岩見重太郎 直木三十五          一  僕等の小さい時分、重太郎鷺櫛などという人は中々灘律って居たものである。天の橋立千 人斬などと云って、二千五百人の真中にたった二人で斬込んで行くのであるから、いくら荒 木又右衛門が強かったって、武蔵坊弁慶が大力だったって齪うものでない。塚原匿僚という のも可成り多数の中へ暴れ込むが、二千五百人の半分よりも大分少なかったと覚えている。  余り強すぎたので流行らなくなったのか、悟道軒円玉なんかが「講談も合理的に申し上げ ませんと」とか「どうも世の中が科学的に成りまして」とか、と云いながら剰聖醜計平気で 書くようになったからか、とにかくせいぜい…二十人位の斌ヲに止めておかぬと信用しなく なったらしい。  岩見重太郎だけで無く「櫓坐苛蕊充のハ百ハ狸」とか「元和三勇士」とか「轍望三勇士」 とか、その講談の中より外に決して名を見ないというような人物の多い種はだんだん廃《すた》れて 行く傾がある。「猿飛佐助」がもう流行らなくなったが、今に粂平内も飽きられてしまうだ ろう、少しは誼《ムつそ》も交っていいが矢張り「清水次郎長」とか「伊達騒動」とか云った事実の確 な物の方が長続きするらしい。  描ぴ、岩見重太郎などは不幸なことに、茸撰穣の講釈だから、上方の釈師が無くなると共 にすっかり勢力を失墜してしまった点もある。芥川竜之介に云わせると、玉田|玉秀斎《ぎよくしゆうさい》の作 だろうというが、純上方物の「諮ヶ襟音吉」とか「鷹釧五人男」とか「木津勘介」とか「天 下茶屋仇討」とかと同じように、釈師の口にかからなくなると共に忘れられていったらし い。講釈種として「誰ヶ袖音吉」など決して偽り物でないが、恐らく誰も知らぬ位に古い物 になってしまった。「天下茶屋」なども安達元右衛門が芝居で生きているから名を知られて いるようなものの、東京の席では恐らく上った事はあるまい。  芝居も落語も講釈も艘〜東京種に押されてしまって、純上方種のものがだんだん少くなる が、地方に行くと岩見重太郎武勇伝など、旅廻りの大阪役者によって時々演ぜられているら しい。中村|信濃《しなの》という人など、重太郎の排々退治一つで一生暮らした人であるが、そういう 人の御馴染あとを「合理的」岩見重太郎の歩いているのを一つ二つ知っている。  落語には未だいくらか上方の味らしい物を残している一人二人の人が居るが、講釈になる と旭堂南陵《きよくどうなんりよう》のほか一人も居なくなってしまった。そしてこの人が余りうまく無いから岩見 重太郎の運命も末知れたものである。近頃講談が流行るからと、堀江の眠溝軒を釈亭にまで したが、ここと松島の旭亭《あさひてい》とが大阪で二軒の釈場である。私の小さい頃、岩見重太郎流行時 代には、そういう小さい私の覚えているだけでも法善寺内に一軒、天満天神裏門に一軒、空 堀に一軒あった。法善寺には徽畔熾翻ポ轡っていて大抵太閤記をやっていた。いつの間にか |浪花節《なにわぷし》になって、その後ビアホールになったが、丁度その頃バアとかカフェlなどが流行り かけた頃で、ビアホ1ルという屋根看板の大きいのが、随分気の利かない名だと思わせたが 今でも流行っていないらしい。 二  岩見重太郎も私の知っている頃より少しずつ変遷してきている。合理的、科学的になって きている。私の御馴染の頃は七つ位で天狗にさらわれるのだが、近頃の赤本を読むと、何ん とか山へ登って、白髪の老人から剣法の奥秘を授けられると云う事になっている。いつの時 代だって余り誼らしい事は永続きしないが、玉田玉秀斎の時分には、天狗で立派に通用して いたにちがいない。天狗だって白髪の老入だって大して違いはない。講釈師は剣客を山へ登 らしさえすれば、すぐ白髪鷺鷺げ老人を発見してくるから、円玉の合理的も天狗と大して違 いはない。  天狗がひどく軽蔑されて、とうとう存在を失ってしまったのは、ここ二三十年位の事らし い。玉秀斎当時はきっと天狗で通っただろう。立派な武術の秘伝書に「流祖は天狗也」とし て、そのまま信じられていたのだから、重太郎が天狗から教えられたって不思議でない。天 狗に剣を習って一流を開いた人の例話はいくつもある。