直木三十五 新訂雲母阪 「本当にそうか。」  と、聞かれると、そうで無いとは云え無い。く、とは|確《たしか》に聞いたのだから、これは断言できる。 然し次の、る、はそう云ったような、云わないような、|何《ど》うも明かで無いが、自分が唯一の証人             しほうぜん で大勢の中で、美しい寡婦の梢然としている前で 「くる、と確に聞いた。」  と、云った言葉を 「本当か。」  と、念を押されると、今更、いや|一寸《ちよつと》まってくれ、もう一度、耳に聞いてみるからとも云え無 い。それに死人に口無し 「くる、と確に聞いた。」  と、断言したって、それは一寸良心が二三分間疑を挟んでみるだけで、お|俊《しゆん》始め、列座の面々 はきっと自分の手柄に感謝するにちがい無い。だから 「本当ですとも。」  と、云い切ってしまった。 「|来馬《くるま》では無かろうか。」  と、一人が一人にこっそり耳打した。そしてその一人は|頷《うなず》いた。 「君が、何んと声をかけた時に、くる、と云ったのだ。」                   けいぎ  と、もし聞く人があったなら、来馬への懸疑はいくらか薄くなったかも知れぬが 「|対手《あいて》は? 手懸りは?」  とばかりしか考えていない若侍共に、そうした探偵法は気がつかなかった。そして、耳打から、 小声になり、一番思慮の無い男が 「来馬で無いか。」  と云うに到って事いささか重大となってきた。 「来馬に限って。」  と、云う人もあったが 「一応は聞いてみてもよかろう。」  と云う説も甚だ|尤《もつと》もであって反対の余地はなかった。 「お俊とは昔恋仲だったと云う噂もllいや事実もあるからな。」  と、多くの人は、自分の説に根拠を置いた。そして、三人の選ばれた人、お俊の弟と、親族の- 一人と、来馬の相弟子とが、来馬の家へ向った。         二  もし、その夜、来馬が町へ出て酒を飲んでいなかったなら 「くる、のくるは苦しいのくるで、来馬のくるでない。」  で、突張れたし、家を出ないと証人に下僕も言ったであろうが、|甚七《じんしち》は余り人に聞かしたくな  い家で遊んでいたから、三人が四角張って  「|何処《どこ》へ、今頃ー」                              、   と云った時、むっ、ともしたし、聯っともしたしーそれに第一、一一一人の態度が気に入らな力  ったから  「何処へ?」   と、云ったまゝ、じろりと目をくれて  「水を持って来い。」   と云った。  「少し、お尋ねしたい事があってー」   と、一人は、丁寧に云ったが、来馬の態度に、腹の中は不快である。   「はゝあ、改まってーこの深夜馳ボ おつ       。   「何処へ、今まで行っていたか、明瞭と仰しゃって頂きたい」   「何故ー妙な事を。」   「実はー」   と、弟の云ったのを一人は目で抑えた。   「お包みなく云って頂きたい。」  「城下ヘー」  「城下の|何《ど》ちらへc」  「一体・何を聞きに来られたのだ。君達から行方を聞かれるようなー丸で罪人を問うよう  なー」  来馬は酒を飲んでいた。だから、そう云っている内に 「無礼な。」  と、頭の中にうろノ\していた言葉が、つい口を出てしまった。 「無礼?」 「無礼だ。」  何も知らぬ来馬に対しては確に無礼であると共に、三人がこう聞くのも尤もな次第である。だ が、勢こゝに来てはそのまゝで納らない。 「無礼とはl」 「帰れ。」 「何をっi」 「馬鹿めっI」 甚七は二人を斬った。一人は死んだ。そして彼はそのまま|出奔《しゆつぽん》してしまった。         三 何者かに殺された佐々木左門の弟が桑名に居た。甚七は心易い仲であったから、その足で、そ の家を尋ねた。 「詰らぬ事から、これくてー、わしはこれから江戸へ出ようと思うか、少しの旅費と、一夜 の宿とをーー」 「何をまた、甥などがI」  と、云って夜更けまで語り、旅費を与えて立たせると、一足ちがいに急飛脚が来た。 