崇禅寺馬場 直木三十五          一 「雨月物語」で有名な上田|秋成《あきなり》が、生田伝八郎の遺形見《わすれがたみ》という事になっている。上田秋成は 新町の——一説に北陽の——女郎屋の伜だから、伝八郎と其茶屋の娘か、或は太夫天神との 間にできたものとしなくてはならぬ。娘との間に出来たのなら、その家で育てられるのも道 理であるが、太夫との間のだとすると相当羽振りのいい女でないと茶屋で育てもすまい。伝 八郎が郡山《こおりやま》で遠藤惣左衛門を討ってから一年足らずの問に、こういう女と子まで成した仲だ とすると、伝八郎も中々色男であると考えて差支えない。その頃は大軌電車が無いから、ま さか前から通っていたのでもあるまい。前からの馴染でなくてすぐ子を成す仲など中々大し たものである。  女郎屋の伜などというものは大抵|蛙《かわず》の子で、よくいって役者、人間が上等にできていてま ず川柳をつくるくらいのものだが、一人秋成が居て意を強くする事ができる。尤《もつと》も茶屋の方 になら今でも居る。堀江の木谷楼に木谷蓬吟氏、南の多喜の家に藤原遊魚氏、名々一芸に達 した人である。この方面と料理屋などというものには、変に変ったのやら物判りの馬鹿にい いのやら、妙に凝り性のやら、絵のすきなのやら、相当におもしろい人物がいるが、女郎屋 とくると碌《ろく》な代物が無い。御江戸吉原三千軒どの大店でも見られる掛物の一幅かかっている 家が無いのは情ない事である。——と話は少し余談に亘りすぎるが、上田秋成が生田伝八郎 の伜であるという事は実は真赤な嘘《うそ》である。伝八郎はそんな色男でも何んでもない。 「若輩の癖に……」  と伝八郎思わずむらむらとして口へ出してしまった。遠藤惣左衛門はそれを聞くと共に、 「何?」  と顔色を変えてきっと伝八郎を凝視《みつめ》たから退きもならず、 「若輩の分際で生意気だと申したのだ、それがどうした」  と云い放ってしまった。伝八郎はさっきからむかむかしていたのである。十八にしかなら ぬ若輩の癖に、無念流がどうの、真影流がどうのと、齢上の人々を憚からず、生噛りの剣法 論を喋《しやべ》り立てていたのが不愉快だったのである。そしてしまいには伝八郎の養父生田惣兵衛 -彼の先生に対して不足がましい事さえ洩したのでいよいよ腹に据兼ねていた。遠藤重次 は齢の割に剣術もうまいが、小さい郡山の家中より出た事の無い人間でしかも八十石の給人 格にすぎない。伝八郎は生国の播州明石にいた時から相当の使手でそれを見込まれて実父庄 林六左衛門から生田へ貰って来られて、多少腕に覚えがある。大阪へ出て他流試合をしても 町道場なら手に立つ者が無いと信じているくらいだから、前髪上りの惣左衛門が少し使える のを自慢して、一座の中で高慢な顔をするのが我慢できなかったのである。  惣左衛門にしてみると身分は低いが自分よりも十も年上の者でも、大して負けるような試 合をしないだけの腕がある。生田惣兵衛先生がいつも見込があると云っているのでも判ると 思っているが、同時に小藩の師匠なんかいくら強くても駄目で、本当に自分の師匠となる人 は、近くなら大阪道修町に道場を開いている鞍馬八流の上月《こうづき》甚左衛門藤原春重がいいと考え るような自負心が強い。伝八郎から頭ごなしに軽蔑されると、今まで大口を叩いていた手前 としても、のめのめ引込む訳には行かない。 「もう一度申してみい」 「捨ておかぬとでも云うのか」  と云いながら伝八郎は刀を引よせた。 「そりゃ悪い」  と二人の間へ入りながら伝八郎の手を抑えた人がある。 「若い者の云う事だ、ま、ま」  と小声で抑えながら刀をとっている手へ手をかけたから伝八郎も、 「いや、余りと……」 「判っている、判っている」  となだめている一方、惣左衛門を抑える人もあって二人は黙っていたが、暫く一座は白け るうち惣左衛門は立ち上った。