「自源流」の瀬戸口備前守、この人 は名の如く自源という天狗から教えられたのだし、もっと露骨になると「正天狗流」という 按摩みたいな名だが、池原五左衛門正重。「東軍流」の開流川崎時盛の師匠が「白雲山の天 狗」。「片山流」の片山僅欝鷺久安が、陣がぎ雌の天狗。斎藤伝鬼の「天流」が矢張り天狗の 一種から伝わった物。鞍馬の外に天狗もいろいろ広まっていたものである。 日奎日紀、鍬卿董九年の条に、   κ議爺瀦醸す健ち奮印か鐸譲ド中略-讐、塑灘に辱、嚢っ獅ね慨。  とあるが、辞明天皇の頃から明治二十年頃まで生存していて遂に亡んでしまった。尤《もつと》も天 狗の灘仔ったのは武術の流行と一緒で、匙穐末、武芸隆盛になると共に、狩野探幽が山伏姿 のものにしてしまって、それ以来木っ葉天狗、烏天狗などを生じ、武術の師匠をしていた が、維新と共に廃刀令が行われて、天狗、岩谷松平に使われて、金天狗、銀天狗になった が、これが天狗の末路である。  白髪の老人も、釈師が探出す程たくさん居た訳で無いが、天狗より以前には反《かえ》って存在を 明かにして諸所にいる。「蔭の流」の流祖舞雌概崔の学んだ人が、僧鷺翫というが、この人 は九州|鵜戸《うと》の岩屋にいた。そしてこの人も、元其|窟《いわや》にいた人から学んだらしく「鵜戸岩屋神 伝」と称している。 「中条流」中条長秀もこの慈音に学んでいるし、鞍馬には剣僧ハ人いて、各々奥義に達し、 この流を、「京八流」と称しているが「剣僧」だからまさか白髪長髭でもあるまい。 「念流」の開流、j臆安久なども僧侶であるが、釈師の手にかかると、こういう連中が護と く、蟄の屋根、柴携戸、炉を切って翼ベ一人使っていることになっている。弁慶以来、坊主 だって強いのがいるからどれもこれも白髪にしないで岩見重太郎一人位は、くりくり坊主で 四十位の師匠にしておくと、もっと合理的になるかも知れない。          三  そこで、岩見重太郎三年山へ入って戻ってきたが、前の如く、力があるのか無いのか、武 術が出来るのか出来ないのか少しも判らない。これが一日朋輩の侮辱を避けんが為めに驚く べき腕前を現す。 「へえ、岩見の小伜が」 「あの、のろまが」  と、忽《たちま》ち毛利家中の噂に上って、御目通という事になる。  江戸時代もそうだが、戦国末からは大抵五歳になると馬を教えた。それから弓に剣柔の道 と入って、七歳位から、判っても判らなくても四書五経。 「山高きが礎に轄がらず」  と大音声に読上げたものである。今の秀才教育の最も厳しいもので、力の強い敏捷な子は どんどん強くなるし、弱い子は、 「」蟹服は坊主になれ」  と云われたものである。江戸時代になると、この外、謡曲、仕舞、茶の湯もちゃんと稽古 する慣しであったから、今の学生より余程手数がかかった訳である。従って身体の発達も精 神の生成も、今より早く、十四歳で初陣兜首を取ったなど誼のようであるが、選まれた子供 だと十七八歳位の仕事は楽に出来たと思える。  親爺こういう教育を施しながら、此奴見込みがあると思うと、 「武芸はいざという場合に現すべきもの、平常決して盤りに現してはならぬ」  と戒める。重太郎もこう云われてよく守った一人らしい。表面からだけこの言葉を採ると 鷲誉思うだけであるが、ここが兵法の懸引で中々裏に裏がある。よく「産好ぎから力を 貰ったから差物へ「産死女」を書いたとか、「澱壷」から戯鱗葎の秘法を授かったとかいう が、昔の広告法の一つである。  君臣の分定まり、足軽一躍士分には、なれず、二百石忽ち千石になる機会など中々無い折 には、時々広告法を用いてみる。 「重太郎は薄呆んやりでして」  とまず云っておいて、次に、 「三年天狗にさらわれまして」  と泣いて、朋輩七人をやっつけたと聞くと同時に、 「重太郎、それ兼ねての如く」  と、 「実は、天狗様から武術の奥秘を受けたそうでして、帰りましてからも、天狗様から口止め されていたので、今まで誰にも話さなかったと申しておりますが」 「へえ、天狗様からね」  と忽ち評判。同じ齢頃で道場へ通って、 「あの子は強い」  と云われているようなのは広告にならない。