浄瑠璃阪物語 直木三十五 「吉良邸討入」の三十一年前、「伊賀越仇討」より約四十年の後。寛文十二年二月三 日、市ヶ谷見附外潔瑠麿防の敵邸へ斬込んだ四十余人。その壮烈さから云って四十六 士に少しも劣りはしない物語である。 一発端  寛文八年二月十九日、π野の国宇都宮の城主難聾ら寒傭劔み駿轟が亡くなった。  当時奥平といえば禄は近々十一万石にすぎないが、徳川譜代の家柄として、又、簿鰍に籠 城して、二十二歳の若冠、能《よ》く武田の大軍に耐えた信昌を出した家として、酒井、榊原、井 伊、本多と共に、武功名誉の名であった。従って家中の者も気を負うているし、武道鍛練の 者も多かった。  三月二日の事である。忠昌の葬儀を、宇都宮の北河原町興禅寺という、奥平家の菩提寺で 取行う事になった。今は最早墓所さえ残っていないかも知れぬ。山門が辛くもその残形を畠 の中に立てているのみで、裏の墓地へ行くと、一丈もあろう程の墓石に「鬼肇織っ遣徽鷲っ 際」と正面に、右に寛文ハっ鵬え職四月二十二日、左に奥平内鶴擢っ雇耀と刻んだ物があらば、 それが此の仇討を惹起した本人の墓である。 前日からの盛り砂、寺の塀、本堂を引廻す黒地の慢幕、足軽あたりを取締っている所へ時 刻前より集る家中の人々。本堂脇の控室では、殿に殉死した杉浦甘欝膿晃篠の話で持切りで ある。殉死を厳禁するという愈暴出て二三年、少しもそういう噂を聞かなかったのに、奥 平家で始めてそれを破る事件が起ったから、布令通りの処分とすれば可成り重い答めがあろ うし、情から云えば主に殉じるのだから布令の表は表として、左迄《さまで》重くも無かろうとも思え るし、家柄が家柄であるから案外軽くはなかろうかとも考えられるし、人々の意見仲々一致 しない。 「内蔵《くら》め、おそいの」  と、云った男がある。この室《へや》は一門の人々のみが詰めていたが、全部揃った中に唯一人千 石取の老臣奥平内蔵允正輝の姿が見えないのである。 「所労じゃて」 「卿郷はいつも所労じゃて、子の麟わくなら人並じゃが、その外の役には立たぬ男じゃ」  罵る者は二千石、奥平隼人である。丁度その時に、内蔵允の一子源ハ郎が、 「奥平源ハ郎殿参上」  という取次侍の声と共に入ってきた。源ハ郎齢十四、家中で有名な美少年である。隼人そ れを見るとともに、未だ敷居越に人々へ挨拶している源八郎へ、 「内蔵は何をしとるぞ」  と、浴びせた。 「ちと、所労で御座いまして追つけ参るで御座りましょう。拙者先へ参ってよく申してくれ と……」 「今日始まった所労でも無かろう。こうして一同集って居るに、然も大事な御主君の御葬儀 で無いか。所労なら所労らしく早手廻しをせぬのじゃ。戦場なら何んとするぞ。文字のこと ばかりに精を出すと、得てしてこんな事を仕出かすものじゃ。論語読みの論語知らずとはこ の事、蟹服も気を付けるがええぞ」  と、ずけずけ云ってしまった。源八郎は蒼くなって頭を上げない。 「源ハ郎、此処へ参れ。隼人は口が悪いからの、気にかけるな」  と、兵藤玄蕃《ひようどうげんぱ》という五十を越した老人が声をかけた。そして白け渡った一座の人ヘ、 「ところで、室々《へやへや》の鴨居に入室とかいて貼ってあるが、何と読むかのう」  と云った。 「じゅしつと読むか、にゅうしつと読むか」 「読みはええが、意味はどうじゃ」  と云うと、隼人が、 「入ってもええと云うのじゃろう」 「そうかも知れぬ」  と云っている所へ、 「奥平内蔵允殿参上」  と、声がして、正輝黒の胤擁に白装束、夏目州註と奥平伝蔵の二人を従えて入ってきた。 「これは方々、ちと所労の気味にて遅なわり申しました」  と、著座するが早いか、 「内蔵、遅いで無いか、大切の折じゃ、一門なら一門らしく早目に出てよかろう。所労なら 所労と挨拶の一つも寄越せ」 「隼人、ええで無いか」  と玄蕃が口出すのを、 「よく無い、内蔵一人の為に迷惑至極じゃ」 「いや、所労遅参の趣きは、式係の者へ届けておいた。遅うは成ったが、時刻にはまだ間の ある筈じゃ」 「間に合わねば不忠者じゃ、その分には置かぬぞ」 「隼人、ええと申すに、内蔵《くら》に聞くが、入室でどういう意味かのう」 「ああ、あれか、にゅうしつと云うのは宮方か摂家の入院を云うので、武家で使う言葉で無 いが、仏門の方では高家に対しては習慣として書くのじゃろ」  隼人、 「淀昂は内蔵じゃ、武士をやめて坊主になれ」 「何を」  と、内蔵允顔色を変えて片膝を立てた。 「ふん、口先ばかり達者かと思ったら、斬れるつもりか」  立たんとする内蔵允を押える二一二人。隼人もそう云放っておいて立上らんとしたから、玄 蕃強力に肩を押えて、 「場所柄だ、慎まぬか」  各々押える人があって刀は抜かなかったが、その内に式が初まる、その日はそれで済んで しまった。    二 興禅寺刃傷  六十日の法会《ほうえ》の営まれる日。家中の重なる人々だけが集っていた。  内蔵允式を済ませて休憩所へ引揚げてくると、兵藤玄蕃唯一人坐っていた。 「どうじゃ、色がすぐれぬの」 「焼香最中から痛んで困ったわい」  と、胸へ手を差込んで押えている所へ、続いて、廊下荒々しく入ってくる隼人、障子を引 開けて、ちらとこれを見るなり、 「又病か、文字当りという奴じゃ。武芸の稽古でもすれば癩るぞ」  と云捨てて前を通って座へつく。隼人の弟|主馬《しゆめ》、二足三足兄に遅れて、今|室《へや》へ入らんとす る時、 「慮外者がッ」  と、内蔵允大喝、さっと立つとみる、脇差からの抜討、隼人の真向へ斬込んだが病の上、 少し隔たりがありすぎた。刀片そぎとなって、ひらりと辮した隼人の額、浅く三寸足らず斬 っただけ。今入ろうとした隼人の弟主馬、 「何する」  と叫ぶと共に、内蔵允の背後から、斬ったが、肩口へ二寸ばかり入る。隼人、脇差を抜 く、主馬二の刀を振上げる。内蔵允、必死の太刀、刺違えん勢で、あわやと見る途端、さっ と玄蕃、影の翻るが如く立つとみる、内蔵允の左手を引いて、己が坐っていた所へ押倒す や、右手《めて》で隼人を一突き突倒して、主馬の前へは自分の体を押つけたが、六尺豊か戦場往来 して無双の力量有った人、 「待て、場所を心得ぬか」  と大音、次の間の人々が内蔵允の声に立ってきた時には、三人共玄蕃の為に引分けられた 所、 「隼人を次の間へ」 という玄蕃の横を、主馬が騒掛けて、 「傷は?」 