「父を討ったのは来馬らしく、その上、人を|殺《あや》めて立退いたが、いろく相談もありすぐ来てく れ。又来馬立廻った節には召捕えて」  という文句である。主人はすぐ馬を呼んだ。そして、馬を走らせつゝ、五両も金を与えた事を いまくしく思った。  甚七は|午餐《ひるめし》を食べに茶店へ立寄った。馬上の主人は甚七が、徒歩でこの辺へまで来た頃と計っ ていたから、|立場《たてぱ》の前で馬を並足に一軒々々覗いてきた。甚七のいる茶店の前へきた時に、丁度 甚七は、|厨《かわや》へ上っていた。 「こういう風の侍が通らなかったか。」  と子供に聞くと 「あの宿にいるよ。」  と子供が教えた。そして、|其処《そこ》を尋ねている内に、甚七は、何も知らないで通りすぎてしまっ た。  この辺の地理をよく知っている、そして又甚七にうまく一杯かゝったと信じている彼はその まゝ馬を返して、抜け道ヘ探しに行った。その間に甚七は渡しを渡り、村を越えて、東海道を下 って行った。 「図々しくも金五両をたばかり。」  という文句と共に、すぐ彦根へきた。そしてお俊と、左門の弟とが桑名へ立った。  甚七が江戸へつくと共に、厚情を感謝してきた手紙で、彼の|届所《き よしよ》はすぐ知れた。そして三人は 江戸へ下ったが、着いた夜、お俊は二人の弟を出し抜いて甚七の所へきた。 「|何《ど》うして?」 「|貴下《あなた》は何も御存じないと思いますが、実はこれく」  甚七は暫く|飽気《あつけ》にとられていた。然し、そう云うと、自分の邸で斬合のあった時 「|敵《かたき》っ、」  というような言葉を夢中で聞いたが 「それで万事判った。」  だが、もう敵で無いにしても、人一人殺している以上、矢張り日蔭者である。 「お俊さんは私が敵で無い事を信じていなさるか?」 「十。、、)  心し 」 左門へ嫁ぐ前、可成り親しかったお俊と甚七は、二人とも御互によく心を知合っていた。そし て、嫁ぐ話のきまった時 「それでは、一生嫁をもちますまい。」  と、|戯談《じようだん》半分に云っていたが、口へ出さないがお俊も、甚七を惜しくなくはなかったのである。 「明日は、弟達が参りますから、一時この場を  」 「然し、|士《さむらい》として、この事情が判った上  」 「私の頼みを聞いて下さい  それは、本当の敵を探して下さること。」  こう云って金包を出した。 四  来馬は町人になって彦根へ入った。 くゞった。そして 初めての変装に気がひけながら、馴染の料理屋ののれんを 「お新は。」  と聞くと 「貴下に見せるものがあると云って狂人のように金の工面をし、こゝの借金を返したのが十日ば かり前、江戸へ行くと云って出ましたよ。」  そう聞くと、島田の辺で、|夜中《やちゆう》の流し三味線とその唄はお新によく似ていると、表の廊下へ出 た事などが思出された。 「あの夜、佐々木の旦那様もお越しになりまして  」  甚七は少しずつ糸がほぐれて来たように感じたが、それと共に、人生は何うしてこう巧に食い ちかって行くものかーいくら食いちがっても、お新を探すのが、何よりも第一だと思った そ の時、|主婦《おかみ》が 「もしか、見えたらこれを渡してくれとのことで。」  と、手紙をもってきた。それには 「佐々木が、山田と口論して、山田が先に戻ったこと、その、山田が、お新、来馬も可哀そうに とんだぬれ|衣《ぎぬ》をきせて、と云ったこと、それでいろくと山田をさぐると、佐々木の金入をもっ ていた事、この金入を証拠としてあかりをお立てになったら、|妾《わたし》は鳥追となって江戸へ下ります がその金入はもっておりますから、一日に一度はきっと浅草の観音へ行くことにして、こゝヘ来 て下さればお目にかゝります。L  甚七は礼を云うと共に、再び足を東へ向けようとした。