槍の権三|重帷子《かさねかたびら》 直木三十五 一  谷町のプラトン社から北へ三つ目の停留所、本町の通りは糸屋町、紀ノ国屋へ泊っていた 駆落者が二人、夜船で京へ逃げようと高麗橋へかかる折、夫が現れて成敗すると云う、御馴 染の妻敵討《めがたきうち》「槍の権三重帷子」大近松の作中でも名代の作品、享保年八月、門左衛門六十 五歳のもの、実記に拠るとどういう事に成るか  近松の作にはもう一つ妻敵討がある。同様に有名な「堀川波の鼓」である。男が宮地源右 衛門、実録にするとこれが宮井伝右衛門、女の名はどっちにしても、おたねというのにまち がいなし。夫は本名大蔵彦八郎というのであるが義太夫になると小倉彦九郎と変る。有原|武 郎《たけお》に片野秋子「軽井沢|二重単衣《にじゆうひとえ》」などと近松老人も中々稼ぐ呼吸を心得ている。妻敵討はこ の外に四つばかりあるが、その中の「八幡」の事件が一寸《ちよつと》面白い。京阪電車の八幡で起った 事であるが、御馴染が無いだけに最初に書いては損、というような商売気も戯作者《デさくしや》となれば 心得て然《しか》るべきもの。 「重帷子《かさねかたびら》」などと重ねるという言葉に不義を利かせた所、門左衛門六十五になっても色気 と洒落気は抜けなかったらしいが、検視の調書によるとおとよは帷子を重ねて居たそうであ る。今から考えると帷子を重着にするのは少し可笑《おか》しいが武士の女房の律気さと、解釈すれ ば別に不思議は無い。下に白帷子を上に絹縮《きぬちぢみ》を着て、と残っているが困った事にはこの絹縮 の模様に説が二つある事である。一つは萩を墨絵でかいてあったというし、一つは矢張り墨 である光琳風の梅だというのである。検視役人の記録が正しいか、傍人の手記が正しいか、 間違う筈も無いものをまちがって伝えているのだから「正確なる記録によって」などと大き はな《かお》|は な面をしている私などは甚だ恐縮しなければならぬ事になるのである。講釈師は当にならぬ と云ったし、又実際|出鱈目至極《でたらめしごく》だが記録に二三説があるなら、いっその事「所々に縫したる 帷子」としたって大して差支えのない訳である。市川小団次は鼠小僧次郎吉が刑場へ送られ て行く時の姿を「薄化粧して縮の着物」と云っているが外の記録によると、黄八丈の着物と いう事になっている。萩と梅なら絵師が下手だったのだろうという洒落にもなるが、縮と黄 八丈では余りちがいすぎる。まさか途中で色直しをした訳でもあるまいし、馬道の角で縮を 引抜くと、黄八丈になって大見得を切ったからでも無かろうし甚だ困り入る次第である。気 にし出すとこういう事はきりが無いから大抵いい加減にしておくが、いい加減だからと云っ て心得て居ないのだろうなどと云ってもらっては困る。これで中々細かい所まで知っていて 時々いろいろの片付け方をするのだから、濫《みだ》りに揚足など取らぬよう断っておく。 二  余りに古るいが矢張り引いておかぬといけなかろう。  「槍の権三は伊達者《だてしゃ》で御座る   油壺から出たよないい男   しんとろ、とろりと見惚れる男」  という名代の文句である。槍の権三こそ本名池田文治、雲州松江松平出羽守の近習中小 姓、齢《とし》二十四というのである。少年期はすぎているが、青年の盛りで一人前の男としていよ いよ美しく成ろうとする始めの頃である。近頃のいい男は顔立ちはとにかくとして髪を結っ ていないから「油壺から出たような」艶々しい濡羽色《ぬればいう》の美しさなどは見られない。私のよう な男でさえ髪の刈方によってよくなったり悪くなったりするのだから、文治が美しい髪を恰 好よく結上げた形は見事なものであったにちがいない。