そして、 「馬鹿な奴め」 と小声で云すてて外へ出てしまった。伝八郎はその後姿をじっと見て居たが、何気なく、 「拙者も御先に」  と云って二言三言話をしたまま、ゆるゆると袴をしめ直して稽古場を出た。 「大丈夫かの」 「まさか」 「付いて行こうか」 「何、もう追つく事もあるまい」  というような会話が交されたが、よくある例として誰も立つものはなかった。 二  伝八郎が外へ出ると、ぎょっとして胸が躍った。七八間先に惣左衛門が立っているのであ る。伝八郎は相手が立去ったので、何んとなく自分一人で白けた座に居るのが嫌だったし、 白分から口を切っておいて生半端に抑えられてしまって不愉快でもあったから外へ出たのだ が、惣左衛門が立っているのを見ると「執念深い」というような感で又むらむらとした。じ つと顔色を抑えながら、そしらぬ顔をして近寄って行った。伝八郎も今更引返せぬが、惣左 衛門も一寸《ちよつと》困った。彼は小便をしていて其処におったので、別に伝八郎を待受けてどうする つもりでも無かったのである。しかしこうなると、先刻のケリをつけなくては男の面目は立 たない。まさかそのまま黙って歩いて行く訳には行かないから、じっと伝八郎の面を凝視《みつ》め ながら立っている。二人ともどっちからか切出す言葉によって、命を取るかやるかの二つに あるのだから、うっかり口が利けない。と云って黙って睨みっこをしているのも苛立つだけ である。電車の中でにらみ合ってさえ「畜生負けるものか」と赤の他人に負けん気を出すく らいだから、今口論のすぐ後、にらみ合っているのは危険な話である。二人は一寸面を合わ したまま白分の運命を冷たく感じたが、次の瞬間相手の眼を堪らなく不快になって負けるも のかという気になった。 「馬鹿めっ」  と伝八郎が云うが早いか、 「来いっ、腰抜ッ」  と惣左衛門が罵しった。云うが早いか聞くが早いか、二人は刀の鞘を払った。二三軒バタ バタと戸を閉める音と、男女の入乱れた短い叫び声とが聞えたが、あとは二人の掛声のみに なった。鋩子尖《きつさき》と鋩子尖との間が離れたり近寄ったり、二人の踵が引いたり進んだりしてい たが、伝八郎の刀が惣左衛門の刀へ当ると共に、重次は一二歩たたっと退いた。惣左衛門の ひき《まつさお》|だ 顔が蒼白になってしまった。そして刀と上半身とを動かしながらじりじりと退出した。伝八 郎も蒼白になっているが、鋩子尖をぴくぴく動かすだけで、刻足《きざみあし》にじりじりと押して行く。 「ホオー」  と声がかかると共に、伝八郎の手が延びる、たたと惣左衛門が下る、どしんと人家の戸に |打《ぶ》ッつかってしまった。じりじりと小刻に右へ転じようとする惣左衛門を、伝八郎はぐんぐ ん圧迫して行く。 「さあ……どうだ」  と伝八郎は声をかけた。惣左衛門は黙って伝八郎を凝視《みつ》めたままである。 「ヤァ」  と一声、捨身に右手《めて》へ打ってくる惣左衛門の刀、ちゃりんと払うと共に二尺余り退いて、 片手なぐりの一刀手答えがすると共に、入身の刀、重次の斬下すのを防いでおいてどんと体 当り、よろよろとするのを、内苅に足を当てるが早いか、双手《もろて》を相手の浮いた右脇に当てて 突倒した。と惣左衛門倒れながらに刀を捨てて伝八郎の胸へ手をかける。そのまま重なり合 ってどっと倒れると、惣左衛門下から伝八郎の右手の肱を抑える。左手《ゆんで》に惣左衛門の咽喉を 締めながら伝八郎の左脚が惣左衛門の腹へかかる力を脚に集めて、 「何をっ」  と立上ると共に伝八郎の胸へかけた惣左衛門の手が離れる。刹那、上から伝八郎片手突き に突下す。軅すひまがない。左手で刀を握りながら、右手に捨てた自分の一刀を捜すがこう なれば当人同志は夢中である。 「生田」  という声に気がつくと三四人の朋友が周囲に居た。暫くすると、 「水を」  と云ってもってきてくれる者がある。