野間清治 『雄弁』創刊の悪戦苦闘 全国に漂る雄弁熱  この時代〔明治四十二年ごろ〕、何となく世の中が活気を帯びて来た。ただに経済的、政治的 方面のみではなく、文芸方面においてもそれが考えられた。私は、その方面には至って知識も なく、すこぶる暗いのであるが、日露戦後の勢いをうけて、文芸興隆の機運が醸成されたので はなかったろうか。すなわち、欧米の科学や最新文化に対する旺盛な研究心が勃興し、一方、 わが国の歴史、わが国の道徳、殊に武士道、わが国の文化、美術、技芸、古典等に対する反省 も行なわれ、自然これに対する国民的関心が、大いに高まって来たかに思われた。  これと前後して、学生間に弁論熱が勃興して来た。どこの学校にもその傾向があったuこと に、専門学校や私立大学などには、相ついで弁論部が生まれ、従来あったものはいよいよ盤ん になるというありさまで、競うて弁舌を錬り、対抗試合までやって、雄弁の覇を争うというほ どになって来た。やがて、この風が、学生以外の一般青年の間にも、東といわず西といわず、 都会といわず農村漁村といわず、たちまちに大流行を来たし、彼らもまたそれぞれ弁論会を起 こすようになった。  帝国大学1ー重厚にして謹厳、軽挙を慎み、時流に対して常に超然たる態度をとっていたそ の帝国大学といえども、法、医、文、工、理、農の各科多数の学生を擁しながら、このままた だ一つの弁論部も有せざる状態で、かかる雄弁熱勃興の機運に、いつまでも背き得るものでは ない。すでに、法科二年においては、まず寺田四郎君、大井静雄君、保々隆夷君らによって弁 論部開設の運動が起こり、森岡二郎君、寺田健一君、沼田照義君、宮崎一君、翠川潔君、その 他七、八名の諸君もこれに加わった。演説の大好きな私は、もちろんこの運動に非常な興味を 持って、及ぶ限りの尽力をしたのであります。  大体において、帝国大学の伝統的な建前は、学生の興味が何であろうと、時勢の風潮がどう であろうと、そんなことはお構いなしに、最高学府としての独歩の道を行くということにあっ て、これを破ることは、困難も困難、全く至難の業である。低い地位にある私たちの力だけで は、とてもなし得ようとは思えなかった。ところが、そのうちに、三年生も動き出して来た。 その中には、鶴見祐輔君、守屋栄夫君、徳江治之助君らの人々があった。四年生も動き出して 来た。その中には、青木得三君、前田多門君らの人々があった。さらに一方、教授側において は、梅謙次郎、岡野敬次郎、土方寧、松波仁一郎、仁井田益太郎、牧野英一、吉野作造の諸先 生、その他の方々がだんだん賛成の意を洩らされ、その間を尽力さるる人も出て来て、いよい よその火の手があがり、盛んな勢をもって、法科大学内に燃え上って行った。私は、時々学生 諸君に、事の進捗を尋ねられて、一つ二つ中間の報告をするたびに、必ず諸君の運動は成功す るであろうといい、さらに、この弁論部の将来こそは、全く刮目すべき国家的意義あるものに 発展して行くであろうとさえ言ったのである。  今はもう学校の許しがあり次第、弁論錬磨の理想的な殿堂が、本学内に打ち建てられるので ある。そして、それは、学生の品性を高め、紳士的教養を加える上にも、大いに役立つもので あろうと考えられた。ちょうど、グラッドストーン在学当時のオックスフォlド大学における 会合と同じような会合にまで、発展し得るものと考えられた。  ついに穂積学長も、浜尾総長も、学生たちの要求を容れて、 「緑会弁論部」の創立を認可さ れた。学生たちの喜び方はたとえようもないほどであった。尽力された教授たちも、大いにこ の弁論部の誕生を祝ってくれた。そこで早速、発会演説会を開こうということで、その日を十 月十四日と決めた。 『雄弁』創刊の機縁  いよいよ記念すべき十一月十四日(朋治四十二年)は来た。待里の法科大学「緑会弁論部」の 充会演説会は、法科大学第三十二番教室で行なわれた。聴衆千数百、すこぶる盛大なものであ った。梅謙次郎博士、三宅雪嶺博士、松波仁一郎博士、岡田(良平)文部次官ら知名の人々が 多数講演された。学生では、寺田四郎、鶴見祐輔、芦田均、永井栄蔵、白上佑吉、井手諦一 郎、守屋栄夫の諸君が熱弁をふるった。  