脱穀変 一ノー  高い、梢の落葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、僻々とした大木、老樹の天敵は薄暗くて、密生した漱利と、雑草とが、まだ濡れていた。  樵夫猟師でさえ、時々にしか通らない細い径は、草の中から、るだけで、両側から抜か、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、 ほんの少しのあか土を見せていからかいかかるくらいに延びて いた。  その細径の、濯木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。陣笠は裏金だから士分であろう。前へ行くその人は、六十近い自侭の人で、後方のは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。二人とも、自い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折って、紺脚絆だ。  老人は、長い敗で左右の草を、胆き分けたり、たたいたり、射でたり、供の人も、同しように、草の中を注意しながら、登って行った。  老人は、島津家の兵道家、加治木玄白斎で、供はその高弟の和田仁+郎だ。博士王仁がもたら -- じた「軍勝図」が大江案から、源家へ伝えられたが、それを秘伝しているのが原案の末の島津案で、玄白斎は、その秘法を会得している人であった。  口伝玄秘の術として、明かになっていないが、医術と、祈祷とを基礎とした呪岨、調伏術の一種であった。だからその修道者として、薬学の心得のあった玄白斎は、島津里栄が、薬草園を開き、蘭方医戸塚静海を、藩医員として迎え、ヨーンストンの「阿蘭陀本草和解」、「薬海鎗原」などが訳されるようになると、薬草に興味をもっていて、隠居をしてから五、六年、初夏から秋ヘかけて、いつも山野へ分け入っていた。  行手の草が揺らいで、足音がした。玄自省は、杖を止めて立ち止まった。仁+郎も、警戒した。現れたのは猟師で、鉄砲を引きずるように持ち、小脇に、重そうな獲物を抱えていた。猟師が二人を見て、ちらっと上げた眼は、赤くて悲しそうだった。そして、小脇の獣には首が無かった。疵口には、血が赤黒く凝固し、毛も血で固まっていた。猟師は、ちょっと立ち止まって、二人に道を譲って、御辞儀をした。玄白斎は、その首のない獣と、猟師の眼とに、不審を感して「それは?」と、聞いた。猟師は、伏目で、悲しそうに獣を聯めてから、  「わしの大でがすよ」  「大がーー・なんとして、首がないのか?」  猟師は、草叢へ鉄砲を下ろして、その側へ首の切り取られた大を置いた。犬は、脚を縮めて、ミイラのごとくかたくなってころがった。疵は順にだけでなく、胸まで切り裂かれてあった。  [どこの奴だか、ぴどいことをするでねえか、御侍様、昨夜方、そこの岩んとこで、焚火をす - る奴があっての、こいつが見つけて吠えて行ったまま戻って来ねえでー‐」  猟師は、うつむいて涙声になった。  「長い間、忠義にしてくれた犬だもんだから、庭へでも埋めてやりてえと、こうして持って戻りまナところだよ」  玄自省は、じっと、犬を眺めていたが、  「よく葬ってやるがよい」  玄白斎は、仁+郎に目配せして、また、草叢をただきながら歩き出した。  「気をつけて行かっしー天狗様かもしれねえ」 猟師は、草の中に手をついて、二人に御辞儀をした。 {ノニ  細径は、急ではないが、登りになった。玄自省はうつむいて、杖をカに、——だが、目だけは、,左右の草叢に、そそがれていた。小一町登ると、左手に祝射が、果てしなく拡がって、杉の老幹が畳々と聳えていた。そこは狭いが、平地があって、谷間へ突き出した岩が、うずくまっていた。  大きく呼吸をして、玄白斎は、腰を延ばナと、杉の間から藍碧に展開している鹿児島湾へ、微笑して、   「よい景色だ」              、  と、岩へ近づいた。そして、海を見てから岩へ眼を落とナと、ナぐ微笑を消して、岩と岩の沢 囲を眺め廻した。   「焚火を、しよりましたのう」  仁十郎が、こういったのに答えないで、岩の下に落ちている焚木の対を拾う。   「和田−—乳木であろう」  と、差し出した。和田は手にとって、すぐ、  「桑でございますな」 乳木とは、析って乳液の出る、桑とか、対いかを兵道家の方で称するのであった。 玄白斎は、岩へ、顔を押し当てるようにして、岩から、何かの匂いを嗅いでいたが、  「和田、卯いでみい」 仁+郎は、身体を岩の上へ曲げて、しばらく、鼻を押しつけていたが、  「蘇合否?」 と玄白省へ、振り向いた。玄自省は、ちがった方向の岩上を、指でこナって、指を鼻へ当てて、  「竜脳の香もナる」 和田は、すぐ、その方へ廻って鼻をつけてノ  「そう、竜脳」 と、答えた。  「これは塩だ」 玄白夜は、白い粉を、岩の上へ、指先でこすりつけていた。仁十郎は、谷間へのぞんだ方の岩 の下をのぞいていたが、急に、身体を曲げて、手を延ばした。そして、何かをつまみ上げて、玄白斎へ示しながら、  「先生、蛇の皮がーーー」  と、大きい声をした。玄白斎は、欧しい眼をして、  「人髪は?」  仁+郎は、あたりを探して、   「髪の毛はないか」  二人は、向き合って、しばらくだまっていた。玄白斎は、焚火をしたため、黒く焼けている貳肌を眺めていたが、   「和田、この岩の形は?」   「岩の形?」   「釣召金剛炉に似ているであろうがな」  和田は、ちらっと岩を見て、すぐ、その眼を玄白斎へ向けて、   「似ております」  と、答えた。   「牧は、江戸へ上ったのう」   「はい」  玄白斎は、眼を閉して、しばらく考えていたが、 「肌乱かこ測によってヽ沢が熾獣欲獄則有を祭ったヽ人命調伏しやヽこの法を知る者吠牧 のほかにない」  おじようにいったが、その眼は、和田を、鋭く脱んでいた。和田は、自分がとがめられているように感して、面を伏せると、  「この品々を、拾ってーー」  玄白斎は、岩の上の木片、蛇皮を顎で差した。和田が拾っていると、  「他言無用だぞ」と、やさしくいった。そのとたんーー下の方で、それは、人の声とも思えぬような凄い悲鳴が起こってすぐ止んだ。 一ノ三  二人とも、ちらっと、眼を合せて、すぐ、全身を耳にして、もう一度聞こうとした。なんのための叫びか、もう一度聞こえたなら、判断しようとした。しばらく、黙って突っ立っていた二人は、もう一度眼を合せると、和田が、  「斬られた声でしょうな」  玄自責は、答えないで、下の方へ歩き出した。  「四辺に気を配って11油断してはならん」  玄白斎は、脚下の岩角を、たどたどと踏みつつ、和田に注意した。  「今のは猟師でしょうか」   「そうかもしれぬ」  二人の足音と温ずれのほか、なんの物音もない深山であった。あんな大きい、凄い悲鳴が起ころうとは神も思えないくらいに、静かであった。  二人は、声がしたらしいと考えた場所へ近づくと、歩みを止めて、四方を眺めた。そして、小声で玄自省が、   「この辺と思うが1‐I」  と、振り返ると、   「探しましょう」  和田は、肩から掛けていた薬草の採取箱をおろそうとした。   「下手人が、まだ、うろついておろうかもしれぬ。用心してーー」  和田の置いた箱のところへ杖を立てて、玄白斎は草のそよぎ、梢の風にも、注意した。和田は、杖で草を、枝を分けながら、薄暗い木の下蔭へ人って行った。玄白省は、   「径から、あまり遠いところではあるまい」  と、背後から、声をかけた。和田は、小径を中心に、左右の草叢へ、森の中へ、出たり人ったりしていたが、しばらく、身体が見えなくなると、   「先生、先刻の猟師です」  落ちついた大声が、小半町先の草の中から起こった。そして、草を揺るがして、陣笠が、肩が1和田が、小走りに戻って来た。  二人が、小径から揖くと、背の着物だけが少し見えていた。近づくと、虫が、飛び立った。死体は草の間にうつ伏せになって、本の間からの陽光が班に当っていた。  着物が肩から背へかけて切り裂かれて、疵口が惨たらしく、赤黒いロを開けていた。肉が、左右へ縮んでしまって肩の骨が白く見えていた。着物も、聚も、下の草も、赤黒く染まって、疵口にはにが止まって勣かなかった。   「犬に、鉄砲は?」  玄白斎は、暢と、顎とを掴んで、猟師の顔を検めてから立ち上って、和田にいった。   「径から、ここへ逃げ込んだのだから−−」  和田は、径の方を見て、二、三歩行くと、   「この辺にI」  と、呟いて、左右の草叢を、杖で、掻き分けた。  玄白斎は、杖の先で、着物を押し拡げ、疵口を眺めて、血糊を杖の先につけていた。和田が、、   「見つかりました」  と、径に近い草の中から、こっちを見た。   「血が、十分に凝固っていぬところを見ると、斬って間もないが−一刀で、往生しとる。よほどの手利きらしい」  玄白斎は、独り言のように、和mを見ながら呟いて、和田が、   「下手人は、まだ遠くへ走ってはおりますまい、探しましょうかの」 と、いうと、                   ちいて  「見つけたとて、捕えられる対手ではあるまい」                 くちびる そういった玄白斎の眼は、唇は、決心と、判断とに、鋭く輝き、結ばれていた       一ノ四  島律宗に伝えられている呪岨の術は、治国平天下への一秘法であって、大悲、大慈の仏心によるものであった。私怨をもって、一人二人の人を殺す調伏は、呪道の邪道であり、効験の無いものである。たとえば一人の敵将を呪い殺すということは、正義の味方を勝たしめることで11それは、一国一落が救われ、ひいては天下のためになることでー−つまり小の虫を殺して、大の虫を助ける、というのが調伏の根本精神であった。  だから、術者は、ほかに憤怒の形を作り、残虐な生犠を神仏に供し、自分の命をさえ、仏に捧げて祈りはしたが、それは、その調伏を成就して、多数の人々が幸福になれば、生犠は仏に化すという決心と信念とからであった。  そして、その信念は、完全に、精神を昂揚し、普通の精神活動以上の不思議さを、常に示した。それは、小さい怨みとか、怒りでは到達のできない信念で、正義に立だなければ現れないものであった。  そうして、加治木玄自省にしても、代々の兵道家にしても、長い、大きい、深い、苦痛と、修練をして、その秘術を会得するのであったから、その智恵、知識、人格から見ても、一人の人に 私怨をもって、調伏を行うような愚かな人間ではなかった。そんな人間では、修行のしきれる呪術ではなかった。   「薬草取りは?」  玄白斎が戻り道の方へ歩きかけたので、和田がこう声をかけると、   「やめたI戻ろう」  と、玄自省は答えて、もう、左右の草叢へは、なんの注意もしないでうつむきがちに、足早に歩き出した。和田は玄白斎の心がわからないらしく、忠実に、草の中の薬草の有無を、杖の先で探しながら黙ってついて行った。  だんだん木が疎らになって、木床峠へ出る往来が近くなった。右手の前方に、桜島が、朗らかな初夏の空に、ゆるやかに煙をあげていた。   「仁+」   「はい」  玄白省は、こういったまま、また、しばらく黙っていた。   「先生‐—−なにか?」   「うむ‘−−ことによると、のう」  何を考えているの’か、玄白斎は、なかなか語り出さなかった。   「何か大事でもI」   「うむ、容易ならぬ企てがあると、わしは思うが」  と、ぃって、突然、振り向いて、  「近々、牧に逢ったかの」  「ぃっこうにーI」  「噂をきかぬか」  「ただ、江戸へ.まぃられました、とそれだけより存しません」  牧仲太郎とは、玄白省の後継者で、牧に職を譲って、玄自省は、隠居をしてぃるのであった。   「もしか、牧がー」  玄白斎が、呟いた。   「牧どんが?」   「ぃぃゃー」  玄白斎は、首を振って、   「今日のことは、和田、極秘しゃ」  街道へ出てからも、玄白斎は、考えながら歩ぃてぃるらしく、いつものように、左を見、右を見しなかった。和田はたいていの雨にも、道にも、薬草探りをやめない老師が、急に帰るのを考えると、何か、大変なことが起こっているように感しられた。      一ノ五 (牧よりほかにあの秘法を行う人間はないはずだー牧の仕業としたならーーなんのためにー ー誰をーI)  玄白斎は、駅かも、汗も感しないで、考えつづけた。   (もし、自分の考えが、当っていたとしたなら−ー−島津家の興廃にかかわる11) 玄白斎の考えは、次のようなことであった。  当主斉興の祖父、島津里栄は、英傑にちがいなかった。彼はシーボルトが来ると、第一に訪問した。それから、大崎村に薬草園を作ったし、演武館、浩士館、医学院、臨時館の設立、それに よって、南国偏僻の鹿児島が、どんなに進歩したか?  彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、精彩を放たしめたが、しかし、それはことごとく、多大の会のかかることであった。  また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二来会一つしかないことさえできるようになってしまった。  士はヽ彫を売りヽ女は、這』が売って献金しヽ十三か月にわたってヽ食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。 次代の帑鉛も、士分も、人民も、この できなかった。だから、斉宣は、しても、凱彭な重豪は、自分への 太゛ 舶来好みによって、苦難したことを忘れることが を登用して極端な緊縮政策を行った。しかし隠居 のようなこの政栄に、激怒した。そしてただちに、秩父を 切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。  斉興は、茶坊主笑悦を、調所笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易を行って、極度の藩財政の疲弊を、あざやかに目復させた。  しかし積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、したがって極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が、   「西の丸、御炎上致しました」と、いった時、   「馬鹿、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ焼けたと申せ」  と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら、   「つきましては、何かお見舞献上をーーー」   「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。まだわからぬか釘試。なんでもよい、見舞をくれてやれ」  。ヘルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時ノニ田の薩摩郡は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬が貼ってあるので、新がナと、黒々と「天下の大出 来物」 なりあ と書いてあった。  斉彬は、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみが淡かった。その上に、幕府は、斉彬を登用して、対外問題に当らせようとして、斉興の隠居を望んでいた。斉興が斉彬をよく思わないのは、当然である。  そして、斉興も、家中の人々も、斉彬が当主になっては、また重豪の獣を踏むであろうと、憂 慮した。木曾川治水の怨みを幕府へもっている人々は、幕府が斉彬を利用して、せっかくの金をまた使わせるのだとも考えた。  そうして、斉彬の生母は死し、斉興の愛するお由羅が、その寵を一身に集めていた。そして、お由羅の生んだMかば、聡明な子の上に、斉興の手元で育てられた。   (斉彬を廃して、久光を立つべし)  それは、斉彬の近侍のほか、薩摩大半の人々の輿論であった。玄白斎は考えた。   (斉彬を調伏して、藩を牧う1‐—しかし1)  老人は、山路を、黙々として、麓へ急いだ。       一ノ六  黙々として歩いていた玄白斎が、突然、  「和田」  と、呼んで立ち止まった。和田が、卸しかねる玄白斎の態度を、いろいろに考えていた時であったから、ぎょっとして、  「はい」  と、あわてて、返事をして、玄白斎の眼を見ると、  「その辺に、馬があるか、探してのう」  こういいながら、腰の袋から、銭を出して、   「ひとっ走り、急いで戻ってくれぬか」  和田は、何か玄白斎が、非常の事を考えているにちがいない、と思うと、ほんの少しでもいいから、それが、どんなことだか、知りたかった。それさえわかれば、自分にも多少の智恵もあり、判断もつくと思った。それで、   「御用向きは?」   「千田、中村、斎木、青島、この四人の在否を聞いてもらいたいーーおったら、それでよい。もしおらなんだ節はーー」  玄自責は、侃をしごきながら、   「いつごろからおらぬか?−−tどこへ行ったか? 誰と行ったか? それから、便りの有無ーーよいか、いつ、誰と、どこへ行ったか? 便りがあったと申したなら、いつ、どこから、と、これだけのことを聞いてーーー」  玄白斎は小首を傾けてまだ何か考えていたが、   「一人も、もし、おらなんだら、高木へ廻って、高木を邸に呼んでおけ。それから」  玄白斎は、和田の眼をしっと見ながら、   「何気なく、遊びに行ったという風で、聞きに行かんといかん」  玄白斎は、こういって、静かに左右を見た。そして、低い声ス   「牧は斉彬公を調伏しておろうもしれぬ」  和田は、口の中で、はっといったまま、うなずいた。   「わしの推察が当って、もし、貴息、斎木らが四人ともおらなかったなら、一刻も猶予ならん。ナぐに延命の修法だ」   「はい」   「斉彬公の御所業の善悪はとにかく、臣として君を影鴉することは、兵道家として、こぼ、不忠の極しゃ。君の悪業を浜めるには、別に道がある。もし、牧が軍勝の秘呪をもって、君を調伏しておるとすれば、許してはおけぬし、左はなくとも、秘法を行っている上は、なんのために行っておるか、間きたださぬと、わしの手落になる」  和田は、玄白斎の考えていたことが、すっかり判った。そして、わかった以上、すぐに、命ぜられた役を、できるだけ早く果したいと、気が、がいてきた。それで、大きく、幾度もうなずいて、   「それでは、ひと走りして。谷山には、馬がござりましょうから11」   「わしも急ぐーー」  和田は、木箱を押えて、   「お先に」と、いうと、   「箱をー」  と、玄白斎は、手を出した。   「はっーーおそれいります」  和田は、急いで採取箱を肩から試して、手渡すと、一礼して走り出した。土煙が、和田と一緒 に走り出した。 一ノ七 む附の百姓小屋が、占7として見えてきた。和田仁十郎は、肌着をべっとりと背へくっつけ、 汗を拭き拭き、小走りに、   (馬—−‐馬)と思いながら、馬の動きを、馬の影を求めていた。一刻も早く急ぎたかったし、暑かったし、心臓も、呼吸も、足も、   (早く、馬を)と、求めていた。分封夕、額へまで、こびりついた。   「この辺に馬がないか」  雑貨を売る店へ怒鳴って立ち止まった。   「馬?」  と、店先にいた汚ない女が、首を振って、   「谷山まで、ござらっしやらぬと、この辺には、無いですよ」   「ナまぬが、水を一杯」  仁十郎は、肩で呼吸をしながら、ようようこれだけいった。   「水ならーたんと−」  女は、薄暗い勝手から、桶をさげてきた。和田の前へ置いて、忙貳を取りに入った。和田は、身体を曲げると手で獄って、つづけざまに飲んだ。女が、射欧を持って、小走りに来ると「かた しけない」と、投げつけるようにいって、もう、熱い陽の下へ出ていた。  暑い、このころの陽の下を旅する人は少ないから、戻り馬も通らなかった。和田は、俯向いて、口を開きながら、肩を訟めて、苦しそうに、小走りに走りつづけた。谷山の村へ入って、茶店へ来たが、いつも茶店の脇の、大きい尉}木の下に、一碍ずついる馬が、一疋も見えないので、棒の下蔭は、淋しかった。   (出払いかしら)と、思うと、失望と、怒りを感じて、   「婆さん」  と、茶店の奥へ怒鳴った。   「馬は?」   「馬かえ」  婆は、いつも、馬のいるところに、影が無いから聞かずともわかっていそうなものだ、というような態度で、   「おりましねえが」   「馬子は?」   「馬子も、おりましねえ」  和田は、この婆が、意地悪く、馬を皆、隠したように感した。   「急用だにー」   「そのうちに、戻りましょう」  和田は、添と、疲れに耐えられなくなって、腰をかけた。   「水を一杯」   「水は悪うござるよ。熱い茶の方が1」   「水でよい」  憲のところから、爺が、顔を出して、   「つい、今し方まで、四、五疋遊んでおりやしたがのう。御武家が四人、急ぐからとーーつい今し方、乗って行かっしゃりましたよ。ほんの一足ちかいで、旦那」   「どこかに、爺−‐−‐野良馬でも、工面つくまいか」   「さあー婆さん、松のところの馬は、走るかのう」  和田は(走らぬ馬があるか、気の長い)と、じりしりして来た。       一ノ八  人通りのない、聡飢いた街道に、かつかつ反響させて、小走りに馬が、近づいて来た。誰か、乗っているにちがいなかったが、和田は、町人か、百姓なら、話をして、借りて行こうと、疲れた腰を上げて、願簾の外へ、一歩出た。   「先生」  玄自省が、木箱をがたがたさせながら、半分裸の馬子を、馬側に走らせて、近づいて来た。   「馬がないか」  「一疋も、ござりませぬ」  「馬子」  馬子は、呼吸を切らして、玄自省を、見上げただけであった。  「もう一疋、都合つかぬか」  馬も、馬子も、茶店の前で止まった。馬子は、胸を、顔を急がしく拭いて、  「爺さん、四疋とも、行ったかえ」  「四疋とも、行ったよ」  「旦那、ここには、四疋しかおりませんのでのう」  和田は、馬偏へ近づいて、  「一足ちかいで、家中の者が、四人でーーーー」  と、まで言うと、  「今かー−」  玄白吝か、大きい声をして、和田を鋭く見た。和田は玄白省のそうした眼を見ると同時に、   (そうだ。猟師を殺して、一足ちがいに)そう感じると、すぐ、   「爺‐−その内の一人に、背の高い、禿げ上った額の、年齢三十七、ハの侍はおらなんだかの」  玄自省は、手綱を控えたまま茶店を櫛き込んでいた。  「額の秀げ上った、背の高い? 婆さん、あの長い刀の御武家の背が、高かったのう」  「一番えらいらしいーー」 婆は、首を振って、仁十郎を、じっと見て、  「けれど、四十を越していなさったが’−−」 玄白斎が、  「そのほかのは、三十前後ではなかったか?」  「はい、お一人だけは、二十八、九−」  「それは、少し聯ったーー」  「はいはい、小肥りの、愛嬌のあるーー」 玄自責は、  「馬子っ」 と、叫んだ。馬子は、  「へっ」 と、返事をして、茶店の中から、あわてて飛び出した。  「それが取計らう」 玄白斎は、和田を、顎でさした。そして、和田へ、  「馬子に手当をしてやれ、わしは、祀Eを追うから、都合して、ナぐ、続け」半分は、馬が、歩み出してからであった。馬子が、  「且那っ」  と、叫んで、馬のロを取ろうとするのを、和田が引き戻した。玄白斎は、手綱を能いて、馬を走らしかけた。  「いけねえ、日一那っ」  「手当は、取らすと申すに」  和田は、力任せに、馬子の腕を引いた。      ニノー  人々の立ち去った足音、最後の兆ずれが、聞えなくなった瞬間−邸が、部屋が、急に、しーんとした。  それは、いつも感じたことのない凄さと、不気味さとを含んだ、ちょうど、真暗な、墓穴の中にいるような、凄い静かさであった。七瀬は、肌をぞっとさせ、頭の中へ不吉なことや、恐ろしい空想を、ちらっとさせた。   (何を、似けてー−‘)と、自分を叱って、すぐ聯の前に、よくEいハっている、斉彬の三男、獄之助の眼を、しっと眺めた。  新しい蒲団を三重にして、舶来の緋毛布に包まれて、熱の下らない、艶々と、紅く光る頬をした四歳になる寛之助は、隨毛も動かさないで、眠入っている。七瀬が耳を寄せると、少し聞いたロから、柔かな、穏かな呼吸が聞えた。(この分なら−−−)と、微笑して、身体を引くと、また、あまりの静かさが気にかかった。その静かさに、それから自分の臆病さに、反抗するように、わ ざと灯の影の暗い天井を仰いだ、暗い、高い天井を、しっと視つめていると、しりっと、下がって来るように感したが、睨むと、なんでもなかったし、屏風の蔭から、誰かが顔を出しそうなので、じっと眺めていたが、何も出て来なかった。  (なぜ、今夜にかぎって、こんなことが気にかかるのか? 大事な役を勤めておりながら、なんという臆病な1)  と自分を励ましたがIIそう思う次の瞬間に、後方の襖の中から、鬼のような、化物のような 奴がこっちを見ているような気がした。  左右の次の間には、糾ドと、侍女と、宿直の人々とがいたが、物音も、話声もしなかった。  寛之助の母の邦彫は、寛之助か安眠したのと、斉彬がまだ起きているので、その部屋の方へ行った。英姫が、去ると、蘭方医の寺島宗英も、漢方医の延樹方庵も、控えの間に退ってしまった。そして、徹夜をして詰めていた侍女が交代に出て、近侍も、七瀬に頼んで休憩に下がるし11それらの人々は、次の開か、遠くないところにいるにちがいないのだが、物音一つしない静かさで、七願一人が灯影のゆらぐ下に坐っていた。  長男の菊三郎は、生れて一か月日に死んだので、誰も気がつかなかったが、澄姫と、邦姫の二人は、三歳と、四歳になって、原因不明の病で死んだから、人々の記憶には、+分残っていた。  この二人の死ぬ前の症状と、寛之助の近ごろとが、よく似ているのであった。時々、熱を出して、よく肘えて1この十日ほど前から眠人っていても、出し抜けに泣いたり、眼の中いっぱいに、恐怖の色をみせて、小さい掌に汗を出していたり、 「怖いっ」 と、泣いて、飛び起きたりーjそれは、前の二人の時も医者が、 「御弱い上に、焦が高いと、恐ろしい夢をよく見まナ」 と、いったが、斉彬の近侍の二、三は、’ 「しかしーー」 と、いって、うつむいて、何か考えていた。七瀬は、その人々の言葉を思い出して、  「調伏?’−−」 と、ちらっと、考えた時、ぴーんと、木の裂ける音が、七瀬の心臓を、どきんとさせた。     ニノニ                         −   七瀬は、裁許掛見習、仙波ハ郎太の妻であった。そして斉彬の正室、英姫の侍女でもあった。誠実で聡明で、沈着であったから、寛之肋の病の、悪化してくるとともに、その看護を仰せつけられたのであった。  「どうも甲卸しい、何か、悪い企みがあるのではないか」  と、いう疑いが、まず、お目付兼物頭、名越左派太から起こされた。澄姫が、亡くなった時にも、熱がつづいて、医者は、首を振るだけで、  「さあーーー」  と、臆病そうな目を上げるだけであったが、今度も、病状がわからなかった。澄姫は、死ぬ少 し前から、小さい、fせた手を、出し抜けに、蒲団の中から出して、誰かに尉りを求めながら、  「怖いっ、怖いっ」  と、絶叫した。身体が、がたがた頗えて、瞳孔が大きく据わってしまって、いしらしいほど、恐怖の怯えを眼にたたえながら、侍女へ抱きついて、顔を、その懐へ差し込んだ。  「夢でございますよー—何も、おりませぬ」  と、侍女は、怯えている澄姫を、正気にしようとしたが、澄姫は、がくがく轍えて、しがみついたままであった。  英姫は、あまり、いしらしいので、自分が夜を徹して、澄姫の枕許にいたが、澄姫は、だんだん、夜になるだけにでも、聯れだしてきた。昼間の、陽の明るいおり、  「寝てから、何を、見るの?」  と、間くと、それだけでさえ、もう、顔色を変えて、゛  「鬼−1」  と、答えると、それ以上のことは、怖ろしくて説明もできないようであった。そして、だんだん衰弱して行った。  左源太は、その澄姫の死を想い出すと、可愛盛りの寛之助を捨てておけなかった。もう一度、あの恐怖に怯えさせるか、,と思うと、斉彬の冷淡さに、腹が立ってきた。   「寛之助様は、はかばかしゅうござりませぬが」  と、いうと、斉彬は、ホンフランドの「ヨ荊庁㈲」を、読みながら、  「あれは、、生来弱い」  「しかし、御病状が、異様でござりまナ」  「病気のことは、医者に任せておけ」  「医者の手でおよばぬー」  「なら、天命だ」  左源太は、それ以上、斉彬に言えなかったから、英姫に、  「よもやとは思いまするが、側のあること。油断せぬに、しくはござりませぬ。典医、侍女の方は、某が、見張りますから、夜詰の人に、政岡ごとき女を−−‐」  と、すすめて、そして、七瀬が、選ばれることになったのであった。病闇夜詰と、きまった時、仙波ハ郎太は、  「寛之助様は御世継ぎじやで、もしものことが、おありなされたら、ここの敷居を絡げると思うな」  と、言い渡した。小身者の仙波として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世ら防砂つかんだことになるし、他人に代った験がなかったなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかった。  「心して、勤めまナる」  と、答えて来たが、夜の詰をして三日日の今夜は、いつになく、気が岸ルって、どうしたのか、怯け心が出て来た。  灯が、暗いようなので、以を切ろうと、しっと、灯を見つめながら、手を延ばそうとすると、部屋中が急に薄暗くなって、天井が、壁が、畳が、襖が、目方上下から、自分を包みに来るように感した。      ニノ三  七瀬は、脚下から寒さに襲われた。はっとして、手を引くと、心を落ちつけようと、努力しながら、四方を見廻した。  床の間には、重豪の編輯した「成形図説」の入った、大きい木の函があったし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には、呼遠筒が、薄く光っていた。  誰かを呼びたい、ような気もしたが、自分の気の迷いで人を呼ぶのも恥ずかしかったから、心切りを持ち直して、燭台を見ると、前よりも蒋暗いようであった。蝋燭の灯が、妙に黄ばんでいて、部屋の中が、乳白色の、霧のようなもので、満たされているようであった。   (松子はーー)と、寛之助を見ると、よく眠入っているし、その愛らしい胆ゼさえ、はっきりとわかったから、安心して、部屋の異状を、見定めようとすると、その乳白色の空気が、薄暗い屏風の背後へ、流れ込むように動いていた。  七瀬は、排卵になって、息をつめて、膝を握りながら、自分の恐怖心にまけまいと、それを、じっと眺めていると、霧の固まりが屏風の背後で、ぐるぐる廻りだしたように見えた。そして、屏風が、はっきりと眼に見えていながら、屏風の後方が、屏風を恋して見えているように思えた。   (夢かしら?−−‐夢ではない)と、思った瞬間‐−部屋の中が、急に、四方から紀められたように感しられてきて、畳が、四方の隅から、しりしりと、押し上ってくるように思えた。  七瀬の手は、いつの間にか、守り刀の袋へかかっていた。眼は恐怖に輝きながら、廻転している霧を、睨みつけていると、霧が気味悪い、青紫色にぎらぎらと光るようにも見えたし、光ったのは眼の迷いであるようなーそして、自分の眼が、どうかしていると、しっと、眺めると、その霧の中に凄い眼が、それは、人間の眼であったが、悪魔の光を放っている眼であった。   「あっ」  と、叫んだが、声が出なかった。   (これが、寛之助様にーーー)と、思ったが、手も、足も、封糾も、働かなかった。急に、青紫色の光が、急速度で、廻転するとともに、その光る眼の周囲に、人の顔らしいものが現れたように感した。痩せた、鋭い顔であった。  七瀬は、働かぬ手を、全身の力で動かそうとしながら、一念を込めて、   (こいつを、退散させたら___\と、全精神力を込めて、睨みつけた瞬間、寛之助か、   「ああっ」  と、叫んで、両手を、蒲団から突き出ナと、飢えたまま、左右へ振って、   「こわいっーー!」  七瀬が、その声に、寛之助を眺めて、はっと胸を押えると、部屋は、前のように明るく、その灯の下で、寛之助か、汗をにじませて、恐怖に眼をいっぱいに間いているだけであった。   「和子様っ」  と、上から、抱くと、寛之助は、身体を、がたがた鯛わせて、しっかりと抱きついた。七瀬の頬に触れた寛之助の額は、ただの熱でなく、熱かった。  長いようでもあったし、短いようでもあった。ほんの瞬間、疲れから、夢を見たような気もしたし、本当に、奇怪なことが起こったようにも思えたしーーー一七瀬には、判断がつかなかった。ただ、鋭い眼だけは、頭の隅に閃めいていた。      ニノ四  侍女が、つつましく、襖を開けるのさえ、もどかしかった。顔が見えると、すぐ、   「方庵を−」  侍女は、立って入ろうとした。   「方庵を、早く−」  侍女は、七瀬の声と、顔が、ただでないのを見て、襖を閉め残したまま、小走りに行った。  寛之肋は、熱い額を、頬を、七瀬の肌へ押しつけて、しがみついていた。寝かせようと、下ヘ置こうとすると、咽喉の奥から叫んで、置かれまいとした。   「七瀬がおります。七瀬がおります」  背を軽く叩いて、頻える寛之助を、安心させようとしながら、七順は、眼の底、頭の隅に残っている今の幻像が、誰かに似ていると考えた。だが、似ているその誰かが思い出せなかった。  抱き上げていて、Wがをひかしてはならぬと思ったので、寛之肋がしがみついているまま、寝床の中へうつ伏せになって、毛布でくるんだ。   (あの物の怪に、おそわれなさるのかしら)  と、考えたが、そんなことが、あるはずでなかったし、自分の心の迷いから、幻に見たことを、f胆に、人には話すこともできなかった。しかし、心の迷いにしては、あまりに県尉と、幻の顔が残りすぎていた。  微かに、足音がつづいて襖が開いた。方庵と、左源太と奥小姓野村伝之丞とが、入って来た。三人とも、七瀬が、寛之助の熟を出させたように、睨みつけて、枕辺に坐ると、  「何かに、おびえなされまして、急に、お目ざめになるとこのお熱でーーー」  方庵が、額へ手を当てた。  七瀬が、身を引こうとすると、  「こわいっ、いやっー−ー」  寛之助か、珍しく、身体を陪えて、小さい私かふるわせつつ、七瀬の撒をつかんだ。  「左源太が、ぶった断ってやりましょう。左源太は、鬼でも他社でも、ぶった断りまナぞ、若」 寛之助は、顔を埋めたまま、いやいやをした。  「よほど、おびえていなさる」 と、伝之丞が呟いた。 「方庵、漑齢様の時と、同しであろうが−」   「うむ、気から出る熱らしいがー」  方庵は、寛之助の脈を取って、   「宗英も、わからんといいおったがー−」   「七瀬−なんぞ、異状なかったか?」  七瀬は、黙って左派太を見た。異変すぎた異変を見たが、それを見たといっていいか−本当に見たのか、夢を見たのか? それさえ明瞭しないことをいいもできなかった。   「異状は、ござりませぬが−—」  と、いった時、さっき見た幻の顔が、島津家兵道の秘法を司っている牧仲太郎に似ているように思えた。ただ、牧は、もっと若かった。   (調伏−Iもしかしたなら)  七瀬は、こう感じると、冷たい手で、身体を恣砂でされたように、肌を寒くした。   「若、何を御覧なされますな。左派太が、追っ払ってくれましょう。どっちから?−−−あっちから?」  と、寛之助の顔をのぞき込むと、左源太の推さしている方を、ちらっと見てうなずいた。左源太の指は、屏風の方を推していた。七瀬は、もう一度、頭の心から冷たくなってしまった。      三ノー   「頼むえ」  お炉影が、こういって、一間へ入ってしまうと、手をついていた侍女たちが、頭を上げて、二人が、襖のところへ、三人が、廊下の人ロヘ、ぴたりと坐った。そして懐剣の紐を解いた。  お由羅が人ると、青い衣をつけた、三十余りの侍が、部屋の隅から、御辞儀をして、   「用意、ととのうております」  部屋の真中に、六、七尺幅の、三角形の護摩壇が設けられてあった。壇上三門と称されている、その隅々に香炉が置かれ、茅草を布いた坐るところの右に百八本の護摩木—−油浸しにした乳木と、段木とが置かれてあった。  お出羅が、壇の前へ蹄いて、しばらく合掌してから立ち上ると、その男が、里−い衣を、背後から着せた。お由羅は、壇上へ上って、辨別坐と呼ばれている坐り方—左足の大損を右足の大把の上へ重ねる坐り方をして、炉の中へ、乳木と段木とを、積み重ねた。そして、左手に金剛杵を持ち、首へ影聡をかけてから、炉の中の灰を、右手の損で、額へ塗りつけた。  侍は、付本から、護原木へ、火を移すと、お出羅は、白芥子と塩とを混じたものを、その上ヘふりかけた。小さくはぜる音がした。火花がとんで、ナぐ燃え上った。  持は、一礼して退くと、崇繩と、阜とをもって、お山羅の坐っている壇の下、後方へ、同じように損を重ねて坐った。そして、低い声で、   とうほうあしゆくによらい こんごうふんどそん  「東方阿東如来、金剛忿怒尊、魏々、悪神を擢滅す。願わくは、を、虚空界に充満せしめたまえ」 と、祈りだした。 封祈対示瞰郷緋酎沢訟剛猷ヽ刎昿糾ピヽポ虻ドゼしてヽmが凱ぐ聡ヤ影鍬汐ギ邪悪心ヽ邪悪人を獣灰してヽ附町の学が ’d みfー‘7口勺 きとう                                      きんしようかろ寛之肋の病平癒の祈祷をするといって、この護摩壇を設けたのであったが、三角の釣召火炉は 調伏の護摩壇であった。今、祈った仏は、 呪岨の仏であった。 壇上の晶々−ー人髪ヽ人骨ヽ人血ヽ蛇肺肝、鼠の毛、祠の糞、冲川添、牛の血、丁子、白檀、 tV *n*r>tjf\くr,  :... ミ                   いけにえ 蘇合香、毒薬などというものは、入を呪い殺すために、火に投じる生犠の形であった。  黒煙が、薄く立ち昇ると、お肉羅は、次々に護摩木を投げ入れ、塩をふりかけ、水をそそいだ。煙は、漂々として、生物のように、天井へ突撃し、柱、襖を這い上って、渦巻きをおろしてくると、炉の中の火が、燃え上って、部屋の中が、明るくなった。‘  お肉羅は、しばらく眼を閉して、何か念じていたが、  「南無、金剛忿怒尊、御尊体より、青光を発して、寛之助の命をちぢめたまえ」  と、早口に、低くーーだが、力強くいってい  「相は?」  と、叫んだ。と同時に、侍が、   「蛇頭形」と叫んだ。火炉の中の火焔は、蛇の頭の形をしていた。枡形、矩形と焔の形によって判断するのが、調伏法の一つであった。 い’ワよらノに、  お肉羅は、また、眼を閉して、護摩木を投げ入れ、毒薬と丁子をそそぎかけス   「色は?」  と、叫んだ。   「黒赤色」  赤黒い、凄さを含んだ火焔が、ぱっと立っていた。   「声は?」   「悪声」  それは焔の音を判しるのであった。      三ノニ  煙と、悪臭とが、部屋の中で、渦巻いた。お肉羅は右手で、蛇の皮を、犬の胆を、人の骨を、炉の中へ投げ入れて、その度に、   「相は?」   「声は?」  とか−−火焔の頂の放散で欲し、音で判し、色で判し、匂いで判して、調伏が成就するか、しないか−−額は脂汗が洽み出していたし、眼は異常に閃めいていた。手も、体も、ふるえて、いつもの、計い女の声が、狂人のように、町耐くなっていた。  焔を、見つめていた持が、お肉羅の、願を眺めて、立ち上って、紫織を、壇上へ置いて、刀を持ち庶して、お肉羅の右手へ廻った。そして、何か、ロの中で呟いて、お由雄の手をとると、お由雄は、半分失神し、半分狂喜しているような、凄い限を閉して、右手を侍の方へ突き出した。  浅黒い、だが、張り切った、艶々した腕が二の腕までまくり上げられると、侍の手に引かれて、火焔の上の方へ、近づいた。   「南無赤身大力明王、稿跡忿怒明王、この大願を成就したまえ」  持は、こう叫ぶと、刀の尖を手首のところへ当てて、白く浮いている静脈を、すっと切った。血が、湧き上って来て、見る見る火の中へ、点々と落ちた。  二人は、そのままの形で、俯向いて、何か念しると、だんだん、お肉雄が、首を下げてきて、左手に金剛杵をもったまま、壇上へ、片手をついてしまった。その瞬間、侍は疵口を押えて、火の中へ倒れかかろうとするお由羅を、後方へ押し戻した。   「大願成就、大願成就」  と、いいながら、お出羅の両手を胸のところへ集めて、抱きかかえながら、   「お方」               、  背を押して、叫んだ。お肉雄は、眼を開けて、自分で手首を押えて、軽く、お辞儀をした。持は、布を出して、膏薬を貼った上から、縛った。お出雄はしびれた、痛む腕を、這うようにして、壇から降りて、   「火が、みんな、左へ廻りましたの」  と、微笑した。   「吉相にござります、焙頂、左に破散して、悪声を発す。今夜の内に、成就致しましょうか」  「牧は、今夜あたり、お国のどの辺で、祈っておりましょうか」  侍は、壇の下から、護摩木を取り出して、積みながら、  「烏帽子岳か−−黒園山あたりで、ござりましょう」  侍は、兵道家牧仲太郎の高弟で、与田兵助という人であった。  お由羅が、汗を拭いて、壇の下へ坐ると、兵助か燃え尽そうとしている護摩本の中へ、新しい木を、一本一本、押しいただいて、載せて行った。煙と、焙とがまた、勢いよく立ちかけた。 兵助は、気味の悪い、鈍い眼をした牛の頭を、両手で、静かに、火炉の中へ置いた。ナぐ、毛』‘!   ゛       におい                            ‘‐に      φ41 一一j  l の焼ける、たまらない臭が、部屋中へ充ちた。兵助け、口の中で、何か唱えながら、白檀と合香とを、牛頭の上から、撒きちらした。  右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにしんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら、  「南無金剛忿怒尊」と、叫んで、右の眼を突いた。白い液が、少し流れ出てきた。兵助は、左の眼も突き剌した。    四ノー 「お待ちに、ござりまするが」 三度目の使が、襖外で、おそるおそる声をかけた。斉彬は  「今—−」  と、いったまま、か所の大机に氾れて、書き物をしていた。そして、筆を走らせながら、   「今行く」  と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。  寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、むろん行かねばならなかったが、今書いている [大船禁造解」と「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早くできあがれば、一目だけ、目本に利益と、幸福とを壹らしてくるものであった。  斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁しるというような愚令を、早く撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同し船を作るよりほかに、最初の手がかりは無いはずであった。  幕府も、それを知っておりながら、反対論に㈲えたり、繁雑な手続きを長々と調べたり11斉彬は、そういう役人、大名、輿論に対して、ただ一人、この部屋で、こうして闘っていた。ふっと、寛之助のことを思い出しても、自分の子の病、死などは、窓外をかすめる風音ぐらいにしか慈しなかった。   (医者が十分に手当をしてくれている。自分がいたとて、おらぬものは癒らぬ)と、呼びに来 られると、考えた。   (自分が行かないために、よし、寛之助か死んだとしても、この草案のために、あの子が犠牲になったとしたら、こんな光栄な死はない)と、いうような理屈まで考えた。だが、立ち上った。襖を開けると、近侍が、廊下に手をついて待っていた。   「もう、死んだか」   「いいえ、御重体のよしでござります」  斉彬は、愛児の見舞に急ぐよりも、早く見舞って早くここへ戻らんがために、大股に、早足に、廊下を急いだ。   「お渡リーーー」  と、いっている声が聞こえた。侍女だの、医者だのが、出迎えに来た。  病室へ入ると、誰の顔にも不安さと、涙とがあった。美姫の眼は、泣きはれて、おいようになっていたし、七瀬の髪は乱れて、眼が血走っていた。斉彬は、寛之肋の枕頭へ坐って、じっと、病児の顔を眺めた。  寛之助は、眼に見えぬ敵と、どんなに戦ったのだろう? 三日見ない間に、頬の艶はなくなっ て、痩せてしまっていた。罪の無い、無邪気な幼児が、およばないところで、泣きながら、苦しめられながら、ナると、斉彬は、  「若」 たった一人で、乳母の力も、医者の力も、怯えながら、死と悪闘している姿を想像  と、叫んで、涙ぐんだ。血管が青く透いて見える手。せわしく呼吸に喘いでいる落ちくぼんだ胸。愛と、聡明とで黒曜石のごとく輝いていた眼は、死に濁されて、どんよりと、細く白眼を見開いているだけであった。  「回復の望みは1」  「はっ」  と、いって、三人の医者は、頭を下げたままで、なんとも答えなかった。見ない前の心強さか、寛之助のいじらしい姿に、打ちくしかれて、斉彬は、幾度自分の名を呼び、自分を見たく思ったかと思うと、熱い悲しさの珠のようなものが、胸から、頭の中までこみあげて来た。      四ノニ  「痩せたのう」  と、いって、斉彬は、意識のない寛之助の手を握った。掌へ感したのは、熱と骨とだけであった。英姫は、それを見ると、袖をロヘ当てて泣き入った。   (せめてーーーせめて正気のある間に、そうしてやって下さったら)  三目前英姫の懐の中で、熱っぽいだるそうな目をしながら、   「お父は?」  と、聞いた時、幼児は、それが父に逢う最後だと感じていたにちがいなかった。   「見たいか」  と、聞くと、はっきりと、強く、   「お父は?」  と、いって、訟いた。英姫は、すぐ、侍女に斉彬を迎いにやったが、今行く、今行くと、とうとう斉彬の来ぬうちに、また熱の中に倒れてしまったのであった。   (どんなに、顔を見たかっただろうか)  寛之助か、灰色の広々とした中を、ただ一人でとぼとぼと、影もなく、父を恋い、母を求めて歩いて行く姿が考えだされてきた。英姫は、袖を㈹んで泣き入った。   「寛之助−‐−父じゃ」  と、斉彬が叫んだ。だが、幼児の眼は、もう動きもしなかった。   「方庵」   「はっ」   「澄も、邦も、同し容体で、死んだのう」   「はい」   「まだ匙が届かぬか」  やさしいが、鋭い言葉であった。斉彬のいうのは当然であったが、方庵ぬ病であった。  「七瀬、疲れたであろう」  「いいえ」 には、どうしても印せ  「病は、薬よりも、看護しゃ。こういう幼死には、よけいにそうしゃでー」  七瀬は斉彬の程めてくれる言葉を、責められているように聞いた。寛之助の死は、斉彬にとって、後嗣を失う大事であるとともに、七瀬にとっても、仙波の家を去らなければならぬ大事であった。夫の肩身を狭くし、自分を不幸にさせーーと、思った時、  「ひIっ」  と、寛之助か叫ぶと、斉彬に握られている手も身体も、力の無い脚も、ぬほどの力で突き上げ、顛わせた。唇は攻撃して、眼は大きく剥き出し、 一度に、病児とは思え瞳孔を釣り上げてしま って、恐怖と、その苦痛とで、半分気を失っているような表情であった。  「寛之助っ」  斉彬は、不意に、力いっぱいに振り切ろうとした寛之助の痩せ細った手を握りしめて、がたがた額えている子供の身体を、片手で軽く抑えながら、  「父じゃ—−見てみい、父じゃ」  と、顔を、幼児の眼の上へ押しつけた。  「見えんかー寛之助っ、父しゃ」  斉彬の声は、沈黙している部屋中へ響いた。涙声であった。   「七瀬1ーーおそわれるとーーいつもこうか?」   「はい」  寛之助の唇は、わくわくと開いたり、閉したり、身体は烈しくふるえているし、眼は白眼が多 くなって、しだいに細く閉しられてきた。  「まだ脈はあるがー」  斉彬は、医者の方を見て、  「何か手当の法が無いものか」‐  と、口早に聞いた。  「助かるものなら−−」 と、低く、呟いて、七瀬の眼を見た斉彬の肌ぞには、涙が滋れるように湧き上って来ていた。 手首に怨む      一ノー  「噂をすれば、影とやら−I」  一人がこういって、隣りの男の耳を引っ張った。  「何をしやがる」  「通るぜ、師匠が」  お由羅の生家、江戸の三日四国町、大工藤左衛門の家の表の仕事場であった。広い板敷の上で、五、六人の男が、無駄話をしていた。   「師匠」  剽帆がかゼ樹は、湯道具を抱えて、通りながら、声と一緒に、笑顔を向けて、   「おやっーー」  と立ち丑まって、、   「お帰んなさいまし」  と、ダ聡かに対訳をした。小蔭次とはお肉羅の兄で、妹が、斉興の妾となって、久光を生んでから、さらに取り立てられて、岡田小藩次利武と、名乗っているのであった。  小蔭次は、封じ、聯肘も、奥へ捨てたまま、昔のように大あぐらで、   「入ったらー’ー」   「おめかしをして」  富上客は、帽をなげて、素足の匂いを残して行った。  「いい女だのう。第一に、鼻筋が蛙みたいに背やから通ってらあ」  「兄貴を、じっと見た眼はどうだ、おめかしをしてーーー1」  「おうおう、誰の仮声だ」  「師匠のよう」  「笑わせやがらあ、そんなのは、類似といってなーー」  「鳴く声、鶴に似たりけりって奴だ」  「俺ら、あの口元が好きだ。きりりと締まってよ」   「その代り、裾の方が開けっ放しだ。しかもよ、御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗ってさ」   「御倹約といやあ、今に、清元常磐津習うべからずってことになるてえぜ」   「そうなりや、しめたものだぜ。師匠上ったりで、いよいよ裾をひろげらあ」  と、いった時、疹影飢に音がして、一人の若い衆が、ア訟を飛ばした。片足をあげて、ちんちんもがもがしながら、大きい声で、  「とっ、とっとーー猫、転んで、にゃんと鳴く、師匠が転べば、金になるー−’」  板の間で、それを見た一人が、  「庄公、来やあがった」  と、おいた。庄吉は、人ろうとして、小蔭次に気がつくと、   「お帰んなさいまし」  と、丁寧に、上りロヘ手をついた。  「上れ」  「今、酒買うところだ」  「ちょうど、師匠の帰りに、酌ってことになるのか」  小蔭次が、   「庄、どうだ、景気は?」   「へへっ、頭は木櫛ばかり、懐中は、びた銭、御侠釣合で拘撰は、上ったりでさあ」  「押込なんぞしたら」  「押込?I押込は、若旦那、泥棒でさあ。晶の悪い。狗撰は職人だけどI−‐」  「はははは、そうかー−庄吉、いい腕だそうだが、武士のものを拘ったことがあるか」  「御武家にゃあ、金目のものが少くってね」  「どうだ、一両、はずむが、鮮やかなところを見せてくれんか?」  小藤次が、こういって、往来を見た時、一人の若竹が、本を読みながら、通りすぎようとしていた。  「あいつの印龍は?」  「朝飯前、一両ただ貰いですかな」  庄吉は、微笑して腰を上げた。 出て行こうとする庄吉へ、一人が、 「へまやると、これだぞ」と、前頭を叩いた。庄古が、振向いて、自分の腕を眼いた。 一ノニ  若い侍は、仙波ハ郎太の倅、小太郎で、読んでいる、書物は、斉彬から借りた、小関三英訳の 「那波烈翁伝」であった。  父の八郎太が、裁許掛見習として、斉彬の近くへ出るのと、斉彬の若者好きとから、小太郎は無役の御目見得以下ではあったが、時々、斉彬に、拝謁することができた。  斉彬は、時々、そうした若者を集めては、天下の形勢、万国の事情を説いて、新知識の本を貸し与えた。「那波烈翁伝」は、こうした一冊であった。  近ごろ、流行りかけてきた長い日の刀を差して、木綿の紺袴に、絣を着た小太郎を見て、庄古  (拘り栄えのしない)と、思った。庄古の狙った印龍は、小太郎の体に軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵一つさえない安物であった。   (仲間の奴が見たら、笑うだろう)と、そうした安物を拘る自分へ、嘲ってみた。   (しかし、一両になりやあ−)  庄古の冴えた腕は、拘ろうとする品物を生物にした。庄古が、腕を延ばすと、その品物の方から、庄古の掌の中へ飛び込んで来るのが、常であった。そして、今の仕事は釘秤な総見右手の掌の中へ隠して、紐を指先で切ると同時に、掌へ、印能を落すという、拘撰の第一課であった。  庄古は、ぐんぐん近づいて行って、鋏を指の問へ入れた。ニ尺、三尺−近づいて、鋏を動かナとーほんの紙一重の差であろう、鋏は、空を挾んで−−庄古は、   (侮っちやいけねえ)  と、感した。そして、次の瞬間、もう一度、鋏を突き出して、指を動かすと、紐は、指先へ微かに感しるくらいの、もろさで、切れて、印龍は、嬉しそうに、庄古の手の中へ落ち込んだ。庄古は、満足した。 だが、それは、ほんの瞬間だけのことであった。庄吉の身体が侍から一尺と離れぬ内に、侍が 振り向いた。険しい眼が、庄吉の眼と正面から衝突した。侍が、立ち止まった。  庄古は、それでも、腕に自信があった。拘ったとわかって、振り返ったのでなく、自分があまり、近づきすぎたのを怪しんで、振り返ったのだと思った。  だが、それも、ほんの瞬間だけにすぎなかった。庄吉の引こうとした手が、侍の手で、しっかり握りしめられてしまった。、 (ちぇっ) とヽ心の中でヽ舌打ちをしてヽ封かい侍から聯距されたように感してヽぃ俯けが湧いてきた・   (小僧のくせに、味な炉伊をーー)  と、田乙た。そして、手を握られたまま、小太郎の眼と、しっと睨み合っていた。振り切って、横っ面を、一つなぐって、逃げてやろう、と思った。だが、右手を十分に取られていて、勝手が悪かったので、 「すみません」 と、油断させておいて−・とも、思ったが、こんな小僧に、詫びるのも癩であった。 「どうするんでえ」 庄古は、睨みつけた。小太郎は、微笑した。そして、左手の書物を、静かに、懐へ入れて、「さあ、どう致そうかの」と、答えた。       }ノ三  庄古も、微笑した。   「江戸は物騒だから、気をつけな」   「不埓者っ」  小太郎の順に、さっと、血が勣いた。   「何?」  力任せに引く手首を、ぐっと、内へ折り曲げるとともに、庄吉の手首から、頭の中まで、血の管、筋骨を、一時に引きちぎられるような痛みが走った。   (手首が折れる)と、嬉し、   (商売が、できなくなる)と、頭へ閃めいた刹那、庄吉は、若僧の小太郎に、恐ろしさを覚え、肘け心を感じたが、その瞬間−ぽんと、鈍い、低い音がして、庄吉の順が、節分位に変じた。眉が、唇が、むんだ。  往来の人が、立ち止まって、二人を眺めていた。庄吉は、自分の住居に近いだけに、自分の仕事を人に見られたくなかったし、弱味を示したくもなかった。  しびれるような痛む手に、左手を添えて、懐へ、素早く入れた。そして、一足退っ凪   「折ったなっ」   「江戸は物騒だ。気をつけい」  小太郎が、嘲笑して、   「印寵は、くれてやる」  庄吉は、げげしさに逆上した。左手を、小太郎の頬へ叩きつけようとした時、何かが、胸へ当ってよろめいた。踏み止まろうと、手を振って、足へ力を入れた耕作、足へ、大きい、強い力が、ぶっつかってI青空が、広々と見えると、背中を、大地へぶちつけていた。手首の痛みが、全身へ響いて、庄吉は、歯をくいしばって、しばらく、勤こうにも、動けなかった。   (取り乱しちゃ、笑われる)  ちらちらと、富士春の顔が、閃めいた。   「野郎っI殺せっ」  そうとでも、怒鳴るよりほかに、しかたがなかった。足で、思いきり献った。起き上ろうとすると、手首が刺すように痛んだ。   「殺せっ」  庄古は、首を振った。小太郎の後姿が、三、四間先に見えた。   「待てっ」  左手をついて、起き上ろうとして、尻餅をついたが、ナぐ、飛び起きて、   「やいっ」  走りだした。背中も咎も、土常にまみれて、顔色が蒼白に変り、唇が紫色で、眼が凄く、血走っていた。小太郎が、振り向いて、   「用か」  庄吉は、小太郎の三、四尺前で、睨みつけたまま立ち止まった。   コ冗のとおりにしろっ。手前なんぞに、なめられて、このまま引っ込めるけえ。元どおりにするか、殺ナか、このままじゃあ、動かれねえんだ−おいっ、折るなら、首根っ子の骨を折ってくれ」  庄古は、しりしり近づいた。手首がやけつくように、痛んだ。   (早く手当ナりゃ、癒らぬこともあるまい)  と、思ったりしたが、意地として、後へ引かなかった。印龍一つと、かけ代えに、商売道具を台なしにされたと思うと、怨みと怒りで、いっぱいになってきた。   「返事をしろ、返事をっ」  小太郎は、黙って、歩きだした。かっとなった庄吉は、‘   「うぬっ」  小太郎の咎を、左手で、引っ掴もうと、躍りかかった。刹那、小太郎の怖が沈んだ。延びた左手を引かれて腰を蹴られると、たたっとのめり出ると、膝をついてしまった。      一ノ四   「大変だーー若旦那」  表に立って、庄古の仕事振りを見ようとしていた若い者が、叫んだ。   「どうした?」   「やり損ってーーあっ、突き倒されたっ」  二、三人が、祀足のまま、土間へ飛び降りて、往来へ出た。往来の人が、皆、庄吉の方を眺めていた。   「喧嘩だっ」   「やられやがった」  口々に叫ぶと、走りだした。残っていた若者と一緒に、小峰次が、往来へ出ると、庄吉が、起き上ろうとしているところであった。侍は、早足に、歩いて行った。  「生なっ」  小藤次が、呟いて、走りかけた。一人が、後方から、  「刀っ」  小峰次が、振り向いて、   「早く、持って来いっ」  とヽ手を出した・二人がヽ泥足のままヽ奥へ走り込んだ・若い者はヽ。m「影ヽ棒を持ってヽ走りだした。近所の若い者が、それについて、回しように走った。  小蔭次は、受け取った刀を差しながら、その後方から走りだした。  「喧嘩だ」  「喧嘩だっ」  叫び声が、往来で、軒下で、家の中でした。犬が吠えて走った。子供が走った。  庄古は、手首の痛みに、言葉も、脚も出なかった。立ち上って、小太郎の後ろ姿を、ぼんやりと眺めていると、  「庄吉っ」  若い者が、前後からのぞき込んでフ  「どうした?」  「拘った」  低い声で、答えて、懐中から、印龍を出した。小海次らが、追いついて来てー   「庄古、どうした」   「えれえことをやりゃあがった。痛えっ」  庄古は、左手の印龍を、一人に渡して、左手を添えて、袖口から折れた右手を、そろそろと出した。手首の色が変って、だらりと、手が下っていた。   「折りやあがったんだ」   「折った?」   一人が叫んで、’   「畜生っ」  その男は、鋸を持って走りだした。   「拘揚が、右手を折られりゃ、獣心の皿を破られたんと、おんなしことさ」  小藩次は、自分の言葉から、一人の名人を台なしにしたことに、責任を感した。   「待ってろ、庄吉」  小藩次が行きかけると、若い者が、走りだした。   「逸まっちやならねえ」  小蔭次はその後方へ、注意して、自分も走りだした。  小太郎は、小半町あまり、行っていたが、走り寄る足音に振り向くと、一人の男が、鋸を構えて、   「待てっ、おいっ」  その後方からも、得物をもった若い者が、走って来ていた。小太郎は、眼を険しくすると、一軒の家の軒下へ走り込んで、身構えした。   「あいつーーなんとかーー」  走りながら、小藩次が呟いて、   「俺んとこの、家中の奴だ。なんとかいった’−‐軽輩だ」  と、自分の横に走っている若者に言った。   「御存しの奴ですかい」  そう答えながら若い者は、小太郎の前で、走りとまった。     、       一ノ五   「小啓次氏」  岡田小藤次は、仙波小太郎の順に見覚えのあるほか、姓も、身分も知らなかったが、小太郎は、お由羅の兄として、家中の、お笑い草として、大工上りの小藤次利武を、+分に知っていた。  小蔭次は、そういって微笑している小太郎の順を睨みつけながら、走って来た息切れと、怒り とで、言葉が出なかった。ただ心の中では(なにを、かかしやあがる)と、叫ん (,・£*にを 肘がし賄あがる)と,叫んでいた。小藩次にとって、士分になったのは、もちろん、得意ではあったが、岡田利武という剋こらしさば、自分でもおかしかった。そして、自分では、おかしかったが、人から、   「利武殿」  とか   「小藤次氏」  とか呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞こえて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から、  「小径次殿」  などと、呼ばれると、  「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」  と、わざと、職人言葉になった。  若い者が、じりしり得物を持って、威嚇しにかかるのを、手で丘めて、’   「手前、誰だ」  ど、小啓次は、十分の落ちつきを見せていった。   「仙波小太郎」   「役は」   「無役」   「無役?」  往来の人々が、職人の後方へ群がってきた。小海次は近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、なんとか、うまく懲らさなくてはならぬように思った。  齢は小啓次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三、四寸も、高かった。蒼ざめた順に、笑を浮べて、診田を切ったまま、小蔭次の眼を、しっと、視つめていたが、   「御用か」   「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」   「いかにもーー」   「いかにもって、いったい、どうするんだ。−人間にゃ、でき心って奴があるんだ。でき心ってーーーつい、ふらふらっと、でき心だ。なあ。それに、手を折ってすむけえ。納得の行くように始末をつけてくれ、始末をーー始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間のでき心ってのは、こんな日和には、ふらふらと起るものだ。それに 手を折るなんて」   「ふらふらっと、でき心じや」  小啓次の顔が、さっと赤くなると、   「何っ」と、叫んだ、職人が、じりっと、一足進み出た。   「でき心だ?−‐−でき心で、人様の手を折って−しやあ、手前、無えな。馬鹿にナるねえ、この野郎、人の手を折っときやあがって、て呆れらあ」  「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りや、元々だ」職人が、飢いて、得物を動かした。 でき心で殺されても文句はでき心だ? でき心が問い 「猫、呆け、河童の屁」と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から聯き込んだ。「退さな」 と、人々の肩を押し分けて、前へ出て来た。人々が振り向いて、男を見て、笑った。      一ノ六 「よう、先生っ」 と、見物の一人が叫んだ。 「南玉、しっかり」 「頼むぜっ」  南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って、   「今日は、若旦那」  と、小蔭次に、挨拶をした。小啓次は振り向いて、南玉の顔を見ると、ちょっとうなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。   「今日は」  小太郎は、.   「やあ」         とうぎゆうしやなんぎよく   こうしやくし と、答えた。挑牛舎南玉という講釈師で、休之助のところへよく出入りしているので、   「喧嘩ですかい、ええ?」 町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満知っていた。  南玉示、こう間いたのに返事もしないで、小啓次が、   「おいっ、どうする気だ」  群衆がどよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄告示、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振り向いて、庄告の顔から、左手に光っている短刀へちらっと、目を閃かして、  「若且那っ、庄吉がーーー」 庄古は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて、「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」  南玉が、両手を突き出して、  「いけねえ」  と、叫んだ。  「庄っ、待てっ」  小蔭次が、あわてて、庄吉の肩を押えた。  「待て、庄公」  同じように、職人が肩をもった。  「手前なんぞの青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ政出しができねえや−若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だからーーー」  庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。  「無理もない、大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなものだからのうー−‐小旦那、どうしてまた、手なんぞ、折りなすったのですい」  南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。  「旋せったら、こいつ」  と、庄吉が叫んで、一人の職人へ泣き顔になりながら、怒鳴った。  「だって、お前、お役人でも来たら」  「来たっていいよ。放せったらー」  庄吉は入叩47しさとヽ小太郎の冷静さに対する怒りからヽ涙をにしませるまでに興奮して来た・二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。  「放せっーt放してくれ、後生だっ」  庄吉は、泣き声で叫んだ。  「話は、俺がつける。庄古」  小蔭次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。  「庄公、落ちついてー−取り乱しちゃ」  「取り乱す? べらぼうめ−−放せったら、こいつ放さねえか」  庄古は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。  「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」  小蔭次が、こういった時、群衆の後方から、大きい声で、  「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」  と、口早に叫んだものがあった。       一ノ七  小太郎も、小藤次も、その声の方へ眼をやった。群衆の肩を、押し分けているのは、益満であった。  小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉をむりやりに押して行く職人の、後方を、益満 へ早足に近づいて、  「いつ?」  と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母も、離別しなければならないのであった。   「今しがた」   「誰から聞いたか?」  二人は、群衆の、二人を見る顔の真中で、しっとお互に胸の中のわかる眼を、見合せた。   「名越殿からーすぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」  益満は、小藩次の顔を睨みつけた。小啓次は乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助か死んだ、という言葉が、小啓次の心を喜ばした。   (妹が、喜ぶだろう)と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうのかも出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が、   「下らぬ人足」  と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。  だが、二人が、群衆の中を分けて行こうとするのへ、   「どうナるんだ」  とあびせかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄古の方を顎で指して、何か言った。  「利武っ」  と、益満が怒鳴った。  「大工の七利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分かあれば、月番まで申し出い。拘撰の後押しをしたり、お妾の尻押しをしたり—それとも押し合うならば、束になってかかってまいれ、材木を削るよりも、手答えがあるぞ」  益満の毒舌は、小藩次の啖呵よりも上手であった。小蔭次は、士言葉で、巧妙な啖呵を切る益 満に驚嘆した。   (おれなんぞ、職人言葉なら、にたせねえのに、相役の後押し、たんに、   「ようよう」 相当、べらべら喋るが、 ござり奉る言葉じゃあ、用件も、満足 妾の尻押しなんぞー—うまいこといやあがる)と、田こった。と  と、南玉が、叫んで、手をたたいた。   「何っ−—もう一度、吠えてみろ」  小藤吹か、睨んだので、南玉は、   「いえ111」  あわてて、益満の方へ、走り寄った。益満は、もう群衆の外へ出て、群衆に、見送られながら、小太郎と、早足に歩きかけていた。   「あら、何奴で」  と、職人が、小蔭次に聞いた。  「あれがー益満って野郎だ。芋侍の中でも、名代のあばれ者で、二十人力ってー」  「若い方も、強そうしや、ござんせんか」  「あいつか」  ニ人が、湯屋の前を通り過ぎようとすると、お肌の中から、鮮やかな女が出て来てノ   「おや、休さん」   「富士春か」   「寄らんせんか」  富士春は、暇を上げて、襟白粉だけであった。小太郎はちらっと見たまま、先へ歩いて行った。益満は、小太郎を追いながら、   「急用があって」と答えた。   「晩方に、ぜひ」と、富士春が、低く叫んで、流し目に益満を見た。       一ノ八          、  小太郎は、自分の歩いていることも、益満のいることも、南玉が、ついて来ることも、忘れていた。   (父は、きっと、家中への手前として、自分の面目として寛之助様が亡くなったとしたら、母を離別ナるだろう。医者の手落ちであっても、御寿命であっても、また、噂のごとく調伏であっ たにしてもー1そして、離別されて、母は、いったい、どうするだろうっ’・—ls—母になんの罪もないのに、ただ家中へ自分の申し訳を立てるだけで、夫と別れ、子と引き放し、一家中を悲嘆の中へ突き落して−’—それが、武士の道だろうか) 南玉は、二人の背後から、沢仏暢の、   君は、高根の白雲か   浮気心の、ちりぢりに   流れ行く手は、北南   昨日は束、今日は西  と、唄っていた。益満が、   「小太」  小太郎が、振り向くと、益満は、微笑して、   「またとない機が来た」  小太郎は、父母のことで、いっぱいだった。   「関ケ原以来八十石が、まだ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥−1薄のろであろうと、頓馬であろうと、家柄がよく、門閥でさえあれば、吾々微禄者はその前で、上下座、頓首せにゃならぬ。郷士の、紙流武士の、土百姓のと、卑まれておるが、器量の点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ。わしは、必ずしも、栄達を望まんが、そういう輩に十分の器量を見せてやりたい。器量を振ってみたい。それにはいい機だ、またとない機だ。この調伏——陰 謀が、どの程度かわからぬが、小さければ、わしは、わしの手で大きくしてもよいと思うし、真実でなければ、わしが真実にしてもよいとさえ思うている。小太」  共演は小太郎の顔を見た。   「うむ」   「何を考えている」   「わしはI’−」  小太郎は、益演の眼を見ながら、   「父は、側の気質しゃで、今度の、お守りのことで、母を離別ナるにきまっている」   「あるいはーー’しからん」  共演が、うなずいた。   「だいぶ、こみ入ってますな」  庸王が、後方から、声をかけて、   「智恵がお入りなれば、上は天文二十八宿より、下は色事四十八手にいたるまで、いとも丁寧親切に御指南を−‐−」   「うるさいっ。貴様、先へ行っていろ」  益満が、振り返って叱った。   「承知」  南玉が、手をあげて、小太郎へ射肌して、早足に行ってしまった。  「わしに、一策がある。母上が、戻られたなら、知らせてくれ」  「一策とは?」  益満は、声を低くして、小太郎に、何か囁いた。小太郎は、幾度もうなずいた。  「これがはずれても、まだ他の手段がある。所詮は、ハ郎太が一手柄立てさえすればよいのではないかー1こういう機—一と手柄や、ニだ手柄—」  益満は、怒っているような口調であった。三田屋敷の門が見えた。      ニノー  ハ郎太は、自分の丹精した庭の牡丹を眺めながら腕組をしていた。  「ただいま」  と、小太郎がいっても、振り向きもしなかった。それは、もう、寛之肋の死を知り、心ならずも、妻を離別しなくてはならぬ人の悲しい態度であった。  母としての七瀬は、三人の子にとって、父ハ郎太よりも親しみが多かった。そして、美姫の侍女としての七瀬は、その射影よりも群を抜いていた。ハ郎太の妻としては、あるいはすぎるくらいの賢夫人であった。それだけに、今度のことの責任は重かった。ハ郎太としては、容赦の無い処分を妻に加えて、自分の正しさを家中へ、示さなくてはならなかった。  「寛之助様のことはーー−」  「聞いた」  ハ郎太は、なお、牡丹を見たままであった。   「母上のことにつきましてーー」   「お前は、文武にいそしんでおればよい」  父は振り向いた。   「髪が乱れてー何かしたのか?」   「抑揚を懲らしてやりました」   「下らぬ真似をするのでない」  ハ郎太は、これだけいうと、また庭の方へしっと眼をやった。小太郎には、父の苦しさが、十分にわかっていた。そして母の苦しさ、悲しさも、わかっていた。   (益満のいったE胎をー−’)と、田こった時、玄関で、   「お母様」  と、姉娘綱手の声−すぐ、つづいて妹深雪の、笑い声がした。ハ郎太は、眉一つ動かさなかった。小太郎は、すぐ起こるにちがいのない、夫婦、母子の生別れの場面を想像して、心臓を、しめつけられるように痛ませた。   小手を、かざして   御陣原見れば   武蔵鐙に、白手綱   鳥毛の御槍に、黒緬い                            −’  微微ヽか射でヽ射鮒 益満の家から、益満の声で、益満の斗射緻で、朗らかな唄が聞こえてきた。  お馬撒えにヽ旅客{   桜にとめたか、繋ぎ馬   別れまいとの、印かや   ええ、それ   流れ螺には、押太鼓   陣鐘たたいて、問の声   さっても、殿御の武考証は   黄金の鍬形、白銀小実ll  ハ郎太も、小太郎も、黙って、その唄を聞いていた。何をいっていいか、わからなかった。罪もなく、尽すべきことを尽して、そして、離別されに戻って来た妻の顔が、今ナぐに見えるのかと思うと、いらいらした怒りに似たものと、とりとめのない悲しいものとが、胸いっぱいになってきた。  つつましい足音が聞こえてきた。影夕闇いた。小太郎は、母だと思ったか、顔を見るのさえ辛かった。振り向いて、眼をからしながら、   「お帰りなされませ」と、いった。   「ただいま’ーj‐」  そういった七瀬の声は、小太郎が考えていたよりも、晴々としていた。小太郎は、うれしかった。      ニノニ   (医者が、侍臣が十分に、手を尽しても、助からぬのだから、なにも、妻の手落ちばかりというのではないがー重役の方々のお眼鏡に叶って、御乳母役に取り立てられたのに、その若君がおなくなり遊ばされた以上は、のめのめ夫婦撒って、勤めに上ることもでさん。妻の不行届を副重役に詫び、わしの心事を明かにするためには、とにかく当分の離別のほかに方法がない。そのうちに、誰かが、仲へ入ってくれるであろうがーー)  ハ郎太は、その面目上から、立場から、妻の責任を、こうして負うよりほかになかった。振り返って七瀬を見ると、七瀬は眼を赤くして、げっそりとやつれていた。眼の色も、乾いて、悪くなっていた。  ハ郎太は、慰めてやりたかった。可哀そうだ、とも思った。こいつの性質として、+分に努力はしただろうと思った。だが、もし、寛之助の病がよくなったのだとしたら、自分は、どんなに肩身が広く、出世ができるか? と思うと、なんだか、七瀬の背負っている巡が、曲っているようで、不快でもあった。  七瀬は、部屋の中へ入って後ろ手に襖を閉めた。そして、   「お詫びの申し上げようもござりません」  両手をついて、頭を下げた。   「しかたがない」  ハ郎太は、低く、短くこういったきりであった。   「ただ一つ、不思議なことがござりまして、それを申し上げたく、とり急いで、戻ってまいりました」  小太郎は、ほっとした。何か、母が、証拠でも握ってくれたのであろう。それならば、それを手柄にして、円満に行けばーーーと、母の顔を見た。   「どういう?」   「一昨日の夜のことでございます。夢でもなく、うつつでもなく、凄い幻を見ましたが、これが、若君を脅かすらしく、幻が出ますと、急に−」  ハ郎太の眼が、険しく、七瀬へ光った。   「たわけっ」  ハ郎太は、睨みつけた。   「なにを申す、世迷言をー」  その声の下から、   「御もっともでござります。お叱りは承知致しておりまナ。人様にも、誰にもいえぬ、奇怪なことがござりますゆえ、まだひとことも申しませぬが、貴下へ、せめてー1−」   「たわけたことを申すなっ」    ハ郎太は、七願が夢のようなことをいいだしたので、怒りに額えてきた。常は、こんなではないのに、あまり大事の役目で少しどうかしたのではないか、と思った。     「しかし、父上−母上、もう少し詳しく、かに落ちるようにお話しなされては」    と、小太郎が取りなした。     「黙れ、そちの知ったことではない」     「しかし」     「黙らぬか」     「はい」    小太郎は立ち上った。益満を呼ぶよりほかにないと思った。そして、玄関の次の間に行って、   妹の深雪に、     「すぐ益満を呼んで1−母が戻って来たからと」    深雪の背を突くようにして、せき立てた。 ニノ三  「—−形を、見極めもしませずに、話のできることではござりませぬが、たしかに、この眼で見たにちがいござりませぬ。急に、御部屋の中が暗くなりまして−齢のころなら四十あまり、その面影が、牧仲太郎様に、似ておりましたがー」  「牧殿は三十七、八じゃ」  尉尹が、小太郎の後方から入って来た。そして、いっぱいに涙をためた眼で、ハ郎太を見ながら、両手をついた。   「お父様」  ハ郎太は、綱手に、見向さもしないで、   「七瀬、孔て、申しつけておいたとおり、勤め方の後始末を取り急いで片付け、すぐ、国へ戻れ。許しのあるまで、二度と、この敷居を跨ぐな」   「はい」   「お父様」  綱手は、泣き声になった。   「お母様にー−お母様に」   「お前の知ったことではない、あちらへ行っておいで」   「いいえ、妾はー」   「それから、手廻りの晶々は、船便で届けてやる。早々に退散して、人目にかからぬように致せ」  罪のない妻を、こうして冷酷に扱うということが、武士の意地だと、ハ郎太には思えた。この恩愛の別離の悲嘆を、こらえることが、武士らしい態度だと信していた。また、妻をこう処分して、武士らしい節義を見せるほか、この泰平の折に、忠義らしい士の態度を示すことは、ほかになかった。こうすることだけが、唯一の忠義らしいことであった。  ざんば岬を  後にみて  袖をつらねて諸人が  泣いて別るる旅衣 益満が、大きい声で、唄いながら、庭の生垣のところから、覗き込んだ。  「お帰りなさい」 七瀬に、挨拶して、生垣を、押し分けて入って来た。そして、綱手の顔を見ると、。  「何を叱られた?」 綱手は、袖の中へ、顔を入れた。   「若君、お亡くなりになったと申しまナが、だごとではござりますまい」   「あるいはーーー」 おじうえ小父上 1  「七瀬頭を幸い、そのまま奥の機密を、探っては?」 「七瀬はI離別じゃ」 益満は、腕組をして、唇を尖らせた。 「離別」 「止むを得まい。仙波の家の面目として」 「面目が立てば?」 前々よりの御三大の御病症と申し、た   「立てば?」   「某に、今夜一晩、この話を、おあずけ下さらんか。小太郎と談合の上にて、聊か考えていることがござる」   「どういう?」   「それはIのう、小犬。言わぬが、花で。小父上、若い者にお任せ下されませぬか」  ハ郎太は、益満の才と、腕とを知っていた。  齢を超越して、尊敬している益満であった。      ニノ四   「益満様」  七頗が一膝すすんで、   「ただいまも、叱られましたところで−‐怪カ乱神を語らずと申しますが、不思議なことが、御病室でございました」  小太郎も、益満も、七瀬の顔を、しっと眺めた。   「五臓の疲れじゃ。埓もない」  ハ郎太は呟いた。 「何かしたことが?」 「幻のような人影が、和子孫へ飛びかかろうとして、それが現れると、和子孫はお泣き立てに なりましたが、それがどうも、牧様にーただ年齢が、五つ六つもふけて見えましたがーー」  益満は、うなずいた。小太郎は、益満の眼を荷担していた。その小太郎の眼へ、益満は、   (そうだろうがな)と語った。   「聞き及びますと−−」  益満は、膝の上に両手を張って、肩をいからせながら、ハ郎太から七順を見廻して、   「当家秘伝の調伏法にて、人命を縮める節は、その行者、修法者は一人につき、二年ずつ己の命をちぢめると、聞いております。その幻が、敬仰太郎殿に似て、四+ぐらいとあればI−敬殿はー−」  益満が指を繰った。ハ郎太が、。   「敬殿は、七、八であろう」  益満は、腕を組んで俯向いていたが、   「牧殿は、お肉羅風情の女に、動かされる仁ではござるまい−−小父上」   「うむ」   「さすればー」  そういって、益満は、黙ってしまった。一座の人も俯向いたり、膝を見たりして、黙っていた。   「斉興公が」  小太郎が、当主の名を口へ出すとともに、ハ郎太が、   「小太っ」  と、睨みつけて、叱った。共演は、うなずいた。   「濫りに、口にすべき御名ではない、慎しめー   「はい」   「次に、同所笑左衛門殿−−これが、右の腕でござろう。そして、牧は高笑に惚れ込んで、己の停を大坂の邸にあずけておるが、国許はしらず、江戸の貢役、その他、重な人々は、おそらく、斉彬公を喜んではおりますまい11のう、小父上」   「そう」   「ことごとく、斉彬公のなさることへ反対らしい。第一に、軽輩を御引き立てになるのが、気に人らぬ。この間もお目通りをして、三兵器古知幾を拝借して追って来ると、御座敷番の青島太郎兵衛が、何を持っているか1突きつけてやると、また、重豪公のニの舞を、何故、青公たち緋めんかと、こうじゃ」   「斉彬公を外国方にしようとする幕府の方針を、あいつらは、木曾川治水で、金を費わされたのと同じに見ている、同所さえ、そうしゃものなあ」  小太郎は、顔を、心もち赤くして、静かにいった。      ニノ五   「とうとうとうと、御陣原へ出まして、小手をかざして眺めますと、いやあーー押しも、寄せたり、寄せも、押したり、よせといっても、押してくる武蔵鐙に、白手綱、その勢、およそ二百 万騎、百万騎ならひと繰りだが、やりくりしても、ハ+石、益満休之助の貧乏だ。こう太くなっては、振り廻せぬIL 一人ぼっちになった南玉は、薄暗くなってくる部屋の中で、大声で、怒鳴り立てていた。敗尹   「南玉さん?」  と、益満を見て、微笑むと、深雪は、袖をロヘ当てて、笑いこけた。   「はははは、この盆が越せるやら、越せぬやら」  益満は、   「七瀬殿、某と、小太との計が、うまく行かぬにせよ、大坂表へ行って、調所を探る気はござりませぬか」   「さあ、−‐−話によってはーー」  七瀬は、ハ郎太の顔を見た。ハ郎太は、黙って、庭の方を眺めていた。廊下へ、炉聯がさして女中が、燭台を持って来た。深雪が振袖を翻えして、取りに立った。   「のう、綱手殿」   「ええ?」  組手は、あわてて、少し、取尉を赤くしながら、ちらっと、益満を見て、すぐに眼を伏せた。   「母上と同行して、大役を一つ買われぬかのう」   「大役? どういう」 「操を捨てる1」 益満は、強い口調で言った。綱手は、真赤になった。七瀬が、  「それは?」  「場合によって、調所の封どもなる。また、時によって、牧の倅とも通しる」 「益満−−」 と、ハ郎太が、眉を七めた。益満は、平気であった。 「夫のために、捨てるものなら、家のために捨てても宜しい。操などと、たわいもない、七十ょって、未遂女だと申したなら、よく守って来たと称められるより、小野の小町だと喘われよ になって、来迎女だと申したなら、よく守って来たとう。かつべき時に棄つ、操を破って、操を保つ—」 「しかし、益満さま、あんまりなー」  七瀬が、やさしく言った。 −驚怖ー1‐・一  一                                   それがし 「いいや、女が、男を対手に戦って勝つに、そのほかのなにがござる。某なら、そういう女子 こそ、好んで嫁に欲しい」  「ははけは、益満らしいことを申す。それも一理」  ハ郎太が、微笑して頷いた。綱手も、深雪も、俯向いていた。  「そろそろ暗うなってきた。小太、小者にならぬと咎められると思う。その用意をして、例の−1師匠のところへ来ぬか」  「心得た」  益満が、立ち上った。  「猫、真に河童の屁とはいかない蚊だーー益満さん、油はござんせんか。あっしゃ、夜になると、眼が見えない病でねえ」  南玉が、廊下へ立って叫んでいるらしかった。  「今ゴ民る」  益満は、庭へ出た。  「胆だの、小犬」              ‐  と、振り向いて、すぐ、歩いて行った。    泥人形      一ノー 常磐津富土谷は、常磐津のほか、襖を開けた次の間で、若い衆が、    きんらん からくさもよう  錦の金側、唐草模様  お馬は栗毛で、金の鞍  さっても、見事な若衆振り 流行唄も敦えていた。三人、膝を正して、   「そうー−それ、紫手綱で」  富士春は、少し崩れて、紅いものの見える膝へ三味線を乗せて、合の手になると、称めたり、戯談をいったりして調子のいい稽古をしていた。  表の間の格子のところで、四人の若い衆が時々富士春を眺めたり、格子の外に立っている人を、すかして見たりしながら、四方山話をしていた。   「その毛唐人がさ、腰をかけるってのは、膝が曲らねえからだよ。膝さえ曲りゃあ、ちゃんと、畳の上へ坐らあお」  南玉が、表の格子をあけて、提灯の下から、   「今晩はーー益満さんは?」   「まだ見えていないよ」   「そうかい、もう見えるだろうが、見えたら、これを渡して」  と、風呂敷包を置いて、出かけようとする後姿へ、   「先生、ちょっとちょっと」   「何か用かの」   「毛唐の眼玉の蒼いのは、夜眼が見えるからだって本当かい?」   「話説す。目の当り奇々怪々なことがありやした」   「また、諸葛孔明が、とんぼ切りの槍を持ってあばれたかの」   「作原生、これをなんぞといえば、呼遠筒と称して、百里の風景を掌にさすことができる。遠 2 r貳の短いようなものでの。つまり、毛唐人の眼は夜見える代りに、遠見がきかん。一町先も見8 えんというので発明したのが、覗き眼鏡に、呼遠筒、珍しくぼ、寄席へ来て、聞かっし」    南玉が出て行くと、    「ハ文も払って、誰が、手前の講釈なんぞ聞くか」    富士春の稽古部屋では、時々、小女が出入して、蝋燭の心を切った。    「この流行唄は、滅法気に入ったのう。俺の宗旨は代々山王様宗だが、死んだら、一つ、今の  合の手で、     お馬は栗毛で     金の鞍   ってんだ」    富士春が、媚びた眼と、笑いとを向けて、    「静かに」と、いった。    「東西東西、お静かお静か。それで、その馬へ、綺麗な姉御を乗せての、馬の廻りは、万燈を  立てらあ。棺桶の前ではこの古公が、ひょっとこ踊りをしながら、練り歩くんだ。手前の面が、   一生に一度、晴れ立つんだ。たのむぜ」    「よし、心得た。友達のよしみに、今殺してやる。手前殺ナに刃物はいらぬ、にっこり笑って  眼で殺す」    「ぶるぶるっ、今の眼は、笑ったのか、泣いたのか」 稽古湯から、 「煩さい」と、一人が怒鳴った時、誰か表から人って来た。       }ノニ   「よう」  と、一人が、のびやかに迎えて、会釈をした。   「今日は、少いのう」  益満は、刀をとって、部屋の隅へ置いた。富士吝か、軽く、射影をした。  、「病人の見舞で」   「誰か、病気か」   「寅んとこの隣りの大工が、人にからかって手首を折りましてな」   「庄古という男か」   「御存じですかい」   「わしの朋輩が折ったのだ。あいつは拘撰でないか」   「ええ、時々やります。しかし根が、真直ぐな男で、悪いことって微塵もしませんや」   「悪いことをせぬて。梅撰でないか」   「だって、拘摸と、泥棒たあちげえますぜ。庄吉なんざ、あっさりした、気のいい男ですぜ。あいつの手を折るなんざ可哀そうだ」   「まったく」  稽古部屋の人々が出て来た。富士客は、小女の出す岸沢を一口飲んで、   「休さん、南玉先生から、さっき、何か、岸犬らがー」   「そうそう」  と、一人が風呂敷包を渡した。益満か、開けると、‘   「なんだ。薄汚ない」   一人が、こういって、益満の顔を見た。   「山猫を買いに行くのには、これにかぎる」  富士客が、   「悪い病だねえ」   「師匠の病気と、いずれ劣らぬ」と、いいながら、益満は、袴をぬいで、   「小道具を、一つあずかっておいてもらいたい。猫は買いたし、御門はきびし」  益満は、そういいながら、部屋の隅で、汚ない小者姿になって、脇差だけを差した。そして両手をひろげて、   「三河十人扶持、似合うであろうがな」  と、笑った。  富上客は、次の稽古の人々へ、三味線を合して、   「主の姿は、初鮎か、青葉がくれに透いた肌、小意気な味の握り詣と。さあ、ぬしいの」  と、唄いかけた時、   「頼もう」  と、低いが、強い声がした。そんな四角張った案内は、久しく間いたことがなかった。御倹約令以来、侍は土蔵の中へ入って三味線を弾くくらいで、益痛一人のほか、ぴたりと、稽古をしに来なくなったし—−富士春は、唄をやめて、不安そうな眼をした。   (役人が、また何か、煩さいことを)と、思った。   「入れ」  益痛が、答えた。格子が開いたので、富士春も、人々も大提灯のほの暗い影の下に立った人を 眺めた。   (あいつだ)と、人々の中のニ人—−昼間の喧嘩を見ていた人は思い出した。富上客は、   (まあ、いい男—休さんの朋輩には、稀らしい11)とじっと小太郎の顔を眺めていた。      ニノー  益満と小太郎とは、小者風であった。脇差を一本、提灯を一つーーー・芝仲門前町を出て、増上寺の塀の闇の中を、御成門の方へ、歩いて行った。   「多少、聞いてはいるが、忍術の忍は、忍ぶではなく、忍耐の忍だ。正忍記など、ただこの忍耐だけを説いている」  「奴さん、遊んで行かっし」  閤の中から、女の声がした。   「急ぎの御用だ。戻りに、ゆっくり寄らあ」  小太郎が、   「何者だ」   「これが、夜鷹しや」  ほの白く、顔が浮いて、   「いい男だよ。ちょいとーーー」  小太郎は、徘を握られて、振り払いざま、   「無礼なっ」  女は、高い声で、   「あっ、痛い」と、叫んで、ナぐ「いい男振るない。泥棒、かったい、唐変木」  と浴びせた。寺の塀の尽きるところまで、女たちが、近くから、遠くから声をかけた。小太郎は、気まり悪さと、怒りとで、黙って急いだ。益満は、時々受け答えしながら、   「諧事節約になってから、だんだんふえてきた」  と、独り言をいっていた。御成門から、植村出羽の邸に添って曲り、土橋へ出ないで、新しい橋の方へ進んだ。  斉彬は、多忙だったので、三田の藩邸にいずに、幸橋御門内の邸−−元の華族会館に起臥していたので、寛之助も、そこにおったのであった。 大きい門の闇の中に立って、高い窓へ、  「夜中、憚り様、将曹様へ急用」 と、益満が叫んだ。  「門鑑」 益満が、門鑑を突き出して、提灯を、その上へもって行った。窓のところへも、提灯が出て、 門鑑を調べた。門番は、門鑑を改めただけで、どかなかった。二人が、小門に佇んでいると、   「御苦労に存じます」   「ありがとう、ござります」 二人の顔は改めなかった。改めようにも、灯がと足音と、錠の音とかして、くぐりが開いた。  二人は、御辞儀をしつづけて、急ぎ足に、曲ってしまった。  益満は、提灯を吹き消した。そして、本の枝へ引っかけた。二人は手さぐりにー様子のわかっている邸の内を心に描さながら、  (ここを曲って)(この辺から、植込み)と、中居間の方へ近づいて行った。益満は草を踏む   「這って」  と、囁いた。庭へ人ってからは、歩くよりも、這った方が危険が少かった。二人は立木を避け植込みを廻り、飛び石をぎで、一尺ごとに、手をのばして、手に触れるものを調べながら、御居間の方へ近づいた。灯の影もなく、人声もなく、ただ真暗闇の世界であった。      ニノニ   「山一のことがーー思い出される」  益満が囁いた。小太郎は、床下へ人った時に、そのことを思い出していた。  山一とは、山田一郎右衛門のことであった。高野山に納めてあった島津家久の木像を、高野山め僧侶が床下へ隠して、紛失したと称した事件があった。島津塞が、窮乏の時、祠堂金を与えなかったから僧侶が意地の悪いことをしたのである。それを、肥料汲みにまでなって、床下から探し出したのが山田一郎右衛門であった`。そして、それだけの功でも、相当であったのに、この彰英を与えようとしたのに際し、山田は、「褒美のかわりに減し兄を禁してもらいたい」といった。・減し児とは、子供が殖えると困るから、生れるとすぐ殺す習慣をいった言葉である。山田のこの睦議によって、幾人、幾+人の英傑が、救われたかもしれなかった。益満のごとき小身者は、当然減らされた一人かもしれなかったし、小太郎の後進の下級の若い人々は、たいてい減らされ殖しが多かった。  だから床下へ行って、しめっぽい土の香を卵ぐと、すぐ、山田の功績を思い出して、   (首尾よく行ったら、自分の手柄も、山雨に劣らない)と考えた。  床下の土は、じめじめしていて、異臭が旅を突いた。七、ハ間も、這って来た時、益満は静かに、燧石を打って、紙燭に火を点じた。紙撚りに油をしましたもので、一本だと五寸四方ぐらいが、朧げに見えた。それでたりないと二本つけ、三本に増す忍び道具の一つであった。  二人は、俳かな光の下の土を、克明に調べかけた。もし調伏の人形を、埋めたとすれば、土に損った跡がなくてはならなかった。二人は、一本の柱を中心にして、残すところのないように這い廻った。  微かに足音がしても、這うのを止めた。紙燭の灯の洩れぬよう二人の袖が、火を囲んだ。一寸、二寸ずつ、少しの物音も立てぬように這った。  小太郎が、益満の袖を引いて、その眼と合うと、前の方を指さした。益満が、うなずいて、大きく足を延ばして、一気に近づいた。土が盛り上って、乱れていた。二人は向き合って、片手で、灯をかばいながら、片手で土を担った。+分に叩かれていないらしい土は、指で楽々と担り返せた。  二人の眼は、彫しさに、微笑していた。小太郎が、  「それに、ちがいあるまい」  と、低くいうと、  「箱らしい」  益満は、両手で土をfいた。白い箱が、上まみれになって、だんだん形を現してきた。二人が、両手をかけてゆナぶると、箱は、すぐ経くなった。一尺に五寸ぐらいの白木で、厳重に釘づけされていた。  「開けて」  と、小太郎が、益満を見ると、  「開けんでも、わかっとる」  益満は、土を払って、箱の上の文字を見た。梵字が書いてあって、二人にはわからなかったが、梵字だけで十分であった。      ニノ三   (あまり、うまく行きすぎた)と、二人とも思っていた。門の外へ出るまで、   (何か、不意に事が起こりはしないだろうか)と、忍び込む前とちがった不安が、二人の撒を、何かが今にも引き捕えはしないだろうかと、追っかけられているような気がした。門を出て、植村出羽の邸角まで来ると、   「やれやれ」  益満が、笑い声でいった。幸橋御門を出ると、もう、往来にうろついているのは、野犬と、夜泣きうどんと、火の用心だけであった。それから、灯が街へさしているのは、安女買いに行った戻り客を待っている肩酒屋だけであった。  小太郎は、袖に包んだ箱の中を想像しながら(これで両親も、別れなくて済むし、自分の手柄は父のためにも、自分のためにも−−それよりも、斉彬公が、どんなに喜ばれるであろう)と、頭の中も、胸の中も、身体中が、明るくなってきた。  「小太、先へ戻って、早く喜ばすがよい。わしは、さっきのところへ寄って、刀を取って行くからーー」  小太郎が、答えない前に、益満は、駈け出していた。   「なるべく早く11」  その後姿へ、小太郎が叫んだ。   「猫、鳶に、河童の屁、というやつだ」  益満は、大きな声で、独り言をいいながら、富士春の表へ立つと、もう提灯は消えていた。だが、まだ眠っている時刻ではなかった。   「師匠」  益満が、戸を叩いたとたん、増上寺の鐘が鳴りだした。   「どなた?」   「ま、だ」   「ま?」   「まの宇に、ぬの宇に、けの宇だ」  益満は、大きい声を出すと、   「やな、益さん」  小女が、戸を開けて、   「お楽しみ」と、からかった。   「師匠の方は?」  襖の内に、二、三人、まだがの男が残っていた。  「首尾はどう?」  一人が、声をかけた。半分開いた襖の中に、酒が、肴が並んでいた。  「お帰んなさい。ちょうどよいと’』ろ」  富上客が、顔を少し赤くして、樅を崩していた。益満は、暗い次の間に立っていた。  「ヘヘヘ、だんだんよくなるところで。ええ、おいでなさいまし」  一人は酔っ払って、両手をついた。  「刀は?」  「刀?II刀なんぞ野暮でげしょう。野暮な邸の大小捨ててさー−中でも、薩摩の芋侍は野暮のかたまりで、こいつにかかっちゃ、聡石の師匠も歯が立たねえって−ヘヘヘ、御免なせえ」 益満が、富士客の持って来た刀を取ろうとすると、女は、手の上へ手をかけて、  「ゆっくりしたら」と、媚びた限で見上げた。  「そうは勤まらぬ」  富士客は、益満の手を、力任せにつねった。      三ノー  小太郎は、嬉しさで、いっぱいだった。どこを歩いているかさえわからなかった。  (陰謀が、自分の手で暴露されたなら、斉彬公は、どんなに喜ばれるだろうか? あの柔和な眼で、あの静かな口調で、何をおっしゃるだろうっ’・——−そして、父はおそらく、自分が手柄を立 てたよりも、喜ぶであろうし、母は、父よりも嬉しがって、きっと、涙をためるにちがいない。ニ人の妹はーー)  と小太郎は、次々に、いろいろのことを空想しながら、木箱を、小脇に抱えて、小走りに、夜の街を急いだ。ふっと(しかし、箱の中に、何も証拠晶が入っていなかったら?)と不安になったりしたが、ことこと中で音がしているし、病室の床下にあったのだし、疑う余地けなかつだ。  しようけんはし         レーだうねめ    とおやまみQSかみ  将監橋を渡ると、右が、戸田采女、左が遠山美濃守の邸で、その右に、藩邸が、黒々と静まりかえっていた。八時に大門を閉して、通行禁止になるのが一般武宮部の風であったから、悪所通いをする若者などは、塀を乗り越えて出入した。益満など、その大将株であった。  小太郎は、その塀越えの出入口と決まっている切石の立ったところから、犀じ登って、邸の中へ入った。長屋の入口で、ことこと戸を叩くと、すぐ、足音がした。   (まだ、寝ないで、自分の帰りを待っているのだ)と、思うと、頭の中で、   (証拠晶を持って帰りました。今すぐに御覧に入れます)と、叫んだ。   「兄様?」  次の娘、深雪の声が聞こえた。小太郎は、戸を一つ服いた。   「ただいまI」  二人の足音がした。門がはずされた。戸が引かれた。上の妹の綱手が上り口に立って、手燭をかざしていた。深雪が、   「首尾は?」 低い、早口であった。 「上々」 深雪は、小兎のように上り口へ、走り上って、「姉様、上々」  綱手が、微笑んで、廊下を先へ立った。   「お父様は、お臥みだけれども、お母様は、  深雪は、小太郎の後方から、口早に囁いた。を吹き消して、 まだ」 薄く灯のさしている障子のところで、綱手は手燭 「お母様、お兄様が、上々の首足で、ござりますって」 いい終らぬうちに、小太郎が、部屋の中へ入った。七瀬は、小太郎の膝を見て、「ひどい泥がーー」 と、眉をひそめた。二人の妹が、 「ああ、あっ、袖もーーーここもー」 深雪が立って、何か取りに行った。  「その箱は?」 七瀬が眼を向けた。  「若君の御病間の床下にござりました。調伏の証拠晶」 両手で、母の前へ置いた。  「お父様に、申し上げてきや」 綱手は、裾を踏んでよろめきながら、次の部屋の襖を開けた。     三ノニ ハ郎太は、むずかしい顔をしながら、しっと、箱を眺めていた。 「小柄」 七瀬が、刀懸けから刀を取って、小柄を抜いた。ハ郎太は、箱の除目へ小柄を俑し込んで、静 かに力を入れた。四人は呼吸をつめて、   (調伏の人形でなかったら?−1‐) じっと眺めた。ぎいっと、箱が軋ると胸がどきんとした。        ち   のぼ                      ふた  小太郎は、績の下に汗が出てきた。顔が逆上せてくるようであった。釘づけの豊か少し開くと、ハ郎太は、小柄を逆にして、力を込めた。ぐぎっ、と音立てて、半分あまり口が開いた。  白布に包まれた物が出て来た。ハ郎太は、静かに布をとった。五寸あまりの素焼の泥人形I 鼻の形、唇の形、それから、白い、大きい眼が、薄気味悪く付き出していて、頭髪さえ描いていない、素地そのままの、泥人形であった。人形の額に、梵字が書いてあって、胸と、腹と、脚と、手に、朱で点を打ってあった。背の方を返すと、ハ郎太が、   「うむIなるほど」と、うなずいて「相違ない」  四人がのぞき込むと、一行に、島津寛之助、行年四歳と書かれてあって、その周囲に、細かい 梵字がすっかり寛之助を取り巻いていた。  人形は、白いー−というよりも、灰色がかった肌をして眼を大きく、白く紗いて、ちょうど、寛之助の死体のように、かたく、大の字形をしていた。七瀬は、それを見ると、胸いっぱいになってきた。小太郎は、ハ郎太が、二百も、自分の手柄を抑めぬので、ものたりなかった。   「父上、いかがで、ござりましょう」  ハ郎太は、小太郎の眼を、じっと見つめて、’   「他言することならぬぞ」  七瀬が、   「まあ、よかった。よく、見つかったねえ、床下といっても、広いのに−‐−」   「お兄様〃|蜘蛛の巣がーー」  深雪が、小太郎の頭から糸をつまみ上げた。ハ郎太は、人形を旧のように包んで、膝の上へ置いて、何か考えていた。   「これで、母も安心できました。ほんとに、大手柄I」  そういう七瀬の顔を、睨みつけて、   「支度」   「お出まし? この夜中に」  七瀬が、恐る恐る聞くと、  「名越殿へまいる」  七瀬が立ち上った。綱手も、深雪も、せっかくの小太郎の手柄を、一言も称めもしない父へ不 満であったが、小太郎は、父の厳格な気質から見て、口へ出しては称めないが、腿の中では、よくわかっているのだと思った。だが、なんだかものたりなかった。  七瀬は、次の間で箪笥を、ことこと音させていたが、  −米お支度ができまして、ござります」  ハ郎太は、箱を置いて、  「元のように入れておけ」  と、小太郎へやさしくいって立ち上った。      さ てつ第一の趾映 一ノ一  丸木のままの柱、蜘蛛の巣のかかった、聯まみれの低い天井、耐っ茶けた影ドそういう一部風炉、崖に臨んだところに、奥座敷として、建てられてあった。その大きい切窓から、向うの峰、下の谷炉眺められて、いい景色であったが、仁+郎が、疲労によろめいていて、どかりと腰をおろすと、座敷中炉ゆらめいたくらいに危くもあった。  茶店の爺が、早朝からの客を、奥へ通して、軒下に立てかけてある腰掛を並べて、をしていた。婆は、土間の真暗な中で、毀の下を吹きながら、皺だらけの顔だけを、 店ごしらえ焙のあかリ に浮き上がらせていた。   きりしま からくに くりの   「霧島、韓目、栗野−—」  玄白斎は、眼を閉じて、侃をしごきながら、   「関根ケ平で、七か所I牧殿のおカなら、  玄白斎は、しばらくしてから、   「是非もない」  それも、元気の無い、低い声であった。   「婆あー−粥はまだできんか」  市助か、土間へ、声をかけた。 「はい、ただいま、すぐ、三人が、牧を追って、敬の おいた。仁+郎が、 調伏は成就致しましょうな」 ますからー」 している山々を調べてから、もう二十目近くなっていた。日数 の経った修法の跡から、だんだん、追いつめて、昨日、修法した跡だと、判断できたのが、栗野山の頂上であった。玄白斎は、それを見て、  「関根ケ平が、最後の修法場であろうが、今から、この疲れた脚で、行けようとも思えぬ。この上は、牧が国外に出てまで、修法するか、それとも、御城下へ戻るかーー関根での修法が、明日の四つ刻にすむとすれば、久七峠へ出て、牧が通るか通らぬかを待とう。もし、通らぬ時は、城下へ戻ったもの、通るとしたなら、話によっては、そのままには差しおかぬ」  と、いった。和田仁+郎、高木市助の二人は、老師の、たどたどしい脚を、左右から支えなが ら、夜を徹して、栗野から、大口へ、大口から、淋しい街道を久七峠へ登って来てたのであった。  久七峠には、島津の小さい番所が置いてあった。その番所から、少し降ったところに、この茶店があった。  「牧殿の返答によってはー−」  仁+郎は、こういって、(斬っても、よろしいか)と、つづけたいのを止めた。玄白斎は、牧を追跡し、口でも、よくはいっていないが、秘蔵弟子として、師よりも優れた兵道家として、子の無い老人にとっては、子よりも可愛い仲太郎であった。仁十郎には、よくそれがわかっていた。  「そうーー返答によ?ては11捨て置けんかもしれぬ」  玄白斎は、たとい斉興の命なりとも、臣として、幼君を呪う罪は、兵道家として許しおけぬと、頑強に考えてはいたが、そのために自分の手で、牧を殺す、という気にはなれなかった。牧がうまく自分を説き伏せ、家中の人々を感心させてくれたら、—玄白斎は、自分の老いたことを感じたり、心弱さを感したり、兵道家の立場の辛さを感じたりしながら、  「疲れた−—疲れたのう」  と、限を閉じたまま、額を、握り拳で叩いた。      }ノニ 「爺っ」 一人の侍が、軒下から、大声に呼んだ。 −-一一   「今、十二、三人、見えるから、支度仕え」   「はいっ」  爺が、あわてて、走り出ると、侍はナぐ、番所の方へ登って行った。   「先生−−牧の一行でござりましょうか」  玄白斎は、俯向いて、眼を閉じていた。   「うむ」   「十二、三人とは、人数が少し、多すぎまするがーー」   「多くはない」   「はい」  市助か立って、暗い台所で何か水に浸していた。そして、持って来た。   「和田」  と、言った。水に漬けた真綿であった。仁+郎は手拭に包んで、いつでも鉢巻にできるよう、折り畳んだ。二人は、乱闘の準備をした。   「さあ、できました。お待ちどおさまで」  婆が、こういって、大儀そうに、上り口から、土鍋を巡んで来た時、しとしとと土を踏んで近づく音と、諸声とが聞こえてきた。  和田と、高木とが、眼を見合せながら、玄白斎を見ると、前のまま、俯向いて、眼を閉じたきりであった。爺が表へ出て、下を眺めて、ナぐ入って来た。そして、 「婆、ござらしたぞ」 と、言った。 「先生、芋粥がー」 玄白斎が、頷いた。そして、眼を開いて、身体を起こして、「わしにはわからんI」 と、呟いた。 「何か?」 「いや、食べる示よい」 三人が、茶碗へ手をかけると、表示騒がしくなった。 馬上の士が一人、 駕が一挺、人々は、ことごとく脚絆掛けで、長い刀を差していた。茶店の前 で止まって、すぐ腰かけて、脚を叩いた。  「疲れた」          ’  と、一人は股を拡げて、俯向いた。  「爺、食べる物があるか」  「芋粥ならちょうどできておりますが、あのお何の御武家衆は貴下方のお連れではござりませぬか」  「お何のー幾人?」  「御三人」    侍は、首を延ばして、奥を覗いたが、襖で何も見えなかった。士は、土間から出て、軒下の腰掛にかけている一人にヽ    「斎木」    「うむ」    「玄白吝か、まいっておるらしい」    低い声であったが、こう言うと同時に、人々は、動揺した。    「玄白吝か−’」 と、一人が怒鳴った。馬上の上が、馬 から降り立って土間へ入って来て、三人の草款を見ると、 「これは?」 と爺の顔を、帽めるように、鋭く見た。 「はいはい、これは、奥にいられます、三人のお侍衆の−ーー」「三人の?」 「御一人は、御立派な、こんなー」 爺は、聚を引っ張る真似をした。 ノ三 家老ヽ飢卸影かの抱え∴齢ど刀流の使ぃ手ヽ♥凪似少、  と、大きい声をした。斎木と、貴息が、   「叱っ」  眼で押えて、頭を振った。重作は、二人を、しろっと見て、土間へ人って、突っ立った。  馬から降りた侍は、豊後の用人、鼓卸和州で、七日、七か所の調伏を終り、大坂蔵屋敷へ、調所笑左衛門を訪いに行く、牧仲太郎を、国境まで、保護して来たのであった。  玄白吝が、自分一人で牧を追うのとちがって、牧を保護するためには、家老も、目付もついていた。烏帽子岳から牧の足跡を追って城下へ入り、高木市助をつれて、大箆柄山へ向ったとき、もう目付の手から牧へ、玄白吝の行動は、報告されていた。豊後は手紙で、   「玄白吝か、修法の妨げになるなら、どうでも、処分するがーー」  と、さえいった。だが、牧は、   「老師を罪するがごとき邪念を挾んでは、兵道の秘呪は、成就致しませぬ」  と、答えた。しかし、玄白斎が牧を追いかけていると知っている人々は、牧の、厳粛な、自分を棄てて、主家のために折っている、尉駅な様を見ると、それを邪魔する玄自省が憎くなってきた。  奥の間に、人影が動いたので、人々がいっせいに見た。だが、それは、婆が立つ姿であった。が、すぐ婆の後方に白い揖が、玄白斎が、独りで、ずかずかと出て来た。土間に立っている山内が、睨みつけているのを、平然と、横にして、狭い表の間−—駄菓子だの、果物だの、草題、付木、燧石、そんなものを、埃と一緒に積み上げてあるところへ来て立ったまま、   「青島、斎木」  と呼んだ。   「老先生、御壮健に拝します」  二人は御辞儀をした。   「牧は?」   「はい」  飽津が、玄白斎の前へ行った。   「加治木老先生、とかは、島津豊後、用人、飽津平八と申します。牧殿は、大任を仰せつけられて、連日の修法を遊ばされ、ただいま御疲労にて、よく、御眠み中でござります。御用の趣き 某代って、承わりましょうが、 御用向きは?」 「いや、御丁寧な御挨拶にて、痛みいる。余人には語れぬ用向きでのう」 「ははあ」 他律が、何かつづけようとした瞬間、玄白吝か、  「牧っ、出いっ」 と、大声で、呼んだ。  「玄白じやっ」 土間の、山内が、刀へ手をかけて、つかつかと、近づいた。斎木が、眼と、手とで押えて、  「老先生っ」 --&a−ル陣●&  と、叫んだ時、駕の中から、   「先生」  低い、元気の無い、影がれた声がして、鴛の垂れが、聯かに勁いた。       一ノ四  青島が駕ヘロをつけて、   「垂れを、上げますか」  と、聞いた。   「出してもらいたい」   「しかしーー−」  垂れが、ふくらんで、細い手がその横から出た。人々があわてて手を出して、集まった。飽津が、   「牧氏、その御身体でーー‘」  と、いった時、牧はがせた脚を、地につけて、垂れの下から、頭を出していた。駕につかまり人々の手にささえられながら、斎木と、貴息に左右から抱えられて、牧は鴛から立ち上った。  玄自責は、牧の顔を、しっと睨んでいた。三月あまり前に、ちょっと、見たきり、逢わない彼であったが、なんという顔であろう。それは、身体の病に、痩せた牧でなく、心の苦しみに、悩みに、肉を郎った人の面影であった。力と、光の無くなるべき眼は、かえって、かい、怪しい力 −-−-−・ と、先に輝いていた。灰土色に変わるべき肌は、澄んだ蒼白色になって、病的な、智力を示しているようであったし、眉と眉との間に刻んだ深い鮭貳は、思慮と、判断と−’頬骨は、決心と、果断とをーその乱れた髪は、諸天への祈願に、幾度か、逆立ったもののように薄気味悪くさえ感しられるものだった。  骨立った手で、駕を鰍みながら、よろめき出だのを見ると、玄白斎は、憎さよりも、心慌さか、胸を圧した。(よく、こんなになるまでやった。お前ならこそ、ここまで、一心龍めてやれるのだ) ただ一人の優れた愛弟子に対して、玄自省は、しばらくの間(死んではいけないぞ。お前が、死んでは、この秘法を継ぐものがない)と、田心って、痛ましい姿を、ただじっと眺めていた。  牧は俯向いて、よろよろしながら、腰掛のところまで行くと、左右へ、   「よろしい」  と、低く、やさしくいった。   「大丈夫でござりますか」  牧は頷いた。そして、腰掛へ、両手をついて、玄白斎に叩頭をした。   「御心痛のほど−−ー」  これだけいうと、苦しそうに、肩で、大きい呼吸をした。   「某—今度のこと−まずもって、先生に、談合申し上げん所存にはござりましたがーーさる方より−’火急に、火急に、との仰せ、心ならずも、そのまま打ち立ちましたる鍛、深く御詫び申しまする」 牧は、丁寧に、頭を下げた。  「ちと、間いたことがあってのう」 玄白斎は、やさしくいって、但を撫でた。  「はい、なんなりとも」  「奥へまいらぬか」 飽津が、、  「牧殿、ちと、お急ぎゆえー」  「手間はとらせぬ」  「いや、しかしー」 牧が、頭を上げて、  「斎木、奥まで、頼む」 腰掛に手をついて、立ち上ると、よろめいた。貴息が、  「危い」 と、呟いて、支えた。      一ノ五  「おお、和田も、高木も—」 牧は、奥の部屋の中の二人を、ちらっと見ると、すぐ微笑して声をかけた。二人は、ちょっと 狼狽して軽く、頭を下げた。   「御苦労をかけた」  斎木と、貴息が、牧を案して、あっちへ行けと命した。そして、ままで黙っていたが、 部屋に近い上り口に待っているのへ、膝へ手を当てて、大儀そうに坐った。 こういって、手を振って、しばらべ、四人は、その  「烏帽子で、護摩壇の跡を見た」 と、玄自省が、口を切った。牧は頷いた。  「お前のほかに、あれを、心得ておる者はない」 牧は、また頷いた。  「そうか」  「はい」  「猟師を斬ったな」 牧は、静かに、低く、  「斬りませぬ」  「犬は?」  「犬は斬リました」  「猟師は、誰が殺した?」  「余人でござりますがーーしかしながらーーお叱りは某が受けまする」  玄白斎は、また、しばらく黙っていた。牧の素庶さに、鋭く突っ込みたくなくなってきた。  「間くが、牧、釣召金剛炉の型のある以上、人命の呪胆だのう」  「はっ」  「誰を、呪岨した?」  牧は、はじめて眼を上げた。澄んだ、聡聯な、決心と、正しさと、光の溢れた眼であった。  「御幼君、寛之肋様でござります」  牧のそういった言葉には、少しの暗さも、少しのやましさも無いのみか、自信と、力さえ入っていた。玄白斎は自分の想像していたように、斉彬を呪っているのではなかったので、軽く失望したが、  「御幼君をな」  と、いって、すぐ、  「前の、お姫、お二人は?」  