「内蔵のペラペラ刀で斬れるものか」 内蔵允、蒼白《まつさお》になって肩で呼吸《いき》をしつつ坐って居たが、 「うぬつ」 と立とうとするのを玄蕃、 「蝉ヲにするでない」 と云いつつ、内蔵允の厭菰をもって懐紙をしっかと傷所へ当てて血を拭いつつ、 「浅手、々々」 と云う折、廊下に轟く人々の足音、玄蕃大音に、 「済んだ済んだ、騒ぐで無いぞ」 と叫ぶ折、源ハ郎、伝蔵等の人々、顔色を変えて入ってくる。内蔵允一口も利かない。 のまま駕で邸へ戻る。 「短気を起してはならぬぞ、ええか内蔵」 と、懇《ねんごろ》に傷手当を教えて玄蕃引取る、隼人三十五、内蔵允三十四歳という齢である。 そ 三 内蔵允切腹 内蔵允は医者の手当を受けたが、可成りに深い。出血も多かったし、不断からの病身、そ の上に痛んで耐え難いし、自分から斬付けておきながら、対手を仕止める事が出来ず、其上 に背後から斬付けられたのだから、諦めがつかぬ。このまま平癒した所で、家中の取沙汰 は、 「矢張り内蔵允の剣法はうまくないと見える」  とか、 「よくのめのめと隼人と一座できる」  とか、とは勿論云うであろうし、こうなれば意地として隼人を討果すより外は無いが、そ うすれば一門一家の取潰しのみでなく、奥平の家に関わってくる。  源ハ郎、外記、伝蔵、桑名鵜餅、友之丞、平野左門、細井父子と枕元を取巻いていたが、 「切腹の支度してくれい」  と一口云った。 「父上、それは……」 「止める事ならぬ、客間へ用意せい。支度の事は存じおろう。晶々をすぐ求めて参れ。女は 一切入れる事ならぬぞ」 「内蔵允殿、御心中は判りますが、対手の隼人には如剛なさるつもりか」  と友之丞が聞いた。 「それを貴殿に頼みたい、隼人の邸へ出向き、内蔵允生害致すにより、奥平の家の為、隼人 も潔《いさぎよ》く腹を切れと申して下されい、隼人も武士の意地と、家の大事は存じおろう」 「ふむ。しかと承知っ儂っって御座る。さらば」  と友之丞が出る。客間には砂を盛り、畳を二枚敷いて上へ白木綿を、四方に「しきみ」を 立てて、前に香炉を。三宝の前に鑑い選叱源ハ郎の手に助けられつつ客間へ入って、 「伝蔵、源ハ郎を頼むぞ」 「はっ、何一つ御恩返しも出来ませぬに……」 と、云いつつ落涙したが、伝蔵は内蔵允の甥で、幼少の哲蘇を失って、此家で育てられ てきた者である。胆大にして胃力《ひりよく》強く、性剛直、家中切っての頼もしき若者である。 「もし、隼人不所存者ならば、叔父上、伝蔵鬼となっても源八郎殿と共に討取って御覧に入 れます」 「よく申した。源八郎聞いておけ」 「父上、御心残り無く」  夏目外記、左門、細井の人々口を揃えて、 「内蔵允殿御覧なさい。家中での腕利と呼ばれたる者の半《なかば》は此処に居りまする」 「よく揃っているの、御身達のうちの一人だけの力があらば、こんな不慮を取らず済んだの じゃ。  と、 しかし、内蔵允もこれで安心して行く所へ行けるぞ」 始めて笑を洩らした。 「内蔵允殿の切腹為さるのは御勝手じゃ」  と、隼人の兄弟の内、末弟の九兵衛《くへえ》が云う。 「勝手と申さば勝手、しかし、九兵衛殿、もし内蔵允が腹を仕らず、隼人殿を何処までも討 取って意地を貫こうとしたら、奥平の家中は何となる」 「そりゃ其時の話じゃ」 「奥平の社稜《しやしよく》を重《おもし》とするなら、ここで二人が腹さえ切らば万事は丸く治まろう」 「そりゃ貴殿の勝手の言草じゃ。元々|刃傷《にんじよう》を仕懸けたのは内蔵允殿じゃから、表沙汰となら ば、兄に答めは無い筈じゃ。これを同罪の如く切腹せよなどと、ちと勝手でないか」 コ応それは道理じゃ。しかし、隼人殿とてこのままのめのめと内蔵允と顔を合せて、殿の 前にも出られまい。こうなった以上、互に士《さむらい》らしく取るか取らるるかの事をしずばなるま い。そうなってから一家の大事となるより今の内に納めた方が、御家も安泰なら、内蔵允の 家も無事、つまり両家を重んずるから、友之丞がすすめるのじゃ」 「御心添えは恭《かたじ》けないが御断り仕る」 「隼人にとにかく話してみられい」 「いいや、話すまでも無い」 友之丞そのまま立戻る。 「承知したか」 「いいや、隼人へは殿から御見舞人まで来ている。残念ながら後で計るより法は御座るま い」 「左様か」 「万事、源八郎と伝蔵と、談合の上、一応は殿へ、それから江戸へ、もし聞かれずば、討取 るだけじゃ。隼人といわず主馬と云わず、九兵衛の阿呆も撫斬《なでぎ》りにするまでで御座る。心置 きなく腹を為《な》されい」 「その一言を土産に」 と、憩蔀風椎の鎧通、舌ヘき鎧きを当ててから、腹をぐっと戯ヂで右へ押したが、皮の張っ た左の坪、浅く入れてすーっと右へ、 「快く斬れるぞ」  と、微笑んで、一座の人々の蒼白《まつさお》になりつつ見守る顔を一廻り見たが、双手に取直すや、 大頸脈をぷつりと突切る。二尺余りさっと飛ぶ血。ばさりと音立てて畳の上から白布へかけ て滲むと共に、くずれるように前へ伏た内蔵允、ずっと甘ヲが延びると共に、横へ倒れんと するのを、左門抱かかえて、 「御臨終」  と呼ぶ。次の室に畷泣《すすりな》く声が俄に起る。源ハ郎合掌していたが、友之丞の、 「見事で御座った」  と云う声に、目を配ると、友之丞、よろしと目で知らせる。立上って鎧通を三宝へ、二尺 四方余り、血響れになっている白布の上へ膝を突いて、延した右手轟ろに厨げつつ脈をさ ぐると、事切れている。胸へ手を当てたが響かない。左門と二人で抱起すと顔色は蒼黒く変 っている。そのまま新しき畳へ移して、伝蔵、外記、源八郎、左門の四人、四隅を持って湯 灌のため次の室へ運ぶ。 四 深沢村閑居 鳥居螂蕪衛際の脱出によって、織田徳川の連合軍が、轟艦へ殺到してきた。武田勝頼豪勇 一徹、それを迎え撃ったが、連合軍の戦法は新しかった。柵を三重に立てて、ただ鉄砲のみ で戦った。千戦万馬の武田勢もこの新武器に対しては、ただ死傷を出すのみであった。かく して長篠の城が助かった時家康は城将、奥平信昌を召したが、二十二歳、実際に指揮してい たのは五人の家老に七人の一族の者、諸共《もろとも》に呼ばれて、 「無類の誉《ほまれ》じゃ」 と、手を取って功を称された。隼人の父も内蔵允の父もその中の天である。当主ガ縢の |亮昌能《すけまさよし》、二人の家柄がこういうのであるし、隼人は二千石、第一の上席にいる。内蔵允の方 から隼人の処分を願出るが、手が付けられぬ。