この発会演説会は、私の経歴の上に立つ一つの境界標である。それは、私の長い苦しい準備 時代の終了であると同時に、私の雑誌計画への出発点であったからであります。私は考うる所 があって、この日の演説をすべて速記させておいた。やがてはこれを材料として、広く世の学 生青年のために、演説の好模範を示す雑誌を起こしたいものである、これによって、世の学生 青年を指導したいものである、日本に弁論の風を起こし、純正なる青年と共に、日本をどこま でも立派にしたければならないと、微力をはからずして、遠大な目論見を立てたのであった。 希わくは、この雑誌から出発して、自分の目標に向って一大暮…進を行ないたいものである。そ の道筋に表われ来たるものは代議士、政治家、文豪、大臣等々の面影であった。  当時、大学における講演は、帝大の学生にのみ聞かすべきものであって、外部へは一言半句 も洩らすべきものでないように考えられていた。また学者が専門以外の雑誌にはあまり書きも せず、語りもしなかった。それが、もし許されて、偉大なる教授たちの講演、天下に名の聞え た人々の演説を、世間一般の人が聞かれるということになったら、どんなに幸いなことであろ う。梅謙次郎博士、松波仁一郎博士は、早速私の計画に賛成して下さった。他の教授たちもだ んだん賛成して下さった。穂積学長は、雑誌経営の困難なることをよく知っておられて、私の ために深切な助言までして下さった上、「損をしないという見きわめさえついているならば、 n分には別に異存はない」といわれた。 どこへ行っても出版お断わり  その時分、誰も彼も私にむかって言った、 「あなたはそういうがしかし大変ですよ野問さ ん。雑誌を出すのは、それはそれは容易なことじゃありませんよ」 実のところ、私は、雑誌 発行についてほとんど何の知識も持ち合わせなかった。  人がやっていることだから、やろうと思えば、自分にだって出来ぬこともあるまい、くらい の考えでしかなかった。  「野間君、本当にそんな雑誌を出すつもりかね」などと訊かれた。  「ええ出しますよ、 一たん出すといったからには必ず出しますよ」  「金がかかるだろう!」  「それは多少かかりましょうね、どれくらいかかるものでしょうかね」といった調子なので 私のあまりにぽんやりした挨拶には、誰も驚いていたらしい。その頃の私は二百円、三百円の 金だって容易でない状態である。それはまた他の人々もよく知っていることである。一体、ど うして野間は金を作るつもりだろうか、それに一向世間も知らず、雑誌発行の経験など全くな い様子だし……と、みな危ぶんだ。  私もまた、だんだん考えてみると、どうも演説の速記だけでは、雑誌になりそうもない。そ こで、急にその他のいろいろな原稿を集めることにした。私は、各方面の意見を訊いたり、そ の原稿を依頼したりするために、大学の帰りに諸方を訪ね廻った。、慶応の向軍治先生などは、 特に深切にして下さった。学生諸君にも、それぞれ得意な方面について、材料を提供してくれ るように頼み込んだ。諸君もまた深切にしてくれた。そうした人々に行き会うたびに、  「たとえ、よい原稿を集め得たとしても、金がなくては雑誌にはたりますまい。その金もか なり大きい額でしょうし、どうしてそれを用意なさるつもりですか」などと、訊ねられるので あった。そしてまた、雑誌の失敗者が実に多いことも聞かされた。その中には、ずいぶんみじ めな実話がいくつもあった。さすがの私にも「木当にむずかしいものらしい」ということが、 ぼつぽつ分って来た。のん気きわまる話でもあり、滑稽きわまる話でもありました。  そこでいろいろ考え抜いた末、これは他から発行してもらうのが一番だと思った。いや、そ うでなければ始まらないと気がついた。そこで、私はまず至誠堂へ飛び込んで熱烈に説いた。 相手にされない。それから、あちこちの出版社、雑誌社へ当ってみたが、まるで申し合わせて でもいるように、同じような言葉で断わられてしまった。  あまり時口が経つので、教授からも、学生からも、「どうなりましたか」といわれる、その都 度、借金の言いわけみたいな挨拶をしなけれぼならない。