「存しませぬ」  「しかと」  「天地に誓文して」  「御幼君のこと−誰が、申しつけたぞ」  「そのことは、兵道家として−−よし、師弟の間柄とはいえども、明かすことはーー‘」  「よし、わかった。その言はよい。しからば、間くが、御幼君といえども、主は主でないか。 −--・ヽヽ   そもそも、兵道の極秘は大義の大小によって行うものではない。斉彬公が、また、御幼君が、よm し、 御当家のため邪魔であるにしても、これを階けよと命ぜられたる時には、兵道家はただ一つ                            いさ   い   −−採るべき道はただ一つ、一死をもって、これを諌め、容れられずんば、腹を裂く。義の大小  ではない。たとえ、いかなることたりとも、不義に以せぬをもって、吾等の道と心得ておる。こ  のことは、よく、説いたはずしゃ。牧」    高木と、和田とは、刀を引き寄せながら、黙って、俯向いていた。牧は、眼を閉じたまま、身  勁さもしなかった。玄自斎は、すぐ、言葉をつづけた。         一ノ六  高本と、和田とは、どう、牧が答えるか、しっとー−身体中を引き締めていた。表の人々は、一人残らず、こっちを眺めていた。山内は、上り口で、いつでも、診け上れる用意をしていた。   「斉彬公を1いや、斉彬公を調伏せんにしても、所詮は久先限を、お世継にしようとする大方のmであろう。藩論より考えると、これが大勢じゃ、しかし、よし、これが大勢にしても、寛之助様をお失い申すことは、不義に相違ない。余人は知らず、兵道家としては、久先限と、寛之助様とを程にかけて、一方がやや軽いからとて、不義は不義しゃ、従うべきではない。牧、わしなら、凱胆をfっさばいて、上命に逆らった罪をお詫びして死ぬぞ。それがよし、斉興公よりの御上意にしても、主君をしてその孫を失うの不義をなさしめて、黙視するとは、その罪、悪逆の極じゃ。諌めて容れられずんば死す。兵道に尚ぶところ、これ一つ。兵道家の心得としても、こ れ一つ。わしは、堂々申したのう。心正しきものの行う兵道の修法は、百万の勇士にも優り、心 邪なる者の修法は、百万の悪鬼にも等しいとー牧、憶えておろうな。どうしゃ」  玄白吝は、静かに、だが、整然として、鋭く、牧に迫った。  牧は、俯向いたままで、微かに、肩で呼吸をしていた。どういう苦行をしたのか? 玄白吝か想像していた牧とは、まるで違った疲労した牧であった。一人の命を縮めると、己の命を三年縮めるというが、この疲労、このやつれは、三年や五年でなく、すでに、死病にかかっている人の姿であった。玄自省は、高木と、和田の前で、自分の気弱さを見せたくなかったが、もし二人かいなかったなら、この愛弟子の肩を抱き、手を執って、   「牧、どうした?」  と、慰めてやりたかった。自分の立場として、兵道守護の務めとして、牧を、こうして悄めたが、心の中では、   (牧が、うまく返辞をしてくれたなら)と、祈っていた。和田が、   「牧殿−御返答は?」  牧は、眼を関して、手を膝へついて俯向いたまま、まだ答えなかった。山内が、聯をして、   「手間取るのう」  と、土間で、無遠慮なことをいった。   「お答え申し上げます」  牧は静かに顔を催げて、澄んだ眼で、玄白吝を見た。   「うむI」  玄白斎が頷くと、牧は、身体を真直ぐに立てた。牧のいつもの、鋭さが、眼にも、身体にも溢れてきた。   「君を諌めて自殺する道、御教訓として忘却してはおりませぬ。しかしながら、某自ら命を断つにおいては−−この兵道の秘法は、今日かぎり絶えまする。また兵道は、ただいま、危地に陥っております。人間業に非ざる修業を重ねること二十年。それで、秘法を会得しても、一代に一度、修法をするか、せぬかでござりましょう。二百五十年前、豊公攻め入りの節、火焔の酸頂にて和と判して大功を立てて以来、代々の兵道方、先師たち、一人として、その偉効を顕現したことはござりませぬ。いたずらに、秘呪と称せられるのみにて、ここに十六代、代々、扶持せられて安穏に送るほか、なにーつとして、功を立てたことはござりませぬ」  牧は、澄んだ、しかし、強い口調で、熱をこめて語りだした。       一ノ七  番所の役人らしいのが、大股に降りて来た。用人に、何かいった。用人が、上りロヘ来た。   「牧氏、まだか」  牧は、振り向きもしなかった。   「また、御先代よりの洋物流行、新学、実学が奨励されて以来、呪法のごときは、あるましきようじゆつみやまぎようじや       くちよ  みこ 妖術、御山行者の真似事、口寄せ巫女に毛の生えたものと・−・なかんずく斉彬公、並にその下々 −・−一一 の人々のごときはーL   「しゃによって、呪法の力を人々に、示そうと申すのか」   づよい時期と、心得まする。御家長久のために、兵道のために、また、老師の御所信に反きまナるが、当兵道は、島津家独特の秘法として、門外不出なればこそ重んぜられまするゆえ、御当                     こ                          あつこうそう家二分して相争う折は、正について不正を懲らし、その機に呪法の偉力を示して、人々の悪口雑言を醒ますのも、兵道のために−」   「黙れ」  和田と、高木とが、一膝すすめた。飽津がまた、   「こみ人った話ならば、後日になされとうござるが」  牧は答えなかった。玄白斎も対手にならなかった。   「当兵道への悪口雑言などと、それはどの、他人の批判で、心の勁くようなー−牧、浅はかではないか? 上より軽んぜられ、下より蔑まれても、黙々として内に秘め、ただ一期の大事に当って、はじめて、これを発するこそ、大丈夫の覚悟と申すものじゃ。三年名を現さずんば忘れ去るのが人の常しゃ。二百五十年、修法の機がなければ、雑言、悪口、当り前しゃ。先師たちは、それを、黙々として、石のごとく、愚のごとく、堪えてこられた。わしも、祐紀を会得してこの肺になるが、一度の修法を行う機も無い。しかし己を但し、法を信して来た−」   「先生II−先師十六代の二百五十年間よりも、この十年間の方が、世の中も、人心も激変致しました」  「万象変化しても、秘法は不変しゃ」  「入の無いところ、法はござりませぬ。秘覗の極は入と法と融合して無擬の境に入るときに、その神カを発しますが、その人心がー」   「ちがってしまったか?」   「自ら独り高うする態度と、兵道を新しくし、拡張し、盛大にせんとする心と」   「わしは、それを愚かしいと思うがーー・」  牧は、御家のため、師のため、己のため、兵道のために命を削って、調伏の偉効を示そうとしていたが、玄白斎にとって、それは、不正な、便法でしかなかった。兵道家はもっと、純一封かな態度でなくてはならぬと信じていた。   「兵道のために尽そうとするお前の心は、よくわかる。ただ1その雑念、邪念が入っていて、はたして私覗か成就するか−−牧。当兵道興廃のわかれるところ。その心のお前が成就するか、わしの修法にカがあるかーわしも、一世一代の修法、お前と、私記をくらべてみようか」   「はっ」   「諸天を、通して、夢幻の裡に逢おう」   「はあ」   「返答によっては、斬るつもりであったが、牧、わしは、お前を、斬れんわい。兵道の興発よりもお前が可愛い」  牧は、だんだん、うつむいて行った。膝の上へ涙が落ちた。玄白斎も、涙をためていた。      ニノー  牧の一行が立ち去ってからも、玄白斎は勣かなかった。追口の疲れが一度に出て来たせいもあったが、玄白斎にとっては、それよりも、牧の処分に対して、強い態度を取れなかったという苦しさからであった。  玄白斎の日頃からいって、もっと烈しく叱るであろうと、和田も、高木も考えていたが、玄自省は、牧に逢い、牧の辛苦を見ると、ただ一人の自分の後継者を、自分の手で失いたくはなかった。和田の、高木の前もあったが、どうしても、「自裁しろ」とは、言えなかった。和田も、高木も、黙っていた。二人が黙っているだけに、玄自責は、自分の矛盾した心に、悩まなければならなかった。   「脚でも、お揉み致しましょうか」  仁+郎が、こう言った時、   「爺っー−牧の一行が、通らなんだか」と、表で、大声がした。そして、大勢の足音が土に響いて来た。   「はい、今しがた、お越しになりました」  爺が、台所から、表へ小走りに出て行きながら、  「どうぞおかけ下さいませ」 和田が、襖のところから、眼を出すと、鉢巻をしめ、裾を尉抑った若者が、 八人ば かり、軒下 に立って、何か囁き合っていた。   「行けっ。一走りだ」   「遠くはない」  和田が、   「先生っ、苦い者が、牧氏のあとを追いよりますが」  玄自省は、眼を聞いて、   「そうらしい」  と、静かにいった。立とうともしなかった。   「わしには、牧が斬れぬ。しかし、あの若い者なら、斬れよう。余人が斬るなら、斬ってもよい。わしには、仁+郎‐−斬れぬ」  俯向きがちに、鴛もしごかない、玄白斎は袴の下へ、両手を人れてやさしくいった。表の若者だらけ爺の出した茶も飲まないで、すぐ登って行ったー話し声だけ、しばらくの間聞こえていたが、玄白吝か顔をあげて、   「いいやI−和田」と、大きい声をした。   「あの無分別な、若い者では、覚束ない。牧は新れぬ。止めるがよい」   「止めにまいりましょう」  仁+郎が立ち上った。  「持てーーなんとしたものか、高木、わしには判断がつかなくなってきたが、−どこで朋党 `‘が゛ の争いを起こしては、斉興公のお耳に人った時、斉彬公方の人々は極刑に逢おうーーム、けり止めなくてはならぬ。高木、仁十と二人で追っかけて、引き止めてまいれ。秘法での調伏は、秘法にて破りうる。玄白斎の命のあるかぎり、そう、牧の自出にはさせぬ」  仁+郎と、市助とは、頷くと同時に立ち上った。   「爺、草靴の新しいのをー−」  二人は刀を提げて上りロヘ出た。そして、草鞄の級を通している時、二、三人の馬上の人々が、二人の眼を掠めて鉄蹄の響きを残して、山の下へ影のごとく過ぎ去った。      ニノニ  右手は雑草と、熊笹の茂りが、下の谷川までつづいていた。左手は、杉の若木が、幾重にも山をなして聳えていた。  斉彬に目をかけられている家中の軽輩、下級武士の中の過激な青年たちが、牧を襲撃するという噂が、いつの間にか相当に拡がっていた。後方を振り向いた一人が、  「あれは?」  振り向くと、山角の曲りに、白い鉢巻をした人々が走り出て来ていた。  「山内、斎木、安堂寺、寺島」  と、馬上から、他律が叫んだ。  四人が、向いて、   「なに?」  と、いうよりも先に、彼らの眼は、その近づいて来る人々を見た。山内は、大きい舌を出して、唇をなめながら、   「来よった」  と、笑いながら、徘の中から、彫が出した。   「駕、急げっ、先へ行け」  と、二、三人が、同じことをいった。駕は小走りに遠ざかった。斎木は、道幅を計って、   「山内と、二人でよろしい」  追手は、木の間へちょっと隠れて、すぐまた現れた。もう間は小半町しかなかった。山内と、斎木が第一列に、少し下って寺島と、北郷が、第三段に安堂寺と飽津とが、並んだ。  追手の先頭に立っているのは、二十二、三の若者で、白地の稽古着に、紺木綿の痙をつけていた。山内が、   「牧殿が入用か」  と、怒鳴った。追手は、それに答えないで、四、五間まで近寄った。そして、   「吾ら有志より、牧順に申し入れたい儀がござる。御面謁できましょうか、それとも、御伝達下さりましょうか」   「無礼な、その鉢巻は、なんじゃ」   「お互でござろう」 「なに?」 「好んで、争いを求めませぬ。牧殿に何故、御世子を調伏したか? その返答を、お聞き下さ れい」   コ戻れ、戻れっ」  若者の背後の人々が、  「問答無益」  と、叫んだ。  「奸賊」  「斬れっ」  「斬れっ」  若い人々は、お互に、興奮しながら、他人を押し退けて前へ出ようとした。  「山内を存しておるか」  山内が、尉の端へ立って、若者に笑いかけた。  「お手前など対手でない。引っ込め」  「牧に尻っぽを振って、ついてまいれ」  山内は、さっと赤くなった。刳形へ手をかけて、つかつかと、前へ出ると、若者たちは、二三歩退いた。  「よろしいか」    山内は、真赤な顔をして、咀みつけた。その瞬間、背の低い一人の若有か、水に閃く影のごとくヽ人々の袖の間をぎり抜けて出てヽ     「ええいっ」    怒声と同時にちゃりんと、刃の合った音がした。人々は胃をかたくして、柄を握りしめた。      ニノ三  人々が、額を蒼白くして、脇の下に汗を出して、刃の音のした方を見た。  小柄な青年は、狂人のように眼を診き出して、山内を睨んでいた。山内は、唇に微笑を浮べて、‘正眼に刀をつけていた。青年は、だんだん肩で呼吸をするようになった。青年の背後から、一人が何かいいながら、青年の横へ出ようとした。その瞬間‐ーーー  「ええいっ」  それは、声でなく、凄ましい音だった。谷へも、山へも木魂して響き渡った。青年は、その声と一緒に身体も、刀も叩きつけるように—それは、手負の猛獣が、対手を矛にかけようと、熟塊のごとく、ぶつかって行くのと同じであった。  人々の見ている前で、自分から斬り込んでおいて、よし、山内がどんな豪の者にせよ、一太刀も斬らずに、引きさがることは、面目としてできなかった。自分の命を捨てる代り、いくらかでもいいから、対手を斬ろうとする絶望的な、そして、全力的な攻撃であった。  「おおっ」  山内は、強く、短く、唸った。二つの刀が白くきらっと人々の眼に閃いた瞬間、血が三、四尺も、ポンプから噴出干る水のような勢いで、真直ぐに奔騰した。そして、雨のように砕けて降りかかった。  山内は、血を避けると同時に、次の敵のために刀を構えて、一間あまりの後方に立っていた。真赤な顔であった。青年は、血を噴出させて、黒い影を人々にちらっと示したまま−−−谷へ落ちたのであろう、どこにも姿が無くなった。  敵も、味方も、しばらく黙っていた。山内が、右手に刀を持って、左手を柄から放した。そして、後方へ小声で、   「布はないか」   「傷したか」   「指を二本、落された」   「おお、どの指をーー」  山内が、右手片手で、刀を構えて、指を後方へ示した時、   「山内、見事だ。おれが、対手になる」   「見た面だのう」  若者は、答えないで、刀尖を地の方へつけて、十分の距離を開けた。薩摩独自の剣法、瀬戸口備前守が発明したと伝えられる示現流(一名、自顕流、自源流。自派という僧、天狗より伝わったものという)特異の構えである。 2  か所の音が、向うの山に響いて、青年の背後へ近づいて来た。二、三人が、振り向くと、三人の上がヽ馬を走らせて来ていた・    「邪魔の人らぬうちー」    と、一人が叫んだ。    「斎木殿、御対手申ナ」    真先にいた若者が、刀を抜いた。それと同時に、若者も牧の人々も、いっせいに、鞘を払った。    「兵頭はおらんか、丘ハ頭っ」    遠くから、馬上の人が叫んだ。その刹那、    「なにがっ。丘ハ頭」    山内が、受けると見せて避け、対手の身体の崩れるのを、討尹炉ぎと構えていたのへ、兵頭は、   こう叫ぶと、雷のごとく、打ち込んで行った。避ける暇はなかった。がちっと受けた。しっかと  柄を握ってはいたが、指を二本なくした掌であった。びーんと、掌から腕へ響いて、左手が柄か  ら離れた。刀が下った。兵頭の刀尖が、山内の頭へ、浅いが割りつけた。        ニノ四    腕で斬るのではなく、身体ぐるみで斬りかかった刀だった。山内の頭から、額へ、眉の上へ、   赤黒く血が滴って来た。    「池上っーー池上はおらぬか」  と、馬上の人の叫ぶ声が、近づいた。  「新納殿だ」  二、三人が呟いた。  「ええいっ、ええいっ」  兵頭は、刀を真直ぐに右手の頭上へ構えて、山内の眼を睨みつけた。お互に、それは、物を見る眼ではなく、人間の全精力を放射する穴のようなものだった。凄惨な、殺気とでも名づけるような異常な光が放たれていた。  「来いっ1さ、来いっ」  こう答えて、またしばらく、二人は、黙って睨み合った。  斎木も同じように、黙って、正眼に構えたままであった。刀と刀との開か、まだ二、三尺も離れていたが、それがからっと触れて、音立てた時には、どっちかが、傷つくか、殺されるかの時だった。敵も味方も、狭い道の背後から、隙があれば、一太刀でも助けようとしていたが、どうすることもできなかった。   「引けっ、刀を引けツー山内っ、斎木っ」  新納は、若者の中へ、馬を乗り入れて来た。若者は、家老の位置に対し、無抵抗でいなければならなかった。  「兵頭っ。刀を引けー−引かぬかっ」  「はっ」  兵頭が、こう答えた刹那、新細が、   「山内っ」  と、叫ぶのが早いか、山内の打ち込んだのが早いかI−兵頭は、   「おおっ」  さっと、引くと、新細の馬へ、どんと、ぶつかった。よろめきながら、閃いた刀を、反射的に受けて、   「何をっ」   「山内っ、おのれ、たわけ者がっ」  新細か、山内の前へ、馬をすすめた。馬は怖じて、順を上げながら、ニ、三尺、山内の方へ胸を突き出して、脚踏みした。   「卑怯者っ、それでも、剣客かっ」   一人が、兵頭の後方から、山内へ怒鳴った。   「引け、引き揚げいっ」  人々の後方にいた二人の馬上の上が、近くの若者へ、頭を振って、引き揚げろといった。  「斎木、早く行け、牧は行ったか」  「御無事に」  新細は頷いて、  「池上、丘ハ頭、戻れ」   「由利が殺されました」  兵頭が、馬の横から蒼白な顔で見上げた。   「どこに」   「谷へ、斬り落されました」   「誰に?」   「山内にーー」   「すべて、戻ってから聞こう。戻れ、皆戻れっー−なにを、ぐずぐずする。戻らぬと、おのれら、厳重に処するぞ」   「池上−—おお無事か、新納経−−‐」   「お前は?」   「加治木玄白斎の門人、和田仁+郎と申しまする」   「加勢か」   「いいや、師の仰せにて、押えにまいりましたが、無事の体にてーー」   「そうか、わかった。玄白斎に、新船が静めたと申しておけ、御苦労。池上、兵頭、似ちと同道せい」   「はい」  新納は馬を廻した。      三ノー   「同志の名は、明かすまいぞ」   「うん」  と、いった時、板戸が、埃と一緒に軋って開いた。   「池上11出ろ」  池上は、声に応じて立ち上って、ずかずかと、その侍の方へ歩み寄った。薄暗い廊下に、もう二人の侍が立っていた。   「ついてまいれ」  廊下の突き当り、中戸を突きあげると、沓脱に、庭下駄と草履とが並んでいた。人々が、庭下駄をぽいたので、池上がその上へ足を下ろすと、   「草履だ」  と、背を突いた。  「なに?」  池上は、振り返って、睨みつけた。   「草履を履くのだ」   [いえばわかる。なぜ、背中を突いた」   「黙って、早く行け」   「行かん。俺は、罪人でないぞ、軽輩だと、お主たちは侮る気か」  先に、庭に降りていた一人が、   「ここで争っては困る。殿が侍っておられるのだ。池上」   「よろしい」  池上は、赤い顔をして、眼を光らせて、植込みの中を、曲って行った。広縁のところへ来ると、一人が、縁側へ手をついて、  ’   「召し違れました」  と、いった。二人は、池上とともに、庭へうずくまっていた。しばらくして、障子があいた。新約六郎左衛門が、小姓と近侍とを従えて坐っていた。   「それへ上げろ」  新約は、縁側を、扇で指した。                        ヽ   「御意だ。すすむがよい」  池上の後方の士が、囁いた。池上は、一礼して立ち上って俗説から、縁側へ平然として上って行った。新約は、その一挙、一勤をしっと、見ていたが、池上が坐って、礼をしてしまうと、   「七、八入、人数がおったのう」   「はい」   「誰と、誰とー」   「忘れました」    新納の眼に、怒りが光った。池上は、その眼を、少しも恐れないで、正面から、ていたo     フなぜー思い出さぬか?」     「出しません」    池上は、言下に、はっきりと、答えた。 じっと視つめ  「よし、それでは、思い出させてやろう。釘をもてー柿沢、その方ども、そいつの手足を押えい」  囚人の近侍が立ち上った。池上は、微笑した。だが、顔色は少し蒼ざめてきた。一人が池上の右手をとって、上へ引いて、膝頭を片脚で蹴りながら、   「俯つ伏せになれ」  と、いった。池上は、その男を下から睨み上げて、   「俯つ伏せ? 薩摩隼人は、背を見せんものじゃ。馬鹿め」  怒鳴ると、右手を振ひ切って、仰向けに、大の字に、手足を延ばした。四人が、T人ずつ手と足を押えつけた。 三ノニ 「釘を、持参仕りました」 「親指を布めてみい‘−池上、ちいっと、痛むぞ」  一人が、押えている池上の掌を、板の上へ伏せて、親指の爪の生え際へ、釘のさきを当てた。そして、少しずつ力を加えながら、爪をおしつけた。  爪は、しばらく、赤色になっていたが、すぐ、紫色に、変った。池上の顔は、真赤に染まって、形似の脈が破裂しそうにふくれ上ってきた。額に、あぶら汗が激み出てきて、苦しい、大きい急が、喘ぐように、呻くように、鼻から洩れかけた。聊か微かにふるえて、一人の力では押えきれぬくらいの力で動こうとした。足の指は、皆内側へ曲って、苦痛をこらえていた。眉も、眼も、‘唇も、頬も、苦しそうに封んできた。   「池上、どうしゃ、同志の名を間こうか」  新約は、煙草をはたきながら、静かに、声をかけた。池上の股が、波打つように動き、頭髪が、目に立ってふるえてきた。   「池上」  うむーっ、と、苦痛そのものが、洩らしたような凄い呻きが、池上の口から洩れて出た。手足を押えている四人の侍は、手だけでなく、身体と、聊とで、池上の一本の手、一本の聊を押えていた。  池上は、唇をぽんで、眉も、鼻も、くちゃくちやに集めて苦痛を耐えていた。指から、腕しゅう、腕から、頭の貳吋へまで、痛みが、命を、骨を聯るように、しんしんと響いていた。顔色が、灰土のように、蒼ぐろく変って、呼吸が、短くなってきた。仰向いている股が、人間とは思えぬ ように、高く、低く、波打って呼吸をしかけた。   「池上」  池上は、黙っていた。新柄は、が忙中を叩いて、   「よかろう」  と、いった刹那、池上が、   「うっ」  それは、呼吸のつまったような、咽喉からではなく、もっと奥の方から出た音のようなものであった。そして、池上の腹が、胸が五寸あまりも浮き上った。人々が、池上の上へのしかかった。池上の爪へ、釘を押し当てていた侍が、   「突き抜けました」  と、額に、冷たい汗をかいて、蒼白い顔をしながら、小さいかすれ声でいった。   「手当をしてやれー−‐気絶したか」  新柄が、人々の蔭になっている池上の顔を見ようとした。   「よよ、まままま」   !f iiii                            ゆうき  人々は、冷たいもので、背中を撫でられた。池上のその笑い声は、幽鬼のような空虚で、物凄い笑いだった。   「あははけ、生きていたか−‐‐池上、ぐちに薩摩隼人だ。よく所えた」  新約が、池上の、灰色の顔を見て、睨めつけるように、鋭い眼をして、こういうと、次の瞬間、やさしい声になって、   「池上、お前たちの世の中しゃ。その心を忘れずに、しっかり、やってくれ。ただーー1ただ、無謀な振舞だけは十るな、世の中は広大じゃで、一家一国の争いなどに、巻き込まれるな—−感心したぞーーーえらいで」  新納の眼に、微かに、涙が自く浮いていた。池上は仰向いて、眼を閉じたまま、大の字になって、身動きもしなかった。      三ノ三  医者が来て、釘の突き抜けた疵口を洗って、細帯をした。池上は、何をされても、黙って、眼を閉じて、身動きもしなかった。また、できなかった。苦しさに、痛みに、気を失う間際までになっていた。それが急に放だれて、称められて、肉体も、精神も、ぼんやりとして、疲れきっていた。医者が立ち去ろうとすると、新細か、   「兵頭を呼べ」  池上が、   「兵頭」  と、呟いた。そして、首を動かして、起き上るうとした。四人の者が、片膝を立てて、もし、主人に乱暴でもしようものならと、池上の眼を、手を、脚を、油断なく見つめていた。`   「新約殿」  池上は、灰色の顔色の中から、新納を睨みつけた。  「裁許掛でもないお身が、なぜ、濫りに、人を拷問なされた」  新約は、ロに微笑を浮べて、   「書生の理崩しゃ。ま、理屈はよい、わしが負けておこう。今、兵頭がまいったなら、改めて話すことがある」  と、いった時、庭石に音がして、兵頭が案内されてきた。薄汚ない着物が、庭の中でも、部屋の中でも、目に立った。侍が兵頭に、囁くと、   「御免」  と、いって、ずかずかと、池上の側へ坐った。そして、新約へ、挨拶した。   「兵頭」   「はっ」  兵頭は、両手をついた。   「今、池上を爪責めにしたー−」  兵頭は、頭と、手を、さっと上げると、正面から、皆納を睨んだ。そして、   「ここの親爺とも覚えぬ」  と、大きい声を出した。新納は微笑を納めて、兵頭を眺めていた。近侍が、ことごとく、兵頭を睨みつけた。   「爪責めは愚か、ハつ覗き、牛裂きに逢おうとも、いったん口外すまいと誓ったことを破るようなーあはほほ、ここらの方には、爪責めでぺらぺら喋る人もござるのしゃる。だから拷問も 御入用しゃ。吾ら、軽輩、秋水党の中に拷問などと申すものはござらぬ。爪責め? どう責め る?」  兵頭は、一座の人々を、しろりと、見廻して、いきなり右脚を、新納の方へ投げ出した。そして、右手で、足の親指を握って、   「爪を責めるだけかI見ろっ」  ぐっと、逆にとった自分の親指、   「えいっ」  ぽきっ、と音がした。   「新納、見そこなうなっ。吾等薩摩隼人に、拷問にかけて問うなどと、恥を佃らぬかっ。おのれが拷問にかけられると、ふるえ上るから、吾らも白状するかと、ははけはは、老いぼれたかっ。脚でも−」  兵頭は、腕をまくって突き出した。   「腕でも11−新るなり、突くなり、折るな91他上っ。生死命あり論ずるにたらず、一死ただ報いんとす、君主の恩」  兵頭は、足を投げ出したまま、大声に、詩を吟した。誰も、だまっていた。身動きもしなかった。      三ノ四  「武助、おいとま致そう」  少し、顔色を目復した池上が、静かにいった。  「精細殿、御無礼致しました」  兵頭は、脚を引いて、御辞儀もしないで、‘  「もう、夜に近い。急ごうよ」  一座の人々は、一座を、新細を、あまりに無視した二人の振舞に、どう判断していいか、ぼんやりしていた。兵頭が立ちかけると、精細か、  「兵頭、引出物を散らそう」  と、叫んだ。  「引出物?」  兵頭が、新細を睨んで、身構えた。新約は自分の聯猷を披きとって、  「主水玉じゃ。差料にせい」  と、兵頭の脚下へ投げ出した。兵頭は、しばらく黙って、精細の顔を見ていたが、静かに坐った。そして手をついて、  「お許し下されますか」  じっと精細の眼を見た。  「池上、そちにも取らそう。大刀を持て」  と、小姓へいった。そして、兵頭へ、  「斉彬が、軽輩、若年の士を愛する心が、よくわかった。機があったら、新細か、感服していたと、申し伝えてくれい。ただ、池上、兵頭。噂に上っている牧、あるいは調伏のことなどで、あったら命を捨てるなよ。近いうちに天下の大難が来る、それを支え切り抜け、天下を安今に置くは、もう、わしらごとき老境の者の仕事ではない。ことごとくかかってお前たちの双肩にある。よく、斉彬を補佐し、久光を援けて、この天下の難儀に赴かんといかん。一家の内に党を立て、一人の修行者風情を、お前ら多数で追っかけるような匹夫の業は慎しまんといかん」  二人は、だんだん頭を下げた。   「同志の者によく申せ。これ、馬の支度をして、送ってやるがよい。お前たらが、次の天下を取るのしゃ。大切にせい。髪の毛一本でも粗末にするな、指は、一本だけ折ればよいぞ。兵頭」  「はっ」  兵頭は、泣いている。顔を上げなかった。   「斉彬公よりも、天下の動乱のあること、よく承わっております。御教訓、しかと一同に申し伝えまする」  と、池上が挨拶した。  二人が、引出物の刀と、の、左右の部屋部屋から、 脇差とを持って廊下へ出ると、もう、黄昏になっていた。廊下つづきいろいろの顔が、ちらちらと履いたし、玄関にも、多勢の人々が二人 を眺めていた。  提灯を片手に、卸でか、馬の右に立った。人々の挨拶を受けて、門を出ると、もう、夜であった。門の軒下を曲がるとーーニつの指示、   「武助」   「五郎太」  と、叫んだ。馬丁がその方へ提灯を突き出した。二人の青年が見上げていた。   「おお、西郷」   「大久保。今ごろまで、何していた」   「待っていた。無事だったな」  大久保の声は、微かに、明るく、顔えていた。   「引出物まで頂戴した」  と、武助は、脇差を、かざして見せた。      四ノー  黒塗の床柱へ凭れかかって、家老の、佐山将曹が、   「なんとー上県で辻君、大坂で惣嫁、江戸で夜鷹と夕化粧‐−かの。それから」  金砂子の襖の前で、腕組をして、微笑しているのは、斉興の側役伊集院伊織である。その前に、膝を正して、小声で、瀧ポ撒を唄っているのは、岡田小藤次であった。 意気は本所、仇は両国 うかりうかりと、ひやかせばここは名高き、御蔵前 一足、渡しに、のりおくれ夜鷹の舟と、気がつかず 危なさ、恐さ、気味悪さ 小啓次は、眼を閉じ、唇を曲げて、ひとくさり唄い終ると、  「ざっと、こんなもので」 扇を抜いて、忙しく、風を入れた。  「世間の諸式が悪いというに、唄だけはよくがげるのう」 将豊か、柱から、身体を起こして、  「ツンテレ、ツンテレーーか、のう、ツンテレ、ツンテレ、京でえ、辻君—−」 「トン、シャン」 小啓次が、扇で、膝を叩いた。  「申し上げます」 廊下から、声がした。 「大坂で、惣嫁」 「テレ、ツテツテ、ツテツンシャン」  「申し上げます」 将豊か、扇で、ぽんと膝を叩いて、  「えへんーーー江戸で、夜−−」  「申し上げます」 伊集院が、立って行って、  「なんしゃ」  「名越左派太、仙波八郎太殿御両人、内密の用にて−—」  「待て」  「テレトン、テレトン」  「御家老」 将豊は、細目を開いて、  「夕化粧、ツンシャンーI‐なんしゃな」  「名越と、仙波とが、何か活かあって、お目にかかりたいと」 将豊は、うなずいて、また、眼を、閉した。小啓次が、  「意気は、本所」  「意気は、本所」  「テレ、トチトチ、ツンシャン」 障子が、静かに問くと、敷居から一尺ほどの中へ、二人が坐った。障子をしめると、二人は、 御辞儀をした。   「仇は、両国ーーーもっと、近う」   「はっ」   「ただ今、唄の稽古じゃ」  小啓次が、口三味線のままちょっと振り向いて、二人を見て、すぐ、   フッかりうかり≒1」   フっかり」  仙波が、   「ちと、内談をーー」   「ひやかせばーー内談か、聞こう1 ‐   「申しかねまするが、御人払いをー」   「人払い?」  将曹の顔が、ちょっと険しくなった。   「余人はおけぬ、申してよい」  床柱から、身を離すと、二人をきっと眺めた。小藩次も二人の方へ、膝を向けた。      四ノニ   「では1−」    名越左派太は、右手を後方へ廻して、包み物をとって膝の上へ置いた。そして、中から、箱をとり出してヽ    「これを御覧下されたい」    右手で押し出すと、伊集院が、将曹の前へ殷いた。将曹は蓋の梵字をしばらく眺めてから、蓋  をとって、人形の包みを、手早く開けた。そして、    「これが?」    二人を見た。    「御世組様を、調伏した形代と心得ますが1」    三人の眼が光って、一時に、人形へ集まった。左派太が、    「裏側を−−」    声に応じて、将曹が、人形を裏返した。小藤次が、首を延ばして覗き込んだ。    「あるいは、調伏の人形かもしれぬーーーどこで、手に入れた」    「御病間の床下から−−仙波の倅が、手に入れました」    将曹は、うつむいている仙波へ、しろっと、眼をくれて、    フ』れが、調伏の形代として、誰が、いったい寛之助様を呪うたのじや」    二人は、将曹を、じっと見たまま、しばらく黙っていた。左派太が、    「その儀は、この人形を埋めました者を詮議すれば、わかると存じます」    「心当りでもあるか」   「ござります」   「申してみい】  小藩次と、伊集院とは、二人を見つめたままであった。   「おそれながらーー」  仙波が、懐から、紙を取り出して、伊集院の方へ押しやった。   「この二つの筆跡から判しますに、牧仲太郎殿の仕業と心得まする」  将豊は、人形を持った手を、膝の上へ、落すように置いて、   「牧だとーー」         、.   「その、書状の筆跡をー」  と、までいうと、少し、赤い顔になった将豊か、   「仙波1名越。この人形を、その方どもが作り、牧の筆跡に似せて書いたとされても、弁解の法が立つか」  名越が、さっと、顔を赤くした。   「奇怪な。−11仰せられる御言葉とも思えぬ。某がーー」   「物の道理しか。貴公がせんでも、牧に怨みのある奴が、牧を陥れんがために、計ったこととも考えられるのではないか。余のことではない。軽々しく、調伏の、牧の仕業のと、平常の、貴公に似ぬ振舞だ」  「お姫様から、御長男様まで、御三人とも、奇怪な死方をなされた上は、一応、軍勝図を秘伝   致す牧へ御取調べのあっても、ダ公とは申せますまい。もし、その人形が余人の手になったもの1 なら、不肖ながら、某ら両人切腹の所存でござる。島津壱岐殿も、牧の筆と御鑑定になりました  が、一応、調伏の有無を、御取調べ願いたいと−−内密の用とはこのことでござります」    名怠け、声を少しふるわせていた。将豊か、    「左派太」    と叫んだ。      四ノ三  左派太は、少し怒りを含んだ眼で、将曹に膝を向けた。将曹も左源太を睨みつけながら、   「この形代は、いったいどこから、持ってまいったな」   「申し上げましたとおりーー御病間の床下からーー」   「いかがして、取り出した?」   「いかがしてとは?」   「床下へ、忍び込んだので、あろうな」  仙波も、名越も、しばらく黙っていた。忍び込んだ、といえば、なぜ忍ぶべからざるところ`へ、忍び込んだと、逆にとがめられても、弁解はできなかった。しかし、名越は強い明瞭した調子で、   「いかにもーーー御床下へ、忍びこんで、手に入れました」  小藤次も、伊集院も、名越の大胆な答えに、しっと、顔を見つめた。   「誰が、許した−−誰が、忍び込めと、許した」  名越は、眼の中に冷笑を浮べて、   「許しを受ける場合もあれば、受けんと忍ぶ時も、ござろう。御家の大事に、いちいち—−」 将啓示、   「黙れ、許しなくぼ、重い咎めがあるぞっ」   「あほほははヽ命を捨てての働きはIあはははけはヽ仙波もヽ七彩いヽと゜くにヽ命はないものと覚悟しておる。御家に、かかる大不祥事があって、悪逆の徒輩が、横行致しておる節、かような証拠晶を手に人れるに、いちいち、御重役まで届けられようか。ははは。いや、御貴殿が、この晶を軽々しくお取り扱いなさるなら、もはやそれまで、某らは、某らとして、相当の手段をとって、飽くまで、牧殿を追求する所存でござる。貴殿御月番ゆえに、一応の御取り調べ方を御願いにまいりましたが、思いもよらぬ御言葉、この大事を取り調べようとせず、逆に、当方を御咎めになるらしい口振り、裁許掛ならいざ知らず、月番の御役にしては、ちっと役夫に相違示ござろう。その晶が偽り物ならば偽り物、真実ならば真実と、ひととおり、掛り役人にて取り調べされるよう御指図なさるの示、月番の御貴殿の役では」  名越は、大きい声で、一息に、ここまで聡べると、将啓示真赤になったかと思うと、   「黙れっ、黙れっ」  と、叫んだ。   「無社なっ、何を、つべこべ、講釈を貳げるか? かようのあやふやな人形を、証拠晶などと、 大切そうにーL   「奇怪なっ、この人形が、あやふやとは? 何が故に、あやふやか? 高の知れた泥人形ゆえに、あやふやと申されるのか? 牧仲太郎でも召し捕えて、白状させれば、あやふやでないと、仰せられるのか? 取り調べもなされずと、あやふやと断じて、裁許掛の手へも、御廻しにならぬとすれば、御貴殿も、同し穴のむじなと見てよろしゅうござるか?」   「なに?」   「仙波、直々、裁許掛へ願い出ることに致そう」  名越が、赤い顔をして、仙波へ、振り向いた時、七、ハ人の静かな足音が、広書院の方に近づいて、障子の開く音がした。   「持って戻れっ」  将背け、唇と、頬とを痙撃させながら、人形と、箱とを名越の前へ投げ出した。がちゃんと音がしてーー人形の片手がもげた。仙波か、   「何をなさるっ」と、叫んだ。       四ノ四   「なに?」  将曹は、こういって、仙波を睨みつけながら、立ち上った。ハ郎太は、頬をぴくぴくさせ掌を頗わせていた。そして、  「お待ちなされ」  将曹の行手へ、肺をすすめた。  「軽率なる御振舞、何故、証拠の晶を、慌し召された」  将曹は、少し、額を、蒼白ませながら、小節次と伊集院に、  「御渡りになったらしい」  と、いって、影心手をかけようとした。  「待たれいっ」  ハ郎太は、手を延ばした。  「将曹殿」  ハ郎太が、片肺を立てて手を延ばし、将曹の袴の裾を掴むと同時に、   「無社者がっ」  室中に轟く、大きい声であった。そして、真赤になった将曹は、掴まれている方の足を揚げて、ハ郎太の腕を、蹴った。ハ郎太は、将曹の、意外な怒りに、態度に、掴んでいた据を離すとともに、無念さが胸の中へ、熱い球のように押し上って来た。  「なんと心得ているっ。け、軽輩の分際をもって、無礼なっ」  八郎太の下から睨み上げている眼へ、憤怨と、憎悪を浴びせながら、将曹は、襖を少し開けた。   「仙波、無益なことしゃ。対手による。戻ろう、戻って−—」  将曹は、襖を少しずつ開けつつ、   「両人とも、退れっ」  と、立ったままで叫んだ。   「伊集院っ、此奴を退げろ」  将曹の声は、頗えていた。二、三寸隙間の開いた襖から、中の模様が見えていた。六十に近い、当主の、島津斉興が、笑いながら脇息に手をついて、坐りかけながら、将曹の声に、こっちを眺めていた。その模に、ほの暗い部屋の中に、浮き立ってみえる、厚化粧のお由羅が、侍女を従えて、立っていた。   「お退り召され」  伊集院が、膝を立てて、仙波にいった。ちょうど、その時、老公の顔と、名越の顔とが合ったので、名越が、平伏する。仙波も、すぐ平伏した。   「お退り召され」  二人は平伏したまま、しばらく、じっとしていた。   「将、なんとした」  斉興が、声をかけた。将曹は、襖を開けて、入りながら、   「ただいま、言上」  と、坐って、後ろ手に、襖を閉めた。   「早くー−」  と、伊集院が、三度目に促十とともに、   「煩さいっ」  左派太が、低いが、鋭く叫んで、伊集院を睨んだ。仙波は、木箱の中へ、毀れた人形を包んで入れた。   「退ろう」  と、名越を振り向いた時、   「両人とも、待てっ」  足音とともに、斉興の部屋から、呼び止めた人があった。      四ノ五  襖を開けだのは、横目付四ツ本喜十郎であった。後ろ手に閉めて、二人の前へ坐ると、   「何か、証拠の品が、あると申されるか」   「ござりますIこれなる−」  仙波が、膝の上で、包みかけていた箱を、差し出した。   「暫時1−」  四ツ本は、そのまま向き直って、膝行して、書院へ人った。  二人は、膝へ手を置いて、黙っていた。伊集院は、天井を眺めて、腕組をしていた。小藤次は、扇をぱちぱち音させていたが、立ち上って、廊下へ出て行った。  斉興の部屋からは、低い話し声が、誰のともわからずに洩れてきた。仙波と、名越とは、斉興   が、あの証拠晶を見てどう処置するか? 自分の孫を呪い殺した下手人に対して、どう憎み−−〜 自分たちの真心を、どう考えるか? 煙管を叩く音が、‘静かな書院中へ響いていた。しばらくそ  うした沈黙がつづいてから、足音がしたので二人が、俯向いていると、四ツ本が、    「拙者の詰所まで」    と、いって、襖のところへ、立っていた。    「詰所へ?」    「御上意によって、承わりたいことがござる」    「心得た」    名越が、膝を立てた。仙波が、    「ただいまの晶をーー」    「ただいまの? 御前にあるが‐——」    「御持参御願い申したい」    四ツ本が、襖を開けて、膝をついて、敷居越しに、    「申し上げまする」    将豊か、    「なんしや」    「その証拠の晶を戻してくれいと、申しておりますがl_ I    斉興が、鋭く、四ツ本の後方に、頭の端だけを見せて、俯向いている二人を、睨んだ。そして、 脇息越しに、手を延ばして、人形を掴んで、   フーれか」  大きい声と一緒に、四ツ本の前へ、投げつけた。片手を折った人形は、また首を折った。白沢畝の眼を、剥き出した首だけが、ころころと、四ツ本の前へ転がってきた。  名越と、仙波とは、ただの調子でない斉興の声に心臓を突かれると同時に、人形を投げつけたらしい気配に、ちらっと眼を挙げたが、近侍の人々しか見えなかった。   (どうして、御立腹になったのかしら?)と、二人の心が心もち蒼ざめて、冷たくなった時、   「不屈者がっ」  と、斉興の、少し飲えて、しゃがれた大きい声がした。二人は、   「はっ」  と、いって、見えぬところであったが、平伏した。  斉興は、首を聡して、二人を見ようとしながら、両手で脇息を押えて、ぶるぶる両手を願わしながら、   「これっ、不屈者—−聞け」  と、叫んだ。     四ノ六 斉興が、思いがけぬ烈しい彫対に、二人は、手をついてしまった。    「不届者っI’—こ、これへまいれっ」   枇彫いヽ怒り声であった・    「おのれら、不所存な。なんと思いおる。たわけがっ」    二人は、平伏しているよりほかにしかたがなかった。四ツ本も、二人と回しように手をついて  いた。  お出願は、薄明りに金具の光る煙草盆を、膝のところへ引き寄せて、銀色の長煙管で、煙草を降っていた。そして、白々とした部屋の空気を、少しも感じないように、侍女に何かいっては、侍女と一緒に朗らかに笑った。  「実学党崩れ、また、秩父崩れ‘−−家中に党を立てて、相争うことは、それ以来、きつい法度にしてあるはずじゃ。それを存じておりながらー−−こともあろうに、出願炉どうの、調伏炉どうのとー−−おのれら、身をなんと見ておるのじゃ。当家は身のものじゃぞ。これっ−I身が当主じゃぞ。身を調伏したり、身に陰謀を企てたりする奴輩炉おったなら1−そりゃ、床下へなりと、天井へなりと、奥へなりと忍び込めーそれは、忠義の所業じゃ。また倅の側役として、斉毎に事があれば、それも許してやろうが、高炉斉毎の倅一人の死に、陰謀がどうの、こうのーーー申ナにことを欠いて、出廻炉張本人などと1−出羅は、身の部屋同然の女ではないか。それを謀反人扱いにして、それで、おのれら、功名顔をする気か‘—−公儀に聞こえて、当家の恥辱にならんと思うのかーーーたわけっ、思慮なし。石ころ同然の手遊人形一つを証拠証拠と、さようなものを楯にとって、家中に紛擾を起こして、それが、心得ある家来の所作かー−」  斉興は、一気に、ここまで喋べって、疲れたらしく、水飲みを指さした。そして、咳き入った。   「おそれながら11L  沈黙している一座の中へ、ハ郎太が、低いが、強い声を響かせた。斉興は、湯をーロ飲んで、首を延ばして、名越の背後をのぞき込みながら、   「おのれは、なんじゃ」  小啓次が、   「裁許掛見習、仙波ハ郎太と申します」   フ』れっーー裁許掛を勤めるほどのものなれば、澱りに、奥へ忍び込んだ罪ぐらいは、存しておろうII‘」   「おそれながらー−」   「黙れっI上区々の差出口、誰が、許したっ。不屈者。軽輩の分際として、老職へ、強談するのみか、身にー’−身にー−」  斉興が、興奮した手から、湯を溢そうとするのを、山県が手を添えて、   「将曹11二人を退げてたもれ」   「退れっ」  斉興が八郎太の方を睨んだ。   「御身俗に降ります」  お肉疎か、人々を叱るように叫んだ。名越が、 「ハ郎太」 と、口早にいって、目を配った。ハ郎太が、平伏した。そして、一膝退ると、斉興が、「閉門しておれ、閉門」 と、叫んだ。小蔭次が俯向いて、にやっと笑った。 父子双禍      一ノー  目付、洞川右膳と、添役宝沢茂左衛門とは、沈んだ顔付をして、ハ郎太の手もとを見ていた。八郎太は、赤い顔をして、墨を潜りながら、御仕舞に連署している三人の名‐−−島津将曹、伊集院平、吉利仲へ、押えされない憎しみと怒りとを感じていた。手先の鎖うのを二人に見せまいと、気を静めながら左の隅へ、自分の名を書いた。その奉書の右の方に、   某方不埓儀有之、食禄を胴上げ、暇被下者也 月 日 これをうけたまわる承   之  それから、その三人の名が、得いてあるのであった。ハ郎太が、見得をして、二人の前へ差し出すと、一見してから洞川が、  「それで−‐」 と、ちょっと、「三日の内に、「三日?」 「さよう」 いい淀んで、 退転されるよう」  ハ郎太の顔は、怒りで、だんだん赤くなってきた。   「承知仕りました。御苦労に存します」  洞川は、宝沢に合図して、立ち上った。次の間で、小太郎が、玄関の供へ、   「お立ち」  と、叫んだ。ハ郎太は、坐ったまま、見送りに立とうともしなかった。  小太郎の手柄も、ハ郎太の訴えたことも、すべて逆転して来た。多少の咎めは覚悟していたが、追放とまでは考えなかったし、三日かぎりで、出て行けというのも、法はずれのきびしさであっ  重豪公の放漫から、七、八年前まで、藩財窮乏のために、知行の渡らないことさえあった。それに裁許掛見習などの役は、余分の実入りとて無かったから、御暇が出れば、すぐにも困る家で あった。   「七願−—・ー皆もまいれ」  次の間で、行末の不安に、おののいていた七瀬らが入って来た。   「聞いたであろう」   「はい」   「いずれにせよ、別れる運命になったーー−国許へ戻ってもらいたい。それについて、一つ頼みがあるが、益満の申すごとく1元兇調所を、ひとつ、さぐって欲しい」   「はい」   「わしは、名越殿と談合の上、お国許の方々と策応して、小太郎とともに手段をめぐらそうが、あるいは、これが一生の別れになるかもしれぬ」  二人の娘は、俯向いた。深雪は、もう、袖を眼へ当てていた。   「すぐ召使の者に手当して取らせい。目ぼしいものは売却して−−小太郎、益満を呼んでまいれ。ひっそりしているから、留守かもしれぬが、どこにいるか、心当りを存じているか?」   「存じております』   「深雪、何を泣く。女は女として、また一炉の勤めがある。泣くようでは、父の子でないぞっ。泣くなっ」  廊下へ集まっているらしい三人の召使の一人が、ナすリ泣いた。七瀬は、ふらふらしそうな頭でー’−だが、元気よく、   「綱手、門前の道具屋へ、深雪は、古将星を呼んで来てたも」   「私がついでに」  と、小太郎が立ち上った。ハ郎太は、もう手箱から、不用の文書を破り棄てにかかっていた。       一ノニ   「お父様、妾にも、何か御用を仰せつけ下さいませ」  涙曇りの声だ。ハ郎太は、手箱から出てくる文書の始末をつづけながら、黙っていた。   「どんなことでも致します。どんな、辛い辛抱でも致します」  ハ郎太は、手をついている深雪の眼の涙を、いじらしそうに見た。深雪は、湧いて来る涙を旋毛で押えつつ、   「お父様、けっして、御手纏いにはなりませぬから—−−」   「お前は、江戸へ残ってー」   「ええ? 江戸へ残ってIお父様、残って? 一人で残るのでございましょうか」   「話をよく聞かずに、なんしゃ。そんなことで手駒けができるか」   「いいえ、お父様、妾一人残りましても、御申し付のことは仕遂げます」  ハ郎太は、うつむいている綱手に、   「綱手、お前は、母について国許へまいるがよい」   「はい」   「生れて三歳までしかおらなんだから、国と申しても、なんの庶えもあるまいがー—よいところしゃ、お前の生れた家も、母の家も、親類たちも、皆そこにある」   「幾日ぐらいかかりましょうか」   「道程は、ざっと三百八十里、女の足で二月はかかろうか」   「まあ、三百八十里?」  組手も、深雪も、安達ケ原の鬼の話や、胡麻の蝿のことや、悪い雲助のことや、果のない野原、知らぬ道の夜、険しい山などを、いろいろと、心細く、悲しく想像した。   「母と二人で行けるか」   「ええ、まいります。そして、妹は?」   「深雪には、深雪の役がある」   「どんな役? お父様」  七瀬が、襖を開けた。召使が、膝を揃えて平伏した。   「お暇乞に」  七瀬が、そういって、中へ入ると、小者の又蔵が、   「いいえ、お暇乞ではござりませぬ。ただ今、このお手当をいただきましたが、これは、御返し申します」  又蔵は、金の包の紙を、敷居の中へ押しやった。   「六年と申せば、短いようで長い−‘—お嬢様が、十二、三から、こんなに成長遊ばしますまで、ええ、その長い間、どうか、よいところへ御縁のきまるのを見てと、それを楽しみにーー何も、いまさらになって、手当だの、瑕だのと、それは一期、半期の奉公人のことで、手前は、傲りながら、坊ちゃんに、剣術を教えていただきますのも、こんな時に、又蔵こうこういう訳だが、ど う思うと、旦那様、二百ぐらいおっしゃって下さってもー’1」  又践の涙声がだんだん頗えて来た。   「い、いきなり、手当をやるから、出て行けってーー」   「又蔵、よくわかった。かたしけない。しかし、明日から、雇人を置く身分ではなくなるのしや」   「さあ、旦那、そこで!,|手前は、や、雇人しかござんせん。なぜ、主従は三世の、家来にして下さいません。死ねとおっしゃれば死にます。出て行けとおっしゃればllそいつだけは、御勘弁を—J      ニノー   「うめえことを、言やがったのう、古人って奴は」  富士春の坐っている長火鉢の、前と、横にいる若い衆の中の一人が、小蔭次の家にいる源公の顔を見て、大声を出した。   「何か?l’‘とほうもねえ吠え方をして、何を感ずりゃがった」   「そら、千字文の初めに、天地玄黄、とあらあな。源公」   「何を言やあがる。そりゃ、論語の初めだあな」   「糞くらえ、論語の初まりは、山高さが故に尊からずだあ」   「無学文盲は困るて。それは、大学、喜何の章だ」 「喜句の章じゃあねえ、団子の性だ。団子の性なら転げて来い、師匠の性なら、金もってこ  「おやっ、富士春ば、 もう一度唄って御覧な」 口で笑って、眼で睨んだ。一人が、  「東西東西、それで、天地玄黄が、どうしたえ」  「天地玄黄の、玄の字は、里{いって宇さあね。それ千年前に、源公は、芭が黒いって、古人って奴が、ちゃあんと、物の本に書き残してあるんだ。豪気なもんしゃあねえか」  「なるほど、それで感ずりましましたか」  「へへへ、かぐ貳め嫉め、師匠の側にくっついているから訟ダしいのだろうよ。もそっと、くっつくか」  源公は、富士春の方へ、身体を寄せた。白粉と、舞台油の匂いが、微かに、源公の血の中へ流れ込んだ。  「色が黒いって、福の神は、大黒天って、こら、三助、色の白い福の神があるか? 師匠のような別娯は、玄人って言わあ。まだあるぞ。九郎判官義経って、源頼光さんの弟だ」  「大伴の黒主ってねえ、源さん」  「師匠っ、じょうできっ。天下を睨む、大伴の」・  「五郎助」  「稲荷大明神」  「こんこんちきな、こんこんちきな」  「おきあがれ、馬鹿野郎−−おやおやっ、喋べってる間に、定公め、一人で、煎餅を食っちまやがった」   「手前の洒落より、煎餅の方がうめえ」  格子の開く音がして、   「頼もう」  若い侍の声であった。それに応して、富士吝か、   「はい」  と、店の間をすかして見た。若い衆が、   「しばらく、土途中の弟子人がなかったがII」  と、呟きつつ御神燈の下を眺めた。   「おやっ」  富土谷は、裾を押えて立ち上った。二、三人が、押えている裾のところをちらっと見た。倹約令が出て、いくらか衰えたが、前幅を狭く仕立てて、歩くと、診くずれると、膝から内股まで見えるのが、こうした女の風俗であった。そして、富士吝は、今でも、内股まで、化粧をしている女であった。   「しばらく」  と、小太郎の前に立った富士吝は、紅縮緬の裏を媚めかしく返した胸のところへ、わざと手を 差し入れて、胸の白さを、診き出しにしていた。      ニノニ  「益満は?」  「休さん?」  富上客は、こう言っておいて、すぐ、  「もう見えるはず’−‐‐お上んなさいましな」  小太郎は、土間へ眼を落したままで、  「間もなくで、ござろうか」  「今しがた、南玉先生も、お尋ねに見えて、いつも、もう見える時分、町内の若い衆ばかりゆえ、御遠慮はござんせん」  源公は、小太郎をじっと眺めていたが、  「不順や、この子も」  と、太声にいって、  「素浪人」  と、小太郎に、聞こえないように、小さく呟いた。そして、  「お上んなせえまし」  「おもしろい方ばかりでー−−・」 が〃剰ら心   「暫時、では、ここにて、持ちましょう」  小太郎は、上りロヘ、腰をかけた。   「そこはーー」  富土谷は、両膝をついていたが、こう言うと、片膝を立てた。乱れた裾から、白い肌、紅縮緬が、小太郎の顔を、赤くさせた。富士谷は、小太郎の耳菜の赤くなったのに、微笑して、   「では、こちらへ」  小太郎の腰かけている後方から、小太郎の後方の格子の前に重ねてある座蒲団を取るために、手を、身体を延ばすはずみ、左手を、軽く、小太郎の腰へ当てて、   「少し手がーー憚りさま」  ぐっと、小太郎の背中へ、身体を押しつけて、届かぬ手を延ばしていた。小太郎は、あわてて身体を引きながら、素早く、横にある蒲団をとった。   「えへん、えへん、えへん」   一人の若いのが、   「きゆァーきゆっ」  と、大きい声を出した。源公が出し抜けに、   「浪人って、いいものだのう」   「芝居で見ても、小意気なもんだ」   「しかし、扶持離れになると11」  小太郎が、しっと、その方を見た。自分へ当てつけているような感しがして、腹が立ってきた。  「源さん、憚りさま、お湯を一つ」  「へいへい、一つとおっしゃらず、二つお撒いで、持参致します。憚りさまやら、茶ばかりさん」  源公が、湯呑を二つ両手にもって、店の間へ出た。そして、  「ヘヘヘ、どうぞ」  小太郎は、どこかで見た時、正面に鋸を持って た顔だと思った。そして、考えると、ナぐ、いつか、訂皆の手首を折っ、報いていた男だと思った。   (浪人、扶持離れ)と、いう言葉は、+分に意味がある。小藤次から間いたのであろうー−・−し』思うと、怒りで、顕示濁ってきた。張りつめできた。とたん、荒い足音が、近づいて、手荒く格子が間いた。   「おやっ」  益満か、土間へ人ると、小太郎を見て、ナぐ、源公へ、じろっと眼をやった。そしス   「富士春、罪なことをするなよ」  と、笑った。    ニノ三 「仙波、今関いた、御暇だとのう」 −-−−・  「それについて、父が、何か智恵を借りたいことがあるらしいが、同道してくれんか」  益満は、土間に立ったままで、腕を組んだが、   「断わろう」  小太郎が、眼を険しくして、立ち上った。   「なぜ」   「なぜか?−‐−わしらの見込み示ち示うらしい。名越にも今逢うた示、陰謀などと跡方もない’一としや」  富士春示、   「休さん、話なら、ゆっくりと上って」  源公は、しっと聞いていたが、立ち上って、奥へ入った。だが、敷居際で、しっと、耳を立てていた。   「それに、斉照ハ公示、このことについて、大の御立腹だから、手出ししては損しゃ。小太のところは、しかし、気の毒ゆえ、微旅を集めるつもりで、実は今まで、駈けずり廻っていたのだが、小犬——『斉彬公のお袖にすがって御助力を願ってみぬか、それなら、わしもーーー」   「断わる」  小太郎は、赤くなっていた。富士春が、   「なんの活か、妾には判しられん示、休さん、せっかくのーー」   「婆あ、黙っちょれ」  「まあ」  と、いったとたん、小太郎が、  「御免」  立ち上ると、益満の肩に、ぶつからんばかりにして、開けたままの格子から、出て行ってしまった。   「もし」  富士春が、素早く、格子のところへ立って.往来へ叫んだが、姿も、答えもなかった。   「親爺相伝の、野暮天野郎だ。富士春—−あいつを射落してみろ。男はよいし、身体はよいし抱き甲斐があるぞ」   「情夫に持とうか」  益満は、上って奥へ入りながら、   「よい男じやが、下らぬことをしでかして、御払い箱に、なりよった」   「浪人に?」   「引き取って、養ってやってくれ」   「随分1−」   「では、町内会議を、開くか。お集まり、御歴々の若い衆方々、富士春が、人形を食べたいと申します」  益満が、こういって、人々の挨拶を受けながら、坐ると、源公が、 「あの方には、御器量よしの妹さんがお二人あるという話しゃござんせんか」「うむ、それで、わしらの住居を、小町長屋と申すのう」 「肯下との御間悴け?」 「わしか、わしけ、忙旅吟リで、あの小太郎が、「それに、また、どうして、ああ手強く」 よか稚児、 二才さんしか」  「いくら可愛くとも、あいつの浪人といっしょに、食わず交際は、真っ平だ。この師匠なら、食わんとも可愛がるかもしれんが」  「ええ、そうとも、浪人の、一人や、ニ人、猷叩く分にゃあーー」  「町内から、追い出してしまう」  「そんなことをいうと、ここから、追い出す」  「そいつあいけねえ」  益満は、じっと、天井を眺めていたが、  「もうニ、三軒、鼓別を泉めてやろう、後刻にまた’‘—」  立ち上って、すぐ、表へ出てしまった。      三ノー  益漓の気紛れ、奔放は、十分に知っていた。しかし、いざとなった時に、利慾につくのはー−−益満だけに、許しておけなかった。    小太郎は怒りに頗えながら、不信の態度にが昨みしながら、富士春のところを飛び出して来たがヽふとヽ付がとヽ     (引き返して斬り捨ててやろうか)と、思った。    重い空から、小雨が降りかけてきた。往来の人々は、小太郎に、気もかけず、急ぎ足に、小走りに−すぐ、ちらちら、傘をさす人さえ見えてきた。    小太郎は、歩いているのか、走っているのか、わからなかった。頭の底に、重い怒りが沈んで燃えていた。血管の中の血までが怒っていた。その時、    「可愛や、あの子は、浪人かあ」    大きい声であった。浪人と、いう言葉が、その怒っている頭を、針のように突き剌した。小太郎が振り向いて、声のした家を、睨むと、    「不惘々、明日から、野伏りかあ」    二人の職人が、家の中の板の問に坐って、雨の降ってくる往来を見ながら、小太郎の振り向いた顔へ、にやっと笑った。    独り言だろう、と思っていだのが、自分への当てつけらしいので、    「なに?」    と、小声で、叫んで、立ち止まった。職人が、それに応じて、    「なんでえ」    職人のからかいとしては、あまりに乱暴な態度であった。小太郎は、一足踏み出したが、すぐ、 =。・_心a・/ゝf4j   (だわけたII‘)と、田心い直して、歩もうとすると、   「馬鹿野郎っ、素浪人の、痩浪人、口借しかったら出て栗いこ  二人の職人は、腕捲くりをして、入口まで出て来た。小太郎は、怒りの中から、二人の不審な態度に、疑いを抱いて、   (こいつら、どこの、誰かー−−‐)  店をじっと見ると、顔の色が変った。   (小啓次の家だ)  手が、脚が、顔えてきた。   (この職人づれまでに、もう、浪人になったことがわかっている以上、小藤沢の掛金Iそれは、お由羅の抱合—‐‐−)  そう思うと、小啓次がどこかの陰から、冷笑しているように感した。こういう侮辱を受けて、そのまま、通りすぎることは、できなかった。小太郎は、脇差を押えて、小走りに、その家の軒下に走りよった。職人が、   「やあい」  と、叫んで、スニ間、板の間を逃げ込んだ。小太郎が、入口に立って、   「出ろっ」 と、叫ぶと、別の声で、 「出てやろう。ヘヘお主やあ、俺を見忘れたか。手首を折られの与三郎だあ」    ロで、おどけながら、凄い目をして、両手を懐に、木屑、材木の積んであるところから立ち上ったのはヽダダの庄吉であった・    「うぬは、おれの仕事を叩き折りやがったが、うぬも、明日から日子しの蛙だ。はいつくばって、ぎやあと鳴け、頭から、小便ぐれえ引っかけてやらあ」        三ノニ  「なにっ」  「なには、難波の船饅頭」 庄吉は、ぺろりと舌を出して、眼を紗いた。小太郎は、倣Eに逆上した。  「たわけっ」 マ紅のまま、板敷へ、どんと、片脚踏み込んで、側の木片を握った時、  「小太郎っ」 障子が開いて、小藤次が、次の間から板の間へ飛び降りた。小太郎は、木片をもったまま、「不埓なっ、通るを見かけての罵言俳言、勘弁ならぬ」 「馬鹿っ」 一人の職人が、木片を、かちんと叩いて、 「東西東西、この場の模様、いかがに相成りまするか」 「えへん」  一人が、空咳をした時、小太郎は後方に人の動きを感した。振り向くか、向かぬうちに、跳りかかる一人の男と、その手に閃めく捧とを見た。その瞬間、小太郎は、反射的に、身体を伏せたし、小太郎の手は、平素の修練で、咄嵯に延びていた。男が、   (しまった)と、よろめき、小太郎が、腕に、重みを感した時、   「ええいっ」  小太郎自身が叫ぶよりも、腕が、咽喉に叫ばしたのだった。男がよろめいて、前へのめる力を、そのまま引いて、さっと、太腿を払った引き倒しの一手。どどっ、板の間に、壁に天井に響いて、男はうつ伏しに、倒れてしまった。棒が、からんからんと、板敷へ音立てて転がった。小太郎は蒼白な顔をして、突っ立った。   「やいっ、仙波っ、小倅」  小啓次は、刀へ手をかけて怒鳴った。   「うぬは、もう、素浪人だぞっ。土足のまま人の家へ入りやあがって、この泥棒め、勝手に、人の家へ万りゃあ、引っ捕えて、自身番へ渡されるのを知らねえか。この野郎」  小太郎は、前から企んでいた計だと感じた。   (いけない、長居してはーー)   一人を叩きつけたので、いくらか胸が納まった。  板の間へ叩きつけられた男は起き上らなかった。小太郎が、出ようとすると、   「殺しゃあがったなっーー人殺し」  と、一人が叫んだ。   「えらい血だ」   「医者っ」   「役人を呼んで来いっ」   「逃がナなっ」  奥からも、向い側からも、人が走り出して来た。  抱き上げられた男は、ロから血を流していたし、鼻血で頻も、額も染まっていた。眼を閉して、唸っていた。何を叫んでも、返事をしなかった。   「人殺しだっ」  往来の人々が叫んだ。雨の中を近所の人々が、傘もささずに駈けつけた。そして、小太郎を恐ろしそうに避けて、板の聞へ集まった。庄吉は、懐手のままで、微笑して立っていた。小太郎は、動くことができなかった。     三ノ三 「影けっ、退けっ」その声とともに、 「御役人だ」 と、人々い、お心乞。     ーj ー?ー『/  小太郎は、立っている大地示、崩れて、暗い穴の中へ陥って行くように、絶望を感した。だが、   (取り乱してはいけない)と1父のこと、ほのことよりも先に、武士として立派な態度をとりたいと感した。   「どうした」  自身番に居合せた小役人は、小藤沢と顔馴染であった。小太郎を、しろっと見たまま、職人にこう聞いた。   「そいつか、常を殺しゃ示ったので」  役人は、小太郎に、   「いずれの御家中で1」   「薩藩−−」  と、ロに出して、黙ってしまった。そのとたん、   「薩藩? 巫山戯るねえ。得体の知れねえ馬の骨のくせに、薩藩? 一昨日来やがれ、この乞食侍」  庄告示怒鳴った。小藤次が、  「昨日までは、俺んとこの下っ端だったが、不都合をしや示って、お払い箱になった代物だ。ひとつ、しょっ引いて行ってやれ、人の骨を析ったり、殺したり、近所へ置いとくと、危なくていけねえ」  役人は、小太郎の手を握って、   「とにかく、番所まで−−・−」  抵抗したとて、素姓の知れた者として炉騨であった。だんだん多くなってくる群集に、見られたくもなかった。  小太郎は無言で、役人と肩を並べて歩きだした。群集が左右へわかれた。  雨は少し烈しくなって来て、道が泥漂んできた。小太郎は、いつの間にか、銑足になっていた。髪が乱れていた。頭から、ぴたぴたかかる雨の中を、人々の眼を、四方から受けて、自身番の方へ、引かれて行った。   「常っ」   「うむ」   「死んしゃいねえや」   「ぺっ」  常公は、唾を吐いた。   「こいつ、物を言やがる。死んだんしゃあねえや。やいっ、しっかりしろ」   「しっかりしてらあ。ああびっくりした。眼から火が出るって、本当に出るもんだのう」  常公が起き上った。   「俺あ、殺されると思ったよ。死んだ振りを、していたが−」   フ』ん畜生っ、びっくりさせやあがって」   「あれっ、前歯が析れてやがらあ」  常は、指をロの中へ突っ込んだ。小啓次が、   「よかった。仙波の小停め、しおしおと引かれて行きあがって、いい気味だ。庄っ、溜飲が下っただろう」   「溜飲は下ったが、常公、単元がちぢみ上っちまったぞ。血だらけの面をして、眼を剥きあがって」  人々が、笑いかけた時、表口に巣まっている人々の背へ眼をくれながら、益満休之助か、傘を傾けて、急ぎ脚に、通って行った。      四ノー  玄関脇の部屋で、又蔵が、古着服を対手に、いくらかでも高く売ろうと、押し問答をしていた。  綱手と、深雪とは、七瀬が、旅着と、その布ぞえのほか、爪折斤まで持ち出してしまったので、新調の振袖も、総刺繍の打掛けも、京染の帯も、借しんでおれなかった。   「これは、二度着たっきり1−よ  相手は、甚三紅の絞りになった着物を、肩へ当てて、妹に見せた。深雪は、涙ぐみながら、大くぼこもん       うきおり    こだゆうか  こ  ながじゆはん おぼろぞ 久保小紋の正月着、浮織の帯、小太夫鹿の子の長栴絆、朧染めの振袖と、つづらから出して積み上げた。  七瀬は、夫の着物を出して、えりわけた。ハ郎太は「道中細見」の折本を披げて、大坂までの日数、入費などを書き込んでいた。 ・−一- 4  「十五両? とっ走りしてヽ 馬鹿申せっ、人の足許へ付け込んで、この素ちょろこ町人め。又蔵、日影町へひもそっと人間らしいのを五、六人呼んで来い。わしが売ってやる」  益満が、大きい声を出していた。そして、荒い足音がすると、   「小太、怒ったか」  と、怒嗚って、襖が開いた。   「おお、益満」   フ』れは」  益満が、御辞儀をした。   「小太郎は?」   「足下を探しにまいったが1‘−−」   「はてー−−」  益満は、坐って、   「そこの遊芸師匠の家でーー−ちょうど小藤次の若い奴がおりましたので、小父貴だの、小太郎を毒づいて、お出羅の耳まで入るよう、ちょっと、小刀細工をしたが、小太め、本気にとりましての、かんかんになって駈け出して行ったが、戻らないとは」   「たのみがあるがーーー」   「何をーー」   「しばらく、深雪をあずかってもらいたい」   「そして、小父上は?」   「妻に、調所のもとを調べさせ、わしは、牧の所在を突き止め−−」   「ごもっともながら、今度のことは、一人二人の手で、なんともしようのないことで、証拠も握れましょうし、陰謀の形跡も調べてわからぬこともないが、さて、どうそれを処分するか? もしこれに、斉興公が御同意なら、取りも庶さず斉彬公のために、その父君を、罫に処士ことになる。同志の苦慮するところはここでーーー」  益満は、声をひそめた。   「万一の時には、久先限を−‐ー」  指を立てて、斬る真似をした。   「禍根は、ここにござりましょう」  ハ郎太は、返事をしないで、益満の顔を眺めていた。   「極秘、いまだ同志にも語りませぬが、久光殿の御側小姓を一人、引き入れて−−‐‘」  二人は、しっと眼を合せた。八郎大にとって、益満の底知れぬ、そして、大胆な抑が、少し薄気味悪かったし、益満は、一本気なこの老人に、ここまで話していいか、悪いか、−—八郎太の様子をうかがった。   「まあ雨がひどくなったのに、小太郎は」  七瀬が、独り言のようにいった。`      四ノニ  尉八炭ど、脱の上で、髪をぎでたり、聡をいしったりしていた深雪が、七瀬の声に、あわてて、   「お迎えに行ってさんじましょうか」  人形を、箱の中へ入れて、じっと、附めていた。  益満か、   「四国町の、湯屋横町に、常磐津の師匠がいる。そこからこの辺、心当りを聞けば、わかるであろう」   「はい」  深雪は、人形に、小さい声で、   「これで、お別れ致します。他所の可愛いお嬢さんに、たんと可愛がってもらいなされ。さようなら」  両手を、人形箱の前へついて、御叩頭した。薄い涙が眼瞼に浮いていた。   「行って参じます。お母様、妾の戻らぬうちに道具屋を呼んでおいてくださいませ」  襖越しに、こう言って、   「ああ」  と、七瀬の気のない返事を聞くと、もう一度、人形を取り出して、頬ずりした。一尺あまりの古代雛は、澄んだ眼をうるましているようであった。深雪は、雛の頭を撫でながら、もう一度自 分の頬を頬へくっつけていたが、   「手柄を立てて、元の身分になるまで、辛抱してくだされや」  と、雛の耳に囁いた。そして、撫でて乱れた髪を、自分の櫛でといて、そっと、箱へ納めた。   「もう、売らねえ」   「そういわずに、三十両で」   「手前、根性が腐ってるから緋だ。おれが、一分や二分もらって、主家の晶を安く売る男と思ってるのか」  又蔵が、古雅量に怒っていた。深雪は、傘をさして、門口を出た。表門から往来へ出ると、雨合羽、饅頭笠の人々が急ぎ足に行き通っていた。  四国町の自身番の、粗末な、黒い小屋の前に、人が集まって、何か覗き込んでいたが、深雪は、人から、顔を見られるのが厭なので、傘を傾けて通った。  大きい達磨を言いた油障子の立ててある髪結床の前に、薬湯と、横板のかかった湯屋があった。その横町の泥海添いに人って行くと、軒下に、小さい提灯がつるしてあって、中を覗くと、一坪ほどの土間に、大提灯が幅をしめていた。   「あのーー」  男が、大勢坐っていたので、どきっとしながら、   「仙波と申しますが、お宅にf‐1」  男たちが、ざわめいて、二人、同時に立ち上った。一人は、一人を、手で押して、   「ええ? おいでなさいまし。いたって、おとなしいのが揃っていやナから、ずっと」   「あの、仙波と申す若い侍が」   「師匠っ。さっきの方は?」  富士春が立ち上って、小走りに出て来て、  「貴女様は」  「仙波の妹でございます。さきほど、益満様を尋ねて、こちらへまいりましたが、もしか、まだー1」  富士春は、黙って、深雪に見とれていた。     四ノ三 「まあ」 しばらく顔を見てから富士春が、 「お妹様で−‐t‐まあ」 「お宅へ伺いましてから、どこへまいりましたか、御心当りでも、ございましょうならーーー」泥溝板が、ことこと鳴って、  「猫に、鳶に、河童の屁か」 大声で、怒鳴りながら、庄吉が、  「今日は」  と格子ロから叫んだ。そして、深雪を見ると身体を避けて、  「御免なすって」  おとなしい口をきいて、御辞儀をした。  「珍らしい。手は直ったかえ」  「人形の首を飯粒でくっつけるようにやあいかねえや」  庄告示、深雪を盗み見して、その横をそっと上って行った。   「さあ、手前どもから、お出ましになって、どこへいらっしゃいましたか」  と、富士春が言った時、   「へい、そうかい、お嬢さん示ー」  庄告は、源公へこう言って、深雪の方を見た。深雪は、男たち示、自分を、しろしろ眺め、噂をしているので、少しでも早く、出て行きたかった。   「では、お邪魔致しました」  深雪が、お叩頭をした時、   「お嬢さん、ちょっと、仙波の小太さんを、お探しですかい」   「はい」  庄告は、こう言ったまま、入口からさす薄曇りの光を背に受けて、白々と浮き出している深雪の顔を、しっと、御つめていたが、   「あっしやあ、お行方を存じていますんで」  「兄は、どちらへ?」  「それがね−L  「おい、庄っ、おかしな考えを出すな」  「それがIちょっと」  生害は、こういって立上った。そして、富士春のいるところへ来て、  「訳ありで−話をせんとわかりませんが−ええと、外は雨だしー−しかし、御案内旁々、お話し申しやしょう」  源公が、  「庄公っ、よせったら」  「うるせえ、手前、そんなら、行方を知ってるか」  「そんなことあI」  「知らなけりや引っ込んでろ」  庄害は、土間へ降りた。  「お嬢さん、すみませんが、傘を一つ、差しかけて下さいませんか。手が、いけねえんで、すみませんが−−つい、近所でIよ  庄害は、武家育ちの深雪の態度と、その美しさとに気押されて、軽い口をききながらも、眼は伏せていた。富士春が、   「生さん、本当に知っているのかい」 「知っているともー1射、こんなお嬢さんに、貳をどくような悪しやあねえ」  「そら、そうだけど」  深雪は、広告の、いうこと、することに、虻に落ちぬところはあったが、白昼、町の真中であったから、二人の相合傘を人に見られるほか、安心していてもいいと、考えていた。‘      四ノ四  「そのねっ」  庄吉は、格子戸を出ると、  「ひょんなことかありましてね−−」  庄古は、泥溝板を、ことことさせながら、こう言ったまま、黙ってしまった。深雪は、自分から、口をききたくなかったが、   「ひょんなこととは?」   「それが、そのー1−実、まったくの、ひょんなことでね」  庄吉は、こう言ったまま、また、黙ってしまった。往来へ出ると、人々が、二人を、振り向いて眺めた。   「急ぎますからI」   「ええ、お嬢さんは、今、お邸からいらっしゃいましたか」   「はい」 「四国町の自身番に、人だかりがござんしたでしょう」 「はい」 「それなんでIお兄上様は、そこにいらっしやいますが−−」 深雪は、庄古の顔を見た。胸が、ぎくりとした。 「自身番?」 「ええ、それがね」 「やってやがらあ」 「やいっ、庄公っ」 二人が通りかかった小藩次の家の中から、一人の職人が怒鳴った。  「お話し申さんと、わかりにくうござんすが」 薄暗い家の中から、小藩次が、じっと、深雪を眺めていた。そして、  「庄公、ちょっと」 庄吉は、ちらっと振り向いて、  「ええ、すぐ後から−−」そして、深雪に「今の、御存じですかい11ー」 深雪は、家の中へ振り返った。小藤次と、眼が合った。  「いいえ’−−あ十こは、お肉羅様の、御生家でござりましょう」  「ええ、今のが、兄貴の、岡m小藤次利武でさあ」 深雪は、もう一度、しっかり顔を見ようかと思ったが、汚ならしいものを見るような気がした。  「話さんとわかりませんが、あっしゃあ、実は相模でござんしてね」  「相模?」  「巾着切り、人様のーI」  深雪は、傘と、身体を庄害から離した。生害はあわてて、手を振りながら、   「ここから話さんと、よくわかりやせん。お嬢さん、相模は、悪者しゃあござんせんよ。小藤次なんかとー緒になすっちゃI−お兄さんとは、ひとかたならん関係のある、あっしで、こと細かに、今、申し述べやすがね、この手を」といって片手を、懐から出した。大きく布で手首を包んであった。   「こいつを、お嬢さんの、万さんが、折ったのでござんすが、こいつあ、たしかに、あっしが悪かったんでげす」  自身番の前は、まだ、人だかりであった。深雪は、本当とも、朧ともわからぬ話を、妙な男から聞いているよりも、早く、兄のことを確かめたかった。   「お嬢さん、お供いたしまして、お兄さんの前で、申しましょう」  庄害は、こういいながら、しっと、深雪の頻、襟足を眺めて、ついていった。      四ノ五 辻番所の前には、まだ入が集まっていた。傘と、傘とが重なり合って、入口も、屋根も見えな かった。   「ちょっと御免なさいーーーお前さん、ちょいと、肩を片づけてくんな」  庄告は、右手を懐に、頭から雨に濡れながら、群集を、左手で、肩で、言葉で押しわけて入って行った。   「やいっ、肩を押しや示って、なんだ」   「お嬢さんのお供だ、おっかない顔をしなさんな」  庄告の後方に、傘をすぼめて、顔を隠した深雪示ついていた。人垣を抜けると、番所の入口に、巾‰少一人、番人示一人、腰かけていた。薄暗い中の方に、四、五人の侍姿が見えた。庄告示、   「今日は」  番人は庄告への挨拶をしないで、その後方に佇んだ深雪を、怪訂そうにしっと眺めた。   「まだ、お調べ中かい」   「うん」   「なんだか、大勢、見えてるしやないか」   「三田の御屋敷から、今見えたのだ」  深雪は、一心に、中の方を見て、兄の姿、兄の声を知るうとしていたが、今の番人の言葉を聞くと、胸をどきんとさせて、その顔をちらっと見た。番人は、庄告の陰になっている深雪の方へ、顔をしやくって、   「なんでえ」  と、庄告に囁いた。 「あの侍の妹さんさ。ちょっと、逢いていが「願ってみな」 いいかい」  庄吉は、土間を、中戸の方へ行って、小腰をかがめて、   「御免なさいまし」   一人が、振り向いたが、しろっと庄吉を見たまま、黙って元の方へ顔をやった。庄吉は(こん畜生っ、何を、が少ってやがる)と、憤りながら、   「ちょっと、お願い申しやす」   「なんだ、貴様はー−−」  また、その侍が振り向いて、睨んだ。そして、深雪が、群衆の前に、浮絵のような鮮やかさで あまざけっているのに気がつくと、じっと、その顔へ見入ってしまった。庄古は、心の中で(この甘酒 立っているのに気がつくと『 じっと その部へ貝入≒てしまよハ ュF㈲、女の顔を見て、とろとろにとけやあがる)と、冷笑しながら、  「ただ今のお侍衆へ、あのお妹さんが、ちょっとお目にかかりたいとー−」  「あれが、妹か」  そういった時、中の三人の侍も、深雪に気がついて、入口へ眼をやった。深雪は、それに気がついて、俯向いてしまった。  「不埓なっ」  その時、出し抜けに大声がして、  「邸へ戻って、御指図を待て」    早口の、怒り声が聞こえると、横目付四ツ本が、二、三人の侍の中から姿を現した。そして深雪を見た。そして、主人の出て来だのにあわてて立ち上った中間と、二人の侍をつれて、深雪の  叩頭に、軽く御辞儀と一瞥を返しながら、群集の二つに聞く中を出て行った。深雪は、暗い内部  に勣く人影があったので、(兄?)と、思った時、小太郎が蒼ざめた順に、怒った眼をして、暗  い中から出て来た。深雪の顔と合った。二人はナぐお互に眼をぞらした。        四ノ六    「探しにか」    「はい」    群集は、二人を見て、何か囁き合った。    「どうなされました」    「傘を貸せ、活け戻ってからだ」    小太郎がどんどん番所を出て行くので、深雪は、土間の隅に俯向いている庄害に、    「いろいろと、お世話でございました」    「何ね」    庄害が、そう言って順を上げたとたん、妹の今の言葉に、     (誰に、礼を言っているのかしら?・)と、思って振り返った小太郎の眼と、生害の眼とがぴっ  たリ合った。小太郎が鋭く、 「原質」 「ただいま」 深雪は、もう一度、庄古に頭を下げて、群集の眼の中を出て行った。  「だれだ、庄公か」 小太郎の出て来たうしろから、証人に呼ばれて来ていた職人が出て来た。   べつぴん                ‐1— ’『4’‐‐’?u、;、.、コ.’4』/tnrノ『yートj. i -r> -s.   「別娯だなあll庄、上々に行ったよ。お邸からすぐ、横目付が果てね。邸から、明日とも言わず、叩き出すって11俺あ、胸がすっとしたよ」   「そうかい」   フいつ、何をぼんやりとーー庄公っ、あの女に哲れやがったな」  職人が、太い声をした。辻番人が、   「いい女だなあ、屋敬老には、ちょっと聯らしい玉だぜ」   「女郎に売ったら儲かるだろうな」  庄古は、黙って、往来へ出た。群集は、どんどん散り始めて、番所近くの人々が、四、五人しかいなかった。   (あの兄貴の野郎にゃあ、叔みがあるが、殊にやあ、なんの怨みもねえjl怨みもか兄のに、あの小太と一緒に、浪人になってljー邸を追い出されてー1−持て持て、俺は一人だから、片手折られても、どうにでもなるが、あいつのところは大勢lt‘大勢でなくたって、あの殊一人だったって、怨みもねえのに、これから、浮世の苦労をさナってことは、——俺一人の仕業ではないに 8 しても、男として、寝醒めかよくねえや。足貴の奴あ、どうなってもいいが、−−−うんにゃ、兄貴の野郎がどうにかなると、妹もどうにかなるーーこいつあ、いけねえ。あん畜生、一人きりが、   ひでえ目に逢わなくちゃ、物の理前が合わねえ。罪も、咎もない、あの別娯が、巻きぞえ食うなんて−‐‘俺あ、あの女に手を析られたのしゃねえ、だから怨みもねえのに、畜生っーどうして  あんな別娯の、可愛らしいのがいやがったんだろう。早く知ってたら、小藤次の告げロだって、ヽ  止められたのに−—‐梅撰だって、広告あ、真庶ぐな男だ。物の理前に合わんことはしたくねえー  土    広告は、雨の中を、軒下伝いに、ぽつりぽつり歩きだした。     (少しゃあ、惚れたかな。あのくらいの女になら、惚れたって1−‐−無理はねえー1・しかし、惚  れていなくたってーこいつは、なんとか、考えんと、俺の男にかかわる。稼業は巾着切でも、   小藤次なんかたあ、憚りながら、人間のできがちがうんだ)    庄告は、三田の薩摩屋敷の方へ、歩くともなく歩いて行った。兄妹の姿は、どこにもなかった  し、人通りも少なかった。庄告は俯向いて、片手を懐に、肩から、尻まで雨に濡れてしおしおと  した姿だった。     五ノー 火点し時に近くなってきた。 「仙波ハ郎太は、在宅か。横目付四ツ本だ」  玄関で、大きな声がした。七願と、綱手とが、ハ郎太に不安そうな眼を交えて、立とうとした。ハ郎太が、眼で押えて、   「わしが行く」  ナぐ立っていった。八郎太が玄関へ出ると、四ツ本の後方に、小者が四人ついていた。八郎太には、すぐ、なんのための使かわかった。憤った血が、米噛でふくれ上った。ハ郎太は立ったままで、   「何用か?」  四ツ本は、一言の挨拶もなしに、いきなり、そういう物のいい方をしたハ郎太に、しばらく、物もいえぬくらいに怒っていたが、   「小太郎に、上を憚らざる、不屈の所業があったゆえ、ただ今から、屋敷払いを命しる。すぐ立ち退け」  下から、ハ郎大を見上げて睨んだ。ハ郎太は、覚悟していた。しかし、こんなに早いとは思わなかった。   「それは11お上からのお沙汰か? 重役からか、それとも貴公一人の所存からか」   「なに?——」 「扶持のお召上げは、お上の心、  くことも、慣わしになっておるが、   と申すのだ」 お指図によらねば、ならぬし、屋敷払いに、三日の猶予をお今の口上は、お上から出た沙汰かーそれとも、ほかからか  「いずれにしてもよろしい。すぐに、退去せい」  ハ郎太は、鯉口を握った。小骨たちが、驚愕の眼を動かした。  「聞かぬうちはーならぬ、強ってとあらば、対手ナるぞ」  「対手に?」  四ツ本は、ハ郎太の鋭い気勢に押されまいと、身構えた。  「食禄に離れた以上、貴公ら一存の指図を、受ける訳がないーー」  「食禄を離れた上は、指図を受けるも、受けんもあるか? ここは、島津家の御長屋だ。それに、一時たりとも、縁もゆかりも無い浪人骨を、住まわして置けぬ」  フ』、この、たわけっ」  ハ郎大が、大声を出した。四ツ本は、ナぐ、鯉ロヘ左手をかけた。  「横目付ともあろうものが、よくもだわけた横車を押したな。役目の表として、恥でないか、役目を汚したとわからぬか」  八郎太は、口早に、ただみかけた。  「食禄召上げ程度の骨には、三日五日の立ち追考期間を与えるのは、独り、御当家のみならず天下の慣わしだ。慣わしは、これ、聯がり重い。その掟を、目付風情ごときが或るは、上を軽んじ−−いいや、上を傷つける不忠の振舞。もしお上の命ならば、これを止めるが道でないか? しかも、拙者は斉彬公の直臣、二言でも、斉彬公にこのことを計って御許しでも受けたか? まさか、かかる不法の振舞を、お許しなさる公でもあるまい。また、浪人音と−Iいかにも、分か 朧れした以上浪人だ。その浪人の拙者に、島津家が、天下の掟を破ってまでも、二度の処分をしようと申すのか。天下の慣わしを破り、浪人までも支配しようと申すのか。四ツ本、汝の支配を受けるハ郎太でなくなっておるぞ。町奉行同道にてまいれ」  ハ郎太は、怒りに額えて、いい終ると、自分を押えて冷笑した。      五ノニ  ハ郎太の冷笑へ、四ツ本も、蒼白な顔の唇に、微笑をのせた。  「なるほど11」  しばらくこういったまま、黙っていてから、  フ』の処分は、その方へではない。小太郎の不屈に対してーーー」  「小太郎が、どこで、不屈をした」  「岡田小啓次の家へ上足のまま乱入し、弟子を傷つけだのは、不屈でないか? それとも、知らんとでも申すか?」  「倅から聞いた、不屈千万しゃ」  「よって11」  「だ、黙れっ、いよいよもって奇怪至極、浪人音の倅の働いた狼薙を、何故、島津家からわざわざ取調べにまいった? それとも、南北町奉行所から、貴公に立ち会えとの御通知でもあってまいったのか? 当邸内なら、いざ知らず、すでに浪人した小太郎が、町内での所業を、わざわ   ざもって、何が故に、島津家の横目付が出かけた。三田四国町の岡田小藤次ならば、お由羅の方の兄であろう。主君の愛妾の兄の家ゆえに、町奉行の職権を犯してまでも、処置をしにまいった  か? 目付とは、なんしゃ。人の不正を見て、これを正すのが役でないか? その目付が、自ら、   法を汪げて、軽々しくも、辻番所へ出張するなど、近頃もって奇怪千万。島津の目付が、町奉行  の下働らきになったなど、いつごろからか、後学のために聞こう。四ツ本、いつから、町奉行の  下役になった?」    仙波の表に、二、三人の人が立って、二人の高声を聞いていた。小太郎も、七瀬も、姉妹も、   不安な胸の中にも、四ツ本をやり込める父の言葉を微笑しながら、聞いていた。小太郎は、四ツ  本から見えるところへ、身体を出して、左手に大刀を立てて、じっとその顔を睨みつけていた。    四ツ本は、ハ郎太が、こんな強硬な態度で、こんな理屈をいおうなどと、考えてもいなかった。   蒼白になって、掌を顕わせていた。言い込められた口借しさに、唇が、ぴくぴく痙撃していた。    「よしっーー」    四ツ本は、鋭く叫んで、身体を斜めにした。そして、    「道具を運び出せっ」    と、小者の方へ、手を振って指図した。小者がー足踏み出すと、ハ郎大が、式台へ片足を音高  く踏みアろして、脇差へ手をかけた。小太郎が、兎のように飛び出して来て、三尺に近い刀をど  んと式台へ轟かした。小者たちは、そのまま止まってしまった。    「どうなされた」  表に見物していた家中の一人が、人って来て、声をかけた。四ツ本は、激怒で、口かきけなかった。八郎太が、  「人間、切腹の覚悟さえあれば、何も恐ろしいものはない−−‐叩っ斬って腹を切るまでだ」  と、独り言のように、大きく呟いた。  「四ツ本氏」  四ツ本は、黙っていた。  「仙波氏も、穏やかになされたらーー」  と、いった時、  「よしっ、人数をかりても、処置はする」  ハ郎太と同じように、独りごちて、四ツ本が出て行ってしまった。小者も、すぐ、四ツ本に附いて出てしまった。  「馬鹿がっ」  ハ郎太は、身構えを解いて、吐き出すように呟いた。     五ノ三 「小太郎、表を閉めて、ハ郎太は、こういって、 あらましの晶を、庭から、 益満のところへ巡んでおけ」 小走りに部屋へはいると、小者に鎧櫃の一つを背負わせ、自分もその つを背にして、示聡から、益満の廊下へ巡んだ。益満は、留守らしく、勝手口から、爺が出て 来て、   「旦那様」   「物を巡ぶから頼むぞ」   「手前も御手伝い致しまナ」  三人が、垣根のところへ引き返すと、七瀬と綱手とが、大きい包み物を持って来た。小太郎が仏壇を抱いて、よろめきつつ、廊下を降りて来た。深雪は、人形の箱と、営所を持って、   「危ない」  小太郎の後方で、重さによろめく小太郎の脚へ眉をひそめていた。庭の土は、雨で泥になっていた。垣根は、茂った葉で、一度跨ぐと、捌かぐしょぐしょになった。父子が、雨に打たれながら、二、三度往復した時、   「開けろっ」  表が、けたたましく叩かれた。ハ郎太が、縁側から、   「深雪、早くっ」と叫んだ。深雪は、あわてて垣根に袖を引っかけながら、人って来た。   「たわけ者がまたうせおった」と、自分も、着物の濡れたのを拭きながら、袖を、肩を、気にしている娘に、小太郎に、   「わしらのすることは、これからしゃで、今、何をされても、手出しをしてはならぬ」  そう言って、小太郎を見た。小太郎は、   「よくわかっております」  戸が、苦しそうに、軋り音を立てた。御家の邸内で、厳しい用心がしてないから、ずれたらしく、土間へ棒の転がる音がした。   「仙波っー仙波」    かんぬき すぐ門がは  誰も、答えなかった。どかどかと、踏み込んで来る足音がした。玄関の襖が聞いた。廊下が轟いた。次の間へ来た。襖が聞かれた。  もう、暮れかかっていて、部屋の中は、夜色が沈んでいた。庭の植込みは、すっかり暗くて、が爪の花だけが、白く、だが、雨にうなだれていた。  襖の後方いっぱいに、足軽が、小者がーーーそして、水の滋れるように、襖から入って来て、その両側へ溢れ出て来た。四ツ本の上席にいる佐田が、   「仙波、即刻に立ち退くか、立ち退かぬか、いずれか、この返答だけを聞きたい」  足軽が、棒を取り直した。   「是非もない」  ハ郎太は立ち上った。   「小太郎、長持を運ベーいや、持て、—‐ー佐田氏、人間には足があって、すぐにも御門前ヘ出られるが、この長持、諧道具と申す釘目は、ヤ概ながら、足がのうて」   「道具類は、小者が持ち出そう」  佐田は、仙波がすぐ承知したのに、軽い失望と、大きい安心とをしながら、   「諧道具類を残らず、門前へ運び出せ」 仙波父子は、暗い廊下を、人々の中を、玄関へ出た。  「深宮、益満のところへ行っておれ、邪魔になる」.  「いいえ」 深雪は、泣声を出した。五人の足軽と、士分が一人、式台に立って、五人を看視していた。 五ノ四   (おやーー)  庄吉は薄暗い、大門の軒下へ、不審そうに、眼をやった。  中間対手の小さい、おでんと、傲然の出店が、邸の正面へ、夕方時から出て店を張っていた。車を中心に柱を立てて、土塀から、板廂を広く突き出し、雨だけは脱げた。   (お嬢さんだー次は小太郎。はははあ、もう一人、これもいい娘だ。しめて五人、小者とで六人−−‘この雨の中をーー)と、思った時、辻番所で、四ッ本が、「今日のうちにも、追放する」と、いった言葉を思い出した。   「親爺、いくらだ」  庄吉は、ので、 急いで、財布を出した。それをロにくわえて、紐を解いたが、しれったくなってきた 「この中から取ってくれ」 がちゃんと、財布を板の上へ投げ出して、門の方ばかり眺めていた。  「ええ、庄吉は、 たしかに、二十三文いただきました。お改めーー旦那、お改めなすって1」 返事もしないで、財布を懐へ押し込んだ。六人の後方から、長袴か、小箪笥が、屏風 示、箱'''fz———次々に、軒下の片隅へ、一人一人の手で、遅ばれて来た。六人は、その側に立っていた。庄告は、   「ありがとう」  と、いった亭主の言葉を、耳では聞いた示、何をいわれたのかわからないくらいに、軒下の人と、品物とを凝視しながら、雨の中へ出た。小走りに、泥溝のところへ行って、夜色の中にまぎれながら、表門の出窓の下へ人った。そして、雨を避けている人のように、しゃ示みこんでしまった。  六人は、黙って立っていた。品物示、かなり、積み重なって、小者たち示、もう出入しなくなると、一人の侍が、六人に、   「明朝まで、ここへ、差し許す。早々に処分するよう」  庄告の、しゃがんでいる出窓の上で、低い話し声がした。   「ああまでせんでもええになあ」   「別娯だのう。もう、明日から拝めんぞな」   「しやあ、御供してーー‘」  庄告示下から、   「つかんことを、お尋ねしますが」  窓の内部の門番は、さっと、顔を引いた。   「あのーーあれはいったい、御引越しかなんかでーーー」  門番は、答えなかった。   (薩摩っぽうって、恐ろしいつき合いの悪い奴ばかり揃ってやがるーーーI手前に聞かねえでも、追ん出しただあちゃんとわかってるんだ。唐変木の糞門番)  道具を巡んでいた人々は、門内へ人ってしまった。暗い大門の軒下で、人通りの少ない雨の往来であったが、時々通る人は、立ち止まってまで、六人と、道具とを眺めて通った。   (なんと挨拶しゃあがるかー‐‐とにかく、ぶっつかってみろ。だまっちゃ、なんしろ、おれないことになって来やがるんだからなあ)  庄吉は、勢いよく立ち上った。そして、真直ぐに六人の方へ歩いて行った。      五ノ五   「いつぞやの者でござんす」  庄吉は、小太郎に、お辞儀をした。小太郎は、じっと限みつけたまま、ロをきかなかった。深雪が、   「ああー−‐先刻の?」   「ええ先刻の野郎でございます」  と、深雪に、お辞儀してから、.   「手前、お初にお目にかかりやす。ええ、仙波の御旦那様、手前‐—」  庄吉は、膝まで、手を下ろして、   「巾着切の、庄吉と申しやす。至って、正直な−」   「あっちへまいれ、用はない。行けっ」  ハ郎太が、静かにいった。庄吉は、その声とともにさっと身体を立てて、ハ郎太と正面から、顔を合わせた。   「ごもっともでございます。ナぐ、あちらへまいりますが、一言だけ、間いていただきたいもんで。御存じのとおり、若旦那にこの手首をーーねえ、小太郎さんーーー手首を折られましてー」 ハ郎太は、じっと、庄吉の顔を見た。   「実はーーー本当のことを申しますと、怨みがございます。なんしろ、巾着切が、手首を折られちゃ、上ったりでげすから11人間誰だって、手首を析られて恨まん奴はござんせん。IIねえ旦那、随分怨んでいましたよ。今だって、こん畜生、ひでえ目に逢いやがるがいいや、とIこれは、本当の詣で、正直な、気持を申し上げているんでげすが1しかし、でござんす。旦那、このお嬢さんにゃあ、怨みはござんせん。その怨みも、縁もない方が、こんなにおなりなさり奉ったのを、あっしが、黙って見ておれるか、おれんか? どうでげす、旦那、江戸っ子なら、わかりまさあ、見ておれるものしゃござんせん。そうでげしょう、ねえ、旦那、見ちゃいられませんや」  ハ郎太は、七瀬に、  「支度をせんか」  七瀬は、風呂敷包の中から、旅支度の品々を、取り出した。綱手が手伝った。  「旦那、待っておくんなさい。あっしゃあ、これでー生懸命なんだ。お侍対手に、うまくいえねえがーーおかみさんちょっと、聞いてやってくだっせえよ。そう急がずにーその手首を析られて、無念、残念、びんしけん、なんとか、この青ちょこ野郎め、御免なせえ−大体、この方の印龍をがれといった奴は、岡田小啓次って、野郎でさあ」  ハ郎太も、小太郎も、ぺらぺら妙なことを喋べっている庄吉に、五月蝿さを感していたが、岡田と聞いて、次を聞く気になった。七願も、娘も、庄吉の顔を見た。  「ねえ、ところが、若旦那に、御覧のごとく、手首を折られっちまいました。小啓次野郎も、自分のいい出したことだから、あっしにすまねえと思ったのでしょう、庄吉、この仇はきっと取ってやるって−−どうか、皆さん、怒らずに聞いておくんなさい。するてえと、昨日、仇は取ってやったよ、あいつら明日から浪人だとーーあっしやあ、実のところ、胸かすーっとしやしたよ。まったくね。ところが、さっきお嬢さんにお目にかかりやした。あっしの怨みのあるのは、この若旦那一人にだ。こんな、別娯のお嬢さんを怨もうにも、怨めやしませんや。ねえ旦那、そうでしょう。若旦那に怨みはある、しかし、憚んながらお嬢さんにゃあ、怨みも、罪もなんにもねえ。そのお嬢さんが、もうー人ふえて、お二人だ、それにまたふえて旦那様、奥様まで’1−それが、何か大それた泥棒でもなすったのならとにかく、小啓次野郎の舌の先で、ぺろりとこの泥の中へ転がされちゃあ、江戸っ子として、旦那、自慢じゃあねえが、巾着切仲間じゃあ黙って見ていま せんや。それで、さっきから何か、いい工夫がなかろうかと、おでんを食べ食べ考えていたんでげすがね1‐−いい智恵が、ござんせん、随分、お力になりま十がーー−」  庄吉は、一生懸命であった。       五ノ六   「そうか」  ハ郎太は笑った。   「よくわかった」  庄古の顔を見てうなずいてから、七瀬に、   「いつまでも、ここにはおれぬ。わずかの道具に未練をもって、夜明ししおったと噂されては口惜しい。そちとも、いずれは別れる宿命でもあるし、ここからすぐに上方へ立てII」   「旦那」  庄吉が、ロを出した。八郎太が、庄吉へ手を振った。   「あっちへ行っとれ−−旅は急ぐなよ、八里のところは、六里にしても、足を痛めて馬、駕などに乗るな、駕人足一人前の賃で、十五文の宿銭が出る。夜は必ず、御岳譜か、浪花譜へ泊れ」  「それが、ようかす、宿のことなら、あっしが−−」   「煩さいっ」   「且那、ごもっともでござんす」  庄吉が大きな声を出した。そして、早口に、            ’  「あっしが、若旦那をお怨み申したように、あっしが憎うがしょう。だがねえ、あっしら仲間にゃあ、意地って奴と、酔興って奴とがござんしてねえ」  小太郎が、   「わかったから、あっちへまいれ」  と、いって、庄古の肩を静かに押した。  「ようかす、で、この御道具類は?」  「捨てておく」  「じゃあ、あっしにいただかせてくださいまし」  ハ郎太が、   「売って、手首の聯の手当にでも致せ」   「ところがね、へっへっ、そんな、けちな巾着切しゃござんせん−−じゃあ、皆様、あっしや、ここで失礼いたしやす」  庄古は、丁寧に、御叩頭をして門番の窓下へ行って、  「御門番」  と、怒鳴った。そして、何か、紙包を渡して、物を頼んで、雨の中を、影に融けてしまった。  親子、主従六人は、もう顔も見えぬくらいになった闇の中に立っていた。ハ郎太は、話しだそうとして、妻の顔がほのかな、輪郭だけしか見えぬのに物足りなくて、   「灯を1‐—」  と、いった。又蔵が、   「はい」  燧石が鳴った。その火花の明りで、ちらっと見た、夫の顔。小太郎の顔。七瀬は、それを深く、自分の眼の底に、胸の奥に、懐の中に取っておきたいように、感じた。  提灯は、すぐついた。こんなところを、あまり人に見せたくないと思っていたが、闇の中で、このまま、別れることも、八郎太には、説示にできなかった。  綱手は、深雪に助けられて、旅支度をしていた。二人とも、灯がつくと涙の顔をそむけた。ハ郎太は、二人の娘の顔をちらっと見たが、平素のように、何を泣く、と叱らなかった。  七瀬は、手甲、脚絆までつけて、いくらか蒼ざめた顔を引き締めて、夫の眼をじっと見た。いつもの七瀬よりは、美しく見えた。小太郎は、親子の生別よりも、反対党に対する憤りでいっぱいだった。彼は、腕を組んで、胸を押えていたが、悲しいものが、胸の底に淀んでいて、時々押えきれないで湧き上って来かけた。      五ノ七  七瀬は、何をいっていいか、わからなかった。何かに、せき立てられるようで、いいたいことがいっぱい胸の中にあるような気がしたが、そのいずれを、どういっていいのかーー苛立たしさと悲しさとが、いいたいと思うことを、突きのけて、胸いっぱいにこみ上げてきた。   「いろいろーー」  それだけいうと、肝町がつまってしまった。人目がなかったなら、せめて胸へでも尉ったなら、このいろいろの胸の中の思いが、夫の身体へ撒み込むだろうと思えた。四ツ本の無法な、冷酷な仕打さえなかったなら、今夜は、ゆっくり名残を信しめたのにとも思った。そして、もう一言、   「長々−」  と、いうと、涙声になった。ハ郎太も、   「うむ」  と、いっただけであった。深雪は、門の柱へ袖を当てて、顔を埋めていた。綱手は、その片手を、しっかりと握って、片手で、母親の手を掴みながら、手を顕わして泣いていた。小太郎は、涙の浮んで来るのを、そのまま雨空を見上げていた。しばらくして、七瀬は、   「御看護に不調法をつかまつりまして申訳もござりませぬ。この失策は必ず、上方にて取り戻して御覧に入れます」   「抜かるな」   「み、深雪を、どうか−」           一一ー   「うむー綱手、刊べ申付けあるとおり、命も、操も、御家のためには捨てるのじゃぞ。また、こと露見して、いかようの責苦に逢おうとも、かまえて白状するな。飢わぬ時は舌を官め、隙があれば咽喉を突け」   「はい」  綱手の頬は涙に濡れていた。七瀬が、   「深雪」  深雪は振り向かなかった。   「何を、お泣きやる」  それは、深雪の泣くのを叱るょりも、自分の弱さと、涙とを叱る声であった。綱手は、自分の握っていた深雪の手を放した。深雪は、顔に袖を当てたまま母の方へ振り向いた。   「お前も、いずれ、綱手と同じようにぃ働かねばなりません。それに−−そんな’−よ、弱いことでー」   「七瀬、道中、水あたり、訟八万に気をつけょ。深雪は、益満の許にあずけるから、心配すな。小太郎、申すことはないか」   「別にー1御身体、気をおつけ遊ばして」   「お前もI」   「では行け。又蔵、たのむぞ」  小者は、地に両手をついて、   「いろいろと、御世話になりました。命にかけて御供つかまつります」   「たのむ」   「では、御、御機嫌、ょろしゅう」   「道中無事に−」  深雪と、綱手とはもう一度抱き合った。そして、泣いた。それから、深雪は、   「お母様」  と、叫んで、胸へすがった。七瀬はその瞬間、深雪の背をぐっと抱き締めたが、すぐ、   「未練な」  やさしく、深雪の指を解いて、押し放した。そして、雨具、雨笠を手に、門から一足出た。深雪は、肘がだまま袖の中で声を立てて泣いていた。七瀬と、綱手は、手早く、雨支度をすると、   「まいります」   「うむ」   「母上をたのむぞ」  深雪は、雨の中を駆け出した。小太郎が、追っかけて素早く引き留めた。そして、泣き崩れる深雪を自分の胸の中へ抱え込んだ。三人の者は静かだったが、すぐ見えなくなった。だが、すぐ、閤の中から、   「お父様」  と、綱手の声がした。ハ郎太が、   「未練者がっ」  と、怒鳴った。しめった声であった。 −6〜g 一−・− -一一− 両党策動       一ノー  目黒の料亭「あかね」の二階−−間間つづきを借り切って無尽講だとの触れ込みで、雨の中の黄昏時から集まって来た一群の人々があった。もう白髪の混っている人もいたし、前髪を落しだばかりの人も混っていた。平島羽二重の斑斗目に、精好織の袴をつけている人もあったし、木綿の絣を着流しに、洗足の尻端折で、びたびた歩いて来た人もあった。  人々の前には、茶、菓子、火鉢、硯、料紙と、それだけが並んでいた。階段から遠い、奥の端の部屋の床の前に、名越左派太、その左右に御目見得以上の人々。そして、その次の間の敷居際には、軽輩の人々が、一列に坐っていた。   「仙波がこぬが、始めよう」  名越左源太は、拍手の幄、ちょっと、当世旗本風といったようなところがあったが、口を間くと、底力を含んだ、太い声であった。  「今日の談合は−’−」 と、言って、低い声になって、 「御部屋様の御懐妊−−近々にめでたいことがあろうが、もし 御出生が、世子ならば、その   御世子をあくまで守護して、御成長を待つか。また、それともtl女か−−あるいは男女のいかんに孫らずヽお由羅派を討つかヽそれとも、牧仲太郎一人を討つかーーこの点を、計ってみた  い」    居並ぶ人々は、黙っていた。    「つまり、なるべくならば、家中に、党を彫てたくはない。たださえ、党を作ることの好きな  慣わしの家中へ、御当主斉興派、世子斉彬派などとわかれては、また、実学崩れ、秩父崩れなど  より以上の、似かが起こるに決まっておる。これは御家のため、またようやく多事ならんとする  天下のために、よろしくはないーしかしながら」    「声が、高い」    と、一人が注意した。左派太は、また、彩片になって、    「斉彬公の御子息四人までを呪殺したる大逆の罪、しかもその歴々たる証拠までを見ながら、   これを不問に付するということは、家来として、牧の叶射に等しい悪逆の罪しゃ。ただーーもし  しかしながら、この公ぐが、お由羅の計画であり、斉興公も御承知とすれば、吾ら同志は、なん  と処置してよいか? 福岡へ御締りするか、幕府へ訴え出るか、斉彬公へ仔細に言上するか?  もし、このまま捨ておいて、御出生が男子なら、牧はまた、呪殺するにちがいない。しからば、   牧を討つか? しかしながら、はたして牧一人討って、禍根を絶滅させうるか? 牧のごときは  一匹夫にして、その根元はお由羅にあるか? 調所にあるか? あるいはまた、久光公が在さば  こそ、かかる無極の陰謀も企てられるが故に、久光公こそその大根か」  黙々と似印いている人もあるし、一々綴ぐ人もあった。左源太は、ここまでいって、防縮をした。そして、   「来る途上、嘉右衛門とも、話をしたが、とにかく、穏健の手段をとるならば、今度の御出生の模様によって、もし御幼君ならば、飽くまで守護する−−」   「今までも、飽くまで守護したではござらんか」  軽輩の中から、益満が、鋭く、突っ込んだ。   「つくした」   「しかし、無駄でござった」   「そう」   「論はいらぬ。まず、牧を斬ることが、第一」  益満は、防縮して、天井を見ながら、冷然といい放った。       }ノニ   「わしも、そう思う。しかしー益満、牧がどこにいるか? また、牧の居所がわかったにせよ、毎日の勤めを持っておる身としてー11牧を斬りに行くことは−」   「もとより、浪人の覚悟−−」   「そちのごとき、軽輩は、それでよいが、わしちは、そう手軽、身軽に行きかねる。その上、牧には、相当、警固の人数もおると聞き及んでいるから、迂悶に行っては、・いっさいの破誠にな る。行った者のみでなく、この同志のことごとくが罪になる。それで、考えあぐんでおるが」   「それが、何よりも困るところー斉彬公にも明かさず、吾らの手で、上手に料理してしまいたいが、少くも、牧を討つには、十人の人数が要る。今、この同志より、十人が去ったなら、斉彬公から、誰々は、どうしたか、と、ナぐ聞かれるは必定。一日、二目なら病気でも誤魔化されようが、十日、二十日となっては免れぬ。お由羅方は、上が御承知ゆえ、何をしても、気の値じゃが、こっちは、斉彬公が、こういうことに反対じゃからー−−」   「牧を斬ることに御異議ござらぬか」  益満が、嘉右衛門の顔を見た。   「それはない」   「名越順には?」   「ないのう」   「方々には」  軽輩の、益満の一人舞台になって、上席の人々は、少し反感をもっていたが、こういうことにかけては、益濡の才智よりほかに、いつも、方法がなかった。   「大体、異存はないが」   「益満−名案が、あるか?」   「名案と、申すほどでは、ござりませぬが、失敗しても、御当家の迷惑にならず、行くのは目付役として、拙者一人でよろしく、ただ公デが少々かかりまナ」 − ヽ一一   「その案と申すのは」  益満は、前の硯函をとって、料紙へ、   不逞浪人を募って  と、書いた。そして、人々の方へ廻した。益満の隣りにいる軽輩たちが、微笑した。   「なるほど」と、いって、人々は、紙を、つぎつぎに廻した。   「よし、まず、第一にーー」  名越は、こういって、同じように、紙に、   牧を斬る  と書いた。   「第二、国許の同志と、相策応すること」   「ごもっとも」   「誰も、異論あるまいの」   国へ、使を出す事   「それには、仙波父子が、よろしゅうござりましょう」   「わしも、その沢でいるが−−あやつ、どうしたか?」  雨は、小さくなったり、強くなったりして、風が郊ってきた。庭の、作況が、ざわめいていた。   「それからお由羅方の毒手を監視のため、典医、近侍、勝手方、雇女と見恨る役が要るし、同志があればこのうえとも加えること。斉彬公へ、一応、陰謀の話を進言すること。刻訟、上司へ、 場合によっては訴え出る用意をナベ今ことJ‐」  と、名越が、書きながら、話していた時、下の往来の附ボ訟に、踏み乱れた足音がして、  「名越殿」  と、叫ぶ者があった。       }ノ三   「仙波だ」と、一人がいった。   「どうした、おそいでないか」   一人が、立ち上って、廊下へ出た。   「ただいま、まいるが、−油断できぬ」と、ハ郎太が、下から叫んで、すぐ表の入ロヘ廻ったらしく、下の女たちの、   「お越しなされませ」  と、叫んでいる声が、聞こえた。  「油断できぬ、とー−卵ぎつけよったかな」  名越が、呟いた。小さい女が、階段のところへ、首だけ出して、  「お二人、お見えになりました」  と、いった時、ハ郎太と小太郎とが、広い、黒く光る階段を、登って来た。そして、  「手が、廻っておるらしい」  と、低く、鋭く、叫んで、ずかずかと、人々の方へ来た。   「手が?」  ハ郎太も、小太郎も、興奮して、光った眼をし、袖も、肩も、据も、濡れていた。ハ郎太が、席へつくと、小太郎は、益満の後方へ坐って、   「遅参致しまして、あいずみませぬ」  と、平伏した。   「それで、手が廻ったとは?」   「ちょうど、不動堂の横−−安着院の木立のところで、仙波、と呼び丘めた奴があった」  人々は、仙波を、目で取り巻いた。   「顔は、この暗さではわからぬ。声も覚えはないが、わしと知って、呼び丘めた以上、Eけて来たのであろうか? 前から、忍んでおったのでは、わかるE虻がない」  人々が、頷いた。   「それで、誰だ、と、こっちから谷めた」  人々が、 ,「うむ」  と、また、頷いた。   「ナると、今日、あかねの会合は、何を談合ナるめか? と、こうしゃ。それが、いやに、落ちついての。談合?−談合ではない、無尽講しやか、なん’の用があって聞くか。誰とも、名乗        1 4 らず、無礼ではないか。と、申したら−−行け、と、 した声がヽどうもヽ伊集院平に似ておるし、行けと、 それで、わかったが、その、行け、と、申横柄に申す以上、もちろん、家中の上席の 者で、わしを、よく存じておる奴にちがいない。そして、今日の会合を、怪しんでおる者にちがいない。わしは、嗅ぎつけられたと思うが、方々の判断は?」   「早いのう。なるほど油断できぬわい」   「それで、手間取ったのか」   「いいや、遅参致したのは−‐−つい先刻、出し抜けに、四ッ本がまいって、手能めにして、道具もろとも、御門外追放じゃ」   「三日の間と、申すでないか」   「それが、急に、今日中に、出て行けと、足軽の十人も引き連れて来たが−」   「無礼なことをするのう」   「だから、軽挙ができぬ。仙波は、形代を探し出したので第一番に、睨まれておるのしや。今日の談合が、嗅ぎつけられたとしたなら、わしらにも咎めが来ると、覚悟せにゃいかんぞ」  「むろんのことーーそうなれば、なるで、また、おもしろいではないか」  そういいながら、人々は、暗い、雨の中に、お由羅方の日が光っているようで、不安と、興奮とを感してきた。      一ノ四  「相談ごとは、あいすみましたか」  「ナまぬが、もし、嗅ぎつけられたとすると、長居してはいかん」  「さよう、どういう手段を取ろうも計られん。すぐ、退散して、もう一度、回状によって集まるか」  益痛が、  「余のことは、お任せ申しましょうが、牧を祈ることは、決まったこととしてー−こ  「それは、よろしい。入用の金子は、明日にでも、すぐ取りにまいれ。したが、浪人は、集まるかの」  益痛が、笑って、  「町道場へまいれば、一束ぐらい・−百人くらいは、立ちどころに集まりまする」  「立つか」  と、左派太が、指を立てて、斬る真似をした。   「相当に・—」  人々は、外の雨脚の劇しいのを見て、尻端折になった。そして、雨合羽を着て、  「まごまごしておったなら、かった斬るか、この雨の夜なら、斬ってもわかるまい」  などと、囁き合った。  「それでは、一両日中に、改めて、会合するとして、今日はこれまでー途中、気をつけて」 と、名越が立ち上るとともに、人々が、いっせいに立って身支度をした。軽輩は、すぐ下へ降     `¨り/てx6 鉛ちをつけた。そして、上席の人々は自分の供を呼んで、提灯をつけさせた。人々が降り料亭の主人が草靫を持って出て、  「この路になりましたからには、高下駄では歩けませぬ。どうか、これを、お召しなすってくださいませ」と、いった。  「御一同。草牡にかえてI途中のこともある」  人々は、袴を脱いで、懐中し、供に持たせ、身軽になって、草靴を履いた。   「いずれ、物見に一足先へ」  と、いって、踏み出した一人が−何を見たのか、   「持てっ」  と、叫んで、雨の中へ、笠をかなぐり捨てて、走り出した。四、五人が、その声に、軒下に出るとーー’−遠くに、足音が小さくなるだけで、何も見えなかった。  「亭主、怪しい奴がうろうろしておらなんだか」  「いっこうに、見かけませんがーー」  「油断がならぬ。一同、御一緒に」  人々は、刀を改めて、帯を締め直した。  「益満に、仙波は、どうした」  と、一人がいって、   「益満」 と、二階の二人を呼んだ。益満の落ちついた声で、  「少し、仙波殿と相談事があるで、かまわずお先に」 と、いった時、びたびた泥を踏んで、’  「逃がした」 と呟きつつ、一人が戻って来た。  「見張らしい。わしの顔を見ると、すぐ、走り出したので追っかけたが、暗いのでのう」人々は、心の底から、動揺しかけた。  (どうして、ここを嗅ぎつけたか) 十二、三人の同志だけでは、大勢の、上席の人々を対手にどう争えるか?  (もう、ここまで、手を廻して) 心細さを感じるとともに、憎しみを感したが、その代り、張合が強くなっても来た’       一ノ五  人々の去った静かな1−だが、乱雑な、広間で、三人が火鉢をかこんでいた。女中は、つつましく、他の部屋を取片付けながら、小太郎を、ちらっと、眺めては、笑ったり背をぶち合ったり、していた。   「女中、そっちの女中」  と、益満が呼んだ。 心   「はい」  と答えて、聯かに、赤らみながら、   「お召しで、ござりまナか」  女中のついた手を、いきなり、小太郎の手にくっつけてー   「どうしゃ、いくらくれる?」  女中も、小太郎も赤くなった。女中が、走り去ると、   「とにかく、江戸は、斉興公長原が多い。これでは仕事がでさん。しかし、国許には、御家老の島津壱岐殿、二階堂、赤山、山一、高崎、近藤と、傑物が揃いも、揃って、斉彬公方じゃ。この人々と、連絡すれば、平や将曹ごとき、へろへろ家老を倒すに、訳はない」   「訓所は?」   「調所はーこのへろへろを除いてからでよい。よし、こやつが元兇としても、大坂におっては、大したこともしでかしえまい。それで、小父上、微かは、浪人を集めて、牧を討ちにまいるから−‐−」  「牧は、わしが討ち取るつもりじゃ」  「小太郎と二人で?」  「うむ」  「牧には、少くも、十人の護衛かおりまするぞ」  「成否は問わぬ、意地、武門武士の面目として」 「では、力を添えてくだされますか」 「わしも、お前がおると、力強いで」 「それから、綱手は、調所のところへ、あの又蔵を国許の同志への使に立てたなら?」 「あれは、忠義者じやし、心も利いておる」 「では、小父上、今からでも、立ちますかの」 「ここへ泊って、明日、早々にでもーーーー’」 「七瀬殿は?」 「もう立ったであろう」 「この雨の中を_____ I 「可哀怨じやか_____ I 「初旅にー」 「お前は、いつ立つ」 「さようー浪士を集めて、賊党の手配りを調べてゴ二日がほどはかかりましょうか」 「深雪は、その間」 「南玉と申ナ講釈師に、あずけましょう」 「講釈師、あの、ひょうげた?」 「あれで、なかなかの奴で、脱ができておりまナる。安心してよろしゅうござりましょう」と、いって、話が終ると、 「そこな女中、この美少年が、お主に惚れて、今夜泊るとよう」「ああれ、また、嘘ばっかりーーー」    《 ハ郎太が、苦笑して、 「益満」 「あはははは、では、拙者は、これにて、小太、上方で逢おう」「うむ」 「どうれ、雨の夜、でも踊るか」 と、いって、益満は、裾を端析った。  「途中、気をつけて」  「闇試合は、女中と、小太に任せよう」  「あれまた、あんなことをーーー」 と、女中は、益満を睨んですぐ、その眼で、小太郎に媚を送った。      ニノー  七瀬ら三人は、秋雨の夜道を、徹宵で歩いて行った。品川の旅宿の人々は、この雨の中を、この時刻から、西へ行く女巡れの三人に、不審さを感じながら−1‐それでも、  「お泊りしやござんせんか」  と、声だけはかけた。