二人ながら大御所御声がかりという家だか ら、主人の気のままに処分が出来ない。使を江戸へ立てて伺うと、 「内蔵允は乱心と見えるから死損、隼人の処分はよろしきよう」  という返事である。昌能、この命に従って内蔵允の家を改易にすると共に、隼人の家も改 易とした。この処置は公平であるが、内蔵允の一味にしてみると、隼人を殺すのが目的であ るから聞かない。城下に不穏の噂が立つ。  奥平伝蔵、この上はと江戸へ直々に願書を出して隼人の処分を乞うたが返書が来ない。そ の内に源ハ郎追放の日が来たから、邸を立退いて、那須郡《なすごおり》深沢村という宇都宮から東北十 里、ハ溝山の下の村間《そんかん》へ邸をもった。 「殿は武士の情を知らぬ。内蔵允が悪いにせよ切腹した以上、隼人にも腹を切らせるのが主 の道じゃ。それに源ハ郎を追放しておきながら、隼人を壬生《みぷ》へ警護をつけて落すなどは不坪 な話じゃ」  と源ハ郎の一門は怒立った。これは昌能の手落である。隼人の処分が寛大であるとして、 源八郎一味が凝議していると聞き、隼人を同国壬生の城主、宇都宮から西南五里の所の三浦 馴麟鵠安次へ頼んで・人数三十人余り付けてやったのである。 「よし此上は、飽まで武士の意地を立てる」  と、桑名頼母、六百石平野左門、二百石細井又左衛門、二百石同嘉兵衛、夏目外記、大内 十太夫、百五十石川俣三之助、上谷甚五右衛門、三百石白川ハ郎右衛門等、銘々禄を捨てて 宇都宮を立退き、深沢村へ集って来た。  深沢村と壬生の間十五里、足の強い当時の人々には一日の行程である。深沢村からは日々 に姿を変えて探りに来る。壬生では新に番所を置いて怪しい者を一切城下へ入れない。その 内に、宇都宮からの噂が追々に大きくなって壬生へ聞えてくる。 「今日は誰々が二十幾人深沢村へ行った」 「鉄砲五十挺、深沢村へ送ったらしい」 「又、源八郎方へ加勢が行った」 「二百人ばかりになったから壬生へ夜討にくるらしい」  と噂に尾鰭がついて、壬生の人々|悔《きようきよ》々としている。隼《う》人も、それを聞くと凝《じつ》としておれ ないので、志摩守に、 「江戸へ出ようと思う」  と云うと、 「それは危ない、幸い、信濃の諏諦欧幟と近しいからここヘ行っては、信濃は天険の地じゃ し、隠れるには究寛、源八等に判らぬよう送らせる」  からと、一夜の夜半、一人ずつ姿を変え、暫く行って待合せ、其処から志摩守の手の者に 守られて、深沢村の人々を出抜いて信州へ行ってしまった。  それと共に、寛文ハ年八月三日になって、殉死のことといい、内蔵允の事件に就いて、家 中は退散する者が多いなど、家中に対して、不処置である。重い答めのある筈であるが、長 篠の武功を思って、宇都宮十一万石より二万石を減じ、山形へ移して九万石を与えるという 達しが幕府から来た。  隼人の弟主馬は九百石で、山形へ引移ったが、兄の隼人が諏訪へ行ったという話を聞い て、遠く山形へ離れていて、万一の事のあった時、のめのめ禄に迷って兄を助けなかったと 云われるのが残念であると、殿へ暇を願った。丁度その時、隼人と共に諏訪へ行っている兄 弟三人の父、奥平大学、隠居して半斎からの使として、二天流の達人柴田勘左衛門という高 田の浪人と、小野徳兵衛という九州浪人がきて、 「信州からお迎えに参りました」  と云って来た。 五 十一人 「隼人が諏訪へ落ちた」 と、二一一百して知れた。志摩守の家中に磁ぽ、源八郎に同情する者があったのである。深 沢村からは又探りの者が行った。隼人の隠家は城下に近い、「窪」という所で、四方が深田、 正面に一筋細い道がついているのみで、到底近づく事の出来ない場所である。斬込んで取巻 かれると袋の鼠になる場所である。 報を聞いて、源ハ郎一味は、 「諏訪へ引移ろう」  と、ほぼ議が決まった。その時に、山形の兵藤玄蕃から、 「主馬が諏訪へ行こうと御暇願を出した。殿も出府中故、使を江戸へ立てて伺わしている が、もし許されるとしたら途中で討取れ」  と知らせてきた。 「名策」  と、頼母が叫んだ。 「主馬さえ討取らば隼人は討てる。彼奴《あいつ》め、強情我慢、腕自慢じゃ。主馬を討って、せいぜ い怒らせる流言を放たば、己れから飛出してくるは必定じゃ」  と、玄蕃へ、 「日が定まらば、すぐにお知らせ下されたい」  と使を出しておいて、 「外記、御苦労ながら赤湯辺へ行って、玄蕃氏と連絡をとって下さらぬか。ここでは万事不 便じゃで」  と、外記に下僕一人を添えて赤湯へ出す。それと同時に、間者を山形へ派して主馬の動勢 をさぐらせる。いよいよ信州へ立つらしいという事が明白になってきた。しかし、信州も山 形も山国の事、冬の旅は難儀であるからとて、雪解けを待つ内に、寛文八年は暮れて九年に 成る。  どういうものか江戸から暇許すとの返事が来ない。一日一日待つ内に夏に入った。深沢村 では、主馬が用意しているとの知らせを聞いて、外記の踏査した地形のいい所で討取ろう と、赤湯へ立った九人。奥平伝蔵に若党新兵衛、平野左門、上谷甚五右衛門、大内十太夫、 川俣三之助、外記の若党の甚五兵衛、太郎左衛門、安太夫に仲間四《ちゆうげん》人。外記と前に従って行 った三郎左衛門と合せると十五人。 「いよいよ立つらしい。又冬になっては叶わぬからの、主馬も気の長い男じゃて、拙者が此 処へ来てから半歳、近頃では百姓が手紙の文字を聞きにくるて」 「又と出来ぬ湯治じゃ。女の一人も出来たか」 「御身であるまいし、拙者は女より此の方じゃ」 「湯治場なら持って来いじゃ」 「何、田舎者の真黒々での」 「無駄話は後にせい、場所は?」 「ここから二里に上の山という湯町がある。此処の少し手前の藤江村の附近じゃ。明日にも 行こう」  と、敵の人勢などは眼中にない。玄蕃の便りと、間者の戻るのを楽しみに其夜を送る。 六 上の山 寛文九年七月十五日朝、玄蕃の手紙をもって、間者二人が駿灘った。手紙を披見すると、 「主馬は十五日、又は十六日に出立するであろう。用意怠り無きよう、勝利を祈る」  という意味である。間者に聞くと、 「乗馬の用意、駕の支度、邸内外の出入り、それに相違御座りませぬ」  と云う。 「さらば、今夜の内に打とう。十六日と云っておいて、早く立たれては水の泡じゃ。馬問屋 へ行って、馬を六頭廻すように云って来い。それに兵糧じゃ。三食も要ろうが。少ないより は多い方がよかろう、さあ、用意々々」  と、得物を改め、支度を調べて夜に入るのを待つ。 