重太郎とやらを目通りさせい、と言葉がかか る。 「お父さん、うまく参りましたな」 と、元服してようよう目通り出来る位のが、前髪のままで登城。岩谷松平が天狗を使った より岩見重左衛門の方が遥かにうまい。殿の前上首尾、一人二人に打勝って、一寸《ちよつと》力を現し ておくと、もう殿の頭に残ってしまう。閑な殿様だからすぐ憶えてしまう。殿様に覚えてお いて貰えば悪い事は無い。 「河童に教えて貰った金創膏」などにしても同じ手で、芥川竜之介の「河童」よσもいくら か金儲けになる。          四  重太郎が天狗から貰った力七十人力と云う。だんだんすくなくなって近頃は、何人力なん て云わなくなったらしいが、角力《すもう》の衰えているのも無理は無い。  七十人力と云うと、六尺以上はなくてはならぬ。六尺以上で七十人力と云うと、帯びてい る刀、先ず鑑元《ままきもと》で一寸五分以上、厚重ねで三尺五六寸あろうという強刀で無くてはならぬ。 それ以下になると吾々が、細い鷹惟か何かを持って居るようで殿ってうまく使え無い。剣法 では自分の力に比例した重さ長さの刀がいいとしてある。尤も江戸時代に入ると、二尺五寸 以上の刀は僻麟してはならぬと布告されたが、岩見重太郎は擢陽徴堺前だからいくら長くて も差支えない。  七十人力というと、普通の人が二尺の刀でいいとすれば、長さを半分にしても七十尺の 刀。葺擢十郎左衛門が姉川のた輯いで使ったという有名な大太刀が七尺有余。新田の四天王、 篠塚伊賀守の侃刀が五尺六寸。共に名代の大太刀であるが、重太郎の刀は二尺七八寸らしい から、講釈師の七十人力、なる程不合理で、重太郎の迷惑察すべしである。刀も三尺位まで はいいが、こういう大太刀になると、背中に背負っていて、戦が始まる前になると一旦降ろ して、 「おい刀を抜くのだ」  と、兵卒に鞘を持たせ、 「後方《うしろ》の方危いぞ、退け退け」  と、ずるずると引抜く。それから空鞘を背へ結びつけて、抜いた刀を肩に担ぐなり、楯の 上へ置くなりして敵の近づくのを待つのである。こうなると名は太刀であるが、長巻か、薙 刀か、鉄棒か判らない。力に任せて振廻すより外に方法があるまいと思える。  父重左衛門、広瀬軍蔵、大川八右衛門の為に暗殺され、重太郎の兄重蔵が妹お辻と共に仇 討に出たが、無惨や返討になってしまって、お辻も既に危い折、厭団右衛門直之が現れてお 辻を助ける。  第一お辻を連れて仇討に出るのが間違っている。何時でもヲ匙纏いにしかならぬのに重蔵 も重太郎も連れて歩く。連れて歩いてはひどい目に合わせる。お辻が国に居る時、誰かと恋 愛関係でもあって、その為め父が暗殺になるとでも云うなら、いくらか因縁もあるが、不幸 なこの娘は、仇討に出る条《くだり》になって突然現れる。そしてその娘盛りを、女郎に売られ、敵の 刃に樒らんとし、最後に牢死してしまうのである。性根の判らない、出所進退の拙さ加減、 「榊原高尾」みたいなものである。  このお辻を助けに塙団右衛門直之が現れるのだが、これは愉快な人間である。日本中の、 助太刀とか、強きをくじき弱きを救うとかを一人で背負っているような人間で、そういう時 には必ず現れてくる。時間と距離とを超越していて、何時何処へでも出てくる。  記録によると加藤|嘉明《よしあき》の足軽大将で、主家を去って後、京で僧侶をしでいたが、沖がて伏 見の近くの藪の中に浪居を構え、寺小屋を営みつつ細々とした煙をあげて居たが、傭随微ぴ 起る前に入城した人であって、強情我慢、強がりの随一だから、記録なんか気にもしない。 坊主になっていたって、擢讐深編笠で山賊退治に出てくるし、其日は確に藪の中に居たが、 お辻の危難に出てくるし、出没自在アルセーヌルパン以上の代物である。  これがお辻を助けて重太郎へ引渡す。重太郎妹を連れて仙台へ入ると共に、関所で引捕え られると云う事になる。 五  塙直之も出没自在であるが、岩見重太郎も大して劣らない。大阪役の前だから、諸国の風 雲穏かでない時分、番所々々を境々に設けて中々入国を許さないのに、中国の端からどう抜 けてきたか、仙台へ入ったのだから大したものである。  