二三人の男が惣左衛門を抱起したが、初めの一太刀 を耳の後から頬骨へ受けて出血が甚《はなは》だしいし、二度目のを左胸へ受けて虫の呼吸《いき》である。 「身を隠すがいい」 「然し……」 「隠せ隠せ」  と友人の同情の言葉が伝八郎には大変好意に聞かれるので、彼はその足で一人の友の家へ 寄ったまま逃げてしまった。正徳五年五月十四日の事である。 三  惣左衛門の兄が二人ある。治左衛門重広と安藤喜八郎光乗である。 「殺した方も悪いが、惣左衛門も生意気だ、十八やそこらで天狗になるのがまちがってい る」  と家中の評判は余り遠藤へ同情しない。それに惣左衛門は末っ子で、母がちがう。二人の 兄にとっては継母で、この母は惣左衛門をひどく可愛がっている。惣左衛門の生意気なのも この母に負う所が多いし、喜八郎は年上で僅か六十石であるが、惣左衛門は十八で八十石で ある。常から余りおもしろく思っていないから、家中の評判といい、気持といい二人の兄は 敵を討つ気にも余り成れなかったのである。それに目下の仇は討たないのが普通である。し かし人間は勝手だから評判の悪い惣左衛門の敵でも、敵を討たないと家中の者も余りいい気 がしないらしい事を云うし、第一その継母なる者が、一人の腹を痛めた可愛いい伜を殺され たのだから、うるさく敵討をせまって仕方がない。  それで治左衛門は名を伊藤勝右衛門と改め、喜八郎は山口武兵衛と変えて、奈良を探ね、 小泉を調べて大阪へ来た。船場に宿をとって尋ねていると、一日、生田伝八郎経好として書 状がきた。意外に思ったが、封を切ってみると、   自分は今町道場を開いて、畳屋町に居る。貴不方《あなたがた》二人が拙者を探ねているよし人から聞   いたが、拙者は逃げもかくれもせぬ。……十一月四日早朝、摂州西成郡浜村崇禅寺の松   原を場所として出向勝負仕《でむかいしようぶつかまつり》候。誓約|如件《くだんのごとし》    正徳五年十一月一日                   生田伝八郎経好  とあるから、使の者を通すと、添口上をして、 「弓矢八幡誓約は違えないから」  と云うから、足労を謝して、承知の旨の書面を持たせて使を返す。 「伝八郎も武士じゃ二言はあるまい」 「わざわざ書状を寄越《よこ》す以上逃げもしますまい。所で兄上、町道場を開いているからには助 太刀の者など来やしますまいか」 「それや判らぬ。しかし手前から名乗ってくる程なら、卑怯な仕業もすまい」 「然し念のため、得物などは利の多いのを選んでおいて損にはなりますまい」 「それは尤《もつと》もの事だ。さらば」 と、治左衛門は槍、喜八郎は薙刀という事にして、くる日を待つ事になった。  阪急電車の阪急電車の吹田分岐線に「崇禅寺」という停留所がある。大田南畝の「葦の若葉」に、  「馬場あり人々馬|乗《のる》さま見ゆ、崇禅寺は松原の右にあり。竹の林深し。   ここに崇禅寺馬場の敵討という事あり」  と書いてあるが、停留所のすぐそこに見える一群の松原がそれである。小さい社《やしろ》と小学校 がその中に建っている。近頃は公設市場も建った。 「すべてこの辺りの松は根入り深からずして四方へ一丈ずつも根わだかまれり」  と現在もほぼ同じ事で、寺のうしろには遠藤兄弟二人の墓があって、寺には二三の二人の 武器を蔵している。 四 「遠藤氏」 と松の蔭から声がかかった。明けやろうとするばかりで、 「生田氏か」 「左様、御寒い所御足労に存じ申す」 松原へ入るとまだ薄暗かった。 「何んの……」 「見捨がたい事で惣左衛門殿を討果して御座るが、今更後悔しても役に立つものでなし、御 両所の御出立と聞いて手を分けて探ね申した所、幸に見当り申したが、遠藤氏討つ討たるる は運として尋常の勝負に及び申そう」 「云うまでも無い、御支度なされい……、時に、貴殿の側の方は?」 「門人で御座る。