内村鑑三と木下尚江 中里介山 明治37年8月 内村鑑三と木下尚江とは社会が生める不平児の最たる者 也。内村は彼が如きの乱臣賊子、而して木下に至つては其乱 臣賊子たるの程度、内村に比して一層上の階段にある者也。 内村よく泣く、彼は所謂忠君愛国者流に向つて大胆に爆弾 を投ずる事あるも其反響し来る乱臣賊子の悪評に対しては少 からざる痛痒を感ずる者の如く、時に泣言を並ベて言訳を述 ぶ。木下に至つては毫も是等の痴態ある事無し、露探と呼ぶ 可也、売国奴と殿る辞せず、乱臣賊子の名又大に佳。断々と して其所信を叫ぶ。一内村鑑三を容れ能はざる日本倫理思想 界の偏狭は、将来木下尚江を如何に処置せんとするか。内村 は甚だ怖るゝに足らず、木下に至つては近き将来に於て日本 政府の最も持余し者たる無きを知らんや。 世に、生命よりも真理に忠にして、而も剣よりも鋭き筆と、 火よりも熱き舌とを有するの士一人あらしめよ。虚偽なる基 礎に据えられし国家、偽れる権威によりて支配せらるゝ国家 に取りて此れより怖る可き者は無し。他日木下尚江を一敵国 として政府が待つ可き時来らずとせば寧ろ日本国の幸也。 内村に街気あり、名誉心あり、多少の野心あり、霧しき不 正直あり、而して又た一種の虚飾あり。彼は最も不純なる人 物なりと雛も、彼に一片愛らしき自尊の念あり、此に触るゝ 物あるや其の容易に爆発すること沈設水雷の比に非ず、其の 爆発したる時の内村は極めて純粋也。天真欄漫也。而して此 の純粋たる、天真欄漫たるところが世俗より乱臣賊子視せら るゝ点也。幸にして現社会は到る処、此の純内村を発揮せし む可き材料に満てるが故に、街気、名誉心、野心、不正直の 内村は人に認めらるゝこと割合に少く、其の爆発して奇観を 呈する純粋にして天真欄漫たる内村のみ人目を驚かす也。是 彼が異彩を放てる所以也。 内村曰く「政治家は肥取り也」「余未だ代議士となる程堕 落はせず」と、何等の傲語ぞや、以て彼が政治家に対する不 平のいかに深きかを看る可し。殊に彼れが藩閥政府に対して 満腔の憎悪を有するは事実也。されど如何せむ彼は此の憎悪 の念を体現せしむ可き機関を有せず。思ふに彼れが今日に至 る径路の過程の中には必ずや一度、廟堂に起たんとの野心を 燃やせし事ありしなるべし。少くとも藩閥政府打破の謀叛を 胸中に企画せしことありしなる可し。然れどもそは|不可能《インボツシプル》な りき、斯くて内村は宗教家たり又不平児たり。 木下は大臣を所期して法律を学び以て身を起せる者也。然 れども彼が目的は時間的、空間的の深く遠き因縁によつて頓 挫せざる能はざりき。人は彼れが生涯の一転機が鍛冶橋監獄 内に於ける人生の悲観に発したりと為す。是与つて大に力あ る動機たりしならむ、されど斯くの如きは彼れをして、しか く現社会に対する深怨を抱く崎形の児としたるには甚だ不足 の動機也。彼に先天の詩的なる頭脳、多血なる性格ありて、 彼をして冷かなる法理はた空なる政論以外に径路をとりて歩 むの已む能はざらしめしものありと云へ、彼が背後に負へろ+ 歴史的の一大使命と地理上の配布とが彼をして今日あらしめ し最大所因なる可き也。兎に角彼は大臣たらんとする当初の 志胡一王は達する能はずして今社会主義者たり、革命の寵児た り、不平家たり。 内村を以て政治家たるを得ざるが故に宗教家たり、木下を 以て大臣たるを得ざるが故に社会主義者たりと云はf実にこ れ丙者に対する大なる侮辱也。吾人も亦斯くの如き随劣の言 を発する程に自らの人格を軽ずる者に非ず。然れども両者共 に現世に志を得ざる者たるに至つては一也。而して強烈なる 不平漢たるに至つては一也。而して其不平が政策や経編やの 形而下に赴かずして、直に根本の倫理道念に向つて動くや亦 一也。而して更に奇なるは内村は上野に生れ、木下は信濃に 生れ、両者国を接して生れし事也。上州の野、信州の山、此 の向乱臣賊子を生む。而して彼等を乱臣賊子と呼ぶ現今の倫 理思…想を代表したるものは薩長の政府也。 楠、名和、児島、菊池、赤松等の南勢力に依て復古された る後醍醐の親政が足利と称する北勢力の乱臣賊子に依て破壊 されたりとせば、南勢力の践雇、沖天の勢ある今日、東北の 山野より一二乱臣賊子の言を聴く登矧川志賀氏を待つて後に 知らんや。 恐らくは是れ彼等自身も自覚せざるものなるかも知る可か らず、、されど吾人は毛信の間に彼等が生れしを見て、空間的 の因果作用に驚絶し、彼等が唱ふる所を聴きて更に時問的の 進歩推移の妙作用に驚絶せずんぱあらず。(了)