黒石の乱闘 直木三十五         一  播州赤穂の城主森越中守|忠徳《ただのり》に三人の子があった。長子が家を継いで忠弘、次男を遊亀 丸《ゆきまる》、三男を扇松丸《せんしようまる》と云う。安政四年忠弘、病篤く起てぬと知るや「自分の後継は三男扇松丸 に」と遺言した。遺言したと江戸詰年寄役森綾之丞が云った。隠居している忠徳もほぼこれ に同意である。  今ではその弊《へい》を絶つ為め、明かに長子相続であるが、徳川時代では当主の意のままに、必 ずしも嫡男を立てずとも末子でも三男でもよかった。薩州の御由羅騒動も丁度この頃、本妻 の腹の子と妾腹の子とが擁立争いして、妾腹側が勝った時である。水戸家にも光圀《みつくに》以来時々 この世嗣問題で血さえ流れた事がある。この場合はどうであったか、後に村上家の人々が閉 門されたりしているから噂はいろいろであったにちがいない。とにかく妾妻の別が大して無 く、先後の別が無いとすれば、後妻の子が利口なら、嫡男を置いて立てても「御家への忠 義」には立派になる。第一家庭の円満になる。二男、三男の順序などどうでもいい。  この報を聞いて国許で反対したのは国家老森|主税《ちから》と、用人村上|真輔《しんすけ》の二人である。国許の 二人は江戸へ出て大殿を動かし、遊亀丸を世子として安政五年幕府の許を得た。森美作守忠 徳と云うのがそれである。これがひどく反対党の怒を買った。尤《もつと》も当時の勤王派、佐幕派の 争いがこの藩中にあったかも知れぬ。そうして村上真輔が大正八年十一月、勤王の功により 正五位を贈られているのを考えると、村上等は勤王であったとも思われる。然し吉田宗平、 田川運六等の人々が後長州に走り、土佐に依った事を考えると、これ等の人々もその派であ ったらしいから、この二潮流の衝突よりも純粋に「世子問題」のみであったと見る方が至当 らしい。  扇松丸を擁立せんとした森綾之丞はそれが失敗に終ったばかりでなく、村上真輔の二男|駱 之助《らくのすけ》の漢学の門人、足軽兼茶道役の小林寅哉なるものを勘定奉行に取立てて、再び森主税の 為めに反対され蟄居《ちつきよ》を命ぜられる事になった。この小林寅哉は駱之助に破門された者であっ て、しかも自分の気に入りの人間だから、この二人は森主税と村上真輔に勿論怨みを含む筈 である。  村上真輔、字は伯徳、号を天谷と云い、岡田南涯、猪飼敬所の門に遊んで、忠徳の岸認と 近侍を勤めて百八十石を領していた。子供が七人ある、直内、駱之助、農夫也、四郎、行 蔵《ゆきぞう》、六郎と女の末っ子一人とである。当時同藩に河原新左衛門という人があった。ここに二 人の娘があって評判の美人である。これに吉田宗平が深く想をかけて居た、ところが、その 姉娘が村上直内の所へ嫁いで行った。そしてもう一ついけない事に、妹娘の聟《むご》として、二男 の駱之助が河原家へ入った。一家して赤穂の評判娘二人をしめてしまったのだから、岡惚 れ、本惚れの若武士が妬くのも無理は無い。美しい女は公園と同じで、共同して眺めるもの だと云ったような感は誰でもするものである。独占した者が羨ましがられると共に憎まれる のは、敵討の原因としてもままある。この私恨へ、世子問題の鬱憤がからみついた。  それと共に、尊王倒幕の風潮は赤穂藩にも渦を巻いていて、過激派の一人である西川升吉 一派は、しきりに家老、用人(参政者)らの微温的行動に慊《あきた》らず、一面森綾之丞等の煽動に より機を待っていた。過激派という者も必要な分子であるが、この升吉は女に乱暴をして幽 閉された事があるから余り性《たち》のいい方ではなかったらしい。  