軒下づたいに妓楼を素見して歩いている人々は、綱手をのぞいて、   「よう、別個」  と、叫んだ。三人は、この闇の雨の道を歩きたくはなかったが、江戸近くで泊るということは、夫に対してできなかった。夫に対し、父に対し、主人に対し、自分たちも、その人と同じように苦労をしなくてはならぬように感していた。そして、身体を冷やしつつ歩いた。  それでも、鈴ケ森へかかって、海鳴りの音、波の打ち上げてくる響き、松に鴨びなく風と、雨の音を聞き、仕置場の番小屋の灯が、微かに洩れているのを見た時には、流石に気味悪くなって、   (品川で泊った方がよかった)と、思った。街道には一人の通行人も無かったし、これから川崎までは、ほとんど人家のない道であった。川崎は、まだ深い眠りめ中にいるうちに通った。そして、鶴見へ入る手前で、ようよう雲に鈍い薄明り示さし初めて、雨が上るらしく、降りも少なくなってきたし、雲の訓示早く走リだした。  合羽を着ていたが、それを透したと見えて、着物の所々示冷たく肌へ感しるくらいに濡れていた。そして、暁の冷たい空気が頗えるくらいに寒かった。  鶴見を越えると、微微の、茶店などは起き出ていて、煙が低くyっていたし、いろいろの朝らしい物音が聞こえかけてきた。神奈川へ入る手前では、早立ちの旅人が、空を仰ぎながら、二、一三人急いで来た。そして、   「お早う、道中を、気をつけさっし」  と、気軽に三人へ挨拶して、肘れちがって行った。綱手は、(こんな人ばかりの道中ならよいのに)と、思った。そのうちに断れ断れの雲間から、薄目がさしだした。三人は、神奈川の茶店   で、朝食を食べて、着物を乾すことにした。鯨、荷前、味噌汁、焼豆腐で、一人前十八文ずつであった。    この辺から左右に、小山が連なって、戸心の彫嫉妬を登りきると、右手には富士山が、ちらち  ら見えるまでに晴れ上ってしまった。左手には草のはえた丘陵が起伏して、雨に鮮やかな肌をし  ていた。戸塚の松並木は、いつまでもいつまでもつづいた。七瀬は、その松並木があまり長いの  で腹が立った。そして、すっかり疲れきった。    松並木の下の、茶店で休むと、胆に何か食い物を縛りつけているようで、腰も、足も立たなく  なってしまった。茶店の亭主が、江戸からと開いて、    「そりゃ、無茶だ。奥様、無茶というものですよ。女の脚で、おまけに、初旅というのにー   そんな無茶な、1‐‐−こちらへござって、足をよく揉んで、しばらく、ちゃんと坐ってござれ」    座敷を開けてくれた。三人は、そこへ人った。そして、又痛が、七瀬の足を揉み、組手が自分  の胆を揉んでいる時、往来から、道中合羽を着た男が、覗き込んだ。    「やっと、見つかった」    と、七瀬へ笑いかけて、御叩頭した。        ニノニ    又疎か、警戒するように、二人の前へ立って、男を階んだ。七瀕も、坐り直した。    「無茶なことをなさるじゃあござんせんかー−昨夜ば、夜っぴてでござんしょう。あの雨の中、  もりでげしょうが、あっしゃあ、もう少し1やくざ野郎だが、   んだ。お嬢さん、あっしのここを、買っておくんなせえ。庄吉、 もし風邪でもひいたら、いったい、どうなさるんで。旅ってものは、腹と一緒で、八分目でござんすよ。昨夜よっぴて歩いたって、今朝、早立したあっしが、馬で急ぎやあ、ここで追っつけるんだ。旅の初日に出た肉刺は、二日や三日で、旋らねえし、その脚しゃあ、今日、当り前なら六里歩けるところが、無理なすったため半分歩きゃあ、またへたばっちゃいますぜ。I又蔵さん、いい齢をして、なんのためのお供だい」   「そうともそうとも」  茶店の亭主が、茶を汲んで来て、庄吉の喋べっているのへ相槌を打った。  「それくらいのことあ心得てらあ。ところが、そうは行かねえんだ」  又蔵が、不平そうに言った。七瀬は、又蔵へ気の毒な気がしたし、気ばかりあせって、旅慣れない自分に、軽い後悔も、起こって来た。庄吉は、合羽の間から、懐へ手を入れて、  「悪気で言うんしゃあねえ、怒んなさんな。ところで−−‐」  懲金木綿の財布を、七瀬の前へ置いて、部屋の隅へ小さく腰をかけた。  「ええー−これは、御道具を売った金でござんす」  三人は、一時に、財布と庄吉の顔を見較べた。七瀬が、  「なんという名であったかーーそちの志は、ようわかっていますがーー」  「うんにゃ、ちっともおわからねえーなんとか、ござり奉って、御返答申し上げ遊ばすおつ この胸んとこを買ってもれえて死ねっとおっしゃったら、死な   んにもかぎらねえ野郎ですぜ。失礼ながら、ぎりぎりの路銀しかお持ちじゃねえ。万一、水あた22 りで五目、七日、無駄飯でも食ったらいったいどうなさる。この財布をお持ちになるよりは、も  っと辛い思いをしますぜ」    「しかし、あの道具はいったん、お前に、差し上げた道具ゆえ」    「なんのいわれ、因縁があって、差し上げてもらったんでーいや、お互に、唐変木は、よし  やしょう。とにかく、こいつあ御納め願います。ほんのあっしの志で−−‐」    左手で、財布を、七瀬の膝の方へ、押しやって、立ち上った。・    「お前II」    「さよなら」    「これっーー又蔵」    七瀬は、又飛へ財布を渡して、庄吉を遣わそうとした。表口から、庄吉が振り返って、    「深雪さんにゃ、手前がついていやす。御心配にゃ及びません。さよなら」    口早に叫んで、微笑した。そして、軒下から足早に走り去ろうとした時、二人の馬上の武士が  通りかかった。又蔵が、駆け出して来た。七瀬が、上り口のところまで出て来た。    「下郎」    馬を停めて、馬上から侍が呼んだ。又飛が振り向くと、一人の武士が、七瀬を、顎でさして、    「仙波殿の家内では々いか」    又飛ば、不安そうな顔をして、馬上の人を見上げた。      ニノ三  一人が、馬から降りて、左手で編笠の紐を解きつつ、  「仙波殿の御内室では、ござりませぬか。久し振りにて、お眼にかかりまする」  「おお、池上」  国許で、小太郎の友だちとして、出入していた池上であった。   「どちらへ?」   「貴方は?」   「江戸へ」   「妾は、国許へ」   「亭主、ちょっと、奥を借りるぞ」  池上は、こういって、まだ馬上にいる兵頭へ、   「降りて来いよ」と、声をかけた。そして、奥へ入ろうとすると、鰭っ茶けた襖の前に、花が咲いたような綱手が坐っていた。   フ』れは’−‐御無礼致した。亭主、客人がいるではないか」  七瀬が、   「いいえ、お見忘れでござりますか、あの綱手」  綱手が、御辞儀した。   「ああっ、綱さんか、わしは−ー」  池上は、少し赤くなった。そして、小声で七瀬に、   「寛之助様の、御死去の折、たしか、お守役と聞きましたがー,‐それについて、ちと、聞いたことがあって」  池上は、打裂羽織の裾を拡げて、腰かけた。兵頭が、土間の奥の腰掛へ、大股にかけて、   「初めまして、兵頭武助と申します」  と、挨拶した。七瀬は、二人のちょうど間へ坐って、   「いかようの?」   「国許では、御変死、と噂しておりますがー−−」  池上は、こういって、七瀬の顔を、じっと見た。   「はい、御変死で、ございます」  七瀬は、言下に、はっきり答えた。   「と申すと、証拠でもあって」   「調伏の人形が床下にござりました。小太郎が、それを椙り出しましたが、そのために、ハ郎太は浪人−−妾は、国許へ、戻るところでござります」  池上は、しばらく黙っていたが、   「それはまた、奇妙な−−‐調伏の証拠を掘り出して、咎めを蒙るとは」   「地頭には勝てませぬ。して、貴方様は、何用で、御江戸へ」  池上は、腕組してしばらく黙っていたが、   「御内室を見込んで、お明かし申そうがーー加治木玄白斎殿が、牧仲太郎の調伏に相違無しと、見究められ、ただいま、御懐妊中の方に、もしものことがあっては、と、江戸の同志の方々と、打ち合せのためにまいる途中−−」   「そして、その牧は、ただいま、どこにーー−」   「上方へまいっておりましょう。場合によっては、某らの手にて討ち取る所存でござる」   「国許の同志の方々は?」   「赤山勘負殿、山田一郎右衛門殿、高崎五郎左衛門殿、などーー今度の異変にて、夜の目も寝ずに帥心痛でござる」  七頷け、又蔵に、   「間いたか」   「はい」   「御目許ではお待ちじゃによって、妾にかまわず、先に行ってたもらぬか」   「でも−−」  七頷は、黙って又蔵を睨みつけた。      ニノ四  兵頭が、 「わかったなら、急ごうではないか」 「いや、江戸の気配も、ほぼ、わかり申した。かたしけのう存します。道中御堅固に」と、いって、池上が立ち上った。 「もし、名越様にお逢いの節は、よろしくお伝えくだされませ」 「して、仙渡殿は」 「江戸におりましょうか、そ「その辺まで?」 れとも、その辺まで、まいっておりましょうか」  と、池上がいった時、もう、兵頭は、馬の影を覗いていた。  「では、御免。もし、仙波殿に途中で逢ったならーー−」  池上は、歩き歩き振り向いていった。  「無事とお伝えくださりませ」  三人は、池上の馬に来るのを見送った。  「御免」  二人は、編笠をきて、すぐ、馬をすすめた。三人は、御辞儀して、座に戻ると、しばらく黙っていたが、  「又蔵、御苦労ながら、一足先へ立ってたもれ、大事の手紙しゃで、一刻も急ぐから」  「はいーーしかし、おニ人では−」  「今、聞いたであろう。牧が、上方へ、まいっておるとー−このことを、夫に知らせて、一手 柄させて上げたいが、今から江戸へ戻れるものでなし、ここでこうしていて、夫と小太郎に逢うて、牧の行方を告げましょう。それまで、そちか、ここにおっては、大事の書状が無駄になる。わかりましたかえ。お前の心配に、無理はないが、妾とても、十八、九の娘ではないーIさ、心配せずに、急いで立っておくれ」  「はい」  七願は、腹巻きを引き出そうと、手を入れた。俯向いていた又疎か、  「路銀は−ここに」  と、生害の置いて行った財布を出した。  「それは、人様の金子ではないか」  「いいえーーあいつの申しますとおり、もしも、水あたりででも五日、七日寝ましたなら、先立つものは金、また、手前が、これを使います分にゃあ、申訳も立ちますし1あいつも、なかなかおもしろい奴でございます。手前、これでまいります」  「なにほど入っていますかえ」  又疎は、中を覗いてから、  「おやっ」  と、いって、掌へ開けた。小判と、貳ぐとか貳っていた。  「ございますよ。八両あまり」  「ハ両? 少し、多いではないか」 一一-   「ねえ」   「あれは巾着切であろうがな」   「そう申しますが」   「もしか、不浄の金ではないかの」  又疎は、立ち上った。   「もしもの時にやあ、奥様、又疎か、背負います」   「いいえ、これをもってI」  と、七願が金子を差し出した時、   「では、御無事に−すぐまた、大坂へお迎えにまいります。お嬢さん、気をおつけなすって下さいまし、水あたりーー」  又疎の声が湿った。走るように軒下へ出て、振り向いて、   「析っておりまする。奥さん、お嬢さん、行ってまいりますよ」  綱手は泣いていた。七瀬の眼も、温っていた。茶店の旅人も、亭主も、両方を見較べていた。      三ノー  碇山将曹は、四ツ本の差し出した書面を見ていた。それには「あかね」で、会合した人々の名が、書いてあった。   大目付貌物頭  名昿庄原太 さいざよががり 裁許掛 同見習 同 くらかためつけ 蔵方目付 おくごしよぅ 奥小姓 えんぽぅめ つけ 遠方目付 Lゆぅもんかたかぎやく宗門方書役こなんどやく 小納戸役 ひようぐかため つけ兵具方日付同人弟 無役 同 なかむらか え もん中村嘉右衛門 こんどうしちろう え もん近藤七郎右衛門にひろやた え もん皆納弥太右衛門よしいしちのじよう 吉井七之丞 むらのでんのじよう 村野伝之丞 むらた へいないざえもん村田平内左衛門ひじおかごろうた 肱岡五郎太 いじゆういんちゆうじ 伊集院中二 さがらいちろべえ 相良市郎兵衛 そう え もん 宗右衛門 ますみつきゆうのすけ 益満休之助 かじぎよモじ 加治木与曾二  「このほかに、仙波親子か」  大きい、丸い眼鏡越しに、四ツ本を見て、  「はっ」  と、頷くと、眼鎗をはずして、机の上へ置いた。そして、金網のかかった手焙り−・桐の胴丸に、天の橋立の蔵前訃したのを、抱えこむように、身体を曲げて、  「これだけの人数なら、恐ろしくはないが、国許の奴らと通謀させてはうるさい。それを取り 締ってー時と、場合で斬り捨ててもよい。と申しても、貴公は弱いのう」   「おそれいります」  四ツ本は、平伏した。   「それから、これも、貴公では、手にあまる献じやか、益体—こいつを、油断無く見張ってもらいたいーと、申しても、お前で、見張られるかな」   「死物狂いでー」   「死物狂いでは見張れん。添役に、一人、付けてやろう。それから、万々、内々のことしゃで、世間へ知れては面白うない。これも、よく含んでおいてくれ、ええと−—」  将曹が、冷えた茶を、口へつけた時、次の間に、荒い足音がして、取次が、   「伊集院様」  と、言い終るか、終らぬかに、襖を開けて、伊集院平が人って来た。小姓が、その後方から、あわてて、座蒲団を持って来た。四ツ本が一座滑って、平伏した。   「やあ11寒くなって」  伊集院が、座につくと、   「四ツ本ならよかろうが、碇氏、国許から、暴れ者が二人、名越へ着いたのを、御存じかな。昨夜」   「いいや」  碇山は、身体を起こして、伊集院の方へ、少し火鉢を押しやった。  「例の、秋水党の、なんとか、池上に、兵頭か、そういう名の奴がまいったが、案ずるところ、国許の意見を江戸へ知らせ、江戸の話を、国許へ持ち戻る所存らしい」  「打った折ろう」  「やるか」  「四ツ本、藩の名では後目が煩さい。浪人を、十人あまり集めて、網を張り、引っかかったら、引っ縛るか、折るかー‘’のう平」  「四ツ本、折れるか」  「ただいまも、それで、面目を失いました」  「はははは、碇殿も、祀爪啜は上手だが、この方はいっこうでのう」  と、平は四ツ本の頭を打つ真似をした。      三ノニ 四ッ本は、将曹の指令を受けて、退出してしまった。将曹は、がらどして、「商魂士才で、如才がない、薩摩の殿様お金がない、か」 と呟いて 「これは?」 と、指で丸を作って、平へ、微笑した。「どうもーー」  平は、口重にいって、腕を組んで、首を傾けて、   「調所の心底がわからぬ。下らぬ大砲鋳造とか、軍制改革とかーー表面は、久光公の御命令だが、裏に斉彬公が糸を引いていることは、よくわかっておるのに、すぐ、それには、金を出す。そして、この御家の基礎を置こうとするには、きまって出し渋る」  将豊か微笑して、余網の間から、火を疼き立てつつ、   「数理に達者だからのう。あの爺−−わしらが、その中から小遣にしておるのを、ちゃんと知っておるかもしれぬ」   「真逆—」   「いいや、金のことになると、お由羅とて容赦せぬからのう。そうそう、あいつの江戸下りも近づいたから、張尻を合わせておかぬと、何を吠え出すかわからん」   「この夏の二千両の内、八百両、貴殿にお渡しした、あの明細が、いまだ、届いていん」   「届かぬはずで、ありゃ、内二百何か、封デに化けた」   「また、できたか」   「できたと思うたら、逃げられた」  将背け、唇を尖らせた。そして、   「その代り、尉唄を一つ覚えた。二百両の端唄しゃ。一、二百両也、端唄と書け。同所のかんかん爺には、わかるまい」  あばばばぱ、と高笑いして、鈴の紐を引いた。遠くで微かに鈴が鳴ると、すぐ、女の声で、  「召しましたか」  「酒じや」  「はい」  「お高の三味線で、その二百両の唄を一つ聞かしてやろう」  平は、丁寧に頭を下げて、  「ありかたいしあわせ」  と、膝の上で、丙肱を張った。衣擦れの音がして襖が開くと、  「お久し振り」  将曹の愛妾、お高が、真紅の襟裏を、濃化粧の胸の上に裏返して、支那渡りの黒鶴子、甚三紅の総絞りの着物の裾を引いて入って来た。  「高、二百両の端唄を、今夜は、披露しようと思うがーー」  お高は、線沈香の匂いを立てて、坐りつつ、  「三文の、乞食唄?」  「また−」  「でも、深川あたりの流し乞食のI−」  「平、文句がよいーIおい見えたあの白雲は、雪か煙か、オロシャ船、糾刻いべのいうことにや、日本娘に乗りかけてI」  お高が、口三味線で、ちかごろ政所の尉馳を唄いだした。平は、神妙に聞いていたが、・    (敵党には人物が多い。こんなことでは)と、俯向いて、暗い心を、じっと、両腕で抱いていた・ 七言に描く       一ノー  南玉のところは上り口の間と、その次の六畳と、それだけの住居であった。ただ幾鉢かの盆栽と、神棚ャーそれから、深雪が、明るく、光っていた。益満が、   「退屈なら深雪、富士春のとこへでも行くか」   「戯談を−I撮なことは教えませんよ。富士春は−−」   「その代り、お前のように、孔明宇は玄徳が、蛙切りの名槍を持って、清正と一騎打ちをしたりはせん−」   「だって、あん師匠あ、辻便所じゃあごわせんか。そんなところへお嬢さんが−’」   「小父さん、辻便所って、何?」   「そうれ御覧なさいーーだから、言わないこっちゃねえ。齢ごろが、お齢ごろなんだから、こういうことは、すぐ感ずりまさあ−−辻便所ってのは、お嬢さんーー」  南玉は、両手の人差指で、鼻を押し上げ、小指で、ロを大きく開いて、 ・-−−−− 「ももんがあ」 「あら、ももんがあが、お厠から出ま十の」 「そうそう、三縁山の丑三つの諭が、陰にこもってぐおIん−−と、鳴るとーー‘」「なるほど、拙い講釈師だの」 「便所の蔭から−−」 「ちょいと、ちょいと」 南王は、手で額を叩いて、  「できましたっ、夜鷹の仮声は天下一晶」といった時、  「物申そう、講釈師、挑牛舎南玉の住居はここかの」 南王が、  「へい」 と、いったとたん、益満が、  「真木か」  「益満」 格子を開けて、着流しの浪人が人ってきた。そして、土間に立っていると、  「庸王、酒を買って来い」 銀子を渡して、益満が、  「こちらへ」    と、いった。南玉は、勝手口から出て行った。浪人が、深雪に挨拶してしまうと、益満が、全包を出してヽ    「支度金」    「いや、かたじけない」    浪人は、膝の上へ手をついてお叩頭した。    「一手五人として、三手ーなるべくならば、姿をかえて悟られぬようにお願いしたい。一手  から一人ずつ、物見兼連絡掛として、某と、各々との間におって、事があれば知らせ合うことー  !誰も同しことで、某も覚えがあるが、苦しい時には、刀の中身まで替えたもの。もし、そうい  う仁があれば、是非味のよい物を求めてもらいたい。仲間の喧嘩口論はもちろんのこと、道中、   みだりに人と、いさかってはならぬ、旅館での、大酒、高声、放談も慎しんでいただきたい」    浪人は、一々、うなずいていた。    「出立は、明後目?」    「さよう、明後目ときめて、万事、其の指図をお待ち願いたい」    「では、支度に忙しいゆえ、これにて」    浪人は、手をついて、    「一同の人は、どこに、貴公のところ?」    「揃うておりまする」    浪人は、そう言って、腰を上げた。 「では、明後日早朝として、某は、神奈川でお待ち申そう」益満も、見送りに立ち上った。     }ノニ 益満は、座「深雪」 につくと  と、正面から、顔をじっと見た。  「わしは、刊ての話のごとく、明後日の早朝、牧仲太郎を討ち取るため、今の浪人どもを連れて上方へ立つ」   ヽ  深雪は、膝を凝視めて、鼓動してくる心臓を押えていた。  「人を討つに、己のみが助かろうとは思わぬから、あるいはこれが今生の別れかもしれぬ。父に別れ、母に別れ、小太に別れーーー今また、わしと別れて心細いであろうが、かかる運命になった上は是非もない−1ただーいかなる苦しみ悲しみが押しよせようとも、必ず、勇気を失うなよ。しっと、耐えて、その苦しさを凝視めてみるのじゃ。それに、巻き込まれず、打ち挫かれずに、正面から引っ組んで味わってみるのじゃ。そうすると、なぜ、自分は、こんなに苦しめられるのか? 悲しまされるのか、だんだんわかってくる。誰が苦しめるのか? なんのために、悲しまされるのか? それを、よく考えて、その苦しませる奴と戦う−—−ここから、その悪い運が、明るく開けてくる。よいか」  深雪は、頷いた。   「それで、小父上から、あずかっておいたが」  益満は、袋に人った短刀を取り出した。   「小啓次が惚れておるのを幸として、お由羅の許へ、奉公に出るということIもし、この話が成就したなら、これを、父と思って肌身を離すな、奥女中は、旅が報の集まりゆえ、いじめることもあろうし、叱ることもあろうが、お家のため、父のために十分に耐えてーー肘があらば、由羅を制し殺せ。己を突くか、二つにーつの短刀しか。そのほかに使うことはならぬ。また−−朱に交われば赤くなる、と申すが、泥水に咲いても、清い蓮の花は清く咲く。けっして、奥の悪風に染むなよ」  深雪は、身体をかたくして間いていた。一家中の者が、それぞれ身を捨ててかかっているのに、自分一人だけは、庸王のおどけた生活の中にいたので、日夜、そのために苦しんでいたが、益満の言葉で、頭が軽くなった。  だが、同時に、齢端のいかぬ、世間知らずの娘が、そんなー−由羅を制すというような大任ができるだろうかと、心配になった。   「人間というものは、どんなことがあっても、いつも、明るい心さえもっておったなら、道は、自然に開けてくる。明るい心とは、勇気のあること、苦しさに負けぬことー−−よいか」  と、言った時、南玉は、ことこと戻って来た。深雪は、短刀を押しいただいて、懐中した。  「わしは、これから、富上唇の許へ、ちょっと、行ってくる」 益満は、「客は、 刀を持って、立ち上りながら、勝手で、戻ったぞ」 七輪への欠本を、ぶつぶつ折っている南玉へ、  「しめたっ」  「へべれけになって、また、席を抜くなよ」  「腰を抜く」  南玉は、こういって、障子の破れ穴から、中をのでいて、益満が出て行きそうなので、  「一杯やってから」  と、徳利を提げて出て来た。  「急ぐ」  「便所なら、こちらにも1」  「馬鹿っ」  益満は、笑いながら出て行った。深雪にはなんのことだかわからなかった。      ニノー  富士谷はー人きりだった。益満が入って行くと、惣菜をお裾分けに来たらしい女房が、あわてて勝手から出て行った。富土谷は、お惣菜の小鉢を、聯こらずへ入れて、益満へ、  「お見かぎりだねえ」  「なにをー−こっちのいう杞叱だ。近ごろは、巾着切をくわえこんでいるくせにI」  富士春は、下から、皆びた目で、益満を見上げて、   「ま、お当て遊ばせな」  と、座蒲団を押しつけた。   「貴様でも、遊ばせ言葉を存しておるか」   「妾は、元、京育ち、父は公卿にて一条の」   「大官辺に肘yして、夜な夜な、人の袖を引く」   「へんっ、てんだ。どうせ、そうでございましょうよ。柄にもない、お嬢さんなんかと、くっついて」  富士春は、益漓の眼へ、笑いかけつつ、茶をついだ。   「そのお嬢さんに、小藤次が執心らしいが、師匠、一つ骨を折って、奥勤めへでものう。父は浪人になるし、南玉の許に食客をしていては」   「本当にねえ、お可哀そうに−−」   「などと、悲しそうな面あするな。内心、とって食おう、と、,田心っているくせに−−」   「やだよ、益公。与太な科白も、ちょいちょいぬかせ。意地と、色とをごっちやにして、売っている、泥溝板長屋の富士春を知らねえか」   「その啖呵あ、三度聞いた」   「じやあ、新口だよ。いいかい、剣術あお下手で、お三味線は上手てんだ。益公。お馬もお下手で、胡麻摺りやお上手。ぴIんと、痛いだろう」  「常磐津よりは、その手が上手しゃ。流石、巾着切のおしこみだけはある」  「外聞の悪い、巾着切、巾着切って」  と、言って、女は、声を低くして、  「お前さんにゃあ眺わないが、知壮んようにしておくんな、人気にかかわるからね」  「心得たーIその代り、二階へちょっとーー」  富士谷は、ちらっと、益満を見て、  「本心かえ」  と、険しい眼をした。  「一緒に、というんしゃねえ。わし一人で‘—その代りしばらく、誰も、来んように」  富士谷は、微笑して、  「屋根伝いに、お嬢さんがーー」  「まあず、その辺」  富土谷は、手を延して、益満を宛った。  「たたたった、まさか、二階に、庄公が鎮座してはおるまいの」  「はいはい、亭主は、八副が、お寝静まりになりましてから、こっそり、忍んでまいりまする」  益満は、立ち上って、肘ヤれを開けた。狭い、急な階段があった。  「今は、狼ども、来るかの」    「さあ、一人、二人はーお肉親さんが、お帰リなので、町内申が、見張りに出ているらしいs から」    「ほほう、お肉親縁が、お帰り?」    「あのお嬢さんを、臭勤めさせるなど−どうして、あちきのところへ、あずけないかしら?」   益満は、階段の二段目から、首を延ばして、    「庄吉は、色男だからのう、危ない」    と言ってすぐ階段を、軋らせて登ってしまった。 ニノニ   「お出荷さん、か」  富士客は呟いた。同し、師匠のところへ、通っていたこともあったが、物億えの悪い、お出荷であった。そして、富土谷はその反対であったが、反対であったがために、富士客は師匠となり、お肉架け、いつの間にか、お部屋様になった。富上客は、勝手の小女に、   「早くおしよ」  と、夕食を促した。  益満は、暮れてしまった大屋根へ、出た。周囲の長屋の人々は、ことごとく、里戻りのお由荷を見るため、宗を空にして出ているらしく、なんの物音もしなかった。  屋根から往来を見下すと、町を警固の若い衆が、群衆を、軒下へ押しつけ、通行人を、せき立 てて、手を振ったり、叫んだり、走ったりしていた。  提灯を片手に、順に手駒を、ある人は棒をもって、後から出る手当の祝儀を、どう使おうかと、微笑したり、長屋の小娘に、  「お前も、あやかるんだぞ」 と、言ったり、その間々に、  「出ちゃあいけねえ」 とか 「早く通れっ」 とか、怒嗚ったりー小藤次の家は、幕を引き廻して、板の間に、金屏風を、軒下の左右には、 家の者、町内の顔ぎざが、提灯を股にして、ずらりと、居流れていた。  益満は、ぴったりと、屋根の上へ、腹を当て、かい延びて、短銃を、微瑕い上から、小啓次の家の方へ、狙いをつけていた。片眼を閉して、筒先を上げ下げしつつ、軒下の中央へ、駕が止まって、お由羅の立ち爪るのを、一発にと、㈹を定めていた。  驚か近づいて来たらしく、人々のどよめきが、渡って来るとともに、軒下の人々がいっせいに首を延ばし、若い衆の背を押して、雪崩れかかった。そして、若い衆に制されて、爪立ちになって覗くとーー真先に士分の一人、挟箱一人、練いて侍女二人、すぐ驚になって、驚脇に、四人の女、後ろに胡床、草履取り、小者、広敷番、侍女数人−と、つづいて来た。  軒下に居並んでいた人々が、手をついた。陸尺が訓練された手振り、足付きで、小啓次の家の 正面へ来た。  益備は、左手を短銃へ当て、狙いの狂わぬようにして、右手を引金へかけた。そして、駕から出て、立ち上った女の胸板をと、照準を定めていた。  駕は、しかし、横づけにならず、陸尺の肩にかかったまま、入口と直角になった。そして、益備カ                                 `   (妙な置き方をする)と、田こった時、そのまま陸尺は、土足で、板の間へ、?き入れかけた。   (しまった)照準を直した時、駕は、侍女の蔭を通って、もう半分以上も、家の中へ入ってしまっていた。   (こっちに備えがあれば、敵も用心するのだI流石に、お由羅だ)  具備は、微笑して立ち上った。そして、瓦をことこと鳴らしつつ、一階の窓から入って来て、   「ちんとち、ちんちん、とちちんちん、ちんちん鴨とは、どでごんすー−」  と、唄いながら、段を下りた。富士春が、  「騒々しいね」  「ちんちんもがもがとでごんす」  益満は、片足で、三段目から、飛び降りて、そのままぴょんぴょん、富士春の側へ行こうとすると、火鉢の前に一人の男が坐っていた。      ニノ三  益満が降りてくると、火鉢の前に、見知らぬ男が坐っていた。そして、その男も、富士春も、二人ながら気拙そうに、沈黙してしまった。益漓は、   (庄吉だな)と、思った。そして、二人を気拙くさせたのは、自分だと感した。そのとたん、富士春が、   「ねえ、益満さん、あの、貴下とこのお嬢さんという人は、この人の手を折った人の妹さんで、ござんしょう」  益満は、庄吉に、   「初めて−でもないが、手前は、益体と申して、ぐうたら侍】  庄古は、あわてて座蒲団から滑って、  「おそれいります。お名前は、それから、以前こいつが、お世話になりましたそうで、いろいろと−」  富士春が庄吉を睨んで、鋭く、  「よけいなことを喋らなくってもいいよ」  「ははは、逢えば、そのまま、巾貳して、と唄のとおりだの。それで、富士春、妹なら?」  「現在手首を折られた男の妹に惚れてII」  「手前はまた、折った小太郎さんに思し召しがあるんじゃねえか」  「馬鹿に−」  「仲よくニ人で惚れたって、なんでえ。なんとかいや、不其者を引き取ってやったとー−手前   なんざ、不具者のほかの亭主がもてるけえ」   富士春はヽぽんと二w祀を投げ出してヽ益満にヽ    「その深雪さんが、小屡次の手で奥勤めすると問いて、へへ、邪魔を人れてますのさ、この人  がー奥へ人ると、逢えないもんだからーー」    「て、手前、おれの気立てを、うぬあ、まだ御存じ遊ばさねえんだ。俺、なるほど、よく問い  てみりゃあ、深雪さんは好きだと、この胸がおっしゃるけどな、あのお嬢さんを追っかけるのは、   南玉親爺一人に任せちゃあおけねえからだ。一手柄、飽の手で立てさせ上げ奉っちまって、ねえ、   益満さん、あの親爺さんなり、小太郎さんに逢わして上げたら、どんなに肩身が広かろうと、こ  れが世に言う、そら、義侠心って奴だ」    「休のいいこと言いなさんな」    「手前、なんでえ、小太郎の男っ影りに惚れやがって−1」    「小娘しゃあないよ」    「なにを、昨夜も、手前、あの人は、まだ女を知らないだろう、どんな頷をするだろうねって  −−鍛と思やあ、腕まくりしてみろ、飽かつねった跡がついてるだろう。さあ、そっちの腕をま  くって、益満の旦那に見せてみろ、それ、見せられめえ」    「ははあ、のろけか」    庄古は、笑った。益満が、    「まま、こういう喧嘩ならたいしたことはあるまい。なまし伸哉をしては、あとで、悪口を言 われるものしゃてーーーそのうちに、ゆっくりー−」  と、立ち上った。   「旅をなさいますって?」  と、富土谷が、見上げた。   「上方へしばらく」   「そして、深雪さんは?」   「奥勤めがでさんなら、しばらくぼ、南玉の食客かの」   「庄吉が、くっつきましては?」   「それも、よかろう。庄吉頼むぞ」   「男ってものはーー」  と、富士谷は、口惜しそうに、羨ましそうに呟いた。   「男同士でなくっちゃあ、わからねえ」  庄吉は、そう、言いすてて、益満を送りに立った。      三ノー   「お部屋様付になれたら、俺のいうことも聞くか?—−‐なるほど」        `  小峰次は、常公と、二人で、南玉のところへ、深雪を耐ねて来て、自分のなぞまたは、妻にと話しだした。    「もっともだが、ま、俺からいうと、俺のいうことを聞いてくれたら、由振付なりと、好きな ところへ奉公してもいい、と、こういいたいの」    常公が、頷いた。深雪は、頭から、髪の中まで、ロ借しさでいっぱいだった。父に別れるとす  ぐ、浅ましい妾奉公などを、大工上りの小啓次から、申し込んで来だのに対して、口借しかった。    (でも、これを忍ばないとIIいい機なのだからー)と思った。しかし、小蔭次に肌を与え  てまでも、出振付女中になりたくはなかった。そうまでしないでも、ほかに方法があるように思  った。しかし、益満は、    「操ぐらいI」    と、軽くーーそれも、深雪には、口皆しかった。汗ばんだ手に、懐の短刀を持って、    (肉羅付になって、由羅を制すか、自分を制ナか)と、思うと、人々の見ている中で、芝居を  しているように、いろいろの場面が、空想になって拡がっていった。    女の決心は、男の決心よりも強い。その今、流している涙を+倍にして、敵党へ叩きつける決  心をするのだ。父の分、母の分、兄の分、姉の分を、自分一人で背負って、復讐する決心をして  おれと、言われたが、それを思いだすと、小藩次に、肌を許して、一目も早く、お肉羅を刺そう  かと思った。だが、小藤次の下品な鼻、脂ぎった頬、胸の毛を見ると、身ふるいがした。    「武家育ちだから知ってるだろうが、いったん、上ってしまうと、咀筑たあちがって、なかな  か、男など近づけるところでないし、宿下りは年にニ度さ、だから−」    南五が、   「そこをひとつ、若旦那、お肉羅さんの兄さんという勢力で、気位に逢引のできるよう、骨を折って下さるんでげすな」   「不束者でございますが、お世話になります以上は、一生をかけたいと存じます。それにつきましてはヽひととおりの岸駅訟めも致しとうございますゆえヽ一ヽ二年ヽ御部屋様付にてヽ見習をさせていただきましたなら」  深雪は、一生懸命であった。頭も熱くなって、舌が、ざらざらして、動かなくなるのではないかと思えた。   「利口なことをいうぜ」  小藤次は、駒組をして、深雪の滑らかな肩、新鮮な果実のような頬と典雅な腰の線を眺めていた。   「なるほど、ごもっともさまで−」                   ‐  と、常公が、思案に余ったような顔をしていた。   「講釈流で行くと、ここで、岡田小藤次は、侠気を見せますな。なんにも言わねえ、行ってきな」  南玉は、首を擬って仮声を使った。   「てえことになると、娘の方から−−ほんに、頼もしい小藤沢さま」  南玉は、娘の仮声をつかった。そして、常公に、しなだれかかった。   「うわっ、おいてけ堀の化物だ」 と、常公は、身体を邱らした。 三ノニ  「今晩あIやあ、これはこれは」  庄古が、暗い土間から、奥を覗き込んだ。そして、  「若旦那、今晩は」  と、言って上って来た。小藤次は、煙管をしまって、  「とにかく、奥役に聞いて、奉公に上れるか、上れんか、なあ、それから先にして、う一度来るから、深雪さんも、よく考えておいてくれな。そりゃあ、無理をすりゃあ、もIできねえこたあねえが、窮屈だからのう、邸勤めってのは」  「話あ、きまりましたかえ」  と、庄古び、小啓次の顔を見た。   「庄公も、一つ骨を析っといてくれ。なかなか利口なお嬢さんだ。しゃあ、師匠、お邪魔したのう」   「手前も、今夜、ゆっくり、口説いてみましょう」   「師匠の口説くなあ、講釈同然、聯いだろうの」 汽あ、も邸の中で また来らあ。  といいつつ、深雪に挨拶して立ち上った。常公も、庄吉も、南玉も上り口まで見送って来た。深雪は、まだ短刀を握りしめて俯向いていた。   「お嬢さんー−邸奉公なさるって−そりやさ、王爺の」 いったい、貴女の望みか、そ れとも、この南   「これこれ、爺とは、なんしゃ。齢はとっても、若い気だ。物を盗っても、庄古と、いうがごとし、とは、これいかに。うめえ問答だ。明晩、席で、一つ喋ってやろう」  庄吉は、南玉が喋るのを、うるさそうに聞きながら、   「勤めなんぞより、お嫁に行さなせえ。早く身を因めた方が、利口ですぜ」  庄吉は、しっと、深雪を萌粗めつつ、   「だが、びっくりなさんな。こうすすめるのは庄吉の本心しゃあねえんで−−IIその懐の中、手のかかっているものはーー」  深雪は、庄古を見た。   「短刀でげしょう」  深雪の眼も、懐の手も、微かに勁いた。   「商売柄わかりまさあ。お由羅のところへ奉公に上って、その短刀が−−’」  と、いった時、南玉が、   「わしの、講釈よりも、前立が上手だよ、のう庄吉」   「誰も、俺を、巾着切だとおもって対手にしねえが、流石に、益満さんは、目が高えや、南玉、深雪さん、益満さんは、貴女のお父さんが、牧を討ちに行ったと、あっしを見込んで打ち明けてくださいましたぜ。床下の人形のこたあ、世間でも知ってまさあ。二つ合せて考えて、その短刀   と三つ合せて考えて、 ナよヽ十七やヽ八でヽ  ね」 小藤次の色好みを幸いに、御輿へ忍んで−ねえ、あっしゃあ嬉しゅうがその心意気がーーーあっしの手が、満足なら、忍び込んで御手伝いしやすが  庄吉の言葉は、二人を動かすに+分であった。だが、二人とも黙っていた。   「あっしに、何か、一仕事—庄吉、これをせいとお嬢さん、何かいいつけてくださんせんか−−死ねとか、盗めとか」  二人は、黙ったままであった。   「じゃあ’−深雪さん、大坂のお母さんと、姉さんを、手助け致しやしょうか。そして、貴女に何か、一手柄−I」   「立てさせて上げてくれるなら、そりゃあ、庄吉、この爺もーねえ、お嬢さん」  深雪は、   「はい」  と、答えた。   「ようしっ」  庄吉は、眼を輝かして、膝を叩いた。      さ てつ第ニの盛映      一ノー  戸塚より藤沢へ二里、本駄賃、百五十文。藤沢より平塚へ三里、二百八十文。平塚より大磯ヘニ+町、六十文。箱根路へかかると、流石に高くなって、小田原から、箱根町へが四里という計 数で、七百文であった。   「荒屋、急ぎだぞ」  五人の待風の者と、商人風の者とが、藤沢の立場の前で乗り継ぎの催促をしていた。   「へい」  と、いって、小屋の中で、籤を引いていた荒人足が、きまったと見えて、黒く、走って出た。そして自分の荒を肩へかけると、待の方へ、   「お待ちどおで」  七頷は、小屋の横から、荒へ入る人を、一人一人眺めていたが、   (あれはI‐家中の夫と近しい方—−)と、思うと、一足出て見た。荒は、すぐ上った。  七頷け、 (夫のことを聞こうか、聞くまいか)と、思案した時、その人も、七瀬を見つけた。それをき っかけに、七瀬は御叩頭をして、小走りに駕へよって、   「奈良絵様では?」  奈良絵は、七瀬を見て、   「仙波氏は?」   「さあ、−—ここで、待っておりますが」  奈良絵は、   「待つ? 待っておる? 何を愚図愚図とー危険が追っておるに」  と、いって、すぐ、   「鴛やれ」  駕はヽヱ㈹つづいてヽが射よく行きかけた・奈良崎の急ぐ態度、言葉からはヽ何かしらヽ大事が起こるような、予感がした。  一筋道ではあったが、ハ郎大と、小太郎とが、昼間しか通らぬと決まってはいなかった。自分たらが、品川から夜道したように、二人は、綱手の眠っている間に、行きすぎたかもしれぬしー−   (もしかしたなら、あの人々が、夫を追うのでは?)と、思うと、そうも、思えた、七瀬は、多勢の者に取り巻かれて戦っている、先と、子とを想像すると、もう、立場で見張ってはおれなくなってきた。   (奈良絵の、あの、危険が追っているという言葉ーー先に追っているのか、自分に追っている のか? なぜ、危険が遣るのか?)  七順には、十分理由がわからなかったが、今まで引き胱いて起こった不遜のことを考えると、何かしら大事が起こるように思えた。   「七挺だっ、急ぎ」と、いう声がしたので、振り向くと、侍が七人、怒鳴っていた。その中に七瀬の顔見知りの人がいた。立場の横には、掘抜井戸があって、馬の、雲助の、飲み水になっていた。駄賃をもらうと、駕を、軒下へ片付けて、雲助はその井戸へ集まった。   「今し方、五挺、侍が乗って行かなんだかのう」   「行かっしゃりました」   「どの辺までいっておろう」   「さあ、この宿を−−はずれたか、はずれんかぐらいでござんしょう」  筆を、耳へ射んで、立場の取り締りらしいのが答えた。七人の侍は、軒下に陽を避けながら、何か囁いては、傾き合った。   「酒手をはずむから、急いでくれんかの」   「心得ました」 「てへっ、てへっ、今日は、女っ子が抱けるぞ。雲助たちは、元気よく、駕を次いで走り去った。 いいお天道様だっ」 七瀬は、なんとなく、だんだん胸が騒がしく なってきた。そして、宿の方へ歩き出した。その時、  「ほいっ、ほいっ」  と、四人立の驚か、ナぐ帽広へ来た。七瀬が振り向くと、驚の中の一人の眼が光って、  「七瀬殿、何を愚図愚図」  と、叫んだ、益満であった。  「夫は?」  「とっくにI今、敵の討手が、七人、吾々同志を追ってまいったであろうが」  と、いう内に、驚が眼の前を行きすぎていた。七瀬は、裾をかかげて走り出した。       一ノニ  「追っつきましたぜ、旦那」  駕の中の侍は、驚をつかまえて、身体を延ばした、そして、  「垂れを下ろして−I」  自分で、そういいながら、垂れを下ろしてしまった。七桓の中二挺には槍が立ててあった。  同じ、宿場の駕として、四人仕立のが、二人立の驚を抜くのは当然であったが、二人仕立同士の抜きっこは、止められていた。だが、酒手の出しようで驚屋は、対手に挨拶をして、抜いてもよかった。七人の侍の驚は、五挺の駕へ追いつくと、  [兄弟、頼むっ」  と、棒鼻が叫んだ。  「おおっ、−−−手を握ったか」 sみa sgrり 後棒が、振り向いた。  「その辺I上 お互に、仲間の符牒で、話し合って、追い抜いてしまった。大磯と、小田原の間、松並木つづ きで、左手に、遠く海が白く光っている所であった。  小田原から、箱根越の雲助は、海道一の駕屋として、が炉っていた。七百文のぶ敷に、三百文の沢fではいい顔をしないくらいであった。美酒、笑食で、冬の最中にも裸で拒ぐのを自慢にしていた。その禅の腕へ、雪が降っても、すぐ、消えていくのが、彼らの自慢の第一であった。   「箱根泊りですかい、今から1」  不平そうな顔をして、雲助がこういうのに対して、   「頼むー−」  と言って、多分の酒手を出すほかになかった。雲助は支度をしながら、七人の姿を、ちらちら眺めていた。  七人は軽装で、二人まで袴をつけていなかった。木綿仇討一枚に、片片肘をしめて、二尺七、ハ寸の刀を差していた。   「おかしい野郎だの」  駕屋は、仲間へ囁いた。  七挺の駕が、小田原を離れるとともに、駕の中の人々が、  「山へ入ってから、それともーーこの辺でよいではないか」  とか、、   「その曲りっ角はII」  とか、話し合った。最初の駕にいる人が、  「山の中で、+分の足場のところでないとーー」  と、対手にしなかった。湯本から登りになった。石段道へかかった。駕屋は、沈黙して、息杖を、こつこつ音立てながら、駕を横にして、ゆるゆる登りかけた。  一町か、一町半で、休み茶屋があった。駕屋は、きっと、そこでしばらくやすんだ。少しも疲れていないようであったが、十分に休んでからでないと行かなかった。  右も左も杉林で、その下は雑草の深々としたところへかかった。最初の駕の侍が、   「駕屋、とめろ」  と、叫んだ。  「ええ?」  「ここまででよい−降りる」  駕屋はお互に、   (怪しい奴だよ、この野郎ら−)と、眼配せをした。   「吾々は、公儀御用にて咎人を討ち取る者しか。見物せい」  と、一人が、駕屋へ微笑して、  「小田原の方へ降りることはならぬ。そっちヘー’−遠く離れておれ」  と、命して、そして、酒手を多分に出した。       }ノ三   「待て。駕屋、待てっ」  行手の草叢から、侍が立ち現れて叫んだ。  最初の駕にいた男も、次の駕の男も、立てかけてあった刀をとった。そして、素早く、左脚を、駕の外へ出した。   「奈良崎−」  草叢の中から出て来た侍は、こういって近づくと、   「聞きたいことがある」  奈良崎は、黙って、刀を提げて、その侍の反対側へ出た。雲助が、急いで草履を持って来た。四挺の駕からも、刀を持って、商人に化けた四人が出た。そして、四辺を見廻してから、奈良崎の背後に立って、その侍を、じっと睨みつけた。   「一木」  奈良崎が、少し、顔を赤くして叫んだ。   「連れ戻るか、斬るかであろう」   一木は、冷たい微笑をして、   「君公の命じゃ、なぜ、お主は無断で、旅へ出た」   「そういうことを聞きとうない」   「そうかー覚悟しておるのか」   「お身たち、虎の威を借る狐とはち示う」   一木の顔色が動いた。   「奈良絵、君公の御裁許も仰がず、耐リに私党を組んで、無届出糾い及ぶ段、不屈千万、上意によって討ち取る」   「そうか」  奈良崎示、足に敷いていた草履を彫すぼして、身構えすると同時に、草が動き、物音示して、人が、榜示、草叢の中から現れた。   「奈良絵、そのほかの浪人者も、手向い致すか」  七人は、榜と、刀とで、五人を取り巻いた。   「だわけ−—来い」   「芋侍なら不足はない」  五人は、刀を抜いて、背を合せた。   「そうか−I是非もない」   一木が、こういうと同時に、六人の侍はじりしりと追って来た。五人の方の駕屋は、立木の中へ人って、樹を尉みながら、ぼんやりと、だが、聯の下に、掌に、汗をかいて、眺めていた。もう走ることも、動くことも、できなくなっていた。 十二人は、無言で、お互の爪ちと、かぶとを近づけて行った。誰も皆、蒼白な顔をして、眼が 異常に光っていた。  一木は、右手に刀を提げて奈良絵の横へ廻って来た。奈良絵はもう、額いた。追手の内の二人は、肩で呼吸をしていた。 に微かに汗を撒ませて  槍は中段に、刀は判E獄に、誰も皆同し構えであった。お互に、最初の真剣勝負に対して、固くなっていた。懸声もなかった。刀尖が二尺ほどのところまで近づくと、お互に動きもしなかった。  一木は、両手で、刀を持つと刀尖を地につけた、示現流の技手として、斬るか、斬られるか、一挙に、勝負を決しようとする手であった。−−はたして、   「やっ、やっ、やっ」   一木は、つづけざまに叫ぶと、刀尖で、地をたたきつけるように、斬り刻むように、両手で烈しく振って、  「ええいっ」  山の空気を引き裂いて、たちまち大上段に、振りかざすと、身体ぐるみ、奈良崎へ、躍りかかった。      一ノ四 一木の攻撃は、搾猛の極であった。それは躍りかかって来る手負獅子であった。後方へ か、横 へかーー避けて、その勢いを挫くほかに方法がなかった。  もし、受けたなら?−それは、刀を折られるか、受けきれずに、どっかを斬られるか、それだけであった。  だが、たった一つ、相打ちになる手はあった。一木の、決死の斬り込みに対して、斬らしておいて、突くという手である。凱尹郊に、一木の胸へ、こっちからも、必死の突撃を加えることである。  しかし、それも冒険だった。もし、一分、一秒、奈良崎の刀が、遅れたなら、自分だけがか所から二つに斬られなくてはならなかった。  こういう時になると、それは技量の問題でなく、此の問題であった。生死の覚悟いかんの問題であった。二人の問に格段の相違があればとにかく、互角か、互角に近かったなら、それは、場馴れているとか、いないとかの問題でなく、自分の命を捨ててかかった方が勝であった。   (ここを逃れてー牧を討たなくてはならぬー−)と考えていた奈良崎に、この覚悟がなかった。一木の、眼の凄さと、脚構えを見て、   (さては−)と、感じた瞬間、ちょっと、傾け心がついた・それは剣道で、もっとも、訟むべきものとされているものだった。疑う。惑う、怯ける−−どの心が起こっても、勝てぬものとされているものだった。  奈良崎は、一木の光る眼、輝く眼、決死の眼が、尉ヱように、正面から飛びかかって来たのを見た。一木の両手の中に、暗紫色をして、縮んでいた刀が、きえーっ、と、風を切って、生物の ごとく叫びながら、さっと延び、白く光って、落ちかかるのを見た。  奈良絵は、避けた。それは、自分の命令で、避けたのでなく、本能的に、反射的に、身体が勝手に、自然に避けたのだった。それから、奈良絵の両手も、無意識に刀を斜にして、一木の打ち込んでくる刀を支えようとした。  だが11奈良絵が、避けたはずみに、隣りの味方−−‐浪人者の一人へ、身体がどんと、ぶっつかった。お互に、よろめいた。奈良絵は膝をついた。そして、眼を剥き出し、絶望的な光を放って、一木を睨んだ。その瞬間、一木の打ち込んだ刀が、びIんと腕へ響いた。奈良崎は、膝を立て直そうと、勁かした時、太腿に、ドけつくような痛みと、突かれたという感しとを受けて、腰を草の上へ落してしまった。   「卑怯、卑怯」  奈良絵は、血走る眼、歪んだ唇、曲った眉をして、叫んだ。自分でもわからなかったが、こうでも叫ぶほかしかたがなかった。だが、一木は、   「えい、えいっ、えいっ」  それは殺人の織に憑かれた人間のように、倒れかかっている奈良崎へ、力任せに、つづけざまに、大太刀を打ち込んできた。奈良絵は、その隙間なく打ち降ろす刀を受けるだけで一生懸命であった。二人とも逆上したように、憑かれたように、同しことを繰り返していた。   「わーっ」  それは、杉木立の中へ、反響して、空まで響くような叫び声であった。そして、すぐ奈良崎の 頭へ誰かが斬られたらしい生あたたかいものが、小雨のように降って来た。  「これでもIこれでも」  一木は、歯を食いしばって、頭上のところで受けている奈良崎の刀を、つづけざまに揆った。  人の絶叫と、怒声とが、人間の叫びとは思えぬくらいに物凄く、杉木立の中へ木魂していた。      一ノ五  誰の米噛もふくれ上っていたし、額からは汗が流れていた。眼は、ヒステリカルに光って、それは、物を見る穴でなく、殺人的気魂を放射する穴に変っていた。  浪人たちは、三重の不利があった。一つは、ここを切り抜けて牧を討つのが目的であったし、もう一つ、地の利を対手に占められていたし、第三は、得物に槍の無いことと、人数の少いことであった。  だが、それよりも、もっと大きいのは、金で動いている請負仕事で、一木以下の六人が隼人の面目をかけて、対手を討とうとナるのと、その態度においてちがっていた。  一木が、奈良崎に打ち込んだのを合図にして、双方の離れていた刀尖が、少し触れ、二、三人は、懸声をしたが、対手が、じりじりつめて来るのに対して、四人は、返るばかりであった。だが、その中の一人は、奈良崎が槍で股を突かれたのを見ると、  「何をっ」  と、絶叫して、その槍の浪人に斬りかかった。進む浪人も、Eいた浪人も、草に滑った瑞汐、   「ええいっ」  右頭上ハ双に構えていた一人が、閃電のごとくーーぱあっと鈍い音とともに、つつと上った血煙—−   「うわっ」  と、遠巻にしていた旅人、駕屋が、自分が斬られたように叫んで、顔色を変えて、二、三間も逃げた。  斬られた浪人は、首を下げて、手を下げて、二、三歩、よろめいて歩み出て、すぐ奈良崎の横へ倒れてしまった。斬ロから血の噴出するのが遠くからでも見えた。  斬った男は、真赤な顔をして、刀を振り上げて、悪鬼のように、眼を剥き出して、   「こらっ、うぬらっ」  と、叫んで、三人に、走りかかった。それは、殺人鬼のように、狂的な搾猛さであった。三人は、同しように刀を引いた。そして、逃げ出した。   「逃げるか、逃げるか。卑怯者、卑怯者」  六人は、お互に絶叫して、猟犬のごとく追った。追う者も、追われる者も、草に滑り、石につまずき、凹みによろめいて走った。旅人は、周章てて、木立の中に飛び込んだ。   「待て、卑怯なっ、待てっ」   一人は、刀を押えて、槍を持って走っていたが、思うように走れないので、こう叫ぶと、槍を差し上げ、    「うぬっ」  とヽ叫んで、投げつけた。槍は、獲物に飛びかかって行く蛇のように、穂先を光らせて、飛ん  で行った。そして、一人の腰に当ったが、石の上へ落ちて転がってしまった。    「馬鹿っ」    追手の一人が、振りむいて、槍を投げた男に、    「股を肘貯けて、なぜ投げん」    と、睨みつけた。そのとたん一人の追手が浪人の一人に追いついて、片手突きに、その背中を  突いたが、間髪の差−‐’累早く、振り向いたその男が、片手薙に、身体も、刀を廻転するくらい  に払ったのが見事、胴へ人った。討手は、背後から突かれたように、手を延ばしたまま、どどっ  と、前へ倒れてしまった。    「やったな」と、一人が叫んだ。     ニノー 七顔は、綱手をせき立てて、すぐ、益満の後を追った。小田原の立場で、「箱根まで−‐‐‘」 と、いうと、人足たちは、 「秋の陽は、短いでのう」 と、渋っていたが、それでも、七顔の渡した包紙を握ると、   「やっつけるか」  と、いって、驚を出した。荒涼とした、水のない樹氷の河原を、左に湯本へ行くと、驚風は、草題を新しくして、鉢巻をしめ直した。  湯本から急な登りになる石敷の道は睨しかったし、赤土の道は、木蔭の湿りと、木の露とで滑り易かった。   「おう」  と、駕風が振り向いて、後棒へ、   「妙ちきりんなものが、現れましたぜ」  その声に、綱手が、驚から覗くと、遠くの曲り角へ、槍を持って白布で頭を包んだらしい侍が急ぎ足に降って来た。  驚風は斜にしていた驚を真直ぐにして、その侍を避けるように、道傍を、ゆっくり登っていった。七瀬も、その侍は、ハ郎太と小太郎とを討ち取った戻り道のような気がして、胸が高く鳴りだした。   「綱手、あの方は、脚部の一木様ではないか」   「はい、お母様−−」  と、いった時、もう、一木は、驚のすぐ間近まで来ていた。七願が、   「ちょっと、驚風」  と、声をかけて、驚か止まるか、止まらぬかに、驚の外へ足を出して、降りかけながら、 「一木様」と、叫んだ。  一木は、答えないで、七瀬へ、冷たい一似を送って、行きすぎようとした。そのとたん、綱手 「一木様っ’−‐それは」  と、叫んだ、一木の左の腰に−それは、たしかに首を包んだ包と覚しいものが、縛りつけてあった。七瀬は、駕を出て、  「卒爾ながらーー」  一木は、七瀬を、睨んで立ち止まった。  「仙波ハ郎太に、お逢いではございませんでしたか」  「仙波?」  一木は、左手の槍を、突き立て、  「仙波とは−ちがう。仙波へは、別人が、まいって−」  「別人とはー−」  「別の討手−−気の毒であるが、御家のためには訳もない」  「そ、その討手は、貴下様より、先か、後か?」 綱手は蒼白になって、七瀬の横に立っていた。駕屋は、  「前後?」 眼をyえて、一木の顔を見ていた。 一木は、唇で笑って、 「敵の女房に、さようのことがいえようか。聞くまでもない。無益なことをー−」 口早に、いうと、ずんずん降って行った。二人は、しばらく眼を見合せていたが、  「急いで、II‐急いで」 と、影かれたようにいいながら、鴛の中へ入りかけた。  「合点だっ」 駕屋は、肩を入れると、  「馬鹿っ侍、威張りゃがって」 と、呟いて足を早めた。     ニノニ  「びっくりしたのう、おいら」  「なにをっ。吃驚って、あんなものしゃねえや」  「なに?」  「手前のは、びっくり、てんだ。下へ、けえるがつかあ」  フおうおうおう、滝をたらして木へしがみついていたのは誰だい」  「それも、手前だろう」 旅人たちは、一団になって、高声に話しながら降りて来た。そして、七瀬と、組手の駕を見る と、いっせいに黙って、二人を、じっと見た。七瀬が、   「お尋ね申します」  と、一人へ声をかけて、   「ただいまのお話、もしか、斬られた人の名を御存しではーござりませぬか」  旅人は、立ち止まって、二人を眺めていると、駕屋が、   「斬られた人の名前を、知ってなさる人はいねえかの」   「のう、名はわからんのう」   「名はわかんねえが、齢頃は三十七、八だったかの、あの首を取られた人は」   「三十七、八? 何をこきやあがる。二十七、八だい」   「こいつ、嘘をどけ。昔っから、生顔と、死顔とは、変るものと言ってあらあ。二十七、八と見えても−」   「物を知らねえ野郎だの、こん畜生め。二十七、八だが、死ぬと、人間の首ってものは、+ぐらい齢をとるんだ。女が死ぬと美人に化け、男が溺死すると、−—土左衛門、相場がきまってらあ」  「手前、首だけしか見ねえだろう。俺、最初から見ていたんだ」  七瀬が、  「その中に老人がーーー」  「老人も、若いのも、いろいろいたがね。奥様。まず、こうその駕、待あて、と」   「おうおう、芝居がかりかい」   「待てと、お止めなされしは?」   「音羽屋っ」   「東西東西、静かにしてくれ、ここが正念場だ」  旅人は、七瀬が、綱手が、どう考えているかも察しないで、綱手を、しろしろ見ながら、戯ていた。   「その、果し合の場所は?」  と、七瀬が聞くと、   「この、ニ、三町上でさあ、のう、待てと、お止めなされしはー」   「おや、限を剥いたよ。豆腐屋あ」   「ありがとう存しました。鴛屋さん、急いで」  駕が上った。   「いい御器量だのう」   「吉原にもいまい」   「ぶるぶるとするのう」 洛  「首を見ては、ぶるぶる、女を見てはぶうるふる」 人々は、遠ざかった。行きちがう人々は、ことごとく、血朧い話を、声高にして、いった。駕が、ようやく山角を曲ると、草叢のところに、旅人が集まっていて、鄙封や、手枕頭が動い ていた。  「あれだっ」  と、鴛屋が、叫んだ。二人は、駕の縁を握りしめながら、夫と、にいないように祈っていた。いないとわかっていても、なんだか、気がした。 子が、父と、兄とが、その中どっかで斬られているような      三ノー  四税の駕が、急いでいた。そのすぐ後方から、一挺の鴛が、  「頼む」  と、声をかけて、尉っぷちを煎れがれに追い抜こうとした。一税抜き、二桓抜き、三税目のを抜いた時、その駕の中の侍が、  「待てっ、待てっ、待てっ、とめろっ」  と、怒鳴った。駕屋が、あわてて、駕を止めると、  「益満っ、待てっ」  三机目の侍が、刀を提げて、駕から、政広のまま飛び降りて、抜いて行った駕を、追うと同時に、他の人々も、駕を出て、走りすがった。  「その駕、待てっ、益満」  六、七間のところで叫ぶと、抜いて行った駕がとまって、益満が、口から祀かの煙を吐さなが ら、駕の中から振り向いた。そして、   「おおっ」  と、微笑して、   「これは、御無礼」  追って来た侍は、真赤な、顔をして、袴を左手で掴み上げながら、   「出い、駕を出い」  益満は、頷いて、刀を左手に、駕を出た。見知らぬ浪人者示、腕捲くりして、三人、益満を睨んで、三方から取り巻いた。駕説示、恐る恐る、駕を人々のところから引き出して、道傍で、不安そうに、囁き合っていた。   「いずれへまいる?」   「さあ、いずれヘー’」  益満は、ゆっくり、腰へ刀を差してから、昿い残りの脱貳を、口へ当てて、’   「当て途もなく」   「なにっ、当て途もなく?—御重役へ届け計でてお許しが出たか」   「いや、その辺、とんと、失念仕ってー1」   「こやつ、引っ捕えい」  侍は、一足引いて、浪人たちに、奘で指図した。益満は、煙を吹き出しながら、   「引っ捕える? しばらくしばらく、ちょっと、一服して−‐こうなれば尋常に−−’」    と、いいつつ、太刀の彫へ、煙管を当てて、とんとん二、三度叩いて、脱獄を落した。そして、 舌の先へ当てて、ぶつぶつ音させて、それから、懐の煙草をつまみ出して、     ざんじ    「暫時、今一服」    と、いって、胆糾へつめ込んだ。四人の侍は、黙って見ているのほかになかった・益満はヽ。歌  Eを腰の袋から取り出して、    「ゆっくり眺めると、いい景色でござるが」    火をつけて、一ロ吸って、一人の浪人の顔へぷーと煙を吹っかけた。     「何を致す」     「斬る」    三人の浪人が、この益満の言葉に、一足退いて、刀へ手をかけた瞬間、益満の煙管は、一人の  鼻へ当っていたし、一人はよろめいて、顔を押えて、よろめきつつ走り出した。押えている手か  ら、血が土の上に洩れていた。    一人が、尉がつつ、御式へ退って、抜いた刀を両手で持ち直す隙もなく、片手で益満の返した  刀を止めようとしたが、もう、遅かった。膝頭を十分に斬られて、刀を、草の上へ投げ出して、   前へ転がってしまった。     「手向い致すか」    侍が、絶叫した。    「小手をかざして、御陣原見れば、か。行くぞ、行くぞ」  益満は、同屋敷の侍を振り向きもせず、残りの浪人者に、刀を向けた。浪人者は、煙管に打だれて、鼻血を出しながら、しりしり返りかけた。      三ノニ  益満は、しりじり浪人を追いつめた。浪人は、蒼白になっていた。益満は、片手で、刀を真一文字に突き出して、道の真中まで出ると自分の投げつけた煙管を左手に拾い上げた。侍も、浪人も、二人を一瞬に斬った益満の腕と、その態度とに、すっかり圧倒されてしまっていた。頭も、身体も、しびれたように堅くなってしまって、恐怖心だけが、あふれていた。  益満は、左手の煙管を口へ当てて、舌の先で、ぶつぶつと音させつつ、右手の刀を、浪人の咽喉の見当へ三尺ほどのところから、ぴたりと当てて、  「たって斬ろうと申さん。逃げるなら、逃げるがよいー後方が危ない、もっと、左へ、そうそう」  益満の刀の尖と、浪人の咽喉とが、何かで結ばれているようにぴったりと膠着していた。益満は、煙管を口にくわえて、刀を左手に持ち直した。そして懐へ右手を入れて、短銃を取り出した。そして、刀と短銃とを左右に持って、二人へ突きつけながら、微笑して、  「こういう物もある−−‐ぎり取り、ががり取りゃしゃんせ。お七ゃ、八百屋の店飾り、が微に、鉄砲、柿、刀。心のままに取りゃしゃんせーどうしゃ。買手がなければ、陽が暮れるからの う」    二人は、駕屋さえいなかったら、逃げだすか、謝罪するか?−−‐‐頭も、身体も、ただ苛立たし さと恐怖とが、燃えるように、感じられるだけで、どうする方法もなかった。    「駕屋っ」    益満は振り向いた。    「勝負はあったのう」    駕屋は、両手を膝までおろさんばかりにして、頷いた。    「駕人足の言うことにや、か。陽は暮れかかる。腹は、すく。勝負も、すでに見えました。私  や、本郷へ行くわいな、−−駕っ」    益満は、両手に刀と、短銃とを提げて、くるりと、背を向けた。そして、自分の駕の方へ、歩  きながら、短銃を、懐に、刀を鞘にーーそして、倒れている浪人へ、眼をやって、二人を顧みて   「これは往生しておる。そちらのは膝だけしや。二人で抱えて行ってやるがよい。今後、濫り  にかかるなよ。仙波小太郎などは、某よりも、業が早い」    侍と、浪人とは、益満を、しっと睨んだまま、刀を下へ下げて、同じところに佇んでいた。益  満は、駕へ人って、    「吃驚、致したか」    と、駕屋へ笑いかけた。駕屋は、ぶるぶる脚を震わせていたが、    「へえ」    と、答えたまま、容易に駕が上らないようであった。手も、膝も、がくがくふるえていた。 南図太単記上唇  「どうした」  「へっ」  二人の侍は、倒れている浪人を、肩にすがらせて立ち上らせた。片膝を斬られて歩けない浪人は、左右から撒けられて、ようよう一足歩き出した。その時、益満がちょうど振り返った。そし 「おーい」  と、呼んだ。三人が益満を見ると、益満は微笑して、  「片脚ゃ、本郷へ行くわいな、と申すのは、そのことじゃて、あはははけ」  駕は小走りに走り出した。  「娘のお七のいうことにや、   妾ゃ古三に惚れました、   月に一度の寺話リーー」  益満は、駒組して、駕に凭れかかって、小声に、唄をうたっていた。      四ノー  草は踏み揉られていた。所々に、醤油のような色をして血が淀んでいた。その中にーつの、首のない、醜くて、滑稽な感しのする死体と、首のあるのとが転がっていた。  その周囲は、人がいっぱいで、口々に、話しながら人の肩から覗き込んだり、血の淀んでいる ところを探しては、  「ここにもある」  と、叫んでみたり1女たちは、そうしたことに騒いでいる連れの男を、腹立たしそうに呼んで、眉をひそめていた。  一つの死体の胸には、小柄が突き刺してあった。その小柄の下には、紙切が縫いつけられていて、それに、   依御上意討取肴也。薩藩士、一木又七郎  と、書かれてあった。七瀬と綱手とが、駕から降りて、人々へ、  「心当りの者でござります。少し、拝見させて下さりませ」  と、挨拶して、人垣を分けた。  「退けよ、この野郎。心当りのあるお嬢さんが御通行だ」  と、一人は、綱手の顔を見て、連衆の耳を引っ張って、道をあけた。  「お嬢さん、首がござんせんぜ、わかりますかい」  「黙ってろ、斜の上に、ほくろがあるんだ」  「おやっ、手前知ってるのか」  「毎朝、銭湯で逢わあ。臍ぼくろって、臍の上のほくろは首を切られるか、切腹するにきまったものだ。ちゃんと三世相に出てらあ」  一人は、小声で、 「どっちかの、御亭主だぜ。気の毒に」 「この間抜け、一人は生娘だ」 「生娘だって、亭主将があらあーほうら、娘の方が紙を引っ張った」 「読めるかしら」 「手前たあ、学問がちがわあ」 「何を、こきゃあがる。俺だって。ちゃんと読んでらあ。斬られた奴は、一木ヌ七って人だ」綱手と、七瀬とは、紙切を読んで、頷き合った。その時人垣の外の人々が、  「来た来た、また来た」  と、どよめいた。二人は立ち上がって、人々の眺めている方を、一人の手負いらしいのを、駕の中へ入れて、灰色の顔をしながら、  「あれは?」  「ええ、あの方はー」 爪立ちして見た。五人の侍が急ぎ足に近づいて来た。  二人とも、名は知らないが、同藩中で、顔見知りの人が一人いた。七瀬がすぐ近づこうとした。綱手が、   「お母様、もしものことがー」   「でも、気にかかるゆえIまさか、女を斬りもしまい」  七瀬は、こういいすてて、小走りに駕の方へ行った。綱手は、耐沢の紐を解いて、すぐつづいた。群集が、ざわめいた。駕脇の一人が、一人の旅人に、  「この辺に、二十七、八の侍がおらなんだか」  と、聞いた。七瀬が、歩きながら、  「一木様は、先刻、お下りになりました」  と、いった。侍は、二人の顔を見て、じっと睨んで、   「仙波の家内か」   「そこの死体に、一木様が、何かお言付けおきなされました。あの、お緋は、いかがしてお受けになりましたか、誰からーーー」  「さようのこと、間かんでよい」  侍は、ずかずか、死体の方へ歩いて行った。  「仙波に、お逢いなされましたか」  「煩さいっ、ぶった斬るぞ」  振り返って睨みつけた。     四ノニ 七瀬と綱手とは駕を急がせた。 「ああれ、まただ」 と、先棒が叫んだ。と同時に、後から、  「おっかねえ。睨んでるぜ」  七瀬も、綱手も、道の位に、二人の侍が立っていて、その真中に、一人がうずくまっているのを見た。二人とも、凄い眼をして、驚の近づくのを、じっと見ていた。驚が、二、三間のところまで行くと、   「御無礼ながらー」  と、一人が叫んで、驚の中を見た。七瀬は、はっとした。やはり、同し家中で、見た顔の一人であった。と、同時に、その待が、   「待て、驚、待てっ」  と、道の真中へ出て、両手を拡げた。   「待ちやすっ」  四人の驚風は、顔色を変えた。   「降りろ」  七瀬も、綱手も、懐剣へ手をかけた。驚風が、   「旦那、手荒いことは‐−‐」  駕風は、驚が血で汚れるのを恐れて、二人が驚を出るが早いか、木立ちのところへ巡んでしまった。   「荒屋、勤くことならんぞ」  と、一人が、刀を抜いた。草の上にしやがんでいる侍が、二人を見た。   「御用は?」 -一一--− 七瀬は、蒼白になってー−だが、静かに聞いた。  「御用? 仙波の家内などに用はない」  「御用もないのに、なぜ、降りよと、仰せられました」  「なに?」 侍は、七瀬を睨みつけておいて、  「駕屋っ、この手負を、湯本まで巡んでまいれ」  「これは御無社な、この駕は、妾が−‐」 侍は、七瀬にかまわないで、  「愚図愚図致すと、斬り捨てるぞ」と、鴛屋へ怒鳴った。  「へい」 駕屋は、顔を見合わせて、  「ナみませんが」 と、七瀬へ、腰を曲げた。侍が、推知へ手をかけて、  「早くせい」  「へいっ」 恕屋が駕を上げた。  「お待ちなされませヽ女と飲いでヽ薩摩隼人ともあろうものべ人のものを強奪して1−」 「強奪? 無礼者」  一人は、驚から手を離すと、七瀬の胸を突いた。七瀬はよろめいた。  「何をなされます」  甲高く叫んだ。綱手炉、   「お母様」  と、叫んで、七瀬の前へ立った。ぶるぶる飲える唇をしめて、侍を睨んだ。   「旦那、手荒いことは」  驚風炉、侍を止めた。   「素浪人分際の女として、無礼呼ばわりー」   「これが無礼でなくて」  と、七瀬が、ふるえ声でいった時、一指の驚か、手負のところへ行き、一人炉、手負を抱いて驚の中へ入れた。綱手は、母を片手で押えながら、   「驚は、二指とも、御入用?」  侍は、落ちついた綱手の態度と、その美しさと、物柔かさとに、挫けながら、’   「一揖でよいー−無礼な」  と呟いて、驚の方へ去った。七瀬は、身体を頗わせていた。   「お母様、お驚へ。妾は、歩いてまいります」  七願は、涙をためて、侍の方を睨んでいた。   「あれっ、あそこに一人死んでいる」  と、駕屋が指さして、低く言った。      五ノー  はる    あし こ           ちんうつ                               .  逡かに、蘆の湖が展開して来た。沈僻な色をして低い灰色の雲を写していた。  「益満氏、益満氏ではないか」  後方から絶叫した者があった。益満が振り向くと、右手に刀を提げた三人の浪人が、走って来た。益満が、駕の中から、右手を挙げた。浪人は、近づいて、  「奈良崎と、羽鳥とが、やられた」  「刀を拭いてーー‐開所が、近い」  三人は、刀を拭いて納めた。  「ここへ来る道で、一人は膝を切られ、二人は炉聯でーI‐」  「逢うだ。お互に、顔を知らぬし、怪しいとは存じたが、睨み合ったままで、擦れちがった」 「女二人に、一人は四十近い、一人は十八、九の」  「それとは、死体の転がっていた辺でー」  益満は、頷いて、  「どうじや、真剣の味は?」  「駕屋、咽喉が乾いたが、その水を」  一人が、駕の後方に、下げてある竹筒の水を指した。   「さあ、お飲みなすって、たいそう、血がーI」   「少しかすられた」  三人は、そういわれて、自分たちの疵の痛みを感してきた。交る交る竹筒の水を飲んで、着物を直しながら、   「凄かったのう、あの自源流の、奈良崎を斬った男の腕は」   「一木か、あれはできる」と、益満は答えて、   「駕屋、もう六つ近いであろう」   「へえ、空の色から申しますと、もうすぐでござります」  駕屋は顔色を変えていた。   「関所の時刻に間に合うか」  駕は、急坂の石敷道へかかっていた。駕屋は、駕を、真横獄いにして、一足ずつ降りかけた。   「さあ但州、どうだの」   「さあ、急いだら、しかし、どうかのう」  益満は、手早く、金を取り出して、 「降りる。駄賃は、町までのを。それは、     くちどめりよう別に口立科」 といって、金を差し出して、片手で駕をたたいた。「降りて走ろう。走れば、間に合うであろう」 益満は、手早く、金を取出して、  「ええ、それなら、十分に。旦那、こう多分にいただかなくとも、喋りやしませんよ−−」  「貴公たちは、宴ノ河原辺で宿をとるがよい。某は開所を、今日のうちに通らねばならぬ。それから、もし、仙波の妻子がまいったなら、某は仙波へ、急を告げにまいったが、明朝すぐ引っ返すからと、申し伝えておいてもらいたい」  口早に、こういうと、益満は、荒屋の礼を後に、急坂を走り降りて行った。  雲が、少しずつ暗くなりかけて、水色の沈彭な湖面は、ナっかり夜の色らしくなりかけてきた。  箱根の開所は、冬も、夏も、暮六つに、門を閉しる慣わしであった。益満は、一足早く旅へ出た仙波父子へ、討手のかかっていることを告げてやりたいと、湖を右に、杉木立の深い、夕雲の薄くかかった中を、小走りに急いだ。  石垣、その上、その横に巡らなっている拐、高札揚が見えた。門は、まだ聞かれていた。  面番所前の飾り武器、あわてて門を出て来る旅人。   (間に合った)と、益満が思った瞬間、二人の足軽が、急ぎ足に門へ近づくと、扉へ手をかけた。   「待てっ」  と益満が叫んだ。だが、門は、左右から、二人の足軽の手で閉まりかけた。   「急用だっ」  益満が門へ着いた瞬間、門が閉まった。 五ノニ  「急用しか。すまぬが、開けてもらいたい」  益満は、栃の間から、足軽へ鎖んだ。足軽は、門を押えたままで、  「公用か」  「公用ではないがーー」  足軽はヽ黙って、ヱmピ入れた・  「命にかかわることしやから」  足軽は返事もしないで、錠をかけ、鍵を持って、去ってしまった。益満は、すぐ鑓を返した。  関所手前の旅宿は二軒しかなかった。二軒とも、小さくて汚かった。軒下の常夜燈の灯も薄暗くて、番頭も、女中も、不愛想で、足早に近づく益満へ、   「お泊りかえ」  と、眠そうにいっただけであった。   「今しがた、女が二人、着かなんだか」  女中は、首を横に振った。   「三人連れで、一人は侍、二人は商人風の者は?」  女中は、番頭を振り返った。   「その方なら、ただ今、お着きになりました」  番頭は、帳場の中で、火鉢を抱いたままで答えた。  「そうか」  「お連衆でございますか」  「いいや」  益満は、それだけ聞いて、表へ出た。  「ちょっ、狼が出るぞ」  と、番頭が、呟いた。益満は、その隣りの表から、   「女連れ二人が泊まっておらんか」   「いいえ」   「十八、九の美しいのと、四十がらみの」   「いいえ、お泊りじゃござりません」  女中は、しろじろと、益満を眺め廻していた。   (時刻からせば、ニ人は、もうこの辺へ着かなくてはならんのに−‐途中で、悪雲助どもに逢うたか、討手の奴らに手でも負わされたか’−−今夜小太に逢えぬとすれば、せめて、二人に逢いたいがー)   「旦那、お泊りしゃござんせんか」   「少し、尋ね人があってーー」  益満は、そう答えて、街道へ出た。そして、ナっかり暗くなった湖畔を、提灯もなく、歩きだ した。角の茶店のしまいかけているところを折れて、急坂にかかろうとすると提灯の灯が見えた。   (あれかもしれん)と、足を早めて、提灯を見ると、それは驚風のものでなく、定紋入りの提灯であった。益満は、素早く杉木立の中へ入った。人声が近づいた。提灯のほのかな灯でみると、それは、大久保家中の人々らしく、   「ようよう着いた。慣れた道しやが、疲れるのう」   「薩摩っ坊め、下らぬごたごた騒ぎをしやがって、かヤとの約束が、ふいになってしもうた」  「それは、御愁傷様、拙者には、また、箱根町に馴染があってのー」   「また色話か」   「話は、これにかぎる。貴公の、斬ロの、鑑定は、女と手を切った時にたのむ」   「しかし、見事に斬ってあったのう。薩摩の自源流‘ーーー」  人々は、話しながら、通ってしまった。   (もう小田原から役人が来た。宿にいる三人は、一日、二目取り調べられるであろう。−−いいや、この身も危ない。山越に、今夜のうちに、三島まで、のすか)と、思った時、小さい提灯が一つ、ゆっくり、坂路を降りて来た。      五ノ三  提灯の、微かな炉聯の中にでも、綱手の顔は、白く浮き出していた。益満は、ずかずかと、近づいて、   「お嬢様、お出迎えに−」  と、いって、びっくりして、益満の顔を見た綱手の眼へ、合図をしながら、   「心配致しました。あまり、お遅いので。途中で斬り合がございましたそうで、ただ今、役人が、その侍を取り調べておりますが、うっかりしたことはできませぬ」  と、口早に、小腰をかがめて、七瀬と、二人にいった。   「ほんにーーー」  二人は、益満の計がわかった。   「駕屋、すまんのう」   「いいえ」   「さあ、お嬢様、手前、そこまで背負ってまいりましょう」   「いいえ」  益満は、背を出した。綱手は、赤くなった。益満の、着物から、順筋から臭う、汗と、体臭とが好もしく、綱手に感じられた。だが、綱手は、   「歩きます」  と、いった。しかし、益満が、綱手の腰へ、後手に手をかけて、引き寄せると、よろめいて、もたれかかった。そしてちょっと、身体を反らしたが、そのまま、背へのせられると、思わず、‘手を、益満の肩へかけて、胸を、脚を、益満の身体へ押しつけた。そして、真赤になった。   「いいえ、歩きます」  綱手は、足を間くのが恥しかった。だが、離れるのも肌であった。このまましっと抱きしめて欲しかった。綱手は、自分の暖かみと、益満の暖かみとが、一つに融け合うのを感しるとすぐ、次の瞬間、二人の肌も解け合って、二人の血がーつになって、流れているような気がした。   (誰もいなければ、よいのに−−)と、田こった。だが、すぐ、右手で益満の肩を押して、   「歩けます」  と、強くいった。   「ではー」  益満は、曲げていた身体を廷ばし、綱手の腰から手を離した。綱手は、   (離さないで、もっと、強く長く、抱きしめていてくれたらー)と、田こった。   「もう、すぐでございますから−駕屋、そろそろと、やってくれ」  益満は、先に立った。綱手は、   (益満経に、恋をしたのであろうかーー隣同士の家にいる内は、思うと、母に顔を見られるのが、気まり悪くなってきた。益満が、 ただ好きな人であったが)と、いつか、  「娘時分と申すものは、手当りしだいに、間近い男に惚れるからのう」  と、小太郎と、話していたのを思い出して、胸を打たせた。  (益満様なら、不足のない)と、思うと、同し家中で、許嫁などとなっている人々のことを思い出して、ハ郎太が、  「益満はよいが、品行が悪いし、家柄がちがうし−」といった言葉が、恨めしくなってきた。 と、同時に、益満が、  「御家のためには操を捨てて」  と、いったのも、恨めしくなってきた。  「小太郎にお逢いなされて?」  七瀬が聞いた。  「関所の刻限がきれてーーしかし、明日、もうひと追いつかまつりましょう」  さっきの茶店は、店を閉じてしまっていた。角を曲ると宿の前に人だかりしているのが見えた。      五ノ四  宿の表は、三つ、四つの提灯の、ほのかな灯の中に、大勢の人影がうごめいていた。それから、家の中には甲高い叫びと、荒い足音と−−表の人々は、口々に、囁き合っていた。益渦が、その隣りの旅舎に駕をつけると、隣りの騒ぎを見物するため、軒に立ったり、往来へ出て見たりしている宿の女中が、番頭が、あわてて、駆け寄ってきた。   「お疲れ様で」とか「先刻のお方様で」とか、いう御世辞を聞き流して、奥まった部屋へ人った。  表の人声と、ざわめきとは、まだ止まなかった。綱手と七瀬とは、不安そうに、宿の人々が、部屋から出てしまうと、七瀬が、 「まあ、嬉しいやら、びっくりやらーーなんと思うて、あの下僕の真似など?」 j晶yu   「隣りの騒ぎを御存しか」   「御存じか、とは?—−騒いでいるのは、わかっておりますがーー」   「わしの手下の者が疹彫されたのじゃ、ダ岸げ。関所の刻限にちょっと遅れたばかりに、小太                               じようじゆ            さてつ郎にも逢えずー1,しかし、これが、世の中の常で、一つの仕事を成就させるには、こうした嵯吹か、いろいろと起こる。綱手、そいつにめげてはならぬ」  益満は、脚絆を畳んでいる綱手を見ながら、茶を飲んで、   「国乱れて、忠臣現れ、家貧しゅうして孝子出ず。苦難多くして現れ出ず、男子の真骨頂。いよいよ、益満が、軽輩を背負って立つ時がまいった」  益満が、三尺あまりの長刀を撫して、柱に凭れて腕組しながら、こう言って笑っているのを見ると、七瀬も、綱手もなんとなく、心丈夫でもあり、頼もしく思えた。綱手は、   (益満様なら、夫にでもー・\と、心の中で囁きながら、さっき山の中で、生れて初めて、ぴったり、肉に、肌に、血に触れ合った、男の暖かさを思い出した。そして、益満を、そっと盗み見した。   「討手は、小太郎に、もう追いつく時分でござりましょうか」   「追いつくかもしれぬ。追いつかぬかもしれぬ。しかし、いずれにせよ、小太郎も、相当に、心得はある。やみやみ、五人、七人を対手にして、斬られる奴でもない。それに、こつこつ石のごとき親爺がついておる。これが、一見頑固無双に見えていてなかなか変通なところがある。本街道を避けて、裏を行けば、大井川までは、首足よくまいろう。ここを無事に通れば、京までは、 まず無事−」  こういっている時、旅舎の番頭が、   「明日、早朝お立ちでございましょうか。御弁当の御用意、それから関所切手−なかなか、きびしゅうござりますゆえ、もし、御都合で、お持ちがなければ、手前どもでなんとか御便宜を−−」  と、いって来た。   「切手は、持っております。御弁当と、それから、達者な駕人足とを、御頼み申します。時刻は、六つ前−−」   「かしこまりましてござりまナ」  番頭が立ち去ると、早立の客たちは、風昌へ人って寝るらしく、隣りも、下も、もう、御肌を敷く音を響かせてきた。  七願は、小太郎のことを、八郎太のことを、それから、綱手は二人で暮している空想をーー益満は、敵党に根本的打撃を与える方法を−・お互に、それぞれ考えながら、廊下を、森かせて蒲団を巡んで来る女中たちの足音を、黙然と聞いていた。 刺゛示      一ノー  大井川の服部肌の軒下には、薄汚れのした木の札がかかっていて、   帯上通水、九十五文  と、書いてあった。今日の川水は、渡し人足の帯まで浸すからであった。汚い畳敷の上へ台を置いて、三人の会所役人が横柄に旅人の出す金と、川札とを引き換えにした。その横、暗い奥の方、会所前の茶店の辺には、川人足が群れていて、旅人の川札を聯めては、  「荷物は、どれでえ」とか「甲州。われの番だに、何を、ぞめぞめこいてやがる」とか、怒鳴 っていた。  大井川を渡る釈訳は、斜漱によってちがっていて、叙七彩私、帯上通水、帯通水、帯下通水、 脱長大腹心通水二心公彦がヽ膝通水とわゆ出ていた。そして、 一番水のない、膝通水の時の賃 金は人足一人が四十文で、乳下通水に少しおおが増すと、川止めになるのであった。  水嵩が増しそうな気配だというので、旅人たちは急いでいた。川会所の前は、そういう人でいっぱいだった。役人が、「炭ボニ挺」と、叫んで、木札で、台を暇いた。五、六人の人足が、   「おーい」    と、元気よく答えて、だらだらの砂道、草叢の中に置いてある平輦台の方へ走って行った。一 人の人足が、群衆の前に、編笠を緻って立っている二人の侍に、             おじぎ     「あちらへ」と、御辞儀した。                            ニ    「急ぐぞ、人足」    そういって、侍は、すぐ、その人足の後につづいて、河原の方へ降りて行った。その会所前の  茶店から、一人の若侍が立ち上って、二人の侍の後姿を見なが庶     「父上、あれは、池上氏と、兵頭氏では」    と、振り向いた。     「似ている、そうらしい」     「見届けましょうか、なんなら、同行してもー−」     「さー−」    小太郎が一足出ようとした時、勢いのいい五挺の駕が川会所前の群衆の中へ、割り込んできて、   駕の中から、     「輦台、五挺、急ぐぞっ」    と、怒鳴る声がした。そして、垂れが上ると、一人の侍が、素早く、駕の外へ出た。八郎太は、   歩きかけた小太郎に、     「待て」    と、声をかけた時、小太郎は、その侍の顔を見、次々の駕から出てくる侍を見て、急いで茶店 の中へ人って腰かけた。そして、二人は街道を背にして、低い声で、  「四ツ本の奴ではないか」  「はい」  二人は、五人の侍に見つからぬように、顔を隠して、  「急ぐ模様だが‘−—」  と、言った時、一人の侍が、川の方を見て、  「おる、あのニ人がー相違ない」  と、四人の者に、川を指さして振り向いた。  「人足、急ぐぞっ」  一人は、刀を押えて、硫の方へ小走りに歩みだした。’  「今渉るところだ」  「川の中で追っつけよう」  人々は、群衆の中で、声高に、こう叫んだ。旅人たちは、五人が、前の二人のむ私汐と思っていたが、仙波父子は、  「討手だ」  と、信した。  「小太、油断がならぬ」  ハ郎太は、手早く編笠をきた。       一ノニ  池上と、兵頭との輦台は、川の中央まで出ていた。二人とも、刀を輦台へ凭せかけて、腕組をしていた。  川人足は、行きちがう耶尉に声をかけながら、凱の辺りに、冷たい秋の川水の小波を、白く立てつつ静かに、やけ歩いていた。  人足の肩に誇り、頭に槌リついている旅人たちは、着物の水へ届きそうになるのを気づかいつつ、子供の時、父の肩車に乗って以来、何+年目かの肩車に、不安を感じていた。  その穏やかな川を洪る人々の中を、五台の輦台が、声をかけつつ、川水を乱し立てて、突進した。  「ほいっ、ほいっ」  と、いう怒声の間々に、  「頼むっ、頼むっ」  と、肩車で洪って行く、また、渉って来る人足に、注意しながら、輦台は突進して行った。その上に乗っている人々は、刀を押えて、誰も皆、前方を睨みつけるように見て、  「急げっ、急げっ」  と−ーー中の一人は、刀の鎖で、そういいつつ、こつこつ、川人足の肩をたたいていた。  仙波父子は、茶屋の横へ廻って、松の影の下の小高い草叢の中から、この七台の輦台を眺めて −-一一− −一一・一 いる。  「五人では討てまい」  ハ郎太が、呟いた。  「助けにまいりましょうか」  「求めて対手にすべきではない。よし、二人がfられようと、大事の前の小事じゃ。わしが指図するまで、手出しはならぬ」  「益満は、どうしておりましょう」     「あれも、一代の才物しゃが、世上の物事は、そうそうあれの考えどおりにゆくものでもな仏。口取りからいえば、もう、追っつく時分しゃが、お上からもこうして討手の出ている以上、妻も子も、助かるとは思えぬ。恩愛、人情、義理をすてて、ここは、京まで、万難を忍んで、牧を討つべき時しか」  「はい」  「それに討手は、主持ち、わしらは浪人者しゃ。一人殺しても、身の破滅になる」  「心得ました」  と、いった時、  「あれっ、あれっ」 「喧嘩だ」 と、いう声と同時に、人々の走り降りて行く姿と、問の声に近い、どよめきとが起こった。 --   「やるっ」                `  ハ郎太が、低く叫んだ。向う河岸へもう四分というところへまで近づいていた二人の輦台は、五人の輦台に追いつかれたらしく、きらきらと光る刀が、五人の手に、躍っていた。   「斬合だっ、斬合だっ」  河岸の人々も、川中の人々も、いっせいに、どよめいた。二組の輦台の四辺に、川を渉ろうとしていた旅人は、あわてて、川水を乱して逃げ出しかけた。少し離れて、危なくない人々は、誰も、彼も、川を渉るのを忘れて、眺めていた。   「斬った、斬った」   「まだだっ、まだだっ」   「ああ、やった、やった、やった」  群衆は、興奮して、怒鳴った。五音の輦台の上では、刀を振りあげていた。池上と兵頭とは、後向きになって、輦台の上で、居合腰であった。川人足は輦台の上で、足を踏み森かされるので、川水の中によろめきながら、岸へ、早く近づこうとあせっているらしかった。   「父上」  小太郎は、声をかけたが、ハ郎太は、無言であった。’       }ノ三   「もっと踊れ、御神楽武士め」 池上は、片膝を立てて、微笑しながら、自分の前へ追って来る追手へ、独り言のようにおいた。頁二つ局よ、一こ溺bミリL)揺らぐいとびら、五人の輦台は、二人を、左右へ離して、別々に討 兵頭との間は、ち取るように、刀を振りながら 三間あまりも離れていたから、五人の輦台は、二人を、 模形になって、追って来た。その、真先にいる武士は、輦台の上へ立ち上って、   「早く、早く」  と、叫んで、手を、脚を動かしていた。そのたびに、人足は、顔を尉めて、舌打しながら、   「危ない」   「畜生っ」  とか、怒鳴った。それにつづく四人は、輦台の手すりにつかまったり、立ったりして、刀が届く距離になったら、ひと討ちにしてくれようと、身構えていた。  兵頭は、手ずりへ、片脚をかけて、聯ぐるみ刀を抜き取って、左手に提げながら、少しずつ近づいて来る討手へ、   「あわてるな、あわてるな。日は長いし、川原は広い。輦台の上で、あまり四股を踏むと、人足が迷惑するぞ」   「黙れっ」  二つの距離は、三開近くまで縮まって来た。討手の人々は、影心ちょっと手をかけてみたり、目釘へしめりを、もう一度くれたりして、両手で刀を構えかけた。  「池上っ」  「おい」  「やるか」  池上が頷いた。そして、袴の股立をとり、捧をかけて、  荒いことを自慢にし、喧嘩好きの人足たちであったが、のことがあったら、大変だと思った。前の人足は、  「おーい」 刀へ手をかけて、立ち上った。 頭の上で、刀を振り廻されて、もしも  と、叫んで後方の人足へ、あんまり早く近づくなと合図した。後方の人足たちは、いよいよ始まったなら、輦台を、川の中へ投げ出して、逃げようかと、眼で合図した。だが、二、三人の人足は、眼でそれをとめて、   「大井川の人足の面にかかわらあ」  と、元気よく叫んだ。それに、故意に、輦台を敵影させては、二度と、川筋では働くことができない掟であった。  追手の人足は、額の汗を拭いながら、時々、声をかけたり、後方を振り向いたりして、なかなか近寄らなくなった。   「うぬらっ、早くやらぬと、これだぞ」  最後の一人が、一人の人足の肩へ白刃を当てた。  「無、無理だよ、旦那」  一人が、振り向いて、  「今日は、帯上だから、そう早く、歩けるもんしゃあねえでがすよ」  池上と、兵頭との輦台が、急に凱妬へ人ったらしく、人足たちは、乳の下まで水に浸して、速度がぐっと落ちた。その時に、最先の侍の輦台が、池上の輦台の間近まで勢いよく突進して来た。   「止めろ、止めろ」  池上は、足で輦台の板を踏み鳴らした。人足が、その力によろめいて、歩みをゆるめた時、最先の追手は一間あまりのところまで追って、   「上意」  と、叫んだ。       一ノ四  「上意」  と、叫んで、右手の刀を構えようとした、その瞬間だった。池上の脚が、手摺にかかり、左手で刀を押え、右手を引く、とー見る珍斤、  「ええいっ」  追手は、斬るよりも、突くよりも、あわてて、身体を避けた。それは、あまりに思いがけない  池上の奇襲だったからだ。池上は、猛犬の飛びかかるように自分の輦台をぽって追手の輦台へ、   飛び込んだ。    人足が、顔を歪めた瞬間、輦台が、傾いた。と、同時に池上の体当りを食った追手の一人は、 脚を天へ上げてヽ白い飛沫をヽつづく味方へ浴びせかけて、川の中に陥った・    「たたっ」    人足は、顔を歪めて、肩へ手を当てた。そして、輦台を持ち直した。池上は、輦台が傾いたの  で、倒れかかったが、手摺へつかまって、立ち上りかけると、    「うぬっ」    白く閃くものが、顔から二、三尺のところにあった。池上は立ち上った。    「弱ったな、土州」    「やっつけるか」    と、人足が叫んでいるのを、聞きながら、池上は、左右の追手へ、    「輦台の上での勝負は珍らしい。今度は、貴殿のところへ、源義経、ハ鰹飛び」    と、微笑して、手摺へ、足をかけた。兵頭の輦台は、もう、七、八間も行きすぎていた。    「池上っ」    と、いう声と、    「あとへ、あとへ」    と、兵頭の叫んでいるのが聞こえた。池上は、右手を振って、    「一人でよい、一人でよい」    と、叫んだ。  「小額なっ」  輦台の上から、一人が叫ぶと、川の中へ飛び込んだ。人足は臍のところまでしか水に浸っていなかったから、浅いところであったが、水流は聡しかった。その侍は、二、三間よろめいて、ようよう、押し流されて、立ち上った。ちょうどその時、池上に川へ落された侍も、立ち上った。二人は、刀を抜いて、川下から追って来た。   「いけねえ」  人足が叫んだ。そして、二、三尺進むと、乳の上まで水のある深いところへ入った。   「待てっ」   一人が、水中から、池上を目かけて、刀を斬り下ろした刹那、一人の人足はびっくりして、肩から輦台をはずした。と、同時に、池上は、輦台の上から、川上の方へ飛び込んでいた。  兵頭は、じっと、爪妙を眺めていた。二人の追手は、胸まで来る水の中を、よちよちと、兵頭の方へ進んだ。三台の追手は、無言で、川中にいる二人の後方を、構を、兵頭の方へ迫りながら、川下へ浮かんで出るべき池上の姿にも気を配っていた。  兵頭が、輦台の近くへ浮いて来た黒い影へ、身構えた時、池上が顔を出して、頭を振った。腎をつかんで水を切りながら、   「わしは、歩いて行く」  と、兵頭を見上げて、   「歩けるのう」 と、人足へ笑った。 「ええ」 「且那っ、強うがすな」 池上の輦台人足は、走るように近づいて来て、‘  「お乗んなすって」 と、いった。  「大勢かかりゃがって、なんてざまだ。やーい、どら公、しっかりしろい」人足どもは、小人数の方へ味方したかった。      ニノー  島田の側も、金谷の側も、頂は、人でいっぱいであった。  「強いな」  「兄弟、もう一度、行こうぜ、輦台二文って、このことだ」  「江戸へ戻って話の種だあ、九十六文、糞くらえだ」  「どうでえ、五人組は、手も、足も出ねえや。町内の五人組と同しで、お葬いか、お祝いのほかにゃ、用のねえ、よいよい野郎だ」  「二人の野郎あ、水の中で、刀をさし上げて、おかか、これ見や、さんまがとれた、って形だ。やあーい、さんま侍」 ハ郎太と、小太郎とは、微笑しながら、川を眺めていると、’  「おおっ、加勢だっ」  「ハ人立で、こいつあ、早えや」  「棒を持ってるぜ」  「馬鹿野郎、ありか槍だ」  「こん畜生め、穂先のねえ槍があるかい。第一、太すぎらあ」  「川ん中で、竹を洗うのしやああるめえし、棒を持ってどうするんだ」小太郎が、  「父上、あれは、休之助ではござりませぬか」  「ちがいない」 「一人でー−」 といった時、ハ人即かの輦台は、川水を突っ切って、白い噺瑕を、乳の上まで立てながら、ぐ んぐん走っていた。  「小手をかざして見てあれば、ああら、怪しやな、敵か味方 か、脱獄か、しゃしゃん、ぼーん」 「人様が、お笑いになるぜ」 「味方のごとく、がかのごとく、これぞ、親好の諧、どどん、どーん」「まるで、南玉の講釈だの」 [あの爺よりうめえやっ、やや、棒槍をとり直したぜ」 一一・   「やった」  益満の輦台が、追手へ近づくと、長い棒が一睨した。一人が、足を払われて、見えなくなった。何か叫んでいるらしく、一人を水へ陥れたまま、益満の輦台は、追手の中を中断して、池上の方へ近づいた。もう、金谷の碩へ、わずかしかなかった。水の中で閃めく刀、それを払った棒。追手を抜いて、二人とーつになると、すぐ、益満の輦台だけが川中に止まって、二人はどんどん碩の方へ、上って行った。追手の五人は、益満一人に、肛まれて、何か争っているらしく、動かなかった。  ニ人の人足が、益満のために、川へ陥った一人を探ナため、川下へ急いでいた。時々、頭が、水から出ようとしては浸し、没しては出て、川下へ流されていた。  池上と、兵頭とは、碩へ上ってしまった。碩の群衆が二つにわかれた。役人らしいのが、二人に何か聞いて、二人を囲んで、だらだら道を登って行った。  益満は、一つの輦台が、右手へ抜けようとナるのを、棒を延ばして押えているらしく、その輦台が止まった。   「益満め、舌の先と、早業とで、上手に押えたと見えるな」  と、ハ郎太が微笑して、そして、   フ』の騒ぎにまぎれて渡’ろう。なんという不慮のことが起さんでもなし、水嵩も増すようであるしI‘I」  小太郎は、川会所へ行った。川札は、   乳下通水、百十二文  と代っていた。  どんより曇った空であった。山の方には、雲が、薄黒く重なり合っていた。雨が降っているのだろう。      ニノニ  島田の宿は、混み合っていた。風呂の湯は真白で、ぬるぬるしていたし、女中は、無愛想な返事をして、廊下を足荒く走った。  「へん、ってんだ。   雨は降る降る 大井川はとまる 飯盛りゃ、抱きたし  銭はなし  隣りの−ー」 と、唄って、七瀬と、綱手の部屋の隣りの旅人は急に声を落して、「娘で間に合わそ、か  てな、ことなら、どうである  雨の十目も降ればよい」  それから、大声になって、  「ねこ、鳶に、河童の屁」と、怒嗚った。  七瀬と、綱手とは、お守袋を、床の間へ置いて、掌を合せて、夫と子供の無事と、自分ら二人の道中の無事を、祈っていた。  「やIあい、早くう、飯を待って来う。   腹がへっても、空腹ゅうない   大井の川衆にや、着物がない、,   可哀や、朝顔お眼めがない、   俺らの懐、金がない   それは、県だよ、案しるな   娘に惚れたで、お眼めがない」  「お待ちどおさま」  女中が、膳を巡んで来た。  「手前の而には、鼻がない」  女中は、膳を置いたまま、物もいわないで行ってしまった。七瀬と、綱手とが、声を立てんばかりに笑った。  廊下も、上も、下も、飢荊と、足音とで、いっぱいであった。  「ぇぇI」  番頭が手をついて、   「まことに申しかねますが、御覧のとおりの混雑でござりまして−・それに、ただ今、急に、お侍衆が七人、是非にとーーーなにぶんの川止めで、野宿もなりませず—すみませんが、女子衆を一つ、合宿ということに、お願い致しとう存しますがーー」  番頭は、手を揉んで、御辞儀をした。   「合宿とは?」   「この御座敷へ、もう一人、御女中衆をお泊め願いたいので、へい」  母娘は、顔を見合せた。   「晶のいい御老人で、つまり、お婆さんでござります。是非、どうか、へっ。お隣りの唄のお上手な方も、御三人お願い致すことになっておりますので、へい」  隣りの旅人が、   「やいやい番頭、六畳へ、四人も寝られるけえ」   「ヘヘヘ、子守唄を、一つ唄っていただきますと、よく眠ります」   「おうおう、洒落た文句をぬかすぜ」  旅人は、立ち上って廊下へ出て来て、二人の部屋をのぞき込んだ。   「今晩は」  二人は、返事をしないで、番頭に、   「では、そのお方お一人だけーーー」    「へいへい、けっして、もう一人などとは申し上げません。ありがとう存しました。それで、 お唄の旦那」    「いやなこというな」    「すみませんが、お侍衆を、お二人、割り込ませていただきます」 「侍?」 「薩摩の方で、今日の喧嘩のつづきでさあ。後から後詰の方が、おいおいまいられるそうで」七瀬と、綱手とは、身体中を固くして、不安に、胸を吹かせかけた。      ニノ三  隣座敷へ人った侍が、湯へ行くらしく、廊下へ出ると同時へ進んだ。侍は立ち止まって、七順を見ると、  「おお」  「まーーー御無礼を致しました」  七順に、一足、部屋の中へ引っ込んだ。  「お一人かな」  「いいえ、娘と、同行でござります」  「ハ郎太股は」 に、七顔貌障子を開けて、その前 「夫は、何か、名越様と、至急の打合せ致ナことが起こったと、途中から江戸へ引き返しまし て、もう、追いつく時分でござりますが、どう致しましたやら」   「ははあ」   「ちょうど、幸の川止めで、明日一日降り続きましょうなら、この宿で落ち合えるかと存じております。貴下様は、お国許へでも?」   「うむ、国許へまいるが1−‐小太郎殿も、父上と御同行か」   「はい」   「今日の昼間、ここで、果し合があったとのこと、お聞きかの」   「何か、大勢でー−」   「いや、一風呂浴びてーーーどれ、後刻、ゆっくりー‐—妙なところで、逢いましたのう」  侍は、振り返って、そういいながら、微笑して、階段を降りていった。  七瀬と、綱手とは、人々から間く、二人遠の侍とは、たしかに、池上と兵頭にちがいなかったし、その二人を撒けたのは、きっと、益満であると考えた。そして、池上らと、益満とが、この辺にいるとすれば、八郎太父子も、この辺にちがいないと考えられた。そして、そう考えてくると、夕方近くから降り出した雨が、自分ら二人の涙のように思えた。雨さえ降らなかったなら、明日か、胆糾卜は、八郎太に追っつけるのにーー−箱根で遅れ、ここで遅れ、天も、神も、仏も、どこまでも、仙波の家だけは、助けてくれないもののように思えた。  追手だの、倣射だの、役人だの、いろいろの者が、自分たちの周囲に訳んでいるようにも感した。七瀬は、二人の侍を、敵党の者と知って、仙波父子二人が遅れて来ると、欺いたが、うまく   欺きおおせるか、もし、自分ら二人と落ち合うものと信して、もし、ここを離れなかったなら? それが偽りとわかった時、自分たちは、どうなるか?    ハ郎太と小太郎とが、馬に乗って走っているのを描いた。夜道の雨の中を、強行して行く姿を  想像した。そして(無事で、牧を探してくれますよう)と、誰に、祈っていいかわからない祈り  を捧げた。   (もう一度、逢えますよう。無事な顔が見られますよう)  もう一度、夫の顔、子の顔が見られたなら、もう二度とこんな未練な心は起こさないと誓った。四ツ本が、玄関へ来てからの、急な追放、ろくろく口もきかぬうちに、閣の中に別れてしまったことが、幾度、田こい直してみても、悲しかった。   (こんな雨の夜、川止めの日、ゆっくりと、別れの言葉を交したならーーー)と、思うと、しとしと降っている雨の音までが、自分らを、悲しませたり、羨ませたりしたさに、降って来たもののように感しられた。   「綱手、考えても無駄しゃ、臥みましょうか」  七瀬は、こういって、うつむいている綱手に、言葉をかけた時、薄汚い婆さんが、彦れた聯を拭きつつ、   「御免なされ」と、人って来た。そして、   「おお、美しい女中衆しゃ、年寄一人だから頼んます」  と図々しく、坐った。二人は、この婆が、自分たちの家を呪う悪魔のど訳のように思えた。 〜−・− 大坂蔵屋敷      一ノー  施米に群れている群衆のどよめきが、両所の居間まで伝わって来ていた。  米が一両で、六斗だ。その高い米でさえ、晶が少く、城代跡部山城は、大坂からの、米の移出を禁止してしまった。それでも、一両で六斗だ。  天保三年に不作で、四年の米高に暴徒が起こった。五年の秋には、暴騰して、囲米厳禁の布令が出て、米施行があった。江戸では、窮民のお救い小屋さえできた。  両所は、金網のかかった火鉢へ手を当てて、猫背になりながら、祐筆に、手紙の口述をしていた。   「諸国和製砂糖殖え立、旧冬より直段、昌と下落致し、当分に至り、猶もって、直下げの方に罷成り」  遠雷に似た響きがした。群衆のどよめきが、ちょっと高くなった。同所が考え込んだので、祐筆が、   「なんの音で、ござりましょうか」  と、言った時、また、物のこわれるような音が秋空に立ちこめて響いた。廊下に、忙しい足音 がして、障子越しに、   「見届けてまいりますか」  と、一人が聞いた。   「なんしやな」   「暴民のように心得まナる」  言葉の終らないうちに、門前の施民の群が、開の声を掲げて走り出した。  調所は、金網から、身体を起こして、   「見てまいれー−加納に、ナぐ邸を囚められるように手配申しつけておけ」  二人の去る足音に混って、大勢が往来を走るーI‐騒ぐ音が聞こえて来た。   「起こる、起こると、前々から噂立っておりましたがーー−」   「窮民も、無理はないしーIと、いって、金持にも理前がある」  同所は、こういって微笑した。財政整理の命を受けて、大坂へ来た時、大坂町民は一人も相手にしなかった。一人で、六十万両を貸し付けていた浜村孫兵衛が、催促しがてら、話対手になっただけであった。  同所は、自分の企画が成立しなかったら、切腹するつもりだった。孫兵衛を前にして、年々十二万斤の座高、金にして二十四万両の黒砂糖を、一手販売にさせることから米、生蝋、彭金、朱粉、薬種、牛馬、雑紙等も、一手に委任するから、力を貸してくれと、頼み込んだ。  そして、孫兵衛が承諾するのを見て、密貿易の利を説いた。孫兵衛は、あまり事が大きいから、 影示に一度、府県してからというので、江戸へ同道して、渋谷の別邸で引き合すと、猿楽は、   「孫兵衛、路頭に立つと申すことがあるが、今の予は、路頭にいてしまっておるのじゃ、あほほは。万事、調所と取り計らってくれ」  と、いった。将軍官斉の岳父である。猿楽の言葉であったから、孫兵衛は決心した。  調所は、こうして利を与えておいてから、大坂町人に借金している三百五十万両の金を、二百肘㈹で返す、という驚くべき方法をとった。孫兵衛は、人々に、どうせ取れぬ金だ、しかたがない、と、説得した。  町人が、あまりの仕儀に怒っているところへ、幕府からの献金が来た。つづいて、町人の奢侈禁止が発布された。だが、窮民どもはこのへとへとになっている町人へ、米高の鳥声を浴せかけた。 一ノー一 窮民といっても、本当に、その日の朝から一粒の米もないというのは、少なかった。  「貰わんと、損やし」 と、一人が筑を抱えて出ると、  「こんな着物でも、くれるやろか。もっと汚れたのと、着更えて行ったろ」 と、頑強な男が施米所へ走り出した。 そういう人々は、鵬の声、火の手、煙‘ーーそれから、本当の窮民はわずかで、乞食と、炉松沢 とが、勝手に暴れているんだ、と聞くと、自分の財産を守るのに、あわてていた。   「お梅、早う、天井へ、隠れんかいな」  と、母親は、大風昌敷の中へ、入りきらない大蒲団を包みながら、怒鳴った。   「あて、天井へ入れて、焼けて来たら、死ぬがな」  娘は、顔を封めて、自分の晴着を、抱きしめながら、顔色を変えていた。   「愚図愚図言わんと、早う、隠れさらせ」  父親は、店の間から怒鳴った。   「お凪、押してあげるさかい’—この子、早よ来んかいな」  娘は、獄を合せて、天井ヘルい込んだ。母親は、娘の白い、張りきった足を見て、   (早う養子を貰わんと、こんな時に、かなわん)と、思った。女中は、台所の上げ板の中に、早くから、もぐっていた。  べきん、めりっ、と戸を、木を折り、挫く音が聞こえ出した。わーっと、問の声が上った。非人と、窮民中の無頼の徒とは、煙の下から、勝手に四方へ走って、町家を襲った。そして、近所の人々と、ついて走ってきた弥次馬とは、戸が破れ、品物が引きずり出されると、   「やったれやったれ」  と懸声しながら、乞食の脚下の品物を懐へ入れたり、担いで逃げたりした。乞食は、英雄のように、突っ立って手を振りながら、   「御仁政しゃ、御仁政じゃ。皆んな寄って、持ってけ」  と叫んでいた。気のきいた人は、ありったけの米を、校下へ積んで、家内中が、   「施ししか施しじゃ」  と、獄くなって叫び立てていた。暴徒は、こういう家の前へ来ると、   「ここの副々別娯やなあ」とか「米の代りにヽ婚くれえ」とかヽ怒鳴った・そしてヽ家の人々が逃げ込むと、戸がめちゃめちゃになったが、耐えていると、米だけ持って行くか、乞食が女の手を握るくらいで済んでしまった。  奉行の手から、鉄砲を打ち出すころになると、暴民は、退却しかけて、浮浪の徒は、侍屋敷の人々と、町方の人足のために、食い止められてしまった。  憑かれたように、手を振り、棒を振って、喚きながら歩いて来た無頼の一隊が、角を曲ると、薩摩の侍が、四角い白地の旗に丸に+の印をつけて、整然として、二尺ずつの間を開けて、槍を立てていた。   「侍がいるよ」  と、立ち止まると、流れるように、くっついて来た弥次馬が、   「やれやれ」  と、遠く、後方から声援した。だが、侍が槍を引いて、鞘を外して、穂先が光ると、乞食も、人々も雪崩れだした。       }ノ三   (三百五十万両を、帳消し同様にしたのは、のも、少しはわしの罪もあるかなー−‐−しかし、よ  調所は、思い出して、声を立てて笑った。 今から思えばひどかった。窮民の暴徒が起こったそうしなければ、あの時は、しかたがなかったー   「良介、西の宮へ泊まったことを憶えているか」   「いや、あの時にはII」  二人は、声を合せて笑った。往来を走る人がだんだん多くなってきた。けたたましい叫びと、車の音がした。  斉興は、借金のために、大坂に泊れなかったので、西の宮へ宿をとると、大坂町人が一度に押しかけて来て、借金の催促をした時の、おかしさを思い出したのである。ヽ  その当時は、鳶人足さえ雇えなかったので、使は誰でも歩いた。道中人夫は、薩摩と関くと対手にしないで、士分の人が、荷物を担いだ。邸の修繕は玄関までで、庭には草が延びていて、侍が刈って馬にやっていた。                                            しぼ たかなわ さくらだ にしむき みなみむき  そういう+年あまり前のことを思うとー−今は、どうだろう。芝、高翰、桜m、西向、南向、たまち ほりはた                              かみ なか しもやしき       しゆくぼう 田町、堀端の諸部の壁の白さ、こうして坐っていると大坂上、中、下部の新築、日光宿坊、上野            にしきこうし                       げんぷう 宿坊を初め、京の錦小路の部の修復、三都には、斉興御来部厳封の金蔵に、約百万丙ずつの軍用 金の積立さえできた。  調所は、こう考えてきた時、はっとした。斉彬の世になったら?   (いまだ仕事が残っている。琉球方用船の新造、火薬の貯蓄、台場の築造、道路、河川の修繕fl)  斉彬は、年が若い。幕府の狸の手に、うまうまと乗って、この金を使うようになったなら、それこそ、御家滅亡の時だ11.  邸の表に人声が、騒がしくすると、廊下へ荒い足音がして、   「申し上げまナ。窮民どもが、米屋、両替を、ぶちこわしに歩いておpますが、御城内よりは、支配方が繰り出しましてござりまする」   「邸の手配はよいか」   「+分でござります」   「水の手配は、佐川に申し付けえ、おかかを、邸の周囲へ置いて」  六十を越したが、いまだ年に二度ずつ、大坂を出て江戸から、鹿児島へ巡別して来る元気のある調所は、   「馬の仕度」   「御前がーーー」   「見にまいる。どういうよう十か」   「危のうござります。お止めなされませ」  近侍が、眉をひそめて、こういった時、  「御国許より、牧仲太郎殿、御目通りを願いに出られましたがー−」  と、襖越しに、物静かな声で、取次侍が、知らせてきた。  「牧がーーー」  両所は、半分立ちかけていた腰をおろして、  「すぐ案内せい、鄭重に−−—」  物をこわナ音が、少し低くなった。時々、鉄砲の音が、気短く、はぜては、ナぐ止んだ。  「もう、退治たか。早いの」  と、両所が、笑って、左右の人々へ言った時、襖が開いて、牧が、眼を向けると、すぐ平伏した。  両所が、  「一同遠慮致せーI’L牧、近うまいれ」  と、機嫌よく言った。     一ノ四 「何か−‐−‐容易ならぬ騒ぎが起こっておりまナる」「そうらしいI−秘呪は、見事であったな」 「はっーー米が、両六斗では暮せますまい」   「一人口は食えぬが二人口は食える、ということがある。しかしこの暴民らは、五人口、八人口で、無闇矢鱈に子を生んでおる。夫婦二人でなら、どうしてでも食えるが、子を生んでは食えん。国で、御手許不如意になった時、わしぼ、子供をまびくほかに方法はないと思うた。涼し兄、涼し見と、触れて廻った。すると、山一 (山口一郎右衛門)が、例の木像の手柄で、涼し児をしてはならん、といいよった。まあ、財政が立ち直ったからよいが、よい子を残して、悪い欲ば摘みとった方がええ。大坂も、それを布令ろ、と跡部に申したが、あいつにはわからんーーところで、また、盛之逆様が、御出生になったのう」   「はい」   「頼むぞ」  牧は、伏目になっていたが、眼を上げて、調所の深い凱の、だが、皺一つにも、威厳と、聡明さの含まれている顔を、じっと見て、   「国許ヽ江戸表ともヽ党派が目立ってまいりました。そ射七国越えの時ヽ秋水党と申す軽輩の若者どもが、斬り込みにまいりましたし、江戸よりは、三絃の刺客が出ました出、長田兵助より知らせてまいっております」   「わしも聞いた」   「その上に、某の老師、加治木玄白斎が延命の呪法を行っておりましょう。老師が、これを行う以上、某が倒れるか、老師を倒すか、いずれにしても呪法の上における術競べは、生命がけにござりまする。当兵道のためには、究竟の機でござりますが、これがあるいは、一生の御別れに 一一- なるかもしれませぬ」  牧は、ぐせた鯨に軽く笑った。久七峠で、玄白斎に逢った時とちがって、旅に陽を浴び、温泉に身体を休めて、目復はしていたが、生命を聯っての呪術修法に、髪は蕗くなり、皺は深くなっていた。   「斉彬公は−—」  調所は、目で、その後の言葉の意味を伝えた。   「前に申し上げましたごとく、かの君の、御盛んなる意力、張りつめた精力へば、某などの心の業は役立ちませぬ」   「そういうものかの。いや、斉彬公は、えらい。ただお若い。斉興公と、わしとが、どんなに苦しんで、金をこしらえたか? この金を、いつ、何に、使うか、この辺が、よくおわかりなく、舶来品をこちらで作ろうとなさっている。至極よいことだが、物にも順序があってのう。それに、久光を、おだてては、いろいろのことをなさるのも、よろしくない。どうも、重豪公の血をお受けなされて、放縦しやで、なんとかせにゃならんーーーそれで、牧、今申したのう、これが、別れとー−術を較べてー」   「いいや、秘術競べのみでなく、あるいは反対党の刺客の手にかかるかも計られませぬ」   「人数を添えてつかわそう」   「ありがとう存じます」   「倅に逢うたか」  「いまだ、ただいま、着含ましだばかり___ I  「よい若者になったぞ」 調所は、鈴の紐を引いた。遠いところでからからと、鈴が鳴った。  「船でまいれ、陸は人目に立つ」  「はい」       一ノ五  牧の停の伴作は、調所の許へあずけられ、百城月光と改めていた。主な、主の筋に当る入を呪っている牧の倅として、万一の時に、調所の手で適当な処置をとって貰おうとする、仲太郎の親心からであった。   「ひどく、おやつれになりましたがーI」  月光は、不安そうなロ振で聞いた。   「痩せた」  牧は、壮健にーしばらく、見ないうちに、大人らしい影の加わってきた倅を見て、調所へ、   「御世話を焼かせましょうな」  と、微笑した。   「なに、捨てておいても、大きくなる。犬ころしゃ、この時分は。あははははー−嫁を、貰うてやろうかと、考えておるがのう。存しておろう。浜村孫兵衛」  「当家のためには、恩人でござりますな。ただいま、どうなりました?」  「射皿ツ射Eおってヽ内々ヽわしが見ておるがヽこの浜村にヽよい娘があるヽ町人だがヽこれからは、牧、月光1・町人とて侮れんぞ。こう金が物をいうては、おっつけ、町人の世の中になろうかもしれん」  「そうなろうとなるまいと、刀を棄てることは至極よろしいと存します。この縁組、よろしく御取り計らい下さいますよう」  月光は、黙って、俯向いていた。  「そうか。ナぐ承諾してくれてなによりーー」  「月光—国許を立つ時に申した、軍勝秘呪は、わし一代かぎりしゃとー」  「はい」  「呪法の功徳を示して、わしは、玄白斎殿も、明日か、一月授か、一年後か、とにかく、遠からぬうちに、死ぬであろう。一人の生命を呪うて、己の命を三年縮めるが、もし、玄白斎殿と呪法競べになれば、十年、二十年の命をちぢめるかもしれぬ。もし、わしが、三十年、五十年平穏無事に暮せるなら、お前にも、呪法を譲ろうと恩うたが、時がのうなった。学んで得られる道でもなく、言って伝えられるものでもない。以心伝心と、刻苦修練と、+年、二十年、深山に寒競りをし、厳寒の満布に修業し、炎天に証し、慾火の中に坐して、ようよう会得しても、平常にはなんの用もなさぬ。家に大事がなければ、百年でも、二百年でもそのままに心に秘めて、ただ、人知れず伝えるばかりしゃ。今度、調所殿の命を受けて、思い立ったのも、この秘呪を、秘呪の 蝉脱を広く天下に示さんがためーー天下は広大で、効顕さえ現せば、後継者も現れようし、門人らも懸命になろう。関所殿の前ながら、世の中は、実学と理学ばかりで、理外の埋か侮蔑されている。わしは、最後の兵道家として、命にかけて、この理外の理を示したい。天下のためでもなく、御家のためでもない。己の職のために、悪鬼となっても、秘呪の偉効を示したい。もしも、呪法のためか、刺客のためか、死ぬか、殺されるか、いずれにしても長くはあるまいが、お前は、関所殿の仰せのとおり、町人になる覚悟で、御奉公をせい。けっして、父の後を継ぐとか、わしのように、旅行者に反対ナるとか、愚かな真似をするな。万事、調所殿の御指図に従って、世の中に順応せい。わしの子で、兵道の家に生れたが、けっして、わしを見習うな。これが、お前に与える、わしの遺言しや。忘れるな」  静かに、だが、力のある言葉で、牧は教訓した。      ニノー   「さあ、もう、ハ軒家やで」  船べりに凭れて、ぼんやりと、綱手の横顔に見惚れている朋輩の肩を揺さぶった。   「知ってるが、御城が見えたらハ軒家や。