ばれていると いうこと、その次のお前さんは上方《かみがた》へ行ったとばかり、くわしい様子は少しも知れず、そこで三 番目の伯山さんが、大先生の没後《あと》を引き受けて、神田一門の総帥《たぽね》をしています。それがために弟 子分は八十何人、今この江戸4し神田伯山と来ては、一流の大看板ですよ。お前さんが真面目で江 戸にいなされば、貴方があの人の位置になれたものを、惜しいことをしましたねえ」  という返事。 (エッ、伯山が……アア乃公《おれ》もそうすればよかったんだ)  と今になって悔やんでも遅まきです。 (あの不器用な伯山が、神田派の頭になって大看板たア、やっばり運だなア)  と思いながら、その夜今川橋の染川《そめかわ》というこれは有名な講釈場ですが、前を通って見ると下足 が鈴|生《な》りになって、一杯の入りらしい。軒には伯山の一枚看板が堂々と揚げられております。思 わず腕を組んで見上.げた伯海が、 「なるほど噂に聞いた通り、伯山はえら^いものになっちまったなア。五年振りで乃公が江戸へ帰 って来たと知ったら驚くだろう。楽屋へ訪ねてやろうかしら……」  と考えたがまた思い直し、 「イヤイヤ、今さら伯山に逢ったってどうなるものじゃアない。伯山が師匠の死水を取って、今 の位置にたった以上、そこへ師匠の死んだのも知らずに江戸を不在《るす》にしていた乃公が面《かお》を出せば、 兄弟子ながら頭が上りゃしねえ。また、あらためて江戸の席へ乃公が出るとすれば、いやでも伯 山の下位《した》へつかなくてはならぬ。そんな見っともねえことが出来るものか。アア夢にまで憧れて いた江戸へ帰れて嬉しいと思ったも束の間、これはまた上方へ帰って、彼地《あつち》で家業をするの外は ねえな」  物淋しくも思案をいたし、力なくここを立ち去りましたが、どっちを向いても面白くないこと だらけ、ムシャクシャして堪《たま》りませんから、十軒店《じつけんだな》まで来てヒョイと見ると蕎麦屋があったので、 これへ飛び込み、 「天ぬきか何かで、一本|熱燗《あつかん》をつけておくれ」  隅へ陣取って飲み始めました。 東玉と伯円(三)  しかしお酒も気分のものでありますから、心に憂いがあってはいくら飲んでも、 いが発しません。伯海は思わず太い息をつきまして、 理に落ちて酔 「アア考えて見れば乃公が莫迦《ばか》だったなア。僅かばかりの芸に自惚《うぬぼ》れて師匠に逆らい遠っ走りを し、我儘《わがまま》勝手に振舞った報いはテキ面、女には逃げられる、大恩受けた先生の御臨終にも居合わ せず、弟|弟子《でし》に先を越され、五年振りに帰って来ても、今じゃア忘れられて馴染もねえから伯海 さんかと声をかけてくれる客もなし。この間を無駄に過ごし、いわば棒に振ったようなものだ。 こんなことなら帰って来るんじゃなかったけ」  独言《ひとりごと》に眩きながら、苦い顔をして盃を傾けておりました。すると表の障子をあけて、 「今晩は……」 「オヤ、これは先生、いらっしゃいまし、サアどうぞ、こっちがすいております」 「相変らず繁昌で結構だね」 「ありがとう存じます、お誹《あつら》えは!」 「ア、いつもの通り早いとこたのむよ」 「へえ畏《かしこ》まりました。あられ^ぱーい。お銚子つき!」 「へーい」  ニコニコしながら上って来たそのお客が、隅にいた伯海を見つけると、 「オウ、こりゃア珍しい、そこにいるのは源ちゃんじゃアないか」  と声をかけましたのは、これぞその当時日本一といわれた講談の大家、桃林亭東玉と申しまし て、ある夏の暑い盛りに、文覚上人《もんがくしようにん》那智の滝の荒行を読んでいたら、肌ぬぎになっていた聴客《きゃく》が 寒さを感じて肌を入れ、煙草盆《たばこぼん》を引きよせて抱えたばかりか、水でんかんの人が、話を聞いただ けで大滝の落下を目に見るように覚え、高座前で目を廻したという、殺人的の巧さを持った技芸 入神の名人であります。その大先輩に声をかけられたのだから、場合が場合で伯海は感激いたし、 「アッ、東玉先生、どうもお久し振りでございました」 「イヤ、本当にしばらくだったな、いいよいいよ、乃公《おれ》の方からそこへ行こう。……オイ、出来 たらこっちへ持って来ておくれ。ここで一緒に飲むから、-・…オットット、来た来た。サァ一っ 行こう、マァいいやた、受けておくれ」 「恐れ入ります」 「恐れ入らずにドンドンやっておくれよ。しかしよく帰って来たなア。上方ヘ行ってたとか聞い たが、大阪かえ」 「左様で"こざいます。とうとう足かけ五年も彼地《あつち》へ腰を据えちまいました」 「そうかえ。イヤ大阪も芸をよく聞くところだよ。だが、何といっても江戸っ子にはやはり江戸 がいいなア。乃公もちょいと上方《あつち》にいたことがあるが、どうも彼地の土になろうとまで思わなか ったな。何もお世辞だから乗り込みの時には……富士筑波棄てて見に来た天保山……という句を 摺物《すりもの》にしてな、これを土産《みやげ》に大阪入りをしたら、大そう土地の人に喜ばれたが、その大阪にも飽 きが来て、いよいよ江戸へ帰る段になったから……唐人も見たがる富士の見えぬ国……と、悪口 を書いて立って来た。あとでみんな怒ったそうだよ。ハハハ、こりゃア怒るのが当り前だ。あの 時分の乃公も若かったから、することは乱暴だったわな」 「イエ、先生にそうおっしゃられると、耳が痛うございます。若者の無分別とは私のこと、折角 皆さんからお引き立てを受けながら、師匠に背《そむ》いて家を飛び出し、江戸へ寄り付かなかったお蔭 には、師匠の死に目にも逢うことが出来ず、弟弟子の伯山にさえ、面目なくて逢えやアしません。 身から出た錆《さぴ》、自業自得《じごうじとく》といいながら、先生私は恥をかきに戻ったようなものでございます」 「何だな源ちゃん、よしねえよ見っともねえ。お前《めえ》いつの間にか泣き上戸《じようご》になったな。景気が悪 いじゃアねえか確《しつ》かりしな。世間の運不運だ、仕方がねえやね。間が悪くて弟弟子にお株を取ら れたのも、その時の成り行きじゃアねえか。芸人は芸だ。芸さえ巧けりゃア看板なんぞはどうで もいいんだ。お前《めえ》ほどの腕を持っていれば、天下にこわいものはねえはず、アア乃公ア先からお 前には目をつけていたんだよ。敗けねえ気になってウンとふん張り、伯山でも誰でもみんな見返 してやんねえ」  激励されて伯海の嬉しさは如何《いか》ばかり。 「先生、アアよく言って下さいました。お蔭で私は、力がついて参りました。この勢いで上方へ 帰り、モウ一息頑張ります」  いうと東玉が首をふって、 「何をいうんだ。そりゃアいけねえ。今さら大阪へ帰《けえ》ってどうするんだ。これでお前がスゴスゴ 上方《あつち》へ引き返して見な。それじゃア戦争《いくさ》は敗けじゃアねえか。ここまで乗り込んでおきながら、 そんな意気地《いくじ》のねえ奴があるかえ。江戸にいな。江戸の席へ出な。江戸で新規まき直しに出世す るんだ」  グイグイと酒を煽《あお》りながら、東玉は伯海を励ましました。 東玉と伯円(四)  伯海の源次郎は自分のかねて崇拝する、名人の東玉にこうまで言われて見れば、その気にもな りましたものの、 「しかし先生、大阪と違ってこの江戸では、先生を始め名人|上手《じようず》、大看板の先輩方が、雲のごと くに多勢おいでのところへ、私のような若輩が帰《かえ》り新参《しんざん》で出たところで、昔のお馴染には忘れら れていましょうし、とてもそれは駄目でございましょう。第一、掛けてくれるお席亭もなかろう と思います。それとも恥を忍び面をかぶって、空板《からいた》二つ目からやり直しましょうか」 「オイ源ちゃん、気の弱いことを言っちゃアいけねえ、身の程知らずの天狗《てんぐ》慢心は大禁物だが、 正しい自信は強く持っていなくちゃアいけねえぜ。お前の腕なら確かなものだ。乃公が太鼓判を 押して請人《うけにん》になろうじゃアねえか、そうして中入前でも何でもスヶて上げようから、そのつもり でドシドシどこへでも売り込み、看板を上げて見なせえ、必ず乃公が尻を押すぜ」 「エエッ、せ、先生、そ、それは本当でございますか」 「本当だともよ、下らねえ駄目を押しなさんな。ウーイ、痩せても枯れても、桃林亭東玉、揮り ながら天下の御記録読みだぞ、うそや冗談は言わねえから安心しな」  ハッキリと請け合ってくれたから、この頼もしい一言を聞いたときの、伯海の歓喜《よろこぴ》はいかばか り、天へも上る心地がいたし、 「アッ、ありがとう存じます、先生、こ、この御恩は忘れません」  感きわまって男泣きに声をあげましたのも道理千万。伯海はここに芸名も、桃林亭に倣《なら》って松 林亭、伯海を伯円と改めまして、天下の名人東玉を後楯《うしろだて》にたのみ、そのまま江戸ヘふみ止まって、 奮闘することと相成りました。その東玉が口を添え、 「大そうな先生が現われたぜ。乃公《おれ》が前をスヶるから、騙《たま》されると思って一度打って見な」  と売り込みますから、席主の方でも安心して応じるような次第、初めて松林亭伯円という看板 を上げましたのが、芳町《よしちよう》にありました釜金《かまきん》という講談席。その頃は講談大全盛の時代でありまし たから、江戸市中に全部で二百六十何軒という講釈場があったそうで、況《いわ》んや芳町のような繁華 な場所、一町内に三軒も四軒も同業があった。釜金のすぐ向う側には、松川という大きな席があ りまして、ちょうどここに出演しておりましたのが、伊東|燕凌《えんりよう》という大看板、これは七代目市川 団十郎が、歌舞伎十八番の「勧進帳」を劇作いたしました時、大体は能楽《のう》の「安宅《あたか》」から取りま したが、その「安宅」にもない山伏問答の条は、この燕凌の講談に基き、そのままを取り入れた のが今日に伝わっているのだと申しますくらい、年中乗物で諸家諸大名のお屋敷へ招かれ、上等 のお座敷ばかり勤めている先生ゆえ、従って見識も高く、寄席へ出ても外の席よりは倍額の木戸 を取り、 「伊東燕凌先生御出席……」  などと張り出したくらい、イヤえらい威勢でありますから、煙に巻かれて入場者も多い。その 松川の直ぐ向側へ、初お目見得《めみえ》の新人伯円が出たんですから、それはよほど骨が折れます。 「オイ、伯円てえのは何だえ」 「あんまり聞かねえ名だなア」 「見ずてんで飛び込んで、ひどいヨタ物だった日にゃア恐れいるからのう」  と二つ足をふむ客が多い。けれども中には、 「いいじゃアねえか。たとえ真打が食わせ者で拙《まず》かったにせよ、前には名人の東玉がスケている んだ。東玉だけ聞いたって損はねえ。入って見よう入って見よう」  とこれは東玉だけの信用で入るのもあります。その頃は講談席も、ただ今のように多勢は出ま せん。せいぜい空板とも五人ぐらいのもの、その代り皆長講にタップリやります。もっとも講談 の本当の味は短くては出ません。いよいよ中入前に東玉が上ると、 「さてお客さん、向うの松川には、御承知の通り燕凌が出ていますが、燕凌はいうまでもなく大 家です。年中|駕籠《あんぽつ》に乗って楽屋入り、といって腰抜けでもなければ中風《よいよい》でもない。まさに二本の 足で歩けるのだが、それでアンポツヘ乗るのはこれは金があるからだ。但し金持だから芸も巧い とは限らない。芸と金とは別物だよお客人、しかし木戸も高いところを考えるとやはり芸は上手                                     bたし 次んだろう。その高い木戸銭の半分が、乗物の代へ廻るんだか何だか、そこまでは東玉も知らな い。知らないことはロヘ出せないが、知ってることは請け合えますよ。当席の真打初お目見得の 松林亭伯円、これは若年ではありますが、講釈の巧いことは私が保証します。これを魚に讐《たと》える とネ。燕凌は鯛でしょうね。本場だか場違いだか、見ただけではわからない。伯円は秋刀魚《さんま》です。 味は巧くとも下魚《げうお》ですが、但しこの秋刀魚はハシリですよ。権助の惣菜には、チトなりかねる代 物《しろもの》さね」  と皮肉交りの日上を述ベました。  東玉と伯円 (五)  名人東玉にこのくらい折紙をつけられれば聴衆《きやく》も信用します。非常な期待を持って真打の伯円 を聞いて見ると、イヤなるほどその巧《うま》いこと、年こそ若いが達者なもので、しかも古今の能弁で す。もっとも講釈師にしろ落語家《はなしか》にしろ、弁が悪くっては話術家にはなれませんが、その中にも 伯円は無類の快弁、かの赤穂義士伝のうち、寺坂吉右衛門が但馬の出石《いずし》へ注進に行き、大石の 妻女や母親、子供並びに妻女の父親や兄さんなどに向かい、大石内蔵助以下四十有余名の義党の 面々、吉良上野介の邸へ討入りの模様を物語るところなど、 「頃は元禄十五年|極月《ごくげつ》中の十四日、軒の棟木《むさぎ》に降りつもる、雪の明りは味方の松明《たいまつ》、同一体の黒 装束、襟には白き布をつけ、表門には大将として、お頭大石内蔵助様を始め、小野寺十内秀和殿、 堀部弥兵衛金丸殿……」云々。  と、四十六人の名から扮装《いでたち》その戦器《えもの》、討入りの次第、働きの様子、首尾よく本懐引き上げの顧 末まで、息もつかせず酒々と美文に読み上げ、満場の聴衆一同を悦惚《うつとり》とさせながら、ポーンと鮮 やかに張扇《はりおうぎ》を入れて、 「なんぽ吉右衛門でもこうは喋《しやべ》れなかろう」  と笑わせる具合なんぞは、前代未聞と申すべきほどでありましたから、イヤ一同の感心したこ と士暑んだこと。 「さすがに名人東玉が請け合ったほどあって、イヤ大したものが出て来やがった。今に伯円も東 玉同様の日本一になるだろう」  と毎夜の大受け大喝采、たちまちこの評判が八方に聞えまして、釜金《かまきん》の席は満員を続けました。 伯円の喜びは讐《たと》うるにものなく、 「ありがとう存じます。これも先生のお蔭」  と礼を申しますのを、 「おれのお蔭ということがわかったら、恩に着せるわけじゃアないが、乃公《おれ》にスヶの給金として、 一日一両払ってはくれまいか」  と東玉が切り出しました。当今の一円とは違います。木戸はせいぜい三十六文が普通の相場と いう時代に、一両の金は今日の五十円にも匹敵したか知れません。第一それだけ持って行かれて は、残りがなくなるどころか、足りなくなる恐れさえあります。伯円も驚いたが、 「いやならよしなよ、スケてやらねえばかりだ。それが口惜しいと思ったら、乃公をスケに頼ま ずとも、早く自分一人で客の呼べるようになれッ」  と東玉が申しましたのは、どうやら冗談ではなく真剣らしい。伯円も江戸っ子だ。歯を食いし ばってじっとこらえ、 「先生、何でいやだなどと申しましょう、私の看板だけでは、一人の客も呼べない新顔、どうか いつまでもスケに出て頂きとう存じます、必ず一両宛は差し上げますから……」  と両手をついて頼みました。サアこの約束に基いて、いやでもそれだけは払わなくてはなりま せん。伯円も四苦八苦の苦しみをしたが、 「伯山を見返すほどの位置に漕ぎつけるまでは、あらゆる銀難《かんなん》に勝たねばならぬ。何のくそ、こ れが長期の建設だ」  と頑張りました。この精神ではいやが上にも芸道上達せざるを得ません。果せるかな松林亭伯 円の声望は隆々として旭のごとく、 「伯円は名人だ。伯円を聞かなくては、講談の通《つう》は並べられねえ」  ワッと江戸っ子の支持を受け、飛ぶ鳥落す人気とは相成りました。伯円も自分ながら意外に思 うくらい。ちょうど月末で休みの日に、その伯円の八丁堀の住居へ訪ねて参りました東玉が、 「イヤ伯円さん。恐れ入ったな。モウ今日では乃公《おれ》がスケなくとも大丈夫になった、否《いや》乃公みた いな年寄は、スケない方が邪魔でなくていいくらいのもの、モゥ来月からどうか乃公を楽にして はくれまいかな」 「飛んでもないことをおっしゃいます」 「イヤそうでないよ。息抜きに私は休ませてもらいたい。それをお頼みに来たんだが、いいだろ うね」 「困りましたなア。私の今日ありますは一にも二にも先生のお蔭、その先生のおっしゃることを、 背《そむ》くことは出来ませんが……」 「出来ませんなら背かずにいうことを聞いておくれ。ところでモゥ一っのお頼みというのは、伯 円さん、お前さんもここらで一っ、身を堅めてはどうだろう。景気のいいのは表面《うわべ》ばかり、今ま では私が上り高のほとんど全部《のこらず》を引っさらって来たようなものだから、お前さんの懐《ふとこ》ろも、さぞ 苦しかったろうとお察しする。それがため、無いが意見の総仕舞いで、さすがのお前さんも道楽 が出来なかったらしい。その堅いところを見込んでな、是非|女房《かみさん》になりたいという女があるんだ よ、何と私がお世話をするが、貰《もら》ってやってはくれまいかな」  と東玉が、笑いながら縁談を持ち出しました。 伯山と伯円 頭をかいた松林亭伯円、 「私に娯《かか》アを持てとおっしゃるので……」 「そうなんだよ。ついては江戸っ子は気が早いや。善は急げと実は乃公がな、本人を連れて来て 門日ヘ待たせてある、ちょいとどうか、顔だけでも見てやっておくれ。……オイオイ、花嫁さん や、ハハハ、初心《うぶ》らしく何もはにかむには当らない。サアサア、構わずこっちへ入んなさいよ」  東玉に呼び込まれてオズオズと、門口から入って来た若い女、その顔見るより伯円が、 「アッ、お前はお梅……」  と驚きますのを、 「オットット、マアなにも言いなさんな。この女は断っておくが初縁じゃアないよ。最初は神田 伯海というやくざに惚れて上方くんだりへ、駈落ちまでして夫婦にはなったが、亭主が道楽者の ためにさんざん苦労をしたのだそうな。いかに意見をしてもその男が肯《き》き入れないところから、 心を鬼にして愛想《あいモ》尽かしの手紙を突きつけ、独りで江戸へ帰って来たものの、憎くて別れた仲で はない。どこまでも自分はあの人の女房、どうか夫が改心して真面目に家業を励んでくれますよ う。腹を立てて他のお内儀《かみ》さんを持てばそれまでのこと、決して恨みとは思わないが、折角人に すぐれた伎禰《うで》を持っているのだから、品行《みじよう》を堅く慎しんで立派な大先生になってくれますようと、 その日以来断ち物までして今日まで信心を続け、一日も怠らないという、亭主思いの感心な貞女 だ。そのお梅が不思議にも私の女房《かない》の実の妹と、その時知れたのも尽きせぬ縁、どうかこの女の 真心を受けて女房に貰ってはくれまいか」  説明されて伯円は、初めてお梅の真情がわかり、夢に夢見る心地であります。お梅は言葉もた く泣くばかり。伯円は頭を下げ、 「先生、何から何まで一方ならぬお心尽し、アアありがとう存じます。そんなこととも知りませ んで、薄情な奴、不実な女と、今の今まで恨んでいました。お梅、お前にも苦労をかけて済まな かったな」  許してくれと手に手を取って、夫婦は嬉し涙にくれる。打ちうなずいた東玉が、 「ハハハ、済まなかったと気がついたら、これから心配をかけぬよう、可愛《かわい》がって仕合せにくら しなさい。さア、そうめでたく話がきまれば、お仲人《なこうど》は宵の内、お開きとしてこの品はた、お嫁 さんからの持参金、結納《ゆいのう》代りに納めておくれ」 「オヤ、先生、この金子《きんす》は……」 「ハハハ、お前から貰った一日一両の給金がたまりたまって一百両。駈け出しの若い真打に貧乏 させるのは殺生だと、気のつかねえ乃公じゃアないが、道楽者のお前に初めから懐ろを楽にさせ ると、またそれが害をして、折角の覚悟に油断が起き、途中で挫けちゃア何にもならねえ。そこ で乃公が給金として根こそぎ取り上げ、お梅のために積んでおいたのだ。今あらためてお前へ結 納、世帯を持っ足しにしておくれ。ハイ御免よ」  サッサと帰っちまった。呆然として暫くは後見送っていた伯円が、ワッとばかりに男泣き、金 子の包を頂戴《おしいただ》き、感謝感激に五体を震わせておりましたが、この徹底した親切を身をもって行っ た東玉は、ただに芸ばかりの名人ではなかったと見えます。  松林亭伯円、お梅とあらためて新家庭を営み、東玉先生の芳情に報いずんば人でないと、ます ます伎《わざ》を研きましたから、その評判はいよいよ高くなるばかり、ところがこの伯円の出現によっ て恐慌を来たしましたのは、神田伯竜のあとをつぎ一門の長《おさ》となった神田伯山です。ひどいもの で次第に客が落ちて来た。八十人もの弟子を抱えて、気が気ではありません。伯円も自分の好敵 手ながら気の毒に思いまして、東玉に、 「今度は伯山が私を恨んでいましょうね」  と申しましたところ、 「イヤそんなことはあるまいU可哀想にお前のお蔭で一時は評判も人気も落ちたが、それも却っ て伯山のためには薬だろうよ。あの男には、また盛り返す時が来る」  と申しました。なるほど名人の予想に違《たが》わず、一時悲運に悩んだ伯山、 「能弁第一の伯円を向うへ廻し、これヘマトモに打っかっては、到底こっちに勝味はない」  とさんざん工夫をこらした結果、とうとう巧みな対抗策を考え出しました。それはどんたこと をしたかと申しますと、伯円の能弁に対し伯山の方は、ブッキラ棒にポツリポツリ、だらすこと を考えたのでございます。 「そんた莫迦《ぼか》な奴があるものか。だらしたら聴客《きやく》は退屈して、なおなお評判が悪くなろう」  と仰せられましょうが、そうでないというのはこれが苦肉の計略で、最初《はな》のうちはポツポツデ レデレ、時々は紙片《かみきれ》を出して紙繕《こより》をこしらえ、それで耳の穴を掘ったりしながら、至極のんびり と口演したから、サア聴客はじれったがるまいことか欠伸《あくび》交りでつまらなく聞いているうちに、 中頃からだんだんに調子をととのえて来ます。前がだらしてあるだけに引っ立って、 「オヤオヤ大分油が乗って来たな」  うつらうつらとしていた聴客も、坐り直して耳を立てるような塩梅、その潮合を見はからって、 次第々々に活気を加え、スピードも早めてトントントントン畳み込んで来るから聴客《きやく》は、完全に 引きずり込まれて緊張いたし、息をも吐《つ》かぬ面白さが、最高潮に達したところで、 「さてこのあとがどうなりますか」  と余情を残してポーンと切る。その読み終りの巧さがまた無類だったところから、自然と翌日 を待つようなことになり、十分に深い印象と感銘を与えましたので、 「ウーム、伯山は巧いなア」  と評判を取るようになりましたのは、やはり伯山も一方の名人だったに相違ありません。とり わけて大岡政談の天一坊のごときは、伯山得意中の大得意で、 「伯山は天一坊で土蔵《くら》を建て……」  と川柳にまで詠まれましたことは有名であります。伯円がつくづく恐れ入って、 「東玉先生が、伯山はあのままには亡びぬ。今にぎっと盛り返すとおっしやったが、どうしてそ んなことまでわかったろう」  と不審に思うのあまり、質問したところ東玉が、 「何の、あの男は、師匠伯竜に対して一番忠実だった。看病もすれば、死水も取り、生前も死後 も師匠の面倒をよく見た上、門下を皆引き受けて世話をした。骨も折れたろうが、その徳が皆あ の男に報うて来たのだ。この徳行に対し、天が何で伯山を不仕合せにするものか」  と申しましたので、伯円は一言もなく、 「アア、芸人はやはり芸が巧いばかりじゃアいけないんだ。徳を行って人物が出来上ってこそ、 その人の芸術も光を増すのだなア」  と初めて覚ったと申すこと。爾来、両名人が打ちとけて、水魚の交わりをいたしたこと申すま でもありません。  まずは江戸末期の講談全盛時代における、初代東玉、同じく伯山、並びに初代伯円の、三大家 をめぐる名人くらべのお物語でございます。  可楽と良斎(一)  さて、また前へ戻って可楽《からく》のお話、元来その頃は寄席の看板やビラに、「おとし噺《ぱなし》」と書くの が例になっておりましたところ、人というものは妙なことを気にするもので、 「どうもおとすという言葉が面白くないねえ。話をおとすトタンにお客も落ちて、入りが少なく なった日にゃア目もあてられない、縁起が悪いから字を直そうじゃアないか」 と言い出す者もあった。それは可楽の門人中でも、有名になりました夢楽《むらく》であります。なるほ どというので、それからは看板の文字を改め「昔はなし」とするようになりましたが、ある時こ の看板が、時の公方《くゴう》のお目に止りました。即ち徳川十一代将軍|家斉《いえなり》公であります。不審に思召《おほしめ》し たものと見え、 「昔はなしとは如何《いかが》なものじゃ」  とお尋ねがあった。そこでお傍の家臣から説明を申し上げると、 「ホホウそれは面白そうじゃの、一度その昔はなしとやらを聞いて見たいものじゃ」  仰せ出でがあったから、そこで当事者へ御沙汰になり、人選の結果、御前へ召されましたのが、 三笑亭可楽を始めとし、初代|円生《えんしよう》、初代正蔵の三人、これがそもそも、落語を公方様のお聞きに 達した最初であります。まことに名誉のこと、円生も正蔵も、後に申し上げますが、皆可楽の門 弟でありまして、可楽が当日の演題は「将棋の殿様」であったと記録にあります。しかし考えて 見ますと、この将棋の殿様という話は、大名気質を讃刺したおどけ話で、殿様の我儘《わがまま》が主題にな っているのですから、殿様の元締ともいうべき将軍家がこれを聞かされては、少々耳も痛く、く すぐったかったかも知れません。  何にしても当時、公方様をまともに見ると目がつぶれるとまで畏敬していた将軍から、お召し に預って御前口演をしたとなれば、可楽ばかりでなく、落語道の光栄でありますゆえ、大そうな 評判になったこと申すまでもなく、これを初めにその後もしばしばお召しにたり、三笑亭可楽は 日の出の勢い、するとある時、この可楽が日本橋小田原町の席へ出ておりますと、客席の一隅に、 見すぽらしい服装《なり》をした一人の男、他の客の陰へ身体を隠すようにして、熱心に可楽の噺を聞い ております。どう小さくなっていても、高座へ上れば、高いところから見下すのですからじきに 見っかります。もっとも高座へ上って芸をしながら、お客の顔がわかるようになれば一人前で、 初心のうちはどういたしまして、力ーッとなって何もかもわからず、どんな人がどのくらい来て いたのやら、モヤモヤチラチラちっとも見えやアしませんが、そこは場馴れと老巧であります。 三笑亭可楽が噺をしながら心中に、 (ハテどこかで見たような!)  と思ったも道理、この人こ}て、十数年も以前に下総《しもうさ》の松戸でいろいろ世話になった山口又五郎 であることを、すぐに思い出しましたから、サアなつかしくて堪りません。真打の高座を勤め終 って喝采の裡《うち》に打出しとなるや、すぐと楽屋から木戸へ廻り、多勢の客に交って帰ろうとする山 口氏へ、 「もしもし松戸の旦那ではございませんか」  声をかけて引き止めました。又五郎、面目なさそうな顔をして、 「ヤレ見つかったかえ。仕様がないな。かねて師匠のお盛んなことは噂に聞いて、アアいい塩梅 だと喜んでいたが、ちょうど今日、席の前を通りかかると看板が出ていた、なつかしさの余りと うとう飛び込み、十何年ぶりの久々《ひさぴさ》で師匠の話を聞きましたが、イヤお世辞ではないがあの頃と は大そうな違い、身体に自然の貫禄が備わって立派になりなすった上、噺の巧くなったこと、ア ア真の名人だなと恐れ入りましたよ。しかし多勢いる客の中で、よく私のいるのがわかったもの、 忘れずにいてくれたことは又五郎嬉しく思いますよ」  と手をとらんばかり、目には露さえ光っております。可楽も胸が一杯になり、 「飛んでもないこと、何で忘れていいものでございましょう。三笑亭可楽という自分の看板を見 るたびに、アアこれは松戸の旦那に教わって、山生亭花楽という先の文字を今のこの字に直した のだ、あの時は御厄介になったなア、自分が今の仕合せも、まったくあの時の御恩だと、忘れた ことはございません。通りがかりにお入り下さるくらいなら、何で楽屋へ訪ねて下さいません」 「イオ乃公《おれ》も、訪ねたいのは山々だが、以前と違って又五郎もいろいろ事情があって、今ではこ の有様、尾羽《おぱ》打ち枯らした姿をして、師匠に逢いたくはなかったからだよ」 「それは旦那、あまり水臭いというものでございます。何はともあれ、ここではお話も出来ませ ん。どうぞひとまず、私どもへおいで下さいまし」  遠慮する又五郎を、引きずるようにしてわが家へ伴い帰り、手厚く往年の恩を謝したという美 談もあります。 可楽と良斎(二) この心がけなればこそ、 三笑亭可楽は立川|焉馬《えんは》と相並んで、 落語中興の功労者と仰がれるに至 ったのでありましょう。しかして前に述べた夢楽を始め、林家正蔵、三遊亭円生、翁家さん馬 (もちろんいずれも初代)、さては百眼《ひやくまなこ》の元祖三笑亭可上など、皆可楽の門人でありまして、こ の人々の門下からまた幾多の大家小家を出しております。  同じくこの可楽の弟子に良助《りようすけ》という人がありまして、これは、神田松田町の貸本商、梅沢勘平 の伜《せがれ》としてありますが、可楽の弟子になって菅良助と名のり、寄席へ出ていた頃の彼は「今戸の 狐」という落語の主人公になっております。  どうも落語とは申しながら、これは恐らく、事実の話をそのまま高座へ出したのではなかろう かと思われるほど、当時の落語家生活を描写してありますから、先刻御存じの方々には御容赦を 願って、ざっと粗筋を申しましょうなら、橋場の裏長屋に住んでいた良助が、寄席へ出ても人気 は出ず、下廻りでは収入も少ないので、それだけでは食べて行けません。そこで人に勧められ、 場所がらだけに例の今戸焼の、狐の彩色という手内職を始めた。これが相当の小遣銭になる。し かしいかに末輩でも芸人ですから、多少は世間への見栄もあるので、他人に見られぬよう、入口 の雨戸をピタリ閉め切り、家の中でコソコソやっていたのを、誰知るまいと思いきや、表の雨戸 はしめても台所の引窓には気がつかなかった。開け放しの引窓から、この手内職を覗《のぞ》き込んだの が、向うの家の妻君で、二階の物干へ上って見下したから、良助の家の中も一ト目に見えたので す。この妻君は元|小塚原《こづかつばら》に勤めをしていた上りですが、なかなか世帯持ちのいい感心な女で、私 にもその内職をやらせて下さいと良助に頼みました。見られたとあれば仕方がない。それでは世 間には内分でと、このおかみさんも狐の彩色を始めたところ、女の手先は器用だから、問屋では この方が受けはいいくらい、良助も敗けまいと、相変らず人目を忍んで狐の内職を励んでいたの は、困《こま》ればこその気の毒なこと、同じ落語家でも、師匠の可楽の方はまるで生活が違います。中 橋《なかまし》に小縞麗な住居を構え、内弟子も三、四人います。この弟子たちが毎夜寄席の中入りで、景物 の籔《くじ》を売りました。  昔の寄席では、下廻り連が必ずこの籔売りをしたもので、有名な寺門静軒《てらかどせいけん》の著した「江戸繁昌 記」にも、当時の寄席の有様を記した項に、 「此時を名づけて中入と日ふ。技人即ち物を懸けて圏《くじ》を売る。圏数百本、初め数枚を連ねて値十 数銭、葉に照して貨を献ず」云々。  とあるくらいですが、客も圏に当ったとて、そんな景物なんぞ欲しがりゃアしません。お前に やるよ、てなことをいう。これが皆、前座連の利得になったもので、つまりホマチであります。 それを内弟子たちが、寄席をはねて帰ってから、師匠の家の二階で分配するのですが、夜更《よふけ》にチ ヤラチャラと銭勘定、四隣《あたり》に響くその音を聞いて、ニヤリと凄く笑ったのが、この土地のゴロツ キで、てっきり内会と見当をつけ、翌朝因縁をつけに行きました。つまり、 「お前のところでは、世間へ内緒《ないしよ》で、御禁制の勝負事をしているだろう。そういうことをするな らするように、この辺を縄張りの乃公たちへ、ワタリをつけてもらいてえ」  という強請《ゆすり》に行ったわけであります。物堅い可楽は、もっての外と立腹しましたが、気の利い た弟子が代って挨拶に出まして、ピョコピョコお辞儀で額を叩き、 「エッヘヘヘヘ、代り合いまして……」 「何だ汝は、師匠を出せえ」 「マァ貴方、そう野暮に大きい声を出すもんじゃアございませんよ。お静かに願います」 「何も話せえわかりゃア事を荒立てようとはいわねえ、お前のところで毎晩毎晩、きつねか何か 出来るんだろう」  と突っ込んだのは、このきつねというのも勝負事の一種なのだそうで、それを弟子の方はうま く逃げて、 「それは飛んだお門違い、噺家の家で狐の出来ますのは、私どもではございません。橋場《はしば》の良助 の家でございます。世間へは内緒にしておりますが、良助の家へ行けば、いつでも出来ていない ことはありません」 「本当か、そいつはありがてえ、いいことを教えてくれたな。そうとは知らねえから、騒がして 済まなかった。それじゃアこれから、その家へ行って見よう」  とゴロツキは教わった通り、良助の家へ来て見ると、表の雨戸がピタリ閉まっています。世間 へは内緒といい、昼間からの戸締り-…、いよ"よやっているに相違ない。しめたしめたと奴さ ん士暑ぶまいことか。 「オイ、ちょいとあけてくんな。乃公《おれ》ア心配の者じゃアねえ。中橋の可楽のところから聞いて来 たんだ」  小声で訪れると良助が、 「ヘエヘエ、これはどうも、ただ今ただ今」  と塗りかけの狐や絵具を急いで傍らの押入れへ隠し、これか ら滑稽な問答が始まります。 ようやくのことで雨戸をあける、  可楽と良斎 (三)  ヌッと土間へ入ったゴロツキが、四辺《あたリ》を見廻しましたが、何しろ九尺二間の裏長屋、鼻がつか えそうな狭い家です。怪訊《けげん》な顔をしながら声を潜めて、 「実は中橋の師匠の家で聞いて来たのだが、お前の家できつねが出来るそうじゃねえか」 「エッ、誰がそんなことを申しました。あれほど日止めをしておいたのに、いかにお喋舌《しやべり》が家業 の落語家とはいいながら、秘密《ないしよ》のことをうかうか話されては困っちまうなア。そう何もかも御承 知なら、今さら隠し立てをしたって仕様がありません。包まずに申し上げますが、実は出来ます のでございます」 「エッ、本当かえ」 「ヘェ、面目もございませんが、噺家《はなしか》だけでは食えませんから……」 「ウムウムそうだろうとも、無理はねえ無理はねえ」 「しかし親方、どうか世間へは御内聞に」 「いいってえことよ、心配しなさんな。そんな野暮なことはしねえ。そうかえ、マア本当でよか った。ここまでやって来た甲斐があるというもの、それで何かえ、今日も出来てるかえ」 「ヘエヘエ、出来ておりますよ」  とこの問答、一っ間違ったのがどこまでも間違って行き、ゴロツキの方では、勝負事のきつね と思い込んでいますが、良助のいうのは今戸焼の狐たのです。そうとは知らないから、 「今日も出来てるとはありがてえ。それで何かえ、顔は揃ってるかえ」  と尋ねるのを、 「こりゃアどうも恐れ入りました。貴方はなかなか急所をお聞きになりますね。初手《はな》のうちは、 この顔がなかなか揃わないものでして、それには私も困りましたが、習うよりは馴れろとやら、 お蔭様でこの頃は、大分顔が揃うようになりまして、金箔《きんばく》でも銀箔でも、何でもやれるほどにな りました」 「エェッ、金張りに銀張り、どうもこれは驚いたな。そんなのが出来るのか、どうだろう良助さ ん、済まないが一|把《わ》でも二把でもいいから、心配してもらえまいか」  といったのは、カスリを欲しいという講求なので、一把二把とは鳥目《ちようもく》のことですが、良助の方 は勘違いをし、 「折角ですが一把だの二把だのと、そんな半端ではお断り申します。せめて一|百《そく》とか二百とか、 まとまっておりませんと、お受け合いは出来ません」 と答えたのは、無論狐の彩色の注文と思っての返事だったのですが、ゴロちゃんの方は目を丸 くし、 「ギエーッ、一|百《そく》だの二百だのと、そんなに吹っかけてもいいのかえ。何だか話がうま過ぎて気 味が悪いな。しかし、見かけたところ狭い家だが、全体どこに出来ているんだえ」  と不審がるのを、 「ヘエ何出来てますのは、この戸棚の中です」 「アア押入れの中に忍びの梯子段でもあって、隣の二階へでも行けようてのか」 「何の、そんなことはございません」 「マア何でもいいや、ちょいと乃公《おれ》に見せてくんねえか、壊《こわ》しゃアしねえから」 「当り前ですよ、段《こわ》されてたまるものですか。ただ今出してごらんに入れます」  と押入れをあけ、ヘエこれでと出したのが、即ち今戸焼、今ぬりかけのお狐さまです。相手は 二度びっくり。      ぱか                               おもちや 「ヤイヤイ莫迦にするな。何でえこりゃア、乃公がきつねといったのは、こんな焼物の玩具じや アねえ。乃公の言うのはコッの費《さい》だ」 「アア、こつのさいなら、お向うのおかみさんでございます」  これがこの「今戸の狐」という落語のサゲになっております。このサゲは甚だ手際もよろしか らず、少々こじつけでもありますが、それまでの運びは、滑稽も上乗なもので、その上前にも申 しました通り、その頃の落語家の生活を十分に描写してあるところ、交献的価値のある落語だと 思います。  けだし、良助自身が、自分の体験へ多少の脚色を加えまして、この話にまとめたのであろうと 思われますのは、この良助という人が、多分に創作の才を持ち合せておりましたからで、しかも、 そんた才分はありながら、文を綴ってものを書くことと、人にそれを話して聞かせることとは、 また別の技巧が備わるものと見え、良助は結局、落語家としては成功しませんでした。そこで天      ていはり                            けんこんぽうりようさ… 保の末年に剃髪して軍書読みに宗旨を変え、名もそれらしく改めましたのが、即ち乾坤坊良斎で あります。  しかし講釈師になっても不弁のため、高座はあまり振いませんでしたが、前述のごとく創作の 才があったので、盛んに世話講談の種をこしらえ、自分も演《や》れば他人にも供給し、これが今日ま で伝えられている物も少なくありません。全くこの人は、台本作家としての功労者でありました。 しかして良斎は、万延元年八月十三日九十二歳の高齢を保って没し、浅草阿部川町天台宗延命院 へ葬り、法号は乾坤坊良斎更勝居士と申します。  なお、初代可楽は良斎よりずっと前に、天保四年三月八日五十八歳をもって没し、今戸慶運 寺々中潮江院へ葬り、法号は三笑亭安誉可楽居上、「人ごみをのがれて見ればはなし塚」これが その辞世でありました。  