吉田宗平、田川運六を始めとして、山下恵助、野上鹿之助、西川邦吉、疋田《ひきだ》元治、松本善 治、浜田豊吉、青木彦四郎、高村広吉、松村茂平、山本隰潔、八木源左衛門、西川邦治、山 下鋭三郎、木村寅次の十六人が、いつの間にか、 「やっつけてしまえ」  と云う事になった。私怨は私怨として、 「自分等に都合のいい遊亀丸を立てて私曲を行わんが為め無理に大殿に迫って、当主を立て た、御家の為めによくない奸物である」  と云う理由がある。 文久二年十二月九日、詩会へ招待された森主税が下城したのは夜の一時近くであった。二 の丸門を出ると横ざまに寒風が吹いていた。月の薄明りに提灯《ちようちん》もつけず、俗称カンカン石と 呼ぶ大石のある所までくると、七八人の人影が前後に分れて取巻いた。主税刀の反りを打た せつつ、恐れ気も無く通過ぎようとすると、立塞がった四人が、各々青眼にとって前をさえ ぎった。 「森じゃ、何の怨がある」  と、云いざま草履をぬぎすてて、次の瞬間にはカンカン石を背に、 「人違いすな」  と叫んだが、誰も答うる者がなく、刃《やいば》を連ねて迫ってくる。その中の一人が手槍を提げ て、そっと大石の背後《うしろ》へ廻って、襟元から四五寸下の所まで見えているのを覗って、拳も通 れと繰出した。 真輔の家では、長男直内が京都に、二男駱之助が大阪に、三男農夫也が新宮に、四男四郎 は御殿に、家に居た者は五男で十九の行蔵と、六郎十七歳、外は女だけであった。 「急用で参りました。御開門」  と、門を叩く。 「誰方《どなた》」 「西川升吉で御座る」 門を開けて、 「深夜に御足労と存じます」 「いや手前こそ1実は只今薩長土の有志からの報告にて只今すぐにも上洛仕る所存、も し御在京の直内様に御用でも御座らばと」 「一寸《ちよつと》御待ち下さいませ」  と、取次の女中が入る。その隙に玄関の暗闍へ立った五六人。 「これは西川」  と真輔寝間着の上へ小さい脇差を一本差して、 「こちらへ通るがよい」  と、次の室へ案内する。背後から、 「えいっ」 玄関から土足のまま一足飛に飛上って斬つけたのが、肩へ。 「うむ、何をーする」  と、次の室へ走込んで、振向いて脇差を抜く。どどどどと乱るる足音。 「狼藉者」  と叫んだが、ただ脇差を構えているだけの気力だけしか無いのを斬倒して、家の中の騒が しく起出てきた時分には、ただ泥足の跡のみになっていた。真輔六十六歳であった。         二 大目付宮地万之輔の玄関先に、小柄で首級《しゆきゆう》へ縫いつけた斬奸状が投込まれていた。森主税 の首である。 コ身の威福を擅《ほしいまま》にして国事を憂えざる段、天に代りて云々」  とある。同時に月番用人松本堅輔の邸にも、 「身用人の重き職にありながら、これを諌めず却って阿附盲従するの段主税と同罪」  とした斬奸状が投込まれていた。そしてその斛れにも十三人の連署があった。  森家と村上家とへは届出でによってすぐ褸視がきた。型の如く調べて引揚げる頃には夜が 明けてきて、登城する者の面《おもて》いつもより緊ってみえた。城中でいろいろ評議があったが、穏 和派の頭目二人ともに殺されてしまっていたから、議論は急進党の勝利になった。両家へ使 者となった役人は門へ青竹を斜に打つけ閉門を中渡した。  京都から急変を聞いて大阪へ下り、駱之助と打合せて帰国しようとしている直内の所へ、 早飛脚で閉門と知らせてきた。 「兄さんこれはうっかり戻れない」 「わしもそう思う、しかし、とにかく新浜まで行って、様子を見ようではないか。此処に居 て評議に日を移しても無益だから」  と、十三日赤穂新浜へつき、人を派して親族へ様子を伺わせると、危いと云う。父を討た れ、理由の判らぬ閉門に遭い、そして国へも入れぬ二人は、涙を滲ませつつ小豆島の知人の 許へ暫く潜む事にした。三四日で、帰ってもいいと知らせてきたから、用心しつつ、邸へ戻 ると、未だ父のな騰.