剣法夜話 目次 剣法の起源  流布本の価値 刀剣の変遷 古代武人 支那渡来 手がかりの言葉 剣法以外の武技… 武家の記録 戦法の変化 技術の軽蔑 剣法発生と郷土 常総の流祖 刀槍分派前  流祖の人格と結論 剣法の発達  発生に就ての梗概  一の太刀  神陰流  新技巧の発生  諸将の奨励と保護  その発達程度  流祖の言行  禅との共通点  二流の消長 武勇伝雑話  宮本武蔵の強さ 上泉信綱と宮本武蔵 伊庭八郎   四塚関門戦   本心形刀   左手を失う箱根の険戦   大雄三度到る   幕軍最後の一戦   八郎の死 大衆文学落穂集  為朝の弓  平井、林旧、国定  三角兼連  遊侠物について 剣法夜話 強い剣客 日本一の剣客は誰か 維新の人々 井上伝兵衛を標準として 大石進を試験台として 男谷下総守 寛永以後 有名剣客の正体 戦国時代の人々 剣聖上泉信綱 炉辺剣談 井上伝兵衛 千葉門繁昌の原因 大石進の竹刀 男谷信友の強さ 文人の剣術 剣道修業 上泉信綱 信綱の家系 長野家にて及び信綱の槍術について 陰の流及び新陰流の起源 上洛 その写法 その人格 新陰流目録 その門人の傑物 著者略伝 剣法二題 寛永武道鑑 剣戟八景 最初の心理 呼吸と気合 第六感的な 第一の殺人 第二の殺人 第三の殺人 第四の殺人 第五の殺人 宮本武蔵 剣法の起源 流布本の価値  日本の剣法が、単なる闘争的技術から、一つの「道」 にまで到達したということは、世界における武技史上 の特異なことで、もう少し研究されていいと思う。  流布されている二三の書における、剣法の起源と発 達の径路は、余りに簡単でありすぎ、且つ誤が多すぎ る。唯一の信頼すべき書、山田次郎吉氏の『日本剣道 史』さえ、この項目のために九頁しか費していないし 『武芸小伝』は、伝説そのままを採用し、『撃剣叢談』 も、このために七八百字を使用しているのみである。  そうして各書とも『甲陽軍鑑』をそのままに信じ、 謙信流は疑わず、山本勘介を俗説のままに採用し「あ いす陰流」の起源に定論なく、読んでこれを疑えば、 限りなく信じえられない物が現れてくる。  荻生但侠は『鈴録』に「当代諸家の軍法といふもの く略)多くは寛永末より寛文の頃迄の人の増補したる 物なり(略)畢寛、信玄、謙信二流の外に不レ出、其二 流といふも、実は小幡、北条、山鹿、朝倉が流儀にて 二公の流には非ざる故」と、書いているが、これは剣 法書へも当て嵌めていい言葉である。  流布本の信用程度を試みるために、仮りに山本勘介 の例をとると、剣法史上、勘介は「京流」の達人とい うことになっている。これの出所は『甲陽軍鑑』であ るが、軍鑑以外に勘介の武術者として名の出てくるの は『武功雑記』のみである。史家はこの書を軍鑑より も信じて、同書の一節、「川中島合戦の時、昌景より 勘介を斥候につかはし、帰って山県にもの云ふ体を、 信玄御覧、あれは何ものぞとありしに、あれは山本勘 介とて、三河のものたり、口才あるものとて山県扶持 し置きたりとは申したりといふ」  を以て、山本勘介の正体なりとし、彼が根本史料に 少しも出て来ない故を以って『軍鑑』の勘介は、軍鑑 の作者が作り上げた人物と論じている。これは『軍鑑』 という書が高阪弾正の名を籍りて、実は小幡景憲が、 自分に都合のいいように書いたもので、その史料的価 値は信じ得られないから、尤もな次第である。  然しながら『武功雑記』には、もう一つ勘介の話が 出ている。それは、上泉信綱が、東国へ戻る時、三河 国牧野氏の所で、勘介と試合して大いにこれを破り、 そのため勘介は流浪して甲州の方へ赴いたという話で ある。  信綱が、京都を出たのは『言継卿記』に、明記され ている如く、元亀二年の夏であって、川中島一騎討戦 は、永禄四年、ちょうど十年前に、戦争が済んでしま っているから、この勘介は別人か、或は戦争当時は武 …家にいたが、その後三河へ戻ってきたのかP 同一 書に、こういう矛盾さえあるから、こういう伝記的人 物の研究になると、専門史家さえ考察の不足を示して いる.  謂んや、文を知らない武人間に、云い伝えられたま まを書かれた書が、どの程度に信用できるかP 住古 は勿論、近叶になってさえ、真相の判らないことが可 成りに多い。従って剣法の発生についても私は、まず 史料によらず、他の方法で考えて行って、やや正確 「らしき」結論を、示してみたいと思うのである。 刀剣の 変.遷  人間が、刀をもって、人問と争った翌日、又はその 夜、或は二三年の後、多分、剣法らしきものは生れた であろう。と、こう想像してみることは、無理な推測 でない"従って、刀が発明されて暫くの後に、刀法の 原始的型式は生じたであろうとー。こういう結論は 一体どうであろうかP  こう、結諭して、では、刀のある所に必ず剣法あり やと四方を顧みると、アイヌに、ネグロに、ホヅテソ トットに、生蛮に、刀はあるが、刀法があるかP い や、こういう未開人ではなく、隣邦の文明国支那にさ え優れたる剣法があるかP あったかP  少なくも、存在を示しうる程度の、剣法、即ち刀の組 織的攻防法は、可成りの文明を有する人間でないと発 明できないし、これを必要と感ぜしめる適度の状態が たくては発生して来ない。ここに於て、吾等国粋派、 髭物作者はまず剣法を生むべき刀というものを考察し て日本の刀剣の変遷に、日本独特の現象のあることを 発見しなくてはたらぬのである。 「片薙ぎ」「片刃」から出たという「刀」という言葉 が、日本の純粋語である如く、刀が全く日本独自の産 物であるということは、古くから誇りとされ、唐人も これを称めて詩に唄い、近くは京大の近藤博士によっ で、科学的にも証明されている。が、刀が其処までに なったことは、一朝一夕の業ではなかった。  外国の殆ど悉くは、古代より現在まで一貫して、突 く剣法一つで、片刃の剣を使用して、やや斬るにも使 ったのは、スカソジナビアの後海賊時代と、アソグロ サクソソ歩兵の短剣位のものである。そうして、支那 に於ても亦、その変遷は極めて少なく、刀剣に対して め研究は到底日本と比較できない。  それが日本に於ては1津軽半島の鉄宇で発見され た石刀に内反りのがあり、それから神武天皇熊野平定 の時の宝剣、現在大和国石上神宮の神体である「フッノ ミタヤ」も内反りである。即ち、日本の古代には明か に内反り剣があったのである。これがどうして外反り になったか? これを考えて見ようというのである。  この内反りが、直剣とたり、直剣がどうして、片刃 となり、片刃がどうして外反りになったか? この変 遷は、明かに刀に対する研究の結果を示しているもの であって、この刀に対する研究の変遷に、多少の剣法 が伴っていたであろうという想像は、必ずしも、無謀 た臆説ではないと思えるのである。  現存している奈良朝前後の刀剣を見ると、諸刃の中 身で装の刀である作、刃端が直角になっている物、刃 端が槍の穂先の如く尖っている品、それから後世の如 く、鉾尖になっている物と、明かに作剣上の過渡期 と、その変遷を物語っていて、ここに刀工と、下命者 との、刀に対する研究の存在を明かに物語っているの である。  そうして、それ以後次第次第に、諸刃の直剣が圧倒 され、片刃の刀が勢力を得てきているが、これは明か に斬るという研究が、日本独自の修練を経た結果であ って、一切の文化が、支那の模倣であるに拘らず、・刀 のみが特種た歩みをしている止いうことは、甚だ愉快 とすべき現象にちがいない。  大宝年間の大和国天国の作には未だ反りがついて無 いが、大同年間の伯蓄安綱、同真守の作には、反りが 現れている。この反りの有無は、刀工の趣味で無く、 反りが蜥味の上に於て有効であると認めた結果である が故に、この刀の変遷と共に、剣の法は刀の法となり つつ、ここに、剣術の芽が生れつつあったということ は否定できない。 古 代 武 人 では、一体、 その剣法は誰の手で起されたか? こ れはどうも武人によってというより外は無い。  古代武人は知る如く、隼人族から出た久米部、大伴 部である。然し、彼等が武人であった頃は、、主として 剣であってーと、同時に、彼等は夷であるが故に兵 士を勤めていたもので、必ずしも強いから1剣法上 手だからのみでは無かった。従って、この武人間には 剣法があったとも云えるし、また無かったと云って何' の否定すべき証拠も無い。蘇我入鹿の護衛兵を「健人」 と云っているが、古代武人は恐らく単に力を主として いたもので、争闘技巧などは余り考えたかったもので あろう。これは後世に於てでさえ、専門武人の間に、 力は尊ばれたが、剣法は蔑視されていたのであるか ら、謂んや、往古、石拠、弓矢の戦のみの時代に於て 夷の間に、気の利いた剣法などあろう筈は無いのであ る。ーと云っていい。  しかも、この兵士の素質は次の時代にすぐ低下して 八位以上の人々は、代人を兵に出すことは許され「名 是兵士、実同二役夫ことか「兵士の嘆、元レ異二奴僕一、   一人被点、一戸随亡」とかいう言葉が残っているよう   に、一種の奴隷で、みじめな下層生活をしなくてはな   らなくなった。従って、ここに武を練るというような   心懸けと、余裕とがあったとも思えないのである。    そうして、宮廷の人々は、ただ装飾として剣を帯び   ているのみで、殆ど実力無く、王朝時代になると、護   衛者として、必ず、地方武人の従者を借りなくてはな   らぬようになったから、ここにも亦、剣法は甚だ疑わ   しい存在になってくる。    然しながらかくの如き時代であるに拘らず『令義解』   の「軍防篇」は、明かに剣法の存在を示していて次の   如くに云っている。「凡衛士者、中分一日上、一日下、   毎二下日一、即令下於一当府一教中習弓馬上、用レ刀、弄ノ槍」。   叉『享禄本類聚三代格』には「禁三断兵士差二科雑役」 「1右声勅、番上兵士集国府一-兼撃剣、弄槍  I」と。即ち「用刀」「撃剣」の文字か示されてい  て、剣法の存在は否定すべくも無い。  だがーである。「兵士に雑役を差科する事を禁ず」 と云っているように、当時の兵は「同役人」、人夫、 百姓にすぎなかったから1兵士かそうなるまでに武 備が衰えていたのであるから、従ってこの令も出た訳 で、果してどういう修練を、誰が教えるのか? そも そもこの「令」そのものが、唐制の模倣で、こういう 風に制度を完備すればよいという立案のみで、どの程 度実行されたかP 実行されたとしてこの教習がいつ まで続いて、どう発達したかP 史上に於ては、いよ いよ武備衰えて『今昔物語』にある郎党の如きものば かりになったのであるから、単にこの「令」の用刀と いう文字の存在のみによって、剣法があったとは論断 できない。  私は、刀の変遷に於て剣法の存在を肯定したがら、 武人間のことを考えて否定したが、これは矛盾のよう である。然し、これは、奈良朝以前の戦の経験が現存 の奈良朝前後の刀に現れた訳で、奈良朝前後の遺物と 称されていても、それ以前の作もある。と同時に奈良 朝前後の兵の、旦雇人夫であったことも、また事実で ある。  こうして鎌倉期に至るまで、戦と云えば、荘園のエ キストラを使用し、常備兵が無く、僅かに親兵、太宰 府の取締兵、三関の番兵士が常設してあった位で、こ の程度の兵士に、兵備に、大した武技の起りようの無 いことは、後世の戦争と剣法の関係をみると、よく判 る。 支 那 渡 来  ここで一考してみるべきことは、拳法が支那から渡 来して柔道になった如く剣法もまたそうでたいかとい うことである。「刺剣の術」などという言葉は『史記』 に出るし、剣侠、刺客伝の話は古くから支那にはいく つもあって、古代支那に剣法の存在していたことを十 分に証明している。然し、一体古くから文字のあった 支那人は、十分に昔を語って多くを残し得た。剣の話 だけでも、干将莫耶のほか数十の物語がある。それに 較べると、文字の輸入の遅かった日本は、余りに伝え る物に余裕が無く、剣法も大いに有るにはあったが、 宮廷記事のみで既に一杯になって、武技の末まで書残 す余地が無かったのだろうとーこれは都合のいい理 窟であるが、云って云えない理窟でも無い。 『止文正要』に「刀百済国博士王仁所レ伝、而所レ云、 持レ短、乗レ長、條忽縦横之術也、称レ平法学一」とあっ て、いささか支那渡来らしい傾を見せている。これ が事実か、どの程度の術か、全然不明であるが、よし これを事実としても、支那から渡来して起ったもので ないということは、前章の刀剣の変遷から立派に推論 できるし、逆に、剣法はH本より支那へ輸出した歴史 があるから大したものである。 『三才図会』は「案使レ用、無レ如二倭子之妙こと称讃 しているが、倭冠、八幡船の人々が、支那沿岸を荒す に三尺の刀をもってするに及び、支那人はすっかりそ の妙術に感嘆してしまっている、 『武備志』に曰く「茅子日(茅手とは茅元儀のことで ある)武経総要所レ載刀凡八種、而小異者猶不γ烈焉、 其習法皆不レ伝、今所レ習惟長刀、腰刀、腰刀非二団牌一、 不レ用、故載二於牌中一、長刀則倭奴所ノ習、世宗時進犯二 東南一、故始得レ之、戚小保於二辛酉陣上一(正親町天皇 永録四年である)得二其習法こ  戚氏は、倭憲を平定しに赴いた大将であって『異称 日本伝』には、この時の剣法を、上泉氏の「神陰流」 だとしている。こういうのは、支那との戦の都度現れ てくるもので『両朝平壌録』をみると、 「刀間五尺余、用二双刀一則及二丈余地一、叉加二手舞六 尺一開レ鋒凡一丈八尺、舞動則上下四労尽白、不レ見二其 人こと。支那人一流の云うことも大きいが、大きく 云うだけ、日本の剣法を恐れていた訳で、これは明か に支那人剣法とちがった、そうして、遙かにより以上 の術であったことを物語っている証拠である。  そうして、小笠原源信斎などは、支那へ逃れて、日 本の剣法を拡めなどしていることもあって、支那渡来 説は全然成立しないものとしていい。 手がかりの言葉  で、また日本のみを考察するとして、今度は記録を、 調べてみる順序である。想像でたく、何かの手がかり が残されているかいないか。古書を探究してみると、  第一には『日本書紀』の記事で「崇神天皇四十八年・ 正月戊子、天皇勅二豊城命、活日尊一日、汝等二子、慈" 愛共済、不レ知二易為フ嗣、各宣レ夢、朕以ノ夢占レ之、二 皇子於レ是被レ命、浄沐而祈寝、各得レ夢也、会明兄豊 城命、以二夢辞一奏二予天皇一日、自登二御諸山一、向レ東 而八廻弄レ槍、八廻レ撃刀」と、あるものである。  ここに「撃刀」即ち、たちかき、という言葉が出て いて明かに刀を取扱った様を形容している。然しこれ を後世の如き、剣法の型を演じたととるか、ただ刀を、 振ったとするか、ちょっと断定はできない。然し、漠 然としながらも何かの存在を匂わしている。それから 次は『懐風藻』であるが、大津皇子のことを評した中 に「及レ壮愛レ武、多力而能撃レ剣」という言葉が現れて いる。これも、前のと同じく、どの程度か判らないが、 とにかく日本に於ける「撃剣」という文字の最初であ って、ここに何かの法のあったことが示されている。  そうして、この二つの記事のままで、奈良朝から、 鎌倉まで、ほかに何の剣法上の記録もない。そしてこ れは兵制の変遷、戦争の有無とよく一致している。か くて戦の盛んな鎌倉期に入ると、叉現れて『保元物語』 は、こう書いている。 「八郎(鎮西八郎為朝)は、今年十八に成と覚ゆ、背 は大也とも、未だ身の力はつのるまじ、筑紫生立の者 遠矢を射学び、太刀遣う様は知りたらん(略)はやを の若者共、これを聞、すはすは我等をすかし合、残さ んとし給ふは、弓矢取ってこそ能あらめ、打物遣ふ事 は筑紫に聞ゆる肥後国住人、おいての次郎太夫則高、 九国一番のもの切也、それに習ふて、師には蓬かに超 過しておはすなる者をー」  打物つかう、太刀つかう、物切り、と剣法の存在を 示す三つの言葉が出てきた上に、剣法の師のあったζ とをも書き残している。  然しながら、ここで考えてなくはならぬことは、 「弓矢の誉」「薙刀の上手」「豪力無双」というような 言葉は、その実例と共に、しばしば軍書へ現れてくる が、剣法上手の功名諏が殆ど出て来ないということで ある..頼政、義家、与一等の弓矢の誉、一来法師、弁 慶、景清の薙刀話など、多少お伽話もあるが、彩しい 数であるのに刀上手に関しては義経の鞍馬山の稽古き りで、それも後世の仮作であるから、この為朝のこと 以外殆ど無いと云ってよく、そして当時の戦法から見 ても、太刀は使う場合が少なかったのである。  使う場合の少ないということは、発達しないという ことと同じで、南北朝に入っても、戦法に変化がない から、鎌倉と同じく弓矢話が垂で、僅かに『太平記』 は二つしか剣法の存在を示していない。即ち「大塔六 品親王はlI打物は子房が兵法を得給へばー」とい うのと「桃井が扇一揆の中より、長七尺ばかりなる男 の1是は、清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申 す者に候、王氏を出、雌ノ不レ遠、已に武略の家に生れ て、数代只弓箭を把て名を高くせん事を仔ぜし間、幼 稚の昔より、長年の今に至るまで、兵法を嗜む事、隙 無し」というのとである。即ち、ここに「兵法」とい う文字が「武芸」と同じ意味に使用されて出てくる が、剣法が、鎌倉、南北朝を通じて僅かにこの≡二の 記録に止まっているということに、当時の戦の重要部 位が、弓馬戦にあって、剣になかったことを祉明して いるのである。そして、戦争と共に発達すべき剣法が 未発達であったということは、三段論法によりすぐ結 論しうるのである。 剣法以外の武技  剣法に関した文字が、以上の如く少ないに拘らず、 弓、馬、力競べというような言葉は、大いに優待され て、無数の記録に現れている。神代の、千引岩をさげ て「然欲レ為二力競一」というのを手始めに、力競べと いうことは、相撲節という儀式にまでなって残ってい るのに、剣法が天覧になったのはようよう元亀二年に なってからである。  古書から詮議に入ると「武芸」という字の多い『日 本紀略』には「延暦十五年三月庚戊、令二諸国一挙二武 芸秀衆者一」とあるし『延喜式』には「凡、近衛武芸 優長」とあるし『続日本後紀』には「最艮武芸一」と あるし、その外いろいろと、この字は現れてくる。  で、剣法も、馬術も、槍術も、角力も、この武芸という 文字の中へ入れてしまって、独立して使用されていな いかというと、剣法一つを継子扱いにして、独立させ ないほか、凡そ他の武芸は立派に、その名で諸書に載 っている。これはいうまでもなく、明かに剣法の未発 達を語るもので、認められていなかった証拠である。  試みに『日本紀略』をとると「内裏召二諸衛歩射己 上東宮帯刀一有一賭射事こと出ているように、剣法上 の術語は前章の如く四五にすぎぬが、弓のことは「騎 射L「まゆみ」「うまゆみ」と同じことを三通りに云っ たり、「二の矢」「双矢」「答矢」「遠射」「指矢」「横 矢」 「筋違矢」と、いろいろの言葉がある。  しかも『延喜式』などには、歩射の上手には、土地 を賜るというような令や『日本書紀』の諸国に、射を 習う所を築かせるという令や「観射式」や、全く、い かに優待されているか? 正月十七日の射礼など、一 冊の本になるだけの記事さえ残している。  これは独り弓のみでは無い。馬術も又その通りであ って、四月二十八日には御監駒式というのがあるし、 五月五日六日の両日には、天皇武徳殿に御出ましまし て馬を御覧になるし「凡左右馬寮騎士、毎レ寮」とい う風に大切に取扱われていて、弓に劣らぬ記録があ る。  相撲もまた、七月には、例として宮廷で催され、古 くからあったらしく『続日本紀』は「天平六年七月丙 寅、天皇観二相撲戯ことしてあって、宮中関係の記録 七月の部には必ず出てくるし「内裏式」には、立派な 相撲節儀のことが書残されている。  それに、剣法は、前章の如く、僅かに四五だけで、 宮廷関係になると何一つ無いのであるから、刀剣は装 飾として使用され、実用品で無かったと云っても決し てまちがいではない。然し、武家の天下になってから は、中条長秀が、足利義満の師になったということが 『武家評林』にある。だから、相当に認められたと云 えるがーだが、である。  足利の制度というものはひどく繁雑で、御酒奉行、 茶湯奉行、これはまだいいとして、同の奉行をお栖浄 奉行と称したというのだから、剣術に師を置き、兵法 所を置くくらい何んでもたい。型式整頓の一部分だけ であって、この故にすぐ中条長秀の剣法を云々する訳 にはいかない。既に、とっくから弓馬諸礼式には、武 田、小笠原の両家があったのであるから、剣法もこと のついでに置かれた足利特有の繁雑制度の賜物として おいても差支え無い。 武家の記録  然し、以上は余りに、宮廷関係のみであるから、武 家の間に、何かの記録が無いか、調べてみなくてはな らぬ。そこで、例を鎌倉期に取り、その代表的文書の 『吾妻鏡』を見てみる。 「仁治二年、将軍家若君御前御乗馬始也」というのが ある。その次には「文治六年、被レ遣三御書於†河辺 庄司行平一、有一其召一、是依レ可レ為二若君御弓師一也、若 君、漸御成人之間令レ慣二弓馬之芸一」とあって、また、 弓と馬とがしきりに出てきて、若君がこれを習うが、 一向剣法を習ったとは書いてたい。  もう少し行くと「手跡、弓馬、管絃」とあって、そ の後へ「郵曲以下」として、剣法は匂いもしない。「可 レ有二御弓始之一由」とか「又於二御霊前浜一有一千番小笠 懸一」とあって、流鏑馬の流行をかいているが、とう とう剣術のことは一つも出て来ないのである。従って 若君が剣術を学んだと思えないし、学ばぬ以上知らな いし、学ぶ者が無ければ発達する筈はないし、どうも 弓馬に較べて、物の数でなかったらしいのである。  ただ一つ『愚管抄』に「手だれ」という言葉があっ て、これを頼朝の称め言葉に使っているが、これも剣 法というより「武芸達者」と解した方が正しいとすれ ば、とうとう鎌倉時代に、剣法に関した記事において の次郎太夫一つ切りである。しかも『保元物語』は、 必ずしも信用できないし、この記事のある「白河殿焼 打」が、史家に云わせると、決して物語の如くでなか ったIIこの主人公為朝は物語の如く奮闘しなかった というのであるから、すっかり剣術の影が薄くなる訳 である。  だが、念のため、もう一つここで、想像を加えると ー。一体剣法上の記録は、足利末期になっても、あ れほど盛大になってからでも、残り少たいのであるか ら、謂んやそれ以前に於て、よし可成り盛であったに せよ、何が残るものかP 残っていなくても、盛でな かったとは云い得ない、という理窟である。  この理窟も一応尤もで、室町時代に於ても、国主、 大名が戦場に必要な故に発明したものでなく、民間の 人々の創成であるから、よし鎌倉にあったにしても、 記録などに残る筈が無い。そうして、中条長秀、尾伊 手則高を立派な存在として認めることである。そうす れば従来の剣法史の一部を肯定することになるが、私 はどっちかと云えば、これは一理窟のみであって、矢 張り、記録に無いものは発達してなかったと断じて、 まちがいは無いと思っている。それは戦の方法に関し ての考え方と、武士の剣法観と、刀槍併教ということ と、三つの理由から主張することが出来る。 戦法の変化  江戸時代になって分業行われ、武士の生活が安定さ れ、剣術さえ学んでいたら日が送れるという制度と、 室町以前の武士とは、まるでちがったものであった。  古代武人の所で云った如く、常備兵というものが無 く「前九年」「後三年」「天慶の乱」によって、兵の必 要を感じるまでは、戦と云えば、急に地方から下級民 を徴集したにすぎなかった。そして、戦の必要に迫ら れて軍法を学ぶようになり、戦法に従って、武芸が起 ったのである。従って、鎌倉初期には、何の剣法も無 かったと云っていい位で、剣法は戦法と共に消長があ るとみていい。  上杉、武田が戦法を一|変《 》して、密集兵の突撃、横槍、 槍裏を発明するまでは、鎌倉、南北朝とも、弓矢戦が 主戦であった。そうして、多くの戦いに出ている東国 の人々が、馬を巧みに使用した関係上、馬は重要とな り、従って記録にも、弓馬が多くなった訳である。  当時の戦いは、遠矢から次第次第に近づき、射立て て退かせるか、接戦となれば薙刀、或は大将同士の一 騎討ち程度でけりになったのであるし、第一に当時の 刀は、高価で、品が少なく、一般化するまでに至らな いものでもあった。  それから、もう一つは、槍も、薙刀も、刀も法の如 く使うのは、道場のみであって、いよいよ戦いとなれ ば、叩き倒す方が多かったから、剣術など学ぶ必要は 無いと考えられていた。薙刀の廃たれたのも、密集部 隊発明後で、それの突撃戦の時などには、水車の如く 振り廻されては、密集の意義を傷つけるからで、槍の 採用はそのためであった。  刀もまた白兵戦が多くなり、安価に一般化されて、 戦場使用になったのであるが、それでも、槍には到底 及ばたかった。従って槍ほど重要視されなかったが、 少しずつは戦法の変化と共に増加して行ったようであ る。戦国時代の戦法は、第一に弓銃戦が、敵を威嚇し つつ、煙の内に、槍隊を進ましめ、十五間となって、 まず長柄隊が突撃し、その模様を見て士槍が繰出して 勝負を決したもので、刀の使用は、それ以上の悪戦、 矢つき、槍折れてからの予備武器であった。従って、 鎌倉期には発達せず、密集隊の肉迫戦の起った室町時 代に隆興した訳である。  だから、刀を主要武器にしている者は、特殊な人に 限られていて、力に任せて叩き倒すべく、福間三郎の 七尺三寸、篠塚伊賀守の四尺七寸、禰津小次郎の六尺 三寸、南北朝に三四人の記録はあるが、戦国時代にな ると、真柄十郎左衛門一人位で、剣法という技巧を必 要とせず、士も兵も悉く槍を使っていた、  従って未だ剣術の発達せずに、一口に「兵法」と呼 ばれ「刀槍術」と称され「兵法」が剣法の別名になる まで、可成りの時間を費している。そして、剣法の流 祖とされている飯篠家直、松本備前、塚原卜伝、上泉 信綱、悉く戦場では槍を使用している。 「松本備前守-槍を合はすに十三度、はれなる高名 の首数二十五、並の追首七十六lI卜伝も鑓九度、高 名の首二十一」という風で、上泉信綱も、長野家十六 槍の一人と称され、後上野国一本槍という感状をもら ったたどと伝わっていて、戦場での用は、到底剣は槍 ほどでなかったらしい。だから、鎌倉南北朝期に大し て記事の無いのも尤もである。  で、戦場での必要もあったが、他に理由があって盛 になったもので、それが戦国当時の武将の下に起らず 郷士の手にのみ起った理由になるのであるが、次から それを説明して行きたい。 技術の軽蔑 「戦場の武士は、武芸知らずとも事すむべし、木刀た どにて稽古するは、太平の代にては切るべき物無きに より、其切形を覚ゆるまでの事なり、戦場へ出る時は 始めより切覚えに覚ゆれば、自然の修練となるなり」  と『甲陽軍鑑』にあるが『譲園秘録』の、 「戦場にて名を得れる物師、覚の者と云者、一人も槍 太刀の芸の上手もたく、槍も太刀も只棒の如くに覚え て敵を叩倒すことなり」も同じことである。一方剣 客、民間に剣術が大いに行われながら、専門武士の考 えはこれであった。  黒田長政の家来の野口一成が、一人の剣客と立合っ たが、いきなり対手の木刀を左手で受留めて、右手で 一打くれたから、剣客がそんな乱暴な剣術は無いと云 うと、戦場ではいつもこうだ、と云ったという話があ る.鎧兜で身を固めた代物を、そうそう斬る訳には行 かぬから、叩き倒すか、突き倒すのが主で、技術など ということは要らなかったのであった。  だから、ある流の剣術は、背にざるを入れて、対手 にそれをなぐらせつつ、専ら下から股を突上げる糟古 のみをしたというが、こういう物具で固めていたい所 でも狙わないと、尋常一様では切れぬし、第一道場の 一人一人の稽古と、いざ戦いとなった時とはまるでち がったものであった。  戦場往来のさる老人が、若者のせがむままに、では 見せようと、槍を持って馬上に、いよいよ戦って、槍 を左右に打ち振ると、そのたびに馬が、たじたじとし たというが、この位の勢いで戦うものであったから、 竹刀で、お面などは、戦場往来の人々には馬鹿馬鹿し くて見ておれなかったにちがいない。  従って、剣法が発達してからも、戦場派と、技巧派 との二つに分れていて、元禄頃までは大太刀が矢張り 流行していた。この剣法軽蔑の思想があるに拘らず、 追々盛になったのは、流祖と称さるる人々が、中々の 人物であったことと、呼吸切れのしないということの 判ったことと、武将連中の保護、奨励と、平民の勃興 とその発達とからであった。  近代剣術が、武士階級に起らず、寧ろ、郷士、豪族 の手によって起り、それから武士の間へ流布して行き 鎌倉、南北朝に大いに起らず、室町時代に入って、突 如として隆興したのは、室町時代というものに特異な 時代相があってのことである。 剣法発生と郷士  以上i剣法は、時々その姿を現しているが、殆ど 他の弓馬等の武芸に較べて物の数ではない。これは記 録に止めるほど重要視されず、発達していなかったか らである。それが、室町期に入り急激な勃興を見たの は、この時代が、剣法を起すべき、諸原因を揃えてい たからであった。 「偏下者」「借上者」という室町時代の造語の生れた. 時、野心、功名心に燃えている青年、庶民は何を考え. たかP  日本中は戦争である。名も知らぬ奴が、いつの間に' か四辺を征服して、一国一城の主となっている。それ をみた性来の力強いものは勿論、力の無い者は、力ξ なるべき技術を考えるのは必然であろう。ここに剣法 発生、発達の原子がある訳である。  だが、その志を達するためには、故郷にいたままで. は不便である。ここに初めて武者修行が流行しかけ た。『武将感状記』に「水野勝成、武者修業を成した る時、佐々成政の備を借て居れり」とあるが、大坂役 の先陣をつとめた水野勝成、明智光秀等、代表的の人 物である。  これほどの人で無くとも、志を立てて、刀を腰に四 方を歩くことは大いに流行したが、この流行に際して 一番携帯に便利な武器といえば刀である。そして、当 時に至っては可成り安価となり、可成り普及されてき た刀は、一家に、一人一腰ずつと、円本の如く、護身 用、自衛用として、使用、携帯の便の上から全国へ著 しき加速度で、拡まって行ったのである。  この普及力は前後無比のものであって、天正十六年 七月八日に布告された「刀狩」の文書をみるとよく判 る。「溝口文書」に、加賀江沼郡一郡の狩上数の記事 が残っているが「刀千七十三腰、腰差千五百四十腰、 槍身百六十本、かうがい五百本、小刀七百」としてあ る。一郡でこれだけの刀数があり、槍に比較してどれ だけ多いか。これを見ると剣法の起るのは偶然でな い。  数多いということは、やがて刀法の発達をなすもう 一つの因子でなくてはならぬ。そうして、槍を重んじ 技術を軽蔑する武士よりも、郷士に多くの剣客を出し た原因でもある。軍人でない一般人は、武士の如く従 軍しえない戦国の人々は、野心から、自衛から、戦う 真似を修練しなくてはならぬ。多くの神に祈って一流 を立てたという伝説の存在はその裏書きで、武士が 「切覚えに覚えるから、剣術など要らない」と云って、 いる間に大いに努力をした。  それからもう一つ、職業的武士、半職業的「らつは」 「足軽」の類は、余りに死に忙がしく、従って享楽の ほかに、武を練るというような暇をもたなかった。こ れ、武士に起らず、郷士に起ったもう一つの原因であ. る。『備前老人物語』に博突に負けた士が、紙の羽織 に、板の鋸を腰にさし、真先に進む話が出ているが、 上は大将より、下足軽に至るまで、ただ、酒と女と博 突のみであった。  中にも博変は甚しく『塵塚物語』にも「郡卒帷幕の 中の慰は、上は大将より、下つ方与力、足軽の者共に いたるまで、彼博変を好み」とある如く、明日知れぬ 命と知って、剣術修行どころか、暇さえあれば、刀も 槍も賭け代として楽しんでいたものである。  この間に、地方の郷士、豪族は心を、剣槍の業に潜 めていたが、中にも、東国武+の本場である常総野に そういう人々は多かった。上泉、塚原、飯篠、松本等 悉くこの一角に起った人である。この関係も、剣法の 発生にも重大因を為している、. 常総の流祖  伝説によると、鹿島、香取の神々は1中にも鹿島 には「鹿島の太刀」というものが、天津吹屋根命十 代の孫、国摩大鹿島の子孫、国摩真人によって発明さ れて、代々神官によって伝えられていたということて ある。そうして、これを剣法の最初としてある。これ と、流祖の多くが、この地方に起ったため結びつけて いるが、必ずしもそうは断定できない。  この地方は阪東武者、東夷、東方濱従者の産地で あって、且つ「偏下者」には、もって来いの所であっ た。尾張の織田、甲州の武旧、奥州の伊達などという 領民の見て歯のたたぬような領主は一人も無く、上野 の上杉、上総の里見、下総の古賀、常陸、佐竹、小田、 下野の那須、宇都宮、小山、結城、悉く後に滅亡した 人々で、この領主を頂く領民が、いかに手に曄して立 とうと望んでいたか? と同時に、この領主を攻める 多くの敵を防ぐため、いかに忙がしく戦わねばならな かったか。即ち、時代思想、刀の普及、個人的武勇に 富む人々の多い地方、そうしてその地方の模範的乱世 相、この理由と、平民の自衛、及び野心が手伝って、 一時に剣祖は輩出してきたのである。同じ戦つづきで あるのに鎌倉に起らず、南北朝に起らず、室町に入っ て空前の発生をしたのは、この諸因が剣法が起らなけ ればならなくしたからであった。  もし「鹿島の太刀」が日本剣法の元祖で、いくらか でもこの時代相以外に剣法発生を助けたとすれば、香 取に住んでいた飯篠家直がこれを学ばぬ筈はない。然 るに、彼は自修したとも云い、鹿伏菟刑部を師とした ともいうから、この鹿島の太刀は名のみであって、剣 法がこの地方に発生した原因にならない。それにもう 一つ、鹿島の祝部、松岡兵庫が、卜伝からこの太刀を 学んでいるのも不思議である。何とならば、卜伝は、 鹿島の神官松本備前から、この太刀を伝えられたとい うのだからである。  それからもう一つ、軍神は、独り鹿島、香取のみで たく『梁塵秘抄』にある如く「諏訪の宮、叉比良の宮 阿波の北滝の口、熱田に八剣、伊勢には多度の宮」と 外いろいろと有ったから、鹿島を中心に諸士輩出した 以上、この軍神を祭ったどの一ヶ所からか、一人でも 剣客が出なくてはたらぬのに、一人も出していないか ら、主としてこの地方の雰囲気が、剣客養成に適して いたためであって、暇のある、財のある人々の間に、 殆ど時を同じうして勃興した原因は、以上の如く考え るよりほかに理由がみつからない。  この東方に於ける剣客の勃興に対し「京流」が西に 現れているが、これの正体は甚だ怪しいものである。 堀川鬼一より鞍馬の僧に伝え「京八流」とも称すとい うが、恐らくは、東の人々が、東方の剣法以外のもの を総称して「京流」と云っていたのでは無かろうかと 思われる。もし「京流」が一流儀の名なら、その流柑 は多少とも伝えられていなくてはならぬ筈である。そ れに、京師にも一記録なく、ただ『甲陽軍鑑』『関八 州古戦録』位に漠然として「京流」とのみ書かれてい るだけであるから、西の人々の使う剣法を総称して云 った称号としておいていいと思う。 刀槍分派前  然しながら、この頃の剣法がどの程度のものであっ たか? 徳川期に入って剣術の技巧が発達すると、剣 は剣、槍は槍として一人で両道を極めるということは 容易でなかった。それにこの発生当時の人々は悉く刀 槍二道から、ト伝の如きは弓にまで達していたのであ るから、恐らくはその技巧は型として数少なく、刀槍 を両用して、優に余裕があったと思えるのである。  一例をとると、卜伝の「一の太刀」という名である が「右の太刀に、一つの位、一つの太刀、一つ太刀、 如斯太刀一つを三段に見分候」とある如く、これは この三つの型だけではなかったか、と思えたいことも 無いのである。  背後へ引く業を教えるなど持っての外のことだ。戦 場でそういうことをしようものなら、と評している言 葉があるが、当時の戦場用剣術としては、後世の一人 一人の素肌対手とちがって、技巧は簡単でよかったの であろう。  戦場のみでなく、平常の試合にしても、真剣又は木 刀で死ぬか傷つくかであって、稽古も型のみで、間際 まで木刀が行くと「よくつめた」と称めた位で、後世 の竹刀とは大ちがいであるから、いざとなっての斬込 みは烈しかろうと、型は複雑でなかったに違い無い。 江戸期に入っても、空鈍流は「右の態一つにて、万方 に応じて勝利を得るという」としているが、飯篠家直 も、松本備前も、塚原卜伝も、太刀数は少なかった。  これに理論を与え、型を整え、竹刀を発明したのは 上泉信綱であって、新当流、天真正伝神道流の二つ ながらが神陰流に押されたということは、主として、 この太刀数の如何と、竹刀稽古によるのでは無かった かとさえ思われる。  然し、この太刀数の少ないということは剣術の拙い ということとは全然ちがう。後の巧妙な人々と立合っ て、ト伝は三種の技巧で勝つかも知れぬ。ただ、ここ に剣術が「道」にまで到る発足点として見逃せない人 格を流祖に見出して、私結論にしたいのである。 流祖の人格と結論  剣術本来の使命は、殺人法の技巧である。もしこれ がただ強勇のみの流祖によって発明され、それを墨守 する人々によって流布されたとすれば、私は剣術を角 力、拳闘と同視して、あまり尊敬しないかも知れぬ、  ところが、剣法は、いかなる武術よりも「心がけ」 を説く点に於て、深く、多い。