高田馬場 直木三十五 一  実際の話だと相手は四人である。「伊賀越の仇討」に三十何人御添え物ができたように、 高田の馬場にもそれ位の誇張がある。訥子《とつし》などという人は、役者に給金が要らないで、野外 劇にでもしたら百人位にするかも知れない。  越後の国、新発田の溝口信濃守重雄。その家中で中山弥次右衛門が父。安兵衛が生れた年 に母がなくなって、十四で弥次右衛門が逝く。孤児になった。 「弥次右衛門、故ありて蟄居《ちつきよ》を命ぜられ」と文書にあるが、これを面白く脚色すると「印籠 場《いんろうば》」になるのである。弥次右衛門が売女狂をしたため蟄居となり、その女が早世して弥次右 衛門が病になる。貧しい安兵衛、父の薬を求めんがため立場《たてば》へ行くと一人の武士が癪《しやく》に悩む 仲間に薬を与えている。一口含むと共に苦しさが治まるので、安兵衛、この薬があったなら と人々の油断を見て盗去る。この武士が誰あろう菅野六郎左衛門という叔父であったという ことになる。これと、も一つ面白くしたのが安兵衛一生のうちに三度仇討をするという話に なる。即ちこの叔父がそれを知って金子を与える。安兵衛が家へ戻って父に渡すと、これを 隙見していた悪者があって、夜中忍入り盗まんとして殺してしまう。それを十三の小腕で安 兵衛がその場を去らさず討果す、それからこの高田の馬場に討入というのである。成程、講 釈師見てきたような諠《うそ》を吐く。  新発田で独《ひと》りぽっちになった十四歳の安兵衛、柄が大きくて気が強い。吉良邸討入の時、 大太刀を使って居たというから可成り大きかったにちがいない。安兵衛元来年多く、真庭念 流を学んでいたのだから大太刀より小太刀の方が得意であったのかも知れぬが、後江戸で堀 内源太左衛門の門に入ったからそれも得意になったのだろう。源太左衛門と同門であった奥 田孫太夫、武林唯七、小野寺幸右衛門、大高源吾なども大太刀を使って居る。元禄には未だ 戦国の余風が残っていたから二尺七八寸から三尺二寸というような長いやつが好まれていた のであろう。  嫁いた姉の許に寄人になるのはーと十五か六で新発田を後にした安兵衛、江戸へ出る 途中の高崎まできた時、その近くに真庭という所のあるのを考えた。真庭は有名な念流の達 人樋口十郎左衛門の道場のある所である。念流の中で一派を立てて真庭念流と称し、代々剣 豪の生れている家である。開祖の重兵衛は有名な赤城神社の試合、関東州の剣客が年に一度 の大試合をする赤城山の神前試合に於て、当時東国一と呼ばれていた塚原ト伝《ぼくでん》と立合って敗 れなかったと称《よ》ばれている人である。安兵衛の師十郎左衛門も強かったし、念流という流儀 が勝気の安兵衛には気に入ったにちがいない。  開祖は上阪《こうさか》半左衛門安久と呼ぶ人、後に分れて深念流、正伝念流、真庭念流、奥山念流な どと称されて居るが、名の如く「念」を以て勝つという事を極意としている。太刀に一念 を籠め、一念を以て敵を斃さんとする。特に太刀先に念を込め、触るれば命を断つという鋭 い教えである。何んでもかでも勝たずにおかぬというやつで、す驢.の嚇りついたようなもの である。噛りついた方も辛かろうが、噛りつかれた方の迷惑さは御話の外である。  新発田から、孤児になって何んでも江戸へ出て一旗をと一念こめて出てきたこの無遠慮で 胆の太い子供にはうって付けての剣法である。水を汲み薪を割りながら一念不乱の稽古をつ づけた。堀部弥兵衛の意気に感じ、中山姓を捨てた安兵衛、又父が蟄居のままで死んだから その霊を慰めようと、三年間、堀部姓をも名乗らずに中山姓を守っていた安兵衛、書道の大 家細井|広沢《こうたく》を親友に持っていた安兵衛、人物も確乎《しつかり》しているし腕も強かったにちがいない。  真庭に止まる事五六年、江戸へ出て弟子入をしたのが当時江戸で随一と称されて居た麹町《こうじまち》 道場の堀内源太左衛門正春の所である。元禄年間の剣客四天王の一人であるが、安兵衛入門 するとともに高弟の中の一人に加えられた。元禄六年の事である。  元禄十六年に死んだが齢三《よわい》十四とあるから、六年だと二十四歳の時となる。高田の馬場 で叔父の敵を討ったのは入門して問無しか暫くしてからであろう。