は埋ても居なかった。死骸の疵を改め、当時の模様を聞き、暗殺者は十 三人で、十三人とも摂津住吉の土州藩の陣屋へ逃げてしまった事を知った。  直内はすぐこの片手落を当路にただした。と同時にその返答代りとして、家族はちりぢり に親類あずけを命ぜられてしまった。十八日の朝、駱之助が大目付の呼出しに応じて出て行 くと、 「其方当家風に合わぬ故永の御暇《おいとま》を下しおかる」  というのである。さっと顔色を変えた駱之助は、 「言葉を返して恐れ入りますが、いかなる所が家風に合いませぬか、念の為め御伺い仕り ます」  と訊ね返すと、 「拙者はただ取次役だけじゃ」  と取合わない。 「損二郎i今中野に居らるる河原亀次郎氏ー」  と一子を呼んで頭を撫でながら、 「丈夫で大きくなれ。おとなしく御母さんの云う事を聞くのじゃぞ。いいか。お父さんは御 用で遠くに行くからの、今度帰る時にはいい御土産をどっさり買ってくるぞ」  と云って目付役人に守られて裏の小径から家を出た。北へ半里、山へ入ろうとする所で後 方から馬上で追ってくる妻の兄八木権之助に逢った。 「危い。山に反対党が潜伏している。今手分けして押えにかかっているから、一先ず引返さ れい」  と云う。駱之助悲憤の声で、 「本当か」  と云う。 「青山  目付1にも話をしたが、どうやら知っている様子、永の暇《いとま》を出した者、討たれ ても構う所無いと取合わぬから、今外の方へ運動している所じゃ」  これを聞いた駱之助は心に決する所があった。斎藤拙堂の門人で三島中洲と兄弟のま郊。あ った人だけに反対党は何んとかして失ってしまいたいと執拗に狙っているのである。なまじ 命を惜んで恥をとってはと、心に決した駱之助は、河原家代々の菩提所福泉寺へ入った。  三四人の親族が来て、当局の不法を怒ったが、反対派の勢力をどうする事も出来ない。 「もし討手でも参らば一門、一族までに累を及ぼそう。駱之助さえ一命を捨てたならいいの じゃ」  と、帰趨《きすう》すべき所を知ってこう主張して聞かない。親類の人々もこれに反対する理由がな かった。夕方までに一切の公私に対する処置をつけた駱之助は、八木代太郎の介錯で腹を切 ってしまった。検視がきたとき、豊岡与一は泣きながら、きっと検視を睨まえつつ首を差出 した。二人の検視は早々に帰ってしまった。駱之助三十六歳である。 三  森綾之丞は家老になった。  文久三年一月十日、 「西川升吉以下が、主税や真輔を討ったのは私怨からでない。従ってもう帰参しても彼等に 対して決して復讐などをしてはならぬ、この旨誓紙を出せ」  と云うのである。虫のいい註文である。藩主の叔父鉄之助が江戸から帰って、この事件を 取調べると云う報があったので反対党は、土州藩を動かし、内では遺族を圧《おさ》えていろいろの 策をとった。随分人を馬鹿にした話であるが、結局そういう誓紙をしたためなくてはならな くなった。そしてそれと共に、これを慰撫する手段として、村上家、河原家共に、 「祖先の功により」  という名目で閉門を許されて家が立つ事になった。所が「祖先の功により」だとすれば 「真輔の罪」を認めなくてはならぬ。そうで無いと閉門が許されても、それは「祖先の功」 で「真輔の功」でなくなる。村上家では、まずこの真輔の冤《むじつ》をすすぐと云う事になった。と 同時に四郎は復讐もすると云い出した。党派争いの事だから、少し一方に勢力が出来てくる と、反対派はかなり恐怖に陥らなくてはならぬ。  七月十五日に、十三人は何処かへ逃亡してしまった。家中でだんだん不評判になるし、村 上一門の仇討が恐ろしかったからである。逃亡と同時に、家中では十三人をだんだんうとん じ始めた。十三人の同党派中でも彼等を冷眼視し始めた。  