斬られた時の服装が「帷子に染紋あ り」と云うのだが、水色か茶かであったのだろう、紋も勿論久米正雄の一つ扇や、菊池寛の Kの字合せのような変なものでない。帯が御芝居どおりで「紫縮緬《むらさきちりめん》」とある、助六が気取 って頭へ戴いているものを、ふんだんに腰へ巻付けているのである。脇差が畿献ノ麟下阪国 綱の作、細身で一尺七寸五分の金造《きんこしら》えーこうなれば一つの芸術品である。オスカーワイル ドがいくら赤いネクタイをつけて花を挿してみた所で敵《かな》うものでない、いが栗頭の僕が、二 尺八寸の助広をさしていたって粋なものだったのである。金造り尺七寸の細身、渋く蝋色か なんかを落差しにi私がおとよだっても、こういう芸術品にかかっては敵わない。不義以 上の美である。いかに況んや夫は江戸詰で三十六という年増盛りのおとよが可愛く思うのは 当然である。正井宗味が江戸詰であったのと、おとよが三十六であったのと、文治が余り美 しかったのとが悪いので、おとよで無くても同じ条件の女なら当然陥って行くべき場合にす ぎない。  一体松江という所が遊楽境である。八重垣神社などという、縁結びの神があるし、松平|不 不昧公《ふまいこう》は遊蕩児だし、そんなに正井宗味だって四角張らなくってよさそうなものである。役が 茶役《さやく》というからには、 「俺は四十八にもなるし、文治の美しさじゃ女の惚れるのも無理もねえ、男の俺さえ十年前 には思いを焦した事があったからなあ」  位の腹は薄茶から出ていそうなものだが「宗味」と行かなかったらしい。  二人が家出をしたのは、巽傭沱年の六月八日である。早くて五月の初め頃から有ったと思 ってもいいだろう。我々如き男と女ならもう少し前から関係があっても恐らくそうそう早く たち《ひとりずまい》|ま は判るまいが、名代の美男と独住居の大年増との問である。二三度逢えば忽ち人目につくの は意外な位で、或は五月の中頃からの事かも知れない。甚だ余計な事を穿鑿《せんさく》している訳であ るが、二人の斬られたのが七月十七日だから余りに果敢《はか》ない楽しみである。私は其れに同情 して一日も二人の問を長くしておいてやりたいと思ってから考えた事なのである。  二人は松江を出て米子へ行った。米子から鳥取へ出ると京都へが順路である。その月の二 十三日に大阪へついているから、大山を左に見て根雨《ねう》の廓の真中をすぎ、四十|曲《まがり》の険を越し て津山から岡山へ出たのかも知れない。史談のみで無く中々地理だって詳しいものである。 四十曲の頂上、茶店と云っても一軒家にしては大きい構の家だが、そこの前に平な石があ る。「槍ノ権三腰掛石」と称するものであるーとこれは嘘だが、道中事なく人々を悩殺せ しめて大阪へついた。  権三事文治はいい男として、女のおとよはどうであったか、恐らくは脂切った三十六の薫 り肉《じし》であっただろうとは考えただけで不愉快になる。若い男を情夫にもっていたとしても、 十七日の夜の扮装は例の重ね帷子に白縮緬の湯もじ、帯が花色|綸子《りんず》で、紫縮緬の帽子をきて いたというから若造りで事実紫帽子が似合う位、美しかったのかも知れない。そうで無け りゃいくら中小姓だっても権三という男のだらしが無さすぎる。齢上でも別嬪でなけりゃ恐 らく駈落ちもしなかったであろう。第一私として別嬪にしなければ不愉快でしようが無い。 で美しいから三十二三位には見えたであろうし、当時は鉛分の多い白粉でクラブなどと云う いい物の無い代り、濃化粧には、のりのいい質である。素顔で三十二三なら厚化粧すると三 十下には見える。「権三の惚れるのも無理はない」というものである。 