書物としても、口碑と しても、人物第一ということを主眼にしている。これ は後世の付加、漸進的発達でなく、流祖の播いた種の 生育である。  塚原卜伝は、将軍義輝の師範として「大鷹三もとす ゑさせ、のりかへ馬三疋ひかせ、上下八十人ばかり」 を連れた生活をすてて、故郷に引退した「明良洪範」 などの、馬の尻を遠廻りした話、例の無手勝流の話、 用心深い子供に秘伝を譲った話等、いずれも一貫して ト伝の謙遜した態度を物語っている。  上泉信綱の書に曰く「兵法は進退谷まりて一生一度 の用に立つる為なれは1上手と人には見らるると も、毛頭も心の奥に正しからざる所あれば、心のとは ば如何せんi火炎の内に飛入、盤石の下に敷かれて も、滅せぬ心こそ頼むあるぢなれ」  と、彼ト伝と同じように用心深く、一人の男を捕え るのに、頭を剃り、袈裟をまでつけてから捕えてい る。所謂、疋夫の勇を少しも出さない点、その最後の 教えが悉く、心の修業にある点、この境地へ、この発 生当時の剣客が漸く到着していたということは、他の 武術に較べて剣術の発生史上見逃せない点である。  彼等の修養と、その人物の高潔さは、戦国当時の人 人の誰よりも上に位するものであって、上泉信綱の如 き、その学問よりみても、明智光秀に優っていると云 っていい。それが信玄の留めるを振り切り、柳生に客 生するまでの精進、伊藤景久の態度と晩年、沢庵と柳 生宗矩、小田切一雲、鈴木正平、宮本武蔵の晩年、数 えて限りなく、一人物であることを物語っているが、 その種芽は、この剣法発生当時の人々の内に含まれて いたのであった。  以上、私は剣法発生の概観を書いてきたが、結論と して云えば、剣法はそれぞれの時代に多少とも存在し 発生していた。然し、それは、必ず次の時代に伝えら れたもので無く、時代が不心要となれば、消失し、叉 必要によって、発明されていたものである。  だが、室町時代以前の剣法は以上の如く、今これを 求むるに術が無く、室町時代に於ける剣法発生の状態 より推すと、それは記録に止めるまでもなく幼稚なも のであったらしく、剣法は室町時代になって勃興し、 連綿として伝えらるるだけの価値あるものを生じたの である。その個々の発生と発達について考えるべきこ とは、禅宗との交渉、流祖各伝、戦国武将の剣法奨励 と保護、武士階級の制度と、剣法上の二派、居合と小 太刀の発明、太平期に入りて後の技術と理論の発達 と、時代にしては寛永前後までーこの通論によって 他日この小論を完全にしたいと思う。 剣法の発達 発生に就いての梗概  剣法の発達を述べる順序として、発生に就いての大 略を云っておく必要がある。発生を研究するに対して 私は次の如く考えて行った。  一、従来流布されている剣法史中の発生論は信用出 来ないということである。『武芸小伝』『撃剣叢談』 『武術流祖録』『武術系譜略』の如き、悉く「夫れ刀術 は武窪槌命十握剣を抜きて地に逆まに植ゑ、その鋒端 に賜して」流であって、真面目に対手が出来無いじも っと、近代になってからでさえ、出鱈目が参く根本的 に調べてみる必要がある。  二、大和石上神宮の神体、神武天皇侃用の「フッノ ミタヤ」の宝剣は、内反りである。この内反りの刀、 双刃の直剣が、何故今の刀の如く外反りの片刃になっ たか? この変遷には、変遷すべき理由、即ち、刀に 対する研究が無くてはならぬ。そして、刀に対する研 究には、剣法も勿論影響力があったと考えて差支え無 い。  それでは、剣がいつ刀になったか? 現正倉院にあ る刀剣をみると、いろいろの型があって明かにその過 渡期であることを語っているから、その頃既に剣法は 有ったであろう。この変遷、即ち、突く剣よりも、斬 る刀が発達したということは、世界中日本のみであっ て、西洋の如き後海賊時代とアソグロサクソソの歩兵 が僅かに斬る刀をもっているのみである。従って、剣 法は奈良朝前後に、日本で独特の発明をされたものに ちがい無い。名をあげると、大宝年間大和の天国に反 りは無いが、大同年間の伯蓄安綱以後悉く反りがつい ている。  三、剣法は、勿論武人間に起ったであろうが、剣が 刀に変った当時の武人はすでに、疲弊の極にいて、人 夫、奴隷と同じ状態であったから、彼等の間に起った とは思え無いc『令義解』に「用レ刀」のことが出て いるが、どの程度か疑わしいから、存在はしていた が、極めて微々たるもので、剣より刀にたったのは、 それ以前の戦争当時の経験からではあるまいかと思わ れる。  四、ここで一考すべきは、支那から渡来したのでは 無いかという疑いであるが、これは第一に刀の種類が ちがうし『三才図会』の「案使レ刀、無レ如二倭子之妙こ の如く『武備志』にも『両朝平壌録』にも、逆に日 本剣法が支那へ行って称められているから、全然支那 渡来では無い。  五、古書を見ると力競べ、弓、馬という言葉は無数 に出てくるし、一例をあげると、弓などは、歩射、か ちゆみ、騎射、うまゆみ、ニノ矢、双矢、答矢、遠矢 指矢、横矢、筋違矢等、いろいろの名称さえ現れてく るが、剣術のことに就いては、ケの字も出て来ない、 この点から推すと、剣術はひどく軽蔑されていたか、 発達していなかったかの二つである。  六、宮廷関係の記録には、馬、弓、角力のことがう んとあるし、武家の方にも、この方のことはあるが剣 法のことは『愚管抄』に「手だれ」という文字がある だけで、これも、剣法のみのことでは無いから、朝廷 の記録を通じて、鎌倉時代まで、剣法は発達もしてい なかった。  七、では全然無いかというと、少しはある。『日本 書紀』の、崇神四十八年に「八たび撃刀す」という言 葉、『懐風藻』に「多力にして能く剣を撃つ」という言 葉、その次はずっと離れて『保元物語』に、源為朝の ことを「打物使ふ事は筑紫に聞ゆる肥後国住人加いて の次郎太夫則高、九国一番のもの切也、それに習ふて 師には遙に超過して」、次は『太平記』に「打物は子房 が兵法を得給へば」同じく「兵法を嗜む事隙無し」と、 これだけである。  八、ところが、従来の剣法史によると、足利義満の 剣法の師として、中条長秀が召されたことになってい るが、どの程度か怪しいものである。何故かなら、足 利家の制度というものは前後無比の繁雑ざを極めたも ので、お酒奉行、茶湯奉行はいいとして、側に奉行が あって、お栖浄奉行と云った位だから、必ずしも剣法 を教えずとも任官したかもしれぬ。  九、以上の如く、剣法は足利時代までに発生はして いたが、発達していたとは思えない。鎌倉、南北朝と 戦争があるのに発達せず、何故、室町時代になって急 に盛になったか、この原因の一つは刀がその当時高価 で、少なかったということが一つ。もう一つは、弓と 馬との戦で、そう白兵戦の劇しさが無かったからとい うこと。  十、だが、室町末になっても、剣法よりは槍の方が 重くみられて、一口に「兵法」という言葉で称されて 剣術と独立して呼ばれるようになったのは、後の二と である。多くは「刀槍術」と、刀と槍とを併合して呼 ばれ、剣祖といわれる人々もまた、刀槍二道に亘って いて、後世の如く二つに分れてはいなかった。  十一、何故、室町時代に急激に、剣法は流行したか、 第一に、下剋上の思想、百姓でも武士でも武術が上手 なら一城の主になれるという考え方の流行。第二に乱 戦つづいて、居家旅行の際の自衛上から武技を学びだ したこと。従って、専門的武士は、後に至るまで剣を 軽蔑していたし、剣法は殆ど、郷士の手で起ったもの である。第三に、携帯する武器として何よりも便利で あり、ずっと安くなって、誰の手にも入りよくなった こと。第四に戦が猛烈となり白兵戦となって、槍をす ててから矢張り練習していた者の方が分がいいという ことが判ったこと。第五に流祖と称さるる、人々の人 格が何れの人も揃って高潔であったから、甚しく人に 信任されたこと。第六に、武将が大いに保護奨励をし だしたことと、以上が剣法を急に発達せしめた原因で ある。 の 太 刀  私は本論として、これから発達のことに就いて書か なくてはならぬが、余り厳密な意味に於て、発生と発 達との区別は出来ない。広く流布されたから発達した ---------------------[End of Page 31]--------------------- 35剣法の発達 とも云えるし、流布されたくとも繕妙な剣術は、それ も確かに発達したものであるからである。と同時に、 技巧の上手た剣術も発達したと云えるが、元々戦場用 であるから、技巧などは要らぬとも云えるからであ る。この意味に於て、寛永時代までに筆をすすめる と、ある人々は、その頃から剣法は退歩したのだと云 われるかも知れない。  松本備前守尚勝は鹿島神宮に伝わる鹿島の太刀から 「一の太刀.」を会得したと云われている。この「鹿島 の太刀」というのは所謂「関東七流」の根元であって 「太古流」叉は「中古流」「神流」とも称されているも のである。『鹿島神宮記』によると天津吹屋根命十代 の孫、国摩大鹿島の末に国摩の真人という人があっ て、これを発明し、それ以来、鹿島の神官が代々伝え てきたものであるとされているものである。  この「一の太刀」とは何であるかP 諸流祖伝には 多くの人が尚勝に学んだことになっているが、ただな っているだけで何の証もないし、尚勝自らも、戦には 槍のみである。それはいいとしても、香取の郷士、飯 篠家直がこの太刀に価値があると知ったなら、勿論学 んでいなくてはならぬ筈であるが、彼の伝記による と、家直は自得した剣法であり『北条五代記』による と、鹿伏菟刑部から学んだことになっている。  もう一つの疑問は、松岡兵庫介が、その鹿島の祝部 であって、鹿島の太刀を知っていたくてはならぬ筈で あるのに、彼が塚原卜伝から、それを教えてもらって いることである。卜伝は、松本尚勝から学んだのであ るが、もしこれを合理的に解釈するとすれば、鹿島の 太刀も、松本の一の太刀も、大した技でなかったが、 ト伝が大成したものとしておいてもいい。 『甲陽軍鑑』は、この太刀のことを伝えて日く「1 此太刀をつかい出者は松本備前守也-右の太刀は一 つの位、一つの太刀、一つ太刀、如斯太刀一つを三段 に見分候」と、恐らく、この三種の技術のみでなかっ たであろうかと思われるし、或は、単に一心万法の原 則を説いた心得だけでは無かったでは無かろうかとい う疑問もある。  それは「神陰流」が型を伝えているのに拘らず、飯 篠、塚原両家ともに、何物をも残していないことであ る。これは弟子の多少ということより、太刀数が、型 が簡単であって、書残すべきことを持たなかったので は無かろうかと疑っていい。もう一つは、卜伝が、細 川義孝、足利義輝、北畠具教などという大名連中に秘 伝を授けていることである。これは後世の武術の如く 太刀をとっては技術によって伝授したと見るより、一 つの太刀筋と、それを打つ時の心懸け、平常死に対す る用意というような物を伝えたと見られぬことも無 い。神妙剣とか高上金剛刀というような者の太刀もこ の種であろう。  尚勝、卜伝、家直等が、少しの剣法上の技術的記録 をも伝えず、独り上泉信綱のみが伝えられているのは その弟子の多寡、後人の所為よりも、この人々の剣法 が書残さるべき種類では無かったと考えた方がいい。 そして残し得ない剣法とは、即ち簡単な技巧による烈 しき太刀打と、死に処する不断の覚悟とを知っている ことのみに終っているものである。 もう一つ、これを裏書するものは、上泉以外の三人 に弟子の少ないということである。これは、ただ修練 を重ねて一つの境地を会得するのみで、上泉の如く、 型、教則が完全で無かったから、その形式を受継ぐと いうことが出来ず、自然に自得して、砕岩の太刀を発 見するのみにとどまったから、容易に行き着き得なか ったからであろう。  そういう簡単た剣法のみで、一流が存在しられよう かという疑問があるが、それは江戸時代の如く型の華 やかな時にあっても「空鈍流」の如きただ一つの太刀 しか無いものが立派に通っている。「右の|態《たい》一つにて 万方に応じて勝利を得るといふ」と、伝えられている が、針ヶ谷夕雲から、小田切一雲に伝えられた無住心 剣の流がそれであって、上段太刀一つしかたい。 『甲子夜話』に曰く「可児才蔵、宝蔵院に逢て云には 我元来槍法を知らず、槍はいかにして勝を得るや、院 答、上段、下段、相かぶりの外無し、才蔵解らず」と。 この程度は簡単でたい、武士はこの程度の、当世たら ば、チャソバラ好きの子供でも心得ていることさえ解 らない武士が多かったのである。  然し、当時はそれでよかったのである。主として戦 場であったから、後世のとは全くちがった種類のもの で、後カヘ引くという如き法は全然考えられていぬ し、頭を主として打つということも不可能であったし 従って、戦場用剣術が実際に稽古される場合には、た だ進んで、敵の股を突き、脇を斬り、道具外れのみを 打つ練習をしたものである。  平素の試合にしても、練習でない、本気の試合とな れば、真剣か木剣かであったら、死ぬか、不具か、負 傷かで、記録に残っている多くの試合をみても、大抵 一太刀で勝負がついている。それ以上の技巧など、真 剣の場合に無用であったのである。  勝負の要は間にあり、というような話もあるが、殆 ど一髪の間に勝負のきまるものであって、致命的部分 へ届く太刀が、幾秒早いか遅いかだけの差で、不十分 な記録であるが、当時の試合の様をみると、飛退った り、蝶けたりということをしていず、打込む刀の早遅 によって勝負を決している。この間の消息を知る一つ の話がある。  柳生宗矩が、さる所で浪人と試合した。浪人は相打 だといい、座の人々もそう見たが、宗矩は自分の勝だ といった。浪人怒って真剣を所望するので、宗矩仕方 無く立合うと、一合して浪人は倒れた。宗矩座につい て、人々に脇腹を示すので、みると袷二枚まで斬れて いたが、宗矩は、勝負はこの位の差できまるもので、 木剣だ亡相打に見ているは尤もだと云った。  江戸時代になって、武士階級が確立され、日常剣槍 を学んでおれば暮して行けるようになった時に起った 剣法と、発生当時の剣法とは、その技巧に於て甚しく 相違している。従ってこの簡単な術法のみの剣法は、 その背後にその人物の覚悟、用意、態度の高低を有す ることによって、差を生じることになった。卜伝に次 のようなことがあるc 「さて勝利は右か左か、必定片手にて利すると聞届け (対手がいつも片手を使って勝つと聞いて)相手の方 へ、左太刀の片手勝負は利する共卑怯たり、無用と、 十度に及び使を立る。十度ながら(対手の云う)左太 刀片手にて打をいやと思召賜らば、勝負なき以前卜伝 の負にせられよと返事致す。そこにてト伝仕合仕る」  これはトリックであって、後世の剣客の見て卑怯と する所である。然し、当時の人々はこれを是認してい て、こういうことに引懸る方の人間を不覚者としてい た。伊東一刀斎なども敵の懸引にかかるものを心の出 来ぬ者として戒めているが、この迷わず疑わず、とい う境地へ、心を置くということを、剣技以外に発見し たいということは、そして、それを自己の人格に生活 に、延長せしめたということは日本剣法独特の種類で あって、ここに流祖の人格価値を見出さない訳に行か なくなってくる。 神陰流  この簡単な一刀万法の剣術に対し、教則を立て、し ないを発明したのが、上泉信綱であって、これより剣 法は組織的となり、教えるに弘めるに便利になった。  現在の日本剣法は、警視庁流と、武徳会流の二つが 一般的の物であって、二つとも古流の粋を集成したも のである。警視庁流は、木太刀表形組太刀十本、八相、 変化、八天切、巻落、下段の突、阿呼、 一二の太刀、 打落、破折、位詰と、各流の精華を集め、居合形を五 本、前越、夢想返し、廻り掛、右の敵四方ということ になっている。  武徳会の型としては、構に上段、中段、青眼、下段、 八相、脇構、天の構、地の構、人の構、業に十種、残 心に七本、小太刀残心に三本という風に分けているが この最近の剣法に於ても、右の如く、表としては十種 を出ない。  ところが、上泉信綱は、剣法創始の時に於て、既に この程度の複雑化した型をもっていたようであるから その技巧の上に於て、卜伝、家直、尚勝より甚しく多 岐であったことが覗える。そして技巧の多いというこ とは一般化しやすい物であって、三家を凌いで独り神 陰流の流行した所以は、その挽を使用し出した故のみ でなく、この技巧の華麗さにもよったのである。 『異称日本伝』にはその技巧の名を伝えている。それ によると表として、猿飛、遠廻、山影、浮船、流波。 三学として、覧行、松風、花車。位詰として、高浪、 逆風、岩砕。口伝として、破軍、観念、紅葉。この外 に虎飛、陰見、青嵐、三光の利剣というようた名が見 える。  恐らく、神陰流は後世の太刀数に決して遜ってはい ないであろワと思えるが、太刀数の多いということ は、学んで入り易く、信綱はこの上に挽を発明した。 挽が発明されるまでは木剣であるが、挽で稽古するの との差は、『本識三問答』がよく語っている。日く、 「他流には木太刀を以て剣術を数ふる也、木太刀の上 ばかりを打て手に当てず、手の際まで木太刀にて詰め て、はやよく詰りたりと誉めて置く。真の味ひ、何と してか手に覚んや、柳生流は『しなひ』にて剣術習ふ なり、挽は真剣の味なり、真剣は惜まず打つ、挽もを しまず打つ是同意なり、木太刀は手に当てられず、惜 みて打ばかりなれば唯さすりておく同前なり」  現在は竹刀稽古以外に何の方法も無いが、一刀流は 刃引の刀を用い、木剣も長く使用されていて、挽派と 木剣派とは常に争論していたから、上泉当時に於ける 頃、既に竹刀を採用したということは、劃時代的な企 であって、信綱の頭のよさが覗える訳である。  然し、技巧は多岐に発明されていたが主として戦場 用であるから、「切返し」という風の技巧は無かった らしい。退いて外して打つということも無かったであ ろう。こういう非戦場用技術は多く長沼四郎右衛門時 代から流行したものであって、技巧としては巧を加え てきたが、当時の人々には考えられぬものであった。  この神陰流の挽の常尺は、三尺三寸であるが竹を細 かく割り、三十から六十筋位に合せて袋に入れたもの で、鍔が無い。この鍔が無いということは、いろいろ の理由もあるが、当時の剣法が、進んで打つを主と し、引いて守るを従としたことを物語っている一片で もある。 新技巧の発生  神陰流の定尺が三尺三寸、現在の竹刀は三尺八寸で、 これは講武所の制定尺であるが、戦場で使用する太刀 の長さは、手に合い身に適する範囲にて長いがいいと されていた。重くて堅い物を斬るのであるから、刃も 厚く、丈夫たのがよく、来金道厚重ねと云ったような 堀正春の大太刀と云ったような三尺以上の物が好まれ たのである。  ところが、その一方に於て、早くも小太刀が出現し ていて、非戦場派のために技巧の妙を誇ることにたっ ている。卜伝の如きは、戦場へは長い刀、試合の時に は短いものを使っているが、剣客の中には純粋に小太 刀のみしか使わない名手の多くが現れてきた。  永禄三年、富田勢源が試合した時には、一尺四五寸 の得物で、敵の三尺以上の木剣に対している。柳生宗 巌も一尺七八寸の竹刀を使っているが、技巧が優れる と、得物を短くした方も、いよいよ使い易くていよい よ冴えてくる。これは剣技進歩の自然であると共に、 一面から見れば、非戦場用の遊戯業として卑しむ説の 起るものである。  然し、剣法が、独り戦場用のみでなく常住の必要と なり、江戸期に入るに至ってこの小太刀は益々流行し て、宝暦年間に於てさえ『長月物語』にあるが如く、 「直心影流にては身の丈三尺五寸のしないを用ふ。け しからぬ長き事たりとて、他流にてはあざみたること なり、其頃の他流の挽は二尺内外にて、父の若かりし 時稽古せしが、猶残りてあるは、しない革一尺八寸な り、それに二尺四寸の竹をこみて、柄を六寸とし、男 竹の細きを丸のままにて先をささらにして鍔はなかり しと也」と、二尺五寸の竹刀をさえ長いというまでに なった。  と同時に「居合」ということが、発明されて、これ が一派を為し、剣術の一別派として独立するまでにな った。林崎甚助重信をこの始祖としているが、この人 は元和二年七十三であるから、天文八年の生れであ る。この人の伝によると、文禄四年から慶長三年まで 七年間、武州の大宮にいて居合の奥義を悟ったという から、その時が五十五歳である。塚原卜伝の死んだの が元亀三年、上泉信綱の死んだのが天正五年であるか ら、約三四十年の間に剣法は殆ど原則的技術の規範的 一切を創生するまでに、発達したものとしていい。  居合は、知る如く、刀を抜く術である。刀は如何に 侃びているのがいいかP柄へは如何に手をかける かP 脚はどう踏んでいるべきものかP 鯉口はいか に切るべきものか? ここまで研究してくれば剣法は 微に入り、細に亘ったものと云っていい。この技術は 日本の剣法にあるのみで万国その比を見ないものであ る。南北朝以前の戦に於て大太刀を使う人々が、戦前 既に抜き放ってもっていたというのと、居合の法則と して、まず対手に抜かせてしまうというのと、雲泥の 差になるまで技術は進歩してきた。居合の心得の歌と して、   抜かば切れ、抜かずば切るな此刀、ただ切ること   に大事こそあれ  と、いうのが有るが、所謂、鞘の中にて勝つという のを極意としている。  然しながら、少なくも、これは戦場用では無い一人 に一人、一人に二三人の時にはいいであろうが、一度 抜いてしまって一人二人を切った後に最早居合は存在 しない。従って、かくの如き技巧が、戦国の最中に現 れたということは、剣法の発達を示すと同時に、主と して、戦場用のためと見られていた剣法が、技巧のた めの技巧に走らんとする発芽を生じたもので既に当時 から次の如き批評さえあった。『玉話集』に「居合は武 芸にあらず、といふは抜打の勝負にて出口を肝要と す。左様なれば全く鞘の内にある所に勝はあるなり、 先の人、刀を抜たるに思ふ図にて抜払ふべきと思ひぬ る所が早や負なり。其上仕損じ先の抜たる刀にて討る る時は猶以て大なる趾なり1人は抜懸れども出ロに て致すべきと思ひぬる所を、武道に非ず武芸にあらず とするぞ、決して捨つるにはあらず」  と、あるが、江戸時代へ入ると、水野正勝はこの 「鞘の中にて勝つ」という理論を非とし、対手の抜か ぬうちに、斬ることを主張した。「柔新心流」がそれ である。これは理論として正当である。  然しながら、二者共にその根抵とするところは、剣法 と同じく、その人の態度如何の問題である。末にあっ ては、腰の構え脚の踏み方であるが、居合の根本的精 神は、剣法と同じく心の持ち方、落ち着方を第一義と している。『甲陽軍鑑』に武田信勝が小姓に扇切をさ せる話がある。一人が扇をとって構えると一人は未だ 扇を手にせず、右手の指を立てて拘うが、信勝は試合 をさせずに、後者の勝とした。心の用意を称めたので ある。  敵が既に刀を抜いているのに対し、悠然として立向 うということは、余程の余裕を心に持たぬと出来ない 態度であって抜打ちの早業よりも、この心の落着と用 意とを主にしている点、結局剣法の人格修練と同じこ とで、本源に戻れば人間、人格の問題に帰してくる。  この店合を大成したのは「田宮流」の田宮重政であ るが、この人が殆ど林崎甚助と同時代に長柄刀を発明 している。普通の柄より長く、八寸の柄にしたのであ る。一口に「柄に八寸の徳、みこしに三重の利」と称 しているが、これも、微細なる研究から発明されたも のである。  力学上から見て、重心が手元に近ければ近いだけ、 刀尖の運動は早く、鋭くなるっ三尺の刀へ五寸の柄を つけたのと、八寸の柄をつけたのと、腕の疲労の比 率、力の入り方、切味から見て、長い柄の方がいい。 特に、居合の如く、早く抜き、早く斬らんとする術に とって、この柄の長短は研究に価するものであって、 田宮重政が一」れを発明したのは居合家として当り前の 話である。  かくして、天正、慶長の頃に於て、殆ど剣法の技術 の総ては一通りに、発明され、発達し、後世はただそ れをより巧妙にしたのみにたるのである。 諸将の奨励と保護  平行行蔵は『剣徴』に於てこう云っている。 「勝負は巧拙に在らず勇怯淫庭を為す1今世の武技 を講ずる者は是に異る也、巧拙を以て勝敗をなす1 巧拙にて勝負は論ぜられぬことぞ、されは、古より剣 槍の上手、名人と称せらるる者、戦場にて功を為せし は嘗て聞かず、已に鳥銃の達人、稲富一夢は百歩にし て柳葉を打ち、茅屋の中に在て屋上の鳴声にて其集る 処を察し、此を打っにあやまたず打落せり、.かかる上 巧なれども朝鮮陣の時、敵に向っては一玉も中らざり しと也」  平山讃は、文政度の人であるが、この時代に於てさ え、こういう人があった位だから、戦国時代に武術を 遊戯視して、不必要だと主張していた人のあるのは当 り前であった(剣法の起源篇参照)。これは、剣法の 表をみて底を見ない論であるが、剣法が盛にたると共 に戦国諸将の中には、これの必要を認め、それの流祖 に感じ、大いに奨励、保護したが、これも剣法発達の 一因に数えることが出来る。  その以前までに於て、剣法が用いられたのは、中条 長秀が足利義満の師に聴せられたということのみであ るが、戦国時代中期に入ると、可成りの国主、大名を 剣客の門人に見出すことが出来る。  徳川家康は.「有馬時貞と奥平休賀斎とに剣を学び、 休賀斎には皆伝を受て、その礼として三階紋を許して いる。そして、疋田景忠の創法を見て、彼は、将に教 へると、士に教へるとの区別が無い」など評している 言葉が残っている。  織田信長は、弓を市川大助に、鉄砲を橋本一巴に、 刀を平田三位に学んでいるが、本能寺の夜討に弓をと っての働きは、史上に有名なものである。  伊勢の国司、北畠具教が塚原卜伝に学んで「一の太 刀」の伝授をうけていたことは、卜伝が死に臨んで一 子彦四郎に秘伝は伊勢の国司に伝えてあるから行って 聞けと云っているので明かである。  足利義輝も叉塚原卜伝に学んで名誉の人であった。 室町御所の戦いに幾振りもの刀を座右に置き、取りか え、取りかえ、斬ってまくった話は『応仁記』を見る とよく判る。  武田信玄は、上泉信綱が兵法修行に出ようとした時 自分に答えないで主取りしてはならぬと云っているの を見ると、上泉を惜しんでいたことがよく判るから、 信玄も又剣法のことを心懸けていたにちがい無い。  上杉謙信は、天徳寺了伯の弟が、塚原ト伝の門人と して名があり、信玄の紹介によって越後へ来た時に、 歩兵弓頭として、長刀、剣法の指南を命じている。  加藤清正では『続撰清正記』にある如くコ奉公之 道油断すべからず、朝寅の刻におき候て、兵法をつか ひ、飯をくひ」と大いに剣法を家中へ奨励している、一  そのほか、細川三斎公が、松山主水、佐々木巌流、 宮本武蔵を召抱えていたこと、前田家が富田重政を抱 えていたこと、寺沢高広の如きは「明良洪範」に出し ているのを見ると、士卒と食を共にして武芸の稽古を している。  このほか、多くの人々を引用することが出来るが、 これらの人々は、剣客を可成りに優遇していた。後世 の一流の達人が、二百石、三百石で召抱えられている のを較べると、剣一本で可成りの高禄を食んでいる。 これは、稀らしいというよりも、剣の必要を感じてい たということと、流祖の人物が立派であったというこ ととの裏書である。  上杉景勝が、上泉主水を召抱えたのは三千石であっ た。これはただ上泉信綱の弟であるというだけであっ たから、上泉の名声を思うべしである。  塚原卜伝は、京都にいる頃「大鷹三もとすゑさせ、 乗換馬三疋引かせ、上下八十人ばかり召しつれてあり き」と、記されているようないい生活をしているー その門人、祐願寺が謙信へ抱えられた列禄が一千貫で ある。千貫というとかりに一文を今の一厘に換算して 一貫が千文であるから、千円の禄、当時一貫文で一石 二斗九合の米が買えたから、千二百九十石である。  居合の田宮重政の子長勝が、紀州家に仕えて八百 石。富田流の、富田景政が前田利家に仕えて四千石。 養子重政は、利家から利常の三代に仕えたが一万三千 石までを領して、柳生宗矩の一万二千五百石と相対し 剣客中での高禄者である。  この高は、慶長前後又はそれ以前のであるから、随 分高く買われていた訳であって、当時の戦功の求むる ものでも、高々五百貫か千貫であるから、刀一本の売 物にしては、いい価である。  そうして、この剣法の発達は、同時に天覧にも入る ことにたって、上泉信綱、斎藤伝鬼、片山久安の三人 が、禁裡庭に於て、刀を振っている。この記録は、上 泉以前はなく、片山久安以後は、明治十一年まで無い ものであるから、当時の剣法の流行は以て窺える訳で ある。中でも、徳川家康が最も多くの話を遺していて 家光が剣法を奨励したのも、この祖父の血を引いてい るからであろうと思われる位である。  こうして、一方、戦場には不必要だと称されつつ発 達してきた剣法は、その流祖の人格的影響と剣法の根 本的精神と、禅宗との結合によって、その剣技よりも その人の精神を重んじるような傾きを見せ、明かに心 本技末の説を立てるようになってきた。 その発達程度  私は、大胆に、総ての武技のうち、即ち、弓、馬、槍、 柔などのうちで、剣法が一番、深い所へまで発達して いたと、断じていいと思っている。  そして、その理由として、他の総ての競技武技に関 したものが「道」を蹉かず、説いても少なく、且つ、 浅く、遺されている人々の書物、逸話を考えても、技 の末のみのことであって、剣客の到りついた境地へま で行っている人が、殆ど無いからである。  囲碁は、競技のうちで、可成り古くよりあり、可成 り発達し、可成り高級視されているところのものであ る。試みに、これと剣とを比較してみる。  初代の本因坊、即ち本因坊算砂は、名人として、将 棋の嗜みも深く、戦国当時の人として、ちょうど上泉 信綱と時代を同じうしている人である。そして、元僧 侶で日海と云っていたが、この人に碁、将棋十首とい うものが遺っている。二三を挙げると、   筍くも、諸道の非難無益なり 手前の義理のせん   さくはよし   文武をばつよく修めて何事も 勘忍するは道の道   たり  と、いうようなものである。それから上泉信綱にも 歌がある。   よしあしと思ふ心を打てすて 何事もなき身とな   りてみよ   おのづから映れば映るうつるとは 月も思はず水   も思はず  この二つの歌を較べてみるがいい。共に同時代の人 で、一人は僧侶、一人は武弁。そして共に一技の祖た\ る人であるが、どちらが、深く研究しているかっ-・本 因坊の、事大主義的常識以外へ出ない作と、信綱の悟 りを含んだ歌とーそれは殆ど、有名な「心頭滅却す れば、火もまた涼し」と同じ境地を味得している。  一時代に於ける剣客中の名人は、大抵この悟りに入 り、そして、一転して、禅と合し、老子の思想を体得 し、儒教との合致を見出し、いや、そういうものと合 一点を発見する前に既に立派な「道」を「道徳」を説 くまでに、剣より、剣の技巧より心へ潜入してしまっ ていた。  私は、単に、算砂と、信綱とを、この歌だけから判 断しようとは思わないが、叉、判断しても差支えある まいとも考えている。すべての競技、武技は、究極す るところ勝敗の道、勝負の技巧である。だから、.算砂 の歌をとっても、残る+八番は、その技巧に於ける戒 めのみを説いている。そのほかの武技、競技も説くと ころは、殆ど勝敗、技巧の末である。  ところが剣法のみ独り、殺人的技巧の研究から入っ て、技巧の根元を抜け、人格を説き、修業を云い、道 徳を重んじ1弓、馬、槍、柔と同じ道を行き、同じ 所へ到着すべき種類であるに拘らず、独りとび離れて 「道」を尊んでいる。  私は、これをもって、剣は、弓、馬の行き得なかっ た所へまで行ったものと断じ、そして、各時代の名人 が、それを体得したということは、勿論その人々もえ らいではあろうが、最初にそこへ行きついて剣の究極 はここにあると示しておいた流祖たちの人物を称めな い訳には行かぬ。  この流祖たちの拓いておいた「道」は、他の武技、 競技の祖に於て、全く見られないことであって、古今 東西、剣法のみにある。驚くへきーそれは、今日の スポーツ精神などという言葉によって説かれるものよ り、スパルタ人より、とにかく、古今東西無比なる立 派な境地へ到達したものである。  殺人ということより、活人ということを考え、人に 打勝つことより、人に負けぬという風に考え、勝敗は 末であって、根本問題は、生死の解脱であると観じ、 生死の解脱は一転して「垂手入塵的」態度を取るよう になり、ここに仏書、哲学に説かれる道徳と同じもの が生じ、武人の人間修養上の最捷径として、迎えられ るようになった。  この発達のプロセスは、剣客の間に於て、甚だ明瞭 に、甚だ多くを遺されているのが、他の勝負事に於て は、殆ど比較にならぬ。今日、かくの如くスポーツが 盛んであるが、それの哲学化、それの「道」の無いこ とを思う時、単なる殺人的技巧の研究によって、無学 なる一武人が、五百年前に、当時の、いや東西古今の 哲人、聖者の到ったと同じ所にまで行っていたという ことは、その発達が、どの程度であったかということ を考えるのに、最もいい問題である。  そして、流祖が、よくそれを体得し、よく説いてお いてくれたから、後世の剣客が、到達しなかったとい うことも見逃せない。ここに於て、私は、流祖の人物 を、戦闘時代の一切の英雄、学者の上に位せしめて、 少しも差支え無いと云いたいのである。  恐らく、戦国時代に於ける武人で、信綱、卜伝如き 虚心的態度と、謙遜なる道徳家的高踏生活をしていた 人は無いであろう。二人ながら、仕官しておれば、越 前の富田重政、徳川の柳生宗矩の如く、剣一本が万石 以上の要職をしめられたにちがい無いが、二人ながら それをすて、一生を流浪の旅に送っているが、当時の 人として、いかにも尊い心がけである。 流祖の言行 その二三の例を引くがー上泉信綱は、一人の男を 捕えるため、頭を剃り、僧になってかかった。これは 対手が強かったのでなく、ここまでして自分の身を守 るのに、大事をとったのである。そして、一生を流浪 して、柳生の庄に客死したが、その遺文に曰く、 「兵法は、進退谷りて一生一度の用に立つる為なれば 1上手と人に見らるるとも、毛頭も心の奥に正しか らざる所あらば、心のとはば如何に答へん1火炎の 内に飛入、盤石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ頼む あるぢなれ」  彼は技から入って、立派に心へまで「道」へまで到 達している。人間の心得べき最高の心懸けを、剣から 生死から入って行って把握した。  塚原ト伝の逸話も亦これと同じものである。馬を避 けて横丁から遠廻りした話、船中の侍を、島へ置去っ た話は、小学修身書で有名であるが、その継嗣を選ぶ 時にも、用意周到であった長子を選んで技を誇った次 子を斥けている。そうして「大鷹みもと据ゑさせ、乗 換へ馬三疋引かせ」ていた豪著な生活をすてて故山へ 帰臥して、隠者的生活を喜んでいる。  伊東景久は、小野善鬼の技を認めていたが、彼の心懸 けに廉らずして、神子上典膳に奥秘を伝授し、行方を 知らせずに一生を送った。もし、こういう逸話を求め るなら、余りに多く有りすぎる。  神谷伝心斎は、青年にして既に十五流を究め、新陰 流を、直心流と改めた人であるが、六十七歳の時に、 初めて悟って剣法は仁義礼智を知るためである。身を 守るのは直心のほかに無い、直心に進んで悲心を断 つ、これが剣の極であると云った。そして極意を「非 切」と称して、八十二歳で死ぬまで、剣法は人間の道 を行うもので、心の非を切る法であると説いている。  もし「空鈍流」の小田切一雲が著す『天狗芸術論』 を読むたら、針ヶ谷夕雲と、一雲の二人が、どういう ことを考えていたか? それは老子の谷神章と合致点 を見出した。.平常無敵流と、同じ所へ行っていること が判るであろう。『当流括要』に曰く、 「表も無く、裏も無し、太刀の構もたく、総じて仕組 一つも無し、唯神気素直にして、平生の形にてすらす らと出てー」  と即ち、老子の、 「谷神レ不死、是謂二玄牝一、玄牝之汀是謂二天地根一」か ら出たもので、平常は平等の意、無敵とは、己が虚心 であれば、敵というようなものは生じないという意味 で、強いから敵する者が無い、というような解釈は剣 法の真を知らぬ人である。  とにかく、刀を抜くということは、自他何れかの生 死の問題である。自分の殺されるということは大変で あ一るが、他人を殺すということも亦容易た業でたい。 剣客は、毎日こういうことを心懸け、こういう境地を 通っていた。そしていつの間にか、生死のことを超越 し、悟ったのである、、  人間が、生死を越えるということは、生死以上に大 変なことである。現在の如く、医学がすすみ、世が太 平ならば、これは殆ど無関心でいられるが、戦国当時 の武人にとっては何よりの問題であった。それが解け てその心で世に処す以上、人生はその人の掌の中にあ る。正平道人鈴木正三はその心持を解釈して、 「痛まず、悩まず、悲しまず、変ぜず、驚怖せず」  と云った。これが剣客の心であるとすれば、このく らい安らかな生活は無い。勝海舟は、よく、 「自分の処決は万事剣からきている」  と云ったが、翁は幕末の剣聖、男谷下総守の親族と して、そういうことを教えられたであろうと思う。  こうして、説いてくると、生死の間に、自然の悟り を得た剣法と、不立文字の禅とは、よし、沢庵と柳生 宗矩の関係が無くとも、剣祖慈恩が禅僧で無かろうと 相通じるもののあるのは当然の話である。