ずっと後になっても、薩摩に土佐、紀州、伯州、仙台、木曽、加賀などが入国は中々むず かしい国で、薩摩へなどは幕府の隠密でも多晒がけで入ったものである。他の国でも出しは するが容易に入れはしない。知人の無い人間だと泊めもしない捉さえあったのだから、岩見 重太郎、どうして三百里以上を出て来たか、豪傑の豪傑たる離はこの辺にあるのかも知れ ない。  釈師が云うと、関所々々は、そう無暗にない。番所という。重太郎仙台の町へ入ろうと、 関所の前へかかると、 「待て待て待て」  と云ったというのだが、これは町の木戸だろう。番所は国境にしか置かないものだから、 町の入口では関所と同じようにぴ勢しい。木戸へかかると、 「やあやあ浪人、尋常に縄にかかれ」  番所で見逃して木戸で捕えられたとすると、番所の役人大手落になるが、其処は、重太 郎、天狗から教えられて影の如く通ってしまった。町木戸へかかると白昼で、天狗の術が使 えない。 「理不尽なる役人かな。一応の取調べもなさずして」 「いや舌長なるその一言、そーれっ」 と、これが広瀬、大川の二人の郵だよると云うのだが、仙台藩の役人も、今の役人のよ うに融通無限、鼻薬ですぐ転んだものとみえる。重太郎怒って、その上をもう一つ転がして みたが、お辻が危くって、 「離れるでないぞ」  と云っている内に、遠くで、 「あーれっ」  南無三、妹を殺してはと、 「縄受けよう。女に手荒くすな」  と引立てられるが、後々、天の橋立で二千五百人の真中へ斬込む程の重太郎、町木戸の役 人を対手に妹を奪われるなど、重太郎腹でも痛かったせいにちがいない。とにかく七十人力 だから、お辻位小脇に掻込めばいい。弁当箱の重さにしか当らない。そして身の丈六尺もあ るのだからどんどん逃げ出せば追っつけまい。  武芸の方では多勢を対手にする時には、決して小楯にとった防禦物とか、背中合せの人間 とか、からは離れないのを原則とする。離れると敵が背後に廻るから倍の力の敵を受ける勘 定になる。いくら対手が多勢だって、一時に向って来られる数は三人しか無い。前と左右と である。この三人の中へもう二人、又は四人が入れそうであるが、実戦になると相当の距離 を各々に必要とする関係からそうは行かない。七人も密接して立向ったら、横の刀は絶対に 使えない。左右へ相当の間が無ければ受ける事も交す事も出来ないから、大抵三人が前と左 右から向う事になって居る。  重太郎無双の豪傑で七十人力、お辻の一人居た為めに捕縛になる。心得ざるの甚《はなは》だしきも ので、お辻もお辻、女郎に売られたり、牢死したり、少し薄馬鹿で身体が弱かったのだろ う。その弱い身体で二百里もよく歩いた、と。そう窮蟹されても困る。まあまあ。 ⊥ ノ、  二人の兄妹、そのまま投獄されて一回の取調もない。一夜重太郎うとうととしていると、 お辻が夢枕に立って牢死した事を告げる。目が醒めると冷汗腋をうるおしているから朝に成 るのを待兼ねて牢番に聞くと、 「知らぬ」 「これでも」  と、腕を握ると七十人力、 「わーっ、お話し申します。実はこれこれ」  重太郎怒髪か鷺。を突いた。よしその儀ならば破牢致してくれんと、むずと手をかけた櫻丑 寸角の牢格子。破獄の方法としては一番原始的である。原始的だが七十人力があると、吾々 が杉箸を折るのと違わない。忽ちめきめきばりばりと壊してしまった。 破獄の中で一番気の長いのは「ジャンバルジャン」の中の僧で、十数年かかって坑道を掘 る。それに続いては、実際あった話であるが、衣類の糸を一分位の太さに撚《よ》って、飯粒を塗 込んでは、塵の上へ転がして乾し固め、それで鉄棒を磨切《すりき》ったというが、案外早く成功して 二三年しか掛っていない。誼のようであるが、「軒滴石をうがつ」の好例である。  釘一本で破獄するというのは昔の事で今は絶対に不可能である。昔の錠前だと、それで蓋 が外せたが今は駄目である。アメリカ製の金庫用になると、科学的の方法でないと絶対に手 が出せない。尤《もつと》も文字合せというのは、非常に理論上、複雑にならなくてはならぬ訳である が、製作者の方で、手数を省くので案外種類が少ない。支那《シナ》の文字合せ錠など十個も買って 見るがいい。  