南鶴と南窓  講談の勃興につれ、講釈師も多勢出て来ました中に、神田辺羅坊寿観(カンダベラボウスカソ) という、大そう長い名前の先生が現れまして、その門流が二派に分れ、甲は上二字を取って神田《かんだ》 と名乗り、乙は次の二字目と三字目とを姓として田辺と称した。これが神田派と田辺派の起りで あって、神田派の始祖は前述の伯竜、田辺派の祖人は南鶴である、とこういう言い伝えになって おりますが、残念千万にもこの辺羅坊寿観という人のことも、初代南鶴のことも、ただ幕府御家 人田宮某(一説には小高某とあり)とのみで、判然としておりません。  よくわかっておりますのは二代目の南鶴からで、諸説を綜合しますと、二代目田辺南鶴は、尾 州藩の浪人で服部を姓とし、思うところあって軍談師になりましたが、以前が武士ではあり、天 下の御記録読みというところから脇差を一腰さしておりましたところ、ある晩遡町の隼亭《はやぶさてい》をは ねて、神田のわが家へ帰ろうと、淋しいが近道だから半蔵門を入り左に折れ、代官町を通って御 物見下まで参りますと、二人の折助が向うから参りまして、深夜ではあり他に人通りもないので 悪心を起し、南鶴を捕えて剰盗《おいはぎ》をしようとした。神免流心得の南鶴少しも騒がず、叱り飛ばした が二人とも、何を言やがる、それやっちまえと飛びかかって来た。南鶴たちまち両名の利腕《きぎうで》とっ て逆にねじ上げ、突き放しておいて脇差の柄《つか》に手がかかるが早いか、抜く手も見せず電光石火、 右と左へ水もたまらず斬って棄てました。脇差の血を拭って鞘《さや》に納めた南鶴が、すぐとその足で 御月番の北町奉行所へ訴えて出た。この時の奉行は有名な遠山左衛門尉であったと伝えられてお りますが、南鶴は顛末《てんまつ》を陳述した上、 「、兀来、半蔵門をぬけて代官町から竹橋へかかるこの道は、雑子橋《きじばし》へ出るにせよ、乃至《ないし》一ッ橋、 神田橋、常盤橋《ときわばし》、いずれを通って町へ参るにも一番の近道でござります。それを淋しくしておく ためにかような間違いも起ります。私だからよろしいが、普通の町人でありましょうなら、金品 を奪われましたる上、次第によらば一命にも及ぶことと存ぜられます。適当の場所へ、見張りの 番所をお設け下さりましょうならば、向後《こうご》諸人の助けに相成り、一同の仕合せと存じます。この 段何とぞお願い申し上げたい」  と申し添えました。いうことに筋が立ってしかも弁舌酒々としております。もっとも弁が悪く ては講釈は出来ない。奉行もこれを聞き取って実に尤《もつと》もの次第とあって、南鶴はただ今で申す正 当防衛で無罪放免、二人の悪者は斬られ損ということになり、それのみならず南鶴はおほめのお 言葉を頂き、上首尾で帰りましたが、これから間もなく御物見下の咽喉首《のどくび》ともいうべきところへ、 見張りの番所が出来ましたのは、全く南鶴の陳述によるところというので、人呼んで、これを南 鶴番所と申しました。これは有名な事実であります。  その二代目南鶴の門人から、素晴しい先生が出た、これが初代の南窓《なんそう》であります。この人は安 房国平郡南無谷の名主、柴山権左衛門の伜《せがれ》で次郎三郎といい、南鶴の門人になって号を正流斎《しようりゆうさい》 と称し、故事軍談何事にも明るいという自信のあるところから、南の窓は明るいものだからとて、 さてこそ南窓とは名のったのであります。一説に南窓は南鶴の兄で、例の太平記場で始終快弁を 揮《ふる》っていたと申しますが、兄というのは何かの間違いでありましょう。また、親孝行で官から賞 美せられた正流斎南玉は、この南窓の弟だという説もあります。そうかと思うと、南鶴は始め南 窓の門人であったが、南窓が母の病気で郷里へ帰り、全快を見届けてまた出府するまで、何ヵ月 かの長い間、代講を務めて客を落さず、却って入りをふやしたのみか、その間、師匠南窓の読み かけを弁じ、しかも引事《ひきごと》の余談のみで、少しも先へ進めずつなぎ通した。その力量に驚いて、南 窓が反対に南鶴へ師事するようになり、これを田辺派の祖人に仰いだ、ということも、講談師仲 間に言い伝えられております。やはりこれも誤伝でありましょう。  この南窓の記憶力の強かったことは非常なもので、ある時日本橋佃吉の葬式に帳付をたのまれ、 四、五人の書記に交って受付けましたが、南窓は一人も帳面へつけず、四百人ほどの町名、氏名 を暗記して人を驚かせたことがあったと申します。万事この伝で、どんな本でも一度読むと忘れ ることがなかったため、高座でも台本を持たず、田辺派は無本という流派になったのだそうで、 その読み方にも改良を加え、興味をつけ、いつも、 「真の講釈師は天下広しといえども乃公一人、あとの講釈師は豆蔵《まめぞう》みたいなものだが、マアその 中で少し物のわかっているのは、東玉《とうムさよく》ぐらいなものだろう」  と大言を吐いていたということ、その読物は義+伝を最も得意とし、現今行われている銘々伝 は、大てい南窓の稿本によりまするところから、門人南玉が泉岳寺の義士の墓側へその旨を記し て建碑したのが、今もって残っております。この初代南窓は弘化三年四月十五日七十五歳をもっ て没し、郷里房州南無谷なる成就山妙福寺に葬りました。  宗叔と古喜  大工の和助|棟梁《とうりよう》が立川焉馬になり、櫛《くし》屋の又さんが三笑亭可楽、その外いろいろな家業から落      こうずか                           そうしゆく 語へ転向した好事家のある中に、お医者様も交っておりました。その一人に石井宗叔という人が あります。  この人は中橋《なかはし》に住んだお医者さんですが、戯号《げこう》を水魚魯石といい、狂歌や狂句も巧く、能弁で 頓才に富んでいましたから、落語を自作して披講いたしました。それも今までのように短い小噺《こばなし》 ではありません。一席にまとまった長い話をこしらえて、この人が初めてやり始めた、即ち長話 の元祖であります。ちょうどもうその頃は、短いのではあきたらず、次第に長い物を好むように なって来た時代でありますから、宗叔の得意とした長談は寛政の初年から大いに行われ、また、 座敷仕方咄をも趣向してこれまた評判よく、常に招かれては方々の屋敷方へ出入し、一流の祖と 仰がるるに至ったのであります。この宗叔は享和《きようわ》三年四月八日没、深川雲光院に葬りましたが、 二代目の石井宗叔もやはりお医者様の出で、通牛舎《つうぎゆうしや》文馬と号し、後に初代の弟子となり、その没 後、二代目を相続しましたが、この人はまた、長い話を一層長くして、さてこのおあとは明晩と いう例を造りました。即ち続き話、人情話の元祖であります。  こうなると自然、そのお話の材料を提供する者が入用になって来ました。前に述べた乾坤坊良 斎などはその有力な一人でありましたが、その外、落語の興隆につれ、これを実演しない者でも 争って落語を作るようになり、山東京伝、式亭三馬、十返舎一九《じゆつべんしやいつく》など、皆落語を作りました。そ のくらいだから、長い話も作ったに極っています。中にも長話の作者と知られた人に、有名な振 鷺亭《しんろてい》がおります。この人は天明から寛政にわたっての戯作者で、猪狩貞居というのが本名、通称 を与兵衛と申し、初めは浜町に住み、後に本船町の家主になりました。「ろくろ首(小西屋政談      £隻象み草く厨ういちのとりい              しゆんとくξふくしゆうねこ毒 の原本)」「自惚鏡」「客衆一華表」「玉の蝉」「春夏秋冬」「陰陽妹背山」「俊徳丸復讐」「猫股屋 敷」等の外、数十部の著述があり、画も鳥居清長に学んで、別号を金竜山人といい、多芸多能の 作家でありました。いつの代においても、一つの芸術が盛んになると、それを扶《たす》ける人材がかよ うに現れるものと思われます。  そうかと思うと、この趣味のために、家産を傾ける人なんぞもあった。紫檀楼《したんろう》古木のごときが それであります。この人は藤島という苗字もあり、浅草の蔵前通りに伊勢屋という羅宇竹《らうたけ》の問屋 を営んでいましたが、風流人で狂歌が巧《うま》く、紫檀楼古木とはその方の戯号であります。家業を奉 行人任せにして、そんなことにばかりうき身をやつし、落語が流行《はや》って来ると自分も立川金馬の 門人になって寄席へ出ました。立川金馬というのは本所松井町の人で、通称が日吉善蔵、やはり 焉馬の門人で、後に二代目むらくになりました。その金馬の弟子分となり、同じく紫檀楼古木の 名で出演、狂歌咄という着板を出し、落語の題を求めて即席に作り、そのサゲヘ狂歌を即吟でつ けようという趣向、それだけの才がなくては出来ない芸ですから、大いに受けそうなものだが、 当時の寄席のお客様にはちと趣味が高尚すぎて、よくわからなかったのかも知れません。一向に 評判になりません。とうとう落語を止めて剃髪し、号も古喜《ふるき》と改めましたが、モウその頃には蔵 前の店もうまく行かないで遂に潰れ、人手に渡して逼息《ひつモく》する始末、天保三年十月八日六十六で没 し、深川亀住町玄信寺に葬り、紫檀楼迎誉浄雲居士と申します。「六道の辻駕《つぢかご》に身はのりの道、 念仏申して極楽へ行く」といよノのがその辞世でありましたが、この人が風流のため家産を傾け、 晩年を落魂《らくはく》した末路は、一篇の落語となって今も高座にくり返されております。  何しろ以前が羅宇問屋でありましたから、身を落して挿《すげ》替え屋になり、羅宇屋きせえると呼び 歩く身となりましたが、好きな風流は貧苦の中にも忘れません。ある時夕立にあって、「双六《すごろく》の 日本橋から雨にあひ、ぬける程ふる鞘《さや》町の角」と詠んだりしました。  またある寒い夕方、呼び止められたのは医師の家で、その妻君が煙管《きせる》の挿替えを命じたので すが、古喜のヨボヨボした薄汚ない姿を見ると御新造は眉をよせて、なぜあんな汚ならしいお爺 さんを呼んだのだえと下女を答《とが》めましたのを、耳にした古喜が怒りもせず矢立《やたて》の筆を端紙《はがみ》へ走ら せ、「牛若の御子孫なるか御新造の我をむさしと答め給ふは」と詠みましたところ、この妻君も 同好の趣味があり、「弁慶と見しはひが目かすげ替の才槌もあり鋸もあり」と返歌をよみました。 古喜もその即詠に感じ、また返しましたのが「弁慶にあらねど腕の万力《まんりき》は、きせるの首をぬくば かりなり 紫檀楼」。これを見た御新造びっくりし、さてはかねて噂に聞く、古喜宗匠の成れの 果てかと気の毒がって羽織を与えようとしますと、古喜は首をふって辞退をしながら「イエイエ それは頂かずとも、これこの通り、はおりやきてえる(らをやきせえる)」というサゲ、趣のふ かい上品な落語であります。  湯島の燕晋  文化四年二月のこと、北町奉行小田切土佐守へ対し、寺社地寄場稼業総代として、山本仁太夫、 車善七の両名より、本郷湯島の伊東|燕晋《えんしん》を相手取り、お訴えに及びました。その理由はと申しま すと、伊東燕晋は講談伊東派の祖人で、湯島天神境内の自宅をば寄席にいたし、多数の聴客《ぎやく》を集 めましたので、それまで寺社地寄場稼業のものは、仁太夫、善七らの支配に属すべき慣例になっ ておりましたゆえ、燕晋も自宅とはいえ、湯島天神の寺社地境内で寄場を営む以上、その仲間へ 入るべきものだという訴訟であります。  ところが伊東燕晋は、すこぶる謹厳な人物で、学問があり文筆に秀で、著した書物もあり、一 家の風ある見識を備えていましたから、もっての外とこれに従いません。答書を出して抗弁に及 んだ。これがため前後七回も、双方を奉行所へ呼び出して突き合せ吟味を行いましたが、結局仁 太夫方の申し条立たず、七月二十七日一件落着、燕晋に対して、以後は寄場稼業を公然許可する こととなり、仁太夫、善七らの支配下に属すべき運命を免れましたのは、強い自信をもって頑張 り通した結果でありましょう。その時に燕晋から奉行へ願い出ましたには、 「軍書講談を演述する我々は、下賎の者でありましょうとも、申し述ぶるところは、恐れながら 三河後風土記の内、上様御苦労を遊ばされ、天下泰平の基をお開きになります事がらにござりま すれば、一般聴衆と同席にて、これを講じまするのは、揮り多き次第と存じまするにつき、一段 と高座を設け、その上にて申し述べとう存じます」  という趣意をもって、高さ三尺一間四面の高座の図面を添えて願い出で、これまた聞き届けに なりました。これがためそれまでは、講釈の寄席も作りつけの高座はなく、置間《おきま》というものを用 い、休みの内は隅へ片付けておいて、使う時だけ随意の場所へ引っ張り出して来るという風、中 には涼み台で代用するのもありましたが、この時から高座常設を許された次第、即ち高座の始め              ねんばんよ`りき であります。もっとも当時は、年番与力藤田六郎右衛門の注意で、 「高座というは耳立つ故、見台《けんだい》とのみ称うべし」  という達しであったそうで、いずれにせよ、講談の資格を落さなかった点、伊東燕晋は講談界 に取って忘れてならぬ功労者と申すべく、この仲間で湯島の燕晋と称えるのはこの人のことであ ります。  講釈も諸家の騒動や世話物たどは読まず、徳川御代記、後風土記、曽我物語、川中島軍記、源 平盛衰記、及び三国志の外は講じなかったと申します。そしてどんな時でも、羽織|袴《はかま》を着用し、 講釈を読み終ると、席を下って磐勲《いんぎん》に挨拶をするという風、至って謹厳な態度だから、聴客も行 儀を崩せません。みな正座して謹聴をした。マア本来はそれが当り前でしょうが、講釈場も終い にはだんだん物がぞろっべいになって、長々と寝ころびながら聴く客のために、木枕の用意まで いたし、軒声があるよと注意したりする始末。いい心持にぐっすり眠らせるようでなくては、講 釈師も一人前とはいわれない、なんてことになりましたのは、イヤ早、言語道断であります。こ の燕晋が、文化三年と五年の両度にわたって、将軍徳川|家斉《いえなり》公の御前で講演をつとめました。こ れは公方様|墨田川御成《すみだがわおなり》の節、弘福寺の御膳所《ごぜんしよ》において講演したのですが、これが御縁になって、 後には御本丸へ上るようになった。家斉将軍、講談も落語もお好きだったと見えます。この時同 道いたしましたのが、門人の伊東燕凌といって、これまた当時の大家であります。この時に燕晋 は、味方ヶ原の軍記を読もうとしたところ、将軍家からお傍の者へ御沙汰があって、どうかそれ はやめてもらいたいということになった。何故かと申すに、 「味方ヶ原の戦争は、いうまでもなく東照神君徳川家康公が中心、どうも大切な御先祖の記録を 読むことになると、それを伺うには、将軍家始め本格の装束をつけなければならない。まことに 窮屈だから、見合せてもらいたい」  というわけだったそうで、上《うえ》っ方《かた》になると万事厳格なものであります。それではというので、 燕晋と燕凌が、両人交替で「川中島」を読みました。これが悉くお気に入りまして、爾来両名が 月一回ずつ御本丸へ上ることになりましたのは光栄のこと。この燕凌は文政十二年三月、燕晋は 天保十一年十月十日、行年八十をもって没し、本所猿江慈眼寺に葬りましたが、この燕晋が一間 三尺御免の高座に上り、多勢の聴客《きやく》を集めて講演をしている図があって、三代目伯山のもとに秘 蔵してあったのを見たことがあります。 ○笹井燕尉 湯島の燕晋の親族にて、通称弥左衛門、同じく謹厚の人物にて、三河後風土記、徳川御代記  等を講じ、燕晋よりも前に、寛政三年十一月十九日、家斉将軍の松川筋へ御成の節、同じ向島弘福寺に  おいて味方ケ原軍記を言上せしが、この燕尉は人品もよく上手の聞えをとり諸侯方へ出入せりと。 〇二代目燕凌 初代燕凌の門人にて凌雨といい、生家が貧しかりしため、青年の頃は日傭取りなど労働せ  しも、講釈師にたりて以来、人物風采の立派なることと、読み口に品位ありしため聴客自然に尊敬し、  己も十徳たど着して威厳を作り、諸侯方へ出入り、収入も多く堂々たる大家とたり、出行に必ず駕籠を  用い、講釈場の木戸へ「燕凌先生御出席」と記すたど、権式を添うるに努め、木戸も普通より高く取り、  従って生活も豪奢に、本妻の外、三人も外妾あり、本宅など二十人ぐらしなりしとあり。妾の一人万女  といえるは、以前堀家の祐筆なりし由にて、算筆、国学、和歌に長じ、燕凌の読物をも、助力創作せり  という。しかして天保十一年、七代目団十郎が、歌舞伎十八番の「勧進帳」を完成するに当り、本元と  せる謡曲の「安宅」にもなき、富樫と弁慶との山伏問答を講談によって補うベく、燕凌、南窓等、当時  の大家を招き口演を聞きたるが、就中、燕凌の歯切れよき口調に感じ、舞台ヘ上演に付しても、問答の  条は燕凌そのままを真似たりとぞ。燕凌は安政二年七月五十五をもって没し、深川浄心寺地中円珠院に  葬りしが、会葬者七百名に余り、すこぶる盛儀なりしと伝う。 むらく、正蔵 焉馬の中興した落語芸術を、 可楽が立派に職業化しまして、ぞくぞくその道の大家が現れまし むらく、正蔵 たことは前にも述べた通りであります。右について幸田露伴博士は、 「可楽は近時笑話者流の祖となれるもの、その門に、朝寝坊夢楽《あさねぼうむらく》、喜久亭寿楽、三遊亭円生、都 屋都楽、三笑亭可上、および林屋正蔵等あり。皆その技を以て鳴れり。夢楽は長物語人情話を興 し、円生は芝居掛り鳴物入の話を創め、其の系にかの円朝を出し、都楽は写し絵を以て世を悦《よろこ》ば しめ、可上は百まなこを以て人を笑はしめたり。而して正蔵は、戯誰俳譜の談に交ふるに、幽鬼 冤魂の話を以てし、所謂《いはゆる》怪談の祖となりたり。(中略)それ徳川氏の世、笑話を以て聞ゆるもの、 前に安楽庵あり、五郎兵衛あり、後に雲鼓、振露亭《しんろてい》、慈悲成、焉馬ありと錐《いへど》も、其の話の機鋒鋭 利にして、解願《かいい》の妙あるものは、実に安永天明の間に当つて世に出でしところの、片々たる小冊 載するところのものに属し、正蔵等皆却て之に及ぶ能《あた》はず。然れども、今の笑話者流の口演する ところの談、牛ほめ、粗忽家、玄人かづら、しの字嫌、芝居好等、俗衆のこれを聴きて、開口拍 手して大笑するものは、実に多く正蔵著はすところの書に出で、文政天保より伝へて今に猶混《なほほろ》び ざるなり。よつて思ふ、正蔵の作るところの笑話、其の真価未だ必らずしも高からずと雛も、 邦人の嗜好に投ずる甚だ深きものあるにあらずんば、永存すること是の如くなる能はざるを(下 略)」云々。  と正蔵の「笑話五種」に題されておりますのを見ましても、可楽の大きな存在だったことがわ かりますが、この文中に挙げられた人々のうち、夢楽即ち仮名で書くむらくは、俗称里見新兵衛 と申し、麻布一口坂に生れ、幼名を勝蔵といい、麹町の伊勢屋という質屋の丁稚《でつち》になりましたが、 浄瑠璃が好きで、豊竹宮戸太夫の門に入り、戸志《こし》太夫と称したりしているうち、享和三年可楽の 門へ入り、流俗亭|玖蝶《きゆうちよう》から、また三笑亭夢楽と改め、自作の落語を披講いたしましたところ、 この人は人情に通い、風俗をうつすのに妙を得ていましたので、大いに行われましたが、文化六 年、夢楽を改めて夢羅久《むらく》にした。これが師匠の可楽にとって、面白くない感じを抱くことにたっ た次第。そうでしょう、可楽の弟子で夢楽、師弟の縁はこの楽という一字によって表現されてい るのに、その楽の字を外の字にして、芸名から追放しちまうというのは、乃公《おれ》の弟子になってい るのが不服不本意なんだろう。そんたに気に入らない師匠なら、どこへでも行ってくれ、という 中っ腹だったのではないかと思われます。そんなことで甚だ気まずくなり、そこで三笑亭も返上 して、朝寝坊と改めた次第。夢という文字には、なるほど朝寝という言葉が相応していましょう。 この芸名は何代も続いて今日に至っておりますが、どうも昨今のような時局下になりますと、い かにのんきな落語家にせよ、たとえ芸名だけでも、朝寝坊はあまりにも不真面目の諺《そし》りを免れま すまい。  それはさておき、むらくはその年の六月、柳橋大のし富八楼上において、初めて落語の会を開 き、極めて盛会だったとあり、その後文化九年三月、あらためて焉馬の門人となり、笑語楼夢羅 久と改め、この時から長物語人情話を興隆させたという次第。また、林屋正蔵もこの幸田博士の 序にあるごとく、今に至るもその作話が、落語家の踏襲しているところとなり、芸名も累代めん めんとして今日に及んでいるところ、また一方の大看板であります。林屋という号(後世に至り 林家となる)は、初代が本所林町に住んでおりましたからで、文化三年より楽我《らくが》と名乗って可楽 の前座を勤め、のち可竜、笑三、正三等と改名、さらに正蔵になったのであります。  一時林町から村松町へ引越し、また長谷川町へ転宅したところ、家主が、 「お前さんは何御商売だね」 「ヘヘヘヘ、私は寄席《よせ》へ出ます」 「ホウ、寄席へ出て何をしなさる」 「落咄《おとしばなし》で、ヘヘヘ、林家正蔵というもの、どうぞ御ひいきに……」 「ホホウ、それは不思議だ。この家はその昔、鹿野武左衛門の住んだ家ですよ」 「エッ、そりゃア奇遇ですなア」  大いに感じた正蔵が、その縁によって一時二代目鹿野武左衛門と改名、その披露をしたことも あり、別に俳名を林屋林泉と申し、怪談噺一派の祖となり、傍ら戯作《げさく》の筆をとりましたが、天保 十三年六月五日、六十三をもって没し、寺は可楽と同じ今戸の潮江院でありました。しかして有 名な「こんにゃく問答」は三代目正蔵の作で、この人は以前|托善《たくぜん》という禅宗の坊さんだったとい うこと、それなればこそ、あの奇抜な禅問答の趣向も考えられたのでありましょう。なおシナの 「笑府」から題材を得、回向の功徳を滑稽の中に持《こしら》えようとした名作の「野晒《のざらし》」も、この三世正 蔵の作であると申します。   ○喜久亭寿楽 俗称を鹿朶《モだ》屋粂次郎といい、神田佐久間町に住し、可楽の門に入って寿石と称し、後、寿  楽と改名、両国橋西詰に定席を構え、他所を勤めざりしと。 〇三笑亭都楽 小石川伝通院前に住し、以前は上絵師なりしが、亀屋亀徳と号し、同好者と落噺や茶番狂  言をたすうち、享和元年春、上野山下にオランダエキマン鏡の興行をなすものあり。亀徳はその技術師  高橋玄養を訪ねて業を習いしが、天性の器用はたちまち術を会得し、元来が上絵師ゆえ、帰宅の後自ら  その画を描きて試みしところ、思いのままに出来たるより、なお種々工夫を加え、彩色法も発明、精巧  なるものに仕上げし上、自ら口上をつけ、唄、唯子等を加え、怪談物等を面白く見せしより、見物は驚  嘆して不思議がり、中には魔法使かとまで評判するものありしが、かくて諸方に招かれ、大いに利を得  たるより、遂に三笑亭の門に入りて都楽と名乗り、享和三年三月、初めて牛込神楽坂の寄席春日井へ出  演、それより諸所の寄席を打ち廻り、都住、都竜、都山等数多の門人も出来、ますます流行し、文政年  中瀬戸物町へ移転し、傍ら座禅豆を繋ぎ、弘化四年隠居して亀屋徳右衛門と改め、嘉永五年十二月二十  七日、七十三をもって没し、浅草法恩寺寺中光照院ヘ葬る。本邦幻灯写真の元祖なり。 ○夢羅久の落語会 文化六年六月柳橋大のし富八楼において開催、この時の摺物蛍狩の絵は、勝川春英、  歌川豊国、蹄斎北馬、拙亭翠、泉目吉の五大家が合作、京伝、京山、六樹園、三馬、焉馬等の詩歌文章  をのせ、豪華のものなりしと。  三遊亭円生  さて可楽の門人に、東亭鬼丸という人がありました。初めの名を三笑亭|八《や》ッ子《こ》といいましたが、 この鬼丸は落語の名人であったということが、式亭三馬の「落語会話」にも出ております。そし て鬼丸の門人に多子というものがあり、この人は馬喰町|付木店《つけぎだな》に住み、俳名を円里といいました が、その後、可楽の直門《じきもん》に転じて、東生亭世楽と改め、その後自立して、山遊亭猿松と名乗り ました。どうも山に遊ぶ猿松とは面白い名のようでいながら、字面があまり感心いたしません。 自分でもそれに気がついたと見え、寛政九年四月、同音ではあるが文字を改め、即ち、三遊亭|円 生《えんしよう》となりました。  この人は芝居咄一流の名人で、身振りこわ色《いろ》、芝居がかり鳴物入りの元祖であります。近頃で こそ芝居噺は珍しくなりましたが、明治時代までは、大ていどこかの席で、芝居正本噺という着 板を見かけたものであります。何しろ、歌舞伎芝居というものは、江戸人にとって最大の娯楽だ ったのですから、その舞台を偲ばせる芝居噺のやり方が、大衆の好みに投じたのも当然でありま して、素話より手数のかかる代りには、面白がられ喜ばれたに相違ありません。しかも最初は、 通例のように、普通の高座で話をしているうちに、その話の進行に従って、キッカヶもろとも後 ろ幕を切って落せば灯入りなどの背景、もしくは黒幕に籔畳といったような、芝居好きをゾクゾ クさせるような芝居舞台の縮刷版が、高座の後ろへ現れて、本行の鳴物が入り、演者は俳優の声 色《こわいろ》で芝居がかりの台詞を述べ、受け渡しやら立ち廻りの身振りをするとこれヘツケが入ったり、 そっくり芝居と同じになる。ただ違っているのは演者が一人で多勢を兼ねるというだけのことで、 念入りに引きぬいて、衣裳まで見せる仕草もあり、結局終りは落語のサゲになることもあり、ま ず今夜はこれぎりと、派手やかに打ち出すのですから、女子供が見ても面白がるわけであります。 思えばうまいことを考えたもので、円生がこれを始めて以来、引きつづいてこれに倣《なら》うものが、 近世まであとを絶たなかったのも道理であります。  この円生は、かように芝居話を創案したばかりでなく、もっと文献的に、後世を利した仕事を しております。それは「東都噺者師弟系図」を編纂したことで、これには当時、中興以来の隆昌 につれ、無数に輩出した彩《おぴたた》しい落語家の全部を、悉く丹念に調査して、のこらず芸名を書き並 べ、師匠と弟子の関係や系統を、一目瞭然と配列した、実に貴重な図表なのであります。ものが ものだけに、この図表はかなり長い巻物でしたが、好事家はこれを表装して額に仕立て、現に本 郷の若竹亭という、東京でも屈指の大きな寄席に掲げられてありましたが、震災で烏有《うゆう》に帰しま したので、あとはまだどこかにあれと同じものが残っておりましょうや否や、何とも惜しいこと をいたしました。但しこの図表を元にして、その後の分を書き添えたものを、六代目文治の実弟、 桂文之助《かつらぶんのすけ》という人が綿密に筆書して、これが現に落語研究会の主幹たる今村信雄氏の手許に保存 され、また、これらの記録へ、大阪落語家のそれを併《あわ》せたものが、これは活字本となって、「落 語系図」と題し、昭和四年七月二十五日、大阪市東区|広小路町《ひろこうじまち》三十六、月亭春松氏事、植村|秀一 郎《ひていちろう》氏の手から発行されておりますことは、御案内の方もあろうと存じます。ところで今申した初 代円生著の「東都噺者師弟系図」には前に述ベた初代林屋正蔵が、洒落た文句で序文を書いてお ります。曰く、 「師匠の恩は、爺《ちい》が芝かる山より高く、教ふる道は、姥《うは》が物洗ふ川より深し。流れ寄る桃の天々 たる若き頃より魁見《さきがけえ》する冬至梅の、葉なしの道に入りしも寛政のむかしくにて、物語りする 人に生れし故、円生とは名号《なづけ》しが、今は古狸の骨頂となりて、芝居がゝりの幕あきに、カチカチ 山をその艦《まま》うつし、御宿はどこじやの雀には、チヨッくくの拍子幕を気取り、此処《ここ》はこの○ (オモィィレ)で△(ゴザ)りますると門人へ伝へる度に、友達の師弟の道を失はん事を歎じて、 三遊亭大きにお世話の系図を引き、三絃取て弾唄《ひきうた》ひ、どど一どいつは誰の弟子、彼は是と書つ父 りし、反古を其儘桜木《そのままさくらぎ》に、彫《きざ》みて春の配りもの、其のはしがきをと頼まれまして、林屋正蔵、お どけまじりに述《のぶ》るになん」云々。  即ち桃太郎、かちく山、舌切雀など、日本昔噺を取り入れた面白い口上でありますが、関根 先生の『講談落語今昔讃』には、この噺老系図に現れた師弟関係、また、代々の系図をほとんど 全部抄録してあります。本編にもそれを写すべきでありますが、紙数も考え、また煩雑を慮《おもんばか》り、 重要な部分だけに止め、それよりも主要人物の伝記や逸話に力を注ぎました次第、悪しからず御 了承を願います。しかしてこの初代円生は、三遊派の祖人でありまして、門下から円橋、円馬、 円喬《えんきよう》、しん生、竜生、馬生、円蔵等を始め、多数の上手《じようす》を出し、天保九年三月二十一日、七十一 で没し、浅草金竜寺に葬りましたが、二代目円生になった円蔵の門人円太郎こそ、実に近世の巨 匠、三遊亭円朝の父でありました。 講談三名誉 古いことは簡単に- -というつもりではありましたが、あれもこれもと欲張りますため、 つい 江戸期のお話が長くなりましたが、今しばらく御辛抱を願います。その頃、講釈界で、三名誉と 称せられましたのが、伊東|燕凌《えんりよう》、松林亭伯円、及び石川一夢の三大家でありました。この燕凌は 二代目で、伯円は初代、共に前項名人くらべの中で御紹介に及びましたが、一夢はまた大そうな 名人、ある時京橋大根河岸の都川《みやこがわ》という席で、二代目馬琴が読切を催しましたが、当時講談界の 大家が悉く集まった中で、最後に残りましたのが、この三名誉の中の、一夢と、伯円、及び初代 正流斎南玉の三人。 「サア誰が真打《しんうち》をしてくれるね」 「真打は助けてくれ」 「そんな横着はいかんよ。誰彼というより一つ、くじ引きで上《あが》り順をきめようじゃアないか」 「それがよかろう」  とくじを持え、引きましたところ、一番先が伯円、次が一夢、最後の真打は南玉がつとめるこ とになりました。この南玉は、前の南鶴と南窓の項でも申しました通り、初代南窓の弟ともいい、 また二代目南窓の門人とも伝えますが、京橋尾張町のいろは長屋に住み、非常な親孝行で、その ことが公儀へ聞え、御褒美を頂きました。これが世上の評判になりまして、南玉という銘を打っ た清酒まで売り出されたくらい、ますます高名になりましたのは、無二膏や万能《ばんのう》膏のききめより、 親孝行は何につけても……まことに孝は百行の基《もと》であります。この南玉は後に南玉斎《なんぎよくさい》と改め、六 十何歳かで没しましたが、常に法体《ほつたい》をして人品もよく、公儀のお坊主といったような風采《ふうさい》で、伊 達や太平記が得意の読物であったそうで、この時の読切にも、 「それでは三人とも、親子の別れを読み分けようじゃアないか」 「それもよかろう」  となりまして、このことを聴衆にもふれましたから、一同手を打って大喜び、楽屋に居合わせ た他の出演者も、これは聴き物といずれも耳をすませ、満場水を打ったようであります。  そのうちにまず、最初に出ました伯円が「真田三代記」の内、佐野の天明山《てんめいざん》を読みました。こ れは石田三成が家康を向うへ廻して兵を挙げ、いよいよ関ケ原において天下分け目の戦いになる。 それに先立ち真田昌幸は、我子信幸、幸村の両名と、三《み》つ鼎《かなえ》になって去就の相談、信幸は東軍に 従わんとし、幸村はあくまでも故太閤の恩義を思い、西軍に味方を主張いたします。結局父昌幸 は、幸村と共に西軍へ赴くこととなり、信幸は東ヘ還るという、父子兄弟骨肉の別れ、これが永 久の訣別《けっへっ》になるやも知れぬ武門の習い、規模も大きければ意味も深刻な六《むつ》かしい読み場でありま す。なれども読み手は名誉の伯円、大喝采のうちに一席を終りますと、次に上った一夢が「佐倉 義民伝」の内、木内宗吾の親子の別れ、これはモゥ一夢の佐倉か、佐倉の一夢かと言われたほど、 極めつき、折紙つき、得意中の得意であります。しかも宗吾の子別れは、誰がやっても泣かせる ところ、況《いわ》んやこれを天下一品の一夢がやったのですから、さながら実景を目前に見るごとく、 涙を絞らぬものとてはたいくらい、これまた割るるごとき拍手を浴びて降壇します。  最後に上ったのが南玉斎で、これは楠公父子桜井駅の訣別でありました。即ち同じ親子別れで も、真田、宗吾、楠公と、やはり時代、世話、時代と配合の順を考えたあたり、そんなところに も当事者の用意が窺われますが、忠臣は孝子の門に出づとかや、親孝行で表彰されたほどの南玉 が至誠尽忠の楠公伝を読みますのは、まことに適材適所と申すべく、風采のいい南玉斎が、柄に もはまった読物ではあり、建武の昔正成が、青葉の里の桜井に、小楠公正行に対し、肌の守りを 形見に与え、後事を託して生別の心の中を思いては、空に血を吐くほととぎす、泣かずにはいら れませぬ。まして太平記が十八番の南玉斎、至芸切々として真に迫りまして、聴衆一同悲涙にく れ、すすり泣きの声さえ聞える始末、以上三席立て続けに泣かされて、みな胸が一杯にたり、断 腸の思いをいたしましたが、これを当日の打止めとして散会した時には、一同ホッと溜息をもら し、拍手喝采しばらくは、鳴りも止まぬほどであったと申します。  いずれも一斉に、アア面白かった、結構だったと感歎しながら、ぞろぞろ帰って行ったその後 で、席主の松五郎がオイオイと泣いている。楽屋の者が不思議がって、 「松さんモゥ講釈は済んだのに、いつまで泣いているんだ」  と聞いたところ、 「ナー二そうじゃアねえ、三先生があんまりお客を泣かしちゃったものだから、これ見ねえ、座 布団も畳も、涙でピショビショにぬれち.やった。これじゃア早速、あとの家業に差しつかえるよ」  といった。マサカそうでもありますまいが、この読切の一件は、前に述べた東玉の交覚荒行|水《みず》 でんかんのことや、一夢の佐倉のお百姓さん一件とともに、二幅|対《つい》とも申すベき、有名な逸事と して同業者間に言い伝えられているのでありますが、一夢のお百姓さん一件とはどんなことか。 これはまたもや講談的の脚色を加えまして、次の項に申し述べます。 ○軍談師高名一本槍 天保度のものと思しき番付にて、これには神田伯山、伊藤潮花、石川一口、伊東花  清、竹林亭麦山、田辺南竜、梅竜軒貞林、松林斎琴鶴、伊東燕凌、東月斎琴窓、松林亭伯円、松林亭太 琉、醒酔舎吾岳、成川鉄山、豊田錦江、人情亭錦城、一陽軒如水、一円斎誠翁、梅林舎南鶯、一竜斎貞  山、正流斎南玉、桃林亭東玉、東集斎琴調、神田伯竜、旭堂南麟、伊東凌舎、東林亭東園、東林亭太玉、  東流斎馬琴、伊東燕勢、伊東凌海、伊東凌節、一貫斎天山、一立斎文車、正流斎玉洲、鏑井藍洲、東魁  斎琴梅、伊東陵潮、伊東燕国、鏑井北梅。(以上)の連名を列記しありき。 ○高名五幅対 嘉永三年版の一枚摺には、軍談の部に南玉、伯山、潮花、北梅、伯円の五名を挙げ、記録  の部に、南鶯、一口、燕凌、馬琴、貞山の五人を列ねありき。 ○軍談一本槍 安政五年夏出版の番付にて幕の内のみを抄記すれば、  東の方。大関-大阪軍記(鏑井北梅)関脇-佐倉義民伝(伊東燕凌)小結-義士銘々伝(正流斎  南玉)前頭-伊達評定(伊東花清)四国仇討(伊東陵潮)白木屋(石川一口)八犬伝(翠集舎千山)  川中島(松林斎琴鶴)楠三代記(一立斎文車)切られ与三郎(正流斎太麟)  西の方。大関-天一坊(神田伯山)関脇-曽我物語(伊東潮花)小結-源平盛衰記(伊東燕国)  前頭-伊賀水月(一竜斎貞山)田宮坊太郎(東林亭東玉)越後伝吉(旭堂南麟)太閤記(伊東燕勢)  天草軍記(森川馬谷)佐野源左衛門(東月斎琴窓)黒田騒動(竹林舎麦山)  なお東流斎馬琴の名は別枠に大書して張出に位置し、中央の欄には行司として三国妖狐伝(田辺南竜)  三国志(梅林舎南鶯)世話人として如水、誠翁、差添として凌舎、鉄山、勧進元には、神仏穴さがし (石川斎万丸) の名を掲げありき。  石川一夢 (一)  このたびは初代石川|一夢《いちむ》という、講談の名人のお噂を一席申し上げます。この一夢という先生 は、安政元年五月二十一日、   持つて来た勘定だけの年たちて、うはばで遊ぶ夢の世の中   夢一つ破れて蝶の行衛《ゆくえ》かな  と以上二首の辞世を残し、五十一歳で亡くなりました。悟りの開けた人物だったことがこの辞 世によって窺われますが、初代伯円や伊東燕凌と共に、当時の三名人と称せられ、講釈の方では 端物《はもの》という、即ち世話講談が巧《うま》く、とりわけて「佐倉義民伝」と来た日には、古今独歩、得意中 の得意でありましたから、   一夢がどこそこで義民伝を読んでいるぜ  となると、いかなる時でも必ず入りがあったと申します。いわゆる極めつき折紙つき、その人 に限られた至芸だったと思われます。その頃おい、東両国の北詰に、講談を専門の寄席がありま して、これは橋番の五郎兵衛という人が経営していたところから、人呼んで五郎兵衛の席と申し ました。その講釈場へ石川一夢がかかりまして、得意の「義民伝」を読んでいると、面白いので 毎日大入り、そのうちに、そろそろこの続き物も終りに近づき、いよいよ宗吾一族が茨木台でお 処刑《しおき》という条《くだり》にかかりました。満場の聴衆、水を打ったようになって聴いていると、一夢は釈台 を叩いて調子に乗り、 「その時数万の見物人、矢来《やらい》の外にて押しあい、へしあい…-」云々  と弁じました。ところが多勢の聴衆《きやく》の中に、佐倉在から出て来たお百姓が、四、五人連れで聞 いておりまして、思わず苦い顔をいたしました。しかし多勢の中だから、一夢は心づきません。 そのままに講演を続け、 「さてこのお後は明日の後座《ごさ》に申し上げましょう」  といつもの通り、喝采の裡《うち》にその日は終演《うちだし》となりましたが、かの四、五人連れは出ても行かず に後へ残っておりまして、一夢が丁寧に一礼し高座を下りようとするとその傍へ近づいて参り、 「先生ちょっくら待って下せえ」 「ハイ、何か御用で……」 「ハア、私どもは下総《しもうさ》の者で、今度江戸へ出て参り馬喰町《ぱくろちよう》に宿を取っておりますが、先生の宗吾 様の御講釈を伺って、いかにも感服致しましたので、毎日聞きに参っております」 「それはそれは、御屓贔《ごひいき》まことにありがたいことでございます」 「就きましては、どうも余計な差し出口でごぜえますが、先生聞いて下せえましょうか」 「ハア、何なりとも伺いましょう」 「イヤ外でもありましねえ。