きまってるがな」   「わかってたら支度をしんかいな。なんぼ、見たかてあけへんて」   「見るは尉聯や、俺は、お前みたいに、影かなんぞしえへん。昨夜から、しっと、こう見たままや。倣巌対価しやはったか、欠伸する時にお前、こう袖を口へ当てて、ちらっと、俺の順を見 心ら て、はあ、ああああ」  「人が、笑うてはるがな。ええ、こいつは、少し色狂人で」  乗合の爺さんが、  「いやいや。あんな岸影な人を見たら、わしかて、色狂人になる。こう、袖を口へ当てはって、ふあ、ふあ、ふあ」  四辺の人が吹き出した。七瀬と、綱手とは、伏見から、三十石の夜船に乗って、一睡もしなかった。乗合衆は、船べりの荷物に凭れて仮眠をしたり、身体を半分に析って、隣りの人とくっつき合って寝たりしていたが、初めての乗合船で、人々の中TIそれから、明日の役目を思うと、眠れなかった。乗合衆は、いろいろの夜風を防ぐものを持っていたが、二人には、それさえなかった。船頭が、薄い蒲団を貸してくれたので、それを膝へかけて、二人は、一晩中坐りつづけていた。  人々が起き出して川の水で顔を洗うころになると、ハ軒家、高麗橋から出たあり船が、そろそろ漕ぎ上って来た。その中に、士ばかりの一敗が、杯をやリ取りしていた。  「朝っぱらから、結構なことや。なんやの、かやのい、うて、人の金を綴り取りよって11」  「今度の御用金は、鴻池だけで、十万丙やいうやないか、昔やと、十万両獣金したら、倍にも、三倍にもなる仕事がもらえたけど、当節は、ただ召し上げや。薩摩なんて国は借りた金を、なんと、二百ヤヤげ踏み倒ナようなもんやないか。今に、猷耐ってなことになって、町人から借りた金は返さんでもええ、ということになりよるで。こう無茶したら、大きい声でいわれんが、長い ことないで。京、大坂で、お前、町人総倒れや。町人が倒れたら、  七瀬も、綱手も俯向いていた。 大名への貸金が、千六百万丙、これを、二百年年賦にされたら武家だけで天下がもつかえ」   「あのお船、お前、薩摩やでーー」  上り過ぎた船を、一人が眺めていった。   「そや、薩摩や、あいつが、大体いかんね」  七瀬は、そっと、顔を上げて、その船を見た。そして、   「綱手」  と、口早に囁いた。   「あれはーー」  七瀬は、顔を左、右に動かして、遠ざかり行く船の中から、何かを求めていた。   「母さま」   「牧ではII牧ではないかしら」  組手は、伸び上ったが、牧の顔を知らないし、もう、船は、かなり遠ざかっていた。   「よく似た顔じやがーーf」  七瀬は、人蔭で見えぬ牧の顔を、もう一度確かめようと、いつまでも、眼を放さなかった。船頭が、   「着くぞよIう。荷物、手廻り、支度してくれやあ」と、叫んだ。 ニノニ 江戸へ出る時に見た荒廃した蔵屋敷の記憶は、新しい蔵屋敷の美しさに、びっくりした。十年近い前に見た邸は、朽ちた板塀、剥ぎ取られた土塀、七戸前の上蔵の白壁は雨風に落ち   ー i ーー ■      −                                    すそ まく 屋根には草が茂っていた。邸の中へ人ると、若侍たちが薄汚い着物の裾を捲りあげて、庭の草を刈っていた。草取りの小者さえ、倹約しなければならぬ貧しさであった。  それが蔵屋敷であったから、三田の本邸、大手内の装東部のように立派な門ではなかったが、広々と取り廻した土塀、秋日に冴えている土蔵の白壁、玄関までつづいている小石敷‘−−七瀬は、これをことごとく調所笑左衛門が一人の腕で造り上げIそして、自分が、その調所を敵にするのだ、と思うと、一つの柱、小石のーつからでも、気押されそうな気がした。七願は、裾を下ろし、髪へ手を当てて押えてから、綱手へ、   「よいか」  と、振り向いた。短い言葉であったが、すべての最後のものーー決心、覚悟、生別などが、この中には含まれていた。綱手は、俯向いた。胸が騒いだ。   「御用人様へ、御目にかかりに通ります」  と、門番に挨拶して、広々とした玄関の見えるところの左手にある内玄関にかかった。取次に、名越左派太からの書状を渡して、   「御用人様へ」  と、いうと、しばらくの後に、女中が出て来て、薄暗い廊下をいくつも曲り、中庭をいくつか横にしてから、陰気な、小さな部屋へ通された。二人は、人ったところの隅にくっついて坐った。  女中の足音が、廊下の遠くへ消え去ると、物音一つ聞こえない部屋であった。二方は、北宗の岨斜彩り床の方にも同し訟R射と掛物・障子から来る明りはヽ二坪ほどの中庭の上から来る鈍い光だけであった。   「よう、覚悟しているであろうな」   「はい」  七瀬は、そういってしばらくしてから、   「こう言うのは、なんである*-R ———母のロから言うべきことではないがーもう、あるいは、一生の間、逢えぬかと思うから、申しますが、お前——益満さんを」  綱手は俯向いて、真赤になった。七瀬は、ちらっと、それを見たが、見ぬような振りをして、   「1ではないかと、母は思いますが」  綱手は、俯向いているだけであった。   「益満さんは、ああいう方しゃが11もし、そうならーーー−機を見てーー綱手」  七瀬は、綱手を影き込んだ。   「厭なのではあるまい」  綱手は、頷いた。  「わかりました」    「しかし、お母様、妾は11‘」   綱手の声は、湿っていた。    「いいえ、心配なさんなーll妾には、益満さんの心は、ようわかっております」    「でも、いったん、操をー—」    と、言った時、廊下に、忙しい足音がして、    「よいよい」    と、いう声がすると、障子が開いて、老人が人って来た。二人は、平伏した。    「よう来た。わしは、両所じゃ」    二人は、平伏したまま、身体を固くした。両所が出し抜けに出て来るとは、二人の考えないこ  とであった。     ニノ三 「御家老様とも存じませず、無調法を致しましてー1‐」 「なになに、この娘子は、お前のか」 「はい、いたってふつつかなー」 「美しい女子じゃが、嫁人前かの」 「はい」 「よい微かあるがどうしゃ。侍でないといかんかな。これからはお前たち、町人の世の中だぞ。 、U〜s“jjsj心S 金の物言う世の中じゃぞ。肩肱、張って騒ぐより、算盤を弾く方が大事しゃ。手紙でみると、お前の夫は何か騒ぎ立てているらしいが、そんな夫に同意せずと、離別されて、こうして国へ戻る方が人間は利口じゃ」   「どう諌めましても、聞き入れませず、妾は離別、またこれの下に、もう一大姉がござりますが、姉妹同士でも、意見のちがいがござりましょうか、二人だけがこうして離れてまいりましたような訳、国許へまでの路銀がたまりませぬゆえ、申し難うござりまするが、これをしばらく、女中代りになりと、ここへお留めおきを願い、その間に、妾一人国許へ戻りまして、すぐ迎えに参じましょうと、御無理な、虫のよい御願いでござりますが、元家中の者のよしみをもちまして、このこと御願い致しとう存じまする」   「徒党を組んでおるのは、幾人ほどかの」   「さ、少しも、夫は、妾に洩らしませぬゆえ」   「なるほどーーそして、このごなんとするな、お前たら」   「国へ戻りまして」   「居候か」               .   「親族もおりますことなり」   「裁許掛見習では、親族も、たいしたことはあるまい。どうしゃ、嫁入してはーーニ片づきに片づくではないか。ここへ置くのは、易いことじゃが、仙波の娘とあっては、万一の時に‘ーーーと、申すのは色仕掛の間者など、よく芝居にもある手でのう。若侍だのはI‐—」 5  七瀬と綱手とは、色仕掛の間者という言葉に内心の騒ぎを、顔へ出すまいと、俯向いて、必死 に押えていた。そして、とうてい、女二人の知恵ぐらいで対手のできる人でないかもしれぬと考  えた。    「—気が早いから、万一の時に困るで−‐—どうしゃ、対手は、聯とした町人じゃ。この調所  が太鼓判を押ナ。名を明かしてもよい。存じておろう。浜村孫兵衛。わしが、大坂町人からの借  財を二百年年賦ということにしたのは、この浜村の知恵を借りたのじゃが、それが訴訟になって  のう、浜村め、気の毒に敗訴して、大坂所払い、ただいま、泉州堺におるが、その倅の嫁を、わ  しに頼んでおる。二百石、三百石の侍より、町人の方がよいぞ。ここへ世話してやろう。一口に  お前ら町人と蔑むが、国の軽輩、風浪武士などに、かえって天晴れな人物かおるように、町人の  方が、近ごろは武士よりもえらい。わしも、どれほど町人から学問したかわからん。浜村へ世話  をしてやろう。このくらいの別院なら喜ぶであろう。なかなかあでやかじゃ。裁許掛見習などを  勤めて、四角張って、調伏の、陰謀のと、猫の額みたいなことに騒いでいる奴の娘にしては、で  きすぎじゃ。ゆっくり、長屋で休憩して、よく考えてみるがよい。これからは、町人の世の中−  I」    と、言って、立ち上って、    「町人の世の中じゃぞーー今、長屋へ案内させる」    と、廊下へ出て、独り言のように言って、どっかへ行ってしまった。二人が、    (調所様は、こっちの企みをお察しなさっておられるのではあるまいか)と、胸をしめつけら れてきた時、二、三人の侍をつれて、調所が戻って来た。そして、  「案内してやれ】  と、その後方からついて来ている女中に命じた。そして、自分は侍たちと、どっかへ行ってしまった。      ニノ四  大きい眼鏡をかけて朱筆をもって、時々、机の上の算盤を弾きながら、分厚の帳面に何か記入していた両所が、筆を置いて、  「袋袴、別娯じゃろうがな」  と、振り向いた。袋袴三五郎は、駅流出の上に、黒袴をつけたままで、  「何者でござりますか」  両所は、それに答えないで、机の向う側に坐っていた二人に、  「締て」  二人が、算盤をとって、指を当てた。  「一つ、慰金二万三千二百八十五両也。一つ、砂糖、十一万とんで九百三十六両‐’I盲城、異国方槍組へ、廃止について御手当を渡世と、定住で、差紙を出したか、どうか、納戸方で聞いてまいれ」  百城が立って行った。  「いろいろに、小細工をしよっていかん。薩摩隼人のごく悪いところじゃ。金に賓うて細工が上手で、ナぐ徒党を作って— I  「何か江戸で騒いでいる模様でござりまナがーーーー」 ノお刀  「今の別娯も、その片割れしゃがf1−どうも、斉興公が斉彬公に、早く家督を譲って、それで己が出世しようという’’ー斉彬公を取り巻く軽輩には、多分にそれがある」   「しかし、島津のかかでは、叫付子が二十歳になられたら、家督をお譲り申すのが常法でござりませぬか」  袋持は、請所に、遠慮のない口調で、いい放った。  「幕府も、いろいろ手を延ばして、早く、斉彬公の世にしてと、印糾欧かあたり、それとなく匂わしておるが−ーー一得一失でのう」   「一得一失とは」   「お前にはわからん」  百城が廊下へ膝をついて、   「まだ差し立てませぬと、申しておりました」   「いかんのうー’兵制を改めて洋式にしたので、異国方め、ぶうぶう申しておる最中に、廃止手当を迎らせてはーI」  関所は、兵制改正、 国許の反由羅党、反調所党の顔触れを見た時、ナぐそれが斉彬擁護の純忠のみでなく、役方任廃についての不平者、斉彬が当主になれば出世のできる青年の多いことが目に ついた。   (そうだろう。そうそう忠義ばかりで、命を捨てられるものではない。万事は金、原因はどうあるうと、今度の動機は利害のこと’I結果も、利害で納まるだろう)   「別仕立で早く、渡してやれと、申しつけい」  調所が、百城に命じた。   「立身出世は、あせってはいかん、わしが、この藩財を立て匠す時には、三十か年かかると忠うた。朔六時に起きて、夜+時までーーー町人に軽蔑され、教えられ、幾度も死を決して、やっと見込みのつくまでに三年かかった。それから江戸、大坂、鹿児島と三か所を、年中廻って、三十年が、二十年でこれだけになった。三か所に積んだ軍用金が三百八十万両、日本中を敵として戦っても、三年、五年のほどは支えられよう。これを聡がると、ただ、辛抱と、精力と、この二つのほかに出ない。同じ人間に、そう奇想天外の策のある訳はない。あわててはいかん。斉彬公の世にならんでも、役に立つ奴はわかっている。袋袴、そうでないか」  袋袴は、調所が、軽輩から登用した若者であったが、調所の一面には、ひどく敬服していたが、一面にまた、深いものたりなさがあった。  「お前の嫁にもちょうどよいの」  と、調所は言いすてて、すぐまた、帳面をのぞき込んだ。      ニノ五  女中たちの溜りからは、薬草を植えた庭が、見えていた。鶏が、そのあたりに小忙しく餌をあさっていた。それから馬屋が近いらしく、ことこと踏み鳴らしている蹄の音が聞こえていた。  一人が親子を案内して来ると、女中たちは、手をとめ、足をとめて、二人を眺めた。二人は丁肘に御辞儀しながら、片隅へ坐って、俯向いていた。女中たちは、ナぐ、お互に、二人のことを囁き合った。そして、出て行ったり、道具の手人をはしめたりした。   (御家老は、二人の!−!いいや、夫の心の底まで、見抜いていらっしやるかもしれない。島津の家を助けた方だから、そのくらいは、御発明かもしれぬ)  七瀬も、綱手もそういったことを考えて、自分の身の破滅を空想ナるくらいに、肘れていた。そして、   (いいや、まさかI−)と、うち消してもみたが、到底、自分たち女の手には及ばぬ人のように思えた。だが、   「町人へ嫁人りせんか」  と、いう言葉は、調所が、本当に親切からいったものだとは思えた。そして、その時の調所の眼、言葉つきを考え出すと、二人は安心してもいいようにも感じた。   「母様ll’妾llお嫁入り致しましょうか」  綱手が、低くいった。   「ええ」  七瀬が、眼を上げると綱手は、俯向いたままであった。   「御家老様の仰せに従わぬと11」   「それもあるがI嫁人して仕舞うては」   「でも—−‐あの御ようずでは、油断も、隙も」  それだけいって、二人は黙ってしまった。   「妾は’−1」  綱手は、やっとしてから、   「なにごとも、諦めております」  七瀬は道中での、いろいろの危険、斬られた人、斬った人のことを、想い出すと、調所のいうとおり、町人へ嫁入りさせ、一生安楽に、せめて、綱手だけでも送らせてやったらと思った。   (そして、ここのことは、自分が探るとしてーー国許へ戻ったとて、御家のために、さして働ける身でもなしー’−)と思った時、一人の女中が、   「百城様が、それ」  と朋彰にいって声を立てて笑った。七瀬が女中の見ている方を見ると、さっき、ちらっとだけ見た、若い美しい侍が、廊下を足早に通りすぎていた。女中たちが、町訟い笑い声を立てて、肩を突っついたり、膝を打ったりしていた。   (封じ二人に較べてヽこの人たちはヽ楽しそうにー—)とヽ七瀬がヽ娘を見るとヽ綱手はヽ身 動きもせずに坐っているらしかった。   (尉剖は、どうしたことやら? 夫も、小太郎もどうなることか? 広い世界に、たのむは、綱手ばかりーI)と、思いかけると、かたい決心が、だんだん悲しく、崩れてくるようであった。   (益満と、もっと早く、許婚にでもしておいたら−)   「お湯を、お召し下されませ」  女中が、後方で、手をついていった。七瀬は振り返って、   「はい、はい」  と、あわてて御辞儀した。綱手は、顔もあげなかった。    死 闘      一ノー  根本中堂の上、杉木立の深い、熊笹の繁茂している、細い径—−そこは、比叡山の山巡りをする修験者か、時々に僧侶が通るほか、ほとんど人通りのない、険路であった。その小径を、爪先登りに半里以上も行くと、比叡の頂上、四明ケ岳へ出ることができた。  牧仲太郎は、その頂上で、斉彬の第四子盛之進を呪殺しようとーー大坂からの警固の人数の上に、京都留守居役の手から十人、国許から守護して来た斎木、山内、青島、合して二十四人が、 夜の明けきらぬ白川ロから、登って行った。  根本中堂で、島津家長欠の大護摩を焚き、そして自分らも、いささか心得ているから、四明ケ岳で、兵法の修法をしたいから、余人を禁してもらいたいといって、金を包むと、すぐ快諾して、僧侶が二人見張役として、案内役として、ついて来てくれることになった。  熊笹の茂った、本の下道を行く時分から、拾では肌寒になって来た。頂上へ出ると、人々は、一望の下に指呼することのできる大津から比良へかけての波打際と、大潮の風景、西は、瀬田から、微か、顧みると展開している京都の町々に、驚嘆したが、すぐ袖を聯める烈風に、顔をしかめて、寒かった。  牧は、そこ、ここを歩き廻ってから、斎木と資高とを呼んで、   「縄を張ってくれ」  と、草の中へ線を引いて指図した。二人が用意の紅と、繩とを包から取り出すと、他の人々が杭を四方へ打ち込み、繩を引いて、七間四方の区画を作った。牧は、その真中へ、自分で、杭を打ち、縄を三重に張って三角の護摩壇を形造った。そして、中の草を焼き、塩を扱き、香を注いで、土を浄めてから、脆いて諸天に祈った。斎木も、青島も同しように祈ったが、他の人々は、どうしていいかわからないので、その祈りを眺めたり、景色を見廻したりして、寒さに脱えていた。牧が、祈りを終って立ち上った。   「余人を、一人たりとも上げないように、—人数を三股に配流して、二人は根本中堂の上に、四人は中堂とここの途中に、その他の人は、ここにいて、万一のために、四方を糾がていてもら いたい。寒かろうが、酒は禁断」  牧の、いつも、人を圧倒するような気㈲、それは剣客が剣をもって立つと、すぐ対手の感じる人を圧迫するような気魂であるが−−牧は、対坐している間にでも、その眼から、その身体から、何か、人を圧迫するものが放射されていた。   「誰々が、下へ、誰々が、上へ」  と、天童かいうと、   「よろしいように」  と、答えて、牧は側の僧侶に、   「水のあるところは’II」  僧侶は、這かの下の白い路を指さした。   「あの、こんもりと茂った木立のー−」   「聞けば、わかろう」  こういい放った牧は、もう一直線に、枯草の上を、急斜面を、鹿のように、降りていた。   「危ないっ」   一人が叫んだ。牧は、見る見る、転落して行く石のように、一直線に、小さく、小さくなっていた。一人が、   「天狗業じゃ」  と、呟いた。天童が、   「呪法も、武術も窮極したところは同じしゃ。見事な」  と、腕組して、牧の後姿を、眺め人った。       {ノニ  澄み上った秋空だったが、仙波父子は、宿屋の一間に閉し龍ったままであった。   (池上とヽ兵頭とはヽかい脱したにちがいないべあれまでにヽお出羅方の手が廻っているとナればEI−あるいは、京大坂から、二人を途中に討ち取るためまた人数を繰り出しているかもしれぬ)  二人の身の上を案しるほかに、   (牧を討つために出た二隊までかおそらくは、全滅したであろうが、益満は、どうしたか。あの男の豪胆と、機智と腕前とは、一人になっても生き残るであろうがー’−名越ら、江戸の同志はこの刺客隊の全滅を知っているだろうか’—いると十れば、第三昧が出たか、出ぬか’‐—)  二人は、京の藩邸、大坂の藩邸にいる同志に、牧の消息を聞き、その返事を待っていたが、   (もし、第三番手の刺客が派遣されたとして、自分らより早く、牧の所在を突き留めて討ったとしたなら、自分らの面目はlj・1目的はII立場はいっさいが崩壊だ)  益満の生死より、七瀬らの消息より、このことが重大事であった。浪人させられた武士の意地として、斉彬に緋いる、ただーつの、そうして最後の御奉公として、牧仲太郎は人手を借りずに、自分ら二人の手で討ち取りたかった。ニ人は、京都の宿へ足を倅めて、大坂の消息を、袋持三五 郎から、京の動静を、友喜礼之丞から、知らせてもらうことにした。       なμ          ?;f3ii                          − − j『   zj  }ー ーー ーー、s.く?kーー/ 黒ずんだ、聯きのかかった柱、獄かかりに似た天井ーナベて舷しく、おし 部屋であった。 レ 古い香の高い  二十年あまり、なに一つ、世間のことを知らずに、侍長屋で成長してきた小太郎は、この一月たらずに、起った激変に、呆然としてしまった。ナベては、見残した悪夢であって、翁だ頭の中で醒めきっていなかった。  「小太」  小太郎が、眼を開けて、腕組を解いた。 「牧が国を出る時に、二十人からの警固があったとすれば、今度の旅にも、五人、七人はつい                                            ンfS■I ー ーー  Sト  ーー ている、と考えねばならぬ−‘—その、五人、七人の人数も、一総砂りの腕ききであろ             ;゛  ’く ・・’/  ゛ノ/:≫ノ哺召il’ 一ぷ不涸べFノタ匿74q公言t、がら芦ごンーーしQころで、わしは、久しく竹刀さえ持たぬし、気は若い者に負けんつもりでも、足、手が申すことを聞くまいと思われる。ただ武士の一念として二人、三人を対手に−−’これでも負けを取ろうとは思わぬが、また、勝てるという自信もない。勝てる、とは、対他ないい草じゃ。わしけ、生きて戻る所存はない。牧さえ制し殺せば、全身諭になろうとも、わしは本望じゃ」  ハ郎太は、床柱に凭れて、首垂れて、腕を組んだまま静かにつづけた。  「しかしーーきっと、牧を制せるともいえぬ。制せんかもしれぬ。その時に、小太」  ハ郎太が、小犬と、犬きくいったので、  「はい」 ハ郎太は、小太郎の顔を、睨むように見て、 「お前は、逃げんといかんで。わしを拾てて、再挙を計るのだ」   「しかしII」   「心得ちがいをしてはならぬ。父を捨てて逃げても所詮は牧を討てばよい。二人が犬死をしては、それこそ、世の中の物喘いだぞよ」  収拾な眼、言葉、態度であった。小太郎は、それを聞くと、なぜだか、父の死が迫っているように感じた。       }ノ三  女中が、廊下を走って来て、   「赤紙どすえ」  と、障子を開けた。小太郎が、彫り出るように立ち上って、受け取った。八郎太が、赤紙へ心状を押して女中に戻した。ハ郎太は、手紙の裏を返して見入   「袋持からーー」  そして、いつものように、ヤ彫で、丁寧に封を切った。.  火急一筆のこと、牧仲儀、今暁錦地へ罷越峡が、不逞浪人輩三五、警固の体に披見受峡に就 者、油新粧為間敷、船行、伏見に上陸と披存峡間、、以飛脚此旨中辻帆七額殿並綱 手、当座当屋敷に滞留のことと依存峡ーー   「母上は、首尾よくーーー」  と、言った時、廊下に足音がして、   「また、御手紙どすえ」   「御苦労」   「御侠の奴さんー‘−−」   「わしがまいる」  と、言って、小太郎が降りて行った。ハ郎太は、友喜礼之丞からの手紙を、黙読してしまうと、大きく、肩で呼吸をした。小太郎が人って来て、   「友喜の小者で、怪しい者でござりませぬ」   「友喜の手紙によると、七、ハ人から、十人近い人数が取り巻いておるらしい」   「して、修法する土地は?」   「比叡山」   「やばり叡山」   「十人と聞いて-*p——二十人おっても、いまさら、他人の助力を受けたり、後目に延ばしたりずることはできぬ。わしが、牧の修法を妨げて斬死したと聞いたなら、正義の人々はいっせいに立つであろう。わしは、それを信じて、死ぬ。しかし、お前もともどもに死んでは、仙波の塞が断絶する。大義、親を滅ナ、とは、このことじゃ。小太’−無駄死、大死をしてはならんぞ。幸い、七瀬が入り込んだとあれば、また、いかなる手段にて、敵を挫く策略が生れてまいるかもし れぬ。わしの死はお前が生きておってこそ光がある。お前が生きておれば、犬死にはならぬ。いったんの旅み、怒りで、必ず犬死してはならんぞ。眼前、父が殺されても、牧を刺す見込みがないなら、斬り破って逃げい。お前は若い。お前の脚ならば逃げられよう。そして再挙して、わしの志を継ぐのだ。よいか。この教訓を忘れては、父の子でないぞ」   「はい」   「すぐに立とう、勘定を申しつけい」   「母上に、一度お逢いなされましては」   「たわけたことを申すな」  ハ郎太は、床の間に立ててあった太刀を取って、目釘を調べ、中身を見て、   「生れて初めて入を斬るか、斬られるかー−こうして、じっと見ていると、この刃の表に地獄の図が現われて来るように思える」  刀を膝の上に立てて、刃の平をいつまでも眺めていた。   「お召しどすか」   「勘定をして、麻草駿二足、弁当を二食分、水を竹筒に、少したくさん詰めておいてくれぬか」  「今時分から、どちらへおいでどす」  「叡山へ参詣ナる。勘定を早く」  小太郎は、室の隅で、鎖鉢巻、鎖帷子、真綿入りの下着をニ人分積み重ねて、風呂敷に包んで いた。  「思い残すこともない」  ハ郎太は、刀を鞘に納めて、  「小犬、生れてはじめて人を斬るが、老いてもわしの腕は見事しやぞ。そうは思わぬか」 と、笑った。      ニノー  根本中堂の、巨大な、荘厳な堂前に二人は額いた。内陣には、ただーつの宝燈がまたたいているだけで、漆黒な闇が、堂内に崇高に龍めていた。  八郎太が、やがてこの宝燈の中へ消え去るべき自分だとも思ったりーーあるいは、もう一度この土の上で同じように合掌して歓喜に祈る自分の姿を想像したりーー九死一生の勝負だとは信じていたが、自分の死ぬということが少しも恐ろしくなく、胸を打つほどの想像も湧いて来なかった。自分の、包囲されて斬られるところを想像したが、人の斬られたのを見るほどの感じもなかった。  小太郎は、父の勤めを、暮しを、幼い時から見ていたので、下級武士が、手柄を立てて出世するというようなことは、考えられなかった。二十年でも、三十年でも、毎日同じことをしていなくてはならぬ運命だと、感じていた。父が、意地のため、自分のために、牧を斬って、それで仙波の名が名高くなったとて、どうなるのか?f−−益満ほどの才人、腕前で、家中の人々から恐れ られ、作められても、少しの出世もできないのに、牧を斬ったとて、れよりも、牧を斬って、その手柄の代りに、母と父とを救い、妹と、                           %−fーf どう出世できるか?11そ自分とを、もう一度、二人 の膝下へ集めたかった。苦労ばかりをして来た母に、皆の団祭を見せて喜ばしたかった。牧を討 つのも、そのためになら—と、思った。  名越左源太の子は九歳であっても、小太郎は、益満は、道を滴らなくてはならなかった。伊集院平の倅が少し馬鹿であっても、二千石を継ぐのに+分であった。益満は、それに不平をもっていたが、小太郎は諦めていた。だが、斉彬公の愛には望みをもっていた。斉彬公の代になったら、−1自分の才も、腕も、きっと人に認められるであろう。知行は昇らなくてもいいから、自分の器量をーI−と、思うと、斉彬を呪っている牧が、憎くなってきた。  だが、父が、牧を討たずに死ぬ? それも犬死ではないか。益満は、きっと、遅れても来着するだろう。それを待って、牧を襲っても遅くはないのにI−十人も警固の人数がいては、彫さな いことはわかりきっているのにー。  小太郎の闘志は、少しも起こって来なかった。父は独りで興奮しているが、あの手紙も何も、皆朧で、この深い山の中は、この堂と同じように、沈黙と、荘厳とだけしかないのだ。牧なんか いるものかIIというように思えた。  ハ郎太が立ち上った。杉木立の下を、熊笹の中を、裾を捲り上げて登った。羽織の下に禅をかけて、鎖鉢巻を袖の中へ隠して、  「油断するなよ」    二人が耳を澄まし、呼吸を調べて、静かな足どりで小半町行くと、人影が木立の間に見えた。 八防火が佇んで、見届けようとした時、木立の間から、細径へ二人の侍が出て来て立ち止った。    「見張」    と、小太郎が囁いた。囁くとともに、掌も、胴も、膝頭も、ふるえだした。押えても、ふるえ  が止まらなかった。聯の下に、冷たい汗が湾れて来た。    (逆上してはいけない。怯けてはいけない)と、押えたが、どうしても止まらぬうちに、二人  の前近くへ来た。一人が径の真中で、    「御貴殿へ申し入れる。五写の姓名は御容赦願いたい。当山の許可を受けて、都合によりここ  よりいっさい登山を止めております。お戻り願いたい。はなはだ勝手ながら、なにとぞ」    一人は、横を向いて、草赳で土をこすっていた。 ニノニ  「ははあ11‐」  ハ郎太は、さも感心したようにいったが、  「当山の許しを得たとおっしゃれば、是非もござらぬが、1−’念のために、許可状を拝見致しとうござる」  後方にいた侍が、脱しい眼をして、ハ郎太の方へ向き直った。  「頂上には、糾かの方が修行してござるで11お戻り願いたい」 「尊貴の方とは?・」 二人は、答えなかった。  「尊貴の方の、御名前を承りたい」 小太郎は、静かに足を引いて身構えにかかった。いつの間にか、鍛えが無くなっていた。「しつこい。たって通られるならーーー」 ハ郎太が、大声で、  「尊貴の方とは、牧仲太郎か」  「なにっ」 二人が、一足追って、聡へ手をかけた。八郎太はたたみかけて、  「牧の修法か」 二人は、   「いかにもーーそれを知って通るとあらば、血を見るぞ」  と、叫んだ瞬間、杉木立に、谷間に、山肌に木魂して、   「ええいっ」  小太郎の授か、少し低くなって、左脚が、後方ヘーーきらっと閃いた白刃は、対手を打つか、打たぬかに、小太郎の頭上で、八かに構えられていた。対手の肩口の着物が胸の下まで、切り裂けて、赤黒い血が、どくんどくんと、浪打ちつつ吹き出していた。対手は眼を閉して、しばらくの間、前へ、後方へ揺れていたが、声も立てずに、脚も動かさずに、転がってしまった。それは、 ほんの、瞬間だった。  「よし」  と、ハ郎太が、声をかけた。残った一人は、蒼白な顔をして、正眼につけたまま、動きもしなかった。小太郎の早業に、腕の冴えに、すっかり圧倒されてしまって、   (逃げたら後方から斬られるIIだが逃げないでもー−)と−−−それは、ちょうど、猛獣に睨まれている兎であった。自分の斬られるのを知りながら、もう、脚も、頭も、しびれてしまって、自出にならないのだった。  小太郎が、ハ郎太に、   (斬りましょうか)と、目配せをした。ハ郎太は、顔を横に振った。そして、静かに、刀を抜いて、’  「覚悟」  対手は、ハ郎太へ眼を向けた。そして、じりっと脚を引いた刹那1   「やっーーー」  真向からの打ち込みを、ぱちんと受けて、ぼり上げようとした瞬間、   「やっ、やあーっ」  老人とも思えぬ、鋭い気合が、つづけざまにかかって、引いたと思った刹那に、すぐ、切り返してくる早業11‐たたっと、退ると、   「ええいっ」 刀を立てて、頭を引いたが、一髪の差だった。相手の横恨から、血が飛んで、熊笹へ、かかる  「突なりいっ」  ハ郎太は、若者の稽古のように絶叫して、対手の胸ヘー突きくれると、血の飛ぶのを避けて、右手へ飛び退った。      ニノ三  「死骸は、その辺へ隠しておけー」  ハ郎太が、杉木立の中の彭蒼と茂った草と、笹の中を指さした。そして、小太郎が、死体へ手をかけて持ち上げだのを見て、  「一人でよいか」  小太郎は、生暖かい足を脱んで、  「これしきの−I」  と、見上げて、微笑した。そして、両脚を持って逆に立てた。血が、土にしむ間もなく、細い流れになって、ゆるやかに下り出した。小太郎は、はずみをつけてー振りー上一振り—ざっと、笹が音立てて、どんと、地へ響いた。八郎太は一人の襟を掴んで、少し引きずったが、手にあまったらしく、  「力業はーーいかん」 --一一  と腰を延ばした。そして、鞘へ納めた刀を、もう一度抜いて、刃こぼれを調べた。  (+人とすれば、残リハ人—)  小太郎は、血に塗れた手を紙で拭いて、  フ』こまで見張が出ておりましては、用意なかなか粗末でござりませぬな」  「うむf‐—」  と、頷いてから、  「腕が上ったのう」  「父上も見事でござりました」  「わしは、せっかちでいかん。じわしわ来られると苦手じや」  話が終ると、冷たい風と、淋しすぎる静けさとが、薄気味悪く、二人に感じさせた。今、人を二人までこの静かな山の中で斬ったとは思えなかった。  「頂上は、よほどあると見えるの」  左手は、熊笹ばかりの山で、径は、左へ左へ行くが、四明の絶頂は、少しも、現われて来なかった。だが、少し登ると、尉かに、人声が聞こえた。それは、二人でなかった。  「父上、話声がー’−」  二人は、立ち止った。ハ郎太は、黙って、鎖鉢巻を当てた。そして、その上から、手拭をかぶった。小太郎も、それに見倣った。右に、左に折れ曲る急坂を、二人は、静かに、ゆっくりと、  「急ぐでないぞ、呼吸が乱れては闘えぬぞよ」 一一−-−・-・ と ゝ かの、 いいつつそれでも、時々、肩で息をしながら登って行った。小太郎が、目を上げると、這熊笹の中に、半身を見せて、一人の侍が立っていた。小太郎が、しっと珍tめると、向こ うも、こっちを眺めていたが、何か合図をしたと見えて、すぐ二人になった。そして、二人になったかと思うと、右手の山蔭へ消えてしまった。  「おるのう」 町—−」 いったとたん、  「待てっーー待てっ」  遠くで、人影も見せずに、こう叫びながらーーしかし、すぐ足音が、聯刻を破って、乱れ近づいた。小太郎も、ハ郎太も、羽織を笹の上へ棄てた。足場を計った。二人で対手をはさみ討てるように、左右に分れて、径に向い合った。すぐの曲り角から、四人の姿が現れて、一人が、こっちを見ると、  「なぜ、登った。降りろ」  と、叫んだ。四人とも禅がけで、支度をしていた。小太郎は刳形へ、手をかけて、親指で、鯉口を切った。   「これは、なかなか、手配りがついておる。前だけでなく、左右、後方へも、気を配らんといかんで」  と、八郎太が、注意した。      ニノ四  「新れっ」  一人が、すぐ刀を抜いた。  「待て待て」  四十あまりの、糾がどけ、茶の袴をはいだのが、人々を止めて、前へ出た。そして、二人を左右に見て、  「この下に、見張の者が、二人、おったであろうがな。それを、なんとした?」  ハ郎太が、  「さあーなんとしたかのう」  三人が、  「斬れっ」  「面倒じやっ」  と、叫んで、ハ郎太と、小太郎とに迫って来た。  「そうかー−目といい、支度といい、二人を斬り捨てて来たに相違ない。人を殺した以上、己も殺されるということは承知であろう。御山を汚した以上、御山の罰を受けるということも承知であろうーー」  「天童、貴公の説法は、でえんでいかん。さあまいれ」  一人が、ハ郎太へ、正眼につけた。一人が、それを援けて、右側から、下段で追って来た。  「小冠者っ」  天童は、刳形へ手をかけて、ずっと、鞘ぐるみ刀をちょうど、柄頭が、自分の眼の高さに行くまで仲した。古流居合の手で、いわゆる鞘の中に勝つ、抜かせて勝つ、という技巧であった。こっちはあくまで抜かずにいて、対手の抜いて来るのを待っていて勝つという方法であった。 天童を助けて、一人が、上段にか 型であった。小太郎は腰を落したまま、動きもなく、音もなく、声もなく、影のごとく構えていた。それは真剣の場数を踏んできた賜物で、その冷静さは、天皇の倣った心を脅やかすに十分であった。   (侮れない)と、天意が感した瞬開、天童は、固くなった。怯け心が少し、疑いの心が少しー—もっとも剣客の訟む、そうした心が起こって来た。   「やあ」   「おおっ」  ハ郎太の方に、誘いの懸声が起こった。それに引き込まれたように、   「やあ」  と、上段に構えて、じりっと、進んだ時、手が、ぴくぴく動くと、次の瞬間、  「ええっ」 小太郎は圧されたように一足引いた。上段の刀尖が、    見事、小太郎の誘いに乗って、大きくー足踏み出すと、きらっと、白く円弧を描いて、打ち込 むーーその光った弧線べ半分閃めくかヽ閃めかぬかにヽ     「とうっ」    此の中まで、突き刺すような、鋭い気合、閃めく水の影のごとく一条の白光、下から宙へ閃め  くとー刀と、片手が、血潮の飛沫とともに、宙に躍った。     「ええっ」    その刹那、天意の手から、辺り出た刃光一閃、小太郎の脇へ.、入るか、入らぬか、ハ郎太が、     「危ないっ」    と、絶叫した時、天童は、たたっ、とよろめくと、刀を杖にして踏み止まったし、小太郎は、   熊笹の中へ転がって、天童の胸へ刀をつけていた。         ニノ五    小太郎は鹿が跳躍するように、跳ね起きた。そして、刀を構えて、     「いかがっ」    と、叫んだ。天童は、右手に突いた刀へかけている手を、刀ぐるみぶるぶる震わせていたが、     「無念」    呟くように言葉を担げつけて、小太郎を睨むーJと膝をついてしまった。そして、左手を、土  の上へついて、大きい息を、肩でしながら、   「今—−今、一手合せ」  そういって、刀を地へ置いて、用意していた血止め、細帯を、懐から取り出した。そして、静かに、飢える手で膝を探って行くと、べとべとした血潮、開いた斜叫−−眼を閉じて、指をー 全身へ響く痛みを耐えて、創口へ入れて行くと、骨へ触れた。割った骨であった。   (骨を断たれた)  天童は、その瞬間、蒼白になって僻鮒いてしまった。暖かい血が、指の周囲から、外へ流れ出 手早く、太腿を縛った。そして小太郎の立っているところを見ると、 小太郎は、もうそこにはぃ なかった。  「ああ」  断末魔の叫びが聞こえた。天竜は、その方へ眼をやると、小半町も逃げのびた浪人の一人が、尉のところへ、小太郎に追いつめられて、右手で刀を突き出したまま、左手で、顔を影って、斬られるままに斬られていた。  「卑怯者」  と、いう小太郎の微かな叫び声が、聞こえてきた。  「ああっーjちーっ」   首をちぢめて、手を顔へ当てて、崖に凭れたまま無抵抗になっている前で、小太郎は大上段に3 振りかぶっていた・ WWW   「小犬」  と、ハ郎太が叫んだ。その瞬間、血煙が立って、突き出ていた刀が、地上へ落ちた。浪人は、岩角から崩れるように、背を擦りながら潰えてしまった。小太郎は、血刀を下げてこっちへ戻リかけた。   「ううっー・−−−うむIん」  味方の一人の呻き声が天竜の後方に聞こえていた。熊笹の中でーすぐ、後方で聞こえていた。天童が、その方へ振り向くと、八郎太の脚が、ナぐ眼の前のところにあった。天童は、右に置いてあった刀を取り上げて、少し、身体を斜めにした。そして、構えると、その瞬間、   「父上っ」  小太郎が、絶叫して、走り出して来た。ハ郎太が小太郎の叫び声と、その指さすところを、ちらっと、見たとたん、   「おのれっ」  飛び退きざまに、天童へ斬り下したが、一髪の差があった。天意の刀が八郎犬の足へ届いていた。ハ郎太はよるめくと、すぐ、笹の中へ、儒砂きに転がった。   「おいぼれ。覚えたか」  天童が、灰色の顔で、ハ郎太の転がっている身体を睨んだ時、小太郎の足音がした。天童が、振り向いて、あわてて構えるも、構えぬもなかった。   「うぬっ」  小太郎の絶叫とともに、天童の順に、ぽんと鈍い音がして、赤黒い味噌のようなものが、溢れ出した。天竜は、刀を構えたままで、順をがっくり下げた。小太郎は、   「馬高め、馬高め」  と、つづけざまに叫んで、天童の肩を、斬った。右腕が、だらりと下がって、切口が、木の幹の裂けたように、真赤な裂け口になった。小太郎は、それを足で蹴倒した。血が、どくどくかい      ニノ六  八郎太は、起き上って、快の上へ脚を投げ出して、  「心配するな、傷は浅い」  と、言った。だが、すっかり疲労しているらしく、刀を側へ置いて、両手を草の中へついて肩で溜息をしていた。  「御手当を」  「うむ。大丈夫か、上の方は」  「逃れた故にござりませぬ」  ハ郎太は懐へ手を入れた。小太郎は、父の横へ片膝を立てて、父の取り出した布をもって、  「疵所は?」  「膝の上下−その辺一面に、ずきずきしているが」  小太郎は、袴の脇から手を入れて疵所を探った。そして、小柄で、袴を切り裂いて、手早く、手拭で太腿をきつく縛った。いつの間にか、誹から、向う脛も、探ると、べっとりと、指が粘って、脚絆の上へも、血が撒み出していた。印能のロを開けて丸薬を出して、   「気付」  と、父の掌へあけておいて、足の疵所へ、唐桑を布とともに当てて細帯した。ハ郎太は、腰の竹筒から水を飲んで、小太郎が、手当を終って脚から手を放すと、   「水盃」  と言って、祝ざめた顔に、微笑して、竹筒を差し出した。小太郎は、父の顔を見た。   「いろいろと、苦労させたーー!わしの子にしてはできすぎ者じや。斉彬公が、いつも仰せられた、みの代になったなら取り立ててやるぞ、とーー今まで、わしは、なに、一つ、お前に、やさしい言葉もかけなんだが、心の内ではーーーー心の内ではー’!」  ハ郎太の声が肌ってきた。小太郎は父を見つめているうちに、不意に、胸の奥から押し上げてくる熱い涙を感じた。   フーー喜んでいたぞ。この疵を受けた上は、牧を斬ること思いもよらぬ」   「父上、六入斬リました。残りは二人か三人」   「さ、それはわかっておるが、脚の自由がきかんでは獄射ない。お前が、二人前働いてくれ。わしぼ、それを見届けて腹をしよう」   「父上、手前一入でまいりましょう。ここに、しばらくお待ち下されますよう」   「小太、わしを武士らしく死なさぬと申すのか、昨日も、今日も、夭死するな、と、あれまでに申したのが、わからぬか、わしを夭死させるのか」   「肝に銘じておりますが、父上が、ここで、切腹なされても、やはり夭死では11」   「思慮のないことを申すな。これだけの人数を斬って、誰がその下手人になる? お前と、わしと二人が、下手人になって、斬罪に処せられてなんになる。わしが、ここで、腹を切って、下手人となれば、お前は助かるー’母もある。妹も多い。また、お前は、わしの志を継いで、御家を安泰にし、また仙波の家も継いで行かねばならぬ」  ハ郎太は、こう言って、刀を杖に、立ち上りかけてよろめいた。小太郎が、郊えて、同じように立った。   「それはどの理を弁えぬ齢でもあるまい」  小太郎は、父の慈愛と、父の武士気質と、父の意気とに頬えていた。   「水盃が厭なら、血を聯るか」  八郎太は、左腕を捲った。そこにも、痛が、ロを開けていた。   「助からぬ命しゃ。牧の前にて、正義の徒の死様を見せてくれよう。小太、肩を凭せ。これでもまだ、へろへろ浪人の一人、二人を対手にしておくれはとらぬ」  ハ郎太は、血に曇った刀を右手に提げて、小太郎の肩へよりかかった。   「歩け。何を泣く」   「はい」   「山の上へ気をつけい。ここいらでは死にとうない。牧の顔を見てからしゃ。聯わぬ節には食いついてくれる」  ハ郎太は、元気のいい声であった。      ニノ七  伝放火仰の厠が石に凭れていた一人がヽ身体を立ててヽ   「あれは?」と、いって、下の方を指さした。その指さす遥か下の登りロに、一人、一人の手負に肩を貸して、静かに登って来ていた。  「周西では?−−ないか?」  「ちがうーー上人は手負だ」呟いて、すぐ人々へ「見張が斬られたらしい」と、叫んで、下の方を指さした。  「誰が」  二、三人が、同時に叫んで駆け出そうとした。山内が、  「あわてるなっ」と、止めて、‐「誰が斬られたか?」  二人の見張は、それに答えないで、じっと、登って来る二人を見ていたが、   「見張ではない、あやしい奴しゃー−j山内殿、ここへまいってーー’」  手招さした。山内が、大股に、ゆっくりと、草原を二人の方へ歩いて行った。  牧は、青島と、斎木と三人で、夜の祈祷の準備のために四辺を火で清浄にしてから、その跡へ、 犬の血、月経の血、馬糞の類を撒いていた。   「味方でないとすれば、不敵な代物しゃ」   「ここへ来るまでには、見張を斬らなくてはならんがーーー」  と、残りの人々が話し合った時、山内が右手を挙げた。   「それっ」  人々は、刀を押えて走り出した。牧は、しろっと、それを見たままで、ていた。   「先生」  斎木が、人の走って行くのを見て、   「先生」   「わかっている」 指を繰って、何か考え  冷やかに答えて、牧は、眼を閉した。斎木と、青島は、人々が、一列に立ち並んで、刀へ手をかけているのを見ながら八不安そうな眼をしていた。  山内が、微笑しながら、ただ一人、牧へ近づいて来て、   「よい生犠が、来よりました。老人、若いの、御好みしだい生きのよい生胆が、とれる‘−牧殿」  牧は、眼を関して、突っ立ったまま、据を、総を、髪を、風に吹かれていた。   「牧殿」    「わかっております。御貴殿、よろしくJ   山内は、じいっと、牧を睨んで、黙って彫ぴ返した。ちょうど、 その時、真一列に並んでいた 浪人たちが、しりしり左右へ分れかけた。そして、その中央に、草原の上に、二人の頭だけが現れていた。誰も、まだ刀を抜かなかったが、身体のちぢまるような、心臓のとまるような、凄い気味悪い、殺気が、山の上いっぱいに拡がった。  左右へわかれかけた浪人は、またーつのかになって、しりじり二人を包囲しかけた。そして、・口々に何か叫んでいた。二人の侍が、顔を、胸を現してきた。一人は、刀を杖にして、肢を引いていた。一人は、その右手に、その老人を匙うように、少しの隙もなく、何か、時々、浪人どもにいいながら、少しずつ登って来た。山内が、   「問答無益っ、斬れっ」  と、叫んだ。浪人の大半が、刀を抜いた。一人が微を構えた。二人は、歩みを止めて、ぴたりと背中合せになった。      ニノ八  仙波ハ郎太の顔は、死の幽鬼だった。灰色の中に、狂人のような眼だけが、光っていた。順える手で刀を構えて、怨みと、呪いとの微笑を唇に浮べて、  「汝ら、邪魔だてするか」  その声にも、頭えが含まれていた。  「牧っ」  しゃがれた声で、絶叫した。そして、聯をして、嶮を吐いた。  「卑怯者めっ、一騎討しゃーー’牧っ、仙波ハ郎太が、一片の働きを見せてくれる。まいれ、牧。まいれ、まいらぬかっ」  逡かのところに立っている牧へ叫んだ。牧は、眼を閉したままであった。   「吼えるな、爺」  山内が、叫んで、   「一人ずつ、六人してかかれ。大勢かかっては、同士討になる。働きに、自由がきかぬ1‐  浪人が、お互に、左右を振り向いた。そして、   「退け」   「尊公が—」と、一人が言って、油断を見せた一刹那—小太郎は、影の閃めくごとく、一間あまり、身体を閃めかすと、ぱっと、音立てた血煙1−ぼさっと、鈍く、だが、不気味な音がした。その浪人がよろめいて、倒れた。   「やられた、やられた、やられた」  と、いう人々の叫びと、.  「うっ」  と、咽喉のつまったような呻きとが、同時に起こって、浪人の列が、二、三間も、だ、だっと、蹟くように、突きのけられたように崩れた。退いた。そして、二人の浪人が、草原の中に取り残   された。一人は、脚を聯rってでいながら、一人は、刀を持ったまま両腕で頭を討えて−−しか しヽすぐ、坐ったように倒れて、丸く、膝の上へ頭を乗せてしまった。    「不覚者っ」    山内の顔が、さっと、真赤になった。小太郎は、父の背に、己の背をつけて、正眼に構えていた。    「あ、味な真似を−‐‐’」    一人が、三尺あまりの強刀を、ハ双に構えて、ハ郎太の正面から、迫った。それと、同時に、   七、八入のロから、懸声がいっせいに起こって、また二人に近づいて来た。八郎太が、    「小太郎、犬死せまいで。この人数では敵わぬ。わしは死ぬ。お前は、早く逃げい」    と、耳のところ・で囁いた。    「老いぼれっ、まいるぞ」    しりっと、一人が一足つめて来た、瞬間、    「や、やあっ」    右手から、繰り出した槍−−八郎太は、自分を牽制するための槍とは知っていたが、反射的に  避けたはずみIたたっと、よろめくと、    「ええいっ」    ハ双の烈剣、きえIっと、風切る音を立てて打ち込んだ。よろめきつつ、がんと受けたが、そ  の搾猛な力に圧倒されて、刀の下った隙−−’頭から、額へかけて、頭蓋骨を切り裂かんばかりの  一刀’—−ハ郎太は、その瞬間、眼を閉じてしまった。よろめいた。地がひっくりかえって、天に なりそうに、脚か細く、力なくなって、身体が宙返りするように感した。頭の中で、があーんと、頭いっぱいに鳴り響くものと、全身にこたえた痛みとがあった。眼を開いているつもりであったが、暗黒だった。夢中で、刀を、頭上に構えた。そして、   「小太郎、犬死すな」  と、自分では、力いっぱいに叫んだつもりだが、自分の耳にも聞こえなかった。腕が、肩が、何かで僕られているように、微かに感した。そして、暗黒な地の底を、急に墜落して行くように感した。宙ぶらりんに止まっているようにも感じた。なにか、耳元で叫んだようであったが、どんな意味か、もうわからなかった。ただ小太郎に、   (犬死すな)と、思った。      ニノ九  小太郎は闘志と、怨恨とに狂った猛獣であった。なにを、自分で叫んでいるのか、わからなかった。   (皆殺しだ)と、いう憤りが、頭いっぱいに、熱風のように吹きまくっていた。父の倒れるのを、ちらっと見ただけであったがー食いしばった紫色の唇と、血を噴く歯、怨みに剥き出した真赤な眼球、肉が縮んで巻き上った傷口、そこから覗いている灰白色の骨、血糊に固まった着物、頭も顔も、見分けのつかぬくらい流れている血ーーーそんなものが、頭の中で、ちらちらした。  対手の浪人の恐怖した眼、栄もなく突き出してくる刀、Rだる袖、跳ねる脚、右から、左から   閃く刀、絶叫—倒れている浪人IIそんなものが、眼の前を、陰のごとく、光のごとく、ちら ちらした。    血で、指が、柄から辻りかけた。膝頭が、曲らないように疲れて来た。呼吸が、肩で喘がなく  てはならなくなってきた。舌は乾き上って、砥石のように、ざらざらしてきた。脚も、頭も、腕  も、ドけるように熱かった。     (いつの間にか、かなり斬られたらしい)と、ふと思ったが、斬られたという記憶はなかった。   撲られたという微かな覚えだけがあった。汗が、血が、眼の中へ入るらしく、眼が、痛んだが、   もう眼で対手を見る力もなかった。     「小童−J小童がっ」                                        まfー    と、叫びながら、人々を相手に跳躍している小太郎を、追って、山内は、術昨みをしていた。   浪人の二人まで即死して、四人が深手を負った。山内が激昂しても、小太郎の腕を恐れ、金で雇  われているだけの浪人は、小太郎の隙へさえ斬り込まなかった。小太郎が、刀を振ると避けた。   ただ遠巻きにして、小太郎の疲労を待っていた。    牧は、縄張りのところへ出て、小太郎をしっと眺めていた。そして、斎木に、     「なんと申す若者かの、あれは?』    と、聞いた。    「仙波某とか−−’」    「おおっ、仙波ハ郎太か、硬直の武士じや。あれは、それの倅かー−ーー見事な」 牧は、静かに、小太郎の方へ、歩きかけた。青島が、  「どちらへ」 といったが、黙って、草を踏んで行った。斎木と、眼を合わして、青島らの二人は、その後方 へつづいた。  小太郎は、伝教大師の石室を、背にして、血塗れになっていた。半額は、人の血と、己の血で染まっていたし、着物は、切り裂かれて、欲荊の葉のようであった。獣ぐもう力なく、動かなくなって、すぐに気を失いそうだった。だが、一人でも、近づくと、凄い光を放って睨みつけた。  突き出している刀尖が、時々下がった。腕が、もう力を支えていられぬらしかった。山内が、   「さ、引導、渡してくれるーー南無阿弥陀仏、御大師様の廟で殺されるからは、極楽往生疑いなし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一同の者よく見い、人を斬るのは、こう斬るのしゃ」  上段に振りかぶった。小太郎は、石に、背をつけたまま、だるそうに、正眼に構えた。牧が 「ヤ肌な奴しか」と、近づいて呟いた。山内は、ちらっとその方を見ると、もう一足、小太郎に近づいた。そして、左右の浪人へ、   「よく見い。真向から二つになるぞ」  と、いった。小太郎は、半眼で、しっと、構えたまま、身動きもできなくなっていた。      ニノ十   「逃げえ、小太郎−‐犬死にしてくれるな」    それは、炉心の中から、死人が呼びかけたような声であった。斬り倒された仙波八郎太が、左 手に刀をついて、立ち上っていた。    「小太郎」    斬り割られた頭から、どす黒く、血と混った脳漿が、眼から鼻の脇へ流れて、こびりついてい  た。右手の袖が、切り落されて無くなり、手もきかぬらしく、刀を持ってはいるが、だらりと下  ったままであった。    振り向いた人々は、背筋から冷たくなった。ハ郎太の血を撒ませた眼、瞳孔は空虚になって、   ただ小太郎を凝視しているだけであった。唇からは、血に訟んだ歯が、がくがくふるえて現われ  ていた。ぼろぼろに切られた袴の中で、聊か、少しずつ近づいて来ていた。血で肌へこびりつい  た袴は、風ぐらいに動かなかった。それは明かに幽霊であった。子を思う最後の一心が、死んだ  身体へ乗りうつったとしか思えなかった。やさしい言葉一つ懸けないで育ててきた小太郎に対す  る、死よりも強い愛の力であった。その愛の力が、死んだ肉体を、蘇えらせたのだった。    小太郎は、石に凭せていた身体を立てた。頬にも眼に、さっと光が動いた。    「父上っ」    心の中で、絶叫するか、せぬかに、山内の刀1踏みこんで来た聊、上がった掌、山内の引い  ていた呼吸が、    「それっ」    と、いう懸声にかわって、毒気を吐き出すごとく力とともに噴き出したとたん、小太郎は、刀 を右手に提げたまま、さっと、左手へ避けた。閃いた刀は、空を斬った。かちっと、当った音がした。  「小太、逃げい」 ぎつさき 刀尖が石に  ハ郎太がよろよろと近づくのに、浪人たちは、気圧されたように、恐怖の眼をして、眺めていた。牧が、しっとハ郎太を眺めていた。  山内は、ひと討ちと思って打ち込んだのを、はずされて、石に当って、刀尖が折れるとともに、赤くなって、激怒しながら、二度目の猛撃をと、さっと振り上げた瞬間II小太郎は鹿のごとく、浪人の中へ飛びこんでいた。ハ郎太の凄惨さに恐怖を感して、呆然としていた一人の浪人に、一撃をくれて、人々の囲みを脱出していた。   「だわけっ」  と、山内が、浪人に怒った。そして、振り上げた刀を下ろして、小太郎の後方から走り出した。多勢の浪人どもが、その後を追った。  二人の浪人は、刀を構えて、ハ郎太の方へ静かに近づいた。八郎太は、もう、眼が見えなくなって来たらしい。眉を彩めて、口を開きながら、眼をしぼたたいて、小太郎の行方を捜すように、人々の走って行く方へ、うつろな眼を動かしていた。足は、もう動かなかった。   「父上っ’—1’御免」  小太郎は、走りながら絶叫した。だが、ハ郎太には、聞えぬらしく、微笑もしなかった。二人の浪人が、八郎太の前へ立った時、牧が、  「その老人を斬るなご  と、叫んだ。そして、足早に、ずかずかと近寄ると、ハ郎太の右脇下へ、自分の肩を入れて、  「仙波っ、気を確かに」  と、叫んだ。ハ郎太は、眼をしぼたたいたきりで、自分を糾けてくれているのは誰だか、わからなかった。だが、微かに、  「小太郎は?」と、聞いた。  「無事しや、無事に逃げたぞ、眼が見えるか」  ハ郎太が、頷いた。そして、右手で、前方を探るようにした。牧は自分の後方の斎木に、  「肩を貸せ、左の方を、持ち上げて、その小高いところまで巡ぶのしや」  と、牧は、斎木とともにハ郎太の左右から、身体を持ち上げて、急ぎ足に、小太郎の逃げて行く方へ歩んで行った。     ニノ十一 「先生っ」 「いかが、なされます」 貴息が、牧の態度に不審を抱いて聞いた。  「武士の情しや」 牧は、ただ、わずかに残った、精神力だけで、微かな命をつなぎ止めているハ郎太を肩にかけ て、草原のなだらかなところを、少し登った。そこには、㈲聯化か、そのほかの岩が、うずくま っていた。  見下ろすと、小太郎が、防ぎつつ、逆襲しつつ、走りつつ11−もう刀の法も、業も、何もなかった。お互に、ただ刀を振り廻して、なにごとかを叫んでいるだけであった。草原の急な傾斜は、人々の足を、時々奪ったので、小太郎も膝をついたり、浪人も転がったりしつつ、闘っていた。   「仙波っーーあれが見えるか。小太郎が見えるか」  牧が、下の方を指した。ハ郎太は、最後の息のような大きいのを、肩でして、両手で探すように、前の方へ伸ばして、空を掴んだ。そして、   「小太郎」  と、微かに呟いた。   「見えるか」  ハ郎太は、胆心力を集めて、牧の指さす下の方をしっとしばらく見ていたがーーいきなり、右手を右の方へ振って、   「右へ」  と、叫んだ。そして、一脚踏み出そうとしてよろめいた。そして、それでもう残りの力も尽きたらしく眼を閉した。牧が、八郎太の顔を見てから、小太郎の方を見た。小太郎は、左へ、左へ避けていたが、そこの行手は谷で行詰まりであった。右手は、草原が、杉木立の中へつづいていた。   「右へ、逃げい。小太郎っ、右手へ逃げい。左手は谷しゃっ。谷があるぞっ」 -一一    と、牧が叫んだ。山内が、下の方で、上を振り向いた。ハ郎太は、耳許で、その叫びを聞くと 頷いた・そしてヽ    「御身は?」    と、微かに、いった。もう、ぐったりと、牧へ凭れかかって、最後の生命がつきようとしてい  た。    「牧」    ハ郎太が、よろめいた。そして、    「御身が、牧−−仲太郎か」    と呟いた。もう、牧が何者であるか、判断がつかないようであった。眼を開いて、牧を見よう  としたが、瞳が、だんだん開いて、力なくなってきていた。だが、    「牧」    と、呟くと、眼が、光を帯びて、    「おのれ」    頗える手で、刀を探ナらしく手を仲ばした。牧が、仙波の耳ヘ口をつけて、    「仙波、小太郎は、無事に逃れたぞ。見てみい。見事に働いた。仙波っ−−−小太郎は、無事だ  ぞ。逃れたぞ。小太郎は無事に逃げたぞ」    ハ郎太は、もう、耳が聞えぬらしかった。微かに、    「小太郎−−!な、七瀬−—娘、娘は?」  といった。牧はぐったりとしてしまったハ郎太を、静かに草の上へ置いて、  「小太郎は、逃げのびたぞっ」  と、耳許で、絶叫した。ハ郎太の、血まみれの唇に、微笑が上った。牧は、涙を浮べていた。ハ郎太の脚が、手が、だらりとなって、眼を閉しるとともに、牧は、心がして合掌した。  秋の目が、傾きかけた。風が、いくらか、弱くなってきた。山の下の方には、時々、浪人たちの叫び声がしていたが、それも稀になった。  「埓もないーーいったい、なにごとしや」  いつの間にか、登って来た山内が、牧の、坐って、仙波の死体へ黙祷している後姿を見て、呟いた。斎木が、しろっと、山内を睨んだ。 南玉奮戦       一ノー  内玄関から、狭い、薄暗い廊下を、いくつか曲ると、逼かに、明るい、広々とした廊下と、庭とが見えてきた。深雪は、こんなに、御屋敷が広いとは思わなかった。先に立っている案内の老女が、狭い廊下のつきるところー上二階の階段があって、それを登ると、広書院の縁側になるところまで来た。そして、   「しばらく」  と、小蔭次に挨拶して、そのお鈴口につめているお由羅付の侍女へ、何か話をすると、侍女が一人、奥へ立って行った。   「ただいま、御案内致します。しばらく、これにておおえ下されませ」  老女は、こう言って、小藤次に、深雪に、南玉に、そこへ坐って侍っておれ、というように自分から廊下へ坐った。深雪は、老女へ、お辞儀をして、すぐ、つつましく坐った。   「絶景かな、絶景かな」        ’  南玉は、口の中で呟いてから、小蔭次に、   「ね、判を植えると1」   「叱っ」   「小父さま、お坐りなされませぬか」   「板の上は、腰が冷えるで—−」  南玉が、庭へかがれている時、   「岡田様、御案内つかまつります」  と、若い侍女が出て来て、声をかけた。小啓次が頷いた。侍女が、広書院の廊下の方へ行くので、深雪は、   (晴れがましい)と、気怯れしたが、侍女は、その手前の、右手の小さい部屋へ入って、襖を開けて、   「こちらにて、お控え下さいませ」  と、お叩頭した。襖を閉めると、真暗になりそうな、六畳ほどの部屋であった。   「お控え下さいやし、ってのは遊入の仁義だが、御屋敷でも用いるかな。おそろしく、陰気な部屋で、お白話屋敷開かずの部屋って、昔、ここで首吊りが11」   「南玉っ」   「てな、話がありそうな」   「喋ってはいけねえ。困った爺だな。すぐ次が、お部屋だよ」  小蔭次が顔をしかめた時、斜がれの音が近づいて、ちがった方の襖が開いた。一部屋隔てて、女の七、八入坐っているのが見えた。   「にょご、にょご、にょごの、女腹ケ島」  襖を開けた侍女は、開けると一緒に、南玉が、妙なことを言ったので、俯向いて、肩で笑った。そして、赤い顔をして、小さく、   「こちらまで1−−」  小蔭次が、立って、お白話の居間の次の間へ入って、襖際へ坐った。深雪は、小腰をかがめて、敷居際へ、平伏した。南玉も、その損へ、同じように平伏した。侍女が、小蔭次に、   「お近くへ」  と、言うと、小蔭次が、   「では、御免を蒙って1」 兄妹であったが、主と家来とでもあった。小蔭次は、お由羅の下座一間ほどのところへ坐って、「この間のー,」 「よい娘しゃのう、あれは?」 と、お肉羅は、南玉を見た。  「身許引受の、医者でね」  「お医者?」 お肉羅と、侍女とが、庸玉の方を見ると同時に、庸王は、頭を上げた。そして、  「ええ、おありかたいしあわせでーー」 と平伏した。二、三人の侍女が、くっくっと笑った。  「庸玉」 と、小蔭次が、睨んだ。  「けっこうな御住居で。また、今日は、たいそうもない、よい日和でござりまナる」 庸王は、こう言って、また、頭を上げた。女たちは、口へ袖を当てた。お肉羅も、笑っていた。 一ノー一  「南玉−I退ってよい。誰方か、玄関まで案内してやってくれぬか」  小藤次が、こういった時、南玉は、頭を上げて一膝すすめた。そして、扇を斜に膝の上へ立てて、 「さてーつらつらと、思い考えて見まするにー」 侍女たちが、袖を、口へ当てて、苦しそうに、俯向いてしまった。  はるえ  「春枝、案内を」                                           きせる 小藤次が、怒った眼をして、近くの侍女へこういうと、お由羅は、煙管を伸ばして、小蔭次の 言葉を止めた。南玉は平然として、   「これに控えおります聯の肘配、いやはや奇妙不可思議の御縁により、計らずも、今般、岡田小啓次利武殿の御見出しにあずかリ奉リーー」   「南玉‘—いや、良庵さん、もう、よく娘のことは話してあるから—−」   「ところでげす」   「わかってるったらーーー」  深雪が、南玉の袖を引いた。南玉は、小藤沢も、深雪も、気にかけずに、   「この岡田様が、この肘の、お緋影なところにぞっこんぐれ奉って、えへヘーーーまず、こういう工合でござります、下世話に申します、首ったけ」  扇を、顎の下へ当てて、順を伸ばした。小蔭次が、   「南玉っ」  と、叫んだ。侍女の二、三人が、笑い声を立てた。   「それで」  と、お肉羅が笑いながらいった。   「ええ、おありかたいしあわせで」  南玉は、一つ御叩頭をして、扇で膝を、ぽんと叩いた。   「愚按ずるに、諺に曰く、違くて近きは男女の仲、近くて違いは、嫁肩の仲、違くて違いが唐天竺、近うて近いが、目、鼻、ロ」  庸王が真面目な顔をして、大声に、妙なことをいい出したので、部屋の中は、忍び笑いでいっぱいになった。二、三人の侍女は脇腹を押えて苦しかった。   「庸王っ、ここをどこだと思ってやがるんだ。いい気になってI−‐」  と、小蔭次が、赤くなると、お山羅が、   「蔭次っ」  と、叱った。   「だって−−‐」   「いいではないか。綺麗なら、惚れるのがあたりまえでないか」   「いよう、できました。東西東西、ここもと大出来」  庸玉が、扇を拡げて、右手で差し上げた。   「しかしでげす。そこに、道有り、作法有り、不義は御家の訟肺とやら、万一そういうことがしゆったい致しました時にはヽ價ドながらヽぽんぽんながらヽこの良庵が捨ておきませぬ・のんのんずいずい乗り込んで、日ごろ鍛えし匙加減、一服盛るに手間、暇取らぬ和漢蘭方、二二徳具備、高徳無双の拙がついていやナから、そういう過ちのないように、隅から隅まで、ずいとおたのみ 申し上げ奉ります」  南玉は、真面目な顔をして平伏した。   「ようわかった。御苦労であったのう」  お由羅が、こういうと、侍女の一人が、立ち上って南玉の側へ来て、   「御案内つかまつります」   「いや、おおきにーーそれでは、深雪」  二人は、二人だけがわかる眼配せをした。南玉は立ち上った。そして、   「へっ、へっへ。猫、鳶に、河童の屁でげすかな。岡田さん、いろいろと、いや、どうも、御世話に。御礼は、いずれのらほど。では、皆様、さようなら1」  南玉は、左右へ、お叩頭をして行った。小啓次は苦りきっていた。      ニノー  庸王が、お山羅邸からの引出物の風呂敷包を持って、黄昏時の露地を人ると、自分の家の門ロに、一人の男が、阻んでいた。  「誰様でげす?」  「師匠」  男が立ち上がった。  「庄吉か。どうしたい」  「まあ、入ってから話そう」  南玉は、狭い、長屋の横から、勝手ロヘ廻って、丙隣りへ挨拶した。そして、戸を開けて、庄吉を入れて、庭の雨戸を繰り開けていると、   「のう、師匠。深雪さん、御奉公に上ったっていうじゃあねえか」   「うん」   「お前、あの娘を、小径次の叫にするつもりかい?』  南玉は、答えないで、戸を開けてしまった。   「まだ灯を入れるにゃ早いし、こうしておくと、油が二文がたちがうて」  懐中から油紙の煙草入を出して、庄吉の前へ坐った。   「近ごろ、富士春との噂が、ちらちら、ちらついてるぜ。気をつけねえと、弟子がへっちゃあ!—‐こういうとなんだが、お前の手も癒ったというものの、まだ、すっかり元にゃあ、なりきるめえし−困りゃしないか?」   「心得ちゃいるよ」   「気に肌ったら、御免よ。俺、悪気でいうんしゃあねえから」   「師匠の気持は、よくわかるよ。だが、師匠に俺の気持やわからねえらしいの」   「いや深雪さんから、それも、薄々開いてはいる。いろいろと、骨を析ってくれたそうだが−ーそりゃあ、お前の気性でねえと、他人にゃあできねえことだ」   「と、そこまでは、わかっているがーー!それから先きだ」  「ふむ1一番。考えてみよう。11それから先き、先き、先き、先きと」 南玉は、もっともらしく駒組をした。  「いろはにほへとの五つ目か」  「ええ? いろはの五つ目?」 生害は、指を繰って、 「ほ」 「れ」 「討ばねえ色事だよ。師匠、そいつあ十分承知だ。だから、女房にもとうの、妹にしようのー   一7心トいA4J/jt1’y c JFrrーー  ’1札きらー’’               かけひき ーいや、手を握ることさえ、俺あ、諦めてるよ。立派に、ちゃんと、駈引なしに、諦めちゃあいるよ・だがのう、俺の、この気持をわかって欲しいと思うんだ。それも、庵あ、憐んでもらいた `/く『c /1`/rぐi  ィく   —j゛`゛’         けいべつ かねえ。惚れた男を憐れむって裏にゃあ、師匠、軽蔑がいやあがるからのう。俺、男としてさ、軽蔑されたかあねえや。ただ、わかって欲しいのは、男が惚れた時、その女にどんなに男らしいか? 俺あ命を捨ててもいいよーーこの間から、富上唇と、これで度々の喧嘩だ。あいつあ、深雪さんを、小藤次に取り持って、礼をもらった上に、庵の気持をめちゃめちゃにしようとしているが、あいつとしては、無理はねえ、貧乏ぐらしだからのう」   「もっともな、惚けだ」   「本気で聞いてくれ、師匠」   「本気だとも」    「それで、今日、実は深雪さんに逢って、なんか一役命がけのことをいいつけて貰おうと、こ う思って来ると、近所の噂しゃ、小蔭次の野郎が来てさ、てっきり、この間からの奉公話だろう,   せっかくの命がけがぺしゃんこだあ」    「命がけ? 戯談いうねえ。食えんからの屋敷奉公をする女に、命がけの、なんのって」    と、南玉が笑った顔を、庄吉は睨みつけるように眺めた。     ニノニ 「師匠」 「おいおい、睨むなよ。俺あ、臆病だからのう」 「師匠は、俺の商売を知っていなさるのう」 「うむ、巾着切だ」 「三下か、ちょっとした顔かも、知っていなさるのう」 「うむ、橋場の留より上だって、間いているよ」 「しゃあ、師匠、もう一問答だ」 「さあ来い、いざ来い。問答なら、桃牛合席玉、十八番の芸だ」 南玉は、両手の指をひろげて、膝の上へ、掌を立てた。  「上方でのできごとが、俺らの仲間で、幾日かかると耳に入るか、知ってるかい」  「そこまでは調べてはおらんよ。和、漢、蘭の書物にも、巾着切の早耳話ってのは、書いてな いよ。これが本当に、わからん」   「びっくりしなさんな、五日で来るんだよ」   「はいーー一五日でね」   「早い脚の奴は、日に三十五里、なんでもねえ。京を早立ちして、その夜の内に、緋鯉を越える。すると、亀山にゃあ、ちゃんと仲開かいる。急用だっ、それっと、こいつが桑名まで一日。桑名へ来ると、仲開かいる」   「なるほど」   「こうしなけりや、金目のものの処分がつかねえ。すられて、あっという間に、品物は、十里先で取引してらあ」   「ふふん、俺の講釈みたいに、少し与太が入ってるんじゃねえか」   「仙波の大旦那は斬死なすったよ」   「ええ?」   「上方の仲間へたのんでおいたら、さっき知らせて来たんだ。比叡山って山の上へ、牧って悪い奴を追っつめて、伏兵にかかったんだ」   「うむ、伏兵にゃあ、東照宮だって敵わねえからのう」   「小太郎って、俺の手を折った若いのは、谷間へころがって、生死不明だ」  南玉は、返事をしなかった。  「まだあるんだ。大坂の蔵屋敷へ行った奥方と、そら深雪さんの姉さん、なんとかいったー— そら、倣尹、そら、なんとかの手」   「手は赤丹のつかみと来たがー」  と、庸王は、顔をあげて、   「本当だの、その話は」   「侑の嘘をつかんことはーー」   「わかった」   「それから、益満さんが、調所って野郎の後を追って、江戸へ下って来なさるそうだーー」  「今の、七瀬と、綱手は、そして、どうしたんだい」   「それは、蔵屋敷にいるんだ」   「調所は、江戸下りか」   「うむ。それで、益満さんは、この調所を途中で討つつもりらしいんだ」   「そうだろう」  広告は、強く、低く、   「隠さずに、師匠、打ち明けてくれねえか。俺の気性は、町内でお前が一番よく知っていてくれるはずだ。ええI仙波さんも、益満さんも、お由斟の一味を討ちてえんだろう。どうだーーー師匠」  庸玉は、じっと、庄告の顔を見て、黙っていた。   「俺、いわねえったら、首がちぎれても喋らねえよ。お前さん、深雪さんを、一物あって、奉 公させたんだろう。仙波の娘を、お出羅邸へ。あの、小藤次の手に任してI−・え、師匠、だから、俺あ、その深雪さんに、そんなあぶないことをしずに、一手柄立てさせて上げてえんだーーわかるかい、師匠」      ニノ三   「俺あ、ちいっとばかし、水臭いと思うよ。巾着切の仲間にゃあ、こんな獄し立てはねえ。返事がなけりや、ないでも、いいんだ。俺は、こうと思ったことを、やってみるまでだ。お前が、よく寄席でいうのう、虎と見て、石に矢の立つためしありーー人間のー心って通じるもんだよー1また、来らあ、あげよ」  庄告示、立ち上った。   「そうかい」  南玉は、そう口先きで、いっただけであった。   (斬死した? 庄告のいうのは、本当らしい。だが庄告に打ち明けて、いいか、悪いか。益満から固く口止めされているのに1−)と、南玉示乱れかかる心を、しっと、両腕で押えた時、   「こんちわ」  富士春の声であった。   「いらっしゃる?」  庄告は、真暗な上リロで、   「お客か」  と、いった。   「そうだろうと思ったよ】  怒りと、恨みとを含んだ、静かなーだが、気味惑い声であった。   「お師匠さんかい。今、灯をつけるよ。庄さんと、話に夢中になってー」  と、いいながら、南玉は燧石を叩いて付木を燃やした。一家中が、仄に明るくなった。庄吉は、上り口で突っ立っていたーー富上客は、狭い土間から、庄吉を睨みつけていた。そして、行燈の光が家の中へ充ちるとともに、素早く家の中を見廻した。深雪はいなかった。   「さあーーー−庄さん、もう一度、お坐り。師匠、ささずっと、これへ」   「はい」  富土谷は、上ろうともしないで、   「いったい、どうするんだい」  低い声で、庄古に言った。   「うめえ焦が、手つかずであるんだ。斯紗むしよう」  南玉は、戸棚から、大きい皿を出して、畳の上へ置いた。   「返事をしないのかい」  富上客が、下から、また、庄吉を似めた。庄吉は、   「帰って話そう」 と、土間へ降りかけた。 フ』こでいいよ。帰ると、うるさいよ。お上り。南玉さんにも、妾や、間いてもらうよ」「間くぞ、間くぞ。わさびがきくぞ」  所玉は、刺身のわさびを、なめてみた。   「大丈夫にきく。さあ、こっちい来い、食べながらひと威か。へへん、できたては、喧嘩のあとで銀が鳴りって、とかく、痴話喧嘩と申すものは、仲がよいと、始まりやす。仲人を、あの茶瓶がと、寝て話し。桃牛会所玉が一つ、この茶瓶になりやしょう。どうぞこちらへ」   「御邪魔させていただきます」  富士春は、上りながら、突っ立っている庄告の袖を捉まえて、引っ振った。   「なにしや示るんでえ」  庄告示張り切るはずみ、袖口示裂けた。  「おやっ、たいそう、手荒いのね。そうだろうよ。飢かいハの演じやあ、威勢のいいところを見せたくなるもんだからね」  富士春は、これだけ、静かに言うと、  「口借しいっ」  と、叫んで、庄告の左手へ、啜りついた。   「手荒いことをしちゃいけねえ」と、南王が、立ち上った。 -一一      ニノ四   「緋え、畜生っ」  広告は、手を振り切って、女の肩を馳った。   「殴ったな、おのれーー‐ようも、人を、足にかけたな」  南玉は、行燈の灯を吹き消した。そして、大声に、   「ぽんと殴りゃ、にゃんと泣く」  と、部屋いっぱいの声で叫んで、二人に近づいて、   「人気に障る、師匠、長屋の餓鬼どもに見つかったらうるさい」  と、小声で言った。そして、庄告の袖を引っ張って耳許で、   「あっちへ」  庄告も、富士春も、真暗な中での喧嘩は張合いがなかった。   「とんだ迷惑で」  庄告は、こう南玉に言って、奥の方へ足さぐりに行った。  南玉は戸ロヘ出て、   「ええ、おやかましゅう、ただいまのは、南玉の講釈の稽古」  近所へそんな声をかけておいて、戸を閉めてしまった。富士春は、上り口の間へ立ったまま新げた壁へ顔を当てて、泣いていた。   「深雪は、師匠、とっくに、御奉公に上っちまったんだよ。見当ちがいの焼餅だわな。庄吉は、少し人並とちがってるんだからII堪忍しておやりよ。さ泣かずに、こっちいおいでよーーーよう、師匠」  南玉は、立って来て、白粉と髪油の匂いを嗅ぎながら、富士谷の肩へ手をかけて、そして、   「庄公、その辺に、石があるがー—」   「俺、燧石はまだ打てねえよ」   「これは、御無礼、これはしくしり‘−−」  富土谷が、帯の開から、燧石を出して、   「ここに」  と、手探りに南玉へ渡した。南玉が石を打つと、庄吉は、座敷の真中に突っ立っていた。南玉は石を打っていた。富士谷の顔の白粉は汚れていた。南玉は石を打って、火を出しながら、   「一つとや、人の知らない苦労して」  と、節をつけて、一足一足、石を打ちながら、行燈のところへ行って、   「なあ、それぞれ、人にゃ苦労ってものがあるものだ。俺も、今日は、お由羅邸で、一苦労して来たところだ。自分だけ苦労していると思っちゃいけねえ」  と、言いつつ、行燈に灯を入れて、小声で庄吉に、   「こっちい呼んでおやりよ」   「うむ」   「やさしく一言かけてやりゃ、女なんて化物はーーI」   「どうせ、化物でござんナよ」   「ほい聞こえたか?−−庄吉、そんな堪忍ぐらいできんで、大仕事の手伝いができるかい」  「そうか。わかった」  庄古は、元気よく、   「お客、こっちい入らしてもらえ」  南玉が、また立って行って、   フ』こで、もう一卸ね、拗ねるって手もあるが、そいつあ、差しの場合での。他人がいちゃ、素直にここへ来て、仲よく食べて、戻って、寝て、それから、ちくりちくりと妬くのが奥の手だて。さあ、こっちい来たり」  富士客は、手を取られて、奥の間へ入って来た。   「やれ−—化物を二疋退治した。さあ、生のいい刺身だ。庄公は不自由だろうから、客さん食べさしてやんな。さあ庄公、あIんと、ロを開きな。何も、恥かしがることはねえ。こういうふうにー」  南玉は、大きな口を開けて、刺身を自分のロヘ投げ込んだ。   「おお、うめえうめえ、顛ぺたか、落ちらあ」 忍泣き       一ノー  取り締りの老女中が、奥向きの部屋部屋−内玄関、勝手、朧戸、茶の間、寝室、御居間、書院、湯殿、厠というようなところを、案内してくれた。上の厠だけでも三か所、下の厠だけでも五か所あった。  それから、屋敷の中の心得を、口早に喋って聞かせた。古参の者には言葉を返してはならぬし、命令ににくこともならぬとか、夜中の厠行きは敵対までとか、湯は新参者が一番に人って、古参者の肩を流して、自分は御仕舞いに出るのだとか、化粧部屋は一番御仕舞いに人って、皆の掃除をして来るとかーー細かいことが無数にあった。  それから、作法を見ると言って、四、五人の老女が坐って、茶を遅ばせた。そして、茶碗の捧げようが商いとか、低いとか、ぎり足で歩いても、そんなに畳の音をさせてはいけないとか、眼のつけどころがーー唇の結びようがー−深雪は、自分の学んだ礼法は、武家作法だしーーー少しも、間違っていないと、思っていたが、老女たちは、そういうことを問題にしていなかった。  彼女たちは、古参ということを誇り、自分の下らぬ知識を見せびらかし、それから、自分たちの独り身で老い朽ちて行く憤りを、美しく若い女に向けて、それをいじめることを楽しみとして いた。  素直な、世間知らずの深雪に、そんな気持はわかるはずがなかった。眼七分目に捧げたら、低ナぎると叱られ、八分目にすると、高ナぎると罵られ、その夜の湯殿で、肩の流しようが悪いと、湯を、肩からぶっかけられた時、明日にも暇をとって戻ろうかとさえ思った。そして、冷たい、固い、おいあるが欧をきて、じめじめした部屋で、泣きあかした。  鶏が鳴いて、夜が明けきらぬころから、耳を立て、拍子木の廻るのを間いていた。そして、侍女を起こす木が響くとともに起き出た。老女は、雑用婦のする務めである廊下の雑巾がけを深雪に命じ、それが済むと、謁の掃除までさせた。  だが、そうして、いしめられている深雪の痛々しさ、雑用婦の仕事までさせる老女中の横暴を見ると、若い女の中には、深雪へ同情する者ができてきた。深雪が、部屋の隅で、小さくなっていると、側へ来て、小声で、   「しばらく辛抱なさいませ」  と、慰めてくれた。それは、当のない、彫肘とした、頼りない言葉であったが、深雪にとっては、この上ない力になった。  食事時には、一番あとから食べかけて、一番早く終らなければならなかったし、午後の暇な時には、古参が、笑い話をしていても、その人々の着物をつくろったり、鏡を拭いたりしなければならなかった。深雪は、   (いつになったら、お出羅へ近づいたり、秘密のところへ近寄ったりできるかしら)と、思っ た。だが、そう思いながら鏡台を掃除していると、   「今夜からまた、奥の胆祈祷が飴まります」  と、いっている声が聞こえた。   (祈祷−ー’調伏)  深雪の身体中が熱く燃えた。   「今夜から」  深雪は、案内された時に見たお由羅の居間を考えた。   (あの中でI−)  吟く手を止めて、祈祷の揚へ、忍び込んで行く自分を想像した。  「何をぼんやりと、この新参っ子は,−」  と、背後で、老女中の声がした。  「はいっ、御用はー−—」  と深雪は膝を向けて、手をついた。       }ノニ 伺影を終って、お膳を勝手許へ出していると、一人の雑用婦が 「ちょっと、こちらへ」 と、納戸の方へ導いた。深雪が、おずおずとついて行くと、   「お越しなされました」  と、襖を開けて、深雪を押し込むようにした。深雪が一足入ると、ナぐ小海次の顔が、近々と笑っていて、手を握られた。深雪は、左手で、襖をもって、力任せに後方へ引こうとしたが、小啓次の力に負けた。   「閉めてー−早く」  小藩次は、立ったままで笑っている雑用婦を、叱りつけた。   「約束ではないか、深雪」   「ぃぃぇ、ぃぃぇーー」  深雪は、右手を握られて、左府を抱きすくめられて、小啓次の胸のところで、髪を乱すまい、顔を、肌に触れまいと、身体を反らしていた。  小藩次は、今朝結ぃたての御守殿幄の舞台香の匂い、京白粉の媚めぃて匂う襟順、薄紅に染まった取七に、血を熱くしながら、深雪を抱きしめようとした。   「なりません」  深雪は、唇を曲げて、眉をひそめて、小啓次の胸を左手で押した。  「声を立てると、見つかるぜ。見つかったら最後、不義は御家の法反ってやつだ。庵は、助かるが、お前は、軽くて遠島、重いと、切腹って〃Iこぃつは痛いぜ、腹を切るんだからなあ」  耳許で、笑いながら、こう言いつつ、胸を押しつけて来た。深雪は、腰を引いて、  「御無体なっ」  小太郎から教えられた護身術、柔道の一手で、草隠れの当て身II軽く、掌でどんと詰腹を突くと同時に、右手を力任せに上に引いて、小啓次の手を振り切った。   「て、てっーIおっ痛、た」  顔中をゆがめて、両手で腹を押えた小藩次の前を飛び退いて、深雪は壁を背に、管を抜いて身構えた。   「ひ、ひでえことを、しやがったな。ああ、痛え」  小啓次は、真赤な顔をして、怒りの眼で、深雪を睨んだ。そして、痛そうに、脇腹を押えて、身体をかがめていたが、だんだん俯向いて、苦しそうに丸くしゃがんでしまった。深雪は、   (少し、f釘すぎたかしら1本気に、腹を立てたなら、今夜の祈祷場を樹くことも、水の泡になるかもしれぬ。どうしたなら?)と、田心った。それで、やさしく、   「こんなところで、欺し討のように‘11そんな卑怯なことをなさらずとも、もっと機がござりましょう。約束約束と11‐私よりも、小暗次様が、約束をお守りなされずに−1」  と、眼で睨みながら、言葉は柔かにいった。   「庵は、俺は、たたたた、物を言っても痛いや、なにも、ただただだ」   「今夜、遅くに、お居間の廊下へ忍んでござりませ」  小啓次は、くちゃくちゃの顔に、微笑んで、   「本当かい」   「ええ」    深雪は、こう言うとともに、眩示したような気持になった。自分の言葉で自分を泥の中へ踏み 課ったように感じた・涙が出てきた・自分の身体もヽ心もなくなってヽただ悲しさだけのような  気がした。    (操を捨てなくてはならぬかもしれぬ。その代り調伏の証拠を握ってー)    「こ、今夜、子の刻前に—‘‐」    小藩次は、よろめいて立ち上りながら、    「広縁で」    深雪は、頷いた。    「ただだ、緋えよ。深雪、えらいことを知ってるのう。ああ痛え」    小藤次は、少し笑った顔を見せたが、まだ脇腹を押えていた。        ニノー    「忍ぶ恋路の、か1−—さて、炉がなさよ、とくらあ」    小啓次は、口の中で、唄いながら、植込みの中から、広縁の方へ、足音を忍ばせて、入り込ん  で来た。     真っ暗、く、りく<.D     くろ装束で、     忍び込んだる、恋の闇 と、手を伸ばして、広縁の板へ触れたとき、背後から   「何用でござる」  小啓次は、冷たいもので、身体中を七彩でされたように感じた。耐へ、手をかけたが、膝も、掌もふるえていた。   「誰だ」  振り向いて、身構えると、   「御祈祷場、警固の者でござる」  誰ともわからぬ、黒い影は、そう、役目にいったまま、小啓次の前に突っ立っていた。小啓次は、安心すると同時に、   (初めっから、俺を見張っていやがったな)と、思うと、柴折戸のところから、四辺をうかがって、おどおどとした姿で、忍び込んだ自分の滑稽さを想い浮べて、股が立ってきた。   「そうかい、えらい、銀しいんだね」  冷笑したように、こういうと、   「なに?」   「えらい、厳しいってんだよ」   「出ろっ。ここを、なんと心得ておる。お部屋様近親の者と思えばこそ、斜め立ても致さずにおれば、えらい、倣しいとは、なにごとでござる。それが、御部屋様の兄上の言葉か?」  低いが、鋭く、叱りつけた。     (誰奴だろうO-. えらそうにー)と、田心ったが、(上女中の、うるさいのにでも言いつけた o らI)とーだがそう叱られて、黙って引っ込むのもヽ器量の悪い話であった‘−−−     (もう、すぐに、深雪が、出て来るのに)と、思うと、それも心配になってきた。     「それや、存じてはいるがー‘−」     「存じていて、なぜ、察を犯された」     「察?」     「察を御存じないのか」     「察って、なにごとでござる」     「奥へ、男子入るべからずの察しや」     「ああ、その禁か」     「出られい」    と、いうと同時に肩を掴んで、柴折戸の方へ捻し向けられた。     (なんて力だろう)    小蔭次は、その力に、気圧されて、一足歩いた。     「二度と、踏み入ると、許しませぬぞ」    小海次はゆっくり、歩きながら、     (深雪は、どうしたかしらーどうナるだろう。うっかりこんな時に、出て来てが糾められた  らーI深雪の、が拡められるのはいいが、もし、俺と、彭叫するために、などと白状でもしやが ったなら、お肉辞め、なんといって怒るかもしれぬし—身の破滅って、奴だな)  小藤次は、  「忍ぶ恋路の、さて果敢なさよ、か。果敢なさ十ぎらあ、畜生っ」  寂寞な闇の中に、微かに祈祷場からの鈴の音が、洩れて来た。風が梢を渡って、葉ずれの音が した。   「は、はっくしょっ」  小藤次が、くしゃみをすると同時に、   「静かにせんか」  と、さっきの侍の声が、後方でした。   「へいへい、出物、はれ物ってことがあらあ。すみません、ってんだ。あっ、はっくしょいっ」 と、いった時、這かに、広縁で、とんとん板を叩く、微かな音がした。      ニノニ  小蔭次は、佇んで振り向いた。深雪の合図であった。   (ダダいところへ出て来やがってー)と、ちょっと股が立ったが、すぐ(見つかったら、大変だ)と、思った。そして、自分の後方を銀けて来ている侍が、どうするか?   (もし、誰かが深雪を見つけて、馳せつけるようなら、もう一度、忍んで行って、なんとか、助けてやらずばなるまいがー1)    小海次は、闇で見えぬ広縁の方へ、深雪の姿を、どうかして、探し出そうとするように、眉を ひそめてヽ首を伸ばして見た・そしてヽ    「忍ぶ恋路の’−’」    と、小声で唄うと、    「なぜ、行かぬ」    すぐ、側に、黒い影が立っていた。     (執拗い野郎だな、こん畜生め)    小海次は、腹が立った。    「御苦労様」    言い終らぬうちに、肩を、どんと突かれてよろめいた。    「なに、なにするんでえ」    とんとんと、深雪が、廊下の板を叩いた音が、また聞こえた。    「奥の風儀を乱してー貴様は、誰の兄に当る? 取り締まるべき上の者が、なんの体じや」   「靖曳じやあねえや」    「では、何用しや」    「間いてみな」    「何? 誰に」    「聞いてみたかや、あの声を  のぞいてみたかや、編笠をー」  と、言った瑞岸、くるりと、小啓次の身体が廻転すると、後方から帯を掴まれた。そして、一押し、押されると、前へのめるように、足がもつれて、動き出した。   「ちょっ、一人で歩くよ。放してくれ、危ないったらI−」  と、言った時、   「深雪」  と、いう声がした。老女、梅野の声であった。   (いけねえ、とんでもねえ奴に、見つかっちまった)  小啓次は、深雪の処置を心配するよりも、一度の睦言も交えずに、別れなくてはならなくなった自分の恋に、悲しい失望と、怒りとが起こって来た。   「ちょっと、放してくれ」  侍は、黙って、ぐんぐん小藤次を押し立てた。小藤沢はつるし亀のように、手を振って、小走りに走らされながら、   「ちょっと1頼むーー・後生だからー」  小啓次は、突き当りそうに近づく立木に、首をすくめたり、韻へ当りそうになる木の技を、手で押しのけたり、庭の下草を踏んづけたり、石と石との間へ、尉パたりしながら、強い力に押されて、人形のように、もがきながら、半分、走らされていた。   「危ないったらっ」    小啓次は、木の枝へ影を引っかけて、怒り声を出した。侍は、片手で、枝を折った。小枝が小 啓次の響へぶら下った。小藤沢は、それを取ろうと、両手を頭へやりながら、    「ねえ、後生だからーー」    と、いった時、柴折戸の辺へ来たらしく、ほのかに、明りが射してきた。    (お礼だろう)と、振り向くと、それは、牧仲太郎警固のために、国許からついて来た侍の中  の一人、山内という剣道の名手であった。  (強いけずだ)と、田こった。そして(本の枝を、頭へぶら下げちゃあ歩けねえや。こん畜生め)力を入れて引くと、髪の根が痛かった。山内は、木戸から小啓次を突き出して、,  「二度と入ると、棄でおかんで」 と、睨みつけた。     ニノ三 「深雪かえ」 深雪は、闇の中で、絶壁から、尉胆して行くように感じた。  「何をしておじゃるえ」 蛇が、身体中を、締めつけて来るような声に感じた。  「はい」 深雪は、廊下へ、手をついてしまった。 4〔刃   「ついて来や」   「はい」  梅野は、板戸の中へ人ってしまった。深雪は(どう言って、言いぬけたらいいのか?−ー’言いぬけられるか?—もし、言い抜けられなかったら、どうなるのか?!¶—お出羅の調伏を見届けもせずに、小蔭次聡俯と、不義の汚名をきて、罪にされたら—)と、思うと、   (小藩次のような人間でも、人を欺した罰かしら)と、思えた。 六畳の部屋は、行燈に、ほのめかされていた。  (今時分まで、どうして、この老女だけが起きているのか? 祈祷の係ともちがうのに)裾野は、上座へ坐って、静かに、   「何しに、今時、庭へおしゃった?」  深雪が、顔を上げると、拝領物を飾る棚、重豪公の手らしい、横文字を言いた色紙、箪笥、琴などが、綺麗に陳んでいた。そして、その前で、梅野は、紙張りの手焙リヘ、していた。   「はい、不調法つかまつりました。以後心得ますから、お見のがし下さりませ」  深雪は、手をついた。 「さあ、訳を話せば、その訳によって、見逃さんでない1−−訳は?」深雪は、どういっていいか、わからなかった。  [返事は?」 金紋の手手をかざ   「はい」   「涼みに出る時節でもないし、謁を取りちがえるそなたでもないし、まさか、男と忍び合うようなだいそれた小娘でもあるまいし、のう−‐深雪」  深雪は、真赤になって俯向いた。   (赤くなっては悟られる)と、思ったが、少しも、心に咎めない、小啓次との間のことであるのに、顔が赤くなってしまった。   「とんとんと、叩いていたのは?」  深雪は、身動さもできなかった。   「合図かえ」  深雪は首を振った。  「合図でなければ、なんじや」  「はい」  「慣れぬことゆえ、初めのうちは、誰しもいろいろと失策はある。万事、それは、訟ル胸一存に納めておくからl正直なところを申してみや。偽りを申して、後に露見するよりもー申せぬか?−I飽くまで、白状せぬとあれば、責め県猷しても、ロを割らすぞえ」  「はい」  深雪は、いつの問にか蒼即になって、涙ぐんでいた。  「申しがたかろうのーI−それでは、妾から、どうして縁側へ出たか、申して見ようか。これ、 面を挙げてーー」  梅野は、恐怖におののいている深雪の眼を気味悪い微笑で眺めて、   「小藤次と、忍び合ったのであろう」  深雪は、首垂れた。   「どうじや。ちがいあるまいがな」   「いいえ」  細い声であった。     ニノ四  「そうあろうなー—そうあるうとも」 梅汗ば、こう言って煙管をとった。  「ここへおじや」  「はい」  「ここへ、おしやと、申しますに」 深雪は、悄然と立ち上って、梅野の近くへ坐った。  「ちょっと、手を貸してみや」  「はい」 深雪は、右手を仲ばした。   「ふっくらと、可愛らしい指しやのう」  裾野は、左手で、手首を握って、右手で、指を広げて、人差指と、中指との間へ、煙管を樹んだ。  「この手で、男の首を抱いたのかえ」  裾野は、右手で、深雪の指の先を、しりっと握りしめた。  「あいつつ」  深雪が、その痛さに、思わず引こうとする手を、左で引きとめて、  フ』の指で、男のー」  裾野は、みだらなことをいって、力任せに、指をしめつけた。深雪は、左手を、裾野の手へかけながら、  「御免下さりませ」  と、痛さに、身体をまげた。  「よいことをした後はー」  深雪は、唇をかんで、身体をねし曲げて、苦痛をこらえていた。  「いつから、一緒になったえ」  こういうと、裾野は、少し力をゆるめた。  「いいえ、そんな1」  深雪が、微かにいうと、  「強い娘しゃのう」  裾野が、もう一度、掌へ力を入れたとき、廊下に衣ずれの音がしてきた。裾野は、煙管をとって、   「勤いてはならぬぞえ」  と、いって立ち上った時、   「まだ、Eせらぬのかえ」  足音と、衣ずれとが、部屋の前で、止まった。   「はい、お勤めの終りますまで」  と、裾野は、口早に答えて、あわてて、障子へ手をかけた。と同時に、外からも、一人の侍女が、開けようとした。そして、障子が、さっと開くと、お由羅が、白綸子の着物を着て、立っていた。裾野は、廊下へ出て、手早く障子を閉めようとすると、   「誰しや」  お由羅は、深雪へ眼をやって、裾野に聞いた。   「新参者の深雪でございます」   「深雪」   「はい」  深雪は、お由羅に、泣き顔を見せまいと、俯向いたままでお由羅の方へ、向き直って手をついた。   「早う、部屋へ引き取って、休みや」    深雪は、やさしい、お由羅の言葉を聞くとともに、胸の中の厚いものが砕けて、その下から涙 が湧き上ってきた・黙って首垂れてしまった・    「許してやんなされ」    お由羅は、梅野にこういった。    「それがー」    「新参者に、不調法は、ままあることしや」    お由羅は、こう言いすてて歩み出しながら、    「深雪、よく、上の人の申しつけを聞いて、叱られぬようにな」    深雪は、袖へ顔を当てて、お由羅を刺そうとして入り込んだ気持などを、少しも感ぜずに、そ  のやさしさに、泣いていた。梅野が、    「今夜は赦しますが、余のことではないから、よく憶えていや」    と、言った。      ニノ五  深雪が、部屋へ戻って来ると、灯は消していたが、まだ、眠らない、大勢の印紹たちは、低い声で、いつものように、小姓の噂をしたり、役者買いの話をしたりして、忍び笑いをしていた。  「本当に、よく似ていますぞえ」  「誰に?」 - 心Sj←=・   「成駒屋に−」   「おお、嬉しい‘ーーあっ、痛いーーー同じ、ぬるなら訟訟の形に、狐って下さんせいな、あれっ−1」  深雪は、手さぐりに自分の床へ人ろうとした。   「誰?−−今夜は、このまま、眠れぬぞえ。どうでも、肌彫さん」   一人の肥った侍女は、すぐ隣りのおとなしい梅園の手を引っ張った。一人作、   「それよりも、あの新参者は?」   「そうそう、あの器量好しを、いしめましょうわいな」          ,  深雪は、そういう会話に、耳を伊卯けて、明日の自分、あの老女海野の言葉、お由頴のやさしさ、それを刺せという命令、父、兄、母Iそうしたことを、毀れた鏡に写してみているように、とぎれとぎれに、ちらちらと考えていた。そのうちに自分の名作出たので、それに、注意すると、   「深雪さん」  と、間近くで、暗い中で、誰かが呼んでいた。そして、他の人々は、深雪が、真赤になって、憤りたくなるような、自分に関して訟らな話をして、きゃっきゃっ笑っていた。  昼間の、つつましく、美しい女姿が、こうした闇に見えなくなると、その女たちの包んでいた、押えていた醜悪なものだけが、露骨すぎて、現れてきた。深雪は、寝間着の裾を結んで、蒲団を押えて、もし、手でも出したなら、容赦すまいと、呼吸をこらしていた。  想像していた、礼儀の正しい、奥生活の昼は、想像以上にー−苛酷なくらいに、厳粛であった   が、侍女部屋の夜はまた、深雪の想像以上に乱れていた−−‐と、いうよりも、深雪には考えられ4 ない愛欲の世界であった。     「深雪さん」    と、近々と、声がした時、廊下の外で、     「まだやすまぬか」    老女の声であった。女たちは、いっせいに、ちぢんで、押し黙った。    「夜中に大声を立てて。お上は、お眠りじゃぞえ。騒々しい」    うち、二人の女が、深雪の近くで、     「悪魔退散、婆退散」    と、囁いて、近くのニ、三人を笑わせた。しばらくすると、ことこと、草履の音が去って、夜  番が、庭を廻って来た。     「明日の勤めが辛い。皆さん、お先きに」    と、誰か昂いった。そして、そのまま静かになった。しばらくすると、歯ぎしり昂聞こえたり、   小さな軒昂聞こえたりしかけた。    深雪は、眠れなかった。なんだか、胸苦しく、頭の心昂少し痛むようで、額を押えると黙示あ  った。そして、隣りの女の寝返りや、夜鳴き鶏の声昂、はっきり聞えているかと思うと、何かに、   はっとして眼を開けた。     (今、少し眠ったのかしら)と、思った。そして、また歯ぎしりをしばらく聞いていた昂、ま た、うとうととした。指の痛みだけが、いつまでも、眠りの中に残っていた。      ニノ六  深雪は、灰色の中に、ただ一人で立っていた。  ふっと、気がつくと、その前の方に、一人の老武士が歩いていた。   (お父さまだ)と、田心った。そして呼ぼうとしたが、どうしても声が出なかった。八郎太は 幻のように、影のようにそれから、すぐ遠ざかってしまいそうに歩いているので、深雪は悲しくなってぼけ出そうとした。だが、どうしてか、駈けても、駈けても、父との距離が同じでー そうしている内にも、父が灰色の中へ消えてしまいそうな気がするので、   (飛びかかったら)と決心すると−出し抜けに、父の顔が前に、大きく、斜い顔をしていた。   「まあ、お父さま」  と言うと、それは江戸の邸の中であった。深雪は、   (お母様も、きっといらっしやる。嬉しい)と思って襖の方を見るとーー急に、胸が苦しくなったので、父の顔へ救いを求めるように振り向くと、ハ郎太の眉の上に、血が滴っていて、深雪の心臓も身体も、頭も、凍えさした。   「誰か、来て下さい。お父様が御怪我なさいました」  と、叫んだが、誰も出て来なかった。深雪は、腹を立てて、だが自分の袖をちぎって、聯へ手当しようとしたが、いつの間にか、袖がなくなってしまって、寝間着一枚であった。    (そうだ。ここは御殿の侍女部屋尽—だってそんなところに、お父様がいなさることはな ごとヽ思うとヽ 一面の草原になってヽ父・H'頭から肩から∴E猷れになっていた・深賞味父  に彩りついて、斬られるものなら一緒に、殺されるなら一緒に、と、手を突き出して、父へ聯ろ  うとしたが、足が、どうしても勤かなかった。    全身が、糾られているように、締めつけられているようにー悲しみに、心が裂けそうになっ  たので、兄を呼ばうとしたが、すぐ近くに小太郎が、いそうな気がするのに、声も出ないし、小  太郎も現れなかった。     (お父様が、斬られていなさる)と、狂う頭の中で絶叫した。ハ郎太はふらふらと、虻獣れの  まま、灰色の中に、漂っていた。深雪は、その父の手にでも、着物にでも、鎚りたいような気が  全身に充ちてくると同時に、    「お父様っ」    と、叫んだ。    はっとして気がつくと、かたい蒲団の手ざわり、用心のために結んだ桐隣りの朋輩の寝息−   (夢だった)と、思ったが、何かしら、不慮のことが、父に起こっているようで、すっかり、   眼が冴えてしまった。真暗な部屋の中で、時刻も何もわからなかった。ただ夢に見た、父の眼の  怨めしい表情だけが、眼の底にダきついていて、     (もしかしたらーーー)と、深雪の胸を、冷たいもので、締めつけた。   (夢は、恋聯というからー)と、思ったが、本当に、父が斬られて死んでいるようにも、感しられた。   (そんなことのありませんように)  深雪は、蒲団の中で、一心に念じた。合掌している右手の指が痛かった。   (お由羅様は、やさしい人だのに−—‐あのやさしい人を制すfl−妾には、できないーーでも、しなければ、お父さまに申訳がないし、いったい、どうしたなら’−I)  深雪は、もう一度合掌した。 二人の主      一ノー 斉指の坐っている膝の前にも、その饌にも、いろいろの型の、 は、分厚な反古紙綴りの、美濃判型の帳へ、何か言いていたが、  「お揃いだの」 洋式錆び、転がっていた。斉彬それを書き続けてから、  と、いって、三人へ、振り向いて、微笑した。名越は、村野、成瀬とともに、声が懸らぬので、平伏していたが、その声に、頭を上げた。  「お手を止めまして、申訳ござりませぬ。止むなき儀につきまして、言上致したく、幸い、国 二八 この両名、有志一同に代って見えましたにより、参上致しましたるところ、射貳儲せつ かたじけなく存じ奉ります」  と、名越が、型の挨拶をしている間、朱筆で、何かを、帳へ書き入れていたが、名越が、いい終ると、   「上方の模様は、どうだの」  と、三人の方へ、膝を向けて筆を置いて笑った。   「はっ、調所殿を、初めましてー」   「いいや、そのことではない。鋤師では、勤王、倒幕の説か、盛んだと、申ナではないか」   「よりより聞いておりますがー−」   「なんと思うな?」   「浪人どもの、不逞の業と、心得まする」   「そうかのう」  名越が「寛之肋様、御逝去の碩I−−」  と、いい出すと同時に、斉彬は膝の前の銃を取り上げて、   「これが村野、エンピールしや」   「はっ、エンピール銃」   フヮんー今までのエンピールは、先龍めであったが、今度のは、改良して、元能めになった。弾も、前には、円弾だったが、おり弾になった。こうして獄いてみい」  斉彬は、自分に近い銃をとって、銃口を眼に当てた。   「筒の中に、きりきり巻いた清かあろうがな。それも改良されてからついたが、訳した・つまりぺ炉がペポs\出さないようにヽかつまたヽ狙しの狂わんようとヽ わしは腔線と そういう条を つけたものしや。よく考えてあるな。これがスナイドルーーー」  斉彬は、成瀬の方へ、スナイドル銃を、訟げるように、押し転がした。   「これが、ス。ヘンセスーーこの紙に書いてある」  筒先に、紙切が結びつけてあって、ローマ字で、ツンナールとか、シャスボーとか、ゲーブルとか、いろいろな銃の名が書いてあった。   「のう、左源太、寛之助まで、四人もつづいて死ぬと、どうも、なんとなく、重苦しい気がして、あまり嬉しくないものだのう」  斉彬は、一桁の銃の台尻を肩へ当てて、窓外の樹を狙いながら、独り言のようにいった。   「その儀につきまして’—」  名越が、銃を置いて、斉彬を見ると、斉彬は、   「関ケ原で、島津の後節は見事であったと申ナが、あの時にも銃砲がたりなかった。この間、それを調べたが、当方の異国方軍制−‐武田流の軍法にーーよると、文禄までは千人として士分の騎馬五十人、徒歩五十人、弓足軽三十人、槍足軽三百人、銃砲足軽七十人、残りが小者、輸卒だが、主力は槍であった」  名越は、困った。また博学な講釈が始まった、と思った。だが、  「さようでござりましょうか」  と、答えるほかになかった。成瀬と、村野の二人は、銃を膝の上へのせて、斉彬をじっと砂ヤめていた。       一ノニ  斉彬は、机の上の帳を、時々見ながら、   「それが朝鮮で、戦って戻ると、銃の効能がわかったのだのう。旗十八本、五十四人。槍、弓、鉄砲、各百五十人。合わせて前奇隊五百四人に組更えておる。閲ケ原の時、伊達家は三千人の同勢中、千二百人まで鉄砲を持たしていたし、それが大坂の陣になると、仙台名代の騎銃隊が現れてきた。これが、イギリスのホブソンの、騎兵要妙という本じゃが、これからの戦には、銃の精鋭なものと、馬のいいのとが無くてはならぬ。壱岐が来よったおり、軽輩が馬の上で、拙者らが徒歩でヽもし出逢゜た時にはヽ八八下馬して通りますかヽそれとも乗り打ちしますかヽたださえヽ上を軽んじる風が現れたおり、考えものだ、と申しおったが、どうじゃ。あはははは」   「しかし、その大勢が、一時に、馬上で銃を放ちましたなら馬が驚きましょう。敵を崩ナ前に、かえって味方がーーー」   「よしよし、わかった」  斉彬は、笑って、手で押えた。   「何か、子供につける、よい名はないか。また、脱んだらしいぞ。死ぬと、ナぐ代りができる で、案しることはない。あはははは」   「しかしながらー−」   「今度は、双生児に致そうかの」  三人とも、斉彬の前では、手も足も出なかった。何をいっても、斉彬の方が、訳かに上であった。それは、主君としてでなく、人間として段がちがっていた。そして、斉彬は、なかなか、何用か、と目分からいい出さないで、ちゃんと、その用を自分が先廻りに言って、それからいろいろの知識、故事を語って、ようよう伺儒者が、彼らの語ろうとして来た用件をいうと、斉彬は一言で、その諾否を決した。そして、それで、用が終ると、きっと斉彬は、机に向った。人々は、退出のほかになかった。それを心得ていたから、名越は、附がをのみながら、   「寛之前轍、御死去につきまして、いろいろ、取沙汰もあり、家中の処置方にも、佐貯の傾きあり、国許より、この人々——」  名越は、大奉書に書き並べてある人々の署名を、つつましく、斉彬の方へ、押し出した。斉彬は、手にとらないでじっと眺めて、頷いた。   「江戸におきまして、否々同志」  名越は、斉彬の眼に従って、連名を見ながら、   「合せて、五十余人——このほか、御目見得以下の軽輩に、頼もしきもの幾十人もおりまする」  「志はようわかるー村野、成瀬1もっと、前へ出るがよい。しかし、今の時世が、家中に、党を立てて、私事、私怨を争−−‐」 --   「おそれながら、私事では−」   「斉彬も、寛之助も、当家にとっては私事にすぎぬ。島津はおろか、徳川も、あるいは目本の国も、示猷机どの糾に立っているのが、ただいまの時世だ。久光に命じて、古野ケ原において、青銅製叫沢五十斤の肌影聡を発射させたのは、まだ二、三年前で、当時、天下は、この新武器に黙示いたものじや・ところが、舶来船の砲を見ると、銅鉄製百二十斤、光沢の連発砲さえできて おる。よいか、この軍事のみでさえ、この除たりがある。聯緋、医薬、財政、ばざるを得ない外国が、ひしひしと日本を取り巻いて、戦ってか、外交でか、 哲理、一として学 交易をしようとし ている。歌沢の暗旅獄何の結末を聞いておろう。戦えば、あれじゃ。戦わねば!−−ニ、三要語音と、わしとのほか、ことごとく攘夷−−家老らも攘夷、日本のために、島津家のために、わしは、この声だけと戦っておる。このほかに争うものは、何もないはずじゃ。もし、お前たちも攘夷党なら、さっそく退るがよい。わしは今、日本を、斑貳に負うたつもりでいる。私情を顧みる暇がない」  斉彬の和かな眼に引きかえ、舌端には灼けつくような熟があった。       一ノ三   「久光にも、お前たち、何か不満があるらしいが、それもいかん。あれには、立派に、一国の主たるべき器量がある。わしの亡くなった後、誰が継ぐかと申せば、久光のほかにない−—」   「いえ、若君がー」   「それはよいとして、その若の後見は説示する?」   「はて   「まさか、ただ今申した家老のおろかしいのにも任せておけまい。したなら、久光のほかにあるまい。今、私の考えていることを実行さして、天下を安きにおくのには、名越、わしと、久光と二代示かりの仕事じゃ。そして、わしと、久光とよりほか、余人にできぬことじゃ。そして、わしと、久光とだけが、それを知っている」  斉彬は、ここまでいって、急に、言葉の調子を変えた。   「ところかのー11打ち明け話をすると、わしは、まだ部屋住み同様の上に、父上の受けも、調所の受けも、家老どもの受けもよろしゅうない。受けの悪いくらいは、まあよいとしても、金が出ん。これは困る。ところが久光が、一々わしの意を継いでくれて、わしがこうしたいというと、よろしいと引き受けては、金を引き出してくれる。わしは、このくらいいい兄弟はないと思うている。磯ケ浜の鋳物製所も、久光が調所にねだってくれたので、できたのだしのうーI」  斉彬は、笑いながら、   「船を作ろうとして、シリンドルと、シャフトを鋳造したいと申したら、久光が、由羅の臍繰から、捲き上げて来てくれた。大名の子供は、どこでも仲のよくないものしゃが、わしら二人は、軽輩の家でも見られぬ訟ましさしそと、いつも二人で話しとるがーー名越、よう考えてみい、わしと、久光と仲がよいから、まだわしの命も、仕事も、大丈夫なのだぞ。お前たち妙なことをして、二人の間を疎外したなら、それこそ、どうなろうかもしれぬ。この連判の者は硬直、特恵の   人ばかりだが、一徹者揃いだから、十分、気をつけてのうーー村野、戻って、一同に、わしの、 今まで申したことを、よく伝えてくれ」     「はっ」     「皆の用事は、それまでであろう」     「一つ、お蔭いがござります」     「うむ」   「加治木玄白斎殿より殿の御肌着を頂戴してまいれとー−」   「祈祷でも致すか」   「さあー」   「それもよろしかろう。次にて持て、持たせてやろう」  斉彬は、机の方へ向き直った。   「御暇頂戴つかまつります」  三人は、頭を下げて、膝で歩きながら、襖際まで退った。そして、一礼して、次の間へ出て、持っていた。斉彬は、何か書きながら、鈴の紐を引いた。出てきた近従に、   「奥へまいって、わしの肌儒絆をもらってまいれ」  と、命じた。そして、小姓が持って来ると、自分で着更えて、今まで肌についていたのを徘がながら襖を開けて、   「村野’I−少々汗臭いぞ」と、三人の前へ投げ出した。村野は、押しいただいた。斉彬は、戻 一一・ って、すぐ机の前で、何か書き始めた。三人は、同志の前で、斉彬のえらさを、どう説明したらいいかを考えながら、薄暗い廊下を恋って来た。  「わしらとは、眼のつけどころが、ちがうのう」  「ただ、頭が下るだけでござりまするな。天下の主たるべき方は、この君をおいてほかにあるまい」  「そう。志ある者は、ことごとくそう考えている。京師でちらちら間いた。この君を擁立して、幕府を倒そうという考えもーーなるほどー世間からも、そう見えるかのう」  三人は、家中の陰謀の企てなど、すっかり忘れて明るい気持で、退がって来た。      ニノー  斉興は、土へ紙を貼って蒔絵した、小さい手焙りに手をかざし、脚は、友禅羽二重の蒲団を被せた俎燧へ入れて、寝そべっていた。  お出羅はV荊扉升の被布を着たままヽその向い側へ膝を入れてヽ斉興の聡砂抑んでいた・斉興の前には、用人と、将曹とが、帳面と、釈獄とを置いて坐っていた。  「その五十両は、こいつが、芝居へ行った勘定しや」斉興は、首を伸ばして、  「のう」 と、由羅を見た。  「芝翫の時に、妾がいただいてまいりました」  用人が、二人の顔を、交る交る見てから、小さい声で、  「そのとおり、書きましても、よろしゅうございましょうか」  「いかん、いかん。そんなことを書いたら、調所め、どう申すか、わからん」  将曹が、首を振った。そして、  「五十両は、ちと、多すぎるな」  と、由羅へ、微笑した。斉興が、  「こいつは、芝翫に惚れとる。娘時代からの肩入れで、わしの眼元が、芝翫に似とるからと申して、それで、やっと、屋敷奉公を承知したくらいしゃ」  「初めて、承わります。なかなか、芝翫は、よい役者だそうでござりまするな」  用人が、真面目な顔で、世辞を言った。  「しかし、もう、皺くちゃでーーあ痛っ、毛をむしる奴があるかー何も、芝翫と、皺くちゃと申したのではない。わしが、くちゃくちゃだと、申すのしや。やれ、痛い、おお痛い」  斉興は、片脚を、蒲団の下から投げ出して、唾を塗った。将曹か、  「お睦まじき態を拝し、臣ら、恐悦至極に存じ奉ります」  「将曹も、ちょくちょく、毛をむしられてのう」  「上を見倣わざる臣はござりませぬ」 「何を申ナ、この馬鹿。家中一同毛がなくなっては、蛸の足みたいではないか」  お肉羅が、ふっと吹き出して、俎燧の上へ俯っ伏した。   「戯談は、さて置き−−帳尻を合せましたなら、ちと、密談をーー」  斉興がヽ飲いてヽ用人にヽ   「その五十両、小蔭次へ貸付としておけ。よいであろうが、由羅」   「はい」   「では、退れ」  用人は、算盤と、帳面を持って、退って行った。   「節をとると、寝ても痛む、起きても痛む」と、むごつつ大儀そうに斉興は坐り庶した。   「うるさい奴らが、騒ぎよるか」   「はい、江戸よりも、国許の手合が、立ち騒いでおります。第一に、加治木玄自斎が、牧の修法を妨げております。それに、力を添えております者に、島津壱岐、赤山勘負、山田一郎右衛門、高崎五郎左衛門1−以下は、軽輩でござりますが」   「よし、近々、わしは、国へまいるがー¶‐考えておこう。それだけか」   「まだ、大変なことがI」  将曹は、眼を光らせた。お肉羅が、ちらっと将曹を見た。そして、   「赤山様まで?」   「よって、油断かなりませぬ」  赤山勘負は、一門の中でも、名代の人であった。      ニノニ   「いつか、調伏の人形を、床下より掘り出して持参致しました、仙波なる者−」   「うむ」   「父子にて、牧の調伏所へ斬り込みました肉、いよいよ不敵なる振舞−‐」   「なるほどのう、そんなことまで、致すようになったか?」   「尋常の手段ではーーーいついつ、御部屋様などへ,も危害を加えるか計られませぬ」  斉興は頷いた。  「それに、国許より便々の密使が、斉彬公の許へまいっております」  「さもあろう」  「国許では、久光公がござるゆえ、かようのことも起こる。根元は、久光公ゆえ、この君を討ち取れなどと、悪逆無双の説をなナ徒輩も、ござります」  「久光を?」と、お肉羅が、いった。  「罪も、利もない久光を1−」  お出羅は、憎悪のこもった声と、眼とであった。   「申しようのない不敵の奴らで、よほど、厳しく致しませぬと、懲りぬと、心得まナる」   「そうじや。わしの、帰国も、迫っておるし、調べて、厳重に罰してみよう」  斉興は、蒲団の上へ顎を乗せて、背を丸くしながら、  「久光は、そうした話を存しておるのか」  「手前は、お話し申しませぬがII」  「いわん方がええ、あれに知れると、いろいろと、うるさいで」  「本当に、どうして、あの子は、あんなに斉彬びいきなのか」  と、お由羅がいった時、   「久光様、御渡りでござりまする」  襖の外で、声がした。   「金子をもって行っては、斉彬に渡すらしいが−—」   「斉彬様が、上手に、久光様をーー」  と、将背がいった時「御免」と、久光の声がした。そして、襖が開くと、いつものように、ずかずかと入って来た。  斉彬の好みと回し姿で、縦}着流しに、木綿の足袋、祖末なE荊の聯猷だけであった。将背が、座を猷って、頭を下げたが、ちらっと見たまま、挨拶もしないで、,斉興の側へ坐った。そして、ナぐ、   「また、密談か、将背。貴公、密談が、すきだのう」  と、浴びせた。将背け、   「いえ、今日はー−」   「隠すな。近侍も、おらんでないか。正直に申せ」  と、口早にいって、すぐ、斉具に、   「調所が、近々まいりましょうが、二千両くだされますよう」  宵興は、蒲団の上へ丸くなったまま黙っていた。   「紡績機械を作りまナ」   「紡績と−申しますと」   「将曹には、わからんーーー母上、御祈祷について、いろいろ噂がござります。おやめになった方が、よろしゅうござりましょう、愚にもつかん迷いごとをー」  三人は、黙っていた。   「いろいろ噂があるが、私は、何も聞かぬことにしております。将曹も、間かぬようにして貰いたい。時々は、兄上へ伺候して講義を間くがよい。為になるぞ。兄上は、方今、天下第一の人物じゃで、少し見倣うがよい。わしは一々、兄上の真似をしておる」  三人は、まだ、黙っていた。       ニノ三   [世間も、乱れてまいりましたが、当家も乱れてまいりましたな、母上」   「そうかえ」   「父上が、近ごろ、少し愚に返っておられる。