三  文治とおとよが駈落をしたと云う知らせが江戸表の夫、正井宗味の手へ渡ったのは二十四 五日頃で、二十七日に宗味は妻敵討の届を組頭まで出して西へ急いだ。妻敵討の届書という ものは甚だ威勢のよくないものである。一例にこういうのがある。   一、某申上候、私儀何々方に何役相勤罷在候所。同屋敷何役何某と申者拙者妻へ密    通致候也、当月何日之夜引連立退申候に付私儀昨日暇取申候、妻敵に有之候間見合次    第何某|并《ならびに》妻共に討留中可候、為後日《ごじつのため》申上候由  というのである。滑稽な武士道である。「親の敵、いざ尋常に」と云うと間がいいが、「よ くも二人で泥を塗ったなあ、いざ尋常に」と詰寄った時「成程手前の面《つら》は間抜けてらあ」と でもやられたら私ならしょげてしまってとくと間の抜けた所を考えてみるであろう。宗味は とにかくおとよに惚れていたのであろう。帰国の日を指折り数えていた矢先き、「駆落」と 聞いて嚇っとなって二十七日に早くも江戸を立ってしまった。おとよの親父に小林幸左衛門 というのが居る。これが又恐ろしい頑固な人で、おとよの弟の弥市郎に含めて宗味と共に二 人を探出して斬ってしまえと云つけた。弥市郎は親父程怒っていたかどうか判らぬが、評判 の文治と姉が駆落をしたのである。狭い松江はこの話で持切っている。じっとしていては世 間の非難も恐ろしいし、或は文治の優にやさしき姿も多少癪にさわる事があったかも知れな い。宗味は江戸から海道筋を探しつつ下り召され、拙者は後から追かけて大阪ならば何処 で、京ならば何処でと打合せの手紙を出しておいて二人を追ったのである。大阪は広いが文 治とおとよにとっては狭いものである。妻をとられている宗味の血眼《ちまなご》の眼ですぐ見つかって しまった。それが十二日の事である。十三日に宗味は又大阪奉行所へ妻仇討の届を出した。 そして二人の外出を待っていたが、到底出て来そうにもない。二人にしても人目に立つのは 困るし、泊々《とまりとまり》の宿々でも落つく時は少なかったのである。ようよう隠れ家を探出して半月、 長いようだが二人にはすぐ経ってしまってまだ飽かぬ時間でもある。七月という暑い折大阪 の宿から一足も出ないのは「袖を引き引て女中穴へ引かれ行き」と川柳にある図である。  十六日の夜、遠慮がちに近寄った女中が障子の外から声をかけた。 「あのう、弥市郎様と云いなはる御方が御見えになりまして、是非御眼にかかりたいと云う てなさりますが、どうしたらよろしおますやろか」  障子を開けてくれると男の顔が見られると敷居越に女中は待構えているが、中の二人の一 寸返事する声も出ない。文治は蒼白《まつさお》になってしまった。おとよも蒼白くなったが、弟の事で もあるし齢上の女である。いざとなったら噛みついたって二人に一人ならかまわない位の度 胸ができる。出雲訛《いずもなまり》だとどういうのか、とにかく「通していただきましょう」  と云う事になった。障子は開かずっきり、暫くして廊下をミシミシと音立てて弥市郎が入 ってきた。どうせ糸屋町辺の旅宿だからひどくミシミシと云ったかも知れぬ。尤《もつと》も昔の建物 だから少し位古くっても確乎《しつかり》としていて草履の音ぐらいだけであったかもしれない。田舎の 宿など大抵|蝕《むしば》んでいてもミシミシなどとは云わぬ。あの音はどうも借家勃與して以来の形容 らしい。講釈師など大名屋敷へ曲物を忍ばせる時にさえミシミシを使うが心得て然《しか》るべしで ある。話は恐らく何気ない所から始まるにちがいない。兄弟というものはどうも情事《いろごと》に関し て打明けにくいものである。足助素一《あすけもといつ》には打明けても「多情仏心」をかいている里見弾《さとみとん》には 話できないのと同じである。 