気が気でなくなった私は、毎日予定 を作っては、学校の帰りに次々と説いて廻った。それはもう幾分気違いじみて来ていたのでは なかったろうか、説いて説いて頬がほてって、火花が散るかと思うほど、説いて説きまくるの であった。それでもまだ何ら報いられるものはない。あるところでは、即座に.言で断わられ、 あるところでは十分二十分で断わられ、あるところでは、さすがに直ぐには気の毒と思ってか, 「二、三日してからもう一度お出で下さい」と保留され、大いに望みをかけて、約束通り二、 三日経って行ってみると、その回答は同じ落胆ものでしかなかった。要するに、断わる人の感 情次第でというか、人柄次第で、ていねいか否か、早いか遅いかの違いあるのみであった。 血眼の狂奔もさらに効なし  忘れもしない、ばかに寒いある口の午後、東京堂ヘ飛び込んで行った。その時分の東京覚は 今と違って旧式の店構えで、大勢の人が机を並べているので、はいって行くと直ぐそれらの人 に顔を見られるのであった。それまで寒風に吹かれながら諸方を説いて説いて説き廻ったあげ くなので、私の声は、ほとんどしゃがれ果てていました。  私は店先に腰をおろし、そのしゃがれた声で談じ始めた。そして、熱心に計画を説明し始め た。そうすると、その中の主なる一人、あるいは支配人だったかも知れない、その人が深切に 私の相手になってくれた。いろいろの考えも聞かせてくれた。並んでいるほかの人々も一時、 算盤を下に置いて、あるいはペンを横において、私の話に身を入れてくれた。  「雑誌は困難です。これぞというものをいま新たに作ることはなかなか困難と思います。一 号だけはどうやら出しても、二、一二ヵ月で、いわゆる三号雑誌として消えて行くものが多い。 あなたのこの計画は、ある程度有塑のようにも考えられますが……」といわれた。  「これア幾分見込みがあるかな」と、私の心の隅に喜びの情が浮かび出た。  「しかし、どう考えても、儲かるまでにはかなり時日がかかりましょう」といって、パチパ チ算盤をはじき始めた。そして収支計算等の説明をしてくれた。それは本当に深切なものであ ったが、実は、私には商売語というか術語というか、そういう方面の言葉は一向わからないの だが、わかったような返事を如才なくしていたまでのことであった。したがって先方では、こ う算盤まではじいて見せてやったのだから、この上説明しなくとも、もう駄目だと大抵脇に落 ちたはずと思ったのてしょう。「iiというようなわけで、まことにお気の毒てこさいますか、 お引き受けは致し兼ねます」という結論になったので、またまた落胆させられてしまった。  いま考えてみると、それが当然だったのであります。私は出版のことについては、いろはの いの字も知らなかった。雑誌というものは、出しさえすれば、必ず売れるものと決めていたの である。もし私が今、そんな不用意な計画の相談を受げたら、やっぱり私が断わられたと同じ ようなことを言って断わるに違いない。  一方学生諸君は、毎日忙しい間を差し繰って、私の頼んでおいた原稿を作って、どんどん持 って来てくれる。法科の学生諸君、鶴見君とか徳江君とか真船君とか……そのほかに、文名と 気概を謳われ、当時評判であった博文館の青年記者河岡潮風君などは、たいへん肯折ってくれ た。河岡君は『中学世界』と『冒険世界』に執筆していたが、惜しいかな二十五歳の時、 『五 五の春』という本を作って間もなく亡くなった。早稲田の野村秀雄君、その他の大学専門学校 の学生諸君も、大いに助力してくれるということにもなった。  名士や諸教授も、それぞれ丹念に、講演速記の校閲、原稿の執筆、その他編集についても、 いろいろ指導される。そして、その都度「創刊はいつごろになるか」と訊かれる。あるいは、 私の言葉にはっきりしたところのないのを見て、 「本当に出すんですか」とか、ついには待ち あぐんで、催促の調子にさえなって来た。こうした場合、いつも私は、「もちろん出します!」、 さらに「男子の面目にかけても」とか、 「一たん、出すといったからには」などと、例の調子 で付け加えるのであった。  もう十二月である。日の経つことがすこぶる早い、一日、二日、三日……もう月半ばになっ た。  