安兵衛を養子にするに就《つい》 て堀内源太左衛門と細井広沢の骨を折って居る事から推すと、六年も、可成り早い月に入門 してすぐ認められていたものらしい。          二  安兵衛の母方の叔父が菅野六郎左衛門である。伊予の国西条の城主松平左京太夫鶇纏の師 範役、江戸|定詰《じようづめ》として、青山百人町に住んで居た。立派な叔父さんである。これが母方の叔 父と云うのだから、講釈種の売女一件など忽《たちま》ち謔だと云う事が判る訳である。安兵衛はこの 叔父を手頼《たよ》って出府し、自分は一人で市ヶ谷辺に住まって居た。果合《はたしあい》の時には士官学校の前 から喜久井町へ出たのだろう。市ヶ谷も広いが想浮ぶのはあの通だけである。尤《もつと》もあれは士 官学校が出来てからの新道かも知れぬが、ああ広くは無くっても通は有ったにちがいない。 ここから番町の堀内源太左衛門の道場へ通っていた。食扶持は叔父が貢いでいたのであろ う。村上との決闘に応じて出る時、 「妻子の事は安兵衛に頼め」  と云って居るから、可成り親しく頼もしい甥であったにちがいない。従って『赤鞘のぐず 安』も真赤な諠である。叔父のこの頼みと云い、親友に細井広沢の居た事と云い、道場へ近 いため市ヶ谷に下宿して居た事と云い、頼母しさを語る事のみである。馬場下の酒屋で一杯 引っかけて駆けつけたと云うので「ぐず安」を面白|可笑《おか》しくこしらえ上げたのであろうが、 恭壗源蔵を酒呑みにしたり、山鹿流の陣太鼓を三流れに打ち込んだり、講釈師の諠も中々愉 快なものである。  菅野の同門の士、村上庄兵衛囲碁の事から争って果合《はたしあい》を約した。時日は二月十一日の早 暁、場所は穴八幡の上、高田の馬場にてという事である。庄兵衛は血気の士、六郎左衛門は 六十の老体である。日が来て邸を出ようとする時六郎左衛門は初めてその妻に、 「村上庄兵衛と約があって高田の馬場へ赴く。もし不運にして敗れたなら、跡の事は安兵衛 に頼むがよい。供には佐次兵衛一人ついて来い、門人共に他言無用、要らぬ事して、助太刀 が来ては私の名の汚れになる」  と語って出てしまった。他言無用と云っても他の事とはちがうから、叔母さん驚いて急使 を市ヶ谷へ走らせた。二月の寒空、安兵衛の起出た所へこの使が走ってきた。手紙を開く と、叔父の大事である。 「御使、御苦労。すぐ御助力に参ると叔母に云って下されい。叔母の事は他に身寄も御座ろ う癜もし安兵衛討たれ中したなら、よろしく」  と云いながら、忙しく膳を取出して湯漬を二つ三つ食べた。作者も見てきたような事を云 うが、そう記録に残っている。有名な果合だったから、後に事詳《ことこまか》に聞く人が多かったから、 この位の事は有ったとしておいて差支えあるまい。渋川伴五郎の逸話にも乱暴者を手押える のに飯を食って、上厠《じようし》してから出て行くのがある。「腹が空《へ》っては戦が出来ぬ」とは千古の 名言。  尻を端折って、跣足《はだし》のまま、覚えの一刀を腰にして安兵衛は走出る。講釈で行くと関の孫 六という刀であるが、本当はどうであったか? 柳町へ出て喜久井町の阪を降ると馬場下 町、右に折れるとすぐ元の犬養邸、左へ折れると穴八幡から高田の馬場へ出る。馬場下町の 三番地に小倉屋半右衛門という酒屋があるが、安兵衛が此処で酒を引っかけて呼吸《いき》つぎとし 果合の場所へ乗込んだという事になっている。五合機であるが果して酒を呑んだのか水を引 っかけたのか、五合のみほしたのか、二口か三口でやめたか? 叔父の大事と聞いて湯漬を 食う位の安兵衛、果合の後に見物の中に混って終まで見届けて立去った安兵衛、平常《ふだん》酒を嗜《たしな》 まぬ安兵衛が果合を前にして五合の酒を何故飲んだか? 理窟がこうなってくると中々むず かしい。飲まぬ方へ賛成する人は水を飲んだ説か、全然この桝の存在を否定するだろうし、 酒屋側から云わせると、初めての真剣試合だから元気を付けるために一合位は引掛けたとい うのであろうが、懈れにしても大した事は無い。箱根へ行くと丑五郎馬つなぎの杭がある し、吉野へ行くと釣瓶鮨が維盛の末と称している。大高源吾の笹売りだの赤埴源蔵の貧乏徳 利だの、余り資本の要らない品ばかりよくそろって残して居る。  