鏡山 直木三十五          一  鏡山という芝居は私の大きらいな物の一つである。岩藤といい尾上といい女の浅はかさそ のもののような女で、定めしこんな奴を女房にしたなら手古摺るだろうと思って大嫌いであ る。岩藤という奴はいつも胸ぐらをつかまえるに違いなかろうし、尾上というのは必ずめそ めそ泣くにきまっている。そしてお初はーお初は老《としと》ってから養老院へ収容されて、 「あれが鏡山の? そうかい」  というようなことに成りそうな気がしていけない。あれだけ芝居、小説に喧ましいんだか ら、もう少し後のことが判っていそうな物だが、敵討切りで何んにも伝っていないからそう いうような気がする。 鏡山の実説は二つある。殆ど同じ物だが場所も時もちがう。偶然に同じ筋のことが二つ起 ったのか、一つの事実を混同したのか判らない。一つは「日堂見聞集、巻十五」享保八《きようほう》年三 月二十七日石州浜田六万石、松平周防守康豊の江戸木挽町上屋敷内で起った事で、   尾上——滝野(二十三歳)   岩藤——沢野(三十八歳)   お初——山路(十四歳)  となっている。「窓のすさみ」には、出羽本荘、六郷家の事としてあるし「女敵討松田系 |図《ず》」には享保九年四月二十二日の出来事で、   尾上——おみち(二十三歳)   岩藤——沢野(六十一歳)   お初——おさつ(二十二歳)  となっている。場所は矢張り松平周防守の邸内である。尤《もつと》も「女敵討松田系図」は文政五 年の著であるから、ざっと百年後故、いくらか間違っているかも知れぬが、筋は同じ事であ る。  岩藤  沢野というのは、津和野の城主、亀井家の家中某の娘で、周防守の奥方が亀井家 の娘であったから奥方づきとして附属してきたものらしい。尾上をいじめた時に奥方がとう とう見兼ねて口を挟んだとあるが、奥方の前ぐらいは平気だし奥方もよくよく見兼ねないと 口も出せない位の遠慮をしていたと思える。  沢野の齢、三十八というから禁欲生活からくるヒステリー性も可成り多かったのであろ う。昂じると周防守の云う事も聞かないとあるから、この女の亭主なんぞには成るべきもの でない。  滝野は大和国郡山の浪人、当時旗本の家老を勤めている元姓正木改め岡本佐五右衛門の 娘、とも云うし赤阪田町一丁目田原屋七郎右衛門の娘とも云う。御召しによって廊下へ出て 草履をはこうとすると、見えない。急ぎの御用というから其処いらにあった一つを引懸けて 行ってしまった。これが勿論沢野の物で、暫く口汚く罵っていたが、やがて奥方の前へ出 た。 、多分奥方の用事を聞くより前に、 「舞分草履をはいた人は居ないかい」  位の事は云ったであろう。そして滝野も顔色を変えたにちがいない。 「草履盗人」  というような事を平気で口にして喚くんだから、ヒステリーのみでなく、顔が可成りに拙《まず》 く、卑しく、石州の山猿そのままのようなのだろう。そして滝野の方が美しく人気があった ものらしい。ひどく、平凡な解釈であるが、そうしておかぬと、奥方の前でいくら沢野だっ て釁く、 「盗人」  などとは云える筈がない。こう云っておいて、その滝野の詫びながら返した草履を蹴った のである。自害する位ならこんな不愉快な婆《ばばあ》は殺したっていいんだが、其処が女のやさしさ と称《ま》められる所で、そして女の意気地のない、いけない所から、 「口惜しい口惜しい」  と思いながら自殺してしまった。二十三歳と「松田系図」の方には出ている。二十三位だ と大抵この位の事をされると女は死んでしまうものである。  それからーそれからいくらかいても芝居と少しもちがわない。