重太郎、牢を破ってどんどん走る。とうとう夜に入って役人の目から逃れてしまったが、 山中へ入込んでくると一軒の大きい門構えの家《うち》に、何か只事ならぬ事があると見えて、出入 の人々の悲嘆顔。一人を捕えてきくと、生身御供《いきみごくう》に娘さんが上るのだという。重太郎聞いて いよいよ排々を退治るという、岩見武勇伝中の大眼目。 七  合理論者円玉に云わせると、この排々を山賊にしてしまう。この位の合理論なら円玉でな くったって、近頃の子供でもいい。こういうのは排々にしないと面白くない。排々という動 物はボルネオ辺のものだから、奥州に居ないーなどもますますいけない。大江山の酒天童 子は鬼でなくて漂流のロシヤ人だとか、生血は葡萄酒だとか、桃の中からは人が生れないと か、岩見重太郎の流行らなくなるのも無理は無い。動物学上、排々は奥州に生れないが、伊 連礎鷲が鷲禽廟右衡際以前に人を欧洲へ派した時に、排々を持って戻った。天正六年哺え血 六月の事である。この排々が橿を破って逃げ出したのが重太郎の退治た排々だと、白井喬二 が云っている。1と、これは謹《トつそ》であるが、講談師の動物学によると、猿が何百年かすると 白くなる。これを白猿という、とある。  狐だって金狐、白狐、黒狐とこしらえてあるが、アメリカには本当に青狐があるから、講 釈師だって出鱈目の誼を吐いているのでもなかろう。  野猿ハ百年を経て白毛となる。これを排々と称す。こいつが娘を年に一人ずつ御供としな いと野畑を荒す。貧乏の家の娘は女郎に売って心中したとあきらめると村の人々からの金や 欝犠岬二一二年は楽にくらせて都合がいいが、庄屋の娘はそうは行かない。κ冠、美人でやさ しいから父母の愁嘆見る目も憐れである。 「拙者娘御と代って山へ参ろう」  今ならこんな手の欺購《さぎ》はいくらでも出来るだろうが、昔は素朴。 「それなら一つ」  と、刀を与えて輿の中へ入れる。 「何んと重い御嬢さんだんべいの」 「食物がいいからの」  と、御きまりの文句を云いながら、山腹の一宇の堂の前へどっかと下して一目散に下って しまう。重太郎刀を抜放って息抜きの穴から四方を覗う。来た道から来る事はない。右手は 谷間だから、ここからも来ない。来るとすれば正面の拝殿の中からか、左手の杉林の中から か。来たらこうこうと片膝立てて耳を澄ます。  日が落ちると共に、ぱたりと休《や》んだ風、時々梢を動かすが山中|篇寂《しようじやく》の気、落葉一つの音 さえ聞き取れる。夜に入って】刻ばかり、穴からのぞいても見えぬから、ただ耳と心のみで 四辺を窺う。  さっさっと梢を渡るもののある気配。重太郎刀を構えつつ、長持の中から音する方を見る と、折柄の月に照らされつつ、白いものが梢から梢ヘ渡りつつ近づいて来る。三間も間のあ る枝から枝をひらりと渡る。と見る木陰へ隠れる。忽ち白い姿が現れたかと思うと、五六間 も下に降りて七ハ間も近づいてきている。 「聞いた如く年経た猿にちがいあるまい」 と、左の膝をしっかと長持に当て、右脚を縮めて、刀は真向曇催を額に当てつつ明ける と同時に突上げるつもり。そのままの姿で窺っているとは知らず、拝殿の屋根に降りたらし く思う刹那、ひらりと縁に立った早さ、うずくまって遜び眺めていたが、片手を延して引寄 せようとする。例年の娘ならとにかく二十貫以上の岩見重太郎が入っている。爪をかけた位 では引寄せられない。片手、片脚を延して、ぐいと横に押す。力の強さに濃郁の長持五寸ば かり斜になる。 「余り廻さないでくれ」  と、重太郎あべこべにでも向けられたら堪らないから、踏張っていると、そろそろ近寄り つつ、錠前の所へ手をかけた。十分の気合い、排々の大力、蓋ヘ手をかけると共に、上ヘべ りべりと引裂く。刹那に、さっと突上げる重太郎の刀、胸を五寸余り斬裂いて、咽喉へ突込 んで二寸ばかり。 「ぎゃっ」  と叫ぶと共に、ひらりと屋根へ身を翻ぞさんとする。重太郎刀を突上げると共に、右脚で 一蹴り長持を蹴破るや、拝殿の縁側へさっと立つ。今飛上らんとする排々へ、横に払う一太 刀、斬落しは出来ないが、したたかに傷つけられて、早くも下へ逃げんとする。