九月二十七日、そっと藩へ戻った松本善治、浜田豊吉の二人は、華岳寺内森家の墓前で切 腹してしまった。流浪したらしい衣類から見ると二人とも貧苦に耐えられなかったらしい。 当時の騒がしい天下は他国の浪人者などに食わせる禄は少かったのである。  それから、その以前に青木彦四郎が、その母に迫られて自殺し、西川升吉が金銭上の事か ら仲間の疋田元治に斬殺された。 「野上が木津村へくるそうじゃ、今知らせてきた」  と六郎が走帰《はせかえ》った。家には行蔵一人しか居ない。 「彼奴《きやつ》を引捕えて白状させよう。すぐ行くか」 「河原で待受けるなら十分間に合う」  細引一筋を腰に、裏門から真すぐに木津村近くの小さい砂川、土堤の薄《すすき》の茂りへ身を隠し た。十三人の一人野上鹿之助は追放に処せられたが行く所が無く、一旦他領へ出たが又他領 から赤穂の木津村へ隠れようと立戻る所である。  十間余りの河原、ささやかな流ぼかりで砂原である。薄の中についた一筋の小径を下り て、河原へ出る。すたすた行く前の土堤の上で、 「野上よい所で逢ったの」  と、薄笑いしつつ村上行蔵が声をかけた。そして一気に河原へ飛降りる。 「何を」  と叫んだかと思うと、つと走寄りざま、今飛降りた行蔵へ抜討に斬りつけた。心得たりと 身を開いたが砂原へ深く立った足、軽く軅し兼ねて頭の端へ斬つけられた。続いて二の太刀 ーの瞬間、 「卑怯者」  と声したかと思うと六郎が背後《うしろ》から迫った。振向いて立向う。 「手向いするか」 「手向い? 小癪な小僧め」  行蔵、血潮をぬぐって、砂を引つかみ、前へ廻って、 「畜生」  と叫ぶと、砂を目潰しに。 「卑怯な真似をするな」  と、右手に一刀、左手を挙げて目をかくす。背を見せて逃げんとするのを、六郎、片手突 に背後から刺す。振返りざま、横に薙ぐのを、行蔵|隙《すか》さず小手へ打込む。刀を落してそのま ま逃げるのを七八間追うと、追付いて片手なぐりに頭へ斬る。背後を突く。どっと倒れる を、踏つけて首をあげた。 四  明治になって、大赦があった。それを機として直内は五十石に、駱之助の一子亀次郎は給 人末席に、十三人の残りの者は元の禄を給された。十三人の罪悪がだんだん明かになり、反 対に村上一門の號が瑠がれそうになるのに、沙汰として斯ういうのだからとうとう親族、岡 山藩の江見陽之進-水蔭氏の父1が憤慨して強硬に赤穂藩へ掛合った。藩では大いに困 っている内に、明治三年十一月二十二日、直内が病の為めに死んでしまった。死に当っての 心事を察し、同時に穏和な意見をもっていた兄が死ぬと共に、四郎はきっと復讐するという 事を心に誓った。そして明治四年、 「先年不慮の義に就て冤枉に相懸り、横死の段愍然の至に思召し候。今般熟と御取調相成 候処全く一時の不幸に相違も無之依て雪冤無罪の義に処せられ候」  という沙汰が下ると共に、この決心はいよいよ固くなった。この沙汰を下すと共に、十三 人中の残り六人へは、 「高野山へ登って御先祖御廟所釈迦門院を守れ」  という命が下った。真輔を無罪とした以上、そしていろいろ一族を圧迫し、十三人を庇護 した以上、一騒動起らねば納まらないし、騒動を起すと十三人に便を与えた小藩への面目が 立たぬ。小藩の赤穂としてこう処置するより外になかった。  村上では仇討の準備を急ぎ出した。岡山からは、藩の指南役阿部右源治の門人、赤木俊三 というのが助太刀にくるし、従兄弟の津田勉適叔父の水谷嘉三郎-現在中野におらるる富 田嘉則氏1の二人が加わり、敵六人が船に乗るに先立って、隣路で堺へついたのが二十四 日の早朝である。  堺の福知屋という酒屋に知人がいるので、これに事を打明けて、海岸の見張りを頼み、赤 木俊三と六郎、従僕ボ備庄ハ助とがそれについて居残って二十五日、五人は一足先に高野山へ 立った。