試みに、そ の相通じている二三の所を抜いてみる。 禅との共通点  沢庵和尚が、柳生宗矩へ与えた『不動智』には、 「水上に胡慮子を打っ、捻着せんとすれぽ即ち転ず、 ふくべを水へ投げて、押せばひよと脇え退き、何とし ても一所に留まらぬ物や、至りたる心は、ちっとも世 に留まらぬ水上のふくべを押すが如くたり」  と、云って、禅の極意を説いている。俗に謂う「八 方破れ」の気持ちである。  柳生流から出た「無住心剣」針ヶ谷夕雲はこう説明 している。 「凡そ、心を極め、天命を知るとならば、たとへ天地 が忽ち微塵と成るとも、柳か変動するの気、自己には あるべからず、況や其外の一切有爲世界の諸欲の上に て論ぜば、天下を授受するの所に至っても、義と不義 との了簡(判断の事)をするは格別なり。これが為に 欲心を動かしての裁判はあるまじき事なるに僅かに三 百、四百石の知行分限の沙汰にさえ欲心を動かして、 兼てより所持する人は失はん事を恐れ、所柱,せぬ輩は 義を忘る1面々に己が赤子の時と帰り見れば、天地 の破裂するにも目もまじろがず、天下を得ても悦とせ ず、一切世間有為諸欲、一箇も赤子の心に感ぜざる f然れども飢えては乳をのみ、飽ては離れ、乳の出 ぬのは捻り出し、今日我々当然の用に事欠かざる程の 真知の働は、自由に備りて有る也、ここを、主一無適 といひ、純一無類とも云えねど敬也、誠と知らねど誠 也、放心と嫌ふべき物無く、閑思離慮と忌むべき様無 く、本より不遍不羅なれば過不及もなし、不悉不信不 義不孝といふべき物も無し」  と、これ剣より得たる哲学で、文字は足りないとし ても立派に、老子哲学を体得したものである。又宮本 武蔵は、その『五輪書』に於て、 「我兵法を学ばんと思う人は道を行うにあり第一に、 邪無き事を思う所」  と、説いている。伊東一刀斎の、 「内外打成一片にして、善く無く、悪も無し、千刀万 剣を唯一心に具足し、十方を通貫して転変自在也- 讐へば水の如くー」  は、沢庵の言葉と同じである。 「よく行に達する者は、先に止りても先に不奪」事を 守りても心其事にそまらず、形在ると欲すれば全形無 し、形無きかと見れば正に形ありー勝負の根元は、 自然の理にして、是非全く計りがたし、不レ思に勝、 不7量に負く1何に同って勝事を楽み、何に向って 負くる所を悲しまんや、人間無常の習、其得失は唯天 道自然の妙理也、故に敵に向うは勝負の是非を念はず 一心生死を放念す」  と、こういう種類の言葉と、禅の二三とを比較する 時、剣法がいかに「道」へ到っているかが判るであろ う。『坐禅用心記』の、 「身心倶脱落、坐臥同遠離、故不レ思γ善、不γ思レ悪、 能超一越凡聖こ  は、即ち、夕雲の説くのと同じである。 「説法豊有二定式一、只随二時機一也耳夷」  は「八方破れ」と同境地である。永源寂室和尚語の 「参禅無二秘訣一、只要二生死切一至祝々々」  は、剣客の第一心得である。禅と、剣との関係は 『病間長語』の云う如く、 「刀槍の印可などといふ目録は、多くは皆禅家の語を 仮用の心の動ぜぬといふ理を教へたるものなり。その 昔刀槍など能せし武士も、ただ武辺のみのことのみに て、文事は一向知らざりし故に、禅僧など雇ふて作り てもらふたるが」  と、いう如き、単なる関係ではたい。もっと奥深く 不立文字の諦悟が、共通していたのである。後世にな って、いろいろの人々が、例えば白井亨の如き、参禅 して剣を悟り、山岡鉄舟の如き、又禅から力を得てい るが、流祖の人々は、殆ど、禅と何の関係もたい。記 録によれば、僧慈恩を以って、開祖としているが、慈 恩が禅僧であって、古い剣客者としても、職国初頭の 流祖には全く関係がなく、卜伝も、信綱も、家直も、 悉く、自ら得た技と、悟りである。それがたまたま後 に禅と結び、柳生宗矩が沢庵和尚と交遊するに及ん で、禅が、剣を助けたように見えで.きたが、剣は流祖 たち自得の道で、少しも禅からの力を借りているもの では無い。  日本の禅僧の誰に較べても、名人、上手の人々は劣 ろうとは思えない。本人は、坊主の前で、頭を下げる か知らぬが、私は、断じて下げさせるとは思わぬ。も し、その体得したる実践力に至っては、幕府の御用を 勤めている坊主輩の遠く及ぶところでは無い。辻月丹 程度の剣客ですら、そこらの儒者などより蓬かに人物 である。「道」を心得ている。 二流の消長  剣術は、勿論、戦場に於ける必要技として発生し発 達してきた。従って、荒稽古をし大太刀を使い、主と して、戦場でいかに敵を斬るべきかの研究であった。  ところが前述の如く、理論的に、体験的に、戦場よ り遠く離れてしまったから、ここに二派の対立をみる のは当然のことである、そうして又、世が太平となり 単に剣法を武士の嗜みとして学ぶようになって以来、 戦場派の衰えてくるのは是非も無いところである。  そして、道場剣法が盛になり、技巧が細かくなるに つれ、一面より観て剣法の堕落と罵られるのも当然の ことである。  徳川初期まで、即ち、古流剣法は、主として小手へ の打込みを習いとした。これは、木剣、刃引の稽古で あるから面胴の如きへは危険で、打込めなかったから である。そして小手でなるべく近くまで打込んで、そ の手練を、 「よくつめた」  と、云って称めたものである。それからもう一つは 対手の得物を叩ぎ落して勝負にするのと、乱稽古はこ の二つ以外を出たかった。そして、別に組太刀を学ん で、型の稽古をしたものである。  これを不便として、前篇に説いた如く袋竹刀(軸) を、上泉信綱が発明して、面、小手自由に打てるよう になったが、猶他流では軽蔑して、柳生流のみの使用 にすぎなかった。  将軍家指南役として、,一刀流、柳生流の二派が出て いたが、一刀流は刃引を用いて稽古が荒く、天下御流 儀といえば柳生流に限られた如く、柳生流のみが用い られた。そして、それは単に将軍家のみでなく、一般 にもその傾向をみせていた。そして、一面に於て、 「凡そ、武技は乱れたる世ならんには学ばずとも可成 るべし、今治まれる世に生れては、武士を以て、名を 呼ばるる者は、かかるわざに身を委ねてこそ、其職業 をわすれざるの一端ともなすべけれ」  と、いうような思想が起ってきたから、柳生流の如 き、組太刀も無用、構も無用と云った如き、心本技末 流の盛大になるのも当然で、入り易いから、流行るの は尤もである。  そしてこういう傾向は、戦場で人間の密集している 時には使えないような太刀を多く発明しだした。即ち 後へ退るとか、横へ飛び開くとか、わざと倒れて敵の 打込んでくる胴を薙ぐとか、戦場流から見れば、笑ち に堪えたる業である。  だから、荻生祖棟の如き、この傾向の流行を、片腹 痛く思って、その『護園秘録』で大いに罵倒している が、曰く、「戦場に名㌣得たる物師、覚の者と云者、 一人も槍太刀の芸の上手もなく、槍も太刀も只棒の如 くに覚えて敵をたたき倒すことなり1総じて武芸 は、手足を習わしめ、走り廻りの達者になるべき為な るに、わざをいやしきことに云ふて理を談ずる類は、 皆太平の戯玩に似たり1剣術にて戸田流、神道流な どは戦国にてはやりたる流なれば何れも所作多く手足 の習はしによかるべし1殊に跡へ引くことを第一に する流などは、戦場には敗北の媒たるべし」  そして、戦場派は、主として、太股、二の腕、股を 突上げる、という風の鎧の隙を規うての稽古を主とし ていた。敵の懐へ早く飛込む稽古のため、背に旅を入 れて、いくら叩かれても、一心に、敵へ素早く突込む という風なことさえやっていた。  然し、それは到底、長くつづく訳が無かった。雲引 流に「鉄面」が行われて間もたく新陰流六代目、直心 影流の長沼四郎左衛門が出るに及び、「打込み」「切返 し」等の技巧から、面、小手をつけ、袋竹刀を、現在 の如き竹刀に改めるに及んで、遂に戦場派は破れ去っ てしまった。  これは一面に於て堕落的傾向を見せたと同時に、発 達史上当然のプロセスであって、如何とも仕方の無い ことであった。享保年中の人、新見老人はその著すと ころの『昔々物語』に慨嘆しているが、 「むかしは侍衆、大身小身共に振舞夜話の出会を聞 に昔御陣の咄、先祖の手柄、又は当世の武道、武辺の 詮議、刀脇差の物ずき、喧嘩口論の是非の取沙汰、男 道の嗜、和らかなることは茶の湯ばなし是より外に別 の義なし。さるに由て刀脇差のこしらへ1座敷に相 客十人あれば十色の物ずき1三尺余の刀もあり、二 尺許りの刀もあり、軽き有、重き有-近年は1時 のはやりに随ひ、似よりたる尺寸iその外拾に付て も皆同じ、何の思もなく、人の真似して持へたる」  と、いうのも是非ないことになってきた。そして、 流石の一刀決も、とうとう宝暦の中西派二代目中西忠 蔵に至って、竹刀、抱をいるようになった。  そのうち、寺田五郎左衛門の如き、猶刃引を用い、 戦場派復帰を叫ぶ人々も、時々出て来たが、この大勢 はどうすることもできなかった、 武勇伝雑話 宮本武蔵の強さ  武蔵は、書き残しておいた『兵法三十五ヶ条』『五 輪書』があるし、養子の宮本伊織の建てた碑もある し、相当研究された、熊本の宮本武蔵顕彰会本もある し、そのほか、書画、工芸品が残っていて、剣客中で 一番事蹟が、はっきりとしている。然し、その強さに 到っては、強いというだけでその程度が判らない。  仮えば、佐々木小次郎との試合は、武蔵一生の大試 合であるが、その技禰の問題になると、必ずしも負け た小次郎の方が弱い、とはいえない。  齢からみて、小次郎は二十一歳から、十九歳までの 間、武蔵が三十八歳である。試合の駈引からみて武蔵 の方が場数を踏んでいる。場数を、技禰と別に考える と、ここに、いくらかのハンディキャップがある、  それから、武蔵は、小次郎の刀を十分に調べてい る。そして、それよりも自分の刀の方が短いから、わ ざわざ揖を買って、自分で削りあげて、その刀より長 いものを作って試合している。これなど、明かに、武 蔵の腕と、小次郎の腕と差の無いことを語っているも ので、二人位になると、刀の長短で勝敗がきまるので ある。その差一寸で勝敗が決しるのである。  それから、いつも武蔵の手段として、定められた時 刻より、ずっと遅れて試合場へ行っている、それは吉 岡と立合った時にも用いた手段で、対手を待たせて、 いらいらさせようという心理的計略である。これは、 待たされて、じりじりするような対手が悪いのである が、卑怯といえば、いえぬこともない。  そうして、いよいよ立合う前になると、小次郎が怒 って、鞘をすてて向ってくると、小次郎お前は負け た。勝つなら、何故、鞘をすてたか、と、齢若の小次 郎を、巧みに弄んでいる。そうして、小次郎との試合 は、小次郎を打つと同時に、武蔵も、鉢巻を切り落と されているから、ただ、得物の長短の差であったとい える。だが、勿論、こういう差とか、計略とかを含め たものが、その人の強さであるならば、確かに、武蔵 は強いし、小次郎は、当時、西国の鬼と呼ばれていた 人だから、それに勝った武蔵は、勿論強いとはいえ る。  佐々木小次郎は、富田流の富田勢源の弟子で、十六 の歳に、既に、一家の腕があり、勢源の弟、五郎左衛 門と勝負して勝ったので、一流を立てることを許され 「岸流」と、名をつけたのである。「岸流」は流派名 で、姓名ではない。  この試合のほかに有名なのは、京都の吉岡との試合 であるが、武蔵の方の記録では、又三郎、又七郎の二 人の兄弟と試合して、二人ともに破ったと書いてある が、吉岡の記録だと、又七郎直綱と試合さしたので、 所司代板倉重政が立合って相打ちになったといってい る。そして、世上、吉岡が負けたというのは、武蔵の 鉢巻が柿色で、血が滲み出ても判らなかったし、自分 のは白で、それがよく判ったからだと弁解している。  そこで、武蔵の方の記録にない、武蔵の不利な話を 挙げると、二階堂流の松山主水を恐れて、その土地を こそこそと逃げ去ったという話があるし、尾張藩の師 範役に、 「貴殿、兵法三十五ヶ条などを書かれて、今後悔して おられぬか」  と、詰問され、 「仰せの通り」  と、赤面している話がある、、『兵法三十五ヶ条』と 『五輔書』とは、同じ内容で粗密の差があるだけであ るが、これは、明かに『兵法三十五ヶ条』が世上で評 判よくなかったためであると解してもいい。少なくと も不備であったから、後に訂正したのが『五輪書』で ある、.、  それから、江戸へ出て、一人の江戸の名剣客とも試 合していない。当時は、柳生、伊藤の両客は勿論、小 笠原源信斎、幕屋大休、紙屋伝心たど、有名な人がい たが、一人も立合っていない。残っているのは、名も ない辻風某と試合して勝った、という話だけである。  然し、決して弱くは無かったし、武蔵の来ていろこ とは可成り評判だったと見えて、小笠原源信斎が、 「武蔵は、強いという話だが」  と、いうと、門人の紙屋伝心が、 「武蔵くらいなら、負けません」  と、いって、源信斎が、武蔵の型通りに打ってくる のを、一撃に破る話が残っている。  この源信斎というのは、上泉信綱の弟子で、亡命し て支那へ逃れ、後戻ってきてからは、相弟子の疋田小 伯をして「吾、源信に及ばず」と、嘆ぜしめた名人 で、新陰流三代の正統である。  また、紙屋伝心は、十五流にわたってその奥義を究 め、後に真心流と称して、新陰四代目になった人であ るが、私の推案では、当時の武蔵は、この人々より強 くなかった、といいたい。  それは武蔵の記録を読むと判るが、だんだん修養し て行って晩年には相当の境地に達したんであるとは思 えるが、残しているものに信綱等に見る鋭さがない。 常識的であウて哲学が無㌧『五輪書』にも、心得 として、いろいろのことが書いてあるが、たとえば、 小田切一雲の『天狗芸術論』の如き鋭利さがない。  それから、細川三斎公に抱えられた時の禄高が、当 時として、又、今思われているような強い武蔵として は、少なすぎる。手許に、記録が見つからぬので正確 に書けぬが、確か、十七人扶持、玄米三百石であった と覚えている。  この武蔵に比べると、養子の伊織は、三千石になっ ているから、少し時代がちがっても少々おかしい、当 時、三百石といえば、相当の知行で、客分扱いだから 決して、悪くはたいが、第一流、唯一者としての高で はない。然し細川三斎は、有名な武術好きで、武蔵は 愛されていた方だから、それで、この知行では、少な くも唯一無二の剣客で無かったことだけは、断言でき る。  それから、武蔵は、三斎公に、自分の得手は、剣術 よりも、政治向の方のことだといっているが、これは そうらしい、、他の剣客に比較して、頭の知識的たこと だげは動かせない。画も海北友松に弟子とたって上手 であるし、自分で、鞍だの、鍔などを造って、今も残 っているが、そのほかに、当時の武芸者にない前の二 書を著述しているし、その言行を見ても、剣術それだ けの強さより、頭のよさが、非常に含まれている。死 ぬ時にも、 「自分の考えが、実行されないし、聞かれない中に死 ぬのは残念だ」  と、いっているが、然し、それについても、何の書 き残したことも無く、いったこともない。島原の乱に 出陣しているが格別の話も伝えられていたい。ただ細 川家の軍事顧問として行ったことだけは確からしい。  ただよく自省していたことは、修養していたことだ けは、十分に判る。一生、妻が無かったとか、湯へ入 らなかったとか、髪をすかなかったとか、金包みを天 井へぶら下げていて、用があるとそれを下ろして開い たとか、武士の風貌を知ることのできる話で、その残 されている肖像の鋭い顔をみる時、非凡人であっ★こ とが判る。  ただ剣道全盛の時代としては、余りに他の剣客の事 蹟が残っていないので、武蔵一人が目立つようである が、武蔵の強さを語る、いろいろの逸話も、そう驚く には当らない。たとえば、一人の男の額へ米粒をつけ ておいて、それを両断したたどの話は武蔵でたくとも 出来ることである。  時々いうが、武蔵は決して二刀を使っていない。先 年の天覧試合など、明かに二刀を持って試合している 人があるし、道場では竹刀で、有利に立合えるが、こ れは竹刀だけ、道場だけの御なぐさみ剣術である。武 蔵は馬上とか、そのほかの場合、片手でも刀を十分使 えるように、平常から、片手の剣術を稽古させたので 自分ではっきりそういっている。二刀を試合に使い出 したのは、ずっと後で、道場剣術全盛になってからの ことである。  真剣で二尺二三寸になれば、古刀でも、一貫七八百 目はあるcこれ位の重さがないと、人は斬れない。そ れを両手で、戦うなど以ってのほかで、三十分もした ら疲れて、叩き落されてしまう。  もし、それより短い刀を二本持ったとしたなら、こ っちのが届かぬ先に、対手の長いので斬られてしま う。第一に真剣は、竹刀とちがって、片手では十分に 中々斬れるものではない。右手で調子をとって、片削 ぎ(刃が外れる、真直にはならず、少し斜めになるこ と)にならぬようにし、左手に力を入れて引かんと斬 れない。  僕らもよく、抜討ちの片手薙などとやるが、片手で 完全に斬れる人は達人である。武蔵は自分の流儀を、 円明流と称していた。門人の青木半左衛門が、初めて 鉄人二刀流とつけてから、二刀流の名が起ったので 1手近い例をとると、維新前後、剣術の再び盛にな った頃には、二刀流などという馬鹿馬鹿しいものは一 人も使っていないし、実際にも、二刀で斬合った例は 一つもない。流石の出鱈目講釈、大衆物でも、維新に なると、新撰組にも、一人の二刀流も出して来ない。 有利な剣法なら、誰かが利用するはずであるが、下ら ないからである。現在の二刀流の如き、剣術の堕落的 現象で、見た眼に派手で加もしろい舞踊剣術である。 少なくも、一家をなす人は使っていたい。天覧試合に 講釈師が招待されて、 「二刀流の成績は中々よろしい、矢張り、二刀流は有 利なようです」  と、何をじゃらじゃら1武蔵も、もう少し、後に 生れたら、或は、大石進が六尺の竹刀で、江戸中を驚 かしたように、二刀流で、紙屋も、小笠原も負かし て、日本一の武芸者になっていたかも知れぬ。若い武 蔵は、可成りの山気と、街気と、術策と、自家宣伝と は上手であったらしい。ただ晩年はえらい。一流であ ることは明かである。 上泉信綱と宮本武蔵  菊池寛は江戸時代に於ける武蔵への蔭口が、私に伝 わったものだと、私の武蔵への非難を、解釈してい る。然し武蔵に対する私の攻撃は、武蔵を偉人とする 「宮本武蔵顕彰会」の『宮本武蔵伝』によったもので あって、私の解釈が正しいか、どうかは、後に、武蔵 の匹夫的行動を列挙して、これを論ずることにする。  もし、単に蔭口云々のみに対して、反駁するなら、 私の云う、何が蔭口であるかを聞かぬと、わからない し、他の剣客に、武蔵のように非難されている例があ るか、ということも、聞かなくてはならぬし、私の引 用する書物が、蔭口を伝えているか、当時の、正しい 話を伝えて茄るか、又『宮本武蔵伝』は、武歳に有利 なことと共に、不利な物をも加えておるか、それとも 武蔵を顕彰する会から出た本ゆえ、武蔵に有利なこと をのみ伝えている、不利な記録を収録していないか、 ここまで調べてみなくてはならぬ。  もし、その一例をとるなら、吉岡の試合の如き、武 蔵伝と、吉岡家の記録とは、全くちがうが『武蔵伝』 には、反対側の、吉岡の記録を、全然、収録していな い。これで、公平に、考えることができるかどうか、 それとも、両者を比較して絶対に『武蔵伝』の方が、 正しいとでもいう人があるなら、その研究方法を、聞 きたいものである。 、武蔵は、いろいろと、自分でも書き残しているし、 『宮本武蔵顕彰会』たどというものまで出来ているし、 悼が小笠原の家老であったが故に、碑も立派に立って いる。芝居となり、講談となり、広く、人の頭に残さ れている。これは、その人が、残されない他の人より も、数段えらかったのではなく、一つの偶然である。  由比正雪は、誰でも知っているが、別木庄左衛門の 名は誰も知らないし、忠臣蔵は、残らず日本人が、知 っているが、浄瑠璃阪の仇討は、少数の人しか知らな い。維新の剣客にして、千葉周作や、近藤勇はよく知 られているが、剣聖と称されていた男谷下総のこと は、誰も知らたい。爆弾三勇士の名を知っていても、 八勇士の名は知らぬし、空閑少佐は記憶していても、 尾山大尉は、それほどではない。  これらの人々の事蹟が、有名と無名と、そんなに、 格段の差があるかと云えば、大したことではない。ジ ャーナリズムが、宣伝したか、せぬかの差のみであ る。忠臣蔵に、士分以下の加盟者は、寺阪吉右衛門一 人であるが、浄瑠璃阪には、七八人も年期奉公の仲間 が加わっている。恩を知っている点から云えば、遙か に、忠臣蔵より優っているが、不幸にして、芝居にも 講談にもならないから、 一般化されずに、無名であ る。  武蔵は、芝居となり、講談となり、一般化されてい るし、そして、事実に於ても、第一流の剣客であるか ら、多少研究した人には、成る程、武蔵は、えらい人 だと、感心するが、感心した人が、他の剣客のえらさ をも調べて、感心しているのか、武蔵だけを見て、感 心しているのかと云えば、武蔵伝を一冊見ただけで感 心してしまって、余の人の事蹟は、少しも、研究して いないらしいのである、.又、するにしても、本もない し1凡そ、剣客中で、ちゃんとした伝記の出ている 人は、武蔵と、斎藤弥九郎と千葉周作ぐらいのもので あろう。  この点に於て、いささか、私は、余人のことをも、 研究しているから、武蔵を、一流の中へは加えるが、 ナソバーワソには、決してしない。何故かと云えば、 上泉信綱がいるからである。 二  菊池君は、次に、武威の試合の回数は六十三度とい う数字を上げている。そして、名は試合でも、実は 果し合いだと云って、称めているが、試合は、必ずし も、果し合いではない。果し合いのような試合もあ る。佳々木小次郎との試合のように、ちゃんと、願い 出て、上の許しを得ないと、そう果し合い的試合とい うものは、軽々しく出来るものではない。いくら、戦 国時代末と錐も、ちゃんと、国の治まっている時に、 濫りに人命を損じるようなことは、上で許しはしない。  武蔵は、果し合い的試合もした。と、同時に、傷つ かぬ試合的試合もした。ことごとくを、果し合い的に 見るのは当時の法令を知らぬからである。それで、か かる試合を、六十三度したからと云って、その数の多 いのは、必ずしも、誇りにはならない。  試合に於て誇るなら、一つでもいいから、天下第一 の人と試合をして、打ち勝つことである。天下第一人 を避けて、六十三人の弱い奴に、勝ったとて、何の誇 りにもたらたい。もし、試合の回数に於て云うなら、 「塚原卜伝は、十七の時、京の清水で『真剣勝負』を して以来『真剣勝負』のみ十九度、戦場の働き、三十 七度、木剣の試合数百度、矢疵六ヶ所を受け、敵を討 取る数、二百二人。  松本備前守、高名の首二十五、並の追首七十六。  波合備前、長刀をもって、我は一人、敵は二百人ば かりを、七八十人斬りて、その身は、堅固にまかりの く、切所とは申しながら」  と、いくつもある。武蔵は、戦場へ、六度出ている が、一向に、武蔵が、戦場で、働いたという話は伝わ っていない。  だが、回数なんかは、どうでもいい。武蔵が、当時 名ある人と試合をしたのは、佐々木小次郎と、吉岡家 の人と、二人である、しかも、吉岡との試合は、吉岡 の記録では、相打ちとなっている。小次郎との試合 は、武蔵は、小次郎の得物の長さを聞いて、それより 長い木剣を作っているし、時間を、わざわざおくらせ て、小次郎の年若に乗じて勝っているのであって、も し、二人が、道で出逢っての試合なら、どっちが勝っ たか、わからない試合である、  しかも、武蔵は、江戸へ行って、当時の名ある剣客 とは、誰一人、試合をしていない。当時江戸には江戸 子守唄の中に「剣術幕屋、薬は外郎」と唱われていた 幕屋大休、小笠原源信斎、紙屋頼春、庄右喜左衛門、 針ヶ谷夕雲、小田切一雲、小野、柳生の両家をのけて も、名人が、揃っていた。この人々の一人とでも試合 をして、見事に勝ったのなら、私はえらいという。だ が、武蔵は試合をしていない。  しかも『撃剣叢談』の中には、武蔵が、試合を避け たという話さえ伝わっておるのだからーこれが蔭口 という原因であろうが1私は、他にもっと、見事な 試合振りを示している人があるから、その人を、武蔵 の上に置くのである、誰かと云えば上泉信綱である、  当時、柳生流の元祖、柳生宗巌は、近畿第一と称さ れていた。この人の所へ、上泉がきた時、試合となっ て、上泉は「まず」と、門人、疋田文五郎を出した。 宗巌が、立ち向うと、文五郎、 「右をとる」  と、いうと、ばんと、右が入る。 「左をとりますぞ」  ばんと、左が入る。段ちがいだ..宗巌と、門人の疋 田で、これだ。これを、武蔵が、小次郎に対していろ いろ作戦をして、辛らくも勝ち1後に、あの時に、 武蔵も額をやられたというような噂の残る位に、際ど い勝負をしているのと較べると、上泉信綱の段ちがい さが、よくわかってくる。六十三度試合しないでも、 この一度で、十分である。武蔵は、六十四人目に破れ るか知れんが、信綱は天下無敵である。  然し、信綱のえらいところは、真剣勝負などを、濫 りにしないところにある。武蔵の如く、「吾れ弱年の 頃より」などと、その自叙伝に、自分の強さを、書か ぬ奥床しさのある点にある。武蔵は、その『五輪書』 に、自分は、十三の時に、誰に勝ち、一生の間、六十 三度、一度も、不覚をとらず、などと麗々しく書いて いるが、これをもし、菊池寛が「吾れ、十三にして、 作文に志し、二十五歳にして、傑作をかき、六十三冊 の本、一冊も、売れざることなし」とでも、自叙伝の 冒頭に書いたら、人は、何んといって、曝うだろう。 武蔵が、己れの強さを麗々しく、吹聴しているのと、 塚原卜伝が、馬の尻をよけて、横丁へ廻った態度と、 ここに、人間として、格段のちがいがある。このこと は、後に云うが、その人物に於て、武蔵は、その技よ りも遍かに劣っている。この点に於て、断じて、第一 人者にすることはできない。  余技がうまいということは、剣客としての価値に影 響しないから、論じたい。高野佐三郎氏、斎村五郎氏 が、矢張り、武蔵を称めておられると、菊池君は書い て加るが、両君の剣道は、十分に認めるが、両氏の剣 客伝、剣道史は、認めない。現在の剣客中、剣道史、 剣客の研究をしておられるのは、呉の堀正平氏をもっ て、オーソリチーとする。この人の説は、傾聴してい いが、恐らく、上泉信綱を研究したなら、武蔵と、段 のちがうことを感じるにちがい無いことは、誰でもで あろうとおもう。以下、武蔵と信綱に対する、僕の小 論を述べて行く。 三  武蔵のことは、次の五点を論じると、よくわかる。   第一、その人物の、傲頑不遜   第二、その著作の価値   第三、剣道上の邪道としての二刀   第四、当時に於ける武蔵の杜会的地位と名声   第五、門人に傑物の出ざること  右の内第一から、論じて行くと、武蔵について残さ れているその性格上の逸話は、幼年時代から、老年に いたるまで、一貫して、傲慢であり、勝気であり、勇 を誇り、辛辣であり、武人としては、豪勇であったと いうことがよくわかるが、およそ、聖者、仁人の道と は遠いものである。  私の観るところによると、塚原卜伝も、上泉信綱も 厳篠家直も、伊東一刀斎も、針ケ谷夕雲も、紙屋頼春 も、小田切一雲も、ことごとく、名僧の悟りと同一境 へまで、到着している。  武から入っていって、武を蝉脱し、聖人、君子のも つ、寛大と仁慈の道へ、立派に踏込んでいて、名利を 忘れ、武勇を超越している。私は、そこがえらいと思 うが、武蔵はその境地へまで、到っていない。その時 代から、順に武蔵の、そうした面影を上げて行くと、  一、少年時代、武蔵は、父無二斎に、己れの武を誇 って父から叱責されている。生国の但馬から播磨の国 の寺へあずけられていたのは、父の手に負えぬ少年で あったらしく思われる。  二、十三歳で、有馬喜兵衛と試合した時の話に、有 馬の立札へ、墨を塗ったという話があ石が、嘘にして も、本当にしても、武蔵としては、有りそうな話であ る。十六の年も、秋山と勝っているのにしても、子供 の癖に、自分から大人へ試合を申込むなど、強くもあ ったが、利かん気で、乱暴な]面が多かったとおもえ る。  三、関ヶ原の戦いに従軍した時、武蔵は友人と、竹 藪の上の道を歩いていた。竹藪の竹が切られて、削げ 竹が突立っていた。武蔵が友人に、この下を敵が通っ たら、どうするかと聞くと、飛びおりると、竹で足を 刺されるから、友人は見逃すほかにない、と云った。 すると武蔵は、俺ならこうだと、その竹の上へ飛びお りた。勿論、足の底を傷つけた。これなど、全然、匹 夫の勇で、不良少年が自分の強さを誇るのと、何の変 りもない。  四、富来城を攻めた時、武蔵は、友人に、今、あの 敵の槍をとってみせる、と云って、城の狭間へ股を当 てた。敵が、この股を突き通すと、武蔵は突かれなが ら、その槍を折って、どうだと云った。前のと同じで 己れの強さを誇る以外、殆ど価値の無い行為である。 武士の心得とは、こんなに己れの身を、手軽く傷つけ るということでは、断じてない。  五、小笠原家にいた時分、というから、武蔵が五十 をすぎてからのことであるが、この齢になっても、武 蔵には、この辛辣さが、残っていた。それは1小笠 原の厨房人が、武蔵とて、不意討ちかけたなら、打て ぬことはあるまいと、暗い廊下で打ってかかった。す ると、武蔵は、刀の錨でこの男の胸をついた。男が倒 れると、刀で男の手を打ったので、男の手が折れてし まった。武蔵ほどの人物たら、錨でつき倒すのさえ、 烈しすぎる。蝶けておいて、馬鹿とでも叱ればすむこ とである。それを、刀の錨で倒れるまで、強く突いた 上に、手を叩き折るなど、乱暴で、大人気の無いこと である。  六、ずっと後になって、大事があった。一人の男が 屋根から屋根を、飛鳥の如くに、飛び廻っていた。人 人が、その身の軽さに感心すると、これが武蔵であっ た。これなど、老人の冷や水の甚だしいものである。  七、佐々木小次郎との試合に、小次郎が頭を打たれ て倒れた。勝敗は、これで決している。だが、武蔵 は、その上に、小次郎の肋骨を叩き折って殺してしま った。  八、この時、小次郎の刀が、武蔵の鉢巻を切ったの で、後まで、武蔵も傷ついただろうという噂があっ た。それである時、一人の人が、それを聞くと、武蔵 は、燭台をとって、自分の額を見せながら、その人の 前へ、突きつけて、何処に傷があるP 何処に傷があ るかと、三度まで、額をつきつけたので、その人も閉 口した。これは、武蔵が細川家へ仕えた後だから、五 十をすぎている齢である。  九、島原の役に、武蔵が従軍して戻ってきた時、一 人の人が、今度は戦功がなかったですね、と聞くと、 武蔵答えて、自分は、参謀をつとめていた。それを、 貴殿知らずに何を云われるか、と、色を成して叱っ た。  以上の逸話をみる時、武蔵の少年時代から、その晩 年まで一貫したものが感じられる。自己の勇を誇るこ と、人に対して寛大でないことである。  武蔵伝に伝えられている如くならば、吉岡家の兄弟 三人と試合をして、僅か、十七歳の少年をも討ちと り、遂に、吉岡家を断絶させたなど、残忍極まる話で ある。兄弟二人を討つなら、わかっているが、幼少の 又七郎を討ったとて、少しも武蔵の勇武に、価値を加 えるものではない。それに、この少年を討って、吉岡 家を断絶させるなど義も情もない、と云われても、弁 解の辞はあるまいとおもう。  武蔵には、こうした辛辣な逸話は多いが、彼の人格 の円満を語る話は、一つもない。この態度と、塚原ト 伝が、馬の尻を避けて、横町へ迂廻し、又、武士の試 合を挑むのを避けて、洲の中へ置きざりにし、無手勝 流だと、笑った話とを較べる時、同じ、戦国の武士で も、雲泥の相違のあることを、知らねばならぬ。菊池 君は、戦国時代だから、ということを云っているが、 卜伝も、信綱も、武蔵よりは、もっと、烈しい時代の 人物である。それが、人はおろか、馬を避ける心1 これが剣道から道へ入った達人の心得である。この心 得の模範的行動が、上泉信綱の逸話の中にある。  上泉信綱が、疋田文五郎を連れて、一日、ある所へ 通りかかった。村人が、騒いでいるから聞くと、乱暴 者が人を斬り、捕えようとすると、子供を質として、 小屋の中へ逃げ込み、手のつけようがたい、というの である。  信綱、それを聞いて、僧から袈裟、衣を借り、頭を 丸めた。疋田が、頭まで丸めずともというのを、笑っ て、信綱は、握り飯を二つ作ってもらい、それを携え て、小屋の中へ入った。そして、浪人に、空腹であろ うから、これを進ぜようと握り飯を投げ、叉、子供に もと、もう一つを投げ、浪人が双手に、それを持った 隙に、飛込んでとらえた。  武士でありながら、頭を丸めて、信綱ほどの豪の者 が、僧侶にたってまで、人一人を捕えるのに、細心の 用心をした。ト伝は、馬の蹴るのを避ける位は、訳の 無いことであろうが、馬が一杯になっているとみて横 町を迂廻した。この勇を誇らぬ態度-常人よりも臆 病にみえる態度は、剣道上に諦悟した人で無いと、で きぬ業である。これらの人々に比して、いかに武蔵 が、血気の勇に逸る人であるか、前の逸話を見る時、 読者は、ほうふつとして、武蔵の面影が、浮んでくる にちがい無い。  武蔵のこの、自らの勇を侍み、猛獣の如く、うそぶ いている態度は、よく彼の著作の中にも出てきてい る。『五輪書』の冒頭にそれがある。 四 日く、 「兵法の道二天一流と号し、数年鍛練の事、初めて  書物に書き顕はさんと思ふ。時に、寛永二十年十  月上旬の頃-生国播磨の武士、新免武蔵藤原玄  信年つもりて云ふ。我、若年の昔より、兵法の道  に心をかけ、十三歳にして初めて勝負を為す、そ  の対手新当流の有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝  ち、十六歳にして、但馬国秋山という強力の兵法  者に打ち勝ち、二十一歳にして都に上り、天下の   兵法者に逢ひて、数度の勝負を決すと雌も勝利を   得ずといふ事なし。その後国々所々に至り、諸流   の兵法者に行逢ひ、六十余度まで勝負すと雌も、   一度もその利を失はずー」  これは、人の書くことであって、自ら書くべきこと ではないようである。前に云ったが、もし菊池寛が、 「吾十三歳にして、文章世界に投書して一等賞をとり、 十六歳にして、大学首席にて出で、二十一歳『啓吉物 語』をかいて、文壇を震憾し、四十六歳の今日まで、 作する所六十余冊、一冊と難も、売れざるものなし」 と、自叙伝にかいたら、人々は何んというであろう か?  菊池君の推称する、武蔵が死の前にかいた独行道十 九ヶ条とは、どういうものであるか? 曰く、   一、万づ依枯の心なし   二、身に楽をたくまず   三、一生の間欲心なし   四、我事に於て後悔せず   五、善悪につき他を妬まず   六、何の道にも別を悲しまず   七、自他ともに恨みかこつ心なし   八、恋慕の思なし   九、物事に数寄好みなし   十、居宅に望なし   十一、身一つに美食を好まず   十二、古き道具を所持せず   十三、兵具は格別、余の道具をたしなまず   十四、道にあたって死を厭はず   十五、老後財宝所領に心なし   十六、神仏を尊み、神仏を頼まず   十七、我身にとり物を忌むことなし   十八、心常に兵法の道を離れず   十九、世々の道に逆くことなし  以上である。  この中で、菊池寛の推称する「神仏云々」「事に当 り後悔せず」「物を忌む事なし」たどは加もしろいが、 齢とったから財産は欲しくないとか、依枯の心がない とか居宅の望なしとか、道具はいらんとかーいかに も愚劣極まることである。  もし、誰かが、下宿の部屋に「われ恋愛せず」「我 自他を恨まず」「我古道具をもたず」というようなこ とを、自らを戒める言葵として、麗々大書して貼りつ けておきでもしたら、軽蔑のほかはないであろう。宮 本武蔵の独行動だというから、この中に、面白さを感 じる文句こそあれ、これを、公平にみたら、六十いく つの死の前の、自戒の文として、どれだけ価値がある か? ゲーテは、七十になっても恋愛したから「我恋 慕の情を断つべきなり」と六十歳にかいてもおかしく ないが、宮本武蔵が、古道具はもたぬとか、自分一人 ではうまい物を食わない、とかという文句と一緒に、 恋愛しないなどと、大真面目にかいているのは、家に 望みがたいとか、一生の間欲心なしとかいっているの と同じように、ただ幼稚なだけである。  この独行道十九ヶ条と『五輪書』の右の文とを見る とき、武蔵の悟道がどの辺のものか、よくわかるであ ろう。武人としては、一流の人であるが、ナソバーワ ソと許せないとは、ここを惜しんでいうのである。  上泉信綱の言葉の中に、  「兵法は-世間に能く見られたき事にあらず、た   とひ上手と人には見らるるとも、毛頭も心の奥に   正しからざる所あらば、心のとはば、如何答へ   ん。為なくば、見苦しくて、初心のやうに見ゆる   とも、火炎の内に飛入、盤石の下に敷かれても、   滅せぬ心こそ、心と頼むあるぢなれ」   この正しき心を、第一の心得としている点、信綱  の流より出た針ヶ谷夕雲の『剣法夕雲先生相伝』の  「如何とならば、兵法大概は、如レ此迷暗邪曲なる   畜生心-所作二心を移して、工夫の種とし1   漸く鷹の鳥をとり猫の鼠を捕ふる程の所作をし、   上を打つよと見せて、下をはらひ、横を払ふふり   をして頭を竪割りにし、飛ちがへ引きはづし、七   転八倒し!