お俊もお新も、世の中の女というもの は、男より何うしてこんなに1利口で、美しく  と、思って行く時 「来馬。」  と、声がした。 「誰だ。」  と云うと共に、引組まれた。だが、何うにか抜けてひた走りに、一刻でも早くお新に、 らお俊にーそう思ってもう大丈夫と信じていても|猶《なお》走っていた。 「|真実《ほんとう》の下手人を探す為め、彦根へ立戻候。」  という貼紙を、甚七の隠れ|家《が》でみた時、上の弟はじろりとお俊をみたc 「|何《いず》れにしても逃れぬ罪だに、女々しい奴だ。」  こう云ってすぐ三人は帰途についた。 それか 五  江尻の宿へ泊った夜    酔うて伏見の千両松    淀の川瀬の小車は    |輪廻《りんね》々々と夜をこめて  と、上方の|流行唄《はやりうた》を聞いたので、呼上げた。お俊は|何《ど》っかで見たような女だと思って、聞いて みると、お新であった。お新は三人が来馬を探していると聞くと共に、金入を出した。そして 「敵は山田で御座ります、、」  と、主張した。お俊は勿論それを信じた。二人も一寸考えさせられた。然しその次には、お俊 はお新と甚七との仲に嫉妬を感じるし、二人の男は 「来馬にも|訊《ただ》し山田にも聞かぬ上は軽々しく信じられぬ。」  と云った。お新は自分の苦心が、この人々に判らないかと思うと、自分の商売や、世の中が恨 めしくなった。そして 「お先へ彦根へ。」  と云って立上った。お俊は、自分より先に甚七に逢わしたくなかったので 「彦根は|議《うそ》、入れば召捕えられる所へ誰が参りましょう。」  と、云・つと丘ハに 「お俊、お身は甚七に内通したな。」  と、きっとやられた。それを聞くと同時にお新は表へ走り出た。 「内通?1そう仰っしゃれば、確かに来馬様を下手人にI」 「黙れ、不義者。」 「不義は致しません。」 「不義も同然だ、現在夫の敵をー」 「敵で無い事は今の女もー」 「|喧《やか》ましい。お身と同道はお断りじゃ。」 「兄さん、それは余りー」 「いや、言語道断の女だ。許しておけぬ。」  お俊は仕方が無かったしお新に代って、山田の事も知らせたかった。そして淋しい懐中を心細 く感じつゝ 「女の一今心。」  と、思って二人に別れた。         六  網は可成りに張られていた。甚七の邸で殺された一人が|郡奉行《こおりぷぎようせ》の|停《がれ》であったからである。甚七 が村|外《はず》れへかゝった時、二人の手先が競いかゝった。それを倒して村へ入った時、大勢の者に取 巻かれた。  大勢と云っても、大勢の八分は村の人間であった。近づけば避け、走ると追う連中にすぎなか った。然し半鐘の音と共に、近在から無数に繰出してくる百姓には、甚七も|辟易《へきえき》してしまった。 そしてかくれるより外に道が無かったから、木立の茂りから大樹の上と巧に身を|躍《おどら》して夜に入る のを待った。  丁度その最中、お新が通りかゝった。彼女は、それが甚七であると知ると共に、近づこうとし たが村人は押えて一足も動かさなかった。その内に甚七は山へ入ってしまった。お新は三味を抱 いて山へ入った、.そして、甚七のよく知っている    お前の袖とわしが袖    合せて唄の四つの袖    露地の細道駒下駄の    胸とゞろかす明けの鐘  を弾き|乍《なが》ら山を|彷裡《キこまよ》うた。勿論、この|計《はかりごと》は成就した。山の夜更けの三味の音は、甚七の注意 を|牽《ひ》くに充分であった。  お新の近くへ、|礫《つぶて》の落ちるのがつづくと共にお新は悟った。甚七の姿が、闇の中に立って、声 が聞えると共に、このまゝ二人が捕えられてもいゝと思った。 「手紙をみた。有難いぞお新iお新、とうしてここへ、えゝ?L そう聞かれると一番に浮ぶのは、美しいお俊の事である。 「お身は甚七に内通したな。」 と、云われた時の顔、女同士ですぐ判るお俊の心。 「江尻で皆さんに逢いましたc」 「江尻で?  