今さら私どもが申し上ぐるまでもねえことでがすが、宗吾様は佐倉 領一.百二十九カ村、何万何千人の総名代になって、御自分ばかりか妻子春族の命を投げ出し、一 同の苦しみを救って下すった大恩人でごぜえます。その神様とも仏様とも思う大恩人の宗吾様御 一族が、見るも酷《むご》たらしいお処刑《しおき》におなりなさるところを、誰がのん気らしく見物なんぞ出来ま すべえかね。心ある者ならば、皆わが家へ引きこもって表をしめ、お題目を唱えたり、お念仏を 申したりして、御一族の御冥福をお祈り申していたに違いねえと思います。とてもその場へ参っ てお処刑を見るなんてことは、人情として出来ますめえ」 「ウーム、なるほど……」 「それを矢来の外に数万の見物、押し合いへし合いと申されましたは、先生にも似合わねえこと ではごぜえますめえか。しかしそこは講釈のことで、文の形容《かざり》というまでならば、せめてそれを 見物人と言わずに、宗吾様へお名残《なご》りの別れを惜しもうとお見送りの人々、とでもお直しになっ てはどんなものでがしょうなア」  言われました時に石川一夢、 「イヤこれはどうも恐れ入りました。大きに心づきませんで汗顔の至りでございます。仰せ一々 |御道理《ごもつとも》の次第、ようこそ御注意下さいました。以来はお教え通りに直して弁ずることといたしま しょう」  恭《うやうや》しく礼を述べました上、ともかくもとその一行を、柳橋の万八という有名な料亭《ちやや》へ案内い たし、 一夢が御馳走をいたしました。 「こんなことをしてもらっては済みません」  とお百姓たちは恐縮しましたが、国へ帰ってこのことを、名主様や五人組に話したので、 「偉え先生があるものだ。そういう人に是非佐倉へ来て、宗吾様の講釈を聴かせて貰いてえもの だのう」  ということになりました。そこで今度は五人組の衆が付添って江戸へ出府、改めて一夢の宅《うち》を 訪ね、先頃の礼を述べた上、佐倉への来演を頼みましたので、一夢も快く承諾いたし、日取りを定 めて佐倉へ乗り込み、二百二十九カ村の人々へ毎日組を分けては講演をいたしましたが、ありが たい宗吾様のお話でありますから、一同感涙を流して謹聴、木戸銭は一切無料としたのですが、 志の包み金も大そうな額に上り、一夢はその半分を佐倉の宗吾霊堂へ奉納、いい心持にたって江戸 へ帰りましたが、各村の有志から贈られましたビラばかりでも、馬の背に積み切れないほどあった と申すこと、ただしこれは後のお話でありますが、この佐倉のお百姓たちを柳橋の万八へ招待し ましたその晩のこと、一夢は客人を送り出して、自分も酩酊《めいてい》したまま、酔顔を両国の川風に吹か れながら、本所|二葉町《ふたばちよう》のわが家へ帰ろうと、横網《よこあみ》の川っぷちをブラブラ参りましたのが、当今の 時間で夜の十時頃おい、モウ人通りも絶えて淋しゅうございます。今一夢が御蔵橋を渡り、長々と 続いた筋塀《すじべい》へ沿って夜道をだんだん参りまする四、五間先に、暗中《くらやみ》ながら侍《たたず》んでいる人影が見え ました。しかもそれは二人らしい。どうやら若い男と女のようだから、そこは苦労人の石川一夢、 「ハハア、密会か、夜鷹か、それにはお誹《あつら》え向きの場所だろう」  心中に苦笑いをいたし、邪魔をするのも野暮だろうと、塀際へ身体を寄せるようにいたし、足 音を忍ばせて通り抜けようとしたその途端、男も女も今まで泣いていたらしい涙声で、 「サア、いつまでくり返しても同じこと、所詮生きては添われぬ身の上、お前も覚悟をしておくれ」 「覚悟は疾《と》うにしています。未来は必ず夫婦ですよ」 「念を押されるまでもない、それではお浜」 「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》……」  唱名もろとも身を躍らせ、石垣の上から大川へあわや両手をつないで飛び込もうといたしまし た。申すまでもなく情死《しんじゆう》であります。イヤ驚いた石川一夢、一時に酔《よい》もさめてしまい、もうこう なっては粋なんぞを利かせている場合でない。それと見るより履物をぬぎすて、足袋跣足《たぴはだし》のまま でそれへ飛び出し、今一瞬の差で河岸を離れようとする男女の、帯際を両手で確《し》かと掴《つか》んでから、 「莫迦野郎《ぱかやろう》ッ……」  と精一杯の声を出しました。  これが一夢の物馴れたところで、さすがに始終高座から、こういう場合の講釈を演《や》っているだ けに、心得が違います。もしこんな時にアワを食って、遠くから声でもかけた日には、却って先 方を早く飛び込ませてしまいます。水ヘ入ってからでは助けにくい、飛び込まないうちに抱き止 めるのが第一だが、それには声をかけてはいけません。いきなり引っ捕えておいて、それから警 告の声をかけるべきものだそうで、これも生ぬるい、同情的の言葉をかけては駄目だと申します。        つら         さき                だいかっ 次第によれば横っ面の一つも引っばたき、先方がムッとして反感を起すような激しい大喝を浴び せて脅《おど》かすに限るそうで、何しろ貴重な命を我から棄てて縮めようというほど、精神に異状を来 たしている時なのですから、普通のことでは気がつきません。ひどく脅かされるので初めて反省 もし、いわゆるつきかかった死神も離れるという道理でありましょう。  アナヤと身をもがく男女を、力に任せてズルズルズル、往来の真ン中まで引き戻した一夢が、 左右へ引き据えてホッと一息、 「何てえ真似をするんだ不了見な。大切に使えば一生|保《も》っ寿命を、粗末にするとは何たる罰当り だ。ざまア見やがれ」  とまた叱った。こんな文句は年中高座で売物にしているんだから、骨も折らずにスラスラと出 ます。その声音《こわね》に心づいて顔を上げた若い男が、 「アッ、貴方は石川一夢先生、アアッ、面目ないッ……」  というとバタバタバタ、逃げ出そうとするのをまた引き止めました。 「何だ、どこの人かと思ったら、お前は五岳《ごがく》さんの伜《せがれ》、芳次郎《よしじろう》さんではないか」  と一夢も意外に思いましたのは、同じ講釈師で笹川五岳、この人がまた至っての芸達者で、太 閤記全部を無本で演じたというほど記憶が強く、一晩中でも打っ通しに立読《たちよみ》をして疲れを見せな かったと申すくらい、その代り根性もひねくれておりまして、まだ一夢が修業中の小僧時代、五 岳の方がぐっと先輩だったから、 「廃《よ》しねえ廃しねえ。お前のような不器用な弁口で、講釈師なんぞになろうてえのが了見ちげえ だ。やめちまえやめちまえ」  高座の横から顔を出して大声に叱りつけ、多勢の聴衆《きやく》のいる前で、赤面させたことが何遍ある かわかりません。そのたびごとに一夢の無念さはいかばかり、しかし対手は先輩だから言葉を返 すことは出来ない。さんざん苛《いじ》められるのをじっと堪《とら》え通しました。  石川一夢(二)  しかるところ、その辛抱が報いられて一夢は次第に上達、聴衆《きやく》にも認められるようになって来 たが、五岳はこれが不快でたまらず、 「チェッ、今の客には芸を聞き分ける耳が無《ね》えと見える。アァいやだいやだ。一夢たんぞがどう なるものか、もしも彼奴《あいつ》に看板が上げられるようになったら、乃公《おいら》ア豆腐の角へ頭を打《ぶ》つけて死 んで見せらア」  とまで憎まれ口をきいておりましたが、案に相違して一夢はずんずん昇進、とうとう今日の位 置を占めるに至りましたに反し、五岳の方は相変らず中座読み、真打の資格までに達していませ んから、今度は地位が反対になりました。と言ったところで約束通り、豆腐の角へ頭を打つける ことも出来ず、面白くないので笹川五岳、江戸を見限って大阪へ行っちまった。この芳次郎とい う若者はその五岳の伜で、これは江戸へ残って仲町《なかまち》の古着屋へ奉公をしておりましたが、一夢は 以前《もと》の仲間の伜だからよく知っております。それゆえ大いに驚きまして、 「冗談じゃアない。何という短気なことをしなさるんだ。モゥ一ト足|乃公《わし》が遅かろうものなら、 可惜《あつたら》いい若いものを、二人玉《ふたしりたま》なしにするところだった。知らない人でも見のがしに出来ないこと、 況《ま》してや知合いの仲だ、いずれよくよくの仔細もあるに定っているが、往来で話も聞かれないか ら、ひとまず乃公の宅《うち》まで一緒に来なさいよ。サア、姐《ねえ》さんも泣いていないで、芳さんと一緒に 私の宅へおいで。決して悪いようにはしないから」  と一夢が、懇《ねんこ》ろに男女《ふたり》を宥《なだ》めました。こうなれば幾分か興奮も落ちつきますから、モゥ男女《ふたり》と も水へ飛び込もうという心持はありません。きまり悪そうに首をうただれ、情々《しおしお》として一夢のあ とへっいて参ります。ようやくに二葉町《ふたぱちよう》のわが家ヘ帰りました一夢が、奥の一間ヘ男女を通しま して、 「芳さんや、一体どうすれば死なずに済むのだえ」  結論を先に聞きましたのは、この辺がやはり苦労人でありましょう。芳次郎はモジモジいたし まして、 「先生、訳《わけ》をお話しなくてはわかりませんが、御承知の通り私は、親父が上方へ参りました後も 当地へ残り、浅草仲町の富田屋さんという古着屋へ奉公をしております」 「ウムウム、それは知っているよ」 「富田屋さんは店も大きく、私の外に番頭さんも手代《てだい》小僧も多勢おりますが、その同じ富田屋さ んの奥へ、仲働きに来ていましたのが、ここにいるお浜……さんという人で……」 「ア、この姐さんは、お浜さんというのか」 「左様でございます。至って内気なおとなしい女で、私はこのお浜さんが、初めて奉公に来た時 から、何となく心を惹《ひ》かれていたのでございますが、それが縁というものか、思えば思わるるで 後になって話し合って見ますと、お浜さんもやっばり最初から、私が好きだったと申しました」 「オイ芳さん。ふざけちゃアいけないよ。身を投げようというところを助けられて来た者が、よ る夜中《よなか》おのろけは驚いたな」 「イエこれは本当の話なので、気があれば目も口ほどに物を言いとやら、お互いに慕わしく思っ ておりますうち、私が風邪《かぜ》を引いて熱が上り、ドッと寝込んだことがありました。その時にお浜 ちゃんが夜も寝ないで付き切りの看病、一晩中頭を冷たい水で冷し通してくれました。外の朋輩《ほうぱい》 は白河《しらかわ》夜舟、アアお浜どん済まない済まない、さぞねむかろうに飛んだお世話になりましたと言 ったら、アラいいんですよ、朋叢は相見互いです。とりわけてお前さんの着病をするなら、私は 睡くも何ともありません。私はいっそ嬉しいくらいですと……」 「オイ、いい加減にしないかえ」 「その一心が通じて翌る朝までには、熱もぐっと下れば風邪もケロケロと治《なお》っちまいました。ア ァありがたい、私はお蔭で助かった、お浜どん、この親切は忘れないよと礼を申しましたら、何 ですねえ他人行儀な、私こそ忘れませんわと、私の手をギューッと握って……」 「仕様がねえなア、呆《あき》れた男だ」 「とうとうそんなわけで、何が何して、何だもんですから、二人はどんなことがあろうとも決し て別れまい離れまい。末は必ず夫婦になろうねと、堅い約束をしたのですけれども、お浜さんは 不仕合せな身の上で、幼《ちい》さい時に両親に死に別れ、他人の手で育てられたんですが、その養い親 が強欲の怠け者で、のべつにお店へ来てはお浜さんを呼び出し、小遣銭を貸せと強請《せび》るんです。 水商売じゃアあるまいし、堅気《かたぎ》の家へ奉公している仲働きが、何でそんなに一々|貢《みつ》げる力があり ましょう、そのたびごとに私が見るに見兼ねて一両二両用立てて上げましたが、私だって奉公人 の身で、そんなお金のあろうはずもなく、ついお店のお金を使い込んじまったのが、たまりたま って、とうとう百両……」 「えッ、それはまたえらい穴をあけたものだな」  と、これには一夢も呆れました。頭をかいた芳次郎が、 「イエそれというのも一番しまいに、お浜ちゃんの親父という人に掛け合われ、どうにも手元が 苦しいから、お浜にお店から暇《ひま》を取らせ、勤め奉公に出したいと思うが、それも可哀想だと思っ たら、まとまって五十両貸してもらいたいとせがまれて、苦し紛れにその金を融通したので、前 方《まえかた》からの分と合わせて百両金という大きな使い込みになっちまったのでございます。そのうちに 何とか穴埋めをしようものと、今まではどうやら胡魔化していたのですが、もういけません。明 日になればお店で総勘定の棚卸《たなおろ》しをしますので、今まで隠していた使い込みも一遍に現れてしま います。私はお暇《ひま》になるだけでは済みますまい。次第によれば突き出されてお仕置も受けなくて はならず、そんなことになりましては、お浜さんと添う望みも絶え、この世に楽しみはありませ ん。たまじ生き恥をさらそうより、御主人様への申しわけに死のうと覚悟をきめまして、お浜ち ゃんにもそのことを話しましたところ、お浜ちゃんがこれは皆私から起ったこと、私ゆえにお前 さんを、一人殺すことは出来ませぬ。互いに不運だった今の世の中にお去らばをして、未来とや らで楽しく一緒にたりましょうと、心中の相談がまとまったのでございます。そこを人もあろう に先生に見つけられ、こんな擁《はす》かしいことはございません」  と芳次郎が打ちしおれれば、お浜は挟《たもと》を美しい顔に押し当て、湾々《さめさめ》と泣くばかりであります。 幾度も打ちうなずいた石川一夢が、 「アアそうか、わかったわか^リ一た、大方そんたことだろうと思ったが、さりとはいかに若い者と はいえ、突きつめて無分別な考えを起したものだたア。死んで行くお前たちは、好いた同士が手 を取り合い、三途の川に死出の山も、仲むつまじく越えて行き、一っ蓮《はちす》に托生の、未来は夫婦と それでよかろうが、主人の迷惑、親たちの歎き、世間のことを考えないのか。百両や二百両のは した金で命を捨てようとは何という浅はかだえ。といってその百両がなければ、死にでもせずば 引き込みもつくまいが、よし、仕方がない、乃公《わし》が今夜この場へ通り合わせたのも因縁だろうし、 殊に知合いの仲であって見ればこれも掛り合いだ、何とか始末をつけてやろうから、あまり心配 をしなさんな」  慰めました時に芳次郎が、 「先生、その思召しはありがとう存じますが、どうも私として先生へ、この御面倒を背負わせま しては、どうにも心が済みません」 「フーム、そりゃアまた何故《なぜ》だね」 「先生、私は何もかも皆父親から聞いております。外の者ならともかくも、私は先生の御修業時 代から意地の悪いことをし通して、先生に辛く当った笹川五岳の伜でございます。親父が上方へ 逃げて行ったのも、先生へ済まないと思うきまりの悪さから、江戸にいたたまれなくなったためで ございます。いわば先生には敵《かたき》の伜が、先生に助けられましては、あ、あんまり悪うございます」  唇をかんで芳次郎、今さら自分の身に報《むく》うて来た親の因果を、漸擁《ざんき》後悔しております様子。元 より一夢としても芳次郎の顔を見た時から、その親の五岳に対する不快な感情を、思い出さずに いられようはずもなかったのでありますが、今、芳次郎にこう言われました時に、ハッと胸中の 弱点をつかれた心地がいたし、しばらくはじーっと考えておりましたが、 「芳次郎さん。それなればこそ私はなおのこと、お前さんに尽して上げなくてはたらたい。なる ほど私はお前さんのお父さんに、辛抱の出来ぬほど、随分ひどい目にも遭わされて、血の涙を流 したこともあったが、それを世間で知っているだけに、お前さんの不仕合せを、アァいい気味だ、 ざまを見ろと私が見殺しにすることが出来ないんだよ。君子|振《ぶ》ったことをいうようだが、仇を報 ゆるに恩をもってせよとやら、また考えて見れば、私が五岳さんに苛《いじ》められ、今に見ろっと奮発 したればこそ、どうやら今の境涯になれたのだから、五岳さんは却って私の恩人ともいえよう。 その恩人の伜さんへ、今こそ一夢の恩返し、どうか心配せずに受けておくれ」  と中しましたのはさすがに人の頭《かしら》に此って、第一流といわれる人物の考え、また違ったもので あります。芳次郎はますます痛み入って頭も上りません。しかしもう夜も更けたことだからと一 夢は若い男女《ふたり》を一間へ寝かせ、夜あけを待って出向いて来ましたのは、相生町《あいおいちよう》の伊勢屋万右衛門 という、これは一夢を贔屓《ひいき》にする大きな質屋の主人さんで、平生心やすくしておりますから、一 夢はこれへ参りまして、 「伊勢屋の甘那、早朝から突然《たしぬけ》に、無理なお願いをいたすようでございますが、若い男に若い女、 人間二人の命の助かること、どうかこの私に百両御用立て下さいませぬか」  と事情を話して頼み込みました。  石川一夢(三)  委細を聞いた万右衛門が、 「なるほどなア、二百二十九カ村、何万何千人を助けるため、一身一家一族を投げ出したという、 天下の義民宗吾様の伝を、読物にしなさるだけあって、先生の義心つくづく感服しました。外な らぬお前さんのこと、いかにも御用立てしましょうが、平生《ひごろ》の懇意は懇意、贔眉《ひいき》は贔屓でこれは 別物だ。私も何分何厘という細かい十昂盤《そろばん》をはじく質屋が渡世であって見れば、何にも抵当なし で、とにかく百両という大枚をお貸し申すことはどうかと思う。そこが即ち商売|冥利《みようり》だ、先生ど うだろう、何か抵当《かた》を預けては下さらんか」  言われて一夢が当惑いたしまして、 「旦那、出来ない相談をおっしゃられては困りますねえ、タカの知れた講釈師、家中の家財道具 をありったけ界《かつ》いで来たって、とても百両の抵当には足りますまい、そりゃア到底駄目でござい ます」  と申しますと万右衛門が、 「先生、何を言いなさる。私は何も、先生に朝夕の不自由をさせて、夜具布団や鍋釜を預かろう というのではありませんよ。形のある品物では、百両に足りるか足りないか、そんなことは他人 様《ひとさま》の財産だから私《わし》は知らないが、先生は形のない品物で何千両何万両という価値《ねうち》のあるものを持 っていなさるではないか」 「工、形のない品物で何千両:…」 「そうですよ、お前さんが高座で売物の講釈は、先生でなくてはという折紙つきのものばかり、 これが皆何千両の品物じゃアないか、とりわけて『佐倉義民伝』は天下一品、どうですえ、あの 読物を私が質物として預かろうではありませんか」 「へえー、講釈を質に取るのですか」 「どうだえ、前代未聞で、面白いじゃアないか、いずれあの講釈にも、種本とか台本とかがある のだろう、それを抵当にして、百両御用立ていたしますよ」  言われてホッとした一夢が心づいて見ると、昨夜から心配のあまり、まだ衣類も解かず横にも ならないので、佐倉の種本は昨日のまま、まだ懐ろへ入っておりました。そこでこの台本を伊勢 屋へ預けることにたり、引き替えに百両借り受けましたが、正しく伊勢屋の主人の申した通り前 代未聞、講釈という無形のものを質に置いたというのは、後にも先にもこの一夢ばかりでありま す。それもどんな本かと申せば、半紙一帖、つまりたった二十枚を二っ折りにして綴じたもので、 上下の表紙を除きますと、中味はただのト八枚、それへ講釈の要所要所を記入してあります。い わゆる点取りの種本ですから、他人が見たのでは何が書いてあるのやら要領はわかりません。表 紙には「宗吾神霊美談」、傍ヘ「石川一夢」としてあるばかり、これで大枚百両借りたんですか ら大へんなもの。その頃の百両は、当今の千円以上かも知れません。一夢が伊勢万の知遇を感謝 して、帰ろうとすると万右衛門が、 「ところで先生、お断り申すまでもないが、これを抵肖として預かっている間は先生も佐倉義民 伝は読みなさるまいね」  念を押されましたから、 「もちろんでございます。私も不肖ながら石川一夢、決してそのような不徳はいたしませんから、 御安心を願います」  堅く誓いまして二葉町へ帰る。芳次郎お浜はどうなることかと、青くなって心配しております ところへ、一夢が戻って参りまして、 「サアニ人とも、金は出来たから安心しな、万事は私が話をつけてやる」               なかまち             いちぶ しじゆう  と申しまして、これから一夢が仲町の富田屋へ参って主人に逢い、一伍一什を話して芳次郎の 取りなしをいたしました。使い込みの百両を弁償した上、あらためて一夢が身元を引き受けての 詫《わ》び言ですから、これは円満に解決します。そこで、 「またもや間違いが出来るといけないから」  というので、これを機会に芳次郎とお浜を夫婦にして、二階借りながら世帯を持たせ、芳次郎 は富田屋の店へ通い番頭、忠実に店務《しごと》を励むこととなり、思い合った男女が晴れて添われました のも一夢のお蔭と、これは天へも上る喜びだったに違いありません。一夢もまことにいい心持、 ところがその後始末に気をとられ、うっかりしていた一夢がいつもの通り、五郎兵衛の席の高座 へ上ってからヒョイと気がつきましたのは、 (サア大変、モウ今日からは昨日の続きと演《や》ることが出来ない。佐倉は質に入れちまった、これ は困った)  と思ったが仕方がない。拠所《よんどころ》なく、 「エエ伺い続きの佐倉義民伝、これよりは仏光寺|光然《こうねん》の逆の祈りから、怪異のお話に相成ります が、怪談と申せば同じこの下総の木下川《きねがわ》にありましたのが、有名な累《かさね》のお話、元来この累と申し ます婦人は……」  と巧みに脇道へ入って、祐天上人|累解脱《かさねげだつ》の物語に転向してしまった。ひどいことになればたる ものだが、これがまた一夢の得意とするところゆえ、聴衆も喜んでいるうちに、ちょうど月末に なって五郎兵衛の席も千秋楽となりました。  石川一夢 (四)  しかるところその翌月は、一夢の持席が日本橋四日市の翁亭《おきなてい》という、これは翁|稲荷《いなり》と申すお稲 荷様の傍にありました講釈場で、場所柄でありますから、魚河岸《うおかし》の連中が皆この席の定連になっ ておりました。大看板の石川一夢が、久々でこの席へ出るというので、初日から一杯の入りであ ります。二、三人の前講が済んでいよいよ真打の一夢が出演、待ち構えていた一同が一度に拍手 をもって迎えました。一夢は懇勲《いんぎん》に礼をいたし、 「さて本日より久々にて、御当席へお目通りをさせて頂きまするが、毎々のお引き立てまことに ありがたい仕合せに存じます。つきましては前後二席のうち、前段は時鳥伊達の聞書《ききがき》、後段はぐ っと趣を替え、天明自浪伝《てんめいしらなみでん》を長講に……」  と言いかけると定連が納りません。 「先生々々ちょっと待っておくれ」 「ハア、何でございます」 「何でございますじゃアねえよ。前席は何でも構わねえが、後席は佐倉にしてもらいてえな。久 し振りで先生が此席《ここ》へかかったんだもの、せめて一席は先生の十八番、天下一品という佐倉を聞 きてえじゃアねえか、これは定連一同が楽しみにしていたんだ。是非とも佐倉義民伝をやって下 さいよ」  一人が発言すると八方から、 「そうだそうだ、宗吾様をたのむ」 「義民伝々々々」 「佐倉々々」 「エエ成田線は乗替え」 「省線と間違えちゃアいけねえ」  ワイワイという騒ぎになり、口々に義民伝を所望いたしました。サア石川一夢が困ったの困ら ないの、高座の上で真っ赤になっちまい、脇の下から冷汗を流しながら、 「エエどうも、折角でございますが、仔細あって義民伝は、ただ今は読むわけに参りません。ま ことに恐れ入りますが、どうぞこの次までお預けを願いとう存じます」  断ったが定連は承知しない。 「先生々々、何もそんなに、お高く止まらなくともいいじゃアねえか」 「意地の悪いことを言うなよ」 「何を読むんだって同じ骨折りじゃアねえか、皆が好むものを演《や》ってくれよ」  またワアワアと騒ぎ出した。絶体絶命になりました一夢が、 「これはどうも困りましたな。決して、お高く止まるのでも、意地の悪いことを申すのでも、勿 体《もつたい》をつけるものでもございませんが、こうなっては仕方がありません。くらやみの恥を明るみへ 出して白状しなくてはおわかりにもなりますい。実はあの読物は、これこれの次第で、相生町の 伊勢屋さんという所へ、質に入れましたのでございます。そこの御主人と堅く誓った言葉もあり、 私も石川一夢、一旦質に入れました以上は、それを受け出しませんことには、二言もお話をいた すことが出来ないのでございます。どうぞ悪《あ》しからず、御勘弁を願います」  頭をかきながら事情を話した、すると一同が、 「何、講釈を質に入れた……」 「ハイ、抵当として、その種本をお預けしてございます」 「そんなら一つ請け出して演《や》ってもらおうじゃアねえか、全体いくらで預けたんだえ」 「ハイ、一夢は決して嘘も掛引きもいたしません。相生町の伊勢万さんでお調べ下さればおわか りになりますが、 一百両借用しました」 「ゲエーッ、質の代は百両かえ」  とさすがにこれには定連も驚きましたが、そこは威勢のいい魚河岸の連中です。 「べら棒めえ、乃公《おれ》たちがこうして多勢揃って、佐倉を演れと好みの注文を出しておきながら、 百両に驚いて手が出せず他の読物で我慢をしたと言われちゃア、他の土地の者に聞かれたって外 聞が悪いや」  】人が口を切ると早速他の者も同意いたし、 「そうだともそうだとも、四日市《よっかいち》の翁亭の定連の顔に拘《かか》わらア」 「魚河岸一統の名折れだぜ」 「魚河岸ばかりじゃアねえ、江戸っf全体の恥だ、先祖の助六に申しわけがねえや」 「乃公たちでそれを請け出そうじゃねえか」 「当り前だ、乃公なんざアこうなりゃア乃公一人でもそのくらいは出す気でいた、角の地面を叩 き売ってもいい」 「オイお前、地面なんかあるのか」 「ウームその……箱庭があらア」 「巫山戯《ふざけ》ちゃアいけねえ」  大へんな騒ぎになりまして、これから各自《めいめい》で志を出し合うと、何しろ気前のいい連中の上、富 貴《ふつき》な土地だし、多勢だからたちまち二百何両と集まりました。一夢も、 「アアこれほどまでに講談を好んで下さるか」  と感激いたし、すぐに使を走らせて伊勢万へ、百両並びにその利子を持って台本を取りよせ、 立派に講演することが出来ましたが、情は人のためならずとやら、義心から発して男女二人の命 を助けるための入質《いれじち》も、かような結果になってすぐに質請《しちうけ》が出来たヒ、残り百両が自分の祝儀に なった。それのみならず、 「種本を百両という莫大な金高で質に取るとは、全体どれほど面白い講釈なんだろう」  と、評判が評判を生んで、我も我もとこれを聞きに殺到いたし、翁亭は毎日々々非常な大入り、 今で申す素晴しい宣伝になりまして、石川一夢の名声はますます高く相成りましたが、一方大阪 において笹川五岳は、江戸から参りましたわが子芳次郎の書信により、一夢が旧怨を忘れて親切 を尽してくれた次第を承知いたし、 「アア申しわけもねえ。あんなに苛《いじ》めぬいた一夢さんに、伜の命を助けられるとは何たる皮肉だ、 心の寛《ひろ》い一夢さんに引きかえ、アア乃公はつくづく浅ましい根性だった」  と悔恨の涙にくれ、両手を合わせて遙かに関東の方を伏し拝み、細々《こまごま》と謝罪と感謝の書状を一 夢へ送ったと申すこと。その後は双方円満に親交を結んだこと申すまでもありますまい。まこと に芸術は人格の反映と申すべく、この心がけあればこそ、石川一夢がかような名誉を博したもの でありましょう。題して種本一百両、講談界古名人のお物語であります。  名人しん生(一)  初代馬生の門人で鈴々舎馬風《れいれいしやぱふう》という、これはあまり大家でも名人でも大看板でもない、中くら いの落語家が、ある席で「九州吹戻し」という一席物をやっておりました。近頃はあまり演《や》る者 もありませんが、これは喜之助という男が肥後の熊本から江戸へ帰る途中、大難風に出逢い、玄 界灘から薩摩の桜島へ、百二十里吹き戻される話であります。しかし何の芸でも同じですが、演 者が巧くないと引き立ちません。これを楽屋で聞いておりましたのが、初代の古今亭《ことんてい》しん生《しよう》であ ります。  しん生はどこから出たかと申しますと、前に述べました初代の三遊亭円生に、多勢弟子もあっ た中で、円太と円蔵の二人が、二代目円生たるべき候補者だったところ、その二代目は円蔵がつ ぐことになりましたので、面白からず思った円太は、とうとう師匠のところを飛び出し、旅から 旅へ流浪の人となりました末、七、八年を経て弘化四年の秋、江戸へ帰って来まして四谷の忍原 亭へ、古今亭|新生《しんしよう》という名で看板をあげ、その後真生と文字を改め、さらにしん生と書くように なった。これが即ち初代の古今亭しん生であります。  この人俗称を清吉と申し、小玉屋権左衛門という商家に丁稚《でつち》奉公をしていましたが、天性大の 落語好きで、円生の門へ入りました次第。そのしん生は二代目円生の候補に擬せられていたくら いですから、もちろん話は巧かったとこへ、七年間の旅修業で、苦労もした代りには鍛錬も出来、 みがきが掛って一層上達、モゥこの時代には落語も以前のような小咄《こばなし》でなく、話の風も一変し、 一席の長いものにまとまった落語となっていましたが、同時に続き物の人情噺も歓迎され、真打 は必ずこの続き話をするものと極っていた有様、ところがしん生はその人情噺に妙を得ていたの ですから、たちまち名声隆々として上り、押しも押されもせぬ大看板とはなったのであります。  そのしん生が馬風の「九州吹戻し」を聞き、じっと考えておりましたが、やがて下りて来た馬 風に向って、 「何と馬風さん、あの話を私に譲ってくれないかね。いかにも面白くよく出来た話だが、失礼な がら馬風さん、お前さんには向かないと思う。私にゆずって演《や》らせてくれれば、もっと物にする ことも出来ようと思うが--・・」  と交渉した。馬風は相手が人先輩のしん生だから、」も二もなく承諾して、 「大体私には、荷の勝ち過ぎていることもよくわかっておりましたが、師匠がやって下されば結 構でございます」 「そうかえ、では譲ってもらおうが、代はいくら上げようねえ」 「イエいくらにも何にも、そんな御心配には及びません」 「イヤイヤそうでない。とにかくこれを家業の種にするのだから、無代《たた》では私の気が済まない。 とにかく気は心だから、軽少だが納めて下さい」  と金千匹差し出しました。ただ今では千匹などといっても通用しませんが、百匹が一|分《ぶ》即ち二 十五銭ですから千匹は二円五十銭、もっとも今日でも、華族さまなど格式いかめしき旧家では、 恭々《うやうや》しく紙包にして相変らず、金一千匹などと、立派な文字も鹿爪《しかつめ》らしく、奉書水引立派型にし て出すところもあるそうです。粗々《そそ》っかしい奴は千円下すったのかとびっくり仰天、大喜びであ けて見ると五十銭札五枚で、がっかりしたりすることもあると聞きましたが、何はともあれその 頃の二両二分ですから相当の額だったに違いありません。 「折角ですから、頂いておきましょう」  と馬風も喜んでこれを納めましたが、こうして完全に取引きが済んで見れば、しん生はその晩 から、自分の物として口演してもいいのですが、そこが昔の芸人軽率なことはいたしません。こ れから今日でいう演出の工夫にとりかかり苦心惨鷹、寄席を休んでわざわざ下総の銚子《ちようし》へ出かけ ました。今でも汽車で四時間かかり、往復すれば一日仕事、況《いわ》んや昔のことですから、船で行っ ても容易ではありません。しん生は銚子へつくと、海岸の漁村へ泊り、犬吠《いぬぼう》岬の巌頭に立っては、 毎日々々海を眺めておりました。   〇九州吹戻し 柳橋の裏河岸にきたり喜之助という男、放蕩の揚句、借金のため江戸を逃げ出し、流れ流    れて肥後の熊本、江戸屋といえる旅籠の主人に助けられ、元来器用ものとて、料理の手伝い、歌三味の    指南、座敷に出て取巻きもなせしため、相当の貰いもあり、足掛け四年百両ほどの蓄財を得たるにぞ、    江戸なつかしさに帰心矢のごとく、暇を取りて出立せしも、途中にて道に迷い、ようやく江戸行きの便    船へ乗せてもらいしが、大難風に出あい、桜島へ吹きつけらる。即ち喜之助は主人の注意を聞かず、帰    りを急ぎすぎしため、百二十里吹き戻されしという筋なるが、この男の浮沈を始め、出立前夜嬉しさの    余りの空想独白、沿岸の風光説明等、達弁を要するむずかしき話なり。  名人しん生 (二)  御案内のごとく銚子の犬吠岬は有名の絶勝でありまして、 里の太平洋から寄せては返す激浪怒濤、山より高き大波の、 奇石怪巌海中に起伏|幡距《ぱんきよ》し、一望万 崩るるごとく襲って来るやつが、断     ぶ                            あられ 崖絶壁に打つかつて、狂瀾たちまち砕け散れば、巌に激する水煙り、雪か霰か白玉の、飛沫躍動 する壮観偉観、到底筆舌の名状し尽せるものではなく、大灯台が常に航海の船舶へ、警告と便宜 を与えつつ、その安穏を守?ているほどの場所でありますから、物凄くもまた恐ろしき光景は、 その実際に臨んだものでたければ、想像してもわかりません。  さればこそしん生は、わざわざここを選んで実見に出かけ、毎日々々巌頭に立っては、轟き渡 る風浪の音に、雄大の気分を養いっつ、千態万状窮まりなき、女浪男浪が変化の様を、仔細に観 察してはその形容を、あれかこれかと研究しておりました。そして漁夫に就いては暴風雨のとき の実況を尋ねたり、難船難破の経験談を聞いたりした。何でこんなことをしたかと申しますと、 即ちしん生はこれによって、「九州吹戻し」の主人公たるきたり喜之助が、熊本を発《た》っての後、 薩摩の桜島まで百里の海上を吹き戻されるという、この物語の山になる肝腎な条《くだり》の演出に使うた めだったのでありました。文筆の士も大ていは、机の上の想像で創作するのが通例であります のに、卑近の舌耕を業とするしん生が、こんな苦心を積んで表現に資したという芸術的努力は、 まことに学ぶべく尊敬すべき精神だと存じます。ただ見れば何の苦もなき水鳥の、足にひまなき 我が思いかなとやら、およそ一事一業を成就《じようじゆ》したものの裏面には、大なり小なり、必ず人知れぬ 苫労の伴わぬものはありませぬ。  しん生は馬風に対し必ず私が物にするからと約束した言責を重んじ、これほどの苦労をして研 蟹に研鐵を積み、推敲《すいこう》に推敵を重ねて完全に自家薬籠中の物とした「九州吹戻し」を、江戸へ帰 って披露口演しましたところ、さらぬだに名人のしん生が、特に魂を入れての芸術、これが受け なかろうはずもありません。期せずして高評湧くがごとく、しん生の「九州吹戻し」は、たちま ちに極め付きのものになり、「明晩九州吹戻し」というビラを辻々ヘ張り出し、これを撒《ま》きビラ と申しますが、この広告をすると必ず大入り満員になること極っていたと申します。芸もここま で行きたいもので、即ち苦心と努力は立派に報いられた次第、後の名人円朝も、 「しん生の九州吹戻しは真似も出来ない」  といって、自分もやらず、弟子にもやらせなかったと聞いております。総体にこのしん生は、 人情噺の巧かった人で、この「吹戻し」や「お富与三郎」「小猿七之助」のような、艶《つや》っぽくて 波瀾に富む世俗の話を得意とし、一時はその名声江戸の落語界を風靡して、八丁荒しのしん生と さえ言われたほどでありました。その演出について工夫をこらした熱心は、「吹戻し」の場合と 同様、なんでも同じことで、「小猿七之助」の話には、七之助の父七五郎が無論出ます。この七 五郎は網打ちですから、しん生は網打ちのことも、一通り覚えていなくては、この話が出来ない とあって、当時有名た網打ちとして知られました柳橋の上州屋慶次という人について、親しくい ろいろと教えを受けて高座へかけましたところ、一人の老人が楽屋へたずねて来て、 「さすがに師匠、心得たものだね。しかし、網を打つところはあれでいいが、上げるところが違 っているよ。四ひろ半の網は、手《た》ぐる時に腕へかけて丸めるものではない。あれは網の先を順々 に畳んで七げなくてはいけません。また、揖子《かじこ》が艦《ろ》を押しながら、後方の手で松明《たいまっ》をかざしてい るところ、あれは四方《あたり》がモヤで暗いため松明をつけるのだから、網打ちの目の先へ出しては仕事 が出来ない。網打ちの頭の方でかざしているものですよ」  と親切に教えてくれましたので、しん生はその通りに演じましたところ、大いに好評を博した             き、く といいます。何しろ多勢の聴衆の中にはどんな専門家が聞いているのかわからないのですから、 うっかりしたことは話せません。不断の研究が大切ということになります。  しん生はその用意に万全を尽したと同時に、演出の上にも、細かい注意や工夫をこらしたそう で、例えば「お富与三郎」を話して、与三郎が島破りにかかる時などは、その五、六日前からわ ざと髪《ひげ》を剃らずに伸ばしておき、着付も薄鼠色のものを用いて、いかにも破獄者らしい気分を出 したり、また夜中のことを話す時は、左右の燭台へ立てた蝋燭の芯を切らずに薄暗くして話し、 いよいよ夜が明けるという時に初めて芯を切って高座を明るくするというような具合、大袈裟に 申せば、話の中へ舞台照明を応用するような技巧を弄して、一段の趣を添えたと申すこと。この 人俳名を寿耕といって風雅の道も心得、初めは浅草、後に本所番場、薬研堀《やげんぼり》等に住んでいました が、安政三年十二月二十六日没し、本所番場本久寺に葬り、法名古今院真生日清信士、行年時に 四十八でありました。 初代の南竜 (一) 下総佐原在森戸村に、 作右衛門という農夫がありまして、 伜を作内《さくない》と申し、 これが小児の時か ら大分変っておりました。どう変っていたかと申すと、神童でも天才児でもなく、どちらかと言 えば常識を欠いているような塩梅《あんぱい》、ハナを垂らして遊んでいる時分から、 「乃公《おれ》は今に天下の豪傑になるんだ」  といって威張っていた。その様子があまり怜倒《しワこう》者とは思われませんから、村内の人々はみんな この子を莫迦《ばか》にいたし、 「ありゃア作内じゃアねえ百内だ」  といって、誰も本名を呼ばずに縛名《あだな》の百内の方が通りがいいようになりました。