お初の名が、おさつとも 云うし山路とも云うし、齢も二十二というし十四というし、諸説まちまちであるが、文《ふみ》をも って行く所、胸騒ぎ、すべてそのままである。「松田系図」によると、このお初は毛利甲斐 守の小人組頭松田助八の娘としてある。おみち  尾上ーの死後この仇討をして尾上の親 の許へ養女となり、邸では中老の役となり、実親の松田の松と、養家の岡本の岡とをとって 松岡という局名《つぼねな》にしていたという。二十七歳の時に、家中神尾某の所へ嫁入をした。仇討 をした女だの持参金のある女など貰ってはいけないと思うが、そののちの事は何の本にも出 ていない。 二  岡本佐五右衛門の娘という説よりも、芝居でする如く町家出の娘とした方が滝野の性質を 知るのにはいいかも知れない。  田原屋七郎右衛門というのは、津和野四万三千石亀井能登守へ出入している町人で、ここ のが充嬬という娘の相手に、おみち即ち滝野、芝居の尾上が上ったものらしい。そして姫の 御気に入りであったから、松平周防守の伜佐近と、この姫との結婚成立と同時について行っ た所が、松平の方の局の沢野、即ち岩藤と事々に衝突したらしい。  その第一は、  沢野が大御番旗本落合源右衛門の伯母という武家出である事と、滝野が町家出であるとい う事である。それで沢野が、 「お前は町家の卑しい出でありながら御大名へ勤められるのは果報者である。然し御前の御 主人は四万三千石、私の方は六万石、同じ大名でも奥向の事は可成りちがうから、万事私の 指図の下に勤めたらよかろう」  と、ヒステリーって仕方の無いもので、下らない事を云って見得を切ってしまった。滝野 にしてみると町家出と卑しめられ、主人まで小身者呼ばわりをされたから口惜しい。機《おり》があ ったらと思っていると、  その二、  「常磐《ときわ》貞操論」というのが、若夫婦の前で討論された。どっちがどう云ったか判らぬが、 沢野は散々にやり込められたものらしい。  その三は、  時鳥《ほととぎす》という題で俳句の催しがあった。その時にも沢野が、    声もなくただ月ばかり時鳥  というような事を云って鼻高々としていたのを、滝野の句に蹴落されてしまったものらし い。どれもこれも大名の奥向の下らない意地喧嘩である。  その四に、 松平周防守の邸では十二月十三日に燻携翻する。そして煤払の済んだ跡を見廻るのが滝 野、沢野の役目であるが、滝野が沢野の室《へや》の前までくると、沢野附の女中十四五人が滝野を 胴上げにしようとした。胴上げにしておいてどしんと落すのであるから、附いていたおさ つ、即ちお初がその代りとなって胴上げにされた。  おさつは中々武術の心得があったから、どんと落されてもけろりとしているから、沢野の 女中がかんかんになって打ってかかると、ころころと転がされて歯が立たない。これで沢野 が又ぺしゃんこになってしまった。  第五が、草履の間違いで、これが滝野自殺の動機となっている。この時の遺書というのが 伝えられているが、   御二人さま益々御気嫌よく御座遊ばし、うえのう御うれしく襤B蓼牡せそ僥・う私事僚幾   一分立がたき事御座候まま、彪魔自害致参らせ候て、此よは血の露と見参らせ候。期譫   申上候え共さつへ薄となく物語致置候讎隴襟鏤奪そ僥仍   纏婿申上候ては御なげきの上の御はら立、鰕爆の事と朧邵醸襟棟×御奉公の内も御おん   の御事忘れやらず居参らせ候処、然鬱.僥.不幸のつみ御はら立遡ば襤.悌.と草葉のかげ   より是のみ気に掛り参らせ候、かならずかならず不幸者と思召御なげき秘鴨まじく候、   おおくは先のよのえん、やく束事と思しめし御あきらめ、ただ罪の一つも軽く成《なり》仏果の   種とも成候よう逆様ことながら御供養のみ遊し可被下候、もはや追付爰元《おつつけここもと》より此わけ中 参り儒穐どぞんじ参らせ候、左様に思召御おこ憾らよろしく締鵈は訛い見ぐるしく無きよ うに仰付けられ可被下候。