兵法上手の名を得、世間より崇敬を   もうくる1故に、夕雲は一代畜生心、畜生兵法   とて、かかる物を嫌はるるなり」  こう、説き起して、  「真知の働は、自由に備りて有也、ここの気を活然   とも云はば、活然にも成るべし。ここを主一無適   といひ、純一無雑とも云ふべし、敬といはねど敬   なり、誠を知らねど誠也、放心と嫌ふべき物無く   閑忠雑慮と忌むべき様もなし。本より不偏不羅な   れば、過不及もなし、不忠不孝不信不義といふべ   き物一つもなし」  と、無心を説き、強い者には負け、弱い者には勝つ のでは、いつまで経っても、真の兵法に、悟入はでき ぬと論じ、分量にして『五輪書』の半分強であるが、 全文、剣道者の心、態度を教えるところなど、到底 『五輪書』の粗雑の比ではない。  この外に『一刀斎先生剣法書』沢庵の『不動智』な ど、剣法の書に、優れたものは、いろいろとある。一 一、書抜きもできぬから、有志の方はその本について 読まれたい。そして、猶お、もし『五輪書』が、天下 第一とでも云われる方があるなら、いつでも御対手を する。  それから、武蔵に、門人の少ないのは何故である か。信綱に、傑出した門人の多いのは何故であるか。 という点から、当時の武蔵の杜会的地位と、信綱の杜 会的地位とを文献によって比較し、武蔵の禄高の少な い点、大阪城の戦いに従軍したのは、何故か、という 点。そして、上泉信綱の全貌を紹介して、天下第一の 剣客は、この人である、ということを断じよう。 五  前節に於て、私は武蔵の性格を、十ヶ条に亘って引 例し、その自信の強さ、武人的檸猛性について説明を し、次に、彼の著書によって、それを裏書しているこ とを挙げ、独行道の価値を評して終った。  然し、右に関しては、吉川英治君が「読売」でいっ ているように、私の挙げた十ヶ条と武蔵の逸話を、こ とごとく考証的証明がなければ信用できない、という 論が出てくるかもしれない。それで、私の挙げたそれ が、誤りであるという考証が出て来ないとは、私も断 言できぬが、もし吉川君に対してのみ云うなら、吉川 君は、私の所説に考証的根拠の無いのを指摘していな がら、自分が何ら考証的根拠を示さずして「武蔵のよ うなえらい入を悪くいうのはいけない」とか「武蔵の 精神力もあの位なら」とか、断言しているのは、少し おかしすぎる。どういう風に、えらいのか、一々その 実例を、その考証と共に発表してもらいたい。  又、独行道に対しても、私は武蔵が、六十にもなっ て、我女に惚れずたどと、正気で云っているのが、お かしいと思うが、いや武蔵はえらいからおかしくな い、と主張する人があったなら、それは、見解の相違 だから、私は、引込むほかはない。  だが、私が、これから、武蔵に対して、加えて行く 批評は、右のような「見解的」のことでなく、もう少 し「その当時」の、動かすことのできない事実を科学 的に解釈したものである。それは武蔵が、細川家に仕 えた禄高のことである。  武蔵は、熊本の細川家に仕えたが、この時の禄高が 三百俵十七人扶持である。この事実に対して、武蔵を 日本一の剣客だと見ている人は、どう解釈しているか 聞いてみたいのである。  名声と、技禰と、禄高とは、ほぽ一致しているもの と考えていい。武蔵にとって、客分として三百俵十七 人扶持の客分という禄高が、武蔵の技偏と一致してい るとすれば、一流剣客の中の一人ではあるが、断じて 当時、日本一などと、そんな馬鹿馬鹿しいことは今日 だからこそ、当時の剣客について何も知らぬから、比 較的宣伝されていて、通俗化しているだけの武蔵を、 日本一だと、相当な人が云えば、大衆はそれは、そろ だろうと考えるであろうが1当時、他に多くの優れ た人のいた時代には、武蔵を、日本一などとは、一寸 云えたものでは,なかった。  もし、当時武蔵が日本一の剣客なら、そんなにえら い剣客を、僅かに三百俵十七人で召抱えた細川も細川 なら、又、抱えられた武蔵も武蔵である。西国では、 島津についでの大藩、熊本四十二万石と云えば、加賀、 仙台、島津の次に位する大大名である。この大名中の 大大名で、しかも父に細川三斎という、大名中での武 芸好きをもった細川が、日本一を仮令、客分としての 三百俵としても、それだけでは抱えもしまいし、又抱 えられる武蔵でもないだろう。もし日本一と、当時、 武蔵に折紙がついていたなら、その人物を、僅か三百 俵でしか待遇しない細川は天下の馬鹿で、六十近くま で浪人でいながら、その年にたって、僅か三百俵で抱 えられる武蔵も、以ってのほかの人間である。従っ て、この三百俵十七人扶持は、武蔵の当時の価値を計 る、動かすことのできない標準である。  現在何等い覚永時代の剣客σ事蹟をも研究せずし て、単に武蔵一人のみを知っていて、これを日本一と 考えるのは剣客を専門的に研究しない人として無理は ないが、それでも、この武蔵の禄高をみて、これが、 日本一の剣客であると考えらるるであろうかP 寛永 当時に、武蔵が、この禄に甘んじ、細川がこれだけし か与えず、又、世間もそれを当然としていたという事 実は、何を語っているであろうかP  三百俵十七人扶持とは、どの程度であるか、読老に は十分合点行くまいから、少し説明すると、武蔵は、 格は大番組であるが、客分ゆえ知行がもらえず、忠利 公から現米で支給されるのである。当時一俵は三斗五 升であるから、三百五十石である。現在の市価として 仮りに一石三十円とすれば、年収三千百五十円。月給 にして、二百七八十円である。  寛永という武芸盛の時代の武芸者-今日にたとえ ると、一流の経済学者が、三井か、三菱か、住友へ仕 えて、二百七八十円の月給をもらうっそんな馬鹿馬鹿 しいことがあろうか。寛永の武道全藍に、任友へ仕え て三百俵、これを、普通の家来のように、知行高に直 すと二百五十石である。表高五十石、当時四公六民と して、二百五十石の四割が実収入だから、百石、ほぽ この見当である。  然し、これは、客分としての禄だから正式の家来よ りは勿論少ないし、大番組は、士分の中でも上席であ るが、それにしても、日本一を遇する高ではない。そ れとも、昭和時代に宮本武蔵を日本一だという人は、 寛永時代の細川公よりも、剣術がわかるから、細川は 明盲で、僅か二百石で、武蔵を召抱えたり、これを詐 難しなかった国民も、今日ほど、剣道のことは知らな かったらしいとでも云うなら、私か、彼か、いずれか が多少、狂人的である。 七 然し、右の禄高論に対しては『丹治峰均筆記』で荻 昌国の『武蔵論』からして、反駁をする人があるかも しれぬ。それは、その反駁が出た時に、論ずることに する。  それで、右に云った武蔵が、今吾々が考えるえらい 武蔵としては、当時、余りに薄給である、という事実 に対して、三百俵では薄給でない、どういう訳で薄給 か、という人が出ないとも限らぬ。そういう人のため に、当時の他の武芸者の知行高を挙げると、この比較 がよくわかるであろう。  柳生但馬守宗矩は、一万一千五百石であるが、この 人は剣のほかに、政治的功労があるから、これは別と しておいても、名人越後と称されていた富田流の流 祖、富田越後守重政が、一万千石で、越前松平に抱え られている。剣客の家で、万石とった人を、柳生は人 人が知っているが、この名人越後は、人が余り知らな い。  柳生宗矩門下の木村助九郎、出淵平兵衛など、名も 聞いたことの無いようた人でも、五百石ずつ、仙台藩 では、剣道の師には、千石を給与している。塚原卜伝 は「乗換馬を引かせ、上下の供七八十人ばかり」と、 書いてあるが、供の人数も七八十人をつれるには、三 千石以下ではできない。  徳川時代の制定では、百石で家来士分一人、草履取 一人、槍持一人、挾函一人と四人を抱えなくてはなら ぬから、千石で四十人、二千石で八十人という風にな る。然し、外へ出るのに、草履取が石数に応じて、二 千石で二十人にもなる訳ではないから、士分が多いと 見なければならぬ。その士分が、五十人ついていると すれば、五千石と計算することができる。内輪に見て も、三千石、塚原卜伝の地位として、この位が当り前 である。これと武蔵の二百五十石と、いかがであろ う。  又、私が日本一なりという上泉信綱の例をとると、 信綱の弟、上泉主水が、京都の相国寺にいたが、これ が、直江山城守に、召出された時に三千石。名聞、技 禰とも、兄に比すべくもない主水が、何んと三千石、 武蔵の十倍である。以って当時に於ける上泉信綱の名 声は察すべきで、さればこそ『言継卿記』に、三十二 ヶ所まで、一武芸者の記事が現れ、日本最初に、剣道 を、天覧に供したのである。  信綱来るの声を聞けば、洛外洛中の人々が、その動 静に注意し、言継卿は、それを日記に誌し、柳生宗巌 は、礼を厚うして、これを迎え、帝は信綱の妙技を御 覧になろうと、仰せられるのである。さればこそ、武 田信玄が、別れに臨み、決して他家へ仕えるな、もし 仕える時には、わしの所へ届けよ、とまで惜しんだの である。  こういう当時の、いろいろの事実によって、信綱と 武蔵とを較べる時、二人の地位は、余りに上下があり すぎる。当時の人々が、信綱を買いかぶり、武蔵の価 値を知らたいんだというほかに、この事実を動かすこ とはできない。現在の不足した知識で見るよりも、当 時のこの評判の大小は、二人の真価を語るに十分であ る。信綱を知らぬからこそ、武蔵如きを称めるが、信 綱を 知つたならばその段ちがいのほど すぐにわかってくる 八  その次に論じたいのは、もし、武蔵が日本一なら、 とっくに、大名がすててはおかぬということである。 寛永時代前の世の中に、武蔵ほどの人物を、浪人させ ておくものではない。それが老年まで浪人をしていた のは、抱えるものがなかったからか、或は又、武蔵が 抱えられなかったからかの二つである。武蔵日本一論 者は、勿論、後者を、とるであろう。  それで、私はその論者に質問したいが、では、何故 武蔵が、大阪夏の陣へ、従軍したか。浪人が、戦場へ 出るということは、仕官以外に何物もない。浪人して は困るから、命がけで仕官の口を求めるのである。  しかも、武蔵は、新免の家に生れ、浮田家の家人と して、関ヶ原に従軍して西軍として、働いていたに拘 らず、大阪役には、東軍水野日向守勝成の御陣場借り をして、東軍の下に働いているのである。私は、武蔵 に、節義が無いなどと攻撃はせぬが、御陣場借りまで して戦場へ出るのは、仕官の望み以外に何もない。武 蔵従軍の理由もこのほかに見出しえない。そして、仕 官していないのである。.意地悪を云えば、出来なかっ たのである。  武蔵は、細川へ仕える時「口上書」を出している。 その中に、 「一、若年より軍場に出候事、都合六度にて候。その 内四度は其場に於て拙者より先を馳候者一人も無之候 ー」  と書いている。これも、馬鹿馬鹿しい極みの、自己 推薦である。戦場に於ての功名は、一番槍、一番首、 しんがりである。常人以上の功名を立てた時には、必 ず、感状が下がる。仕官の時にはそれが唯一の資格、 証明書にたるのである。武蔵の場合には、一番槍でな く、人より先であったというので、浪人隊にいる以上 人より先は当り前で、遅れたら、常人以下である。  戦いの最先鋒が、浪人隊で、生きても死んでもいい から、その手の大将は、いつも浪人を真先に出すし、 浪人も、仕官している連中の後方にいては、仕方がな いから、最前線へ出ているものである。その最前線に 武蔵も出ていて、衆に遅れなんだのであろうが、一流 の剣客として、当り前である。自慢にも何にもならな い。  一枚の感状もたく、一個の一番首もなかったという ことは、武蔵が、仕官を志して、従軍したがら、遂に 誰も召抱えなかったという原因であろう。どんな戦記 をみても、武蔵の功名は書いてたい。  然るに、一刀流の小野次郎右衛門忠常のことは、ち ゃんと戦場の働きが、残されている。上田城に、秀忠 の下として、真田を攻め、首七つを上げていることは 立派に残っている。相当の剣客として従軍している以 上、功名があれば、小野忠常の如く、残るのが当然で ある。日本一の剣客が、何一っの話も残さないで、た だ六度のうち四度までは人に遅れなかったなどと云っ ているのは、むしろ、悲惨である。  上泉信綱の如き、戦場では「長野家十六槍」の一人 として謳われている位で、安中城を攻めて、城主安中 某と槍を交え、これを討ち取って以来、「上野国一本 槍」と称されていた位、槍をとっても上手であった。  しかも、上泉信綱は、箕輪城主長野業盛の副将をつ とめていた。この業盛が生存している間は、流石の武 田信玄も上野国へ一歩も入れなかったという位の名将 で、上杉謙信が、上野国の守護神として、箕輪へ置い ておいた人である。その人の副将を勤めていたという から、いかに、信綱が戦場で働ける人であったかとい うことが、わかるであろう。  武蔵は又、その「口上書」の中へ「武具の扱様軍陣 に於て夫々に応じ便利なる事」と戦場で、自分の役に 立つことを書き上げておるが、何の兵書もたく何の手 柄もない。六度も、実戦へ出れば、武具の扱いようを 知っている位、当り前である。わざわざ書き出す値打 ちのないことを、もっともらしく、仰々しく書き出し ていること。独行道に於て、「一人ではうまい物を食 わない」とか「年をとったら家具はいらぬ」とかと書 いているのと同じ幼稚さである。  上泉信綱は、上泉流の軍学を、惇の秀胤に伝えてい る。秀胤から、井伊家の家来、岡本半助宣就に伝わっ て、この岡本の見事な働き振りは、大阪陣の中へ出て きて、ここに、上泉流の軍学のことが、しばしば現れ てくる。武蔵の自家広告に較べて、いかがであろう。  第一に、この「口上書」なるものを呈出するのが、 おかしい。 「我等身の上の事岩間六兵衛を以て、御尋に付、口上 にては難申分候間1」  と書いて、これこれのことが、自分にはできると、 右に挙げたようなことを書いているのであるが、もし 武蔵が当時日本一の評でもあれば、細川は、当然師の 礼をもって武蔵を遇すべきである。口上書を出させて 三百俵を与えるなど甚しく無礼極まることで、武蔵の 性質から云って、承知しそうにも無いことである。そ れを、細川が、口上書を出させ、武蔵がそれを書き、 三百俵で自他共に怪しまなかったということは、武蔵 に対して当時の人々が日本一などと、誰も決して考え ていなかったということを、この上もなく、証明して いることである。 九  以上のことを、猶、証明しうる事実がある。それは 武蔵の門下に、傑出した人のいないことである。  門人に傑出した人のいないということは、師に欠け たところがあると考えるのが、公平である。武蔵は、 門弟運が悪かったということは、想像としては、考え うる一つの理論であるが、私としては、武蔵が、一流 の剣客ではあったが、日本一と称すべき人ではなかっ たから、門人も少なく、従って傑出した人も出なかっ たのだ、と論じたい。これが、公平な見方である。 85武勇伝雑話 系図で示すと、 武蔵!□薙驚賄一刀鉄人流)  と、三人が、 上げた人は、 い。もし武蔵の剣法が、 いい人も多く出で、 淘汰の法則として、 ら、もっと盛になるべきである。 れん剣道、 いない、ということは、  今日、剣法が、 刀流の、二本の竹刀をもって、 はあるが、 刀流など、  最も、適切な例として、 い。維新時代、 「符与右衛門   いい弟子である。然し、この後、名を  この武蔵の流から、一人として出ていな       優れているとすれば、門人に     名高い人も輩出し、流儀も、自然     日本一の剣客即ち日本一の剣法な           それが、一種の、け 邪道的剣法としてのみしか興味をもたれて       何を語っているであろうか。    実戦に必要の無い時だからこそ、二          稽古している人も時に 実際、斬りつ、斬られつした時代には、二 馬鹿馬鹿しくって使えたものではないc        維新時代をとってみるがい   斬り、斬られした時代に、誰か一人で も、宮本武蔵の剣法をならったり、武蔵の二天一流の 復活を唱えた人があったかP  もし、武蔵が、いやしくも日本一の剣聖であったな ら、その剣法は、維新当時に於て、多少の活躍をしな くてはならぬ筈である。それが、他流に圧倒せられて 二刀の二の字も云われなかった、ということに対して 武蔵日本一論者は、果して何と答えるかP  優れたる剣客によって創始されたる、優れたる剣法 が、残り、栄えて行くのは、当然である。弟の主水す ら三千石でかかえられた上泉信綱のが、今日まで連綿 として残って、名人、上手相ついで出で、三百俵の武 蔵のが、次の代に消えてしまったのは、当然であって この石高が、武蔵の価値であり、この一代きりが、武 蔵剣法の真価である。 一〇 試みに、上泉信綱の流派から、 誰が出ているか、こ こに示してみると、大凡次の八氏が出ていることが判 る。  そして、どのくらいの勢力があったかは、丸目蔵人 が、己の流派にて、殆ど九州を、たい捨流にしたとい う書が残っていて、これを証することができるし、こ の丸目蔵人は、常時九州第一と称されていた人である が、信綱をわざわざ京都へ慕ってきて、入門したので ある。 信綱1  しかも、 今日まで、 1神護伊豆守 -疋田文五郎(疋田陰流) -柳生宗巌(柳生流) 1丸目蔵人(たい捨流) 1奥山久賀斎(徳川家康の師) 1西一頓 -松田織部介(松田新陰流) 1那河弥左衛門 この八人の弟子の中の、柳生宗巌からは、 猶連綿として残っている柳生流があるし、 奥山久賀斎の次には、陰流第三世、新陰流の小笠原源 信斎、次に十五流を教めて後、新陰流へ入ってきた紙 屋伝心斎、それから、維新になって、男谷下総が出て、 ずっと、今日まで、つづいている。一刀流も又然り、 神道無念流も叉然り、優れたる流派は、常に、長く残 るし、名人の出てくるものである。それに較べて、何 んと武蔵の後の寂奥たることか。  武蔵の門人には、ぐうたらばかり集っていたとか、 武蔵だけが、超人的に強かったから、誰もついて行け なかったとか、理窟を云えば、何んとでも云えるが、 公平に、当時の他の人の禄高に比較し、門人のことを 比較し、流派の消長を考える時、武蔵は一流中の一人 にはちがい無いが、断じて、日本一などというべき人 でたい、ということがわかってくるであろう。  この前に、一寸引用した、小田切一雲のことを、い っておくが、 一雲の日く、 「武士が刀を抜く時は三つの場合しかない。一つは、 戦場に於て、一つは、御意討ちに赴く時、一つは喧嘩 を吹っかけられた時。戦場では、討死が当り前であ る。どんどん斬り込んで死ね。御意討ちの時には対手 を斬らなくてはならぬ。然し対手が強かったら、自分 も斬られるから、相打ちの覚悟がいい。喧嘩の避けら れん時には仕方が無い。対手を斬って、自分も死ぬ。 即ち、武士が刀を抜く時には、自分を殺す時である。 然し、ここで問題なのは、自分が弱くて、対手の強か った時にはどうなるか、斬られるほかにない。それで は困る。ではどうするかPL  剣道上の哲学である。武士の心得を、こう説いてき て日く、 「自分も死ぬ。対手も殺す。その覚悟である。それを 世上では、自分は助かり、対手だけを殺そうたどと、 いい気になるから、上を打つと見せかけて下を払って みたり、右へこけると見せかけて、左へ開いてみたり ーー対手より自分が強ければ、それでいいが、弱かっ たら、徒らに、醜をさらすだけである。そんな技巧を 用いずに、上段一手だけでいい。対手を斬る。その代 り、こっちも斬られる。その覚悟で上段一手だけを稽 古すれば、それで強いも弱いもない。大抵の弱い者で も、大抵の強者と相打ちにはなれる。武士が、刀を抜 く時は、右に云った、三つの場合で、何れも死ぬべき 時だから、相打ちで結構ではないか。いつまでも、強 い者には負けるようになっている剣道を学んだって仕 方がたい。相打ちの覚悟一つ。信綱先生が仰せられて いる。頼む主は心である、と。剣の極意もそれであるL  と、武蔵の剣道論の中に、これだけ徹底した議論が あるであろうか。信綱から三代目の、紙屋頼春は若年 の頃より、十五流に亘って研究しつくした人である が、この人は「剣道とは、心の非を切る術である」と 悟って、極意を「非切」と称した。  この根本的の覚悟、人格、態度、生死を第一の教と している剣道と「刀は左右両手で使った方が便利だ」 という末節から、二刀で稽古して、これを二刀流にし た武蔵の剣道観と根本的にちがっている。  武蔵は、一流の創案者として、勿論、立派な剣客で ある。私は、彼の一流であることを決して否定しはし ない。然し、剣道の技巧上の、強さ弱さは、殆ど同じ だとみていい。一流に達した人の強さは紙一重の差で ある。将棋でも囲碁でも、何んでも、そう段ちがいの 無いものである。その一流の中で、日本一を選出する なら、その人間その人格を標準にしなければならな い。この人格の点に於て、武蔵は、鋭さこそあれ、信 綱、ト伝、一刀斎に見るようた、己の武をかくして現 さぬ、という境にはまだ到達していない。  五十をすぎてから、無礼を働いた料理人の腕を斬っ て一生廃人にしたり、十七歳の叉七郎まで討ちとった り1信綱は、そんなことを決してなかったであろ うo  講道館の横山八段が、将棋八段の大崎熊雄氏と、土 方に喧嘩を吹っかけられ、大崎氏の闘いかけるのを止 めて、逃げ出した。これが、達人の心得である。  武蔵が、股を突かして槍をとってみたり、竹の上へ 飛びおりて足を怪我したり、1若い時から老年まで 負けん気のみである。  しかも、彼の逸話の中に、他人から「小次郎との勝 負の時に、貴下も額を斬られたそうですが」と、質問 されたり、「島原へ従軍なさったが、功名は無かった ようですな」と、冷かされて、怒ってやっつけている など、武蔵に、徳望がなく、誰も、日本一などと尊敬 をしていない証拠である。そして、かんかんになって、 「何処に傷があるか、この傷は、小さい時おできの出 来たあとである。さ、その外に、何処に傷があるか」  と、その人へ、額をつきつけている武蔵など、一介 武人の負けず嫌いのほか、何の称める分子も含まれて いない。  もっと、的確な、こうした徳望の無い一証を見せて おくと、 「忠之公-三千石にて召抱、光之殿の御師匠に可致 と御意なさる」  即ち、武蔵の来たのを聞いて、黒田忠之が子の師匠 として、三千石でどうだろうと、云ったのである。 「何も思いがけなきこと故、御受け申す人もたし」  家来がびっくりして、誰もよかろう、という者がな いのである。 「其後二三日をすぎ、表へ御出被成、先日の武蔵は異 相なるものにて、.若き人の師匠には成難し、無用に可 致と御独言に被仰とかや」  立派に黒田忠之は、武蔵を一蹴しているのである。 その名を聞いて、三千石を出そうかと思ったが、武蔵 に逢うか、見るかして、武蔵の、面貌の余りに殺ばつ なのに、若き人の師匠には向かぬ、無用だ、と、武蔵 が仕官にきたのを、断ったのである。そして、武蔵は 黒田を断られて、細川へ行ったのであるが、この忠之 が武蔵を見て「若い者の師には向かぬ」と云ってる のと、前述の武蔵の逸話を考え合せる時、強いばかり で、人格的には非難のでる所のあった人であるという ことが、はっきりしてくるにちがいない。 「武蔵は強いには強いが、どうもね」  と、誰しも云って、召抱える人がなかったので、老 年にたって、死所を求めに、三百俵で、細川へ仕えた のである。父に反抗して、家を出で、十三で、人を殺 してから、血気の勇のみを示している青年時代から、 とやかく、人に非難されている晩年まで、武蔵にはた だ檸猛さがあるだけである。  以上、私は武蔵を相当に非難した。しかし、一流の 武人であることは、幾度も云っている通り否定しな い。ただ、日本一と、かかる人格の人が云えるか、ど うか、以上の考証的事実によって、判断を乞いたい。 そして私は、日本一の武芸者として、上泉信綱を挙げ るが、この中へ、少しずつ引用してあるから、それで 察してもらってもいいが、改めて、信綱の全貌は、信 綱のみを紹介することにする。  この武蔵ナソバーワソ否定論には、隙がある。この 私の説を、ある程度まで、反駁するに足る材料は、残 っている。私はそれを知らんではたい。だが、余りに 長くなりすぎるから割愛した。もし、残っている材料 によって、反駁する人があるなら、'つでも、私は応 戦する、私のナソバーワン否定論は少しも変らない。 その反駁する材料を、又反駁しうるからである。その 材料の入っている書目は、前に挙げておいたから、有 志の人は御覧になるといい。  繰返していう。武蔵は有数剣客の中の一人である。 然し実価以上に、講談及び芝居によって、他の、そう いう者にならぬ人よりも、高くなりすぎている。そし て、多少、武蔵の正体を知っている人も、他の剣客を 研究するほど専門的でもないから、武蔵をもって剣道 家の随一と考えているのである。そこに、武蔵日本一 の独断が現れてくる。  菊池君は、文芸家であって、史家でないからいい が、中村孝也博士、笹川臨風博士は共に史学の人であ る。この人二人が、口を揃えて、武蔵の日本一に賛成 しているのは、どういう訳かを私のこの武蔵日本一否 定論に対して、両先生の御説が聞きたいものである。  私は、信綱を以て、日本一だと考えているし、信綱 の教えが、武蔵よりも立派だと思っているから、両先 生や、菊池君に対して、こういうことを云ったのは、 大変不遜なことだと恐縮しているが、実は、この間、 信綱の幽霊が出てきて「直木君、武蔵もえらいが、物 は公平にした方がいい。菊池君は文学者だからいい が、史家である中村、笹川君などが、最も公平に、物 を見、最も慎重に物を研究しなくてはならぬ史学者で あるのに、一刀斎や、卜伝のことを黙っていて、無責任 な俗論を、臆面もなく喋っているのは、注意した方が いいね」 「はっ1然し、私は先生のことを」 「ああ、僕のことはいいよ。僕あ、君、知っての通り 引込み思案でね」  というと、どろろどろろと、引込んだ。別に僕とし ては、両先生へどうの、こうのというのではない。折 角、注意してくれた信綱への義理で、こう云ってみる までである。そのうち、武蔵の幽霊でも、怒って出た ら、さっそくあやまるつもりである。何んしろ二人と も、身の丈六尺というのだから、がっちりした幽霊・ だ。今度出たら、銀行へ勤めないかと、 うと、思っている。 伊 庭 八 郎 四塚関門戦 すすめてやろ  ぴゅっーぴゅん、ぴゅん  銃丸は、引っきり無しに、耳を掠め、頭を掠めた。 敵は白い硝煙の中にかくれていた。 「やられた」  と、よろめく隊士。蹟いたように、ぶっ倒れては、 すぐ立上って、破を引きつつ、走って行く人。 「あっ」  と、叫んで、顔を押えると、そのまま、立ちどまっ て、動かなくたる友人。 「何くそ」  伊庭八郎は、そうした光景を、自分の左右に眺めな がら、二尺七寸の強刀を、右手にして、 (卑怯者がーー武士らしく、何故、刀槍でかからぬ)  と、歯噛みをしながら、倒れる味方の中を、這うよ うに進んだり、立木から、立木へ素早く、弾を避けて 進んだり1  慶応四年正月三日、伏見と、鳥羽村とから、進む幕 軍の中に混る、下谷御徒町の伊庭八郎。  それを迎えて、精鋭な銃で、撃ちすくめようとして いる薩摩の兵、田圃を越して、蓬か右手の伏見の町に も、火と、煙と、砲声と、銃声と。  そこは、伊庭八郎と同じように、刀をとっては、天 下第一の荒武者の集り、新撰組の人々が、同じように 銃のために、撃ちすくめられて、近藤勇の養子、周平 が討死をした時である。  どんなに、口惜しがっても、銃丸には、敵わたい。 伊庭八郎は、無念さに、怒りの息を吐いていたが、つ づく味方の一人も、同じように、射すくめられて、堤 の上へ倒れ、堤の下へひそみ、立木を楯に止まってし まい、誰一人、進む老もないのを見ると、 (よし、命をすてるまでだ)  這うように、膝を突いて、銃弾を避けつつ、じりじ り進んでいた八郎が、 「つづけっ」  と、絶叫して、刀を右手に打ちふりつつ、ただ一人 猪のように、走り出すと共に、人々も、 「それっ」  一時に立上り、走り出すと、又、ばたばたと倒され てーその中に、唯一人、八郎が、半町近くも進んだ がーよろめくと、そのまま、どっと、堤の上へ転が って、ばっと立つ砂煙。人々は(伊庭もやられた、惜 しい剣士を無くした)  と、思いつつ、叉、身を伏せて、弾を避けた。 ゴ       本 心 形 刀 「三陰三陽本末の間数量形刀錐有、当流之極意者、本 心形刀而已」  初代を伊庭総左衛門と称し、晩年に及んで是水軒、 号を、帯吟子。天和二年、三十七歳にして、この流を 起した。   二代目 伊庭軍兵衛秀康 常全子   三代目 同 軍兵衛秀直 常勇子   四代目 同 軍兵衛秀業 常同子  この四代、伊庭軍兵衛の子が八郎である。父が、早 く世を去ったがために、門人の軍平が後見をしてい た。  常同子軍兵衛は、当時文政、天保の武士が、細身の 刀に、・本田髭、雪駄の後金を、ちゃらちゃら鳴らして 歩く風俗を、極端に憎み、弟子をことごとく、朴歯の 下駄に、短い袴、肩を怒らせて歩かしたので、当時、 一目見て、伊庭の門人はわかったというが、天保の水 野越前の大改革の時に用いられて、書院番となったが コレラで急死をしてしまった。  八郎は、齢は若いが、父の気性そのまま、太刀筋も 家を継ぐに十分。見出されて、将軍の近習の中へ入っ たが、鳥羽、伏見の戦の時には、遊撃隊へ加わって、 齢二十六。  ふっと気がつくと、天は真暗。土は凍えているし、 風は、正月の凍った夜風。 (弾に当ったがー)  と、倒れた時の瞬間を思い出して、 (傷所はP)  と、身体の痛み、呼吸の乱れ、苦しさを知ろうとし たが、何処にも、異状がない。首を廻すと、遙か西に 筆火の朱色、東にも、同じく、低い空に映じる敵の灯 影。燃えているのは、伏見の町であろう。 (急所へ、弾が当ったが、気絶する程度で、貫かなか ったのだな) そう思うと、八郎ぼ} (よかった)  と、感じて、立上ろうとしたがら、十分に周囲へ気 を配って、誰も居ないとわかると、さっと立った。何 処にも、異状がなかった。味方は、淀へ引き揚げたら しく、淀の松が、筆火にうつし出されているのが、見 えていた。 (帰ったなら、隊の奴は、びっくりするであろう)  八郎は、武運のつきないのを喜びつつ、淀の隊へ戻 ったが、それ以後の戦も、勝味の無いものであった。 八郎は、歯噛みしつつ、大阪へ去り、船に搭じて、江 戸へ戻ってきた、 左手を失う箱根の険戦 「上野が破れた」 「彰義隊は、ことごとく、やられてしまったぞ」 そう云って、息を喘ぎ喘ぎ、登ってくる味方の諜者 0}絶望的な顔を見、又、山の下、木の間に、ちらち らと見えている、小田原藩の人々の姿を見ると、伊庭 八郎の同志は、 (戦ったところで、何んとも仕方がない)  と、思った。山を包囲しているのは、同じ藩の顔見 知りの人々。これと、戦って、斬り、斬られたところ でー (一体、誰のために?)  そう思うと、一人去り、二人消えーいつの間にか だんだん兵数が少なくなってきた。  八郎が、箱根の険で、官軍と一戦し、遙かに、江戸 の上野に立て籠る彰義隊と策応しようと、小田原藩の 兵を集めた孤軍は、もう、戦うだけの兵数には、足り なくなってきた。  小田原の、大久保家では、自分の藩から、脱走した 者が、箱根へよっているので、自分の手で討たなくて は、どう叱られるか知れないしー 「脱藩の奴ら、大部逃亡して、もう、少ししかおらぬ」  と、聞くと共に、 「進めっ」  河に沿って、湯本の宿へ1湯本から一隊は、温泉 路をとって、塔の沢から宮下の方へ。一隊は、東海道 を、まっしぐらに、上へ上へ。  八郎らは、湯小屋へ火をかけて、追撃してくる小田 原勢を止めておいて、火を消そうとしている隙へ、ど っと、斬り込んだ。 「伊庭だ、伊庭だっ」  と、いう叫び、八郎は、 (鳥羽での無念さを、今こそ晴らしてくれるぞ)  と、草鮭がけに、小袖の上へ、錦の陣羽織をきて、 群る敵の真只中へ、斬り込ん,で行った。閃く槍、落ち る槍、宙にとぶ刀。谷間へ転がる兵、下へ逃げる兵。 「来い」 「さ、来いっ」  と、必死の懸声と共に、敵の真中を、向うへ、斬り 抜けると、敵は、その一団だ廿らしく、つづく兵はお らたかった。八郎は、幕府の軍艦「螂竜号」が、熱海 温泉の沖にかかっているのを知っていた。 (江戸へ入って様子を見てーこんな田舎侍対手に、 死んだとて、何にもなりはしない)  そう思うと、血刀を振って、走り出すうしろから、 「伊庭様」  振り向くと、阪田という部下であった。 「阪田、熱海まで落ちよう」 「軍艦へP」, 「そうじゃ」 「ああ、味方が」  阪田の指さす方を見ると、湯本外れ、二枚橋の所に 七八人の兵が、休んでいた。二人は、それに、力を得 て、近づいて行くと、その兵が、手招きをしたので、 「味方にちがいない」  二三間に、近づくと、その兵が、一度に、槍と、刀 とで、二人へー 「あっ」  と、八郎が叫ぶと、血塗れになって、道を転がった 八郎の左の手首。と、同時に、一人の敵が血しぶきを 立てて、川の中へ1八郎は、 「卑怯者がっ」  と、叫ぶと、血のしたたる左手を、腹へ押し当てて 血を止めつつ、右手に打ち振る太刀。どっと、敵は走 ってしまった。 「阪田、手拭」  八郎は、蒼白な顔をして、唇を噛みつつ、 「この位で、死ぬものか1片手でも1片手で十分 じゃ、片手になっても、わしの腕一つで、心一つで、 両手でと同じに、働いて見せる」  八郎は、憤怒に包まれつつ、羽織をはずし、姿をか えて、熱海へ、落ちて行った。そして、幡竜へ乗るこ とができた。幡竜には、榎本武揚がいた。       夫難三度到る  今一戦、幕府のためにーという人々は、三千五百 名であった。榎本武揚の指揮する八隻の軍艦と、汽船 に搭じて、八月十九日の夜半、品川を出た、  伊庭八郎は、その中の美香保丸という小さい船に ーその船には、兵のほかに、というよりも、銃や、 弾の隙間に、兵が置いてもらえていたc  一時間に、十浬位しか動かない船。それでも、浪を 立て分けて進むのは、こういう船に初めて乗る人に は、珍しかったし、早く思えたい  八月中頃の鵬風時季。軍艦は走るが、速力の遅い美 香保丸などは、波が大きくなり、風が強くなると、も う、同じように従って行けなくなった。  十九日の夜から出て、犬吠岬の鼻が左手に見える頃 になると、外洋の波は、大きくうねるし、雲行は悪く なるー 「曳くほかにない、曳け」  と、いう命令で、美香保丸は、開陽に曳かれて、揺 れながら、進むことになった。どっと吹く風、雲が広 がると共に、吹き荒れてくる雨。引き綱は、きいきい と、悲鳴を上げかけた。船は左へ傾き、右へ傾き1 兵は、転がるし、蒼白になるしー  ぽん、という響きと共に、引っ切れた綱、そのまま 美香保丸は海の上を転がるように、左へ右へ、波の間 に間にーそして、二十三日が暮れ、二十四日になっ て、風がやや納まったが、夜が明けると、犬吠岬は矢 張り左手の方に、そして、僚艦は一艘も見えなくなっ てしまっていた。 「銚子へはいるほかにない」  そうは決したが、へとへととなった船員、殿れた器 具。船は肢のように、波間を漂うだけで正しく走る力 を失っていた。 「あっ」  と、叫ぶと、一人が倒れた。八郎は、船底に何か、 激突したもののあるのを、全身に感じた刹那、 「暗礁だっ」  と、いう叫びーどどっと、押しかぶってくる激 浪、濡れ鼠の中にーだだっと、突っかかる岩の上。 忽ち、崩れて落ちる器具、船は、ぐらっと、右へ傾い て八郎は、物にすがりついたまま、 (駄目だ)  と、感じた。 「水が入った、水だ、水だ」  ぐんぐん傾いて行く船。銚子の港は、目の前にある が、八郎は、片手であった。七,日人の乗組員は、艀舟 を加ろしたが、大浪にさらわれるし、銃や、弾丸は、 水浸しになるし、 「助け船だ」 「ああ、漁師が、舟を出す。おーい」  甲板の絶叫と、打ちふる手。 (銚子へ上陸したとて、官軍に見つかれば、銃もなく 弾もたく)  と思うと、八郎は、自分の運命を、呪わないではお られなかった。漕ぎ出してくる船を眺めたがら、喜び に騒いでいる人々を眺めながら、 (運の傾く時には、傾くものだ)  と、絶望的な感じがした。だが、死ぬ時ではなかっ た。人々の争って小船に移るのを見ながら、 (これから、何んとして、幕府のために、働こうか)  八郎は、矢張り、函館へ行って、榎本と合するより ほかにないと思った。 幕軍最後の一戦  だ、だあーん  だ、だあーん  函館の砲台と、軍艦とは、白い煙を立てながら、大 砲を撃ち合っていた。八郎は、 (戦っておる)  と、感じたが、甲板の上の、外人が、笑いながら、 甲板一杯に出て、眺めているし、軍艦は、美しい小旗 で飾っているしーそれに、碇泊しているイギリスと フラソスの軍艦も、同じように旗で艦を飾って、大砲 を打っていた。すぐ、 (祝砲だ)  と、わかると、八郎は、 (噂の通り、幕軍が勝ったのだ)  と、感じた。少しでも早く上陸をしたくなってき た。外国船に乗って、函館へ、函館へ。  函館の新城が幕兵に陥いれられたという報は、神奈 川にかくれていた八郎の耳へ入った。八郎は、すぐに 外国船へ頼んで、その函館へー。  藩主松前志摩守は、江差まで逃げるし、更に追われ て、青森へ-北海道は、完全に、幕兵のものになっ た。  上陸すると、総裁は榎本武揚、副総裁松平太郎、陸 軍奉行大鳥圭介と、きまったと聞くし、人々は、 「八郎が無事で、何より祝着」  と、喜んだり、左の手首の無いのを見て、 「どうした」  と、聞いては、その奮闘に、驚嘆したり、そして、 八郎は遊撃隊長として、百二十人の兵を指揮する役に なった。