「何時きたの」 「十日ばかり前、ずい分探しましたよ」 「親父《おとう》さんは、怒っていなさるでしょうね。でも仕方が無いわ」  と此処でおとよが、 「噂で大変だろうね」と聞くか「子供はどうしている」と聞くかで、小説ならおとよの性格 の明瞭《はつきり》とする所である。彼女の残した子供はくめという十三の女の子を頭に、十一の鉄太 郎、八つのよそというのと三人ある。もう世話のいらぬ齢だから、子供よりも芸術の為めに 駆落をしたのは勿論だが子供を案じるのが先か、世間の評判を聞こうとするのが先に立つ か、容易ならぬ問題である。よろしくその辺いろいろあって、 「宗味さんはもう大阪へきていると云うから姉さん、此処に居ては危いよ。今夜にでも京へ 行っちゃどう?文治さん、そうじゃ無いでしょうか、そして一時身を隠していたら私も又 何んとか骨を折る……」 「ではそうすることにして今夜は遅いから明日の夜のことに」  となったのである。表には宗味が姿をかくして首尾いかんと待受けている。弥市郎が来て しかじかと話をする。それでは高麗橋の上で正井さんは橋向うから、私は後を切取って逃げ 出したら}刀にーと手筈がきまったのである。 四  享保元年七月十七日夜の十時、弥市郎と三人は紀ノ国屋惣次郎方を立って西へ下りて行 く。真夏の十七日の月だから丁度|冲天《ちゆうてん》にかかっていて明るく街を冴えさしている。文治の扮《な》 装とおとよの風とが、涼みに出ている人々からどう見送られたか、片手を紙入の金毛織に当 て懐手とし、右手に扇子を携えて月の光を正面から浴びた所、しんからとろりと見惚れる男 であったにちがいない。本町橋から、平野橋、思案橋でも恋には無用、さしかかったのが高 麗橋、天神、天満の真中ごろから南へ折れた東横堀の初めての橋、一町行けば夜船の出る淀 川である。 「不義者待てッ」  と後で叫ぶと共に、弥市郎は、 「姉さん覚悟、文治逃げるな」  と二人の前を切って取った。二人の胸のどんとする問も無く、おとよは悲鳴を挙げて斬倒 された。 「妾を先に斬って頂戴」  と恐らく文治をかばいたかったのであろうが、その隙も無く斬倒されてしまったのであ る。宗味は大きい男であった。大男宗味に何かが廻りかね、とこれは麟讌だが、苓徴にして は腕が利いている。袈裟掛けの一刀のため出血多量で死んだものらしい。文治は倒れようと するおとよをしっかり左手でかかえて一尺七寸国綱の一刀を上段に、久米正雄、鐘撞堂の |科白《せりふ》でないが、 「死なば諸共《もろとも》」  と最後の接吻を与える1位の余裕があれば大芝居だが只無闍に刀を振廻したものと思わ れる。「大小の疵十二ヵ所」と検定書にあるから可成りの時間奮闘して、とうとう体力の差 から疲労して殺されたものらしい。御互に剣術の下手であったが「十二ヵ所」でよく判る。 おとよは焼けつくような痛みを肩に感じながら、下から血に染って行く文治の美しさを味わ っていたかもしれない。白帷子が血に染り、髪が乱れてき、蒼白《まつさお》になって行くたび、年増女 によくあるサディズムからかマソヒズムからか、残忍性の美しさと快感をいくらかは感じて いたかもしれない。  一尺七寸の脇差がもし二尺三寸あったらそうむざむざと文治も負けなかったかもしれぬ。 可成り手強く戦ったのは斬倒されてからも横に一薙ぎ払って、宗味の脚を傷つけているので も判る。「御用ッ」という叫声が有力なように、「親の敵ッ」と世間体可成り力を添えるもの だが、間男というやつは時々、される方が悪い事があるから「不義者」と云われたとき、文 治は、 「この馬鹿亭主、手前の行為《やりかた》は何んだ。