私は血眼で狂奔しているのであるが、どこへ行っても断わられるばかりで、どうしていいか 見当がつかず、あたりが真暗闇になってしまった。そうこうする中に、もう年末にさしかかっ た。かくてその年は暮れてしまいました。 近所の人々を驚かした大看板  つい話し洩らしたことがあります。  ちょうど、 「緑会弁論部」設立のために奔走していた頃のある日、師範学校時代の一友人高 橋敬重君を、本郷の団子坂に訪ねたことがある。その時の話に、  「すぐ近所の門倉という人が、今度すばらしい家を建てて、十五円の家賃で貸したいといっ ている。もし、借り手がよい人物で、十分信用できる人であれば、十三円でもいいといってい る……ぜひ一緒に行って見ないか」と勧めてくれた。  私は、その頃すでに、弁論部創立の暁には、こうこう、こんな工合にと、いろいろ計画を懐 いていたので、それには大きい立派な家に移り住む必要がある、ちょうどその欠先で屯あった ので、早速、高橋君と共にその家を見に行った。そして、見るなり私はその家に惚れ込んでし まった、  大工の手を離れたばかりで、木の香も新しく、びかぴか光って、まことに素敵なものであ る。二階が二間、下が四間、そのほか玄関三畳の脇に女中部屋一問、相当な台所もある。ちゃ んとした門があって、小さいながら庭もついている。玄関から、客間から床の間から、廊下か ら、何から何まで、大計画を懐く紳士の住居として、少しも恥ずかしくない家だと思った。私 は直ちに借りることにした。しかも、家主はどう見誤ったものか、私が別に何ともいわないの に、十三円よりさらにまた一円引いて、十二円にしてくれた。  いよいよ引っ越しという日には、妻は恒を背負い、私は大学の小使に車をひかせて、その後 についた。婆やは、片手にランプを下げ、片手に古い長靴を下げた。あまり見映えのする行列 ではたかった。これが、私たちの家財の全部で、恥ずかしながら、箪笥もなければ茶箪笥もな い。一番光っているのは、この前も話したあの二円五十銭の火鉢一個ぐらい。もっとも、柳行 李の大きいのが三つあった。家主の門倉さんに、悪い第一印象を与えはせんかと、その時はず いぶん心配したものであります。  さてはいって見ると、本当にきまりの悪いほどその家は広かった。 「こんな大きな家を借り てどうするんですか」と、妻はびっくりして百った。誰が見ても、安くて二十円ぐらいの家賃 には見えたであろう。そんな大きい家で、部構数も多いのに、道具らしい道具は一つもない。 押入ばかり沢山ある。そして家族といっては、赤ん坊を入れても、たった四人しかいない。友 人も先輩も、不思議の眼をみはって、 「また野間流が始まったぞ」などといっていた。  この階下の八畳の一室で私は毎口、夜遅くまで原稿の整理などをしていた。床の間には、私 を戒め励ます意味で、井上円了博⊥の書の掛物を掛けておき、額は、当時私の崇拝していた一 人、リンコルンの肖像をかけ、そして、表には、「大日木雄弁会」という大きな看板をかけた。 近所の人たちは、この誇大妄想的な看板の出現には、すくなからず驚いたらしい。あるいは、 眉をひそめて、「偉い大きな看板が出たぞ」「何だかやまかしい家が出来たぞ」などと、喋き合 っていたかも知れない。  団子坂に、いまのように大きな道が出来たのは、それからずっと後の後のことで、その時分 は、団子坂の通りだけは昔のままの、菊の名所としてかなり賑やかであった。しかし、通りか ら引込んだ私の近所は、空地が多く、草原などもあり、溝のようなところもあり、金魚池など もあり、ごみ捨て場みたいなところには、荷馬車が幾つも休んだりして、蝿がぶんぶん稔リて いる。ある人が、途中のぬかるみへ落ちて、脚が股まではまってしまって、ほかの人に抜いて もらったなどという話もあった。うそのようですがこれは事実談で、今でも笑い話になってお ります。  私どもの裏には、大きな金魚池をもっている篠崎のお爺さんがいた。土木請負師で、私ども に何かあれば直ぐ飛んで来て世話をしてくれる。この一家にはいろいろお世話になった。なん でもこの辺の田を埋めて池と家を造り、一番最初か二番目かに住まったと聞いていた。