重太郎飛鳥 の如く飛下りると共に、排々の前へ立ったが、排々のうしろは谷間、いくら身が軽くても谷 越えは出来ない。 「うーっ」  と、歯を剥き出しつつ、手足を突いてきっと睨んだが、すぐ次第々々に立ちながら、爪を 立てつつつかみかからん姿勢。重太郎、刀を真直に猿の胸許へつけて、左手左脚を地に突き つつ次第々々に小刻みに迫る。すべて動物という奴は、驚くと立上る。馬にしても犬にして も、立上る所へ一撃を加えられるから倒されるのであるが、逆に平伏されたら飛越えてしま うより外に法がない。排々が攻撃しようと立ってくる。対手も排々だと同じく立つ。対手が 虎だと前脚を張って飛びかからん用意をする。  重太郎人間だからそんなへまをしない。師匠に私がついている。次第々々に尭催は上って くるがあべこべに人間は低くなる。ひどく勝手が違うから排々も困った。飛つけば刀に刺さ れる。飛つかないと1矢張り刺される。立上った排々がじりじり後退りしつつ又次第々々 に低くなろうとする。この劣勢を示したのを見た重太郎、半身を起して刀を引く。排々、不 意の変に忽ちすっくと立つのを、下から上へ払上げた一刀、つかみかからんと延しかけた手 を逆に斬ったから、 「ぎゃあ」  排々最後の力を込めて、拝殿の縁側へ飛ばんとするのを片手なぐりに横腹へ、 「ぎゃっ」  最初の一撃で敵が強いとみると、排々でも何んでも逃げる事ばかり考える。辛くも縁側へ 登ろうと片脚かけた背後から、首筋に一突き、 「ぐっ」  どっと転落ちるのを、長持の棒でめちゃめちゃになぐったから、歯を剥き出したまま死ん でしまった。          八  排々を退治てから重太郎、広瀬軍蔵、大川ハ右衛門の二人が、丹後の国宮津の城主、中村 式部|少輔《しようゆう》の家来になっていると聞込んで植松藤兵衛の二人で、乗込んでくる。中村式部少輔 |一氏《かずうじ》といえば太閤三人衆の一人、生駒親正等と併称された人物だが、講釈師にかかっては耐 らない。御仕舞に切腹させられてしまう。  重太郎から中村家へ差出す仇討願、家老の吉村某は尋常に討たせた方がいいと云ったが、 殿様承知しない。調練に事よせて二人を殺してしまえと、場所もあろうに天の橋立という細 長い、調練向きでない場所を選んだ。重太郎、乗込んでくると、 「何用あって参る」 「岩見重太郎翻櫛で御座る。御達しにより敵討に参る者。御人数慨職御開き下されますよ う」 「黙れ、強いてとあらば槍玉にかけるぞ。退れ退れ不届者」 「これは心得ぬ事を申される。御重役の方々に御伺い下さらばー」 「黙れと申すに、岩見重太郎なる者参らば討取れとの申付じゃ。かかれ」  重太郎、さてはと、 「藤兵衛、それ」  さっと引抜く何尺何寸。第一番手へ斬込んだが、何しろ狭い松原、重太郎左右へ飛鳥の如 く働くから、後陣の軍勢繰出す道が無い。 「押すな押すなと海へ陥《はま》る」 「危い危い拙者は泳ぎの心得がない。とッとッとッ、押すとだんだん深味へ出るよ。わー っ、胸まで来たっ」  と、二千五百人、数は多いがどうする事も出来ない。所へ又も出てくる二人の武士、 「卑怯なる中村かな。吾こそは後藤又兵衛隠鵬壷如」 「つづいて厭団右衛門直之」  と次々に名乗って、どっと暴れ込んだが、後藤基次という人は六尺有余、大兵肥満の人で 強かった。智謀もあったし、真田幸村より、上席で、将器としてはどうも基次の方が大きか ったようである。  四人が四列に並んで、暴れ出したからいよいよ甜血つ。二千五百人、こ悉とく海の中へ逃込 んで、 「橋立を横に眺めるのも一興で御座るて」 「横を股のぞきで見たら妃佛で御座ろう」  浅瀬の所では、しきりにのぞいている。 「活動写真をみているようで御座る」  四人大暴れに暴れて、とうとう二人を討取ってしまう。この話が秀吉の耳に入って、重太 郎、秀頼の馬廻り十人衆の一人に選ばれて、名を藩臨鱗芯丑辮榴ど改めたというが、この薄 田隼人正は明かに大阪落城に出てくる。隼人戦死の一条、史実通り書いてみる。          九 隼人正になってから一番講談によく出てくるのは、木村重成に蝿坊主といわれて纏仔にな ったのを怒った茶坊主が、重成の入浴中を見て彊衡から打つとこれが薄田隼人正であったと 云う話だが、どうも誼らしい。