「馬が五頭しか御座りませぬが」  と、仲間左伝次の返事に、左門、 「拙者は歩く」  と決めて、時刻になると鍵櫓吾ぼ腰樂をつけ、轟欝げ鑑〃りの鉢巻、夏の事だから軽いが 上に軽く、手槍をかついで出たのが四時少し前、露の降りている路を、提灯の灯りで、さし て行くのが上の山の街外れ、赤湯から峠を一つ越えると上の山の領其処の藤江村の木蔭。一 年の月日を費して此処ならと決めておいた場所だ。味方の隠れるのによく敵の近づくのを見 るにいい、深田を左右にして米沢街道の一本筋。三人が立並んで槍を構えたら、いくら敵が 多勢でも三人に三人しか向えぬ究寛の足場。少で多を迎え討つのは此処より外にない。  七月十六日の午刻《うまのこく》少し下り、妻子、若党に附人と合せて主馬の一行が四十一人、弓一張に 鉄砲】挺、馬上ゆたかに跨った主馬、九百石の大身だ。鎖帷子の上にすぐ藤色の陣羽織、左 右に添うて若党、槍持ち、堂々として、いつでも来い。何処かで現れるにきまっているか ら、寸分の油断も無い。諜者も入れてあるし物見も出してある。二里の偉概何事も無く、入 ってきたのが上の山温泉、奥羽三楽郷の一と旅行案内に書いてある街である。三楽郷とある からどんないい所だろうかと行ってみると何の変哲も無い淋しい小さな街だけだ。山陰第一 の歓楽郷と麟ましいから行ってみると猫の額みたいな所が、三保ヶ関。田山花袋が五州屈指 の遊蕩地だと書くから、いろいろ望を立てて行くと薄汚い女郎屋が七ハ軒立っているのが武 雄温泉、描ぴ今は焼けてどうなったか知らぬが、旅行案内というものは、いつもいい加減な 与太《たけよた》をかいて困る。上の山へついたのが辰の下刻というから朝の八時、とある店先きへ休憩 して茶を喫していると物見が引返してきた。こいつが引返してくると事だ。いよいよおいで なすったと、 「大儀、どうじゃ敵は?」 「はっ、申上げます。人数は十五六人で御座いまして、御案じなさるには……」 「何処いらまで参っとるぞ」 「はい、二里まで迫って来居りましたでしょうか」 「二里か? 一刻の間じゃの」  調べてはあるが又目釘を改める。もう茶を落ついて飲む者も少ない。 「いや、おもしろい、久々で人間を斬るて」  と悠然、濁酒《どぶろく》を傾けているのは、信州より主馬を迎えにきた小野徳兵衛。六尺に余る大 兵、貯驚卯欝二尺七寸五分という廓翼げ一刀を自慢にさしている。 「十五六人か枇一人でもいいの」  と云ったのは、二天流の柴田勘左衛門、鬼髪の生えた赤ら顔、見るからに強そうな士《さむらい》で ある。 「女子供は鷲響趨へ行け。枇等は」と蹴にして後から追つこう。駕籠の供をして、市助そちが 行け」  小者、仲間と合せて十六人。これが主馬の奥方、息女を守って梨毛越へ出る。あとの人数 は選んだ士、若党と共に二十五人。二人に一人の対手だから心丈夫である。  二十五人を三段に分けて、弓、鉄砲を前に、馬上の主馬が真中に、背後に押える小野徳兵 衛。上の山から一筋路、米沢街道を押して行く。 七 藤江村の血戦 「左伝次、蟹服あの樹へ登って物見せい。川俣は、あの百姓家の翫衡に居って、拙者の合図 で後を切取ってくれい。その六人、川俣氏へついて行け。左伝次、頼むぞ。村外れに現れた ら扇で合図してすぐ降りて来い」 敵地で多人数を迎えて小人数で討つのだから、腕に覚えはあるが策戦も周到にしないと味 方の不利は大きい。夏目外記の指図で、森の小蔭に待受ける。八時というと、もう燕陽は高 いが未だ出てくる藪蚊にさされる人がある。竹筒を取出して盃を上げる。どうせいらないも のだから残りの握り飯を又食う人もある。 「主馬殿、こりゃ悪い、足場の悪い所じゃ」  と勘左衛門がいう。 「いかにも」  と口で答えて心の中、こりゃ困ったわい、と思う途端バラバラと立現れる十人ばかり、は つとして、主馬の手と腰は本能的、タタ馬を乗下げて足場のいい所をと、捻ってみたが前も 後も人だ。今更どうにも仕方が無い。敵に飛道具があると危いと早く降立って鞘を払った十 文字槍、 「周章《あわて》るな、敵は小勢じゃぞ」 「供方、後ろへも注意召されい」  今出るか今出るかと用意はしていたが、さて出られて見ると多少は逆上《あが》り気味になる。勘 左衛門はいい注意をしたのだが、「後にも敵」と云われると小人数と知っていても、一寸《ちよつと》振 むきたくなるのが人情である。振向くと自然に陣立が動揺する。二間柄の素槍、簿献賠動銘 二尺五寸の麹伽、一番駈けに走寄る奥平伝蔵。ブウ1ンと羽音高く、切って放たれた一筋の 矢、あなやと見る。発止!物の見事に伝蔵の胸板に当った。主馬しめたっと思ったが不思 議。伝蔵平気な顔をして平気で駈寄る。間髪を入れず、続いて射出す二の矢、これも見事に 当ったが郷遮してしまった。当ったって裏へ抜けないと、弓なんて物は仕方が無い。がっか りした射手は弓を捨てて刀を抜く。この時伝蔵のつけていたのが、寒竹の根で編んだ着込 み、軽くて丈夫、伝蔵が自分で射てためしておいて、これなら矢表に立ってもと、自信のあ る代物だから、そのまま二間柄の穂長槍、近づくや、大喝、 「退《ど》けっ、邪魔すなっ」  と繰出す電光石火。真先の若党共思わず二足三足下る。伝蔵につづいて平野左門、大内十 太夫、若党の連中に夏目外記。 「さ、参れ、柴田勘左衛門じゃ、二天流の遣い工合、見せてくれようぞ」  右手に二尺三寸、左手に二尺の太刀、天地に構えて、 「参れっ」  と、大内十太夫に目を合す。 「来い」  と十太夫右から若党三郎左衛門が左から、二人でかかったが柴田の刀法は鮮かである。 「そらっ」  と閃く右剣の鋭さ、一足下って三郎左衛門が受ける。この隙右から斬り込む十太夫、早く も返した右剣、パチ1ンと払いながら、颯と斬降している左剣の妙、十太夫の身がくずれた ら、南無三と救いに斬込む三郎左衛門、身を牒すなり、左剣をぴたりと十太夫につけて、右 旋した太刀が三郎へ斬込む。この早業に三郎左衛門、肩口へしたたか斬りつけられる。 「主馬っ、久方振りの見参じゃ、いざ」 「兄への土産、覚悟」 位づけるが早いか、横なぐりに柄へ当てて突入ってくる伝蔵の大力と早業。まともに受け ると柄が手から放れてしまう。繰引きつつ一足退る「間《かん》」早くも、突立ててくる伝蔵、主馬 が士子の槍でからまんとするのを避けて力に任せ横なぐりと跳上げの二手。