私ども の左隣は、前に申した家主の門倉照祐さん、至って温良な御仁、庭も広く、閑雅な住店である。 私はこの一家にもいろいろお世話になった。右隣は、やはり門倉さんの貸家で、穏やかな易者 のお爺さんが住んでおった。易者と篠崎さんの間が、内出さんという若い請負師の御夫婦。  また、団子坂の方からいえば、その後「菊蕎麦」というのに変った植半という菊人形で評判 の家と、米屋さん(名誉職をしてこの辺の有力者である染井沈氏)との間の細い道をはいって来て、 右に曲がり左に折れて、さらに右に数間、そこが私の住居であった。それがすなわち「大日本 雄弁会」で、夜も暗い、道もぬかる、その後私が門燈をつけたので、やっといくらかその辺が 明るくなって来たという淋しいところである。 必死の熱弁、出版元を動かす さて話は変って、明くれば明治四十三年、私は三十三歳になった。世間は、めでたい新年の装 いに浮き立っていたが、私の所有としては、このからだ一つと妻子のほかには、少々大きすぎ た大看板と、寝る間も側を離さない数再枚の原稿があるくらいのものであった。正月の上旬で あったか、ある日の午後、私はいつものように、大学の構内から本郷の通りへ出た。今日はど こへ行こうか、もうたいてい人から聞いたりして、行くべきところへはほとんど行き尽くした、 さて今日は、いずれを目指したものかと、考えては歩み、歩んでは考えて、本郷一丁口の「若 竹」という寄席の側まで来た。そのすじ向いに自動電話(今の公衆電話)がある"私は、それを 見て思いついたので、早速そこへ飛び込んで行って、いきなり電話帳をめくり始めた。  私は、今この電話帳から、今日行くべきところを発見しようとするのであった。ふと、こん た考えが胸に浮かんだ  、ためしに「大日本雄弁会」の「大日本」で捜してやろうーlそこ で、大H木のつくいろいろた会杜名に、眼を走らせて行くうちに、あった! あった!  「大 日木図書株式会社」、その会社は銀座一丁目にある。ーこれだ!」、私は思わず声を出した。有 名た出版社である。今までどうして気がつかなかったのであろう。しかも、出栞版社などについ てあまり知っていなかった私でさえ、この社のことは、その前からちょいちょい聞いていたの である。 ーよし! これから早速、銀座一丁目のその事務所ヘ行って、大いに頼み込んでみよ う……」と、急いでそこを飛び出した。  私は、名刺を出して面会を求め、二階の応接室に通された。ただもう言おうとすることで頭 が一杯なので、帰る時気がついたのだが、外套を脱ぐのさえ忘れていた。テーブルに向って腰 々かけ、辺りを見廻すと、大きな書棚があって、その中に新刊書がぎっしりと詰まっていた。 待つ間ほどなくはいって来たのは、物腰の練れた、人触りのいい中年の紳士、村田五郎さんと いうここの支配人である。  「どんな御用件で?……」と微笑みながら、椅子に腰を下されるや否や、私㍗一.口葉は、堰か れていた水が一度に切って落されたようにほとばしり出た。  私は、一言一句に満身の熱を籠めて、計画を説明し、ひたすら協力を懇願した。あの時どん な工合に申し述べたか、速記にでもとっておいたら……、むろんそんなことの出来ようはずも ないのだが、とにかく私は、幾日も幾日も諸方をかけ廻って、雑誌出版に関係なき人までも訪 ねて、説いて説いて説き廻った後なので、どんなに不敏であり不弁である私でも、その話し方 ば順序立ってもいたろうし、その言葉は相当洗練されてもいたに違いない。その上、廻るとこ ろは廻り、ぶつかる所にはぶつかって、歩きつくし、当りつくして、いよいよせっぱつまった 事情にある私の言葉には、熱も魂も十分に籠もっていたに違いない。今となっては、どういっ たのか、どんな言葉を用いたのか、遺憾ながら、十分に思い出せない。 村田さんは黙って聞いていたが、聞き終ると、  「それでは、少々お待ち下さいませんか」といって、応接室を出て行かれた、どのくらい待 っていたか覚えがない。私は心中ただ祈りであった、熱薦であった。村田さんが再び入って来 て、 「よろしうございます。数日間考えさせていただきます。その原稿も、お差支えたかった ら、それまでお借り申しておきたいのですが……」  私はとても有難く感じた。