しかし本人は 平気たもので、 「ナニこいつらにおれの心持がわかるものか、今に天下の豪傑になってから驚くなよ」  と心中に笑っていましたが、草ぶかいこの土地にじっとしていては、天下の豪傑になれそうも ないと考えたか、十八、九の時にボンヤリと村を出まして江戸ヘ行った。他にたよる所もありま せんから、ちょうどこの森戸村を領分にしている三千石の旗本、瀬名源五郎のところへ折助《おりすけ》奉公 に入りました。瀬名氏の邸は麹町の番町であります。何しろ将来は天下の豪傑にたろうという大 望があるから、勤めもおろそかにはしません。よく働くので作内作内と可愛がられた。するとこ の家中に、荻田佐内という侍がありまして、 「作内作内」 「ヘエ何です」 「御苦労だがちょっと行って来てくれ」 「ハアどこへ参ります」 「この小袖を持って伊勢屋へな」 「アレ荻田さんまた質を置くのか」 「叱《し》ーッ、これ大きな声をするな」 「いくら入用だね」 「ぜひとも一両なくては困るんだ」 「ハアようがす。頼んで見ますべえ」 風呂敷包を抱えて麹町二丁目の伊勢屋という質屋へ参りましたが、先方では品物を見まして苫 い顔をいたし、 「どうも折角ですが、これでは一両とてもつけられませんよ。せいぜい三|分《ぶ》というところで」 「イヤそれは困る、何でも一両借りて来うと言いつかっただ」 「だってそれだけの値打がないものを、仕方がないじゃアございませんか」 「いいではねえか、知らねえ顔ではなし、荻田さんもお前がとこの常花主《じようとくい》だ。一|分《ぶ》ぐれえの違い なら無理でも都合して下せえよ」 「ところがそうは参りませんので」 「しかし乃公《おれ》だって小児の使ではなし、断られたからといってハアそうかとは帰れねえ、使をた のまれた甲斐《かい》がねえというものだ、待ってくんろよ」  何をするかと見ていると、作内懐ろから鼻紙を出しまして、幾分風流の方もたしなんでいたも のと見え、サラサラと書いたのが、   この質をおぎ田からには、流さ内、伊勢や熊野の神にちかひて  という狂歌でありました。これを伊勢屋の主人が見まして、 「ハハハこれは面白い。よろしゆうございます。それではこの狂歌に対して、一両御用立ていた しまよう」  と貸してくれました。作内|美《み》ン事《ごと》使命を果し、大得意で帰って来た。  こんな風ですからまことに評判もよろしく、自分も節倹を旨として働きましたから、数年の間 に七十両も蓄財が出来ました。今なら郵便局へでも持って行くところでしょうが、その頃のこと だから預けるところがない。御用人様なら間違いもなかろうと考えて、中村惣右衛門という用人 に預けておいたところ、そのうちにこの惣右衛門がポックリ病死、調べて見ると内証も苦しかっ たものか、とても遺族には七十両返済の見込みが立たないということになりました。イヤどうも、 作内が永らくの辛抱も水の泡になって、がっかりしたこと一通りでありません。しかしそこが変 り者のことだから、じーっと痩せ我慢をして平気な風を装い、お通夜の晩にも棺の前で懇ろにお 経を諦み、回向《えこう》をいたし、   時は今、神なし月の事なれば、仏のために斯《か》くはたすなり  と自作の狂歌を高らかに唱えながら、例の七十両の預かり金通帳ですか証文ですか、とにかく 惣右衛門から後日のためとして、作内に与えておきました書付を、ずたずたに引きさいて、棺の 中へ投げ入れまして、そのまま部屋へ引き取りましたものの、心の中は残念で悲しくてたりませ ん、ところがこのことが主人の瀬名源五郎の耳に入りまして、 「下郎ながらまことに天晴《あつばれ》の精神、左様な人物を仲間にしておくは惜しいもの」  とあって、日ならず上分に取り立てられました。イヤどうも、作内の喜び一方ならず、禍い転 じて福《さいわい》となるとはこのこと、思いもよらぬ身の出世に、手の舞い足のふむところも知らぬくら い、いよいよ目的の天下の豪傑になりかかって来たぞと喜びました。  初代の南竜(二)  これから苗字も例の荻田さんから一字を貰って荻沼《おぎぬま》と名乗り、荻沼作内という一人前の武士に なったから、ますます励みがつきまして文武両道を学び、中にも剣術は、幸流の鈴木三郎右衛門 を師として精を出し、間もなく免許皆伝をも得ましたので、作内の鼻は高くなるばかり、 「サァもう天下の豪傑になるのは目の前だぞ。これより日本六十余州を遍歴して三百諸侯の指南 番を片っ端から打ち敗かし、武名を宇内《うたい》に轟かせて、拍子がよければ大名にでもなれるだろう」  と大へんな理想を抱いちまった。そこで主人からも暇をとり、中仙道から木曽路ヘかけ武者修 行の第一歩をふみ出したところは、勇ましくもまた物々しき意気組みでありましたが、折から秋 の風冷たく、碓氷峠へかかったのが、折あしくも夜道になりました。  もちろん人っ子一人通るものもたく、そこへ作内がやって来たので、こりゃアいい餌物《えもの》が配給 になったものだと喜んだ一群の狼が、遠吠え物凄く牙を鳴らして、作内目がけて襲いかかりまし た。イヤ作内が驚いたの何の、胆を潰して仰天したが、イヤイヤこんなことでは天下の豪傑とは 言われまい、何のタヵの知れたる狼ども、ただ一刀に斬りすてるぞと、一刀の柄《つか》に手はかけたも のの、相手は狼だ、剣術では勝手がちがいます。後から飛びかかった一頭のために、左の股へ噛 みつかれ、アッと叫んだ作内が、苦し紛れの死にもの狂いで、拳を固めて狼の頭をはり飛ばした ところ、この狼よっぽど腹がすいていたか、栄養不良であったのか、脆くもただの一撃で、引っ くり返っちまいました。これを見ると他の狼たちも、恐れを抱いたものか、みな退散した。作内 はホッと一息、月影も傾《かたぶ》く山路をようように、股の痛傷《いたみきず》を包みつつ、足を引いて峠を越しました が、豪傑修行の第一緒戦に、狼に咬みっかれたなんぞは幸先《さいさき》がよくありません。けれども作内は まだ敗け惜しみが強く、 「ナー二、相手が悪かったんだ。狼はいけない。あいつは苦手だよ、何の、人間が相手なら、荒 木叉右衛門が来ようが、宮本武蔵が現れようが、おくれを取るような拙者ではない」  と天狗心は依然として変りません。これから日を経て摂州の尼ケ崎へ参りましたが、このヒ地 には梶川十太夫という、老人ながら稀代《きたい》の名人と呼ばれる槍の先生があると聞き、 (ようし、それこそ齢擢げ相手だ。タヵの知れたる老いぼれ一人、ただ一ト打ちに打ち据えて、 次第によったら道場の、看板も引き外してやろうぞ)  と試合を申し込んだところ、梶川十太夫、年こそとったれ確かなもの、二間柄の長槍をリュウ リュウとしごいて立ち現れ、ただ一突きに作内を突き倒しました。作内はもんどり打って道場の 隅へ刎《ま》ね飛ばされ、勝負にも何にもなりません。今さら面目を失った作内が、這々《まうまう》の体でこの場 を退散いたし、旅籠屋へ引き上げましたが、つくづく考えましたのは、 (駄目だなア。こんなはずではなかったんだが、梶川のような老いぽれにまで、今日のような見 苦しい敗けをとるようでは、とても剣道では見込みがないよ、アアいかんいかん。武者修行もこ れでおしまいにしよう。しかし何とも残念だが、アアそうそういいことがある。乃公は生れつい て弁舌が達者なのを幸い、これは一っ講釈師になって、古今の英雄豪傑を舌頭に上せ、思う存分 気焔を吐くことにしよう)  というところへ気がつき、これから江戸へ帰りまして、初代の田辺南鶴の門に入り、竹刀《しない》に代 る張扇《はりおうき》で釈台を叩《たた》く身の上となりました。これが即ち初代の田辺南竜であります。思えば随分奇 抜な変化多き閲歴をもった人でありますが、御記録読みの軍談師は、この人の性に合ったものと 見え、ぐんぐん売り出して名声を博しました。こうなると南竜ますます奇人振りを発揮し、いつ も高座で、 「日本に過ぎたるものがニッあり、駿河の富+に田辺南竜」  とか、 「小野の小町にゃアラがない。鰭《どじよう》の木登り見たことない。気の利いた席亭こいつもない。田辺 南竜ぬけ目がない」  などと、大言ばかり吐いていましたが、お客は却ってこれを喜んだということ、どっか憎めた い愛矯のあった人と思われます。また、どういう縁故を辿《たど》ったものか、 「乃公《おれ》は鎮西八郎為朝三十八世の末孫だ」  と申し、為朝は嘉応の二年四月八日に没しているというので、毎年その命日に当る四月八日に はお赤飯をふかしてお祭を行ったと申します。とにかく、余程の変人だったには相違なく、安政 四年六月二十七日五十六歳をもって没し、谷中初音町《やなかはつねちよう》観音寺に葬りました。その後をついだ二代 目が、有名なのんのん南竜でありますが、これはまた後に申し上げることといたします。 ○旭堂南麟のこと 同じ頃二代目南鶴の門人に旭堂南麟あり、この人は本名を朝比奈安兵衛といい、父は  今川義元の臣朝比奈駿河守の末葉にして朝比奈忠四郎という六百俵取りの徳川家旗本たりしが、南麟の  安兵衛は放蕩の末、遂に講釈師となりしも武家の気風少しもぬけず、乃公が講釈をして聞かせるのだと  いう見識にて自ら大南麟と称し、小石川武島町に住み人呼びて武島町の南麟という。古戦物語を得意と  し、風流の才もありしが、晩年山の手の某席に出演中、一子明麟、美貌に累せられて素行修まらず、横  浜にて不都合なる婦人関係より殺害せられたりとの悲報至りぬ。折柄南麟は、第二席目を読み終りたる  ところなりしが、この兇変を知って大いに心を痛めしも、自若としてまた高座へ上り残りの後席を講じ  終り、それより初めて門弟たちへ、この出来事を知らせたるにぞ、いずれもその大胆なるに驚けりとぞ。  南麟はこの時筆をとりて、「魂棚へ及び腰なる手向かた」と詠じたるが、その後十三年を経て、明治十 一年八月十三日七十二歳をもって没し、四谷寺町戒行寺へ葬り、法号を昌竜斎昇旭日遊居士という。辞 世に日く「我死なば風呂敷無用さし荷ひ、戒名なしに回向御無用」。  扇橋と扇歌 (一)  武家の出身で講釈師になった人は、既に何人かその例を挙げましたが、落語家になった人も少 なくはありません。初代|船遊亭扇橋《せんゆうていせんきよう》のごときはその一人で、残念ながらどの本を調べて見ても本 名はわかりませんが、以前は奥平家の臣で赤坂に住んでいたとしてあります。常磐津兼太夫の門 人になって若太夫と名乗り、文化六年下谷の吹ぬきという寄席《よせ》へ出たとなっているところを見る と、震災前頃まで下谷広小路の次の池《いけ》の端《はた》へ出ようという横町にあった吹ぬきという寄席は随分 古くからあったものだと思われますが、この若太夫が、落語家になって船遊亭扇橋と名乗りまし た。門人も多勢出来、この人が音曲噺《おんぎよくばなし》の元祖であります。しかして門人の扇蝶《せんちよう》が、後に改名し て初代の柳橋となり、その門人から柳枝が出で、かくて柳連というものが出来たのでありますか ら、落語の柳派にとって、扇橋という名は最も大切な先祖という二とになります。  それはさておき、あるときブての扇橋のところへ、弟子になりたいという男がやって来ました。 応対に出た門人がちょいと見ると、風采《ふうさい》も貧弱、目のしょぽしょぽした、一向価値のない人物な ので、 「サアどうも折角ですがね、うちの師匠は気むずかし屋だから、誰の引き合せもなくだしぬけに 来なすったって、それはとても駄目でしょうよ。それに今日はお客もあって忙がしいし、マアど うぞ悪《あ》しからずね」  体よく断ろうといたしました。するとその男がふるえつきたいような美音を張り上げて、 「エエ乗り出した船じゃもの、沖のはてまでサアやりましょう。ソレおもかじも、とりかじも、 せん橋師匠の胸じゃわいな」  と歌いました。咽喉《のど》といい、節廻しといい、びっくりするほど巧《うま》いので、そこは音曲を命とし ている扇橋のこと、早くも、 「ウウムこりゃ大したものだ、使えるッー」  と見ぬいてしまい、 「マアいいから此方《とつち》へ上げな」  家の中から声をかけました。本人も喜んで上って来たので、あらためて扇橋が面会し、 「お前さんなかなか巧いねえ」 「ありがとう存じます」 「芸は何をやりなさる」 「マァ一番好きなのは、よしこの(好此節)ですね」 「よしこのばかりじゃア売物にどうかな」 「イエまだ他に、謎《なぞ》も出来ます。何でもいいから題を出して見て下さい」  と申しました。そこで居合わす門人たちが、代る代るかなりの難題を出しましたら、この男は 何の苦もなく、片っ端からそれを解いて、しかも三味線であしらいながら、唄にして歌いまくり ました。その奇才には扇橋はじめ一同ますます驚いて、そこでこの男の入門をゆるし、高座へ出 して見ると果せるかな、大受け大人気でたちまち売出し、大そうな評判をとりました。この人物 こそ、都々一《どどいつ》というものを歌い始めた元祖で、即ち初代の都々一坊扇歌であります。  由来この人の伝記は、区々に伝えられて判然しなかったのを、文筆の傍ら(今では街歌《がいか》と呼称 を改めておられますが)都々一の作家であり研究家である、先輩平山|薦江《ろこう》先生が、先年土地の有 志の懇請により、扇歌の郷里たる茨城県石岡へ赴かれ、くわしく調査せられたため、ようやく具 体的になりましたから、それによってお取次ぎいたしますが、この人幼名を福次郎といい、父は 常陸太田在|磯部《いそべ》村の、岡玄作・という医師としてあります(他の説には、水戸藩の医師桜井玄達と いい、その子として水戸市下市横竹隈町に生れたが、後に磯部村へ移ったのだともあります)。 このお父さんもちっと変っていた人と見え、水戸へ出て藩医の原南陽のお弟子になり、医術修業 中にも相当放蕩をしたそうで、伜の福次郎が七つの時に庖瘡《ほうそう》にかかったところ、庖瘡に松魚《かつお》は大 毒だと、医道の書物に書いてあるのを見ながら、 「本当に毒かどうか一っためして見よう」  とばかり、乱暴なお父さんがあればあるもので、わが子に松魚を食べさせたところ、サアたま りません大苦悶を始めて、たちまち盲目になっちまった。さすがの玄作先生もびっくりして、周 章狼狽いろいろ手を尽した結果、辛うじて失明はとりとめたものの、爾来福次郎は終生目をしょ ぽしょぽさせているようなことにたったのだと申します。  この親にしてこの子ありで、福次郎も父親の奇抜な気性を受けついだものか、大分常人とは違 っていて、十四の時にはモゥ家を飛び出し、今は日立市となりましたが、助川の近所の相田村と いうところで小僧奉公をしたが、勤まりません。逃げ出して磯部へ戻り、今度は桝屋《ますや》という酒屋 へ養子にやられましたが、これまた尻が据らないでここを逃げ出し、あとは三味線かかえて放浪 生活、二十歳になった頃は、居候をしていた叔父さんの、これもお医者さんですがここから一両二 分の路銀をもらい、磐城|平《たいら》の湯本あたりを、歌をうたって渡り歩いていたということであります。  扇橋と扇歌 (二)  流れ渡りの旅芸人、いい時ばかりはありません。年中火の車で懐ろが苦しく、後に都々一坊一 代の傑作として伝えられました、   白鷺《しらさぎ》が小首をかたげて二の足ふんで、やっれ姿の水鏡  という歌なども、この時分に出来たのだということ、生活の悩みをそのまま唄にした、悲痛の 叫びであったかも知れません。しまいには商売用の三味線まで手放してしまって、その代用品と して味噌漉《みそこ》しの底をぶちぬき、西《にし》の内《うち》という紙を張り、それへ鶏卵の白味を塗って、急ごしらえ の三味線をこしらえ、この珍妙な楽器を抱えてベコベコやりながら栃木在太田原の木賃宿にくす ぶり、往来を流してはその日その日をつないでいた。この哀れな姿と美音と機智に富んだ頓才と を見出した宇都宮のある商人が、同情して幾らかまとまった金子を与えたのだそうです。それを 路銀にして福次郎が、かねて志す江戸へ出て参り、さてこそ同じ落語家の中でも、音曲噺を専門 の、扇橋のところを頼って弟子入りを頼み込んだと、こういう経路であります。  かくて扇歌は天保九年八月から牛込の藁店亭《わらだなてい》へ出席し、聴衆から題を求めて謎を解いたり、即 席|都々逸《どどいつ》や、三題のトッチリトンなどを頓作《とんさく》して歌いましたが、その鮮やかな当意即妙には、感 ぜぬ人もなかったくらい、これが浮かれ節の元祖であります。かような次第で、扇歌は扇橋の門 人中でも、最も優れたる一人・となり、この人の出る寄席はその頃としては破格に高い五十六文と いう木戸を取り、かつ大入りを占めたということ、とにかく多芸多能な人で横笛も吹いたと申し ます、、何しろ八方から引っ張り凧《だこ》の人気でお座敷も多く、諸侯方へも召されて大した勢い、こう なるとそこは凡人です。自慢の鼻を高くして、自ら都々一坊大僧正などと名乗り、かなり傍若無 人《ぼうじやくぶじん》の振舞いもあったとやら、初代の柳枝が、   水戸だけに扇歌《せんか》自慢の鼻にかけ  という、調刺の川柳を詠んだほどですから、その辺想像もつきますが、門人には、都橋、都山、 歌川、歌蝶、都川、歌久寿等があり、毎夜即席に作った都々逸その他が、かけ流しになって伝わ っておらぬは残念ですが、残っております作歌は、前に挙げました白鷺《しらさぎ》の他にも、   藪鶯《やぶうぐいす》の私じゃとても、楴《な》く音《ね》に変りはあるものか   私や奥山ひともと桜、八重《やえ》に咲く気はさらにない   ほかの人にもこうかと思や、お前の実意が苦にもなる   人も花ならさくらも花よ、実《み》を持っ頃には誰も来ぬ  などがあったと、これは郷里の人々の言伝えであります。郷里といっても、水戸や磯部ではた く、第二の故郷ともいうべき石岡のことで、この石岡はその頃|府中《ふちゆう》と申しましたが、文政から天 保へかけ、その府中の青木町に酒井長左衛門という大きな醤油屋があり、その分家で旅籠屋をし ていた酒井長五郎が、扇歌の姉を後妻に迎え、その縁で扇歌は福次郎時代、この家へ養子に貰《もら》わ れたこともあり、今もって墳墓がこの酒井家の菩提所にあるほどで、石岡と扇歌とは深い関係が あるのでございます。されば扇歌が人気に任せて売れっ子となり、ますます持ち前の奇才を発揮 するうち、毎夜高座の即席都々逸も時事問題にふれたり、政治を調刺|誹誇《ひぼう》したり、脱線もあった ものですから、これがために舌禍を蒙り、遂に江戸払いになった時も、志したところはこの石 岡でありました。もっとも江戸払いといっても、大して厳しいお各《とが》めではなかったらしく、府中 即ち石岡に謹慎せよとあったにも拘わらず、常陸から上州筋をのんびりと興行して廻ることにつ いては、何の干渉もなかった程度だったそうで、その時分の扇歌は芸もいよいよ円熟し、どこで 興行しても大入り疑いなしという極め付きだったといいます。そのため石岡で都々一坊のために、 新たに定席《じようせき》を建てたところ、あまりの大入りにネダがぬけ大騒ぎをしたことさえあり、弘化三年 に水戸の上金町で十二間四方の小屋をかけ、弟子四人と共に出演、弟子たちは浮世噺、扇歌は三 味線を弾いて都々逸を唄い、そのあとで客から題を貰っては、その題を三味線で合わせながら、 「何が何とは何じゃいな」  といった調子に拍子をとり、これを三度くり返しているうちに、どんな難題でも当意即妙の答 えを唄にして歌ったということ、よほど頭がよかったものと思われます。こんな具合に、上州、 常陸両地方の売れっ子になっている時、図《はか》らずも師匠扇橋にめぐり会い、しかも扇橋が落ち目に なっているのを知って、礼を尽して往年の恩に報いたという美談もあり、奔放な行為の中に、義 理堅い素質も情合もあった人らしいとあります。扇歌は嘉永五年子の十月二十九日府中にて没し、 墓は今もって茨城県|新治《にいはり》郡石岡町字国分寺の菩提山千手院にあり、有志によって都々逸塚も建立 せられました。 ○扇橋の没年、扇歌の師たる初代扇橋は、門下に、二代旦扇橋、扇歌、鉄扇、柳橋等を始め、梅橋改め扇  竜、扇幸、扇車、三橋、扇馬、栄橋、扇子、扇久、扇秀、新橋、扇蝶、梅橋等を出し、文政十二年四月  十三日没し、深川浄心寺に葬る。 ○牛込藁店亭 現在映画常設牛込館の前身にて場所も変らず。 ○扇歌の生年 諸説あり一定せざれど、平山盧江先生の推定によれば、文化三年生れならんとあり、これ  を真とせば、行年は四十九歳なるが、扇歌は幼名を子之助といい、子年生れの由ゆえ、その前の子の年  ならば、寛政四年の出生にて、没年は六十一の還暦に当るはず、土地の人の言伝えには、没年五十くら  いにしか見えたかったとあれば、或は文政三年生れならんか。 ○扇歌の謎解き 石岡の寄席に出し時、客の中より「都々一坊くそをくらえ」と、悪罵の出題ありしに、  扇歌は即座に「夏の夕立」と解き、その心は「西(ぬし)が暗い(くらえ)じゃないかいた」と、同じ  く罵署《ぱり》をもって応酬、あまりに解き方の鮮やかなるより、客が「寒中の雪達磨なら、とけまい」と嘲弄  するや「寒が明いたら(考えたら)解けるじゃないかいな」と即答し、アッといわせたりとあり。まこ  とに当意即妙というべし。 ○扇歌とりう馬 扇歌まだ素人の福次郎時代、石岡にありて鐵術も習い、按摩を業となしいたりし頃、初  代土橋亭りう馬この地へ興行に来りぬ。扇歌はその宿に呼ばれて揉療治をなしつつ「私も少し三味線を  弾き、芸人になりたき志望ゆえ、弟子として頂きたし」と望みしに、りう馬は言下に頭をふり「折角な  がら、落語家も音曲師も、江戸っ子にあらねば見込なし、汝のような常陸詑りにて、音が鼻へかかりて  は到底望みなからん」と謝絶したり。しかるにそれより十数年の後、長谷川町の貸席梅の恵に、落語家  仲間の寄合ありてりう馬もそれへ参ぜしに、上席に座を占めしは、当時人気並ぶものなきかの扇歌なり  き。りう馬は位置も扇歌より下なれば敬意を表して座につきしを、扇歌はりう馬を呼び止め「おたつか  しや土橋亭師よ。お見忘れも無理ならねど、拙者こそ先年、貴殿府中へ見えられし折、入門を願いたる、  あの夜の按摩にこそ。その勘《みぎり》田舎者にては成功覚束なしと断られし一言に発奮し、苦心精励、ようやく  今日素志を達するに至りしこと、全く貴殿の賜物なれ」と丁寧に謝辞を述べしとぞ。りう馬は大いに恐  縮したるが、その後扇歌は終始りう馬の世話をなし、師匠々々と尊敬せりという。因みにこの土橋亭り  う馬というは、初め初代扇橋の弟子なりしが、司馬竜生(初代円生の門人)の門に転じりう太と称し、  りう馬と改め、更に土橋亭りう馬となりしものにて、この芸名の出所については、筆者も不審を抱きい  たるが、先年目黒駒場福多楼といえる人の投書にょりて教えを受けしところにょれば、門前の大きな土  橋にょりて名を知られし角邸の若旦那が、放蕩の末落語家で更生するようになりしとて、かく成り果て  し身の上という。将棋の駒の竜馬に因みてりう馬、亭号を土橋亭と名づけしものなりとありき。付記し て参考に資す。 りう馬は嘉永四年六月十日五十三にて没しき。  馬琴と北梅  講談全盛の基を開きました森川馬谷、その学問の友に、備前浪人吉田常吉という人がありまし て、これがあらためて馬谷の弟子になり(別説に常吉は馬具職ー板木師ともいうーの伜にて 神田に住み、放蕩のため家を出で、伯母に当る深川八幡社内二軒茶屋伊勢屋に食客中、二代目馬 谷の弟子になるともあり)、講釈師となって寄席へ出演、折から当時曲亭主人即ち著作堂の滝沢 馬琴翁が、例の「八犬伝」その他、数多の名編を出して天下を驚かしていた頃でありましたから、 その名に擬して馬琴と名乗り、号を東流斎と定めました。  これが即ち初代の馬琴で、昔の軍談番付を見ますると、どれにも高位を占めて大きく出ており ますところを見ても、その人気声望が察せられますが、それまでは講釈師も皆棒読みでありまし たを、この馬琴は演出を改め、男は男、女は女と、老幼おのおのその音調を換えて読み、身振り まで加えましたから、このことが講談として、格を破ったやり方かどうかは別問題といたし、大 いに俗受けのしたことには間違いなく、職人などはこの方を喜んで、至るところ大衆的の聴客《きやく》が ぐっと殖えるようになったのであります。何しろ弁才はすぐれていたし風流も心得、川柳や狂歌 なども詠み、今もってよく人のいう、   講釈師見て来たような嘘《うそ》をつき   講釈師扇で嘘を叩《たた》き出し   講釈師つかえた時に三つ打ち  等は皆この馬琴が詠んだものだと伝えられております。その自筆の覚え書に、 「貧乏神と問答のこと、いつはりのある世なりけり神無月、貧乏神は身をも離れず。これを貧乏 神聞きて託宣を下し日く、朝寝して仕事ぎらひで遊び好き、心安さに居つゾけをする。こんな奴 に流連されては叶《かな》はず、乃《すなは》ち、たまくはよそへも行けよ貧乏神、一生添はうと約束はせぬ。貧 乏神めそく泣いて、今更につれない事を言はんすな。斯《か》うなるからは二世も三世も-・…図々し い奴には閉口」云々。  などあったそうで、こんなことを引き事に話しては笑わせたものらしいと、これは先代馬琴老 人の談話で聞きましたが、馬琴はその芸風一世の嗜好に投じて評判高く、門人も三十余名(一説 には六十三人)を数え、弘化年中水戸ヘ赴いた時など、土地の人は皆これを「八犬伝」の著者と 間違えて客の山を築き、中には揮毫をしてもらおうと、扇面や色紙、短冊などを持参したものさ えあったが、著作堂とは人違いと知れ、がっかりして帰ったなどという笑話もありました。  かくて馬琴は大阪へ赴いて同地でも門弟を三十六人も取り立て、阪地にも後に東流斎馬琴を名 乗るものが出来たのは、このためだと申します。しかして晩年も同地でくらし、大阪において没 しましたが、その長女ことの智《むこ》となった門人の琴調は、師の病気を聞いて大いに樗《おどろ》き、夜を日に ついで同地へ急行、ようやく臨終に間に合って死水を取りました。時に、馬琴はその際琴調に向 って、 「二代目馬琴の名はお前にゆずってあるし、別に心残りのことはないが、ただモゥ一度、江戸の 日本橋を見てから口をつぶりたかった」  と述懐したと申します。その没年の不明なのは斯道の遺憾とされておりますが、月は四月らし く命日は十九日、琴調は茶毘《たび》に付した遺骨を江戸へ持ち帰り、浅草新堀端良称院へ葬り、法号を 釈教道信士と申します。墓碑は根府川の自然石で、右三つ巴の定紋を彫り、東流斎馬琴の墓と刻 んであるそうで、「暗へ引く水のあかりや鵜《う》の筆《かが》り」が、その辞世でありました。かくて江戸と 大阪とに、数多の弟子を残した馬琴の、二代目は右の琴調がつぎ、これを琴調馬琴と称しました が、その他に琴窓(東月斎)、琴荘、琴宝、琴鶴(松林斎)、琴袋等が傑出し、この人々を琴門の 十哲と称したということ、多くの弟子の一番末席に琴曲という門人があり、これが後に放牛舎桃 林《ほうぎゆうしやとうりん》となりましたが、これは後の別項で申し上げます。  さて、ここに挙げました十哲の一人、琴荘という人が中途で名を改めて藍洲と名乗りました。 これはある贔負《ひいき》の学者から勧められたもので、申すまでもなく、豊藍原の中つ国というところに 因みました。実に大そうな名で.あります。これが即ち藍洲という名の初代で、この麓洲は本名小 林太郎兵衛、以前は松浦家の留守居役だったそうで、白分で作もいたし高座も名人、後に北峨、 また北嬰から鏑井北梅と改め、前にも挙げましたごとく、天保度の番付にも安政度のにも最高位 を占めておりますから、大したものだったに違いなく、その後さらにまた斎号を改めて小金井北 梅となった。この人子福者で十五人も子供があり、生活も楽でないのに至ってのん気で、ある年 の大晦日、とても正月を迎えられないとあって方々からようやく十五両の金子を借り受け、これ を懐ろにして帰って来ましたが、年末だから植木店《うえきたな》の住居の近所には、植木屋の夜店が多く出て いる中に、美事な梅が一鉢あった。北梅|悦惚《こうこつ》としてこれが気に入り、十五両出して買ったため再 び元の一文なしになって、新年の初席に大まごつきをしたなどの逸話もありました。  潮花と花清  さて、この北梅たどと時代を同じゆうして、伊東|潮花《ちようか》という先生がありました。嘉永三年の高 名五幅対に初代南窓や南玉《なんぎよく》や、初代伯山、前項の北梅及び初代伯円と相並んでこの人の名が出て おりますが、新橋二葉町で諸侯から俸禄を享《う》けていた木村|検校《けんぎょう》という盲人の学者、これが潮花の お父さんで、その子に生れた潮花は幼少より学事にいそしみ、文筆から風流、易学、医術、花道、 茶道、さては馬術に至るまで何一つ通ぜぬものはなく、極めて博識広才にして多芸多能の上、態 度も謹厳な立派な人物でありました。二代目|陵潮《りようちよう》の門に入って潮花と名のり、「源平盛衰記」 「曽我物語」「伊賀越仇討」「伊達評定」、さては「田沼騒動」などを得意とし、とりわけ「天草軍 記《あまくさぐんき》」は、十八番の読物であったとしてあります。ある時この潮花が夜講の席で、客の中におりま した二人の武家、潮花が高座へ出るのを見ながら、立って帰ろうとしましたのを、潮花はムッと したものと見え、 「アイヤお武家、しばらくお待ちトさい」  と声をかけた。呼び止められた二人の武上は、何事かと振り返る。潮花は高座から厳然として、 「失礼ながらお見受け申せば、公儀御|直参《じきさん》の御武家と存じます。伊東潮花今晩の演題は、恭《かたじけ》な くも東照神君、天下泰平の礎をお固めになりました、御苦戦|御難難《ごかんなん》の有様を、謹んで講じまする 『三河後風土記』でござりまするが、余人はともあれ、御直参の御家臣が、それを聴かずにお帰 りになりまするは、潮花甚だ残念に心得ます」  といった。帰ろうとした武士も、この二言には立つわけに行かない。いかにも赤面の体でまた 元の座へ戻って謹聴いたしました。そこで潮花は「後風土記」を、特別に力を入れて長々と講じ たから、面白いことも無類でありましたが、二人の武上は最後まで謹んで聴聞いたし、外の客一 同の帰ったあとまで残っておりました上、あらためて潮花に対し、 「まことに今晩は失礼をいたしたが、しかしお蔭をもって、神君の御事蹟を承り、今さらながら 感銘の涙にくれ申した。恭なくお礼申す」  と態勲《いんぎん》に挨拶を述べて帰ったと申すこと、何ぞ知らん、この晩潮花の演題は、前夜からの読続 き、「曽我物語」を演《や》るはずでありましたのを、武上の態度が癩にさわったので、早速の思案で 「後風土記」に取りかえたのでありました。これも自信と見識がなければ出来ない芸で、これは 有名な逸話として伝えられております。  潮花の易学における造詣は極めて深いものだったそうで、有名な根本通明博ヒなども、潮花の 講義を聴いたことがあるとかいいますが、潮花は達者な文筆に任せて、諸家の歴史や記録を詳細 に筆記し、蔵書の写本ばかりが二百冊以上もありました由、七卜一歳の高齢を保って明治十三年 七月十日没し、麻布一本松徳正寺に葬りました。  この潮花の弟子に、伊東|花清《かせい》という人があり、これまた博識の大家で、和漢の史乗に通じ、自 分で筆録した珍書数百巻を所蔵し、その上に記憶が強く、どん女ことを聞かれても、決して窮し ないというのが本人の自慢でありましたところ、慶応二年の火災に類焼して、折角の蔵書をみな 灰にしてしまった。自分で丹誠をして、書き写したものだけに、これは残念だったに相違ありま せん。失望落胆して気ぬけのごとく、張合いも勇気も失っちまった。ところへ瀬戸物町の伊勢本 から、出演の交渉があったのでこれへ出ましたが、横浜の席亭から花清へ対し、 「私の方の約束はどうして下さる」  と厳談を受けた。これはかねて、この月は横浜へ出ますという約束をしてあったのを、花清傷 心のあまり、うっかりして失念しちまったのであります。平常記憶力の強いという事を白慢にし ていただけに、引っ込みがつきません。その上に迷惑をかけたという責任を痛感しまして、 「アア申しわけのないことをした」  と心を決し、木挽町の自宅において、美事割腹して相果てました。時に行年五十一歳、こうな ると講釈も命がけであります。昔気質《むかしかたぎ》とは申せ、責任観念の強いところは、感ずべき至りと思い ます。  また、同じ潮花の門人に、伊東花雲という人があり、読物は「塚原|卜伝《ほくてん》」と「西遊記」だけしか 知らなかったそうですが、その頃、昼席は一年間、夜席は半年間が一ト興行であったのを、いつ もこの二っで立て続け、人物もごくトボけた愛嬬もので、評判がよかったと申します。なおその 頃同じ伊東派に、伊東燕勢という大家があり、本名野沢善次郎、大森蒲田に生れ、四谷塩町に住 し、初めの名を燕斎《えんさい》といい、後に燕勢と改めましたが、性格|質僕《しつぼく》にして、よく故事や記録を調べ、 前に申した湯島の燕晋、即ち伊東燕晋の風格に私淑し、仲間からも大人と称せられました。また 俳句をよくして俳名を喜濤庵といい、明治初年に、東京市中ヘ御酒下されのお祝いがあった時、   春風や芝はみやこの入り口  と詠んだといいます。   ○潮花の代々 花清の弟子清斎は二代目潮花をつぎ、世にこれを清斎潮花と呼びしが、さらに初代燕尾の   門人燕清が、三代目潮花を相続、これを燕清潮花と呼ぶ。  二代日i洲(一)  その頃、両国橋を東ヘ渡った北側にありましたのが、橋番五郎兵衛の持っていた、有名な五郎 兵衛の席、ここで中売りの茶番をしていた小僧に亀之助というのがありまして、定連などは亀小 僧亀小僧と呼んでおりました。この亀小僧が至っての講釈好き、茶番をしながらも熱心に聞き覚 えまして、いわゆる門前の小僧習わぬ経を読むという筆法、毎日まだ聴衆《きやく》の釆ないうちに高座へ 上り、印神天《しるしぱんてん》姿のまま、釈台を叩いて修羅場《しゆらば》を読んだ。ところが好きたくらいだから、よく覚え てもいるし調子がいい、これは物になりそうだと、目をつけた席主の五郎兵衛が、 「亀や、お前中番をしているより、いっそ本職の先生になったらどうだ。誰かいい師匠に頼んで やろう」  と言った。当人も喜んで、 「どうぞお頼み申します」  と答えましたが、その時にかかったのが、前に伝記の出ました天下の豪傑志望を変更して講釈 師になったという奇人田辺南竜でありました。 (アアこの人がよかろう)  というので、席主から頼みまして、亀小僧を弟子入りさせた。最初貰った名が竜子といいます。 亀小僧の竜子、好きな講釈師になれたのだから嬉しがって熱心に勉強、シャガレ声だがなかなか 巧い。けれどもこの時代には名人大家が揃っていて、空板《からいた》を叩《たた》く前座の小僧といえども、凄いほ ど巧いのがおりました。その中にも、貞山の弟子の一竜斎貞豊、陵潮の弟子の伊東旧瓦、南麟の 弟子の旭堂麟子、この三人などは三小僧と呼ばれたくらい、なまじの二つ目は叶《かな》わなかったくら い。なお、この三人ばかりでなく、旧瓦の弟に円琉《えんりゆう》というのがあって、これは後に松林三円とな り、また太琉《たいりゆう》から京伝と改名しましたが、この三円は猿若町の芝居茶屋の主人で、一枚絵にも出 たことがあり、「吉原の百人斬」など人の及ばぬいい呼吸があって、ことに阿部豊後守の「隅田 川乗切り」などを読むと、勢い込んで駿馬を水中へ飛び入れる条、水煙の立っのが見えるよう。 かしくの兄殺しなどでは、酒乱のかしくが酔いざめの水ほしさに台所へ行き、偶然手にふれたの が出刃庖丁、思わずそれを逆手《さかて》に取り上げ、フラフラと殺意を生ずるところなど、真に迫るほど 巧かったと、これは三円を聞いた人の話。そのまた弟に清水八兵衛というのがあって、後に伊東 |東山《とうざん》となりました。こんなのがいくらもいたので、小僧といえどもみた巧い。その中へ交って、 亀小僧の竜子なんぞは一向に引き立ちません。  ところが今申した三小僧は、十で神童二十で才子、三十過ぎればただの人という讐えに洩れず、 みな中途で挫折して、立派にならず終《しま》いでしたが、亀小僧の竜子はこの三小僧などを追い越して、 ぐんぐん昇進をしたというのは、前申した小金井北梅に認められて引き立てを受けたからで、人 は何でも先輩に目をつけられるのが大切、それにはやはり勉強して実力を養うことであります。 竜子は北梅に認められて北の字を貰い、田辺北洲と改めましたが、師匠南竜の没後は、正式に北 梅の弟子となって小金井北洲、そして北梅が、文久二一年十二月の五日、浅草の宅で六十五歳を一 期に亡くなりました時、死水をとった宝井琴凌(先代馬琴の実父)に向って、 「どうかこれを引き立ててやっておくれ」  と北洲を託しました。琴凌は快くこれを受け合い、また、北梅の遺言によって、岡田という本 姓を改め小金井を姓とすることになり、小金井勝五郎になりましたから、先代馬琴翁も本名は小 金井三次郎と称したわけで、また北洲の亀之助も小金片を本姓とすることにきまり、これが小金 井亀之助となった。その後琴凌は故人北梅の遺言を守り、北洲をわが子のごとく愛育するうち同 門の琴桜という者が来て、 「どうか北洲に、北梅先生の前名の、慮洲をつがせてやって下さい」  と頼んだ。琴凌も賛成して、 「アアそれは結構なことだ。それを亀につがせたら、臨終の際まで^人のことを気にかけていた 故人北梅もさぞ喜ぶことであろう」  と同意いたし、そこで北洲が二代目小金芹蔵洲になりました次第、これが十九か二卜歳の時だ ったといいますから、前途有望であったことがよくわかります。  そこで小夜講の真打《しんうち》になった。小夜講というのは、もちろん大きい寄席ではなく端席《はせき》のことで、 それにも次第があったというのは、木戸銭の高下で階級がついていた。その頃一番|裾《すそ》が十二文、 それから十六文に昇り、次が二十文、二十四文とこれが順序で、その上の二十八文取るようにな ると大場《だいば》へ出られる。その二十八文とるほどの腕にたらないと大場の席は打てなかった。即ち、 二十四文以下を小夜講と申したもので、昼席になるとまた格が上る。二十八文では場末の小昼場 の木戸で、三十二文になると夜昼とも大場が打てます。さらに三十六文の木戸を取るようになる と大先生と敬います。まずこの辺が木戸の最高で、その上へ行って四十文取った先生はたった二 人、即ち前に出た伊東|燕凌《えんりよう》と初代梅林舎|南鶯《なんおう》の二人ぎりだったと、以上いずれも先代馬琴翁から 聞きました。