さっと合せた三 四合。 「エヤッ」  ピシーリツ、主馬の突出した槍を横なぐり、一薙ぎ薙ぐが早いか、右手に籠めた力、左手 に計る此処ぞと思う所、上向きに身体と共に、突いてかかった鋭さ、主馬の胸板穂の見えぬ までに田楽刺、 「うむっ」  と口に含む物凄い捻き、つーッと三尺余りも血が飛ぶ。唇《くちびる》を噛みながら、よろめく脚を 踏しめて主馬、しっかと伝蔵の槍の柄を握って、右手を刀へかける。伝蔵突刺したまま右へ 捻倒そうとする。この刹那、飛鳥の如く踊りかかって、ど1んと一つ体当りをくれて、よろ よろとなる主馬の咽喉へ手を当てるや、脚がらみ、どっと重なり合って倒れたのが平野左 門、主馬の右手を膝の下へしくと共に脇差の閃き一刺に留めを刺してしまった。ほんの瞬間 の事である。伝蔵と左門が決死の働き。柴田が二人を対手にしている隙に呼疲もつかせず討 ってしまった。怒立った柴田。二人の刀を引外すなり、 「うぬつ」  と大喝、閃く光と共に、左門もさっと蝶す、肩を掠めて流れる太刀、と共に左剣は伝蔵ヘ 斬込む。ひらり飛退って槍をすてる。この二人へ二刀で斬つけた「間」夏目外記が右手から 横に払ったア難風律柴田の頬へ一文字、と共に槍を捨てて抜討ちに伝蔵、今外記のこの横か らの太刀に満面を繍にしつつ血走る眼、一討にと振上げた柴田の右手、水も耐らず斬落す。 途端柴田が左手の働き、左剣が伝蔵の腰ヘ突いてくる「間」外記の二の太刀が柴田の頭から 鼻へかけて十分に、柴田勘左衛門、目量《めまい》がするとともに、喰くように一足踏出したが、どっ と倒れる。  小野徳兵衛はいけない。自慢の貯饗如欝二尺七寸を振廻していたが、ヂ蔀ぞろいの源ハ郎 方だ。寄らず触らずにあしらったから、刀がだんだん重く成って来る。寛文頃になるともう 璽廓げ強刀などは野暮である。荒木の燕銘違も重厚だし、川合甚左衛門のもこの同田貫だ が、その時代以後余り瀞律らない。葺擢十郎左衛門などという人のは七尺も有ったと云うが 斬るのではなくて搬るのである。槍もそうだった。突くよりも引っ叩いた方が効があった。 剣道が研究されて以来、だんだん短くなって、小太刀などといって一尺三寸或は尺七八寸止 まりの得物を軽く自由に使う法さえ流行った。戦場にしても平時にしても自由の利かぬもの はどうもよくない。榊原康政という徳川の四天王の一人は全身に二十数ヵ所の傷があって大 分自慢のものだったが、この人の軍装《いでたち》は実に仰《ぎようぎよ》々しく用《う》意した。本多忠勝も四天王の一人 だが、この人のは至極軽装だ。それで一寸《ちよつと》の傷も受けていないが、この人は常に「戦場では 軽装に限る」といっていた。真田幸村という人も、いつも軽装で、前にしか擁則をつけなか った。金持は苦労するが貧乏人は気が軽くていいというようなものである。おでんやの立食 など、軽装しているに限る。  次第々々に癬杉増した小野徳兵衛に立向ったのが、若党中での腕利き左伝次。打込む太刀 先を避けて徳兵衛一歩退く、踏外してぼちゃりと落ちたのが深い泥田。大兵肥満で六尺有余 の大男だから、すっぼりと泥の中へもぐってしまった。 「こん畜生、ざま見ろっ」  若党は若党だけの事をする。立上ろうともがいている徳兵衛の上へ馬乗りに、いきなり首 っ玉をつかまえてぐいぐい泥の中へ押込むと共に、泥を掴んで口の中へめちゃめちゃに押込 んだ、いやひどい殺しようもあったものである。鼻と口へ泥を詰められて殺されたから、ド ロドロと化けて出るのはこの徳兵衛の幽霊が元祖だという。余り器量のいい死に方で無い。 主馬を始めとして討たれた者が七人、手負は無数。源ハ郎の方は軽い手傷を受けた者が少々 あるばかり、物の見事に戦った。  傷へ手当をして馬上に、本道の梨毛越へ行くと、関所がある。 「成るべく威張って」  と、主馬の一行と見せて通るつもり。傍の茶屋へ、 「先刻、女子供の駕が通ったかの」  と聞くと、 「はいはい半刻の前に御通りなさいました」  と云う。万一関所にその中の一人でも残っていて、主馬で無いと云われればそれまでと、 悠々差かかろうとすると、役人が出て来て、 「奥平主馬殿の御一行で御座るか」  と聞く。 「左様」  と云いつつ馬から降りると、 「奥方様は先刻御通行になりました。何か途中で事が有りました由、陰ながら案じておりま したが麟芯も無事で御座りますか。御休憩の上、どうか、拙者御案内っ儂っりますで」  と一人で呑込んでいる。伝蔵心の中に神に祈りつつ、 「さらば御供を」  と関所へかかる。関役人のいろいろと聞くのを、軽く、 「何、一当て仕って追散らして御座る」  と、前途を急ぐからと、 「道中御無事に」  の挨拶を受けて、馬を早めて出るが早いか左門、 「わはははは」  と、大笑に笑出して止めない。一同それにつれて、笑いくずれつつ米沢を避けて仙台領へ 入り、 無事深沢村へ立帰った。 ハ隼人出府  主馬の首が諏訪の城下外れへ臭《さら》されたのが四五日すぎてから。 「弟が討たれて口惜しくば、那須ヶ原まで出て来い。いつでも勝負をしてやろう」  という、奥平隼人あての捨札が打付けてある。隼人、烈火の如く怒った。隠匿っていてく れる慰儒鷺の言葉も聞かなけりゃ、父半斎のいう事も容れない。敵には謂ごがあろうが無かろ うが武士の意地、のめのめ弟を討たして安閑と忍んでいるような腰抜武士とちがう。誰も行 かなければ独りででも行くと云うから、従って立とうと申出たのが十六人、隼人を合わせ十 七人の一行、諏訪から和田峠へかかって碓氷越《うすいこ》え、松井田在は琵琶の窪へ来た時に、 「おお、九兵衛殿、何処へ行かれる。轍部伊繍で御座る」  と馬を止めて声をかけた武士がある。旗本の幅利《はばき》き、大久保加賀守の客分で軽部伊織と云 う文武双備の士として中々評判の人だ。加賀守の使として隼人の那須行を留めにくる選、ぱ ったり此処で遭ったから条理をつくして其無謀をとどめる。  隼人も云い出してからは、後へ引けないし、人が止めると無理でも自説を通そうとする男 であるが、さてこうして打立ってみると、敵のは講ごにかかりに行く事は、明かである。少し 気がゆるんでいた所へ伊織に説かれたので、 「さらば、よろしきように」 と、松井田から磯部へ出て高崎へ泊る。深沢村から出てきている見張りの者、一行の泊っ たのを見届けて別へ入る。早朝から又先に一人、後に一人、姿を変えてつけて行くと、高崎 から左へ折れずに、真直に行きかける。