重成の事蹟を書いた本にはこの話は載っていないから、隼人 正が打たれた筈はない。  とにかく二千五百人の中へ斬込んで行く人間だから可成り向う見ずで強かった事は本当ら しいが、甚だ遺憾な事に、大阪役では隼人正余り評判がよろしく無い。冬の陣の講和の時重 成の前に、 「薄田隼人正はいかが、右府の御覚え目出度き人故」  と云うと、一人が、 「近頃は厭甥沸の不始末にて余り籏献伐よろしくないから」  と反対されておじゃんになっている。秀頼寄合衆の一人として、可成り聞えた人間であっ たが、別にこれと云って評判の武勇を現した事は無かった。そういう機は無かったが、秀頼 の気に入りの上に、諸侯の家の人々とも交際があり、薄田能登守という長尾家の士《さむらい》が家康 に、 「隼人正という人間は聞ゆる剛の者にて、刀の柄糸は汚なくとも目釘さえ確かなら、鞘の塗 が剥げていようと、中身さえ切れたらと常に申して居りまする」  と、話している。  大阪冬の陣には博労淵の要塞を守っていた。手兵七百、大阪城外の防禦地としては一番遠 い所である。今の江の子島の東に面した所一帯を博労淵と称していたが、ここを守っている 時が十一月の末、寒くって耐《こら》えられない。兼相今夜は敵も来るまいと思って、阿波座の方へ 引揚げて一杯傾けながら、よからぬ女にも飛そがていると、石川益殿離麟纏の手から攻撃が始 まった。 「それっ、大将へ」  と云ったが、当時の大阪だって広いし、いくら隼人正六尺以上あったって、そうすぐ判る ものでもない。第一酒飲みの癖として、行く所は此処と云って出たが梯子をしたかも知れな い。伝令蒼くなって、 「薄田様敵襲で御座りまする」  と、馬を馳せつつ町々を呼廻ったが、どうしても知れぬ。留守居の鷺ヂ卦縢必死となって 防いだが、主殿頭の軍中から小舟を漕出して、城兵の弾丸に船の焼けるのも顧みず、城へ迫 る七人、弗識博労淵破れ舟の七人衆と後の物語に伝えられた神田九兵衛、平木市之丞、中黒 弥兵衛、大河内曇だ欝際、村田新助、浅井左次右衛門、坪井七兵衛。伽れ劣らぬ無法者で、 めちゃめちゃに乗付けて、とうとう斬入ってしまったから、その口から雪崩《なだ》れ込む石川勢。  女を突のけて馬に乗った頃、隼人正の酔顔に写るのは博労淵の火の手。暫くすると敗兵が 引揚げてくる。一遍に酔が醒めたが追つかない。尤《もつと》も、こんな遠い所まで兵を出しておく必 要は無かったから、城の為めには損にならぬが、挙兵前後に入城した諸侯はそれぞれ奮戦し ているのに、城つきの連中|悉《ことごと》く不成績だったから、それが今隼人正自身の上に現れてみる と、平常の武勇評判と思合して見るのも気の毒な位|情気《しよげ》て居たらしい。謹慎してしまって、 「岩見重太郎時代がなつかしい」  その内に講和になったが、明くる元和元年四月に、東軍再び大挙、城東の野に迫ってき た。 十  四月三十日の城中大評定に、薄田隼人正は第一軍の手に属して、大和口へ進む役、この軍 の先鋒は後藤又兵衛基次、三千の兵を率いて百城を出て羽野陣を布く、隼人正の手兵五 百、基次の兵の後につづいて、動かばすぐ追うつもりで城中に在って伝令を交している。  第一軍の総数六千四百人、将としては二人の外に井上定利、山川貿儲、北川蟄膨、山本備 旛、槙島重利、明石鈴蜜、小倉竹春の七将がいる。策二軍が真田幸村であるが、此の両軍を 以て、松平麟縦が奈良から進撃するのを、餓灘趨の険路で迎え撃とうというのである。  ところが軍参謀大野|治長《はるなが》、戦機を知らず、中々命令を下さない。一日二日と延びて五日に なった。講翫ポら、 「敵軍奈良を立った」  と、報じてきたから、基次、 「最早これまで、自分一人で戦ってみる。この上待つことは出来ないから」 と、幸村と毛利勝永にこの事を告げておいて、五月六日夜の明けぬ内に、どんどん進軍し てしまった。 薄田隼人正、この度の一戦こそ博労淵の汚名をそそぐ時であると、基次の進軍を待ち、治 長の命令を待っていると、六日の明け方に、 「平野の先手は進発しました」  と知らせてきた。治長に告げると、 「それではすぐ続け」  と、云うから、井上、北川、山川と七将各々兵を督して急行軍。