穴八幡の阪を登切ると、交番があって左へ高田の馬場停留場への道がある。この道を半町 余り行った右側、小学校の廻りが果合のあった所らしい。安兵衛が駆付けると六郎左衛門は 若党佐次兵衛と背を合せて、四方から斬込む刀を受けて居るが、呼吸といい手許と云い一刻 を争う態《さま》である。 三  六郎左衛門が高田の馬場へ来てみると、相手は四人である。庄兵衛は、弟村上三郎右衛 門、中津川祐見と若党が一人である。助太刀は互に無用と云ってあるが、六郎左衛門にはこ の位の事が予期出来る。  支度を終って刀の鞘を払うと、佐次兵衛も抜連れた。二人は背を合せて四人に当ったが、 壮年血気の四人と老人に小者二人では永い問には押されてくる。雑木林の此処、微処に三々 五々と群集《たか》ってこの様子を見物している者がだんだん増してくる。この見物連中が口々に菅 野へ同情すれぼする程、六郎左衛門の弱り方が目に見えてくる。綿入の所々が切裂かれて白 く綿がはみ出して居るし、頬先、脣《くちびる》から血が幾筋も流れている。受流しながら立って居る がもう時間の問題と云うだけである。村上兄弟は味方を傷つけぬよう、相手の疲れるのを待 っている。この時に安兵衛が驤つけた。 「叔父上、気を確かに、安兵衛で御座る」と、声をかけながら、抜放ったる一刀、真向大上 段ー念流では上略と云っているが  に振冠ると共に走寄りざま手近な三郎右衛門へ斬か かる、受留める隙もなく二の太刀、辛くも受けんとして小手《こて》を上げるよりも、念流|研《きた》えの太 刀の先、小鬢へ当ったが日頃の手練、小鬢の辺二寸位を斬った位では治まらない。顎までか けて割つけたから半面血染めになって思わず左手で押える。  安兵衛の馳つけたのを見て六郎左衛門、背後《りつしろ》の若党と共に当の村上庄兵衛へ斬込んで行 く、この背後の隙へ中津川祐見が廻ろうとする。「間《かん》」、 「己れっ」  と大喝するや、祐見の背後から一刀をあびせる。刹那、安兵衛のうしろへ廻って斬込む村 上の若党、安兵衛の二の太刀で祐見を袈裟がけに斬って落さんと踏込んだ腰へ斬つけたから 帯へ当って帯が切れる。と、早くも右手の片手薙ぎ、うしろを一薙ぎする刀に応じて若党は 倒れてしまう。この時に帯の切れたのがひどく不覚だったと、討入の時に帯へ鎖を入れた が、この時の仕合で心付いた安兵衛の注意であった。  二人で庄兵衛に向った菅野は敵に数創を負わせるとともに暫く刀を杖に立っていたが、庄 兵衛に斬込む力の無いのを知るとともによろよろとして土手の所へ腰をついてしまった。三 人とも坐ったまま動けない。安兵衛は庄兵衛の背後へ寄って蹴倒すともろくも横倒れになっ たまま起上る気色も無い。右手の刀を奪って捨て、襟を取って引起したが起きる力も無いら しいので、引擦りながら叔父の前へつれてきた。庄兵衛はぐったりとなったまま死んだも同 である。 「叔父上」  と云うと血まみれになった蒼白《まつさお》の顔に笑を浮べたが、微にうなずいたまま、刀を力に立と うとしたが起てない。 「叔父上、こう致しましょう」  と、安兵衛は庄兵衛の髷をもって首を引上げるなり斬落してしまった。 「さあ、これ程の手疵に叔父上-ー心を確かに」  と云ったが、六郎左衛門は、物を云うのさえ口の内である。ようよう立上った佐次兵衛を 助けて、菅野を肩にかけた安兵衛、そのまま青山の方へ一二町来たが、叔父の息、今にも絶 えんとして苦しむので側を見ると下屋敷があるから生垣を踏破って中へ入って行った。門ま で廻るひまが無いからである。  物置小屋があったので六郎左衛門を降し、傷の手当をしていると足軽がきた。 「誰だ、何をしている」  礼を厚くして安兵衛事の次第を述べると、 「それは御気の毒の至り」  と同情して水をもってきた。そして、 「とてもこの深手では」  と云うのを聞いて六郎左衛門、水を指さすから、安兵衛、 「叔父上、御腹を召され、安兵衛殖し鐐.儂ゲましょう」  と、大声で云うと讒ぱたから、助かる見込あれば黎すまいと置いてあった水を呑ませる。 弱々しく二口三口飲んでから刀を取直し、若党に手伝わせて、肌衣をくつろげ、辛くも腹へ 当てて一突きする「間《かん》」斬下す刀に首が落ちる。 