のう、父上」   「何を申ナ」 つ啼fjwa心  斉興は、苦笑して、   「何か、急用でもあるのか」   「ござります」   「また、お金かえ」   「母上、支那の揚貴妃を御存じでしょうが—側えますと、父上は、玄宗皇帝’1‐」  将豊か、おどけた調子で、   「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝」   「しばらく、黙っておれ」  久光は、将豊を睨みつけた。   「初めの政治は、よろしゅうござったが、楊貴妃を得て、だんだん悪政になりました。な、父上」   「わしが、それで玄宗か」   「さよう、十年前の父上は、寝るにも、木綿蒲団でござりましたな」   「それは、久光、手許不如意であったからしゃ。今の身分で、これなんぞ、けっして奢りではないぞ」   「いや、物よりも、お心得がーー−島津家は、代々世子が二十歳になれば、家督を譲るはずでござりますが、兄上は、四十を越しましてござりましょう。しかも、将軍家から、父上は御茶入を拝領して、隠居せよと、謎をかけられていなさるのに、まだ、頑張ってーー近ごろ、いろいろの --- お 噂の大半は、ここにも原因がござります」   「それはのう、久光。斉彬は、蓄財よりも、蓄財を使う奴しか。そして、天下は、今、蓄財の使い時しゃで、わしと調所が、せっせと菩めて、お前ら兄弟に、使わせてやりたいのじゃ。隠居をしても、祖父様のように、することはせい、とお前なら、申すであろうが、それは、よくわかっとる。しかし、斉彬の側近の徒輩には、血気の、軽輩が多い。奴らは、よく、その熱と、誠とで、天下の仕事をするではあろうが1ーーー斉彬も、させるであろうが、地味な、蓄財の才能はない。だから、今、わしが隠居すると、わしの育てた理財家と、斉彬の愛しておる急進派とが、きっとまた、いがみ合うにきまっておる。わしも、調所も、これを耐えている。なにも、わしが、頑張ってー−斉彬が憎うて、家督を譲らんのではない。もう少し、斉彬が、理財を、わしに見倣ってくれたらと、申すのじゃ」  久光は、   (父は、まだ、老いない)と、田心った。だが、   「御言葉は、ようわかりますがーまた、例えば、仙波を、即日、邸払いにしたりfl」   「仙波をI’‘いつかの、人形の奴か」  と、将曹に聞いた。  「はい」  「存じておるか、即日の邸払いなど」  「さあ、いっこうに1」  と、いう将曹へ、久光は、鋭い眼を与えて、   「存じておる、存じておらぬにかかわらず、貴殿の落度ではないかI−父上よりも、側役どもが老いぼれているのかな。少し、兄上側近の、若手と取り更えられては? 父上」  久光は、いつになく鋭かった。三人とも、その気胱と、自分たちの後ろめたさとで、黙っていた。お肉羅は、久光に、こういわれながら、   (だんだん利口になってくる)と、じっと、微笑して、久光の顔を、眺めていた。 片手折り       一ノー  「チャン、スチャチャン、チャンスチャチャン、おひやりこ、ひやりこで、チャン、スチャチヤン」  庄吉は、大声で怒鳴って、部屋から、廊下へ出た。泊り客は、宵の内であったし、庄古の枯れ た芸に、微笑をもって、同しように、廊下へ出て、庄吉の踊を迎えた。  庄吉はヽ眼の即断をヽ墨で黒く塗ってヽ唇を紅で大きくしヽ頬とヽ額へも白粉で筆太に総}ていた。  酌婦と、宿の女中とが、半分、酔いながら、興の乗ったままに、三味線と、太鼓と、鼓とで、 けたたましく声立てて影し立てて、庄吉について出た。  「お盛んで1」  番頭が金離れのいい庄吉へ、揉手をして御叩頭した。  「番頭も入った。テレツクテン。御鼻が御獅子で、テレツクテン」  「どうも、おそれいります」  番頭は、自分の鼻を押えた。客が、くっくっ笑った。庄古は、懐から、紙入れを出して、  「帳場へ、あずかっといとくれ」  「たしかにーーただいま、お印をもってまいります」  番頭は、こう言って、一人の女中へ、  「奥に、薩摩っ坊がいるので、あまり、近寄らんように’−‐煩さいから」  と、囁いた。庄吉は、手を振り、足を上げて、  「チャカ、スチャラカ、ステテンテン   お馬は、栗毛で、金の鞍   さっても、見事な   若衆振り   紫手綱に、伊達奴   鳥毛のお槍で ほIいの、ほい   チャカ、スチャラカ、スッチャンチャン   栗毛の、お馬に、米つんで   さっても、見事な   与作どん   繩の手綱に、半端神   小万の手を引き   はーいの、はい」  庄吉は、女たちを従え、二階から、下へ降りて来た。勝手許の女中も、店の間の女も、向う側の人々も、その騒がしさと、踊と、唄とに集まって来た。   「あまり、奥へいらっしゃらんようにの」   「わかってらあーヘん。具にや、天神、寝てござる。中にも、天神寝てござる。具の天神いうことにゃあ——」  庄吉は、長廊下を、よろよろしながら、女たちと少し離れて、一大奥の方へ、進んで行った。女どもはヽ番頭に止められてヽ階段の下でひと猷いになってヽ   「もう、お帰りな」 ・ と、叫んだ。   「煩さいっ、どこまでまいる」  襖が開くと、一人の侍が、庄吉を睨みつけて怒嗚った。番頭が、すぐ、走って来た。庄古は、 廊下へ手をついて、   「命ばかりはーおたおた」と、御叩頭してしまった。部屋の中には、まだ散人の侍がいた。番頭が、   「さ、あちらで、貳f、もう、ひと踊り、ここは、貸切りでござりますゆえ」   「おた、おた、おた、逢うたその夜は、しっぽりと、のう番公」  庄古は、いきなり、番頭の首をかかえて、頬をなめた。       一ノニ  調所笑左衛門は、年一度の江戸下りのために、五人の供人を巡れて、駿府まで来た。二十何年のあいだ、幾+度か往来した街道で、すっかり、慣れてはいたが、もう齢が齢とて、あるいは、今度の、江戸行が、この街道筋の見納めになるかもしれぬ、と思うていた。   (もし、自分が、急死でもしたなら?)  調所は、島津家の財源を豊かにした密貿易の責任を、自分一個で負うため、そのナベての関係書類を、いつも、手早く、処分はしていた。がそれでも、処分はできぬ、最近の分だけは、自分の懐に秘めていた。   (江戸へ着いて、早く、この書類を始末し)と、床の間の、手函の中にしまった書類人の方へ眼をやって、湯上りの身体を、横にしていると、酔漢を、たしなめている供人の声がした。   (面白そうに騒いでおるが1−わしには一日も、ああいう日は無かった。斉興公も、近ごろは 政務を疎んぜられてきたが、御無理もない。わしも、心から、疲れたと思う。しかし、斉洸ハ公が汗が倣なら、わしは、その分も、自分でしなければならぬi−ただ時世が、違って来たのか? 人間が変ったのか? ここ十年の内に、ひどく仕事がしにくうなった。斉指公のなさることは、半分はわかる。いい仕事にはちがいない、しかし、その仕事にかかる金子の作り方を御存しない。いつだか、いい仕事は、金子を産む、とおっしゃったがーーそれは一理だが’1すでに、重豪公がいい仕事をなすって、金子を産まなかった例がある)  関所は、斉彬の、明敏に敬服していたが、一落の主としては、久光の大過なき点の方がいいと、信じていた。そして、久光擁立に賛成した。   「ただいまは、どうも、大変、お騒がせ致しまして申し訳もござりませぬ」  宿の番頭が、襖から、謝りに来た。   「よいよい、気に致すな」   「ありがとう存しまする」  関所は、番頭が立ち去ると、いつも思い出すように二十年前、同じ宿で、呼んでも、女中さえ来なかった貧しい旅を思い出した。   (江戸と、京と、大坂の御金蔵には、百万両ずつの金がある。日本中と戦っても、二、三年は支えられる。斉彬公は、近いうち、異国とか、あるいは国内でか、一戦あるうと言われたが、三百万両余の軍用金を積んであるのは当家だけだ。その金子は、わしが儲けて、積んだものだ。よいところに使われても、悪いところに使われても、わしの功績は、永久に、島津家に或るである う。それを積み立てる間に、悪口も言われた、斬られようともした。しかしー)  調所は、行燈を消して、仰向きになった。   (こういうことを考えるのは、気の弱ったせいしや。早く眠って、早く起きて)  調所は、肩の辺の夜具を叩いて静かに呼吸を調えた。隣室の供人も、寝入ったらしく、静かであったし、二階も、下も勝手許も、しんとしてしまった。   (することをした。安心して死ねる。南無阿弥陀仏)  調所は、心の底から、安心し、喜悦して眠りについた。それでも、蒲団の中には、たしなみとして波の平の脇差炉忍ばせてあった。       一ノ三  寝ずの香炉、ぽとぽとと、廊下へ草履の音を立て廻ってしまった。  生害は、静かに、頭を上げた。床から起き出した。そして、真暗な中で、手を伸ばして、床の間の小さい旅行李を取って、脚絆を当てた。それから、草斜を履いた。寝間着を脱いで、黒い袷に更えて、十分に帯を締めた。  それから、行李と、枕とに浴衣を着せて、蒲団の中へ押し込んだ。人が一人寝ているくらいのかさになった。  襖の、敷居へ、枕許の水差しの水を流して、一分ずつ、二分ずつ−‘−それは、大事をとる生害の用心からであった。一度に、一才も、二寸も開けて、もし音がしたなら、それは、自分の身の 破滅でもあり、また深雪への恋心、深雪ヘー手柄を立てさせ、自分の男の意地を貫こうとすることに対して、どんな破綻を来すかもしれないと思う用意からであった。だが、心の中では、   (泥神様は、初開業だ。うまく行きゃあ、お慰みーー’じれってえ、が、ここが辛抱のしどころだ1−ならぬ辛抱するが辛抱−−−)  指で計ると、五寸あまり開いていた。   (南玉が、いつか、高座で言ったっけー−なんとかの、町階訟、破れたら附え、破れたら縫え−−—ってんだ)  一尺あまり開いた隙から、身体を横にして、廊下へ出ると、開けるのと同じような忍耐で、襖 を閉めた。そして、階段の上へ出ると、   (ここが、千番に一番の貧ね合い、払卸よく、音も無く降りましょうものなら、お手拍子、岸喝采、テテンテンってんだ)  庄吉は、階段を踏んで音の立つのを恐れた。   (太夫、高座まで、控えさせまあーす)と、口の中で、言いながら、やもりのごとく吸いついた。そして、一寸ずつ、二寸ずつ、そのかか、つ、静かに、音もなく滑り降りて行った。 がんじようてす   また 頑丈な手摺りに跡がって四辺の人の気配を窺いつ  庄吉は、しばらく、階段の下へ誹んでいたが、黒い布で頬冠りして、尻端折になった。柱行燈の灯が、遠くに、ほのぼのとしているだけで、ここから、両所の部屋までは、廊下だけであった。真暗な、闇だけであった。  壁へ、身体をつけて、機にRって、供部屋の様子を窺った。小さい、斟のほかに、なんの音もなかった。広告は、耳を澄ましつつ、静かに、供部屋の前を、萱って通った。そして、板の臭いを卯いで、さっき、酔った振りをして、見定めておいた、調所の部屋の前まで来て、詰めていた呼吸を少しずつ続き出した。   (やリ損えば、首は提灯屋へ売って、胴は萄前説へ御奉公だ。南無天王様、観音経)  濡れ手拭の水を、斜掛へ流し込んで、しっと、内部の気配を窺っていた。緋もなく、音もなく、斟もなかった。顔が、ほてって、心臓がどきどさしてきた。   (庄告、あわてちゃいけねえぞ)と、首を振って、一分ずつ、二分ずつーーー’呼吸が苦しくなって、大きく続きたいのをが働しながら、訟える手を、顕わすまいと制しつつ−—五寸、六寸、それは短い時間であったが、庄告には耐えきれぬぐらいに、長く感じた。だが、障子は開いた。庄吉は、障子を開けたまま、廊下の外に、なおしばらく、躊んでいた。       一ノ四  同所笑左衛門は、十年の間に、島津の家の基礎を作った人であった。常人以上の才分とともに、常人以上の精力と、胆力とを持っていた。  二十年前、重豪公から、斉興公から、藩財整理を命ぜられたその目から、朔は五時に起き、夜は十二時に寝る人であった。そして、武芸者が、微かな音にも眼を醍まずように敏感な同所の神経は、夜中にも動いていた。  だが、庄害は、そういう、自分たちと、類のちがった人を考えてはいなかった。両所は、眠っていると信していた。夜中には、誰も、熟睡しているものと考えていた。そして両所も、熟睡はしていた。しかし、障子が、一尺あまり開いて肌寒い冬の夜風が、襟元へ当るとともに、眼を醍ました。そして、そのまま、気配を窺っていた。   (手函をー—)と、思ったが、迂回に音立てたり騒いだりしたくはなかった。茶坊主上りの調所ではあったが、人並の腕をもっていた。供部屋を起こすにはまだ早いと思った。  庄害は、部屋の中に音がしないのを知ると、静かに手の先を畳へつけ、それから掌を下ろし、掌の上へ腕の重さを、その上へ身体をIIと音もなく、這い出した。きまりきった宿の部屋であったから、闇の中でも、床の間の在所、そこを枕としている両所の臥床は、想像できた。  庄害は、手さぐりに、射ヤれの襖をさわり、襖伝いに、上手の方から、床の間の方へ這って行った。  両所は、蒲団の中へ持ち込んでいる、波の平の脇差を、音もなく、鯉口を切った。そして、生害が、一寸ずつ、二寸ずつ、這って行くのと同しように、両所も、一寸ずつ、二寸ずつ、夜具を持ち上げた。  庄害は、床柱へ手を触れた。そして、触れるとともに、しっと、彫びだ。そして、両所が、なんの音も立てないのを見定めて、床の間を、盲日さぐりにーー左から右へ、右から左ヘー指が当っても、掌に触れても、音立てないように、ゆっくりと、手を動かしかけた。  両所は、夜具を除けて、音もなく、坐った。そして、刀を抜いて、鞘を夜具の上へ置いた。そ 4 して、耳を澄ましていたが−すぐ片膝を立てて、右手に脇差を構えた。風炉時々、薄ら寒く入羽 って来た・    庄吉の手に、冷たい、すべすべしたもの炉、触れた。指で探ると、蒔絵をしてあるらしく、ぎ  でて行くと、一尺四方ほどの−それは、たしかに、手函にち炉いなかった。     (しめたっ)    庄古は、両手を蓋へかけて、引き上げたが、細工のいい函の蓋は、ナぐには、持ち上らなかっ  た。     (函ぐるみ)と、思ったが、目的は、書類であった。この函の中になかったら、また、別のと ころを探さなくてはならぬから、左手で、下の方を押えて、右手で、蓋を開けようとした。だが小太郎に折られて、十分に蜷りきっていない手であった。蓋は、いったん浮いたが、手がナベった。ことり、と音がした。   「誰じや」  調所は、静かに、帽めた。そして、浚の平の脇差をとって、蒲団の上で、居所を、少し変えた。声を手頼りに斬りかかられても、空を斬らす、心得からであフに。そして、脇差を抜いて、じっと、闇の中で、床の間の方の気配をうかがっていた。       一ノ五  低い、静かな声であったが、庄吉は、見えぬ手で一掴みにされたように感じた。しっと、呼吸 を殺しているよりほかに、しかたがなかった。   (侍を呼びゃがるかしら1)と感じると、見えぬ闇に、肌が、手が、刀が、追って来るように思えた。このまま、尉いごとく縮み上っているか、鹿のごとく逃げ出すか?—だが、庄吉には、せっかく、手をかけた手函を捨てておくことは男の意地として、できなかった。   (まさか、関所の爺め、闇の中で眼が見える訳じゃあるめえしー・)  手函を持ったまま、しりしり後へ下りかけた。だが、いつ関所が声を立てて、侍を呼ばんにもかぎらないと考えると、もう、じっとしておれなかった。   (この中のものさえ詞んで逃げりゃあいいんだ。中のものをーー)  両所は、そのまま、音のしないのを知ると、脇差を突き出して、じりじり床の問の方へ寄って来た。   (刺客ではないらしい、金をほしさの枕探しかー1それとも密貿易の書類を盗みに来た奴かー  調所には、この判断がつかなかった。ただ、総社は一人で、まだ床の間にいるらしい、とだけしかわからなかった。   (こそ泥なら?−−侍を呼び立てて、宿中を起こすのは、武士として恥だ。書類を目掛けている奴なら?1しかし、そんな奴は、いないはずだ。こそ泥であろう。懲らしめてやればよい、もし、大それた曲者なら、その時、声を立てても遅くはない、この宿の中を、そう早くは逃げられるものではない) −≒一心∽_ ・−一一 −一一-一一 --  そう考えたが、調所は、もう一度自分から声を立てて、曲者に、自分の居所を知らすのは、危ないと思った。どう反撃されるか、わからないからであった。  庄吉は、呼吸をこらしながら、手沢の蓋を、静かに引きあげた。そして、音のせぬよう蓋を懐に入れた。沢の中へ手を入れると、その中には、予期していたように、ふくさ包の、書類らしいものが、入っていた。  庄古は、それを右手で掴み出すとともに−−闇の中から、刀が首筋へ、今にも、斬り下ろされるように感じた。誰も入って来なかったが、四方から取り巻かれているように、身体が恐怖で、縮んできた。   (歎っ、剋え)と、脱の中で叫ぶと−−今まで自分の部屋を出た時から、音を立てぬように、できぬ辛抱を、気長にしてきたのが、もう耐えられなくなってきた。  勝手にしやあがれ、べらぼうめ、書類さえ握りやあ、こっちのものだと、思うと、同時に、音の立たぬように左手で持ち上げていた手沢を、床の間へ置いた。ことり、と音を立てた。   「えいっ」  その声は、低いーーだが、力のあるものだった。庄吉が首をすくめた刹那、   (しまった)と、此の中で、絶叫した。右腕に、灼熱した線が当ったと感じると、腕を貫いて、身体中に激痛が走った。ぼっと、音がした。血の噴出する音だった。庄古は、ぐらっと右手へよろめいた。そして、   (腕を斬り落された)と、感じた。自分では、指も、手首も、まだくっついているように思え たが、激痛に縮み上るような右手へ、左手を当てると、劈から切り落されてしまっていて、生温かい血が、すぐ指の股から、流れ落ちた。   (しまった)と、田心うと同時に、   (畜生っ)  庄古は、睨影しそうな、頭を、身体を、じっと耐えて左手で、素早く、書類を握りしめたまま斬り落されている腕を掴んだ。       一ノ六  調所は、+分の手答えを感した。腕を切り落したのが、昭㎢わかっていた。安心して、しかし十分に注意しながら脇差を構えたままで、しばらくじっとしていたが—〜‐ふっと、障子の方に、人の気配が遠のいて行った。調所は、   (しまった)と、心の中で叫んだ。そして、その瞬間、大声で、   「雨郷っ」  と、呼んだ。答えが、なかった。   「南郷」   「はっ」   「曲者が入った」  その大声の口早の、平常の調所の声でない声と同時に、鶴が回いた。 羽   「御前」   「曲者だっ。逃げたらしいが、早く捕えい」  供部屋の人々が、一時に、起き上った。一人が、燧石を打った。閃滅する、微かな光の中に、人々が、刀を持って立っているのがわかった。だが、関所の部屋までは、光が届かなかった。  二人が、廊下へ走って出た。調所の部屋へ人ると一人が襖の右の方へ立った。一人が、左の方へ立って、両方から包囲しようとした。付木がついて行燈へ灯が人るとともに、関所が、   「床の間をみい。片腕が、落ちているはずしや」  と、いつもの調子で言った。南郷が、行燈を持って床の開へ近づいた。灯のとどくようになってきた床の間を、すかして見ていた関所が、首を伸ばして、   「ないか」  と、叫んで、寝床の上へ立ち上った。そして、床の間へ足早によって、手函の中を覗いた。眼が光った。   「しまった」  と、呟いた。床の問の上には、血が、おびただしく淀んでいた。そして、たしかに、落ちているはずの腕がなかった。南郷は、行燈を置いて、四辺を見別していた。   「迫えっ。遠くへば、行くまい。血の跡があろう。宿の者を起こして、街道、抜道へ、すぐ手配りするよう」  供の人々は、一時に、廊下へ出た。関所は、寝床の上に立ったまま、血の真黒に淀んでいる床 の間を睨みつけていた。   (あの中の書類には密貿易の証拠となるべき物がある。もし、人の手に渡ったとして、その人に依っては、自分の破滅だけではない、島津の破滅の因になるかもしれぬ。鼠賊だと、侮ったのが不覚であった。相当心得のある忍び者であろうか?—それにしても、たしかに、斬り落した片腕のないのは?)  宿の中が、急に騒がしくなって、番頭が、足音急がしく入って来た。   「まことに、相すみませぬことでーー入ったような形跡はござりませぬがーー」   「宵に、酔って踊って来た奴があったのう、あの部屋を両べてみい」   「かしこまりました。裏道、抜道へは、よく知った者を出しましたし、御役所へも走らせましたから—−」  両所は、黙って、床の間へ歩いて行った。手函の空なのが、血の上にあった。覗き込むと、その中にも、血がたまっていた。   (破滅か)  両所は、静かに彫びで、眼を閉した。   (俺は、もう、いい齢だ。いつ死んでもいい、功も成し遂げた。名も残るであろう。すべてを己一身に負いさえすれば——‐主家には、難題のかからぬ法もあるーIだが、捕まるものなら、捕まえたいー‘1もし、かの男なら?——あいつなら、金と、書類とを間違えたのであろうーーそれにしても、腕のないのは—−) -    調所は、寝床の上に坐って、腕組しながら、自分のしてきたことを、昔から、細かく想い出し てみた・        ニノー    庄吉は、自分の切り落された右の小腕を、しっかと、左の手で掴んでいた。そして、掴まれて  いる小前は、また手函の書類をしっかり、握リしめていた。    庄吉は、右手の切口を、函の蓋の中に入れて、血の落ちるのを防ぎながら、作っておいた裏手  の影訟から出ようとした。そのとたん、調所の部屋の方で、大勢の足音がした。庄吉は、自分の  傷を知って、長く逃げられぬと思ったから、すぐ、右手の納屋の中へ入って、隅の方の薪、炭俵  を積み上げた中へ、もぐり込んだ。    傷口を縛ろうとして、左手で握っている自分の、斬り落された腕を、下へ置こうとしたが、な  ぜか自分の手から放すのが肌なような気がした。斬り落された小腕は、愛人のような、愛児のよ  うな、自分の命のようなーーーなににも換え難い、可愛い、そして、不惘なもののように、思えた。   自分の手から放すと、自分を怨んで泣くように感じた。    (しっかり、そいつを握って、しばらく、待っていろ。俺あ、血を止めねえと、命にかかわっ  ちまうからの)と、頭の中で、前にいい聞かせて、自分の股のところへ立てかけた。そして手拭、   頬冠リの黒い布、儒絆の袖、腹巻の布と、ありったけの布で、二の前を縛り、傷口を巻いた。    頭が少しふらつくようで、額が、冷たく、町かがいくらか早くなっていた。   (いけねえ、このまま死ぬんじゃあねえかしら?)  腕から肩へかけて、灼け、燃えるようで、身体の底まで、疼痛が突き刺した。人々の叫び声と、走る音と、提灯とが、すぐ前で、飛びちがった。   (どうにでもなれ)  炭俵に、身体を凭せかけて、足許へ置いておいた腕を懐へ入れた。腕はもう冷たくなって、切り口からは骨が尖りでていた。  庄古は、自分の命が、この腕の中に寵っているように感じた。この腕に、たら、自分が持っているよりも安心だしー1(ひょっとしたら、この腕に、 書類を握らせておい 足が型えて、 ところへ、この書類を届けてくれるかもしれんぞ)と、いう気さえした。斬り落されて、 深雪のも≫r\、 11く、.x、/y  9xぐー一£ーMzづyー♂—J?ーs  `jr dー1   91 1・ー E’泉のない小前だとは、+分にわかっていたが、庄吉にはどうしても、生きていて、ぐ廓を現す もののように思えた。   (こういう廻り合せだったのかなあーー最初は小太郎に析られるし、I−とうとう斬られちまやあがるしI−お前はどのために、随分働いてくれたが、こうなるのもバ前世の報いだろうーーいや、巾着切をよせって、神様のお告げかもしれねえ。妙な男気がでたり、深雪が好きになったりI)と、田こった時、頭が、急に堅くなって、後方へ引き倒されるように感した。   (いけねえ。ここで、気を失っちやあなんにもならねえ)庄吉は、頭を下げて、じっと耐えた。   (腕の一本や二本——こん畜生め、なんでえ。こんなくらいで−’−‐ざまあみろ、ざまを)  庄古は腕を斬った調所へ、ざまあみろ、と罵ってみたが、なんだか、それは、自分へも罵って いるように思えた。   (女なんかに惚れやがって、大事な腕を斬られて、ざまあみろ。ここで死んしめえ)と、頭の隅で、ちびものがあった。   (馬鹿いかせっ、ちゃんと、小前大明神が、書類を握ってらあ。せめてもの申訳に、この腕にこの書類でー仕事させてやらなけりゃ、この前だって冥土へ行って、俺に合す顔がねえや)  庄古は、斬られた前に、脚が生えて、よちよち歩いて行くのを空想してみた。 ニノニ   (ここで死んじゃあならねえ)  なんだか身体が冷たくなってゆくようであった。疵口だけが、万力で、締めつけられているように痛んだ。   (お天道様の出ないうちに、ここから、逃げ出さなくちゃあ—−)  男たちの怒鳴る声、荒い足音は、すっかりなくなって、女中が、寝間着のままで、時々、うろついて出てくるだけになった。   (今の間だ)  庄吉は、炭俵へ指を突っ込んで、炭の粉を、鼻の下へ、尉へ、なずりつけた。そして、立ち上ると、少し、頭がふらつくようで、ちょっとよろめいた。そして、しばらく炭俵を掴んで突っ立っていた。斬り落された腕が、懐の中で、突っ張っているので、 -‥-   (寺小屋しやあねえが、松王丸の、倅はお役に立ったぞよだ)と、書類を、死んだ腕から取り上げて、腕を捨てて行こうとI小前の指を獄げようとしたが、書類を固く握りしめたまま、左手の指だけの力では、間かなかった。   二心賜めて握ってやがらあ)と、思うと、死んだ、自分の子が、大事な宝を握りしめているようで、牧子のようなその腕から、書類だけを取って、その腕を捨てて行く気にはなれなかった。  庄吉は、少しずつ出てみた。誰もいなかった。だが、いつ、どこから、誰が、出て来るかわからなかった。見つかったら、常の庄古ではなくなっている庄吉は、それまでであった。   (手のないのを誤魔化さなくちやあいけねえがーー‘)  庄吉が、土間へ、しいっと、出た時、一人の女が店の間から、小走りに、真の方へ、   「まだ見つからないんだってさ。どこへ逃げやあがったのだろうねえ」と、言いながら、走っ て来た。  庄吉は、そっと炭俵へ凭れて、だんだんとぼんやりしてくる頭の中で呟いた。そして、女が奥へ行ってしまうと、目を閉した。   「庄吉」  遠いところで、自分の名を呼ばれたので、眼を開くと、   「わかるか?」   (益満さんらしいがI)と、その声から感した。そして、そう感した瞬間(助かった)と思うと、声いっぱいに、泣きたいような、嬉しいのか、悲しいのかわからない気持が起こってきた。 ←〜 そして、  「ええ」  と、頷きながら、自分の横に立っている黒い影に、   「あっしやあ、駄目だ」  と、呟いた。  「今、手当をしてやる」  益満が囁いた。  「ええ」  益満へ、凭れかかりたかった。子供が、母親へ廿えるようにしたかった。   (こんなに、深雪を思っているんでナよ。益満さん)と、いって、益満から背を撫でてほしかった。益満は、庄吉の二の腕を縛り直してから、疵口を解いて、  「何を盗った?」  「なんだかー−親爺の大切にしているもんでさあ」  膏薬を貼ったらしく、斬口がひやりとした。強い臭いが鼻を突いた。益満が貼ってくれたので、なんだか、効く膏薬のように感した。  「書類か? どうした、どこにある」  「握ってまさあ」  「握って?」 「新られた腕がーーー」 庄古の左手に握っている腕を、益満が、さぐリ当てるとともに、「えらいぞ、庄吉」 と、低く、だが、力強い声で囁いた。  「ええ」 と、いって、庄古は、涙を流した。  「でかしたーー’見上げたぞ」 庄吉は、徘かに、すすリ上げていた。 秘呪相争     一ノー 息災、延命の護摩壇は、円形であった。中央にハ葉の蓮華を模した黄白の泥で塗った火炉があ                 ls″’≒ノー/一ーー   t.,.j町つぽう, ,           らいばんじよう り、正面を北方として、行者は、南方の礼盤上に坐るのである。 右Lにはヽ猷県と八荒‰二mぞヽ扇ヽ飲ヽ三種の護摩ル竹置ぎ、        きりばな 鄙 に 左手には二九尹対句脱 薬種ヽ名香ヽ即獄を置いてある〃行者の前の壇上には館がヽ鈴ヽ獄幄三鈷ヽ五鈷ヽその右二本の願敵郡五穀を倣えヽ左手には射出ヽ影がを置いてあった1    部屋の壁には、青地に四印曼荼羅を描いた旛と、蓮華広大曼荼羅を描いたものとを掛けて、飯食を供し、旛の上方には、加治木玄白吝か、自分の血で、三股金剛杵を描き、その杵の中に一宇  頚輪の真言を書いた。玄自、自らの生命を賭した呪術である。    和田仁十郎以下の門人たちは白衣を着て、その旛の下、壇の周囲に坐して、「大威怒鳥拐渋摩  儀軌経」、「仏頂尊勝陀羅尼」、「諭恪大赦王経」、「妙吉祥平等親門火教主経」等の書巻を膝の  上にもって、黙読していた。    加治木玄白斎は、白衣をつけて、しばらく、座所で瞑目してから、塗香を、三度ずついただい  て、額と胸とへ塗りつけた。それから、右手の護摩木、長さ一尺二寸、幅三指のーー禁則末、栴  接木、楓香木、菩提樹を取って、炉の中へ積み上げ、その上に、小さい杓で、薫陸香、沈香、竜  脳、安息香の液をそそいだ。そして和田が、大威徳天の前にゆらめいている浄火からうつして来 た火を差し出したのをとって、護摩木の下へ入れた。そして、   びるしやなによらい ほつfう・≫くうじよ5しみこと、っ’ぷス15’JJに・Jニねばつ;しご.ー5っ・ 男を差し出したのをとって.護摩木の下へ入れた。そして、口で、 「即胎氷岸対暫七荊ヤ鴛廓札対暫耐が封剔剋以飯肌鎗E+荊ヤ獄肌似ヽ但聯一卵の芸談 し苧ガに刊牢吻悦け犬ル卸の光を放ちヽ諸悪鬼神を射洪してごっさいの三烈私営愉を除きゾハ道四生、皆富貴延命を穫させたまえ、得させたまえ」  と誦した。そして、少しずつ燃え上ってくる火を見て、   「火相、右旋−−火焔直上」 と、叫んで合掌した。 「火焔の相を象耳に、火焔の色を大青宝色に、火の香気を優鉢羅華香に、火の音を、天鼓にな さしめたまえ。南無大目如来、お力をもって、全知難羅竜を召し、火天焙魔王、七母、 おのおの力を合せて御幼君のために、息災、  こういってから、もう一度、塗香を塗り、り、紫色の煙が、天井を這い出した。 八軋喫水 延命の象を顕現なさしめたまえ」 香油をそそぐと、炉の中の火は、焙々として燃え上  門人たちは、低く経文を岸して、師の呪法を撒け、玄自責は、右手に杓を、左手に金剛杵を作って、瞑目しつつ、かが無心1自ら、目輪中に、聯肘聡ゼして、円光を放ち、+方の諸仏、こ とごとく白色となって、身中に入る、という境地へ入りかけた。  焔は、青色を放って燃え上りつつ、少し左に、右に揺れながら、時として、真直ぐに立ち、香を放ちつつ、いろいろに聞こえる音を立てた。  しばらく、瞑目していた玄白省は、眼を圓くとともに、大声に、。   「焔の相は?」  と、叫んだ。火焔は大きく象の耳のように、ひらひらと燃え上り、消えては、同し形に燃え上った。門入たちは、誦経の声を少し大きくした。そして、いっせいに、焔を見た。       }ノニ  玄自省が、秘呪を行っている次の間には、家老島津壱岐らの人々が、言葉静かに、お由羅への対策を話していた。それら、斉彬擁護派の人々は、   家老     二階堂主計 町奉行、物頭 設 町奉行兼物頭船奉行 やくしま 屋久島奉行さいざよががりみならい裁許掛見習同 ひようぐがためつけ兵具方目付 ひろしきよこめ つけ広敷横目付 郡見廻 ちほうけみ 地方横見 りゆうきゆうかんがかり琉球館掛ひろしきか*!Jやく 広敷書役 郡奉行 諏訪神社宮司 赤ゑ近え どうウゆうざえもん藤隆左衛門 やま ゆき え 山 靭 負 やまだいちろう え もん山田一郎右衛門たかさきごろう え もん高崎五郎右衛門よしいしちろう え もん吉井七郎右衛門やまぐちきゆう え もん山ロ及右衛門しまづ せいだ ゆう島津清太夫つち もち たい すげ上 持 岱 肋の むらぎ はちろう野村喜ハ郎やまうちさくし ろう山内作二郎 尉 ちと元 いもさえちん 一左衛門 (高崎正風の父) おおくほじろう え もん おおくぼとしみち 大久保次郎右衛門(大久保利遠の父) 井g大弐ハ吃上之山田゛ 喜左衛門(後の八田知紀)かく え もん 角右衛門 いずものかみ 出雲守 たちで、無役、軽輩の人々は、別に玄関脇の部屋に集まっていた。 次の間からは、玄白斎の振っている金鈴の音が、時々微かに洩れて来た。 「わしは‘1追つけ、斉興公が御帰国になろうから、 その節目ヽ茫椋慨桁夥駅紅などをヽ 邸ぐるみ大砲にてぶっ壊すのがよいとおもうーー」  近藤隆左衛門は、こう言って、懐から一通の書面を取り出した。  「これは斉彬公からのお使りしゃ、読み上げるーー 将(将曹)之調(調所)より勘弁のよし、もっともに侯、 将は随分と心得も有之ものにて御   座僕 而悪み侯ほどのものにて無之様に依存侯、御前(斉興公)之御都合之言に言われ      これあり しょうのひょうばんょんどころなくう モ5ろうぎ   ぬことも有之、将之評判然拠請け侯儀も有之侯、近(近面談左衛門)等のごとく温み   侯面は不宜、ここはよく心得可申侯‘11  御太腹の君として、たとい、将曹ごとき奸物にもせよ、こう仰せられるのは、われら家来としてただただ感佩のほかはないが、ことによる。斉桓公が、公御自身の命を縮め、子孫を絶やさんと計るこれら聯獣のものに対して、こう御存念なさっておる以上、斉彬公のお力を借りることに望みはない。その望みがない以上、釈郎の奸は、われらの手で討つほかにない。しかして、われらの手で討ち取る以上、われらも腹を肌っ切るかわりに、肘払らも残らず殺されおばならぬ。それには夜陰に乗じて邸ぐるみ、大砲にて砕き倒すがよいーI」  といった時、鈴の音が、人々の耳に、明瞭に聞こえ、つづいて、   「火相はこれ煽がずして自然に燃え、無炳にして熾盛、諸障蔽うことなし」  と、叫んだ玄白斎の声が響いた。人々は、沈黙して次を待った。   「右施して、日輪の魏々として照映するごとく、色相金色にして、紅霞、雷閃のごとし。南無、延命ぃ息災の呪法を成就せしめたまえー—香気いかん」  それは、壮烈な玄白斎の声であった。   「祈祷も成就しそうだのう」  壱岐が、こういった時、赤山靭負か、  「大砲打ち込みもよいが、来春の、吉野牧場の聯とを好機として、久光公を鉄砲にて射も取ったなら?ーー禍根は、この君が在すゆえだからのう」  誰も、黙って、答えなかった。 一ノ一一一  赤山勘負久普は、一所持と称される家格の人であった。一所持、一所詩格といえば、御一門四宮につづく家柄であった。  御一門とはヽ影男竹かがヽ宏がヽ氷枕払の領主でヽことごとくヽ宗家の二男の人々の家であった。それに次ぐのが、この一所持で、三男以下の人々の家柄を指すのであった。勘負は、すなわち城代家老、島津和泉久風の二男で、日置郡日置郷六千五百六十四石の領主である。そして、この勘負の日置家が筆頭で、花岡、宮の城、都の城よりは、上席の身分—−この一座の中では、抜群の家柄の人であった。その勘負が、   「久光を、射ち取ろう」と、言い出したのであるから、しばらくぼ、誰も答えなかった。明かに、禍根は、久光がいるからではあったが、この陰謀は、久光の手から起こっているものではなかったし、久光は、人々の主君であった。どうあろうとも、主君へ鉄砲を向けることは、できが たいことであった。しかし、靭負から見た久光は、人々の見た久光よりももっと経かった。靭負自身としてばたいしてちがいのない地位の人であった。だから、英明なる斉彬のために、久光を討つことぐらいは、靭負としては、たいしたことでないと考えられた。  人々の沈黙しているうちに、行事はだんだん進んでいったらしく、読経の声が、しだいに高くなり、鈴の音が珍しく響き、人々のいる部屋の中まで、薄い埋か、のろのろと、忍び込んで来た。   「鉄砲役にはー1わしは、高木市助かよいと思うが1,」  と、いった時、山田が、   「しかしーー主君に当る方を鉄砲にてーは、ちと、おそれがあると、心得ますが−・」  近藤も、   「某も、さように存しますが−−」  靭負は、二人を見て頷いた。そして、   「わしもそれを考えんではないがーー1」  と、いって、一座を見別して、微笑しながら、  「どうしゃ。久光を討つのは、少し過激すぎるかの?」  と、聞いた。人々が、黙って頷いたり、  「さように存じます」  と、答えたりした。  「では、将曹、平、仲の徒を猷糾するか」    「吉井、  人々が、 村野らの帰国を待ちまして、ナぐさま、その手段にとりかかりましょう」頷いて、賛意を表した時、玄自省は、大声に、  「このごとく観ずる時、まさに、縛字をいっさいの身分に遍して、その毛孔中より甘露を放流し、十方に聡彦い、もっていっさい衆生の身に載がん。乞い願わくは、この老体を犠牲とし、?      よ               ざ‘゛し″″ ・″.7;‘ー        ご ー ーs、、 ’.、!−』一 l  l  ーー ー の因をもって、能く、まさに、種子をして漸次に滋長せしむべし。見識遮那、北方不空成就如来、西方無量寿仏、+方世界いっさいの諸仏、各々本尊を前して、光焔を発し、いっさい罪を焚焼して、幼君の息災を垂れたまえ」  それは、人間の声でなく、人間のもっている精神力の音であった。敵にとっては物凄ききわみの声と聞こえるし、味方が間くと、ともに祈りたくなる声であった。人々は、俯向いて、玄自省と同じように、合掌する気持になった。そして膝の上で手を合したり、心の中で合したりして、黙祷した。      ニノー  火炉の中から、だんだん燃え立ってゆく、赤黒い焔を、じっと、眺めていた牧仲太郎は、手を膝へ置いたままであった。  正面に、Fけてある、お由羅が、ガ匝ギから借リてきた金剛忿怒尊の画像へ、煙がかかるようになっても、じっとしていた。 仲太郎の、背後に、一段低くーーだが 緞子の大きい座蒲団の、華やかなのを敷いて、数珠と、 金剛杵とをもって坐っているお由羅は、眼を閉して、低く、何かロの中で誦していた。  仲太郎は、静かに手を伸ばして、蛇皮を取って火の中へ投じた。ぱちぱちと音立てて、赤褐色の火焔が昇ったが、低く這ってすぐなくなってしまった。仲太郎は、沈香を取って、焔の上から振りかけた。そして、しっと影御めていたが、小さい火が、ぽっと、立っただけで、なんの匂いもしなかった。仲太郎は、眼を閉じて、俯向いた。そして、指を組んだまましばらく、身動きもしなかった。  護摩木が、だんだん燃えつくしてきて、焔も煙も、小さく、薄くなってきたが、仲太郎は、まだ、瞑目したままであった。  部屋の隅に坐っていた、黒衣をつけた二人の家来が、互に眼を見合せてから、ちらっと、仲太郎を見た。それと同時に、お肉羅も、数珠を左右へ尉しく振って、眼を開いた。そして、首をちょっと、曲げて火焔の中の火が消えかかっているのと、仲太郎の姿とを眺めて、家来の方を見た。家来も、お肉羅を見て、眼が合った。しばらく三人は、仲太郎を、じっと影御めていたが、   「先生」  と、お肉羅が、声をかけた。だが、仲太郎は、俯向いたままであった。お由羅も、黙っていた。  炉の中の火は、すっかり消えて、残り火が、ほのかに明るいだけであった。部屋の中の、薄い煙は、戸迷いしたように、天井を、襖の上をうろついているだけで、画像の姿も朧げにしか見えなくなった。   「先生I−いかがなされました」    お肉羅がこういうと、仲太郎は、静かに首を上げた。そして黙って、壇を滑り降りて、沈俗な 顔をしながらヽ    「しばらく、行を廃すと致しましょう」    「まIなんと、なされました」    牧は、青衣を、静かに脱いで、家来に渡しながら、    「恩師の、逆修がござります」    「加治木玄白の?」    「さよう」    牧は、そう答えて、    「行け」    と、二人の家来に、尉で指図した。二人の家来は襖を開けて、次の間へ去った。煙が二人を追  うように、出て行った。    牧は、壇のところへ立ったまま、    「祈って、祈れぬことはござりませぬ。さりながら−−‐」    首を傾けて、しばらく、無言であった。    「さりながら?」    と、お肉羅が催促した。    「さりながら、ここで、某、精根を傾けまナと恩師の命を縮めまする」   「玄白の?」   「さよう」   「それで?」  牧は、お由羅を、正面から、睨みつけるように、鋭く見下ろした。お由羅も、同しように、見上げた。  そのお由羅の眼の中には、いつものお由羅のやさしさが消えて、女性のもっている悪魔の性質が、獣の精神と、一緒になって、光っているような感しのする凄さか、現れていた。       ニノニ   「俯ドなくヽ申せばレ封。修法を行う前にヽ申し上げたるごとくヽたとえヽ御幼少の方とは申せ、某にとっては、天地に代えがたき、御主君にござりまする。その御主君の命を縮め彫りますからは、元より一命はなき所存Iさりながら、某が、お断わり申せば、毒薬、刺客、いずれの手でかによってお仕遂げにあいなりましょう以上、脱穀申すよりは、証拠も残り、仕損ずることもありー−−もし、それが、発覚する上においては、御家の大事、その騒乱は、おそらく御家始まって以来の騒動となり、それこそ島津の興廃となり申しましょう」  牧は、静かにこう言って、いくらか、険しくなった眼を、まだ、お由羅の正面へ向けて、   「仰っハ封死命に代えてお引き受けつかまつりましてござります。しかしー—某は兵道をもっ                                   き て立つ者、兵道を惜しむ念において、人に譲らぬのみかーーー好機—好機来、兵道の真価を示す   時節来、いずれは、お命の縮む御幼君‐−この大任をはたせば、兵道の無用の悪評の消ゆるはおろかヽ島津重宝の秘法として、この軍勝図は、再び世に現れましょうー某の面目は、とにかく       ざい ぐう   として、千載一遇の機−−よって命をかけ申しましたが、もし、ここで、恩師と、呪法を争えば、   必ず、一方は、倒れまする。老いたりといえども玄白斎先生の気味、霊気は、凝って、天地を圧  ナるの貯−これを破れば、老師を倒し、某とても、三年の間は持ちますまい。もし、某死し申  して、余の−ーーこれから御出生の御幼君たちが余人の手にて、殺害されますならば、前申しまし たるごとく御家の大事、また、兵道の絶滅、糾れば、すなわち、二害あってー利もなし1よって某、今宵より、修法を廃し、老師の霊気の散消ナるをまって、と−‐−—」  「よくわかりました。して、その期限は?」  「霊気は、有にして無、無にして有、その消滅は、対手の精気により、場所により、齢により微妙、精妙。ただただ、老師の、肉体の力が某の力に打ち克つかーーーいかん。勝負はただこの一点、霊魂の強弱も、ここにかかっておりますが−−散消の期はI」  牧は、肩口した。部屋の中は、小さい燈明の明りだけになった。牧の影が、大きく、襖に、ぼやけて揺いでいた。  「半か年f−‐」  「半か年?」  「御幼君、肌つきの布に、烈虻をそそいで祈りますれば、三か月−−」  「肌つきの」   「さよう」   「では、肌着を取りましょう」  牧は、眼を開いて、しろっと、鋭く、お肉羅を見た。お肉羅は、壇上の道具を、しっと見ながら、微笑して、   「ちょうど、その役によい者かおりまする、両三日の内にーー」  牧は、無言で、頷いて、歩み出した。襖へ手をかけて、振り向くと、   「御部屋、御自身の撤りの修法は、なりませぬぞ」と、いった。   「心得ております」  牧は、そのまま礼もしないで、真暗な次の間へ消えた。お肉羅は、気味悪い、少し悪臭のある部屋の中で、しっと坐ったまま、微笑していた。 崩るる淵      一ノー  蛇にしめつけられているような、悪夢が小太郎の頭の中いっぱいになり、身体の四方を包んでいた。  狂人のような眼を剥き出して、刀は、どこへ捨てたのであろうか、脇差を尻の方に差して、ロ を開いて、血染めの片手で脇腹を押え、片手で頭を押えて−−−切り裂かれた微か引きずり、顔にも、着物にも、血をこびりつかせて、身体で、脚をひきずって行くようにIよろめきつつ、立ち止まりつつ、   (水だ〃—水だ)  じっと一所を見ていた眼が、顔が、水音の方に向いた。脚だけが、残りの力を集めて動いているだけだ。手はどこを押えているのか、眼は何を見ているのかわからなかった。身体は、痛みに、燃えていたが、もう、自分の痛みなのか人の痛みを自分が感じているのかさえ、わからなかった。  頭の毛が手の血にくっついて離れなかった。その手を人の手のように感じながら静かに頭から離して、自分の前に、水が流れているように震わしつつ、突き出した。そして、眉をゆがめ、肩で呼吸しながら、小さい流れの方へ、身体を引きずった。  彫ぴうとすると、膝頭が、痛んで、曲らなかった。大腿へ、両手を当てて、少しずつ、誹みながら、前へ転びそうになるのを支えて、しばらくそのまま眼を閉じていた。   (もう、追手につかまって殺されてもいい。殺された方がいい。いずれは、死ぬ‘—−水を飲むと死ぬというが、死んだ方がいい)と、いうようなことが、頭の中で、ちらちらとした。小太郎は、聯肌の痛みと、深さとに、すっかり疲労してしまって、それ以外のことは、考えられなくなっていた。   (水だ、水だ)  眼を開いて、手と、身体とを、前へ延ばナと、よろめいた。そして、片膝つくと、倒れてしま った。   (もう、動けない)  しばらく、そのままでいた。水の音と、風炉葉末を渡るほか何も聞こえないし、水の白く光っているほか、何も見えなかった。左手で、草をさぐり、斜どの近いのがわかると、草を掴んで、身体を、水の方へずらした。そして、右手で水を拘って、掌の凹みから飲んだ、一口飲む、と、つづけざまに飲んだ。  水は、水の味でなく、慰めと、薬と、この上ない甘い味とをもったもののように感じられた。小太郎は、水を飲み終ると、そのまま、草の中へ、顔を伏せて、身動きもしなかった。父の声のようなもの炉耳の中でなく、外からでもなく、頭の中にでもなく、聞こえているような、聞こえないようなーーー   (小太郎、右ヘーー)  この耳で聞いたのだろうか?—−父炉、生きているような、殺されたようなーー殺されたにち炉いないが、起き上って来たあの血染の姿−—死んでいないのではないだろうか?I−そう思うと、その辺に、父かいそうな気がして、顔を上げた。そして、見廻した。  空には、冬の星が、冷たく、高くまたたいていた。   (動けない)  小太郎は、自分の脚炉、二本の重い、鉄棒のように感した。自分の手は、こわれ易いど封のように思えた。    (明日の朝になれば、みつかって、殺されるであろう‘−−それでもいい)  小太郎は、また、水を飲んだ。水が、水の味をしていたし、冷たかった。手が血で固くなって  いるのもわかった。       }ノニ  小太郎は、頭を子供がいしるように、自分の頭の疵を掌でたたいて、指でいじってみた。疵口は、血で固まっていた。   (そう深くはない)  と感じた。それから、手を這わせて、灼けつくように感じる身体の支所へ、指を当てた。腕の疵は、口を開いていて、指が切ロヘくっついた。脇腹の疵は、疵よりも、そこから流れ出た血で、着物の肌へこびりついている方が大きかった。   (深手はないらしい)  と、思った。と同時に(死んではならない)しかし、そう感して、動こうとすると、剖侃は、鉛のように重かった。   (牧に捕えられては?)  そう思うと、ここで、死んだ方が、立派な最期のように思えた。小太郎は、左手で、腰をさぐ’った。刀の鞘もなくなっていた。手を廻十と脇差があった。   (腹は切れる)  小太郎は、一尺二寸しかない脇差が、世の中で一番頼もしい友達のように思えた。そして、脇差を力に、起き上ろうとした。一時に、身体も、手も、脚も痛んだ。   (これしきにーーー)  半分、身体を起こして、片手に脇差を、片手を地に支えながら、起き上って、足を投げ出した。   (ここは、京だ。十三里西へ行くと、母も、妹もいる。逢いたいがf−)  涙も出ないし、悲しくもなかった。   (しかし、逢えぬ。言伝を’−・ー)  と、思った時、小さい灯がちらちらした。   (家がある)  小太郎が、そう思った時、灯が、左右に揺れた。   (提灯だ)  小太郎は、呆然としていた眼を光らせた。   「追手の奴ら?」  そう感した時、人声がした。小太郎は、立とうとした。腰も脚も勤かないし、立っても、逃げ ても、働けもしなかった。    1−     ‐ (どうせ、死ぬのだ。捕えられては、討入の炉折れになる)  ″−、 が‘− .,              かたま  小太郎は、額える手で、脇差を握った。指も、掌も、固く凝っていた。提灯と、人声とが、だんだん近くなって来た。それは、足早く来るらしく、ぐんぐん近づいて来た。   (見事に切らぬとー−−・)  と、思うと、何も考えることがなくなって、ただ腹を、見事に切ることだけが、望みのように感じた。  小太郎は、脇差を抜いて、袴を切り取った。そして、刃へ巻きつけて、左手で、着物を押しあけた。しっかりと、帯を、袴を締めて来たので、弱っている力では、十分に披かなかった。   (早くしないと‐−古  小太郎は、両手で、着物を拡げてから、坐り直そうとしたが、うまく坐れなかった。   (どうにでも切ればよい)  小太郎は、片足を曲げて坐ったように、片足を横へ投げ出して、左手を草の中へつきながら、脇差を腹へ当てた。そして、間近に高い声が聞こえると同時に、突き込んだ。   「何か−IJ』 と、いう声が聞こえた。力がたりなかった。小太郎は、脇差の柄頭を地へ押しつけて、自分の 体をのしかからせようとした。刀が滑った。   (不覚な)と、思った時、襟が掴まれた。     ニノー 「聞かれたか」 とヽ影ぴ開けてヽ脇差を腰から取りながら紡微少ヽ七瀕ミ綱手とを見べ  「ええ?」  綱手が、母の旅立の聯訳を縫いながら、  「何を?」  袋持は、床の間の刀掛へ、脇差を置いてあぐらになって、   「牧氏の修法場へ、斬り込んだ者かおる」  二人は、身体を固くして、胸を打たせた。  「二、三人の小人数でーーー」  「どなた?」  と、七瀬は言ったが、自分の声のようでなかった。   「さ、それが、殺されての」   「殺されてーー−」  綱手の顔色が、変った。手が、微かに蝸えてきた。   「牧氏の一行は、そのまま、江戸へ立ったし、顔見知りはおらぬし−牧氏の方々も、七、ハ人はやられたらしい。京の邸から知らせて来たが、よほどの手きさらしく、見事に斬ってあったそうしか。もう、御帰国かな」  袋持が、七瀬を見た。   「そろそろとーI」  固い微笑をして。   「そして、牧様は?」   「牧は、無事に、今申したごとく、江戸へまいった・・R———J   「御無事で’−」   フ』この、御家老も、近目、江戸下りをなされるがー」   「調所様も?−‐−」   「大殿の御帰国までに、行かねばならぬ用があるでのう」  二人は、調所のことを探りに来て、調所の人物に感心した上、今、江戸へ行かれては、誰にも、顔向けができないように思えた。叡山で、斬られたというのは、八郎太であるか、ないかー−そうした苦しいことが、小さい女の胸の中へ、いっぱいの毒瓦斯となって、いぶり立った。   「袋持」   「入れ」  隣りの百城が、襖を開けて、   「今、聞いたがー」  と、言って、二人に挨拶をした。  「今、御二人に話したところじゃが、誰であろうな、牧氏を獄ったのは?」  「ふむ」  百城は、坐って、駒組して、  「詳しく聞いたか」  と、袋袴の顔を見た。   「いや、牧氏の無事と、七、八入も斬られたのと、斬ロの見事さと、残らず殺されたのと、これだけしゃ」   「同じしゃ。明日、わしは、京へ行くから、詳しゅう聞いてまいろう。一人、逃げたと申すでないか。若いのがーー」   「それは知らぬ」  七瀬が、   「その狼籍者の名は?」   「それがわからぬ。乱暴者の手きさなら、益満休之助と聞いておるが、あるいは、そうかもしれぬし、手ききは多いからのう」   「御家老は、なんと仰せられているか、知らぬか」   「頷いてばかりおられたそうしゃーー京への用は、御家老からか」   「ふむ、ついでに、詳しく調べてまいれと、仰せられたが、牧氏が、御無事なら、余のことは、調べるほどでもない」  月丸は、微笑していた。      ニノニ 七瀬と、綱手とは、Eパたちの着て寝る、木綿の固い針欧を着て、ぴったり、くっついて寝て   いた。十九になる娘であったが、こうして、母親と、一つの床に聡いしていると、子供の心になっていた。    「なんだか、かいは、お父様のように思えてI−お父さまの斬られなすった姿がーーー」    綱手は、小さい声で囁いた。    「不吉なことを言うものではありません」    「妾—−明日、百城様と、京へ、様子を見にまいりましょうか」   「さ、妾も、そう思うが、なましのことをして、ここの人たちに悟られてはならぬゆえ、百城様のお帰りを待って、万事それからのことにしようではないか」   「ええ—−百城様は、お母様、敵でしょうか、味方でしょうか」   「さあ−−口数の少ない人ゆえ、聞いたこともないし話したこともないが、袋持様の御朋輩なら味方であろうかの」  七瀬は、こういって、   (百城様のような、無口な人はかえって頼もしい、益満様とは、まるでうってちごうた性質なり、振舞なり−−)と、思った。そして、そう思うと、早く、綱手に、よい聊をとって、孫を見たい、と思っていたことが、まるで、ちがった方角のことへ来たのに、淋しさと、頼りなさとを感じた。それから、傍に寝ている綱手を見ると、心惚さか、胸を圧した。   (自分は、この子の齢より、一つ若い時に、ハ郎太へ嫁いだのだ)と、田こい出すと、じっと、抱きしめて、耐胆してやりたかった。綱手は、江戸の邸にいて、月に一度、外へ出るか出ずに、 男は、ハ郎太と、小太郎と、それから、益満とだけにしか、口をさく機がなかった。だから、手近い益満に、軽い、乙女心の恋を感していたが、旅をし、男の数を知リーー百城に逢うと、その顔立、物腰、寡黙のうちのやさしさ11それは、益満の粗暴とはちがって、男の値打に経験のな J l  d− −                                     まさ い綱手には、ずっと、益満より、立ち優って見えた。    「世が世ならI−もう、賀取りのころしやに、お父様の頑固と、今度のことでーー—来年は、ニ   I a=i.-≪-F-L-K-—・ -i^", 〜j’7rrψ  く.、a・ 『−  ‐‘・・‘ +歳になりますの・二十歳を越えると、世間では、不具者しゃとか、搬枇しゃとか申すのが慣わ しゆえ、なかなか嫁入口が、あるまいが11」   「御家老損が、なんとか11町人のところへと、いつかおっしゃりましたが」   「そうそう、あの話は、そのままになっているが1のう綱手——百減様のような方が、味方なら、そちゃ、なんとしやるぞ」  綱手は、少し赤らみながら、   「百減損?−‐‐さあ」   「嫌いではないであろうの」   「ええ」   「益満様とは?」   「そりゃI−百城様−—」   「やさしゅうて、真実のありそうな1しかし、明目立って、いつお帰りになるか、安否を知りたいし1−綱手、大事の前ゆえ、よう心してたもれの」  「はい、もう、洽けましたゆえ、お暇みなされませぬか」  「眼が冴えて、なんとなく胸苦しゅうて」  「妾もーー」  「御無事であればよいがーーーー」  「さっきから祈っていました」  「もしものことがあっても、取り乱したり、悟られたりすまいぞ≒  二人は、夜具の中で囁き合った。そして、二人とも叡山で斬り込んだ武士は、夫と、兄とだと思っていた。だが、それを口へ出すことは恐ろしかった。そして、そう信じながら一方では、その二人でないようにと、祈っていた。      三ノー   「百城が京より戻りよった、追っつけまいるであろう」と、袋袴が、いってから、一刻の余になった。二人は、百城が何をいうか、聞きたいようでもあったし、間くのが、恐ろしいようでもあった。   「遅い奴だの、何をしとるのか」  袋袴が、膝を抱いて床柱へ凭れた時、草履の音がした。袋持は、ナぐ、膝から手を、床柱から背を離して、   「百城か」  と、怒鳴った。   「おお、ようようすんだ。一つ一つ、算盤玉に当られるので、手間どってのう」  庭から上って来た。袋特が、身体を延ばして、障子を開けた。  百城は、旅姿を改めたらしく、新しい着物に、袴をつけて、   「特たれたか」  と、二人に、声をかけた。二人は、百城の眼から、唇から、身体中から、夫の、父の、子の、兄の安否を、探そうとした。   「わかりましてござりますか」   「うむ」  二人は、その短い声から、返事から判断しようとした。そして、不安な胸を打たせていると、   「現揚へもまいった」  百城は、女二人の問いに答えないで、袋特に話しかけた。   「比叡山の、どの辺?」   「頂上—物の見事に、斬ってあったそうじゃ。袈裟がけに、一尺七寸、深さ四寸というのが、返す太刀で斬ったらしく、下から上へ斬り上げてあったのは、人間業でないと、申すことじゃ」  「下から上へ、さようなことができるのかのう」   「陶山が、見た話ゆえ、たしかであろう」  七瀬と綱手とは、特ちきれなかった。   「して、その狼籍老は?」  百城は、黙って、しっと、袋袴の胸の辺を見ていたが、急に、二人の方を振り向いて、  「狼背老けーいいや、そういう名で呼んではもったいない。斉彬派の忠臣として、多勢を目掛けて、命を捨てにまいったのは1」  それだけいって、二人から、眼を離し、袋袴の方へ、   「仙波ハ郎太父子」  七瀬と、綱手との顔色が、少し変った。だが、七瀬は、すぐ、落ちついた声で、   「二人きりでございましたか」   「御覚悟は、ござろうが、どう挨拶申し上げてよいかーー−」  百城は、俯向いた。袋袴は、腕組して、天井を眺めて、吐息した。   「八郎太殿は、斬死。小太郎殿は、生死不明f−」   「生死不明とは?」   「斬り抜けるには、斬り抜けられたらしいが、それから、どうなされたか? 牧氏の人数が二十余人、その中へ、二人での斬り込みではー1−」   「二十余人」  綱手の声は顔えていた。   「ハ郎太は、斬死」  七瀬は、ここまでいうと、声がつまってしまった。四人はしばらく黙っていた。 「ハ郎太は、斬死に致しましてござりますか。本望でござんしょう」七瀬は、こう言うと、微笑した。 「頑固一徹の性でーーーどう諌めましても、聞き入れませず−’−」 百城が、  「小太郎殿は、京の近くに、 知辺でもござろうか」と、母子の顔を見較べた。      三ノニ   「いいえ、知辺などー」   「うむ〜−—知辺もないとー」  百城は駒組をして俯向いた。袋持が、   「深手で、山の中へでも、倒れておられるのではあるまいか」   「さあー−−坊主どもが捜しだらしいが、かいくれ行方がわからぬ。深い山だからのうー御ニ人の前ながら、ハ郎太殿の慨は存ぜんが、武士としては、かくありたいもの、のう袋持」   「善悪はさておき」   「いや、善悪から申しても、わしはハ郎太殿へ味方する。詳しゅうは存ぜぬが、一家の内の争いとしては、申し分は双方にあろう。それは、互角しゃ。申し分を互角とすれば、御幼君を失うなど、悪逆無類の業ではないか? それに対して斉彬方の人々が、お由羅様でも殺したとあれば、それは双方が悪いが、陰謀はー方のみじゃ。さすれば、ハ郎太殿ならずとも、わしでも立ちたく ---−− なろう。のう、七順順」   「ありがとう存じまする」  七順は、百城の同情に、しばらく頭を下げていた。それは流れ出して来る涙を押えているのを見せないためでもあった。   「叡山と申す山は、高うござりましょうか」  綱手が、少し蒼ざめた顔で聞いた。  屑高い山でもないが—−‐」   「お母様−Iお兄様を捜しにまいりましては?」   「なりませぬ」  綱手は俯向いた。   「小太郎殿を、捜しに?−−その儀ならば、某が手助けしてもよろしい。御家老へお願い致さば、六日、七日の暇はくださるであろう」  百城は、こういって、七順に、   「なぜ、捜してはなりませぬか」   「浪人音の上に、無分別な父へつきました不孝者‐−−」   「いいや、それとは、ことがちがう。正義とか不正義とか、そうしたことを離れて、ただの子として、親として、妹として、兄としての情義、真逆—−例えば、ハ郎太の死骸を葬るとしても、一遍の念仏も唱えずに、無分別な夫と、洽かにしては、人の道にはずれましょう。それと同じよ うに、小太郎殿の生死が不明なら、これを求めて、もし、逢えたなら、はなくとも、七瀬殿としては小太郎殿の意見を和えさせるのが、これ、らぬか」  百城は、いつにも似ず、雄弁であった。   「はい」   「袋持、そうではあるまいか」   「うむ」 諌めて正道にー・ー正道で人の道、母の情ではござ   「御家老に、申し上げてみよう。ぉ許しが出ずば、是非もない。もし、出たなら、七瀬殿、綱手順とともども、技しにまいろうではござりませぬか」   「ありがとう存じまする」   「生であれ、死であれ、わが子の運命を見届けるのが、人倫に舛れることは、よもござりますまい」   「はい」  百城は、立ち上った。   「ぉ許しのほど、ただ今聞いてまいろう」  二人の女が、頭を下げるのを接に、百城は足早に出て行ってしまった。   「ぉ前一人でいけますか」   「ぉ母様−」  相手は、決心の眼で、母を見た。   「妾は、お国許へ早く戻らねばなりませんから、お前一人で、お供をして−」  と、七瀬がいった時、袋持が、   「百或はー」  と、いったまま、しっと、前の壁を見て、しばらく考えていたが、綱手へ顔を向けて、   「十分覚悟して、行きなさるがよい」  二人は、袋持の言葉に、ちょっと、不安を感じたが、それよりも、百城を信していた。      四ノー  茶店にいた人々は、似合の夫婦らしい、百或と、綱手とを、羨ましそうに感心したように、しろじろ眺めた。  二人は、冬の山風に吹かれながら、薄く額に汗を出して順を赤くしながら、人々の、あわてて引っこめる脚の前を、奥の腰掛へ通った。婆が、茶をもって来ると、百城が、   「この間の斬合のう」   「はいはい」   「あの時、一人、逃げた者があったであろう。存しておるか」   「聞いとります。今もそれで、話をしてましたが、貴下、親子の縁と申ナのは、怖いようどすえ」   「怖いとは?」   「あの大勢の方の死骸は、すぐ、下から、お竹衆が来て引き取られましたが、貴下、お年寄りのだけが、明くる目の夕方まで誰も引き取り手のなかったのを、貴下けん、お山に義奴さんいうて、えらいお坊さんが、おしてなあ、なんと不思議や、おへんか、この義奴さんが、もう、かれこれ、七十にもならしたかのう、爺さん」  婆は、土間にしゃがんで煙草を疹っている爺を振り向いた。   「うん、わしと、六つちかいや」   「そんなら、六十八か。大分、お前よりも、達者やなあ」   「いびりよる婆がいんからのう」   「とぼけんとき。いびるのは、お前やあらへんか」  百城が、  「その義膜が?」  「その養親さんが、貴下はん、その前の日に、今、お話の一人逃げよった奴を、救うておいでなさったやおへんか、なあ、爺さん、血だらけで、虫の息で、誰も、かまいてのないのをー−」 「婆さん、ちがうがの。道朧に倒れていたんを、お坊さんが見つけて、京の屋敷へ引き渡そうというたのを、義奴さんが、まあまあいうて、御自分の庵室へ連れ戻りなされたんやがな。それで、お竹縁」  爺が、立ち上った。     「その若いお侍を遮れて戻ると、なんと、竣成さんは、山に捨ててあるのは、この人の父親にちがいないとヽ一人で頂上へ、お越しなされて、どうどす、血みどろの死骸を、次いで降りて来                             せがれ     あんた   なさったやおへんか。そして、庵室の前へ埋めて、その倅の方を、貴下、竣奴さん一人で、手ず  から介抱してなさるそうやが、これは義奴さんでないとできんことやと、大評判どナがな」     「いや、かたしけない。そして、その竣成の庵室は」     「根本中堂の下どす。あんた行きなはるか」     「うむ」     「けったいなお坊どすえ」     「ははあ、どう、けったいな」     「一風、二里、三里、も変ってますね。物をいわなんだら一日でも、黙ってる1−−」    綱手が、立ち上がった。百城も、鳥目を置いて立ち上った。     「ありがとうございます。御綺麗な、京にも、こんな御綺語な夫婦衆は、ちょっと、見られま  へんど十え。ありがとう存じます。どうえ、このお美しさは」    婆さんは、そう言って、綱手に見惚れていた。      四ノニ  杉本立の、爵々とした、山気と、湿気との寵めている中に、大きい堂が、古色を帯びて建っていた。傾斜した山地を、平にしたところに建っていて、その堂へ行く紬い芸道には、いくつも、 杉丸太を二、三段ずつ損にした、段があった。綱手は、膝頭を押えるようにして、その一つ一つを登って行った。   「お頼み申す」  なんの答もなかった。綱手は、どこに、父の亡骸を埋めてあろうかと、見廻したが、そうしたらしい新しい上の盛り上ったところは、どこにもなかった。皆、草と、苔とが、物静かに、清らかに、黙っていた。   「お頼み申す」  百滅が、前より大きく叫んだ。遠くに小鳥の声と、高い梢を渡る風の音しかなかった。   「物申す。義硯と仰せられる方のお住居は」  微かに、部屋の中で、音がした。深い、屋根の下、高い杉の下に陽を漉られて、障子の色は沈影であったし、縁側の、くちかけた板は、温っていた。物音はしたが、また、そのまま、静まり返ってしまった。   「どなたか、おられませぬか」  百滅ぼ、こういいながら、縁側と、急傾斜な土手との間の、狭いところを、堂の祀賊へ廻りかけた。微かな人の呼吸らしいものが聞こえた。   「お頼み申す」  百滅が、立ち止まった。綱手は、きっと、兄の瞰きだと、思った。その時、ぼさっと、葉にすれる音が堂の真上の木立の中でした。二人が、見上げると、老僧が、枝から、枝へ手をかけなが ら、猿のように、急傾斜な山の茂みの中を胆りて来た。   (これが、義観だ)と、二人は思った。  老僧は、道のない山に、道があるらしく、少しも、聯肌レないで、杉の尉に手を当て、訳対の枝を掴み、大きく飛び降り、滑り降りして、たちまちの中に、堂の後方へ消えてしまった。百拡が、歩きかけると、僧は、部屋へ入って来たらしく、足音がした。   「お頼み申しまする」  障子の中から、   「どなたじや? 御用は」   「当所において、御介抱にあずかっておりまする者の妹、ならびに、付添にまいった百城月光と申す者‐−‐お眼にかかれましょうなら」   「ああ、さようか、お上りなされ」   「勝手許は? 足が汚れておりまするが」   「そのまま」 「はい」 二人は、脚絆をはずして、埃を叩いた。そして、襟を、据を合せ、障子を開けた。七輪に、土 鍋をかけて、草を、膝の左右へ並べて、薄汚れした白衣の老僧が、坐っていた。二人が手をつくと、  「ほほう、似ておる」  と、綱手に、微笑して、ナぐ、百城を見たが、   「御夫婦か」  綱手が、首を振って、   「いいえ」   「身寄りか」   「いえ、身寄りでもー」  義膜は、しっと月丸を眺めていたが、   「利発な方じゃが、瞳中少し、険難だの」   「剣難」   「剣ではない、陰険の険」   「はっ」   「ま、気をつけるがよい。病人は、身に十二、三か所聯しておる。命に別条はない。ただ、焦が高い。これから、薬を煎しるのしかかーーその間に、顔だけ見るがよい。まだ諒言をいって正気づいてはおらん」  鶴膜は、草を持った手で、次の間を指さした。  ぐ   四ノ三 9  小太郎は、汚れた、白い、薄い、蒲団をずて、つつましく縦っていた。頭から、耳、尉へかけ  て、陰気な部屋の中に、くっきり白く浮き立つ包帯をして、片方の眼だけ、微かに、白眼を見せ -   て、眠っていた。   顔色は灰とも、土とも、白いとも、つかぬような色をして、江戸の時と、一月にもならぬのに、   げっそり幌せてしまっていた。そして、時々呻いた。    綱手は、そっと手を額へ当てた。熱かった。汚ない白い蒲団。汚い白い着物、陰気な部屋。そ  れは、自分たち一家の宿命の色のように、しみしみと、悲しく、淋しく、綱手の胸をしめつけた。   そうした色彩の中に、医者でもない僧侶に看護されて、こうしている小太郎は、もう生き返らぬ  人のように思えた。    「明日になれば、熱も下って、人心地かつこう」    義観が、土鍋のところから、声をかけた。    「山は寒いで、熱には毒じゃが、疵にはよい」    「いろいろと、お世話くだされまして、かたしけのう存しまする」    綱手は、小太郎の側から、礼を言った。    「今夜は、この下の寺で泊って、明日、病人と、口をきいて戻るがよい」    「はい」    「父御の墓参りもするかの」    「はい、その、お墓は1’−」    「ちょっと、降ったところにある。案内しよう」    義観は立ち上った。綱手は、自分の家のできごとでなく、他人の世界のできごとを見ているよ うな気がした。一月ほどの内に、江戸の長屋から追い出され、道中、父の死、兄の病−−自分の生きているこの世の中のできごととして、その一つ一つを、はっきりと、感じる暇もなくー感じるにしてはあまりに大きく、深く、悲しいことが、引っきりなしに起こって来たので、頭がぼんやりしてしまっていた。   「父の墓」と言われても、どこかにまだ父が生きているようで、死んだとも、斬られたとも思 えなかった。  汚れた草履を履いて、養親の背後からついて行くと、竹樋から水の落ちている崖の下を降って、少し行ったところに、二尺四方に近い石を置いて、土の高くなったところがあった。義親が、その前に佇むと、綱手は、その土を見た。同時に、涙が湧いて来た。   「極楽往生はしておられる」  義膜は、朗かに、自信ありそうにいった。  綱手はヽ石の前にヽ。耐いて合掌した。合掌するとただ、抄訳に悲しくなって、涙が、 いくらでも出てきた。   (兄もああだし1母がここにいたなら、三人で、ここで死んでもよい。死んだ方がよい。このお坊様に、回向してもらって、この浄らかな山の中で、静かな1ほんとに、静かな——なんという騒々しい、いやな世の中であろう。こんなところに住んで、何も見ず、何も聞かずにおったなら、どんなに楽しいであろう?)  自分の一家の運命と較べて、綱手は、いろいろのことを思った。  「それだけ泣けばよい。泣くと、胸が納まる。父御は、極楽で、今ごろ、いおられる。安心するがよい」  義観は、こう言って、堂の方へ歩み出した。百城は、最後の合掌をして、  「綱手殿」 い御身分になって た醜い顔を、百城に見せたくはなかった。袖で掩うて、立ち上った。 と、言った。綱手は、泣い      五ノー  床は、ちがっていたが、初めて他人の男とーーそれも、お互に好意をもっている男と、同じ部屋に寝なければならなかった。  綱手は、正気のない兄、小太郎の身体を案じ、斬り刻まれた亡骸を埋めている父を悲しむとともに、こうした場合の自分の身躾みについても、綱かい用意をしなくてはならなかった。  武家育ちとして、人に素の肌は見せぬものと、教えられていたし、嫌いでない百城の前であったから、風呂で、白粉をつけはしたが、鏡が無かった。  滅入るような、薄暗さと、静けさとの中で、綱手は、鏡無しでつけた白粉ののり、紅の濃淡、髪の形を気にしながら、百城の前で、じっと、俯向いて黙っていた。  何か、月光と、話をしたいしf−話でもしなくては、がまらなく淋しいし−−話しかけても欲しかったが、それでいて、月光から、話されることを、想像すると、胸が、どきんとした。   (恋であろうか)と思うと、いつか箱根路の闇の中で益満の身体に触れたことが思い出された。   (大事の時に、なんという烈らな心−—)と、自分を叱ったが、いくら、叱りつけても、滑らかな、暖かい乙女の肌が、その時の感じを喜んでいて、益満の揚が、鮮かに、頭の中へ、蘇ってくるように感じた。  そう思って、俯向いていると、月光が、じっと、自分の顔を砂つめているような気がした。そして、   (白粉が、斑なのかしら)と思うと、なんだか、それ一つで、月光が、自分に愛想をつかすようにも思えた。   「静かだ」  月光が、呟いた。綱手は、   「本当に、静かでございますこと」  と、言いたかったが、いおうとしている内に、いいそびれてしまった。   (もう一度、何か、言ってくれたならー)  綱手が、こう思った時、   「綱手殿」  綱手が、顔を上げると、月光が、正面から眺めていた。綱手は、俯向いた。   「はい」   「再び、お身を悲しませるようなものしかか、ハ郎太殿はおなくなりになったし、小太郎殿は1ーーよし命を取り留むるに致せ、あの深手では、不具—−悪くまいれば、不具とならんも計りが -   たいし、また、腕の筋一つちがっても、ニ度とは、刀のとれんこともあるしー七願厳のお心、お身の気持を察しるとーーなんとも申しようもない。世の中のふしあわせのいっさいを、一身、   一家に受けておるとしか思えぬI申しようも無い次第だ」    綱手は、身躾みのことも忘れ、その同情の言葉を嬉しく、悲しく聞いていた。    「七願厳と八郎大殿とに、どう、意見の相違があろうとも、またー−−そなたと七瀬殿とが、同  意であろうと、なかろうと、某は、ハ郎太厳に、また、小太郎厳に、味方したい。これは、お身  に計るのではない。某、一存の決心I−ただいまより小太郎殿に代って、牧の一味を討とうと存  ずる」    「貴下様がー−」    綱手は、眼を見張った。    「お身は、七瀬厳と、同意ゆえ、某のこの決心には不同意であろうが、ハ郎大厳の志を思い、   その働きを思うとき−−武士として、見すごしできぬものがある。小太郎殿、御回復を持って、   談合の上、斉彬派同志の一人へ入りたいーIただいま、決心致した1‐‐−御不服か」    月光は、低く鋭く言った。     五ノニ 綱手は、 ’(不服どころかーーー嬉しゅう思いますし、兄も、間いたなら、さぞ喜びましょう)と、思いは したが、七瀬が、固く、月丸に対して、夫とは反対ゆえ、と、いいきっていたから(お頼みします)とは、言えなかった。だから、月丸のそうした言葉に黙っていたが、   「綱手殿は、御不服であろうか」  ’‐I−と、月丸が、もう一度言ったのに対して、   (不服でございます)  と、砂防と、返事もできなかった。月丸は、組手が、黙っているので、   「いったい、お身は、不服か、それともーーー」 と、問いつめてきた。綱手は、 どっちとも返事ができなかったし、したくもなかった。 「七額殿のことを、澄し尉に申してはよくないが、射しては夫に従う、これが、聡い道でござ ろう。まして、いずれが王族、いずれが不義と、判断のつかぬ騒動、斉興公に従うが利益ゆえとーーただ、利益ゆえで、夫の意見にといなど、ちと、誼に落ちんこともある。では、ござらぬか−I・‐綱手殿」  月光は、微笑した。  「しかし—−女としては、よく決心し、よく計られた。貞女、飲彫とも、秒められんこともないーーーーとーI某はー見ておるがー」  月光は、組手の上げた眼へ、美しく、澄んだ眼で笑いかけた。綱手は、ようよう返事のできそうなことを、月光が言ったので、  「と、申しますとーー」  と、月光の言葉の意味が、十分にわからなかったから、同じように、微笑して聞いた。   ス心か、それが、七瀬殿なり、お身の本心じゃ、と、思うが’−どうかの」   「それがとは?」   「父兄に不同意と、見せかけてー‘−」  月光は、駒組をして、組手を見ながら、だんだん唇に、眼に、笑を、大きくしていった。   「見せかけて」  綱手は、冷静に、こういったが、月光の、附かに、感心をし、月光を半分但し、半分怪しみながらも、なにかしら、安心したような気のするところもあった。   「父兄と、争かって家出したとは、真赤な嘘、ちゃんと、諜し合せて、御家老の秘事でも、探ろうという所存j−−」  綱手は、胸を衛かれて、少し、赤くなったが、   「いいえ」  と、烈しく、首を振った。   「それなら、江戸に止まっておりまナる。国へ戻りナがらのーーーお恥かしゅうござりますが、路銀も乏しく、御家老縁にお鎚りしてとII」   「いやー気に障えられては困るIもし、さような女丈夫であったなら、某‐−命にかけてもー−−」  こういって、月光は、急に黙った。綱手は、その後につづく言葉が、なんであるかを察した。 そして取漑を赤くし、全身の血を熱くしながら、月光が、はっきりと、次をつづけるのを待っていた。月光はじっと、駒組をして、俯向いていたが、   「さようのことは、芝居話−1−今の世にあろうとは思えぬ。しかし、ハ郎太殿の血を受けていながら、兄妹としてそうまでもちがうものかー−のう、綱手殿。武士としては、単身敵地へ間者に入るほどの女をヽ女房にしたいものしゃ・当節は≒対見旗本のごとくヽことごとく遊芸に凝れば、婦女子も、芸妓を見習って、上下、赴くところは、惰弱の道のみ、それと、これと雲泥の差ではござらぬか。お身も、小太郎の妹ならなぜ、及ばぬまで、牧の行方を求めて、小太刀の一本も恨まれぬぞ−いや、こういうことを、近ごろは、rがと申す。夜も、ふけた。聯みなされ」  月光は、こういって、立ち上った。そして、廊下へ出て、   「快い夜しゃ」  呟いて、厠の方へ行った。      五ノ三  綱手は、口借しかった。好きな月丸であっただけに、罵られるのが、辛かった。だが、同時に、   (女丈夫—命にかけてー−妻にしたい)と、いう言葉が嬉しかった。   (もし、百城様が、妾の本心を知ったなら)と、思うと、もう、百城は、自分のもののように思えた。     (いつか、わかる時があろう)と、心の中で、微笑したが、(わかる時までにーーーーもし、ほかに、好きな女子ができたなら)と、思うと、心臓が早くなった。     (打ち明けたら?−—あれだけの決心をしていなさるからには−−‐しかし、母も、父も、余人  には知られるな、知らすな、と固く仰せられたのだからーーーでも、対手によって−−百城様なら、   と舟も称めていなさるしー)    綱手は、半分の口惜しさ、悲しさと、半分の嬉しさとを抱いて、百城の戻って来る足音を問い  ていた。百城は、障子を開けて、    [早く、お臥みなされ」    と、冷やかに言った。    「はい、貴下様から」 「倣対であろうかヽ岨邨貳肘獄くヽ しよぅせい 鐘声なし」  半分、節をつけて呟きつつ、手早く、着物を脱いで、   「御免」  兎のように、蒲団の穴へ入ってしまった。綱手は、その子供らしい快活さに、微笑みつつ、ぎ棄てた月光の着物を畳んだ。男の体臭が、微かに匂った。益満のことを、また思い出して、人を比較しながら、 脱   (益満様を、世にも頼もしい方と思っていたが、ここにはそれにも増して、頼もしい方がいなさる)  そう思って、月丸の、後ろ寝姿を見た時、  「これは、恐縮」  月丸が、寝返って、畳んでいる自分の着物の方へちょっと手を延ばした。  「いいえ」  綱手は、眼がぶっつかったので、あわてて俯向いて、畳んだ着物を素早く、蒲団の裾へ置いた。そして、月丸に背を向けて、自分も、帯を解きながら、   「灯は?」   「消す」  組手は、長禍神姿を、見られたくはなかったので、帯を半解きにしたまま、二つの床の真中を、静かに通って、行燈の火を、手で消そうとした。だが、なかなか、消えなかった。   「某がーー」  月丸が、半身を出して、手を延ばした。二つの手かが斜のところで、ぶっつかるうとした。綱手は、あわてて手を引っ込めた。月光は、肩を、胸を、少し現しながら、   「なかなか、消えぬ」  と、呟いて、烈しく、手を振った。  火が消えた。   「ありがとうございました」  軽く、油煙の臭気のする中で、そういって、綱手が、帯の解けだのを、引き上げると、月光が、 押えているらしく、動かなかった。だが、ナぐ、  「これは、御無礼」  と、手を放したらしく、帯が自由になった。腰紐を解き、着物を脱いで、床の上に坐った時、  「綱手殿−−‐どうも、本心が」  「本心が?」  「わかりかねる」  「その内に−—おわかりになりましょう」  「その内に?7−−・その内に?」  月光は、綱手の床の方へ向いているらしかった。      五ノ四  しばらく、二人は、綱手は、囚い蒲団を、  「綱手殿」 黙っていた。冷やかな闇と、深い山の沈黙とが、あいまでに感しられた。肩まで被て、摺絆の裾で両足をくるんだ。  月丸の声が、月丸の臥床の端’−組手の蒲団の近くでした。相手は、両脚を因くして、胸を躍らせながら、  「はい」  「本心が、わかるとは−−どういう本心、また、それがいつわかるかf−」   「さあ」  綱手は、月光が、愛慾のことでなく、さっきの言葉のつづきを話すのだと思って、安心した。だが、答えられないので、そのまま黙っていた。   「母上は、生きておられる。父上は、しかし、斬死になされた。なぜ、それに、お身は、母上にのみ、孝行をなさる」  綱手は、答えなかった。   「綱手殿」  相手は、まだ答えなかった。こうして親切に、熱心に、味方してくれる月光に、打ち明けたくて、鉄瓶にたぎる湯のごとく、口まで出かかっていたが、それがいえなかったし、だからといって、ほかのことでいいまぎらすことも、できなかった。   「なぜ返事なされぬ」  月光の声が、近々として、蒲団の端が、動いた。綱手は、月光の無礼を帽めるよりも、月光になんとかうまく答えたいと、考えていたし、月光の同情に対し、自分の答えのできないのに困っていた。   「無理かもしれぬ」  こういった月光の声は、坐っているらしく、上の方でした。   「いつかわかる、と1その意味は?−綱手殿。某の申した、女ながら、対妬れの決ふか、わかると申す意味か—−そうとしか、某にはとれぬが、綱手殿、そうとってよいか、よくないか」 --−-    低いが、情熱的な言葉であった。綱手は、済まぬと思うと、薄く、涙が出て来た。それは、他人の情熱的な同情に対して、なんとも答えられぬ苦しさからであるとともに、自分の愛する男へ、   本心を打ち明けることのできぬ悲しさからの涙であった。    「綱手殿」    異常に、昂奮した声が、低く響くとともに、月光の手が、綱手の肩をぐっと掴んだ。    「そうとってf−とってよろしゅうござるか」    綱手は、月光の手を払おうとして、自分の手を動かしたが、それが、月光の手に触れるのが恐  ろしかった。だが、自分の肩から月光の手を離すのも、厭なような気がした。しかし、そのまま  に掴ませておいて、    (だらしのない女)と、思われたくなかったので、静かに身体を引きつつ、寝返ろうとした。   その瞬間に、月光の手が綱手の腕を握った。そして、おおヘロが近づいて、    「打ち明けて−−某、命にかけてのこと」    月光は、喘ぐように囁いた。綱手は、頭の中が、唸り渡っているように、しびれているように  11脚を固くしめて月光に握られている腕を、引き離そうとしながら、全身を恥かしさで火のよ  うにして、尉えていた。月光は、綱手の腕を握ったまま、耳許で、    「命にかえて他言せぬ。きっとー!そうしや。本心は父と同腹であろう。恋する者には、対手  の此の中まで読める。命にかけてのーー’綱手殿、命にかけて−1」    月光は、女の耳菜へ、時々、唇を触れさせつつ、微かにだが、情熱的に噺いた。そして、両手 で、腕と、肩とを抱きしめていた。綱手は、頗えながら、が、肉体が、血が、男の締める力を快く感しているのを、興奮とで、物もいえなかった。 そして、軽く抵抗しながら、肩が、腕どうすることもできないで、羞恥と、      五ノ五  「百城様—−−」  「うむ」  月丸は、眠りかけているらしく、鈍い返事しかしなかった。綱手は、   (こうなりましたうえは、一生見棄てないで−j)  と、言いたかったのだが、ロヘは出せなかった。   (眠っていらっしゃるなら、ちょうどいい、そんな恥かしいことが、ロヘ出せるものか)  とも、思ったが、月丸が、ただうむとて冒だけしかいわなかったのが、ひどくものたりないようにも感した。そして、だんだん眼の冴えてくる自分と、もう、眠りかけている月丸を較べて、   (男というものは、こんな人間の大切な時に−−−一生に一度の大事な時に、こんな気楽なものかしら?)  とも、田心った。  身体中が、熱っぽいようでもあるし、偉れているようでもあるし、何かが抜け出したような感しもするしー不安でもあるし、幸福にも思えるしーー生娘でなくなったという後悔は、少しも   起こらないで、明るい未来の空想だけが、いろいろ金色の鳥のように羽を拡げて翔け廻った。だが(兄上は?)と思うと、ちょっと、暗い気もするし、ハ郎太を埋葬したところが、すぐ、頭近  くの外にあると思うと、ナまぬような気もしたが、それはすぐ、    (でも、この方が、親身になってカを添えてくださって、きっと、お志は貫きますから−)   と、いう対聯をして、たいして心が咎めなかった。それよりも、兄と、ハ郎太とに対して、月  丸を穫たことを誇りとするように、    (よい男で、お強くって、お利ロでー−本当に、妾を可愛がっていてくだすって−どうぞお  喜びくださいませ。お母様は、きっと、嬉しくお思いでしょうが、お兄様も、お父様も百城様を  御覧になったら、けっして、お叱りにはなりますまい。淫らな組手ではござりませぬ。ちゃんと  考えて、お父様のお志を継ぎ兄様の手肋けにもなりー−それから、妾のよい夫として、申し分の  ない方だと思って、許したのでございます。それも’−それも百城様からーーあちらからせがま  れてf−なにも、妾から、手を、口を、出したのではござりませぬ−‐−)    綱手は、父に、兄に、母に、こう説明していたが、    (益満I)    と、思うと、はっとした。    (妾は、益満様を好いていたのにー上一人を好くということは、操の正しい女ではないのかし  ら?−いいや1いいやー益満様は、ただちょっと、好きな人。百城様は、夫‐−一生添う  てゆく、妾の夫−)  相手は、微かに聞こえる月光の呼吸を、全身で聞きながらなにか、もっと、話して欲しい、と思ったり、手でも、足でもいいから、ちょっと触れたい、と忠ったりーーだが、つつましく、因くなって、開の中で、ただ一人、心を、眼を冴えさせていた。  時々、棺を渡る風の音と、なんともしれぬ鳥の叫びと、自分の寝間着のすれる音のほか、何一つ聞こえない静寂さであった。   (もう、何刻かしらーー)  と、田心った。そして、   (願くなった。疲れているから1−百城様も、本当に、今日はお疲れでいらっしゃるだろうから、お願いのも無理はない)と、思ったりしているうちに、寝入った。月光が静かに身体を動かして、   「えへん」と、小さく聯をした。綱手は、動きも、答えもしなかった。   (眠ったな)  と、月光は、思った。そして、静かに、蒲団の中から抜け出した。      六ノー  月光は、帯を締め直した。そして、自分の蒲団の中へ入れてあった脇差を差した。   (この女を利用して、敵営の秘密をさぐりだす1−忠義の前には、こういう手段もしかたはあるまい)    月光は、しばらく、綱手の寝息をうかがってから、立ち上った。そして、足音を盗んで、障子を忍びやかに開けた。冷たい廊下、冷たい風の中へ出た。     (だが,’−−わしは、この女にぼれている。それは本当だ。だが、味方をするといって聯抑もし  た−欺いたが、好きは好きだーー好きな女をーI欺くということIそれも、武士として致し  方がない。いいや、それが、武士の辛い道だ−しかし、この女に、それがわかるだろうか?)   月光は、そう思いながら、洗足のまま、苔のついた土の上へ降りて、草の中を、庵室の方へ歩  み出した。     (わしの、この’ーーこうした本心を知ったなら、怒るか、嘆くかーーー怒りもするし、嘆きもし  ようがfl妻は、嫁しては、夫に従うべきはずだー)    月光は、綱手を、妻とし、自分をその夫だと考えてみて、苦笑した。     (あれでー妻であり、夫であるのか)    と、田心ったが、綱手の誓ったそうした言葉も、自分のいった同じ言葉も、そういった時は、お  互に本気だったと思うと、人間は、愛慾の世界にいる時は思慮のない情熱で、憑かれたようにな  るものだと思った。     (妻でも、夫でも、なんでもよいが、本心を語るのは、少し早いー−いいや、早いというより  も、あの女は、わしを自分らの味方と信して、肌を許したのだ。わしが、こうして、わしの父を  狙っている小太郎を討ちに行く、と知ったなら、もちろん許しはしなかったであろう)    月光は、夜露に濡れながら、高山の冷気の中を、冷たいとも感しずに、歩いて行った。   (それでは、一生、この本心を打ち明けずにいるか? そんなことはできることでない。いつかはわかることだ。いつかわかる、その時まで自然に任せて待つか? それとも、いい機に打ち明けるか? それとも、小太郎を斬りすてて、父の身体を安らかにし、賊党の模様をさぐった上で、別れるか?——−いいや、別れたくはない11では、どうしたらよいか)  足で、手で、さぐりつつ、木立の間を、庵室へ近づいた。そして、星あかりに庵室か黒く見えるとともに、静かに裾を端折って、帯に挾み、   (女のことなど、どうでもよい、父を狙う奴をー—)  と、思った。そして、戸締りもしていない廊下へ手をつき、と同時に、心も、身体も、小太郎と、義観とに対する注意と、った。 膝をあげて、しっと、耳を澄ます用意とで、いっぱいになってしま  部屋の中の物音は少しもしなかった。月光は脇差を静かに抜いて、右手に持ちながら、入口から、小太郎の寝ている奥の方へ、ぼうように、廊下を伝った。   (あの老僧は、小太郎の部屋にいるか、次の間にいるか?)  夜ざとい老人が、起きては邪魔であった。月光は、次の間のところまで来ると、義膜の寝息を彩ダため、しばらく、しっと、耳を立てていた。だが、少しの音もしなかった。小太郎の鉛からも、物音は聞こえなかった。   (二人とも眠っている)  月光は、それでも、足に、手に心を配りつつ、自分の耳にでさえ、少しの音も聞こえないくら   いにして、次の間と奥の間の境まで来た。そこに立っている柱が、その境であった。月光は、右手に勝差を立て、左手を障子へかけた。そのとたん、次の間からーー月光の沢がちになった耳の  ところで、障子一重の近さで    「なんの御用かの」    その声は低かったが、優しかったが、月光は頭から、一掴みに、身体ぐるみ、冷たい手で掴ま  れたように感した。      六ノニ  義観の声は、月丸の、すぐ耳許でした。あまりに近すぎた。その声は、月丸の心の中も、刀も、何も、見ているらしく感じられる声だった。   (この真暗な中で−‐−見えるものか)と、月丸は、あわてながら、もがきながら、頭の中で叫んでみたが、あまりに近く、あまりにやさしい、その不気味な声は、見えているとしか、思えないくらいのものだった。  月光は、答えもできないし、動きもできないし、刀を握りしめたまま、全身を因くして、いすくんでしまった。障子が開いても、義観が出て来ても、手も、足も、舌も、動かないと感じるくらいに、薄気味悪い、凄い声だった。  昼間見た、山を降りて来る足取り、あの石を巡んだという怪力、その鋭い眼1−‐それは、人間でなく、何かのぞ挑のように、もう一度月光へ飢かって来た。  刀を取っての対手なら、誰にも負けぬ自信はあったが、闇の中に物が見え、刀を抜いて近々と近づいている者へ、やさしく、   「なんの御用かの」と、空々しくいいかける老人は、どう対手にしてよいかわからなかった。   (しまった)と、感した。そして、義観が現れたら、身体ぐるみ、ぶっつかってやろうと、しびれるような気持の中で決心をして、次の言葉と、義観の出現とを、持っていたが、それっきり、次の言葉がなかった。  月光は、自分の耳を疑ってみた。だが、明かに聞こえだのは聞こえたのに違いなかったのだから、たった、その一言だけで、後はいくら待っていても、次の言葉が聞こえないとなると、いっそう、不気味になってきた。だが、月光は、何ともいえなかったし、身体を動かしたなら、なにかしら、大変なことが、自分に起こるようにも思えた。今の、やさしい言葉が次には鋭い言葉になって、自分の刀は析れて、小太郎が出て来るーそういうようにも感じられた。  月光は、呼吸をこらし、身体を固くして、しっとしていたが、少しずつ、そんなものが、ほぐれかけると、   (義観ぐらい−−この刀の下にーI)  と、いうような勇気が厭の底から少しずつ湧いて来た。だが、もうどうしても障子を開けて、小太郎の居間へ入る勇気は出てこなかった。退くか、義観と戦うか? その二つが混乱して、月丸の頭の中を走り廻った。   (もう一度、あんな、薄気味悪い声を聞きたくはないー戻ろう) o  と思ったが、戻りかけたら、なにかしら、あはははははと、笑われそうな気がした。月光は、四方から、義観の眼を浴びていると感じた。    少しずつ、恐怖が薄らいでくるとともに、月光は、声のした障子のところから、一寸、二寸と、   身体を離しかけた。     (黙っていろI−声をかけるな)    と、いうような、臆病な心が起こって来たが、どんなに、それが、卑怯だと叱ってみても、止  まらなかった。廊下の端へ近づくと、月光は、片脚を延ばして、土へ触れさせた。そして、はっ  と、安心し、呼吸をついだ時、    「馬鹿がッ」    それは、大きく、鋭く、月光の此の中を、射ヤ突き上げるように、響いた。頭の中へは、ぐゎ  ん、という音とともにいっぱいに拡がった。それは、声でなくて、人間の内臓を、頭の中を、そ  の内部から撲ったようなものだった。    月光は、よろめいた、そして、一気に、崖を飛び降りた。そして、立木にぶっつかりつつ、聡  地につまずきつつ、走り出した。 六ノ三  魔物の住家にいるように感しられた。寺へ戻って来たが、義観は、すぐ、その障子の外で、まだ自分を見ているように思えた。  荒い足音、障子を開けたので入って来た冷たい風に、綱手は、眼をさました。  「百叙任」  月丸は、綱手の声で、心強くなった。あわてている呼吸、狼狽している心臓を押えながら、鞘へ刀を納めて、手早く、蒲団へ差し込んで、  「まだ、眠らぬか」  「貴方任は−Iどちらへ」  「わしかー−−」  月丸は、綱手も、自分が、小太郎を斬りに行ったのを、知っているのではないか、というように感した。  「わしは、厠へ」  「冷とうございますから、早う、お臥みなされませ」  綱手は、媚びと品位とを含んだ、滑らかな口振リでいった。 「寒いのう−—ほどなく、夜が明けよう」 「ほんとに、寒いーーー」 月丸は、それが、自分を沢かに呼んでいるのだ、と思ったが、「明日は、また、歩かねばならぬから、早く眠るがよい」 「歩くとは?」 「大坂へ戻らねばならぬ」  綱手は、しばらく答えなかったが、   「妾も−‐」   「いいや、そなたは意のままにー」  綱手は、また、しばらく黙っていた。  「小太郎は、あのー老僧の手当で十分であろう。しかし、介抱してあげるがよい。わしは、いろいろと用があるゆえ、早く戻らねばならぬ」  「でもー来る時は、四、五目−—」  「思い出したことがあっての」  「では−−帰りはーーー妾、一人?」  「迎えにーー迎えに、京までまいってもよい。綱手、ここで一目、二目別れたとて、一生別れるわけでもあるまいにI」   「それは、そうでございますがf−−」  綱手は、起き上ったらしく、蒲団の上の方で声がした。そして、ねずれの音がしたので、   「どこへ」   「ちょっと」   「厠へか」   「はい」  綱手は、月光の枕頭のところを、静かな足取りで歩んで行ったが、   「ま、砂がー—ああ、ここら,−ニ面に」  立ち止まったらしく、   「誰か1−入ってまいったのでござりましょうか、ひどい土がー」   「土?」  月丸は、自分のあわてていたことに、怒りが生じてきた。そして、それを執拗に、大仰らしく調べている綱手へも腹が立ってきた。   「まあ、お枕の方ヘーーー」   「狸でも入ったのであろう。よいではないか」   「狸が」   「山のことしや」   「まあ、気味の悪い、妾—−」  相手は、月丸の枕近くへ寄って来た。   「武士の娘が、狸ぐらいをーー」  月丸は、綱手を叱ったが、綱手の廊下へ出るのを見に自分が立ったなら、障子の外に義膜がいるような気がした。   「でもー」  綱手は、媚びるように、甘い口調であった。   「そこまで見てやろうー子供でもあるまいに−」  月光が立ち上ると、ナぐ綱手に触れた。二人の手は互に探しあった。   「まあ、冷たいお手々」  綱手は、自分の両手の中へ、月光の右手を挾んで押えた。      七ノー   「連衆は、どうした」  と、義観が聞いた。   「用事がござりまして、大坂へ戻りましてござります」  綱手は、誰に逢うのも恥かしかった。誰でも百城と自分の仲を知っているように思えた。顔か、身体か、眼か−−どっかに、変ったところができているように思えた。   「昨夜は、なんともなかったかな」  義観のこういった言葉は、優しく低かったが、綱手には、月光と二人のことを知っている言葉のように思えて、真赤になった。そして、義観の柔らかであるが、底光りのする眼は、すっかり二人の仲の何もかも知っているように思えた。綱手は、返事ができないで、俯向いてしまった。   「あの若者は、利発じやが、気をつけんといかん」  綱手は、一々自分のことを指されているのだと感じた。初めて見た時から、ただでない僧だと思っていたがーー仏の前に、ひれ伏す罪人のように、義観の前では、小さくなって行くのが感じられた。  だが、なにかしら、百城に、惑いところがあるような、義膜の言葉には、小さく反抗したかった。惑いのは、皆、自分が惑いので1−一百城様に悪いことがあれば、それは、妾が、惑くさせたので、百城様の罪ではない、といいたかった。そして、   (気をつけぬといけない、と、おっしゃいましても、もう取返しのつかぬことになりました) と、心の中で呟いていた。   「熱がfいて、もう、口がきける。逢うがよい」  綱手は、少しでも早く、義膜の前を去りたかった。   「ありがとう存しまナ」  と、両手をついて、すぐ、次の間の襖を開けた。小太郎が、儒卯いたまま、細目を、嗅の方へ向けた。二人の目が合った。綱手は、小太郎の鋭い、表情のない眼を見て(まだ悪いのかしら−−見えたにちがいないのに、眼の色ひとつかえないでf−)と、思った。そして、小太郎に、笑いかけて、   「よく、お矩りになりました」  と、枕の横へ行って、上から、なつかしそうに聯き込んだ。だが、小太郎の眼は、冷静であった。   「なにしにまいった」   「ええ?・」  綱手は、小太郎の口調が、意外なので、はっとした。 6  「お前には、お前の仕事があろう。わしに付添うていて、それが、なにになる? 死ぬものは死ぬ・朧るものなら、癒る。そんな覚悟で大事がなせるか’—−帰れ。母上にも、そう申せ。いっ  たん、扶をわかった上は、事成就の暁まで、濫りに小さい恩愛のためには、動きますまいとI  I」    綱手の方を向いて、低く、こういうと、くるりと仰向けになって、眼を閉してしまった。    「でもーーお母様は、お兄様の生死を案しなされてーーー」    「たわけっ。お別れナる時から、生も、死も覚悟をしておるのではないか。これが、京と、大  坂の間しゃから、とにかく、もし、わしが、国許で、生死不明にでもなったら、それでも己の仕  事をすてて、国許まで探しに戻るか。た、たわけっ」    「はい」    「帰れっ」    義観が、襖を開けて、    「そう叱ってはいかん」と、頭を出してから、ゆるゆる立ち上って入ってきた。        七ノニ  「老師」 小太郎は、義観へ、微笑した。 「暁ごろに、誰か、忍んでまいりましたがー」   「猿じゃろう」  義観は、こともなげに答えた。小太郎は、義膜が猿だと信しているのへ、押し返して聞くのは、悪いような気もしたが、   「いいえfl老師は、馬鹿と、一眼なされましたが」  小太郎は、義膜の眼を、下から、しっとぞつめながら、   「猿ではござりませぬ」   「猿みたいなものしゃ、猿ではないが1−」   「忍びよる気配には殺気がござりました」   「感したか」   「害心なきものの近づく音とはちがっておりました」   「のう、妹御」  と、義膜は、綱手の正面から、   「昨夜、遅くに、小太郎を殺そうと、忍んで来た者がいた。わしが、一喝したら、転げて逃げた。心当りがあるか」  綱手は、自分が、百城と、。愛慾の世界に歓喜している間にも、兄にはそんなことが、起っているのかと思うと、心の底からすまぬように感したがーーそう感した刹那、   (あの畳の上の土、砂−‐)  綱手は、全身を択ざめさせた。     (もしかしたら、百城様がーーーいいや、いいや、けっしてそんなことは、そんなことを百城様が)    「心当り?—‐さあ」    と、口だけ答えて、じっと、俯向いていたが、     (急に、大坂へ戻ると言って、暁に立って行ったのも、怪しい、と思えば、怪しいがI百城  様が、そんなー−あのやさしい、頼もしい百城様が、そんな、兄を殺すなどというーーー)    打ち消したが、綱手には、立っている崖が崩れかけたように感じた。温かの下に渦巻いている  深淵へ陥込んでいくような、絶望さえ感じてきた。    「よく、剣禅一致と申十ことを聞きまするが、不立文宇にて、生死を超越する境地は、剣も、   禅も同じと致しまして、昨夜の、馬鹿と申された一喝、その気合の鋭さは、剣客の気合とても遠  く及ばぬ館がらおいておりましてヽ某の腹の中へもヽぐわーんと響いてヽしばらく' "iiとして  おりました。最初に、なんの用か、と、やさしく聞いて、敵の意表に出て、後に虚を釘いてのー  喝、その虚実の妙−−’」    「よしよし、もうわかった。ところで、女、気をつけるがよいぞ」    「はい」    「よく考えてみい」    綱手は、自分の身体が真暗な中の空間に引っかかって、手、足を、もがいているような気がし  た。  「綱手、牧は、どこへまいったのであろうか、存ぜぬか」  「江戸へまいられました」  「調所は?」  「やはり、御勝手元御調べのため、近々に、御江戸へ」  「そうかーーわしは、二、三日、こうしておって、すぐ江戸へ立とう、益満から、便りでもあったか」   「いいえ」   「あれも、この辺へまいっているはずだがーー」   「益満様が?」  絹手は、こういう時に、益満に逢えたなら、と思った。   「緋は、皆浅手じやで、心配することはない」   「腹の疵も、少し痛むくら’いーーー」  と、小太郎は笑った。   「自分で新ったのが、一番、深手しやとは、おかしい、あはほほ」  綱手は、二人の話によって、小太郎が、自分で腹を切ったとわかったが、それに対して、ロをきくことさえできなくなっていた。月丸のことで、頭の中に熟い風が吹きまくっていた。 同所の死       }ノ】 荊郷は、岸私か、襖のところへ平伏したのを見ると、  「どうしやな」 と、声をかけた。調所は、それに答えないで、静かな足取りで、斉興の前へ来て、  「お人払いを−−」 その眼の中にも、言葉の中にも、いつもの調所には無かったものが感しられた。  「人払いか」 と斉興は、軽い不安を感しながら、  「皆、退れ、遠慮致せ」 と手を振った。近侍たちは、一人一人礼をして作法正しく、次の間へ立って行ってしまった。  「なにごとしや。また、わしに隠居せいと−−’かな」 関所は、黙って、首を振った。それから、しっと斉興の顔をみて、  「手前、覚悟致しておりましたが時節がまいりました」  「覚悟しておった?−どういう覚悟」  同所は微笑した。   「十余年前に申し上げました覚悟−1万ス密貿易露見の暁には、手前、一身に負いまして、御家の疵には—」  とまで言うと、斉興の眼は鋭くなって、叱りつけるような口調で、   「そりゃ、真実か。真実、露見致したのか」   「致しました」   「そいつは伊勢(老中、阿部伊勢守)の手に握られているのか」   「はい」   「なんとして?—−誰が、そのようなー」   「心当りもござりまするが」   「誰しゃ、其奴はー」   「匹夫の業、格別咎めだてしても」  斉興は、烈しく、首を振って、   「いいや、ハつ裂きにしても飽きたらぬ奴。他国老か家中の老か」   「そのとかは後として、御前、伊勢の手に、証拠が入りました以上はf−」   「どういう証拠が入ったか?」   「しかとは存しませぬが、それにも、心当りがござります。しかし、緊急の御相談は、—−密貿易の罪は手前負うと致しまして、手前亡き後の財政処理のこと、また、密貿易を今のままに続   けるか、続けぬか? 琉球の処置方、同意町人どもの処置方、また、もし公儀より、この件について御手入れのあった場合の時のこと、また、手前以外の貿易方御取調べのあった節、どうロを  合せるか、それから手前の務めと致しまして、亡き後の物品の処置方、帳面の整理引合せ等。い  ろいろの、短い時日の内に、山のごとくござりますゆえ、御大儀ながら、その辺、御意見をお洩  らしくだされますようー」    斉興は、俯向いて、じっと、調所の言葉を聞いていたが、「かたじけないぞ」と、低く呟いた  声は、温っていた。国所は、    「はい」と、答えて、同じように俯向いた。    「二十年近くの間、今日死ぬか、明日死ぬかと、覚悟をして来てくれた心底、わしにはよくわ  かっておる。かたじけない。笑左、改めて礼を申すぞ」    国所は、答えなかった。    「島津を救い、島津の礎を築いてくれた功績はーー」    斉興は、脇息から、手を離して、両手を膝の上へ置いた。    「家中の者に代り、御先祖代々の御霊に代って、社を申ナぞ」    国所は、畳へ両手をついたままであった。      }ノニ 「笑左−‐−しかしf−」  斉興は、手早く、眼を拭いて、いつまでも黙って俯向いている調所へ、   「何かよい分別はないか」   「手前−−」  と、いって、調所も、指で眼頭を押えた。そして、少し緋ががかった眼を上げて、mかに笑いながら、   「勇士は馬前の討死を本望と致しますからには、手前は、密貿易にて死ぬのを、本願と致します。この齢をして、三年、五年生き延びんがために、なまじ悪あかきは致したくござりませぬ」  「うむ」  と、斉興は、大きくうめいた。   「御茶坊主から取り立てられまして三千石近い大身となり、家老格にも列しましたうえは、仕事は、まず、十中ハ、九までは成就、もはや思い残すこともござりませぬ。それに、竹刀持つすべだにも存ぜぬ手前、腹の切りようはもちろん、存しませぬが、従容死に赴いて、死に対する心得のあったことだけは、老後の思い出、若い者に、示しておきたいと存しまする。ともすれば坊主上りと、世上のロにかかりますが、その坊主上りの死にざまを見せて、疹かの土産にと、平常からーー」  と、調所は、手枇獣心入れた。そして、紙入を出して、その中から、小さい郷の跨れ批を取り出した。   「毒薬でござりまする」  斉興は、黙っていた。   「伊勢の手にて取調べるにしても、まだ、+日、二十日は命がござりましょう。その間に、御奉公の納め仕舞、もうひと儲けしておいて、さようならを致す所存、先刻申し上げました処置方のいろいろにつきまして、掛りの者どもを、御呼び集めてくだされますよう。夜長ゆえ、あらましは、二、三日にても片付けられましょう」   「心得た。わしも、手助け致そうが、その毒薬を、そちぼ飲むのか」   「蘭方には、なんとかヤ釘と申すそうにござりますが、ロヘ入れると、ナぐ、ころりf−」   「試みたか」   「犬に試みました。まことに、鮮かに、往生つかまつります。老体のことゆえ、長い苦しみは致しとうござりませぬ。なめると、すぐに、ころり。一名、なめころ、と申します。あはははは。いや、こうしているうちにも、時刻が経ちまするから、それとなく、暇乞をするところだけは、今日のうちに廻って、明日早々より後始末ということに致しとう存じまする」   「由羅には、申さぬがよいぞ、死ぬなどと」   「はい。御部屋様には、例の方の始末の話もあり、ただ今より御伺い申しましょう」  調所は、こういって立ちかけた。   「笑左、伊勢へ、密告した奴は、斉毎に加担の奴ではないか」   「で、ござりましょうが、手前にとってはよい死に際、憎い奴でもござりませぬ」   「存じているなら、名を申せ」   「さーーいや、ただ心当りと申すだけ—−申しますまい」  調所は、立ち上った。   「笑左、本当か、真実露見致したのか」   「これは、異なことを」   「眼のように思えてならぬ。お前が、毒を飲んで死ぬなどと、そうして、笑っているお前が−−」  斉興は、独り言のように呟いた。   「拝顔つかまつりましてより六十年、夢と思えば夢、長いと思えば、飽き飽きするほど、長うござりました」  調所は、立ったままで、平然として、他事のように、朗らかであった。      ニノー  斉彬は、七、ハ人の若竹を前にして、自分の写真を見せていた。若侍たちは、次々に、斉彬の写真を即吟しながらヽ   「筆では、こうは描けん」とか「よく似ておりますな」とか−‐ー斉彬と、写真とを、見較べてみたり、陽のさして来る方へ、透かしてみたりしていた。   「異国には、もっと、不思議なものがある。+里も二十里も離れていても、便りができる。一刻の間にー」  人々は、斉彬の笑顔を視つめたまま黙っていた。   「電信機、というもので、今、わしけ、それを遣らしておる。わしは、異国の事物を、ことごとくも感心はせんが、よいものを、ますます、よくして行くという点には、及ぽんと、思うておる。日本人には、それがない。支那人にもない。例えば、釈迦の後に、釈迦は出ない。孔子祖述者は、皆孔子以下しや、しかるに、洋学は、その創始者より、次の代の者、その者よりも、ちかごろの者と、だんだん、その学問が研究され、究理されて、日進月歩しておる。旧習を墨守せず、よい物は躊躇することなく取り入れておる。だから、日本が、三百年間鎖国していた間、異国は、這かに、進歩を遂げてしもうた。それは、お前たちにも、よくわかっているであろう」  若侍は、一斉に頷いた。   「しやによって、これからの若者は、一生懸命に勉強して、それを取り返さねばならん」   「そうでござりまする」   一人が、感激した声でいった。   「それを取り戻すためには、異国へ行かなくてはならん。行くには、言葉を学ぶ要もある。わしが、行けるものなら、明日にも行きたいがーー」  斉彬は、こういって、そのまま黙っていた。   「お供ができましたらと、心得ます」   「そのうちに、行ってもらうこともあろうー−お前たちは、よくわかってくれるが、わからん人たちが多い。つまらんことに、青筋を立ててのう」  と、いった時、  「名越左派太、御目通りに」  と、襖の外で、取次がいった。  「許す」  若竹は、膝を寄せて、名越の坐るところをこしらえた。襖際で一礼した名越は、人々を、微笑で見廻して、  「また、ねだっているの」  斉彬が笑いながら、  「例の講釈しや」  「少し、お耳に入れたい儀がござりまして、参院つかまつりました」  「よい話か、珍らしい話か」  「よい話と心得まするが、−−ほんの暫時、御人払いを—−」  「ふむ‐ーー」  斉彬が、なんとも言われぬ先に、若い人々は、写真を就いて、  「遠慮つかまつります」  と、立ち上りかけた。  「竹て」  斉彬は止めて、名越に、   「一言でいえることか」   「申せます」   「では、その隅へまいれ、一同、そのままでおれ≒  斉彬は、こういって、立ち上った。名越も立ち上った。人々は、じっと俯向いていた。二人が、部屋の隅へ行くと、名越が、   「密貿易の件にて、調所を、御老中へ訴えましたがー」  斉彬の柔和な眼の中に、鋭い光が閃いた。 ニノニ  「と、申すと、その方がー−」  「いいえ、益満が1」  斉彬は、静かに元のところへ引っ返してきた。名越は、(益満のいったとおり、お喜びにならぬわい。散見の巨魁にしても、調所は、偉物は偉物なのだからf−−)と、思って、後方からついて来て、斉形の横へ坐った。斉彬は、しばらく黙っていたが、  「益満の所在は?」  と、名越へ振り返った。  「手前のところに引き止めてござりまする」  「召し出してくれんか」   「かしこまりましてござりまする」  人々は、何か、相当大きい事件が起こっているにちがいない、と思った。名越と同志の二、三人の若者は、   「なにごとでござります」  と、咽喉まで声の出るのを我慢していた。名越は一礼して出てしまった。   「そこでIこの写真だの、電信機などのできたのは、なんのカかと申すと、理化学によってしや。理化学と申す学問は、例えば、水は何からできているか、ということを研究する」   「水は、水からではござりませぬか」    「誰しもそうとしか思えぬ。しかし、紅毛人たちは、水のないところに、水のたまるのへ眼をつけた。例えば、煙管の中に、水がたまる。煙と、火ばかりで、水に縁がないのに水ができる。これは、なぜであろう?」   「唾がたまるのではーー」   「唾ではない」  と、斉彬かいうと、二、三人が、   「それが、なぜに水がたまります」  と、口をそろえた。   「それで、いろいろと実験した結果、水は、水素と酸素と申すものから、成り立っているということがわかった」   「はあ」   一人の若者は、熱心に斉彬の顔を座視して、呻くように答えた。   「酸素というものは、どういう形で」   「形はない」   「色は」   「色もない」   「臭いは」   「臭いもない」   「はて、屁玉より掴みどころのないー」  人々は笑った。だが、その若者は、真面目な顔で、   「どうしてそれがわかりましょうか」   「詳しいことは、皆方喜作に聞くがよい。あれの家には、実験所もできている」  斉彬は、人に命して作らせている大蒸気船、紡織機械、ピストンの鋳造機、電信機などの設計図のことなど思い出して、   (調所は、可哀そうにー)  と軽く胸をしめつけられた。   (当家は代々、内記によって、いい家来を失うが、いつまで、この風が止まぬか)と、思うと、自分が、自分の命を脅かされ、子供を殺されても、無抵抗でいるのに、どうして、自分の近侍に、 その気持がわからないのかしらと、腹立たしいような、悲しいような気持になってきた。  「益満休之助。お目通りを」  と、襖外で声がした。      ニノ三   「益演、調笑の事を、御老中へ訴えたと申すのは、真実か」  斉彬は、もう、平素のように柔かな眼をしていた。   「はい」   「なんと、考えて、訴えたぞ」   「はい」  共演は、頭を上げて、正面から斉彬を見た。決心と、才気との溢れた眼であった。   「これより申し述べますること、御賢察願わしゅう存しまする。もとより糾ならぬ軽輩の身、もし誤っておりましょうなら、刀にかけて、申訳はつかまつりまする」  益演は、畳から、手を揚げて、膝の上へ置いた。   「もはや、かの老人は、有害無益、為ナベきことを為し終った上は、ただ一日も早く死ぬべきものにござりまする。常々、お上の仰せられますがごとく、異国との交易は、そのうち、天下公然として営むことにあいなりましょう。調所殿の功績は、ただこの一点。承りまナると、もはや四百万両の非常準備金も、できましたよし、一介の茶坊主より立身して、この功績を為し遂げま   したうえ、御家老の列に入り、功成り、名を遂げたるしだい。しかして、その時にこそ、調所殿の死すべき好機にござりましょう・この上の長命もヽ入の情としてヽまた、七封ど致しましてもヽ  願いまするのは、当然のこと。この島津の功臣を、罪なくして殺すことは、致しませぬが、この  功績とともに、一方、お肉羅方に通謀して、赦すましき悪逆を企てる罪、その張本人の一人とし  て、天より罰をくだされるか入の手にかかるか、当然調所殿の負わねばならぬ罪にござりまする。   もし、おお前の誰かの手にかかり、斬殺でもされましょうなら、調所殿のために借しみても、あ  まりありまナること。今日、某、訴人したる罪を負うて、自裁なされますなら、その最期の潔さ、   それこそ調所殿の一生を完うするものに、ござりましょう。さてーーー」    益満は、赤い頬をして、米噛に筋を立てた。斉彬は、眼を閉じて、一言も言わなかった。その  ほかの人々は、俯向いたり、腕を組んだり、益満の顔を見たりした。益満は、言葉をつづけた。    「ただーつの訴訟の筋、禁を犯しましたることが、無事、調所一人の自裁にて、納まりまする  や、否や、老中が、差赦しますか、どうか、軽輩、某のごとき身分として、御老中の心中、幕府  の政策を窺うのは僣上至極の沙汰に存ぜられまするが、某、思いまするに、幕府はもはや、誇大 名に対し、その勢力を外客しておりまする。