足場を計る為めである。  五人の中三人は手槍を携えている。杉の皮で包んで二十六日、紀ノ川の左岸橋本へついて 一泊した。山で討とうか途中で討とうかという事についていろいろ議論があった。河内と紀 州の境、紀見峠などは究竟《くつきよう》の場所である。橋本で足場について意見を闘わせた結果、二十七 日に後戻りをして紀見峠で一泊し、その附近を調べた。それから三日市へ下りて油屋で泊っ た。  目印を見て追ついた三人が、敵六人が堺へ上陸した事を報じてきた。狭山から長野、三日 市、紀見峠と道は一筋である。さらばもっと有利な場所をと、二十九旦二日市を立って、強 行して河根村中屋へ一泊した。  明治四年二月二十九日。 「今日こそ」  と云っている所へ、堺の知人、浅五郎がきて、敵は堂如路で泊ったかも知れぬが、もし早 かったらおっつけ此処へ来るだろうと云ったが、敵の一行は三軒茶屋の松屋宗八というのへ 泊っていた。  今、新道が出来て道は楽であるが、この旧道から登る、河根から神谷までの道は実に険路 である。河根の村から千石橋の上を見ると、真直に立てたかと思われるような急傾斜の山道 が白く見えている。一寸《ちよつと》した平地に休茶屋があり、それを境にして胸を突く急阪がいくつも いくつもある。それを登り切った所にある茶屋が観音茶屋で、ここから二三町で桜茶屋i 今忠臣茶屋と云っているーーここから一町余りで神谷の宿になる。この桜茶屋と観音茶屋の 中間に、登り道から行くと左側に三四尺四方の岩が道脇に出ている。ここが黒石である。こ こから観音茶屋の問で乱闘があったのである。          五  朝七時という寒空に、河根の中屋を出た。同じ黒羽二重の紋付に袴、草鞋《わらじ》。村上四郎と津 田勉の二人は槍を包んで携えている。 「御武家が通るで、槍なんかもって」 「十津川の百本槍やろ」  などと村の人々は噂していたそうである。敵の一行七人も同じ黒羽二重紋付であるが、い ずれも肩から斜に荷物を縛りつけていた。誰が持っていたのか知れぬが、後に散乱していた その中に、鍋釜の類が入っていたそうである。 「足場が悪いな。この坂じゃ到底駄目だ」  前に三人、背後に三四人、上と下とから挟討にしないと、敵を逃がす恐れがある。作水峠《さみずとうげ》 のこの急阪で、上と下に分れる敵に五分の不利があれば、味方にも五分の不利が出来る。そ れに第一、うまく隠れる所が無い。敵の不意を打ついい足場が無い。丹生川の渓流にかかる 朱塗りの千石橋。楴誨々々を切取るといいが、ここも村に近くて、戦長くなると邪魔が入 る恐れがある。  登りつめた観音茶屋ーそれは其時分小さな小屋みたいな家で、茶店ではなかった。i その前を通って小半町行くと、道は平坦になって、左側に小山が突出ており、それから向う は左が深い谷、右が杉林になった谷間の繁りで、その山の尾背を通じている道としては一問 足らずのがあるだけである。  池田農夫也は旅僧に化けて頬へ膏薬を貼った。そして村上六郎が、その歯痛らしいのを介 抱しているという体にしてそっと見張る。農夫也は合図に使用する六発ーピストルーを 懐に入れて道脇に蹲《うずく》まりつつ手を頬に当てている。六郎は丸腰で、刀は水谷がもって叢《くさむら》の 中へ隠れる。姿は商人ともつかず遊人でもなし。 「うまく、気取られぬように」  との注意に、慣れぬ芝居をしなくてはならぬ。  寒空であるが、何とも感じない位に張切った心、黒羽二重の着物を脱いで、下に指し子の 稽古衣、上に白羽二重を着て、すぐに袴。股立ち高くとって鶴ザけ、堂韆の紐をしめ直して 鯉口を切る。 「大休、決して助太刀へ出るな。敵を打取ったらすぐ急いで国許へ知らせろ。