「御見事」  と褒めた足軽。 「御死骸の仕末をせねばなりませんが、棺桶でも……」 「御苦労ながら左様御頼み中したい」  と云ううち繹撒、蠧饑葎などをもってきてくれる屋敷の鴨臠。死骸の血を拭って繃帯をし 首をついで布で巻く。 「佐次兵衛、御苦労ながら、籠屋《かごや》を頼んで青山へ届けてくれい」 「蒙様は」 「拙者はあとよりすぐ参る」 下屋敷の人々に礼を云って佐次兵衛の帯を結び再び引返す高田の馬場。来て見ると血に染 む干草を取巻いて一杯の人出である。何食わぬ顔してその中へ混込《まじりこ》んだ。次第によってはも つと斬るつもりであったかも知れない。  駕が一挺下りている。その駕の主とも思われる一人の六十余の武士が三人の屍《しかばね》を見て泣 いて居た。小半時安兵衛は人混の中で噂を聞いていたが、大抵は自分を褒める人ばかりであ った。安兵衛大いに満足して帰っただろうと思われるが、忽《たちま》ちこれが江戸中の評判になっ た。  堀部弥兵衛|金丸《かなまる》は堀内源太左衛門の門人で安兵衛と相弟子である。この話を聞くと共に吾 子に貰いたくて仕方がない。長男を失って長女の幸子八歳というのがいるだけである。講談 だとこの娘っ子が帯を投げる事になるが、八歳というのだから少し畔禦しい。この娘に安兵 衛を婁舗したならと思うと老人の一徹矢も楯も無い。とにかく七十七で討入をして、細川家 に預けられている時、夜中にでも矢声をかけて隣室を驚かしたという元気な老人だから妾の 一人ぐらいはあったかも知れぬ。  いろいろ云って見るが安兵衛承引しない。他姓を継ぐ事は出来ぬ身体《からだ》故と云って断ってし まう。断られて引下るような生やさしい金丸老人でない。念流の極意なら聟より上手であっ たかも知れぬ。老人の一念、師匠を説き、安兵衛の親友で書道の名家細井広沢、通称次郎太 夫を口説いて二人からすすめる事にした。安兵衛それでもうんと云わない。新発田で不遇の |裡《うち》に死んだ父の名を揚げて溝口藩へ帰参したいつもりであったのであろう。広沢とは書道の 友で相許していて復讐の事などもこの人にだけは打開けていた位の中であったが断った。  弥兵衛老人断られると断られる程惜しくなる。強いのみでなく、書にも長じている。細井 広沢とは堀内の同門関係からでもあるが、書道の方にも交り深い仲で、安兵衛は佐々木玄竜 に学んで中々の能筆であった。本郷三丁目の兼安の有名な看板は安兵衛武庸の筆である。  士《さむらい》を愛する事の深い浅野|内匠頭《たくみのかみ》、この人の前へ出て金丸老人とうとう、 「堀部姓をすてて中山姓にするから御許しを願いたい。と云う訳はこれこれ」  と安兵衛が断る口実が、姓の問題であると云う事を云って許可を求めた。姓も大事である が士も大事である。弥兵衛が家名をすてて良臣を勧めんとする心、最も内匠の気に入る所で ある。 「奇特の願、差許すそ」  と云うので、弥兵衛|雀躍《こおどり》、今度こそはと攻立てたから安兵衛も敵《かな》わない。聟養子に入る。 十両三人扶持。居る事三年、内匠頭、弥兵衛の二人ながら、安兵衛を遇する事の厚きに志を すてて、堀部の姓を継こうと云い出す。内匠頭もうれしいし、金丸老人もこの上の事はな い。使番馬廻りとして新地二百石、父の金丸より多い事百五十石である、使番といい馬廻り と云い頭の働く手の立つ士のする役目である。以て武庸が断じて「ぐず騫」でない事が判 る。  急変あるや、急進党の第一人者、大石、吉田を除くと、安兵衛が一方の大将であった。吉 良邸の前住人松平某の手から、吉良邸の地図を手に入れたのは安兵衛である。久松家の御預 けになった時、 「主税《ちから》を宜しく頼む」  と内蔵之助《くらのすけ》の云ったのは武庸に対してである。上杉家の附人中の豪の者、小林平八郎を倒 したのも安兵衛である。講談ではただ強いばかりであるが、本物の安兵衛武庸は文武両道に 秀でて居た。講釈師も少し気をつけてくれ。  安兵衛が新発田を出てから、暫く出雲崎《いずもざき》に居て、手習の師匠をしていたらしい。出雲崎の 人に聞くと安兵衛の書が可成り残っているという事である。書の事は知らぬし、確証は無い から何んとも云えぬが附記しておく。