それは、明治元年の末のことであった。  そして、正月を迎え、二月となって、北海の雪は、 人も土も埋めてしまって、戦いも、便りもなくなっ た。三月二十日、北海道にも、春風が吹いてくると、 「官軍の船が近づいておる、南部領へ入ったそうだ」  という諜報が入ってきた。 「よし、逆襲だ」  と、云って、回天の指揮官、豪勇無比の甲賀源吾は 直ちに、幡竜、高雄と共に、宮古鍬ヶ崎の港へ襲撃し た。そして、官軍の八隻を対手に戦って、源吾は戦死 し、官軍に多大の損を与えたが、幕艦も傷ついて帰っ てきて、官軍二万五千人が、攻めてきた。  八郎の入っている福山城へ、馳せ戻ってくる兵。そ れは乙部へ向った人々であった。 「どうした」 と聞くと、 「官軍が、海陸から、挾撃するので、とてもー」 「それで、逃げて戻ったか」 「はい」 「乙部から、ここまで幾里ある」 「二十里でござります」 「一日に二十里退却七たという話が、何処ぞにある か、この腰抜けっ」  八郎は、刀をもって立上った。 「夜討ち」  八郎は、敗兵と入れちがいに、進撃した。追ってく る兵の止まっているのを見ると共に、鉄砲を撃ち込む 下から、片手の剣客は、両手の時と同じように、右を 斬り左を打って、見る見る倒して進む猛烈さに、官軍 は斬り立てられて、退却すると共に、江差の方へー そして、八郎は、江差の町を占領した。だが、二万五 千の兵は、忽ちに又、近づいてきた。福山城を守るほ かに、兵を出すことが出来なくなった。  海と陸とから1城中の弾丸は、すぐに無くなって もう補充の道はつかなかった。八郎は五ヶ所の台場 に、一発の弾も無くなると共に、退却した。  木古内を守っていると、問道から出た官軍が、不意 の襲撃。八郎は、直ちに、一隊を率いて、官軍の横か ら、突撃して、これを混乱させると共に、官軍も必死 の奮闘。  八郎は、弾の、ぴゅんぴゅん飛ぶ中を、片手なぐり に、兵より先に1返り血を浴び、一弾を腕に受けて 血を流しつつも、 「進め進め」  と、打ち振る刀。 「あっ」  と、叫ぶと、よろめいて、倒れかかったが、踏みし める足、肩を貫いたらしく、刀をもつ手で押えるのを 見て、 「此奴」  と、斬りつけてくる敵。 「何を」  の叫びと共に、斬りすてると、八郎も、よろよろと してどっと倒れつつも、走りながら斬る対手を、片手 なぐりに斬り倒して、 「これしきに」  と、唇を噛んで、立上ったが、痛手に耐えず、又、 よろめいて倒れると、唇を噛み切って、したたる血。 「隊長っ」  抱き起すのを、 「き、斬り死じゃ」  と、血の唾を、かっと吐いて、進もうとするのを、 「何をなさる」  と、抱き止める二三人の兵。肩から流れる血を押え て、 「ここで死んでは犬死じゃ、隊長」 「無念じゃ」  と、涙を出さんばかりの八郎を、そのまま後方へー !「退く退く」 「ざまあみろ」  と、八郎を抱きかかえつつ、退く兵が叫ぶのを聞い て、 「勝ったか」 「はい、見苦しく退却しよります」  八郎は、それを聞いたが、もう、眼を開く力もなく なっていた。八郎は、五稜郭へ運ばれて、民家の空い ている中へ、かつぎ込まれた。命はあったが、傷は重 かった。二度と立てるか、どうかわからなかった。        八郎 の 死  五月十一日。この日が、函館をどうしても陥落させ ようという、官軍総攻撃の日であった。夜の明け切ら ぬ内から砲声は、海上一杯に拡がり、森や、林に立ち こめて、撃ち出された。 幕軍の軍艦千代田は、浅瀬へのり上げて、官軍に捕 われてしまい、回天、幡竜の二艦だけが大砲を打った が、その幡竜も、真白の水蒸気を噴出させると、その まま動かなくなってしまった。  八郎は、身動きもできぬ深手の身体を床へ横たえな がら、 「鎌吉、戦いはどうじゃ」  と、聞いた。 「若旦那ー残念ながら、海の方は、駄目でござんす よ」 「そうか」 「幡竜も、自分で火をつけて、兵はすっかり上陸しま したから1土方歳三さんも討死だし、砲台だって、 もう二百五十人しか居らんそうでー」  そう云っているうちに、砲声はますます凄まじくな って、大地が、びりびりっと響くし、炸裂する弾丸の 音が、八郎の纐帯している耳を叩きつけて、とどろい た。 「残念だ」  八郎は、蒼白な顔をして、よろよろと起ち上って、 「もう一度、戦いたいがー」  と、片手を柱へかけて、戦場を見ようと伸び上って、 「手は無いし、肩は動かず、鎌吉I」  と、涙をにじませて、煙の上っている城内の方を、 じっと、眺めている時、 「あっ」  と、いう叫び、柱へしっかと獅噛みつくと、そのま ま、崩れるように、ずるずると、柱の下へ倒れた八 郎。 「若旦那」  と、鎌吉が、抱き起すと、もう八郎は、眼を閉じて しまって、返事もたくー顔色は、見る見る灰色に変 って行った。咽喉からは、血が流れ出していた。 「若旦那」  と、叫んで、鎌吉は、八郎の顔の上へ、自分の顔を くっつけて、泣き出した。八郎は二十七歳であった。  星亨を刺した伊庭想太郎は、この八郎の末弟であっ た。そして、かつて音楽批評家として有名だった伊庭 孝氏は、この想太郎氏の養子に当る人である。 大衆文学落穂集 為 朝 の 弓 「武勇伝雑話」の中へ、源為朝の弓の強さは、それほ どでもない、というようなことをいった。  宮本武蔵は日本一の剣客でないとか、荒木の斬った のは二人だけだとかいうようたことを多少調べて、本 当のことを云っても、こういう民衆の概念を破ったこ とをいうと、相当反抗心が起るらしく、中里介山先生 の雑誌『隣人の友』では、新聞広告に「厚顔無智なる直 木某」という字句を使って教えて下さるし、そのほか 二三「お前は本を読んでいないだろう」というような 恐縮すべぎ批評を頂くし、本当のことを書いて割に合 わぬ損な什事である。  為斬の強弓の実例は、白河殿の夜討に、伊藤六の胸 板を射通し、余る矢が、伊藤五の射向の袖に立ったの が笛一であろうが、ここを読んだ人は、すぐ次の行に 「彼の祖八幡殿、後三年の合戦の時-武則が申しけ れば、君の御矢に中る者、鎧兜を射通されずというこ となし1義家革よき鎧三領重ね、木の枝にかけて、 六重を射通し給いければ、鬼神の変化とぞ恐れける」  この八幡太郎義家の弓勢はどうであろうか。鎧三領 を一矢にて射貫いている弓勢は、為朝に劣っていよう かP しかも、他の本では、この時、義家は、わざわ ざ弱い弓を望んだとあるから、弓の上手にかけては、 義家の方が上であろう。力に任せて強弓を引くのは、 誰にも引けるが、技の上手は、そうは行かない。  もう一つこれを裏書きする話が天喜五年十一月、黄 の海の柵の戦いの時に残っている。この戦いに安倍貞 任は、風雪を利用して、源頼義の軍を襲撃し、頼義破 れて、残る者二百余人となり、その中から主従七八人 が、敵に追跡されて落ちて行く。その時に踏止まった のが、義家で、残っている矢七本か八本かで、追って くる兵十三人までを討ちとったので、恐れをたして、 追うのをやめた。武則が、義家の弓勢を見たいと望ん だのは、この働きが知られていたからであった。  この八幡太郎の働き振りと為朝が白河殿での働きと を較べると、為朝の弓が日本一とはどうしても云えな い。 一人を射貫いて、もう一人を傷つける位の弓勢 は、ほかにもいろいろとある。八幡太郎が、源氏の大 将として名高いのは、その人物のえらさにもよるが、 この強さも大いにある。保元以降の武勇伝は、物語本 になっているから、為朝などすぐ思い出されるが、八 幡太郎などは、時代が一つ古いので、荘漠として二三 の逸話のほか、多くの人は知らないが、いろいろに比 較すると、中々素晴らしい武勇の人であって、私は、 その弓の上手さに於ては為朝の上へもって行きたいと 思っているり為朝の弓の特別な仕懸け、鎌の大さなど より、いろいろのことが論じられるが、私は、為朝を 日本一だとは絶対に信じない。 平井、 林田、国定 一時に、誰が一番多くの人を斬ったかP というこ とに対して、私が林田左門が、足軽六人を追っかけて 四人を斬り、二人を生捕りにして帰って曽たのが第一 だ、と書いたら、矢張り『隣人の友』で「平井八郎兵 衛のことを知らんか」と叱られた。  平井君は一人で、試合の戻り道に十二三人に斬りか けられ、二三人斬って、あとを追い散らした豪傑であ る。私は知らんことはない。然し、この話は上州地方 の物語として残っているので、真偽がはっきりしな い。それから、夜である。林田の如く白昼でなく夜な ら十二三人でも二十人でも、昼問とは訳がちがう。そ れからこの十二三人の腕が問題になる。林田の足軽は 一口に足軽というが、足軽大将が実戦の中心の如く、 当時は足軽が軍の中堅で、士同様腕に覚えのある奴ば かりである。だから林田が、それを斬ったのが評判に なったのだし、林田に斬られる時も、一時にはかから ず、一人二人ずつ斬ってかかっているが、平井の話に なると、暗討ちで、数を頼んだ卑怯な振舞い、暗の中 で、矢鱈に斬りかかって、一人二人斬られると、あと は逃げてしまったのである。  こんな武勇伝なら、今度の戦争にでも、いくつもあ る。めちゃめちゃに暴れて、二人や三人斬るのなら力 さえあれば大したことではない。剣道は量よりも質で あるし、十二三人とか、二三人を斬ったとか、甚だあ いまいの数でしか残っていない話を、そのまま持ち出 すたど私には出来ない。暗夜だから五六人でも、十二 三人らしく感じたかも知れないし、二三人斬ったのも、 殺したのではなく倒しただけであったかも知れない し、第一林田は、完全に四人を斬っているのだから、 これだけでも、二三人よりは二人叉は一人多い訳であ る、介山先生主宰の雑誌で、人の揚足をとろうとして 信用できたいことを持ち出して、私に「厚顔無恥」と 罵るたど、少しどうかしているらしい。  田村栄太郎氏が、国定忠治は、治が本当で、次は嘘 だとか、その反対だとか、当時の調査に治と書いてあ るから、治だとか、何んとか云っていたが、調書を唯 一の証拠にして、こういうことをいうのは、作家から 見ると、称められない。役人が「次は次か」と云え ば、忠次は(次て何んだろう)と思いながら「はい」 と答えたかも知れぬし、「治は治まるか」と云っても・ 「はい」と答えて(俺ら、ちゅうじろだ、治まったっ て、次いだって、どっちだっていいじゃねえか)と考. えたかも知れない。当時の博変打が一々治と次の区別 なんかすることはないし「ちゅうじろ」なら忠次郎で も忠治郎でもどっちでもいい訳なんだ。栄太郎氏は、 治と次とを挙げているが、この外に「忠二」と書いた のもある(子母沢氏の話)、これを挙げなかったのは 「二」とかいた本を知らないせいだろう。こんな遊人 の名なんかを、調書を唯一の頼りとして断じたりする のは無用の業である。  その時、長谷川伸氏に「出役」を「でやく」でも「し ゅつやく」でも、どっちでもいいと、やっつけられて いたが、これは長谷川氏の方が正しい。この位の程度 で大衆作家に教えようなどというのは少し身のほど知 らずである。吾々は黙っているが、皆相当に知ってい るんだ。史学専門で、人をやっつけるなら、もう少し 考え直してやっつけることだ。僕らも知らんことは多 いが、田村氏程度からそう多く教えられようとは思わ ない。徳永直たんぞが、一々教えを乞うているなど -直君程度の無学にならいいだろう。      三 角兼 連  私は、近代思想の一部に人間の道徳観念よりも、利 害観念で動く方が、自然的でもあり、正しくもある、 というような考え方があったり、常識的人間の、道徳 的純一行為を不自然だと観るような偏見に対して『楠 木正成』を書いてみたが、正成と同じように純粋な道 徳的観念から、二十三年の間、弓折れ、矢尽きるま で、南朝のために働いた人で、全く知られない人が一 人いる。石見国の人、三角兼連がそれである。  今でも、兼連の菩提寺の正法寺奥の院に、巨大な二 つの穴が残っているが、兼連は、ここへ内宮と、外宮 とを奉祀していたもので、ここへ七度詣でると、伊勢 へ一度参ったことになると、今でも、里の人は参詣し ている。  兼連が、南朝へ馳せ参じたのは、船上山の旗上げが 最初であって、この時に『太平記』は「石見国には 沢、三角の一族」と、書いてあるが、それ以外に、こ の兼連は知られていない。  元憲の役の時に、石見も、海辺防備をしたが、その 時に三角氏の築いた城が一番堅固で石見の豪族として は、代々誉の家であった。  だから、尊氏破れて西国へ走った時にも、上杉憲顕 が、三角兼連の所へきて、味方せられたいと懇請した が、兼連一喝して、これを追い、再び旗を立てた、そ して、尊氏兵庫に勝つや、兼連は、安芸、長門、石見 の兵を孤城にて引受け、これを破るや、長駆して、長 門へまで攻め入って、勝利を得た。  それから後、興国二年の戦い、同四年の戦い共に打 ち勝って、正平五年、高師泰の兵二万三千を、三隅城 で引受けた。この防戦も、見事なもので、支城九ヶ所 が陥落して、三隅一城を取巻かれたが、正平五年六月 から、六年正月まで防いで、とうとう守りを完うし た。この城戦の上手さは、兼連の名将であることを語 っているもので、高軍は、城の水路を断ったが、兼連 は巧みに水を引いていて、屈しなかったし、一小山城 の三隅城を、二万以上の兵で取囲まれながら、守り通 した力量は、京都近くでの戦なら、優に、正成と併称 されたであろうが、地が石見の片田舎なので、少しも 世上へは伝わっていない。  兼連の戦死は、正平九年で、足利直冬と共に、京都 にて尊氏と戦って、死んだのである。死ぬ時に「わし の墓を東に向けて立ててくれ、逆賊滅亡を見ぬ内は、 西方浄土とても見たくはない」と遺言している。  人間として、軍人として、当時の一流の人の中へ加 えて少しも遜色がないが、土地が中央と掛け離れてい て、『太平記』の作者なども、ここまでは手が廻らな かったらしいから、見事な戦い振りの割にひどく損を している人である。埋もれている人で、時々立派な人 があるが、三角兼連などその一人で、機があったら詳 しく書いてみたいと思うている。 遊侠物について  仁侠とか、遊侠とか、達引とか、意地とかいう言葉 が、日本で使われているような内容をもって、外国に もあるかどうか1手許に、外国の百科辞典さえ無い から、手軽な説明も出来ないが、階級的に、又生活的 にみて「ギャソグ物」が、やや日本の「遊侠物」に当 り、「白浪物」に類似するが、外国物と日本物とは、 その主人公の持つ、自己、仲間及び、弱者に対しての 道徳、人情が、少しちがうようである。  日本の「白浪物」「遊侠物」に於ては、それが、ど んなに拙い作であろうとも、殆どその全部と云ってい い位に、その主人公は、仁侠的な活動、又は、小さく とも、道徳的行動をするが、「ギャソグ物」には、事 件のみあって、この道徳が少たい。 『ルパソ』にやや仁侠的な事件があるが、彼でさえ、 それを己の卓抜なる才能によって解決しようとはする が、死をもって、他人のために犠牲になろうとはしな い。日本に於てはかかる種類の中には数多く、ほんの 僅かの恩のため、意地のために、自ら死を迎えようと する物語がある。 二  寛永時代に、やや明確な形をとってきた仁侠的思想 が、武士の生活に於ては、十分にそれを、行動の上に 発揮することができず、単に、心得としてのみに止ま って、形骸に成り果てたが、日常生活の上に於て、比 較的、そうした物を実行しやすい立場にある市井の魚 商人、遊人、博徒が、しばしば仁侠的行為と、利益と が一致するが故に、その仲間の中に、その思想の形と 通俗的解釈とを普及させるようにたった。  この現象は、当時のブルジョア階級にしか、その読 者を持っていない馬琴等の道徳小説、春水等の愛欲小 説には、書かれなかったが、講談として発表されると 共に、非読書階級の同感を得て「軍談物」から「御家 騒動」へ移り「御家物」から砕けて「白浪」「政談物」 「侠客」となるに及んで義賊侠客が専ら迎えられ「何 何小僧」「何々水濫伝」「何々五人男」の類が、無数に 出てきたのは、それが実在し、同感されていたに拘ら ず、如何なる形に於ても、発表されなかった物が、発 表されたことに対しての歓迎である。そして、それら と前後して「実録物」が刊行され読書階級へも入ると 共に、寛永以来の「仁侠的思想」は、市井階級のもつ あらゆる道徳中の、一番普遍的にして、一番それを現 わす機会が多く、そしてしばしば利益とも一致するが 故に、通俗道徳の第一位となったのである。  然しながら、江戸時代の階級制度が、それの自由な 氾濫を許さなかったし、それを実行して、一番都合の いいのは、遊人仲間であったがために、比較的彼等の 中に、多く保存されるようになった。都合のいいとい うことは、一番利益と一致することが多いからであ る。商人の場合には遊人の如く、明瞭に、勝利の利益 にはならないが、遊人に於ては、強者を懲らすという ことが、又は、兄弟分のために傷を受けたということ が、直ちに自己の地位の昇進となるし、時として、対 手の縄張りが、己の物となるからである。  だが、教養の低い遊人の仲間に於ては、思想的に発 達することができないし、遊人それ自身の、杜会に於 ての地位が低いし、「商売往来に無え商売」と、時と しては、杜会外の生活でもあるし、元々杜会外の生活 に入る位であるから、何処かに欠陥のある人間が多い し、江戸市井道徳の中心的な物でありながら、少しの 発達もしないのであった。  それを当時に「実録物」の著者及び講談師に、その 精神を明確に把握し、それを発達させるような人も無 く、だんだん別個の道徳のような形をとって、今日に 及んだのである。 三 寛永前後、加賀爪、水野、三浦等の徒が、武士道よ り出たる遊侠道の初期的形を作り出し、反抗と、仁侠 とをもって、幕府及び大名に対して、示威行動をとっ た時には、明かに、社会批判が含まれていた。『武蔵 鐙』に書かれている不平が、それである。  従って、幕府と、町人の撞頭とに対して、彼等の行 動言論が、市井の徒の如く、自由であるならば、もっ と、この精神は発達したであろうが、こうした行動が 市井の徒にも影響して町奴を出すに到って、武士とし ては禁止されてしまった。  二百四十万人以上の武士階級という全然の不生産階 級があり、その中でも、旗本という地位のみ高うて、 財に乏しい階級が、こうして糾織に対して反抗し、大 名制度に反感をもって批判するのは当然で、これが、 武士道徳の一つである仁侠と結ぶ時「伊賀越の仇討」 ともなるのであるから、幕府としては黙しておれない であろう。  そして、武士にこの社会批判の傾向がなくなり、単 に仁侠的方面のみ残ったものが市井の徒の内へ入り、 市井の内に於ても、特殊なるグループヘ流れ込んだか ら、日本人の養われてきた道徳中の一番特色的なもの であるに拘らず、その思想的発達を見ずして、今口ま で、続いて来たのである。  遊侠の徒は、この道徳をもって、自らの地位を外の 社会から保護すると共に、自己の仲間に於ても利用し これを根本精神としたがために、今日に於ても、この 仲問に、一番深く残っているが、果して、それだけで いいであろうかと、私は云いたいのである。 四  仁侠とは、一つの犠牲的精神の形である。それが稀 に現われる時には「犠牲的精神」と呼ばれ、それを本 職業とするか、又は人格として連続的に現われる時に は、仁侠の文字が使用されるが、この精神は、人間の 道徳中、死と最も密接なる関係が多く、利益と最も遠 い点に於て、日本に於て、最も、普遍的なものであ る。  それは、北清事変の時及び欧州大戦の時の、外国兵 のやり方と、日本兵のやり方とを較べると、明瞭であ る。外国のために屈せられて難局に当るのでもたく、 煽てられて危地に臨むのでもなく、そうせずにおられ ない道徳衝動から現われてくる善美の行為である。そ の弊が、日本に刺客の多いことになるのであるが、こ の根強い思想を、遊侠物の中に、今日の幼稚なる形の ままに置いておくのは、惜しいような気がしてならな い。  大衆の中の勢力である浪花節、講談、大衆文学に於 て、無条件に喝采されるのは、仁侠物である。江戸時 代に於ては、裁判に対する大衆の批判、要求が「大岡 捌き」の類となって現われ、施政方針、社会制度に対 しての憤愚、批判が「義賊」となり、「鼠小僧」が、 大奥の寝所を見て畷い、大名を襲って、その金を貧家 に分けるのに喝采し、「幡随院長兵衛」に、武士への うっぷんを晴らしたが、大正以後、神田伯山の「清水 次郎長」余りにも多くの作者をもちすぎる、「国定忠 治」に至っては、そうした精神もなくなり、又は少し の発達も見せずに、僅かに、長谷川伸一人が「遊侠人 情」に、味を見せているだけである。  元来、社会人として、町人、武士と対等に交際する ことのできぬ欠陥をもっている江戸時代の遊人である から、彼等をして、今日の複雑なる社会情勢を批判さ せることは不可能であって、この点、ここを規って真 山脊果は「国定忠治」に於て失敗をしているが、遊侠 物は忠治程度の人間には限らないし、博突打にも限ら ないし、主人公のほかに、人物を出してもいいし、も う少し、広い杜会と、深い生活とを描いても悪くはな いと、私は考えている。  少なくとも、前述の講談種には幼稚でも、そうした ものが現われているに拘らず、今日の作者が、それを 発達させないということは、いけないことであるし、 今日以後の人々が、それを描かないなら、日本特有の 「遊侠物文学」は、衰えるのみであろうと思う。  そして、遊侠物の中に、仁侠という道徳の一つが、 一番多く含まれている点に於て、そして、それが、日 本の市井文学の中の、唯一、最高の道徳にして、且つ 国民に一番親しめる道徳である点に於て、もっと、明 瞭にこの精神は把握され、大きく美事に、高麗に現わ されていいものであろうと思う。  江戸時代からの講談、実録は、多く廃れたが、今 日でも十分に残存して、同感しうるものは、仁侠的の 種類のみである。大衆文学に志す人々が、これをもう 一度考えてみるということは無意義でたいと、私は信 じている。日本の博徒と、アメリカのギャノグとは、 種類がちがう。この二つを、二人の日本人にしても、 今の遊侠物は、一新生面を開くであろうし、ルパソと ル。バソ以上の鼠小僧とを描いても、日本の市井人は、 喜ぶであろう。いつまでも、江戸時代遊侠物に残津を なめている時ではない。 「武侠」又は「剣侠」と称されるものも、大衆文学に 於ては重要であるし、この型は外国にも、支那にもあ るが、それも、いくらか、日本の型とはちがってい る。その類は『プルターク英雄伝』と『武将感状記』 又は『名将言行録』この類であるが、このことは、別 に論じたい。  早々の執筆で、意を尽さぬところがあるが、御推読 願いたい。 強 い 剣 客  流泉小史が「日本一の剣豪は誰か」を書いておられ る。読み終っても「誰が日本一か」断定的のことは判 らたいが、男谷信友と、奥山休賀斎と、長沼国郷とを 挙げて居られるらしい。そして窪田清音の「武蔵、秀 綱、宗知の如き、名実にすぐ」さも、肯定しておられ るらしい。宮本武蔵の名が、実に過ぎていることは、 この「武蔵の告白」に書いた如く、僕も賛成である。 又、柳生宗矩は、僕に、材料が無いから、何んとも云 いかねる。それから「名実相当の所では、斎藤伝鬼、 松林長吉、長沼国郷」と、清音が、書いているが、疑 問は、その名と、その実の差である。  武蔵の名が伝鬼の名よりも大きいから、実力を比較 すると、丁度同じ位だという意味か。素人はとにかく 玄人仲問では、宮本も、伝鬼も、同じ位高名だが、宮 本は名ばかりで、実力は伝鬼の方が上だという意味 か、この区別が、はっきりしない。  第一に、窪田清音は、可成りの著書を残しているが そういう史伝になると、いい加減なもので、ずい分、 出鱈目をかいている。清音の知識で「秀綱は駄目、伝 鬼の方がえらい」などと云っても、幕府当時の無学剣 法者の中ならいざ知らず、僕は「馬鹿云え」といくら でも論争していい。伝鬼と、秀綱(正しくは、上泉武 蔵守信綱)は人間が、段ちがいだ。  伝鬼は、自分の弟子に当る大名と、争って、矢を受 けて殺されてしまったが、信綱はこんな小さい人と争 うような人間と、人間がちがう。伝鬼の伝を読むと、 鶴の羽根で作った着物をきて、仙人か、天狗のようだ と書いてあるが、それ位の活気は、十分にあった人物 らしい。信綱が、たった一人の男を捕えるに、頭を剃 ったり、卜伝が、馬を避けて、その後方を通らずに、 横丁を廻ったりした、この人間としての謙遜さが伝鬼 には微塵もない。自分の強さを誇って、矢を受けなが ら、死ぬまで戦って死んで人魂を出すなど、匹夫の勇 である。名剣客は悉くこういう勇気を戒めているが、 この点一点で伝鬼は落第にしてもいい。  上泉信綱のことは度々書いたから、もう書かぬが、 「名実にすぐ」という人があれば、その事実を挙げる がいい。いつでも、僕は反駁してみせる。  維新当時の剣客でも、人によって、さまざまである。 新陰流第十五代の正統山田次郎吉先生は、中山博道氏 など、頭の上らぬ人であるが、この人に聞くと、維新 当時では、富士浅間流の中村一心斎が一番強いと、云 っておられた。どうしてか、と聞くと、千葉周作の高 弟で、周作より強いと称されていた庄司弁吉、海保半 平ら三人が、水戸へ召抱えになる時、この一心斎が試 合をしたが、七十幾歳でありたがら、血気盛りのこの 使手を総なめにしてしまったからである。  柳生宗矩は、一万八千石にまでなったが、越前の富 田重政も剣一本で、一万五千石を頂戴している。この 人のことなど誰も云わないが、名人越後と称されて、 北国の雄でもあったが、立派た人らしい。  奥山休賀斎は、徳川家康の師匠であるが、この人の、 次代小笠原源信斎なども、えらいと思える。支那へ逃 げて行っていたが(家康に反抗したため)戻ってきた 時、兄弟子の疋田小伯と立合って「われ、及ばず」ξ 嘆ぜしめた偉物である。  この弟子の紙屋伝心なども、年少にして十五流の奥 義を究めたという人で、源信斎の門に入って、新陰流 四代の正統となる人であるが、事蹟をみると中々の人 物である。  こうして挙げてくると、誰が強いか、えらいかなど" 明瞭に断言はできるものでない。事蹟の比較的残って. いる人はいいが、えらかったらしい位で、何一つ伝え、 られていない人は、気の毒である。  維新前でも、浅利又七郎位までは、よく判るように たってきたが、寺田五郎左衛門になると、もう人が知ら ない。白井亨なども知らない。これらの人々は、当然 もっと有名にたっていいが、維新よりほんの少し前だ けに有名でない。寺田五郎左衛門などの、竹刀の尖か ら火を吹く、と云われた位で、高柳叉四郎の音無し試 合よりも、凄かったらしいが、あまり知る人が無い。  島田虎之助、仏生寺弥助など、いずれも名剣客であ るが、紹介者が無いために埋もれている。 日本一の剣客は誰かP と、頷けるだろうとおもう。強い人には、何処となく, 強さが、書物の中に光っている。  ただ、維新当時は、時代も近いし、丁度いい試験台 があったので、この時代の人の強さは、明瞭に、比較- できる。 井上伝兵衛を標準として 維新の人々  弁慶と、加藤清正と、どっちが強いかP 子供がよ く聞くが、大人も「日本の剣客では誰が、一番強いだ ろラか㌧に興味をもっ、ている。一」れば、その強いと云 われる人々を、一堂に集めて試合をさせるとよく判る が、それが出来ない以上、古書、記録によって、推察 して行くのほかに無い,  然し、それでは、頼りないではないかと、疑いも出 るが、そういう方は、私の説を読んで頂くと、成る程  下谷車坂町に、井上伝兵衛という剣客がいた。茂川 弥八郎、酒井良祐と共に、直心影流の三羽烏と称され た人である。  喧ましい、島田虎之助が、天保九年江戸へきて、江 戸σ道場を荒した時、この井上のために打込まれて、 弟子になりたいと云ったことがある。容易に人に下る 人でない島田が、こう云ったほどだから、井上の腕が 判る。  又、酒井良祐は、二十四の時に、神道無念流の秋山 要助(当時五十)に、三本つづけて勝っている。    ところが、この井上伝兵衛が門人の本庄茂平次のた   めに暗討に逢っている。最初は肩へ、次に脇腹へ、そ Vして殺された。これが有謹『護持院ヶ原仇討』の発   端であるが、本庄の腕が、どの位にしても、一太刀も   合わせずに殺された以上、井上伝兵衛も、そう強いと   は云えまい。そして、これが直心影三羽烏の一人であ   る。    千葉、桃井、斎藤と称されていた斎藤弥九郎が、矢   張り、寝ている所を、盗賊に斬られて、盗賊はそのま   ま逃げ去ったが、これも不覚である。    この間、江連力一郎氏が、熱海へ行っていた時、歩   いている背後から、三四度撲ったが、いつも、避けら   れて打てなかった。これが用意している人には、当然   であるから、暗討にしろ、寝入端にしろ、斬られるの   は、一流の達人として不覚である。それが二人まで、   幕末の江戸では一流の人がやられている。そして、名   剣客で喧ましい島田虎之助が、その井上に、燕心して   いるのだから、おもしろい。 夫石進を試験台として  筑前柳河藩の大石進は、江戸在番中、五尺有余の竹 刀を提げて、江戸中の道場を破って廻った。神道無念 流の斎藤弥九郎は、他流試合はしない、と云って断っ た。鏡心明智流の桃井春蔵は、高弟上田右馬之助を出 して破られ、北辰一刀流の千葉周作は、庄司弁吉に破 られ、無念流の秋山要助が破られ、無念流の木村定次 郎が破られ、江戸中で、大石進を破ったのは、高柳又 四郎一人であった。これが、天保十四年の頃である。  この中で、桃井春蔵は、老齢であったが、すぐ大石 の竹刀を見破って、上田右馬之助に、 「あの竹刀の先には鉛が入っている。だから打ちを入 れたのを受けると、先が挽うようになって面へ入る。 腕はお前と互格だが、竹刀が違うから負けるのだ」  と云って、同じような竹刀を作って、同じ形でやる と、その通りであったという。  高柳又四郎は、五尺の竹刀を対手とするのに、一尺 四方の鍔を作って対手にした。そして、 「五尺の竹刀なんて、一種の機械だから、俺も、こん な機械で対手にしてやるのだ」  と云った。これはその通りで、いざ実戦という時に 五尺余などという長刀が振廻せるものでは無い。道場 剣術だからこそである。この高柳又四郎が大石進に、 「君は、本当の剣術家と未だ試合をしていない。一度 男谷下総守と立合ってみて、それから、剣のことを、 話し給え」  と、云って、この大石進を、男谷信友に紹介した9 男谷は、講武所の所長で、直心影流である。  そして、立合って見ると、てんで勝負にならない。 大人と子供との試合である。大石も、それで、初めて 剣道の奥の深さを知ったというが、幕末では、この男 谷下総守信友を第一とする。 男谷下総守  水野越前守が武芸を奨励した時に、多くの剣客を集 めてその技を見たが、男谷一人飛抜けていた。それで 越前守の手で、用いられたのである。  千葉周作が、この人と試合をして、恐入ってしまっ た。そして、男谷は、千葉を、 「あれだけ使うようになるには、粉骨砕身したであろ う」  と評している。この人は、三本試合に、きっと一本 は負ける、だが必ず二本はとる。対手が強くても、弱 くてもそうであって、一度、それを破りたいと心掛け ても、どうしても破れないで、その底力が判らなかっ たと伝えられている。  それでいて、書画が上手で、素人離れがしている、 朝起きると、座敷の掃除をし、妻が死んでからは姿ら ず、時世を知る明があって、親類の子勝海舟に、 「もう、剣術の世で無くなるから、清軍のことを勉強 せよ」  と云ったのは、この人である。即ち剣技のみでたく、 人格、見識共に、当時の剣客を抜いている。小十人か ら、三千石にまでなったのも当然で、寛永時代なれ ば、柳生宗矩の上に位する人であろう。古剣聖の面影 を存していて、幕末の剣道、この人の右に出る者はい ない。 寛 永 以 後  江戸の中頃は太平で、従って最も剣術の堕落した時 である。  然し天真一刀流の寺田五郎右衛門、小野派一刀流の 浅利又七郎、直心影流の長沼四郎左衛門、無住心剣の 小田切空鈍、直心流の神谷伝心斎を挙げることが出来 るであろう。  寺田は、木剣から火が吹くと云われた人で、白井亨 が立合ってさえ、手も足も出なかったというから、そ の強さが判る。浅井又七郎は、山岡鉄舟の師である。  長沼は、宝暦年間に、面、籠手を作り、今の竹刀を 発明した人で、中々頭がよかったと思えるが、どの位 強かったかは、はっきりしない、然し、当時江戸随一 であった。  小田切空鈍は、合打を極意として、剣理に達してい た。この人は、 「侍が刀を抜く時は三つの場合しかない。戦場と、上 意討と、喧嘩をしかけられた時。戦場で死ぬのは士の 恥でないから、働いて死ぬがいい。上意討の時には、 討手を殺して、自らも斬られるがいい。それで使命を 完うしている、喧嘩の時にも、人だけ斬って自分だけ 助かろうとしてはならぬ。対手を殺せば自分も死ぬの が本当だから、相打でいい、即ち、士が刀を抜いたな ら、死ぬ時なのだ。だから、自分を殺すと同時に、対 手も殺せばいい。当流は、だから相打を極意とする」  と云って真向の太刀一手しか教えなかった。中々徹 底した剣道である、  神谷伝心斎は、若年の頃、十五流に達したという人 で、後に、新陰流第五代の正統になった。そして、六 十七歳の時に、 「剣道とは、己をすてて直心で進み、非心を断って、 自然に生きることである」  と、悟って、極意を「非切」と称し、流名を直心流 とした。  この四人は、それぞれに名人であるが、前の二人は 剣術以外に、この技以外に何も無い。ただ強いのみで ある。空鈍は、一つ悟りへ達しているが狭い。伝心斎 は、古剣聖の達した道へ、ようよう六十五歳になって 到達している。この四人と、戦国時代の剣客とを較べ ると、その優劣がよく判る。それを、もう一章に譲っ て、俗間剣客につき一言しておく。        有名剣客の正体  通俗的に有名な剣客は、柳生宗矩、官本武蔵、荒木 又右衛門、塚原卜伝、岩見重太郎であろうが、柳生宗 矩は、剣客というよりは、政治的手腕で、一万二千石 にまで上ったのである。真の剣技は、同じ将軍師範役 の小野治郎左衛門の方が、優れていたかも知れぬ。然 し凡庸の人では無いが、剣客としてよりも、政治家と して働き、剣道の上の仕事を何一つとしていない。男 谷下総が、講武所を設けたような、剣道発展の要枢の 地位に有りながら、少しもそのことに努力していない のは、甚だ遺憾である。  宮本武蔵は、晩年はえらくなったが『兵法三十五ヶ 条』のような未熟な著書をして人に畷われているし、 佐々木小次郎のほか、当時江戸の名剣客と少しも試合 をしていない。剣法上の創作的態度に於て、この人も 上泉信綱に劣る。書残したものを見ても、徹底しない で、兵法のつまらんことを説いたりしているcほかに イソテリ武人がいないから目立ったが『五輪書』など 空鈍の『天狗芸術論』に劣っている。  荒木又右衛門は、講談師が三十六人斬りたどと勝手 なことをこしらえて有名にしてしまっただけで、郡山 藩の二百石取の一剣士にすぎない。宗矩の門人では出 淵平兵衛が只一人柳生流を許されているが、又右衛門 は敵討で有名になっただけで、大した人ではない。  岩見重太郎は、架空人物だから論外である。塚原卜 伝は後に説く。 戦国時代の人々  家康の師、上泉信綱、塚原ト伝、奥山休賀斎(新陰 流第二代)、斎藤伝鬼坊、富田重政、伊藤一刀斎、飯 篠家直、松本備前守。これらの人を、戦国時代の名流 として、挙げることが出来るであろう。  ここで、一つの推諭、仮定を設けるが、えらい人に は、あちこちに噂、逸話が残っていて、古い時代であ るに拘らず、江戸中頃の人々より、詳しく伝記の判る ことである。これは、えらいが故に、いろいろと、残 り、伝えられたと、云っていい。  それで、その順で行くと、上泉信綱、塚原卜伝、伊 藤一刀斎、斎藤伝鬼というような風である。  もう一面から見ると、その弟子の多寡で信望が判 り、その流派のつづいてきたか、来ぬかでも、その価 値が判断される。これで行くと上泉信綱が群をぬいて 伊藤一刀斎とつづいて、後がつづかない。  斎藤伝鬼の最期など、この人の馬鹿さを示している だけである。飯篠、松本、塚原は、上泉と同時代であ るが、三人とも、すぐ彼等の剣法が、廃れてしまって いる。  これは、三人とも、その当人は強いが、人に教え る、組織的剣法でなかったからである。仮令ば、卜伝 には「一つの太刀、一つ太刀、一の位」と、三つの太 刀しかない。空鈍は一つだが、三つの太刀では、習う 方で困る。単純すぎるからである。太刀は一つの極意 さえ究めればいいが、初心に教えるには十位の形が、 基本としてあった方がいい。この人々は、戦国時代で 剣道発端当初の人だから、強いが、単純であった。そ のため、その人だけで、その極意が判らたくなって、 人に伝えることができたかった。だから、 のである。ところが、この中に、唯一人、 けは、断然光っていて、他を抜いている。 剣聖上泉信綱 すぐ廃れた 上泉信綱だ  長野業盛の右腕として上野国一本槍と称された時か ら、上泉信綱は武人であった。信玄が、箕輪城を攻め て、信綱が斬死しようとするのを「剣道のために死ぬ な」と諌め、信玄の信の字を与えて、秀綱を、信綱と 改めさせたので、その信じられていた程度がわかる。  又、信綱は、軍法にも達し、上泉流の軍学を創造し 大阪冬の陣に井伊家にあって武名を轟かした岡本半助 など、この軍学を学んだ人である。  