おとよが初めて人間らしい生活へ入ったのが、密通 にしたってどの位悪いんだ。一応の云訳も聞かずに殺すなんて、こん畜生」  位の事は思ったかも知れない。どうせ後には弥市郎がいるし仕方が無いが、おとよの敵位 で国綱の刀を青眼位に構えたものだろう。宗味は襷がけ足拵えして血に染んだ一刀の尖《さき》を小 刻みに刻みつつじりじりと迫ってくる。文治は勿論受太刀のみで、位《くらコ》づけしたまま身動きも しなかったものにちがいない。刻み足に迫って斬つけると、文治は眼を閉じて首をちぢめ、 とにかく刀だけは払うが何処かしら斬られる。掌が固く痛くなってきて指が自由にならなく なるし、咽喉《のど》が干いてくる、呼吸《いき》が切れてくる。 とうなればもう所謂《いわゆる》死中活を求めるより外に道が無い。講釈師の口癖になっている「身を 捨ててこそ浮む瀬もあれ」で生命をとるかやるかの捨身を打つより外仕方が無い。捨身に出 るのに二つの手がある。一つは讙亊知に敵の胸へかかる事である。鞴擬礎は少ない。突きの 手は斬る手のように手練の程を見せる事は出来ぬが間違が少ない。いよいよ自分に歩が無く なってしまったがせめて相討にでもなって相手を殺してやろうと思ったら必死の突をかける のが一番有効である。もう一つの手は国定忠治が体得していた「国定忠治は火事より怖い、 にっこり笑えば人を斬る」とまで恐れさせた彼一流の大胆不敵な手である。度胸一つの上州 長脇差から生れた捨身の剣法で、法に無くして法に適《かな》った手である。伝える所によると忠治 は、左右へ八文字に開いて刀を大上段に振かぶって立向ったのだそうである。脚を八文字に 開けば敵の刀を避ける事ができない。進むにも退くにも不自由な前山背水の構である。即ち 命を取るかやるかを唯その大上段の一太刀にかけてしまっているのである。敵が斬込む、忠 治が打下す、之の極めて僅かの差で勝敗がきまる。この所謂勝負の「間《かん》」は忠治が幾度か真 剣をくぐった内に自得した物で、道場剣術では恐らく拙い方かも知れぬが、いざとなれば常 人に出来ぬ捨身になってかかってきて「瞰」をちゃんと知っているから、灘郁に無鉄砲な上 州っ子も辟易してしまったのである。宗味の斬込む刀を十分に受けて斬らしておいて同時に こっちからも致命傷を与えるなら、或は文治の方が勝ったかも知れぬ。十二ヵ所を切らぬと 文治を倒せなかった位の腕だから斬らしても知れたものである。斬らしておいて相手を倒し そうしておとよに最後の接吻をする。女はニッコリそれに答えて落入る。そこを弥市郎が飛 かかって斬る。・文治は女のし腰ねと重なり合って死ぬ「重帷子」の重にもう一つ利いてくる。 第一芝居がかりでちゃんと型になっていいが中小姓上りの文治にそんな芝居っ気も度胸もあ ろう筈が無い。  一ヵ所斬られ二ヵ所斬られているうちに疲労ですっかり参ってしまったのである。宗味の 斬込方も屁っびり腰でちょいちょい遠くから打を入れては息をついでいたのである。大小十 二ヵ所の内に九ヵ所の小疵を一時間もかかってこしらえ、抵抗力が無くなってから大きい所 を斬って仕止めたものである。斬倒されながら、横へ払ったのは文治としては大出来である と共に、宗味の不用意さが伺われる。尤も宗味を天晴天晴と称《ほ》めて、見事な敵討としてある 本もあるが、例の梅と萩の問題のように信じていいか悪いか、当方の勝手次第である。私の 剣法から見ると二十四の中小姓あがり一人を斬るのに十二ヵ所も傷つけなくてはならぬな ぞ、武士として不名誉の甚だしきものである。  斬られた二人の死骸は一所に十三《じゆうそう》の浜の寺へ葬ったという。宗味は勿論御咎めなし。弥市 郎は帰国したが、人々が口では称めようが心でどう考えていたか?