わけて申上候文庫の内に十四五色小道具御座|候夫《・そ》れ夫れ御見 分かたみに御遺物被下候、此内残し置し妙養院様御ながらえの内被下候所の地蔵様とか み包とは御とと様へ締蜻裾蟇革褸.僥%九重の御守、懐中鏡御前へ出候度々に私かげ を移し参らせ候御逢遊候こと思召御覧被下候様かならずかならず頼上候。またまた三五 郎へは殿様より戴候御香合はな紙袋遣し申候。おみやへも殿様より戴参らせ候髪さし子 安貝.趣し蓼らせ候。成仏の後姉と思い出しくれ候様に櫨.還酸候。下谷御おば様初、仁 右衛門様半次殿、おるよどの其外皆々へはいみかかり候半とぞんじ参らせ候ま激傭 |遣可被下《つかわしくださるべく》候其折からは妙かん様へは観音様御上可被下候、おいち様へもわたり殿へも 何なりとも少々御上可被下候。本所の乳母へも此金袋封のまま被遣可被下候。私よう少 のころよりよういくにあずかり参らせ候此外に何ぞ垢付候物遣し度候共俄の事故さつへ 講被遣可被下候、是さえ道の程いかがかと思い案じ参らせ候わけてかなしきは乳母の事 に御座候今みるように思われ候、其外どなたへも御暇乞残りのう頼上候、さつもかよう の事とは夢にも知らず文御覧被遊候わば、初めて承わり嘸《さぞさぞ》々おどろき入候半とぞんじ参 らせ候年月の叙驛にいたわり暮候ままよくよく概傭可篠襟虜候かえすがえすも末とても さつが事たのみ上参らせ候いつ迄かき参らせ候ても尽きぬ事御暇乞までに書残し参らせ 候。 不幸者と御とと様の御しかりも候半と是のみ気がかり参り候、幾重にも幾重にもよろし   くたのみあげ参らせ候、思いもうけし事ながら今は只涙にてめもくれ跡先に文字もしど   うに見えわかれ申間敷候まま早々申残し参らせ候。        荒々かしく     御かか様                          みちより       御もとへ  この中の「さつ」は本文には「たつ」とある。この手紙を、観世音、地蔵尊の絵、香合、 櫛、笄《こうがい》等とともに文庫に納めて、さつに親許へ持たせてやる、その途中、霞ヶ関で中老桜 木の召使お千代から草履打の話を聞き、不審な主人の仕打とすぐ引返すと、滝野は既に自殺 してしまっていたのである。  床には祐天上人の六字の名号をかけ文机の上には、    藤のころながき短き世の中に      ちり行くけふぞおもひ知らるる      卯月三日      岡本氏娘みち                  生年二十三歳  とした短冊があった。これでみると矢張り、岡本の娘らしいが、とにかくいろいろに作ら れていてこの遺書も真偽判明しない。  従って、おさつは二十七歳の時に神尾某の妻となったとも云うし、田原屋の養女になった とも云うし、何方《どちら》もまことしやかに書いてあるから、何れも信用しにくい。  これを加賀騒動と結付け「鏡山旧錦絵《かがみやまこきようのにしきえ》」と名付けたのは下谷長者町の松田という医者 で、容楊黛《ようようたい》と号して天明二年、堺町の薩摩外記座のあ攤。に上場して大当りをとり、次で天明 三年木挽町の森田座で中村粂三郎、小佐川常世等で上場して又大当りをとった。  今日行われている物は、文化十一年に市村座へ上場された「隅田川花御所染《すみだがわはなのこしよぞめ》」で、南北の 修正したものである。芝居に行われたから喧《やか》ましく云うが、余り面白くない、ヒステリー女 の争いにすぎない。どうもこういうのは私の筆に向かない。