あとの事を気 遣って愚図《ぐず》ついてはならぬぞ」  と四郎が注意する。大休は小山の上で琴平詣《こんびらもうで》の姿で下から登ってくる七人を見凝《みつ》めてい る。 「脱いだ着物を冠るがいい、白い姿で目立つといけぬ」  と、深い叢の内にそれぞれ隠れてしまう。  八時すぎ、三軒茶屋の松屋を出た一行は、揃いの菅笠に携爨野繍、作水峠の中程で草鞋を 新しくした。当時の草鞋代が三文か四文である。それに対して当百銭を旛雌し、 「釣はいらぬぞ」  と云って出た。朝早くから欝紫ばかりが、通るので、ひどく目に立つらしく村人は一行を よく覚えていたらしい。二月という寒い折、しかも朝早くである。山風の冷たさに手足を凍 らしつつ登る。空は晴れていたが、丁度、作水峠の絶頂へきた頃、やや曇り気味になってき た。 「もう少しで神谷だ。極楽橋を渡ると高野の寺領になる。急ぐがいいそ」  寺領へ入ると、討てないし、神谷へ入っただけでも心丈夫である。伊蹄郁処から、 「待て」  と現れるかも知れない人間を相手にしている七人にとっては一刻を争う気ぜわしなさであ る。観音茶屋を少し行くと高野山の翠蠻《すいらん》が真正面に見えて、その裾の右に神谷の屋並がちら ちらとしている。急阪を登切って、ようよう平地へ出ると、御山の姿。 「ああ、あれがそうだろう。あれが神谷だろう」  と云って、左手の小丘を何心なく行すぎ、山の尾背道へかかると耳の背後《むつしろ》に空をつんざい て、山々へ木魂しつつ響渡った銃声一発。         六  黒石の蔭から突立上った村上四郎、 「見忘れはしまい、村上四郎じゃ。父の仇、兄の仇、覚えたか」  と叫びながら、吉田宗平に突いてかかる。同じく行蔵、覚えの一刀を抜放って走りかか る。 「何を」  と云いつつ、背にした鐺攤の荷物を解きすてる。その間も無く突込んできた四郎の槍、躱 しざま抜いて、飛退って構える。吉田宗平一人、荷物を背負ったまま斬倒された。残りの 人々は荷物を解いたが、襷をかけた者は二人か三人しか無かった。 「小癪な、さあ来い、戦場往来の腕前を見せてくれる」  と云いつつ、悠々として刀を抜く山下鋭三郎。この人と田川運六とが六人の中での腕利で ある。それに人を斬った事もあるし、戦場へも出ている。場馴れては居るが、ただ意気がち がう。 前の三人が、言葉をかけて現れると共に、背後の四人も叢《くさむら》から登って出た。 「池田農夫也じゃ」 「村上六郎」 「覚悟をしろ」  と、水谷嘉三郎と共に抜連れて迫る。 「岡山の阿部右源治が門、赤木俊三と申す者、義によっての助太刀じゃ。吾と思わん仁はか かられい」  と云って二刀で歩み寄る。山下鋭三郎それを聞いて、 「聞いて存じておるが、対面は初めてじゃ、参ろう」  と云って、中段の稱え。俊三、左剣を青眼に右剣を真向に、 「おお」  と声を懸けたが、その声の凄まじく響く事、木魂したかと思われる位であったと云う。 「やあ」 「おお」  と二度、三度の懸声、この真隣で村上六郎山本隆哉と戦って居たが、若年の太刀先、老練 の腕に斬立てられて、じりじり後へさがりつつ受太刀に流し兼ねている。俊三、ちらと横目 に眺めるや、気合と共に打込む右剣、山下が払って斬返すのを左剣に止めながら、今打込ん で払われた右剣そのままに横なぐり、山本隆哉の小手を発止と斬る。  余程の手練であったと見えて、手首から切落されてしまった。左手で、六郎の斬込むのを 受けていたがほんの二太刀か三太刀、だんだん後へ下る。この俊三の太刀風を見て山下鋭三 郎すっかり気を呑まれてしまった。じりじりと下る内に、松の根に足がかかってたじたじと なる「問」左剣で払上げるや、右剣の入ったのが、山下鋭三郎、しまったと飛のかんとした 脚、太股へ斬つけたから、踏止まろうとして踏堪えられず、横に倒れるやつを、倒しもせず に、受ける太刀の上から力任せに打ち込む右剣、肩から頸へかけて十分に斬り込む。