平野を出て入尾を経、藤 井寺の方へ進んで行くと、夜がほのぼのと明けて来た。  快よい朝風に吹かれて馬上にいい気持ちに、進んで行く前面で、間断しつつ聞えてくる小 銃の音、忽《たちま》ち一軍興奮して急ぎ足は乱るるばかりに早くなる。藤井寺を外れると、誉田《まんだ》の村 が見える。その前は道明寺の河原その後方は山又山。明るくなった河原から田畑へかけてち らちらと黒く動いている軍勢の、散《ちりぢり》々になりつつ引揚げるらしい者、踏止まりて応対してい るらしいもの。 「急げ」  と隼人正馬上で大音声、一鞭入れると共にどんどん駈出す。馬を右手の小高い畑地に乗上 げて瞳を定めると、二一二十人一団となりつつ次第々々に現れてくるのは後藤の軍、その内に 百四五十騎、村影から退却してきたかと思うと、間近く迫る四五百人の兵、鉄砲の音がする とともに突撃してきたが、味方の一団忽ち四散して、倒れる者、傷つき戦う者、走りくる馬 を捕えて逃出してくる者。  それと共に山際に動く旗指物の、少し動ずる色の無く、右へ右へと進みつつ次第に正面へ も現れてくるのは、味方の来援を知った敵の陣立である。玉手村から円明村へかけて伊達政 宗の陣らしく、大勢が右ヘ前へと開展してくる。片山村の方には水野勝成の勢が旗を翻《ひるがえ》し ている。  隼人正、獣旺鶴隣の左へ井上定利の軍と共に真先に開展する。二人の後方に山本備旛、右 方へ山川、北川、槙島と陣を布くと同時に後藤の軍の敗兵が引揚げてきた。 「いかが」 「基次殿は危いらしい」 「首になったか」  無言でうなずく途端、前面から撃出す小銃、土煙を上げて田畑へ射込む。頭上をビュ1ン と捻りつつ飛ぶ。 「伏せっ1打てっ」  と部隊長の懸声、隼人正前面を見ると、未だ味方が戦っているらしく時々喚声と銃声が起 る。山田外記、片山助兵衛が基次を討たれながら必死のた軽いをしているのである。隼人、こ れを聞くと共に、 「それっ」  と、刀を執る。どっと揚る関の声、道明寺の磧《かわら》の広草場へどっと殺倒する。丁度この時、 伊達家名代の猛将片倉小十郎重綱が、後藤の軍を破って勢に乗じて追撃してきた時である。 「小十郎か、不足無い対手じゃ」 と、三尺六寸、廿欝鷺邸の大太刀を片手に、左手の手綱をしっかと腰に結んで、真先立ち に先へ立つ。小十郎これをみて、 「且加のへろへろ武士め、lI此奴は薄田よな。撃ってとれ、撃ってとれ」  と戦上手、必死の斬込みと見ると共に、仙台名代の銃騎兵。駒の頭を立て並べると共に馬 上から釣瓶打ちに、馬を疾風の如く飛ばせてきて、どんどん打込む。その勢の猛烈さと砲火 の劇《はげ》しさに、井上薄田の兵忽ち乱立つ。 「卑怯者め」  と、隼人正協歯、馬首に兜をつけて弾を避けつつ、 「退くな退くな」  と必死の指揮、銃騎兵の馬が左右に分れると共に、後につづく槍騎兵、長槍を並べて隙間 もなく突撃してくる。隼人正、馬上にすっくと立つや、馬と馬との間へ、さっと乗入れる。 左右より閃く槍、右手よりくるのは、一打に折斬り、馬を右手に迫らせて、左手のを聡す。 腰を一捻り馬首を左にするや、今蝶した槍を刎上げて真向一打に。どっと乗下げる槍騎兵五 六騎。巧に馬を乗寄せて隼人正を取囲むや、四方から突いてかかるのを、正面へさっと寄せ て左手に槍を引つかみつつ右手で横なぐりの一刀。どっと落馬する上を馬蹄にかけて、奪っ たる槍を後方へ描突きに。手応えあって、馬の高くいななくのは馬を突いたものらしい。  バチーンと近くでの艦部、隼人正、はっと呼岐づまった如く感じたが、駿鼻して、鑑むし っかと踏張ったつもりのが、どうしたかどっと落馬すると共に、二一二ヵ所叩かれたように覚 えたが、あとは判らなくなった。  岩見重太郎でも薄田隼人正でも鉄砲には敵わない。土方歳三《ひじかたとしぞう》が鳥羽伏見の戦に出て、長州 のイギリス仕込の鉄砲に手も足も出ず、近藤勇にどうだと聞かれた時、 「これからの戦争には鉄砲でなくては駄目だ。剣術がいくら強くても、近寄れぬでは勝負に ならぬ」  と、答えたが、上には上があって、正午近くになって駈つけた真田幸村が、見事にこの仙 台兵を打破る話、又折を見て。