又、日本最初の、剣道天覧に供したのが信綱で、こ の時、武蔵守に任官されている。  又、信綱の弟主水が、信綱の弟であるというだけで 上杉家へ三千石で召抱えられている。信綱の当時に於 ける声望、もって思うべしである。  そうして、信綱は、箕輪落城後、又、主を求めず東 に行き、西に旅して、ひたすら剣道のことに尽した。 弟さえ三千石にたれるのに、一身の栄誉を断って専ら 剣道のことに努力し、遂に大和柳生に客死するまで、 この人ほど、純粋に剣客であった人はない..  そして、腕はと云えば当時近畿第一と称されていた 柳生宗巌に、その弟子疋田小伯を立合せ、この小伯が 右と云えば右を打ち、左と云えば左を打ち、宗巌の兜 を脱がせた位-弟子でさえその位の腕であった。そ して「剣の極意は、火に焼けず水に溺れず、磐石落ち るとも動かぬ心を養うことだ」と心の大事を説いた。  そうして、ト伝や、家直などとちがって、剣道を組 織的に、攻防の術を二十種ほど作り、幼稚た者にも、 達人にも修練しよいようにし、挽刀を発明したその頭 のよさに至っては、到底、他の武人の及ぶところでは ない。しかも、その用意は、一人の浪人を捕えるのに 頭を剃って坊主になって行った位に用心深かった。  私は、尤も、逸話伝記の不明瞭なこの時代の人であ りながら、一番多くのいい話を残している点に於て上 泉信綱は、断然えらかったとおもう。この人が、日本 第一の剣聖、次が、男谷下総守。二人ながら技も心も 出来上った人である。他の武人に至っては、ただ強い というにすぎない。 炉辺剣談 井上伝兵衛  維新の剣客の中で、あまり人に知られていない人の 話と、知られていないことを、話ししようと思う。  上泉伊勢守信綱から、伝えられてきた直心影流の第 十二代を、藤川整斎といった。この人は、藤川近義の 悼であるが、門人の井上伝兵衛、酒井良祐とともに、 直心の三傑と称されていた。  この中で酒井良祐が、技禰としては第一であろうと いわれていたが、良祐二十五の時に、神道無念流の名 手秋山要助と五本試合して、つづけ様に三本を取り、 それで、勝負が終っているから、いかにもと思える。  島田虎之助が、上方、中国の道場を破って江戸へ来 た時が、二十五六であっただろうか1井上伝兵衛の 御徒町道場へいって、めちゃめちゃにやられた。田舎 で天狗であった島田虎之助は、すっかり悟って、入門 しようとすると、伝兵衛が、 「看は、男谷信友と、試合したか」  と聞いた。 「幸いにして、勝ちました」  伝兵衛、それを聞くと微笑して、 「わしが手紙をつけるから、もう一度行って見なさ い」  と、それで、虎之助が、男谷へ再度の試合を申込む と、今度は、近づきも出来ない。虎之助が、男谷へ入 門したのは、この時からであった。  この井上伝兵衛が、天保九年十二月二十三日の夜、 暗殺された。駿河台の茶の会があったので、その戻り 路に、片手に茶壷、片手に雨傘、雨の降る中を戻って くると、後方から、肩へ斬りつけ、伝兵衛が刀を抜い た時に脇腹を斬って、逃げてしまった。伝兵衛は、近 くの自身番へ、よろめきたがら入って、 「車坂の井上だ」  と、いって、息が絶えてしまった。伝兵衛の弟、松 山へ行っていた熊倉伝之丞、その子伝十郎の二人が、 仇討に出てきたが、伝之丞が、また殺された。この殺 された時に、敵が、本庄茂平次だとわかったが、この 茂平次という人聞は、鳥居耀蔵の部下で、伝兵衛の門 人だから、耀蔵が何か、伝兵衛に頼んで、伝兵衛が聞 き入れたかったので、殺させたのだろうと、こういう 想像をしたが、行方がわからない。それに、伝十郎一 人では、どうにもならない時に、小松典膳という伝兵 衛の門人が、助太刀を申出て、二人は江戸中を捜して いた。  ところが、鳥居耀蔵が免職になった、と同時に、そ の手で匿されていた茂平次が、長崎で捕えられた。そ して二人を殺したことを自白したので、江戸へ送られ 奉行所から追放されることにたったが、これを護持院 ヶ原で待受けて討ったのが、有名な『護持院ヶ原の仇 討』である。弘化四年八月六日の出来ごとである。 千葉門繁昌の原因  あまり、千葉周作のことが称められすぎたので、近 ごろ、周作は、宣伝がうまかったのだという説が、大 部でてきたが、それもあろうが、上手は上手であっ た。  だが、それよりも、千葉の名を高からしめたのは、 周作の兄弟が三人とも剣客であったことが、その原因 の一つであろう。すなわち、兄の叉右衛門は、岡部藩 に仕え、弟の定吉は、京橋桶町に道場を開いていて、 桶町千葉と称されていた。  もう一つは、周作の四人の子供が、皆強かった。岐 蘇太郎、栄次郎、多門四郎と、この中で、栄次郎が抜 群で、千葉の小天狗と称されていたが、岐蘇太郎が三 十一歳で、安政三年に死し、同十一月に周作、六十二 で、次に文久二年に栄次郎が三十で、多門四郎が、二 十四で、道三郎も、明治五年三十八で、ばたばたと倒 れてしまった。  この栄次郎が、ちょうど、同じ齢頃として、九段の 斎藤弥九郎の悼、歓之助と対抗していた。歓之助は、 紳名して、鬼歓といわれ、長州の来島叉兵衛が来た時 僅か十七歳の小腕でありながら、ただ突の一手で、又 兵衛以下六人を破ったという豪の者であった。  この人も、惜しいことに早世してしまったが、九州 へ下った時、九州第一の剣豪松崎浪四郎と試合して敗 れたほか、手に立つものがなかったといわれている。 どのくらい鋭かったかという例としての話に残ってい るのでは、この歓之助が、容赦なく小手を打つ時には 小手の上の皮が切れたというから鋭いよりも凄かっ た。  この鬼歓が、栄次郎と試合したが、どうしても、栄 次郎の胴へ入れてくるのを防ぐことができない。そし て、胴へ入ると、身体中へ、ぴいんと響いて耐えられ ない。とうとう最後には、女の帯を巻きつけて行った が、矢張り胴をとられて、呼吸がつまったというから、 千葉栄次郎の鋭さは、大したものであっただろうとお もう。この栄次郎が代稽古をしていたので、千葉門は 盛だった。  もう一つは、門人の海保帆平、井上八郎、塚田孔平、 庄司弁吉、稲垣定之助、大羽藤蔵などが、ことごとく 大名の召抱えになったから、いよいよ千葉の名を高く したし、門人の中から、坂本竜馬、清川八郎、有村次 左衛門などを出して、有名にもなっている。周作の強 さからいえば、いろいろと論もあるが、こうして周囲 が揃うていたから、一層名聞が響いたのであろう。 大石進の竹刀  大石進が五尺三寸の長竹刀で、秋山要助、木村定次 郎、庄司弁吉、上田右馬之助などを破ってから、急に 竹刀の長いのが、流行り出した。  この流行に対して、頑として、竹刀の長いのを潮っ ていたのが、直心影流の藤川整斎で、二尺でいい、短 かければ踏込め、といっていた。長沼派が三尺三寸、 男谷信友が、講武所長とたってから三尺八寸と、今の 竹刀の長さにしたが、これが一番穏健らしい。  二尺の竹刀は、よほどの手練者でないと、不利であ るし、五尺三寸は、真剣になると、用をなさない。昔 から、刀の長さは己の膀の下へ鍔がくるくらいがいい とされている。二尺七八寸から三尺近くであって、極 めて適当している。それより長いと、すぐ疲れてしま って、おのれの力に合わない。大石の長竹刀など、道 場だけの、見てくれ剣術で、いざのときの用をたすも のではない。  長い竹刀では、大石進一人が有名であるが、嘉永二 年、島津伊賀という人が、矢張り五尺の竹刀で、福井 藩を荒している。これがため、福井藩が、一時に長剣 に変じたと称されている。徳川慶喜を、水戸へ護衛し て行った精鋭隊長、中条金之助という人は、四尺二寸 の長刀を侃していた。歩くと、鞘が土に摺れるから、 小さい車がつけてあったというが、少しおかしい。 男谷信友の強さ  男谷下総守信友だけは、幕末の剣客が、別格として いた。水野越前が、武術奨励のため、剣客を集めて試 合させた時、男谷精一郎がただ一人、水際立ってい た。百俵の小十人から、御徒頭となり、三千石まで昇 った人は、この人だけである.  千葉周作が、男谷と試合した時に、男谷二対千葉一 の勝負であったが、千葉はすっかり敬服してしまい、 男谷は「あれだけ使うには、なみ大抵の修業でなかろ う」と、評した。  この試合が、男谷の二、千葉の一であるから、千葉 も強い、と考えると大間違いで、男谷という人は、ど んな弱い者と試合をしても、三本勝負だと、きっと、 一本は負けてやった。そして、その勝ち方が、実に、 軽くて、あざやかで、底力が、どのくらいあるのか、 わからなかったといわれている。 ㌔  門人の中から、大名の師範役になった人が二十余人 出たというから、千葉も、斎藤も、足下へもおよばな い。六十七歳で、死んだが、死ぬ時まで、その三本に 一本の試合ぶりを崩さなかった、門人が、口惜しがっ て、どうかして、二本を取りたいと競ったが、とうと う一人も取れずにしまったという。  書も、両も素人離れをしている。しかし、一つも落 かんをしてない。自分の楽しみに描くので、人に見せ たり、くれたりするものはない、というつもりであっ たらしい。私は、この人の孫男谷国友氏から、一幅譲 り受けて、愛蔵しているが、うまいものである。 「藤田先生は、実に技が拙いが、あれで、真剣を持た せたなら、この道場で屈指の試合をするだろう」  と、称しているので、よく判る。人間がそのくらい に出来ていたのだろう。なまじ、道場で上手なより、 腹の据っているほうが、真剣には強いが、弥九郎は、 東湖の腕を、その点から、十分にわかっていたのであ ろう。 文人の剣術  幕末の文人で、剣を学んで相当な人には、渡辺畢山 が無念流、鈴木春山が北辰一刀流、藤田東湖が無念流 である。前の二人の腕はわからぬが、東湖の腕は、斎 藤弥九郎が、  ・…仕方がないだろう。見るわけに行かないのだか ら、聞くのと、読むのと1尤も、芳年の錦絵があ る。これは唯一の見るべき、見らるべきものだ。大蘇 芳年、この人はあまりに、凄惨な、血のみを描いたが ために、その晩年発狂したと伝えられているが、維新 当時の血腔い街道を彷僅して、一々写生して歩いた人 である。一度は、見て加くがいい。  ……聞くのは、老剣客に、従軍した人にーそれか ら、私は、テキヤに聞く。現在、テキヤが、誰よりも よく喧嘩をする。場馴れたのも、場なれぬのもー。ハ チソコ(ピストルの隠語)も、ドスも、短刀も1彼 等は、いろいろと、使っている。  -…腰が定まらないで、ふらふらしながら、刀と、 刀との間が、四五尺も離れているのも、本当だ。それ と同時に今年の春、吉原で「金馬」なる親分を斬った 時のように、いきなり、脇差で、咽喉を突き通すこと も本当だ。血が、びっくりするくらい流れることもあ るし、案外に出ないこともある。  ……もし、脳貧血を起さない人なら、馴染みの病院 へ行って、いろいろと外科の手術も見ておくがいい。 僕が『南国太平記』に書いている切腹の情景は、僕の 子供が「ヘルニヤ」の手術をする時、腹を切裂いたの と、大阪の角力取某が、梅毒にかかって、盲腸を併発 した時の手術をみたのとが参考となり、それに、各流 の切腹の様式を書いた物を、参照している。二十歳ま で、よく、大阪谷町六丁目の外科専門、薄病院へ遊び に行ったので、いろいろ見たのが、役に立っているの だ。  ……だが、それだけでは、十分でない時には、勿論 「尤もらしく」「真実らしく」描くことがあるコこれ は、小説家の想像力一つの問題で、これを教えるわけ には行かない。詳しく自分の書いた物から例をとって 真実と、想像とを区別すると、よくわかるが、紙面が 足りない。  ……書物はいろいろとある。これは、挙げ切れな い。まとまった剣法史ぐらいのもので、活きた立廻り を書くには、何の役にも立たない。諸流のことを、多 少心得ていて、武徳殿辺の大試合を見ると多少会得で きるだろう。気合とか、足とかがーしかし、道場の 試合と、真剣とは、可成りちがう。これを、いろいろ の場合にあって、適当に描かなくてはならぬ。  ……本多平八郎は、いつでも、戦の始まる前に、が ちがちと顧えていたといわれているが、こんた人もあ る。関ヶ原の戦に島左近の馬前へ進んで行った黒田の 侍が、三人とも、縞の陣羽織の色が何であったか後で 話をしても、三人とも、ちがっていたという話もあ る。これも、本当だし、もっと、落ちついている人の あるのも本当だ。    ・書物ても、徳川中世以後の、武士の心得1た とえば座敷へ坐る法とか、屏風の前に坐る心得とか、 山道の歩き方とか、足袋の裏の用意とか、長袴での斬 合心得とかーそんなものは、畳の上の水練で、こう いう部分的作法心得が完成する時は、世は太平で斬合 のない時代、剣道堕落の頂上だ。そんなことを尤もら しく書くと、僕は、おかしく感じる。しかし、一かど 心得たつもりで書いても、場合によっては有効であろ うし、読者は感心するかもしれぬ。  ……参考書としては、山田次郎吉の『日本剣道史』 一冊あればいい。僕の『剣道史』が完成したなら、是 非、読まぬといけない。戦国初期の剣法と、寛永以後 のとは、可成り技術がちがっているし、地方地方によ っても技がちがうし、詳しく心得るのは、手当り次第 に、関係書を見るほかにたい。  …-生残りの人に聞くのもいいが、小説にかけるよ うに細かく、話せない人が多いから、老人から聞くの は損をする。若い人で、老人に知人があり、斬合の研 究に興味をもっている人があれば、それで沢山だ。   …剣術も、いわゆる剣術と、抜刀術とはちがう、一 抜刀術は、それ自身として特長があり、一見しておい ていいものだ。居合と称されているが、呼吸、手の働 き、足の働きなど、よくわかる。  …-僕は、立廻りの描写については、某や、某の如 き与太は決して書いていないから、参考にしてもらっ て、気が答めたい。おもしろけりゃ何んでもいい、嘘 でもおもしろいほうがいいというような心得は、作家 として恥辱である。真実を描いて、なおおもしろく書 くのが、作家で「真らしく書く」ということは、嘘と 知りつつ、読者にこびるということとはちがう。相当 の人で、研究もせずに、出鱈目を書く人があるが、同 じ書くなら、新しい人々は、出来るだけ、研究をして もらいたい。可成り、道は開いてあるのだからー。 上泉信綱 信綱の家系  剣術のことを、多少とも調べている人は、上泉武蔵 守信綱と書くが、俗には、上泉伊勢守秀綱として通っ ている。 『上州古城塁記』の中の「風土記」に、「太胡加賀守 勝広、後に、上泉武蔵守信綱が、居所なりと、按ずる に上泉武蔵守信綱は、上泉の城主にして、天文二十四 年春、氏康の厩橋出馬の時詐りて降り、謙信の越山に 及んで遂に東上野へ饗導す。又、長野が臣、上泉伊勢 守秀綱は、箕輪落城に及んで、桐生に遁れ1風土記 に一人とす、詳に考うれば二人なり。けだし父子なる か」  と、あるが、この時分から、別人のように考えられ ていたこともあったらしい。  初め、伊勢守信綱、後に、武田信玄より、信の一字 を賜り、信綱と改め、上洛して、武術を天覧に供した 時、武蔵守に任ぜられて、即ち、武蔵守信綱である。 伊勢守秀綱は間違いではないが、最後の名、官位で、 故人を呼ぶのが正しいから、上泉武蔵守信綱と云うべ きである。  信綱は、藤原姓であるが、俵藤太秀郷の後胤になっ ている。秀郷は、元遠江の国の人であるが、平将門を 平げてから、上野国に住んで、ここに一族が栄えたか ら、信綱も、その一族中の一家なのであろう。  代々、上野国勢太郡の城にいたが、秀郷六代の孫、 淵名太夫兼行の子の代にたって太胡を姓とし『東鑑』に 出てくる太胡太郎(太胡武蔵守)の時に名を挙げた。  この太胡から、どう別れ出たか不明であるが、何代 目かの人が、群馬郡上泉へ別れ移ってから、上泉を姓 とし、そこに一城をもって、信綱の父、上泉秀継(初 め憲綱、後義、秀継と改め、後年秀継と称す)の時に なった。  この辺は、上杉管領家の勢力範囲であるから、上泉 氏も上杉家の被官であったのであろうが、足利末の乱 世となって、上杉の衰亡と共に、上泉城も陥ることに なった。そして、信綱は、長野信濃守業政に仕えたの である。 長野家にて及び信綱の槍術  長野信濃守業政という人は、在原業平の末孫と称 せられている人であるが、業平が古今の美男子である と共に、強力無双であったように、傾いて行く上杉家 のために、唯一人武田信玄の上野侵入を食いとめたの が、この業政であった。  居城は、箕輪城で『甲陽軍鑑』の「箕輪攻め」の一 条は壮烈無比であるが、この業政在世の時には流石の 武田信玄も一指を上野国へ染めることが出来なかっ た。  上杉憲政、失政多く、北条氏康のために、越後へ追 われ、長尾景虎に、その上杉姓を譲り、景虎が、上杉 謙信を名乗るのであるが、この憲政の居城、平井の城 が落ち、天文二十年上杉家滅亡の後に、ただ一人、故 主のため、氏康、信玄の二名将を対手とし、永禄三年 病死するまで八年の問、一歩も譲らなかった、匿くれ たる名将が、この在原業政である。  信玄は、この業政さえ失えば、上野一円は己の手に 入るので、二度まで大軍を催して攻入ったが業政のた めに破られて、その後は兵を向けることをしなかっ た。  上泉信綱は、この業政に仕えて、一方の将を勤めて いた。そして、長野家十六槍の一人と称されていたが 安中城の安中左近と一騎討をして、この人を討取るに 及んで、業政より「上野国一本槍」という感状を頂い た。 「渋川流」の渋川伴五郎時英が、その著『渋川流柔道 大成録』の中へ「上泉伊勢守などが事、よくよく考へ て見るべし」と書いているが、それはこの上泉信綱が 剣槍二道の達人であったことを指している言葉であ る。  当時の人々が、徒らに剣道のみを学び、槍術や、柔 道と共に学ばずして、武芸却剣と心得たのを戒めてい る言葉であるが、その剣名のために、その槍名が圧せ られて、聞えなくなってしまったが、上泉信綱の槍術 の達者であったことは、この感状問題一つでなく、十 分に、それを裏書きする史料が残っている、  それは、柳生流の「御流兵法之由緒」の中に、「影 之流の槍」という名のあることである。柳生も剣法の みの家であるから、この「影の流の槍」は名のみにな ってしまったが、明かに、上泉の「陰の流」には槍法 があったのである。  それが証するもう一つの史料として、大野一貫の著 『懸間録』に「余が修業階梯とせる槍、薙刀の流伝と 云へるものは、疋田流と号して伝来せり。疋田流は疋 田文五郎云々」とあるが、疋田文五郎は上泉信綱の高 弟で、いつも信綱の供をしていた人であるから、前の 柳生流の中にある「影の流の槍」と思い合せると、上 泉信綱が、いかに槍術に達していたかー「上野国一 本槍Lが、決して嘘でないことがわかるであろう。  武蔵を持ち出すのは、いささか、気になるが、菊池 氏はしきりに、武蔵の画のうまいことを称めたが、信 綱は絵をかかん代りに、槍が出来た。武蔵は槍ができ たい。文芸家としての菊池寛が、剣術ができなくって も、その価値には少しも影響しないが如く、信綱に絵 が描けなくっても、槍が出来れば、武芸者としては、 絵の出来るということよりも、価値の点では多いであ ろう。上泉信綱の槍の達人であることなどは、少しも 知られていないが、これで、信綱が剣のみでなく、い かに、武人として各技に亘っていたかが窺えよう(軍 学に達していて、上泉流軍法を残していることは後に 説く)。  余談であるが、序に云っておくが、塚原卜伝も飯篠 家直も、立派に、槍をとっても一流の使い手であっ た。後の剣術家が、剣のほか使えないような不自由な 武人でなく、弓にも達していて、卜伝の如きは『弓の 心得百首』という歌まで残している。こういう人々の 足蹟まで調べないで、武芸のことを俗説のみによって 云々する史家など、滑稽であるだけである。  そこで、話は元へ戻るが、こうして、長野家に仕え ている間にII永禄六年、業政が病となって死んだ。 嗣子業盛僅かに十九歳である。信玄このことを聞いて 「自分の手におえぬ奴が三人いたが、太田道灌は岩槻 に退いたし、業政死んだ上は、最早や上杉一人になっ た」  と云って、直ちに兵を出して、箕輪城を攻撃しに来 た。この時に、箕輪城の裏門を守って副将格となって いたのが上泉信綱である。  信玄の兵二万、先ず、松井田城を落し、安中城を陥 し、峰の城を平げ、そして総軍二万で箕輪を開んだ。 業盛は、大手を防いでいたが、潅かにその外廓を破ら れて、   春風に梅も桜も散り果てて      名のみ残れる箕輪なりとは  と歌を残して、白害した。  この時、裏手の主将、上泉信綱は、疋田文五郎、神 後伊豆に、旗を持たせ、美方、道守、町田、寺尾の諸 将と共に最後の一戦を試みようと城門を出、円陣を作 った時に、信玄の方から穴山梅雪が使いとして来1-、、 「業盛討死して、戦は最早や終り、武士の道も立った 上は討死は無益であろう。伊勢守の武芸をこのまま滅 ぼすのはいかにも惜しいから、助命しようと、信玄公 より沙汰されているが、そうしては」  と云った。それで、裏門にいた諸将だけは、内藤修 理へお預けということになった。そして、暫くそのま までいたが、信綱は仕官を断念して、新陰流を弘めよ うと決心し、信玄に暇を乞うた。ところが信玄が、中 中許さない『甲陽軍鑑』に「愛州陰の流と申兵法を習 ひ得て、此中より某仕出し、新陰流とたて兵法修行仕 度候、奉公致すに於ては、信玄公へ注進申べく候、奉 行にてはなく修業者に罷成候と申上ぐる故、御暇下さ るたり」  とあるが、信玄は信綱を惜しんで、他家へ仕えはせ んかと中々許さないので、他家へ奉公はせぬ、武者修 行になるのだと云って、ようよう許されたのである。 これを『関八州古戦録』が裏書して曰く、 「毛頭他家競望の所存にあらず、もし行先任官の模様 あらば、必ず告げ訴へて、信玄の赦宥に任すべし」  即ち、信玄は、自分の許可なくして、他家へ仕える ことはたらんぞ、とまで、惜しんだのである。剣客兼 武将としていかに、信綱が信玄から、重んじられてい たかが、わかるであろうc  太田道灌、長野業政を、二つの目の上の瘤としてい た信玄。この二人の名将のうちの一人の副将を勤めて いた信綱、一代の名将、武田信玄がかくの如くにまで 惜しんだ信綱。もし、信玄に仕えていたならどの位ま でに成ったであろうか。黒田家へ仕えんとして断られ 細川家へ僅か三百俵でその老骨を売った宮本武蔵と、 武田信玄にかくまで惜しまれながら、逆に、一生を流 浪の中で終り、新陰流を天下に弘めた信綱と、いかが であろうか御立合。 陰の流及び新陰流の起源 「陰の流」一に「形の流」とも書くが「陰」が正し い。陰は陰密の意を含んで、秘術を表現した字である という説があるが、これは採らない。柳生流の「柳生 流新秘抄」の中に「愚見には、陰は茂れる草村を見る 如く、流儀の蓋奥とや云はん」  と、云っているのも、浅薄すぎる。「陰」とは剣道 に於ける「内にこもれる力」であって、これが動作に 現われると、「陽」になるが、「新陰の流」の教えより みて「こもって未だ発せざる状態」の陰を指して、流 儀の名としたのであろう。形より、陽より、動よりも 心を重大視し「肚」を「静」を説くところより見て陰 は「無一無雑にして、発さんとして未だ発せざる心」 の義である。そしてこの「陰の流」の創始者を愛州移 香(惟孝ともかく)と呼ぶ。上泉信綱の『当流由来の 巻』の中に、 「当流の起本は、愛州移香といふ人あって、兵法の諸 流を極め、その中より一流を選み出し、世に弘めんと 欲す。然る後、九州の国に赴きて、霊者あり、これを 鵜戸の大権現といふ。移香、かしこに至って参籠する 事三七日、当流の天下に於て流布せん事を伏願ふ。既 に、夢中に告げを蒙って1陰の流と号す」とあり 『師系集伝』には、 「奥州の産、足別氏季世の時の人、幼より万槍の技を 好み、広く諸州を修行し、九州に渡り、鵜戸の盤屋に 参籠し、剣術の微妙を得んことを祈る。夢に神猿の形 に現はれ奥秘を示す。一旦慢然として大悟す。自ら其 名を影流と号し、其人に非れば伝授せず。是中興刀槍 の始祖也、上泉信綱其伝を継ぐ」  この移香の長男に、小七郎惟修という人があった。 この人から、信綱が「陰の流」を学んだものらしい。 「新陰流目録」の系図の中に、この小七郎から信綱へ 伝えられているから、愛州移香にも、学んだかも知れ ぬが、惟修に学んだと見るのが正しいであろう。そし て一流を立てて「新陰の流」と称した。  何時、この「新陰流」を立てたか明かでないが、箕 輪落城の時に、信玄が、使いを出して武蔵を亡ぽして はいかんと云っているのを見ると、その時には相当有 名であったと見るのが至当である。  信綱が、長野業政の下へ仕えるまでは、上泉の城に いたという説もある。天文二十四年、上泉城を攻めた ので、信綱一旦偽って降り、後に、謙信の道案内とし て、山上、仁田山、佐野、桐生などを斬り従えた、と いう説であるが、父秀継の時に、城が陥ったとも云う し、ここの所、よくはわからないが、長野業政に従う 前の、平和な時代の折に、既に、剣豪の名は高かった と見ていいであろう。それは長野家へ仕える前後から 戦乱つづきで、剣道などを考案している暇がないから である。  この「陰の流」が、いかなる物であったかは、日本 には文書として残っていないで、支那にある。それは 茅元儀の名著『武備志』の中にあるのである。  「茅子日(茅元儀)武経総要所」載刀凡八種、而小  異猶不列焉、其習法益不伝、今所レ習惟長刀腰刀、腰  刀非二国牌一不レ用、故載二於牌中'長刀則倭奴所γ習、  世宗時進犯二東南一故始得レ之、戚小保於二辛西陣上一  得二其習法一又従而演7之、井載二於後一」  これを、松下見林は『異称日本伝』に記して曰く、  「今按、戚小保、戚継光、辛酉明嘉靖四十年、当二日  本正親町天皇永禄四年一、影流日本剣術者流名也、影  当レ作レ陰-其徒上泉武蔵守藤原信綱、用γ心損二益  之一号新陰流、有一猿飛、猿廻、小影、月影、浮船、  浦波、覧行、松風、花車、長短、徹底、磯波等手法一、  茅氏、挙二猿飛、猿廻、山陰、虎飛、青鼠、陰見之名一  而収二入国亭一伝写之誤、湧草有二欠画こ  これで、いくらか、その監劃が判る訳である。「新 陰流」になると、伝書が、それぞれに残っていて、そ の精妙なる組織、技巧が、いかに他流に比較して優れ ているかがよく分かるが、この詳しいことは後に説く ことにする。 上?各  上泉は、京都へ赴く前に、桐生に暫く居たらしい。 桐生の城主、桐生大炊助直綱は、破であったが、武芸 の嗜みが深く、信綱とは、旧知の間柄であった。  ここにいる内に、直綱が残し、子が無いので、弟又 二郎重綱が後を継いだが、それより家中乱れたので、 信綱は桐生をあとにして、上方を志したのである。  この行に、信綱は子の秀胤と、神後伊豆守と、疋田 文五郎を連れていた。そして、永禄何年かに京都に入 ったものである。『言継卿記』は、当時の公卿の日記 として、唯一のものであるが、この山科言継卿の日記 の中に「永禄十二年二月二日太胡武蔵守が邸を訪ねて きた」とかいているが、信綱は、義輝に剣を教えてい るし、義輝は永禄八年五月に殺されているから、永禄 七年三月以前信綱が京へ入ったことは明かである。  信綱が、京都へ来て以来、近畿の人々が、いかに信 綱を見ていたか? 『冒継卿記』は約二年六ヶ月間の 日記であるが、その中に信綱のことが、三十二ヶ所出 てくる。最後は元亀二年七月十一日で「太胡武蔵守、 本国へ下向、暇乞に来る」で終っているが、この日記 の中に、次のような文句がある、 「伽上泉武蔵守被上洛、久方以下悉兵法軍敗(配)被 相伝無比類発名之事実」と、即ち、上泉信綱が剣術の みでなく上泉流の軍学をも教えて、京の評判になって いたことがよくわかる訳である。  足利義輝将軍、その名声を聞いて兵法を見んとし、 信綱は、丸目蔵人佐を討太刀として上覧に供した。そ して、義輝将軍から、次の感状をもらった。   上泉兵法古今無比類、可謂天下一、並丸目打太刀   是亦可為天下之重宝者也    三月十日      義輝                 上泉伊勢守殿                 丸目蔵人佐殿  義輝将軍は、先に、塚原卜伝を師として、剣を学ん .亀軒 だ人で、後、松永のために、室町御所に攻められるや 名刀七八本を抜き座右に置いて、取りかえ取りかえ、 斬って出るに近づく老がなかったという、当時上流社 会第一の使い手であった。それで、池田丹後が後方か ら槍で脚をはらって倒し、ようよう打ちとるのである が、この義輝が、卜伝隠退後、師がないので、信綱を 抱えようとしたが、信綱辞して神後伊豆守が、その師 となった。  こうして、信綱の名声が、京にかまびすしいのを、 時の帝、正親町天皇が聞こし召して、勅誌によって召 された。この時、信綱は、大和国にいたが、直ちに上 洛して、元亀二年七月三日、従四位下となって昇殿を 許され、剣法を天覧に供した。これが、日本に於ける 剣法最初の天覧である。  この信綱の花々しい名声を、単に、その名声のみと みるか、実力があったからとみるかP 他の武芸者が かくの如くにまで、京へ来ても、待遇されないのに、 信綱のみがこういう待遇をされているのは、何を語っ ているであろうかP 信綱以外に天下一の剣客がある と信じている人に聞いてみたい。  信綱の名声が、単なる名声のみでたく、天下第一の 人格と、技禰とを備えていたということは、次の話で 裏書きされるであろう。即ち、当時九州第一と称され た丸目蔵人佐が、信綱の名を聞いて、直ちに上洛し、 一試合をして、すぐその門に入ったことである。又、 当時の近畿第一の使い手と称されている柳生宗巌の中 条流を、手もなく打破っていることである。『武功雑 記』に日く、 「兵法つかひの上手に、上泉伊勢といふもの虎伯(疋 田文五郎小伯のこと)といふ弟子を召しつれ和州へ行 く。  時に、柳生氏、上方にて兵法無類の上手なり、幸ひ と思はれ、上泉を呼んで、木刀を所望し見て、心をか しく思ふて上泉と仕合を望む。上泉さらば、先づ虎伯 と遊ばせよと、再三辞退す。柳生即ち、虎伯とつかひ しに、虎伯、それにては悪ししとて三度まで柳生を打 つ。そこにて是非上泉と試合を致したしとて望む。上 泉辞退しかねて向ふといたや、其太刀にては取り申す とて取る。之によって柳生氏大いに驚き、上泉を三年 まで留置し、しんかげの秘伝を伝授すー」  どうであろう。この試合振りの見事さは、中条流の 名人として「兵法無類の上手なり」という柳生宗巌 (柳生流元祖)と試合をして「その太刀では打っぞ」と 云って打つーその格段の技禰の相違。宮本武蔵が、 佐々木小次郎と試合をするのに時間をおくらせ、小次 郎の得物を聞いて、それより長い木刀を作り、小次郎 にからかって怒らせ、そして、自分の鉢巻が斬り落さ れるような、間一髪の試合で勝っているのと、この柳 生と上泉の、段ちがいの試合と1試合の数の多いの やら、真剣なんかは誇るに足りない。いかに他の名人 よりも強かったかということが誇りである。九州第一 の丸目蔵人佐が、直ちに弟子入りをし、柳生がすぐ弟 子とたった信綱の技禰。これを見ると、天皇が御覧に なったことも当り前であるし、言継卿が、日記の中へ、 かいているのも当り前で、名実共に、日本一の剣客で あったのである。  この丸目蔵人佐が、信綱の許を辞して、九州へ戻っ てから、信綱へ出した手紙に対して、.信綱の与えた手 紙がある。その中に日く。 「伽、九州他流之兵法者皆以打払之由、満走之至不過 之候」  即ち、丸目の剣道が九州で無敵だったことを語って いる。丸目の剣道は、後に一流を立て「体捨流」と称 しているが島津では「御国一統之剣術」として、こと ごとくの士がこれをならった。 『大友興廃記』の中に「御長男五郎義鑑公-御近辺 に召し仕はる若侍を皆その頃流行る体捨流の弟子にな し」  という記事があって、島津のみでなく、大友家にも 流行っていたことが明かであるから、九州全体、体捨 流が風靡したらしく、信綱の手紙の「他流の兵法皆打 ち払うのよし」の事実であることが、証明されよう。  宮本武蔵が九州へ行って、二刀流が、これだけ、い やこの十分の一も流行ったであろうか。  叉、信綱の門人、疋田文五郎の疋田陰流は、唐津、 熊本、久留米の三藩には徳川時代三百年を通じて行わ れていた。武蔵の二刀流など何処で行われていたであ ろうか。  優れている剣道が残り、劣っている剣道の衰えるの は当り前である。二刀流が、いい剣道が、新陰流に勝 てるのにわざわざ二刀流を捨て、新陰流を学ぶ人はあ るまい。遂羅新当時の剣道碑盛期になっても、二刀 流の起らなかったのは、起ったって価値がないからで ある。信綱の新陰流はそのうち、各流に分れたが、い ずれも栄えて、今日まで来ている。この事実を、人々 は何と見るかP  私が、以上の事実を挙げ、叉以下の事実を書いて、 信綱を天下第一の剣客とするのに、異議ある人は、い つでも御対手をする。蓮の葉は、何枚も用意してあ る。 1肌上泉信綱 そ の 写 法  上泉信綱が、槍に達していたことを裏付けるもっと 確実な材料があるから、紹介しておく。    天罰起請文前書之事  新陰流之内上野勘平鍛錬之太刀並鑓等心持之処無免  許間錐敷相弟子他言有間敷者也   右之旨於偽者日本六十余州大小神祇八幡大菩薩、   春日大明神、愛宕山大権現殊氏神可蒙御罰者也.   伍起請請文如件                長岡中納言少輔    元和九年三月二十八日       孝之     上野勘平殿  立派に、新陰流の槍術というものがあった。他の武 芸者に槍剣両道の達人が、あるであろうか。  もう一つ、上泉信綱の優れていたーというよりも 宮本武蔵の二刀の稽古を、武蔵独特のように、二刀が 取入れられていることである。即ち『新陰流天狗書巻一 の中に図入を以って説明しているが、その中の「智羅 夫」と「大乱房」とは、大小二本の剣をもって試合さ」 していることである。これをもって見れば、二刀は、 必ずしも、武蔵の独創ではない。必要に応じては、左一 右に刀をもつこと位は、信綱だってちゃんと承知して. いたのである。  その上に、信綱は、軍学に達していた。彼の軍学の 師は小笠原宮内大輔氏隆であるが、これは信綱の一子 秀胤が剣道をもって立っ器でないので、その代りに、 秀胤へ伝えこれを上泉流の軍法と称した。  この上泉秀胤より、大戸民部直光へ、これが伝えら れているが、史上で有名な上泉流軍学で名を残してい る人は、井伊直政の家来岡本半助宣就である。大坂冬、 の陣の時に、井伊が真田丸へ攻めかかり、苦戦してい る時に、この半助が見事に働いた話は、有名なもので年 ある。だから『言継卿記』の中に、 「兵法、|軍配《ヤヤ》被相伝無比類」  と、ちゃんと、剣法と軍学を伝えたことを称めてい るが、剣槍二道に達した上に、軍法にも、一流を編出 している武人としての完全さは、誰か他に比較する人 があるであろうか。  さればこそ、上泉信綱の弟、上泉主水憲元は、兄ほ どでないのに、直江山城守のために、三千石で召し抱 えられたのである。主水は、山形攻めに戦死をするが 信綱の弟であるというだけで、三千石に抱えられたの と、宮本武蔵が三百石で抱えられたのと、ここの説明 の出来る人があるなら聞きたいものである。 そ の 人 格  信綱の人格については、武蔵の時に少し書いておい たが、日く、 「兵法は、人の助けにつかふにあらず、進退ここに谷 りて一生一度の用に立る為ならば、さのみ世間によく 見られたき事にあらず、たとへ、仕なしはやわらかに 上手と人には見らるる共、毛頭も、心の奥に正しから ざる所あらば、心のとはば如何答へん。仕なしは見苦 しくて初心のやうに見ゆるとも、火炎の内に飛び入、 磐石の下にしかれても滅せぬ心こそ、心と頼むあるぢ なれ」  と、初心者へ云っている。それに、歌が添えてあっ. て、      初めは我心にて迷ふものなり   吾と我、心の月の曇らして       余所の光を求めぬるかな      遊身にならず仕懸ること第一也   解もせず、言も得ざりし所をも       知らぬ物ぞと知るぞ知るたれ      敵の動きの未だ無之以前に、先に進む志      少しにてもあれば1云々   おのづから映ればうつるうつるとは       日もおもはず水も思はず   里はまだ降らざりけりと旅人の       いふに山路の雪はながるる  こういう歌が、その伝書の中に、数多ある。それを 一貫しているものは、謙遜の心である。その「陰流」 の名の条の下に説いておいた「内に蔵して濫りに発せ ぬ心」ということを、よく説いている。  最も、それを端的に説明している彼の言葉は「天錐 高据、地錐厚不荒踏」の一語である。信綱の人間は、 これで十分に説明されていると思う。天は高いから、 いくら傲然としていても、天の迷惑にはならぬが信綱、 は、鋸する心でいるのである。地は厚いから、信綱が いくら荒く踏んだって、びくともするものではない が、歩く時にさえ、音さえ立てぬ位にする。この心懸 けである。  塚原ト伝は、馬がどんなに素早く蹴っても、それを 避けるだけの早さは、十分にもっているが、横町へ廻 ってしまったし、信綱は一人の乱暴人を捕えるのに、 頭まで剃ったと、前に書いたが、この態度と、この 「天錐高露」とは十分に一致している。 「天高錐も距し、地厚しと難も踏み荒さず」この一語一 と武蔵の「独行道十九ヶ条」とを較べると、比較にな らぬ高い心境を、この言葉の中に見出すことができる。. 武蔵が、死際にたって、自らの道として「呉は恋愛の. 心なし」とか「財宝をためる心なし」とか、下らなす ぎることを得々として書いているのに対して、信綱の こうした彼の信仰している言葉は、どうであろう。  