先に見張る一人、驚いて引返して、後の一人に、 「どうするつもりかまさか道を取違えたのでもあるまい」 「もう一日、二日随けてみようでないか、さすれば大分判ろう」 と、嘉貝野、新町、神保原、驚僻までくると、江戸へ行くと判った。一大事と、天はそ のまま馬を借りて深沢村へ、一人は一行に見え隠れ、江戸の何処へ落著くか、随けて行くと 大久保加賀守の邸へ入った。すぐ引返す深沢在、右の由を告げた、左門、左伝次等が、江戸 へ上って伝手《つてつ》々々から、大《て》久保の事を聞出すと、一時は匿れていたが、今は何処に居るか判 らぬという事が知れた。据餓、主馬を討っておびき出しておきながら、江戸へ入れて知れな くなったから、桑名頼母を初め、伝蔵、外記と出府していろいろ探したが少しも判らない。 その内に寛文十年が暮れてしまった。  下谷車坂に家を設けた桑名頼母、平野左門を韓越に変装させて、大久保加賀守へ出入りし ている米屋へ住込ませた。一日、この米屋を出た五台の大ハ車が、市ヶ谷外浄瑠璃阪の新し い一軒の邸の中へ引込まれた。 頼母と左門は此処へも目をつけて、夜に入ると、その辺に立ったり歩いたりしていると、 まさしく隼人に加担している二一ニ人の姿がその邸へ出入りした。左門はすぐ米屋の手からど の位月に米が収まるかを聞出して、人数少くも六七十人は居る事を確めた。  左門はすぐ深沢村へこの事を知らせに⊥)ぢ。頼母は邸の周囲から推して、間取り、防備の 荒鷹を地図にして、続いて深沢へ戻ってきた。新邸を築く以上、ここに永住するときまって いる。此処に居るとすれば、引出して討つか討入るかであるが、引出す事は警い。討入る とすればどうしたがいいか。  牛の皮の頭巾、羽織、著込み、股引、というような装束の外に、榔曝、掛矢、の舞りの類。 相印として白木綿の鉢巻に、同じ地の袖無し羽織へ黒く横に一筋印を入れたもの。合言葉 は、「沢」と云えば「深」と答える。  敵情を探りつつ、江戸へ往復して用意をしている内に十一年も経った。 「利根を下って、浅草河岸へ出るとしよう。隣躍は危険じゃ。怪しいと見答められたらそれ までになる。船路なら関宿の関門一ヵ所あるが、田舎の番所じゃ、袖の下と口先一つで何ん ともなる」 「浅草で船役人の取調べに逢った時にはー. 「小田原より江戸への番船で御座る、と答えて、この提灯をつけておくがよかろう。稲葉美 濃守の定紋がついているから、之れ以上調べはすまい」  と、頼母こう指図をしておいて、一足先に江戸へ出る。 九駒形河岸  寛文十二年二月一日、利根を下って海へ出た。八時頃になると西風が起ってきたが、正午 前から西北に変って波が高く危なくて仕方が無い。一時、山川という所へ船をつけて風の止 むのを待ったが、到底今日中は止みそうにないと船頭のいう言葉に、行手を急ぐ一行は、房 州半島を横切って千葉へ出て、其処から別の川船を仕立てて、ようよう駒形へついたのが、 それが二日の夜半であった。  江戸でも矢張り大風である。風の烈しい上に正午頃二度地震が揺《ゆ》って、それと同時に小さ い火事が二三ヵ所に起った。本郷弓町から燃出した火が可成り大きくなったが、それが消止 められると同時に、又地震がきた。頼母は究寛《くつきよう》の時と、市ヶ谷へ出て様子を伺うと、敵の警 戒余り厳重でなさそうである。  夜に入るとすぐ河岸へ出て行った頼母は、風の為に提灯を出せぬと知ると、 「伝、々」  と、大音に呼び歩いた。合図を聞くとともに船頭姿をしている大関権兵衛が出てきて、無 言で船へ引入れた。 「よく来られた」 「この風で殊の外難儀しての」 「その代り都合がいい、少し怪し気な風体でも火事見舞で済んでしまう。今酒と肴がくるか ら」 「有難い、川船で火を起そうにも、付木に火がのらぬでのう。火の気は無し、餅一つ焼け ず、握飯は無いし、休所へ休もうにも船の中じゃし、空いたの空かぬの」 「ゆっくりやられい、拙者は一走り馬と駕をつれてくる」  浅草二十軒の高屋へ頼んで、馬十五疋、乗物三挺。 「馬子衆、寒いのに御苦労」  と、すぐ投出す酒手。 「ヘッ、ヘッ、商売で御ぜえやす」  とぺこぺこと頭を下げつつ、金の高を掌の中で見ている。 「兄弟、ごの字だぜ」 「そうよ判ってらあ、今頃から十五疋なんて訳有りさ」  その内に真夜中すぎになる。高屋の主人は近火で急がしく、そのまま姿を見せぬ。頼母馬 子を指図して河岸へ行くと、 「飯が来ぬて、頼母」 「はて」 「腹がこうすいては……」 「もう擁ヲならぬ。夜明けに間が無いからの」 「馬子、手伝ってくれい」  と、船中から運出す菰餌みの武器。 「長えの、団州、こりゃ槍だぜ」 「叱《し》ッ、何を申す」 「へへへへへ、逃げ隠れするような馬方じゃ御座んせん。金にせえなりゃ盗人の荷物でも運 びます」 「えらいぞ。著いたら酒手を増すぞ」 「へい、御乗物は」 「こちらへよこせ、源ハと細井氏、それに父上、御召しなされ」 と、子供老人を駕にのせて真中に、健歩と馬上の者と、一行総勢四十人余り。源ハ郎十七 歳、伝蔵二十六、外記同年、桑名父子に頼母の弟三七、白川ハ郎左衛門、細井父子、後藤安 左衛門、武居伝兵衛、左門、三之助、大内伝之丞、箕輪新右衛門、十太夫、大関安右衛門、 同弟権兵衛、太田原清左衛門、池田平兵衛、水田喜左衛門、沢部久右衛門、稲代《いなしろ》源七郎、大 里清兵衛、藤沢作太夫、若党中村彦太夫、同吉田バ十札充、同吉田三郎左衛門、鷺鷺、借鵬 えゼん しよざえもん 衛門、所左衛門、左伝次、外五六人である。  駒形から真直に下谷へ出て、お茶の水へかかる。水道橋をすぎると水戸邸の横、今の百倍 も淋しい風が土砂を飛ばして吹いて行くほか人一人だって通らない。ここで馬を止めて一行 装束をつける。中に頼母、若衆の前髪立てた量《かつら》をつけたが、源ハ郎を敵に討たさぬ用意。  残りの酒を汲んで船河原橋を渡り、外濠に沿って市ヶ谷へ急ぐ。  浄瑠璃阪というのは、今の市ヶ谷見付外である。見付を外へ突当ると郵便局、左が市ヶ谷 のハ幡。右へ行くと家なら四五軒で、すぐ左に急な阪があるが、これが左内阪で、この阪の 右半町程で又左への横丁がある。その横丁から十四軒目にもう一つ左へ入る阪があるが、こ れが浄瑠璃阪である。濠の方からだと、蕊擁礼次郎の邸の石の門が見えている。この若槻邸 の角から上る阪がそれで、阪上が徽旺鑑灘。