こんなことは古老でなくてはとてもわかりません。  二代目薦洲 (二)  この木戸銭が明治になって一銭二|厘《りん》と一銭五厘の二種になり、それから一銭八厘、二銭、二銭 二厘などという時代が明治十年頃のこと、さらに三銭五厘のことがあり、次に四銭、五銭、七銭、 八銭から十銭になったのが大正の五年頃、それからは十二銭、十五銭、二十銭、二十五銭、三十 銭と鰻上《うなぎのぼ》りに高くなって、昭和の初めの四十銭から、今日の六十銭、八十銭、一円にもなったの ですから、昔のことを考えると大へんた違いですが、さてその小夜講の真打になった藍洲が、前 座と二人くらいで勤め、自分は三席読みました。読物はというと前段が「天草軍記」、中座は「大 勇焼山越」と題し、これは清正が猫退治をするという変った講釈、朝鮮で虎狩りをしたほどの清 正だもの、猫なんぞ退治るのは何でもありますまいが、いろいろ化物が現れる珍しい読物、この 猫退治は特に撒きビラをすると、温れるほど入りがあったといいますから、その時分は客も茶気 があったのだと思われます。後席は「武田上杉川中島合戦」、三つとも師匠南竜ゆずりの修羅場 ものばかりでしたから、 「これではあまり変化がなかろう」  といって、琴凌が「寛永御前試合」や「伊賀越」を教えましたが、元来「伊賀越」は、貞山派 の読物となっており、寛永十一年十一月七日、伊賀上野鍵屋ヶ辻において、渡辺数馬(二十六 歳)、荒木又右衛門(三十八歳)、数馬の家来川合武右衛門(三十一歳)、荒木の家来森孫右衛門 (三十六歳)の一行四人が、河合又五郎(二十四)、桜井甚左衛門(四十一)、桜井半兵衛(二十 七)、家来|溝口《みぞぐち》八右衛門ほか若党四人合計八人を対手《あいて》にして復讐《ふくしゅう》に及び、又五郎、甚左衛門、ほ か一人だけが死亡、討.った方も数馬は大小十三カ所負傷、荒木も一ヵ所薄手、孫右衛門は三日目 に死亡という、事実はこれだけのものなのですが、大剛の荒木がたった三人斬ったでは引き立ち ませんから、三人を倍にして六人とし、さらにこれを自乗して六々三十六人とふやし、旗本方か ら又五郎へ護衛につけた剣客多勢の行列を向うへ廻して、又右衛門が剛勇をふるうということに 脚色したのは初代の貞山、これがため大そうな講談になって、 「一に富十、二に鷹の羽の打《ぶ》っちがい、三に上野で花ぞ咲かせる」  などと、曽我や義士伝と相並び、三大|仇討《かたきうち》の一つとはやされたのでありますが、これを琴凌か ら教わった藍洲が、だんだん手に入って巧くなり、いよいよ仇討になると、 「明晩は伊賀の上野、荒木の五十八人斬りをお聞きに入れる」  と触れたものです。聴衆《きやく》は驚いて、 「大そうまたふえたものだねえ」  と不審がると、藍洲すましたもので、 「ナー二、他の講釈師は腕が未熟だから、三十六人しか斬れないが、誰が何といっても乃公《おれ》は五 十八人斬って見せる」  と言った。  まるで自分が斬るような口吻《くちぶり》、よほどの変り者だったには相違なく、こんな具合にいつも大言 壮語を弄《ろう》し憎まれ口もきいたが、皆それにサゲがついていて愛矯があったそうで、盧洲が初めて 昼席の真打を始めたのが神田富松町の富松亭、読物は修羅場の間へ御前試合をはさみ、十月十一 月十二月と三ヵ月を独演で打ちつづけ、ズッと入りをとりましたが、十二月は年末のこと、ここ で客を落してはと「三国妖狐伝」を昇《かつ》ぎ出した。  これは旧師の南竜が得意でやったゆずり物で、盧洲もビラを撒いてこれを読めば大入り受け合 いという極めつき。聖天町《しようてんちよう》の待乳亭でこれを演った時には、坊さんや寓士講、御嶽講などの連中 が押しよせ、あまりの大入りで二階が落ちたという椿事《ちんじ》さえあったくらい。富松亭で年末の二十 一日から三日間眼目の祈りをやりました。安倍《あへ》の泰親《やすちか》が金毛九尾白面の狐を退散さすため、祈り をトげるという肝腎のところです。南竜がこれを読む時は、水を浴びて身体を清め、白の行衣《きようい》に 鉢巻腹帯という仰々しいいでたちでしたが、盧洲は水こそあびないが、祈りの条へかかると衣類 の肌をぬぎ、晒布《さらし》の儒神《じゆばん》一枚になる。つまりこれを行衣に見せた趣向、師走だというのに玉の汗 をかいたものだとあり、こんな風ですから年の瀬でも満員の入りがあったということ、これも馬 琴翁の物語でありますが、私事に関してもこの人はいろいろ奇行があり、講談界大紛争の時は中 心人物となって活躍した。それはまた後の項で申し上げることといたしましょう。 柳橋と柳枝 (一)  当今でこそ、所属の会派を異にするだけで、落語家は柳連も三遊連も一緒になりましたが、明 治から大正初年(厳密に言えば大正六年に寄席演芸会社が出来るまで)にわたる永い間、三遊と 柳とははっきり別々になっておりました。その昔話柳連の元祖になりましたのは前にもちょっと 述べましたごとく、初代扇橋の弟子の初代柳橋であります。  この初代柳橋は亭号を麗々亭柳橋と申し、芝金杉の人で、俳名は亀好《きこう》と号しました。扇橋の弟 予になって初めの名を橋蝶といい、一時師の許を退いて柳好と称したこともありましたのは、性 来柳を好んだからだとのこと、その後また師の許へ帰って柳橋と名のり、人情噺の創始者となり ましたが、この柳橋が即ち柳連の開祖であります。門下に柳馬、柳朝、柳枝、柳里、柳佐、柳舎、 柳太、柳治、柳花等|数多《あまた》の弟子があり、天保十一年四月二十一日没、青山持法寺に葬るとのみ、 伝記の細かいことはわかりません。  この人の門人に初代の柳枝が出まして、亭号を春風亭と申しました。春の風に柳の枝、まこと に優美な芸名であります。両国米沢町に住み、幼名を亀吉といい、十六の時から柳橋の弟子にな って前席を勤め、次第に巧くなるに従って、人情咄のやり方にも新機軸を出しましたのは、ちょ うど講釈の馬琴が今までの棒読みを改めて、男女の声調を使い分けたのと同様、柳枝もそれまで の筋だけ運ぶ素噺《すはなし》を、大人は大人、小児は小児、声音を分けて身振りも入れて演じましたのが、 情態真に迫って妙を極め、例の「九州吹戻し」や縮屋新助の三代吉殺しなど、最も得意に話した とのこと、非常に酒の好きだった人で、醒めれば飲み、醒めれば飲み、片時も酒の気が離れなか ったが、泥のように酔って舌ももつれ、歩行《ある》くことさえ出来ないようになりながらも、それで一 たび高座へ上れば別人のようにハッキリして、少しも正気の時と違わなかったといいます。本来、 師名をついで、二代目柳橋ともなるべき位置なのですが、春風亭柳枝という名の方が、自分の好 みに合っているからとて、終生これを名乗ってその初代になりました次第、明治三年七月十七日 没、残念にもその行年がわかりませんが、寺は麻布今井町|妙縁寺《みようえんじ》に葬り(初代燕枝の日記には浅 草|田甫翻竜寺《たんぽほんりゅうじ》とあり)、法号を酒遊院日酒柳枝居士と申します。  戒名にまで酒という字が、御丁寧に二つまで入っているところ、よほど大酒家であったものと 思われますが、この柳枝の弟fに、栄枝と伝枝がありました。もちろんその他にも多勢いたので すが、まずこの二人が弟子頭で、その中の伝枝は後に初代談洲楼燕枝となり、この人のことは後 に述べます。兄弟子の栄枝が春風亭柳朝からさらに師匠の名を相続して二代目柳枝、落語系図を 見ると「おとわ丹七」得意としてあります。本名はちょっとわかりませんが、商人の出で茅場町 に住み、俳号を簑守庵と呼ぶ江戸派の俳人でありました。されば二代目柳枝となるに及んで、こ れに因みて俳号を二柳《にりゆう》と称しましたが、従って何事にも心得があり、その常識が邪魔をして高座 には艶が乏しく陰気だったそうですが、その代り一座の真打らしき風格は立派にあったそうで、 この柳枝につきましては、いろいろ面自い逸話があります。  その昔はよくこの、悪摺《あくずり》というものが行われたもので、今なら新聞や雑誌に漫画で人の似顔を 描き、悠"をいったりするようなもの、背はそんな機関がないから、わざわざ独立の印刷物にし て刊行した。これを悪摺と称《とな》えましたが、ある年の暮に、この悪摺で見立番付が出ました中に、 この二代目柳枝も悪口をいわれた一人で「鵜の真似をする烏」と書いてありました。弟子たちが、 「オイオイこんなものが出たぜ」 「アッ、うちの師匠のことも出ていらア」 「誰がこんたことを書いたのか」  引っ張り合って見ているところへ、外出中の柳枝が帰宅しましたので、弟子たちは慌てて隠し ましたが間に合いません。 「何だ何だ、何を見ていたのだ」 「イエ、何その、つまらないもので」 「マアいいからお見せ」  と申します。仕方がないからそれへ出すと、その悪摺を手に取り上げて、苫笑いしながら見て いた二柳が、 「ちょいと誰か、柾《まさ》の紙をどっさり買っておいで。それから朱墨を濃くすっておくれ」  と言いつけました。何をするのかと思ったが、弟子たちは命ぜられるまま柾の紙を買って来て、 朱墨の用意をいたしますと、柳枝は筆をとって、朱墨で赤い丸を書き、その傍へ筆蹟|美《うる》わしく、 「鵜に真似の出来ぬ烏の初日の出」  という句を認《したた》め「相変らず御贔虞《ごひいき》願い上げます」と添書して、これを客先へすっと配りました。 悠摺の文句を知っていた客たちは、アッとばかりに柳枝の頓才に感服し、これが人気の基になり まして、翌年の初席はすこぶる大入りを取ったという。これも逸話の一つでありますが、まだま だおあとに大へんなのが控えております。  柳橋と柳枝 (、一)  小石川音羽一丁目江戸川橋の挟に、目白亭《めじろてい》という寄席《よせ》がありました。明治の末年に江戸川亭と 改名、昭和の初め頃まで残り、講談会館などと名を替え、間もなく転業しましたが、江戸時代か らあったのですから由緒の古い席として知られていました。その目白亭へ看板をあげましたのが 三代目柳橋、これは初め、初代滝川|鯉《り》かんの弟子で鯉之助から鯉橋《りきよう》と改め、また桃流となり、嘉 永五年三代目をついで麗々亭柳橋となった、当時若手の真打であります。  本名斎藤文吉と申し、この人のことは後にも中し上げますが、この柳橋が真打で、スケに前申 した先輩の二代目柳枝を頼み、ました。ところが柳橋は年は若し様子の好い男で、今売出しの人気 者と来ている。従って相当に艶《つや》っぽい噂もありました中に、吉原某楼の遊女にふかくも馴染み、 夢中になって通《かよ》っている最中、双方とも大変な熱度で、仲間でも誰知らぬ者のないほど評判が立 ちました。そのくらいですから柳橋は毎夜々々、寄席の打出しを待ちかねて、もちろん円タクも メータクもない昔のこと、三枚の早駕《はやかこ》を飛ばしては、御苦労様にも北へ急がせていたのですが、 場所も遠い江戸川の目白亭から、吉原まで行くのは容易ではありません。しかし真打だから最後 の高座を勤めなくてはならないが、それからでは彼方《あつち》へ着くのがますます遅くなる。さりとて看 板の責任も大切、アアどうしよう困ったな、心は二つ身は一っ、一刻も早く花魁《おいらん》のところへ、儘《まま》 になるなら飛んでも行きたい、いっそ羽根が欲しい、翼が欲しいと、俊寛の芝居へ出て来る千鳥 みたいな心持になって、ヤキモキしているところへ入って来たのが、即ちスヶの二代目柳枝であ りました。柳橋は渡りに船と救われたような心地で、 「柳枝師匠済みません。今夜は少し用ありで、ここを∵く帰りたいんですが、どうでしょう私を 早く上げて下さるわけには行きますまいか」  と拝まぬばかりに頼みました。柳枝は早くもそれと察したから笑みをふくみまして、 「アァいいとも、お前さんさえ承知なら、私が代りにトリ(真打のこと)を勤めて上げよう。中 入り前へでも上って、早く行きなさるがいい」  と手軽く承諾しましたから柳橋は大喜び、 「師匠ありがとうございます。御親切忘れません」  と現金なもので急に元気づきました。柳枝は内心おかしくてたまりません。 (奴さん、吉原へ行くので気が急《せ》いているのだな。若い者だから無理はないが、一日喜ばせてお いてあとで母《いじ》めて困るところを見てやろう)  という考え、柳橋はそんなこととも知らず、イソイソと中入り前の高座へ上り、 「まことにお客様相済みません。本来は私が、」番しまいへ上るべきでございますが、少々野暮 用の都合で、順を違えさせていただきます。その代り今晩は、おあとで柳枝師匠が十分に、御機 嫌を伺うこととなっておりますゆえ、どうぞ御時刻までは御ゆっくりとお遊びを---」  とこれから本文へ入って一席を了《おわ》り、 (ヤレありがたい、これで役目も済んだ。今夜は早くあいつの顔が見られるぞ)  と心嬉しく高座を下り、挨拶もそこそこに出かけようとすると柳枝が、 「オッと待った柳橋さん、今楽屋へ席主が来てネ、今晩は初日の御祝儀として、楽屋ヘメンダイ を入れます。本当は昨晩差し上げるべきでしたが、蕎麦《そぱ》屋が休んだので今晩になりました。どう ぞ皆さんで召し上って下さいという口上、他ならぬ縁喜物《えんぎもの》だから、これはどうしても真打の役と してまずお前さんが一ト口でも、食ベて行かなくちゃアいけないよ」  と引き止めました。メンダイというのは蕎麦のこと、メンダイをノセるというと、蕎麦を食ベ るという符牒になります。また、長いこともメンダイと申し、 「今夜はメンダイにたのむよL.  というと、今晩の高座は長くやってくれということになります。これに反して短いことはアシ と申します。浪花潟《なにわがた》短き藍《あし》の節《ふし》の間も、などいうところからその符牒が出来たのでしょう。さり とては優雅なことで、そのメソダイが今に来るから、縁喜物ゆえ真打が一トロでもたべなくては いけないと、先輩の柳枝に言われて見れば、それでもと出て行くわけには参りません。柳橋は弱 るまいことか、ベソを掻かぬばかりになって、この上は早くそのお蕎麦が来ればいいと、押っ立 て尻をして待っていましたが、席の方では打出しの時刻を見はからって持ち込むように注文した のだから、たかなか誹《あつら》えは持って来ません。そのうちに、 「ヘニお待ち遠さま」  という声が聞えたから、アァ蕎麦かと思ったらそうじゃアない。中入りがモゥよろしゅうござ いますと中売りからの合図だ。そこで柳枝が拍手に迎えられて高座へ上りました。  柳橋と柳枝 (三)  寄席のお中入りというもの、出演者にとってはあってもなくても同じですが、お客と席主には これがなくては困ります。寺門静軒《てらかとせいけん》の『江戸繁昌記』には寄席のことを誌した中に、 「コレヲ一齢トシ、コノ時ヲ名ヅケテ中入ト日フ、ココニ於テカ便ヲ忍ベル者ハ側《かはや》ニユキ、姻ヲ 吸フ者ハ火ヲ呼ビ、渇《かは》ケル者ハ茶ヲ令シ、飢ウル者ハ菓ヲ命ズ」云々。  とやかましい文章で書いてありますが、ちょっと息をついて用をたしたり、煙草を吸ったりお 茶をのみお菓子をつまむ。寄席ではその茶や菓子を売るのが、副収入の一っになっているのです から、中入りがなくては営業になりませんが、売るだけ売ってしまって、もう買う人もないとわ かると、中売りの者から楽屋へ向って、「お待ち遠さま」と声をかけるのであります。そこでテ レンコテンテレンコテンとシャギリを入れ、上りました柳枝がまくらの小噺《こばなし》から本交ヘ入り、話 はだんだん進行してゆきますが問題の蕎麦はまだ来ません。柳橋は気が気でなく、 「何だえ、これじゃア早くトげてもらったって何にもならない、冗談じゃアたいや」  と大ボヤキ、そこへようやく、お待ち兼ねの蕎麦がくり込んで来たので、柳橋は箸をとる間も もどかしく、大急ぎでスルスルッと、ほんの一ト"すすり込むと、 「サアもうこれでいい」  と立ち上りました。そこへ柳枝も下りて来ました。つまり時刻が来てモウ打出しになっちまっ たのであります。柳橋が、 「アリャッ、もうそんな時刻になったのか」  と泣かぬばかり、柳枝はニヤニヤ笑っております。実のところ、蕎麦をわざとこんなに遅く持 ち込ませましたのも、柳枝の調伏《ちようふく》だったのであります。柳橋はモゥ、逃げ出すように楽屋を出で、 駕籠を飛ばして吉原へ急がせましたが、心はモウ先方へ飛んでいます。 (アアどうしてこんなに遅かったのようと、定めし怨みを言われるだろうな。何と言い訳をした ものか、今夜のいきさつを話したって、嘘よ嘘よ、そんなことを一占って、どこかよそへ廻ったん でしょう。にくらしい、か何かいってつねられるかな、ウフフ、どうもやり切れねえ)  いい気なもので、駕籠に揺られながら、口舌の稽古をしておりました折も折、その柳橋の乗り ました駕籠が、ちょうど小石川の水戸邸前へ差しかかったその途端、突然百雷の落つるがごとき 物凄い響きが轟いたかと思う聞もたく、ドシーンとばかりに揺り上げられ、大地激しく震動して、 駕夫も足をさらわれ、スッテソコロリと打《ぶ》っ倒《たお》れる。はずみに乗っていた柳橋も駕籠からモロに 放り出されたが、船へでも乗っているかのごとく起《た》ち上ることも歩くことも出来ない。これぞ安 政三年十月二日夜の大地震で、すぐ目の前の水."様御邸内では、有名な藤田東湖先生始め、多く の震死者を出したその同時でありました。  実にこの安政の大地震は、大正十二年のそれよりも、被害の程度が激烈だったというくらい、 柳橋は思いもかけず、この激震に出っくわして、生きた心地もしませんでしたが、四辺はたちま ち黒暗々《こくあんあん》としてその中で建物の倒るる音崩るる音。間もたく猪火は八方に起って、阿鼻叫喚《あぴきようかん》の巷 となった江戸全市は、筆紙に尽せぬ大混乱、吉原の遊里も地震と火事とで全滅したのであります。 人畜の死傷数を知らず、柳橋のお馴染もあわれや御多分に洩れず悲惨た最期を遂げたことがわか りましたが、もしこの晩柳橋が、予定のごとく口白亭の中入り前を済ましてすぐに同所へくり込 んでいたとしたら、十分この時刻には先方ヘついていたはずでありますから、そうなったら確か に、安穏ではいられなかったに相違ありません。もちろん倒壊した妓楼の中で、口も当てられぬ 往生振りを見せたことだろうと考え及んだ時に、柳橋は総身を粟立て戦傑いたしました。  この九死一生の大危難を無事に助かったも、全く二代目柳枝が蕎麦の計略で引き止めてくれた からこそ、命恰いが出来たのだということに思い当ると柳橋は、我を忘れて目白亭の方へ向い、 両手を合わせずにはいられませんでした。翌日は早々に柳枝のところへ飛んで行き、 「師匠、お障りはありませんでしたか」 「オゥ柳橋さん、ありがとうありがとう、貴方もお怪我《けか》がなくて何よりだった」  と互いに無事を祝した上、柳橋は昨夜の感激を告げて再生の恩を謝し、 「これから先の私の命は、全く貴方から頂いたようたもので、この御恩は忘れませんよ」  と申しましたが、爾来柳橋は神棚に柳枝の名を貼り、朝夕礼拝したと伝えられます。俳号を簑 守庵|二柳《にり う》と申したこの柳枝が、この安政大地震のときに詠みましたのが、   早冬になるや柱の割るる音  今一つは、   埋火《うもれぴ》や、かきならしては独り言  まことに焼跡に彷裡《ほうこう》する罹災者の群が見えるようであります。  むらく異変 (一)  さて、またこの二柳について、今一つどえらいお話がありますのは、柳枝をひいきにした客の 中に、津の国屋藤兵衛という有福な商人がありました。これは幕末から明治の初年にかけ、通客 の聞えを取り、一トnに津藤と呼ばれたお大尽で、一代を紀文型の豪著《ごうしや》に送り、晩年もまた紀文 の末路と同様、甚だ気の毒な窮状で終った人でありますが、その最後まで友情を忘れず、親切に 交際したのは、歌舞伎の名作者河竹黙阿弥だけで、この津藤は黙阿弥と関係が浅くたいため、「黙 阿弥伝」には津藤のことが詳しく記されておりますから、どなたもよく御承知と思われますが、 その津藤の全盛時代には毎日のように、いろいろの諸芸人が出入りをしておりました中で、柳枝 は殊に津藤のお気に入りであったらしく、何かあると必ず柳枝が津藤の家へ呼ばれ、催しの余興 を勤めておりました。するとある日のこと柳枝のところへ酒樽の贈物が届きました。物価の安い 昔にしても、酒樽一丁の贈物は莫大なこと、一体誰がくれたのだろうと思うと、この贈主は、仲 間の三代目朝寝坊むらくでありました。 (オヤオヤ大そう気張ったものだが、どういうわけだろう)  と不審に思っていると、やがてそのむらくが挨拶に来まして、 「折り入って貴方にお願いがあります。どうぞ聞き届けて頂きたい」  といいますから柳枝も、 「改まって一体何事でしょうか」  聞き返しましたところ、 「されば他でもありませんが、大通と評判の津藤大尽、当時相当の芸人で、あの方に贔屓を受け ないものはないというくらい、それだのに私は、運わるく一度も大尽に呼ばれたことがありませ ん。まことに外聞も悪く、残念でなりませんが、貴方は津藤さんには大の懇意、ぜひ一度でいい から私を呼んで下さるよう、どうぞお取り持ちを願いたい」  という依頼でありました。なるほど言われて見れば、津藤大尽は大ていの芸人を出入りさせて いるのに、このむらくだけは一度も呼んだことがない。当人のいうのももっともだと思ったから、 「よろしゅうございます。私からよくお大尽へお話をしておきましょう」  受け合ってむらくを帰し、その後津藤に逢いました時、 「貴方はどうしてむらくを呼んでやらないのですか」  と聞くと、 「イヤ別に、どうということはないが、私は何だかあの人の芸を好かないから、ついそれがため にね」  という津藤の返事。 「それでは私が困りますから、一度でよろしゅうございますゆえ、呼んでやって下さい」  と柳枝からたのみました。 「それほどお前がいうのなら呼んでやってもよろしいが、その代りたった一度だよ」  と大尽も皮肉です。柳枝の顔を立て、ただ一回むらくを呼びました。ところが、一度では済ま なかったというのは、稲荷様の余興に呼ばれたむらくが、当日は莫大な品物をお供物として贈り、 一生懸命に座敷をつとめた上、翌日はわざわざ昨日の礼に、津藤のところへ出かけまして、将を 射んと欲せばまず馬を射よという筆法なんでしょう、夫を動かすのは妻君の力だからというので、 津藤の内儀へ深く取り入り、 「私も芸人冥利、一度はこちら様へ伺ってお座敷を勤めたいものだと、かねて念願しておりまし たが、その一心が届いて昨日はお招きを頂き、これで私も面目が立ちましてございます。ありが とう存じました」  と、天へも上る喜びを示しました。妻君はさすが女気の、一時にむらくへ同情いたし、 「何だか私、可哀想になりましたよ。どうかこの後も、あの人をちょいちょい呼んで上げて下さ いよ」  と良人《おつと》へ勧め、妻女ばかりでなく家中一同から頼みました。よほど運動したものに相違ありま せん。多勢に無勢で津藤もとうとう陥落してしまい、それからは大のむらく贔贋になり、柳枝の 方は、庇《ひさし》を貸して母屋《おもや》を取られた形になりました。この思い切った運動でもわかります通り、こ のむらくという人は、なかなかの覇気に富んだ野心家であったと見え、後年には大へんた事件を 惹起しました。元来このむらくは、本名を榊原謙三郎といって、出は旗本の武十でありました。 両刀をたばさむ身が放蕩から堕落して、好きた道の落語家を志し、二代目|可楽《からく》の養子になって、 三代目翁家さん馬を名乗り、それからさらに三代目むらくとなったのですが、何しろ育ちが育ち だけに、肯《き》かぬ気の不敵な魂があり、とにかく三代目むらくになるほどゆえ、芸も真打だけの力 量はあったものに違いありません。  むらく異変 (二)  そのほかに、この津藤へ取り入ったような筆法で、外交的世才にも長じていたでしょうから、 それやこれやで看板を背負う位置にも上ったでありましょうが、その後、丸屋宗兵衛という町家 の婿《むこ》になり、それも間もなく離縁となって、またも落語界へ戻り、今度は四代目三笑亭可楽にな りました。  しかもこの時がちょうど幕末で、天下の風雲すこぶる険悪な折柄、三百年の太平打ち続いた徳 川家も、形勢甚だ怪しくなって来ましたので、そこは落語家になっても以前は武家の榊原謙三郎、 持って生れた気性から、じっとしていられなくなりました。それも勤王の方面に尽力したのなら ば結構でしたが、もちろん日本人として、順逆の道理を弁《わきま》えぬはずはなくとも、人間の感情どう しても、永らくの徳川家のことが頭にありますから、官軍というよりも、薩長の兵士が錦裂《きんぎれ》を肩 に、威張り返っていることに反感が起って、どうにもたまらなくなったのでありましょう。彰義 隊などとは別の行動をとり、謙三郎一個の力で薩長の奴等をどえらい目に逢わせ、天下を驚かせ ようという陰謀を企てたのだから穏かでありません。それがどういう計画であったのか、詳かに 伝わってはおりませんが、浪士の面々と結託し、地雷火を伏せて江戸中を火にするような仕掛け を企んだとも申します。  同じ幕臣でも、勝先生、山岡先生のように、どうかして江戸を兵火の難から救いたいと、苦心 奔走したえらい人もあったのに、いかに薩長軍がしゃくにさわったからとて、江戸中を火にする ような危険な計画を企てる奴もないものでございます。人間の出来不出来、腹の大小、知恵の深 浅、この辺でよくわかると申すもので、幸いにもこの陰謀が事前に発覚、謙三郎は身辺が危うく なったので、急いで地方へ逃げ出しました。それも四代目|可楽《からく》の名で興行しては、すぐに捕まっ てしまうから、五りん梅枝の計らいで、滝川鯉かんという看板で地方廻りをした。田舎へ行けば、 本名より大きな看板を詐称して廻るインチキも多いのが通例でありますのに、心がらとは言いな がら、四代目可楽ともあろうものが、ぐっと下の名の鯉かんで興行して歩くとは、これも世を忍 ぶ身のためで拠所《よんどころ》ありません。これには今申した五りんの梅枝が、可楽に平素世話になった恩返 しとして、いろいろ蔭になって心配したのであります。  ついでながら五りんのことを、ちょっと説明いたしますが、これは芸人と寄席との中間に立っ て、その斡旋をする世話人のことであります。芸人は一体に自信が強いもの、というと体裁はい いが、実は自惚《うぬぼ》れがつよい天狗揃《てんぐぞろ》い慢心揃いですから、大ていは自分を実質以上高く評価してお ります。寄席の方は、一般の客の人気や好みをよく知っていますから、評判のいいものをかけた がる。そこに芸人の方と、寄席の方との間に、意見の開きが大分あるのです。それを双方直接に、 つき合わせた日には衝突は免れません。どんな喧嘩になるかわからない。そこを間に五りんとい うものがあって、双方へうまいことを言って、腹を立たせぬよう円満に話をまとめ、妥協をさせ て興行の出来るように図《はか》らう。それにはなかなか頭も掛け引きもいり、相当苦労もしたものたの でありますが、その代りその興行の期間中、毎日、客一人についていくらという収入を貰います。 それが大体において五|厘《りん》という原則になっていたから、さてこそ五りんという名称が出来たので ありますが、席数が多ければ、五厘だって莫迦《ぱか》には出来ません。その上、芸人の方からは特別の 心付もあり、収益は多かったものでありますが、当今は番頭もしくは事務員制度になって、五り んという職業はたくなったと聞いております。  さて、その梅枝という五りんの世話で、地方廻りをしていた可楽が、そのまま潜行を続けてい たらあるいはどうだったか知れませんが、大胆にも江戸へ舞い戻って、花川戸の某家へ隠れてい たところ、ある夜付近に火事がありまして、例によって野次馬《やじうま》がドンドンかけて行く、ちょうど 日のくれ方で、日中は外出もせず潜伏していた可楽が大てい大丈夫だろうと戸外へ出て、火事の 方を見ている所へ、走って来た岡っ引がチラとその顔を見たから堪りません。たちまち多勢の捕 方が向い、剣劇式の立ち廻りがあったかどうかそこはわかりませんが、榊原謙三郎遂に御用にた り、吟味中獄死を遂げたのが、明治二年九月十日のこと、まことに数奇《さつき》な一生でありました。寺 はわかりませんが、法名は広柳院松誉寿教居士としてあります。  二代目柳枝の話から、大へんな大衆文学的事件に引き移りましたが、その柳枝はこの事件より 数年の後、明治七年十月十二日、五十三歳をもって没し、本所小梅上心寺に葬り、法号を全柳院 量枝居士と申します。   今さめる酒がまことか月の雨  というのが、その辞世でありました。  門人に、小枝、枝之助、桃枝《とうし》等があり、小枝は後に.一代目隅田川馬石となり、桃枝は二代目 |柳朝《りゆうちよう》となったとしてあります。 典山と貞山 (一)  天保の八年六月十五日から、両国の回向院《えこういん》に京都嵯峨の天竜寺より、御本尊|釈迦牟尼如来《しゃかむにによらい》の出 開帳がありまして、善男善女の参詣で群集雑沓《ぐんじゆさつとう》、これを当て込んで同月二十日から前申した両国 橋南詰の長左衛門の席へ出演したのが、前申した名人の桃林亭|東玉《とうぎよく》で、 「釈迦八相記、大阪下り太琉《たいりゆう》改め東玉」  と看板を出し、木戸も大破格の四十文を取りました。これが当って初日以来毎日客止めの大盛 況、えらい評判でございます。ちょうどこの時、初代の錦上斎典川(金上斎と書きしもあり)が 今川橋の寄席|染川《そめかわ》へかかっておりましたが、あまり東玉の評判が高いので、それまでまだ東玉の 講釈を聞いたことのない典山が、どんなものかとある日のこと染川の席主吉兵衛をさそい、弟子 一人をつれて三人連れ、長左衛門の席へ聞きに行きましたが、なるほど満場立錐の余地もないほ ど一杯入っております。典山の一行はその中へ交って聞いておりますと、やがて中入りが済んで、 いよいよこれから真打の東玉が上ることになり、悠然として高座ヘ現れると、待ち構えた聴衆は、 拍手喝采してこれを迎えました。一礼した東玉がポーンと入れた張扇《はりおうぎ》、すると典山が、 「サア出ようよ」  と同行の吉兵衛を促して立ち上ったから、まだ一言も聞かぬうち、どうしたことかと吉兵衛は |怪訊《けげん》な顔をしたが、典山は先へ立ってズンズン出て行く。吉兵衛には訳《わけ》がわかりませんが、弟子 と一緒について行くと、席を出た典山が両国橋を半分ばかり渡りかけた時に、ホッと溜息をつい て吉兵衛を振り返り、 「東玉は名人だなア」  と歎声を洩らしました。吉兵衛ますます不審に思いまして、 「先生どうしてそれがわかります。一言も東玉の講釈を聞かないで、名人か下手《へた》か、わかる訳が ないじゃアありませんか」  と尋ねたところ、典山が苦笑いをして、 「それは聞かなくともわかっているよ。考えてごらん。あれだけの広い席上に、ウンと詰ってい る聴衆の数は、六百人からあったろう。その多勢も、東玉が出て来てポ1ンと張扇を入れると、 あれほどザワザワガヤガヤしていた聴衆《きやく》が、一度に水を打ったよう、シーンとして静かにたった。 これは東玉が、あの多勢の聴客の魂を、たった一人で引き掴んでいるからだ。これは名人でなく ては出来ないところ、芸を聞かなくとも、東玉の巧《う ま》いのはそれでわかった」  と申しましたのには、吉兵衛も門人も感心をしたとしてありますが、名人に非ざれば名人の至 芸はわからず、たった一ト目て東玉の非凡を見ぬいた典山もまた、名人だったに違いありません。 一説には貞山派の読物たる、「伊賀越仇討《いがごえあだうち》」の講談をまとめたのはこの人だと申しますが、切れ 場になるとちょいと口を曲げる癖のあった人だそうで、この初代典山について、馬琴翁から聞い た伝説があります。いささかナンセンスながら、そのままお取次をいたしますが、元来、典山は 旅行を好んだ人で、典山の旅日記といえば有名なもの、ある時、志州|鳥羽《とぱ》沖を通りますと、どう したことか乗合《のりあい》の船が動かなくなった。別に難風《なんぶう》というでもないから、乗合の連中には気がつか なかったが、船頭はさてはと青くなり、脂汗をたらしてやったが動きません。電車なら停電とい うこともあるが、海に浮んでいる船の動かなくなるとは不思議、サアこうなると乗合が騒ぎ出し、 どうしたことかと心配する。船頭が気の毒そうな顔をして大声あげ、 「どうも客人これは飛んだことになった。滅多にはねえことだが、船には時々こういう不思議が ある。乗合の中で一人、見込まれた者があるに違いない。気の毒だがその見込まれた人が、海へ 飛び込んでくれないことには、いつまで経《た》ってもこの船は動かねえぜ。ことによったら船ごと引 っくり返されてしまうかもわからない。そうなっては大変だから、一同のためだによって、見込 まれた人はあきらめて死んでおくんなさい」  といった。こんなことはもちろん何か迷信でありましょうが、そこは昔のこと、船頭がこう言 い出したので、乗合一同も顔と顔を見合わせ、ただ樗然《がくぜん》とするばかり。 「いったいその、見込まれた者はどこでわかるんだ」  と聞いたところ船頭も、 「何でも構わない、各自に持ち物を海へ放り込んで見て下せえ。品物が沈んだら、その持主が見 込まれたことになるんだ」  というので、慌《あわ》てた男が急いで腰の矢立《やたて》をぬくとドボーン、 「サア大へんだ。乃公《おれ》が見込まれたのか」  と青くなる。この最中だが船頭も吹き出して、 「冗談じゃアねえ、鉄物《かなもの》の矢立たら、見込まれなくとも沈むのは当り前、そうじゃアない、沈み そうもない軽い物を投げて試《た》めすのだよ」  と申しました。  典山と貞山 (二)  そこで乗合一同が、各自に懐中の鼻紙だとか、手拭だとかいうものを投げ込みましたが、一品 も沈みません。波の間に間に流れて行きます。この時に典山が、 (世の中には不思議な言い伝えもあるもの)  と思いながら、自分も所持しておりました一筋の手拭を、フワリと海中へ投げましたところ、 こは如何《いか》に、その手拭が見る見るうちに、スーッとまるで何かに吸われるごとく、たちまち海中 深く沈んで行く様子、典山も驚きましたが、乗合も今さらのように典山の顔を見る。船頭が、 「ヤァ見込まれたのはお前さんだ。ほかの客人一同のためだから、お前さんには気の毒だが、ど うか飛び込んでおくんなさい-.  というので、典山も大へんなことにたればなるもの、人間の災難はどこにあるかわからないと 思いましたが、事ここに至ってはどうにも仕方がありません。そこで度胸を定めまして、 「イヤ拠所《よんところ》ございませぬ。そ久ノいうことなら御一同のため、私も身を海神の生蟄《いけにえ》といたしましょ うが、臨終の際に一っのお願いがあります。何と聞いては下さらぬか」  と折り入って相談をかけました。 「臨終の願いとはどんなことか、定めし故郷の家族に、御遺言でもおありだろうから、それはど うぞ御遠慮なく言って下さい」  と船頭が言えば、他の乗合も気の毒がって、中にはモゥ涙ぐんでいる人さえあります。典山が、 「イヤ決して何もこの期《ご》に及んで、家族に遺言もございませんが、実は何を隠そう、私は天下の 御記録読み、即ち軍談師でござりまする。この世の名残りにこの船中で一席の読切《よみきり》をしてそれか ら死にたいと存じますが、いかがでございましょう」  と船中を見廻したところ、一同も、 「いかにもごもっとも、そういうことなら一席読んで下さい。聴聞しましょう」  と賛成しましたので、典山が携えた荷物の中から白|m紗《ふくさ》に包んだ種本や扇子を取り出したが、元 来この人は、張扇というものを使いません。小形の拍子木を使い始めたのは、この典山が元祖で ございます。これから舷《ふなばた》を机に代え、この世の名残り身の名残り、一世一代の意気をこめまし て、酒々と読み始めましたのが例の伊賀越、荒木又右衛門武勇の一席でありました。その音吐朗 朗として、歯切れのいい名調子が天にも響いて澄み渡り、水や空なる志摩の浦、ところは鳥羽の 沖合に、海若風伯も声を潜めて、耳をすますかと怪しまれ、乗合一同感にたえて悦惚《うつとり》と聞いてお りますうちに、講談はますます佳境に進む。すると不思議や今まで磐石のごとく、あとへも先へ も動かなかったその船が、スルスルヅと進み出しました。船頭も気がついて、櫓《ろ》を押して見ると 何事もなく、ズンズンと動きます。モウ大丈夫と航海を続け、船は無事に港ヘ入りましたが、こ れがために典山は、九死の中に一生を得まして、大難を免れることが出来た。これは全く典山の 妙技に海神も感応したものであろうと二一目い伝え、大そうな評判となりました。  嘘のようだがこれは事実と、以上が馬琴翁から聞いたままでありますが、これを種にしたらし い話が落語にもあり、船の動かなくなったのは、船底に典山を見込んで狙《ねら》った鰐鮫《わにざめ》がくっついて いたからで、飛び込んだら呑もうと待っていたら、そのうちに船の上では講釈が始まって、舷《ふなばた》 を叩く拍子木の音が水へ響く、、何思ったか鮫がびっくりして、ドンドン海底ヘ逃げて来た。仲間 の鮫が不審に思って、折角見込んだものをどうして見逃したのだ、なぜあの講釈師を呑まなかっ たのだと聞くと、逃げて来た鮫が、何だ、あれは講釈師か、おれはあまりトントン叩くから、蒲 鉾《かまほこ》屋かと思ったというサゲがついている。なるほど鮫に蒲鉾屋は大敵に違いありません。  この典山の弟子が、有名な初代の貞山、それゆえ典山という名と貞山という名とは、代々師弟 の関係になっているのであります。初代貞山は一竜斎と号し、人呼んで大貞山《おおていざん》と申しました。読 物は「伊達《たて》評定」を得意とし、伊達政宗公が独眼竜と称せられて隻眼《せきがん》でありましたように、貞山 も隻眼だったので、政宗公の法号貞山院殿に因んで貞山と号したのだといいます。伊達ばかりで なく伊賀越ももちろん得意に読み、荒木叉右衛門の奉書試合、例の真剣白刃取り極意《ごくい》のところを、 特に柳生家から好まれて演じ、その真相についても同家から教えを受けましたので、光栄に感激 した貞山は、真剣白刃取りの幻妙を、手にも取られぬ水の月になぞらえ、さてこそ「伊賀の水 月」と命題したのが、この初代貞山だったと、これは現在の貞山が申しました。  