ほかのところでも同じようなことで、幾日か返事を保留されたこ ともあることはあったが、その言葉なり態度なりから私の受ける気持が違う。今度という今度 こそは、いよいよ目的を達し得るかも知れぬと思った。私は大いに感謝して、 「何分よろしく お願い致します」と、幾度も幾度もお願いして、その杜を出た。 狂喜! 大願成就  私の歩きぶりは少しく勢い強いものになっていた。私は、上田万年先生とこの図書会社との 関係を聞き、さらに、芳賀矢一先生とも深き関係あることを知って、いよいよ有望だと思い、 事の成就が考えられるようになった。  その晩、私は上田先生をお訪ねして、ぜひ先生からも、図書会社の方へ電話で頼んでいただ きたいとお願いした。翌日か、その翌日かに、芳賀先生から屯名刺を頂戴したので、ていねい な手紙を添えて図書会社へ送っておいた。  幾日かの後、村田さんから大学の方へ電話があって、  「今日四時半にお出で下さい、お待ち中しております」ということであった。いよいよ私は 人願成就の予感で、喜び勇み飛び立つ思いで、図書会社を訪れた。  この前の応接室に通されると、間もなく、村田さんが現われた。私は、店ずまいをあらため た。胸をおどらせながら、今まさに口をついて出でんとする村田さんの言葉を待ち設けた。村 田さんは、  「野間さん、先日のあの問題ですがね、あの件は確かに承知いたしました」  あまりに簡単すぎるので、私は自分の耳を疑った。その様、†を察してか、村田さんは、  「確かに、あの仕事は私の社でお引き受け致します。会議の結果そう決まったのです。先ほ ど電話を上げるちょっと前に決まったので、直ぐお電話したのです」  私は飛び上らんばかりに喜んだ。感謝した。どうも、今度という今度はよさそうだとは思い たがらも、例の「お気の毒ですが」が来やしないか、でなければ、さらにいろいろお訊ねがあ るのではないか、そしてまた「二、三日経ってお出で下さい」になりゃしないか、こうまでた やすく、「引き受けた」「快諾」ということになろうとは……どうも夢のようで、もっと先を聞 いて、大安心と言うところまで行きたく思った。  そこで私は、「そうすると、いつごろ発行になりましょうか」とか、「これについてのいろい ろの条件といったようなものがあるのでしょうか」とか、だんだん話を進めて行った。その結 果、私は全く一点の不安もなくなった。大安堵、大歓喜であった。  村田さんは、その時、こんなこともいわれた。  「第一に、あなたが実に御熱心なので、それに感心させられましたし、見せていただいた原 稿も大変面白そうです。それに今まで、文科大学のお仕事はだんだん戴いていますが、法科の 方とは関係がなく、法科の先生の演説は世間の熱胡三でもあり、かたがた私の社の方からいって も、この雑誌は是非やってみたい、ということになったのです」  村旧さんのお話は、すべて天から響く声のように、心地よい言葉ばかりで、私の胸は、たち まち、これまでの冷たい暗い憂欝から解放されてしまって、ステッキを振り回しながら、飛ぶ ような勢いで、わが家へ帰って来た。妻も、それはそれは大宮びで、私ども夫婦の胸に、この 時はじめて、新年の宮びが動き出したのであった。 創刊号は即日売切れ  それから間もなく、再び大日本図書会社を訪れて、社長宮川保全氏(共立女子職業学校の主事 か校長代理かをしておられた)や、その他の幹部の方々にも面会し、細かい相談も受け、かれこ れ、創刊準備の打合わせなどまで済ませた。そして、いよいよ『雄弁』第一号の発行日は紀元 節の日(明治四+三年二月十一日)と決まった。他の細かい取決めもだんだん決定して、編集は 大日本雄弁会、すなわち私の家でこれを行ない、出版営業上のことは、いっさい大日本図書株 式会社でやる、そして、同社から私へ、編集料として、雑誌千部発行するごとに三十円の割合、 ということであった。それゆえ、五千部で百五十円、一万部なら三百円ということになるわけ であります。  次は、創刊号を何部刷るかの問題であった。その頃は、三千部売れる雑誌はまず成功といわ れ、損をせずにやって行けたものである。そこで、図書会社では、まず三千部で出発すること に決めたのであったが、初めからそれでは冒険だという説もあった。  