登り切って突当ると奥大将の邸、そこから新見 付から矢来へ通っている広い路へ出るが、東から行くとつまり新見付|鰻阪《うなぎざか》の一つ左の阪であ る。崖に面した邸だと云うから若槻と神田の邸の間にある家の遜ポ隼人邸の跡であろうが詳 しくは三田村|鳶魚《えんぎよ》氏など御承知だろうと思う。 十夜討  立樹を掠めて吹く音、木の葉を巻いて打ちつける音。時々夢を破られるが、破られては又 まどろむ暁近く、凄まじい物音、一時に門の辺りに起るのは「さてこそ」である。鈍くどど ーんと響いてくるのは掛矢らしい。鋭く低い音は斧である。三度、四度どどんと響くや、忽《たちま》 ち木の砕ける音、閂《かんぬき》の落ちる響、風のまにまに人の近づく気配、兼て期したる討入なり。 翼 の前を合せるや、枕元の万、儲継を取って‡子の檸、床の下へ敷いた鎖鉢巻手早く締 めるや、暫く様子をうかがう。雨戸の隙間にちらちら灯の洩れて、消えつかくれつするのは 熾雌である。と早や玄関口では矢声がかかる。蜜心で、 「夜討だぞ」 「周章《あわて》るな」  というような叫び声がするが、悉《ことサしと》く起上ったらしい、俄に騒々しくなる邸内、庭をどし どしと駆ける足音「横門は」と注意する。とここも破られたらしく、勝手口の戸の砕かれる 音がけたたましい。裏の敵は、あの室の者、表の敵が近づくまでには、此処と彼処と、同じ 家中で顔馴染の連中ばかり、卑怯な振舞は微騒もしてはならぬ。鞘を捨てて擁ルのまま廊下 づたいに行こうとすると、不意に襖の倒れる音、今抜駈けの敵が次の間まで迫ってきたので ある。  隼人方の面々は、当の隼人四十二歳、その父半斎に弟九兵衛、嬢饗大塚与左衛門、その外 召抱えの浪人と一門、総勢合して七ハ十人。ざっと倍だが強さがちがう。  板倉彦左衛門薙刀の達者、 「寄れっ」  と叫ぶや、ハ法の本手上段の構え。 「何をッ」  二間柄の穂長を手頃に切落して邸の内で使よくした手慣れの槍、夏目外記が懸ってくる。 石突の働き目にもとまらず、発止と槍を払うや、手車返し閃いた光と共に、 「エイッ」  外記の槍の柄を斬落す、ひらりと返した長刀と共に、一足踏出すや石突で外記の真向をハ タと打った早業。外記は鎖鉢巻をしめていたので手は負わぬし、気が立っているから痛みも 無いがこの手練では退っては危ない。石突で打を入れたので一寸隙《ちよつとす》いた「間《かん》」槍をすてて飛 かかった外記、淀郁に心得のある武士だ。引組むや、どんと当てた急所、内股でからんで】 押し倒れる咽喉《のど》へ一拳、 「新兵衛、首取れ」  抜放った国行、伝蔵のあとを続いて奥へ駈入る。投入れられた炬火の火が、風になびいて 地を這っている。ここかしこに雨戸を外して庭へ降りた人々は、木立、灯籠を小楯に斬結 ぶ。 「庄造、そち寛《かけい》の邸へ参って隼人の様子をつげい、急げ、九兵衛、与左衛門、出るな出る な。浪人共が防ぐ内に隼人が戻ろう、今半時じゃ、騒ぐな騒ぐな」  七ハ人の浪人、四五名の小者を引つれて奥の一室《ひとま》に指図しているのは隼人の父半斎であ る、曲縦ヂの夜着に鎖鉢巻手槍をもって突立てている。鍔音、太刀音、襖障子に当る音、物 の砕けて落る音、叫び声。 「隼人出合えっ」  と呼ぶ声が次第々々に近寄ってくる。中庭の小柴垣、この蔭に身を潜めて十文字槍を取っ た軽部伊織、源八郎を打取って敵の勇気を砕くつもり、襖の隙、戸の影から知られる前髪姿 の次第々々に味方を追立て、斬落して近づくのは源ハ郎とそれを守る一団である。十分に構 えた槍先、程よしと踏出しながら、 「エイッ」  ひらりと蝶した前髪の素早さ、さっと繰引く手元ヘ、 「己れッ」  と斬込む一人、引くが早いか、突出す手練、胸の真只中《まつただなか》を田楽刺に、突かれながら双手で しっかと柄を握って引抜こうとする。槍を抜かすまいとする武芸の心得で、この隙に斬込ん だ前髪の若衆、伊織蝶す隙も無くしたたかにやられたが、刀へ手をやる途端、飛込んだ体当 て、どんと当てられて、どっと倒れながら横に払う。手答えはしたが脛当を切っただけであ る。倒れたまま伊織は刀を構えている。若衆は刀を提げたまま隙をみている。 「軽部氏でないか」 「おお、そういう声は桑名氏か、前髪立で?」 「源八郎の身代り、軽部氏、今突留められたのは拙者の弟で御座るよ」 「おお、貴殿の」  この上の争いは無益である。軽部も桑名も名誉の武士、討つべくして討ち、討たるべくし て討たれる。  隼人を罵り、隼人の居間へ行ったが姿が無い。左伝次は掛矢を振って戸さえあれば破る し、天井、押入、物置と次第々々に探したが見えない。廊下づたいに半斎の居間、残りの敵 の集っている一棟へどっと殺到して行く。暫くは食止めるが、忽ち追われて庭へ逃げる者、 奥へ還って行く者次第々々に追つめられる、夜が明けてきて薄あかるい。熔殖が消かかって も敵と味方の区別はつく。 「小宮、高橋、柴田、皆やられた」 鉢巻を落して、髪を乱した一人が、せいせい云いながら云う。 「御逃げなされい。敵は大勢で到底防ぎきれませぬ」  矢声、鍔音が次の間まで近よってきた。襖に耳を寄せ、柱を小楯に半斎を守る人々は用意 して、槍、刀を構える。どっと襖を蹴ちらす音、倒れかかるのを払うと、 「さ、参れ」  と血に染んだ刀、槍、つづいての銘々、廊下から室《へや》へ立並んで構える。じりじりと進む 者、退く者、暫く物凄い静かさがあったと思うと「エヤッ」と裂吊の如き叫び、一人が突倒 されるや、忽ちつづいて烈しい太刀打の音。 「いざ半斎が老後の思出、戦場往来の作法を見せてくれよう」  槍をとって居間から庭へ降りる。 「源ハ郎は何処じゃ、半斎と槍を合さぬか卑怯者が」  と呼わる声に平野左門、 「珍らしや半斎殿、平野左門で御座る、いざ」 「おお」  と合す途端、 「左門、嬬ヲは拙者じゃ。父上御免っ」  と斬込む、九兵衛。カッキと受留めて笑を浮べた左門、 「九兵衛か、主馬が待っておろうぞ、左門が太刀先、さ、受けてみられい」  さっと一合、合せたかとおもうと鍔ぜりになってしまった。力に任せて左門が押す。押負 けると勝目は無いし、外すとつけ込まれるから面倒な勝負だ。じりじり押しながら脚を絡ん で倒そうとすると、途端引外して後に飛下る九兵衛、下って構える間もあらせず、気合いも ろとも、拳もとおれと突出す賎藪、鵬しながら引払う、外して返した左門得意の早業、九兵 衛肩から斜に十分斬られて倒れる。