大そう雷嫌いな人だったそうで、ある夏のこと、銀座の夜講を終って門人の貞三を連れ、中橋 の自宅へ帰ろうとしたところ、京橋手前から俄かの雷鳴、これがだんだん激しくたって、大夕立 が襲来した。大貞山内心怖くて怖くてたまらないのですが、弟子を連れている手前、大看板の先 生ともあろうものがと我慢をした。  典山と貞山(三)  貞三の方は青くなって、オドオドしているから、貞山はわざと落ちつき払い、貞三に持たせた 合羽を受け取り、悠々と単衣《ひとえ》の上から羽織りまして蛇の目の傘をさし、鉢の木の謡《うたい》か何かを小音 にやりながら参りますうちにすぐ近くへ落雷したものと見えまして、電光もろとも激しい轟響、 今までこらえていた貞山も、何かはたまろうワッとばかり、夢中でわが家へかけ込みましたが、 女房も娘も女中もみな雷を怖がって、蚊帳《かや》をつり線香を立て、蒲団をかぶって桑原《くわばら》々々と突っ伏 しております。これを見ると貞山わざと付景気《つけげいき》に、 「何でえ、弱虫が揃っていやがる。雷なんてものは陽気の加減で鳴るものだよ。鬼が太鼓を背負 って駈け廻る、絵そら事を真《ま》に受けやがって、どいつもこいつもいくじのねえざまだ。乃《おれ》公なん ぞを見ろ、怖くとも何とも思やアしねえ」  と一人でタンカを切っているうちに、雨もやみ雷も遠くなって月さえ顔を出しました。やっと 安心したものか女中がまずコソコソと蚊帳を這い出し、 「アア怖かったこと、どうも怖ろしい雷様でございました。オヤ旦那様お帰り遊ばせ」  と行灯をかき立てましたが、貞山の様子を見るとブーッと吹き出し、台所へかけ込んで板の問 へころげて笑っておりますから、 「エエいけ騒々しい、何を笑いやがる。仰山《ぎようさん》な奴だ、静かにしろよ」  と貞山は叱りましたが、女中の方は笑いが止まらず、 「アア苦しい、それでも旦那さまが」  と指さしをしてはまた笑いこけております。女房も娘も何事かと蚊帳を出て来まして、これも 腹を抱えましたのは、剛毅に威張っていた貞山が、ズブ濡れになった傘をしっかり抱え、下駄を はいたまま座布団の上へ坐っております。四辺《あたり》は一面水だらけ泥だらけ、貞山も初めて心づき、 慌てて下駄をぬぎ傘を放り出して、 「叱《し》ーッ、貞三の帰って来ねト.κうちに、早く早く片づけてしまえ」  と言ったなどの笑話があります。  一体が粗忽《そこっ》の質《たち》だったと見え、馬琴翁の話によると、義士伝のうち、中山安兵衛高田の馬場の かけつけを読み、安兵衛が勇を振《ふる》って村上兄弟の門人たちを片っ端から斬り倒す条で、 「棄て置きがたしと此方《こなた》の幕張《まくはり》より、立ち現れたる中津川祐範、卑怯《ひきよう》にも安兵衛の、うしろへ廻 ってだしぬけに、横に払った大長刀《おおなぎなた》、エイッとばかり安兵衛の首を、中天遥かに打ちヒげたり  とハズミに乗ってロを辻《すへ》らしちまった。さすがの大貞山も、これは失敗《しま》ったと思ったが、今さ らどうすることも出来ません。そこで拠所《よんどころ》なく、 「どうなりますか、続きは明晩」  とそこを切れ場にして打ち出しました。聴衆一同どうもびっくりして、 「安兵衛が首を斬られちまったが、あれでは叔父の萱野六郎左衛門の仇《かたき》を、一体誰が打つのだろ う」  と不審がり、これが評判になって翌晩は一層の入りがありました、貞山先生のんきたもので、 悠々と高座へ上り、前講も昨夜の読みつづき、お家の芸の「伊賀の水月」、中入りが済んでいよ いよ後席の銘々伝へかかった。 (サアここだ)  と一同|固唾《かたず》をのんで耳をすますと、貞山は落ちついたもので、 「エエ昨夜は祐範が、安兵衛の首を中天へ打ち上げたところでお別れにいたしましたが、安兵衛 が斬られては仇《かたき》が討てたい。なかなかもって祐範ごときに討たれるような安兵衛ではありません。 うしろに眼があるわけではないが、この時遅くかの時早く、ヒラリ体をかわしたかと思うと、横 に払った一文字、中天へ飛んだのは祐範の首で、その早業《はやわさ》は目にも止まらず、実にえらいもので ...:」  と胡麻化した。聴衆はアッと驚いて、 「うまくお茶を濁したが、さすがにその動じないところが大家だ」  と評判したと申します。  この初代貞山は、安政二年九月二日没し、寺は浅草竜宝寺寺中西光院であります。  そしてこの初代貞山に、真竜斎貞水という弟子があり、これが貞水の初代で、本名杉江某とい う御家人の出でありましたが、矢の倉に住んでおりまして、後に師名をつぎ、二代目貞山になり ましたから、仲間では、矢の倉の貞水貞山と呼びました。名人伯円が口を極めて推賞したという ほど巧かった人で、「黒手組助六」のような世話講談に、真似の出来ぬ味があったと伝えます。 明治七年三月七日三十六の若さで没したは惜しいこと、浅草法恩寺寺中専念寺に葬り、法号は釈 妙証信士と申します。  この人の弟に巴水《はすい》から二代目貞水、さらに貞林から二代目典山とたった人がおり、人呼んで鼻 かけ典山、世話物が得意で簡明た読み口、引窓がったり烏がアの一句で夜のあけた状《さま》を尽すとい う具合の、気の利いた芸風だったと申します。 典山と貞山 (四)  さて二代目貞山の弟子に、本名を内山孝七(孝吉とも伝う) した伊東潮花の弟子となって花林《かりん》と申しましたが、 という人があり、初めは前に出ま 「お前はとても見込みがないから、今のうちに何か他の業に転じた方がよかろう」  と断られました。情ない宣告をされたものでありますが、孝七は志を挫《くじ》かず、却ってこの一言 に発奮し、貞山の門へ転じて技を磨きましたので、次第にぐんぐん上達し、貞吉《ていきち》という芸名も人 に知られるようになった。これが貞吉という名の初代であります。そして師の亡くなった後、そ の名を相続して三代目貞山、押しも押されもせぬ大看板になった。この三代目貞山は、おでこで |大頭《おおあたま》なところから、頼朝公という紳名《あだな》をつけられたそうですが、まことに縞麗た読み口で、聴衆 を引きしめる呼吸が巧く、「伊達評定」「伊賀の水月」「石山軍記」「黒田騒動」「大久保武蔵鎧」 あるいは修羅場の「九州征伐」など、さすがに洗練されたもので、とりわけ、義十伝を得意とし、 大石内蔵助を日本一の大忠臣と信敬しまして、講談中でも決して呼びすてにいたしません。内蔵 様が内蔵様がと弁じ、殊に城渡しの条などを読みますと、 「実に内蔵様が……この時の御胸中……」  と、胸を押えてホロリとたり、 「到底我々にわかるものでありません」  という呼吸など、聴衆を泣かせたものだったと言います。その義士銘々伝の中でも、片岡源五 右衛門の忠僕元助の伝と来た日には、十八番の読物となっておりました。この主人にしてこの僕 あり、元助などは天晴《あつぱれ》な精神で、主人思いの元助の赤誠が、一言一句に溢れまして、三代目貞山 のこの話を聴くと、聴衆いずれも感に堪え、泣かぬものとてはたかったくらい、貞山どこへ行っ ても元助をやれと好まれるものだから、多くの席を駈け持ちして歩くうちには、ここで昨日何を 読んだかという記憶がわからなくなってしまい、ある時、深川の広川亭で昼席に三日つづけて同 じ元助を読んだ。毎日来る定連が、二日目には変な顔をしただけでしたが、三日目にはたまりか ねて、 「先生、いつ聞いてもお前さんの元助は面白くて結構だが、三日つづけて同じ物を読むのは、何 か仔細があるのですかな。今年は元助の何十回忌か何かに当るのかね」  と注意をした。これは貞山も赤面して、 「イヤ実にどうも面目次第もない。実は前の日に何を読んだのか忘れてこの始末、これから気を つけますから、どうぞ御勘弁を願いたい」  とあやまりました。そこで九ての翌日、今度はさすがに気をつけて、他の物を読んだところ、前 の方に来ていた老人が、連れの客を顧みまして、 「オヤオヤ今日は読物が違った。毎日元助を読むようだから、お前さんに聞かせたいと思って連 れて来たのに、これは生憎《あいにく》でした」  とこぼしたと申します。もっていかにこの人の元助が好かったかがわかります。いい弟子が多 勢いましたので、その社中はあたかも今の角道における出羽の海部屋や立浪部屋のごとく、実に 多士済々たるものであったと申します。即ち貞丈、貞鏡、貞朝、貞花、貞宗、貞林、貞豊、貞国 等いう面々、この貞丈は初代で、後に師名をついで四代目貞山となり、貞鏡は後の三代目貞水で、 貞朝は貞吉から後年には邑井一となりました。貞花は二代目貞丈から五代目貞山になり、さらに 錦城斎典山となって先年物故、その門人が今の六代目貞山であります。また貞宗は後に二代目|桃 川如燕《ムァもかわじよえん》になったとこういう具合に、皆一方の大将株になった有望の面々が揃っていたわけで、三 代目は弟子の初代貞丈に四代目貞山をゆずりまして、自分は三代目典山になるべきはずでありま したが、ちょいと御幣をかついだというのは、前に申した初代の典山が、文字も教養もあるとこ ろから、つい講釈が余談にわたって、調子に乗ると随分時の政治を批判しては、役人の悪口をい うようなこともあった。その政談にわたったという廉《かど》でお答《とが》めを受け、江戸払いになったのであ ります。三代目はそれを気にしまして、 「どうもそういう名をついで、また何かあるといやだから」  というところから、典山をつがずに一山となりました。一山は日本一の山、即ち富士山という 意味だそうで、 「晴れてよし、曇りてもよし富士の山、元の姿は変らざりけり」  というところから、 「ナー二、典山だろうが貞山だろうが、一山だろうが同じことだ」  とこれにした次第、弟子の貞宗などは同時に一仙と改名した。これは師匠が一ヤマだから一ヤ マ一センという洒落《しやれ》だったそうで、さて一山は明治二十二年三月二十一日、五十五歳で没しまし た。青山に寺があって、法号を一山真透居士と申します。  一立斎文車 (一)  この「講談落語名人誌」も、だんだんお話が明治年代へ近づいて参りましたが、講談も近世に なればたるほど、堅い時代物より軟かい世話物が、一般の好みに応じて発達しましたことは自然 の成り行きでありましょう。従って世話物読みの名人も追い追いに出て来たわけで、そのトップ を切りましたのが、初代の一立斎文車《いちりゆうさいぶんしや》でありました。この人は本業が豆腐屋さんです。豆腐屋だ から軟かい読物のトップを切ったなどは自然の洒落に出来上っておりますが、好きから講釈師を 志し、山の手廻りからこの道へ入りました。その頃、山の手というのは、素人の天狗連《てんぐれん》という意 味で、本職でなくともよかったのですから、好きで講釈なり落語なりを演《や》る者は、皆この方へ出 演しました。しかし本人も最初はキマリが悪かったと見えて、女房にもそのことを告げずに内緒 で寄席歩きをした。女房が不審を起し、 「豆腐屋は朝が早い家業だから、夜も用がなければ早く寝るはずだのに、毎晩業を終《しま》うとどこか へ出て行く、夜中に遅く帰って来る。挙動もソワソワとして落ちつかないが、事によったら、夜 盗でも働くのではなかろうか」  と心配した。夫婦の情としてもっともの話です。たまりかねたから聞いたところ、吹き出して 懐ろから講釈の種本を出して見せ、 「実はこれこれだ」  と話したので、女房も安心したという笑い話があります。  これが遂に本職になりましたが、元より師匠たどはなく、一本立ちでこれになったのだからと いうので、さてこそ一立斎と号し、お豆腐のことを和名で文ぐるまとも申すと聞き、そこで文車 と名をつけました。偶然にもいい名を選んだもので、一立斎文車という文字は、裏から見ても表 から見ても同じ文字であります。元の家業が豆腐屋だからというので、人呼んで豆腐屋文車と申 しましたが、硬いものは少しも読まず、生一本の世話講談ばかりを演じましたから、たちまち人 気に投じまして、おまけにそれがすこぶる巧いと来ているので、遂には押しも押されもせぬ大家 となり、八丁荒しの名を取りましたが、この初代文車の没年を詳《つまびら》かにしないのは残念でありま す。  続いて二代目文車になりましたのは魚屋の伜で、目に一丁字もないほど正式の学問をしなかっ た人ですが、性来の講釈好きで、年中講釈場通いをしているうちに、スッカリ講談の呼吸を覚え 込み、とうとう十八歳の時に本職になりました。これも別段に師匠を取らず一立斎文車の二代目 を名乗った。もっともあるいは、初代の縁辺でもあったのかその点は判明しておりませんが、こ の二代目文車は銀座尾張町の裏通りに住み、馬琴翁の話によりますと、色の白い目のクルッとし たいきな男で、世人がまだ全部散髪にならない前から、頭をいが栗にしていたので、一くせあり 気な坊主に見えたそうで、しかし持《としら》えはどこまでも江戸向きで、結城紬《ゆうきつむぎ》の着物に同じ神天《はんてん》を引っ かけ、羽織は決して着ず、平ぐけの少し広いくらいの幅の狭い帯を二つ廻して横っちょでキチン と結び、莫入《たばこい》れでも何でも、気のきいた物を持っており、着物の下には腹掛をかけていて、歩く 時は右の肩を少し前へ出すような癖があったということ、高座へ上ると腹掛の中から、小さい拍 子木を出してチョキンと軽く釈台を叩いて弁じ始める。張扇は使いません。万事がこの行き方で、 学問の足りないところは、総て見聞《けんもん》で補い、あらゆるものへ目を通して、世人のいうことを耳に とめ、常住不断、知識を広くすることを心がけておりました。  読物も初代同様、諸家の評定《ひようじよう》とか軍記とか、そういう堅い物は読まなかったが、端物即ち世 話の人情講談と来たら実に巧かったもので、誰から種を得たものか、「掛川無宿の源太」などい う珍しいものを読み、得意にした「藪原検校《やぶはらけんきょう》」などは無類で、読み口も簡潔で歯切れがよく、特 別に大きな声をするのでも何でもない。普通に聴客《きやく》と座談をしているような調子で、世間話を引 事《ひきごと》のマクラに振る。その引事が千変万化、ここからどこへ移って行くかわからない。いつにたっ たら本文へ入るのだろうと思っているうちに、いつの間にやら知らず知らず講談の眼目たる昨日 の読みつづきへ入っている具合が実に鮮やかで、これらが真の名人と思われ、その引事も毎日変 る。これは博識でなくては出来ないこと、これが面白くて、毎日この引事だけを楽しみにして聞 きに来る者もあり、その頃はどこの席でも、聴き巧者の通客が多かったから、 「今日こそ一っ、文車のマクラから本文へ入る、替り目のところを聞き当てよう」  という意気組みで耳を立てていたものでしたが、なかなかつかまらない。交車は相変らず四方 八方の世間話から始めるのですが、これがまた不思議な味があって、つい面白いからうっかり聞 いていると、 モウいつの間にか本題へ入っているには、 皆舌を巻いたものだったとあります。  一立斎文車 (二)  その引事も俗事ばかりでなく、時には論語孟子の章句を引き、これを詳細に講ずるところ、よ ほど学問のあるように見えたということで、ある時銀座の重松《しげまつ》という席へ出た時、大入りの聴衆 を前にして、例のごとく冒頭《まくら》の引事に周易のことを話しました。申すまでもなく易といえば易経 からト箆《ぽくぜい》の方法は元より、それに引き続いて九星から家相人相方位の吉凶、何でも心得ていない と講義は出来ません。それを文車が詳細に講じたので、聴衆いずれも感服した中に、何代目のや ら有名な本国堂《ほんごくどう》という本職の人相家が交っていて、閉場してからも後へ残り、 「先生失礼ながらお前さんは、よほど易のことは明るいが、どこで修業をなすった」  と聞いた。すると文車が、キマリの悪そうな顔をして、 「そうおっしゃられると面目ないが、実は私は学問をしないのでなにも知りません。ただ、見た ことや聞いたことを熱心に気を入れて覚えておくばかり、それゆえ寄席へ出かけるにも、昼間の 四つ頃(今の十時)に家を出まして、途中を急がずブラリブラリ、町の両側へ眼を配って往来い たし、少しでも変ったものがあると足をとめて、見たり聞いたり、これが私の学問でございます。 商人の小僧さんがお使いに出たのなら、道草は禁物、脇目もふらず急がなくてはいけませんが、 講釈師はせいぜい道草を食わなくてはいけません。易のことは、浅草蔵前の大笠《おおがさ》で覚えました」  と答えました。この大笠と中しますのは、現在南元町署のある所の少し先に、その頃|名鳥茶屋《めいちようぢやや》 という割烹店があって、その隣の所へ毎日店を出す風変りの売ト者、机を前にして泰然とあぐら をかき、八卦を立て易を説い1-、いる有名な先生、頭上を見ると直径四尺ばかりの大きな笠がブラ 下っているので、世間ではこれを大笠の易者と呼んでいた。文車は浅草の席へかかる時があると、 例によって早く家を出かけ、この大笠の前へ立って毎日熱心にその言立てを聞き、十分に易の講 釈を覚えたのでありました。そのことを申しましたら本国堂《ほんごくどう》も舌をまいて、 「ウーム、大道《たいどう》の立ち聞きとは思われたい。よく覚えなすった」  と感心をしましたので、自分もいろいろと人相のことについて参考になりそうなことを教えた と申します。とにかく記憶力と芸才とがなくてはこの真似は出来ません。初代の文車は豆腐屋文 車と呼ばれましたが、この二代目は世話講談の大家ゆえ名人文車、後に芝|愛宕下塩竃《あたごしたしおがま》神杜境内仙 台屋敷に住んだゆえ仙台屋敷文車、講談の中で特に人を斬るところが水際立って巧く、斬られた 人のバタバタ倒れるのが目に見えるようだったので切られ文車、高座で実に鮮やかなほど小手が 利いたので巾着切り文車と、いくつも肩書がありました。名人文車は結構だが、いかに小手が利 いたとて巾着切りなんぞは、ありがたい紳名《あだな》じゃアありません。  この文車が四日市の翁亭へかかるとよく聴きに来る客があり、これは日本橋茅場町の石橋とい う御用達《こようたし》の番頭で海老根源蔵という人がありましたが、その人の伜で、浪之助といい霊岸島《れいがんじま》の質 屋の主人です。金廻りがいいから出演者は大てい贔屓《ひいき》になっていたが、そんな風だから堅気の店 は保てない。とうとう家を潰しちまった。その浪之助が文嘩を酒席へ招いて飲みながら、 「今日は折入って相談がある、どうか私を弟子にして講釈師の修業をさせてくれ」  と言い出しましたので、文巾は懇々とその不心得を戒め、意見をしたところ本人なかなか諦め ない。そこで文車が、 「それではとにかく、手見せとして一席何か読んでごらんなさい」  といったところ、 「よろしい」  とばかり浪之助が、いつ稽占したものやらお富与三郎を活々と弁じました。この一席を聴いて いるうちに文車の顔色がだんだん真面目になって来て、聞き終ると膝を叩き、 「恐れ入った。アア実に巧いもの、これほど出来たらなるほど本職になろうという気も起きたで しょう。よろしい。これなら物に成りますから引き受けました」  といった。浪之助も大きに喜び、ここで改めて師弟の約を結びましたが、この人が即ち一立斎 文慶で終生名を変えず、文慶で通しました。大正四年三月十六日六十九で没し、筆者もよく聞き ましたが、これまた近代の名人でありました。文車にはこの文慶の前に、文玉だの文吉、文晃《ふんちよう》ら の弟子があり、才子多病とやら、身体が弱く、明治十四年十一月八日、四十九の若さで亡くなり ましたは惜しいこと。寺は築地の妙覚寺で、法号徳明信十と申し、文車のあとは文玉が相続、こ れは本名春日岩吉、緯名をガチャ文と呼ばれ、全って粗々っかしく高座も賑やかな読みロ、ちょ っと類のない味をもった人で、 「西遊記」などを得意とし、 大正六年八月十一日七十歳で没しました、、  竜玉と正蔵  芸が巧くとも、それほどに人気も立たず評判にもならず、記憶にも残らぬという、割の悪い一 生を送って、ハッとせずに終ってしまうなどという人も、例のないことではありません。初代の |蟹気楼《しんきろう》竜玉のごときがそれで、つまり運が悪いのでありましょう。本名|住田金作《すみだきんさく》とのみ、生年月 も終りもハッキリしておりません。故人|三舛家《みますや》小勝老の談話によって、その人の芸風や逸話を聞 き、片鱗を知り得たのみでありますが、推定によると、明治二十四、五年頃世を終った人ではな いかと思います。  一説によると、街頭から寄席へ進出した人だそうで、麹町の通りで有名な岩城桝屋《いわきますや》の角へ、年 中出張って群集から思召しの投げ銭を貰い、大道で口演していたのが、後に寄席へ出るようにな った。だから師匠と定った人もたかったわけで、独立で蹟気楼竜玉という芸名を選んだ次第、あ まり立派な名で位まけがしたのかも知れませんが、講釈師ではないが落語家でも、「水溜伝」と か、「雲霧五人男」「八百屋お七」などの、続き物人情話ばかりをし、これが実に巧かったという こと、もっとも大道で叩き上げた芸人に拙《まず》いのはない。拙くっては立ち止って聞いている客が皆 行っちまいます。それを逃がさずに引き止めて、鳥目《ちようもく》を投げさせるようにするのには、よほど芸 がしっかりしていなくてはなりません。その苦労をして来た竜玉だから確かたもので、小勝老な どは大いに褒めていました。  もっとも小勝は若い時にこの人の弟子にたったことがあったのだそうで、その小勝の談話によ っても、実に巧い人だったがお客には人気がなかったということ、それゆえ懐ろは苦しくて、年 中ピイピイしていました。しかし貧乏はしていても気前はよく、誰を連れて帰っても決してnを 濡らさずには帰さなかったそうで、 「マアいい……、寄って行きな。……オイ、おっかアや」  と家へ入る。 「オヤお帰んなさい」  と女房も心得て、すぐに膳の支度をする。 「オイおっかアや、今帰ったよ」  と声をかけると、アイといってお膳の上にお銚子が乗っかる。 「さすが竜玉さんのおかみさんだ。気が利いているな」  と仲間の連中は、誰もこの夫婦をほめないものはなく、間抜けな女房に叱り言をいう時には、 「竜玉さんとこのワコを見習え」  といったくらいなもの、ワコというのは女房の隠語《ふちよう》であります。ところが豊《あに》はからんや、何も 女房が気が利いているわけじゃアない。夫婦の間に、かねて打合せが出来ていたので、山と川と の合一一占葉じゃアありませんが、竜玉がオイおっかアやと声をかけて家へ帰ったら、蕎麦たり鮨《すし》な り見つくろいで食事だけを出し、おっかアやの下へ、今帰ったよがついた時は、それへ酒を添え て出すという寸法にきまっていた。それは別段にあらたまって、オイ何かそう言って来ななどと 号令しないでも、客と話をしているうちに、モゥ台所へは、お待ち遠様と岡持《おかもち》がくり込んで来て、 「なにもありませんがお一つ……」  と座敷へ現れようという仕掛けなのですが、そうとは知らないから客は、女房の機転に感心し たものの、種を聞けばやはり亭主がえらいことになります。  その竜玉がある時、木原店の寄席をはねて、日本橋を通りかかると、その頃おい橋詰には多勢 人力車夫が辻待ちをしていて、 「ヘエ則那々々、おやすく参りましょう」  と番をかけた、竜玉は振り向きもせずに行こうとすると、中には口の悪いのがいて、 「いけねえいけねえ。勧めたって無駄だ。種が悪いや、お化けだお化けだ」  といった。夜だけ出て働く落語家だからというのでしょう。竜玉もムッとしたが、クルリ振り 向いて両手を合わせ、 「アアどうぞ来世からは、人間でありながら、牛馬の真似をせずとも世を渡れますように」  と唱え事をしながら車夫を拝んだので、さすがに口の悪い連中も、みん事しっペい返しを食っ てギャフンと参ったという逸話もあり、またある時、仲間の正鶴という怪談師のところヘ遊びに          心わば 行ったら、夏のことで世話場の正鶴たにも出せたい。しかし折角の珍客ゆえ串刺しのハゼを焼い て、素麺か何かを下物に一トロ出したところ、竜玉すかさず、 「さすがにお前さんは怪談師、出した馳走が気に入ったね。ハゼ恐ろしいソーメンじゃなア、て のどうだえ」  と洒落をいったという逸話もあります。怪談師は毎夜幽霊を出して、ハテ恐ろしい執念じゃな アというのが紋切型。この正鶴は本名吉本庄三郎、後に五代目林家正蔵となり、大正十二年三月 六日、一百歳の高齢を保って没しました。恐らく講談師落語家中、長寿者としては最高の記録保 持者でありましょう。彼もまた名人の一人でありました。 二代日伯円 京橋の橋上で高声に、 「オイ今夜はどっちにしような」 「実は乃公も迷っているのだ」 「巾着切りか。泥棒か」 「巾着切りの方が面白かろうぜ」 「やはり泥棒の方がよかろう」 物騒な相談があるもので、これが何だというと、 京橋の橋詰には、前にも名の出た橋番松五郎 のやっている都川という寄席があり、一方は橋の南側、現在角に銀行のある所の裏通りを丸太新 道といって、その頃は角に鰻屋の竹葉《ちくよう》があり、その隣にあった清竹亭という講釈場、この二席が 京橋を挟んで対立、その一方へ前申した巾着切り文車がかかり、一方へは泥棒伯円と肩書つきの 二代目伯円がかかり、どっちも巧くて面白いので、講釈好きの客が毎夜々々どっちを聞いたもの だろうと迷った揚句こんな相談をやったので、知らない人が聞けばびっくりします。巾着切り文 車に泥棒伯円、相対立しての競演だから、面白さも一層で、両席とも大入り。  何で泥棒などという、穏かならぬ肩書がついたかと申しますと、時代物《じだいもの》世話物何でもこたした 中にとりわけて白浪物《しらなみもの》が得意だったからで、そのことは追い追いに申し述べますが、この伯円は 本名若林義行、元は常陸|下館《しもたて》石川|伯蓄守《ほうきのかみ》家臣郡奉行手島助之進の四男で幼名辰弥、後に親戚の彦 根藩士若林家へ養子に行き若林駒次郎と改称、義行とは後年の改称であります。幼少から草双紙《くさぞうし》 を好み、子供を集めては講釈の真似ばかりしていたので養家を勘当され、大小を投じて張扇を叩 く講釈師とたったのは十六の年、最初はちょっと名人潮花の弟子になりましたが、さらに二代目 のいわゆる琴調馬琴の門に転じて調林と名乗り、一体が覇気満々たる精力家であったから、次第 に売り出して真打になり、やがて二代目伯円を襲名いたし、初代をも凌ぐ名人と称せられました のは、全く努力と技煽とによるところでありましょう。  読書によっての素養と、性来の才気とにより、殊に創作力に富んでいましたので、新たに読物 を草案したり、あるいは在来の種を補綴潤色して、七十有余種の講談を完成しました。「天保六 花撰」「安政三組盃」「遠山政談」「鼠小僧」「佃《つくだ》の白浪」「鬼神のお松」等はその主なるもので、 「お富与三郎」も伯円が完全なものに大成し、「国定忠治」をも補修脚色、また、際物を得意と して、明治十二年に三十間堀の黒田侯邸で、臼井六郎が父母の仇の、判事一ノ瀬直久を刺した当 時のごとき、その夜すぐに同じ三十間堀の春日という寄席で、この復讐事件を演じたほどゆえ、 「立志美談」(高島嘉右衛門伝)「藤田の初雁《はつかり》」(藤田伝三郎の伝)「萩の露|山城《やましろ》日記」(山城屋和助 の伝)「熊本電報録」(神風連《じんぷうれん》事件)「明治天一坊」(松平慶承の詐欺事件)、さては「夜嵐お絹」 「高橋お伝」「横浜小僧殺し」「雪の夜話」等、明治になってからの出来事を、いくつも講談に作 りました。  またその演出についても、新機軸を出して人気を取ったもので、明治十年に西南事件起ります るや、伯円は直ちにこれを講談とし、なお従来の釈台を廃して高座にテーブルを用い講演するな ど、伯円はすべてこの行き方、またその講談を作るのにも周到な用意をもって臨み、ある時浅草 弁天山の昼席へ出て夜席は四谷の荒木亭でありましたが、伯円は自分の前講に中座を二席勤むる 花井晴山と連れ立って浅草から四谷へ、その頃のことだから、もちろん歩いて駈け持ちをする途 中、晴山に向って、 「下町はどうでもいいが、山の手へ掛ったら、毎日違った道を歩いて下さいよ」  と頼みました。晴山は乞わるるままに、毎日々々通る道を変えましたが、伯円は矢立と紙を出 して一々その所の名や、付近にある大名や旗本の邸を聞いては書きとめました。 (何をするのだろう)  と晴山は不審に思っていましたが、後に伯円が前にも名の出た尾張町の重松《しけまつ》という寄席へかか り、初めて鼠小僧の新作を披露した時、治郎吉が山の手各所の大名や旗本を荒して廻るところを 述べるのに、所在地や道筋を、実地の通り手に取るごとく弁じたので、 (アア先日中、山の手でいろいろ調べたのは、この地理を知るためであったか)  と、晴山初めて合点がいったという逸話もあるくらい。また芝居が好きで、講談の中にも、大 分|台詞《せりふ》仕立てを取り入れたところがあり、その作品を黙阿弥翁などが脚色して、芝居にしたもの も少なくありません。しかしてこの人の経歴中、特筆すべきは、畏くも明治十九年三月一日、永 田町の鍋島侯邸へ至尊御臨幸の瑚《みぎり》、御前講演を勤むべき旨の御恩命に接し、伯円は斎戒|沐浴《もくよく》「楠 公桜井駅訣別」の一席を、謹んで天聴に達し奉った一事であります。これ独り伯円その人の光栄 のみたらず、講談界無上の光栄と申すべく、かくて伯円はその名声晩年まで衰えず、初代の桃林 亭の後をついで松林東玉と改めましたが、明治三十八年二月八日、鶴見の隠宅にて永眠、浅草永 住町称A、心寺寺中覚善寺に葬りました。行年七十四歳であります。(詳伝は『講談落語今昔諏』に あり)。   ○伯円の門葉 伯円は明治講談界の第一人者ともいうべき全盛を占めたるため門人も多く、そのうち猫遊   軒伯知、初代伯鶴、右円等傑出、右円は師の没後その跡をついで三代目伯円とたり、また別に有名な悟    道軒円玉ありて、筆記物を専門に先師の読物を面白く世に伝えたりき。  三遊亭円朝(一)  下谷は律弗の銭牡麟㌦申すまでもなく鉄舟山岡鉄太郎先生の建立開基にかかるお寺であります。 その鉄舟寺の入口に円朝《えんちよう》の碑がありまして、地内には墓所もあり、近世落語界第一の巨人たる三 遊亭円朝は、永遠にここに眠っております。これは円朝が生前から、山岡先生と深い御縁故があ りましたので、墳墓も同寺内に定めたわけであります。しかして、山岡先生は、幕末から明治へ かけ、無敵強剛の大剣客として知られ、また明治元年、江戸城が官軍進攻の目標として最大の危 機に曝《さら》されました時、挺身努力死線を超え、非常なる働きにより、江戸を兵火の巷《ちまた》から救ったの みならず、徳川家の臣節を完からしめた、維新史上の大功労者でありますことは、今さら申し述 ぶるまでもありませんが、先生は剣道のみでたく、永年にわたる禅学の命がけた修養によって、 深い悟りに徹していたため、これを剣道に応用し、遂に無刀流を編み出した、剣禅一致の達人で あります。従って人格の高いことも比類なきほどでありましたから、その徳風を敬慕して、あら ゆる階級の人たちが日夜周囲に集まって参ります中に、当時人気者の円朝もいたのであります。  円朝は本名出淵次郎吉、天保十年四月江戸に生れ、祖父の代までは、前田備後守に仕えた武十 でありましたが、父の長蔵《ちようぞう》という人が、大小を捨て退身し、前に出ました二代目円生の門人にな って、橘家円太郎という落語家になりました。これが円太郎という名の初代であります。伜の次 郎吉も、そのため円生の弟子になって小円太と名のり、七っの時に江戸橋土手倉の席で初高座、 至って孝順た性質で、父母兄に仕えつつ師恩に報い、具《つぶ》さに辛酸をなめて群を抜く大看板になっ た立志伝的の一代記は、刊行せられた書物もあり、『円朝全集』十三巻中にも詳細を尽してあり ますから、本編においてはその洩れしを補う程度の、外線にのみ止めておきますが、十七の時か ら円朝の名で看板をあげ、自身で数多《あまた》の人情噺を創作し、若い頃には道具を使って芝居噺をした が、後にはそれも弟子(円楽改め三代目円生)に譲って、自分は扇一本の素噺となり、迫真の妙 技に聴衆の魂をつかむ巧さが、かくは円朝を斯界の第一人者たらしめたのでありました。  ある時その円朝が、山岡先生のところへ伺いますと、子爵は喜んで円朝を迎え、 「いいところへ来た。頼みがある」 「ハア、何御用でございましょう- 「一つ、話を聞かしてもらいたい」 「よろしゅうございますとも、円朝に剣術を遣えと仰せられましても困りますが、私は落語家で、 話をいたすのは家業でございますから、いかにも承知いたしました」 「しかし、話には注文があるぜ」 「ハア、どんな話をいたしますか」 「桃太郎をやってもらいたい」 「ヘエ、桃太郎……と申しますと!」 「お前は、桃太郎を知らぬのか」 「イエ、知らないことはございませんが、あの、昔々、お爺さんとお婆アさんがあって、爺は山 へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に、大きな桃が流れて来て!」 「そうそう、その話だその話だ」 「ヘエ、あれは小児《こども》衆のお伽話《とぎぱなし》で、御大人方には大して面白くもございますまい」 「ところが、それを聞きたいのだ、ぜひやってもらいたい」 「左様でございますか。……イエ、やれとおっしゃれば、いたしますが……」 「どうかたのむよ」 「ヘエ」  と円朝も、意外の注文だから、ちょいと面くらいましたが、お好みとあれば拠所《よんどころ》ございません。 そこで鉄舟先生始め居合わせた方々へ、あらためて桃太郎の話を一席弁じました。ところがちっ とも面白くない。先生は苦い顔をして、 「まずいなア、お前は……」 「どうも何しろ、やりつけませんので」 「それにしても、面白くないよ」 「恐れ入ります」 「恐れ入らずによく考えてごらん。私は小児の時、母親が毎夜のように、桃太郎の話をして下す った。実にそれが面白くてたのしくて、今もって忘れられない。素人《しろうと》の母が小児を対手《あいて》に話す桃 太郎、それがあんなに面白かったのに、本職の、しかも一流といわれるお前が、 話をして、ちっとも面白くないとはどういうわけだな」 「ヘエ」 「そのわけがお前にはわからないのか」 「どうもわかりかねます」 「わからなければ教えて上げる。お前は話をどこで話すね」  と山岡先生が追及しました。 三遊亭円朝 (二) 妙なことを聞かれて円朝も怪訪《けげん》な顔をいたし、 「どこといって、話ですから、口でしゃべるほかはございません。  :」 「アアそれだからいけないのだ」 「エッ、舌を使わないで何で話します」 「サアそこを考えろというのだ」 「ヘエ」 「平常から私がやかましく、禅の修行を勧めているのはそこだよ」 こんなやさしい 舌の働きで声も出ますので 「禅をやれば、それがわかりますか」 「わかるとも、そればかりではない。世の中のことが何でもわかる」 「ヘエー」 「天地を貫く諸法の実相原理がわかる。それでたくともお前は、永年自分の芸道に苦しみ、それ によってかなり深いところまで、真の悟りに近づいているのだ。モゥ一歩突破すれば、すぐと悟 道の妙境にも達せられるのだから、それについても禅の修行をしなくてはいかん。その代り、首 尾よく悟りを開いて見たさい。芸もさらに一段と巧くなって、名人とも言われるところまで行く ぞ」 「エッ、それは本当でございましょうか」 「本当だとも、決して嘘は言わん」 「そりゃアどうもありがたいことで、それでは近く日をあらためてお手引きを!」 「イヤいかんいかん、日をあらためてなどと、そんな悠長なことを言っているから、いつでも時 機を失するのだ。思い立ったが吉日というくらい、今からすぐにとりかかりなさい。禅は急げと いうことがある」 「恐れ入ります」 「洒落《しやれ》ではないよ。すぐと坐禅を始めなさい」 「ヘエ、しかしどうも、今すぐというのはあまり……」 「何があまりだ、何も差し支えはない」 「なくはございません。いろいろ用事もあり、夜分は席へも参りますから」 「何だ用事なんぞ、いずれ身辺の日常俗事だろう。人生出世の本懐をつきとめようという大問題 とはくらべものにならん。席たどは断りを出して休んじまえ。急病になったと思えば仕方がない ではないか」 「エエしかし……」 「しかしも何もない、サアこっちへこっちへ」  手を取らぬばかりに一室へ連れ込み、坐り方を教えて坐禅を始めさせました。円朝も驚きまし たが、先生が睨《にら》んでいるので逃げ出すことも出来ない。それには円朝もひとかどの人物、モゥこ れまでと覚悟をきめ、坐禅を続ける気になりました。困ったのは円朝の家の者で、いつまでたっ ても帰って来ないので、山岡邸へ迎いに来るやら、そのうちに寄席へ出勤の時刻は迫る。イヤ大 騒ぎをしましたが、山岡先生どうしても円朝を帰しません。円朝も観念して、これから幾日かの 間、坐り続け考え続けた結果、果して今までに経験のなかった澄み切った心地を覚え、夜のあけ たような気分になりました。即ち悟りを得たのであります。円朝は思わず感激の涙にくれ、 「先生、ありがとう存じます。わかりました。お蔭をもってわかりましてございます」 「オウわかったか、それはめでたい。どうわかったな」 「何もかもすっかりわかったような気がいたします。それはあまりに広くて大きく深いものゆえ、 とても一ロには申し尽せませんが、第一に先生のおっしゃった通り、口の先だけで話をしようと した円朝は間違いでございました」 「そうか」 「先生の御母堂様が、まだ御幼少の先生へ桃太郎をなされましたのは、どうしたらこの子にょく わかるだろう。面白く思うであろう。ためになるであろうと、その一心をこめた魂でお話をなさ れましたればこそ、今日になっても忘れられぬほど面白く楽しくお感じになったのでございまし ょう。話は口の先でなく、心で話すべきものだとわかりました」 「えらいッ、さすがに円朝、よくわかった。なおこの上とも工夫をしなさい」  と勧められ、円朝もなるほどとますます励みがつき、一層精神の修養に心を用いましたので、 さらぬだに天稟《てんびん》の技能人格に一段の光彩を添うるに至り、さてこそ古今の名人よと称せらるる巨 匠とはなったのでありました。円朝が無舌居士《むぜつこじ》と号しましたのも、この悟りによりましたもので、 まことに三界唯一心、心外無別法とやら、山岡先生が心の外に刀はないということから、無刀流 を独創せられたのと全く同じ意味と思います。  かくて円朝は一般の芸人とは全然超絶した心境と生活の中に、明治三十三年八月十一日、六十 二歳をもって下谷車坂《したやくるまざか》の宅に没し、前申したごとく鉄舟寺へ葬り、法名を三遊亭円朝無舌居土と 中します。