定価をいくらにするかということも、それに劣らざる重大な問題であった。なにしろ、この 新たなる雑誌が、一般読書界にどの程度に受けるものやら、誰にも見当がつき兼ねた。定価を、 十八銭にすべきか二十銭にすベきかについて、だいぶ議論したが、ついに一部二十銭と決まっ た。当時、大概の雑誌が、十銭か九銭、あるいは八銭、すこし高いので、十二銭か十五銭で、 二十銭という雑誌は高級に属していたのである。  発売日が近づくと、まだ雑誌か生まれない先から、 『雄弁』は非常な前景気で、三千部では とても足らないという風に見えたので、部数を二倍にするということに決した。もっとも、こ れら部数の決定については、私ども素人の意見でとやかく言うべきことではなく、いっさい図 書会杜の方で決めることになっていた。  ついに紀元節、待ちに待った創刊の日が来た。そして、『雄弁』創刊号は、日本中の書店に、 その勇姿を現わした。見よ! 六千部はその日の中に売り切れて(東京では四時間で売り切れて しまった)、四方八方の需要の叫びは凄まじいものであった。直ちに、第二版三千部を増刷した が、それさえ二、三日の中になくなってしまった。思い切って、三版五千部を刷り足した。こ れもまた、一、二週間の中に売れてしまった。かくて、創刊号は都合一万四千部発売されたの であります。  このすばらしい成功に、私たちは全くびっくりさせられた。私の友人先輩も、最初からこの 仕事を危ぶみ心配していただけに、大いに宮んでくれたc大日本図書会社においては、さらに 一段の興奮で、方々から、たくさんの贈物やお祝いの手紙が舞い込み、銀座の同杜には、各方 面から贈られた酒樽が積み上げられた。そして、店先で盃を上げては、「万歳!」「万歳!」と いう騒ぎであった。  当時、一万以上出る雑誌は、万人驚異の的になっていたのであります。何でも『実業之日 木』が、一番多く出ていたのではなかったでしょうか。その『実業之日本』が、はじめて二万 部を突破した時に、大隈侯が、その頃は仙爵でしたろう、そのお祝いの会に臨んで、「わが『実 業之日本』はまさに二万部を突破したんであるんである」と大変点且ばれた、という話を聞いて いたが、それもそんなに遠い以前のことではなかった。  私どもは、この成功を読者に喜んでもらいたいために、第二号の巻頭に、創刊号のすばらし い部数を発表することにした。一万四千部はちょっと数が半端だ、語呂が悪い、一万五千部の 方がよろしい。けれどもそこに一千のうそがある、どうしたものであろうかと、一晩考えたけ れども、自分だけではどうにも決めかねたので、さらに友人数名と相談したところ、「一千部く らいはよかろう、それも許さるべき商策の一つではないか」という意見が多く、結局一万五干 部と書いた。ところが世間は、雑誌の部数や新聞の紙数というものは、大概誇張するものと考 えていたのか、あるいはまた、当時、創刊号でそんなにたくさん出るはずはあるまいとでも考 えたものか、他の雑誌新聞には、 「」万五千とあるから、三分の一に見ても、五干は箏突売れ たのだろう」などと書いてあった。私は、その後も同じような経験があって、うそをいうのも いやだし、そういう風に考えられるのも辛いので、現在では部数はなるべく公表しないことに しております。ただしこの君の中では、差支えないものに限り、明確に当時の火数を表わすこ とにしました。  一方、私の家の方では、前申した千部について三十円の割合で、四百二十円というものが洪 水のように入って来た。それも手の切れるような札束である。今までのビスケットとか、塩煎 餅とか南京豆主義では、すでにすでに私の堪えられないところであったので、この大景気のた めに、人の顔さえ見れば、それビールだ、それ料理だと、毎口毎目が祝勝会のような賑やかさ であった。私としては、毎日毎日が実に愉快で、創刊以来、毎口こんな工合で大浮かれのあり さま。その大景気の一日、LL野の常盤華壇で、『雄弁』創刊の祝宴が開かれたが、その時のご ときは有難くって、嬉しくって、つい大いに飲んで、頭で立っているのか、足で立っているの かわからないくらいになってしまった。