言継卿が激賞し、日本最初の剣法天覧となり、柳生 宗巌が直ちに師事し、丸目蔵人がすぐ入門したのは、 信綱の剣の精妙であったのと共に、この人格の力も具 っているであろう。宗巌と試合をして「それでは悪㎜ し」  と、云って打ち、 「それではとる」  とて、取っている態度と、武蔵が、吉岡家の年少な・ る又七郎をまで討取っている無情さとを較べると、こ. こに、人格の差の、可成り遠いということがわかる。 人に勝って、己の強さを誇示しようとする人間と、格 段の技禰の差をもっていて、大人が子供に教えるよう な態度と、ここに、比較にならぬ両者の差と、その腕 とがうかがえる。武蔵如きは総ての人に勝てるか、勝 てぬかわからぬから、試合をしては、必死の戦をした が、信綱如き境地、力量になると、ことごとく対手は 子供である。  中条流の剣法をもって、近畿第一と称された柳生宗 巌を子供扱いし(信綱の弟子の疋田文五郎が猶宗巌を 子供扱いにしている点を見なくてはならぬ。その疋田 の、信綱は師であるから、その強さの度が知れない) 九州第一の丸目蔵人を弟子入させ、松田織部介(松田 新陰流の流祖)奥山久賀斎、西一頓、小笠原源信斎、 針ヶ谷夕雲、小田切一雲、神谷伝心斎、幕屋大休、高 橋直翁、挾川新三郎と、剣豪を輩出させ、日本剣法の 中枢となって、今日にまで及んでいる上泉信綱を、武 蔵の下に置くなど、その誤りのいかに大きいかは、大 略わかったであろうとおもう。  こういう人であるから、木刀をもって、稽古するの は、危くて、本当に打てないから、竹刀を作った。「鞭 挽」である。今の竹刀とちがって、三四十に細かくわ った竹を皮の袋へ入れて、三尺三寸の長さにしたので ある。  当時のほかの剣法は、ことごとく木刀か、刃引の真 剣であるから、当ると疵をする。それで当てぬように 額の所へ一寸なり、二寸なりの手前で止めるのであ る。修練すると、これが、だんだん近くなって、止ま るようになるので、近ければ近いほど「よくつめた」 と云って称めたものである。初心の間は、型ばかりで 上手になってようようこれである。だから、本物に、 力をこめて、人を撲る稽古ができない。この不便さに 対して上泉信綱が「袋竹刀」を使い出したのである。 今日の竹刀の元祖で、この一点だけでも、その頭のよ さがわかる。  ほかの流が、人を斬ったり、殺したりしている時代 に、信綱は、これだけの発明をしたし、剣を学ぶのは 己の勇を誇るのではないという教訓の下に、例えば、     敬白起請文之事  一、新陰流不可交他流箏  一、無許条始参学太刀不可有他名事  一、対師匠不可有疎意事   天正十七年二月二十三日       秀次     疋田文五郎殿  と、残っているように、他流との試合を禁じた。勿 論、濫りに人命を損じ、下らなく命を捨てる馬鹿らし さを、信綱は、戒しめるためであった。  当時の乱世に、こうした覚悟、信条、哲学をもって いる人が他にあるであろうか。だからこそ、日本中に 新陰流が弘まり、末永く流派がつづいたので、本当の 剣術は、こうした哲人からでなくては生れない。五十 余にもなって、料理番を叩き倒した上に、その腕を折 るような無慈悲な人間の武蔵からは、決して、いい剣 法は生じない、武蔵一代にして終ったのは当り前であ るっ      新陰流目録  目録というものを知らない人のために、及び、新陰 流の組織を知るために、上泉信綱から、疋田文五郎に 伝えられた伝書を、左に記しておく。   新陰之流、猿飛目録     一、猿飛(陰流にもあり)     一、猿廻し(陰流と同一ならん)     一、小陰(以下も師伝のみたらん)     一、月影     一、浮船     一、浦波   新陰三学之巻     一、覧行(信綱の工夫ならん)     一、松風     一、花車     一、長短一味   一、徹底   一、磯波 新陰位詰之日録   一、高波   一、逆風   一、岩砕   一、残心   一、清月   一、眼勝 天狗書秘伝之巻   一、乱勝   一、鈎極   一、雲戴   一、電光 手留、曲勝、曲勢、手縛、乱勝 新陰流護頂 極意之巻   三光之利剣     新陰流紅葉   観念之巻   八所目着並に、先持後拍子之事   外之物謀略之巻    三十三ヶ条  この目録は、数種現在まで伝えられている。  現在の、武徳会流は、居合五本、型十本位であるが 新陰流は、可成りに種類が多い。これが、どういう技 巧かはわからないが、とにかく、これだけの種類の変 った剣術の型を、信綱は編出しているのである。殆ど 伝えられる物の無かった時代に、愛州小七郎からの剣 法を基礎として、ここまで、組織したという功績は、 剣法の祖と称して、少しも不当ではない。 その門人の傑物  信綱は、京都におったが、京都、大和などを、疋田 文五郎に任せておいて、己は、神後伊豆一人を供とし て、諸国を巡り、下総結城正勝へも剣を教えた。それ から、柳生へ戻ってきて、天正五年、柳生の荘で、病 奴してしまった。  弟主水が、三千石で召抱えられた信綱、もし、信綱 が秀次のいうまま、足利義輝のいうまま、仕えたら、 一万石以下ではなかったであろう。一代の名将、武田 信玄が、他家へ仕えるなら自分の許しを得てからにせ よ、と惜しんだ信綱。その信玄が死んでも、誰にも仕 え無いで、柳生で一生を、剣道を弘めるのに尽力して 死んだ信綱。ここにも、立派な人格の閃きがある。武 蔵が黒田に仕えんとして断られたのと、その卑しさ、 高さの比はどうであろう。  武蔵には、禄た門人一人さえ居たいが、信綱門下に は、いかに、傑出した人材が多いか。  神後伊豆ー義輝及ひ秀次への代稽古。  丸目蔵人佐-体捨流、肥後球磨郡八吉の人。相良 家へ仕え、卜伝に学び、九州第一と称せらる。信綱に 試合を乞う。信綱、袋竹刀を出すに、丸目あざ笑う。 立合って、再度破れ、三度目、丸目いらって、声もか けず打ちかかるを、信綱体に当て、丸目を倒す。丸 目、感じ入り門人となり、九州に帰りて後、九州体捨 流にて風靡す。寛永十一年九十三歳にて死す。  体捨、たい捨、大捨とかく。これには一説がある。 それは、丸目が九州へ戻っているうちに、信綱が死ん だので、その神妙剣以上の極意を譲づてもらえなかっ たのを口惜しがり大いに捨つと名づけたというのであ る。信じていいか、わるいかわからぬ。  松田織部介-戒重肥後守の臣。三好党にして信長 に亡ぽされた時、それが柳生の案内であった故をもっ て柳生を怨み、後日、宗巌のことを、信長に密訴し、 ために、宗巌所領を没収さる。後家康により回復し、 松田を捕え、斬る。これが、松田新陰流の始祖で、こ の人の主人、幕屋も、一流に達したが、幕屋新陰流と は、それのことである。「薬は外郎、剣術は幕屋」と 称されて、子守唄に唄っている達人はこの幕屋大休の ことである。  奥山休賀斎-奥平出羽守員久の七男、孫次郎定国 と称す。三河国奥の山明神に参じ、夢に太刀を会得 す。人呼んで奥の山休賀という、徳川家康の剣法の師 として、公の一字を頂き、奥平休賀斎公重と称し、三 階松の紋を許さる。剃髪して音寿斎、慶長六年、七十 七歳にて逝く。  疋田文五郎景兼-信綱の甥。家康、信綱に、仕官 をすすめし時、信綱辞し、疋田と、柳生をすすむ。家 康、柳生をとり、疋田秀次に仕う。秀次、疋田に、富 田流の名手、長谷川宗喜と試合せんことを望む。疋田 辞す。人々曰く「疋田憶せり」と。再三命ずれど「兵 法は遊戯に非ず」とて行たわず。  この疋田が、殺生関白の命をも奉ぜず、人々の批判 に耳をかさず、頑として、信綱の教えを守っているの は、中々えらいものである。秀次のことであるから、 怒ったであろうが、どういわれても動かぬところは、 尋常の人ではない。  慶長十年死す。池田家、寺沢家、黒田家に門人多し 後細川忠利に仕え、その流、明治初年まで、熊本、久 留米、唐沢にて行わる。  この外に、西一頓、那阿弥在一門がいるし、前に書 いた小笠原源信斎は高天神城主の弟で、家康に反し、 ために支那へまで逃れて行った人。支那から戻る時 「八寸のべ金の術」を発明し、疋田と立合って、疋田 を破った人で、この人が、新陰流の三代目をついだ人 である(二代Hは、奥平公重)。  四代目が、剣術を、十五流に亘って、研究し、遂に 新陰流を第一として、小笠原源信斎の門へ入った神谷 伝心斎頼春。六十七歳の時に、 「剣術の勝負は、外逆乱心の業である。剣術の根元は 心の非を切る所にある」  と悟って、直心陰流と、流名を改め、極意を「非切」 と称したが、この人も、よく信綱の心を得ている。  この門人に、三十三人の傑出したのがいたが、その 中から、高橋弾正左衛門重治が、統をつぎ、直心正統 流と称した。この人の、   兵法は立たざるさきの勝にして       身は松島の松の色かな  という歌は、流の極意を示したものとして有名であ る。同じ小笠原源信斎に針ヶ谷夕雲がいる。所謂「無 住心剣」の創始者で、ただ上段の手一手をしか教えな い。この人のことについては、詳しく紹介する折があ ろう。剣術は己を殺すか、人を殺すかの時にしか使わ ないのだから、上段に振りかぶって一打ちに、対手を 斬りさえすればいい。白分だけが助かろうとするから いろいろの技が必要にたるという理論の下に、ただ一・ 手、上段のみを稽古させた、  ある浪人が、先生の竹刀は鉄兜をも破るというが、 私が兜をつけるから、打って見なさいと、夕雲が断っ ても聞かぬので、一打ちすると、浪人は木の下まで歩 いて行って、そこで血を吐いた。こういう腕の人であ る。  以下、長沼国郷から、男谷下総守に至るまで、いか なる時代といえども、新陰流には、必ず名人が出てい る、しかも、これは、新陰流の正統のみで新陰から生 れた柳生流、その他の流儀に至っては無数にある。  いかに、新陰流が、優れた流であったかが、これで わかるであろう。  日本の剣道は、天真正伝神道流と、一刀流と、新陰 流とを、三大源流とするが、その中でも、新陰が優れ ている。この、多くの名人の輩出し、長く伝えられる だけの価値ある剣道を創出した上泉信綱を、以上の如 き事蹟によって、日本一と称するのは、研究不足のせ いであろうか。  私は、種々の剣客伝を渉猟し、剣法書を読み、公平 に考えて、宮本武蔵たど、信綱に比べると、二流の人 てあると信じるのである。信綱は、芝居にもならず、 講談にもならず、花々しい事蹟が無いからこそ、俗書 に残らず俗耳になじまず、人々は余りに知らないが、 武蔵以外の武人のことを調べずして、彼を日本一とす るが如きは、甚だしき不公平でもあり、不研究でもあ る。  以上の私の評論に対して、異議があるなら、いつで も論争を辞さない。私は、再度、中村孝也氏及び笹川 臨風氏という歴史の大家に対して、彼等の宮本武蔵日 本一論をやっつけて、挑戦しているが、一言の挨拶も ない。笹川氏の如きは伊藤痴遊氏に対しては、すぐ反 駁をしておられたが、私の信綱、武蔵比較論は、数ヶ 月を経るも、何の返答もない。改めて、ここに、もう 一度、挑戦しておく。私の小論がとるに足らぬものな ら、それでもいいから、両先生のとるに足る、武蔵日 本一論と、信綱否定論とを聞きたい。もし、私以上に 詳細な研究もしていないで、武蔵日本一説を説かれる なら、その非学者的態度に対して、反省をして頂きた い。歴史の大家にして、その研究不足を知らずに、平 然として偽説をとっておられるのは、甚だしく、世を 誤る物である。 剣法二題 寛永武道鑑  桜井半兵衛は、門弟に稽古をつけながら「何故、助 太刀を、このわしが、しなくてはならぬのか?」  と、その理由を、考えていた。  烈しく突き出して来る門弟の槍先を1流石に、修 練した神経で反射的に避けながら、声だけは大きく、 「とう」  と、懸けはしたが、何時ものような、鋭さが1門 弟が、 (病気かしら)  と、疑うまでに、無くなっていた。そして、羽目板 の所に立ったり、坐ったりしながら、唱き合ったり、 汗をふいたりしている門弟をみても、 (わしのことを噂しているのではないか)  とか、 (わしを、非難しているのでは、あるまいかしら)  とか、考えるようになった。そして、そうした疑い を、門弟にさえも持つようになった自分の心の卑しさ を、 (意気地無しがー)  と、自分で、叱りながら1然し、では、どうして いいのか、それは判らなかった。 (河合又五郎の妹の婿ゆえ、助太刀に出なくてはなら ぬ。何故かなら、縁も無い旗本が、あれだけ援助して いるのに、縁につながる者が、出ぬ筈は無い1尤も らしい言葉だ。然しlI又五郎の殺したのは、数馬の 弟の源太夫では無いかP弟の仇を討つーそういう 法は無い筈だ。もし荒木と、数馬とが、その法を無視 して、叉五郎を討つなら、濫りに、私闘を行った罪と して、処分されたくてはならぬし、この明白なことを 知りながら、助太刀に出たわしも処分されなくてはた らぬ。そうした場合、主君に対して、どうして、申訳 が立つかP)  美濃国、戸田左門氏鉄の、槍術指南役として、二百 石を頂いている半兵衛であった。  旗本と、池田との大争いとたって、池田公が、急死 し、叉五郎が、江戸を追われたと、世間へ噂の立った 時、家中の人々は、 「半兵衛が、助太刀に出るだろうか」 「そりゃ旗本に対しても、出ずばなるまい。他人の旗 本でさえ、あれまでにしたものを、助太刀にも出ずし て、むざむざ又五郎を討たれては、武士の一分が、立 たぬではないか?」  と云った。だが、氏鉄や、その外の、重臣は、 「濫りに出るべき場合ではない」  と、云ったし、家老は半兵衛を呼んで、 「あの事件が、ただの仇討とか、上意討とかなら、助 太刀に出ようと、出まいと、何んでも無いが、御老中 まで、持て余されて、池田公を、毒殺したとか、せん とかの噂さえ立っている事件だ。幕府が、こうして、 すっかり手を焼いているのに1無事に納めようとし ているのに、濫りに助太刀などに出て、ことを大きく しては、上に対して、恐れがある。いかなることが当 家へふりかかってくるか知らぬ。よいか、ここの分別 が大事ゆえ、家中の者が何と申そうと、助太刀などは 致さぬよう、とくと、申付けておくぞL と、申渡した。だが、半兵衛は、自分に対する、家 中の噂を聞くと、稽古の時にまで、考えなくてはなら なかった。 二  城中の、広庭の隅に設けてある稽古場へ行って、重 役の人々に、一手二手の稽古をつけて、夜詰の衆の溜 り前の廊下へかかってくると、 「荒木が、御前試合の中へ加わったというのはーそ んなにいい腕かのう」  一人が、腕組したまま、柱に兜りかかって大きい声 で話していた。半兵衛は、その言葉が、耳に入ると共 に、うるささと、軽い憤りとが起ってきた。 (家中の奴等は、わし一人を、いじめている)  と、いう風に感じた。そして、開いている襖から、 顔を出して、 「お揃いだな」  と、少し、蒼白くたった額をして、中へ入った。人 人は半兵衛を見上げて、暫く黙ったが、一人が半兵衛 が坐ると同時に、 「お聞きしたいが」  と、膝を向けた。 「何を〜」 「将軍家御前試合に、荒木又右衛門が加わったと申す が、何故、荒木の如き、田舎侍が、歴々の中へ加わっ たので御座ろうか? 是水軒にしても、一伝斎にして も、一心斎にしても、天下高名な剣客であるのに、郡 山藩の師範として、高々二百石位の荒木が、何故、こ の尊い試合に加えられたか、合点が行かぬ」 「腕が優れているからであろう」  と、一人が云った。半兵衛が、 「それも、そうだが、荒木は、柳生宗矩殿の弟子とし て、又右衛門という但馬守殿の通称を、譲られた位の 愛弟子ゆえとi今一つは、例の河合又五郎の一件に 助太刀をしてもおるし、一期の晴れの場所ゆえ、一生 の思い出として、荒木も出たかろうし、似馬殿も、出 したかったのであろう」 「成る程、そういう事情があるかもしれぬ。対手は、 宮本武蔵の悼八五郎だというが、これは使い手で御座 ろうか」 「武蔵が、好んで、養子にした者なら、申すに及ぶま い」 「では、勝負は?」 「それは判らぬ」 「二百石なら、貴殿も、二百石で、大した相違が、禄 高から申せば無い訳だが、矢張り、ちがうものかの。 甚だぶしつけだが、もし、荒木と立合えば、貴殿との 勝負は?」  半兵衛は、固い微笑をして、 「時の運」  と、一言云った。人々は、余りに、ぶしつけな質問 をしたのに、興をさまして黙っていると、半兵衛が、 「檎をとれば、大言たがら、合打ちにまでは勝負しよ う」  そう云うと、立上った。問うた者が、周章てて、 「桜井氏、御立腹なさらぬようP」  と、叫んだが、もう、半兵衛は廊へ出てしまってい た。 (同じ二百石。荒木と、わしとーだが、荒木は御前 試合に出て、剣士一代の晴れの勝負をしたし、わしは この田舎で、一生田舎武士の師範で朽ちるのだ)  そう思うと、堪らなく、不快に1歩いている左右 の家々も、樹々も、空気も1岐阜の一切が嫌になっ てきた。 (又五郎のことなど、どうでもよい。荒木と、わしと を較べて、わしがそんなに、劣っているか、どうか2 自慢をするのでは無いが、わしも、一流を究めている. つもりだ。荒木も、勿論達人であろうが、その技の差 は、紙一重-討つにしても、討たれるにしても、む ざと、負けぬだけの自信はある。又五郎に、助太刀す るとか、せんとかは、二の次の話だ。二百石と、二百 石。同じ石高で、一方は将軍の前に、その剣技を見せ ーわしはーわしは、その試合に選ばれもせぬに、 荒木と同じ禄を頂戴している-意地悪く見れは、殿 を欺いているものだ。禄盗人だ。よし、わしは荒木よ り、そんなに、腕が劣っているか、いないか、荒木と 勝負してみよう。武を人に教える者として、今の一言 は、聞きずてにならぬ。討たれたなら、それは、二百 石の腕もないのに、二百石を頂戴していた罰が当った のだ。討てばー?) '戸田の家中で、槍をとっては、霞の半兵衛と、紳名 されている桜井であった。 (討たれても、わしは、見苦しくは、負けまい。立派 に勝負して、御前試合へ出た者のみが強いか、出ぬ者 でも強いか1天下には、わし以外にも、こんな噂を されて、口惜しがっている師範役が、多いであろう。 その人々のためにも、わしは、叉五郎に助太刀してや ろう。いいや、助太刀をするのでは無い。荒木と勝負 をするのだ。同じ二百石同士の腕を競べるのだ)  もう暮れかかろうとする町の中を1冬の初めと て、金.華山から、山嵐の吹いてくる中を邸の方へ、急 いだ。 (妻が不潤だが、仕方が無い。武士の意地だ。これこ そ、ほんとうの、武士の意地だー人には云えぬ、半 兵衛一人だけの、だが、我慢のできぬ意地だ)  半兵衛の、頭の中は、熱を持っていた。我慢のしき れぬ、不快な力が、身体中に、温れてきていた。 (明朝にでも、立ちたい。一刻も、我慢がならぬ)  と、感じた。だが、邸の門が、黒々と見えると共に (女房が、驚くであろうな)  と、思って、 のを感じた。 胸の中に、 三 固くつかえてくる物のある  女房の、里恵は、黄昏近いほの明りの縁側に出て、 何か縫物をしていた。玄関に、夫を出迎える召使の声 を聞いて、縫物を、押入れへ入れて、廊下へ出ようと すると、もうそこに、夫の姿があった。 「お帰り遊ばしませ」  里恵は、こう云って、ちらっと夫の顔を見たが、夫 の表情は、いつもの日と、同じようであった。 (今日もよかった)  里恵は、夫の性質を知っているだけに、何時、助太 刀に立とうと云い出すか知れないのを恐れもし、諦ら めてもいた。諦らめ切れぬ思いを、諦らめようとして 夫の周開に立った噂を聞いた日から、半兵衛と同じよ うにIlいいや、半兵衛以上に、心の中で、夫と別れ る時のことを考えては、苦しんでいた。  その別れは、生別であり、死別であった。戸田の家 中の使い手として、海道にも響いている夫が、又五郎 の妹婿であるというだけで、1自分につながる縁と いうだけで、生死の判らぬ旅へ出てー。  里恵は、又五郎を兄としていたが、好ましい兄だと は、思っていなかった。里恵にとって、兄と夫との比 較は、他人と、自分との比較と同じようなものであっ た。ただ一人の男の子として、父母に可愛がられてい た我儘な兄、三人の女姉妹の中の子として、一番誰よ りも、うとんぜられていて、早く出て行け、と云わん ばかりにして、半兵衛の所へ嫁がされた記憶。  いろいろのことを想い出しても、女姉妹同士には、 いくらかの親しみを感じたが、兄の又五郎には、何も 感じなかったーというよりも、源太夫を殺して逃げ た、刀の鞘を置忘れて逃げた、という話を聞いた時に は、夫の前で、口も利けなかった。世問の夫なら、 「やくざの兄だの」  と、不機嫌な顔の一つもするところを、半兵衛は、 「舟遊びに参ろうか」  と、里恵の心を察して、気晴しに連れて行って、何 一つ、又五郎のことを口にしなかった夫。  その夫が兄のために、助太刀をしなくてはならぬ ーと、家中の人々の噂は、里恵に、二重の苦しみを 与えた。夫と別れる悲しさ、そうして、そんな兄のた めに、そんなことをしなくてはならぬ侍の義理と、又 五郎の妹という苦しさ。 (きっと、夫は、助太刀に行くであろう)  里恵は、 (自分にからまる義理Plそれは、どんなことP 自分は兄を兄と思っていないし、助太刀どころか、兄 の首を討って、夫の手柄になるたら、兄を討ってもい い、とさえ考えているのに、その妹に、義理が、から まるとは? 妾は、そんな義理など、少しも考えてい たいのにーそんなことのために、夫が妾へ、義理を 立てるP それは、世問体もあろうが1世間体、武 士の義理。そんなものが、そんなものが)  里恵は、兄の叉五郎が、好ましい男たら、自分から 夫に、助太刀をしてやって下さいと、云えたが、それ さえ云いたくない兄への反感。それに、その妹への義 理立てをしなくてはならぬという世間1。 (何という、訳の判らない世間であろう?)  里恵は、そう考えていたがーだが、武士の娘であ った。いや、半兵衛の女房であった。彼女は、家中に 対する夫の面目のために、いつでも、発足できるよう 新しい旅支度を調えながらーだが、泣いていた。 四 「里恵」  そう云った夫の眼、夫の口調、それから、その正し い坐り方に、里恵は、 (△7日はP)  と、そう思っただけで、もう胸の中が、固くなって しまった。 「又五郎殿の、助太刀に出る」  里恵は傭向いた。 「兼々、家中の噂を存じておろう。然し、わしは、噂 によって、噂に押されて、嫌々ながら、助太刀に出る のでは無い。形は、助太刀であるが、心は、荒木又右 衛門たる者と一手合したいからじゃ。加前にだけは、 打開けておくが、荒木も、郡山で二百石、わしも二百 石。その荒木が、今度存じておろう。将軍家の御前試 合に出た。同じ二百石でありながら、将軍家の前へ出 られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるかっ-・ それを天下に示したい。又五郎への助太刀は、士道の 表向の意地立てだけだ、わしは気が進まぬし、断わる 口実は立派にある。ただ、形だけのことで、わしは出 たくも無いのに、家中の虫けらに、評判されたからと て出て行くほどの小心者でも無い。然し、同じ二百石 でも、御前試合へ出る二百石と、出ない二百石とは、 格段の相違があろうと云われたのは心外だ。殿に対し て、わしは、わしの値打を示さぬと、二度と、この二 百石は頂戴しかねる。それに、今出ぬと、半兵衛め、 あれ見よ。荒木が御前試合に出るくらい強いから、同 じ二百石取りでありながら、怯じ気がついて出ないの であろうと云われるのも、無念だ。わしからすすんで ー誰か、何と申そうとも、今度は出る。覚悟をして くれL  里恵は、すぐ、涙の落ちそうにたる眼を伏せたま ま、黙って立上ると、押入れの襖を開けた。そして、 一包みの物を持ち出してきて、 「旅支度でござります」  と、いうと、はらはらと、涙が落ちた。 「兄への助太刀のためと仰っしゃれば、一度はお止め 致す所存でござりました。たれど、妾の覚悟を示すた めとしては、これ、この通り、ちゃんとー」  と、云って、風呂敷を開くと、合羽、脚絆、道中服 が揃えてあった。 「いつ1御出立になりますか、と、そればかり、毎 日毎日1」  半兵衛は、妻の涙を、じっと、見つめていた。 「お帰りの時のお顔色、お出ましの時のお顔色、それ ばかりを見ておりまして、御留守の間には、旅支度を 只今も、これにて、腹巻を縫うておりましたが、未練 ながら、これが、今生での、加別れになるかと思いま すと、生きているのも果敢なく覚えますが、然し、武 士の妻として、いつでも、御出立出来るように、用意 はI」  と云って、真綿入りの肌禰神、差子の股引、それか ら立って行って、腹巻に、お守札の縫い込んだのを出 してきて、 「首尾よく、荒木に、お打勝ち下されますようi叉 又l」  里恵の声は顛えて、屑は痙簗していた。 「時の運にて、御不利になりましょうと、背に傷を受 けず、御立派にI」  と、まで言うと、しゃくり上げて、袖の中へ、顔を 包んでしまった。離れ難い、愛着の心を、武士の妻と して、立派に処置している若い里恵の泣いている姿を みると、半兵衛は何故かしら、又五郎が憎くて、耐ら なくなってきた。 「己が、人殺しをしておいて、己の命を助かりたさに この罪も無い妹を、こんな目に逢せ、わしをも、生死 の境に置いてlI」  と、思うと、明かに、形の上に於て助けに行!、又五 郎であるのに、心の中では軽蔑し、憤った。そして、 (わしは、わしのために、行くのだ。叉五郎のために では無いぞ。誰が、汝等如き、卑怯者を、援けるもの か)  と、思った。  いつ、どこで、敵に逢い、 討つか、討たれるか判ら ない夫の身の上であった。 五   仏壇には、いつも、灯が新しく、そして、蔭膳が美  しくーただ、その中に一つ、気味の悪いのは、薄絹   の上の紙の中にある、髪の切ったものであった。   「御家様、内山様が、お見えなされました」   「まー」    里恵は、家老の来訪と聞いて、周章てて、客間の用  意をさせていると、   「いや、かもうな、かもうな」    と、もう廊下に声がして、内山が、入ってきた。そ   して、   「おお」    と、笑った。里恵が、両手を突いて、挨拶しかける   と、   「忙がしいゆえ、そのまま、そのまま」    と、云って、立ったままで、庭を見ながら、   「よい話を、知らせにきた。実はの」   「はい」    手を突いたまま、顔を上げると、 「城下へ、荒木又右衛門が、数馬同道で、参ったのじ ゃ」 「ええ?」  里恵は、顔色をかえた。 「茶店で、或は、宿で、いろいろと、半兵衛のことを 聞きただして、すぐ、発足したらしいが、宿の者の話 によると、余程、荒木も、半兵衛の槍を、恐れている らしいのじゃ。繰返し、繰返し、槍の長さとか、穂の 長さとか、得手は、管槍か、素槍か、とか、いろいろ 聞いて参ったそうだ。江戸よりの下り道であろう。半 兵衛は、名代の腕ゆえ、荒木も、穿繋に参ったもので あろうが、御前試合にて、宮本八五郎と、合打ちにな ったほどの勇士が、心得とは申しながら、半兵衛のこ とを、訊ねに参ったとは、武士の誉れじゃ。半兵衛が おったなら、一試合させるものを、周章てて、立去っ たと申すがー」 「荒木様と、どうして、お判りに」 「数馬が、古今の美男であるし、すぐ、判って、あと を追うたが、もう、足が届かなんだ。荒木ほどの者が 用心しておるのだから、半兵衛も、名誉なことじや。 一人で、淋しかろうが、落胆せずに、待っておるがよ い。これだけじゃ」 「あの、お茶一つ」  内山の後姿へ、声をかけたが、内山は、 「又、又」  と、手をあげて、どんどん廊下を、玄関へ出てしま った。里恵は、式台の上で内山を見送ってしまうと、 (荒木ほどの者が、とーそれは、明かに、夫より、 荒木を豪いと考えている言葉だ。夫は、それを憤って 出て行ったのだがー)  と、思うと、里恵は、家老に腹が立ってきた。 (いいことを知らせるとは、夫よりも、荒木がえら い、ということを知らせることでは御座りませぬー でも、荒木様は夫のことを、訊ねにー)  と、夫の噂を聞いて、大敵とおもい、様子を尋ねに 来た又右衛門のことを考えると、夫を殺す敵だと、思 うよりも、夫を理解し、知っていてくれる人だと感じ て、何かしら、親しみさえ感じてきた。  又五郎は、奈良手貝、河合甚左衛門の仮宅に、身を 寄せていた。  江戸から、広島へ、広島から、大阪、奈良へと、己 の身体を匿すのに忙がしかった又五郎は、すっかり、 陽に灼けて、旅婁れがしていた。半兵衛には、それが 可哀そうに見えるよりも、意気地無しのように見え た。そして、それは、又五郎の叔父の、甚左衛門も、 同じことであった。甚左衛門は、半兵衛が、知行を捨 てて、加勢に来てくれたのを見て、又五郎に、 「貴様、のめのめして逃げ廻るから、皆が、迷惑する」  と、笑いながら云った。そして、 「旗本への手前-旗本か、あれだけ援けて、かばっ てくれた手前、易々と、池田の者へ首は渡せんから、 匿くれるのも尤もだが、然し、逃げ廻ったのは、面白 うない。河合又五郎宿泊と、立札でも建てて、もし、 池田の者でも、斬り込んだなら、よし、討たれるにせ よ、一働き働いて死ぬなら、武名は、後世に残るが、 此奴には、その覚悟がない」 「死ぬよりは、生きている方が、おもしろいからな あ。又五郎。近頃の若い士は、武士の面目ということ よりも、金と、女と、長生きということの方を尊ぶよ うになった。時勢らしい」  と、半兵衛が笑った。そして、 「河合殿と、荒木とは、御同藩だが、荒木は、どうい う腕、人物1」 「彼奴、但馬のお気に入りで、今度も、名誉な試合に 出たが、腕は、さのみ、わしに優っておろうとは思わ ぬ。もし、今にも彼奴と逢えば、勝負は時の運と申そ うかP 紙一重と申そうか。必ず討つとも言えぬし、 必ず討たれるとも申せぬ。人物はーまず、上出来か のう。わしよりは、当世であろうか、わしは、此奴が 只一人で、江戸を追われたと聞いた時、すぐ、助太刀 をしてやろうと、殿へ御暇を頂戴したが、何を考えた か、荒木という奴は、余程経たんと、お暇をとらなか った。あの間考えているだけ、わしより、分別がある のかのう。あはははは」  又五郎が、半兵衛に、 「叔父は、古武士気質と申そうか、一徹者で、何か荒 木の計にかかるように思えてならん。郡山の藩中の人 間に聞いても、腕は、叔父も荒木も互角だが、人気は 荒木の方が高い。その高いわけは、稽古は上手下手の 手加減がある。然し、叔父には、ただ、荒稽古だけだ とー」 「それでよいのだ。わしの荒稽古一つ受けられん奴が 一朝事のあった時、馬前の役に立つものか? 荒木の 稽古で、下手が少々上達したとて、そんな稽古の剣術 は、真剣の時の物の役には立たぬ、剣術とは、徒らに 竹刀の末の技では無いぞ。いざと言えば、火水の中へ も飛び込む肚を憧らえるものだ。お前など、その肚が 一番に出来とらんぞ」  半兵衛は、荒木の稽古振りが判るような気がした。 甚左衛門は、己の腕をたのんで、敵を知ろうとしない が、荒木は、己を知り、敵をも知ろうとしていると、 考えた。 「半兵衛が来た上は、こんなところに、手間どってい る必要は無い。早々に、江戸へ立とう。二百石の格式 通り、弓、槍を立てて、いつ荒木と出逢ってもよいよ うにして、白昼堂々と江戸へ入ろう。よし、討っても 討たれても、それが、武士らしい態度だ。ならば、旗 でも立てて、河合又五郎一行と書きたいが、そうもな らんでのう、半兵衛」  甚左衛門は、又、大きく笑った。  馬は、霜柱を、さくさく砕いて、白い鼻煙を、 長く吹いていた。長田橋の仮橋の上へきた時、 七 「半兵衛、待った、待った」  と、甚左衛門が、後方から、叫んだ。半兵衛が振向 くと、 「寒うてならんから、一枚重ねる」  と、声をかけて、馬を停めた。半兵衛は頷いたが、 (油断をしてはいけないのに)  と、思った。寒い朝であったから、誰も厚着をして いた。その上へ叉重ねては、いざという時に働けま い、と思ったが、然し、荒木の一行が、昨日から見え なかったから、半兵衛も、 (寒いのは、耐えきれまい。河合も、もう四十すぎだ からー)  と、思って、正面の上野の町やら、来た方の山、出 を、見廻していた。 (武芸も四十を越すと、少し下り坂になるかな。寒さ が、あれだけ身にこたえるだけ、若い時よりも衰えた のかーいいや、修業一つだろう。六十になっても、 袷一枚でいる人さえあるから)  半兵衛は、甚左衛門が相当の腕の人だとは思ってい たが、その頭、その肚に於て、荒木の方が、優れてい ると、判断していた。そして、 (わしはわし一人で戦うのだ。誰もあてにはしない ぞ)  と、思うと、甚左の重ね着に、批評を加えたのも、 いけないように思えた。 (他人が、何をしようが、わしは、わし一人だ)  そう思って、馬をそろそろ歩かせかけると、 「お待たせ申した」  と、甚左が、叫んだ。そして、 「齢をとると、寒さだけには、耐えきれん」  と、云った。  一行の一番先には、大阪の町人、又五郎の妹婿虎屋 五左衛門が馬で、その次に、半兵衛が、槍持と、下人 と、小姓と三人を従えてつづき、その後方に又五郎 が、供三人、最後に、甚左衛門が、同じく供三人をつ れて、槍を立て、飾鉄砲に、弓矢をもち、それぞれそ の知行の格式で1所謂、槍一筋の家柄をみせて、上 野の町小田町へかかってきた。  突当りが、高い石垣で、その上に、家があった。右 へは、すぐ塔世坂の急な坂路が町へつづき、左は、細 い小路を、城の裏手へ出る道であった。  そして、その三つ股道の左右に、鍵屋と、万屋と、 二軒の茶店が、角店として、旅人を送り迎えしてい た。(右角が、鎌屋であったという説もある。今そこ には、新しい数馬茶店というのが出来ている) 八  半兵衛が万屋の角を、右へ曲ると同時に、左側の石 垣の所の木の後ろに立っていた士が、走り出してき た。白い鉢巻をしめて、袴立ちをとっていた。半兵衛 が、 (さては)  と思った時、後方に、鋭い気合がかかって、同時に うわっと、乱れ立った人声が、湧き起った。 「喜助っ」  と、半兵衛は、手を延して、槍持から、槍を取ろう とした。そして、槍持が、 「はい」  と、答えて、槍を半兵衛の方へ、差出そうとした刹 那、 「うぬっ」  その駆け出してきた男が、槍持へ、切りかかった。 槍持が、その刀を避けたはずみ、槍の柄は、半兵衛の 手から、遠去かった。 「喜助」  半兵衛が、こう叫びつつ、後方へ、横へ限を配ると 右側の立木の間から、走ってきた士が、半兵衛へ刀を 向けて、睨みたがら、じりじり迫ったので、半兵衛 は、槍に心を取られたまま、馬から飛び降りて、刀を 抜くと、槍持に、 「槍を、早く」  と、叫びつつ、迫る士に、刀を構えた。そして、 (荒木は、甚左と戦っているのであろう。甚左も、む ざむざと討たれはすまい。然し、荒木を甚左に討たせ たくは無い、わしが強いか、荒木が強いか、わしは、 その勝負のために、出てきたのだ)  半兵衛は、早く、この下人を斬って、荒木と勝負し たいと思った。それで、 「下郎、推参なっ」  と、叫ぶと、じりじり刻んで行った。刀をとっても 対手とは、段ちがいであった。対手は、真赤な顔をし て、唇を噛んてーだが、懸声もできないで、じりじ り退りながら、i然し、必死の一撃を入れようと、 刀の尖の上りかけた隙、半兵衛は、 「や、やっ」  打込んで、避けさせて、すぐ二の太刀に、肩を斬る と、対手は、よろめいて、三四尺も退った。半兵衛は (槍だ。槍をとらぬと、太刀討はできない、槍だ。槍 をとってー)  甚左の方では、少しも、物音がしなくなってしまっ た。 (勝負がついたのか、それともー)  と、思いながら、槍持の方を見ると、もう見物人が 坂の上に、木の後方に、石垣の上に、真黒になってい た。そして、槍持は、一生懸命に、槍を振廻して、半 兵衛の方へ渡そうと、対手の隙をねらっていたが、対 手は、刀で、槍を叩いたり、避けて、飛び込もうとす る様子をしたりして、槍持と、半兵衛との間を、妨げ ていた。半兵衛は、 (荒木が、わしの槍を恐れて、わしに槍をとらすなと 命じたのだ)  と、判断した。 「卑怯者っ」  と、後方で声がした。振向くと、肩を切られて、も う、蒼白になって、尖が、ややもすると下り勝ちにな ってくるのを耐えながら、半兵衛に、 「逃げるか」  と、叫んで睨みつけた。そして立ち留って肩で呼吸 をした。 (可哀そうにーこの二人が、わしを押えにかかった のだ。荒木は、上手に作戦をした。わしは、荒木の作 戦にかかったのだ。今ここへ、荒木が来たなら、わし は、わしの不得手な刀で、闘わたくてはならぬ。槍 だ、槍で無いとー)  殿の名誉のために、妻の志のため、自分の武道のた めー (槍をとらぬとー)  と、半兵衛は、可哀そうだとおもったが、 「馬鹿っ」  と、叫んで、一刀、斬下ろしておいて、すぐ槍持と 戦っている士へ、 「除かぬかっ」  と叫びつつ、血刀を振り上げた。その士が、半兵衛 の方へ刀をつけ、槍持が、 「旦那様」と、叫んで、槍の柄を延した時、 「半兵衛」  声と共に、大きい足音がした。 (荒木だ)  と、思うと、半兵衛は、槍の方へ、手を延した。だ が、又、槍は、ほんの手先の所へ来たままで、遠去か って、槍持の手の中で、必死に振り廻されていた。 「荒木だ」  少し、蒼白めた顔をして、上背のある荒木が、長い 厚い刀を構えていた。半兵衛より、ずっと高くて、が っしりしていた。羽織もたく、鎖鉢巻をして、十分に 軽い身なりであった。そしてその唇に、微かな余裕の 笑をみせ、その呼吸は落ちつき、その構は十分に、そ の足は正確にー、半兵衛は、 (天晴れだ)  と、感じると共に、槍をもって立合えないのが、腸 の底から悲憤して、渉み上ってきた。 (何故、この期に、槍がとれない? 