三四尺 もの血潮がつーと空へ飛ぶ。  八木源左衛門を相手にしたのが、池田農夫也。水谷嘉三郎と二人で左右から迫った。入乱 れる敵味方の叫声。物凄いばかりに聞える。後に山に居たものが、 「あんな大きな声が出るものか」  と不思議がったと云うが、十二三人が斬合っているのだから可成り物凄いにちがいない。 近頃の博徒の喧嘩のように二百余人乱闘して一人死んで四人軽傷などと云うのとはちがう。 八木源左衛門も老巧。二人の青年を綾なして、右へ斬込む。農夫也が避ける。左からくる嘉 三郎を引外して打込む。一進一退という折に、赤木俊三が横から、  「えいっ」  と叫ぶと共に、左腕水も堪《たま》らず斬って落す。吉田宗平に向った前方の村上四郎、鋭い槍先 である。二三度避けて後へ退く。道幅が狭くて追々に前後から押つめられてくる。六人退く と、すぐ耳許で、 「やあ、おお」  と云う懸声に、退いては不利、捨身となって付入ろうと、繰出した槍先横に薙いで踏込み ながら刀を返して横に払う。それが四郎の左の眼を掠めると共に、引くが早いか繰出した槍 に、胸を貫れて握りしめた槍、斬ろうとするのを引抜きざま、咽喉へ一突、槍へ血の流れて くるのをそのまま倒れた上から又一突き。  津田勉は手槍、行蔵と共に走出すや、西川邦治と田川運六に立向った。 「小賢しい」  と笑を浮べながら、行蔵へ斬りかかる。鋭い太刀先。辛くも受止めているが、相手を斬る 隙などはない。長く戦っておれば勿論負ける勝負である。 「おお」  と火を吐く如き必死の懸声が、時として無言のまま、血走った目で気合をかける。この体 を見た山本隆哉を傑した六郎。く叢らへ降りて草をつかみながら廻って来て、 「運六、覚悟しろ」  と斬込むのを、パチンと撥返して、 「参れ」  というと、成程手利である。五分の隙も無い。二十分余りの乱闘。津田勉の槍に西川邦治 が突刺されるのを見て、 「さあ、もう三人じゃぞ、しっかりやれ」  と云う俊三の声を聞くとともに、突然踵を返した。六郎が、 「運六は燈じゃ」  と叫んだのはこの時である。 「卑怯者、逃げるかっ」  と、行蔵の声、六郎が驩雌す。疾風の如く農夫也の前を太刀振り廻しながら駈抜けた運 六、観音坂の西手の脇道、山の中へ走入る。 「待て」  と云ったとて待つ者でない。村上四郎、血の流れる眼を押えつつ追うのを、池田農夫也、 「兄さん、槍をかして」  と奪取りざま、狙いを定めて、流星の如く投飛ばす。三間足らずの距離、さっと股の間へ 入るや脚をから左で、どっと倒れる所を、農夫也に六郎、四郎、 「己奴《うぬ》、卑怯者」  と叫びざま、背へ斬りつける。運六、立上ろうとする、肩先背中へ、忽《たちま》ち下る三本の刀、 片脚を地について半身立てたまま又がっくりと地に突伏してしまった。  村上四郎は一時三人を相手にして一人で奮闘した。顔に三ヵ所、腕に三ヵ所、背に一ヵ所 と傷ついたが、左の目から耳へかけての傷など、肉がそげてぶらりと下っていたそうであ る。  運六の弟に岩次と云うのがある。十四歳にしか成らない。兄と共に此処まで来たが、到底 烈しい斬合に手出しが出来ない。道の側《かたわら》、杉林の叢へ降りて様子をみていたが四郎の手に 兄の首が抱かれてくるのを見ると、 「兄の敵」  と叫びざま斬りつけた。 「危いっ、貴様早く帰れ、傷《けが》をするぞ」 「何をっ、兄さんを討たれて黙って見ておられるか、死ぬ時には死ぬんだ、さあ来い」  と云ながら再び斬ってかかる。水谷嘉三郎、齢が若い。 「何をする」  と云いざま横に払った刀、少年の咽喉を横に切って食道を断った。 「あーっ」  と悲鳴を揚げて倒れる。 