助太刀等は無用と断り申したが、拙者の鑑逢でも見届けるつもりで御座ろ う、気づかい召さるな」  と云いつつ布をたたんで鉢巻に、下緒を解いて十文字、御互に身支度が終ると、 「いざ」  と左右へ別れたが喜八郎は刃渡り尺二寸の円柄《まるつか》の薙刀、治左衛門は二間柄の銀杏穂の素 槍、二人一度に立向った。 「二人は卑怯だ」  と云う声がした。明放れたので松原の中を見ると七八人の武士が、そこいらの松の木の影 に居るが皆伝八郎の門人らしい。そう叫ぶと共に、ばらばらと兄弟を取囲んでしまった。矢 声と共に突出してくる槍、開く、と打込んできた薙刀、後へ退って返してくる石突を払う、 刹那二度目の槍、右へ開いて伝八郎、薙刀を避けながら右へ開くやら、左へ開くやら戦って いるが、すっかり受太刀である。伝八郎が右へ避けると知ったら、治左衛門、伝八郎の右側 から突いてかかる。喜八郎が左からくる。 「エイッ」  胸へきた石突の当てを避ける。右手《めて》で槍の柄を外した途端、薙刀の返し、ひらりと閃いて 肩から脇へ一文字に羽二重がすーっと破れると共に綿がはみだした。今まで様子を見ていた 門人共、口々に何か叫んだかと思うと、小石と砂が二人の兄弟へばらばらと飛んできた。 「卑怯な真似をすな」  と腕をあげて眼をかくす。ビューンと鳴って一筋の矢が頭上を掠める。喜八郎は身を沈め て、横薙の一手、左手《ゆんで》に眼を防ぎながら右手で伝八郎の胴へ入れにくる。退って一歩、喜八 郎が薙刀を構えんとする隙、飛込みざま諸手を延ばして構譫慯真向から斬込むのを、発止と 柄で受留めたが、柄を傷つけて余力が額へ斬つける。鉢巻の布を斬裂いて、すーっと一筋 |真紅《まつか》な糸が引かれたかと思うとたらたらと流れ出す血、鼻脇から見る見る衣服ヘポタポタと 落ち出した。 「伝八郎、助太刀は卑怯であろう」  と喜八郎は怒りの声をあげた。その声に応じて砂が飛んできた。二三人の者は抜連れて治 左衛門へ向った。助太刀をしてくれと頼みはしなかったが、兄弟二人を引受けて危い折こう して加勢してくれるのを今更止める気になる程の伝八郎でもない。兄弟は伝八郎の礼を知っ た態度に感心して、二人して討つのに気が進まない位であったが、助太刀が七八人も現われ て、武士にあるまじき砂石を投つけるに至って反動的に憤怒してしまった。 「卑怯だ、伝八郎」  と治左衛門は、まっしぐら伝八郎へ突いてかかる。凄まじいので、松の木蔭へ入って木を 楯としながら刀をつける。追廻しながら助太刀を相手に時々合せるが蠅の如く、迫ると逃 げ、伝八郎に向うと又集まってくる。 はたしあ《ごんぎよう》|い  朝の勤行に起出していた崇禅寺の僧が太刀音を聞いて出て見ると果合である。二人の武士 を取巻いて七人の者が斬込んで行く。早出の百姓が集まる。松原を囲んでその辺の村人が集 まって、口々に二人が疲労して行くのを憐れんでいる。 「ああ、薙刀のがよろめいた。あらもうあかんで、可哀そうに」 「槍のも大分斬られている様子や、着物の裂けたのを見てみいな」 「薙刀の方の顔は血だらけで判れへん、無惨《むご》たらしい事をしよんナ。二人に七人やったらど んな手者《てしや》でも負けるで」  喜八郎も治左衛門も追いつ追われつしているうち、真剣勝負に慣れない二人は疲労の極に なってしまった。槍も薙刀もすてて刀を抜く隙も、第一そういう事も出来ぬように.紫。が柄 へ食ついてしまっている。離すと離れるだろうが、離してうまく刀を抜けるか、柄へ手をか けられるか、白分でも判らないと思うくらい、掌から二の腕へかけて凝ってしまっている。 よろめきながら、迫り来る者を防ぐだけになってしまった。 「喜八郎」  と治左衛門は呼んだが、喜八郎は返事も出来ない。一人の斬込む刀を避けるはずみ、よろ めいて倒れかかったから薙刀の力で踏止まる。その隙横から斬つけられる。思わずがっくり 膝をついて杖にした薙刀を力に立ち上ろうとする。二の太刀、三の太刀、声も立てえない で、そのまま倒れてしまう。 