辞世に曰く「耳しいて聞き定めたり露の音」。まことに禅味深甚の好句と思われます。   ○円朝余事初代円生に源を発せる三遊派は円朝出るに及び、俄かに興隆の威を張るに至りぬ。さればそ  の直門にも、数多の大家上手を出せるも当然の結果というべく、前記三代目円生、初代円馬、初代円橘、 初代円喬(後の四代目円生)の四名が円朝の四天王と呼ばれ、就中、円馬のごときは、物によりて師を も凌駕するほどの巧者にて、東両国の駒止に住みしゆえ、世に駒止の円馬と呼ばれしが、以上の四人に 次ぐものとしては、鼻の円遊、先代新朝、円巷、円雀(後に二代目円馬)、円玉、初代万橘、二代目円 太郎、金朝、円三郎(後の円)、二代目名人円喬、初代円左、二代目小円朝、初代円右(晩年二代目円 朝)、円好(後の三好)、円蔵(後に初代小円朝、改め円楽、晩年一朝)等を主なるものとし、その他ま  た少なからず、しかして彩しき円朝の作品は、十三巻の『円朝全集』に収められ、その中の「牡丹灯 籠」が、本邦講談落語速記本の濫膓となりしこと、円朝の弟子を愛せしこと、芸風その他、右全集及び 『講談落語今昔諏』その他に詳しければ、紙数の制限を思い、これを省略することとなしぬ。乞うこれ  を諒とせよ。 O深夜の惨劇前章に述べたる二代目柳枝のいまだ柳朝と言いし頃、門人に梅朝といえる若者あり。八丁  堀の柳屋といえる待合茶屋の伜にて、芸も器用なる好男子なりしより、粋が身を食いて素行修まらず、 その上盗癖あり。放蕩の金に窮するあまり、次第に悪事を重ねしを、土地の同心衆より注意せられし母  親は大いに驚き、浅ましの伜よと身も世もあらず歎きしが女気の思いつめ、家名のために心を鬼にし、 ある夜梅朝の久々に帰宅せしを快く迎え、この世の名残りに寝酒など飲ませ、熟睡を見すまして標える 手先に刺身庖丁をもって梅朝の咽喉をめがけ突き立てしが、女の非力に手元も狂い、肩先を深く傷つけ  たるにぞ。梅朝はアッと叫ぴて刎ね起き、妹も目をさまし、母は度を失うて泣き崩るるなど、ただなら  ぬ物音に近隣も走せ集まり、役人も出張せしが、重傷の梅朝は、苦しき息の下よりおのれの犯せし罪状  を自白し、自殺を企てしところを母に止められたるものにて、決して母が私を殺したのではありません と、これも最期の善心に復《かえ》りしにや、母の罪を庇《かぱ》いたる証言を遺して絶命したり。これがため梅朝は、 白殺ということにて落着せしが、ここに不思議は、その夜師匠の柳朝(すなわち後の二柳)ふと目をさ ませしに、枕頭に梅朝が情然と坐しおれるより、今時分何の用ぞと尋ねしに、師匠には永らくの間、一 方ならぬお世話様になりましたが、私もこの後、拠所なきことがあり、遠方へ参ります。あとに残りま した母と妹のこと、何分よろしく願いますと言い、出で行かんとするより柳朝は、呼び止めんとせし自 分の声に驚かされ目さむれば、これ暁方の一夢なりしにぞ。不快なる夢を見るものかなと思いおりたる ところへ梅朝の死を知らせ来れるにぞ。いよいよ奇異の思いをたせしとあり。しかも不思議はこれに止 まらず、日本橋木原亭の席主伊助も同じ時刻に同じ夢を見たりとのことにて、要するに梅朝の霊が生前 恩を受けし人女のもとへ、礼を述べに来りしものならんとて、いずれも哀れを催せしとぞ。しかして柳 朝は、この折の感懐を俳句とし「暁の襟元寒き寝ざめかな」と詠ぜしが、梅朝の母親が律義の心より我 子の悪事を深く憂い、家名のためこれを除かんと、同人の帰宅を待ち受け、なにもいわずに突然刺殺し たるこの惨劇は、この椿事を聞きたる円朝が、早速取り入れて自作の人情噺に応用したりき。すなわち 「粟田口露笛竹」のうち、幸助ごろしの条にして、さればこの事件を知りし仲間の誰彼は、いずれも円 朝が見聞を皆おろそかにせず、材料化する手腕に敬服せりという。この一事円朝に直接関係なけれど、 ちなみをもって付記するのみ。 桃川大如燕  ひとり本人のみならず、講談界全体の誉れとなるべき御前講演の光栄は、前章に述べました伯 円よりも前に、初代|如燕《じよえん》が拝しております。しかも前後二回にわたり、場所は伯円と同じく、鍋 島侯のお邸でありました。当日だけは如燕も、従五位の下というお位を仮に頂いたのだそうで、 そうでないと畏くも天聴に達しまする資格がありません。けれども本人控え所に待っているうち から、恐れ多さに全身がブルブル標え、どうしても止まりません。これは臣民としてさもあるべ きところ、こんなことで勤め損じては大へんと、お係に願って少しばかり御酒を頂き、それでよ うやく勇気が出て来たと申します。  そのうちに時刻が来ましたので、恐る恐る設けの席へ罷《まか》り出でましたが、勿体《もつたい》なくもすぐ間近 に、玉座のお設けが拝せられましたから、如燕あまりのことに恐縮し、間のお唐紙をしめて頂き まして、襖越《ふすまご》しに言上をしましたが、これでなくてはとても講演が出来なかったと申します。ま ことにもっとも千万の次第、当日の演題は「木村長門守|勘忍袋《かんにんぶくろ》」。これで如燕がまた困ったのは、 へいせい やわきま 平生の高座では、秀吉公だの家康公だのと演っておりますが、お場所柄を弁えず、臣下の名称へ 公という敬称をつけていいものやら悪いものやら、その判断に苦しみました。そうかといって別 室には、慶喜公なども陪聴のお許しを賜わっておられることではあり、呼びすてにするのも如何 なものといろいろ苦心いたしました結果、家康朝臣が-…というような具合に弁じました。なる ほど朝臣なら差し支えありますまい。しかも芸道は不思議なもの、恐縮しながら読んでおります るうちにも次第に熱が加わっで、参りまして、諸大名荒茶の湯の条などは、本人も得意のものだけ に、滑稽も入って大車輪、畏くも殊のほか天機に叶《かな》いまして、竜興御斜めならず、御還幸の瑚《みぎり》、 側近奉仕の方々へありがたきお言葉が下りましたと承わります。まことにこの上たき大名誉で、 さりながら本人は一切夢中、全身の汗は流るるばかり、儒神を透して衣類までビッチョリになっ ていたそうですが、これも無理ならぬこと。この如燕《じよえん》は本名杉浦要助、根津の宮永町の生れだと 申すこと、幼年の時に眼病を煩いまして、危く失明するばかりになった。 (可愛いわが子を生れもつかぬ盲人にしては大へん)  と両親の心配は一ト通りでなく、一心に菅谷の不動尊を信仰し、その御利益でようやく癒りま したところから、親たちはお礼心に、要助を坊さんにしようという考え。そこで成田へ入れて修 行をさせました(別説には、上野凌雲院の御用部屋に勤めたとあり)。けれどもそのうちに、考 えるところがあって還俗をいたし、お山を下って講談界へ入りましたのが、要助十八の年であり ました。少年時代に仏門の修行をして、修養を積んだお蔭か、それとも性来か、至っての好人物 で、初め二代目|燕晋《えんしん》の門に入り、伊東国栄と名のりましたがその後燕国と改名、幼い時から読経 の修行で咽喉《のど》を吹っ切り鍛え上げたためか、凛《りん》とした名調子で、講釈には持って来いの声量があ りましたから、芸がどのくらい冴えて引き立ったかわかりません。 「小栗十勇士」や「両越評定」などを得意としているうち、一貫斎天山という、以前は横沼の菊 蔵といって長脇差から講釈師になった大へんな経歴の持主だそうですが、その天山が喧嘩兇状で 三宅島へ流され、島にいる間に自分の見聞した過去の事実をまとめたという「関東七人男」、そ れから鍋島の猫騒動を潤色した「佐賀の夜桜」、この二っを天山から教わり、さらに伊東凌西の 作った「笹野名鎗伝《ささのめいそうでん》」もゆずり受け、ますます読物をふやし、売り出すと同時に桃川|燕玉《えんぎよく》と改め て桃川派を起し、さらに燕林から如燕《じよえん》となった。もちろん如燕の名はこれが初代で、人呼んで大《おお》 |如燕《じよえん》と申します。黒田清隆伯や安田善次郎氏等、名流の人々に愛せられ、その関係によって前述 のごとき、無上の光栄に浴したのであります。「佐賀の夜桜」に興を覚えて猫の講談を幾つも作 り、これを如燕の「百猫伝」と中しますが、この如燕も芝店好きで、夏場など芝居がかりに化猫 の講談をやり、失敗をした愛矯談なども伝わっております。  かくて盛名を謳われつつ明治三←一年二月、横浜の丸竹亭に読切を頼まれて出演、昼席に「大 久保一代記」を読んだまでは無事でありましたが、夜席に「楠の泣男」を講演中、半ば頃より甚 だしき苦痛を感じ、中止して降壇する始末となり、翌日ようやく帰京したものの、本所横網の自 宅まで行くことも叶わず、その頃京橋木挽町一丁目に住いし門人|若燕《じやくえん》(後の二代目如燕)の許に 赴き、病臥せしまま重態に陥りましたので、家人等駈けつけ看護に手を尽しましたがその甲斐な く、遂に同月二十八日の暁方に、帰らぬ旅へ赴きました。しかも息を引き取るまで、昏睡状態に 陥りながらも、例の「百猫伝」やら「両越評定」など、得意の講談をうわ言に弁じていたとのこ と、芸道熱心の程も想われます次第、これらは真に名人の最期と申すべく、時に行年六十七歳、 谷中|初音町《はつねちよう》観音寺に葬り、法号を桃川院弁覚如燕居士と申します。  その跡をつぎし二代目如燕所蔵の掛軸に、「目出度《めでた》さや百事すまして大晦日」とあり、またあ る時、程という題にて「足る事を知つて上見ぬ柳かた」、性来の大酒を気づかって節酒をすすめ られ、「身の程を知れと仰せを水にせず、汲み分けてのむ養老の酒」と詠みしなど、風流詩歌の 才もあった人でありました。  談洲楼燕枝 「円朝は、高座のすがたが余りしなやかで、いささか厭味だと思うくらい色気があった。それか らかなり謙遜の態度であった。その反対に、燕枝の高座は頗《すこぶ》る傲然《ごうぜん》としていた。しかし燕枝の傲 然さは、しっくり板についていた。円朝には、御召が柄にはまり、燕枝には無紋の黒羽二重がよ く似合った。そうして、それがそのまま、二人の芸風であるということも出来ると思う」  以上は斯道の大通たりし、故人増田竜雨氏の随筆中から、借用いたしましたものでありますが、 まことに簡にして要を得たる、適切な批評であり紹介であると思います。実に燕枝は、東の横綱 三遊亭円朝に対する西の大関に位し、団十郎に対する菊五郎(芸風はその反対でしょうが)であ りました。  この人、本名を長島伝次郎といい、小石川表町伝通院の生れで、父は長島清助という酒屋さん でしたが、後には今でいう請負師の仕事を始めたので、伝次郎も折には父の代りに現場へ出かけ、 監督をしたこともあったと申します。しかし何分にも、幼少から風流を好み、文芸に親しんだ性 格が、どうも家業に適しません。帳場にいても暇があれば句案に耽《ふけ》って、浮んだ想を帳面の端へ かきつけるというようなこと、運座廻りをして夜を更かしたり、落語が好きで天狗連へ出たり、 そんなことをしているうちに、とうとう初代柳枝のところへ弟子入りをして、伝枝と名のる身と はなったのですが、天狗連で場数をふんだだけに進み・も早く、二十五の時には真打となって、柳 亭燕枝と称しました。  なれども何分前に述べた二代目柳枝という兄弟子はありますし、当時は色物落語の席も、不振 を極めた頃でありましたから、燕枝もかなり生活に苦しんだ時代があり、田舎廻りをしたり、道 具入り芝居噺で団十郎の声色《こわいろ》を使ったり、種々の経験を積んだ末、明治十八年頃には亭号を談洲 楼と改め、素噺専門の大真打となったのであります。芸風も一本調子で武上や侠客は巧く描写し ましたが、若い娘などは得手でなく、晩年などは殊に団十郎型の渋好みになり、高尚に過ぎて色 気に乏しく、一般受けはしなかったとのこと、しかしながらそのために、今までややもすれば下 等卑狼の嫌いありし落語が一体に品がよくなったのは、この人の功績であると言われております。  要するに落語家らしからぬ常識家で、博覧強記の物知りでありましたし、文筆もあって、有名 な仮名垣|魯文《ろぶん》翁に師事し、戯号をあら垣|痴文《ちぶん》と称し、一流の狂文を作って同好者から珍重された 外、著わしたものも少なからず、創作も円朝の向うを張って、佐原の喜三郎や梅津長門、大阪屋 花鳥等の活躍する「島千鳥沖津白浪」や、御所車《ごしよぐるま》花五郎の出て来る「西海屋騒動」等、皆燕枝の 手になったもので、されば三題噺において、特にその技能を発揮したことは申すまでもなく、燕 枝の作に係る巧妙な三題噺が今日も幾多伝わっております。  殊に特筆すべきは、燕枝が権威ある劇評家であったことで、性来の芝居好きから芝居道のこと に精通し、団十郎菊五郎を始め、俳優全部に親交のあったのみか、演劇鑑賞にしっかりした定見 を持っていたため、その劇評|肯繁《とうけい》に当り、本職も一般も会得《えとく》感服する批判をしましたから、当時 の新聞劇評家も、その片言隻語を争ってのせたということが、その頃劇通の第一人者と言われた 三木竹二氏の書いたものにも出ていますし、最近市川九蔵氏が刊行した「市川団蔵」伝の中にも、 名優団蔵を燕枝が批評し、団蔵がその忠言に基いて、前人未発の名型を工夫し、大いに燕枝も感 服した逸話が出ておりました。それやこれやで根岸派の劇通と合評にも加わり、その場合はいつ も頭取を勤めて、猿丸太夫、または鹿山人《しかさんじん》等と着名、そんな関係で、森田思軒、饗庭《あえぱ》篁村、幸田 露伴、高橋太華、久保田米遷、幸堂得知、須藤|南翠《なんすい》、関根点庵等、根岸派の文上たちと交遊し、 実にあらゆる方面に、知己の多かった人でありました。  かくて燕枝は三遊の円朝に対して、柳派の重鎮と仰がれつつ、自分が談洲楼を名のるに因んで、 落語中興の祖人たる、烏亭焉馬の名をつごうと志しましたが、その目的を達せぬうち、明治三十 三年の春、瘤疾《こしつ》の動脈瘤が次第に重り、病床に坤吟する身とはなりました。平素から交際の広か った人とて、見舞客踵を接し、臨終の前日まで枕頭は訪客で賑わったとあり、同年二月卜」日、 家族門人等に囲続され、本所南二葉町の宅で、遂に亡き人の数に入りました。時に行年六十三歳。 葬儀は盛大を極めて浅草清島町源空寺に葬り、法号を柳高院伝誉燕枝居上と申します。 ○燕枝の門葉燕枝の門下には、燕花後に燕寿(三代目柳枝)、小燕枝(後の燕路)、燕鏡、柳梅、燕車、  鶴枝、京枝、伝枝後燕柳、小燕、燕柳、燕勢(後の禽語楼小さん)、錦枝、楓枝、燕多、朝枝、つばめ、 春枝、燕花(後の三代目小さん)等多数あり。三代目小さんの門人小三治改名して小燕枝より二代目燕 枝を相続せり。 ○燕枝の没年 明治三十三年は落語界にとりて厄年なりしにや、二月十一日燕枝没し、八月十一日円朝逝  き、十一月十四日三代目柳枝死しぬ。しかも円朝も燕枝も、月こそ違え、同じ十一日を命日とせること、  また一奇というべし。 ○燕枝の墓所 長島家の菩提所は小石川伝通院なるも、源空寺に墓所を定めしは、八丁堀朝田亭の席主等  と謀り、燕枝が奔走斡旋して、同寺に侠客幡随院長兵衛の碑を建てし縁故に因る。しかして燕枝の墓に  は裏面に大槻如電居士選文、永井素岳氏書の小伝を刻し、表面の「談洲楼燕枝塚」の六字は「九世三升  書」と落款を添え、市川団十郎の揮毫したるものなり。  松鯉の伯山 (一)  天一坊で土蔵を建てた初代の神田伯山には、高弟の三代目伯竜を始め、初代|木偶坊伯鱗《てくのほうはくりん》、伯馬、 伯角、伯壮など八十二人も弟子がありましたが、その中に伯勇という少年、これは本名を玉川金 次郎と申し、飯田町九段中坂ドの荷車宿の伜に生れ、父が大そう講釈好きのところから、金次郎 も一緒に講釈場へ同行されるうちに、これも趣味を覚えて大好きにたり、講釈師になりたいとい うので、十五の時に初代伯山のところヘ弟子入りをしたのでありますが、空板を叩いての修業な かなか容易ではありません。  十八になった年の正月のこと、伯山が神田今川橋の染川へかかり、夜講を終って家へ帰る。そ の頃伯山は神田お玉ヶ池に住んでおりまして、金次郎の伯勇はその供をして参ります。師匠の家 まで送り込んで、それから当時は馬道に越していた自分の宅まで帰るのだから、電車のない昔の こと、席の遠い時などは随分|難渋《なんじゆう》をしたものでございます。とりわけ旧の正月だから、夜の寒さ は一通りでない。ピューピュー風に肩を縮めながら、小走りにチョコチョコついて行く。師匠の 伯山は鮫小紋の脚絆《きやはん》に、白足袋|雪駄《せつた》ばき、いつも自慢に高座へも持って出る銀ごしらえの脇差を さしまして、チャラリチャラリと先へ立って歩いていましたが、後ろをふり返りまして、 「オイ伯勇、寒いから蕎麦《そば》を食って行こう」  と申しました。空腹ではあり伯勇喜んで、 「ヘイありがとうございます」 「提灯を消しな」 「かしこまりました」  傍の蕎麦屋ヘズイと入る。 「いらっしゃいまし」 「御免よ」  伯山は上る。伯勇は提灯を消して上り口ヘ腰をかけていると、 「エエお誹《あつら》えは何にいたしましょう」 「そうさた。アァやっばり天ぶらがいいや。天ぷらを一杯、それからお酒を一合頼むよ」  と申しましたが、伯山の注文はそれっきりで、あとは何にも言わないから、女中も変な顔をし ましたが、伯勇はなお驚き、 (オヤオヤ、私のはどうしたのだろう。先生忘れたのかしら、今に気がつくだろう)  と待っているうちに、 「ヘエお待ち遠さま」  と注文の通り天麩羅《てんぶら》一っにお燗つき、伯山は平気な顔で箸をとり上げ、悠々と食べ始めました から、伯勇は呆れ返ったが、伯山はそれを尻目に、美味そうな湯気の出るお蕎麦を一口|暖《すす》っては チビリチビリと熱燗を傾ける。寒さは寒し、腹のすいている目の前で、これを見せつけられては 堪ったものではありません。 (エエ俺のは全体どうしたんだろう)  と渋面作って焦《じ》れているうちに、伯山は落ちつき払って食事を終り、 「姐《ねえ》さんいくらだえ、アアそうか、ここへ置くよ」  と懐ろから財布を出して鳥目《ちようもく》を膳の上へのせ、楊子を咬《くわ》えて立ち上りながら、 「オイ伯勇、提灯をつけな」  と呆気《あつけ》にとられている伯勇を促して戸外へ出ました。風はますます強く真暗な晩で、寒さはシ ンシンと身にこたえます。 (何でえ莫迦《ばか》にしている。とうとう俺には何にも喰わせなかった。何てえ師匠だ)  と伯勇は、心中に大憤慨、目もきかずについて行くと、しばらく行ってから振り返った伯山が、 「伯勇」 「何ですヅ」 「一杯やったんで乃公《おれ》はスッカリ暖かになった。彼処の蕎麦屋は店は小せえがなかなか美味く喰 わせるぜ。第一酒がいいや。もっとも蕎麦屋は、酒がよくなくては場違いだが、しかしお前も天 麩羅はくいたくはなかったか」  と聞きました。伯勇は腹の中で、 (ベラ棒めえ、聞くまでもないことだ。蕎麦を食って行こうというから、こっちは御馳走になれ るものと思って、ありがとうございますと言ったんだ。礼まで一葺わせておきながら見せびらかし、 喰いたくはなかったかもないものだ)  と不平はたちまち顔の色にも出てふくれながら、 「何も私は、天麩羅なんぞは贅沢だから喰わなくともいいが、寒いからせめて、打ちかげぐらい は食べとうございました」  と答えると、 「そうだろうとも無理はねえ。しかし、打ちかけだのモリだのと、ケチなことを言わずに種物で も何でも食いねえな。いいか。寄席の帰りに蕎麦屋へでも寄って、一杯やりたいと思ったら、ウ ンと骨を折って精を出し、早く一人前の真打になりなよ」  と伯山が申しました。  松鯉の伯山 (二)  伯勇は年も若く、すっかり怒っていたところだから、師匠のこの一言も快くは受け取れません。 (何をいやがる。大きにお世話だ)  という反感が胸へ込み上げ、師匠を宅へ送り込むと暇乞《いとまご》いもせず、サッサと馬道の自宅へ帰り ましたが、口惜しくて残念でたまりません。親はありがたいもので、寝床の中から父親が声をか け、 「金や今お帰りか、火もおこっている。お湯も沸いているから、御飯《おまんま》食べて早く寝ちまいた、寒 かったろう、今夜はまた格別だ。しかし寝しなだから、あまりたくさん食べなさんなよ」  とやさしく言われれば言われるほど、伯勇は一層ムシャクシャ腹が納まりません。茶を打っか けてボソボソ飯を掻っ込みながら、考えれば考えるほどしゃくにさわるので、 「ネエお父さん、俺はモウ、講釈師なんかやめちまいたくなった。成るにしてもあんな師匠の所 についてはいられない。先生を取りかえたいと思うよ」  と言い出しました。父親は不審に思って、 「何だってだしぬけに、そんなことを言い出すんだ。どうかしたのか」  と心配して尋ねるのを、 「どうもこうもあるものか、実は今夜これこれだ、礼まで言わせておいて蕎麦を自分一人で喰い、 美味そうに見せつけられ、俺は極まりが悪いやら、今夜のように腹の立ったことはない。その揚 句に戸外へ出てから、喰いたかったかと聞きゃアがる。喰いてえのは当り前じゃアねえか。そう したら、夜席の帰りに一杯やりたいと思ったら、早く真打に出世しろだとよ。呆れ返って物もい えねえや」  と伯勇は、ボロボロ涙をこぽしながら興奮しております。これを聞くと父親が、そうか、なる ほどお前の怒るのも無理はない。わからない師匠だなア、とでも合槌《あいづち》打っかと思いきや、今まで 寝ておりました父親が、ムックリと寝床の上に起き直り、神田お玉ヶ池の方角へ両手を合わせて、 (アァありがとう存じます。数ならぬ私の伜を励まして、立派なものにしてやろうと思えばこそ、 よくそれまでにおっしゃって下さいました。恭《かたじけ》のうございます)  と頭を下げて心中に礼を述べたのですが、後ろ向きで飯を食っている伯勇にはわかりません。 「サアサア早くねてしまえ」  と父親に言われ、疲れているから寝床へ入るとそこは若い者、じきに眠っちまった。翌る朝に なって目をさますと父親が見えません。昼頃になってから帰って来たから、 「お父さんどこへ行ったのだ」 「どこへ行くものか。師匠の所へよ」 「アアそれでは昨夜のことで、俺の暇を取って来てくれたのか」  と聞くと、 「莫迦野郎《ばかやろう》何を言やがる、俺は先生に礼を言って来たんだ。親の心子知らずとやら、師匠として 弟子の可愛《かわゆ》くないものはない。自分ばかり物を食べるより、弟子にも奢《おご》ってやりたい、喜ばせた いのは当り前だが、いやな思いを堪《こら》えても、弟子をどうか一人前の立派た者に仕立ててやりたい と思えばこそ、出来ない我慢をしてそういう仕向けをし励まして下さるんだ。ありがたい先生の 大恩を忘れると汝師匠の罰《ばち》が当るぞ。アア恭《かたじけ》ないと思うと、乃公《おれ》はありがたいやら嬉しいやら、 昨夜はマンジリともしなかった。夜のあけるのを待ちかねて、乃公はお玉ヶ池ヘお礼に行ったん だ。先生は乃公の顔を見るなり、ヤアお父さんどうしたえ、伜が昨夜何か言ったかえ。ウムそう だろうそうだろう、若いから無理はない。モウやめるぐらいなことはいったろうと思った。お前 さんも一緒になって、心持を悪くすると思ったら、わざわざ礼に来てくれるとは、失礼ながら恐 れ入った。それでこそ私も張り合いがあるというもの、いかにも将来見込みのありそうな子だか ら、この上とも辛抱するように、お前さんからよくそう言ってくれろとおっしやったぞ。あんな いい師匠はねえ。お前もありがてえと思ったら、一生懸命に修業をして、早く立派な先生になら なくてはいけない。今後また途中で、いやだなんぞと勝手をいうと、勘当しちまうぞ」  と言い渡しました。伯勇も言われて見ればなるほどと感じ、殊に性来親孝行で、親のいうこと には決して逆らわなかった人ですから、 「どうもお父さん済みませんでした。これからは我儘を申しませんから、どうぞ勘弁しておくん なさい」  と父にもあやまり、これから一心不乱に身を入れ出しました。人間精神の入れ方で、すべてが スッカリ変るもの、伯勇も俄かに進境著しく、 大看板になりました。これぞ二代目神田伯山、 遂に後年は数多の先輩を飛び越えて、 即ち後の神田|松鯉《しようり》であります。 師名をつぐ 文治と文楽(一)  御年配のお方は御存じですが、昔、尻とりというものがありました。筆者など幼年時代|玩《もてあそ》び の絵草紙などに、その文句が絵入りで印刷され、何という意味もわからず、教わったままに覚え ていたものですが、それは「牡丹《ぼたん》に唐獅子、竹に虎」「虎をふまえて和藤内《わとうない》」「内藤様は下り藤」 ……といったような文句で、一番終いが「咲いた桜にたぜ駒つなぐ」というのであったと思いま す。その中に「下谷上野の山かつら」「かつら文治は話家で……」という一句がありましたほど、 この桂文治という名は、由緒ある斯界の大看板になっております。  しかして落語家系図を調べますと、桂文治の名は大阪から始まったもので、北野大融寺檀家新 町新堀町|伊丹屋《いたみや》宗兵衛事初代桂文治としてあります。この初代文治は妻女をやすといい、長男三 太、二男文吉、長女こう、二女みねの四子があり、文化十二年十一月二十九日卒、行年四十三歳、 法名桂月空昌信士となっておりまして、二男の文吉が跡目をついで二代目桂文治になったとして あります。その三代目は江戸の人で、初めは二代目可楽の門人で翁家《おきなや》さん遊《ゆう》と申しましたが、こ のさん遊が大阪へ参りまして、前記初代文治の長女こうを妻として同家の聾となり、その縁によ って三代目文治を襲名、それより江戸へ帰りまして、これから文治という名が江戸に伝わったの                                      5んらく であります。そしてその後、養子の才賀に四代目文治を名乗らせ、自分は改名して桂文楽とたり ました。これが文楽の名の初代であります。三田《みた》に住って嘉永四年九月楽翁と改め、更に同五年 九月|大和大橡《やまとだいじよう》と名乗り、安政四年六月二十六日没し、法名は笑寿亭桂文遊楽居士としてあります。  さて四代目文治をついだ才賀は元徳川家|直参《じきさん》伊賀組を勤めた武士だとしてありますが、本名は わかっておりません。四代目文治から後に二代目大和大橡になり、また桂寿《けいじゆ》と改め、慶応三年六 月二十六日四十九で没し、法名は童遊亭大賀桂寿信士、次に三代目文治の門人文太郎が二代目文 楽から改めて五代目文治になりましたが、万延三年二月十六日二十一の若年で死んでおります。 法名は桂嶽文秀信士。  ところで四代目文治の長男に由之助《よしのすけ》という伜がありまして、七つの時から高座を勤め、舌で四 つ竹を打って喝采を博すなど、神童の名を得ましたが、この子が成人して三代目文楽になり、さ らに桂文治の六代目を相続、本名も桂文治と申しました。もっとも、これはちようど明治初年に 戸籍法が制定せられ、皆氏名を届け出ることになったので、その際芸名をそのまま本名にしてし まったものらしく、他にも同様の例はあります。筆者もこの六代目文治の晩年の高座を聴き、老 練で規格正しきその芸風に感服しました。永らく落語組合の頭取を勤め、道具入り芝居噺《しぱいばなし》に長じ、 本物の芝居も巧かったとのこと、それもそのはず、この人は踊も立廻《たちまわ》りも本式に修業をしたのだ といいます。  それについて一場の逸話がありますが、文治が頭取を勤めるようになった頃のこと、蔵前《くらまえ》の師 匠と呼ばれて勢力のあった三代目柳枝の弟子に、柏枝という若い男がありまして、これが師匠の 引き立てにより真打格に昇進することとはなりましたが、なかなか素噺で看板を上げるほどの力 量はない。幸い役者の声色が巧いとあって、芝居噺で道具を使ったら、どうにかお茶が濁せるだ ろうというところから、その稽占をしようとなった時に、ついては誰かに教わらなくてはならた い。そこで柳枝が、 「それなら文治さんに頼みな。しかしあの爺さんなかなか皮肉だからハそのつもりで……」  と注意をした。柏枝は心得て菓}折を壬J上産に、文治の所へ頼みに行くと、 「アアそうかえ、よろしい」  と引き受けておきながら、オイソレとすぐには教えてくれません。稽古のけの字もしそうな気 振りさえ見せず、終日を世間話で費やし、 「今日は時間が半端《はんば》だ、また明日《あした》おいで」  と申しました。そこで柏枝が翌日行くと、 「今、朝湯へ行っていますから」  と家人が申しますので、帰りを待っているとなかなか帰りません。しばらく経って縞麗な顔を して帰って来て、 「イヤどうもお待ち遠さま。帰りに理髪屋へ廻ったから遅くなって済まなかったね。しかしモウ 今日は時間がない、明日おいで……」  とまた無駄足、柏枝も根気がいい、またその翌日行きますと、 「アアあいにく今日は座敷でね……」  その次の日は、 「今日はより合いへ出かけるから」  またあくる日は、 「今日から昼席があるんだよ」  といったような具合、また明日々々とお断りが幾日も幾日も続きました。大ていの人間なら呆 れていやになっちまうところを、柏枝も腹の中では口惜しかったが、ここが我慢のしどころだぞ と、毎日々々無駄足を覚悟で辛抱づよく文治の所へ通《かよ》いつづけました。  文治と文楽 (二)  習いたいという一心で、柏枝の方も強情でしたが、文治も負けずに強情を通し、毎日々々、今 日は留守、今日は差し悶《つか》えと、なかなか稽古にかかりません。その間に、三日に一度は柏枝の方 でも、手ぶらでは行かれませんから、何かしら手土産を持って行くという勘定、収入の少ない割 に、家業がら出銭の多い若い芸人の懐ろとして、これは相当の苦痛だったろうと思われますが、 それを受け取る文治の方は、気の毒そうな顔もしません。遂にその無駄足々々々が、何と一ト月 も続きました、さすがの柏枝も少々あぐねて、 (なるほどこりゃア大へんな爺だ)  と驚きました。するとちょうど一カ月目のある朝のこと、それも夜があけたばかりの早暁に、 柏枝の家の門口を、ドンドン叩いて起すものがあります。夜遅くなる家業の落語家ですから、朝 はどうしても早くは起きません。柏枝はまだ白河《しらかわ》夜船の最中を叩き起され、 「ヘエ、ただ今、どなたでございます。ただ今、ただ今、少々お待ちなすって……」  と寝ぼけ眼をこすりながら、柏枝が表の戸をあけるとこは如何《いか》に、立っていたのは外たらぬ文 治でした。柏枝はアッと驚いて、 「マァ師匠、大そうお早く、どちらへ」 「どこへ行くものか。お前の所へ来たんだ」 「ヘエッ、何か御用で……」 「何か御用じゃアないよ。柏枝さん、私ア茄前の根気のいいのに感心したよ。大ていの者なら、 三日もスヤを食わせれば、閉日して引き下がるんだが、お前はよくも飽きずに通いなすった。そ の熱心なら物になる。お前の辛抱強い精神に免じて、芝居噺を教えて上げる気になった。サアこ れから稽古をしよう」  と申しました。柏枝は不意を喰って二度びっくり、 「左様でございますか、それはそれは、ありがとう存じます。しかしそれにしても、ただ今御飯 をたかせますから」 「いいよいいよ、御飯なんざマ/喰いたくない、すぐに始めよう」  とズンズン上って参りまして、 「アアお前さんの家には女房《かみ》さんがいたね」 「ヘエ、子供も一人あります」 「アアそうかえ、それではその子供と一緒に、かみさんをどこかへ出しておしまい。他に誰かい ると、気が散っていけないから」  と中します。それに逆《さか》らって折角の御機嫌を損じてはならないと思ったので、柏枝はまだ起き たばかりで顔も洗わない女房に、小児を連れさせて親類のところへ出してやり、 「ヘエ、師匠、二人きりになhワました」 「アアそうかえ、それでは表の戸をしっかりとしめて、心張棒《しんばりほう》をかっておしまい、誰か来られる と邪魔になる。裏口もその通りだよ。留守のように見せかけるんだ。サアいいかえ、これから稽 古だが、芝居噺をするには噺よりも身振りの仕付けが第一、それもむずかしいのは立廻《たちまわ》りだよ。 高座へ坐ったまま形を見せるのだが、本当のことを知っていなくては、どうしてもヨタ(嘘)に なる。今日はその立廻りを本式に稽古しようと思って、私はその心組みで来た。少し骨も折れよ うが、そのつもりでおかかりよ」  と文治が申します。 「どうもいろいろありがとうございます」 「それではお前裸におたり」 「エッ、裸になるのですか」 「アアそうだよ。着物なんぞ着ていては駄目だ。最初は寒くともやっているうちには、御方便な ものでだんだん暖かになる。裸におたり」  と儒神《じゆぱん》もぬぎすて、文治も同じく下帯ばかり、これから立廻りの稽古を始めましたが、その訓 練の激しいこと、柏枝は息もつけません。なるほど全身汗みずくになってポッポポッポと湯気が 立ちます。柏枝はたちまちヘトヘトになりましたが、文治はビシビシと鞭燵《べんたっ》を加え、まだまだ、 まだまだと激励します。柏枝は空腹も甚だしく目が廻りそうだ。 「師匠……御飯を……」  と悲鳴をあげますと、 「イヤ飯なんぞを食べている間が惜しいな。お茶漬でもあったら、塩をつけて結びにしなさい」  握り飯をこさえさしてムシャムシャやり、すぐとまた立ち上って稽古を続けました。これが朝 から日暮までちょっとの猶予もなく、猛烈にやったのですから、さすがに文治も疲れたらしかっ たが、柏枝はなおのことクタクタになり、終いには座敷へ打っ倒れてしまいました。そして文治 の帰った後も、全身綿のようになりまして、側《かわや》へ入っても節々が痛んで、しゃがむことさえ出来 なかったと申します。その夜は死んだようになってグッスリ眠ると、またその翌朝ドンドン戸を 叩かれた。見ると文治が、 「サアまたやって来たよ」 と立っていました。  文治と文楽 (三)  今度は柏枝の方で、その熱心さに胆をつぶしましたが、文治はニコニコ笑いながら、 「サァ早く、かみさんと子供を外へお出し、稽古だ稽古だ」  と促しました。この稽古が三日もつづき、お蔭で柏枝は十分に、本格の立廻りを腹へ入れるこ とが出来ました。」ト通り形を覚えたところで、今度は坐ってその形を真似る。半身でやる芸も、 本行を心得ていますから、立派に形もつくわけなのであります。柏枝はつらい思いをした代りに、 予期した以上の芸を教わることが出来、感激してその好音9を感謝したこと申すまでもございませ ん。この柏枝こそ現存の入船亭《いりふねてい》扇橋老で、以上は同人の直話であります。かくてこの文治は明治 四←一年十一月、大阪の文団治に七代目文治をゆずり、自分は楽翁と改名、さらに三世大和大橡 になりましたが、同四十四年二月十七日、六十六で永眠、法号は桂月院釈家元文治居士と申し、 戒名にまで家元と入っております。今の八代目文治はこの六代目の義子で、祖先を語る由緒の品 品も蔵しております。  ところでこの六代目文治の門人に、文七という人があり、本名を新井文三といって、柴井町《しぱいちよう》で 印判屋を営んでいましたが、好ぎから素人《しろと》連へ入って鶴丸亭小きんと名乗っていたのが、遂に本             ぶんきよう 職となった。そして文七から文鏡となり、すこぶる巧いので人気を博し、看板に上って四代目|文 楽《ぶんらく》をつぎました。明治二十六年の番付を見ますと、西の大関に位しております。その前に一時、 |幕間《ほうかん》に転向して、島原で松の家文二、吉原で荻江文三と名乗ったこともあったそうですが、それ だけに円転酒脱、気の利いた扮装態度で、話風も軽妙を極め、いかにもオツな味がありました。 |仮声《こわいろ》は半四郎を得意で使い、話は「音羽丹七ー二、雪の瀬川」など、花柳界を舞台にしたものがや はり巧く、 「真に江戸の落語を聞きたくば、文楽を聞かなくてはいけない」  といわれたほどで、とりわけて講間の出る話は、真を写して真似の出来ないところがありまし た。ちょっと『今昔諏』から引用しますと、 「雪の瀬川で、居候の若旦那から瀬川への手紙を言伝《ことづか》った源助という男が、怪しげな扮装で、吉 原の轄間|富本《とみもと》米太夫のところを訪ねると、折しも朝湯から立ち帰った米太夫は、源助に向い、こ れはこれはどうも、わざわざ恐れ入りました。ヘエヘエ若旦那からのお手紙で、ヘイ、委細承知 |仕《つかまつ》りました。どうも御苦労さまでございます。なるほどこれが若旦那のお手紙、どうもお珍し い、ヘイ、米太夫でございます。御機嫌よろしゆうと手紙をちょいと頂き、ちょいと縁《えんぎ》喜|棚《だな》へ上 げてと、手紙を供え、それでは、すぐと行って御返事を頂いて参ります、どうか御ゆっくりと。 と、源助へ酒肴《さけさかな》を出すことを女房に目くばせで命ずるところなど、人物が活躍し、その情景を目 の前に見るようであった」  とあり、また、 「文楽は封間をしていた関係上、きわめて料理のことに精通し、また、すこぶる食道楽であった。 従って何の話でも、必ず食物のことの出ぬことはなく、それから、デコデコという口ぐせがあっ たので、デコデコの文楽と呼ばれ、これが緯名《あたな》になった。明治十四、五年頃のことだが、文楽が 芝の恵智十へかかっていると、木戸へ打ち揃って入って来たのが、新橋の久吉《ひさきち》、しん子、千代助、 小文、とく松、宮子、友江などの連中で、ちょいと看板を見ると、アラマア、ヘラヘラかステテ コかと思ったら、デコデコよ、"つまらないわねえと引っ返そうとした。するとちょうどその時木 戸に居合わせた文楽が、この言葉を聞いてムッとしたが、そこは帯間で苦労をして来た彼のこと、 屋根船の乗り方はどうと心得ている通人だから、グッと砕けて、もし姉さん方、御意には叶《かな》いま すまいが、今夜だけはデコデコも聞いて行って下さいよと声をかけたので、芸妓《げいしや》たちも今さら後 ろは見せられず、矯笑に紛らして入場し閉場まで聞いて帰ったが、さすがは新橋の一流どころだ けあって、翌晩はお客を連れ出してこの連中が、また恵智十ヘ押しかけ、文楽ヘ後ろ幕を贈った と、当時の諸芸新聞に出ている」云々。  なお、増田竜雨氏の随筆によると、     やなぎはら一て 「文楽は、柳原堤の印判屋の主人で、いつも店先でコツコツと、認印や実印を、注文に応じて彫 っているが、話がしたくなると寄席《よせ》へ出る。しかしイヤになると一年も二年も席ヘ出ないという |異《かわ》りもので、勿論大看板、この人円朝燕枝に伍して、というより、わたしの記憶に間違いがなけ れば、より以上にたしかな芸であったと思う。