昔の戦場を往来した事もある半斎齢をとっては心の半分 も働けない。槍を片手に庭の隅に憩う、所へ寄ってきた川俣三之助、 「奥平半斎殿と見受け申すが」 「おお三之助か、御苦労千万、いざ討取れい」  と槍を樹の枝に立掛けるから、 「御老体を討ったとて三之助の手柄には成り申さぬ、窮命あれ」 「おのれ、武士の作法を心得ぬ。この老人に縄目の恥辱を与えて何とするぞ」  槍を取るや突いてくる、蝶しながら一歩二歩と下る三之助、老人の呼吸突立ててくる内に 狂いが見えるが早いか、発止と払う槍先、飛込ざまの大上段、一太刀で討留める。 「半斎、九兵衛を源ハ郎討取ったり、出合え隼人」  と呼ばわったが、答える者も手向う者もない。その内に火消役人堀田五郎左衛門が駈つけ る。子細を聞いて引取ってしまう。この堀田五郎左衛門中々の人物だ。野暮に手出しをしよ うものなら大変な事になるが「齪き諦」と聞いてさっさと引揚げてしまった。源八郎方で死 んだ者が天、重傷二人。それを戸板に乗せて小者をつけて本郷弓町の餓辺へ送る。引纏め たる人数がこの時二十余人、追討に気を配りつつ引挙げて行く牛込御門、夜は明け放れて風 もやんだ。水道橋から一文字に輝く太陽。飯田橋を右にかかって来たのが船河原橋。 十一 船河原橋決戦 選に聞える馬蹄の響。入乱れてくる様から推すると三五人では無い。 「追手じゃ」 「待て、用意せい」 「橋の上へ行け、防ぐに便利じゃ」  討入の諸道具を船で浅草へ運ぶ、そのまま食事もせずに牛込まで歩いて一夜中の奮戦、水 も砥に飲んで居ない。疲れ切ってふらふらしている所へ新手の追手が馬上で襲ってきたのだ から、一行も覚悟をきめる。飯田橋から続いてくる追手は四五十人ばかりである。その後か ら野次馬が雲の如く群らがってくるから、何れが敵だか人数も判らない。両側の町家は戸を 下しながら見物に出る。暫くする内屋根にのこのこと上ってくる奴がいるし、真黒に四方を 取囲んでしまった。 「源八郎、奥平隼人じゃ、恨みの槍を受けてみい」  ひらりと降立つや、下僕から受取る管槍《くだやり》は隼人が多年練磨の武器、目指すは源ハ郎と姿を 変えたる桑名頼母へ突いてかかる。頼母にとっては思う壼、わざと目立って右の端に出てい て隼人の突懸ける槍先をあしらいつつ下るのは、老巧桑名がは講、、味方の中へ引入れて包λ で討たんず考えである。一歩、二歩と下るのを附入り附入り突かける隼人の槍、頼母嚇誕と を知って細井又左衛門老人ながら老巧の武士、早くも敵の中ヘ斬って入るのは敵が功名を争 って自分へかかれば一人で五六人は引受けられる訳、己を殺して敵の数を減ぜんとする心、 同じく川俣三之助、敵方に半弓を射る者があって味方の困る事ひとかたで無いから、真一文 字にその者へ斬ってかかる。素破《すわ》と放つ一の矢、避ける間も無く前歯を砕いて奥歯へ当る。 つづく二の矢、ひらりと交して飛込ざま射手の真向斬って放った勢は鬼神もかくと覚ゆるば かり。中にも平野左門、当年とって二十六、身丈《みのたけ》五尺ハ寸余、白哲痩躯の美青年、又左衛門 を職げつつ三之助を助けて右を討ち左を避け前を追い後を払い、縦横無尽に働く有様ただ感 嘆の声のみである。  思うさま隼人を引つけた頼母、 「源八郎、源ハ郎、隼人へかかれ」  と大音声、聞つけたのが奥平伝蔵、 「隼人、見忘れもしまい伝蔵じゃ、主馬を討取った槍、受けられるか」  隼人の右手から突いて行く。危ないとみた隼人方の面々近寄ろうとするが橋の上の事であ る。左門一人に支えられて苛立《いらだ》つのみである。左門左から突かかるをかわして槍を引っつか むや右手へ引いて右手の敵へ叩きつける。右手から斬込む太刀は引外して横へ薙ぐ、前から 突かける槍は体を開いて流し、附入って蹴倒す。跳上げて体当り、敵の刀を奪っては投つけ る。暫くは近よるものも無い。  二人の槍を引受けた隼人、忽ち受気味となって欄干を背にしながら受流すのにかかってい る。今の船河原橋も大した橋で無いが、昔の翼搬欄干と云っても低くて粗末だ。頼母の槍を 払って伝蔵の穂先を避ける途端、とんと脚が欄干に当るや身のくずれ、得たり突入る頼母の 槍をかわすと共にそのままどっと河へ陥《はま》った。と、隙《すか》さず欄干へ手がかかるが早いかひらり と身を躍らせた頼母。つづいて伝蔵刀を抜く間も与えず双手を押えるや抜放った脇差、刺そ うとする下から必死の力を込めて跳返す隼人強力無双だから二人は咽喉《のど》などと云っておれな い。跳返す力に腰の浮くのを押つけつつ所嫌わず突刺すが、隼人の着込みの堅固《かた》さで思うま まに通らない。二人の脇差がぶっつかって、刃の欠けるまでに突きに突いた。其処へ降立っ たのが源ハ郎である。 「もうよかろう、源八郎、首を挙げられい」  こういいながら伝蔵はまだ隼人をしかと押つけている。隼人は蒼白な顔に血を滲ませて口 をあけて半眼に目を開いている。心を合せている者と、義理の助太刀と意気込がちがう。隼 人が河へ陥込むや、皆逃げてしまった。源ハ郎方は口っ瞭まったり、腰かけたりして呼瞬をつぎ つつ傷を結ぶ。死んだ者は一人もないが手傷は多い。隼人の首を包んで、手傷の者と共に源 ハ郎を真中に頼母と伝蔵が先に立って本郷へ向う。橋詰からの町家は戸をおろしているから 武家邸を見かけて水を乞うが何処もくれない。ようよう一軒で水と共に食事をも終えて引揚 げる。そのまま何処へか行ってしまった。  宇都宮へ引揚げて父内鶴纏"墓前に隼人の首を手向けたる源ハ郎「御膝元を恐れざる仕方 不届に付」という厳しき御触れを聞いて、外記、伝蔵と七人で二月十七日朝ヰ伊播諏邸へ自 首をした。十ハ日|直澄《なおずみ》登城、熱心に七人の助命を説いたので、大島流罪という事になった。 この処分も源ハ郎、外記、伝蔵の三人だけで、而も三人共帯刀を許された。二十二日に出て 二十六日に着いて、此処で日を送る事十年、天和元年赦免された。  井伊侯三人を彦根へ呼んで召抱えて、厳重に刺客を警戒した。隼人方とて武士の意地、三 人赦免されて彦根にあると聞くと共に、入込んで来たが、八人まで井伊の家来の手で殺され てしまった。それ以後、怪しい者も入込まない。この中で伝蔵は内蔵允が頼んだ若者だけあ って、 「復讐の事を一度後学の為めに御聞きしたい」  とし>つ《コ》|《さ》|と 「もう年月の経た事、すっかり忘れ申しました」  と云って、滅多に話さなかったそうである。