また、御老中阿部殿は、 穏和至極の人にござります る。第三に、お上とはただならぬ交リの仲にござりまする。第四に、禁を犯して、密貿易を行っておりまする家は、ほかにもござりまする。第五に、それを従来より黙認致しておりまナる。第六に、密貿易は国益になることにござりまする。第七に、禁を破ることとはいえ、幕府を危くすることとは異なっておりまする。第八に密貿易の証拠として御老中へ拙者より呈出しおる物は、 ことごとく調所殿が咎めを負うべき性質のもので、当家へお咎めがござりましょうなら、某にても立派に申し開きの立つものにござりまナる。第九に、当家と、幕府とは、縁者にござりまする。第+に、もし御当家へ咎めのかかることがあれば、証拠書類は、某の謀書として、この腹一つ切れば、よろしきようにも企んでおきましてござりまする。常々、お上より、天下大難の時、家中の争いを禁じるようとの仰せを蒙ってござりますが、家中に、両党あり、二君あっては、一致して、外敵に当り得ましょうか? まず、身を修め、家を修めて、困難に当るのが順序、某これだけの思慮を致しまして、調所殿を訴え出ましたしだい、もし、過っておりましょうなら、覚悟は、とくより致しておりまする。お耳に逆らいましたる段、お詫び申し上げ彫りまする」  益満は、いい終ると、平伏した。人々は、はっとして、身体を、首を勤かした。      ニノ四   「よく思慮した。お前として、対がれな思案しゃ」  斉彬は、片手で、火鉢の附を撫でながら、   「しかし、人の上に立つ者として、そうもゆかぬ。お前は、わしのために、調笑の、人を憎み、罪を憎んでいる。あるいは、罪をのみ憎んで、人を憎んではおらぬかもしれぬ'"PJわしは、おまえが頼もしいと同しように、調笑も頼もしい。それはな、調笑が、当家の緋肘皆貳を救ったから、頼もしいのではない。致わずとも、わしの性’’−とでも申すか、家来は、皆頼もしいものし々、と思うている。いろいろの微少ある。わしの子は、三人とも死んだ。お前たちにいわせると 殺された、というかもしれない。そして、調笑も、その張本人の一人だというかもしれぬ」  斉彬は、俯向いて、黙然としている人々へ、穏かにこういいつつ、自分も、じっと、眼を膝の上へ落した。   「いうかもしれぬでなく、それが、真実かもしれぬ。そして、わしも、釘がである以上、子を殺されては、嘆かわしいし、殺した者を憎む精も、持っておらぬこと但ない。それは、益満、人間、自然の精しゃ。しかし−‐ここをよく聞いてくれ。父、斉興がおわす。今、お前の申したごとく、政道筋が、あるいは二途に出ているように、世間は感しておるかもしれぬ。たしかに、政府などは、父を差し置いて、万事、わしと談合をしにくる。そして、わしはそれにいろいろと申し述べることもある。これは、子として、たしかに、父に沢く者じゃ。あるいは、調笑らの企てよりも、罪としては深いものかもしれぬ。だがI」  斉彬は、しばらく、言葉を切った。   「だがーー天下の形勢—つまり、幕府の事情、異国の事情、人心の帰趨、動揺を見る時、わしは、父も、子も、家来も、むろん、わしをも、犠牲として、この日本を救わねばならぬような気がナる。そしてただ、それだけが、わしの天から与えられた職責でーー少し、いうのは、おかしいが、今、日本において、そういうことを考えているものは、わしら二、三人のほかにはない’−—と、いう自信も、持っている。’益満は、ただいま、家の中さえ修められずに、外敵に当りうるかと申した。いかにも、家は修まっていぬ、しかし、わしは、家を修めて、わしの手で外敵に当ろうとは思わぬし、それは、できないことじゃ。それを行うには、わしめ考えていることを日 水中が、一致して行ってくれることで、わしは、わしの意見が天下の輿論となれば、それでいいと思うている。実行とは別しゃ。つまり、わしが時代の犠牲となって、それが人民の、当路の日を醒ましてくれればよい。日夜、わしは、それを念じて、わしの思うたことを、微かながら、実現しようとしている。子は可愛いぞ、益満。しかし、天下のために、子を斬る時も人間にはあるぞ。まして、お前たら、軽輩の身軽さとはちがう。いろいろの、訟らぬ、小さい、廓がしいことが、わしを縛っている。それと闘いつつ、己の感情と闘いつつ、わしは、日夜ただ、そのことのみに突進しておる。そして、それを知ってくれる者は、わずかに二、三人しゃ。時々は、淋しゅうなる。わしとて、子とともに遊び、父のよい機嫌を見、奥と楽しく語らう味を、知らぬものではない。しかし、目本の前途を思うと、そうはしておれぬ。こうしている一刻たりとも、時聞か惜しい。身が軽かったなら、わしは、異国へでも行っておろう。益満、わかるか、わしの心が1よ  斉彬は、微笑していたが、一座の人は、涙を流して、膝の上へ落ちだのを、拭こうとはしなかった。益満は、俯向いたまま、黙っていた。   .   ニノ五   「お察し申しております」  益満の声も、少し脱えていた。  「よってーーーー、よって、獄獄どもが、憎うて」    「お前としてはーしかし、わしには、憎む暇がない。また、光が立つであろう。久光はわしの心をよく知っていてくれるし、   ろう」    「久光殿と、殿と、較べ物になりませぬ」    益満は、鋭くいった。 わしに万一のことがあれば、久わしの志をも維いでくれるであ  「では、わしに万一のことがあれば、誰が志を継ぐ? お前が、島津の当主になれるか?」  「万一のことなどと’−よって、奸物どもをーー」  「万一とは、兇刃に倒れることだけではない。薬品の爆発もある。意見の相違による刺客もあろう。幕府の方針の変更による処分もあろう。わしも、わしの身辺も、多事なのしや。だからいつも申すが、お折たちには、わかっておるようで、わかっておらぬらしい。つまり、わしの仕事を助けてくれること、天下のために、犠牲となる所存の下に、この国の危機を救い、福利を計ること。わずか、百万石たらずの家督を争ったり、子供の二人、三人の死ぬことに、腹を立てたりしておる時では、ないのではないか。わしは幾度、幕府にすすめられても、相続せぬのは、それゆえしや。しても、せんでも、わしの仕事に変りはない。幕府は、父君が保守家ゆえ、わしを立てて、幕府の進歩的方針の一助にしようと、考えているらしいが、問題は、開国するか、せぬかの一つではない。それも重要なことにちがいないが、もっと国民の根本を富ます、産業の発違法も、わしのほかには考えている人がない。わしは、紡織機械に工夫を凝らしているし、シリンドルの製造にも、着手している。また、電信と申す、人智では考えられぬものにも、手を着けてお るが、こういう理化学品を、どんどん作るほかに、天産物に乏しいこの国の福利を計る方法はない。しかし、世の中は、大船を造ることさえ禁しられておる。いつになったら、わしの意見が輿論となり、実行となるか? それを考えると、眠る暇も惜しい。のう、益満、お前とわしとは、考えていることが、扱本的にちがっているではないか。お前の、ただいま、申したことは、わしには、よくわがる。ありかたい志しゃ、しかし、わしには、なんの役にも立たぬことではあるまいか? わしの仕事には、なんの助けにもならぬことではあるまいか」  益満は、俯向いたまま、答えなかった。一人が、   「いかが致しますれば、お助けできましょうか」   「それはいろいろとある。異国へ渡って、異国の文物を見て来るのもよいであろう。わしは、わし自身でも行きたいと、思うているくらいじゃ。また、語学を学んで、よき書物を訳してくれるのもよいであろう。また、機械の取り扱いに熟練するのもよいし、なにか、有益なものを発明してくれるのも嬉しいことしや」  一座の人々は、まだ、黙っていた。斉彬の言葉はよくわかりはするが違いところに灯っている大きな燭光のようであった。自分たちの近づけない、えらい主君であると思うと同時に、あまりに、その恥いがありすぎて、斉彬のこうした意見には、誰も、何もいうことができなかった。   「某の処置は?」  と、益満がいった。   「お前は、お前のしたいとおりにするがよい。とめはせぬ。しかし、うれしいことでもない。 お前は国許におる西郷吉之助と二人で、仕事したら、やリナぎが無うてよいがの」  斉彬は、しかし、頼もしそうに、益満を眺めていた。      三ノー  「遠路、お疲れなされたで、ありましょう」  お肉羅は、古代紫の綸子の被布を被て、齢に似合わぬ大奥風の厚化粧をしていた。同所は、  「手前は、御覧のごとく、齢をとって凱くちやになり、従って、疲れを覚えるようにもなりましたが、お方様は、だんだん若くおなりになりますな」  「お前様のお陰で、ちかごろ、ずんと、くったくがなくなりましたからのう」  「結構な至りにござります。手前は、旅にも疲れを感じるようになりましたし、また、生きているのも、物憂くなってまいりました」  同所は、こういって、お肉羅の側にいる深雪に、しっと眼を注いでいたが、  「その御女中は、ちかごろ、召抱えになりましたかな」  お由羅が、  「あれかえ」  と、深雪の方へ顔を向けた。深雪は、お由羅と、同所との眼を、ちらっと見て、すぐ俯向いた。胸が波立った。両所が、  「お前は、仙波の娘ではないか」 深雪は、調所の言葉に、はっとして、耳菜を赤くしたが、  「いいえ」  お肉羅が、鋭く、深雪を見た。  「ちがうか‘−‐益満休之助と、同じ長屋の隣同士に住んでいた仙波と甲す者の娘が、大坂へ。わしを手頼ってまいったがI‐’瓜二つじゃで」  お肉羅が、口早に、  「仙波の娘が、お前様を手頼って?」  「母子二人で−‐ー」  「そして、どう致しましたえ」  「手前、その娘を、浜村孫兵衛の倅へ、縁づけるよう申し残しておきましたが、いかが致しましたか」  「仙波は、牧様を討とうとして、殺された、ハ郎太とか申す者ではござりませぬか」   E 「ま、その話は後にして、少々、内密のことを−−’」  お由羅、女たちに、  「次に退りゃ」  と、命じた。女中たちが、立って行った。深雪は、立ったのも、歩いたのも覚えなかった。見破られたのではないかという不安よりも、南玉が、半分疑いながら知らして来てくれた父が殺されたということが、縮実になったので、覚悟をしていながらも、深雪は、胸をくだかれた。 o  (この問見た夢のようにー)と、思うと、父のほかに、兄にも、母にも、姉にも、どんな不慮のことが起こっているか、知れぬ気がしてきた。深雪は、     (お由羅を刺せ)と、父からいいつけられたが、何も知らずに、自分を、意地の悪い老女から  かばってくれ、助けてくれ、古参よりも可愛がってくれるお由羅を、どうしても刺ナ気にはなれ  なかった。     (でも、父が、殺された上は)    そう思って、診えてくる心を励ましてみても、父が、兄が、なぜあんなに、政党の人々を憎む  のか?−お由羅でも、斉興でも、調所でも、いい人だのにーと、深雪は、男のように、心の  底から、憤りを、これらの人々に感しることができなかった。いくら、    (憎め、殺せ、刺せ、悪人だから)    といわれ、悪人だと思ってみても、毎目やさしくしてくれ、可愛がってくれる人を殺す気には  なれなかった。しかし、父が殺され、お宮が危ない以上、自分のそうした感しを捨てて、脅しら  れたとおりに刺し殺すよりほかに、小娘の深雪としては、考えようもしようもなかった。    女中たちは、次の間で、二人のところへ持っていくべき、茶と、菓子とを備えていた。深雪は、    (自分さえ死ぬつもりならー)と、田こった。    (死んだ方がいい)とも、思った。そして、    「妾が持ってまいりましょう」    と、菓子台へ手をかけた。 −−−- -      三ノニ  裾野が、茶をもって先に立った。深雪は、心を、手を額わしながら、少し、顔色を、蒼ざめさせて、菓子音をもって、その後方からつづいた。裾野の前へ行く女中が、襖をつつましく開けると、お由羅と、同所とが、ちらっと、こっちを見た。二人とも、引き締った顔をしていた。梅野が、茶を同所へ差し出し、深雪が、菓子を置くと、   「深雪、話がある。裾野は、下りゃ」  と、お由羅がいった。深雪は、俯向いて手をついて、懐の肘紋の紐の解いてあるのを、見られまいとした。   「お前、隠しているのではあるまいのう」   「はい」   「小藤次も、あのお医者も、信用のできぬ者じゃが、お前の、いとしそうな顔を信用して召し上げたが、まさか仙波の娘ではあるまいのう」  深雪は、心臓をしめつけられるように、苦しくなってきた。情の深い、お由羅を欺くこともできなかったが、仙波の娘だということもできなかった。じっと、俯向いていた。同所が、   「いや、軽輩には、かえって見上げた人物がいる。その輩が、ことごとく斉彬公をお慕い申し ておるが、お方、これは、悲しんでよいか、喜んでよいかー−つくづく思案致しますと、わかり  ませぬぞ。将首級、平級、豊後級Iこう指を折ってくると、ろくろく人によって事を為すの徒   ばかり。手前も、また、お部屋様もこれ軽輩上り11.この女のごときも、また、もし、仙波の娘としたなら見上げたもの−−‐それに、久光公が、また斉彬公に見倣って若者好きf−所詮は、   しばらくすれば軽輩、紙漉武士の天下になりましょうか。今度の訴状のごとき、その用意の周到  さ。御家を傷つけずとぢ心のみを槍玉に挙げようとする策略、家老、家老格が十人よっても、出  る知恵ではござりませぬ。今、少々、生き延びて、御小遣いを差し上げようと存しましたが、い  ろいろと、案じまするに、手前が、よし亡くなっても、この軽輩の手より、経世上手が出てまい  りましょう。その上に、密貿易は、斉彬公の仰せられるごとく、そのうち、天下公然としての交  易になりましょうがI安心して、明日にも手前、死んでよい時節となりましたー−」    関所は、一息に、ここまで喋って、茶をのんだ。お出羅は頷いたが、関所には、返事をしない  で、深雪に、鋭く、    「なぜ、返答せぬ」    「はい」    「仙波の娘か、娘でないか−」    深雪は、頭の中が、くらくらしてきた。該の下にも額にも、汗が撒んできた。そして、    「娘でござります」    と、答えると、身体も、心も、冷たくなったような気がした。手も、膝も、頗えた。    「そうかい、それで、なんのために、名を偽ってまで、御奉公に上ったえ?」    深雪は、   (三人きりで、調所は老人だし、この間に突いてかかろうか?)  とも、思ったが、そう思っている心の底には、   (すみません、許してください)  とお出羅の前へ身体を投げ出して、泣きたいような気持もあった。  「深雪、何をするために、お上りだったえ」  お肉羅の言葉が、鋭くなってきた。  「返事が、できませぬか」  いつもの、やさしいお肉羅でなく、深雪の身体も心も、針のついた手で、締めつけてくるように感じる、声であった。   (お父上も、殺されなされたII群い、こうなった上は、死ぬほかはない)  絶望的な、つきつめた心が湧いて来た。  「責めても、言わせますぞ」  と、言ったとき、深雪は、懐へ手を入れた。そして、立ち上った。  「御免っ」  と、叫んだ。      三ノ三 深雪の手には、糾折の、五寸ほどの肌紋が、握られていた。お出羅が、   「あっ」  と、叫んで、よろめきながら、立ち上った。そして両手を、前に突き出して、深雪のこび、防ぐようにしながら、恐怖と、隣みを乞う心との、混じたような眼で、深雪を見た。   「お許しくだされませ」  深雪は、枇溶く叫んだ。そして、短刀を突き出して、一足進むとともに、お肉羅は、後方の床の間へにげ上った。深雪は、お由羅の眼の中の、恐ろしがっている表情と、自分に憐みを乞うている色とを感しるとともに、声を上げて、泣きたいような気持になってきた。   (許してくださいまし。妾も、お後からお供致します。ナみません。もったいない1妾風情に、あんなに恐れて、あんなに、いしらしい眼で、憐みを乞うてー妾は、けっして、けっして、お殺し申すような、大それた心はありませぬが、これもしかたのない−許してくださいまし、妾も、どうしていいのか?I−どうしたらー)  そんなことが、きらきらと、頭の中に閃いた。短刀を突き出して一足進んだきり、お肉羅を見つめて立ったままであった。なぜかしら、もったいないようでもあり、気の毒のようでもあジ、可表そうなようでもあり−突いてかかれなかった。   「たわけがっ」  調所は、叫んで、立ち上った。  「誰かー誰かっ、早く」  と、お由羅が、叫んだ。お由羅がこう叫ぶと、同時に、深雪は、   (見苦しいっーなんというあわてた振舞、いつものお部屋様に似ずf−—)  と、感した。そして、そう、感じると、なぜかしら、股が立って来た。   (町人上りのI−)  と、微かに、憎らしくもなってきた。そして、短刀を振り上げてー足耐った。その刹那、調所が立ち上ってきて、深雪の、右手を掴んだ。そして、   「放せっ」  と、叫んで、短刀を持った手を、力任せに、締めつけた時、二、三人の女中が、襖から、中をのぞくと、   「あっ」  と、叫んで、ぼけ込んできた。深雪は、ちらっとそれを見ると、その瞬間に、懐剣を、自分の胸へ突き刺した。そして、よろめいた。眼がすっかり、上ずってしまった。顔色は、灰色であった。  二、三人の女中が、蒼白になりながらも、深雪を、後方から抱きすくめるのと、調所が、深雪の手から懐剣をもぎとるのと、同時であった。  次の間には、高い声と、それから、幾人も幾人も入って来て、深雪を取り巻いたり、お由羅へ、   「御無事で」   「いかがなされました」  とか、口早に、騒がしく喋った。調所が、  「医者を呼んで、手当をしてやれ。一同、出い。これしきに、なにを騒ぐ」と、怒鳴って、まだ、なにか、声高にいいつつ、深雪を巡んで行く女中たちへ、  「静かにせんか」  と、叱りつけた。  お由羅は、蒼白な順に、固い微笑をして、着物をつくろいながら、脇息を引き寄せて、元の座へ坐った。  「だいそれた!——」  と、いう呼吸が、喘んでいた。  「お方を新れと、命しられたのでござりましょう。しかし−J」  「目をかけてやっておるのに」  「だから、斬るに、斬られず。察しておやりなされ。あの女と、地をかえて、あの女になったとしてーーきつい処分をせずに、狂人にして、宿へ上げてしまいなされ、小女の一人、二人、罪にしたところで、手柄にはなりませぬ。平生慈悲をかけられて、親からは、何か申しつけられて、十七や、八でーーお方など、あの娘盛りには、四国町の小町娘、付文を読むのに忙しかったばかりでござろうがなあ。はははは」  お肉羅も、笑った。  「許してやりなされ。よい功徳になりまする」   「許しましょう」   「ありがとうござりました。年寄りの手前として、それがな記より、ありがとうござりました」  お由羅も、調所も、老いてしまったものだ、と思った。      四ノー  仏壇の黄金仏は、つつましく、燈明の光に、微笑んでいた。白い菊の供え花、餅、梨、米IIそれから、新しい金箔の光る先代、島津重豪の「大信院殿栄翁如証大居士」と書いた位牌が、中央にあった。  金梨他の六曲屏風で、死の床を囲って、枕元には朱塗の経机が置いてあった。そして、その上には、紺紙金泥に、金側の表装をした経巻一巻と、遺書を包んだ袱紗とが置かれ、その机と枕との間には、豊後国行平作の、大脇差が、堆朱の刀掛に、掛っていた。  調所は、白麻の袷を重ね、白縮緬の帯をしめて、しばらく、仏壇の前で、黙祷していたが、手を延ばして、経机の下から金の高蒔絵をした印龍を取り出した。そして、   「お流れ頂戴つかまつります」と、小声でいって、仏壇に供えてあった水を取り下した。印能を、開けると、黒い、小さい丸薬が、底の方に、七、八粒あった。調所は、それを、掌の上へ明けて、しばらく眺めていた。部屋の中を、静かに、見廻したり、俯向いたり、また、丸薬を眺めたり−そして、微笑して、口のあたりへ、掌をもってきた。それから、指の先で、摘まみ上げ て、しばらく、いしっていたが、そのいじっている一粒を、静かに、ロの中へ入れた。  皺の多い、筋肉のたるんだ、歯の少し抜けた唇をしばらく動かしてから、ちょっと、眉を寄せて、水を、一口飲んだ。そして、両手を、膝の上に置いて、しっとしていた。  人々は、寝静まっているらしく、なんの物音もしなかった。次の間には、糾挺が微かに鳴っていた。  調所は、自分のして来た努力の完成したことに、十分満足であったし、もう、これから後に、自分が出ようとする仕事のないのにも、十分、安心ができた。  腹の中が、少し熟くなったようであった。調所は唇を彩めてから、もう一度、仏壇へ御辞儀した。そして、   「ただ今、おあとを、お慕い申しまする」と、いった。それから、膝を斉興の居間の方へ向けて、同じように、頭を下げて、   「つつがなく、御帰国遊ばしませ。これにて、御家は、試射にござりまする。御寿命の後は、冥途にて、御奉公を勤めまする」  そういってから、しばらく言葉を切っていたが、   「斉彬公にも、つつがなく、社しますよう、御幼君には、あの世にて、お詫び申し上げまする。老人亡き後は、意のままに、御消費くだされますよう。三年越しにてまいりましたる江戸の形勢は仰せのごとく開けてまいっておりまする。御賢明の段、当家のために、祝着至極、老人、思い残すところ、一つも、ござりませぬ」 −・一一 -−・・一一−  同所は、唇に微笑を浮べて、眼に、涙をためていた。それを、しばらく、拭きもしないで、しっど、襖を御つめたまま微笑していた。遠くで、時計が三つ鳴った。  同所は、膝の上に置いている毒薬の入った掌を、ロヘ当てて、俯向いた。掌が空になると、水を取り上げて、一息に飲んだ。そして、仏壇と、斉興の方とへ、御辞儀をして、床の上へ坐った。白い木綿の下蒲団の上に、甲更紗の表をつけた木綿の上蒲団であった・その上へヽ仰向きになって、眼を閉じた。幾度か枕を直してから、身動きもしなくなった。      四ノニ  だんだん、胃が、熱くなって、呼吸が、せわしくなりだした。   (楽に死ねると、いっていたが−)  同所は、熱さを増してくる胃の折を、しっと眺めていた。そして、脈へ手を当てると、聯彫が、急であった。自分でも、感しるくらいに、呼吸が烈しく、肩が、自然に動きだした。しかし、胃は、それ以上に、熱くなってこなかった。  その内に、身体中が、少しずつ、燈くなってきた。関節が、信くて、たまらないから、揉みたい、と思ったが、もう手を動かすのも、聡であった。   (いよいよ毒が、廻ってきた。このくらいで死ねたらー)  と思った。倦さか、少しずつ薄らぐと、手の先、足の先の感しがなくなって、いつの間にか、胃は、熱くなくなっていたし、呼吸が早いが低くなっていた。そして、だんだん眠さか拡がって ----− きた。   (原書を、批してやれと、いったが、赦したかしら)  調所は、少し、ロを開けて、静かに、呼吸をしていた。   (彭金、十二貫目)  調所は、袋に入れた、慰金の包みが、近くにあったり、遠くにあったりするのを見た。   (将曹は、奸物じゃ。しかし、斉興公の御引立を蒙ったわしが、斉彬公の御味方になれるか?奸物と申しても、綱手と申ナ女はーー益満か’−—御金蔵に、火がついた?)  調所は、唇に、微笑をのせて、少し、ロを動かした。   (わしは、何を、考えていたのか? 夢をみたのか?−いいや、死んで行くのじゃ。ちがう、今死んでは、島津の家をどうする?−−島津−−島津というのは−−)  調所の、眼の下に、唇に、薄い隈取りが出てきた。細く白眼を開けて、薄く、唇を開いたまま、だんだん冷たくなって行った。二、三度、微かに蒲団が、動いた。  四つの時計が鳴ってしばらくすると、邸の中が騒がしくなった。人声は低く、物音は高く。それは、邸内のみでなく、門の外にも、馬の暇ど、か所の音、諸声がしていた。  長い廊下の端から、調所の部屋へ、近づく足音がして、   「御家老様」と、いう声がした。   「御用意を、お願いつかまつりまする」  しばらく、そういったまま黙っていたが、返事がないので、立ち去った。  物音も、人声も、だんだん高くなってきた。そして、小走りに、走って来る足音がして、  「同所殿」と、叫んだ。返事がなかった。  「御免くだされ」  襖が開いた。仏壇の明りは、微かになって、またたいていた。  「御出立でござりまするがー」  侍は、限っている同所に、こう声をかけて、じっと、顔を眺めていたが、  ヽ「同所殿」  と、叫んだ。そして、さっと、顔色を変えて、膝を立てて、添るように、近づいて、額へ手を当てた。素早く、経机の上を見た。胸へ手を差し込んだ。そして、立ち上ると、廊下を、けたたましく走っていった。  しばらくすると、忙しく、大勢の足音がして来た。参観交代のために、帰国する旅支度の斉興が、尉ずくように、廊下を急いで来た。眼を光らせて、唇を額わせて、危ない足取りを、急いで、小走りに走って来た。手燭を持った若竹が、足許を照らしていたが、斉興の足とすぐ、ぶっつかりそうになって、そのたびに、燭が揺らいだ。 地獄相       一ノー   「綱手」  百城は床柱に凭れて、膝を組みながら、   「大坂へ戻ってはー存しておろうが、取締りが、厳しゅうて、思うままには、逢えぬ。それで、ここでゆっくり、話をしたいがーー御国許で、同志の人々は?」  外には、高瀬川が、音もなく、流れていた。綱手は、宿の女に、言いつけて買わした、京白粉京紅で、濃い化粧をして、   「母から、聞いておりますにはー」  ちらっと、百城の顔を見た。そして、   (男らしい−‐やさしい・−)と、思って、眼の底に残っている、百城の顔を楽しみつつ、俯向いた。   「それを聞かしてくれぬか? 同志の人々も、ぞんぜずには、手段も、回らせぬ」   「でも、母は、女のことゆえ−・」 4  眼に、十分の愛をー−ふ陶びを現して、下から見上げて、   「しかと、しましたことは−‐」   「いいや、母上は、男便りであるし、御存しであろうー−・ほぼ、おもだった人の名さえ聞いておけばよい」   「では、心億えのままに−−」  綱手は、首をかしげた・   「少し待て、硯を−」  百城は床の間の硯をとった。   「水が、ござりましょうか」  硯の中は、乾いていた。百城が、手を叩こうとナるのを、   「これを」と、化粧した使い残りの水を、鉢から、指の先で硯へ落して、   「いいえ、妾が−」  百城が墨をとったのを見て、硯を、自分の方へ引いた。百城は、微笑して、   「手が、汚れるに」  綱手は、百城の差し出した墨の端を指ではさんでいたが、  「まあ」  と、低く叫んでやさしく睨みつつ、墨を引っ張った。そして、  「お手々が、汚れます」 二人は、墨をもったまま、ちょっと、顔を見合せたが、百城が、  「お互に、汚れた」 綱手は、真赤になって俯向いた。  「綱手」 百城は、左手を延ばして、綱手の手首を、握った。  「今夜は?」 綱手は、首を斜めにして、襟元の美しさを、見せながら、黙っていた。  コ民るか−それともー−−−」  「どちらなりとI」  「泊るか」 、小さい声で、のままに」 百城は、手と墨と両方を放して、  「さて、同志の面々は?」 組手は、黙って、墨を摺りだした。百城は、懐中から紙を取り出して、筆を、硯へ入れた。  「まだ、薄うござります」  「そなたの、情のように」  「まあI−」 6  綱手は、筆を置いて、眼を見張りつつ、   「では、貴下様の手で−’濃くなりますよう」と、言って、硯を静かに、百城の前へ押しやった。   「摺ってはくれぬのか−怒ったのか?」   「はい」  綱手は、俯向いて、少し膝を百城からf砂けた。   「では、濃くしようか、濃くなるかの」  百城は、片膝を立てて、綱手の肩を引き寄せた。 一ノー一  まちぶ・*よ5 も0がしらこんどうりゆうざえもん  「町奉行兼物頭、近藤隆左衛門か」百城は、紙へ、認めた。         やまだいちろう 七もん  「御同役の、山田一郎右衛門様」 「それから?」 「御船奉行の高崎五郎右衛門様(高崎正風の父) ものがしら物頭 しまづ いき 島津壱岐 にかいどうかずえ二階堂主計あかやまゆきえ赤山勘負 7 やくしま 屋久島奉行 弟御の さいきよかかりみならい裁許掛見習 同 ひようぐがためつけ兵具方目付 しゆぅもんがたかきやく宗門方書役 ひろしきよこめつけ広敷横目付 こおりみまわジ 郡見廻 ちほぅけみ 地方検見 製薬掛兼庭方りゆぅきゆうかんがかり琉球館掛 広敷書役 よしいしちろう tもん吉井七郎右衛門   しちのじよう 吉井七之丞 のでんのじよう野伝之丞 ぐちきゆTV ≪' -*>・*ロ及右衛門 山ロ及右傾   せいだゆう島津情太夫つももらたいすげ土持岱肋 肱岡五郎太 野村喜ハ郎 山内作二郎(山内八二氏祖父) まつもといちざ七もん 松元一左衛門 高木市肋 おおくぼじろう V tfん 大久保次郎右衛門(大久保利通の父)はつたきざ迦ちん 八田喜左衛門(八日知紀氏) 関勇助(関広国氏)  ずわじんじやぐうし   いのうえいずものかみ  諏訪神社宮司・—−井上出雲守 それからーーー’軽輩の方々では’—」  「軽輩は、よい」 百城は、書き終って、じっと、眼を通していたが、 8  「なるほど、いや、かたしけない」                     そういって、頷いた眼の色には、決心が十分に現れていた。  「兄と、一緒に、お力添えを願いまする」  「おお、聞き遅れたが、小太郎殿は? よい方かの」 百城は、紙を懐へ仕舞った。  「はい、明日にも、下山して、と申しておりました」  「刀が、使えるかな」  「脚の疵が、癒りきらず、少し、危のうござりますが、腕は、十分と申しておりました」 「流儀は?」  「鏡心明致流でござります」  「桃井春蔵の?」  「一刀流も、習いましたそうでーー」  「目録か、免許か、その上か。なかなか、よく使えると見えるが」  「いいえ、免許は取っておりますがー−」 百城は、しっと、考え込んだ。  「脚は、肢を引くくらいに?」  「はい、少しばかり」  「右か、左か」 9   「さあ」  綱手は、右を見たり、左を見たり、百城の脚を見たりして、   「右でござりましたかしら」   「右と、左によって、懸り方がちがってくるがーー」  百城は、小太郎の太刀筋と、右の肢を引きながら斬りかかって来るのに対して、どうはずして、どこを攻めるかを考えていた。   「何をお考え? 後悔なさいましたのでは、ござりませんか」   「なにが、後悔?」   「妾とのことをーー」   「後悔か11」  百城は、しっと、綱手を見た。そして、   「綱手、いかなることがあろうと、後悔するな。人間の致すほどのことに後悔するような悪はない。なしたいことをなす。それでよい。なしたいことに、悪はない。悪と感しても、押しきれば救われる」  綱手は、黙っていた。      ニノー   「綱手と申す女は、その方か?」    調所に代った新任の大坂の留守居役、中島兵太夫が、眼鏡越しに、綱手を見て、老人らしい、— 人のいい笑顔をした。そして、火鉢へ、片肱をついて、片手に、火箸をいしりながら、、    「昨日、堺町人の、浜村と申すのが、まいっての−−」    綱手は、心臓を、握りつぶされたように感した。いつか、調所のいった、浜村孫兵衛との縁談  が、その場かぎりの話でなく、あんなに軽い戯談のような口振りで、話しておきながら、もう先  方へ、通してあったかと思うと、自分の行末を案してくれた調所の親切が、憎く、悲しくなって  来た。    「調所蔵より、お話のあった、お前との、縁談、いかがでござりましょうかと、浜甘め、申し  てまいった。わしけ、来て早々、何も存ぜぬから、奥役に聞くと、たしかに使したと、申してお  るがー存してもおろう、調所蔵の急死−大は、御当家を起こしたことから、小は、お前たち  の身の上までも、案しておられたえらい方しゃで、この志を無にしてはならぬしーーーそれに、お  前の母も、国に戻って、お前一人では、淋しくもあろうし、と、申して、このわしが、慰めても、   間くまいし、あはははは、怒るな、美しい女を見ると、戯談の一つも、申したくなるものしゃ」   綱手は、蒼くなって、俯向いていた。返事が、できなかった。兵太夫は、人の上に立つ者とし  て、女中の身の上の始末など、意のままになると、    「それで、来月早々がよかろう、と返事しておいたが、そのつもりをして、支度をするがよい。   母も聞いたら、喜ぶであろう。支度、そのほか、万端のことは、浜村と、わしとで計らってとら  せる。浜村の倅は、なかなか、おっとりとして、よい男しゃ。この辺の、隼人と、柄がちがう。 −,-−ヽ一− 心得たか」  綱手は、頷いておくよりほかに、方法がなかった。   「嬉しいであろう、はははは、娘時分と申すものは、見ておって悪うない。国の女子にしては、珍しく美しいが、当屋敷の若い者の中では−Iのう、袋持」  兵太夫は、こういって、片隅の机で、何か書き物をしている、袋持へ、話しかけた。   「はい」   「牧の倅と、よい夫婦だがのう」   「百城氏とでござりまするか」  綱手の身体中の、血管が、凍えて、止まってしまった。  (牧の倅—−百城)  「女どもが時々、噂しておるげしやが、調所殿の、  「いえ、けっしてさような」 袋持は、気のなさそうに答えて、机へ向った。 二才さんでもあったかな」  「牧の倅を存しておろう。百城月丸」 綱手の、眼は異様に光って、唇が、額えていた。  「百城様はー牧様とは、あの、牧‐−仲太郎様のII」兵太夫は、聯をしかめて、しっと綱手を見ていたが、  「なんとした」  ただごとでない綱手の顔を、しっと見て、   「いかがしたのしや。たいそう、頗えておるではないか」  綱手は、E所になって、膝も、手も、口も頬わせていた。   「どこぞ、悪いのかの」  綱手は、黙って、首を振った。袋持が、振り向いた。そして、しっと、綱手を睨みつけるような眼で眺めていた。      ニノニ  綱手の頭には、熱い火が、狂い廻っていた。しかし、額は冷たくて、眼は、空虚であった。何を見ているのかわからなかったし、どこにいるのかも、判断できなかった。   (月先様は、紋様の御子息‐−‐)  そんなことが、世の中にあろうとは思えなかった。   (あのやさしい月先様が、父を殺した敵の倅?‐−−)  月光の言葉を、眼を、振舞を、いろいろに想い出してみたが、そんな月光とは、思えなかった。   (嘘−何かの、間違いであろう)  綱手は、真暗な、地獄の中に喘ぎながら、   (ちがいます、ちがいます)  と、絶叫した。そのとたん、その闇の、底の中に、毒紅のような火が、ちらとした。綱手は、 恐怖と、脅えとに、眼を閉したが、火の、炎々としているのは、よく見えていた。それは、   (月大様が、同志の名を間いた−疑えばーーー妾を欺して’—)  と、語っていた。綱手は、両手で、眼を閉して、   (そんなことはない)  と、悲鳴を上げたが、毒の火は、冷笑するように、燃え上っていた。いつの問にか、赤裸にされて、底の闇の中に、悶えている自分の姿が、見えてきた。   「綱手、なんとした」  耳元で、袋持の声がした。   「はい」  いつの間にか、自分でも、わからないうちに、綱手呟袖を、顔へ当てて、泣き伏していた。   「困った女だのう」  と、いっている兵太夫の声が、間こえた。   「袋持、何か、訳があろうが、聞いてやるがよい」   「はっー綱手殿、次へござれ」 袋持が、肩へ、手をかけた。  「まいります−−ふと、いろいろのことを思い出しまして、御眼を汚し、申訳ござりませぬ」綱手は、手をついた。  「なになに、正気づけばよい。少し、血の道の気かの。はははは。嫁入すると雍る。心配致す な」  綱手は、立ち上った。   (死ぬほかはない)  と、思った。だが、すぐ、、   (ひと日、一月光様に、逢って−真偽を、ただして)  綱手は、袋物の後方かーら、廊下へ出るとともに、   (月光様を殺して、死ぬーいいや、あの方は殺せぬ。自分一人で−いいや、それよりも、あの方が、よし、紋様のお子息であっても、そうでないと、おっしやってくださったなら、いやいや、牧様のお子息であっても、あの方の恋は、偽りの恋ではない)  綱手は、もがいた。真暗な中に、宙ぶらりになって、悶えていた。底には、醜悪な臭いの火が燃えていた。   (あっーーー)  綱手は、全身で、悲鳴を上げた。   (後悔するな、——後悔するな、とおっしやった言葉‘−このことであろう—−このことでないかしらーいつかは知れる身の上だと思うてーそうにちがいない。後悔するな。後悔するな‐−−)  綱手は、月光の、その時の顔、言葉つきを思い出した。   「坐るがよい」  綱手は、袋持の声に、はっとして、頭を下げて、つつましく、坐った。      ニノ三   「綱手IIお身は」  と、言って、袋持は、しばらく、言葉を切った。綱手は、袋持など、何を言っても、何をしてもいいと思っていた。   (でも、月大様は、自分の素姓をかくして、妾の素姓を知っていなさるのにーー)  と、思うと、叡山の夜が、月大の深い巧計から出たようにも思えた。しかし、綱手は、自分でそれを打ち消した。そして、   (たとい、そうであるにしてもー妾には月大様が憎めない、仇敵とは、仇敵のお子息とは思えない)  と、思った。  「飾るところなく、申せばー−これは、某一存の推察でござるが、百城と、お身と、何か、お係り合いがござらぬか?」  綱手は、考えこんでいたが、百城という名に、はっとして、心を澄ますと、係り合いがないか、と聞かれて、   「係り合いとは?」   「さ、それは、いろいろとあって、申せることも申せないこともござるがーーー,」   「さあ1−」   「某の無礼を、お咎めなければ申そうが」   「いいえ、咎めるの、なんのと−—‘」   「ではーーー」  と、いって袋持は、しっと、綱手の眼の色を見ながら、   「約束事でも、あるか、ないかーしたか、せぬか」  綱手は、ちょっとぃ胸を、轟かしたが、もう、袋持ち、邸も、女中頭も、兵太夫も−−それから、世の中さえ怖ろしくはなかった。   (死ねばよい)  と、決心していた。冷たい、微笑を見せて、   「約束とは−−‐」   「例えば、夫婦とかーー」  綱手は、はっきりとした声で、   「致しました」  袋持は、綱手の顔を、しっと視つめたまま、しばらく黙っていた。   「真実?」   「はい」   「お身は、仙波の娘御、仙渡殿は、牧を討つため斬死なされた方ではないか」   「はい」   「その娘御が、濫りに、男と契るでさえ、不孝、不義であるに、人もあろうに、父の仇敵の倅と、契って、それを恥とは心得ぬか」  綱手は、それで、地獄のような呵責を感しているのであった。十分に、それくらいのことは、承知していた。自分一人の呵責だけでさえ、その弱い心を引き裂かんばかりであるのに、そのわかりきったことを、他の人から聞きたくなかった。頼もしい同志の一人である、と信じていた袋特が、憎くなってきたし、   (この男も、月丸のように嘘をつくのかもしれない)  と思うと、世の中の、ことごとくの男が、呪わしくなってきた。綱手は、絶望的な反抗心に、燃え上った。   「心得ております」   「それで、なぜにー」   「これも、運命で、ござりましょう」   「運命? 奇怪なーーー奇怪なことを申す。素姓も、徐にわからぬうち、肌を許して、その不行跡を、恥しさえせず、運命? 不埓なッ、何を申す」  袋特は、顔を赤くした。   「しばらく待て、百城を、連れてまいる。百城は、恥を心得ぬ奴ではあるまい」  袋特は、口早に、鋭く、こういって、立ち上った。綱手は、眼を閉した。   (お父様、冥途で、お詫び、申しまする)  涙が、また、湧き上ってきた。      ニノ四  「百城‐−ー女は、契ったと申す。それが、真実かII聞きたい」  袋袴は、昂ぶってくる心を押えて、静かにいった。綱手は俯向いていた。刃先は、腕組して、眼を閉じていた。  「どうじや、百城」  百城は、思いがけぬ詰問に、綱手が、どう答えたのか? なぜ、こんなに早く、暴露したのかわからないので、黙っていた。  「貴公は、この娘の素姓を、存しておろうなー−また、己の素姓も、存しておろうな。それでいて、契るなどー−それでも、武士か」    ヽ  月光は、眼を聞いた。そして、袋袴へ、冷やかな閃めきを与えて、   「存している」   「存していて、なぜ、契った?」   「惚れた」  綱手は、刃先の、情熱的な、何をも恐れないような強い言葉に、うれしさが、いっぱいになった。  「惚れた? そうかーー−よく申した」  袋袴は、怒りに、拳を額わせていた。   「この由、御留守居役に、申し上げる」   「うむ、処置は、いかようなりとも、受ける、覚悟は致しておる」   「よしっ」  袋袴は、立ち上って、足音荒く、出て行った。月大は、すぐ、   「惚れてもいる、綱手、しかしながら欺いてもおる。と、申す訳はーー」   「お察し、申しておりまする」  綱手は、月大のいおうとすることが、なんであるか、わかっていた。それを、月大にいわせて、月大を苦しめたくはなかった。月大が、   「惚れていたから」  と、いった言葉で、すべて十分であった。仇敵の倅に、、肌を許した自分の罪は、死にさえすればよかった。そして、自分が死ぬ以上、月大を、苦しめたくはなかった。   「察しているとは?」   「父上の同志のことなど、お聞きなされましたこと’−」  綱手は、紅い苓のように、ふくらんでいる眼瞼から、愛と、情熱とを込めて、月大を見た。   「わかっておったのか」   「いいえ、あの時は、少しもーーーただいま、わかりましてござりまする」   「恨むであろう」   「いいえ」   「憎くはないか」   「少しもーーー’」   「欺くつもりでもあった。欺いても、武士の道には、外れぬ。一つの便法I−とも思ったが、すでに、その時、心底から、そなたの素直さに惚れておった。この素直な娘を、かく欺いてまで、武士の意地を立てねばならぬかと、わしも苦しんだ。あの山の夜‐−−大殿のために一手柄をたて、かねて、契りもしようと、ニ股をかけたが−いつがは、知れることと、思うと、打ち明けようか、明けまいか。もし、打ち明けて、別れることになったら、と、それが案しられて、打ち明けもせなんだが、綱手、わしは、お身と契ったからとて−‐わしは、わしには、お身の父の同志にはなれぬ。不義の味方はできぬ。わしは、ハ郎太殿が不患者だと信じている。いいや、もっと、鴛くことを決心しておる。それは−小太郎を討つ」   「ええ」   「あの山の夜、小太郎を討ちにまいった。契った上は、わしの妻、妻は、夫に従うものと、説き伏せるつもりであったが、あの老僧のために失敗った。お身は女ゆえ、家中のことはわかるまいが、斉彬公の御振舞はよろしくないのだ。それで、それに味方する人は不患者しや。小太郎ものう−‐わしは、何もかも申そうーーー欺いた。いいや、こう申した上は、欺いてはいぬが、お身とは仇敵同士として、父の子としてーいいや、島津家の家臣として、あくまで、わしは父につく。正しい父につく。しかし、お身は、恋しい。お身も、苦しかろうが、わしも、苦しい。どう したらよいか。父とお身との板挟みしや、いや、武士の道と、恋との板挟みか−ーー綱手、後侮すなと中したのは、ここのことしや。わしは、慾が深いと申すなよ。お身を、わしの味方として、恋も、功名も、得たいのしや。しかし、こうなってはーーー」と、いった時、、  「月丸、出い」と、袋袴が叫んだ。  「女もー1」  二人は、すぐに立ち上った。      ニノ五  「困ったことが起きたのう、百城、困ったことが11袋袴、しばらく遠慮せい。両人、もっと、 前へまいれ」  袋袴は出た。二人は、敷居際から、少し前へ進んだ。   「別れぬか、どうしやな、男も、女も、いろいろとおる。この邸だけでなく、広い世の中に、いっぱいおる。少し、おりすぎるくらいにおる。齢が若いと、すぐ、手近いところに惚れるでのう。後前の見境もなく、一緒になってしまって、後で、後悔する、もっとよい女が嫁に貰えたの、もっと、よい仰がーーーと、しかし、二人は、よう揃っておる。申し分はない。が、牧、お前は、牧仲太郎の子として、また、調所殿のあずかり子として、なかなか重任がある。女にべたべたしている身でもなければ時でもない。もっとも、袋特に聞くと、なかなか、苦肉の計であるらしいが、ミイラ取りがミイラに、いささかなった形では、少し、武士としても、意気地がなさすぎる。 邸の表から申せば、お前は、国許へ戻すか、女は、親許へ下げて、まず処置するところであるが、ただの家来ではないから、そういう処置もできぬ。処置はできぬが、噂が拡まる。一番、困るのは、拙者しゃ。中島兵太夫、以後、不義へは、睨みがきかなくなる。よいかな、このわしのことを、考えてくれ。また、牧仲太郎殿の誠忠無比、一命を賭しての呪術を思い、また、己の行末のことを、思うだなら、ここは、一番、女と別れるのが、なによりの孝行、忠義しゃ」  一気に、こういって兵太夫は、冷たい茶を飲んだ。  「女も同しことしや。孫兵衛の倅は、よい男しゃ。気前も武士らしい。調所蔵が見込まれた卸しゃし、その親爺も、調所蔵の相談相手にもなった大町人しゃ。申し分はない。百城も可愛かろうが、浜村へ行くと、また、浜村が可愛うなる。去る者、日々に疎しと申して、若い娘は、すぐ血道を上げるが、しばらく我慢して、ほかの男と添うておりや、また、その男の肌がよくなるものじゃでーな、ここは、わしの顔を立て、月光の武士を立てさせ、その方の身の上も固めると、三方、四方よいように、さらりと別れるのじゃ。よいかな、もし、ここで、わしの申すことを聞かぬと、わしも、留守居として、蔵へ申訳がないから、その方は、母親へ送り届けて、母親もろとも、しばらく、窮命しゃ。また、百城とて、片手落の裁きはできぬから、仲太郎の許へ戻して、処置をつけてもらわにゃならぬ。どうじゃな、牧」  「はっ」  「女は?」  「よく、わかりましてござりまする」   「それでは、別れると、此後いっさい係り合いなしと、これで誓紙を作るがよい、早く、承諾してくれて落ちついた」  兵太夫は、違い棚から、手文庫を下ろして来て、中から紙を致り出した。   「おそれながら‘−—」   「なにかの」   「暫時、両人にて、話しとうござりまするが、次の間をー」   「ははあーそれは、よいが、別れる決心は、したのであろうの」   「はっ」   「なら、少しは−−よかろう。許す」  二人は、平伏してから立ち上った。兵太夫は紙を延ばして、膝脇へ置いた。そして、自分で、茶をついで、飲もうとしながら、しっと、二人の入った次の間を見た。そして、厳格な、留守居役の順になって、しばらく、耳を立てていた。 憤死本件     一ノー 仲太郎は、寝不足の眼を血走らせて、誰も入れない一間で、魔天の像を描いていた。 -一一  白い絹の上に描かれていく魔天の線は、ところどころ薄ぐろく、ところどころは紅であった。  眉を立て、眼を怒らせ、ロを張った魔天の形は、巧みではなかったが、人に迫る凄惨さを衷していた。  仲太郎の膝の右には、青磁色の鉢があった。その鉢の中に、淀んでいる赤黒い液体は、大の血と、牛の血と、仲太郎の腕の血との混ったものであったし、魔天を描いている筆は、十三人の人間の生き毛と、ハ種の獣の毛とを合せて造った筆であった。牧は、その筆に、その血をつけて、一筆を下すたびに、「南無、太忿怒魔王、満天破法、十万の有無、八万の悪童子、今度の呪法に加護侯え」  と、呟いたり、口の中でいったりしていた。   (調所蔵が、敵党の奸策にかかって、毒死なされた上は、是非もない)と、仲太郎は、決心したのであった。ただ一人、仲太郎の苦衷を知っている調所の死んだということは、仲太郎を落胆させると同時に、狂憤せしめた。   (是非もない−かかる上においては、恩師といえども容赦すまい。調所蔵を殺す人間に、本当の人間の値打はわかるまい。まして、いわんや、怪奇にして神業のごとき、この呪法のわかろう道理がない)  牧は、ただ一人の心からの信仰者にしてかつ保護者である調所を失ったことが、淋しくもあったし、情なくもあった。   (大殿、斉興公から、多少の加増があるくらいで、己の命をちぢめてまで、この呪法を拡めよ うとはしたくない。かりにも、斉彬公の公子達を呪殺してまで、秘呪の威力を示そうとするのは、一つは、調所殿への知己に報いるためであり、二つには、御家のためであり、三つには、天下に この法を拡めて、破邪に用いんがためであった。自分は、邪法の呪mを行っているが、邪法は人を呪殺すると、己の命を三年ちぢめる。しかし、正法の呪法は、人を生かし、己をも生かす。それを知りつつ、恩師をも敵として、邪法を行っているのは、広く天下に、この秘呪の正統者を求めんがためであった。調所殿は、この心を知って、十分の言葉をくだされた。ただ一人の、その庇護者を失って)と、思うと、牧は、絶望し自衛した。   (どうにでもなれ、ヽこの上は、威力のほどを見せて、調所殿の後を追ってくれる)  牧は、黒い毛脱の上に坐ったまま、一筆一筆に、祈願と命とをこめて、小さい大忿怒明王の像を抜き終った。そして、しばらく、それを眺めていたが、それを持って立ち上って、次の問の襖を開けた。  次の間には、四人の弟子が、祭壇の周囲に坐って、牧が行にかかるのを待っていた。牧は、灰色の顔をして、弟子の叩頭に、答えもしないで、壇上へ手を延ばして、戒刀を取り上げた。  今日の行の、ただならぬことを察している弟子たちは、牧のすることに不安を感じながら、見守っていると、   「今日の修法は一人でよい」  と、静かにいった。そして、弟子たちが立ち上るのに眼もくれず、戒刀を抜いて、左手に持った。そして膝の前に、微かに、瞬いている燈へ、段木をつきつけて、火が燃え上ると、火炉の中 につみ重ねてある木の下へ、差し込んだ。       一ノニ  煙は、部屋の天井を這い廻っていた。異臭は、襖の外まで洩れていた。部屋の中は、薄暗くて、むせっぽかった。  牧仲太郎のは、狂人の眼であった。何かを、宙に視つめていたが、その一点を、しっと睨んだまま、またたきもしなかった。その眼は、人間の眼でなく、悪魔のように光った凄さを帯びていた。  火炉の灰を塗りつけた顔には、冷たい汗が、溶んでいたし、はだけた胸には、滴って流れていた。唇も、手も、膝もがくがく顕えていて、時々、身体を浮かしては、立ち上りそうになった。  右手の戒刀を、引っつかんで、時々、振り上げかけては、唇を噛んで、膝の上へ当てたり、左手の画像を、担げつけかけては、顕える手で引っ込めた。  牧は、その視つめているところに現出している、見えぬ敵と争っているのであった。飛びかかるように身体を突き出すかと思うと、打ち挫かれたように劈を、胸を引いて、そのたびに歯を剥き出した。   「否、否っ」  大声で、次の間まで響く声で、むがナると、いきなり立った。そして、戒力を振り上げると、すぐ崩れるように坐った。肩で呼吸をして、全身を顕わして、  「邪中の正気、見られいっ」と叫ぶと、火炉の中へ、墜ちかからんばかりに身体を延ばして、戒刀を突き出した。そして、顔を横に振りながら、  「否、否、飛跡和光の月明かにーー」と、絶叫して、戒刀で上を指した。  「終末に及んで分段同居の闇を照らす、これ、邪中の正」  こう叫ぶと、身体を引いて、  「十方充満の諸天、散させ給え」  こう叫んだ刹那、牧は、  「南無、明王」 人間の声とも思えぬ絶叫であった。部屋の中へ、爆弾のごとく作裂したかと思うと、左手に握 っていた、忿怒明王の画像を、火炉の中へ担げつけた。  画像は、炎々と燃え上っている段木の焔の上へ、落ちかけると、一煽り煽られた。そして、焔の上へ何者かの手で立たせられたように、さっと突っ立った。火焔の明りに照らし出された明王は、牧を睨んでいるようでもあるし、牧の祈願を聞き入れたようでもあった。その一刹那、   「ええいっ」  牧の手の戒刀が、画像へ閃くと、明王の頭から、真二つに切れて、倒れ落ちるとともに、その裾から、燃え上ってしまった。   「成就」  牧は、人間らしい眼に戻って、画像の焼けるのを眺めていたが、片手で礼拝した。そして、燃   えつくしたのを見終ると、戒刀の尖で親指の甲を切った。血が、吹き出してきた。牧は、それを、2 画像の灰の上へ、そそぎかけた。    戒刀を下へ置いて、火炉の灰を疵口へつけて、三度、黙祷した。そして、立ち上ろうと、壇ヘ  手をついたが、腰を浮かすと、よろめいた。首を垂れて、しばらく、右手をついたままじっとし  ていたが、静かに、上げて来た眼に、微かに涙が光っていた。        ニノー    加治木玄白斎は、疲労と、風邪と、その熟とで、白い中に埋まって、臥せっていた。静かな寝  息、暗い行燈、なんの物音もしない部屋、部屋。    その中で、急に、手を蒲団の外へ突き出すと、鋭い眼付をして、     「市助」    そう叫んだ瞬間、よろめきつつ、起き上っていた。     「はっ」     「用意っ」    市助は、次の間から襖を開けて、膝をついて、蒲団の上で、危ない足つきをしながら、帯をし  め直している玄白斎を見上げて、‘     「修法の?」     「ものどもを、起せっ」   「はいっ」  市助が、走って出た。玄白斎は、ヤきいハりながら、市肋の開けておいた部屋へ人って、行燈の微かな明りだけの中を、手さぐりに、火炉の上へ登った。  廊下に、けたたましい足音がして、三人の門人が人って来た。   「修法を、今から」   「牧を、折伏致す。早く致せ」  火炉の中の、焚木は、いつも用意されてあった。和田仁十郎が、祭壇へ、黙祷して、その前に供えてある木切をとって、燧石から火をつけると、すぐ、火炉の乳木へ移した。  玄自衛は、片手を、炉べりへついたまま、首垂れて肩で呼吸をしていたが、   「戒刀をー—」と、微かに言った。市劫が、片隅の暗いところから、金具の光るのを持って来て、差し出した。   「和田、高木、よく見ておけ」  玄白衛は、静かに、こう言うと、燃え上って来た火焔に脂訪気のない顔をさらしたが、すぐ眼を伏せて、   「和田、高木」   「はっ」   「わしは、死ぬかもしれぬ」  二人は、返事をしなかった。     「牧が修法を致しておる」   「またヽ致されておりますか」    「わしをー呪殺しようと」    「先生を?」    「旺んな気力しや。わしは、この身体でー−−闘えぬであろう」    三人は、玄白斎の力なげに、俯向いて言っている言葉を聞いて、返事ができなかった。     (そうなるかもしれぬ)と、三人とも感した。だが、自分たちの力では、どうすることもでき  なかった。ただ、玄白斎が、どうして、それを感したのか? こうして、物を言っている老師が、   どうなって死ぬのかー三人は、それが、真実だとも思ったし、あリ得ぬこととも思った。    「牧−そのカを1−‐」    玄白斎が、呟いた。人々は、玄白斎が、夢でも見ていたのではないかと、感した一刹那、さっ  と、玄白斎の顔に、赤みがさすと、    「南無諸天、十方世界、円光の内に坐して、光明魏々たり、願わくは、分段同居正邪の閤を照  らさせたまえ」    どこからか、不思議の力の人って来る玄白斎の声であった。同時に、病に臥していた老人と思  えぬ早さで、戒刀が閃めいた。    「南無、赤身大力明王、邪修を拙破して、剣刃下に伏滅せしめたまえ。いかに、牧っ」    空間を睨んだ玄白斎の顔は、精気と、凄気とに充ちていた。三人の弟子は、膝を掴み、唾を呑 んで、しっと視つめた。 ニノニ  三人には、聞き取れる言葉もあったが、聞き取れぬ言葉もあった。  玄白斎は、口早に、何かを叫んだり、ロの中で呟いたりしながら、.苦痛に耐えぬように、肩を歪め、手を類わしていた。そして、半分立ち上って、火炉の中へ、倒れかからんばかりに、憤った眼で、何かを視つめながら、刀を突き出すかと思うと、肩で、荒い呼吸をしては俯向いてしまった。  三人は、眼を見合せた。和田が、壇のところへ立って、   「先生」  と、言った。顔を覗き込むと、唇を噛み切ったらしく、血が流れていた。和田は、振り向いて、   「いかん」  と、二人の顔を見た。二人も立って来て、左右から、手をかけた。その刹那、   「不心得者っ、知己は、千載に待って、なおむなしっ」  二人のかけていた手から、恐ろしい力で立ち上った。高木が壇へ片脚をかけて、   「先生」  玄白斎は、右手の刀を、振るように、頻えるように、上下させながら、   「死ねっ、死ねっ、死ねっ」  つづけざまに絶叫した。そして、左手にかけた数珠を空間へ担りつけたはずみ、火炉の中へ片足を突っ込んだ。高木が、素早く、飛び上って、よろめく玄白夜の背後から抱えた。と同時に、和田が、袖を掴んだ。  玄白夜は、二人を引きずるように、身体を延ばして、血の滴っている唇を類わせて、   「知己を失って、悪逆を重ねて、それが兵道の統領かっ」  部屋の中のどこかに現出している牧の生霊を、叱責しているのであった。二人は、袖をもっているくらいでは、引きちぎれそうなので、玄白斎の帯と、左手とへ、手をかけたス   「先生−先生っ」  二人は力を出して、火炉の中から、引き戻そうとした。だが、玄白斎の疫せた身体の力は、二人の手に余った。二人は、不思議な力に脅えるような、気持になってきた。   「乳木が消える」  市助が、一人に、こう注意した刹那、二人の手の内へ、倒れかかる枯木のように、玄白斎が凭れかかった。二人が、手に力を入れて、支えると、今まで、あの力の龍った声を出し、あの力で二人を引きずっていた玄白斎が、眼を濁らせ、口を半分間いて、荒い呼吸をしているだけになっていた。   「先生、いかがなされました」  玄白斎は、力のない眼を開くと、ナぐ、元のように、空間を見つめた。そして、何か口の中でいっていたが、   「まだっ」と、叫んだ。二人が、押えようとした瞬間、玄自衛は、戒刀を振りかざすと、視つめていた一点へ、斬りつけた——ニ人が、  「危ないっ」と、絶叫した瞬間、と同時に、玄白衛は、段木の燃えた中へ、踏み人って、よろめきながら、刀を取り落していた。二人が、倒れかかるのを、抱きとめて、‘   「先生」  と、叫んで、抱き上げると、二人が、よろめくくらいに、急に身体が軽くなっていた。   「いけないっ。皆を呼べっ」   「医者を」  と、二人が怒鳴った。一人が、走って出た。玄白斎は、灰白色の頬をして、二人の腕の中に、眼を閉していた。      ニノ三  床へ横たえちれた玄白斎は、そのまま眼を閉してしまっていた。ただ、呼吸だけは微かに通っていたので、家人、弟子たちは、枕頭、次の間に詰めきっていた。   「危ないか」と、医者に聞くと、   「どこといってーこれといって悪いところもないが、衰弱が烈しい」  医者は、首を傾けた。市助が、   「あまりに、御気力を、お使いナぎになったのだろう。実はーー」  と、呪法のことを話すと、、   「そうかな、なるほど」  医者は、玄白斎の顔を、しっと眺めていたが、   「御城内なり、御親族なりへは、知らせた方がよいの。ただの衰弱ではない。お齢が、お齢ゆえ」  玄白斎の白い輯は、いつの開にが、光沢を失っていたし、眼の縁に、薄黒い影が諭み出し、頬の艶がなくなり、咽喉仏の骨が、とげとげしく突き出していた。   「保つまいか」   「さあ−—」  仁十郎と、医者とが、こう言ったとたん、、   「うーむ」  玄白斎の頬に、血の色が差して、眼を開いた。しかし、その眼には、もう生気が無くなっていた。玄白斎は、しっとその疲れた眼で天井を眺めていたが、仁十郎の方へちょっと、眼を動かして、   「刀をI」と、言った。   「はい」  仁十郎は、なぜ、刀を持てと言ったのかわからなかったので、返事をしたまま、立たなかった。玄白斎も、そう言ったまま、しばらく、黙って、眼を閉していた。   (平生から、御壮健な方だから、このまま、よくなればよいが〜‐1)  と、人々は思った。   「刀」   「はい」   「なぜ、持ってまいらぬ。このままわしを、不忠者として、殺す所存か」  玄白斎は、ちょっと、頭を仁十郎の方に向けて睨みつけた。   「ただいま」  仁十郎が立ち上ろうとすると、】人が床の間から、刀を持って来た。仁十郎は、そ置いた。   「起こしてくれんか」  医者が、   「老師、それは、なりませぬ。このまま、このまま」     まくらべれを枕辺に  手を出して、蒲団の上から押えた。玄白斎は、力なさそうに、蒲団から、両手を出して、その手をのけて、   「わしを、生かそうとーーそれはかたしけないが、無駄しや」   「さようなことをーー’」   「仁十、後ろから、抱き起こしてくれ。もう、体力も気力も無うなった。ただまだ、腹は切れる」  人々は、はっとした。刀を持って来いという意味が、初めてわかった。   「先生、腹を召すなどとーー−」  玄白斎は、それに答えないで、身体を横にして、自分で起き上ろうとしかけた。仁十郎と、市劫とが左右から、   「先生」と、言いつつ、抱きかかえた。   「長年わしの下におって、わしの心が、わからんか」  玄白斎は、そう呟きつつ、しりじリ身体を立てて来た。 ニノ四 玄白斎は、床の上へ坐って、人々の顔を見廻した。それから、  「皆、よく聞け」とご百ったまま、咳き入った。二人が、背を撫でた。  「わしは、見るとおり、もはや、己一人で、起き直る力ものうなった。また1ー__ I 肩で、大きい呼吸をして、しばらく、黙っていたが、女中の運んで来た薬湯を、仁十郎の手か ら一口飲んで、  「人に優った気力も、使いはたしてしもうた。兵道家としてもはや、命数が尽きた。抜け殼の身しや」  静かな、というよりも、墓穴の中から、話しかけている人の声のように、微かであった。   「もはやー御奉公は勤まらぬ」 玄自省は、俯向いて、ゆるやかに、首を振った。 「勤まらぬのみではない、不忠者にも、なった。牧の性根を、見損した。あれをーーt−」  玄白斎は、仁十郎を見た。   「久七峠で斬らなんだーーーーわしの生涯の失策であった。わしは、あれを赦してやったが、あいつはわしを赦さない。わしの、老いた気力を見込んで、呪殺しようとしおった。わしは、呪法争いに負けた」  人々の順に、微かな殺気が立って来たが、誰も、口をきかなかった。   「わしが、精力を尽くしはたして倒れるからには、斉彬公の御命数も危ない。これ皆、この玄白の至らぬ業しや。わしの罪しや。あやつを赦したわしの落度しや」  玄白斎は、俯向いた。   「一つは、その落度を、君公に詫びる上からーニつには、わしが兵道家として最期を、飾りたいがため−—‐腹をする」  人々は玄白衛が、こう言ったのを、悲しく聞いていたが、誰も、この枯木のような玄自衛に、腹を切る力があろうとは思わなかった。とにかく、一生懸命になだめて、身体をもとどおりにしたなら、と、考えていた。   「刀をーーー」  と、玄白衛が、手を延ばした。一人が、   「いいえ、先生、御身体を、もう一度−−」 と、まで、言うと、玄白斎は、鋭く睨みつけて、  「たわけ者めがっ」と、怒鳴った。そして、  「仁十郎、貸せ」 仁十郎は、玄白斎の背に、軽く手をかけて、身体を支えていたが、  「先生は、それはI」  「か、貸さぬかっ」 玄白斎は、立ち上りかけた。一人が、刀を、自分の膝の上へ持ち上げた。医者が、  「とにかく、御本復なされて」  玄白夜は、黙って、疫せた手で、仁十郎の手と、市約の手とを、狂人のように打ち払った。そして、よろよろと、立ち上ると、   「牧っ」  と、叫んだ。手を傾わして、.  「現世のみならず、永劫の争いじやぞ。ともに、無間地獄に墜ちて、悪鬼と化しても、争うぞ。いったんの勝を、勝と思うな。三界、三世にわたって争うぞ」  いつもの玄白斎の気随の充ちた声であった。だが、そう言い終わると、よろめいた。二人が抱えると、・  「刀を−げ、玄白斎の最期の血を魔天に捧げて、あの世の呪いとなしくれる。か、刀を−—」 人々は、悪霊に憑かれたような玄白斎を、じっと見つめたまま、息を殺していた。   「か、かさぬかっ、汝ら、この玄白を見殺しにするかっ。放せっ、仁十っ、市助っ」  二人を振り切るはずみ、玄白斎は、朽木のごとく、倒れかかった。人々が、’   「あっ」  と、叫んだ。三、四人が、手を出し支えようとした。   「この毛を、悪神に供えfll」  玄自責は、微かに、’こういって、自分の頭の毛を掴もうとしたが、もう手に力がなかった。   「この舌を___ I  人々が、抱き上げると、玄白責は、舌を噴んでいた。舌が半分、ロの外に現れていたが、もう喘み切る力もなかった。白眼を見せて、灰色の順に、死の蔭が、濃く彩っていた。    三人旅       一ノー   「のう、深雪、賞めるぜ、庵あーー’惚れた弱味ってこのことだ。お由羅あ、俺の実の妹で、俺を、この身分にしてくれた、なんだなあ、且那様みてえなもんさ。そいつを、刺し殺そうなんて、ハつ裂きにして、串焼きにしてえってのが人情だが、惚れた人情ってやつあ、また、人情の中でも別だわな。その女をお前、助けようってんだ。どうだい、俺の、真実がわかっただろうがな」  小藤次は、深雪の押し込められている、薄暗い、じめしめした、鼠の騒ぎたてる道具置部屋の中で、うずくまっていた。深雪は、その前に、膝を揃えて、俯向いていた。薄暗い中に、厚化粧の顔が、冴え冴えとして、浮んでいた。   「俺が、必死の命乞いをしたから、そこは実の妹のことだ。いいようにしろって、まあ、命に別条はねえ、しかし、なあ深雪、水心あれば、魚心ってんだ。魚心あれば、水心—まあ、どっちでもええやな。憎さがー・そうしやねえ、可愛さあまって、憎さが百倍、こうまでした俺の気を察しねえで、首を、横に振る分にやあ、俺も男だ、なぶり殺しに殺すか、中間部屋へ連れ込んで、念仏講にした上で、夜鷹宿へたたき売るか。人間、出ようによって、仏にもなりやあ鬼にもならあーー俺あ、お前の生命乞いをして、寿命を、三年縮めたぜ。妹の怒るのも無理はねえや。初めっから、企んで、入り込んだことなんだからのう。それに、俺が、仙波の娘と知ってのことだろう。ぐるになって、妹を殺すつもりかって、叱られたのにや弱ったよ。しかし、さすが、薩摩七十七万石を、手玉にとる妹だけに、捌けてらあ、小藩次、お前、あの女に、惚れているんだろうって、図星だね。注意おしよ、一筋縄で行く女しやあねえから、いうことを間かして、寝ている間に、咽喉でもやられたら、どうする気かえ、ときたよ。こいつももっともだ。しかたねえから、なあに、あっしも男だ、男の力できっと口説き落しますと、大言をはいて来たが、妹の手前だって、お前に、振られた、振られたが、命は助けてやったとは、真逆いえねえじやねえか」 深雪は、小藩次の言葉を、半分開きながら、あとの半分では、この場の処置と、父の死のことを考えていた。そして、   (後は、とにかく、この場は承知しておいて、とにかくも、ここを逃げられるものなら、いったんは、逃げ出さなくては)  と、考えた。   「いろいろ、と、込人った事情もあろうが、とにかくだ、人間って奴は何が大切だって、出世が大切だ。大工上りでも、出世ずりや、先祖代々馬廻りで侯のが、ぺこぺこ叩頭する。お前が、庵の女房になってみな、化粧料だけで五十石は、庵、妹からむしり取ってでも、差し上げちまうよ。御供女中が少うて三人つかあ。外へ出るにゃあ、女乗物だ。お前は、武士の娘で、朝から晩まで、ござり奉るで育ってきたから、職人気質は、下品に見えるだろうが、これで、付き合うと、なかなかいいもんだぜ」  襖の外には、二人の侍女が、深雪の見張りとして、坐っていた。小藤次の、時々の大声が漏れて来ると、盗み笑いをしていた。   「俺あ、男の意地で、うんと言わせるんなら、ふん緯っといても、思いを遂げるぜ。俺が、このままじゃ逃げるかもしれねえから縛って、撹ぐつわをはめてと、ひとこと言や、それでいいんだ。俺は、そんなことはしたくねえ。俺が、首ったけなら、お前が聯ったけ、好いてくれりゃあ、ただいま死んしまってもええと、こういう御心底だ。うん、と承知してくれりゃあ、後とも言わずに、四国町の家へ連れて戻って、内祝言、高砂やって奴は、ちゃんと、美々しくしてからのことにして、今夜の内に、女房だ。ええ深雪、その方が、当節お利ロだろうぜ」   「ええ」  深雪は、微かに答えた。小藩次が、   「本当かい?」   「ええ」   「わかったかい」   「はい」   「ええが、はいになった。しめたっ」  小藩次が、笑って、おどけた手付をすると同時に、深宮も笑った。自分で、突いたが、厚着のため、ちょっと、肌へ傷ついただけの疵が、それでも、安心すると痛んでいるのが、感しられてきた。       }ノニ   コ人かい」  と、次の間の女中に聞いて、小勝次は、足早に、お出願の居間へ入って行った。お出願は、腰元を対手に、双六をしていた。   「何か、用かえ」   「あの女のことで1___ I  小勝次が、坐ると、腰元が、寞を振る手を止めた。   「次は、梅ケ抜かえ。お振り」  お由羅は、小藩次へ、振り向きもしないで、・  「そうれ、大井川—−ゆっくり、お休み」  「あの女のことで」  「寝首を掻かれんようにの」  お由羅は、濃い青磁色に、紅裾模様を染めて、蕊に会銀糸の縫いをした被布を被ていた。堆朱の台に古会商をつけた脇息に、片肱をつかせて、  「調所の供養しやと思うて、あれの、命を助けるほどに、礼をいうなら、仏に申し上げや」  「ふむ」  小藩次は、腕組をして、寞のころがるのを見ていたが、  「拙いな。ちょっと、貸してみな」  振る番が当った女が、寞を渡すと、。  「四の目と出リや、府中か。それ、こう持って、こう振るんさー—ほら」  註文の四が出た。  「まあ、お上手で、遊ばしますこと」  三人の侍女が、小藤沢を見て称めた。  「そんなことだけが取柄」  「それで、今から、宅へ、連れ戻りたいが、ええかい」  お由羅は、脇息から肱を放して、   「煙草」  といった。一人が、銀の政府冗を取り上げて、煙草をつめた。そして、お由証に渡すと、一人は、高蒔絵した煙草盆を、てごろのところまで、差し出した。   コ枚、役者が上ゆえ、気をつけぬとーー」   「それくらいのことは、心得ており申す」  腰元が俯向いて、笑った。  「自分では、心得ており中しても、先方は、もっと心得ており申してーー」  と、お出談かいうと、腰元は、声を立てて、俯向いて、笑った。   「それくらいのことあ、いくら、なんでもー」   「心得ており申しますかの」  腰元の一人は、胸を押えて、損になって笑いこけた。   「台無しだ。とにかく、心配してもらわんでも、うまく料理するよ。高が小娘一疋ぐらい、ざとなれば、指の先でぴしっーー’」   「また下卑たー」  お由羅が、軽く睨んだ。   「一言お前に届けずみにさえしておきやあいいんだ。後で叱られるとうるせえから1−‘」 「叱られるようなことさえ為さらなんだら、誰が、好んで叱ります?」 「ほいほい、どうも、皆様、御邪魔様でーーでは、深雪を頂戴して参します」  小藩次は、立ち上って、一足踏み出しながら、   「いずれ、支度金を、その内に——」  と、小声で、口早にいって、.   「次は、誰が振る役」  と、いっている、妹の声を聞きながら、出て行った。そして、廊下づたいに、物置部屋へ来ると、左右に、坐っている侍女へ、   「女を、連れてまいる」  厳格な顔であった。   「お上へ、伺ってまいりますから」   「早く致せ」  侍女の一人が、お出題のところへ、許しを得に行った。  小啓次は、襖の中へ人ると同時に、にたにた笑って、1   「さあ、大手を振って戻ろうぜ」  と、深雪にいった。深雪は、俯向いたままであった。      ニノー  小藩次は一人の供と、深雪とを連れて、門を出ると、心の底に、嬉しさと、誇りとをいっぱいに湧き立たせながら、むずかしい顔をして、往来の真中を歩いた。人々は、深雪を眺め、振り返 って行った。   (別嫡だろう。これが、明日から俺の女房になるんだぜ。丸偏に結ってな)  人通りがなくなると、小藩次は、にやっと、ほくそ笑んでみた。そして、町人の態度で、やさ  「町篤は、すぐ近いから」  振り向くと、深雪は俯向いて歩きながら、   「いいえ、それには及びませぬ。歩き慣れておりますからーー」   「歩き慣れているからって、せいぜい邸の中ぐらいのものだろう。そろりそろりとまいられましょうで、四国町へ行く内にゃあ、目が暮れらあ」  小藩次は、人が来ると、すぐ澄まし返って、武士らしくなった。深雪は、   (とにかく、邸は出たが、このまま小藩次の家へ行けば、邸の内で押込めに逢っていたよりも、一危ない)と思った。だが、どうすることもできなかった。曇った心の中に、四国町の街景色、小藩次の家、薩摩屋敷、自分の住家などが、幻になって、浮き、沈みした。   (行けば、また、なんとか、その場逃れのことをいってーー’それに、南玉の家にも、庄古のところにも近いしーーーー)  そう思うと、この近くのどっかから、庄吉が、自分が、こうしているのを、見ているように思えた。   (親切な庄吉—)  深雪は、四国町の近くから、四国町を、なるたけゆっくりと歩いていたなら、きっと、南玉か、庄吉かに見つかるであろう。二人が見ないでも、誰かが見て二人に話をしてくれるであろう。二人が聞いたなら、なんとかしてくれるにち脆いない、それが、その夜のできごとになるか、二日日になるか? どうしてくれるか、わからないが−それまで、小藤沢を防いでいたらーIと、思った。だが、万一の時、どうして、小藤次の手を、振り切るかを考えると、身体中が、寒くなってきた。   (あの下賤な職人が、大勢いて)と、思うと、こうして、小藤沢と歩いているのでさえ、身体が汚れてくるように感した。   (だが、この人は、悪い人ではないし、本当に妾を想っているらしい。でも、妾は、心から嫌いなのだからIたまらない、男臭い匂い、下品な物のいい方、卑しい眼付—−‐)と思った時、   「喜平、驚かある。あつらえてまいれ」  と、小藩沢が、供に命じた。   「へい」  驚か、一艇、火の番小屋の横に就いてあった。柳の木と火本員櫓とが、その上に、聳えていた。   「いいえ、歩きます」   「戯談しゃねえ。四国町まで、三日もかからあ。そんな、あんよしやあI」                               てぬぐい さ    おu ・*  と、声高に、言った時、火の番小屋の中から、荒屋が、手拭を提げて、御辞儀しながら出て来ていた。   (現に乗っては、四国町の辺の入に、自分が小蔭次の家へ入るのを見つけさせるわけにはゆかない。それを見つけさせておかなかったら、誰も、庄吉へ、南玉へ、知らしてはくれないから) 深雪は、   「いりませぬ。妾、歩いてまいります。妾一人で乗るのはもったいのうございますから」   「なにをいう。手前は、高が大工でござります。貴女はお姫様。えへっえへっへってんだ。いや、もそっとまいると、また見つかるから、その時にや、わしも乗る。遠慮せんでよい、まずお乗り」   「いいえ、では、小藤次様が、おさきに」  荒屋が、小走りに、走って来た。そして、現の垂れを上げて、   「どうぞ、旦那様」   「いや、乗るのは女しや」 鳥屋は、御殿風のしいたけ慌の深雪と、  「じやあ、お腰元様」 と、御辞儀をしたとき、  「小藩次、御苦労」 と、小藤次の後方で、声がした。     ニノニ 小藩次とを見較べて、  鴛に手をかけていた深雪が、   「ああっ」  と、低く叫んで、振り向いた。と、同時に、小藩次が、の小者は、小藤沢の後方で、脇差を握った。街の人々が、   「御苦労」 一足追って、刀の柄へ手をかけた。供一時に四人を、眺めた。 益満が、笑っていた。小藩次は、黙って、柄から手を放した。そして益滴を睨んで、  「御苦労?」 益満は、それに答えないで、深雪に、  「まいろう」 深雪は、身体を頬わせながら、運命に感謝した。  「はい」 二人が立ち去ろうとすると?  「待てっ」  「ははあ、何か用かの」 益漓は、深雪を、自分の背後へやって、『  「大工守利武殿には、なにか某に御用ばしござるかの」  「人の女を、どうしやがるんでえ」  「貰うてまいる」   「貰うてまいる?」   「貰うてまいる」 ゛小藩次は、藩中一の暴れ者に対して、心の中では脅えていたが、のめのめ引きさがるのは、□借しいし、深雪を手渡すのは、それよりも借しいし、見ている人々の手前も、このままではずませなかった。頭が、しんしん熱くなって来て、一   (この野郎、どうしてくれよう)と、叫んでいたが、手は出せなかった。出したくて耐えきれぬまでに、憤りと、口借しさとが、こみ上げていたが(うっかり手出しはできぬ)と、思ってもいた。   「人の女を、畜生っ−喜平っ、一っ走りして、手を借りて来い」   「ようがナ」  小者は、益満を睨んで、脇差を押えて、邸の方へ走って行った。   「旦那様、肩は、どうなりますんで−−・」  肩息が、小藩次に、無頼漢らしい物のいい方をした。   「黙れっ」   「黙れって、呼んでおいて、旦那」  荒屋は、小藩次の口のきき方で、怪しい侍と考えたらしかった。   「小藩次、乗ってまいればよいではないか、遠慮せずにーー−大身の身しや。拙者どもは、歩いてまいる」   「喧しいやい−−深雪、おのれ益満と行く気か」  深雪は、益満の背後から、顔も出さなかった。   「約束を破るのか」   「旦那、馬はいったいII」   「この、獣っ、黙って引っ込んでろ。話や、後だってできらあ」   「獣?II獣たあ、なんでえ。馬をもって、遊んでるんじゃあねえや」   「そうとも、馬屋、しっかりやれ。小藩沢、貴公にゃてごろの対手じゃ。一番、大工上りのf強いところを、見せてやれ」   「なにっ」  小藩次は、刀へ手をかけないで、腕捲りをした。   「殺されたって、男の意地だ。女は、やらねえ。やいっ、深雪、このまま逃げりゃ、お尋ね者の益満と一緒に、ただじゃおかねえぞ。おとなしく一緒に、俺と−−−」  と、小藤沢が、言った時、鳥屋が、向う鉢巻をして、   「乗らなきやあ、いくらか酒手を貰おうかい。えっ、旦那、二本差していて、人を呼んでおいて、荒屋、いらねえしゃあ、旦那の方が、獣でげすぜ」  益満が、.   「荒屋、この娘を乗せてまいれ」   「へい」   「三田四国町、大工小蔭次のところまでーーー」  そう言って、懐から、銀を渡した。   「なにを−−」   「利武蔵の許へ、送り申そう。ついてまいられるがよい1‐  小藩次は、益満を睨みつけていた。深雪が、ためらっているので、眼で合図して、乗せると、   「荒屋、急いでくれ」   「合点だっ」  荒は、小走りに走り出した。益満も、つづいた。小藤次は、どう考えていいかわからないで、ぼんやりしながら−・−しかし、荒が走り出すと、自分も、その背後から、走るよりほかに、方法がなかった。     ニノ三 往来の人々は、走って行く篤と、人とを見較べて、  (何か急用か、大事であろう)と、見送っていた。益満は篤脇を走りながら、  「なんと、小藩次殿」 と、振り向いた。 「ええ?」 「琴平、舟々って唄を、御存しかな。   琴平、舟々、追手に帆かけて   ひゅら、ひゅっ、ひゅっ   廻れば、讃州、阿呆のごとく   琴平、小藩次は、大工上り、  いかがでござるな。   真平、御免御免   お尻に帆かけて   ひゅら   ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ」  益満は、その唄に合せて、尻を、左右へ、ひょこひょこと振った。深雪は、荒の中から、それを見て、袖を噛みしめて、俯向いた。荒屋が、声を立てて笑った。  小藩次は、益満の人間と、手並とを、人の噂に間いてはいたが、この突飛な振舞を、なんと考えていいか、判断がつかぬし、その人を馬鹿にした、益満の後方から、ついて行く、自分のことを考えると、いったいどう処置していいのかわからなくなってきた。口惜しさと、憤りとの上を、標ったく撫でられているようで、どこまでついて行くのか? どこで離れていいのか? いったい離れたものか、このまま益満の行くところまでついて行くのか、ついて行ったならどうなるのか、離れてしまったら、深雪はどうなるのか?   (畜生め、一番、後方から斬ってやろうか)とも、考えたが、それは考えただけであった。   「どうしやな。上手であろうがな。ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ」  益満が、また、尻を振った。小藩次は、汗を瀋ませて、刀を片手で押えながら、呼吸を荒くして走っていた。   「そこを左へ」  益満が、鳥屋へ指図した。左へ折れると、片側は寺で、片側は、草原であった。   「原を突っ切って」  馬屋が、   「井戸へ気をつけろ」  と、叫んだ。益満が、】   「この辺は、夜、追剥が出るでのう」   「へい」   「昼間、人を斬っても、その古井戸へ投げ込んでおいたなら、わかるまい」   「そりや、知れっこありませんや」  益満は、小藩次へ、ちょっと振り向いて、じろっと睨んだ。そして、   「よし、ここで、ぷった斬ってくれる」  と、呟いた。小藩次は、あわてて立ち止まった。そして、汗を拭いた。鳥も、益満も、どんどん走っていた。   (計られた)と、思うと、恐都心と口惜しさとで、混乱した。小藩次は、離れて行く鳥の後方 を睨んでいたがで   (ここで見失っても手を分けて深せば、居所ぐらいはーー)と思った。駕も益満も、もう小半町近く離れてしまった、そして、ゆるゆる歩んでいた。   「覚えてろ、益満」  益満が、振り向いて、   「ひゅっ、ひゅっ、ひゅしや」と、笑いながら、尻を振った。そして、   「命冥加な大工め、戻れ。また、機があれば、深雪にも逢えよう。深雪はお前に、惚れたと申しておるぞ。その内、女から押しかけてまいるほどに、楽しみにして待っておれ」  そう言い終ると、すぐ、罵のあとから走って行った。   「深雪っ、覚えていろ」  小藩次が、怒鳴った。そして、真赤な顔をして、唇を噛みながら、しっと、焉の小さくなって行くのを睨みつけた。  罵は、原を出て、街へ行った。と同時に、軒下から、庄吉が出て来て、  「うめえ工合にゆきましたな」  深雪は、罵の中から、庄吉を、すかして見た。    三ノー 「危のうがすよ、師匠んとこは」  庸王の住居の長屋へ入って行く益満の後方から、庄吉が囁いた。   「この長屋は、義理が堅い。それに、燈台下暗しの例で、ひと晩や、ふた晩は、かえってよい」 益満は、そういいながら、南王の表を通りすぎて、長屋の突き当りの右側まで、焉を入れさせた。   「ここが、隠れ家でのう」  罵から出た深雪が、益満が闘けた戸口から入ると、薄暗い、空家のような、何一つ調度とてもない家であった。   「寒い寒い。猿から、ちやんちやん借りて来い。質から給人出して来い‐ ‐  南玉が、そう胴いながら、両手に、薄汚ない模様のちがった座蒲団を提げて、ちょこちょこ自分の家から走って出て来た。そして、上り口に立っている深省に、   「御無事で、なによリ」  といって、庄吉に、   「すぐ、火を持って来らあ。寒くなると、死んだ妻のことを思い出してなあ。妻、冥途から呼んで来い。編入質屋から歩いて来い」  南王は、唄いながら、火種を取りに戻った。   「師匠は呑気だなあ」  と、いって、庄吉は、ニ入のあとから上って行った。   「さて」  益満は、坐らないうちに、   「深雪の始末」  そういって、刀を置いて、坐った。深雪は、その前へ、両手をついて、ノ   「申訳ござりませぬ」  と、低い声でいった。   「いいや、由羅の中間どもの話によると、由羅を刺そうとしたそうだの?」   「はい、そして、仕損しましてござります」   「それで囚われたのしやな。この庄吉が、心配してのう。わしも、忍び込もうか、とまで考えたが、中間に鼻薬を与えて聞き込むと、小藩次が、上手に立ち廻ったらしいから、いずれ、と、待ち受けておると、案の定—−‐」   「先生、あの尻振りはーーー」   「あはははけ、見ておったか?」  南玉が、火種を待って上って来た。   コ戸締りをしておいてくれぬか」  南玉は、ぐ貳へ火を入れていた。深雪は、益満が戸締りといったのに、庄吉が立ち上りもしないので、ちらっと庄吉を見た。   「南玉、戸締り」   「ははっーーと、立ち上り」  南玉は、節をつけて、戸締りに立ち上った。   「深雪、庄吉は、腕を斬られた」   「は」  深雪は、益満が、なぜそんな古いことを、改まっていうのかわからなかった。   「小太郎に折られた手首のことではない。ここから斬られたのしや」   「ええっIそれは? どうなされまして?」   「いわば−−」  と、益濡がいうと、南玉が、戻って来ながら、   「主への心中立てかの」  庄吉は、俯向いて淋しい、右肩を眺めていた。   「毒死致した調所、あれから、密貿易の証結晶を盗み出した。その時に、斬り落されたのじや」  「まあ」   「庄吉はーーーその証拠の晶を、そちに与えて、公儀へ訴え出させる所存であった。浪人にされて、島津を恨んでおろう。それには、島津を倒すのがよいーーと、調所の風評を聞いて、密貿易の証拠を盗ったのは、庄吉としてはもっともな考えしやが、そうもならんで、わしが、二、三考えて、訴え出ることは出た。御家へ疵のつかんようにしてのう。調所は、そのために毒死したのじや。元兇の一人を討ち取った手柄は、庄古が第一、しかし、その庄古は−のう、庄吉、深雪に申そうか」  「しょ、戯談を」 庄吉は、右肩を動かし、左手で益満を止めた。     三ノニ   「思い切ろうか、切るまいかって、唄があらあ」  南玉が、   「いっそ、死のうか、なんとしょう、身分ちがいの仲しやもの、所詮添われぬ縁しやもの、チチチン、過ぎしあの日の思い出を、胸に収めて遠旅にって、深雪さん、庄吉って野郎は、貴方に手柄をたてさせたさに、腕を斬られっちめえやがったのでね。唐、天竺、三界かけての、素間抜け野郎でさあ」  深雪は、庄吉の真心を前から感していないのではなかった。だから、腕を斬られてまでと聞くと、ひしひしと身にしみるようであったー’だが、あまりの情熱さに、薄気味悪くも感しられた。気の毒とも思ったし、可哀そうとも思ったが、それが自分への恋からである、と、考えると、駈られたことには御礼をいいたいが、庄吉を慰めるのは、厭な気がした。   「それで、深雪、そちも存しておろうが、大殿は、参観交代にて、御国許へまいられる。調所の伴で、延び延びになったが、一両日中には立たれよう。さすれば万事は、国許でということになる。ちょうど幸い、南玉も、旅慣れておるし、庄吉もーこの男は返す返すも不運での」   「先生、そいつまではおっしやらずに−−’お嬢さん、ちょいと、申し上げておきたいのは、あ っしやあ、色恋からしやござんせんよ」 「嘘をつけ」  と、南玉が、鼻先で指を庄吉へ向けた。 「色恋と、一ロにいってもれえたくねえんだ。そりや好きさ。好きでなけりや、できる仕事け ゃ`一ゃ4ー 迂けパパ・ヽ片づ’`‘   F.‘:‐             ふじはる え。だが、巾着切って、女、御存しでしょう」 剽きん者さー理屈はよそう。お嬢さん、あの富士春って、いう、あの   「はい、いつか、一度、お目にかかりました」   「あいつめ、あっしの手はなくなるし、二人の仲あ、町内へ知れて、弟子は来なくなるし、ちかごろは流しでさあ」   「流し?」   「そう、表ロヘ、ペンペン弾いてくる奴がござんしょう」   「まあ、あんな稼業にーー−」   「でー」  と、いった庄吉の言葉は、微かに、温っていた。   「いつまでも、皆かの世話になっていたくはねえし、あっしも、御供をして南玉と二人でお嬢さんを、お国許へ届けようと、もう、この間っから、相談しておりましてね」   「小父様、それは、本当でござりますか」   「小太郎も探したし、それに、深雪ーハ郎太殿は亡くなられたが、存じておろうのう」   「父様が? はい」   「不覚の涙を流すでないぞ。赤の他人の庄吉が、腕を斬られてまでも尽しておるのしや。忠義のために殺された父御へ、涙を流すなど、草葉の蔭で嘆かれるぞ。宜フヘ。一家、一族、ことごとく殺されても、意地と忠義を貫くのが、武士の慣わししゃ」   「はい」  深雪は、俯向いて、そっと、日へ袖を当てた。   「供養にならぬ涙を流そうより、大坂表へまいって、また国許へまいって、てごろの仕事で、父の志をつげ。ょいか。わしは、しばらく、江戸の同志と謀ることもあり、また天下のために策謀すべきことも起こっておる。齢端行かずとも、もうー人立ちはできよう。もし、進退谷まらば、死ね。いつまでも小娘ではない。仙波ハ郎太の子として、これまでの教訓、よく噛みしめて、物に当れ、ょいか。南玉と、庄吉は、付人しゃ。しかし、頼リにはするな」   「頼りにするなは、ひどうげすな」  益満は、口を結んで、俯向いている深雪を、しっと、見下ろしていた。      三ノ三   (いつか見た−今までまざまざと残っている、あの父の血塗れの夢は、正夢であった)と、、思うと、悲しさと、憤りとが、いっぱいになってきた。   「不束でございまするが、御教訓、忘れは致しませぬ」   「うむ」   「して、父上はいかがして、亡くなりましたか。いつかの夢に、斬られている姿を、見ましたが、それから、御師匠様からも、それとなく非業の死を遂げたらしいと、聞きましたが、やはりI−」   「そのとおりーー」  益満は、腕組をしたまま頷いた。南玉と庄吉とは、顔を見合せた。   「争えんのう、父娘だ。どろどろっと出たんだ」   「対手は、牧仲太郎。噂に聞くと、三十人あまりの中へ、小太郎と二人で、斬り込んだらしいが−−」   「兄上は? そして?」   「小太郎は助かったらしいが、消息がわからぬ。わしが、叡山へ馳せつけたのは、ちょうどその翌日、牧もおらぬし、小太郎を探したが、見つからぬし、牧のあとを追って、江戸へ戻って来る途中、この庄吉に逢ったのじやが−」   「あすこで、お目にかからなかったら、あっしや死んでおりましたよ」   「御教訓に従いまして、上方へまいります」   「路銀、支度のことなど、調べておいた」   「たりないところは、張扇から叩き出す」  と、南玉が言った時、南玉の表口あたりで、   「師匠−おおいっーー留守かい」  と、叫びがした。三人が、表口の方を見て、不安な眼付をした。益満が、   「小藤次の奴輩だの」  と笑った。   「留守だよ」  南玉の向い側の人が言った。   「どこへ行ったい」   「あいつのことだから、わかんねえや。寄席で、下足でもいしってやすめえか」   「深誓って、娘が、来なんだかい」   「ここの長屋は、皆、下地っ子に売っちまって、娘はただいまお生憎さまだ。そのうち、こしらえておかあ」  戻って行く足音がした。   「向いの平吉、科白がうめえや。そのうち、こしらえておかあ、と来やがった」   「だって、商売が、腺粉細工しやねえか」   「あっ、そうか」   「旅に立つのは、明朝、明けきらぬうちに、南玉、いつでもよいのう」           朽ちで  こづち   「この張扇一本、打出の小槌みてえなものでげす」   「庄吉の用意は?」   「先生、ちょっと申しにくぃんだがー」   「何?1−金のことかの」   「ぃぃぇーぁぃっ」   「富士春か」   「可哀そうな気がー」   「心得た」   「先生、元のように、可愛がってやってくだせぇ。あっしの頼みだ」   「かたしけなく、頂戴つかまつる」   「いや本当に、戯談でなしにIぁぃつぁ真実、手のなぃぁっしに、よく尽くしてくれましたよ。だが、今、別れてやるのは、ぁぃつのために、先生、いい別れ時だと、あっしやあ、思ってぃますがね」   「庄吉、お前、なぜ巾着切になった?」   「ぁっしですかぃーーーさあ、どう言ったらーぇらそうな奴の、胆を潰すのが、面白いからでげすかな」   「ちょっと踏みはずした形だのうー−‐惜しいものしや。富士春のことは、心配致すな」   「ありがとうございます。これで、安心した」   「しかし、庄吉、世を救うためには殺すかもしれぬ」   「世を救うためにー!ええ、ようがすとも、深雪さんだって死ぬんだ。ようがすとも」 黄昏が近づいて来たらしく、部屋の中が暗くなってきた。三人は、時々軽いロをききながらも、 どことなく沈んでいた。 宿命の渦      一ノー  表には、知らぬ人の名が盲いてあった。披くと、小太郎からの手紙で、傷が愈ったから、大坂へ来た、宿にいるから、来るか、行こうか、としてあった。  綱手の胸は、握り締められたように、苦しかった。いつか、この苦しみがくると、覚悟はしていたが、兄に会えば、兄は、月丸との地獄に堕ちた恋を、きっと知っている、というような気がした。   (怒って、訴るであろう。いや、死ね、というだろう、その時は、自害してもいい、しかし、その前に、月丸へ、このことを話したい。そして自害したい1いいや、話をしたなら、月丸は、きっと、小太郎を討ちに行くにきまっている。では、このまま、黙ってーそんなことはできない)  綱手は、同しことを、幾度も繰り返して考えていたが、   (いやいや、これは、自分の気の咎めで、兄は何も知らない、知ろう道理がない)  綱手は、手紙の文字から、紙から、小太郎が、何か知っているだろうかと、それを探し出すように、しばらく、眺めていたが、   示太郎は、知りはすまい。知れよう道理がない)と、思った。そして、その手紙を持って、女中頭へ頼み、鼻薬を使って、一刻だけの暇をもらった。   (兄は、これからどうするのかしら)そう思うと、汚ない着物を着て、手足の不自由な小太郎が、頭の中で描かれた。綱手は、頭の物、着物の類を、下女中に命して、金に替えさせた。  その中には、綱手の宝物にしている櫛があった。それは百城月光からの、恋の贈り物で、今もさしていたのだが、それも、その売物の中に加えた。それは、小太郎へ、月光との不義の恋を詫びようとする綱手の、せめてもの心からであった。  綱手は、幾度か、その櫛の油を拭いては、眺めながら、月光が、その櫛を、京の宿の二階で、,自分の頭髪へさしてくれた時のことを想い出した。そして小太郎に、   (これを、売ります。そして、兄さまの、なにかの足しに致します。これが、綱手として、今、兄様にお報いできる、たったーつのことでござります)と、曇った胸で、言ってみた。そして月光へは、   (妾の心は変りませぬ。櫛の有無で、けっして変りは致しませぬ。貴下も、妾の、兄へ尽すこの心がわかってくださったなら、叱りはなされますまい。綱手の、今の辛い心を、察して、赦してくださりませ)と、詫びた。  下女中の、持って戻って来た金に、己の金ありったけを加えて、綱手は、蔵屋敷の門を出た。  小太郎の宿は、根掘の舟着場所のーつになっていた高諸橋の川沿いの家であった。  橋の上へ来ると、早船は、目的の旗を立て、伏見辿いのは、大きい体を根づけにして、川岸いっぱいに、幾十赦も並んでいた。  柳の槙わった岸には、本の下に、大きい荷がいくつも捨ててあるし、岸から歩み板が、幾十枚もかかっていて、船頭が、旅客が、口々にざわめいていた。  いろいろの講中の札のかかった、軒の低い、家中を往来していた女中が、番頭が、一時に、  「お着きやす」 だが損に広い宿の暗い土間へ入ると、忙しそうに、組手を見た。  と、言って、一人の番頭が出て来た。綱手が、何も言わぬ先に、   「御一人様でー御一人様で」  と、つづけざまに聞いた。       }ノニ   「さあIIなんと致すべきか」  小太郎は、駒組して、川鉛いの障子近くに、片膝を立てて凭れていた。明るい障子に、水の影が、揺れていた。   「存じておろうが、大殿は、近々、ここを御通行になる。その節、同志の者に逢うて、談合して、国へ戻ってもよし、またー」  といって、小太郎は、綱手をじっと見つめて、   「父上を討った牧仲太郎は、江戸におろうがの」  と、聞いた。綱手は、眼を伏せて、   「はい」  と、答えた。   「牧が、江戸におろうなら、まず、こやつを討つのが順序であろう」  綱手は、   「さあ」  と、答えた。牧を、小太郎に討たせたくもあったし、討たせたくなくもあった。小太郎が、牧を討たぬとわかれば、月丸も、小太郎を討とうとはしないであろうし、自分の苦しさは、半分消えると、田心った。   「それが、物の順しや」   「でも、江戸にいなさるか−」   「調所がまいったうえは、おろう。調所が死んでも、まだ江戸は離れまい。わしの推察では、益満が、江戸へ戻っておるにちがいない。あいつの手で、仲太郎を討たれては、わしの弓矢が或る」  小太郎は、独り言のように言った。   「兄様Iそれから、路銀は?」  「路銀? 持っておるぞ、腹巻に入ったままであるし、纏親和尚から、五両もろうた」  「妾もー」  綱手は、小さい包を出して、  「都合してまいりました。旅には、なにほどあっても入用なものゆえ−」  と、小太郎の前へ、差し出すとともに、胸がつまった。  「いいやーありかたいが、お前が持っている方がよい。わしは、なんとかする。お前は、女でー人じや。まして、敵の中にいてー−収めておくがよい」  小太郎の、綱手を、信していて、可愛がってくれているのが、綱手には、悲しかった。   (兄は、何も知らない。自分のしたことを、考えていることを、何も知らない。自分は兄仏訳いているのに、兄は、自分を昔のように可愛がってくれる)と、思うと、涙が参み出てきた。   「何を泣く、泣いて戻る父かー」   「ええ?ーーー泣く?」  絹手は、固い笑みを、唇へ上げて、』   「ふっとしてーー」  と、一言いったが、胸の中は、涙でいっぱいであった。   「邸は、時刻が、厳しかろう。戻ってよいぞ。調所が死んだのでは、もはや、邸におることもないが、母上と、相談して、すぐに、又蔵にでも迎えに来てもらうよう、飛脚を立てよう。無事なのが、なによりーーー」  小太郎は、心から嬉しそうであった。  「脚は、少し不自出しやが、剣は、真剣に場馴れて、人には譲らぬぞ」  綱手は、月丸が、小太郎の腕前のことを、いつか聞いていたことを思い出した。そして、なにかしら、二人の間に果し合いでも始まるように感した。  「なんとしても、江戸の方へ?−国許へ戻って、同志の方なり、母上なりにII」  「それは、牧を討ってからでよい」  小太郎の江戸へ戻る決心は、変らなかった。綱手は、これが、兄との一生の兄弟めだと思った。せめて、兄の、嬉しそうな顔を、心に残しておきたいと、じっと、顔を眺めていた。   「何を見ておる。少し、痩せたであろうが」  と、小太郎は頬を撫でて、微笑した。綱手は、抱きしめられて、思いきり泣いてみたかった。      ニノー  斉興、国許への旅中、大坂へ立ち寄る、目どりは−と、江戸から知らせて来たので、大坂蔵屋敷は多忙であった。  屏、壁の修繕、植木の手入れ、調度、器異類の掃除、掛物、什器類の下調べ、邸の中も、蔵の中も、庭も、門の外も、廊下も、人影と、足音とが、勁いていた。  中島兵太夫は、障子を開け放して、楠木人足の人っている庭を眺めながら、廊下に立っていた。綱手が、   「お召しになりましてござりますか」  と、廊下へ手をつくと、   「浜村へ、縁村の一件しやが、大殿、御越し前に片付けたい。と、申すのは、妹があろうがの、その方に」   「はい」   「その妹が、お部屋へ、無礼を働いた」   「あの、お由羅様に」   「うむ、調所殿の御取計らいで、,宿元下げ渡しで、けりはついたが、その方のことが、発覚してはおもしろうない。それで、今夜のうちに、堺へまいるよう、手筈を致してある。万事は用人が、心得ておるから、喜兵衛と、相談致すがよい」   「はい」   「月丸にも、そのことを、先刻申しておいた。離れにくい件であろうが、よく聞き分けて、利発な子しや。忙しかろう」   「いいえ」   「俯向いてばかりおらず、顔を見せてみよ。邸へまいってから、また、一段と、美しゅうなったぞ、あはははは」  綱手は、父の遺志に反き、兄小太郎を裏切り、今また、自分のいったことを、その通りに信用してくれる、人のいい、この中島兵太夫を欺くのかと思うと、百城月丸との恋が、呪わしかった。 だが、別れる気はなかった。   (月先様も、お話を、お聞きなされた上は、出奔の覚悟をなさってくださったであろう。邸の中は、人目が多いから、打合せはできぬが、自分が、邸を出て行くのを御竟になったら、後を追うてくださるだろう−—いいや、いっそ、堺へ行ってしまって、月光様とこのまま別れたらー−かえって月先様のために、よいのではあるまいか−確かに、それは、よいことにちがいないが、黙って、自分が抜け出した後に、月先様は、どうなるかしら? やはり、出奔なさるであろう。さすれば、同じことしやもの−−思いきって、別れ話を、持ち出そうかしら?−でも‘l’でも、お目にかかったら、別れられはしない。別れられるものか?)  綱手は、自分がどこにいるのかも忘れて、そんなことを考えていた。   「退るがよい」  兵太夫は、そういって、立ち上った。綱手は、あわてて、   「いろいろと、並々ならぬ、御世話に、あいなりましてござりまする。堺へまいりましてからも、後程のことも、くれぐれ、お願い申し上げまする」  と、いいつつ、よくのめのめと、こんな嘘が、いえると、自分で浅ましかった。しかし、(これも恋ゆえ−)と、思った。   「うむ、浜村と、当家とは、ただの間柄ではないから」と、いいつつ、兵太夫は、庭下駄を履きかけて、   「寒うなった。国許は、暖かいがー」 と、独り言のようにいった。一人の侍が、  「次の間の、飾り付けを致しましてござりまする。御見分のほどを—」 と、いって来た。それを、きっかけに、綱手は、重い心をして、重い身体を、立ち上らせた。      ニノニ  侍女部屋には、誰もいなかった。綱手は、剥肘として、つづらに、触れかかった。   (深雪がー無礼を働いた)  綱手は、ひと目、深雪に逢いたいと思った。涙が出てきた。   (どんな無礼?—−邸外で、働いたのか、町の中で働いたのか、それとも、奉公に上ってからかーーいったい、深雪は、どうして暮らしているのだろう)  そう思うと、益満の面影が、ぼんやりと、眼の底に浮んできた。   (箱根の山の中で、いつか、肩へ手をかけた時)  綱手は、それを想い出して、独りで、顔を赤らめた。それは、益漓への、がかの心からでなく、自分が、人並よりも、淫蕩娘ではないかしら、という、疑いからであった。   (でも、世間で、十九といえば、子供衆のある人もあるのにーーブ  そう、自分を弁解してみたが、長上の人の許しもなく、男に肌を許した、ということは、心の底に鉛のように、重くなって沈んでいた。   (妹は、もしかしたら、益満様の指図で、お由羅様を殺そうとしたのではないかしら)  そう考えると、そういう気もした。   (危ない、大それたことを−益満様の教えそうなこと)  綱手は、深雪の、健気な仕業を称めるょりも、益満に、操られて、危ない仕事をした深雪が可哀そうになってきた。   (深雪に逢いたい。深雪に逢うて、深雪を浜村へとつがせて、一生を、安楽に、送らしてやったら)                            ゛  そう思うと、死んで行く姉の自分として、ただ一つ、可愛い妹に残しておける、いい形見のょうに思った。   (そうだ、遺書を書いて、妹へ)  組手は、つづらから、身体を離した。そして、立とうとしたが、   (でも、死ぬにかぎった身ではなし、かえって、妹をびっくりさせては−)  綱手は、月光と二人、手をとって、落ちて行く楽しさを空想し、二人きりで暮している嬉しさを描いてみた。   (行くところまでー−−こうなった上は、行く所までー月光様のおっしやったように、義理も、人情も、親、兄妹もすてて、二人だけになって−−)  綱手は、そう思うと、二人きりになれるなら、そんなものを、皆、うちすてても、楽しく、暮して行けると、感じた。  人の足音がしたので、立ち上ると、廊下から、一人の小者が、顔を出した。そして、四辺馳釦 って、   「御手紙を、百城様からーー」  綱手は、   「あい」  と、答えるよりも、走り寄った方が早かった。小者は、微笑して、   「なにぶんーー1」   ヽ  と、四辺を見別して、、   「人目をI−」   「ありがとう、ござんした。御返事は、そして」   「万事、それにI」  と、いうと、すぐ、姿を、消してしまった。綱手は、四辺を見別してから、封を切った。胸がどきどきして、顔がほてった。月丸の手紙には、   予て打合せのごとく、六つを合図として、筋違橋まで出向くこと。もしそれまでに、堺へ行  くとなれば、中間部屋の角柱へ、白紙を貼りつけておくこと。  と、出奔の打合せが、書かれてあった。綱手は読み終ると、廊下づたいに、厠の方へ歩みながら、手紙を、細かく引き裂いた。      三ノー  時刻は、遅くなったが、町家は、油障子の、薄ら影を、街へ流しているだけであった。  「女どもから問いたが−−小太郎が、当地にまいっているげじやが−本当か」  月光は、低く、静かにいった。綱手には、答えられなかった。いないと月光へ偽ることはできぬし、いる、といえば、討ちに行く、というに決まっていた。  「綱手」  月光は、綱手へ、顔を向けた。綱手は、頭巾で、頭をかくし、両手を袖へ入れて、胸で合せながら、   「まいってはおりますが−‐」  と、答えると、月光は、小半町も、そのまま、黙って歩いた。時々提灯の火が、二人の側を行きすぎたが、二人には、然しなかった。夜鳴うどんの呼声は、町中に響いていたが、二人には、それがなんであるかも、然しなかった。   「宿は?」  組手は、その問いを、予期していたが、ひやっとした。   「遠いかーーー近いか」   「はい」   「お前は、小太郎が、わしに討たれると思うている。しかし、わしが、小太郎の手に、あるい はかかるかもしれぬ」  綱手は、小太郎の討たれることを、余分に考えていたが、そういわれると、小太郎を討つよりも、月光の討たれる方が、厭であった。   「わしは、邸を出奔して、武士の面目を捨てたーーと人は見よう。しかし、わしは、けっして、捨てておらぬ。わしは、牧仲太郎の倅として、武士として、男として、邸武士のできぬ手柄をたてたい。たててみせる。そして、立派に帰参してみせる。敵、味方と別れておっても、元は、回し家中で、忠義の心に変りはないIIかりに綱手、二人が、親の許した仲であったとしても、もし、ハ郎太が、牧仲太郎を討ちに出向き、わしが、父の側におったら、なんとする。男として、父の討たれるのを、手を束ねて見るか? 見るのが武士か? それとも、ハ郎太を討つのが、武士か? 小太郎が、敵党の一人であるかぎり、わしは、見逃さぬ。小太郎もまた、わしを見逃すまい。この、討つ、討たれるが、古からの武士の償い、武士の辛いところしや−お前は、恋のために、武士を捨てよと申すであろうが、わしは、恋も完うし、武士も完うしたい。完うして、完うできぬことはない。お前の苦しさは、よくわかる。お前はまた、わしが慾が深いと考えておるであろう。しかし、わしと、お前との恋を完うせんがためには、帰参するほかにないぞ。手柄を立ててーこのまま乏しい金がつきて、野垂死をして、それで完うなるような女々しい恋を、わしは武士の恋とは思わぬ。心中沙汰は浅はかな町人の業しや」  綱手は、月光の言葉の半分はわかった。しかし、半分は、月光の独り勝手な、自分だけに都合のよい言葉のように思えた。   「でも、みすみす、手引して、兄を討たせることはーI」   「討たれるかもしれぬ」   「猶、厭でござんす」             ミ   「わからぬかの−‐討つ、討たれるは、末のこと。小太郎の所在の手がかりを存じておりながら、みすみす見逃すことは、わしの性としてできぬ。明かさぬなら明かさぬで、探し、求めても討ちにまいる」   「そんな御無理な」   「そちと、別れても、まいる。そちのために、邸も、知行も捨てた。しかし、武士の意地は捨てぬぞ。叡山でとった不覚は、そちと、別れても取り返さねばならぬ。いったん、思い立った上は、父の優しや」  月光の決心は、動きそうになかった。      三ノニ  綱手は、月光を、ことごとく信用していたが、いつか、袋持三五郎が、憤りながら、   「月光は、見かけによらぬ奸智に長けた奴、油断すな。といっても、恋に、眼の眩んでいる、お主にはわかるまいがーー−」  と、いった言葉を思い出した。そして、月光の態度を、言葉を、吟味したが、綱手には、   (袋持様が、二人の仲を、切らせようと、あんなことを−‐I)と、しか、思えなかった。叡山 で、小太郎の部屋へ忍びに行ったことも、綱手には、月丸の、武士の意地から、としか、考えられなかった。少しの疑いはあっても、恋心がそれを打ち消して、いい方へ、いい方へと、解釈した。  月丸が、歩きながら、こう説いてくると、だんだん綱手には、もっとものように思えてきたし、小太郎の所在を秘したために、月九に別れることは、自分の死ぬことであった。   (同し死ぬなら、いっそ)と、自棄な気持が、少しずつ、強くなってきた。   (死のう。死ぬよりほかはない。その代り、今夜一晩は語り明してー月丸の、機嫌のいい顔を見て、父に詫び、母に詫びて、死のうーー)と思った時、   「小太郎は、わしのことを知るまい。よって、わしが牧の倅であることを打ち明け、父を狙う小太郎をそのままに許しておけぬ故にまいった、と、尋常に名乗りかけて、勝負致そう。もし、 武運拙く、わしが斬られたら、綱手、死んでくれい。な、わしを兄へ手引致すのではない。倅を、小太郎の首を狙っている者を、小太郎の許へつれてまいるのしや。武士の娘として、 詮t牧 い宿命と、諦めてくれい。わしとて、恋仲の女の兄を討つに、気軽に、まいれるか。小太郎にたれて、二人抱き合って死ぬか、小太郎を討って、帰参して、二人の恋を完うするか。綱手」  「はい」  綱手は、涙声であった。   「綱手、そちは、わしを、本当には、懇ってはいてくれぬな」  月光は、鋭く叫ぶように言った。 財力の   「えっ?」   「教えずとも、存しておる。小者より聞いておる。しかし、そちを欺して、討ちに行くのもしとうないから、そちの口から聞いて、そちの心を知りたいと存じておった。それにわしが邸までも捨てておるに、兄一人が、これほど申しても捨てきれんか。もはや、頼まぬ、小太郎の宿所を申そうか。高麗橋しゃ」   「ええっ」  京から旅人が来るのは船よりほかになかった。そして、船は、ハ軒家か、高麗橋へ着くし、そこには宿屋が並んでいるのを、綱手は知らなかった。   「従いてまいるなりと、別れるなりとーI」  月光の足が、早くなった。綱手は、月光の袖を掴んだ。   「御存しの上は−」  と、いって、声がつまってしまった。月光は、袖を、二、三度払って、綱手が、放さないので立ち止まった。   「みっともない」  綱手は、涙の流れるままの顔で、月光を見た。そして、   「御案内I致します」  涙に、曇った声であった。   「綱手、お互に、苦しいのは、一緒であるぞ」 綱手は、人通りのないのを見て、月光の胸に鎚って、顔を押し伏せた。月丸は、綱手の肩から、 背を抱きながら、   「泣くな」  と二百った。そして、しっと、肩を波立たせて泣き入っている綱手を見下ろして、しっと、笑った。手だけは、しかし、抱きしめていた。      四ノー  小太郎は、延べさせておいた床を、片隅へ押しやらせて、月光を招じた。そして、床の間を後方に、いつでも、刀をとれるように坐った。  月光は、わざと、刀の柄を、後方右手に置いて、害心のないことを示してから、・   「深夜に、御手数を相掛け、すまぬ儀でござる。申し上げましたるごとく、当蔵屋敷詰、無後、百城月光と申しまする」  と、挨拶した。   「申し遅れましたが、仙波小太郎—御用の趣、何か、妹の儀につきましてー」  と微笑むと、   「いいや、家中に、御存しの、騒がしきことありまする折柄、あるいは、御断わりになろうかと存しまして、御無礼ながらさようの口実を設けましたるしだい、御容赦に預かりとうござる」 月光は、丁寧に、礼をした。 一一-   「ははあ−して、実の用件は?」   「ただいま申し上げた、某の姓名、百城月光とは、蔵屋敷のみにてのとおり名、本名は牧焉馬、御存しの牧仲太郎の倅でござる」  小太郎は、しっと、月光を見つめた。月光は、俯向きながら、   「武門の慣わしとして、かく、お見掛け申したる上は、是非に及ばぬ儀と心得−−」  ここまで、いって、月光は微笑しながら、面を上げた。小太郎は、頷いた。   「−I尋常の勝負を致したい。この儀、御承引くださるまいか」   「いかさま」  小太郎は、もう一度頷いて、月光の、立派な態度に、感心した。   「貴殿の父、ハ郎太殿の斬死を、御無念と思われると同しこと、父を狙う貴殿の所在を知っては、某として、御見逃しつかまる訳にはまいらぬ。討たれるか、討つか、千にーつの勝負を決しとうござる」  月光の言葉は静かであったが、その決心は、眼の色に輝いていた。   「御心中は、某も、御同様−」   「時日、場所とも、御取決めを願いたい、某は、ただいま印刻にても、苦しゅうござらぬが−−」  月光は、小太郎を、促すように言った。   「よく、この宿がわかりましたのう」  月光は答えないで頷いた。   「妹でも、申しましたかの」   「いいや」   「武士として、かく、申し込まれた上は、余儀ないことでござろう。承引つかまつろう。場所はーー−何分、不案内の土地のことゆえ、御貴殿の方にてよろしく、お選み願いたい」   「夜も、更けたことゆえ、邪魔者もござるまい。その橋たもとは?」   「なるほど」  小太郎は、頷いた。   「御一人でござろうな」   「申すまでもござらぬ。余人の手を借りて、卑怯の振舞をなすごときー’」   「いやいや、御貴殿のことは疑い申さんが、当地へまいるまでに、様々のことがござって、用心と11」   「ごもっともの儀」   「勘定、そのほかのことを片づける問、しばらく、お待ち願いたい」  小太郎は、少し厨に落ちぬこともあったが、月光の、偽らない申し条を聞いて、断わる訳にはゆかなかった。口実を設けて、断わられぬこともなかったが、同し家中の者として、そんな振舞はしたくなかった。  下へ降りて行って、番頭に、急に立つから、といい、番頭を外へ出して、街の様子を見にやっ たが、怪しいこともなかった。小太郎は、」   (意外なことの起こるものだ。しかし、これも宿命であろう) と、思った。      四ノニ   「牧氏に、お頼み申したいが−」  小太郎は、降りる時にも、街へ出てからも、月光を、暗闇を、注意していたが、月光の言葉のごとく、誰も、加勢などに来ているものがないとわかると、月光の武士らしさに、信頼の心が起こって、こういった。   「はて−−‐」   「某の妹を御存しか」   「相手授か」   「さよう1もし、某が貴殿の刃にかかった上は、仔細のこと、それに、お申し伝えを願いたい」   「論ないこと、しかと、御引受申す」   「刀、懐中物など、形見として、お渡し順いたい」   「申すまでもなきことー」  小太郎は、まだ、世の中に、何か仕残したことがあるように、茫漠とした世の中への望みが、 頭の中にいっぱいに拡がっていたが、それが、どういうことであるか、はっきりわからなかった。   (牧仲太郎を討つことだ)と、田ったが、それだけでもなかった。そして、その牧を討つことでさえ、なんだか、漠然としたようで、ただ、次々に湧いて来る危急を、おかしいもののように、微笑んで眺めていた。そして、自分を討ちに来ている者と並んで、静かに、平然として、歩いておった。   (叡山の上で、右へ、右へと叫んでいた父は、父でなかった。牧が、父を支えながら叫んでいたのだった。敵ながら天晴れだ、と思ったが、この月丸も、若いが、えらい。討だれてやっても いい−−−しかし、自分の方が、優れていたなら、討ってもいい−−‐・、いや、討つのには惜しい男だ。斉彬公は、きっと、惜しまれるにちがいない)  小太郎は、月光を長い間の親友のように感してきた。  薄月の夜であった。河岸の枯柳は、黒く垂れていて、風はなかった。河水は、鈍く光っていた。高麗橋の橋詰には夜番所があったから、少し行きすぎて、舟前場の端まで行った。   「この辺なら−」  と、月光が、振り向いて、微笑した。   「結構」  「では、お支度をー」  二人は少し離れた。そして、犀をかけ、股立をとって、洗足になった。そして刀を抜いて釘をしめした。小太郎は、刀を提げて、 P   「某の流儀は、鏡心明致流を元として、一刀流を、いささか、学びましたがーーー」  と、声をかけた。二間ほど離れると、もう、はっきり、顔が見えなかった。   「某は、国許の、薬光流っきり−」   「薬光なら、斬られても、ひと思いでござるな、ははははは」   「では−−」  月光は、刀尖を、地に下ろすと、すぐ、.右肩の上へ、真直ぐに刀を立てた。同し自源流から、東郷、薬光の二派に分れた内の、薬高誼唯一の構えであった。   「いざ」  小太郎は、正眼につけて、一足退った。