得意に演じた本郷小町などは、木原亭で連夜一人 の客も立たたせたかったのでも、芸の力がわかる。わたしが人情話というものに打ち込んだのも また、この人の芸の力に引きずられたからだ」  とありました。この文楽は明治二十七年五月二十八日、五十七で没し、法号を桂真院宜説文楽 居士と申します。  放牛舎桃林 「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」  これは有名な塩原多助のことを詠んだ狂歌としてありますが、同じ頃、やはり立志伝的の人物 で芝居の金方《かねかた》として成功した大久保|今助《いますけ》という人があり、今一人、万屋|和介《わすけ》と三人を合わせて江 戸の三助と称えました。  同じ三助でもお湯の流しで幅を利かせている番頭さんとは大分違いますが、この三助の一人万 屋和介と申しますのは、深川木場の材木の大問屋で世間では一トロに万和と呼び、ただ今の深川 区万年町|海辺橋《うみべぱし》を、昔は深川寺町の正覚寺橋と申しましたものですが、その横手を入った冬木町 の河岸《かし》を、俗に万和河岸と呼んだほど音に聞えた名家でありました。その万和所有の地所が、京 橋の本八丁堀と南八丁堀とにありましたので、その差配をしていましたのが谷口忠兵衛といって 南八丁堀の鯛河岸《あさりがし》に住み、岸和田の岡部家へも出入りして町人の元締をしていた有力家でした。  この谷口忠兵衛が母方の苗字を名乗って島《しま》と改姓し、島忠兵衛といって男女三人の子があり、 長女はお竹、長男は勝五郎、二男は泰次郎《たいじろう》といいましたが、この泰次郎は後に左右助《そうすけ》と名を改め、 十八の時に謡曲家長命勝五郎の養子になって、宝生《ほうしよう》流の謡《うたい》を宝生金五郎に学び、幸流の小鼓《こつづみ》を幸 清次郎に習い、精進をしたが、また実家へ戻ることになって、今度は講釈師を志し、師匠と仰い だのが前に申した初代東流斎馬琴であります。馬琴にはその折も述ベましたごとく数多の門人が ありましたが、左右助はその三十一人目の弟子になって琴曲と号し、追い追い人にも認められて 来ましたところ、馬琴は大阪、で亡くなり、何しろ社中が多いので苦情や紛紙《ごたごた》もあり、琴曲はそれ を煩わしく思って独立した。この時に岡野竜隻という儒者の先生が琴曲のために名をつけました のが、漢籍の書経から撰んだもので、周書のうち考定武成の章に、 「乃チ武ヲ侮セ文ヲ修メ、馬ヲ華山ノ陽二帰シ、牛ヲ桃林ノ野二放ッ」  とあります、その句に因んで放牛舎桃林という名でありました。出典も明らかですし、文字も 立派で大そうな雅名であります。琴曲大いに喜んでこの名に改めた、もちろん初代であります。 この桃林は文字もあり風流を好み、俳譜は深川佐賀町にいた小築庵春湖の門に入って遅々庵香波 と号し、春湖の没後は其角堂永機の弟子になり、また川柳を六代目川柳に学んで祥雲と名乗った とのこと、浅野長勲侯の御愛顧を受け、「水戸黄門記」の内、藤井紋太夫お手討ちの条で、宝生 流の謡を中へちょっと入れてお聞きに入れたところ大そうお褒めにあずかった。これはそのはず で、謡曲は本職の修業をしたのだから素人離れがしているわけでしょう。  師匠の馬琴も弟子が多かったが、この桃林も門人が多く、桃玉(揚名舎)、桃葉《とうよう》(秦々斎《しんしんさい》)、桃 湖(放牛舎)、桃海、桃水、桃里、桃山、桃勝、桃和、桃渓、桃花(初めは力十にて鬼風喜左衛 門の弟子、後に二代目桃葉となり、さらに三代目馬琴となる)、桃花女、桃左衛門、桃一、桃仙、 桃窓、桃園、桃拾、桃枝、桃長、桃々、大桃、桃紅、桃成、桃寿、桃桜、桃庭、桃源、桃条、桃 李、桃八、桃雨(後に二代目桃湖、さらに六代目陵潮となる)、桃甫《とうほ》(後に現在の二代目桃|川若 燕《じやくえん》)、桃泉、二代目桃玉、二代桃水、二代桃源、二代桃海、二代桃里、二代桃山等、実に彩しい 人数で、この他、落語家から講釈師になった三代目桃葉もおります。  この人は本名を神尾鉄五郎といい、初めは三代目五明楼|玉輔《たますけ》の弟子で五輔から五海道雲輔にな り、さらに怪談師になって人情亭錦紅を襲名、それより桃林の門に入って三代目桃葉とたりまし たが、落語家の出だけあって世話物に独特軽妙の味があり、講釈好きに喜ばれて代々の桃葉の中 ではこの人が一番売れたでしょう。次弄《っいて》ながらこの秦々斎《しんしんさい》桃葉という名も漢籍から出た名で、詩 経の中に、 「桃ノ天々タルハ其葉秦々タリ」  とありますのから取りました。桃林の名と好一対と申せましょう。  さて初代桃林に伜があって光沢次郎と申し、これが後に二代目桃林となりましたが、家庭にお ける躾方《しつけかた》は厳格を極めたもので、わが子といえども同席で食事をさせない。女中と一緒に台所で 食べさせ、また飯櫃《めしぴつ》の上へ種本をのせて稽古をさせ、 「早く飯の食えるような一人前になりたくば、一心に修業をしろ」  と教えたそうで、自身も夜遅くなる家業でありながら早く起き、机に向っては書き物をした。 この随筆が次第にたまって三十冊ほどの大部の書物になったのを「波の子」と題し、田村成義氏 へ譲って同家の蔵本となったとのこと、また、「葛飾《かつしか》五人男」「延命院」「白藤源太」「纏《まとい》の誉《ほまれ》」 「新蔵兄弟」「仙石騒動」「大久保今助伝」等、自身創作の講談も少なからず、「田沼」「吉原百人 斬」「吃叉平」等を得意とし、明治三十年八月十四日、六十四歳で没し、麻布飯倉一乗寺ヘ葬り、 法号性静院桃林日善信士。「筆なげて月にものいふばかりなり」、これが辞世でありました。  伊東燕尾(一)  明治の年代に出ました講談落語速記雑誌のうち、歴史も古くまた年月も永かったのは「百花 園」でありましょう。今日にありましては斯道研究上に貴重なる文献の一っでありますが、この 「百花園」などを見ますと講釈師の肖像中、烏帽子《えぼし》を戴き東帯《そくたい》を着け、威容堂々として異彩を放 っている人物があります。すこぶるむずかしい顔をした、やかましそうなお爺さんで、これたん 初代の伊東燕尾《いとうえんぴ》であります。赤ら顔で上背があり、肥っているから力士かと思われるほどの大兵 な体格で、若い時は総髪の大たぶさ、伊東という姓に因んだ庵に木瓜《もつこう》の定紋ついたる黒の羽織に、 脇差も小長いのを一本さしていたところ、どう見ても天晴《あつぱれ》の大剣客という風采、素晴しく立派だ から、往来の人は振り返って見送ったほどだと申しますが、元来、この人は武蔵の国秩父郡北川 村の馨黒田鉄太郎といい・お穿あんは上野寛永寺の嚢御用を勤めておりましたが、この鉄 太郎の生れたのが文政十二年四月の八日、即ちお釈迦様の御誕生と同じ月日だからというところ から、仏縁のある者に違いないゆえ、出家にしようということになり、少年の頃から上野のお山 へ上せ、凌雲院寛潤僧正のお弟子にして修行をさせたのですが、どうも鉄太郎には坊さんの生活 が性に合わない。 「どうか男子と生れたからは、士農工商とて四民の上に立っ武士になりたい」  という考えを起し、有馬|玄蕃頭《げんぱのかみ》の家臣で浅山一伝流の津田武太夫に槍術を習い、戸田越後守十 二世たる気楽流の菅沼勇之助に柔道を学び、追い追い上達に及んだので、 「この上はいよいよ武者修行に出よう」  と面小手《めんこて》を肩に秩父へ志し、同所中野の代官笹本彦次郎方に逗留、いよいよ秩父の山中へかか りましたところ、途中で筑後柳川《ちくごやながわ》の藩士大石進という、道場荒しで有名た腕ききに出くわし、 「貴公面小手をかついでいるところを見ると、武術の修行だな。こりゃアたのもしい。ちょうど いいから一本立ち合おう」  と試合を挑まれました。拠所《よんどころ》なく渡り合ったがどういたしまして、叶《かな》うはずはない。さんざん に引っばたかれた上、 「何だこのざまは、こんな未熟な腕前で、諸国遍歴とは生いきな奴だ。察するところ、師匠から 許しを受けての修行ではあるまい。こらしめのために道具は取り上げるぞ」  面小手|竹刀《しない》みんな持って行かれちまった。鉄太郎弱りぬいてまたも中野の陣屋へ引き返し、笹 本代官から詫びてもらって道具は取り返しましたが、モゥこりごりだと一度で武者修行をあきら め、これから講釈師になる気になった。この辺は前に出ました初代南竜によく似ておりますが、 その間にも長州征伐の時、榊原《さかきぱら》隊に加わって八王子同心の百人長とたり、いよいよ出発という時 |寒冒《かぜ》で動けなくなったことやいろいろありますが、結局、伊東燕晋(一説には燕凌《えんりよう》ともいう)の 弟子になって燕尾と名乗り、地方廻りから叩き上げ、さんざん苦労をした甲斐があって場数をふ んだ達者にたり、東京の講釈場へ現れるや間もなく一方の大看板になりましたのは、素養と実力 が物を言ったものに相違ありません。何しろ若年時代に地方廻りをしていた頃、上州|榛名《はるな》の温泉 場へ参り、湯治をしながら講釈を読んで相当に繁昌していましたが、ところの者から、 「この榛名の湖は霊水でありますから、ちょっと人が手を入れましても、水神様がお腹立ちにな って嵐を起すことなどがございます」  と聞いた燕尾、 「ヘヘエそいつは面白い、よし、乃公が一つどんなことになるか試《ため》して見よう」  と真裸になって飛び込みました。一同アッと驚いて見ているうちを、得意になって泳ぎ廻り、 「それ見ろ、何のさわりもなかろう」  と上って来て威張っていたところ、 「飛んでもねえことをする奴だ。こんな狂人をいつまでもこの土地に泊めておくと、どんた御神 罰があるかわからねえ」  とばかり、とうとう一同で燕尾をこの土地から追っ払っちまった、などということもあったく らい、とにかくよほどの変りものだったに違いなく、明治の初年に断髪令が出まして、燕尾も自 慢の大たぶさを取り払ってしまわねばならぬことになりましたが、サアこれが惜しくてなりませ ん。 「アア何たる情《なさけ》ないことだ」  と七日泣いたと申します。しかし切らないわけには行きません。拠所なく切りは切っても未練 がありますから、長く残して後ろへ撫でつけにし、二月目ぐらいに散髪をしていたとのこと、こ の人の長所は、前に出た文車とはまたちがった行き方ですが、余事が巧かったことで、講談に引 事《ひきごと》つまり余談はつき物でもあり、それが面自味のあるところですが、素養や力量がないとなかな かこれがうまく出来ない。ところが燕尾のはこれに妙を得てしかも長いと来ていました。  伊東燕尾 (二)  それからそれへと枝に枝が出て引事が一席で済まず、翌る日へつづいてまた次の日へも跨《また》がる という具合、本文なんぞはどこかへ行ってしまうくらいでしたから、それがため他人には一日の 分量を、燕尾は三日も五日もかかったそうで、その引事がまた面白いから、聴衆も喜んで入りが ありました。本郷日蔭町の講釈場、後の梅本へ出たときに席主が、 「どうして先生は義士伝を読まないのです」  と尋ねましたところ燕尾が、 「イヤ私も講釈師だから、義上を知らないわけじゃアないが、他の先生がみなこれを読むから私 はわざとよけていたのだ。しかし所望《しよもう》とあるなら読もうよ」  ということになり、 「どうぞお願い申します」 「アアよろしい。それでは今夜から討入りを読もう」 「エッ、先生最初から討入りですか」 「アアそうだよ。余人と違って私の討入りは長いから……」  といいましたが、聞いて見るとなるほどその長いこと、そもそもの初日から、義士の討入りを 読み始めて、イヤこれが続くは続くは、いつまでたっても筋が進行しません。というのは例によ って引事|沢山《だくさん》、義士の一人が吉良《ご ら》の付人と立ち向い、チャリーンと刀を合わせたかと思うと、こ れがスグ脇道へ入って、両方の生立ちからその他の引事に入り、急には勝負がつきません。二日 も三日もかかるという具合だから、これでは手間もとれるわけ、とうとう一ヵ月経って千秋楽の 晩になったが、まだまだ結末のつくどころか、討入りも中途のところだ。その時に伊東燕尾が聴 客に対《むか》って、 「さてお聞きの通り、占良の付人四天王の一人清水一学もまだ討死していない。況んや目ざす敵《かたき》 の吉良上野介に至っては、無事息災安穏で存命している。これを炭部屋から探し出して首級を挙 げ、両国橋で服部一郎右衛門に出会いの一件から泉岳寺の引き揚げ、義士のお預けから十八力条 申し開き、一同切腹までやるのには、まだ六十くさりはタップリかかる」  と言った。これには聴衆も呆れたといいますが、討入りを読んで吉良の首を討たずじまいにし たのはこの燕尾ぐらいのもの。  高座振りも変っていて、時計が流行《はや》って来ると燕尾も懐中時計を求めたが、この時計の大きい こと、直径四寸もあって周囲が八角になっていようという、柱掛も兼用出来そうな大型で、これ を紫縮緬《むらさきぢりめん》の吊紗《ふくさ》に包み、提鞄《さげかばん》の中へ入れて持って歩いた。この鞄の中には張扇から扇子から種 本一切入っている。本は厚く綴じた大部のもので、メリンスの吊紗に包み、張扇と扇子とは筒ヘ 入れてありました。この包と筒を中番《なかばん》に釈台へ上げさせ、高座へは枕を用意し、自分は例の大時 計を携えてノッシノッシと高座へ上り、枕を尻の下へあてがってムンズと着席、まず机の上左の 方へ時計を置くのが例となっていましたが、こうやると大そう時間観念があるようだが、豊《あに》はか らんやこの時計飾りものでちっとも役には立たない。 「先生、今日はアシに願います」 「よろしい」  と受け合ってしかも時計を睨《にら》みながら演《や》っているのだから、短く切って下りるかと思うとどう いたしまして、一時間が一時間半になり二時問たっても下りないというのは、高座へ上ると芸に 熱中して下りるのを忘れてしまうのです。何のために時計をもって上るのかわかりませんが、も っともそのはずで、時計は正直に動いているのだが、先生時間の見方がわからない。長針の方は お構いなしで、短針の方ばかり見ているから、一時間や二時間は何とも思わないわけだ。時間が わからないで時計を持っているには当りませんが、この燕尾と前に出た初代桃林ばかりは、一生 涯時間がわからずじまい、それでも桃林の方は見方が知れないからというので時計を持たなかっ たからまだしもですが、燕尾先生わからないくせに、高座へまで昇《かつ》ぎ出したのだから変っていま す。そしては芸に熱中して下りるのを忘れ、時問が遅くなって次の席で文句を言われたりすると、 「ウーム何その、ちょっと時計が狂っていたものだから」  たどと時計のせいにしてしまう。時計こそいい面の皮で、何しろ大兵で大力と来ていますから、 時々重い釈台の両端へ双手《もろて》をかけ、ウームと差し上げたり何かしては、聴衆をびっくりさせたこ とたどがありました。  ちょうど明治三年のこと、この燕尾が上野広小路の本牧《ほんもく》亭へかかった。この本牧は即ち、現在 の鈴本《すずもと》の前身で江戸時代から有名な席、向う側に金沢というこれも名代の菓子屋があり、金沢の 向う河岸《がし》だから洒落て本牧とつけたのだといいます。往来から木戸を入ると左手に高座がありま して、高座の後ろは一間のはき出し窓になっている。その後ろには六尺幅の大溝があって、溝を 越した後ろにあった家に住んでいたのが、邑井貞吉《むらいていきち》即ち後の邑井一《むらいはじめ》でした。  伊東燕尾 (三)  これが夜のことで聴衆は一杯の入り、燕尾は「慶安太平記」を読んでいましたが、例の引事《ひきごと》に 入って盛んに剣道のことを話し、自分もやったことはあるのだから心得もありますので、詳細に いろいろ弁じていると、高座のスグ前に坐って聴いていましたのが年の頃十八、九、色が青白く 眼尻のつるし上った大たぶさの若侍で、これがだしぬけに突っ立ち上り、刀の柄《つか》へ手をかけたが らズイと進んで、 「イヤ燕尾先生、最前から承るところ、貴方《あなた》はよほどのお遣い手と心得る。さもなくてはなかな か、それまでに剣道のことが弁ぜられるものではない。察するところ一流の達人に相違ござるま い。拙者は車坂に道場を構える伊庭《いぱ》軍兵衛の伜、サァ立ち上って尋常のお手合せを願いたい、勝 負勝負」  と敏鳴《どな》りました。イヤ不意を食って燕尾が驚いたの驚かないの、講釈最中尋常の勝負を申し込 まれたのはこの人ばかり、しかも若侍は】寸《ちよつと》の猶予もなく、長い刀をギラリ引っこぬき、燕尾の 目の前ヘズバッと突きつけたからサア大変、満場はワッといって総立ちになる。燕尾はキャッと 叫びざま、ポンと高座の後ろヘ飛んだというと、いかにも身が軽いように聞えますがそうではな い。実はころがり落ちたのです。それも本人大兵の身体で、高座の後ろのはき出し窓へ、ドシー   ぶっ                                  まっさかさま ンと打突かったからその重みで竹格子が折れる。はずみを食って今申したその大溝ヘ真逆様に落 ちたのは酷い目に遭ったもので、溝泥《どぶどろ》のハネがサーッと上る、これがモロに貞吉の家の障子へか かった。実に近所も災難で、貞吉の女房もだしぬけだからびっくりした。ハヅとして障子をあけ て見ると、燕尾先生泥だらけになって這《は》い上り、助けてくれーと悲鳴を上げています。寄席の方 は大騒ぎで、スグと下足が車坂の道場へ駈け出して行き、急を知らせたから、伊庭の師範代や門 人が七、八名、驚いてかけつけ、ようやくのことで一刀をもぎとったが、この若侍は自分でも名 乗った通り、まさに伊庭軍兵衛の伜には相違ないのですが、あまり剣道に熱中した結果精神に異 状を来たし、座敷牢へ入れてあったのを、家人の隙《すき》を窺っていつの間にか脱け出し、本牧へ入っ ていたものとわかりました。狂人でしかも大小を持っているのですから、こんな物騒た話はあり ません。他の聴衆は半分も逃げて帰り、あとはワアワアと騒ぐばかり、それがために狂人はなお のこと逆上して、 「燕尾はどこへ行った、サア勝負をさせろ」  と叫び廻るのを、門人たちがやっと表へ連れ出し、道場へ送り込んでまた監禁しましたが、燕 尾は貞吉のところで湯を沸かしてもらい、行水《ぎようずい》を使うやらえらい騒ぎ、翌日になると伊庭から、 御主人の軍兵衛先生自身に、本牧の木戸へ詫びに見えましたのは、さすがに物を心得たえらい人 物、伊東燕尾はこの騒動が縁故になり、その後伊庭の道場に何かある時は招かれて余興を勤め、 出入りをしたそうですが、 「実にこの時ほど怖かったことは生涯を通じて初めてだった」  と後によく申しました由。  燕尾は非常な大酒家で、その好みが合ったのか、これも大酒で評判の竹本此勝という女義太夫 と夫婦になり、狸々《しようじよう》のような夫婦だと言われましたが、大酒の他にはこれという道楽もなく、 客取りで収入も多かったから相当に残った。それを毎月々々秩父の郷里へ送ったのは、両親のた めに山林田畑を求めて余生を安楽にくらさせようためでありました。ところがその後燕尾が帰郷 して見ると、いろいろ手違いがあって大きに失望落胆、淋しい晩年を送りつつ秩父の山中に六十 七か八で没したのも運命と申しましょうか。さればこれほど大着板であった燕尾も終りを詳かに いたしませんのは残念なこと。  桃林とは兄弟同様に親しくして、講談組合に初めて頭取《とうどり》を設けることになった時、初代の頭取 に推された桃林が、合頭取に選んだのはこの燕尾と前に出た二代目伯山でありました。ところが この三頭取とも算盤《そろばん》がわからない。その頃、中等営業者の月税二十五銭宛でしたが、これを五十 人分その筋へ納めるのに、サアいくらだかわかりません。両国にあった福本という講釈場の二階 へ三人が集まって鹿爪《しかつめ》らしい顔を向い合わせたが、小学校低学年の生徒でもわかりそうなこの問 題が見当もつかず、 「アアそのために算盤があるのだ」  と階下《した》の帳場から十呂盤《そろばん》を借りて来て、まず伯山が二十五と置いて見たものの、これをどうし ていいのかわかりません。それを桃林と燕尾の二人がもっともらしく傍から覗《のぞ》いている図なんて ものは珍中の珍だったそうですが、今度は二十五を五十だけ並ベて見ようということになり、 「とても一挺じゃア足りないよ」  と階下へまた十呂盤を借りにやった。一体どんなむずかしい勘定かと上って来た福本の席主が 訳を聞いてプーッと吹き出し、 「お三人とも講釈は名人だが、こんなことにかけてはカタなしだね。二十五銭が五十なら十二円 五十銭じゃありませんか」  とたちまち解決して下りて行ったので、三人とも顔見合わせ、 「ウームあの男は算盤の名人だな」  と感心したというのですから振るっております。あまりナンセンス過ぎて、嘘のようでありま すが実話として伝わっているところ、もってその頃の大先生たちの半面がよくわかろうと思いま して、ちょっとお取り次いたしました。   ○燕尾の門人、伊東燕尾は門人多からず、玉梅、燕泰、燕徳等に過ぎざりしが、燕徳は本名吉野歌治とて    二代日燕尾をつぎ、また玉梅は燕旭堂と改め、その以前は東玉の弟子にて東潮といいしが、異《かわ》り種の講    釈師にて奇行多く、伜二人のうち、一人は岡本貞二郎とて新派の俳優となり、今一人は講談師にして貞    朝より後に二代目清草舎英昌となりしがいずれも物故せり。 春錦亭柳桜 (一) 講釈師落語家の芸名も、多種多様でいろいろありますうちに、出典も正しく調っておりますの は、講談の方で前に述べた放牛舎桃林、あるいは秦々斎桃葉、落語の方でこの春錦亭|柳桜《りゆうおう》でござ いましょう。申すまでもなく、   見わたせば柳さくらをこきまぜて都ぞ春の錦なりける  という和歌から選みましたもので、風流でもあり、かつ優美であります。しかして初めてこの 名をつけました人物は、前に出ました三代目柳橋、即ち安政の大地震に二代目柳枝のお蔭で命び ろいをしたという、逸話の主の晩年であります。  そもそもこの人は、本名を斎藤文吉といいまして、京橋槙町の家主であったということ、元よ り好きでこの道へ入り、初めは滝川|鯉《り》かんの門人で、鯉之助から鯉橋《りきよう》になりましたが、その後二 代目柳橋に師事して桃流と改め、嘉永五年三代目柳橋を襲名、明治八年四月には落語組合の頭取 に推されました。この頭取を最初に勤めたのが、前に出ました名人の円朝で、その二代目がこの 柳橋であります。それから三代目頭取が、これも前述の六代目桂文治という順序、その後の代々 は後に申し上げます。地位と人望がなくては頭取にはなれませんので、もって柳橋の大看板であ ったことが察せられます。至って温厚篤実な物堅い人物で、芸に熱心な外は物事に無頓着な好々 爺だったとのこと、声は細いが愛矯があり、地味で落ちついていて、すこぶる巧く、なんのかん のという口癖があったと申します。住居に因んで不動新道の師匠と敬称され、後に長男の小柳橋 に四代目麗々亭柳橋をゆずり、自分は柳嬰と改めましたが、間もなくこの春錦亭柳桜という名を 選んだ次第。  この長男四代目柳橋は、本名を亀吉といって十四の年から高座の人となり、五年目には真打に なって、道具を使っての人情噺が大いに人気に投じて入りを取ったという天才児、声色も巧くて 数を知り、とりわけやさ形の美男でありましたから、大そう評判になったもので、嘘か真実《まこと》か、 この柳橋に恋をして、麗々亭柳橋と大書した一枚ビラを抱き、入水した若い娘があったなどと伝 えられております。就中《ねかんずく》、その坐り踊に至っては、他の追随を許さぬほど、鮮やかたものだった とのこと、落語に「子別れ」または「子は鍵《かすがい》」と題し、飲んだくれの亭主が、働き者の女房を 追い出し、後に改心して堅くなり、子供の媒介で、めでたく元の鞘《さや》へ納まるという人情咄があり ますが、あれも柳橋が得意でやった。そしてあの子、名を亀ちゃんと申しますのは、とりも直さ ず自分の伜、この四代目柳橋の実名亀吉をそのまま使ったわけで、今もって誰がやりましても、 あの話の子供は亀ちゃんという名になっております。  二番目の子は(本名嘉吉)幼名を昔々亭《せきせきてい》桃太郎といって落語をやりましたが、後に講談に転じ て、前にも出ましたが三代目貞山の門人となって貞宗と名乗り、さらに貞山が一山と改めるや自 も一仙と改め、木戸一銭の小夜講で義士伝を読み、クシ形の高張提灯や立看板を出して景気を添 え、紳名をクシ形と呼ばれたりしましたが、一山の没後、初代の如燕の門人となって若燕《じやくえん》から、 さらに二代目桃川如燕となって先年没しました。桃太郎に始まって桃川に終るなど、よほど桃に 縁のある先生と思われます。三番目の末子は本名久吉、小柳から後に柳桜、また柳橋と改め、気 の毒にも大正の震災に本所被服廠あとで殉難いたしましたが、それは後のお話として、かような 具合に親子四人が揃って高座の人であったのも珍しいことで、従って家内中がより合えばどうし ても芸の話になります。時には父親が知らない話をわが子に教わることもありますが、昔気質《むかしかたぎ》の 人は違ったもので、柳桜もそういう時には下手へ下り、わが子を上へ坐らせて、自分は敷物を払 って謹聴しました。これは、 「わが子といえ、物を教わるからには師匠だから」  というので、その礼儀を守ったものなのですが物堅いことで、その上話を聴きながら、おかし い時には腹を抱えて笑い、悲しいところでは涙を流し、首を傾けて聴いております。そこまでは いいのだが、済んでしまうと以前の位置に戻り、今度は叱言《こごと》をいったそうで、 「これお前たち、今私がお前方の話を聞いて、泣いたり笑ったりしたが、あれはお前たちの話し 方が巧いから受けたのだと思うと大違いだよ。アァ面白いよく出来た話だ。ここはこういう具合 に話せば聴衆が笑うだろう。ここはこう突っ込むと皆泣かせて見せるがなアと、私自身がやる時 の工夫をしながら聴いているので、自然と吹き出しもすれば涙も出るのだ。決してお前たちの芸 に感じたのではないから、自惚《うぬほ》れてはいけないよ、いくら若いにしても成っちゃアいないや、拙《まず》 すぎらア」  と訓戒したそうで、話をさせられたり、叱られたりしては合いませんが、これはわが子を慢心 させまい親心でありましたろう。芸熱心はこれでもよくわかります。  春錦亭柳桜 (二)  柳桜は自身に創作の才も幾分かあり、「阿倍川原風仇浪」たどを自作自演いたしましたが、多 くは良斎種の続き咄で、とりわけ「白子屋《しらこや》政談」「四谷怪談」などは、最も得意とした十八番で ありました。次手《ついで》ながら人情話で演じます「四谷怪談」は、南北作の歌舞伎狂言とは大分筋立て が違っていまして、良斎が大体事実らしくまとめた原作へ、柳桜の作意も大分加わっているのだ と申します。  その柳桜がまだ柳橋時代、麹町の万長という寄席へかかって、「四谷怪談」を演ずる旨のビラ を張り出しましたところ、得意の出し物だから初晩以来毎夜の大入り、何分にも物堅くて信仰家 の柳橋だから、この話を演ずる時には、必ず毎日お岩|稲荷《いなり》様へ参詣して勤めていましたが、ちょ うどその七日目のこと、どうにも差し支えが出来て日参が出来ない。柳橋は心に済まぬと思いな がら、遙拝だけにして楽屋入りをしましたが、何だか気が落ちつきません。そのうちに時刻が来 ましたから高座へ上って、昨夜の続きを話し始め、次第に佳境に入ろうという時にたったところ、 突然客席に当って、ガラガラズシーンと怪しい物音がした。場合が場合だけに聴客も柳橋も、樗 |然《ぜん》として上を見上げましたが、この物音は天井の明り窓が、どうしたはずみかだしぬけにあいた 響きだったのであります。夜風が冷々とその窓から吹き込み、空には星の光も見えます。全体、 どうしてこの明り窓があいたのだろうと、早速席の若い者が、屋根へ登って検《あらた》めると、平素は |堅強《じようぶ》な細引《ほそびき》で締めてあるのですが、何者の所為とも知れず、ごく鋭利な刃物で切ったかのごとく、 その細引が物の見事にブッツリと切断され、そのために窓があいたものとわかりました。それで なくとも、不安な心持で恐る恐る弁じていたところへ、思い設けぬ怪異な出来事が起ったのです から、柳橋は見る見る青くなって、膝さえガタガタと標え出し、 「お客様方、何ともまことに相すみません。実は今日無精をしまして、お岩様への日参を怠り、 気にかかっておりました折柄、これは確かにその罰でございます。それでも構わずに話を続けた ら、この上どんな崇《たた》りがあるかも知れませぬ。お客様方に御迷惑をかけましては相済みませぬゆ え、何とも恐れ入りますが、今夜はこれまでにして、御勘弁を願いとう存じます。私は明日早速 お岩様へお詫びに伺い、念のためにおみくじを頂いて見ます。幸いにもよろしいというお告げが 出ましたら先を続けさせて頂きますゆえ、今晩は半札で御不承を願います」  と詫びを申しました。聴衆も眼前に怪異を見て、異様な心持にたっていたところですから、い ずれも無気味な目と目を見合わせ、落ちつかぬ心持に襲われつつ、苦情も言わずに打出しになり ました。その後で柳橋も万長の席主も、互いに青ざめた顔を緊張させながら、どうしたものだろ うと大息をつき、とにかく明朝は早くから、お詫び参りに行こうということになりましたが、万 長の主人は、 「それでは師匠一緒に行きましょう」  というのを、 「イヤそれはいけますまい。お前さんはここの席主、私は諸方の席ヘ出る芸人です。私にお答《とが》め があったのか、それともこの席に障りがあって、ここでやってはいけないというお知らせを頂い たのかどっちだかわからない。一緒にお参りをしておみくじを引いたのではその解決がつかない から、私は私、お前さんはお前さんで、両方別々に行こうではありませんか」 「なるほど、それもそうだ。では別々に……」  と約束もきまり、柳橋は不安の裡に一夜をあかして、翌朝は自宅から、じかにお岩様へ参詣し て、昨日不参のお詫びをした上、 「この先同じ話をして打ちつ"つけてもよろしいものでございましょうか、どうかお告げを願いま す」  と祈願をこめ、あらためておみくじを引きましたところ、出ましたのは第何番かの大吉であり ました。柳橋は初めてホッと安心し、喜び勇んで万長の席へ行きますと、席の主人は一足先へ参 詣したと見え、モウ帰っていたところでありました。そして、 「柳橋師匠喜んで下さい、大吉が出ましたよ」  と頂いて来たおみくじを見せたから、柳橋が受け取ってあけて見たら、何と驚いたことにその おみくじは、柳橋の頂いたのと同じ番号でありましたから、柳橋はまたもや襟元から冷水をかけ られたようにゾーッとしましたが、万長の席主も今さらきもをつぶし、 「さてさて神ごとは争えないものだ」  とつくづく感心したと申します。 「しかし揃いも揃って、同番号の大吉が出るようでは、差し支えないに違いないから、早速今夜 から続けよう」  ということになり、その趣を張り出したり、チラシをまいたりしたところ、何分前夜の一件が 知れ渡っていた折柄とて、一層好奇心をそそりまして、この興行連夜大入り大当りであったと申 します。つまり今日で申せば、好個《こうこ》の宣伝になったわけですが、その時分は何も、宣伝などとい う頭があっての仕事ではなく、律義の心配が偶然にも広告的効果を招いた次第でありましょう。  春錦亭柳桜 (三)  そんな具合で、柳橋が「四谷怪談」をやれば、いつも人気を呼んで大入りを占めましたが、晩 年、柳桜になった頃は、これをやると却って客の数が減るようになりました。本人も気にしてい ろいろ考えましたが、やがて自分で思い当り、 「これはなるほど、客も来ないわけだ。鏡に向って見るまでもないこと、この通り老人にたり、 至って恐い顔の私が、若い時分と違って、色気も愛矯もなくなり、ただ凄味ばかりが深くなって、 恐ろしい話をするのだから、これではお客様もいい心持はしなかろう、木戸銭を出して、気味の 悪い思いをさせられては合わないからねえ」  と悟って、それからは精々愛矯を出し、なるべく賑やかに凄味を薄くして演じたら、また聴客 もふえるようになったと申します。これらはよく己れを知るものと申すべきで、やはり名人の心 意気すべて非凡次ところがあります。これも宝井馬琴老の談によると、 「柳桜は年をとって後引退の披露をいたし、その日その日を気楽に送る隠居の身の上になりまし たが、中橋《なかぱし》の松川という講釈の寄席、ここは槙町《まきちよう》の自宅からはすぐ傍でもあり、身体が閑だから 始終木戸銭を払って聴きに来ました。高座へ出る講釈師連中も、皆知合いの間柄だから、師匠何 も木戸を出して聞きに来るには及ばないじゃありませんか、いくら引退したって、何もせずに遊 んでいるのは勿体《もつたい》ない。小遣かせぎに講釈の中へ出てはどうですと勧めたところ、当人もだんだ んその気になりましたが、しかし私は落語家のこと、どうも皆さんの中へはと遠慮をした。ナー 二お前さんは続き噺が巧《うま》いのだから、講釈の中でも差し支えはありませんよ。お出なさいお出な さいと勧められ、柳桜だって元より好めるところ、それではというので、お鳥目《ちようもく》はとにかく、身 体が退屈だからと、この松川へ出たのが始まりで評判にたり、皆から私の方へもスヶてくれ、来 月は私の方へと、だんだんにたのまれてズッと講釈場へ引きつづいて出ました。人情話の続き物 と講談とは、同じようで大そう行き方の違うところがあります。それをとにかく大家揃いの講談 席へ、柳桜が一枚|交《ま じ》って出演し、十分に聴客ヘ満足を与えたのですから豪儀なものでありました。 元よりシトシトと物柔かに運んで行く続き噺ですから講談のように烈しくはないが、ヤンワリと 巧味があり、『白子屋《しらこや》政談』などでも、弥太五郎源七が上総《かずさ》無宿の入墨新三を手にかける、閻魔《えんま》 堂橋の仕返しから、足のつくのを恐れて居酒屋の老人夫婦を殺害するという件、こういう所は少 少意気組の弱いところもありましたが、その代り家主の長兵衛が、無頼漢《ならずもの》の新三を脅して、白子 屋から強請《ゆす》った金を二っ割にして持って行く条など実に手に入ったもので、上が十両に下が五両 かつお 鰹は片身貰って行くよというあの呼吸、真似も出来ないほどの妙味がありました。この話は黙阿 弥《もくあみ》翁が歌舞伎に仕組んで、仲蔵《なかぞう》の家主で大当り、その後は名優の松助がこの役で天下一品といわ れました。名題は『梅雨小袖昔八丈』、この原本は全くこの柳桜の人情噺で、家主と新三の応対 と来たら、聴客を引っくり返したもので、ますます評判がよろしく、一順講釈の席を廻り、二度 目に松川へ出たのがお名残り」云々。  とありました。  かくて中橋の住居で没しましたのが、明治三十年八月十一日、時に行年六十九歳、浅草門跡地 内神田山徳本寺に葬り、法号は芸名をそのまま、春錦亭柳桜居十と申しますが、年月こそ違え、 円朝、燕枝、柳桜と同じ十一日に亡くなっているのも奇縁でございましょう。   ○落語の頭取、初代は三遊亭円朝、二代目は麗女亭柳橋後に改めて春錦亭柳桜、三代目は六世桂文治、四    代目は四世三遊亭円生、五代目は初代談洲楼燕枝、六代目は三代目春風亭柳枝、七代目は四世麗々亭柳    橋、八代目は四世柳亭左楽、九代目は三遊亭小円朝、十代目は橘家円蔵、十一代目は四世春風亭柳枝    (後の華柳)、十二代目は五世柳亭左楽、それより十三代目の当代一竜斎貞山に至る。 あとがき  講談落語名人誌の稿を起してより、一冊に全編を輯録すべき意図なりしも、次第に枚数を費や してまだ半ばに達したに過ぎません。  わずかに明治期に入ったのみで、まだあとには、講談の部に、花楽の陵潮、燕林《えんりん》の実、のんの ん南竜、名人の一、その子貞古、あるいは吉瓶、馨やら、伯知やら、本編中にも談話を引用して 資料を仰いだ馬琴老やら、次郎長の三代目伯山や、貞水、如燕、盧洲、典山、貞山、南竜、さて は痴遊、風谷、越山など、最近の諸名家に至るまで、一方落語の部においては、円生、円橘、鼻 の円遊、禽語楼、円馬、円左、円喬、小さん、円右、左楽、円蔵、扇歌、小円朝、円、橘之助、 燕枝、小勝、三語楼、乃至、扇橋、小さん、文楽、金語楼など、現在の面々に至る諸家の列伝や、 目まぐるしきほどの沿革消長を語るには、なお以上の分量を要することと思われますので、これ は後編にゆずりますが、ここに一言いたしたきは、この書物を著わした目的が、ただこの道のこ とを調査研究せらるる方々の参考資料たらしむるためにありますことで、ここに選んでのせた伝 記中の人々は、皆それぞれ一世に名をあげた成功者の話ばかりゆえ、これだけを見ますると、講 談師落語家などは、割にやさしく立身が出来るものと早合点をする読者がないとも限られず、年 少子弟を過《あやま》ることありはせずやと、いささか老婆心より憂慮もいたされます。  どういたしまして、この反面においてこの道の失敗者落伍者はどのくらいあるかわからず、、 生を礁々と、下積みに終った不遇の芸人の方が、数においては多いのでありまして、その中の何 十分の一か、何百分の一かの少数の人々が、どうにか物になり得たのみに止まります。即ちごく 選ばれた、天分ある特別の人が、非常な努力と苫労とによって、辛うじてこの列伝中へ入れたわ けたのでありまして、決して誰でもなれるわけのものではありません。むしろ他の方面において、 ここに至るまでの苦心と努力をしたらもっと早く、もっと容易《たやす》く、どれほど立身も出肚も出来て 世の中のためになれたかわからないと思うほどであります。  それはマア何の業でも同じではありますが、いわゆる勝てば官軍とやら、成功したればこそ、 先生とか師匠とか、世間でも認めましょうが、その位置まで行かれなければ、残念ながら軽蔑を もって遇せられても文句のいえぬ家業であります。近頃でこそ、芸能人とか芸術家とか中します ものの、昔は芸人といって下等視され、堅気《かたぎ》を去って芸人など志望すれば、勘当はお定まり、親 類縁者からは義絶をされるものに極《きま》っていたのを見てもわかります。よほど天分のあるものに非 ざれば、講釈師や落語家などを志すものではありません。要はこの書中の名人大家たちが、その 盛名を得るに至るまでの、忍耐と精進との精神を学び、これを各自の行く道に応用して頂きたい のであります。念のため特にくれぐれも、この点を力説して本編を了ります。