「さあ、貴様一人だ。覚悟しろ」  と取囲んで斬つける刀の下、槍を捨てて刀を抜こうとしたがそのまま双手《もろて》で頭をかかえな がら、木の倒れる如く、仰向けに倒れてしまった。   一、今日此所にて及勝負候意趣は、相手之弟遠藤惣左衛門と中者難見捨義御座候に    付|仕留立退《しとめたちのき》候処|且《かつ》両人|恨可申《うらみもうすべく》と相尋候私儀遠方へ罷退候《まかりしりぞき》得ば私へ尋あたり不申    候近き親類へ恨申可旨非常之心指相聞え候に付出向勝負仕候、御見分の方御座候わば    右の趣上仰可被下候                                  生田伝八郎  と書付を取出して、喜八郎の薙刀の柄へ結びつけて、傷を受けた者の手当をしながら立去 った。         五  伝八郎はその夜眠れなかった。徹熾の薄ぐらい下で目を閉じていると、襖一重をへだてた 次の室《へや》の真暗な所に、二人の兄弟が血に染まって立っているようで気味が悪くてならなかっ た。惣左衛門を討ったのも偶然だし、二人を討果したのも、一半の責任を門人共の無法にし て、自分から助太刀を頼んだので無いと云訳をしてみるが、兄弟の土色の顔の血塗《ちまみ》れになっ たのを考えると、天井の上から血走る目で凝視《みつめ》られているような気がした。  それ以来、気が鬱々するし、加勢をしてくれた門人に対して何かしら当り散らすような振 舞が多くなった。そしてそれらの門人は大阪での噂が高くなるに連れて、同門の他の人々か ら爪弾きされて通ってこなくなるし、四五十人居た弟子達がだんだんに減じて行った。郡山 の養父からは義絶書が来るし、国許の兄からはひどく罵倒した書面が届いた。そして返討《かえりうち》の 噂の尾に鰭がついて、すっかり欺討《だましうち》をしたもののように拡まってしまった。畳屋町の道場を 畳んで、二三の知人の許で遊んでいる内に風邪心地になった。  ふと目を開くと天井の片隅に、赤ともつかず紫ともつかぬ異様な光が、霧のようにこめて いて、キラキラと光っていた。そしてそれを見ると共に、霧のような赤紫の光がくるくると 渦を巻いて廻り出した。きらきらと火花のようなものが時々青白色に閃く中に、喜八郎と治 左衛門の目と覚ぼしきものが、じっと自分を睨んでいた。顔のような輪郭があるようだし、 見定めようとすると無いようだし、眼も有ると思えば有るし、無いと思えば無いようであっ た。伝八郎は寒気を感じながら目を閉《ふさ》いでもう一度開くと、霧のような光だけは依然として 消えないで輝いていた。そして見ていると又目が現れてくるのであった。伝八郎は気のせい だと思ったが、刀を取って起上ると、夢から醒めたように頭がはっきりした。光り物も無く なっていた。  郡山城下の常称寺の墓地に、遠藤家代々之墓と刻んだのがある。その前へ正月の末、雪の 降った後|黒縮緬《くろちりめん》に面を包んだ武士が合掌していた。やがて袴をたたんで墓の前へ敷きその上 へ被り物を拡げてそれへ正座した。帯を下へ押しやって肌を寛げたが、脇差へ手拭を巻い て、左手《ゆんで》で腹の皮をぐっと右へ押やり、左の腹へ刀を当てて、すっと二寸ばかり引いた。五 分ばかり刀が入って真白な脂肪が見えたが、血は殆ど出なかった。そうしておいて着物の膝 で、刀の鋩《さき》を拭って、左手に右咽喉の動脈をさぐっていたが、刀を逆にとって、刃を外にし |刃鋩《きつさき》をぴたりと当てると共に諸手で突切った。掌へ血が矢の如く飛んだ。そして傷口から、 ごくんごくんと泉の湧くように流出て、襟元へ流込んだ。どんと右手《めて》を地についたが、暫く してがっくりと首を垂れると共に左方へ突伏してしまった。血塗れになって刀が転がった。  武士の懐中に、奉書に、    いさぎよく死出の雪見る今宵かな                 生田伝八郎  と書いたものがあった。