かと、思う瞬間、一足出た。薬凡流に対して、あまり、距離をあけることは不利であったからであった。  だが、その刹那だった。月光も一足退ると、正眼に構え直した。小太郎は、   (はて)と、田心った。そして、ナぐ、正眼から、頭上へ、真直ぐに、大上段に、突き立てるであろうと思っていたが、月光は、そのまま、しりっと、刻んできた。薬光波ではなかった。  小太郎は、   (偽ったな)と、思った。そして、そう思うと同時に(負けるものか)と決心した。そのとたんだ。月光は、   「出るなっ、出るなっ」と、何かへ、叫んだ。      四ノ三   「加勢か」   「いいや」  月光は、いいや、と言ったが、小太郎には加勢だと思えた。自分が、叡山での折込みの腕を知っている以上、一人で来た、と言っても、危なくなれば、加勢に出て来る者くらいのあるのは、当然だと思った。しかし、そう思いながらも、月光が、それに対して、立派に、   「一人だ」と、いい切ったことに憤りを感して来た。偽らないで、加勢があると言っても、果し合いを拒むような自分でないのに、武士らしくもない、と思った。と同時に、   (まず、月光を折って—−)と、田でた。だが、右足に、深手を負って、少し引きつれる小太郎は、右手へ、敵を受ける不利を考えて、しりっと、背を、川の方へ引いた。そして、誘いの隙を見せた。  だが、月光は、刀をつけたまま、懸声もせずに、十分の息を引いて、そのまま、小太郎の刀実に惹かれるように、やはり、しりっと刻んだだけであった。   「ならぬーならぬーーーー出るなと申すに」  月光は、小太郎の背後の何かへ叱りつけた。小太郎は、そう叫んでいる月光に、十分の隙はあったが、   (家中の者の前で、卑怯な振舞をしたくはない。よし、討だれても、こういっている隙へ打ち 込むのは、卑怯だ)  と、思った。だが、その隙を利用して、ととっと河岸へ退って、柳の大木を左手に、川をうしろにした。そして、月光の叫んだ方をすかして見た。  闇の中に、人影が動いていた。柔かであるし、息の調ってない動吉方は、歩き方は、女らしかった。   (妹1−ー?)と、感した。だが、その瞬間に、月光は、   「邪魔なっ」  と、呟いて、少し、低い信管に立っている小太郎へ、下段の刀をつけてきた。   「牧殿、あれは?」   「無用っ」  と、答えるが、早いか、   「ええいっ」  川面に響き、街へつん裂吉亙って、爆弾のごとく、全力的な叫び、  「とうっ」  その、張り切った気合を受けて、弾き返した瞬間、小太郎は、柳の木陰へ、朧けていた。どう斬って、どう引いたか−月光は、刀を元のごとく下段につけて、静まり返っていた。小太郎は、   (できる)と、田こった。そして、今の一撃に、全力を込めた月光が、呼吸を調えて、第二の襲撃に移る間に、こっちから、一撃を加えようと、しりっと、一足出た。   「兄さま」  涙と、声とが、もつれ合っていたが、妹綱手であった。小太郎は、その声を聞くと同時に、.   (妹と月光と、何かがあるにちがいない)と、感した。そして、そう感しると、妹へ、月光へ、訳なく、怒りが湧いてきた。なんとなく、二人に計られたように感した。  綱手の影は、足許が、もつれるように近づいた。   「来るなっ」   「危ないっ、寄っては」と、小太郎と、月光とが、同時に叫んだ。   「やっ、やめてくださりませ。頼みまする。なにごとも、妾が、悪いのでござります」  綱手は、裾を帯の間へ挟んで、白い足を出して、倒れかかるように、二人の刀の間へ走り込んで来た。その一刹那だ。   「とうっ」  それは、鉄板を突き抜くように、強い気合であった。小太郎の刀は、光を尉めたごとく、月丸の胸へ走った。   「ああっ」  綱手は、絶叫した。     四ノ四 小太郎の刀は、十分に延びていた。月丸は、よろめいた。それは、小太郎の気合の鋭さに、圧 倒された、よろめきであると同時に、その気合とともに、‘砕けようとした、本能的の、よろめきであった。  だが、刀の延びた割に、小太郎の右足は、小太郎の心のままに踏み込んでいなかった。そして、綱手を、突きはしなかったかと、はっとしたーーそれは、ほんの一秒の、何十分の一のような隙であったが、ちょっと心の弛んだ瞬間Iその瞬間だけで、刀尖から、掌へ、掌から、脇へ感して来る手答えが、予期していたよりは、不十分であった。だが、、   (少しだが、突いたぞ)と、感した。   「妾をっ−−」  綱手は、狂人のような叫び声をあげて、小太郎に、鎚ろうとした。   「殺してっ・−−」  綱手の頭、白い顔が、小太郎の前で、閃き、油の香、白粉の匂いが、微かに漂った。   「綱手−−」  月光は、荒い息を、吐き出すと同時に、喘ぐ声で叫んだ。   「退けっ」  小太郎は、鎚りつく綱手を、左手の肱と、足とで払った。綱手は、よろめいて、倒れかかりながら、   「兄さまっーー,−」  両手を、下から延ばすのを、   「だわけがっ」  左手を、柄から離して、突き倒した、かと、思うと、   「ええぃっ—−ええぃっ」  猛獣の、院号するような懸声であった。小太郎は、綱手の取り乱した姿に、憤っていて、   (武士の娘に、あるましき、不覚の振舞)とも、感じたし、   (許して、とか、殺してくれ、とか、月丸とわり無き仲になってぃるのではないか? 仇敵の倅11)とも、ちらっと順に閃ぃたしーだが、それよりも、綱手を、突き倒してまでも、月丸へ、斬りかかって行くのは(この機を外すと、己が斬られる)と、思う、剣道上の心得からであった。対手に薄手傷を負わした上は、踏み込み、畳み込んで、仕留めなければ、相手が、どう死物狂いになって来るかわからなぃからであった。相打のつもりにでも、かかって来るか、斬らせて斬るつもりで撒かに来るか? それからまた、早く勝負をつけないと、人が集まり、役人の来るおそれがあった。  小太郎は、一撃を与えるとともに、綱手を突き倒しておいて、狼のごとく、襲ぃかかった。月丸は(いけない)と、感した。ちらっと(敵わない)と、思った。そして、崩れるように、たたっと、四、五尺退った。   「ああっ、誰かっーーー」  綱手は、髪を乱して、裾を乱して、   「来てくださぃっ」  小太郎は、それを聞くと同時に、綱手に、激怒した。   (なんという、嗜みのない振舞−言葉)  そう思うと、自分が卑怯な振舞をして、恥辱を受けていることよりも、恥かしくなってきた。憎悪に輝く眼を、綱手に向けて、蹴倒した。  その、一刹那、   「ゃ、ゃっーゃぁーっ」  月光の、必死の折込みだ。小太郎は、昇けて、退いた。その袴の裾を、綱手は、しっかと、握った。そして、   「ま、待ってくださりませ、百城様、兄様っ」  転んだ、引き擦られた。引き擦られながら、起き上ろうとした。侃が崩れた。眼は狂っていた。頬も、唇も、歪んで襟も、裾も、肉を現していた。   「綱手っ、危ないっ、放せっ」  月光は、悪鬼のようになって、絶叫しながら、畳みかけて打ち込んで行く。折らして折る覚悟の刀。小太郎は、軽く流し、軽く避けて、退さながら、隙を窺っていると、組手は、半分、立ち上って、膝をつきながら、   「待って−こ  と、延び上った一瞬へ、   「くそっ」 月見の、必死の、一撃’−小太郎は、さっと、退いた。  「ひっーーー」 綱手の咽喉から斑った叫びは、二人の耳から、胸をぐっと突いた。      四ノ五   「ああ7っ」  綱手は、牡丹の花弁の落ちるように、崩れ倒れた。   「待てっ、仙波。待てっ、待てっ」  月光は、刀を引いて、左手で、小太郎を押しとめた。そして、刀を投げすてて、絶望的に、,   「斬った」  月光は、吐き出すように叫んで、小太郎にかまわず、綱手の、崩れ倒れている上へ、かがみ込んだ。小太郎は、それを見ながら、刀を提げたまま、黙って、肩で呼吸をしていた。  船の中に、灯が勁いていたし、橋の上、街の角には、いくつもの、提灯が、並んでいた。   「綱手」  月光は、綱手の肩をさぐった。そして、腰の印籍へ手をやりつつ、   「しっかりしてくれー綱手っ」  薬をロに押し入れようとすると、綱手は歯を噛みしめ、両手の拳を握って、身体中を、顕わしていた。  「□を’—」 月丸は、小太郎へ哀れみを乞うように見上げた。  「小柄で、押し開けるがよい」  小太郎は、冷やかに、こう言って、川岸から、舟への歩み板を、半分ほど渡って行って、.   「船頭、灯をかしてくれぬか」  舟からは、答えがなかった。   「船頭っ」   「へっ」   「灯を貸せ」  灯が、動いて、船頭が、楳蝋燭を持って来た。   「すまぬ。借りるぞ。ついでに、水をすぐにな」   「へえ」   「恐ろしゅうはない。斬られた者を、介抱するのしや」  船頭は、黙って引っ込んだ。小太郎が、蝋燭を持って、二人の損へ来ると、綱手は、白い眼をして、唇を痙単させていた。襟から、胸へ、肩へ、血が流れていた。着物は、上まみれになっていたし、髪の根は落ちて、毛が顔へかかっていた。  小太郎は、今まで、憤って、死ね、不覚者、そんな不覚者、斬られた方がいいのだ、と思っていたが、その姿を見ると、その憤りの上へ、悲しさと、可哀そうさとが、限り上って来た。   「深手か」  と、いって、月光の上へ、膝をついて、蝋燭をさし出すと、月光は、蒼白な顔をして、額に、脂汗を出しながら、   「許してーー」  と、いったまま、俯向いて、頬も、唇も、ぴくぴく引きつらせていた。月光は、綱手のロヘ薬を押しこんでから、活を入れた。小太郎は、   (助からぬらしいなら、生き返さない方がいい、苦しますのは、いしらしい)  とも、思ったが、生き返らせて、一言でも言葉を交したい、とも思った。  綱手の眼に、黒い瞳が、ちらっと、現れるとともに、大きい息をして、身体を、手を、脚を、首をもがいた。月光が、、   「綱手」  と、耳許で、叫んだ。   「綱手っ、見えるか」  小太郎が、蝋燭と、顔とを差し出した。綱手は、もう、乱れかかろうとする視力を集めて、二人の顔を見ると、頷いた。そして、鎖える手を、延ばして、小太郎の膝を、掴んだ。小太郎は、微かに、涙をためていた。   「月先様とー」  綱手は、微かに、これだけいって、眼を閉して、筑妬れた。船頭が、水を持って来た。   「水しやっ。飲むか」  小太郎が、口へ当てがった。綱手は、細く口を開いた。水を、苦しそうに、が、甘そうに飲む綱手を眺めている内に、小太郎は、憤りをナっかり忘れてしまって、不幸な家に生まれて、こんな死に様をする妹は、たとえ、何をしようとも、許してやらなければならない、という風に考え られて来た。      四ノ六  肩から、背へ、大きく、深く新り割った疵であった。月光が、布を当て、帯で縛ったくらいでは、血はとまらなかった。  月光は、膝の上へ、綱手を抱き上げて、その肩をしっかり押えて、抱きしめながら、顔を組手の胸の上へ伏せていた。   「綱手、許してくれ」  微かに、むせんで、そういったまま、肩に波を打たせて、顔を埋めていた。組手は、水から、口を離すと、どんよりして来た眼で、小太郎を見上げて、  「契リましたー知らずに−−ゆ、許して」  小太郎は頷いた。  「手を−−握って」  動かない左手の指を動かしながら、右手を、小太郎の膝へかけた。小太郎は、その手を、握り しめた。  「死にますーーー不孝をーー許して」  だんだん、言葉が、もつれて、微かになってきた。  「許すーこ、心残りなく行けっ」  綱手は頷いて、  「お顔をーー」  小太郎は、顔を差しつけた。  「もっと−‐明るく−1暗うてー暗うて」  「もう、眼が見えんか」  「いいえ、暗うてー」  そういった綱手は、もう、半分、眼を上ずらせていた。  「兄様、知らずにー契ってーー」  「よ、よく、わかったぞっ、許すぞ、綱手、許すぞ」  「もうー一度—−顔をー−顔をー−兄様‐−深雪、母上にもう一度‐−」  「綱手っ—百城殿の膝の上しやぞ、わかるかっ」  百城は、顔を上げた。そして。  「綱手、月九しや」  「ああ、月九拝−うれしいーーーもっと、抱きしめてー−身体が、下ヘーーーー下ヘー、落ちて 行きまナ」  綱手の呼吸は、微かになって、眼が閉してしまった。小太郎は、胸へ手を入れ、顔へ手を当ててみてから、静かに、   「心残りなく成仏せい。許すぞ」   「小太郎殿−申訳ござらぬ」  月光は、死んでゆく綱手を、しっかと抱きしめ七いた。   「あIっ」  綱手が、微かに、呻いた。   「うれしい−一緒に‘−」  と、いうと、微笑んだ。  人が、だんだん集まって、三人の周囲へ近づいて来た。提灯の明りに、三人の姿が、はっきり現れて来た。   「綱手っ、駄目かっ、死ぬのかっ」  月光は、綱手の顔をじっと視つめたが、そのままで返事はなかった。月光も、死ぬものと信して、二人手をとって行く夢を見ながら死んで行く綱手の純情を思うと、月光は、身体中をしめつけられるように、苦しくなってきた。   「牧殿、勝負は後日に、−−葬いを、お頼み申す」   「不覚の段、お許しくだされ」と、いうと、月光は、綱手の胸へ顔を伏せた。小太郎は、懐か ら、公デを取り出して、綱手の、帯へ押し込んだ。そして、}』   「南無阿弥陀仏」  と、念して、しばらく、首を垂れていたが、静かに立ち上った。   「仙波氏」  小太郎を見上げた百城の顔は、綱手の血に染っていた。   「某を討ち果してーー・」   「何をIいずれは死に絶える家でござる。縁あればー」  小太郎は、微笑んで、足早に、人込みの中へ消えてしまった。    移り行く      一ノー  富士春の頭髪には、油気さえ、少くなっていた。襟垢のついた小紋に、山の擦れた組子の帯をしめて、ゝ火鉢の前で俯向いていた。   (さんざ、人に苦労をさせておいてーー意地だの、男だのって1これまでに尽してやったのを忘れて、それで、男かい−)  今朝からは、鏡を見るのさえ、厭であった。過去の、淫らな暮しを考え、齢のことを思い、そ   れから、この男なら一生と、見込んだ庄吉のことを−昨夜から戻らぬ庄吉のことを思うと、耐しさと、心細さと、悲しさと、そうして怒りと、恨みとーーいろいろの物がごっちやになってーー  何をするのも、見るのも、いうのも、厭になってしまった。     (弟子は、一人も来なくなるし、もう、売る着物もないし’−)    それでも、富士春は、庄吉が、欺したとは思えなかった。ほかに、女ができているとも思えな  かった。何も打ち明けないので、やさしく恨みをいうと、.     「すまぬ、今にわかるーー’俺、いよいよとなれば、お前と一緒に死んでもいいんだ」    と、いうしー−‐そして、それは、偽りとは見えぬし、怒って詰ると、‘     「男の意地って、そんな訳のもんしやあねえや」    と、斬り落された方の肩を聳やかしたが、それも偽りとは見えなかった。     (どうしたのだろう? どこで、何をしているのだろう)と、思うと、怒りながら恨みながら、   戻って来て欲しい気もした。溝板を踏む足音が聞こえると(戻った?Iどう言ってやろう)と  考えたが、いつも、ちがった長屋の他の人の足音であった。富士春は、起きたままで、御飯も食  べないで、寝不足の、重い頭と、鉛のように沈んだ心とを、持てあましながら、もう、小半日も、   こうして、俯向いていた。    足音が、格子の前で止まった。富士耶は、はっとして、顔を上げたが、ナぐ、元のとおりにな  って、どんなに、怒っているか? 恋しがっていたか? 悄然としているこの姿を見せてやろう、   と、額へ手を当てた時、足音が、土間の中へ入って来た。   (庄吉ではないらしい)と、思うと、失望と、うるささとで、そのまま、見向きもしなかった。人って来た男が、そのまま黙っているらしく、足音も、格子の音もしなかった。   「誰?」  富士春は、俯向いたまま、咎めるように聞いた。   「俺だ」  間いたことのない声であった。   「誰?−‐なんの御用?」  富士春が顔を上げると、、土間の提灯の下に、頬冠りをした町人風の男が立っていた。そして、   「富士春、そちや、見忘れたか?」  下手な仮声であった。富士春は、うるさくもあったし、そうした茶番に、腹立たしさを感した。それで、黙って、また、俯向くと、。   「益詣だあ」  手拭をとると、益詣であった。頭を、町人風に結んで、前掛をしめ、刀も差していなかった。  「おや」  富士春は、益満なら、いろいろ聞きたいこともあり、間いてほしいこともあるとー−‐笑顔になって、  「まあ、そのお身なりは?」  「押掛け聾になろうとーどうしや、よく似つくであろうがーー’・」 ----  と、言いながら、上って来た。       一ノニ   「火もおこさずとーーーー」  富士客は、火箸で、小さく消え残っている炭火を集めて、   「久しゅう見えずにーどうなさいました?」  益満を、見上げた眼は、いつものような色っぽさと同時に、緩りたいとしているような色が現れていた。   「いろいろと、庄吉同様、また、富士春同様に、苦労をしてのう」   「そして、また、そのお身なりは?」   「無断で屋敷を飛び出したゆえ、殿への詫びなり、二つにはまた、庄吉の身代りとして、この家へ入り込むからは、こうした粋な姿になって−」   「庄吉の身代りに入り込むって、願ってもないことでござんすが、そりや、庄吉も、承知の上で?」  富士春は、火種へ、眼を落して、心の動揺を見せまいとしていた。   「と、申すのは、実は、偽りー」  富上客は、入の気も知らないで、また、いつものように、からかってと、思うと、好きな益満にさえ、鋭い眼を向けた。益満は、その眼をしっと見つめて、   「庄古とは、昨夜逢った。庄公は、惚れておるぞ。しかし訳があって、しばらく、旅しや。これは、庄吉からの、ことづかりもの」  益満は、こう言って、懐中から、小さい包を出した。その重さで、金だとわかっていた。富士春は、庄古が、急に、そんな金のできるはずがないと、信していたし、益満が、何も、かも、呑み込んでの計らいだとも思えた。それで、。   「ことづかりもの、実は、偽りー」  と、益満へ微笑んで言った。   ‐いずれにせよヽ流しでは暮せまい・また、七ねらら頼みたいこともありヽとにかく庄吉の身の上は、益満がしかと引き受けるから、黙って、化粧でもして−‐ーさ、気を浮き立たせて、久し振  三日月さまかや、ちらと見た   細身の刀は、主かいな   小唄吟みで、辻斬りの   前髪若衆の、色袴  富士春、お前のような浮気者にも操があるように、庄吉にも、真心があるぞ。くよくよするな、しかし、齢は争えぬ。化粧をせんと、そろそろ小皺が目哀って来たのう」  益満は、火鉢越しに、覗き込んだ。  「ええ、だから、男はー庄吉だけは、末長うと思いましたに−1‘」     「庄吉も同し台詞を言いよったぞ。長うはない、四、,五目で戻る。あるいは、・こういう内に良 るかもしれぬ・さヽ髪を緋うてヽ化粧をしてヽ着物をーー蔵から出して来てー−」    益満は、金包を、眼でさして、、     「その辺へ、しまっときな」     「でも−−」     「と、遠慮するような、昔は、仲ではなかったのう。お前、湯へ行って来る間に、俺あ、紺ど  あつらえておかあ、どうしや。姿も町人なら、言葉も、上手であろう。益満休之助、神出鬼没、   江戸中をー江戸中の女を、引っ掻き廻すーーこれが、隠れ蓑」     「腰が、淋しゅうござんせんか」     「野暮な邸の、大小棄てて、と唄にあろう!−富士春、もう一度、わしと、昔のようになって  もよいぞ。それならこのまま、町人暮しもしよう。ま、しばらくは、庄吉恋し、その内、去る煮  日々に涼しでのう。これでも、捨てた男ではあるまい。のう、婆あ、湯へ人ってこい」    富士春は、益満の、どこをつかまえていいのかわからなかったが、包の金が多分らしいので、   ほっと安心をした。そして、     「では、その間、留守番を」    と、快活にいうと、‘     「その間、小唄でもーーー」    と、言って、益満は、柱にかけてある三味線を取りに立ち上った。      ニノー   「こりやまた、異な姿だのう。なんと致した」  名越左派太は、襖を開けて入ると同時に、坐りもしないで、笑った。益満は、。   「遅参致しました」  と、両手をついて、挨拶した。部屋は茶室造りであったが、庭は、石一つない、粗末なものであった。   「ほかのことでないが、大殿が、御帰国になったについて、国許の同志は、君側の奸者どもを一挙に、殲滅させようと、計画しておる。それと一緒に、江戸ではーーいろいろと、論も出たが、久光殿をばしやなーーこの君、あればこそ、しやで、もったいないがーー」  左派太は駈る真似をした。   「はっ」   「それで、どうしや、その役を勤めるか、ただしはまた、何か、よい工夫が、あるか? その談合のために、呼んだが、益満—国許では、斜岨影付設も、このことには御賛成であるし、益満なら心丈夫だと、仰せもある。一つ、勤めてくれ。ほかに、この大役を安心して似せる者がない。恩賞としては、いずれ、斉彬公御世紺の上は靭負殿よりの取計られにて、三百石には取り立てて得させる」   「ありがたく存しまする」   「さっそく承引してくれて、わしも貳しぃ」   「ぃぃゃっ1」  益満が、こうぃって、膝へ手を置いて、名越を見た眼は、齢が上で、格が逼かに上の者までも、威圧するに十分なものであった。それが、町人姿になっても、彫防と、現われていた。 名越は、   (また、ひとこね、こねるかな)と、思って、   「異論かの」 と、微笑した。そして、心の落ちつかぬのを見せまいと、煙草入れを取り上げた。 「過日、斉彬公の御前へ語り出ました節、君より、天下の形勢について、御言葉がござりまし た」   「わしも聞いた」  名越は、煙を、天井の方へつき出しながら、、   「それでーーー」   「その夜—いろいろと思案つかまつりましたが、禁裏の御気勢、京都へ集まっております浪人どもの正論、引き続く不作、窮民の増加、異国船の頻々たる来訪。また、オロシヤの侵略I−‐なんとなく、日本の四方、日本の上下に、不穏の気が充満してまいっておりまする」  名越は、   (そろそろ難しいことを言い出しおったぞ。一を聞くと、十に拡げるのが、名人しや、この男 はII)と、思ったが、そうしたことは、斉彬公からも聞いていて、朧げながら、自分も感して いるので、   「そう」  と、頷いた。   「それを処理する幕府としてー人、策ともに皆無でござりまする。金子がたりぬゆえ、町人より献金させよ、人がないゆえ、島津斉彬を、異国方に取り立てよ。と、己を弥縫するに急であって、政道を布く暇さえござりませぬ。ちかごろ、天下に、密々と行われておりまする、幕府衰亡の取沙汰、これを、史上より見ましても、三百年を経れば、一新するのが、常道となっておジまする」   「その論もよいが、わしの、ただいまのー」   「斉彬公の仰せのごとく、家中に党を立てて、争う機ではござりませぬ。敵は、久光殿でなく、】お由羅でなく、徳川幕府−」   「益満っ」  名越は、煙管を、畳の上に投げ出して、鋭くいった。   「裏切る所存か」   「議論は、終りまで、お聞き願いとう存しまする」  益満は、身体も、臣毛も、動かさなかった。 ニノニ  左派太は、益満へ、鋭い眼を与えておいて、横を向いてしまった。益満は、.ちらっとそれを見たが、平然として、、   「名越殿」  名越は黙って、益漓の方へ振り向いたが、顔を見たまま返事をしなかった。益満は、その顔へ、笑いかけながら、、   「手前−女を一人、助けねばならず、家も、国も、天下も−」   「余談を申すな。今の続きを申ナがよい」   「これも、その続きの一つでござりまする。女は、常磐津の師匠で、富士春と申し、なかなか、あでやかでござりまするがーー」   「それが、天下、国家と、なんの係わりがあるのか?」  「酔うては枕す、美人の膝、醒めては握る、天下の権。楚の項羽が、虞美人を抱いて泣き、本朝では、源九郎と、静の故事など−−−外に向っては、天下の経綸を綸し、かつ行うのは、.大丈夫 ー蜘酬り一一                              −−−−− の本懐なり、また使命でもござりまするが、も、人間、男女の、生れた時よりの大道で、痴情を、卑しむことはできませぬ」   「それで−」 内へ入って、咄々と、惚れた女の手玉にとられるの天下を救うのと、その是非、その大小、必ずしも、。  左派太は、うるさそうに冷たく言った。   「それでーー‐案しまするに、物に大小はござりませぬ。女を牧うのも、久光公を斬るも、徳川幕府を倒すのも、手前にとっては、同し仕事でござりまして、しかも、これは、同し時、一緒に、手をつけてもよろしく・−久光公への悪逆をのみが、益満の仕事でなく、と申して、女のことばかりでなく、天下のことのみでもなく、つまり、出でては天下、入っては女、自由、自在、融通、無擬に働きたいと、存しおりまする。従って、浪士と交って、京都へまいることもござりますれば、女と遊里に彷徨っておることもござりましょう。益満は、そんな人間だと思し召して、万事、お任せくださるならば、多少の日日はかかりましても、心ず仕遂げて御覧に入れまする」   「さようかーそれでは、もう一度、皆の者と、談合してみよう」   「少し、寝言を申しすぎて、御意に逆いましたと見受けまするが、。それほどの仕事ならば、某ならずとも久光公付の、奥小姓一人を味方に引き入れさえしますれば、訳のないことでござりまする。例えば、貴船作太郎のごとき、仰せつけなされば、否みは、致しますまい」   「聞いておく。御苦労であった」  左派太は、不機嫌であった。   「手前、ちかごろ考えまするに、善悪不二、ガ影虻限」   「そういう講釈は後日、ゆるりと間こう」  左派太は、怒ったように、さっと、立ち上った。そして、   「御暇申しまする」  と、挨拶をする益満を残しておいて、手荒く、襖を開けて、出て行ってしまった。益満は、微笑して、   「一間の内に入りにけり。ででん、でん。あとには、独り益満が、でん−・」  口の中で、義太夫節を、唄いながら、立ち上った。そして次の間の、襖際へ置いてあった脇差を左手に提げて、廊下に出た。「卿ら、縁々入に拠って事をなすの徒。燕雀なんぞ、大鵬の志を知らんや、かー吾に、洛陽負郭の田二頃あらしめげ、壹よく六国の相印を佩びんや、か」  と、小さい声でいいつつ、玄関へ出て来ると、玄関脇の番部屋の襖が開いて、ニ、三人が、外へ出ようとした。そして、益満を見ると、、   「待てっ、益満」  と、低く、叫んだ。     ニノ三 「話がある。入れ」 三人が、益満の前へ突っ立って、睨みつけた。益満は、・  (名越が、もう、自分の言ったことを、この人間に喋ったのか。呆れた小人)と、思った。  「なんしや、この頭は?」  一人が、益満の頭を、指先で、突いた。  「計は密なるをもってよしとす、とは、兵法の初歩しや」  益満は、襖のところから、こう、大声で言いながら、部屋の中へ人った。六、七人の、同志の、’身分の低い、若い人々が、壁に凭れたり、柱によりかかったりして、腕組していた。   「何を言っとる。坐れ、益満。今日は、返事のぃかんにより、許さぬぞ」   一人が、こうぃって、刀を、膝の前へ突き立てた。   「ただ今、名越殿から、もってのほかのことを聞いた。吾々の前で、もう一度、名越殿へ申し 上げたことを申してみぃ」  いくらか身分の高い、齢のぃった一人が、こうぃって、益満の正面から、。   「本心を聞きたい」  入口の襖のところへも、二人が、刀を持って、坐って、部屋の人々は、四方から、益満を、睨 みつけていた。   「本心を明かさぬと、斬るとでも、申すのか」   「ぃぃゃ−」   「その明かした本心のぃかんに、よりしや」   「明かしたことが、本心であるか、ないか、どうして判断する?」   しばらく、一座の人々は、黙っていた。   「議論ではない、討つか、討たぬか。どうして討つか。それを聞きたい」  益満の左右の人々は、鯉口をゆるめた。   「討つ、ともぃえぬ。討たぬ、ともぃえぬ。まして、その手段などーー」   「なにっ」   「それほどの大事を、うかうかと、口外できるか? 口外するのが武士か? 教を欺くためには、まず、味方を欺く、という教えを、どう間いておる。  馬高め。斬れっ。人を疑うにも、ほどがあるぞ。某ごときをかほどまでに疑うような、やくざどもに、口を裂かれても、計が洩らせるか? 同志とはいい条、この大勢の面々に、秘計を誇るごとき輩で、大事が成せるか? 名越殿にも申せ、かような彼らに、血気と浅慮のみの人間に対して軽々しく、物を仰せられるな、と」   「浅慮であろうと−−同志ではないか」   「同志に対してー」   「計が定まったなら、一々、目状にして、同志へ廻せ、とでも、申すのか? 某は、貴公らと同輩ではあるが、某一人が、計を行う上は、同志であって、同輩ではないぞ」   「貴公と、議論はせん。一言間く、久光を斬るか?」   「斬らぬ」   「なにっ」   一人が、片肺を立てた。   「久光を斬って、なにになるか? 久光公を、根元の、元兇のと、久光公が、斉彬公を呪阻しておられるとでも申すのか。久光公に、逆心があるとでも申ナのか? お山羅を残して、久光公を、なんの訳で斬るのか申してみい。間こう、国所は、自滅した。自滅させたのは、誰しや、仰 仰しく、刀を握ったり、膝を立てたり、さような軽々しき振舞をする奴らに、大事がなせるか?大勢がかりで、某一人を取り巻いて、散人の恥を存しておるか? それとも、一人になって、某と、ただいま申したことを論しる仁がおるか? 一人で、某と、果し合う仁がおるか。恥を知れ」 一人は、刀を下へ置いた。一人は膝を坐らせた。誰も、何も言わなかった。  「先刻、某の、頭を突いた者があったの。指が腐るぞ」  益満は、勢よく立ち上った。二人の襖際の若侍が、身体を関いて避けた。人々は黙って、益満の出て行くのを眺めていた。左派太が、次の間から、出て来て、   「あいつには敵わん」  と、立ったままで、大きい声で言った。   「王侯将相、寧んぞ種あらんや」  益満の声が、玄関でしていた。 蜘蛛の巣網      一ノー  「おう、おう、おう、おう、おっ」 庸王が、曲り角−−道しるべと、石燈籍との立っている角の、。低い、.小さ い、駄菓子を置いた 休み茶屋の前で、立ち止まった。   「なんだ、講釈のびらかえ」  庄吉が、振り向くと。   「軍談講釈、江戸初下り、扇風舎桃林ってーこの野郎、女をこしらえて、ずらかったと思ったら、こんなところに、うろついてやがら」  南玉が、大きな声で、びらを読んで独り言を言った。茶店の中に、腰かけていた人々が、南玉の顔を見た。南玉は、その内の一人へ、   「この講釈のかかっている小屋は、入ってますかい」  と、聞いた。   「よしねえ、みっともねえ」  庄吉が、止めた。   「どうだか−‐俺、知らんが、茂作、どうだの、流行ってるけえ」   「講釈か」   「うん」   「なかなか、面白えって、評判だよ」  人々の中の二、三人が、こういうと、南玉が、  「この桃林野郎の、私は、師匠だがね、京の一条、東小路中納言様に招かれて、この弟子をつれて行く途中だが、一つ聞かして上げようかな、今晩」   「なんて、名ですい」   「桃牛舎南玉って、これで、下々の小屋へは、なかなか出んでのう。大名、大旗本の、つれづれを慰めに廻っているがーー」   「あまり、聞かん名だのう」   「聞かんに蜜柑に、竹に虎。はい、御免なさい。いずれ、今夜は、小屋でお日にかかりましょう」  南玉が、茶店を離れて、庄古と、深雪の立っているところへ出た。   「冷汗をかくぜ、爺さん。束小路中納言だなんて、俺あ、横っ飛びに、逃げ出したよ」   「あはははは、今夜、久し振りに、一度叩いてこまそ。三文にでもなりやあ、得というもんだ」  「本当に、桃林って知っていなさるのかい」   「ちょっと、馴染がある−どうでえ、庄公、一つ、富士春仕込みの、怪しげ節でも、助けにやならんけ。割をやらあ」   「よしてくれ、乞食芸人になっちゃあ、仲間へ面出しができねえや」   「これで、お嬢さんが、娘手踊りか、水芸とくりゃあ、儲かるがのう」   「小父様、お琴は?」   「琴? ころん、ころんって眠いやつだのう。ことこわしとは、これよりぞ始まる。小屋へは向きやせんII」   「束小路中納言向きだのう」    町へ近づいたので、屋並みが多くなってきた。ぴらが、。大きい本の幹だの、。辻堂の狐格子だの、11 酒量の軒下だのへ、貼ってあった。    「庄、.江戸の流行唄って触込みで、益漓さんのよく唄う、‘小手をかざして、御陣原見れば、‘で もやりねえょ。温まるかもしれねえょ」  「町がしやあ、わからねえかもしれねえ'≪———小屋へは初めてだからのう。ヤ炊こも入ったら、ぽーっとすらあ」  「半畳って、何?」  と、深雪が聞いた。                しよT.Wいはんじよう かじはんしよう・*≪・?*<んじよ-. ———こういう親爺で−−」                   たすき  深雪は、‘二人の話の間に、手早く、禅をかけた。庄吉が、それを見て、   「野郎っ」  と、叫んだ。そして、短刀を、突き出して、   「さあーさあ、来いっ、江戸の巾着切の胆っ玉を見せてやらあ」   「待て、庄公」  と、南玉が、手を突き出して、叫んだ。そのとたん、深雪が、   「百城様」  と、声をかけて、脇差へ手をかけて、   「姉の仇敵」  唇を結んで、喘いでいる呼吸を、鼻で押えてそこまでいうと、鋭く、百城を、睨みつけて、   「尋常に、勝負なされませ」  一足進もうと思ったが、膝頭が固くなってしまって、曲らぬようであったし、呼吸が乱れてきて、大きく吐かぬと、苦しくなってきた。   (お由薗様へ、斬りかかった時のような、不覚をとらぬよう)と思ったが、月丸への憎しみと。憤りの心ばかりが、先に立って、息も、脚も、自由にならなかった。   (こんなことでは、一太刀も、斬らぬうちに斬られてしまう)と、思った。だが、月丸の返答のないうちは、刀を抜くまい、それが作法だと柄へ手をかけたまま抜かずにいた。  月丸は、庄吉を一打ちにしようと、睨みつけていた眼を、深雪に向けて、   「仇敵?−I綱手の?−1いかにも」  と、言って、頷いた。   「深雪さん−−危ない。そりや無茶だ。そんなことで、貴女−」  南玉は、深雪の横へ来て、   「討てるものか。そりや、貴女の気性として−」  と、腕へ手をかけた時、   「綱手の仇敵? なるほどー血鏑もない。討たれてやりたいーーーその志に免して」  月光は、蒼白な仮に、冷たい微笑をしながら、   「綱手も、喜ぶであろうがーI」  しっと、深雪を、視つめていて、   「あはははは」  と笑い出した。      九ノ四  三人は、しっと、月光の仮を、眼を、脚を、手を視つめながら−‐それを、視つめているのほ  (今に、大変なことが起こる)と、いう恐怖に、肌を、冷たく頻えさせているのほか−−山の静かさも、物音も、何も感しなくなっていた。  南玉は、脚も、手も、額わせながら、   (せっかく、ここまで、漕ぎつけて、ここで、深雪さんを殺しては−)と思ったが、どうすることも、できないので、手近い、液本の枝を、しっかり徊みながら、指し折っていた。  庄吉は、すっかり逆上してしまって、その眼は、殺気に輝いているし、顛額は興奮にふくれているしー−月光の隙を覗っていたが、微かに不安と、恐怖とがあって、突っ込んで行けば、抜討ちを食うかもしれないし、   (深雪の出ようによってー深雪への出ようによって、斬られるのは承知の上で、眼をつぶっ てひと突き—)と、深雪と月兆との間に立っている殺気の崩れ方を考えていた。   「ははははけ」  月兆の笑いは、刀を抜いたよりも凄かった。それは、おかしいからの笑いではなかったし、また、嘲笑した笑いでもなかった。もっと空虚な病的な狂人に似た笑いであった。ロだけが、笑っていて、声も、眼も、冷やかであった。  そして、三人が、その笑いに、不気味さを感した時、月兆の眼は、もっと凄く、険しく光っていた。そして、その上に殺気が立ってきていた。   「綱手の妹と思えば、しおらしいが、小太郎の妹−いずれ遠からんうちに、死ぬる月兆しや。うぬらの一家を、ことごとく、月兆の手にかけてくれる。父が斉彬のお世嗣を呪殺したるごとく、うぬらの一家を、ことごとくわしの手で亡ぼしてくれる」  月丸は、しりっと、一足進んだ、深雪が、脇差を抜いた。南玉は、力任せに、木の枝を捻し切って、   「危ない、深雪さん」  と叫んだ。月兆は、左手を鯉口へかけて、柄頭を、しりっと、上へ突き出しつつ、   「うぬら両人—−」  と、左右を、睨みつけて、   「斬られたいか」  南玉も、庄吉も、もうロがきけぬくらいに、ぐぞつまり、緊張し、興奮してしまっていた。    月光の顔に、赤味がさしてきた。殺気とも、微笑ともいえぬ閃きが、深雪の顔へ、そそがれていた・    「深雪」    月光は、その眼から、唇へ、微笑をうつしてきて、    「脇差を捨てい」    月光は、綱手の、若葉のような耳采を思い出していた。赤く、羞恥に染んだ時、濃い白粉の刷  かれている時−−そのニつながらの時に、囁いた言葉!−‐張り切って、艶かな四肢。関している  眼瞼のうるおい。喘ぐ呼吸に動く鼻翼、少し、開いた唇と、歯。ひそめた眉の媚めかしさー刀  光は一生をかけた綱手の、その面影をもう一度、深宮の身体の上で、見たいと思った。     (この山中の、人のおらぬところで−そして殺してしまってI−’‐)    月光は、全身に熱を合ませながら、綱手とのことを思い出し、深雪とのことを考えて、     (この思いを遂げた上でなら、小太郎に殺されてもいい)とまで感した。        九ノ五    「無益の、腕立て」    月光は、微笑しながら−−だが、その眼を淫獣のごとく輝かせて、深雪の方へ、.一足踏み出し  た。    「野郎っ」  と、庄吉は、絶叫した。月光のロヘ出さない心が、庄吉には、愛する者の、鋭敏な心の働さとして、(もしかしたなら−ー)と、感していた。そして、それを感しるとともに、危険さを、忘れてしまった。庄吉は、短刀を突き出して、鶏の羽樗くように、片袖を翻えしつつ、飛びかかった。  月光は、躾してーーー斬ろうとした。その隙へ、   「やあ」  深雪は、庄吉の危険さに、心を縮み上らせて夢中に斬り込んだ。月光は、その刀を柄頭で受け留めて、立ち直ろうとしている庄吉の腰を蹴った。庄吉は、転がるまいと、もがきながら、それでも、ひとつもんどり打って、転がった。   「若旦那」  と、南玉が、叫んだ。   「お嬢さん」  深雪は、月光が、左人身に、つつと、近づいて来だのへ、斬り込むことができなくて、一足退った。その退った刹那に’−−深雪が、斬り込もうとした瞬間に、月光は、深雪の手を握ってしまった。  深雪は、身体を曲げ、手を曲げ、顔を歪めて抵抗したが、痛みに耐えきれずに、脇差を放してしまった。  占]光は、処女らしい、滑らかな肌、暖かすぎるくらいに暖かい肌、汗ばんでいる肌に、興奮を 感しながら、深雪が脇差を落すとともに、左の脇下へ、素早く手を廻して、背から抱き込んだ。   「畜生っ」  生害は、真赤になって、立ち上っていた。   (もしか、そういうことにーー)と、心をおののかせて、心配したように——深雪が抱きすくめられているのを見ると、全身の血が逆流した。   「お嬢さんーーーお嬢さんっ」  庄告げ叫んだ。   「師匠っ」  生害は、自分ぐらいが一人斬られてしまったところで、とうてい、月丸を傷つけることはできぬ、と感した。命を捨てるのは惜しくなかったが、月丸に指もさせないで、斬られたくないと、思った。   「師匠、若旦那、呼んで来いっ」   「よしっ」  南玉は、走り出しながら、   「抜かるなよーーー逃がすな1‐  庄害が、頷いて、   「逃がすかえ」  と、叫んだ時、深雪が、 & fM㎞¬   「兄を呼ばぬよう」  月光の腕の中にもがきながら、二人へ叫んだ。庄吉は、頭の中を、叩かれたように、感した。   (胆抜けだ。こん畜生っ、俺あIなんて、意気地なしなんだろう。命を捨てる、捨てる、とほざいておきながら、いざとなった時にーーこのざまでI−)  そう感しるとともに、   「師匠、いらねえっ」  と、叫んだ。   「野郎」  二回余り離れて、原質を抱き込みつつ、歩んで行く月光へ、猟犬のごとく、草叢の中から飛んで行った。      九ノ六  深宮の肌は、綱手の肌よりも暖かであった。その体温が、月光の腕から、脇の下から、脚から、月光の血管の中へ、しみ透った。月光は、野獣の心以外の、すべてを忘れてしまっていた。指先が、乳房へ当った。深雪はその指先から、全身を赤くナるとともに、   (自分も姉のように、手込めに、逢ってー)と、感した。それは、微かに指先が触れるか触れぬか、であったが、深雪は、小太郎に対して顔が合せられぬように恥辱を感した。そして、全力的に身悶えして、右手が自由になった、と感した時、庄吉の、飛びかかって来る顔を、ちらっ -一一   と眼の隅に、感した。そして、それと同時に、その眼の前に突き出している柄頭へ、月丸の手のかかってくるのを見た・     (庄吉は斬られる)    深言は、そう感じて、右手を延ばした−月光が、     こ        だいかつ     「懲りぬか」と、大喝して、抜討ちにと、柄頭へ手をかけた、その手へ、その延ばした右手が、   必死にからみついた。月光は、庄吉の、捨身な突撃を、身体ぐるみで、躾けるとともに、深雪の  妨げに激怒した。     「邪魔立てをっ」    と、低く叫んで、右手で、深言の手を柄から離させようと、注意を右手に集めた時、深雪は足  で蹴り、左手を勁かし、全身を悶えさせた。     「野郎っ」    庄吉は、逆上してしまっていた。月光は、執拗に抵抗する深雪に、憤りながら、離すまいと庄  古を睨みつつ、二度目の突きを躾した時、     「庄吉っ、突いてっ−−−突いてっ」    深雪が、絶叫した。月光が、刀をゆるめた隙に、深雪は、両手で月光の刀と脇差を抱え込んで  しまった。  「お嬢さん」    庄吉は、蹴られてよろめき、躾されてたたらを踏みつつ、眼と、歯とを剥き出して、めちやめ ちやに斬りかかった。月丸は、   (この上は1)と、田窓た。そして、左手に力を入れ、右手で柄頭を持って、一振リーー深言を、突きのけて、深雪の手が、刀の柄頭から離れると、   「えいつ」                     ‘  抜討ちに、新った。−庄吉が、あまりに、近づきすぎていた。月丸が、そのため、一足退ると、深雪にどんと、ぶっつかった。そして、何も、十分に、延びなかったが、だが、庄吉は、   「わっ」  と、叫んだ。顔中を歪めた。肩から、血が、見る見る着物の上へ、しみ出してきた。   「き、斬ったなっ」  庄吉は、狂的に叫んだ。そして、   「お嬢さん」  庄古の眼の表情に、月光は、はっとした。それは、深雪が、柄頭から、手を放して、倒れかかるはずみに、脇差の方だけは、そのまま深雪の手に、抜かれて、残っているのを庄吉が見ている眼だ、と感じたからであった。その庄古の眼、叫びー月光は、反射的に、身体を骸して深雪の襲撃に備えた。だがほんの一瞬の、油断が、その刹那を遅くした。白い刃の走りを見、(しまった)と、感し、深雪の乱れた髪、血走った眼を、ちらっと見た時、月光は、腹の中へ灼熱した棒を、突き通されたように感した。灼痛に、全身が、凝固するように、硬くなった。      九ノ七  月光の、右手は、反射的に、深雪へ打ち込もうとして動いた。油断を打だれた口惜しさと、軽侮していた者に、負けた無念さと−−後悔、憤怒、恥辱−そんなものが、眼の中へ、凄い光となって、現れていた。  深雪は(兄上、父上、妾は、ここで殺されます)と心の中で、叫んだ。   (でも、一太刀は、お姉様、仇敵を、取リました)  深雪は、掌の中へこたえた手答えが、どのくらいの深さのものだか、わからなかったが、それでも、(十分)と、いうような感じがした。   「くそっ」  庄吉は、野獣のように吼吠した。歯を剥き出して、眼を血走らせて、狂った獣のようにー月光が深雪へ、斬りおろそうとした腕へ、突いてかかった。   「うぬっ」  月光は、深雪を斬ろうとした刀を返して、庄吉の突きを、よろめきつつ、躾けて、打ち込もうとした。庄吉は躾わされた刹那、   (退いては、斬られる)と感じた。そして、本能的に、短刀をすてて月光へしがみついてしまった。   「ううっ」  月光の歯の間からー1食いしばった肯の間から、洩れる声が聞こえた。  庄害が、身体をぶっつけて、、しがみつくのを振り切ろうと、、月光が、身体を振ったはずみに、原質は、月光の腹に突き立っている勝差から手を放して、立ちすくんでしまった。   足害が、斬られた)と、感じて、手も肩心因くして、ちぢみ上らせた。だが、庄害は、   「危ないっ、お嬢さんっ」  と叫びつつ、振りとばされそうなのを、全力でーー襟へ、左手を、右手の二の腕で、刀の手を押えて、脚は、脚へI‐そして、雷と、顎とへ、全身の力を込めて月光の肩へ、かぶりついてしまった。   「ああっ、誰かっ」  深雪は、月光の眼が、苦痛と、憤怒とで、飛び出すだろうと、思った。月光の眼は、人間の眼でなくなっていた。突き立ったままの脇差が、綱手と、』七瀬との怨みを含んでいるように、月光が、左手で庄害の俗を徊んでも、二人が身体を捻しらせて、草を踏み倒し、踏みにしり、獣の格闘のごとく、唸っても、吼えても1脇差は、月光から離れまいと、突き立っていた。   「庄害」  深雪が、叫んだ。   「お師匠さん」  そう叫んだ時、月見は刀を捨てて、生害の帯へ手をかけた。深雪は、月光が、刀を捨てたのを見て、     (あれさえ、捨てたらー−)と、握りしめている手を顕わして、はっとしたがー−すぐ、庄吉が、髪の毛を、刑まれて指し曲げられているのを見ると     (妾を助けるために、庄吉があんなにー−・)と思った。と同時に、顕えながら、立っている自  分に、気がついた。(死ぬつもりをしていながら、.卑怯な)と、感した。     (兄に見られてはー−‐‐いいや、{庄吉の、あの死物狂いに対して、恥がしい)    そう感しると、手早く、懐剣の紐をといて、顕える手に握りしめると、月光が剥き出した、肯  を、眼を、庄吉へ向けて、指し倒そうとしている隙へ、    「庄吉、しっかりしてーー」    と、叫びざま、刃先の、手へ折りつけた。        九ノハ   「危ない」  庄古が、叫んだが、庄吉の声でないように聞えた。それと同時に、深雪は、胸を突かれ脚を蹴られて、よろめくと、草の中へ倒れてしまった。それと同時に、地響きがして、庄吉と、月光とは、組合ったまま、草の中へ転がった。荒い呼吸と、ひーっという悲鳴に似た呻きと、ううっと、短い唸りと、草の勁きと、土の飛ぶのと−深雪は、眼の前に、そうしたものの、狂闘を見た。  土が、弾ねた。潜水が、へし曲った。脚がからんで、空を蹴り、草の上を滑った。手が閃いたし、血眼の眼が、ちらっと見えると、剥き出した肯が現れー−いつの間にか、月先に別していた 脇差が、とれてしまい、そして、二人の胸は、顔は、掌は、血だらけになってしまっていた。  深雪は、半分身体を起こして、短刀を持ったまま、片手を地について、肩で呼吸をしていた。庄吉に、声をかけたかったが、咽喉が、からからであった。短刀を、握っているのか、動かせるのか、もう、力も、何も、喧しなくなっていたし、立とうとしても、膝頭が曲らなかった。それでも(庄吉−−−)と、心の中で、叫んで、左手で土を掴んでいた。そして、月丸へ、それを担げつけることが、いくらかでも、庄吉を助けてやるような気がしたが、二人の格闘の狂暴さに、掲げつける暇もないし11深雪の、逆上した頭の中にさえ、恐怖と、惨酷とだけはいっぱいになって、ぼんやりと、それを眼で視つめながら、頭の中は、その光景に、狂いそうであった。   (兄様−−−)と、ちらっと、喧した。   (庄吉が、殺されます)  そう思うと、自分が、庄吉を殺すように思えた。深雪は、・淀って、近づこうとして、身体を起こすと、   「野郎っ」  南玉の声であった。深雪の、うつろになったような頭の中に、眼の中に、捧を振り上げた南玉の姿が、写った。そして、そのうしろに、小太郎の顔があった。   (兄様っーーー)と、叫ぼうとしたが、なんだか身体が、地の中へ、落ちて行くようで、兄の顔  が急に遠くなった。     (しっかり、しなくてはー)と、思って、自分の手を、握リしめると、南玉が棒を振り上げ -- ていた。   足吉−)と思うと、草の中に、里一い凝固が勁いていた。胸がはだけて、血が見えていた。   (庄吉が、死んだ−殺された)と、思うと、眼の前が、急に、暗くなって、頷を後方へ、引き倒されるように嶮した。そして、それに抵抗しようとしたが、ずっと、穴の中へでも、急速に落ちて行くように嶮しると−何も、わからなくなってしまった。   「深雪」  と、叫んだらしい声だけが、ちらっと耳の中へ間こえたようであったが、   (師匠らしい)と、嶮しただけでもう、二人の死闘も、血も、草も、山も、月光も感じなかった。      九ノ九   「深言さん」  と、いう微かなー遠いところで誰かの呼んでいる声がした。深雪は、   (声がした)と、嶮した。だが、それが自分の名であるかーなんであるかさえわからないくらいにーー微かにしか働かない頷け、記憶も、判断もなくなっていた。だが、もう一度、   「お嬢さあーん」と、呼ばれた時、   (ああ、誰か、遠くで、自分の名を呼んでいる)と、嶮した。そして、その、呼んでいる声が、わかると同時に、   (気を失った)と、知った。そして、そうわかるとともに、   「庄吉」  と、口を勁かした。頭の中、眼の奥には、血潮の散乱と、剥き出した眼球、破れた着物、掴み合う手、その手の中の乱髪、刀、踏みにしられた草、折れた泉水—そんなものが、入り乱れていた。   (ああ、二人のあの格闘、あれは、どうなったか)  深雪は、脚に、痛みを話しながら、不安と恐怖を全身に溢れさせて、眼を開くと、南玉の顔と一緒に頭の中を、眼から突貢くような太陽の烈しい光を見た。そして、眼を閉した。   「お嬢さん、しっかりーー1」   「庄吉は?」                                ’  深雪は、政栄を話しながら、釧く眼を開いて、庄吉が、どうしたか、見ようとした。   「気がつきましたよ」  と、南玉が、誰かにいった。   「庄吉っ」  深雪は、そう叫んで、庄吉の答えのないのを思うと、   (殺された)と、話した。   (庄吉は死んだかしら? もし、そうだったら自分だけ生きていては、庄吉の志に対して面目ない。あの男の尽してくれたことに、何一つ報いないで殺しては、人の道にはずれる。何もできぬが、自分のために殺された入へは、自分もまた死んで1−)と、思った。 ---   「お師匠さんーー」   「さ、しっかり。お堂へ行って」  と言いつつ南玉は、抱き起こそうとした。呻き声が、高く聞こえた。   足害だ)と、思うと、深雪は、心臓が、凍るようであった。   「月光、武士らしく、自裁するがよい」  小太郎の声であった。深雪は、はっきり、眼を開いた。小太郎の脚下の草の上に、生害が臥ていた。そして、その枕辺に、義観が手当をしているらしく、うずくまっていた。月光は、草の中に、俯向きに倒れたまま、呻いていた。深雪は、南玉の手の中で、痛む身体を、起こしながら、   「庄害は?」   「庄害? 大丈夫。さ、早く、お堂へ行って。しっかり、つかまってー−−傷はねえんだ。さ、しっかりしてーー」   「お師匠さん。庄害は、本当に?」   「あいつは、不死身だ。歩けますかい」   「ええ」   「えらいことをやんなすったねえ、月光の野郎あの一刀で、艶っちめえやがって、ええ、もう断末魔だ」  月光は、手を、草の中へ突いて、身体を起こそうとした。髪は、元結が切れたらしく、乱髪になり、着物が裂け、顔も、頭も、血まみれで、乱髪が、頬に、額に、血とともに、こびりついて いた。深雪は、自分がそうしたかと思うと、何かしら、恐ろしさを感した。      九ノ十   「さ、急所は、はずれておる」  破鏡がそう言って、立ち上った。   「お嬢さんは?」  庄吉の声であった。深雪は、   「庄古」  と、われ知らず叫んで、ちらっと、小太郎の顔を見て、   (はしたないと、叱られはすまいか)と、思った。だが、すべてを忘れて、そう叫んだ瞬間は、嬉しさでいっぱいであった。   「ええ」  と、庄吉が答えた。   「勁いてはならぬ。そのまま、臥ているがよい」  義鏡は、そう言って、深雪を見ると、.   「先へ戻るがよい。もう済んだ。死人の始末は坊主の役しやでーーー」  と言って、月丸の背後へ廻ると、訳の下へ両手を入れて、胸を抑えてみた。小太郎が、   「呼吸は、ござりましょう」  破鏡は、頷いて、膝を、背へ当てると、   「こらしよ」  と、言って、ぐっと、活を入れるとともに、月光が、  と、唸りつつ、肩を、手を、脚を動かした。だが眼は閉したきりで、唇は暗紫色に変し、頬は、血の中から、灰紫色に見えていた。   「月光っ」  小太郎が、叫んだ。   「無念」  低く月光が呟いて−だが、上げかけた頭をまた垂れてしまった。義鏡が、背後から、抱いたままで、   「月光、自裁せい。な、武士らしく自裁せい」  と、耳のところで叫んだ。月光は、袴の地のわからぬくらいに、血を流し、血をなずりつけている腰のあたりへ手をやった。手は、頻えてもいたし、もう感覚がないらしく、腰の辺で、ただ指が動いているだけであった。   「刀か」  答えがなかった。   「刀か」  肩で大きい呼吸をすると、指が動かなくなった。だが、眼を細く開けた。しかし、もう、瞳は濁ってしまっていて、視点が乱れ、力も、光もなくなっていた。  今まで、兇猛な獣の眼のように光った眼であったが、眼が、その光をなくするとともに、唇も鼻も、眉も、おとなしくなってしまった。血に染んでいるだけで、死に行く人の平和さが、顔中に、現れていた。  小太郎は、それを見ると、ずかずかと、近づいて、深雪が月光を突き刺した脇差を拾い上げると、月光の前に、しやがんで、   「綱手のところへ、行け」  と、叫んだ。月光は眼をしばたたきながら、瞳の乱れた眼で、何かを視つめるように、しっと、上の方を見て、微かに笑顔をした。   「腹を切れっ」  耳許で、叫んだ。そして、指の間へ、脇差の柄を握らせて、指を押えると、しばらく指を動かしていたが、柄を滑らせると一緒に、眼を閉してしまった。大きく、肩で呼吸をした。義観が、   「腹も切れずに死んだ」といって、立ち上った。月光の脚へ、大きい控除が来た。草の上で、血まみれになって、二、三度、手足に控挙が来ると動かなくなってしまった。誰も、しばらく黙 っていた。義観が、   コ民ろう。ここの始末は、また、投じや。生害を扶けて」  と、小太郎にいって、二人は、庄害の左右へ、膝をついて、  「立てるか」  「ええー’−−や、野郎め、死にましたかい」庄吉は、呟いた。そして、眼を閉した。 移り行く      一ノー  「久先様が、お渡りでございます」  と、次の問から、坊主の声がした。斉興が、  「うむ」  と、言った時、  「まだ、お臥みではあるまい」  と、いう声がして、足音が、襖の外で、止まると、  「父上」  と、襖が開いた。斉興は、しろっと、見たまま、煙草を喫っていた。久光は、坊主の持って来た祈の上へ、坐ると、   「早く行け」  と、坊主に言って、次の問の者へ、   「皆、しばらく、遠庶政せ」  と、叫んだ。斉興が、上限に、しろっと、久光を見て、   「なんじや」   「家の重大事につき、夜中を憚らず、参りました」   「わしの隠居のことか」   「さよう」   「わしは、隠居をしてもええ—隠居をしたい。しかし、隠居をすれば、家のつぶれることは、限に見えている。隠居をせんでも、家は、そう濫りにつぶせるものではない」   「幾度も、聞いております。兄上の政策が、多大の金子を貧し、せっかく、父上なり、笑左なりの立直したる蒋財を、また空しくするであろうとの御懸念で、ござりましょう」   「それのみではない、不逞の演出家に、担ぎ上げられて、倒幕の、攘夷のと、大それた事をしでかすかもしれぬ。それに、斉彬の代となれば、わしが、今度国許で処分した奴等の与類を取り立てて、上席の者を、ことごとく、処分するかもしれぬ。そうなると、いよいよ、島津の内乱は、天下に知れ渡って、これがためのみでも、転封されるかもしれん。それよりも、今しばらく11核をみて、お前に、譲ろうと思うが_____ I  久光は、父の顔を、鋭く見て、   「契りませぬ」  と、頭を振った。   「要らんなら、要らんでよい」   「父上は、茶壷と、十徳とを、二度拝領されました」   「うむ、隠居せい、との謎じゃ。ニ度も、謎をかけられたのは、三百諸侯、三百年間、わし一人しゃ。あはははは」  久光は、懐へ手を入れて書付を出して来た。   「読み上げます。  私領琉球国へ滞留罷在侯、異国人ども之倶に付面者、追々披仰途侯御趣旨之旨、相心得しきしたし  フランクじんに むいぎ乙タはらい 支いこくUん ま  たしhゆう   おりそうら孔とも くしぇ同う 椴指揮、仏蘭西人者、無異議引払、茶囚人は未だ滞留いたし居候得共、回申一統人気も平常に帰し’ーー」   「わしの、察中書ではないか」   「はい」   「それが、どうした?」   「父上、その冨中書に、盲いてござります、琉球国無事安穏のことは、ことごとく、偽りと、幕府要路へ知れておりまするぞ。今一通−—島津将曹の分—−」  久光が、読みかけると、   「わかっている」  久光は、また、懐へ手を入れて、 「今一通−これは 1. と、言って、紙を、披げると、 「島津豊後と、末川近江より、石見宛の書面、これも、阿部伊勢の手に入っております」「誰が、さようの密書をーー」 「わかりませぬ」 久光は、口早にいって、頭を振ると、  「読み上げましょう」 と、鋭く言った。         一ノニ   「去年十一月七日、英国船一能、那覇へ来着、彼国軍機大臣より、更に有無之晶、致安易度趣もむきoしょしよぅもちニし まJJ≪rf'≪lふなのひがしら     どうよぅこうえぎすじのぎもぅしききそぅもぅつき さるぅまどし ふつこフヘだいそうへいこうらやくら之書状持越、又者右船乗頭よりも、同様安高節之儀串間侠に付、去午年、仏国大総兵安着之 之書状持越、ス者右船乗頭よりも、同様せつ bこうこう吏きとぅあいことbりモぅろうぢもむぎ 節、和好文高等相所依趣 をもってーー」  「講からさようの物を手に入れたII」 斉興は、大声でいって、久光を睨みつけた。  「当路の入より」  「講じや」  「申し上げられませぬ」   「美濃か」   「中せられませぬ」   「貸せ」  突き出した斉興の手は、微かに頭えていた。そして、一通り目を通すと、久光が、   「なにゆえ、異国人ど左父易強要のあったことを、ない、無事だ、日中一統人気平常だと、偽りになりました。この一点で、上を欺いたるものとして、改易にされても、恨むべき筋はござりますまーい。なにゆえ、かような小刀細工をしてまで虚位虚名をお望みになります?」   「虚位虚名?」   「そのことも、上には御承知でござりますぞ。国許の平穏を装い、異国との交渉は、・無事解決と偽り、その功によって、三位に進まんとするお心でござりましょう。今更、三位に進んで、何になりましょう。正同位上宰相、松平大隅守として、何不足がござります。この上に、密貿易露顕のこともあり、今度の騒動のこともあり、隠居せよとの跳を二度も受けておりながら、のめのめとーーーー」   「何が、のめのめじや。なんという言葉を使う?」   「殿中にても、世上にても、さよう中しております」  久光は、手早く、将曹から、幕府へ報告した文面の写しを、取り上げて、   「この、冨中書のごとき、署名は、ただ、将曹一人、藩老の連署がなくて、何故、この藩国の一大事件を、上へ通達するような、軽々しきことをなされました。これも、悪く推察すれば、余 人に洩らしては、反対されるおそれがあってのことでござりましょう。何故、あったことをありのままに通達なされませぬ。この事実の阪釘によって、異国掛としての兄上の板挟みの苦境が、おわかりになりませぬか? 母上のなさるような浅墓な企て、幕府とて、目もあれば、耳もござりますぞ。まして、天下に誤夷、開国論の盛んなる折柄、異国船が来て、交易を強要したという重大事が、洩れずにおりましょうか。琉球が、辺僻の地などとそんなことを考えて、匿せば、匿せ得るものと、お考えになっているお心がわかりませぬ。もし、兄上に、失政があれば、その時こそ、久光、兄を押し除けてでも、御家を継ぎましょう。当今天下第一の人物として、上下より称讃されている兄上を、当主にせぬなどと、父上ちと愚にお返リでござりませぬか。お為派崩れに加担した軽輩どもを取り立てて、上席の者を処分するであろうなどと、あまり、兄上の心にお察しがなさすぎまするぞ。お為派の考が、兄上に何をすすめても、ただ父上の御意のままに、と 国許の、彼等の陰謀も、 所詮は、兄上が押さえつけて、その申し分を、用いなかったがための蜂                 一 FfK 刎.lく iど。くー..i  .J.−− .,           ごじひ 起とは、わかりませぬか? 手前に、家督を仰せつけられる御慈悲がござりますなら、手前の、この申し分を、お聞き入れくださりませぬか? 父上のため、家のため、いや、天下のために、兄上はーー天下のためにー−父上のためにーーI、どんなに苦労を11子供を−1殺されても、愚痴一つ、洩らさずに‘−・‐」  久光は、涙を浮かべて、声をつまらせた。斉興は黙っていた。      ニノー  将曹は、腕組をして、首を傾けたまま、黙っていた。お由屋は、すきやの着物の襟裏を返し、少しくつろげた胸の、濃化粧に、その襟裏の紅縮緬を映えさせて、煙草ものまず黙っていた。二  (今、斉彬が相続しては、自分たちの努力が、水の抱と消える)と、いう感しで、胸を、圧えつけられてしまっていた。   (斉彬が、相続すれば、当然、その反対派の否々どもを、処分するだろう。どう、処分してもどんなに軽い処分でも−−)  将首は、自分の位置として、斉彬のやリ方として、斉興が、お為派に加えたような処分はしないとしてもーー‘ (役は変わられる、罷免されるーーー命にも、石高 にも別条はないが−−しかし、現在の役を誼 かに代えられたなら、それで、万事は、水泡に帰する)  将曹は、自分たちの計ぼした、斉彬の世嗣を、呪殺するということが、あまりに、うまく運びすぎたことに、喜んでもいたが、その底では、薄気味悪くもあった。   (お宮のために、その方がいい。斉彬を相続させてはならぬ)という信念が、相当に固くあるにはあったが、睨殺という手段のことを考え、何も知らぬ幼児の、次々と死に行く様を見ると、その死の−‘−その幼児の怨みの幾分かは、自分へかかってくるような気がして、あまりに、その 死が、うまく運ぶゆえに、自分の命のことに対しても、気味悪さが感しられた。そして、。何所かに、悪いことをしているな、というような感しがあって、   (お家のためだーーー)  と、田こってみても、   (あまり、上手に、事が運びすぎる)  と、かえって不安になり、   (ものは満つれば矢ける、というがー−‐)  と、白分たちの、陰謀が、いつか、破れるような気さえした。   「斯様なことも、考えないではござりません、だがーー」  と、将曹が、呟いた。   「あまり早すぎてーーーL  お出居は、黙ったままであった。   (斉興が、隠居をすれば、妾は、四国町へ下げられるかもしれぬーー下げられるだけならよいが、あの軽輩どもは、殺しに来るかもしれぬ)  お出居にとって、斉興を隠居せしめて、斉彬を立てようとする幕府の圧迫が、こんなに強く来ようとは考えられぬことであった。   (斉彬を、殺すほかにない1−)  二人とも、そう考えはしたが、斉彬を殺すということは、同時に、自分らも、久光も、殺され 6 て、島津の塞が滅亡することであった。斉彬を殺したなら、軽輩の人々が何をするか1−‐その入人の気持はヽ十分、二人にわかっていた。     (牧に命して、呪殺を−だが、牧は、いつかの目斉彬のような心の強い方は効き目がないと  申していたがー−‐それでも、牧のほかに−−)と思うと、     「牧は、どこにおりましょうかの」     「さあー−」    将酉は、やはり、腕を組み、首を傾けたままであった。     「捜して!−」     「事ここに至っては、大殿に、飽くまで、隠居することを、拒絶して頂くのほかに、ござりま  すまい。お方」    将曹は、腕を解いて、しっと、お由擢の顔を見た。        ニノニ     「お上も、近頃は、すっかり、気が弱くおなりなされてのう」     「さ、それを、寝物語で一つーなんとか。それよりほかに、さしずめの方法として、ござり  ますまい。それに、何より困るのは、久光公の兄聶瑕1−」     「それが、妾にものう」    お由躍が、そう答えた時、逼かの外から、  「御家老様へ申し上げます」 と、いう女の声がした。  「なんしや」 将晋が、大声で答えると、  「久光様、お召しでござります1‐‐‐将曹は、しばらく、黙っていたが、  「ただいま参ると申し上げておけ」そういって、振り返って、  「なにしろ、幕府の方においても、 手許不如意の上に異国のことは、誰も心得ておりませぬか ら、一にも、二にも、斉彬斉彬と、斉彬公を引き出して、企と知恵とを一時に、絞り取ろうと、幕府が必死になっているだけに、容易なことではござりませぬ。茶壷を出した上に、十徳を出し玉一度も、隠居せよと−‐−大殿も、意地になって隠居するなど気振りもお見せになりませぬと、今度は、お為派崩れをロ実に、密貿易を口実に、どこまでも隠居させようと、この強硬手段に出る以上、ただ頼むところは、大殿のお心の固さ一つ。それを固めるのは、お方のその腕一つ1−−否々oためではござりませぬ。当家の存亡にかかわること、なにとぞひとつ、十分に−−−」   「妾も、それは心得ますが、牧の行方を調べて牧の意見—−斉彬を、呪えるか、呪えぬか、何より、彼より、それが一番大事なことゆえ、心利いた者を、すぐに走らせてもらえませぬか」   「心得ましてござります」  将曹は、しばらく考えていたが、   「こちらより、両三人の者を−お方には、誰か、.心づいた者がおりませぬか」   「ここより人を出しては、目に立つであろうがな。それより、京か、,大坂の邸の者に、頼んで!−」   「いいえ」  将晋は、首を振って、   「京、大坂にば、不逞者が、近頃うんとおりまして、かえって危のうござります。斉彬を担ぎ上げて、幕府を倒そうなどとーーこの風説一つだけでも、幕府としては、聞きずてにならぬのを、知らぬ顔をして、異国掛に引き上げようなどと、‘この計黒い、魂胆の底には、当家の受、肩衝の残しておいた受かI‘−受に目をつけての仕業でござりましょう。なけりや困るし、あってはうるさいしー」  と、いった時、   「久光様、お渡り」  という声が、廊下でした。お山扁が、   「また1−ー」  と、呟いた。将曹が、立ち上って、   「ただいま、そちらヘーーj」  と、叫んだ。そして、足早に歩き出すと、襖のところに、手燭の灯が見えて、久光が、足早に 入って来た。   「急用しや」  と、いって、   「御部屋ヘーー」  と、いう将酉に、   「いいや母上も、御一緒の方がよい。参れ」  とロ早にいって、将冊と、擦れちがって、お由頴の方へ行った。女中が、あわてて、祈を特って来た。将曹が、苦い顔をして、久光の後方からついて来た。、 ニノ三  「まだ、眠みやらぬかえ」 と、お肉緩か、久光に声をかけた。  「母上はまた、将葺と、なにごとを、お話しでござりますかな」 将曹が、,  「つい、世間話が、長うなってーー」  「世間話とは、父上が、世間から非難されていなさるようなことをか」 「非難とは? 別に、大殿は、さようなー−」  「それがわからんでよく家老職が、つとまるの」   「久光、何をお言いやる」  と、お由証が、叱った。   「耳が、ついているのか」  と、久光は、将曹の耳を見た。  「これっ」  お由頴が、大きい声を出した。将曹は、しっと、久光を睨みつけて、顔を、赤くしていた。その眼を睨みつけながら、  「その眼なら、読めるであろう。ただいま、父上から頂戴位してかったものしや。よく、拝見してみい」  と、言って懐中から、書面を、取り出して、  「読んでみい、声を出して」  将曹が延ばした手へ、渡した。将酉は、披げて少し読むと、顔色が変った。時々、唾を呑み込んだ。  「声を出して読め」  将曹は答えなかった。  「これで、天下も、当家も、安楽しや。将曹、そうであろうがー−」  と、言った時、お由躍が、  「それは?;Iどういう?」  と、将曹へ、話しかけた。   「貸せ」  久光は、将曹の手から、書面を受けとって、   「読み上げまする。よく、お聞きなされませ。母上」と、いって、書面を、放げてしまって、             さしもどしかたのぎごこへたい かかわらさるよう あつくごないめいこ弓むりたてまつりそ弓ろうにつさ さぐねんきこミO  「琉球国へ滞留之英人差戻方之儀御国体に不拘様、厚奉蒙御内命僕付、昨年帰国之上、猶又種々、及許策,靖国へ嘆訴方、深致指席置儀御座僕に付、来春御暇放下僕再考I‘  母上、よろしゅうござるか、このお暇は、江戸のお暇のみではござりませぬぞ」   「来春樹暇放下僕得考−—  将曹、そうであろうがな。 直に致帰国、右手当向併に海岸防禦之儀、手厚取許可申心得に院共、私事六十余歳罷成、其上持病の痔疾苦起僕節考、致難儀僕間、嫡子修理太夫(斉彬)儀、年齢に罷成僕に付、あつくもうしぶくめかとくあいけすりいんきよねがいたてまつるふくみごさそうろう このたんごないりよあいうかがいそうろう 厚申含家督和譲隠居奉願含に御座僕、比段御内忠和伺候、以上−松平大隅守」   「母上」  と、言ってお出願の方へ、書付を、差し出して、   「父上の筆蹟に、相違ござりますまい」  お出願は、凱{っていた。   「将曹を呼んだのは、ほかでもない、明日、この隠居順を持って筒井殿の邸へ参り、阿部殿ヘ伝達を乞うよう」   「では、大殿にー−」  と、いって、将曹が、立とうとナるのを、  「父上は、お臥みなされた。伝達せよと、予が聞いてかったのしや。これにて、父上への世上の非難も消える。母上、いらぬことをお考えなされずに、早く、お眠みなされませ。今夜は、身もゆっくりと眠れる。将曹、何を浮かん顔をしておる」  お肉躍と、将葺とは、自分の膝を視つめて黙っていた。      三ノー  下城して来た斉彬は、いつもより、眼の微笑が、少かった。出迎えの家来たち−−いよいよ正式に御世俗の決まる目と、薄々洩れ聞いて、喜んでいた家来たちは、   (模様更えになったのであろうか)  と思った。   (今に、今にと、掛声ばかりで、本当に決まらなかったのが、大殿、御自身から、今度は、隠居願を出されてーこれで、めでたく、御相続ときまったのにー−あのお顔は?)  と思うと、また何かしら、不慮の故障が入ったのではなかろうかと、何に怒っていいかと、対手のわからぬ憤りが、起こってきた。そして、俯向いて斉彬の歩いて行く足音を聞いていたが、   (何かあったにちがいない)  と、思っても、朋輩に、それをいうのも、朋輩から聞くのも、馳なような気がした。そして黙 ---・・ って立って、詰所へ人っても、人々は失望と、怒りとで、ロを利かなかった。お互に、(どうして、こうも、御不幸なお方であろう)  と、感して、暗い顔をして、しっと、腕組していた。  斉彬は、居間へ人って、前からと、後方からと、袴を、筰を、女中に取らせながら、次の間の近習こ、 、、いらいもり   「渡来物の、氷砂糖があったの」  と、いった。   「はっ」  近習が、襖のところで、手をついた。斉彬は櫛の上へ坐って、   「それを、白金へ、御見舞に持って参れ。そして、父上の御機嫌を伺って参れ」   「はっ」  近習が、襖の蔭へ身体を引くと、廊下の方で、   「久光様、お渡リでござります」  と、いう声がした。   「ああ」  斉彬は、そう言って、眼を閉して、肩で、大きいが印をした。そして、,しばらくすると足音がして、久光が現れた。  「お疲れでござりましょう」   「うむ」  斉彬は、まだ、眼を閉したままであった。坊主が入って来て、   「お薬湯」  と、言って、斉彬の膝のところへ、薬湯を置いて行った。斉彬は、眼を開いて、久光を見て、   「何か珍らしい話はないか」  と、開いて、薬湯へ手をかけた。  「兄上の、御発明の、あのロの丸の総船印が、日本の総船印として、定められたそうでござりませぬか」   「うむ」   「日章旗と、名づけて」   「うむ」  久光は、世継が、今日、殿中で、決まったのに、いつもより、憂影な顔をしている斉彬の態度に、不安な影がさしてきた。   (どうしたのか)と、話しながら、また、何かしら、自分のわからないことを考えて、沈んでいるのではなかろうかと、思うと、潔りに、口へ出して、間けないような気がした。だが、斉彬が薬湯を飲み終ると、   「首足、いかがで、ござりました」  と、□を切った。   「断われぬことゆえ、お受けはしたが、11父上のことを思うと、気がふさいでならぬ」  久光は、はっとした。自分が、無理に、斉興にすすめて、隠居願を書かせたことなど、斉彬に知れては、どう叱られるかも知れぬと思った。     三ノニ  「誰がすすめたものかーー’」 斉彬は、湯呑の中の、薬湯を、しっと眺めながら、  「父上は、まだ、隠居をなさるお心持は、  久光は、自分の兄に対する唯一の好意が、立つ胸を押えて、俯向いていた。 ないに−−・誰がおすすめ申したのか1ーー」 兄を怒らせ、兄を苦しめていそうなので、不安に脈   「わしは、富国強兵の策として、理化学の外にないと信しているが、これを行うと、父上の御意にもとる11もとるにしても、天下のために所信へ邁進する外にない」  久光は、頷いた。そして、父の隠居を、誰がすすめたかという問題から、離れそうなので、安心して、   「天下のためなら」   「御意に背いても、と、申すであろうが、わしも、それを思わんでもない。しかし、人の命は短く、理化学の道は遠い。学文、究理のみならば容易であるが、それを、形に造り上げるまでには、幾多の困難がある。もし、わしが、、その困難に耐えて、造り上げるまで、’存命しておればよ   いが、もし、その間に死ぬようなことでもあれば、理化学の仕事は、ことごとく水泡に帰する。それを思うとヽ父上の御意に背いてまでもすべきことか−‘久光」    斉彬は、微笑して、久光を見ながら、     「いっそ、すぐさまにも、わしも隠居をして、お前に家督を譲ろうかと、おもうておるが、こ  れが四方ハ方、円く治まる法ではなかろうか」     「お断わり申します」    斉彬は床の問の手文庫から、書付を出してきた。そして、    「わしの志を継いでくれる者は、お前の外にない。しかし、今すぐ、わしが隠居することも叶  うまい。わしは、隠居して、異国へ、理化学の研究に参りたいが、そうもならぬ。それでお前が、   わしの志をついでくれると、信しておるが、なお、念のためにこういうものを、作っておいた」   斉彬は、その書付を開きながら、     「わしは、天下のためというロ実にて、父上や家中の考と争いとうない。しかし、この道の外  に富国強兵の策があろうと思えぬゆえ、お前の代になったら、この者らと力を合せて、わしの志  を継いでくれ。知己を後に待つ外に方法がない。なんとなく、わしは、疲れてきたように思う。   あるいは、父上に先立つかもしれん。もし、さようなことがあれば、わしは、ただ彼らに、父上  の金を費したことになる。何一つ、完成せぬうちに死んでは、外のこととちがい理化学は、途中  で止めては、なんにもならん。それで、わしは江戸在留の者、国許の者の中から、こうして、有  為な青年の名を書き抜いておいた。大久保、有馬、西郷の彼は、わしらと当面の難局に当るべき 人材であるし、この者らは、三十年の後に、天下の役に立つ者どもしや」  斉彬は、手に書面を握ったまま、語りつづけていた。久光は、斉彬が家を継いで、自分のしたいと思うことを、存分にするであろうと信していだのに、その反対の話を開かされて、斉彬の、斉興を思う心にーーそして、その斉彬に対して、斉興や、お出征の採っている態度に対して、涙が出てきた。何も言うことができなかった。   「わしが部屋任の間は、まだ、責任が軽うてよかったが、当主となれば、敵は家中のみではなく、幕府も、他藩も−—それよりも、この心の中の、いろいろの苦しみーー’−子を失い、父と争う苦しみーー己の儲けた企でない金をもって、成るか、成らぬかわからぬ仕事をしている苦しみーーー久光、お前だけがわかってくれるであろう」   「はい」   「お前は泣いているの11わしは、泣きもできぬ」  だが、斉彬の声も、曇っていた。     三ノ三  「この外に、まだまだ有為な者がおろう。いずれ帰国して、調べて、また、残しておこう」斉彬は、そういって、書付を、久光の前へ、披げておいた。久光が手にとると、  大目付軍役     新 納 刑 部  船奉行教育掛    寺 島 陶 蔵(後の伯爵外務郷寺島宗則) 船奉行   右カピテン視察のかいせいしよ 開成所掛大目付 小姓組番頭 当番頭 同 右陸軍学研究の事 開政所訓導  右文学 研究の事 医師開政所句読師   右医学研究の事医 師   右化学研究の事開成所英学諸生 開成所句読師蘭学開成所請生 同  蘭学 同 町束t吉f森t田郷f田゛ 町田 名り田討侃町老事五゛ 紀 偕才八郎 越丿山雲橋田″ 平ご良r直1民党  之必 馬り陽衛縁y      と-£>あつ(後の大序)      ひさなり(後の久成、 元老院議官) 島 誠 蔵(後の尚信、フラソス公使) 田゛中公 せい しゆう静 州 竹村なお 見(後の博愛、.オランダ公使) t愛ご巳゛金欠゛之゜之゜之芒?肋冷次吝丞t 中門郎けんLろう謙次郎     ありのり(後の有礼、     きよなり(後の皆式、 子爵文部大臣)子爵)              いち き  恥んしゆぅろう   奥小姓開成所入学  市 来 勘十郎(後の海軍中将)     右海軍測量科研究の事   開成所諸生英学生  磯 永 彦 肋   「いただいておきます」  久光は巻き納めて、押し頂いて懐へ入れた。   「今は、どうにもなるまいが、わしの大船禁造を解くことも、容れられたし、開国も、天下の勢いとして、実行されようし、時機が来たなら、この諸生どもを、それぞれ異国へやって、その学文も見習わせるがよい。化学のことについてはそれに興味のある者が中村のほかに見当らぬ故、追って詮術するとしよう」   「化学は、兄上につづく者ございますまい」   「だから、父上のお残しになった金を、化学のわからぬ人々の中で使いたくない。しかし、久光、三十年、いや二十年で、わしの志は、天下の志になるぞ。わしは、それだけを信している。それだけを信していると、淋しゅうない。いろいろの苦しみも忘れ果てる。榴弾もできたし、シャフトもできたし、紅硝子もできたし、ただ一冊の、オランダの本だけからでも、異国に負けぬものが造れた。あるいは−調所がおったなら、称めてくれるかもしれぬ。あれは、できたらこの上ないが、できるかできぬか、わからんものに金は出せんと、反対しておったが、今存命なら喜んでくれるであろう」  久光は、調所が斉彬呪殺の計に加わっていることを、斉彬が知りながら、心から称めるのを聞 いていると、斉興が憎くなってきた。   (父と言い争いまでして、隠居願を、無理に書かせたが、この兄のためなら、もっと、強く出てもいい)と思った。次の間から、  「白金へのお使、ただいま帰りましてござります」  と、言った。  「どうであった」  「御機嫌の偕に拝しましてござります。よろしくとの、お伝えでござります」  「そうか、父上御機嫌であったか、そうか」  斉彬は、元気のいい、快い笑顔になった。久光は、また、眼が熱くなってきた。      四ノー  一人の浪人は、揮 一つになっていた。二人は肌脱ぎになっていた。もう一人は半肌脱ぎで、  「益満が、こう遅うては、お客も、一人しやあ寝にくかろう」  「そうさ。かぼちや、とうなず、いろいろあれど、主に見返ナ奴はないってね」  富士客は、浴衣の襟をくつろげて、片立膝から水色をのぞかせながら、  「今夜もいやに蒸すねえ」  五人の前に、看の皿と、徳利とが置いてあった。  「毛唐は、男と女と、人の前でも口を吸うというが、本当かの」  「そういう大のような真似を致す奴輩ゆえ、捨てておけんと申すのじゃ」  「好いた仲なら、嘗めもしようさ」  「ははあ、師匠も、嘗めるか」  「当り前さ」  「どうして、嘗めるか、後学のために、拝見致したいものだの」  一人が、肱を張って富士谷の顔を見た。  「何をつまらぬことを申している」  「いや、男女のことは、造化の大道で、攘夷とともに、神州男子の心得ておらねばならぬことしや」   「青島さん」  富土谷は、一人の齢の若い浪人に、   「こうしてさ」  と、言って、手を延ばして、貴息の手を、引っ張った。   「何をなされる」   「いいしゃないかーなんとか言ったね。どうかのだいど?」   「造化の大道」   「それそれ、造化の大道ってばさ、こっちお向きよ」   「師匠は、酔うといかん」  貴息は、手を振り放して、  「たとえヽ斉彬なりといえどもヽまたヽ益漓の命なりともヽ開国説をとるなら、わしは、反対しや−−」  「妾の命でも、反対か」  富士谷は、膝を崩してまた手を取ろうとした。  「拙者と、嘗めよう、お谷殿」  と、揮一つのが言った。富土谷は、しろっと見て、   「もう少し、鼻を高くしておいで」   一人が、   「師匠、激らなっーーー益満の留守に』  と、叱った。   「おやっー−」   「酔うといかん」   「妾が?−−酔うている?−−い、いつ酔うた?’−‐妾が間男でもしたというのかい?−−‘したってなんだい、間男ぐらい」   「斉彬の真意はわからぬが、薩州の急追究は、攘夷をもって、討幕の口実としているが、幕府を討つ口実としては、開国は違勅であるという、この一本槍で−−」   「何が一本槍だい。二本差しっ、大の男のくせに、あっちいくっついたり、こっちいくっつい たり、昨日まで、公方様の家来であったくせに、今日は寝返りを打ったり、憚りながら、富士春は、意地ってことを、知ってるよー−いい加減なことを言って、休之約め、宗女郎と、ふやけくさって、間男が、なんだい−手前勝手な」  浪人たちは、初めて見た富士春の酔態に、持てあましながら、   「師匠、先に寝たら、どうじゃ」   「人のことを、かまう柄かい。居候浪人」   「なに?」   一人が睨みつけた。一人が、   「馬鹿っ、酔っ払いに」  と、たしなめた。      四ノニ   「威張るな、青島−−小太郎を、連れて来い、小太郎を、あちきの好きな小太郎を」  富士春は、唇をなめて、   「そりゃ、いい男だからねえ−鼻べっちゃ、お酌」   「そう飲んではいかん」   「だ、誰の、お鳥目で買ったお酒だい。余計な世話やくから、だんだん泳が低くなるんだよ。こ、今夜から、釘抜で、挟んで寝るがいいや」   「心得た」   「笑ってるよ、この人は。笑うと、鼻まで笑うね」   「斉彬は、どこまでも、公武合体で行こうという肛らしいがーーー」   「斉彬は、どうでもいい。賢明と言っても、殿様育ちにすぎん。吾々の目指すのは、薩摩の金だ。薩摩軽輩の奮起だ。益満の書状によると姉小路卿が、いつでも立つと、いうが−」   「薩州の公武合体節も、手ではあるまいか。江戸と京都との、模様を探る手だと、わしはおもうの。益満の行動を見るとわかる。策謀、また策謀だ」   「そうだ、もし、疑うならば、薩州が、天下をとる野心かもしれぬ」   「いいや、斉彬は、そういう人物ではない」   「そりやちがう。海軍奉行、勝顛太郎を京都へやったのは、公武合体のためでなく、開目説を公卿問に吹き込むため、斉彬と打合せて行ったという話がある」   「それでは、斉彬は、いったい、どういうのか、既に、イギリス艦を、ぶっ払ったではないか」  「そのイギリスと、手を握ったではないか」   「だから、わがらんと申すのじや」   「そうさ、男の心なんか、わかるものかい。庄吉の野郎め」  富士春は、酔ってしまったらしく、眼を閉して首を傾けてしまった。   「そこが、斉彬の賢明な所で、既に、異国と同し船を造るようになったと申すではないか」   「船は同しでも1船で戦うのではない。武で戦い、魂で争うのだ」   「それは、そうだが、長篠の戦いに、武田の精兵が、織田の鉄砲に、打ちすくめられたように、異国の兵器は、侮れん。斉彬が、その点へ眼をつけているのは、えらいでないか」   「そうでない。彼の祖父の重直と同しで、今に男女とも、口を嘗めろ、.と、ことごとく、異国の真似をするようになる」  富士谷が、   「犬を嘗めろ、鼻べちや」  と、呟いた。   「間いてたか」   「酔っちやいないよ」  富土谷は、身体をー揺りすると、機になってしまった。   「俺にはわからん、万事、京から、益満が、戻った上にて、進退を決しよう。話のごとく、江戸を荒して、幕府と一戦すると申すなら、命を捨てて、勤王の魁をするし、また、変節してくるなら、吾々同志は、すぐさま京へ上ろう」   「そうだ」   「薩州も、斉彬も、益満も、わからん」   「そういうものはわからんでもよい。吾ら期すところは尊王攘夷」   「そうだ、前途程遠し、田心いを禁裏勤王に馳せか」 「叱っ、 隣りへ聞こえる」と、一人が制した。一人が、 「寝たらしい」 「青島、二階へ、巡んでやれ」「女の沙汰かっ」 と、青島が、鋭く言った。     五ノー 敬仰太郎が、手を叩いた。   「はい」  次の間で返事があった。   「山内をI−」   「山内様は、先刻、お出ましになりましたまままだお戻りになりませぬ」  京都下河原、二階堂志津馬の寮の、一部屋であった。狭い庭であるが、鞍馬石に、木竹を配して、巧妙に右派されてあった。牧は、   (山内も、家中の、尊王熱に浮かされ、京の街を歩いているであろう)と、思った。   (あれは、自分の腕を、人に、己に、見せたくてかなわぬらしいが)  牧が、そう思って、扇を使っているところへ、   「御免」  と、廊下で声がして、 −・一   「お一人かの」  と、部屋の中を覗き込みながら、京都薩邸の用人が人ってきた。江阪という六十近い老人であった。女がすぐ、小走りに、蒲団を特って来た。   「京都は、暑いて」  と、呟いて、額を拭いて、老人は、縁側へ、座蒲団を持って行った。そして、         よや         i   「江戸から、早馬が参ってー」  と、庭を見ながら、   「いよいよ斉彬公、御相続と決まりましたが、それについて−ー・」  老人は、扇を閉して、牧の方へ向き庭った。  牧が、   「ははあ」  と、頷いた。   「万一、貴殿に、不慮のことでもあってはと、‘一党心ならずの心痛で、.しばらく、・いずれへか、身を1」   「かたしけのうござる」  牧は、冷やかに答えた。そして、・   (昨日まで、斉具に忠義立てして、当主が代るとまた、斉彬の味方になるーI頼むましき人心)と、思った。    「当地へも大分、国許の若者が入り込んで、これがまた、刀を抜きたい逮中のみで、ござってのう」     「さよう1 ‐‐     「物騒な世の中になりましたわい。わしらの若い時、三十年がほどは、静かすぎるくらい、静  かであったが、近頃は、公卿衆までが先立ってお騒ぎになるようになりましたのう」     「さよう」    牧は、己の信しろ兵道などが、若い人々に、一顧もされず、若い人々がことごとく、斉彬の百  洋学文に餓くのを見て、憤りとともに、呪い心になっていた。     (善にもあれ、悪にもあれ、己一人は、所信を貢こう。お山頴が、将曹が、よし、斉彬の方ヘ  変更えしようとも、己一人は、兵道の威力をもって、斉彬の化学を破って見せよう。物理、計数  の上に立つカが強いか、人間の霊妙心が強いかー斉彬を呪殺することは、よし、島津に対して  不忠にもせよ、霊妙心の、不可思議を、天下に示すことは、兵道家としての務めであり、天下の  ためでもある。まして、いわんや、斉興公への忠義になることをーこの老人は、休よくわしに、   退去を願いに来たのであろうが、言われずとも、この炎暑の天に、諸天を迎えて祈ることは、い  つよりも効験の著しいことだ−‐かかろう)    「明日、早々に、山へ籍ることに仕ろう」    「いや、そうせかずともー−−」 と、江阪は、外を眺めていた。牧は、指を繰っていた。そして、  「斎宮合致の刻」 と、呟いた。     五ノニ  「御存しかな」 老人が、呟いて、  「問かれましたな」 と、振り向いた。そして、膝を、牧に向けて、  「御子息の」 と、顔を見た、牧は、眼を関して何か考え込んでいた。  「御子息の—」  「悴の?」  「百城とか申される—」  「それが?」  「いや、まだお耳に人っておりませんとなれば、一大事」牧は、それでも、眼を閉じたきりであった。 一一−¬一一   「なんと、御挨拶申し上げてよいかー−‐」  老人は、そう言ったのに、まだ眼を間かぬ牧に、物足りなきを感じながら、   (これだけ言えば、わかりそうなものであるのに−−そして、わかったなら、せめて眼だけぐらいは間くのが人の情であるのに−−)と、思った。そして、   「実に、御愁傷なことでー−御子息が、先日、不慮の死を遂げられたよし、聞き及んでおりますがーー」  老人は、どこまで言えば、眼を開くか、意地のようなものが、出てきた。   「ははあ」  牧は、そういって、眼を聞いた。だが、瞳にも、眉にも、唇にも、なんの動きも、現われなかった。   (勘ちがいではあるまいか)と、老人は、田こった。そして、   「この奥の叡山で、百城‐−・様かなー−御子息が、町人に手傷を受けて、それが因で亡くなられたと、山でえらい評判が、京へも問こえておりますが、貴殿の御子息に間違いないとしたなら、詮議もせにやならず、始末もせにやならず、それで、かったのでござるがな。ひとつ、所司代ヘ訴え出て、その手からも探索させ、また、当方から手をつくして−−−」   「御好意は、かたしけのうござるが、御打ち捨ておき下さるようーー」   「しかし、余のこととちがいー−‐御遠慮には及ばん。その町人を−」   「町人に、手傷を受けた不出来者などは、子でござらん」   「ごもっともながら、そりゃ、貴殿の御気性としてさもあるべきところではござれど、親の情として−」   「お断わり申す」  牧は、鋭く言った。そして、つっと立ち上ると次の間を抜けて、廊下へ出て、手を叩いた。老人は、じろっとその後姿を睨みつけていたが、   「それではーーーー牧殿」  と、声をかけた。牧は、廊下へ立ったまま、出て来た女中に、   「山内が、その辺におらぬか、お捜し下さるよう」  女中が、去ると、   「牧殿、これへ、御手当金を、置いておきますぞ」  と、いって、金包を出して、畳へ置いて、押えつけた。そして、   「どれ1−『どれ」  と、呟いて、立ち上った。遠くに、山内の笑声と、女の、甲高い叫び声とがして、すぐ廊下に、山内らしい、荒い足音が近づいて来た。老人が、   「えらい、強いお方しゃ」  と、また、呟いて、戻りかけた。      六ノー   「今日も、お暑うございます」  義観の姿を見た、示旅店の亭主が、丁寧に挨拶をした。   「暑いなあ」  茶店の中にいた若い僧侶が、立ち上って、お叩頭をした。そして今まで食べていた餅の、皿を持って、片隅の方へ寄った。ほかの登山者たちは、.   (汚ないなりの坊さんやが、えらいのだろう。えらい人には、時々、こんな汚ないえらい人があるという話だがーー・)と、思って、義観を眺めていた。   「えらい騒ぎが、また、ございましたそうで」   「うむ、餅屋、繁昌して、よかろう」   「お蔭様でI−あの、娘さんは?—‐いったいどこの?」   「ありや山の狐しや。淋しいから、わしの婚にしてしもた。子が生れると、安倍晴明になる」  「へへへへ1‐もう、あの方々、皆、お立ちで?」   「京へ下りた。てんぼうが一人だけ残っている。餅を少し分けてくれんか」   「さあさあどうぞ。お持ち下さいますよう。五十もー」   「結構結構」  軒下には「弁慶力餅」と書いた看板が、屋根のところに、同し文字の白い旗が山風に翻ってい た。  根本中堂へ行く人も、四明ケ岳へ行く人も、ここの前が通り路であり、そして、この茶店が唯一軒の休憩所であった。  三人の侍が、上着を脱いで、肌衣の腕も捲り上げ、手拭をつかんで、編笠の下の顔を、時々拭いながら、   「やれやれ」  と、叫んだ。一人の侍は、暑さも汗も感しぬらしく、端然として、扇子を右手にしていた。だが茶店の前へ来ると、   「許せ」  と、言って人って行った。お盆へ、小さい餅を盛っていた亭主が、   「ようこそ」  と、叫んで、小さい女に、   「これっ」  と、声をかけた。何か、手工に夢中になっていた女が、   「お餅でござりますか」  と、甲高い声で叫んで立ち上ると、侍が、四人立っていたので、それきり、黙ってしまった。   「水をくれ、水を11」   「水は、冷たかろうな」  囚人は、編笠をとって、腰をかけた。  「しばらく、待って下されますなら、谷へ降りて、汲んでまいりますが」  亭主は、そう言いながら、義偏に、  「お届け申しましょうか」  「なんの、わしが、持って行く」  一人が、  「問がかかるか」  と、聞いた。  「ちょっと、かがりますが」  「なんでもよい。早くせい、早く」  「はいはい」  義偏は、しっと、牧の横顔を視つめていた。そして、(月光の父ではないか)と、思った。   (前の祈祷を、もう一度行いに来たのであろう−I−よく、月光と似ているが、月光とは、人物の段がちがう)  そう思った時、一人の侍が、  「亭主」  と、叫んだ。 六ノニ   「亭主」  と、大声で呼んだ侍が、   「この辺に、義観という坊主が住んでおるか」  亭主は、その義観が、その侍の損にいるのでどう返事をしていいのか? いると言って、義観を教えたなら、侍がてれるであろうし、と言って、いないとも言えないし、   「はい」  と、言ったまま、お叩頭をして、しばらく黙っていた。参百人も、若い僧も、侍の顔をしっと具ていた。   「おらんか」   「おるぞ」  義観が言った。  「わしが義親しや」 三人の侍が、振り向いて、義親を見た。そしてしばらく黙っていたが、一人が、  「さようか」 と、言って、誤いた。  「実は−−百城月丸なる者が、貴僧の手によって、厚く回向されて、葬られたと申すことでご ざるが、真実かの」   「さあ、いろいろと回向したり、葬ったりするでー」   「仙波小太郎なる人物、御存しかな」   「知らん」   「知らん?」  侍は、故親を、睨みつけて、   「月光を殺した対手であろうが」   「見ておられたかな」   「見てはおらぬが、小太郎兄妹の者が、月九段を殺したにちがいあるまい。なぜ、検視を受け邸へ通知し、表向きとして、処分なされん。大損を埋めるように、自信勝手に葬って、罪跡を匿そうなどと、われわれ、それを調べのために参ったのじや」   「ははあ」   「小太郎は、どこへ逃げたか。町人が二、三人同行していたとの噂だが、それらの奴の素姓、そういうことを承りたい」   「小腸」  と、牧が、呼んで、小揚が振り向くと、日で止めた。   「月光の脇差を取っておいた。御覧なさるがよい。立派に、腹を切っていなさる」  牧が、義親の方へ、膝を向けて、   つヤぐ月丸の父でござる。いろいろと、御厚情の段、厚く御社申し上げます」  と、言って、頭を下げた。   「いや、仙波ハ郎太を埋めたり、百城月丸を埋めたり、いろいろでござる」  牧は、義観をしっと視つめながら、頷いて、懐から、金包を取り出した。一人が、   「仙波のも、御俗、埋められたか」  と、聞いた。   「猫でも、人間でも、なんでも扱うな」  牧が、金包を義観の方へ押し出して、   「軽少ながら、倅への読経料、お収め下さいますようー−せめて、水ぐらいは、お供えして行って手向けてやりとうござるが、子は父の心を知らず、父はまた、父の情にかけたる者、何卒、‘御俗において、拙者の代りとして、よろしく、冥福をお祈り下さるようーー」  静かにいって、軽く頭を下げた、そして、   「参ろう」  と、三人にいって、   「しばらく、お山を拝借仕ります」  牧が、立ち上った。一人の士が、鳥目を出した。牧は、編笠へ手をかけた。そして、四人が立ち上った時、   「山を借りるとは?」  と、故親が、牧を見上げて言った。      六ノ三   「山を借リるとは、修法のためかな」   一人が、   「さよう」  と、答えた。   「牧殿」  牧は名を呼ばれて、しっと義親を見たし、警固の人々も、編笠を手にしたまま、油断なく義親を見守った。   「あの火炉の形は、三角でござったのう」  そう言って牧の眼を、しっと見上げた破鏡を、牧もまた、無言でかつめていた。   「三角の釣召金剛炉は、何を折る時に用いるものか。それを知っていて、山を貸すことは、できんのう」   「なにっ」   一人が、一足踏み出した。   「山内っ」  牧が、叱った。そして、   「ごもっとも」  と、頷いた。   「しかし、呪阻も、時により、事により、人によってーー’」   「いや、いやいやーー」  義観は、首を振った。   「斉興が当主ゆえ、その方の命にて、斉彬を呪ったとして、斉彬が、当主となりや、これ、主殺しに当るーー」   「人事の推移のごとき末の末でござる。われらは兵道の成法を示して、天下にこの法あるを知らしむれば足りる」   「物の顕現は内発による。強いて現そうとして、現中老は、常に邪道に陥る」  義観は、牧を見上げて、その眼を、しっと、睨みつけていた。   「この山は、貴様の物か」  と、山内が、怒鳴った。   「ああ、わしの物しや」   「どこに、貴様の均しやという証拠があるか」   「わしの物でないという証拠が、どこぞにあるか?」   「なに?」   「出してみい」  牧が、   「山内っ」  と、また、叱った。そして、   「以前、この頂上にての修法が、乱暴肴のために妨げられましたが、それをそのまま棄ておくことは、兵道家として、天に対して恐れあり、曲げて、三五夜頂上を許して頂きとうござるが11−」  と、言ってまた、床几へ、腰を、静かにかけた。   「あの時のお供は、三十人余りーーしばらくの内に世の中は、変るものでござるのう」   「人の心がー__ I  欲は、冷たい微笑をした。   「お心は、よくわかる。月丸へ手向の水ひとつやられん心も、ようわかる。また、貴殿が亡くなられたなら回向して進ぜようとも思う心もあるが、修法は許甘ん、貴殿が是と信していることは、わしの非とするところ、この是非得失は、論しても了えまい。山は、当所だけでなく、愛宕も、鞍馬もある。所信を曲げん以上、他所の山のことへまで、ロは出せんが、斉彬を苦しめることは、ようないことで、ござるのう」  欲ば、誰に、いわれるよりも、この初見の僧に、こう言われることが、辛かった。それで、腕を組んでいると、義観は、金包を、山内の袖の中へ、投げ込んで、   「金は、いらん。後生は、よく弔うて上げる。もう長い命でもござらぬぞ。あったら俊才を、 惜しいことをしてのけるのう」  と、牧の顔を見ながら立ち上った。      六ノ四   「無礼なっ、何を致す」  山内が、赤くなって、こう叫びながら、挟の中から、金包を掴み出した。だが、義観に渡すのも、おかしいし、自分で持っている訳にも行かず、   「牧殿」  と、言って、差し出した。   「うむ」  牧は、頷いただけで、義観の立ち去って行く後姿を見ようともせずに、しっと、腰をかけたままであった。四人は、しばらく黙っていた。義観の後姿は、杉木立の中へ、現れたり、隠れたりしつつ小さくなって行った。  一人が、  「あの坊主は、当山でえらいのか?」  と、亭主の顔と、若い憎との顔とを見較べて、間いた。   「はいーーーなあ、良順さん、お出しゃ一番じゃろうの」   「うむ」  と、僧が、頷いた。そして、   「また、明日」  と、亭主に挨拶して立ち上った。   「先生、寺務所へ掛け合って、今一応交渉を致してみよう」   「要らぬ」  牧は、首を、振った。   (ここ一年の内に、いっさいの物が移ってしまったーわしの兵道が、よしその効験を現そうともー良前に、これを、顕現してももはや、人々は信じないかもしれぬ。わしが命を捨てての修法も、ただ人に侮りを受けるだけのものになるかもしれぬ。兵道で尚ぶ所の、以心伝心などということに誰も興味を持だなくなったらしい。神人相通の術などと言っても、わからなくなった。時勢であろう? 斉彬公の究理している電気術のごとき、その理論をロにし、文にして、いかなる凡夫にといえども、これを通し得、学習することができるらしいが、わしらは、それを一子相伝家門不出の秘伝として伝えてきた。そして兵道の秘伝以上の異国の不可思議が、誰人にも修得できるような時代になって来てー−わしらの兵道は、どうなるのか?)  牧は、黒船の来襲を聞き、その船の造りを聞き、斉彬の理化学的製作品を見た時、己の信ずる兵道以上の不思議なものを、感ぜずにおられなかった。そして、それを感じると同時に、己の兵道にて、それらを圧倒しうるか、どうかを考えて、   (古来のままの兵道では、どうにもならぬかもしれぬー−)  と、考えた。だが、どうしていいか、ただ、己を苦しめて修練に修練を重ね、極度に精神力を発揮することだけしか修業してこなかった兵道家にとって、談笑の中に、数町を距てて、音信を通し、器物によって、真正めままの肖像を写す不思議を見ては、三十年、四十年0長年月、暑熱に耐え、厳寒と闘って修業して未だことを、根抵から擬えされているとしか思えなかった。   (斉彬の信しるごとく、異国の奴等は、えらいのかもしれぬ)  牧は、傾いて行く陽も、感しぬらしく、しっと考え込んでいた。   (しかしーしかし、ここで破れては、ここにひるんでは−‐疑い、怯ける心は、何よりも悪い、愛宕で、鞍馬でI−そうだ。兵道家が、最後の折り、牧仲太郎が命をかけての修法−‐斉彬の異国化学が勝つか、目の本秘伝の兵道が勝つか?1‐−) 歌心、立ち上って、  「下山」と、いった。三人が、  「ええ?」と、聞くと、  「勘定をすましてーー」 と、いいすて、道へ出てしまった。 巷の音       一ノー  燭台が、明るく、金地の襖を、磨きのかかった柱を−‐それから、酔った人々の顔を照らしていた。   「愉快、愉快、愉快、我輩は舞うぞっ」  と、一人が、怒鴫って、刀を、どんと突き立てた。   「とにかく、将晋、平など、君側の奸をまず血祭として、それをだ、まず、軍陣の血祭として、而して、斉彬公を盟主として、討幕の師を、雪見させるんだ。ええか」  一人は、真赤な顔をして扇を膝の上へ正して、  「長歌」と、叫んだ。   鳥が鳴く、東の国に   行き向い、千々に心を尽しつつ   荒びなす、醜の醜臣   打ち払い、功業立てなむ   真心は、霞とともに   大空に立ち渡リける   「よう、よう」と、一人が、叫んだ時、   君不\見、方今天下転変状   内外上下部失E 倫   「ちぇすとうっ」   「舞うぞ」  と、叫んで、有村が、影の閃くごとく座の真中へ出た。そして、   「よ1うっ」   従E是当乙取断一宇   断行直、使E避‘鬼神‘  灯をうつして、刃が、但色に光を放って閃いた。畳が、壁が、時に柱までふるえだし、人々の怒声と、拍手と、叫び声とに、毀かに距てている往来の人さえ、足を止めて、この宿の二階を見上げた。   「そうだ。断の一字あるのみ」   「斬の一宇あるのみ」   英雄胸隔非E無E策   当\見、赫々邦家新   「新七、うまいぞっ」   「ちぇすとう」   勿E 言大業禄米E到   精神一発起二皇風・   況又大勢由=人事‐.   完工将二死一売ゅ群雄上   「然り然り、ただ一死をもって、天下に先ずるのだ」   「まず、奸賊を倒して、吾が藩国を浄め、次に王事に任して、皇運の挽回に従うべし。益濡、舞えっ、益満」  益満は、柱に凭れて、笑っていた。そして、側の平野国匝に、   「この元気がのうては、なにごともできんが、この元気のために、事を誤るものも多いでのう。斉彬公がまた彭勃たる大勇を、深く蔵して発せられん方ゆえに、この元気を利用もしたいし、斉彬公の御意に反くこともできぬし、ここをうまく操るのは至難の業でのう−ただ、西郷吉之幼と申す者が、ややその器であろうか−御存しか?」   「名は承わっておるがI−‐」   「一度、お逢いになるといい」  女中が、益満のうしろへ来て、   「仙波小太郎禄がお見えになりました」と、言って来た。   「下の部屋ヘーーー」  「同志か?」  「例の、牧を討とうとしておる男だが−」  「牧は、まだ討てんか」  「いや、近々、討てる。この近くにおるらしいから。暫時、御無礼」  と、言って、益満は、立って行った。一座には、酔った声の、詩吟と、琵琶歌と、議論とが、いっぱいにー1天井から植込みへ、離れの向うまで、溢れ出していた。       一ノニ  「騒がしいではないか」  小太郎が、咎めるように言って、刀を置いた。  「勢いの赴くところ、かくのごときものだ」  「月光を討ち取ったぞ」  「そうか? どこで」  「叡山のーーわしを牧ってくれた、あの僧侶の所の−‐−父の菖の前で、深雪と、庄吉とで、討ち取った」  「ふむ、あの二人で? よく、二人で討てたのう」  益満は微笑した。  「月光に耶心のきざしたのが、油断になっての、自分で、自分を殺したようなものだ。義観が、 万事後を引き受けてくれてI−—わしは、これから牧の後を追うが、何か、耳に入っておらんか」  「京の藩邸を、ニ、三日前に出たということは、聞いておるがー」   「わしも、それは聞いた。斉彬公の御代と決まっては、邸にも置いておけまいからのう」   「深雪に、あいつらは?」   「庄吉は、手を慨ってのう。三人とも、義観の庵室に逗留致しておるが、落ち合うところは、ここと決めておいた。もし貴公のおる内に参ったなら、よろしく頼む。要件は、それだけだ。これから、牧の足跡を求めてー−」  小太郎は、言いながら、刀を提げて、立ちかけた。   「今度の牧の警固方は、三人と聞いたが、人情紙よりも薄いではないか」   「国許の奴らには逢わんか、大分参っておるぞ。それに、他藩の志士もおる」   「誰々」   「伊牟田、平野、梅田といったような連中だが」   「やはり、人情紙のごときではないか?」  小太郎は、立ち上って、刀を差しながら、笑った。益満は首を振って、   「いいや、代々公に立って、かびに、高禄をかんだ奴は、こうした激変の時代に当ってば、ただ、失わんことを恐れて、事大的になる。だから、紙となり、軽薄ともなるが、今集まっている代物のごとき、もうこれより下れん、落ちられんというところの、底の底におって、反撥しようとしている奴らだ。この力は恐ろしいぞ。十分の闘力を、肛をもっていて、押しつけられていた 奴らだから、風雲を得たなら、どこまで、登って行くかもしれん」  二人が、話している間にも、二階では、吟声が、足音が、拍子が、轟いていた。   「所司代は、よく、黙視しておるの」   「もう所司代は無力だ。去年と、』それだけ、時世が変った。この激変は、おそらく、斉彬公の聯をもってしても、おわかりになるまい。薩摩もまた斉彬公の御代になってどう変るか? 小太郎、早く牧を討って、早く、畳等の仲間へ加われ。天下は畳々のものになるぞ。必ずなるぞ。薩摩は今や、天下を二分してその一を保つだけの実力と、声望とがある。ここに集まっている他藩の人々の説を間いても、斉彬公の御代になって斉彬公が討幕の師を起こすとなれば、若者は、ことごとく脱藩して、斉彬公の許へ走るであろうという話だ。半分に聞いても、愉快な話ではないか。小太、いい日の下に、、いい主の下に、生れたものだのう」  小太郎は、立ったままで、   「うむ」  と、答えた。   「わしは、七、八日、ここにおって、江戸へ戻ろうが、それまでに牧を討つといいのう。手を貸そうか」   「いいや、もう袋の試しや。早く討って、早く仲間へ加わろうかの」   「そうだ。お前にもだんだん世の中がわかってきたのう」  益満は笑って、立ち上った。小太郎は、  「少うし人間が変ったぞ」 といいながら、振り向いて、 「御一同によろしく」 と、いうと、出て行ってしまった。      ニノー  「西郷どん、いるか」  と、生垣の外で、声がした。  「いる」  西郷は、机の前から、足を延ばした。生垣の外に吉井仁左衛門、樺山三円、高橋新ハの三人が立っていた。そして、  「えらいことしやが」  と、叫びながら、生垣を手で押しつけ、袴を引っかけて小枝を折りながら庭へ人って来た。  「斉彬公の御帰国の一行しやがーもう、福岡へ人っている」  「うむ」  「間いておるまい。井上出雲からの、便りは」  「うむ」  三人は縁側へ、腰をかけた。   「その斉彬公の御一行に、西郷どん、なんと奇怪であろうがな、将酉も、平も、志津馬も人っておるというのしや。それだけでも、わしらかっとしだのに、どうしや、井上出雲に得赦免が出ん1−どう思う?」  垣根の外に、‘また人影が見えて、   「来とうるか」  と、叫んで、堀仲左衛門と、岩下佐次右衛門とが人って来た。   「斉彬公が、将曹を罰せん、という御心−−いつか仰せられた、子は父のために痩すと、いう御孝心は、わしらとてよくわかる。しかし、それもほどはどのものだ。みすみす陰謀を企てたー1それも、ただの陰謀ではない、御世銀を脱穀するという悪逆無道の陰謀を企てた輩を、そのまま、重用していなさるとは、卑怯に似ている」   「大義親を滅すということがあるが、この際、当家のために、天下のために、人心を一新すべきだ。君側の奸を除いて、有為の士を登用すべきだ。わしら軽輩が徒らに長上を押し退けるという風説があるが、長幼軽食を論しる時代ではない。力のある者が、出て行くべき時勢になってきているのだ。そして、その気運は斉彬公自ら、お作りになったのだ。それに、今日、‘その奸悪をなお得座右に重宝視するなど、斉彬公得帰国の第一声として、わしはあいつらを除くことを、まず進言したいのだ」   「それで、いろいろ話が出ているが、わしぼ、やはり、断だ」と、高橋が、新る真似をした。   「斉彬公に申し上げても、わしは、無駄だと思う。斉興公の処分なされたことを、すぐに取り   消して、井上出雲を召し返しなどしては、斉興公の罪を、天下に示すようなものだ、という御意見はよくわかる。斉彬公は、わしらに対してお目をかけておられるように、斉興公には、もっと、   御孝心の方だ。だから、この際いっさいを、公に知らさずに、否々、死をもって、君側の奸を払  おうと思うが、どうだろう」     「上方の有志も、同し志だ。将曹らを討つのを核として、一挙に脱藩して、京へ集まろうとい  うのだ。有村が、そのために戻って来ておる」    皆が、語るべきことを語って、西郷の顔を見た。     「よかろう」    と、西郷が、頷いた。そして、     「斬るほかにあるまい」    と、いった。     「それで、同志の面々だが、。血判した奴だけでこれだけである。このほかに、西郷どんが、う  んと言ったといや、なんぼ、ふえるかわからん」    吉井が、懐中から、書状を取り出した。     「拝見しよう」    といって、西郷が手を延ばした。        ニノニ   「集まったのう−大勢、集まったのう」  西郷は、微笑んで、連名を披げていった。奉書には一人一人が署名、血判をしていた。人々は、もう一度、自分たちの署名を見直そうと、頭を、その上へ集めた。そして、   「庵の宇は小さくていかん。高橋のは、下手だが元気がいい」  とか、   「この血は、誰がこぼしたのだ」  とか、呟き合った。西郷が、人々の署名を読んで行くと、   堀仲左衛門(伊地知貞馨)   岩下佐次右衛門(子爵岩下方平)   有村俊斎(子爵海江田信義)   吉井仁左衛門(伯爵吉井友実)   伊地知竜右衛門(伯爵伊地知正治)   税所喜三左衛門(子斜視所篤)   本田弥右衛門(男爵本田類推)   高橋新八(後の村田所八)   奈良原喜八郎(男爵奈良県繁)   野津七左衛門(陸軍中将野津鎮推)   仁礼源之丞(子爵仁社景範)  永山万斎(永山弥一郎)  野津七次(侯爵野津道貫)  西郷竜庵(侯爵西郷従道)  有村治左衛門  西郷吉次郎  大山角右衛門  山之内一郎  有付知水(後の国彦)  大久保市蔵(後の利通)  峰山三円  奈良原喜三衛門  中原喜十郎  大山裕之肋(後の綱良) 「よく揃うだ、その代りーI」 と、言って、西郷は人々の顔を見廻して、 「もし、この企てが、近藤崩れのようになったなら、薩摩は、天下が取れんようになる」 「市蔵も、それを心配しておった」 「将曹や、平ごとき奴等二、三人討ち取ったがために、この有為の青年を、近藤崩れの時のよ bに死なしては、なんにもならん。だから、討つのは、遺憾ないように、十分の数と十分の計とで行うて、上役人へ名乗って出るのは、人数を限らんといかん。皆が皆死んでは、第一、斉彬公に対して不忠になる。わしが、名乗って出て、皆の罪を引き受けよう」   「吉之肋一人の仕業と、誰がおもうっー″ こりや籤引にでもして、五人はこしらえんといかん」  「そうしやない」  と西郷は首を振って、   「対手は、三人か四人ではないか。計で折るに一人で折れんことがあるか。十人、二十人かかってもよいから、それを一人で折ったように見せさえすればよいし、わしが、飽くまで一人だといえば、それで通ってしまうーー」   「いかん、いかん」  と、高橋が叫んだ。   「西郷どんの腕で、三人も、折れるかい」   「吉之助を下手人にするのは、いかん。こいつは、斉彬公に入用しや。籤引にしよう。籤引にIIいずれ今夜集まろうから、その場で籤引にして、切腹をする奴をー三人つくろう」   「三人もいらん。将曹、平、二階堂と、ぽんぽんと舶来銃でやっつけて、知らん顔をしておるがええ。それでやかましゅうなったら、俺がやったと申して、切腹してしまえばよい。籤引もくそもあるもんか」   「しかし、それでは、論が了えん。今夜、斟剔冬へ集まって、その上のこととしよう」  と、西郷が言った。      三ノー  一人の浪人は、麻の掴絆を披げて、その背へ、   露と消え身は死するとも亡き魂は   千代朝廷辺を守り奉らむ  水戸浪士 三岡原次郎吉次  と、書いて、‘   「これでよい」  と、言って、筆を置いた。   「清川ハ郎でも、殺されるのだからのう。吾らとて、いつ、捕史の手でやられるかもしれんー1こうしておけば、わしの志だけはわかるであろう」  一人の浪人は、腕組をして、しっと、乾いて行く墨の跡を眺めていたが、  「よし、わしも、一首書き残しておこう」と言って、押入を開けて、小さい行李から、袖のない半掴絆を出して来た。五、六人のそうした浪人のいる二階では、富士㈲が、爪弾きで、   そぞろ、身に沁む、秋の風   招く尾花につまされて   千草を分けて入る山に   夫恋う鹿の叫び鳴く  と、唄っていた。   「あの女も、この頃は、血の道だのう。よく一人でめそめそと泣いておる」  と、一人がいいながら、筆に、墨汁を含ませた。   「富士春一人のみでない。天下ことごとく、血の道しや。幕府の頓馬が、我々どもの勢に恐れて、浪人組を作ろうなどと致しておるが、これも、血の道逆上の揚句しやし、また、これへ、食えぬからとて、応募しよる浪仄かある、こいつも血迷っておるしーええと、   帝おもう至誠の弓を一筋に   引きて返らぬ武士の道  為王事水戸脱藩士 柴山壮藤原正志  わしの字は拙いの。これを着て斬られているのは、あまりええ図ではないぞーまあええ、引きて返らぬ武士の道しや」   「益満の戻りが遅いのう」   「斉彬公が、帰国なさったゆえ、それと、途中で何か打ち合せしておるのかもしれぬ。そういううちに、戻るであろう」   「おい、講武所の所長に、男谷下総守が選ばれたのを存しておるか?」   「本当か?」   「昨日—−‐一本当しや、新微組の浪人など、束になってかかっても、怖ろしくはないが、下総が立つと、大敵だぞ」   「清川を殺しだのは男谷門下の奴ではないか」   「いいや、下総は、そんな人物ではない」   「しかし、幕臣ではないか」   「新徴組には、甲斐の祐天と申す博突打が、伍長で人っているというのう」   「何を致すか、血の道のすることは、わかるものではない」   夕立に   法華も、門徒も、雨宿り   上見て、下見て、濡れまいと   同し軒端の押しっくら   「お春皮肉なことを、唄っておるぞ」   一人が、   「師匠っ、うまいぞっ」と、称めた。   