負けても1勝 を譲ってもいいから、槍で、十分の、心ゆくまでの勝 負がしたい。この大勢の見物の前で、同じ二百石同士 が1御前試合へ出た荒木と、出ぬわしと、どっちが 鮮かか、どっちが立派な態度か? わしが、槍術の家 の者として、せめて、最後の働きには、槍で十分に試 合ってみたい、槍かー)  半兵衛は、自分に槍をとらさぬよう計った荒木に、 (どうだ、噂を聞いて、恐れたのだろう)  と、云いたかったが、それは、口にすべきことでな かった。と同時に、自分の得手を封じて、不得手な刀 で勝負しようとしている荒木の、武士らしくない、正 直でない、策略のある態度に、怒りが生じてきた。 (この見物人は、そんなことを知らんであろう。わし が、美濃の桜井半兵衛であることを知らんであろう。 矢張り、剣術の者だと考えているだろう。それはちが うぞ。わしは、槍さえとれば、荒木に五分の勝負は、 できるんだ。誰か荒木に、半兵衛に槍をやれ。荒木卑 怯だぞ、云ってくれるものは無いかしらーいいや、 そんなことを考えるのは、卑怯だ。わしの不得手な太 刀で、どれだけ、荒木と戦えるかP 勝敗は別として わしが、どれだけ立派に戦ったか。それでいいのだ。 わしの、立派に戦ったことが、国の人へ判るなら、半 兵衛が、あの時、槍さえもっていたなら、荒木と互角 だと、云ってくれるだろう。槍持が、荒木の計にのっ たのは、わしの運のつきるところだ。わしは、太刀 で、立派に荒木と戦って、立派に、負けてやろうっ武 士の重んじるところは、勝敗ではない。勝負は末だ。 勝負をしている時の態度だ)  半兵衛は、青眼につけて、荒木と向い合った。そし て、そのまま、お互に動かなかった。  どの位経ったか、半兵衛には、判らなかった。呼吸 が苦しくなり、汗が滲んできた。そして、荒木も、も う微笑を消して、眼を異様に光らせてーそれは、可 成りに、切迫している表情であった。 (わしは、わしの不得手な太刀打でも、これまでに試 合した。もうこれで十分だ。この大勢の見物の中に は、心ある人も、眼の開いた人もあろう。誰かがこの ことを、国の人々へ伝えてくれるであろう。それでい い。わしが、得手の槍で負けたのよりも、不得手な刀 で、ここまで戦った方が、却っていいかも知れない)  そう考えた時、一足退った。そして、 (しまった)  と、心の中で叫んだ。何かの上へ、踵がのって滑っ たからであった。そして、無意識に、荒木が、打込ん でくるであろう刀を防ごうとした時、身体が崩れてよ ろめいた。果して、荒木は、この一髪の機を握んで打 ち込んできた。半兵衛は、鍵屋の横の物置の中へうん とつんである枯松葉の中へ、どっと、倒れてしまっ た。 九 身体中が、疹痛に灼けつくようであった。咽喉が干 いて全身に熱が出て、気が時々、遠くたった。 手当をし、介抱し、薬をつけ、飲ましてくれる人の 顔がぽんやりとしか、見えなかった。そして半兵衛の 頭も、どんよりとしていて、時々自分が槍で、荒木と 戦っているのが見えた。 (立派に戦ったぞ。槍てなくとも、立派にーあの枯 松葉で、滑りさえしなかったら、勝負は、もっと、長 くなったのだ。俺には、二度不運がつづいた。だが、 十分に戦ったぞ。このことを、国許ヘー手紙を書き たいが、誰か1話でもいいから、誰かー)  ぽんやりしてくる頭の中で、そんなことを、思いな がら、 「わしは、卑怯者でないとー」  一人が、首を延して、口許へ耳を寄せた。 「国許へ-立派に戦ったとー」  その人が、頷いた。 「背の傷は-倒れてからー斬られた」  「全く、あいつ卑怯なー」  と、その人が答えた。  「国許へ、半兵衛は、荒木と太刀打をしたが、立派に 戦ったとi」 「しかと申しますぞ。気を落さずに」 「妻にも、半兵衛は、荒木に劣っていなかったとー一  そう云いながら、もう、その人の顔が、だんだんぼ んやりとしか見えなくなってきた。 (わしは、立派に戦った。見ていた人が知ってくれよ う。一人が荒木、一人が桜井と、後で判ったなら、知 っている者は、わしを称めてくれるだろう。御前試合 へ出ても、出なくても、心懸けある士は同じだとー 妻に一目-家中の者にも詳しく話をしたいがーこ この人は、伝えてくれるかしらi又五郎の助太刀だ と思って、悪く云うかーいいや、志のある人には判 るだろう)  そう思っているうちに、耳も聞えなくなってきた。 (わしは、もう駄目かも知れん。然し、士として、武 術家として、立派に働きもしたし、考えもした。誰か がーいいや、妻だけでも、あいつだけは、知ってく れる。それでもいいー)  半兵衛は、 灰色の中に、 自分と妻と二人きりのところを見た。  附記 伊賀越の仇討は、荒木方四人、又五郎方士分、 小者ともで、合せて十一人と、藤堂家の公文書『累世記 事』にも残っているし、その外俗書にも、同じである が、一竜斎貞山(二代目)が附人を三十六人にして、こ れが当って以来、すっかり、この方が一般的になってし まった。この桜井半兵衛の如き、二十三歳で、立派な武 士だが、本当に紹介されていないのは、遺憾である。こ の時荒木が斬ったのは、河合甚左衛門と、この桜井半兵 衛との二人だけである。 剣 戟 八 景 最初の心理 俺は1直木三十郎植村の宗一。いい名だ。 1少し、おかしいかも知れぬ。しかし、我慢していると、 だんだんそうでもなくなってくる。  剣法を修業すること、三年、日本の各流、二百八十 余派を究めつくした-直木三十郎、その試合話だ。  徳川家康は、自分で槍をとっても強かったが、それ でも、戦が始まると、すぐ、がたがた歯が合わぬくら いに震えてくるという、1それを人に見せまいと、 いつも、爪を噛んでいたが、これが習慣になって、一 生癒らなかったという話がある。  俺ほどになっても、矢張り、胴顛いがくる。対手の 刀の長さも判るし、対手との距離も計れるし、二つの 刀尖の間隔も見えるー1がつまり、真剣の度数を踏ん で、十分に場馴れているが、それでいて、膝が顧えて くる。  最初の真剣試合の時には、どう斬ったか、どう蝶け たか、それは全く、自分の意志で、自分を働かしてい るのではなかった。逆上してしまって、対手の眼も、 刀も、拳もごっちゃに瞳の中へ乱入してきて、どう、 冷静になろうとしても成れなかった。  対手を斬って、一息つくと、咽喉が干いて、からか らに、膝頭が曲らないし、手の指は柄から延びないし 耳鳴りはしているし、頭はぽんやりしていると、平常 の修業が、何の役にも立たない、と思った。  然し、その後、幾度も人を斬ってみると、自分を動 かしているものは、平常の修業の外に何もたいという ことが判った。度胸がよく、死を恐れず、十分に修業 していたなら、勝てぬかも知れぬが、負けはしない、 自分も斬られる代りに、必ず、対手も殺すということ を考えて以来、自信がついた。それでも額えるが、緊 張した時の生理的現象で、これは仕方がない。 呼吸と気合  一口に「呼吸を計って」と、手軽く、取計らうが、 これが十分に判らぬと、一人前ではない。息を引きな がら、斬り込めるものか、斬り込めぬものかP 角力、 柔道、すべて、肉体的飛躍に経験のある人にはすぐ判 ることだろう。十分に息を吸って加いて、それを吐き ながら打ち込む。  手も、脚も、腰、この呼吸と協同一致して動作をし ないと、すぐ破られる。敵を視る時、眼、刀尖、肩、 胸、口と、これだけが一つの目標として、眼界の中に 入っている。これが、どれだけ一致し、どれだけ隙が ないかP それを知ることが、敵情偵察で、これを呼 吸を計るというので、息だけのことではない。  いいかえると、その協同動作の緊張が、頂点に達す ると、いわゆる「気合に満ち」てくるのであって、一 点に集中された神経は、常時以上の作用を示してく る。  こっちからも放射していようが対手から何んとも知 れぬ力が、皮膚だけへでなく、内臓へ、脳髄へ、ぐん ぐん圧迫してくる。もし、何か、物理的にこの力を計一 算する器械があったなら、放射力として、素晴らしい 高度なものにちがいない。  この緊張が、二人の間に闘争している内に、生理的 変化をおこして、蒼白になり、いわゆる「気合負け」 になることもあるが、大抵は、生理的に我慢できたく なるーということは、完全に諸動作が一致して、緊 張した時、それは、 「えいっ」とか、 一とう」  とか、いう懸声になって放出してくる。烈しい気合 は、内臓へ、ぴいんと、響く位の力をもっている。人 問の声でなく、絶対音響の一種類だ。道場剣術では、 こんな凄じさはない。真剣の時のこの呪号は十町位へ 響き渡ることがある。無形の砲弾だ。素晴らしい振幅 をもつ音響だ、精神的爆弾の炸裂だ。 第六感的な  凄い眼1それは、物を見る眼ではなくなってしま う。一種の殺人光線を放射する穴だ。それから、自分 の意志などは、何の役にも立たない。迷わず、憂えず 悲しまず、惑わず、疑わず、という心得があるが、無- 念無想、柳生流でいう西江水の極意だ。西海の水の如 く、止まらず、流れず、変化して自在1。  こういうと、神秘的にたって瓢々としてくるが、仕 事に熱中すると、誰でも、ぼんやりしている時より、 素晴らしい能力が発揮されてくるように、死を賭して 相対していると、眼も、肌も、声も、普通の時とはち がった作用をして来る。  眼に見えず、耳に聞えないのに、ちゃんと、敵の動 きが判るように1直木三十郎ほどになるとーなっ てくる。だが、その差は、一瞬、紙一枚だ。  見えた、それ動け、と、眼から頭へ行って、頭から 命令しているようでは、いつでも斬られるにきまって いる。意識しない意志と、判断との働きで、平素の訓 練は、十分、適切に処置してくれる。  これは、説得しても判らない。白刃の下で死を賭し て見なければーそれも、そこいらの喧嘩で刃物を振 りまわすのとちがって、十分の礼儀と、廉恥とをもっ て、決闘してみると、いかなる仕事よりも、死を賭し ているだけに、緊張し、緊張し切った人間は、想像外 の働きをするということが判る。  然し、これは俺のような名人の境地でも、中々ここ まで到達できるものでない。動いた。進んできた。負 ける。女1というように雑念が、往来してーそれ が九十九パーセソトで、それでは人を満足には斬れな いし、剣の妙諦は判りっこない。 第 の殺人  対手は、一刀流だった。俺は、どの程度の腕か、そ いつが、刀を抜く時に、もう判っていた。早く抜かぬ と、斬られるという風に、あわてて抜いたから、 (馬鹿め、あったら、命をー)  と、思って、繰り形を押えていると、 「いざ」  と、一生懸命の声で、余裕を見せようと、叫んだ。 俺は黙ってその男の瞳を見つめて立っていた。  俺の落着と、気合に、だんだん苛立ち、掻乱されて きた。対手は、顔を赤くしながら、じりじり進んでき たが、 「ええっ」  と、叫ぶと、跳躍のフラヅシュだ。水の影の如く、 閃いてくる、その一瞬の間、 「居合いーっ」  と、叫んだ。俺の声は、猛獣の鋭利を含んでいた。 どぼっ、と、音がすると同時に、刃から掌へ響いてく る皮を斬った手答え。次の瞬間には返り血を蝶けるた め、一歩右手へ飛びのきつつ、脇構えに1対手をみ るとー  その苦痛に剥出した眼球、開いた口、最後の全身的 努力をして、倒れるのを支えようとする全身の歪み、 落ちようとする刀を、離すまいとする、武士的努力、 着物の裂口から内臓の圧下によって、ずるずる押出さ, れてきた大腸が、灰色にじりじりとはみ出してきた。 一刀で致命傷だ。  みるみる顔が、暗灰色に変った。眼が、半眼になっ た。屑が歪んで、歯が下唇を噛み切った。そして、よ ろめくと、石のように硬直したまま、どかんと、倒れ てしまった。        第二の殺人  血の匂いが、薄く鼻を刺戟した。部屋の中を窺うと 腕の立つ賊らしく、脇差であるが、返り血が、壁へ、 手桶の水をぶっかけたように滲んでいた。  小僧の「鍋金」が、すっかり、精神的にも、生理的 にも恐怖してしまって、光のない眼で、空虚な顔をし ながら、壁の下で、肩をすくませて、うずくまってい た。  大家の、新妻は、髪を一杯に乱して、蒲団の上に傭 伏せに、両手も、両脚も、蟹のように、蜘蛛のように 曲げたまま、倒されてしまった。  大家は、両手を胸の所で握りしめて、胸を突き出し て、首だけ後ろへ引きながら1恐怖で露出した眼、 顧えている層からは、挺が垂れているし、頬は痙璽し て、蒼白だし、 「出さぬか」  賊は、片手で刀を振り上げていたが1武士だ。し かも使える。  鼠を弄んでいる猫のように、最後まで、犠牲者を弄 ぶ残忍な興味から、その片手の脇差は、少しずつ眼の 光が少しずつ凄く1  俺は寝間着のまま、手槍をもっていたが、畳の滑ら ぬ、置いてある品の邪魔にならぬ、足場を計っておい て、 「参れっ」  と、叫ぶと、対手を、十分不利た位置に立たせて、 槍を咽喉へつけた。手元を下げて、穂先を上げて上段 の構だ。.賊は、黙って、だが、素早く、立直ったと二 ろを、突き出したままに踏込んだから、蝶そうとする 1柄を切り落そうとする瞬間の狼狽に、 「それっ、痛いぞっ」  穂先は骨を掠めて、このまま壁へでも突き刺すのが 仕止める法であるが、広いし、手槍だったから、抜く と、石突で脚を払った。 「た、助けて」  と、賊が叫ぶと、残忍性と、憤りとが、突上げてき たので、 「何をっ、人を殺しておいてっ」  と、叫ぶと、股間へ一槍くれた。この大家さんの新 妻に、俺は、十分好意をもっていたが、無残なことを してしまった。 第三の殺人  礼儀も、作法もーそれから、剣法もーすべては 無視だ。地響きと、捻り声と、矢の鋭い羽音と、鉄砲 の音と1硝煙の匂い、皮の匂い、汗、血。  鎧は、もう着けているか、いないか判らない。戦死 者の骸を踏んで滑ると、滑った力を利用して、敵の中 へ刀を叩き込んで行くのだ。隣の兵は、何か訳の判ら ぬことを叫びながら、槍で、敵の脚を薙立てている。  草は、躁躍されてしまって、赤土の上には、血と、 草鮭の跡と、馬蹄の形と、折れた刀、槍、差し物。楯 の散乱。  敵の誰もは、真赤な顔をして、口を結んでいる者は 曲る位に、開けている者は何か叫びながらーそうで なかったなら、すっかり疲労して、友兵とぶっつかり ながらよろめいてー。  厚重ね三尺二寸の太刀だ。突くの、斬るのと、そん な技巧は物の用ではない。鎧の隙間を叩くんだ。歪め た顔、突き出す槍。敵の槍が、草摺を突くと、ちょっ と、よろめくが、倒れかかるように打ち込むと、きっ と、対手が横になって逃げ込む。隣から助け槍が閃く が、槍が俺を突き刺すだろうなどとは、絶対に感じな い。刀も、槍も、矢も、路上の試合とちがって、恐怖 を感じさせない。そして、実際としても、鎧がいいと 大抵弾いてしまう。  一番嬉しかったのは、顧額へ叩きつけた一刀が、見 事に肩を斬って、鎧の胴二寸余りまで斬下げたこと だ。味方がぐんぐん後方から押してくるのと、首をと るほどの対手でもなかったので、押し倒し、踏み倒し て闘争しているうちに、二三人逃げ込むと、隙ができ て、敵の押返しよりも、味方の進出力が強く、とうと う崩れ立つと、立留まって一息したが汗と、鎧と、刀 の重さ。それを感じると、もう、危なくって敵の中へ 斬り込めなくなってしまった。戦場は、誰でもそうら しい。 右手の男は、 に乗った体に、 第四の殺人 性急らしかった。左手の男の誘いの隙 眼を動かすと、果して斬り込んでき た。蝶けて、斬ると見せたのは俺の手で、左手から、 全身的の攻撃力で斬りかかったのを払い上げると、胸 へ突の一手。  対手が大勢だから、斬り方の鮮かさ、などといって おれない。戦闘力をそぐのが第一だ。そして、黙然と しで立っていると、七分の利-精神的に、俺の方に 利がある。大勢の対手に、こっちから懸かれば、疲れ るだけ損だ。こうして、長引かすことは、敵がきても 味方がきても、こっちに有利だ。敵はいくら来ても、 十人、二十人が一度にはかかれない。味方が一人でも 来たら、敵は負けだ。背後は川で、いよいよとなった ら、飛込んで逃げる。  黙々として、一人を斬っただけで、身動きもしない 対手には、味方同士協力して当らなければならないだ けに、対手には面倒だ。どうせ大勢で取巻くような奴 に、上手はいない。俺は、睨合っているうちに、八州 役人の提灯が見えたので助かったが、あのまま一晩い たって心を使ったり、身体を使ったりするのは、大勢 力で、俺は、背後に庇護物さえあれば、却って一人の 同等の相手よりも、始末がしよいと思った。 第五の殺人  俺は、然し、店賃をためて、大家をなぐったがた め、切腹を命じられることになった。古型によって手 本を示してやるつもりだ。痛いのは、腹の皮を横に切 る時だけだ。脂肪が多くて切り難いが、血は余り出な い。  本には、腸を捌み出したり、肝を掴み出したり、物 凄いが、切ってしまえば、腸も、肝臓も、無神経で、 どう手荒く扱ったって痛くないのだから、俺にも掴み 出せといえば出して見せてもいい。  古い型では、機に薄く一文字に腸を出すのは不作法 なんだ。それから、胸から竪に膀の下まで1大体、 ここまで切ると、精神的に参ってしまう。それから、 心臓部を突刺して死ぬのだが、精力がなくなったり、 骨にかかって一刀で絶命しない時には、二度と同じ所 を突かずに、今度は咽喉を切るときめられている。  徳川中葉から、この古式切腹はなくなったが、見ろ 直木三十郎の壮快なる腹切りを、自腹を切るというこ とがいかに痛くして、だが勇敢な所業か? 宮本武蔵  玄関の次へくると、奥の部屋まで、開けっ放しだっ た。武蔵は机の上へ兜れかかって何か書いていたが、 俺が刀をあずけているのを見ると、 「そのまま、そのまま」  と、筆を置いて云った。そして向き直って、俺の方 を見たが1武蔵の眼は、だんだん鋭くなってきたよ うだ。猛獣の檸猛と、殺気と、天才の光と、狂的と ーとにかく、俺を迎えて、明かに喜んでいながら、 .瞳の底から、凄い光がきらめいている眼だ。  肌もだんだん赤味を増してきた。総髪が、坐ってい ると畳の上へ、尻尾の出る位に延びた。麻の十徳を着 て、たくましい、その癖、指など長くて、何処となく 典雅な形をした大きな手を、膝の上へ揃えて、 「よう来た」  微かにやわらかなものが、武蔵の眼の中に閃いたよ うだ。俺は、ちょっと、その限と合せて、 「うむ」  と、云ったまま、いつものように、眼を外らせて、 向き合った。そして、武蔵は、又いつものように、俺 の頭の上から、その眼を、またたきもしないで浴びせ ていた。眼を上げると、すぐ、その猪獣の眼とぶっつ かって、一種の凄さを感じて、どうも、俺のたちには 合わ無い。 「いろいろ、描いたり、作ったりするなあ」  武蔵は、画もうまいし、彫刻も上手だし、文章も書 くし剣客の中での芸人だった。 「うむ1五十をすぎて、やっと剣道が判ったので、 清算だ。君なら判るだろうが、今書きかけているのは ねー」  武蔵は、手を延ばして、机の上の、古美濃紙の裏返 しを綴り合せた帳をとって、俺の前へ拠げ出した。取 上げると、表に、 『五輪書』 と、書いてあった。俺は、目を少し通してから、 「これは、前の、兵法三十五ヶ条と同じもので無い か」 「うむ、同じだ。然し、詳しく読むと、少しずつちが っているだろう。その少しの差が剣道の判る、判らぬ の差だ。俺が、三十五ヶ条を書いた時にも、判ってい たものだったが、心得て三十五ヶ条のほか深いことが 書けなかった。それには、その深い所が、剣後の精神 が可なり説明できる。だから三十五ヶ条を書き直して 置こうと、 『五輪書』を書き出したのだ。-だが、 本に書き直せるか、試合をしてしまった奴は、取返し がつかぬ。今になって後悔することが多いが、どうに もならぬー」  武蔵は、その凄い目で、微笑した。 二 「江戸にいた時分」  武蔵はこう云って立上った。そして竹の先を割って Y字型をしたもので、廊下の天井から袋を一つ取っ た。袋はいくつも天井にぶら下っていた。武蔵は坐っ てその袋を開けた。小粒だの銀だのが入っていた。 「江戸にいた頃1」 「あんた所へ、金を釣るしておくのか」 「うむ」 「悪心悪くないか」 「無い1江戸にいた頃、俺は誰とも試合をしなかっ た。対手も用心深いと云えば用心深い、卑怯と云えば 卑怯、俺もその通りだ」 「そうかなあ」 「紙屋頼春があの時小笠原源信斎の二刀を破って、武 蔵なんか、何んでも無い、と云ったそうだが、他の人 も、俺をそういう風に考えていたらしい」 「と、いう訳は?」 「紙屋頼春は、十六流を極めたえら者だが、俺が試合 を、二刀でするものだ位にしか考えていない。俺は、 二刀で稽古はするが、試合には、一度だって、二刀を 使ったことは無い。いつも云う通り、平生二刀で稽古 していると、いざと云った時、片手でも、刀が使えて 便利だから、その練習をしているので、一流の人の対 手に、二刀では試合のできるものでは無い。それを、 あの人々の、俺が二刀を発明したというので、非常に 不思議がっている。剣道五戒の一、疑いがあの人々の 心の中に、試合前から起きたのだ。だから向うから、 試合の申込みをしには、決して来ない。俺の方から、 そんなら申込めばいいが、俺には、勝てる自信が無か った。流石に江戸だったよ。幕屋新陰の、幕屋大休の 話を聞くと、短刀一本で六人の賊を斬ったというが、 俺はこの人には及ばないと、思った。それから、小笠 原源信斎、この人は、俺の二刀を、話を聞いただけで ちゃんと、俺のように使っている。弟子の紙屋と立合 っている。この人にも及ば無いだろう。その弟子の紙 屋は、この源信斎の二刀を破ったが、この人も俺より 上手だ。小野、柳生も勿論えらいしーだから、俺は いろいろと話を聞いただけで、試合はしなかった。勝 てたかも知れぬが、負けたかも知れたい。然し今考え ると、勝負に拘らず、試合っておくべきだった。そし たら、もう十年早く、悟れたかもしれぬ。そうだ、話 をしていて忘れてしまったL武蔵は、鈴の紐を引い た。ヵラカラと、鈴が遠くで鳴った。出てきた侍に、 「酒肴をー」  と、云って小粒を渡した。そして、 「然し、対手の人も、多分、俺と同じで、田舎侍に、 こっちから申込んで、万一負けたら大変だし、俺から 申込んだら、どうしようかと、可成りに、俺の型を、 調べていたことも事実だ。だが、どうも道場で立合っ たなら、俺に分が無かっただろう。そして、俺から、 真剣でと云っても、いや、道場でと、受けつけなかっ たかも知れぬ。真剣試合なら俺は場慣れているから、 どっちか判らぬが、道場試合ならあの技巧の上手な、 江戸の剣術には、到底及ばたいようた気がする」  武蔵は、又、袋を、天井へ釣下げに立った。         三 「自分の修行よりも名を惜しみすぎていたのだねえ」 「そうだ。負けてもいいから、剣の妙諦を知るという 気になれなかった。勝負を度外視して、剣理を悟る心 が判らなかった。一生の間一度も負けまい。今まで、 一度も負けないのだから、負ける位なら、試合をしな い方がいい1卑怯な考え方だった、それにー」  武蔵は自分の膝へ眼を落した。俺が顔を上げるとす ぐその鷲のような眼とぶっつかった。俺は暫く凝視し ていたが気味悪くなって、又机の方へ眼を外らした。 「もっと、今思うと不快なことがある」 「そうかたあ」 「時々、大物と試合して自分の名声を保っていたとい うことだ」 「なるほど」 「吉岡と試合した。あの試合に勝つと、五年位は、俺 の名が喧しかった。江戸の人々の恐れたのも、あの試 合を知っているからだった。ところが、君-江戸で は、試合をしないだろう。一度も、名の知れた人とは しなかった。僅かに二三人の、血気の徒を叩きつけた きりだ。これに対して、世間では、そろそろ俺を疑い 始めた。江戸の大先生たちの、卑怯さを云わないで、 俺が江戸へ行っていながら、試合を申込まないこと に、いろいろ悪口を立てかけた。これは、無理の無い ことだし、事実、俺は試合をしたくなかったのだから 仕方が無いが、折角の名声に対して、こういうことを 云われるのは、俺として堪らないからー佐々木小次 郎を目ざしたのは、それから出たことだ。あいつこそ いい迷惑だったが、俺も、命がけだったよ、あの時に はー」 「そうだろうな。吉岡兄弟のほかに当時は、九州で、 佐々木小次郎。四国の松山で、二階堂主水位のもの か」 「二階堂主水を、やっつけるつもりで、松山へ行った が、これは老功の士だ。小次郎のような血気の若武者 でなくて、俺には、不利た対手だ。それに、四国の雄 では、九州、中国の雄より小さいから、松山から、す ぐ三田尻へ出て、下ノ関へきたのだった。一つ小次郎 との餓悔話をしようかな」  武蔵は、弟子の運んできた酒と干魚と、栗と、甘柿 と、鳥とを俺にすすめて、 「どうだ」  と、銚子をとった。武蔵は一滴ものまぬし、俺も、 のまない方だったから、盃に受けたまま、干魚をちぎ って、しゃぶっていた。 「小次郎は、えらかったよ。あの時十九歳だったか、 二十一歳だったかP とにかく、二十三にならない若 者だ。越前の、富田勢源の弟子でのう。十六歳で勢源 から許されて一家を立てて、岸流と称したが、上背は 俺より、少し位あったかもしれぬ。立派な奴だった よ」  武蔵は床の間から、一本の木刀をもってきた。  これがその時の試合に使ったものだ。 赤樫で武蔵自信で作ったと聞いているが、 り上げられた立派な木刀だった。 「いくらある」 俺は、指を拡げて、長さを計った。 「四尺一寸だ」 「その位あるな」 「俺は、苦心したよ。試合そのものよりも、 いう男を知るためにー」 四 巧妙に削 小次郎と 「俺は、一体、いつも、対手を十分に調べてからでな いと、試合をしない」 「それは、塚原ト伝も一緒だ。生命のとりやりだも の。そう、軽々しくはー」 「卜伝も、そうだったかな」 「相津長汀との試合など、ペテソのかけっこじゃ無い か」 「どうして?」 「どうしてって? 聞かないか」 「聞かない」 「長汀は、左利きさ。だから、卜伝は、左利きは困る 困ると、幾度も、長汀へ云っている。それでとうとう 正式に左利きは困るからと云ってやると、長汀が、困 っても左利きだから仕方が無いと、返事をして、試合 になると、長汀の方じゃあ、左利きが困るだろうと、 いきなり、左利きの手でかかると、卜伝、思う壷と、 一刀に斬りすてている。ペテソだろう」 「ペテソでなくて、作戦だ。のる奴が悪い」 「しかしー」 -試合は、戦争と同しだ。戦争で暗撃ちにあって、卑 怯だと怒ったって仕方が無い。相手の計にのるのは、 肚のできてない司拠だーと俺は考えていたがね。こ れも本当だが、近頃の考え方によると、無益な試合は しないことだね。一人の人を斬らずとも、剣聖には成 りうる。上泉信綱の如き、この種の人だ。飯篠長意斎 の如き、この意味での剣聖だ。卜伝が、隠逸生活の晩 年、矢張り、この境地からだ。ようよう、近頃それが 判ってきたので、小次郎との話の如き、笑いながら語 りうるがー」 「何年前になるかな」 「俺が、三十四の時だ。二十二年前になる、小次郎が 生きておれば当代無比の強豪になっておろう。惜しい 人物だった」俺は、下ノ関へ着くと、すぐ、小次 郎の弟子に逢うた。そして、小次郎の名声行為、型、 刀たどのことを、詳しく聞いた。幾人にも聞いた。そ して得たところは1小次郎にやや慢心の傾きのある こと、型は表五本、裏三本、刀は、長いのが得意で、 いつも、大兼光を差していると、こうだL 「いい刀だったそうだな、小次郎の大兼光というの は?」 「物乾竿と、妙な名の刀だ。三尺五分あった。これが 試合の分れ目だ。俺の刀は、例の伯蓄安綱で二尺七寸 五分しかない。この差三寸、これが勝敗の決するとこ ろだ。恐らく、腕に応じて、同時に打込むだろうが、 そうしたなら、得物の長い方が勝と、俺は考えた。そ して、作った木刀が、これだ」  武蔵は、むつかしそうに、取上げて、片手で、膝の 上で構えた。木刀が、木でなく、生物のように凄さを 帯びてきた。 五 「四月だった。親爺の弟子にあたる長岡佐渡が、丁度 細川家の家老をしていたので、試合を許してくれるよ うにと、願って出た。細川の当主三斎という人は君も 知っての通り、自らも中々腕達者だし、眼も肥えてい るし、剣術にかけては西国第一の人だったから、すぐ に許してくれたが、これはあとで聞いたが、俺より小 次郎に分があると思ったらしい。それから、小次郎が 十分の自信で勝つと思ったらしい」 「評判もそうらしかった。小次郎が勝つと云った人の 方が多かった」 「そうだろう。とにかく、博多、中国は六島辺からさ え、見物に来ようと云ってた人があるというからな あ」 「上方までも、噂は立っていた」 「俺は、いろいろと作戦を考えたが、道場での試合、 木刀の試合なら、とにかく、真剣試合の時は、最初に 合せた一刀が、全局の運命の支配になるのだ。その最 初の一刀へ、全力をそそぐとすれば、踏込み方と、刀 の長さと、問題はこの二つしかない。技禰の差という ものは、少たくとも、小次郎と、俺との間には無いか らなあ。ところが踏込み方も、ほぽ同じとしたなら勝 負の決するのは、ただ間の内だ、刀の長さ、一寸二寸 の差の有無だ。これが対手が小太刀の名人とか、並尺 の得物とかいうなら考えようもあるが、俺とそっくり 一緒のやり方で、二尺七八寸以上の大太刀だ、一気に 勝負を決するとしたなら、刀の長短に運命をかけるの ほかは無い。だから、俺は、船問屋へ行って、揖を選 って木刀を削ったんだ」 「武蔵が、逃げた評判の立ったのはその時だね」 「何しろ、小次郎が勝つと、皆信じていたのだから、 俺が行方不明になると、聴病風が吹いて逃げたという のは当然だ。太郎左衛門という船問屋の二階で、削っ たよ。ところが、固くてね。木刀が削りにくい上に ーもう一つだ」  武蔵は勝栗をぽりぽり噛みながら、俺の正面から眼 を光らせて、 「君も知ってる、俺の奥の手だ」 「何p」 「吉岡との試合にも使ったー」 「対手を、苛立たせる手か」 「そうだ」 「矢張り、苛立つ奴が悪い、というのだろうレ 「そうだ」 「そうして、今、悟ったというのだろう」 「はははは、その通りーだが、削り疲れたのもある のだ、何んしろ、眠い時分だからなあ、一年中で、一 番眠い時だ。木剣を削り上げて一寝入りすると、そこ そこ、時刻がやって来たっもう少し眠ると船頭は、試 合のことなど知らないから、一時間も眠らせてくれた のだから、俺が遅れたというよりも、船頭が、遅れさ せたと言った方が、正しい位になってしまった。とこ ろへ、迎えの使いがくる。此奴に聞くと、小次郎は、 もら、一時間半も待っていると言ったが、俺は、それ を聞いた時この勝負は勝ったと思った」 「そう、君と試合する時には、気を長くすることだ ね」 「そうとも限らぬ」 「恐ろしく、早い時もあるねえ」 「臨機応変だよ」 山 ノ\ 「細川家から、迎えの船を出そうと言ってきたが断? た」 「何故」 「小次郎の人気が凄じいからねえ。もし俺が勝った一 時、細川家の船ではどんな手段で、何処へつれて行か れて、どうなるか、後のことが恐ろしいから、俺は自 分で小舟を雇った」 「たるほど、その噂も聞いた。武蔵を生かしておかん と、大分騒いだらしいのう」 「小次郎を怒らせてペテソにかけたと云うのだ」 「多少はそうだからな」 「あはははは、確かに。ヘテソだ、ベテソも第一、第二、 第三といろいろかけたよ」 「そうかねえ」 「船頭に、言いふくめて、試合が済んだら、すぐ大急 ぎで逃げ戻るようにと云っておいて、船の中で又一寝 入りだ。島へついたので、起き上ると、小次郎は何ん と、狸々緋の陣羽織に、鍛子の袴といういでたちだ。 俺は、わざと、紙を撚って、紙撚りの紐をこさえて、 揮にして、刀を舟へ残して、木刀一本さ。小次郎と正 反対の風だ。一種の反抗、示威運動で、こうなると、 仰々しく、家来、警固に取巻かれている小次郎の方 で、いくらか、気恥かしくなるだろうL 「そうだねえ。おもしろい心理だ。剣客にない、微妙 たものを、君は、心得ているよ」 「そうでも無いがーこれも、作戦の一つさ、それか ら、俺が、船の中へ立上ると、小次郎が、小走りに、 初床を離れてやってきた。俺は、それを見た時、勝っ たと、感じた」 「そうだ。俺なら、胡床にかけたまま、笑っている ね」 「それが一番怖い。小次郎に、その心掛けがあれば、 勝敗は定まらなかった。ところが、小次郎は、走って くるなり、俺の遅いことをなしった。これも、試合と して余計たことだった。俺は、答えなかった。もっと 小次郎を怒らせるためだった。果して、小次郎はかん かんになって、大兼光を抜いた。そして、鞘をすてた。 俺は、その時、もう一つ、小次郎に、作戦だけで勝っ てやろうと思った」 「勝負はもう判った、という言葉か」 「そうだ。作戦でもあり、且つ、自信でもあった。は っきり、その時には勝てると思った」 「その時、君も、一太刀、顔に薄く疵を受けたという ではないか」 「鉢巻が切れて落ちたからだ。ほんの、一髪の差だ。 俺の太刀と、大兼光と三寸の開きがあったが、実際そ の三寸で勝敗はきまったのだ。小次郎の頭へ、三寸折 り込んだろう。そして、俺の鉢巻が切れた。危い勝負 だった」 「だが、自信はあった」 「袴も斬られたってね」 「斬られた。この時も、二寸の差だけだ。ね」 武蔵はこう言って、額を撫で上げた。 「この疵は小さい頃の腫物の痕だ。切傷はあるまい」 と、俺の方へ額を差出した。 七  「小次郎の奥秘の手に、岩燕というのがある。右手へ 引いて、すぐ払い上げてくる手だ。俺は、小次郎が、 倒れると共に、すぐ、脇腹へいま一本打込んだが、果 して、片手殴りに払ってきた。裾が切れた。この時も 俺の木刀が短かったなら、片腕は無くしていたのだ。 俺は試合に勝つと、検視へ礼をして、さっさと引揚げ た。長岡佐渡の所へ、手紙を出したきりで下ノ関を逃 'げ出した。門人共が恐いからなあ。これで、俺の名声 は、叉、元のようになった。それから都合のいいこと には、真剣勝負の風が、これを最後としてやんだこと だ。俺の若い時分から、この頃まで、他流試合と言え 」 ば、命のとりやりのことだった。実際、これで前途有 為の人が幾人死んだか知れないが、小次郎を討ったの を最後として、この他流試合に、命を賭ける風が無く なってしまった。だから俺もその後、そんた試合をし なくなったが、しなくなるとそういう経験のある無し は、道場に立っても、ひどくちがってくるねえ」 「ちがうだろう。刃引で、型の稽古をしていても、い ざとなると、竹刀で稽古している者よりも、優れてい るというから、真剣の場数を踏んだ者は、どっか、肚 ができているだろう」 「道場剣術の、華々しい型は使えぬが、一本の打込み でも、鋭くて骨の髄まで造るからねえ。だが、だんだ ん、柳生流辺の、竹刀稽古が盛になってきたね。後方 へ飛退ったり横へ跳ねのいたり、戦場であんなばった みたいたことをしたら、人間にぶつかって倒れてしま う」 「だが、二刀派の流行りかけているのも、華々しく、 便利のように見えるからだよ」 「多分、そういう風に取られるだろうね。戦場の二刀 流など、物の役にも立たない位のことはすぐ判る筈だ カー《やミ》|」 「平常の時は、便利だよ」 「と、見えるだけだ。だから、『五輪書』にもくれぐ れと二刀を習うのは二本の刀をもって戦うことではな い。左手でもって右手同様に使えるよう、平素から練 習して加いて、万一の時に備えるのだと、書いてある カー《やミ》|」 「中々、読むまい」 「三条公に献上するだけでいい。剣法のことよりも、 治国平天下の法を兵法から説きたいと苦心している。 修身、済世、治国、芸術、皆、剣の極致と一所だよ。 五十を過ぎてようよう判った。紙屋伝心斎も剣術とは 己の心の非を断つ術だと、六十歳で悟ったというが、 矢張り彼奴はえらい。たしかにそうだよ。俺が四十頃 までの試合は悉く自家広告、名誉心、優越感といった もので、本当の剣道を悟ろうとしての試合ではなかっ た。負けたくたいの一念だけだった。勝たず負ず、と いうことが判らなかった。人を傷つけず、人を恥かし めず、死を恐れず、軽んぜず、神を尊んで、神を頼ま ずと、『五輪書』には、これを書こうと思う」 「尾州の池田五郎や左衛門に逢ったそうだな」 「参ったよ。『武蔵殿貴公兵法三十五ヶ条のようなも のを著して、後悔しているでしょうな』と、こうだ。 言われぬ前から、後悔していたのだから、赤くたった よ。『五輪書』は、その名誉回復のためだ」 「池田が、俺は剣法にかけて、武蔵に劣ろうとは思わ ぬが、本を書く気は無いし、書けもせん。後世に、あ れが残ると武蔵という剣客だけが存在して、俺など忘 れられて仕舞うだろうが、どっちが幸福か、どうか、 と、笑っていた」 「判らない」 「残してもいいし、残さんでもいいし、こだわるべき ことでは無い」 「この齢になって、夜など考えるが、小次郎も、吉岡 兄弟も、俺のために犠牲になったようなものだが、高 い犠牲だ。俺一人のために、三人の名人と、二軒の名 家とが、ふいになってしまったL 「位牌でも祭ってやるか」 「いや、然し、それが世の中だ。誰かが、誰かの犠牲 者になる。ただ、それだけだ。成っていることを知ら ずに成るか、成していることを感ぜずにするか? 人 を、どういう形かで、突除け、踏倒して行くのが、人 生だ。そして、俺は、犠牲者になるのは嫌だ。だから 自家広告もするし、トリックも使うし、策謀も廻らす しーそれでいいのだとおもう」 「君は、いろんな点で強いからいい」 「それだけが、俺の資格だ」 「芸術の方は?」 「それも、強気一点張だ」 「そんな絵画があるか」 「見てくれ」  武蔵は床の間から巻いた紙をもってきた。拡げる、 雁に芦が描かれてあった。その雁も芦も武蔵の眼のよ うに、凄く、尖っていた。 、俺が書くと、皆こんなに、殺気を帯びてくる黛し 人生は殺気だよL 俺は、ここまで到達すれば、えらい者だと思った・