「生意気な」 「可哀そうだ。そのままi後で手当をしてやるがいい。さあ首を斬って手向けるのだ」  首を斬ると五つしかない。 コ人逃したぞ」  と云う声に、赤木俊三、 「いいや逃しはしない。近くに倒れておろうから探そう」  と云ったが、果して二丁余りの所まで、逃げた山下鋭三郎が、砂をつかんで死んでいた。  六人の首を斬落して位牌の前へ手向けたが、遮ぱ血で足の踏込む所も無い。余り凄惨なの で、当時暫くの問、別の小径をつけたそうである。琴平詣になっていた仲間《ちゆうげん》の大休は見届け 終ると共に、小山を走下《はせお》りて国許へ知らせに行った。観音茶屋の亭主で一昨年まで生きてい た当時の事を知っている御爺さんの話によると大休が、 「今、其処で仇討があったよ」  と声をかけて走下《はせくだ》ったそうである。  四郎は眼に痛手を受けているので他の人々と共に神谷へ引揚げて、行蔵、農夫也の二人 が、四里半ある五条町までこの事を訴えに行く事になった。二人が観音茶屋を通ろうとし て、血刀を提《ひつさ》げたまま入ったので驚いて逃込むと、 「敵討だ。親の敵を討ったのだ。手を洗わしてくれぬか」  と声をかけた。それで家人が安心して出て見ると中の一人の刀は鞘へ入れようにも曲って しまって入らなかった。 「庄屋は何処だ」  と云うので、中林という神谷の里正を教えると、気の毒だが使をしてくれと云う。庄屋が きて、それから五条県庁へ自首して出た。可哀そうなのは、田川岩次だ。六郎の一刀に咽喉 を切られて食道を断たれてしまった。村上の人々が、 「助けてやってくれ」  と云うのでいろいろ手をつくしたが、医者と云う程の医者も無し、橋本へ使を出している 内に半日ぐらいで死んでしまった。死際に、 「水をのましてくれ」  とせがむので、どうせ助からぬものならと水を与えると、一口呑むと咽喉から洩れて出 て、縛ってある布へ滲出たそうで、見ておれなかったと云う事である。その内に村人が集っ てきた。切られた片腕や、落ち散った手の指やらを拾い集めて、検視の役人を待つ事になっ た。とにかく四里半ある所から、御役人がくるのだから容易でない。三日二晩この六人の死 骸の番をして、村人が夜を徹したというが、とても腥《なまぐさ》くって堪らなかったといっている。  大休の、仇討をすました、仇敵は皆殺しにしたが、味方は一人も殺されなかったと云う知 らせが、赤穂へついたと共に、こんな俗謡が流行《はや》った。    蛸に骨無し、みみずに目なし      森の主税《ちから》に甲斐性なし  と云う唄である。家老森主税も村上と共に討たれているのに養子の主税が敵討に出なかっ たのを罵った唄である。仇討は禁じられていた、が余風は矢張り讀美の方へ傾いていた。  村上四郎は十日の問、眼の傷を養生する為め神谷に留まっていた。明治六年、十年の禁錮 に処せられたが贖罪金《しよくざいきん》で済んだ。それまでの獄中では手厚かったそうである。到底助かるま いと思われた四郎の傷も癒えた。  人々の中で、その後の事の判っている人は村上四郎で、赦されて出るや高野の小林区署へ 入ったと云う事である。そして官林盗伐の発見などをして評判がよかったと土地の人は云っ ている。村上四郎はそののち、大阪府下泉南郡中津村に住んでいたが、大正元年十一月七日 に死んだそうである。  七人の墓石は今、桜茶屋-仇討場所より神谷寄りーの右脇に六基残っている。中央の 田川運六のに弟の岩次が一緒になっている。以前は随分荒果てて、見る影もなく傾いていた が、大正八年の五十回忌に建直したらしく、昔からの三基の物に、新しいのが加わって、つ つましやかに並んでいる。香花絶ゆるひま無しと云いたいが、薄々ながらも弔《とむら》って行く人が あると見えて、立昇っている。 -