「吾ら、大悟一番、生死の念を放擲して、夕立の中へ駈け込むのだろう。濡れまいとするから押し合いになるが、十死一生と観ずれば、夕立なにものぞ」  そう叫んだとたん、格子が開いた。二、三人が、一時に、   「誰だっ」  と、怒鳴って、振り向いた。旅姿の士が、   「わしだ」  と、答えた。 X) 三ノニ   「日下部だ」   「日下部」   「どうした?」   「益満は?」  人々が、一時に喋べり出した。二階の三味線が止んだ。日下部伊三次は、脚絆をとって、草牡を脱ぎながら、   「万事、手筈がととのったから、明日にでも、薩摩屋敷へ、一同で入りたい」  日下部の背の上で、横で、奥の間で、  「占めた」とか「わIっ」とか、という叫びと一緒に、畳を踏む音、柱を僕る音。   踏破る千山万岳の煙  狭い家の中が、叫喚とどよめきとに充ちた。一人が、   「騒々しいっ」  と、怒鳴った。日下部は、刀を提げて、奥へ通った。そして、  「益満は、近日に帰る。各々は、薩藩士としてI−」  と言いながら御門通用証を出して、  「これを銘々にもって、名越殿小屋へ通ると門番へ申して、通行してもらえばよい」  小さい、焼印を捺した木の札を一束にしたのを出した。   「騒々しいねえ」  二階から、富士春が降りて来て、上り口の敷居のところへ立って、日下部の顔をしっと眺めていた。日下部はその顔を、ちょっと見て、   「これが益濡のか?」  と、一人に聞いた。   「さよう」  日下部が、   「益満は、すぐ戻るが、長々と乱暴者をあずかってもろうて、かたしけない。都合にて、明日中に引き払うことになったが、今後とも、よろしく頼む」  と、口早に言って、   「斉彬公の帰国の供をしている例の、お由羅一派を血祭として、そのまま、揃って脱藩し、京江戸と二手に分れて、上って参る手筈になったがー−」  富士春は、懐手をして、突っ立ったままで、   「お前さん、ちょいと、お前さん」   「わしが?」と、日下部が見上げると、   「お前さん、誰だえ?」  日下部は、ちょっと、見上げたまま、それに答えないで、   「国許の万事は、岩下と西郷とー」   「ちょいとー」   「なんしや」   「黙って入って来て、挨拶もしないでー勝手な真似をするがいいや。庄吉も、益満も、お前さんたちも、なんだえ。それで、人聞かえ。朝起きりや、お早う、晩になりや、お休みくらいの挨拶を知ってるなら、拙者、どこそこの何某くらいのこたあ、言っちやあどうだい。大概、人を馬鹿にするない。いい気になっていりや、庄公も、益体も、勝手なーー妾や、い、いったい、どうなるんだい。お前方あ、薩摩のお屋敷へ入っていいだろうが、妾や、いったい、どうなるんだい」  富士春は、口惜しさと、怒りとに、途切れ途切れの口を利きながら、泣くまいとしても、涙が こみあげてきた。   (どこまで誠をつくしたなら、男ってものは自分のしているのと同しように、妾にしてくれるのだろう?)と、思うと世の中も、男も、自分も、めちやめちやに引き裂きたいように感してき  「益満は、しき戻る」   「も、戻っていらないよ」  富士春は、こう言うと、襖の紙を引き破った。そして、二階へ足音荒く上ると、瀬戸物の毀れる音がした。   「うるさくなりやあ、斬ってしまえ、それから」  と、一人が叫んで、肱を張った。      三ノ三  富士春は、湯呑を担げつけて、こわしたが、それだけで、身体の中、胸の中、頭の中いっぱいに、湧き返っているものが、すっかり、湯呑と一緒に、こわれ飛んだとは、慈しなかった。まだ、固いものがつかえていたり、口借しさが固まっていたりI、   (どうしてくれよう、畜生っ)と思うと、袖を噛んで、引き裂いてみた。下では、浪人が、何かに喜んでいるらしく、笑い声が、爆笑が、どっと起こった。   「何がおかしいんだいっ」  富士春は、下りロヘ、首を延ばして叫んだ。   三十を越して、どうなって行くのだろう)と、思うと、追っかけられるような焦噪と、不意に脚下に穴でもあきそうな不安とを慈した。化粧をしていると、   (まだ、これでも−)と思う時もあったが、鏡へ、顔を近づけると、もう、眼の四辺に、小皺が出て、肌にしみが現れていた。   (妾、何を悪いことをしたい)と、富士春は、世間へ、啖呵を切ってみた。世間こそ、男こそ、いろいろと、自分に悪いことをしたが、富士春は、五、六人の男を代えたほかにーー、   (それが、悪いというのかい。それがーー男を代えたことが−)  自分から捨てた男もあったが、自分が捨てられた男もあったしー、   (庄吉に、あんなに尽くしてやったのに、あいつI)と、思うと、差引勘定をしても、少しも、自分が悪いとは思えなかった。   (それに、淫乱だの、辻便所だのって−−)  富上客は、世間の男女が、そういうだけでなく、自分の男である益満に養われているーーー毎日、益満の女である自分の手で、酒を、米を与えられている浪人たちまでが、少しの尊敬をもーI益満に対する尊敬の、十分の一をもしないのが、世間の口以上に、口借しかった。   (男に槌っているからだ。立派に、一人でー−たとえ、流しになったって、一人で、食べて行けるのに、ヽなまし、男に手頼ろうとするから、こんな目に逢うのだ、世の中は広いんだから、旅にでも出てしまってー−)  そう、時々は、考えもするが、益満と、庄吉との、愛慾の夜を想い出すとーー頭の中で、   (誰が、あんな薄情者にーーー)と、思っても、肌が、.血が、愛着の味を忘れないでいた。   (頼みになるような、ならないような1−今度戻って来てー¶お客、俺は薩摩屋敷へ人るぞ。お前は、どうなりとするがいいーいわないとも降らないポ乳だーーそれをまた、この浪人野郎どもが、黙って間いていて、挨拶一つしないのだろう、畜生−‐)  富士客は、柱によりかかって、脚を投げ出したまま、   「犬、猫、畜生っ」  と、叫んだ。  下の浪人たちは、濁った声で、甲高い声で、議論をしたり、争ったりしていた。   (天下がどうだとか、黒船を焼くとか、何をいってやがるんだい)  富士春は、そんなことを聞いても、見ても、わからなかったし、わかろうともしなかった。ただ益満の手頼りなさと、耐えきれぬ夜の淋しさとに、袖を噛んだり、酒をのんだp、唄ったり 1  (本当にー−こっちの惚れる男は浮気者だし、惚れてくる奴は、いけすかないしー−)と、思いながらf−−少し気が静まると、  (早く、益公、戻れば、いいのにー戻ってさえくれりや−I)と、思いながら、柱へ、身体をずりつけて、投げ出した足を、しっかり締め合せて、自分の手で、自分の二の腕を、因く抱いてみた。 三つの死      一ノー  「申し上げまナ」 書院の中は、浪人と、雑談と、煙とでいっぱいに騒々しかった。  「申し上げます、申し上げます」  四、五人の浪人が、その大きく呼ぶ声に、気がついて振り向いた。   「どうした?」  と、名越左派太が、浪人たちの首と肩との間を透して、用人に、顔を見せた。   「哲丸様が、御重体で、早速−」  言い終らぬうちに、左派太が、立ち上って、前にいる、横にいる浪人たちの、肩を押し分けながら、   「支度せい、支度をーーー」  と、叫んで、廊下へ走り出た。そして、急に、振り返って、部屋の中の人々へ、   二大事ゆえ、奥へ参る。各々方、よろしく」   一人の浪人が、   「一大事とは?」  と、叫んで、片膝を立てた。一人が、   「哲丸様が、御病気なのしや」  と、言った。左派太は、ざわめく人々を残しておいて、   「早く、用意、早くっ」と怒鳴った。   「はい、ただ今」  と、女中の、あわてて、答える声がした。書斎へ人った名越は、・   (ここで、哲丸を、死なしてはーー)と、逆上しそうに、興奮していた。あまりに、次々に、・ 不可思議の死を遂げたがゆえに、   (お悪い)と、一言開いただけでも、それは、死と同じ意味にとれたし、また、必ず、死に赴く幼い子供たちであった。それが、   (御重体)と、いうのであったから、左派太の頭の中には、死に悩み、死と闘う哲先の苦しい歪んだ顔が現れるとともに、   (斉彬公の御世嗣が、絶える)と、いう絶望的な考えが、狂乱的な、苛立たしさと一緒になって、回転していた。   (なんとなく、お疲れになったようなお顔、死ぬかもしれぬとおっしゃった言葉—‐もし、それが本当になった目に、哲先様が、また呪いの手で、お亡くなりになったとしたなら、斉彬公の御血統はどうなるか?)  名越は、すくすくと、大きくなって来た自分の子が、どうしてか、憎いように、感した。   示患者、貴様、哲先様のお身代りになれっ)と、叫びたいようなーI自分の命を、子の命を犠牲にしても、哲先の命だけは、引きとめたいと感した。そして、今までに、決して、病に罹ったが最後、平癒したことのない例を思うと、拳を頼わしてみても、歯噛みしてみてもーー、.   (絶望だ)と、。いう感じが、頭中に、身体中に感しられて、自分の身体を担げつけ、引き裂き踏み図って、哲先を殺す、何かの、魔の力、魔の神の前へ、叩きつけたいように、感じた。  半狂乱の眼、喘ぐ呼吸、顕える拳I−手早く袴をつけ、肩衣をつけると、   「お刀」  と、迫いかける声に返事もしないで走り出した。   (医者は、何をしているのか)  左派太は、医者を叩き斬ってやるぞ、と思った。   (乳母の税所敦子はー抱傅の吉井は)  左派太は、こういう確乎とした人物がついていて、何をしているのだ、と思うとともに、その人々の力の及ばぬ、不思議な死を遂げさす力をー−どうしていいのか?1ーー左派太は、人々の振り向いて眺めるのも感じないで、脇差を押えると、奥へ走って行った。      一ノニ 沈んだ顔をして出迎えた士が、.  「御苦労に存じます」 と、挨拶をしても、左派太は、頭さえ下げなかった。廊下で坊主が、 ら御病間へ入って、乳人の税所敦子が、睨みつけたまま、哲丸の臥ている側へ、 お叩頭をしても、それか 血走る眼で、目礼をしても、左源太は、鋭く光る眼で、坐ると、しっと、眠入っている顔を眺めた。 枕頭には、二人の医者と、坊主と、敦子と、侍女が二人と坐っていた。  「良伯」 こう医者を呼んだ左源太は、  「も、もしものことがあれば、捨ておかんぞ」  と、いって、脇差へ手をかけた。  良伯は、静かに、   「覚悟致しております」  と、答えた。その声にも、眉にも、眼にも、決死の色が見えていた。   「税所段、やはり、おびえなさるか」   「はい、夜に入りますと、物の怪にでも、おそわれるように、急に、お泣き出しになり、お然が高くーー」   「床下、天井そのほか、お調べになりましたか」   「以前の例もござりますれば、若侍ども、隈なく捜しましたが、怪しいところは、ござりませぬ」   「吉井殿は」   「お次におられましょうと、存しますが」  哲丸は、いつもの、然した果物のような赤味と艶とを失って、濁った白い頬をして眠入っていた。   「良伯、これで、御重体か」   「これまで、お亡くなりなされました方々と、そっくり同し御容体にて、医薬の効目がござりませぬ。先刻、将軍家より、吉田三誼先生が、お見えになりましたが、病状不明にて、拙と同し手当よりほかに思案がつかぬとの御見立でござりました」  左河水は、こうして、すやすやと眠人っている哲丸が,−安らかな呼吸をして、静かな脈拝をして眠人っている哲丸が、死ぬとは思えなかったが、これまで亡くなった人々のことを思い出すと、夜に人ってからのーこの幼い子供が死と闘う悲惨な努力、大人の眼に見えぬ怪しいカとただ一人で闘って、怯え、顕えて、救いを求める悲痛さーーそして、それに、なんの助力もできぬお付きの人々−—−そういうことを思い出すと、誰に憤っていいのか、どうすればいいのか?−ーー左派太は、哲丸の苦悶する夜の顔を考えてみると、自分の胸を、腸を引っ掴んで、掻き廻されているように感してきた。次の間から、吉井七郎左衛門の声がした。左派太は立ち上ると襖を開けた。   「おおっ」   「吉井っ−吉井っ」  左派太は、涙声で、こう叫ぶと、吉井の手を握った。   「助ける道はないかっ、吉井」  吉井は、老いた顔に、涙をいっぱいにしながら、、   「わしや、な、床下から、天井から、這い廻って来た。良伯も、敦子も、よくしとるが、名越」 吉井は、立ったまま、名越の手を握りしめて、   「この腹ひとつ切って、代えられるものなら、わしの孫子が身代りになるものならーーー」   「そうしや、吉井、わしらの一族と代れるものならI」  二人は、立ったままで、泣いていた。その部屋の近習どもは俯向いたまま泣いていた。    ニノー 朔と、夕と、秋風の立っている山の中は、もう、単衣の重ね着でさえ、冷たかったし、薬湯を せん 煎している炉の火がうれしかった。             どびん                                       た     t! W  深雪は、古びた土瓶の中へ、薬草を入れて、松の小枝と松の葉の枯れたのを炉で焚いて、煮出 していた。   (いつまでも、こうしていたい)  深雪はもう忘れてしまったほど長い前—−‐それは、決してそんなに長い時間ではなかったが、・あまりにも、幼い女の身にとって、次々に起こった烈しい事件に、そうした、姉と、母とでII‐‘今、こうして、上瓶を視つめて、炉の下の、火加減に、心を配っているように、いつかの日、楽しく、食事ごしらえに手伝った、夢のような、昔のことを思い出していた。   (もう一度、こんな静かなところで、母と、姉と、三人で、こうして、炊事のことでも、できたら−)  深雪は、悲しくなってきたし、淋しかったしーだが、自分のために、死にかかった庄吉のことを思うと、庄古のために、こうして、薬の世話をするのも、唯ひとつの、庄吉への思返しのように思えた。   (庄吉でなく−)  深雪は、ふっと、庄吉でない、ほかの−−’自分の夫と定まる人のために、こうしているなら、, どんなに楽しいか? (その夫が、月光を討ってくれて、そして、妾が、こうして介抱して、だんだんその人はよくなって行ってーー)  深雪は、そうした空想をしばらくしていたが、。   (気の毒にI−庄古はーー)と、思うと、庄吉のために、こうして、長い間、世話をしていてもいいような気もしてきた。   (庄吉が、あんな前身でなかったならーーーどんなに身分が低うてもいいから、武士だったなら) 深雪は、決して庄古を嫌ってばいなかったが、前身のことを思うと、すぐ、踏み止まって、   (心を許してはならぬ)と、思った。   「代りましょうかな」  と、南王の声がした。   「いいえ」  だが、襖が開いて、京王が、   「手前にも、できますよ、どうも、めっきり冷とうなりあがって、京は冷えるってが、本当にぞくぞくと冷えやがる。冷え山なんて、ここから出たのだろう」  と、喋べりつつ炉のところへ、坐った。   「火が、弱いじゃござんせんか」   「いいえ、このお薬は、松の葉か、馬糞がよろしいので、ございますって、炭火などで、かっと煎しては効がないと義親株、いろいろと、焚物のことを教えて下さいましたがー,お師匠さん、   お肌は、土鍋で、松の木で炊いたのが、一番おいしいそうでございますって。そして、その鍋も、京の東山の、陶情の分厚なのがいいって、だから、ここのお粥は1−」     「六十になるまで、お粥のことばかり、試して来たんだからの、あの義鏡和尚。和尚がお粥で  くりや、俺、梅干でいかあ。梅干あ、五月一目、巳の一天に下から数えて十番目の枝の、端から  数えて五番目の実をもいだのが、一番うめえ」     「ああお帰りーー」    と、深雪が聞こえて来た足音へ呟いた。     「さあ来い、お粥坊主」    勝手ロヘ、義鏡が現れて、南玉を見ると、     「ああ、南玉、小太郎のところへ、すぐ行ってもらいたい」     「へっ、お粥の講釈にな」     「なに?」    破鏡は、炉の中の火加減を見て、     「おお、上出来、上出来、半分に煮つまったかな」    と、言って、土瓶の中をのぞきこんだ。    ニノニ 「なるべく、急いでーI−駕を言うからの」  義観は、そう言って、硯と紙とを取り出して、書き出した。  深雪は煎じた薬を、布でこして、湯呑へ入れた。そして、次の間に臥ている庄古の枕頭へ来ると、。   「済みません」  と、言って、庄吉が見上げた。そして、起き直ろうとして、力の入らぬ、まだ痛む身体を動かナのへ、深雪は、   「無理をしないように」  と言って、支えたり抱えたりー庄吉は、触れまいとする肌に、暖かさに、匂いに、柔かさにf]触れながらー快く感して、   (病気なりやこそだ)と思ったり(意地汚ねえことを考えるな)と、自分へ叱ったりした。   「もう大丈夫−」   「人間、死に損うと、なかなかくたばらねえもんでげすよ。これ、二度目だ。三度目は、どうやって、くたばるかーーこ  と、呟いて、湯呑に、ロをつけると、義観が、   「清水寺に、月照という坊主がいる。それへ、この手紙を届けて、返事はいらん。こいつ、坊主のくせに、尊王の、倒幕のと、いいおって、阿呆じや。それから、小太郎に逢うてのうー河内と、大和の国境に、生駒山という山がある。ええか、生駒山、生ける駒、馬と書く」   「生駒ね、はい」   「その山相、山の姿、山の形だの、それが、この頂上の四明に、よく似ている。わしが、牧に   四明での修法を断わった上は、近畿の山では、生駒山のほかに、同し山相の山がない。鞍馬、愛宕でも修法をするのであろうが、第一の修法は、同し山相の山で行うのを、秘呪の法としておる  から、必ずこの生駒の頂へ参ろう。四方広間にして、山頂は草原−−」     「四方広間にして、山頂は?」     「草原」     「よくわかりました」     「必ず、牧は、この山へ参ろうから、余のところを捜さずとよいと、小太郎へ、伝えてもらい  たい。わしゃ、‘忘れていてのう、言うのをーI今、思い出したから、言伝けるのしゃがーー手紙  を先に、小太郎を後にの」     「早速、それではと−・—‐」    と、言って、南玉が立ち上った。庄吉が、     「師匠」    と、呼んだ。     「おいの」    襖が開いた。庄吉は、義観へ、お叩頭をしてから南玉に、     「若旦那に、くれぐれも御用心なすって、とのーーー首尾よく牧、お討ち取りなさいますのを、   祈っておりますってー」     「よしよしーーーお嬢さん」  南玉は、そう言いながら、   (また、この娘さんを心配させることがひとつ増えたがーー)  と思うと、心がしめってきた。だが、   (これさえ済めば、からっと、晴れ上るんだ。深雪さんも、庄吉も、わしも−−)と、思うと何かしら、天の配剤というようなものがあって、これ以上に、仙波の一族へは、苦しみが、悲しみが、かからないような気がした。   (この義観って坊主が、天狗みたいな奴で、こいつが、平気な面をしていりや、俺たち安心していいんだ)と、いうような気がした。深雪が、   「よろしく、とー何も、申ナこと、ございません」  と、言って、俯向いた。義観が、   「心配すな、牧は落ち目で、小太郎は上り目しや。寒いからお粥にしようかのう」   「深雪さん、お、お粥を食って待って、いなせえ、ひとっ走りだ」  と、言って、南玉は、笑いながら脇差を差した。深雪も、淋しく笑った。義観が、   「うまいお粥を食わしてやろ」   「ついでに、束山の土鍋を、買って参りましょうか。和尚さん、あはははは」    三ノー 斉彬の居間へ近づくに従って、吉之助の心はー−それから、その大きい身体さえ、額えてきた。   それは、命を賭けた恋人に逢う気持のようでもあったし、自分を育ててくれる神、自分の鎚ろうとする大きい力ヽ世の中の称讃を一人で受けている英雄、智恵と、慈悲との権化のような主君1  −そして、自分のような、軽輩に、目をかけてくれる人−そういう感しが、深い強い感激とな  って、肌が締ってくるように感した。    前へ行く岩下佐次右衛門も、後方につづく吉井仁左衛門も、今まで、同志とともに、将曹を討  つために、興奮していたような態度は、どこにもなくなって、俯向いて、足音さえ立てないよう  にして、歩いていた。     (御帰国早々に、なにごとであろうか?)    吉之助は、自分たちの謀が洩れたのだとは思えなかったしーそして、御帰国のその目に、   おそらくは、国許の重臣たちさえ、まだお目通りをしていないと思われるうちに、召し出された  ということに対して、どう考えていいか?1     (しかし、なにか、大事なことであるには、ちがいない)   廊下がつさて、一段高くなった。先へ行く侍が、その高くなったところからまたつづいていた廊  下へ坐って、部屋の中へ、     「岩下校次右衛門殿、西郷吉之助殿、吉井仁左衛門殿、大久保市蔵殿罷り出ましてござります」   と、言った。四人は、廊下へ坐って頭を下げた。部屋の中から、     「お進み下さるよう」    と、言った。四人は、廊下から、膝で歩いて、敷居の内へ人った。その部屋の左手に、斉彬が いるらしく、二人の侍が次の間との間の影心手をかけて、左右へ開いた。四人は、平伏した。   「近う、ずっと近う」  四人は、それが、斉彬の声であるとわかると、姿は見えないが、身体中に、寒さを嶮しながら平伏してしまった。   「内談がある。ずっと、近う」   「はっ」  岩下が、口の中で、答えた。そして、身体を左手へ向けて、斉彬のいる部屋の方へ膝を動かした。侍が、   「ずっと、お進み下さりますよう」  と言った。四人は平伏しながら、膝で、少しずつ進んで、次の間の敷居を人るとまた、平伏した。そして、岩下が斉彬のいると思える正面へ、   「麗しき御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ奉ります。早速、拝謁仰せつけられ、冥加至極おそれ入り奉ります。某は、岩下佐次右衛門にござりまする」   「某は、西郷吉之助‐−」   「心得ておる。早速参ってくれて、かたじけない。ちと密談があるので、ずっと、これへ進んでくれ。伝次、襖を閉めて、−」  侍が、「はっ」と、言って、襖を閉めた。二、三尺あまり、進んだ四人は、ようよう頭を上げて、膝へ手を置いた。斉彬の姿は見えたが、顔を見ることができなかった。   「吉之助」   「はっ」  西郷は、ちらっと、斉彬の顔を見ると、すぐまた頭を下げた。   「また、一段と、肥ったのう。皆、なかなか、元気で頼もしい」  斉彬のそういう声に、いつものようなーーーいつかの時のような、元気がないょうであった。岩下が、そっと、斉彬の顔を見ると、どっかに疲労の影と力のなさとが、沁みているようであった。   (お心を、お遣いになるからー)と、田心った時、   「お前たち、わしのために、いろいろと企てていてくれる。かたしけない−1嬉しいが、少し考えが足りぬ。それで、相談をしたいがの」  口調は、柔かであったが、四人は、ぐっと、腹を突かれたように感した。      三ノニ  「吉之助からの建白書にもあるし、余の者からも聞いた。福岡で、弟からも同し意見が出た。将曹、平らのことについてだのう」  斉彬のそういっている呼吸の中に、微かに、喘ぎが混っていた。四人は掌を太股へ押しつけ呼吸を凝らし、身体を固くし、聞いていた。   「あれらを、わしのために、処分せよと−‐わしのために思うてくれての志、まことにかたし けない、しかしあれらの悪事の証拠が、何処にあるか?−−」  吉之助は、頭の中を、熱くして、   (あの呪殺だけでもー−)と、思った時−そして、三人も、それを感した時、。   「お前らは、わしの子供の死んだことを申すであろうが、呪殺したという証拠が、どこにあるか? かりに、牧が、呪法を行うたと自白したとしても、そのために、子供が死んだのだと、どうしていえるか? 仙波の掘り出した泥人形が、かりに、証拠物としても、子供は、六人も死んでいて、証拠は、一つしかない。よいか、たとえ、無為無能としても、父上のお遊びになった重臣を、かかる無証拠の下に、処分ができるか? できぬか? わしが当主となって、すぐに彼らを処分したとしても、もし、彼等が父上に、なぜに処分されるかと、訴え出た時、わしから、父上に、どういう証拠をもって、申し開きをする? ましてや、父上はすでに、彼等に悪事はないと、見定められて、近藤以下を処分されているのに、わしが、当主になって、彼らを処分しては、取りも直さず、父上に、叛謀するようなものしや」  斉彬は、そう言っているうちに、幾度か、唾を呑んだ。そして、ここまで言うと、鈴を鳴らして、.   「湯をもて」  と、いった。吉之助が、順を上げると、斉彬は、眼を閉して、額を押えていた。吉之助は、久し振りに見る斉彬の順に、暗い、淋しい、力ない影のひそんでいるのを感じた。眉の下に、眼の周囲に、頬にI−−それらが溶み出していた。吉之助は、   (お身体が悪いー−)と感しると同しに、何かしら、斉彬に、危機が迫っているように思った。 o いつ拝謁しても、書物を御覧になっているか、書き物か、器物の調査か、寸暇も手を、頭を、眼を休めない斉彬であったし−Iこうしたヽ眼を閉した斉彬ヽ眉にヽ頼にヽ疲れを見せた斉彬はヽ  考えられぬものであった。だが、すぐ、    「しかし、志はようわかるし、わしにも考えがあるからー」    と、言って、限を開いて、額の手を放すと、斉彬は、    「豊後、平、将曹のほかに、二、三新任したいとは思うておる。吉之肋の建白書の内、治政の  始国政を誤りたる専横の徒を脱脂すべきこととあるのと、お由躍処分のこと、それから、近藤  崩れにて流論説奔したる者を、召還することと、この三か条は、今申したように、すべて、父を  恥かしめることになる。父の処分を、すぐ転優し、父の愛妾を処分しては、今中すごとく無証拠  でさようなことをしては、天下へ、父の罪と、わしの愚とを知らすことに相成る、くれぐれも、   志はようわかるが、わしのために、忍んでもらいたい。それから、これは、噂であるが、わしが  頼もしいと思うている若者が、徒党を組んで、なにかするらしいということを聞いた。岩下、ど  うしや、真実かの?」    斉彬は、微笑して、岩下の顔を見た。そして湯呑へ手をかけた。岩下が、    「お言葉に背いておそれ入りまするが、吾ら、命を棄てて、奸人を、斬りたいと存じまする」   と、少し額える声で言った。        三ノ三     「命を棄てての?」     「はっ」     「吉之助もか」     「はっ」     「吉井もか」     「はっ」     「三、徊ヤ入賜まっている乃うー     「はい」     「近藤崩れの時には、将酉も、出産も、討たずに、猶且つ、有為の人々を、二十人近くも失う  た。お前たち、あの人々が死に、逃れ、流されたのを、淋しいとは、感しんか。もし、ここに、   天下に事が起こったなら、あの人々のおらんことが、どれだけの損であるか? 考えることがで  きるか?」 E  四人は、まただんだん頭を下げた。 E  「討とうとしただけで、父上は、あんなに御立腹になった。もしお前たちが、その中の唯一人心 でも討ったとしたなら、わしは、父に対して、どうしていいか? もし、父上が、あれも処分せ富 いヽこれも処分せいと仰せられた時、わしは、どうなる、どうすればよい? また世間から見て 父の処分したのが、あれだけ厳重であるのに、斉彬は、あれみよ、己のために軽輩どもが、上も  恐れず重臣を殺したのに、あんな手ぬるい処分しかできぬかと言われた時、わしはどうなる? 2 吉之助、市蔵、IIお前たちの命と、豊後や将曹の命と、かけがえになるか? お前はなんと思うておる? 岩下・十人の将曹よりもヽ 一人のお前だちとヽ頼んでいるわしの心がわからんか?  軽々しく、彼等と刺違えて死ぬような安い命か? そんな安い命と、お前たちは思うているの  か? お前たち、徒党の三、四十人が、島津を背負って立つのだとは思わないのか? わしが、   駅、日頃よりお前たちを頼みにしていることが、まだ得心行っていないのか? 天下のために、.   わしのために働かなくてはならぬぞ、というわしの言葉を、なんと間いていた。もし、軽挙妄動  をして、父上から、血判した奴らことごとく切腹させいと命ぜられたなら、今まで、わしがお前  たちを育ててきたことが、根こそぎ、潰れてしまうということが、わからぬか? お前たちが、、   死んだなら、島津の家に誰がいる?」     「しかしーー」    呼吸のつまるような声で、吉之助か、言った。     「なんしや」     「はっ」     「申してみい」     「はっ、手前たち、五十人、百人集まりますよりも、お上御一人の方が、日本のために、天下  のためにーどれだけお役に立ちますか? そのお上に、仇を致します奸人どもを討つに、吾ら  の十人二十人物の数ではござりませぬ−」     「大間違い」  と、斉彬が、言った。   「はい」   「それは、違う、大きに違う」  四人が、俯向いて、膝へ手を置いた時、襖の外で、   「坪井芳州、参上仕りましてございます」   「許す」  吉之助け、斉彬のその声に、顔を上げて、   「お上は、お身体が、お悪うございますか」   「少うし−−−」  そう言って、吉之助へ微笑した斉彬の顔には熱の高そうな眼の濁りとうるみとが、あった。芳州が人ってくると、   「風邪でもひいたのか、少し、熱がある」  と、言って、手を出した。   「拝見仕ります」  芳州は、左手をついて、右手で、じっと、脈を見た。    三ノ四 「お欄たちは、天下のことを、一人の力でなせると思うている。市蔵」   「はっ」   「わし一人の力で、天下の大事がなせるような口吻しや。これは、大きにちがうぞ。岩下、お前一人のカで、先刻申す、奸党を斬るということが、できないように−また、一人の阿部伊勢、一人の井伊掃部が、幕府の顛勢を支えきれぬように、いかに、一人のみが、傑れておろうとも周囲に人がなく、天下に勢いがなければ、なにごとをも、為し得ぬものしや」  芳州が、   「お横にーー」  と、言った。市蔵が、   「お枕」   「いいや、いらぬ」  斉彬は、帯をゆるめると、そのまま、手枕をして横になった。芳州は、胸を開け、腹を按し、叩き、撫でして、診察して行った。   「難かしそうだの、芳州」  芳州は、指先で腹を強く押えながら、   「はい」  と、強く、答えた。四人が、芳州の横顔を見た。   「風邪か」   「いいえ、風邪のお焦とは、心得られませぬ。心焦が烈しゅうござりまして−しかし、御疲 労のみでもなかりそうに心得まする」   「それでは、牧の呪いかの」  と、斉彬は、微笑した。芳州は、手を止めて、   「朝稲三益殿、清水義正殿と、立会い致しとう存しまする」  と、言って、衣服を直しかけた。斉彬は起き上って、自分で、衣服を合せて、   「呼ぶがよい。少し、この者らと、話があるゆえ、二人が参ったら、次の間で、待っておるようにの」  「はい、心得ましてござります。お暇頂獄仕ります。すぐお薬湯をー」  芳州は、お叩頭して、退ろうとした。  吉之助か、呼吸を喘がせるような、せきこんだ口調で、   「芳州殿」  と、呼びとめた。芳州は、片膝を立てたまま、吉之助の顔を見た。   「お立会いなどと、お上の御容態は、そんなに」   「いいや、念のためーー’」  斉彬が、   「案しることはない。芳州、退ってよい」  芳州は、社をして退った。斉彬は、脇差を差そうとして、膝の上へ置いて、それをいじりなが    「頼朝も、秀吉も、一一人の力で天下をとったのではない。まして、近頃の時勢は、刊に権力が5 移ろうとして、上が、腐敗しかけている。いずれのーつが因になっても、天下は変動する。これ を制するのは、一人の力で及ばぬことしゃ」   「しかし、その下を導き、時勢を導く人が、大切にござります。諧藩の有志は、その、戴くべき人としてお上を目指しておりますし、吾々どももお上一人のお指図により、お力により、動こうと致しております。またーー」  と、吉之助が言った。そして、斉彬の顔を見ようとして、眼を上げると、その眼を、斉彬は、鋭く、見返した。そして、   「吉之助、お前は、わしが、おらんと、何もできん男か?」  と、鋭くーーそれは、吉之幼も、誰も、今までに聞いたことのない鋭さと、カが人っていた。吉之肋は、斉彬のその言葉と、その眼とに圧倒されて、   「はっ」  と、言って、頭を下げた。      三ノ五  「浪人どもは、わしらがおらんと、勤王ができんのか?」 吉之助は、黙って、耳を、順を、赤くしていた。  「わしが死ぬと、お前たちは、何もしないで、手を束ねているのか? わしがおらんと、わし の志したことはできんのか?」  斉彬は、口早に、鋭く畳みかけた。   「幾度申しても、わしの心がわからんな。わしの富国策が理解できんの。市蔵、お前も、まだできておらんか」  市銀は、   「はっ」  と、言ったまま、黙っていた。   「わしは、こういううちにも死ぬかもしれぬ、また定命から申しても、お前だちより早い。もし、わしが死んだなら、島津を守立てて行く者は、誰じゃ。もし天下に大難が来たなら、それを防ぐ人材が他になかったなら、その難に赴く者は誰じゃ。わしの亡き後、わしの志を継ぐ者は誰しゃ。お前たちは、わしをえらいというが、わしはお前たちをえらいと見ておる。わしの志を紺いでくれる者は、お前たち軽輩で、お前たちが協力してくれてこそ、わしの志が達しられるものだと、わしは、それのみを望みにしておる。わしは、多くの事に、ただ目安を造っておいた。それを成就させるのは、お前たちではないか? 目安を造ったのはえらいかもしれぬ。しかし、わしの造ったものは、いつか誰かが造るべき—‘−つまり天下の勢いの赴くところ、赴く点に置いた目安で、わしが造らずとも、誰かが造るもので、決して、わし一人の力が、天下を導こうとするものではない。お前たち、わしが、廟堂に立ったからとて、この徳川の頚飾を盛り返し、尊王論を絶滅できると思うか。またわしの志す、富国強兵の策は、幾度も申すごとく、理化学の道じゃ。   無より有を生ぜしめ、古階を捨てて、新鋭につくの法しや。この道こそは、協カーつ、わし一人の力でヽなんともなるべきことではない。周匝も協力してくれた。久光も、してくれた。異国の  書物も、掛の者も、衆智を集め、衆力を集めて−お前たち一目見ればわかるであろう。磯浜の  反射炉、大砲、紡績機、硝子製造、これらことごとく財力と、智力と、衆力と、決して、わしー  人の力でできたのではない。】人の力で、天下の重大事、国の大事ができると心得ておるようで  は、これからの時勢に遅れるぞ。わしがのうても、わし以上にやる、という心がのうて、その若  い者がどうする。お山証を討つの、将曹をうつのと、なぜ、志が、そんなに狭い。どうして、そ  う小さい? なぜ、お前たち一同が、わしにならぬ。わし以上にならぬ。わしに恐れ、わしを尊  び、わし以上に出られん、と心得ているようなことでどうするのしや。お前たち、軽輩二十人で  天下の難に赴き、日本を双肩にー−いいや、吉之幼一人、市蔵一人、岩下一人で、天下を双肩に  負うくらいの覚悟がのうて、どうする? わしは、お前たちが、ことごとくその決心でおるとお  もうていたに、なにごとしや」    吉之助も、市最も、俯向いたきりであった。斉彬に、いろいろ言おうとしていたことが、だん  だん小さく、薄く、そして、消えてしまって、その代りに斉彬の言葉が、頭の中の壁に、胸の中  に、此の底に、血管の中へまで、毛髪の末へまでも沁み込んできた。斉彬は、また、鋭く、     「一同の者に申せ、心得がちがうそ、とな。集まっている者が聞かずば、ことごとく、ここヘ  連れて参れ。参るのが厭なら、わしの申すことがわからぬなら、天下を背負って立つ底の志がな  いなら、わしの家来ではないがら、切腹して死ね、とな。将曹、平と、刺違えるような馬鹿者は 斉彬、家来と思わん、とな」  と言った。   「はっ」  吉之助は、いつの間にか、膝の上へ、涙を落していた。     四ノー 遠くから望んだ生駒山は、 広々とした草原の傾斜を、展開させていた。  (あれが、山相相似ているというか?) 小太郎は、半分逆上しながら、父とともに登って行った比叡山の小径の細径を、思い出した。   (似ているといえば、叡山の頂上も、草原であったーーしかしーー)  小太郎は、警固の人を折り、父の傷ついた、篠竹の深いところは、瞭乎、想い出せたが、頂上の草原ゆ−草原であったような、なかったような、広かったような、そうでなかったような、そして、自分のそこでしたことは、見残した夢のごとく、瑕ヤとして、水の影のごとく薄れてーーああしたことを、この自分が、本当にしたのであろうかというように思えた。   (あの時も、警固の人数の計算を誤った。今度も三人、というが、果して、三人か?1上二人だけとは考えられないがII)  来る道で聞いてもわからないし、登り口で聞いても、牧が、登ったかどうかさえわからなかった。     (夜に人れば、祭壇で焚く火が見えようが)と、思ったが、夜、闘うのは、不利であった。それから、一刻も早く討ちたかったし、何よりも、義観が、この山で必ず、牧が修法を行うにちが  いないという言葉を信していた。    聖天と称されている仏を祭った山上へつづく道、茶店が、時々、曲り角に、そして、時々、参  詣人が。小太郎は(この山でこそ)と、信じていたが、牧が来ているか、まだ、来ていないか?  それを、茶店の主人に、    「四、五人連れの侍が、登らなんだかのう、ここ二、三目前から、こっちーーーー」    と、聞いた。    「さあー御武家衆は、貴下、めったにーこの山は、大坂辺の、町人衆のお詣リが、多うて、   御武家は、なあーーー」    と主人は首を傾けた。    「上の寺は、旅の者を泊めてくれるかの」    「はいはい、喜んで、お泊めなさいます。お心持しだいで、結構なお寺でございます」    小太郎は、自分たちの一家の悲運を思い出すともうこれ以上に、努力する気になれなかった。   努力をした結果−‐−呪いの人形を取り出し、牧を討ちに行って、そして、得たものは、悲惨な死  だけであった。     (あせらずとも、討つべき機が来れば討てる。わしは、既に、人事を尽くした。この上は、天  命を待つよりほかにない)  小太郎は、革袋から小銭を出して、茶店を出た。そして、   (義観の指図のままに動くこと、これが天命を待つことであるとともに、人事を尽すことだ)と、思った。そして、落ちついた心になってーーだが、草桂をしらべ、帯のゆるみを調べ、いつでも悶える用意をして、登って行った。  左へ入る細径が、一軒の茶店の方から、つづいていた。小太郎は、・   (この遊を’—’)と、思った。だが、遊ば下向きになっているので、   (谷間へであろう)と行きナぎてみたが、何かしら、心にかかった。  小太郎は、編笠を傾けて、   「この遊は、どこへ行くのかな」  と、茶店へ聞いた。   「下の遊でござんすか?ーー’この上の、広いところヘーー’」   「頂上への?」’   「お連れでございますか」   「連れ?」   「今朝、夜の引明けに、四人連れで、お登りになりましたが、お武家衆ばかり、珍らしゅう、何かござりまするか?」  小太郎は、   (勝った)と、心の中で、絶叫した。      四ノニ  小太郎は、.微笑んだ。   (わしの運は、開けて行くのだ)と、感した。明るい力が、髪の毛の先まで、がちてきた。だ.が、それとともに、   (なぜ、,この遅が、もっと早く来なかったか? 父のいた時に‐−‐母の死ぬ前に)  小太郎は、そう思って、‘二人を悲しむと同時に、二人の霊へ、この明けて行く仙波の家の運を見せようと思った。   「かたしけない」  小太郎は、その茶店の前を去る時の脚に、軽さと力とを感した。   (三人以上の奴らが、おるとしても、わしは、勝てるぞ)と、いう信念が、手の先へまで、充ちてきた。小太郎は、編笠をとって鉢巻を当てた。その中には煩が人っていた。草桂の紐を調べてみた。帯のゆるみの有無へ、手を当ててみた。目釘を、もう一度、改めてみた。そして崖端ヘおいた編笠をきて、崖沿いの細道を少し降ってから、それからの爪先登りを呼吸を整えつつ登って行った。  崖が、だんだん低くなり、林が、まばらになり、木が少くなると、草原が、滑かな線をして、起伏してきた。   (広いところだ)と、感じた。だが、牧は逃げない敵だと思うと、十分に落ちついていてもよ かったし、広々とした山頂は、自分の匿れるところもない代りに、敵を匿すところもなかった。   一つの、波の上を越えると、またその向うに、一つ高く、草の波が立っていた。そして、誰も用のなさそうに見えるこの山頂の草の中に、その起伏をつなぐ、消えるばかりの小径が、つづいていた。小太郎は、『一つの腹を廻り、次の頂を越えて、   (あの頂へ立てば、この山は、一望の下になるだろう)と、三度思った。そして、三度とも、まだその向うに、もう少し高い丘のあるのを見たが、四度目に傾斜した草の中を、登ると、遠河内の山々が、遠く黒ずんでおり、右手に、河内平野が、展開して、そこからは、四方が、なんの障害もなく見渡せた。  小太郎は、自分の立っている正面に、一人の影のないのを知ると、   (右か、左か−—)  右にか、左にか、人影が見えなかったなら、煙の影が立っていなかったら・ーー、   (運が開けて行く)と、信したことは、この夕空のごとく、急に暗くなって行かなくてはならぬ、と感した。小太郎は、この最後のーつの大事を、神に折りたいような気持になった。だが、  (炉心しい迷いごと)と、自分を叱って、右を見た。草原が、段々に、森の中へ消えていて、煙も、人もーーー鳥の影さえなかった。小太郎は女々しい迷いごとと、己の信念の崩れて行きかかるのを叱りながら、心の顕えるのをどうすることもできなかった。   (左だ)  小太郎は、眼を閉して、父の顔に祈り、義観に念し、この山の仏に、神に、     (人影が見えますようーーーそれが、牧であるよう)と、祈った。そうして、しりしり、視線を左へ、左ヘーーー草原の緑の重なり、その上に頂を出している森、その御式の山々、その下の平野、   村々—〜小太郎は左へ左へ見て行くうちに、ちらっと、黒点が眼に入った。小太郎は眼を閉した。   そして、(人であってくれるよう。牧であってくれるよう)    心臓が喘いできた。身体中が緊張に頗えてきた。神を念して眼を開くと、しっと視つめた。三  人の人影が、草の中にうずくまっていた。        四ノ三  「あれで、修法ができるかしらーーできるとしても、験があろうか」草の中へ、腰をおろして、吸殻を、足で擦り潰しながらー人がいった。   「あろうと、なかろうと、ああああっ」  山内は、大きく欠伸をして、   「つくづく、聡になって参った。これが、京の藩邸詰なら、弁慶ではないが、夜な夜な出でては、人が斬れそうだ。今度は、所司代が、会津と、更るそうだが、こいつは、きっと、市中取締が手厳しくなろう。ナると、諸国浪士どもがしっとしていまいし」  一人は、その少し下、右手の方に、形ばかりの祭壇を作って、石のごとく、うずくまっている牧伸太郎をしっと眺めていた。が、        !   「しかし、牧殿の修法は、人間業ではなけ」  と、低いが、強く呟いた。   「もう、人の容をしていないではないか、痩せて」   「狼の眼だのう。底の方から、何か、鬼気が、辺るようにーI‐声はかれたし、足腰は立たぬようだし、よいよいの歩くように、それでいて、歩き出すと、歩くし、どうだ、あの修法中の凄ましい懸声はーI」   「しかし、ああなると、いかに、兵道の妙技を極めているにしても、もう、長くはあるまいぞ。今朝の水垢離の時に裸になるのを見たが、この辺がー1」  と、言って、一人は、肩から胸を指して、   「一本一本、骨が見える。頬がこけて、そら、なんとかいう魚に似てきたぞ」   「餓鬼だの」   一人は、しっと、牧の方を眺めていたが、   「大分、長いぞ、俯向いたままーーー死んだのではなかろうか」   「近寄ると叱られるぞ」   「しかし、これで、験があるかのう」   「あるの、ないのと、現にお世嗣が次々に亡くなっているではないか」   「そうだのうIIあの凄い眼を見ていると、いかにも、あの眼で睨われたなら、死ぬという気がするのう」   「人が参る−—侍が」  と、一人は、後方を振り向くと言った。山内と、他の一人が、振り向いて、   「近寄らんように言え」  と言った。一人が、立ち上って、   「来てはならん」  と、手を、左右に振って、叫んだ。だが、その人影に聞こえぬらしく、三人の方へ、足早に近づいて来た。   「京からの、使ではないか」   「さあ」   「お1い、こちらに参ってはいかん、来てはならん」  二人で、手を振った。侍は、立ち丘まった。そして笠へ手をかけて、しっと下を眺めた。   「聞こえた」   「あちらへ参られい、あちらへ」   一人が、口へ手を当てて叫んで、右手の方を指さした。侍は、佇んで、牧の方を、しっと、眺めていたが、一足踏み出すと、その歩んで行く方角が、牧の方へ向った。   「会田っ」  と、一人が叫んで、刀を押えて、走り出した。  山内が、   「使かあーっ」  と、怒鳴った。一人の侍と、倉田とが、走り上って来るのを見て、侍は、編笠を取った。白い鉢巻がはっきりと現れていた。手早く、棒をかけた。山内が、   「おおっ」  と、叫ぶと、さっと、顔を赤くした。そして、   「油断すな。おうーい、小太郎だ。油断すなっ」  と、叫んで、律をかけながら、走り出した。      四ノ四  二人の警固の人々は、山内が、   「油断すな」  と、吽んだから、相当の男だ、とは思った。しかし、   「小太郎だ」  と、吽んだ意味は、わからなかった。山内は、叡山での、小太郎の腕を知っていたが、二人は、それについて、見たこともないしーーただ、ハ郎太新死の噂を聞いているだけであった。そして、二人は二人ながら、相当の使手であったがゆえに、二人を小太郎よりも劣ったように考えているらしい山内の言葉に、反感をもった。それで、   「去れ、去らぬと、新るぞ」  と、一人は、叫んで、刀へ手をかけだし、一人は、もう抜いてしまって、山内が、もし近づい   たなら1‐—斬りかかったなら、それよりも早く、.小太郎を斬ってやろうと、足丸腰も、十分に構えていた。    「貴殿らに用はない。牧を討てばよい」    「去れと、申すに」    「去れと申すのが、わからぬか」    小太郎は、山内の近づくのを見て、     (三人を対手にしてば、面倒だ)と、感した。だが、なるべく、斬りたくない、とも思った。 それで、口早に、  「不忠者っ。御当代の公達を呪う輩を守って、それで、薩摩隼人かっ」  と、怒鳴った。そして返事によっては斬ろうと柄へ手をかけた。山内が、   「持て持て」  と、叫びつつ、近づいて来た。  一人が、  「無益だっ」  と、叫んだ。そして、一足引いた。一人が、山内の方へ、ちらっと向いた。その瞬間、小太郎の前に、きらっと、閃くものが、掠めて、小太郎は、一足追っていた。手に、刀があった。  山内へ振り向いた一人が、その掠めた閃きに、本能的に、身を躾して、一足追ると、自分の横に立っている一人が、頭から、赤黒い血を、顔一面にーーーどうして、そんなに、流れたかと思う くらい、血にそまりつつ、よろめき、よろめき、両手で、頭を押えてーーー眼だけを白く剥き出しつつ、眼瞼に、血をためて、頭を先に、胸を先に、よろめいて、歩き出すと、ニ、三歩で顔を歪めて、草の上へ倒れるのを見た。唸り声も、叫び声もしなかった。   「小太郎」  その斬られた男の跡へ、山内が立っていた。一人は小太郎の早業に、手が、脚が、指がーーそして頭の中も、固くなってしまった。   (敞わない)と、いう感しが、全身に恐怖を与えてしまった。一瞬で、血塗れになった朋輩で、心も、身体も、冷えてしまった。小太郎は、黙って刀を構え直した。そして、いくらか、高いところに立っている位置を少しずつ、低いところへ移って、山内と同し高さになった。   「受けられるか」  小太郎は、叡山の上、伝教大師の廟の石垣へ自分を追いつめて、のしかかって来た時の山内の顔を思い出した。   「小僧」   「やあーっ」  声の形をした、そして、形のない開院、闘気というべきものが、爆発した。   「おーっ」  二人が、近づき、二つの刀が近づき、もう一度二人の声が、ぷっつかると同時に、山内の身体が傾いた。そして、傾いたのを直そうと、たたらを踏んだ。刀を杖にしてよろめいた。小太郎は、   八双に構えたまま、しっと、それを、眺めていた。山内は、刀へぐったりよりかかったかと思う              くて 5 と、もんどり打って、下の凹地へ転がってしまった。        五ノー    久光は、斉彬の、病に臥している建物の廊下へ、足をかけると同時に、肛の底から、全身の中  へ、爆発するような、憤りを、感した。    廊下には足音の立たぬよう、蒲団が敷かれていた。それは、足で踏み、眼で見るとすぐ、斉彬  の容体が、ただごとではない、ということを語っているものであった。    久光は、母お山頂、将曹、平などの企みを、信していないし、牧仲太郎の民訴などを、考えの  中へ入れてもいなかったが、今日、機嫌のよかった斉彬が、その夕、危なくなったということに  対しーーそれが瞭乎とした病ならばとにかく、三人の医者にも不明な、熱病であるだけに、     (もしか、民いがー’−)と、ちらっと、そうした影が、頭の中へさすと同時に、     (そんな迷いごとをー−)と、打ち消しながら、兄の心事をあまりにも知らぬ母に対し、家老  に対し刺しされない憤りを感してきた。    民訴を否定していながら、何かしら、母たちの企みでこうなったように感した。何者かが、見  えぬ力で斉彬を民っているように思われた。    当然、斉彬の代になれば、御役御免になるべき人々が、そのまま留任していることに対し、久  光は、今まで斉彬のその寛大さに打たれて、   (将曹め、兄上の御恩を、よく覚えていよ)と、感しているだけであったが、その将曹らが、江戸からここまで従って来て、そして斉彬の病になったのを見ると、彼らの不注意で、斉彬を病にしたように感した。そして、廊下に敷きつめた蒲団を見るとともに、   (なぜ、あの時に辞任しないか)と、感した。そして、自分に対しても、   (なぜ、あの時、あの奴らを、辞任させるように兄へ射めなかったか?ーーーそれだから、こんな事になったのだ)と、いう風に思えた。取り返しのつかぬことが、自分たちの不注意のために起り、斉彬の、神のごとき人を、病にしーー、   (死にかかってー)と、恩うと、呼吸が喘ぐように、つまるようになってきた。小走りに近いくらいの足並で、廊下の中程まで行くと、   「久光様」  と、低い声が、後方からした。久光は、その声が、耳へ人ったが、自分が呼ばれていると、感じないくらいに憤りと、不安とで、頭をいっぱいにしていた。   「久光様—‐御前−I」  久光は、振り向いて怒鳴ろうとした。老臣の一人が泳ぐように、急いで11だが、足音を憚りながら、   「なくなりなされました−ーー」  と、呼吸がつまったような声で言った。久光は、   (この血迷い者、亡くなったとはーーー不吉なll‐馬鹿者っ。老臣の身で1−)と、やり場のな ---− い憤りを、そして、それをロにも出せない苦しさを、眼の色に出して、睨みつけると、   「哲先様がーー哲先様が、お亡くなりに11」  久光は、心が、踏みくだかれたように、感した。立ち止まると、   「は、本当か」   「ただいま、江戸表からーーー」  と、言って、老臣は㈲を立てまいと、廊下へ伏して、袖の中へ顔を包んだ。久光は、身体を、その府へ曲げて、耳許へ、   「他言致すな。秘めての」  と、いうと、蒼白な顔をして、立ち上った。  案内の坊主が、同じように、歩き出した。   「他言すな、すると捨ておかんで」  と、久光は小声で、口早に、坊主に言った。      五ノニ  次の間へ入ると、薄暗い中に、将曹と、平とが、坊主だの、近習だのと一緒に詰めていた。久光の影に振り向いて、頭を上げ、眼を下げたそれらへ、久光は、蹴倒し、踏みにしりたいような、怒りとも、憎しみとも、わからぬものを感じながら、その眼を睨みつけて、病間へ入ろうとした。将曹が、あわてて立ってくるのへ、烈しく手を振って、制した。そして、、病間へ入るとーそこ に立っている屏風、煎薬の匂い、恐ろしいような沈黙1それから夜具の端、そんなものが、こ とごとく久光の心に、身体に、冷たいものを押しつけた。  一足進めると、医師の顔がーーーそれは、久光でさえ病の障りになる、とでもいったような烈しい膜をしてーーーだが、お叩頭をした。二足目には、もう一人の医師の顔がーーその顔は、自分で死病に罹ったように、沈彭で、久光がそうさせたかのように恨めしそうな表情をして、挨拶した。久光は、二人の医師の表情に、   (兄は危ないらしい)と、感した。   (もし、危ないと、きまっていたなら11−)  久光は、もう一足進んで、兄の顔を見るのが自分の死よりも辛いように、心臓がしめつけられた。だが、その次の瞬間、   (よかった)と、感した。三足目に久光の眼に人った斉彬は、眠っているらしく、いつもの、穏かな顔——−少しの影れもなく、苦しみもなく、眼を閉していた。だが、三人の医者の眼が、身動きもせずに、見守っているのを見ると、その平和な顔が、かえって薄気味悪く感しられた。   (もし、このまま逝ってしまったなら、どうなるのだ)  久光は、喘いでくる心臓を、呼吸を押えて斉彬の枕頭へ坐った。そして、四人とも、しばらく黙っていた。   「重いのか」  低く、囁いた。   「はい」   「病名は?」   「それが−申し訳ござりませぬが、わかりかねております」  久光は、お由願の行っているという、呪殺の効験を但しなかったが、三人の、和洋医術に秀でた医者が、わからないというのを聞くと、ふっと、   (牧の呪い)と、感したり、(兄のような人物には、病まで、常人でない病に罹る)と、感したりー−だが、わからない、と聞くと、諦めきれぬような気がして、三人へ腹が立ってきた。そして、   (修業の足りないせいだ)と、言いたかったが、そうもいえないで、.   「わからぬ?’−−−」  と、低く、咎めた。   「お譜言が時々、おうなされ遊ばすことが、時々」   「うなされる?」   「はい」  久光は、斉彬ほどの人物が、うなされるとは信じられなかった。   (哲丸が、死んだというがーあの、死んだ子供だちと同じ病ではないのか? 最後の子供を殺して、それから、斉彬のー−)  ふと、そう感したが、斉彬の理化学に影響されている久光にとって、それは、愚かな閃きであると、すぐ打ち消されるべきことであった。医者が手と身体を動かして、斉彬の方へ顔を差し出 した。斉彬の眼が、脱毛が、微かに動いたらしかった。久光は、心の中で、   (兄上)と、叫んだ。   (久光が参っております)  久光は、息をとめて、斉彬の顔へ見入った。       五ノ三  斉彬は、眼を上げたが、物をいわなかった。久光は、その眼の光の鈍さに、心臓を冷たい手で掴まれた。   「いかがでござります」  斉彬は、それに答えないで、もう一度、眼を閉した。久光は、   (苦しいのだろう)と、自分の健康な体力を兄へ透そうとでもするように、膝に、身体に力を入れて、   「さすりでも−」  とまで言った時、斉彬は、顔を歪めて、肩で大きい息をした。三人の医者が、全身の神経を、斉彬の顔へ集めて、のぞき込んでいた。斉彬は、二、三度、大きく呼吸をしてから眼を開いた。   「いかがでござります」   「久光」  喘ぐような声であった。   「目復はll到底、難がしい」  その声の中には、斉彬の、死の覚悟が瞭乎としていたし、死の影さえ、肯まれているように感しられるものであった。   「いいえ、さようなーーーー」   「一同を呼べ」   「はい」  久光は、そう言われて、すぐ立つことは、自分までが、斉彬の死を肯定しているようで、立てなかった。だが、常の人に、気安めをいうょうに、この兄に対して、ありふれた慰めの言葉をかけられなかった。  ただ、絶望と、憤リとで、自分のこうして坐っている脚下の砂が、だんだん谷底へ、崩れ落ちて行くように感した。なんにも、鎚るべきものがなかったーーーただ一つ鎚っている、斉彬が死ぬことに対して、ただ、もがくよりほかにない自分に対して、怒りを感した。   「呼べ」   「は」  久光は、一人の医者に眼配せをした。そして、   「ただいま」  と言った。医者が立って行くと、すぐ、将曹、豊後、平、側用人種子島六郎、島津石見が、。人って来た。 ・一一  久光が、  「一同、御前に」  と、言った。斉彬は、眼を閉したまま、低声で、   「わしの亡い後は、久光−1忠義(久光の子)に相続させい。お前が後見−1」  久光は、腹の中へ、勢い鉄を当てられたように感した。   (いいえ、哲丸が’−)  と、言いたかったが、死んだ哲丸をI今、死んだ、と聞いた哲丸を偽って、相続にとは言えなかったし、哲丸が死んだということも、この死に瀕している斉彬に、言えることではなかったしーI‐が、黙っている訳には行かぬと思うと、腹が、胸が、悲しさに因くなって、痛みをさえ感してきた。石見が久光の顔を、じっと見ていたが、そっと袖を引いた。それは、   (なんとか、返事をー’‐)と、いう合図であった。久光は、こうした最期の時にまでなって、なお、お肉屋にいいよう、斉興にいいようーーー己の子の哲丸がいるのに、それを犠牲にして忠義を立てようという斉彬の心に対して’−−斉彬に、謝するよりも11お肉屋の陰謀をことごとく知っていて、なお、父のために、島津のために、平安なれと折っている斉彬の心へ、泣いて謝するよりも、こうした斉彬の心事を、何一つ察しないで事ごとに斉彬を苦しめてきた父母に対し、将曹らに対し、押えきれぬ激怒が湧き上ってきた。そして、自分がその斉興に愛せられ、お肉羅に齢彭ゼられているかと思うと、この兄の前にーー‐兄の死の前に、父母に代って、どうかびていいか、なんと言っていいかーー’久光は、身体を固くして、俯向いていたが、肩を動かし、眼へ手を やると同時に、声を立てて、打ち伏してしまった。      五ノ四   「何を泣く」  斉彬が、呟いた。人々が、久光を、のぞき込んだ。久光は、洩れる声を、肯で、袖でつつみながら−それでも、溢れてくる悲しさと、憤りを、どうすることもできないでむせていた。   「久光」  久光は、伏している袖の中から、   「はい」  と、答えた。人々は、なぜ久光が、泣いたのかわからなかった。それから、斉彬の病気の重いことは、十分感していたが、   (今、死ぬなどー)と−−だから、久光の鳴咽に対し反感さえ感しながら、   (何を泣く?)と、田芯た。斉彬は、動かぬ頭を、久光の方へ向けて、   「お前に、それが、合点行かぬかーーー」  と、低く言って、久光を、眼の隅から見ようとした。久光は、少し、頭を上げて、だが、両手をついたまま首垂れていた。   「わしは、自分を、子供を、天下のために、家のために、犠牲にしてきた。それはー−・ただ、島津が一致して、天下のために、快く、拗けるようになってくれたならという、ただそれだけの 望みからであった。今ーーー哲丸が立てばわしの亡き後、必ず哲丸を守る者と、それに反対する肴とが相争うであろう。それをさせたくない。それが起これば、島津は、有為の士をことごとく失い、天下は、どうなるかわからぬようになるーー」  久光は、頭を上げて、夜具の端を、掴んだ。そうして、   「兄上」  と、曇った声で叫んだ。   「お心は、そ、そのお心、久光—よく、お察し申しております」  斉彬は、頷いた。微かに、その眼に涙が浮んでいた。   「わかってくれるか」   「わ、わかっております。お察し申します」  斉彬は額える手を、夜具の中で延ばして、久光の手を握った。久光は、熱のある人の手を掴むと、涙で、顔が上げられなくなってきた。   「哲丸はーーー」  と、斉彬が、呟くとともに、久光は、唇を噛んで、俯向いた。   「哲丸を−ーー¶頼む」   「は、はい」   「将葺たちはおるか」   「はっ」    「なにごとも、島津のため、天下のためとおもえ。軽輩を慈しめ。忠義をより守り立て、久光をよく輔佐せい」    将背け、膝の上へ、涙を落していた。斉彬の最期の時として、人間の最期の時として、当然一  言でも、陰謀に対する憤りが、怨みが、せめて、皮肉な言葉であろうとーー−己の陰謀の成就を喜  びながらも、人の死に而して、異常な仁慈の心の主君の死に対して、平静な、厳粛の心に立ち返  っていた将背は、そうしたーつの皮肉さえなしに、自分に対して、後事を頼み、感謝の言葉を述  べた斉彬に、腹の底からの畏敬と、後侮とを感していた。     「わしの臨終に、間に合うように、あの者どもを、庭先へ呼んでやってくれい」     「はっ。よ、喜びましょう」と、石見が、低く叫んで、勢いよく立って行った。歩きながら、   眼を拭いていた。誰も斉彬が、最後の一人の子供をまで、家のために、父のために、犠牲にする  心に、打ちくだかれてしまっていた。袖を当てたり、鼻をすすったり、しやくり上げたりl・ーそ  うして(このままお近くなりになるのかもしれない)と、話し、もし、このまま、近くなれば、   島津はどうなるだろう? 軽輩と、重臣との衝突などーーーと、死んだ後の、混乱を考えると何か  危急が迫っているように感しられた。        五ノ五     「お気の弱いーー熟は、少しござりますが、これしきの病にーー」    それは、将背の、真心からの言葉であった。斉彬は、溜息をついて、   「わしが、今死んだからとて、十年生き延びたからとて、今の天下の形勢はどうなるものでもない。この、同し形勢の下に、ただますます強くなる尊王、倒幕の大勢の下に、どう処置するかは、久光、今更申すまでもあるまい。わしが生きておれるなら、生きておってもよい。しかし、死んだとて、わしの志は、無になるまい。久光初め、重役、有為なる若者が、必ず継いでくれよう。わしは、それを信している。わしが亡くなれば、内証のようなことがなくなるだけあるいは、よいかもしれぬ。家中が一致するだけよいかもしれぬし、奮起する人間が、多くなるだけよいかもしれぬ。わしは、何も、今までにできなかったが、ただ天下の赴くところにだけは、従って来た。あるいは、それの一歩先へ立ってきた。このことは、久光もよく理解しておるであろうし、家中にも同意者があろうし、広い天下には、どこに、また味方が在ろうかもしれぬ。わしは、それだけを信しることができる。そして、それさえ信したなら、わしは、少しもわしの死を借しいとは思わぬ。わしに反対し、わしを邪魔にする者も多い。わしが死んだなら喜ぶ人も多かろうが、わしの志だけは、わしが死んでも消えるものではない。やがて、天下の大勢となり、島津は、天下に号令して、目本の基礎を立てるようになるであろう。わしの死はわしの身体を失わしはするが、わしの心を、決して、奪いはしない。それを思うて、安らかに逝ける。久光、わしのために祝うてもよいのしや、何を泣く、何が悲しい?」  斉彬は、死の苦痛と闘いながら、呼吸の困難と頭を鈍らす高熟とに、闘いながら、いつものごとく静かに言った。石見が、戻って来て、   「一同、召し出すよう、申し付けましてござります」  と、言った。   「久光、重臣とともに、軽輩を、可愛がってやれよ」   「はっ」  久光は、感激に、全身を燃えさせていた、ただ一言ではあったが、それは、久光の意志が、答えたのではなく、全身の感激が、それを発射したのであった。斉彬の平生の言葉が、もう一度、その後の言葉によって、久光の全身へ充満した。   「誓って、仕遂げ申します」   「協力してーーー」   「いつかの連名は、しかと所持しております」   「奥と、哲丸へよろしく、伝えてくれい」  石見が、   「お二人様に、何かお伝え申しますことがござりましょうなうーI」   「何もない−哲丸が、無事に成長するようとー」  斉彬が、ただ一人残っている己の子の成長を−t−父に先立って逝ったその子をーーその死も知らずに、その幻を胸にしながら逝くかと、おもうと、久光は、また涙が溢れてきた。   (言おうかー−!偽るまいーーー打ち明けようか)と頭を上げていたが、斉彬に、残された、それがただーつの、恩愛の対象だと恩うと、すべてのものを先ってしまった斉彬に、よし、偽りにせよ哲丸一人だけは残しておきたかった。   「哲丸は、必ずー’‐−久光、誓って、お育て申します」  と、言い終ると、また涙の中へ、埋もれてしまった。      六ノー  牧仲太郎の肉体は、もう死んでしまっていた。骨は、もう、その身体を支えきれなくなって、地上へ曲ってしまっていたし、肉は干れきって残滓のように、皮膚の色は紫灰色にーーーー牧は、干した蛙のように、草の中にうずくまっていた。  もう、声も出なかった。心臓だけが、消えて行く燭が、明るく最後に光るように、鼓動しているだけであった。だが、それでも、牧の精神力は、十方の空間を貢ぎ、大地の底に徹するくらいに強かった。その頭と、その眼だけは、自分の肉体の瀕死を、少しも慈しないくらいに、斉彬を呪胆する一点に、集中されていた。  まざまざとして、決してくる網膜の上の斉彬は1ある時には、空間に引き立てられて全身が歪み、ある時には、地下へ頻々として落下しながら、恐怖の眼を見開きーーーそれは、天魔地神に虐げられている、牧の呪いの力によって、斉彬の体に感応した結果を現す形であった。   (成就した)と、頭の隅で呟いた。牧は斉彬がまっさかさまに、闇黒の底に燃え上っている火焔の中へ落下して行く形を見、それを追うて、同しように墜落して行く自分の姿をも見た。   (成就した)  動かない手を‘11しびれてしまった、力の尽きたデれ細って汚ない手を、しりしりと立てて、 最後の合掌を、しようとして、身体を立てかけた。そして、肩で呼吸をして、眼を閉した。   「牧」  と、呼ぶ声がした。近くか、違いのか、外から聞こえたのか、頭の中で、そういう声がしたのかわからなかった。   (誰であろうと、どういうことであろうと、自分の此世における仕事は果てた。果した。斉彬ーー兵道の敵斉彬は、滅んでしまったのだ。斉彬も、その子もーーー兵道を呪阻した血は、これで、ことごとく絶えてしまったのだ、—知ったであろう、兵道の威力をー)        ヽ 牧は、笑えぬまでに、固くひからびた頬に微笑した。   「立て、牧、仙波八郎太の怖じやーー立て、牧」   (仙波? ハ郎太?)  牧の頷け、急速度に、疲弊してきた。肉体の衰亡が、一時に拡がってきた。仙波、と聞いても、記憶が、すぐ、口には出て来なかった。  何かが、首を、身体を、ぐいぐい引き上げるようであった。  牧は、土のついた、濁り、淀んだ、黒灰色の顔を上げた。そして、残りの力を瞳に集め、手に集めて、手を膝へ置き、上の方を見た。   「仙波小太郎じや、立ち上れるか?」  牧は、いつの間にか、だんだん光を失って、空虚になってきた眼で、じっと、小太郎を凝視していたが、   「おお」  それは、ほんの唇の端から出た、微かな響きであった。微かに唇の勤いた微笑であった。   「討つがよい」  と、いいたかったが、討つということが、どういうことか、討たれるとは何かーーー自分も、小太郎も、頭の中で、もう判断がつかなくなってしまった。  身体が、地の下へ、急に落ちて行くようにも感しるし、空中に、浮き上って行くようにも思えるし、赤い強い光が、眼の前いっぱいになったかと思うと、すぐ、暗黒になるし、物音は、何も聞こえないしーー−何かが、身体に触れるようにも感したが−−その次の瞬間には、すべての感覚をなくしてしまっていた。      六ノニ  小太郎は、血のついた刀を、提げたまま、しっと牧の体を、見つめていた。   (これが、牧仲太郎かー−わしの一家を苦しめた、牧の最期か?)  斑点がl・紫色の斑点が、どす黒い肌の上へ現れて、肉が落ち、髪は枯草のようにーー’なんの抵抗カもなく—それは、老いた乞食が野垂死をするようにーーーその光った眼は物乞いの憐慾さのような微笑さえしてIIその死体は、白痴のようにロを開いてーーー、   (これが、父を殺し、一家を離散させた奴の最期か)  小太郎は、牧の首を断り、止めを刺し、蹴倒し、踏み図ってー−ーと、思っていたが、ここに倒 れている敬仰太郎は、漂泊の末に死んで行く老人の残骸と同し形であった。   (この男を斬るために、二年近く、様々の苦労をして)と、思うと、仇敵とも敵とも、感しようのないみしめな敬の、骸の・前に立って、なんのためにーーーどうして、ああまで一家が、苦労したのか、わからなくなってしまった。   (これが、わしの、一生の目当としていた仇敵か、I’これがー)  小太郎は、夕陽の当っている敬の骸を、しっと見たが、そこには、大きい空虚があるだけでなんの憎さも、なんの怨みも、感しることができなかった。   (せめて、一太刀でも、合せたならーー)  小太郎は、父が、物足リなく感しているであろうと思い、母が、なぜもっと早く斬らなかったと、怨んでいるように思ったが、   (そうだ、叡山でのあの時I−ー敬は、わしを牧ってくれたーーーそれは、父も知っていよう—‐−敬は、悪人ではない。兵道家として、道を踏外しただけだll悪人ではない。決してない。わしが敬なら、やはりこうなったかもしれぬ)  小太郎は、刀を、草の上に置いて、敬の顔の前に膝をついた。そして、合掌して称名した。  夕陽が、大坂の先へ落ちようとして、海も、空も、真赤に—−‘だが、山の上の雲の下だけは敬の顔のようにどす黒い色をして、ひろがっていた。  小太郎は脇差を抜いて、牧の頴の下へ差し込んだ。そして、膝で、肩口を押え、左手で替を掴んで、ぐっと、引き上げた。草へ、音を立ててかかるべき血が、切りロから力なく流れただけで あった。だが、切り放たれた重い頭は、小太郎の手から落ちようとした。   (わしの仕事は、これで済んだ。しかし、これがわしの仕事であったのかしら? こういう仕 事が1−) 益満の言葉が、頭の中いっぱいになって来た。小太郎は、牧の片袖を、切り裂いて、首を包ん. ているところへ行 だ。自分の刀を、脇差を、拭って、収めた。そして、立ち上ると、山内の倒れていると って、その袴を脱がせた。それを持って戻って来て、牧の首の切ロヘ被せ、手を、足を、包んで、 もう一度、合掌した。  何かしら、自分の身体の中いっぱいになっていたものが、訳もなく、張合もなく、すっと、抜け出てしまったように感した。頭の中も、身体の中も、空虚になってしまった。  小太郎は、首を、脇にかかえて、立ち上った。下の方に、警固の侍が、まだ刀を持ったまま呆然として立っていた。  「牧を、手厚く、葬ってやってもらいたい」 小太郎は、こう叫ぶと、なぜか1それは目的を果たしたことに対する嬉しさの涙であるとと   ノ←/Jアー たむ!ー !              あわれ もに、牧への手向けの涙でもあったかーー’薄い憐さが、湧いて来て、涙が浮んだ。だが、   (これから、斉彬公のために尽すのだーーーこうしてーー・牧を討ってしまえば、哲丸様も、島津                                             ー齢 ー  ーー  ー ー も、安泰だ。益満は待っておろうーー妹よ、これで、仙波の家は立派に立つぞ。牧の首は、ここにある。家中の正義派は、斉彬公のために、どんなに、己をほめてくれるか?・l上刻も早く京都へ、京都へ) 小太郎は、夕陽の落ちて行く中を走り出した。京都の方角の山々は暗くなりかけていた。      七ノー  馬の蹄の音が、人々も、梢も、小鳥も、沈黙している山荘の中へ、微かに響いて来た。人々は、その蹄の音の、あわただしさに、ちょっと、心臓を押されたが、吉之助も、そのほかの人々も、.俯向いているだけであった。しかし、心の中では、   (何かの異変であろうかな。今時分、あの、けたたましさは?)と、感した。だが、今まで、・吉之助か、市蔵が、話をし説いてきた斉彬の言葉に対し、どうもいいようのない人々は、自らの命にかけて、起こそうと意気込んで来たことが斉彬の、その一言で、空に帰したがために頭の中が抜殻のようにll、 (ただごとの馬ではない)(どうにでもなるがいい) と感しても、立とうとも思わなかった。 と、いうような気持さえもって、黙ったまま、坐ったままでいた。 門が軋った。すぐ、廊下へ、足音が、響いてきた。見張の者がすぐ通した人なら、大したこと ではないー−ー、   (誰であろうっー・ーー・ーー何をしに)と、人々が、振り向いたり、感したりした時、   「吉之肋、吉之助は、おるか」  それは、西郷吉兵衛の声であった。  「おります」                      むち 廊下の板戸が、開くと、吉兵衛が、鞭を持って、                             いとまご   「お上がお危ない、お前、馬ですぐ11」と、いって、   「市蔵っ」   「岩下様、旦那様っ11」 お庭先へ廻って、お暇乞いせいと今、石見様からお使いが見えた。鞭を出した。また、馬の蹄の音がー’門で、誰かの叫びが‐ll、 座敵中の人々は、一斉に顔色を変えて立ち上った。吉之助は、真赤な顔をして、  「皆つづけ」 と、叫ぶと廊下を走り出した。  「火急の用事でござります。樺山様っ」  門前から、庭から、人々を呼ぶ声が起ってきた。人々は、刀を、誰も限を光らせて、誰も、怒ったように沈黙して、狭い廊下から、 あわてて、争って、取ると、襖を叩き開けて、庭へ飛び降 りて走り出した。  「南無、維新公、この大難を、免れさせたまえ」と、叫んで、一人の青年は、庭で脆いて、祈った。 吉之助か、門へ出ると、もう、五、六頭の馬が集まっていた。       jてい                                            またが 小者も、鴛丁も、ただ、目社をしただけで、口さえ利かなかった。吉之助は、馬に脆ると 「市蔵、は、は、早くつづけっ」 と、叫んで、 — ・ ・ - - J)てがみ すぐ、走り出した。鞍に左手をかけ、手綱とともに仮を引っ掴んで、     (某の、到着数しますまではーー)と、絶叫した。今朝、拝謁した時の斉彬の顔が、姿が、部屋が、庭が、いろいろの声とともに、頭の中に閃滅しつつ、廻転した。ただ、呼吸もできぬよう  な切迫したものが、頭の中いっぱいになって、馬に乗っていることも、自分の身体も、落しなか  った。    町へ出ると、町は、なにごとも知らぬように、静かに通行の人々は、吉之助の馬の勢いに走り、   避け、見送っているだけであった。    どこを走っているのか? どこへ行くのかも嶮しなかった。ただ、     (もう、すぐだ)と、思いつつ、明るい海の光っている、撰んだ空からさす陽の下の町を、絶  望と、闇黒の心、固くなって、額えている胸を抱いて、走って行った。    城へ近づくと、しかし、徒歩で、馬で、人々は急いでいた。吉之助け、     (亡くなすものかーー亡くなっては、いけませぬぞ11亡くなしてみるがいい)    と、歯噛みしながらーーー自分が、庭へ行けぼさっと、お指ししてみせる、といったような意気  込みで、走って行った。        七ノニ    もう、一族の人々は、集まりかけていて、御病床は、それらの人々の後姿で、いっぱいであっ  た。    吉之助は、はだしのまま人って来て、後向きの人々の肩の、頭の問からちらっと見える座の人 人の憂色を見ると、唇を噛んで、庭先へ坐ってしまった。  自分の息づかいも、汗も、小石に痛む膝も、暮れかかろうとする空の明るさも、何も、感じなかった。坐ると同時に、涙で、眼も、心も、曇ってしまった。   (いけないらしい)と、部屋の沈彭さから感しると、空も、地も、国中の人々も、天下の誰もこの人の死に対して、首をたれているような感しがして来て、ただ、しっと冥福を祈っているよりほかに、何も考えることのできない、悲しみに満ちた心に、頭になってしまった。  部屋にいる人々で、庭の方に坐っている人が左右へ開いた。斉彬の顔が、暗い部屋の中に腿気に見えた。誰かが、斉彬に、、何かいっているらしく、時々、低い声が、吉之助の耳へ人って来た。それから吉之助の後方に、横につつましい足音とともに、軽輩が集まって来た。   「吉之助、市蔵、一同、お暇乞い申し上げい」  顔も上げ得ないで、庭に泣き伏している人々の頭の上へ、近々と、廊下から声がかかった。誰も答えることができなかった。慎かに顔を上げた。斉彬が、開くのも憂い、眼を開けたらしく、最後の力を集めて、己の仕事を継ぐべき人々を見ようとするらしく、微かに、斉彬の顔に黒く動くものがあった。吉之幼は、それを見ると、   「うっ」  と、むせるように叫んで、手を頻わせ、肩を頻わせて、突っ伏してしまった。市蔵は、涙の中から、じっと、眼を据えて、斉彬の表情の、寸毫の動きでも、見逃すまいとしていた。   「一同、心をーつにして、兄の志を、成し遂げてくれい」 ら  それは、久光の、曇った声であった。吉之助は、   (もう、斉彬公は、物もいえぬよぅにおなりなされた)と、思った。最後のお顔を拝して、と涙を拭いて、顔を上げた。黄昏近くなってきた暗い部屋へ、小姓たちは、廊下伝いに、つつましく、燈火を持って来た。庭には、笥火の支度をしていた。  部屋が明るくなるとともに、斉彬は、またたきをした。だが、もう視力が弱ってくるらしく、そのまま眼を閉してしまった。医者が、絶えず脈を取り、顔色を伺っていた。吉之助は、軽輩の身として物もいえぬ身分をもどかしがりながら、手前一人にても、必ず、成し遂げまナ。お上の御教訓、吉之助の、髪の来へまでも、しみわたっておりまする。心安らかに、往生遂げられますよぅ)  心の中で、そう叫んで、斉彬の死の安楽と、その魂の静鎮とを祈った。  だんだん庭は暗くなり、部屋は明るくなってきた。吉之助か、顔を上げると、人々が、斉彬の顔のところへ元のごとく坐っていて、何も見えなかった。  庭の人々は、動きも、尉もしないらしく、なんの物音も立てずに、暗い草の上、砂の上に坐ったままであった。   「御臨終」  と、微かな声がした。庭の人々は、いっせいに顔を−−−少し、腰を上げて、部屋の中を見た。二、三人の入が立って行くのと、四、五人の人が、斉彬の顔へ、のぞき込むのとが見えた。それと同時に、庭は鳴咽でいっぱいになった。部屋からもすすり泣きが、聞こえてきた。 死の後に       一  岫沁に、案内されて、中庭を左に、廊下を行くと、右側の部屋に人影があった。小太郎が、急ぎ足に歩きつつ、ちらっと、それを見ると、   「おおっ」  庄吉の声と、顔とがーーー‘   (雍ったな)と、感した時、南玉の顔が、深雪の顔が−−‐だがそれは、いつもの三人の表情でなく1’ー小太郎が、戻って来るからには—−牧を討ったということは、その明るい顔にも、現れているし、その脇の下からでも、わかるのにーー上二人の顔には沈んだ影が、憂いの表情があった。   (何を、三人は?1−‐−)と、感しながら、   「討ったぞ」  と、口早に、そして、脇の下の包を、ちょっと、動かして、そのまま、益漓のいる大広間へ急いだ。だが、急ぎながら、   (なぜ、三人は、飛び立って来ないのか?)  小太郎には、解ききれぬ疑問であった。  大広間には、浪人草と、益満とがI−その人々もやはり、同しように、沈んだ表情をして、.小太郎を、ちらっと見た。益満も、小太郎に、眼を上げたままで、その脇の下の包み物をも、見たのに、すぐ、俯向いてしまった。   (何か、大事の企画が、朝爺したのであろう)  小太郎は、不安な胸を押えて、人々に、黙礼して益濡の側へ坐った。   「討ったか?」   「うむ」  油紙で、がさがさ音のする、首の包を二人の間へ置いた。   「小太−」  益満はそれだけ言って、.しばらく言葉を切っていたが、   「斉彬公がお亡くなりになったわい」  それは、いつもの益満の声でない、弱々しいものであった。だが、小太郎は、その言葉を、半分聞いた時に、全身を、冷たく襲って来る絶望威があった。   (これか、皆の沈んでいるのは?)  小太郎は、しっと、畳を見つめたまま、眼を動かさなかった。三人が、小太郎の様子を見に廊下の端へ出て来ている姿が、眼の隅に見えたが、小太郎は、自分も、生きているということも、世の中も、この座の人々も、威しないくらいになってしまった。   (わしの仕事は、あの哀れな牧を討つことと、それを討って、斉彬公へ尽すつもりであったの に1)   「哲丸様も、亡くなった」  小太郎は、益満のその言葉に、返事をしようにも声が出なかったし、したくもなかった。   (わしは、今まで何をして来た?)  牧は、斉彬とその子を民訴したのみでなく、自分の一家をも、民訴し、その最後にも、殺されながら小太郎に打ち勝ったように思われた。一人が、   「小太郎、遅かったわい」  と、言った。小太郎は、全身を突き飛ばされ、心を叩きつけられたように感した。斉彬と哲九とを亡くしだのは、自分のせいのように感した。   「今も、それで、もめたが、民訴か、毒殺かll斉彬公は、民訴をお信しにならなかったが、’‐l’あまりに不思議なお亡くなり方だ。しかし、いずれでもよい。小太郎、わしは、落胆しないぜ。この憤りを、幕府へわしは叩き返してやる。わしは、江戸へ戻って、悪鬼になって、暴れてやる。殉死の心を、生き延びて、江戸中を血潮の巷にしてくれる。小太、ともども、江戸へ立とう・国許の英才も、このまま、泣いてはおるまい。斉彬公が、お亡くなりになっても、そのお心は骨髄にまで沁み透っているぞ。いいや、お亡くなりになったがゆえに、わしの血は二倍にも燃え立ってきた。倒幕の気運は、明日から起こるぞ。小太、江戸へ立とう。斉彬公は、、ちょっともしっとしてはおられなかった。各々—立とう。直ちに、江戸へ立って、御遺志を継ごう」  益漓は低いが、強い声でいって、刀をどんと畳へ突っ立てた。       二  西郷は、また泣いたらしく、眼を赤くしていた。上下をつけて、袴を高く、膝頭までからげて、崇足に草桂ーーーそれは、斉彬の柩を警固するための服装であった。  将曹らを、討とうとした、若い軽輩の人々はお互に、燃えるような、刺すような眼をして、その心と、心を通しさせている。  だが、階級の上の人々は、囁いたり微笑したり、そして、吉之助とか、そのほかの人々の、眠らない、赤い眼を見ると、すぐ、冷たい眼になって、横を向いた。   「市蔵、わしは、江戸の軽輩と、呼応して、ひたすら、倒幕の策につこう。お前は、亡君の御遺志をついで、富国の策をとってくれい。亡君を、唯一人の人として頼んでおった浪人どもは、この死によって、どう落胆し、どう変るかわからない。しかし、ここに集まっておる、この、軽輩だけで、江戸におる益満らだけで、必ず倒幕の仕本は成し遂げてみせる。薩摩一国で、必ず、かいてん    や  L一 回天の業を遣り遂げてみせる。お前は、国許にいて、ここらにおる、あの馬鹿重臣どもを押えていてくれい。亡君の仰せのごとく、内証しているときではないようだ。来る便り、来る便りが世の中の激変して来るのを知らせて来ている。軽輩どもの、熱は、血は、押え切れなくなっている。亡君に、お報いするの遣は唯京都へ出で、江戸へ行くだけだと、田心っている。まったく風雲は、急に、なって来たらしい。仕事は将曹を斬るよりも、逼かに大きい」  市蔵は、うなずさながら、陽を受けて、紫紺色にそびえている桜島を、しっと、凝視していた。 二、三人の、同し姿の軽輩たちが、近寄って来た。   「今までは、おすがリ申していたが、お亡くなりになって、己一人でやらなければならぬと、思うと、おれは、こうして、しっとしているのでさえ惜しくなってきた。斉彬公とともに、これまでの月日が去ってしまって、ちがった陽の下に生れ帰って来たような気がする」  五代才助か呟くようにいった。   「わしも、昨日までのわしではなくなった」  と、一人が呟いた。一人の上席の者が、この一群の側へ通りかかって、   「隼人が、何を悲しむ」            、  といいすてて行ってしまった。才助がその後姿へ、   「もう、お前らは、対手にしないぞ」   「対手は、天下だ」   「徳川だ」   「異国だ」  立っている堀の石垣の上から、鹿児島の町は磯浜の方へ、低く充満して、連っていた。浜には、斉彬公の定めた、日の丸の船印の船が、その前には、オランダ人の驚いた、飢県庁大砲庫が、松林の中には反射炉の頭が、その手前に紡績工揚がーーー斉彬は、死んだが、それらの物—−日本全休を対手としても戦いうる精鋭な武器が、やがては、日本に富をもたらすべき生産設備が、右の方、城内の武器庫にも、眺めているその前方いっぱいに。左の方には、同しように石垣際に、一 8 とかたまりになって内部へ入れない軽輩が−それから、その人々の心の中には、斉彬の心が、5 いっぱいに−−−。  吉之助は、磯浜を見、右を見、左を見て、赤い眼に、また涙をためた。だが、唇には、微笑を浮べて、   「きっと、なせる。市蔵」   「なせる」  大久保市蔵は、そういってうなずくと、吉之助の手を握った。軽輩のすべては、同し心で、破浜を、桜島を眺めていた。桜島は真直ぐに、煙を立てていた。      三   「京は、なんだか、ざわついていたが、江戸は相変らず、のんびりしてらあ。今にも、黒船が来るように騒いでやあがったが上冨士春のところへ、またぼつぼつ、旗本が、三味の稽古に来ているってしやねえか。いったい、どうなるんだかII‐」   「どうにか、なるだろう。どうともしてくれってんだ」  生害は、南玉の方へ、肩を聳やかして、   「おいらあ、これで、男の一分が立ったから、おさらばってことにしてー−一一つ、仲間の奴ヘ奉加帳を廻してさ、二、三十集まったら、何か、こう小商売でもやらかそうかと思うんだが、どうでえ師匠」   「いい思案だ」  小太郎は、縁側で、膝を抱いて、桂に凭れていたが、   「庄吉—‘−わしも、商人になろうかと思う」  と言って、三人の方を見た。深雪が、兄の顔を見て、すぐ、俯向いた。   「若旦那あ、これからしやあ、ござんせんか。富士春んとこの浪人衆でさえ、三田の御屋敷へこもってー騒ぎを持ちやげようという時節に、あんた、一文、二文の利がすりとるなんざあ、南玉、いささか不服でげすな」   「南玉、世の中は、まだまだ変りそうだ」   「いくら変ったって、お侍は、お侍。巾着切が、ニハうどんになるような—‐I」   「いいや、そうではない。益満の企ても、国許の方々の企ても、調所の利殖しておいた金子があればこそしや。斉彬公は強兵よりも、富国の策を根本の大事とされたが、いかにももっともしや。わしは、牧を討つのにかかって、釘一つ、君にお報いできなかったが、同志の行動を見ると、ただ金子を使うばかりしや。せめて、わし一人でも他人のせぬ、同志の卑しむ、金儲けをしようとおもう。そして、後ろ楯となろう。きっと亡君は、お喜びになるにちがいない。また、世の中を見ると、のう、庄吉、武家は、彼らに空威張リのみで、金子の前に、頭を下げぬ者が、幾人おる」 「そうでござんすとも____ I 「調所のやった密貿易を、わしは、学ぼうと思う。庄吉、ともどもに、同し棄てる命なら、人 のせぬことをして、棄てようではないか。同志を裏切ったと、尉いれようと、隼人の面目を汚し  たといわれようと、わしは、これが、斉彬公のお志の第一であったと、信しるーー深雪、   でいてくれい。わしは今まで、武士としての半生を、空しく過してしまった代りとして、   ら後半生を、益満より、一足先に、出ようとおもう」    「資本は、若旦那」    「資本か」 その心これか  と、いって、小太郎は、笑った。   「益満、諸共、押込しや」  そういった時、表から、   「小犬」  と益滴の声がした。   「行くか?」   「いよいよ仕事の手初めだ」   「わしも、仕事の手初めだ」  小太郎は、笑いながら、刀をとって、立ち上った。薄暗くなって来た表の土間に、益満が、身軽な姿で立っていた。   「今夜の、手初めが、やがて、天下を一新する手初めになるのだ」   「益満、わしは、金子を奪うぞ。それも軍用金にでなく、密気品をする資本にだ。同志に不服 の者があるが、わし一人でも、この志は変えぬ。これが、斉彬公に尽しうる、わしが、ただーつの道だー1‐わかるか」  益満は、しばらく黙っていたが、   「それもよい」  と、いった。   「行こう、益満」  と、小太郎は、明るい声をして、  「お前が、天下をとるか? わしが、天下を取らせるか。今度は負けぬぞ」  と、いって、笑った。長屋の表へ出ると、賑やかな新声と、三味の音とがしていた。      四  島津将曹は、小書院の窓際の、机の前に坐ってーー−時々、暗くなってくる燭台の灯を、自分で摘みながら、考え込んでいた。  斉彬が臨終の時にまで、何一つ、自分に対して、咎めの言葉さえ洩らさなかったということが、将曹の心を打ち砕いてしまった。  斉彬が世継ときまった時に、将曹は、もちろん、家老職を剥奪されるものだと、考えていたが1そして、斉彬の前へ呼び出された時にはその覚悟だけで、いっぱいであったが、斉彬は、、   「父上に対していたと同様に、わしにも、輔佐してくれればよい」                   や と、いって、将曹の覚悟の遣り場を、なくしてしまった。だが、将曹は、それに対して、  ``‘゛ほら       はら                    ‘  ・ ‘j ヽ- r^ -rt- i≪≫- ~ ・r'+r^.JfrCr-'t-'   (何か、肛に一物があるのであろう)と、いろいろのことを考えて、十分に警戒していたが、」それからすぐに続いて来た病の床ででも、斉彬は、何一つ、将曹らに対して、その罪を責めるらしい言葉を洩らしばしなかった。   (えらいお方だ)と、将曹は、心の底から、しみじみと、感じることができた。   (仕えてみて、初めて、斉彬公の非凡さが、わかったー−−幕府が、この人を、頼みとし、この人に槌ろうとしているのは、もっともだ)と、思った。だが、その斉彬に対し、斉彬の子に対して自分の取っていたことが、悪いことであるとは思えなかった。   (寛大、高談の君ではあるが、しかし、財政の方の事には、欠けていなさるーーー人間、そう、完備しているものではない)と、斉彬の、消費的方面−ー’糸が、少し、機械の力によって紡ぎ出せるという紡績機−、   (あれは、玩具ではないか? それに、大金を投してーIだから、父君の御心配になるのも当り前だ。オランダ人が来てはめたといっては有頂天になっておられるが、紅毛人がほめたとて、なんだ。これが、斉彬公の御欠点だ。一にも、二にも、西洋西洋と、反射炉にも、ギヤマンにも多大の金がかかったが、何一つ、それが金儲けになったという話は間かない。せっかくの、関所の金が、みるみる空費されて行くが、これを斉興公が御心配になるのは至極の御道理だーーその斉興公のために、犬馬の労をとっておるわしは、少しも心に悦めることはない−−斉彬公は、確かにおえらい、しかし、だからといって、わしが悪人とはいえまい)  将曹は、斉彬の寛量に、打ち潰された心を、取り戻そうとして、しっと、考えていた。そして、   (わしのして来たことは、間追っていない)と自分の心へ、十分理解させようとしたが、その心の中に、幻のように、煙のようにー七人の子供を殺した、ということが、閃いていた。払っても、払っても、その幻は、水の影のように揺れながら立ち昇っていた。   (なんの罪もない幼児を殺してー‐—・)  将葺は、新鮮な果物のような、子供の頬を思い出して(これは、わしが、責められても申し開きのできぬことだ。しかし、これも、御家のためならば、どう、地獄において呵責されようとも、退く訳には、行かぬーー’道はちがうが、同しく御家を思うー心からだ)  そう考えてはみたが、自分らの陰謀が、首尾よく成就したと思うと、何かに対して、大きい罪を犯しているような気がした。何かしら、張りつめていたものが抜けて、弱くなって行くような気がした。      五  持仏の間には、大きい、広い仏壇が、黒い艶を、金色の光を、静かに輝かせていた。  すナけた厨子の中に、真黒な裸像で立っている仏が、その前には、段々に供物が、花が、それから、その上に、白木の位牌がl’lそれにはお肉証の筆跡らしく、   島津修理太夫源斉彬  と、書かれてあった。    ほとんど、顔を合せたことのない、自分の産まぬ子ー!lお互に、顔を合せないようにしていた斉彬の死に対して、お由羅は少しの感しもしなかった。     「御逝去になりました」    と、いって来た時に(本当であろうか)と、すら疑い、     (本当なら、意外に早く成就した)と、感しただけで、自分の、陰謀のために、呪いのために  自分の子が亡くなったということに対して、顔を知らぬ家来の死を問いたほどにも感じなかった。    そして、こうして、仏壇の前に、数珠をもって、称名しているが、それが自分の心の咎めを消  すためでもなく、斉彬の冥福を祈るためでもなく、ひとつの、体裁としてのみであった。    お由羅は、称名を、ロで唱えながら、久光のことを、忠義のことを、斉彬のことを、考えてい  た。     (これで、ことごとく、成就したと、将曹などが考えていてくれたなら、大間違いであろう。   これからが大切なのだから)    お由羅は、軽輩を恐れていたし、だんだん老衰して来る斉興を、覚来なく考えていたし、斉彬  を崇拝している久光のことも不安であったしーーーそれらのことが、ことごとく、自分の意のまま  に解決されなければ、十分な成就とはいえない、と考えていた。     (そうせんと、今度は、自分が、殺される)と感していた。     (久光のために、妾の殺されるのはよいがー’’人を脱った上は、自分も脱われるものであるが、   妾は、子が可愛いばかりでない。お家を大事に思うからこそ、ここまで、大それたことをしてき たのだ)と、思った。そしてそう思うと、七人もの子を次々に亡くし、その終りには夫の斉彬さえ亡くしてしまった英姫のことが、思い出されたが、それは、   (遅の悪い人)  で、お由圧には、見たこともない夫人へ、同情のしようがなかった。   (一度でも、逢うていると、それは、人情として、気の毒にもなるが—)  お由羅は、自分の眼に記憶のない七人の子供の死—それは、自分が、命して殺したのではあるが、見ていない子供の面影は、他人の話を聞くよりもーーー遠い昔の、そうした物語の本を読んでいるよりも、心に追って来るものがなかった。  女中が、   「お渡リで、ござります」  と、外から、声をかけた。   「今行く」   「あのう、こちらへ、参ると、仰せられてござります」   「ここへかえ」   「はい」  お由羅は、斉興がなぜ、持仏の間へ来るかよくわかっていた。   (もう、一押ししないと、九扨の功を、なんとかに欠くということになる) お由羅は、自分の祈を、斉興のために、盲いて、自分は、下座へ退った。      六  斉興の顔は、いつになく、沈影であった。お由証に対しては、   「わしも、もう、いい齢だからーー’」  と、洩らすことはあったが、余人に対してはー!‐I斉彬に対してすらまだ少しも衰えたところを見せまいとする斉興であった。だが、斉彬の急死に対して、父の情としてーー‐微かにでも、心のやましさを感している人間の自然として、重苦しい鉛のようなものが、頭の中いっぱいに張りつめ、吐の中いっぱいに、沈んでいた。どう、払いのけようとしても、   (わしが、殺したのも同然だ)と、いうような気がしていた。  俯向いて、廊下から、持仏の間へ入って来た斉興に、お由羅が、   「ま、かような陰気臭いところヘーーー’」  と、いつものように媚びた眼で見上げる顔へ、ちらっと眼をくれたまま、仏壇の前へ坐った。そしてしっと燈の煌いている仏壇の中を眺めていた。  死んでみると、何か、取り返しのつかぬ大切なものを亡くしたように思われた。多少いしめてもこんなに早く死ぬとは考えられぬことであった。斉彬が生きているうちは、いろいろの意見の相違、心配、不平などがあったが、死んでしまうとーーーそして、天下の人々が、一斉に、その死を信しむのを聞くと、自分に対する斉彬の心づかい、ひととおりでない苦慮、孝心を間くと、どんなに、お由羅が、   「久光がおります」  と、いってくれても、心を傷ましめるものが、去らなかった。   (死なずともよいのにーーー)  と、斉彬を恨むような心さえ起こってきた。眠ろうとしても、眠ってからでも、斉彬や、お為派崩れに刑死した人々のことが、繰返し、繰返し、思い出された。  だが、そうした人々よりも、もっと斉興を痛ましめる面影は、七人の幼い子供のことであった。お出願は、そのどの子も見たことはなかったが、斉興は自分の孫の顔を、時々見たことがあった。  そして、こうした、老いた、衰えかけた心の中に現れて来る幼児の幻は、哲丸も、虎寿丸もたれもかれも、皆にこにことして笑っていた。お由羅の陰謀の手にかかって死んだのであるのに、それを少しも酷しないように、恨んでもいないように、斉興の眼の中で愛らしく笑っていた。どの子も、よく肥った、聡明な眼をして、笑ったり、叫んだり、もがいたりしていた。斉興は、   (わしを恨んでくれい。わしを恨んでくれる方がわしの苦しみは、少ない。どうしてお前等は、そう無邪気なのかー)という風に、それらの子供の幻に対して、悲しみに、心を、顔をゆがめながら、叫んでみた。  斉興は、しばらく、そうして、幻を描いてから、薄く涙の溶んだ眼を開いて、経机の上の香炉へ、線香を立てた。お由羅が数珠を渡した。斉興は数珠を手にかけて、俯向くと同時に膝の上ヘ落ち亘朕を酷した。お山羅は、それを見て、   (こう弱くなってはいけない)と、酷した。それで、    「お済みになりましたら、何か気晴らしを致しましょう」と声をかけた。だが、斉興は、俯向いたまま返事もしなかった・     (ここまで来て、ここで弱くなっては、なんにもならない)    お由羅は、斉興に対して、しりしりと、焼けつくような、もどかしさと、憤りとをさえ感して  きた。      七 大老阿部伊勢守は黒書院控の間の、床の前に、ただ一人で、膝へ両手を置いて、瞑目していた。   (なぜ、死んでくれたか?)  伊勢守は、目でこそ泣かなかったが、ーー−‘いいや泣くだけの力さえなくなっていた。  幕府の人々の中には、誰一人として、この国の大事の時に、阿部の力となり慰めとなる人がなかった。将軍は重臣は、町人から献金させてでも、奢侈な生活をしたがっていたし、旗本は家重代の鎧までを入質して、生活費に当てているし、大名は各々己の家を支えるだけに全力を挙げなくてはならなかった。  その中で、唯一人、目本のため、幕府のために、自分の利害を、薩摩の利害を、越えて、見識を、手腕をかしてくれた人は、斉彬であった。伊勢守にとって、斉彬を失ったということは、自分の頭を、両脚を、脊骨を、失ったと同しようなことであった。  幾度か、大きく息を吐き、幾度か、膝の上の手を、組んだり、解いたりt−—伊勢守の頭の中は、 斉彬の死を聞くとともに、空虚になって、急に、目本の幕府の四方が、暗くなったように思えた。襖が開いたので、顔を上げると、石丸御留守居、筒井肥前守改憲が、人って来て、   「修理が、亡くなったそうな」  と、いって、前へ坐った。そして、坊主の足早に特って来た櫛を敷いて、   「斉彬を奉して、倒幕をやろうなどと企てておった浪人どもは、さぞかし、力落しであろうがーー惜しい人物だが、また邪魔な人物でもあった」  伊勢守は、それに答えないで、眼を閉したままであった。   (斉彬が亡くなれば、真因掛が、堀田一人で、堀田と斉彬は、段がちがうーー’—斉彬は、勝麟太郎という軽輩を、いつか推しておったが、島津の家風なら、いざ知らず、幕府として、堀田と軽輩とを併用する訳には、行かないII国の衰える時には、人物がないが、天下に号令をしている徳川として、堀田と、小栗、この二人しか一人前に、用いられぬとはー・\  斉彬の、温厚な、だが、此のすわった、そして、立派な‘−—広い知識と、高い見識とを思い出すと、筒井改憲の顔を見るのさえ、厭になってきた。   (斉彬は、目本のために、幕府のために、尽して、過労で死んだのであろう。わしも、いささか、斉彬を見習って、職に倒れよう。斉彬のために、わしの最後の友情として、斉彬の志の通リに、島津の家督を片づけてやらねばならぬ。それだけしか、わしが、斉彬に尽すことはないのだ。斉彬は、いえぬくらいに、多くを、わしのために尽してくれたがーー)  伊勢守は、ヽ斉彬の亡き後の、島津の相続について、きっと伊達、黒目の人々は再び、斉興を後 見役にするということに対しては、反対するであろうと、信していた。   (どんなに反対しても、斉彬の孝心としては、忠義を立てて、斉興を、後見役にしたいであろう。わしは、唯一つの、わしにできる、斉彬に報いうることとして、死後まで、斉彬の孝心を貫徹させてやらなくてはならぬ)  伊勢が、そう思った時、坊主が、   「お上りになりましてござります」  と、襖越しに、声をかけた。   「お通し申せ」  と、伊勢が答えた。      八  阿部伊勢守は、二人の挨拶が、終ると、.   「後見のことでござるか」  と、笑いながら聞いた。伊達宗城が、   「なにぶん、斉彬の志を、そのまま久光へ継がせたく、忠義を当主として、後見を久光と御歌定め願いとう存します」  黒田長博も、   「この儀、もっとちかと、心得まする」  と、いった。   「わしも、いろいろと、考えた」  伊勢守は、腕組をして、絶えず、微笑しながら、   「前々からの関係と申し、わが家の相続と同じように考えておる」  二人は、   「はい」  と、言って俯向いた。   「ところで、これは、古い例で、御両所の御意に召さんかもしれんが、関ケ原の戦いの時、大谷吉継が石田三成に、家康は、もう五七年で死ぬゆえに、それまで待たぬか、と言った話がある。今更、こんな古めかしいことを、申し上げるのも、お笑い草だがーーしかし、斉彬の斉興に対する、子としての至情を見るとき、斉興がああいう仁ゆえ、久光を後見としては、後見が二人あるように、斉興は黙っておるまい、と思えるゆえ、斉彬の心としては、今しばらく、後見は斉興としておき、天寿を待って、久光が立つ。これが、わしの、斉彬の孝心を亡き後にも、完うさせるものだと思うているが、どういうものか」  伊勢は黙って俯向いておる二人の心が、自分の説に同意していないのを、よく知っていた。それで、  「久光は、わしの見るところではーーー御両所の前ゆえ、シ吹なく申し上げるが、斉彬より若い。いろいろと若い。そして、ただ、斉彬の歩んで来た道をひたすらに歩もうとしておるが、斉彬で   あればこそ、斉興は、己の此の中では、反対しておっても、表面目には上せなかったが、久光ではヽ遠慮なくヽ振舞うであろう・例えば紡績で例をとるとヽ久光はヽ兄の意思をつづけょうとし  ょうし、斉興は、打ち切ろうとするであろうが、つづけられるものなら、世のために、続けても  いいが、久光では、続けられもせず、棄て去リもせずという、ひどく中途半端なものになる。わ  しの心配は、ここにある。斉興が、後見として、斉彬の続けたものを、ことごとく、破壊してし  まう。これは、一時は、惜しい。しかし、斉彬は、わしに申しておった。軽輩の中から、きっと、   その倍も、三倍もの力で、それを、復活させる奴がおるとな。それが、眼に見えておるから、と、   いつも申しておったが、斉興が、もし、斉彬の仕事に反対したなら、反対すればするだけ、反発  力が、潜勢力が強くなって、蘇ってくる。斉興の命は、ここ長くとも、五、六年であろうが、そ  の五、六年の後に、爆発する軽輩の力と申すものは、あるいは−・!わしらをも、倒すかもしれぬ  —それでょい。倒されるものならしかだがあるまい。しかし、今、久光が、斉興と争って、斉  彬の志を、保存するとすれば、この彭勃たる勢いが蓄積されまい。一つは、斉彬の愛しておった  軽輩のために、一つは斉彬の孝心のために、余命のない斉興を、後見にしたいと、わしは、此を  くくっておる。いかがでござろうか—‐‘‐」    二人は、阿部が、斉彬と同じょうに、表面は柔かであるが、いい出したら退かぬし、もっとも  な意見であったから、    「御高説、至極妙と存します」    と、里搦[が、いった。  「何分ともー’−」 と、京城が顔を上げた。      九   「御隠居が、後見に’−ー」   「もう一度、老公が’—」  そうした噂は、すぐ家中いっぱいになった。軽輩は、身体中を、蒼ざめさせて、怒りに、頗えてきた。   「さんざん、斉彬公の、世話になっておきながら、阿部伊勢という奴は、なんだ」  と、ある者は罵った。   「福岡や、宇和島は、何をしているのだ」  と、丁八は、叫んだ。そして、そうした人々が、集まっては、階級の上の人々へ、白い眼を向けるようになった。  上の方の人々は、近頃の世間と同じように、一口に、痩浪人がと、軽蔑しながら、その浪人たちの何かの力を恐れているように、   「なんの紙漉武士どもが」  と、軽輩を軽蔑しながら、その軽輩どもの、身体から溢れて来る、眼から放射されて来る力に、圧迫を感じていた。    「老公が、後見とは、当然だ。浪人は、世の中を乱そうとするし、家中の軽輩どもは、家を乱そうとしている・久光には、軽輩どもを、押えることができまいが、斉興ならー—」    「久光公は、斉彬公の真似が上手だから、押えることができんのみか、かえって、下手に、軽輩に利用されるだろう」    「しかし、もう、老公も、いいお節だから、ここしばらくの間にばたばたと、押えつけてしまわぬとー‐−−」    「そうは行くまい。奴等の根というものは、ずいふん、張っておるし、どうも、天下の大勢は一揉めしそうではないか?」    九州の名族として、七百年来、藤摩の地に蛎居し、開ケ原以来は、上下の分が定まって、士分階級が二つに分れ、以後三百年来、凡庸といえども、門地さえ高ければ、傲然として下に臨み、   下の者はいかに人材であろうとも、容易に、総出することのできなかった因襲が、斉彬のために破られて、上士の人々を、圧迫して来たことは、それらの人々にとっては、容易ならぬことであ  った。    「奴等、低い身分の者は、失う物がない。京師へ脱走し、江戸へ出奔するに、身一つでいいjーわしは近頃、あいつらが、羨ましくなって来た」    そう嘆しる上士階級の人々もあったが、多くの人々は「倒幕のなんのと流行物にすぎぬ」と、   考えていた。そう考えなければ、かれらは、軽輩の下につかなくてはならなかった。倒幕のこと、   開国のことにかけては、軽輩の方が、逼かに、経験と、理前とをもっていた。そして軽輩が、信 しているごとき天下となれば、当然、そうした天下にした功労は、軽輩の手に移って自分らの現在の地位は、逆になる寂れがあった。だから、   (流行ものだ。今に、治まる)と、考えて、気安めするよりほかになかったかれらは、今更、軽輩の後塵を拝して、働きたくもなかったしーーだが、そう考えながら、.   (あるいは、そういうことになるかもしれぬ)と、1−そして、   (そうなった時には、この地位が11だが、今更、大久保や、西郷の前に、頭が下げられるか)と、自分の、自分の地位の矛盾に、いらいらしながら、   (斉興公が、この際思い切って、軽輩どもを、やっつけてしまってくれたならーー)とー‘それは、上士の人々は、お互に口へは出さなかったが、計で考えていることであった。      十  西郷吉之助は、すぐお庭方を御免になった。大久保市蔵は、琉球館書記方心得を罷免されてしまったし、そのほか、斉彬の手で、取り立てられ、取り立てられかけていた人々は、ほとんど、その地位を奪われてしまった。  そして、その人々の代りに、上士の人々が、それらの二男がご二男が人って来たto'J上役は蔭でそっと、.   「物の役に立たぬ」  と呟くし、下役の人々は、   「なんだ、あの野郎」  と、軽蔑した。そして、心ある上役は、軽輩時代の近づいだのを知って、斉興を、もう一度、後見にしたということは、かえって、怒かったと考え、下役の人々は、   (老公は、すぐ死ぬんだ。死んでみろ、手前らー)と、威張るのみで、仕事のできぬ上士出の人々を軽蔑して、斉興の死を、待つ心になっていた。  磯浜にあった紡績工場は、閉鎖されてしまった。上士たちは、   (何の後にも立たぬ紡績工場など−—いっそ、こわしてしまえばいい)と、田こったし、下士たちは、それが、ただ、斉彬の遺物であるというだけで、そうしたことに、深い憤りを包んでいた。反射炉の火も消えてしまった。上士たちはそれに対して、   「濫りに、大砲などを鋳造して、幕府のとがめを受けるなど、愚の骨頂だ。薩摩には、天嶮がある。誰が、入れるものか」  と、評した。そして、下級の士は、磯浜の堤の中に、沈黙している、その反射炉から生れてきた大砲を、撫でながら、ある者は泣き、ある者は憤り、ある者は叫んでいた。   (斉興が立とうと、久光が立とうと、わしらの志は、変らないぞ。わしらは、それぞれ、斉彬公のお志をもつものだ。吾々の一人一人が、それぞれ天下の難に当るのだ。一人で、日本を背負って立つつもりなのだ)  三人集まれば、五人集まれば、斉彬の遺訓をロにしていた。  軽輩が、何をしても、だまっているのを、将曹らは、斉彬が亡くなっての失望だと、考えてい た。  それで、硝子工場を、機械方を、造船を、斉彬が、目本の進歩のために、研究し、設備しておいたすべての事業を「経費節約」という名の下に、停止させてしまった。そうして、実際また、それらのところで働いていた人々も、斉彬を失っては、完全な仕事をし得なかった。  斉彬の、遺しておいたこうした形が、だんだん荒れて行くとともに、軽輩の力は、ますます内部で潜興してきた。上士の方からも、軽輩へ、近づこうとする人が、生してきた。軽輩の中の有為な人々が、同僚の言行に対して、理解を持ち出してきた。   「おれは、斉興を、主とも頼まぬが、久光も、また主とも頼まぬ。天下のことは、自分一人で天下とともに、天下の勢いとともに、成し遂げて見せる」  西郷吉之肋は、こうした決心をした。そして同し心の人々は、斉彬の遺業が、斉興の手にて破壊されると同時に、斉彬の志は奉じて、それぞれ諸国に奔った。上士は、勤王倒幕の遊説の士が、城下へ入るのは、防いだが、軽輩が、そのために、脱出するのを、とめはしなかった。  止めることは、激発させるおそれもあったし、一人でも、そうした男のいなくなることは、自分を安全にする道であった。上士にとって、斉彬は、理解のできぬ、大きい陰影のようなものであった。そして、その死とともに、それが消失すべきであるのに、だんだんその影が大きく強くなるのに、困った。そして、その影を、消し払うことのみに努めていた。      十一   (兄の、遺志を、どこまでも継いでー)  その日の夜から、久光は、そう考え、そう決心をしていた。  だが、その目の夜から、重役たちは久光を除いて密談をしていたし、その翌日、上士階級の人人は、   (もう一度、斉興公にI−−)と話をしたし、その次の日には久光が斉彬に代って、目をかけてやろうと考えていた人々が、久光に冷やかな目を向けたし、それから、幕府は斉彬を頼みとしていた、その一部分も、久光を頼みにはしていないようであった。   (兄の考えは、何ひとつ間追っていない。天下も、島津も、兄の予言のごとくになって行くであろう)  久光は、そう信して、もう一度、家政を支配しようとする斉興に対し、させようとする人々に対し、押えきれぬ不満と、怒りとをもっていた。   (わしは、自分の権勢のために、忠義の後見をしようとするのではない。天下のため、島津のためにだ)  だが、久光を取り巻く、上士の人々は、一人として久光に「また、老公が、お立ちになるとは困ったことでござりますな」と、いう者がなかった。そしてその代りに「軽輩どもは、今度の斉彬公の御逝去も、お由羅様の、呪阻だなどと申して、ひそひそ談合しております」と、いった。 そして、軽輩は、明かに、久光を、敵視していた。久光は、葬式の目に見た西郷吉之助の大きい眼を思い出した。それは、十分の敵意と怨恨とを含めて、睨みつけた眼であった。久光は、連からぬ前に、吉之助らが、斉彬のために、久光を元兇として、立とうと企てていたということを、聞いていた。だから、   (わしは、兄の志を継いで、ともども天下の難に赴こうというのに、汝ら、わしの吐がわからぬか)とも、考え、(不屈な)とも、怒りllそうして、ある時には、   (わしは、まだまだ兄にまでは到らぬから)と反省もしてみたが、重臣たちは、久光を斉彬の崇拝者として危険に思い、軽輩は、斉彬の敵として、憎んでいるかと思うと、ただ一人、孤独の立場になって、自分を知られぬ苛立たしさに、落ちつけなかった。  久光は、兄の残しておいてくれた、軽輩の人々の連名を読み、新しい器具の設計書を見、新しい知識の翻訳書を眺めて、ただ一人、部屋の中に閉しこもっていた。   (兄は、こういう時に、一いつも、判断を誤らなかった。重役どもが、己のために、斉興を立ててーーー‐父の命が、何年あると思うか? それだけの間小康を得て、何になるか?ーー’兄の仕事をこわして、それで、兄の蒔いた種までが、枯れるとでも、考えているのか?)  久光は、重役とか、上士とかの人々の、あせリ方と、軽輩が、斉彬の死後、何一ついわず何一つせずーーそして、ひそかに脱藩して、京師へ、江戸へ、行くのを見ていると(世の中も、ちがってきたが、お国風もちがってきた)と感しない訳には、行かなかった。   (十年前なれば、軽輩を、手もなく、押えたであろうが、今では、上士は、己を守るのみに忙   しい。勝利は、明かに、軽輩の手にある。わしを恨んでもいいが、わしぼ、お前らを、十分理解しているつもりだ)  久光は、自分の代になると同時ろうと決心した。 に、西郷を、大久保を、斉彬のしたと回しように、重用してや      十二  久七峠の上の、茶店に、七、.八入の若者が、それは、脱藩をして、江戸へ、益満等とともに、行を同しゅうせんとする人と、京師へ出て、諸国有志と、提携しようとする人と、そうして、見送りに来た入とーー、   「爺は、いつも変らぬのう」   「はい—−ー」   「婆は、どうした?」   「あれは半年ばかし前に、亡くなりましてな」   「そうか、死んだかI−’」   「いつだったか、やはり、貴下方みたいな方がこの先で、新合をなされましたが、今日も、何かー—」  若い人々は、眼を見合せて、   「牧を、討ちに来た時だった。あれは」 一人が、窓から、這かの、山裾の道を、指さして、 「あの辺だった」 一人が、 「さ、行こう、一刻、遅れると、一刻の損になる」 と、いって、刀をさして、立ち上った。  「それでは、益満に」  「ああ、西郷に」 四人は、関所の側へ、三人は元の道の方へ。  ざんば岬を、後に見て  袖をつらねて、諸人の  泣いて、別るる、旅衣。 三人が、声を合わせて唄った。そして、それが終わると、四人が、  澗城の長雨、軽塵しめリ  客舎青々、柳色、新なり  君にすすむ、更に尽せ一杯の酒  西の方陽関を出ずれば故人なからん。 「成功をしてくれ」 「後を頼むぞっ」   「斉彬公のために」   「天下蒼生のために」  三人と四人は、振り返り、振り返り、同し唄を、かれらの別れの小唄を、   ざんば岬を、後に見て   袖をつらねて、諸人の  曲り角へ来た時、   「有村っ」  有村が、振り向いて、   「五代っ」  と、叫んだ。そして、手を挙げて、各々の名を呼んだ。そして、ちょっと、佇んだが、すぐ山蔭ヘーーー‘   「おIい」   「おーい」  と、答えた。別離の悲しみが、胸いっぱいであると同時に、未来に対する希望が、明るい金の鳥の形となって、若者の、軽輩の青年の頭の中を、狂ったごとく、飛び翔っていた。   (倒せても、倒せなくても、徳川を倒さずにおくものか。斉彬公が、そうおっしゃっていた)  (取れても、取れなくっても、天下を取らずにおくものか。斉彬公が、そうおっしゃっていた) 、-〜-   (やれても、やれなくっても、吾ら軽輩はやらずにおくものか。斉彬公が、そうおっしやっていた)  行く者は、束へ、送る者は、城下へ。それは長い距離を離れていたが、心は一つであった。斉彬の死によってー新した心は、斉彬の遺志を展べさすために、十分の熱と力とをもっていた。  関所を抜けたらしく、四人の姿は、牧を迫って山内と闘った遺の辺に、小さく見えて来た。もう、声は届かなかったが、お互いに、手を挙げ、手を挙げしながらーー’遠ざかり、曲り、そして別れてしまった。