今日明日にはこゝら辺を通る筈たが  L 「お逢いなされても無駄で御座んす。」 「いや、身のあかりを立てさえすれば  」 「妾は何うなろうともl」 途端に 「御用だ。」 |縣《かわ》して 「命は助けるぞ、道案内せい、お新、一まず京へ参ろう、話は道々。」 |篭火《かがりび》をたいている山下の村々、 「お前の袖と、わしが袖か  」 「旦那いゝお声でlL 「黙って案内しろ。」 二人の流し。 七 「こういう生活もいいな。」  女にとっては 「これに限る  このまゝで居たい。L  だが、二人が流している時に、通りすぎる|駕《かご》には勿論、お|俊《ノ》が乗っていなくてはならぬ。そし て、二人が茶店へ呼ばれて上った奥の小間にはお俊がいた。 「こういう姿で無いと昼間歩きもできぬ。丁度人目を胡麻化すにはいい|伴《つ》れで二」  お新は胡麻化し道具にされているのが口惜しいと共に、お俊は胡麻化されているようなのが口 惜しかった。  こういう場合、男女の|何《いず》れにとっても最上の方法は三人共別々になる事である、 「何よりも先に山田を捕えて白状させなければ  」 「お新は一まず元へ戻り、お俊殿は山田の様子をさぐりに、私は京へ出て知らせを待つとしよ う。」 「では途中まてl」                          しゅく↓上 「いや、こうきまる上は、北国を廻って安全な道を、京の宿所は妙心寺内、」 「そうきまれば、お新さんと私はl」 「いいえ、妾は一人で  」 「では、1御無事に。」 「妾は元へ戻りませぬ。」 「何うして?」 「さあ、何うなりますやらーお俊さま、」 |却説《ユヰちて》、山田某。女共の軽い口からちらちら洩れる噂も気になるし、折柄の坂本警護を、いゝ|機《おヒ 》 に、彦根を|出《いで》、江州へ行った。お俊が戻ると共に、この事を知ったのは勿論である。そして、こ れも勿論その由を、すぐ京へ知らせるべく彦根を出た。それから、お新が、この女も勿論、山田 が坂本へ行った事をさぐったから、京へ向った。  佐々木兄弟が帰った時、この噂は、これも勿論耳に入るし、お新の証言もあり、とにかく山田 をと云う事になった。が、それよりも困る話は、来馬に殺された男の父が、来馬を召捕えようと しているし、当然、理由の無いこの殺人は切腹に価する事であるから、同じ来馬を殺すものなら、 武士らしい最後を、1それからお俊が、来馬と事を起して、自分らの面目に関係せぬようー この際の処置は早い方がいゝ、と。  又、説く、山田某、お俊が訊ねてくると共に、甚七の来京を知った。 「召捕えてしまえばいゝ。L  そうして、書状を発して役人に知らせると共に、甚七を呼寄せる手段を講じた。お俊は山田を 甚七の所へ、誘出しさえすればいゝと、山越えに|雲母阪《きららざか》ヘかかった。  甚七は昔の侍姿で待っていた。 「珍らしい山田君。」 「いろいろまちがいが有ったそうで迷惑だろう。|何処《どこ》へ行く。」 「少し話があるが、、」  いざと云わば一刀にと、甚七、少し長い間をもたしさえすれば十分に取巻けると山田君。  時に麓からお新が、甚七の後を追うてーその|背後《うしろ》より馬上の佐々木 「お新で無いか? 甚七がこの道を行ったと云うがそうか。」 「はい、敵の山田を白状させると今朝程l」 「あの金入はもっておるかーーよし、身共の馬に乗れ1|何《な》に、気つかいは無い。」  |一鞭《ひとむち》、急阪を|馳登《はせのぼ》る一方 「山田、逃れぬぞ。」  と、詰よると共に、合図の手、こゝに乱闘始まって、とゞ山田は斬られると共に、お俊が手を 負う。何れ逃れぬ命と、甚七がお俊を斬って己も咽喉をーー、  そこへ|蹄音《ていおん》高く、お新を抱いて馳せつける佐々木 「お新I」  と、微かに来馬甚七の断末魔、左手にお俊の|亡骸《なきがら》を、右に泣きくずれるお新の手をとって、今 に残る雲母阪の心中物語っ