中里介山 愛染明王  |紀伊国那智《きいのくにれち》の滝|愛染明王《あいぜんみようおう》のお堂を、ある日の夕方、一人の歳若き出家がおとずれた。 「頼みます那智の滝本の愛染堂はこちらでございましょうか、ある人に途中で逢い那智へ参らば 愛染堂の|堂守《どうもり》をたずねよと申し聞かされましたこと故に、突然ではございますが|斯《こ》うして訪れ申 しました」 「はゝあ那智の滝本の愛染堂と申せば先ずこれより外にはござりませぬ、してその堂守をたずね て参ったとあれば別人ならぬやつがれが御応対をするより|術《すべ》はござりませぬ、兎も角もお通り下 さい」 と答えたけれども声のみあって人はまだ現れない。 「では御免下されましょう」  愛染堂の縁によって|草鮭《わらじ》の|紐《ひも》を解きかけた時、ふと仰いだ真黒な杉の木立の間に山桜が咲いて いる。 「ほう美事な桜が咲いて居ります、那智の御山には滝津瀬の音と杉の木立ばかりと心得ましたら ば、やはり桜が咲いて居りますな」  草鮭を解きながら、うっとりと山桜に見とれている。 「それは時が来れば花も咲く鳥もうたいますわな、ただ陽春の時の来ることが人里よりおそくし て花の齢の世間のものよりは幾分か長いには長いらしいです」 「御無礼を致します」  若い僧は裾を払って縁に上って来たが、事の|体《てい》が甚だ|謙抑《けんよく》柔和にして、しかも、どこやら折目 のかどの取れないのが、出家をして幾らも経たない前身の、多分は弓矢取った面影を忍ばせるの である。  堂守には簡単な挨拶だけで先ず明王の御前に向ってこの若い出家は極めて鄭重な礼拝をしてか ら、さて、堂守の部屋の炉の前に相対して|笈《おい》を据えて置いて、自分は少し真向を避けて、いんぎ んに座った。 「遠慮なく、もそっと前へ進んで炉縁におつきなさい、花は咲いたとは云いながら朝夕はなかな か寒いです」 「有難うございます、さて、承りましたところでは、あなたは、長いこと此堂にお|住居《すまい》だそうで すが、わたくしが旅でお聞き申しましたのは、ついこの一カ月ほど前のことです、那智へ行った ならば愛染明王の御前に、わが心血を残して置いたと|斯様《かよう》に申すものがあります、それを目的で はありませんが御当所へ参詣して見れば、おのずと、それが先ず第一の念頭にかかるのでござい まして、不動尊へも急がず|千手堂《せんじゆどう》へも御挨拶をする以前にこちらへ訪れ申しました次第です、そ れは別儀ではございません、去んぬる年の冬のことこの那智の滝に|三七日《みなぬか》打たれて人目を驚かす 程の荒行をとげた出家が一人あった筈でございます、その僧が……」 「お待ち下さい、では、あなたは|文覚《もんがく》様から聞いておいでになりましたか、つい、一ヵ月ほど前 に那智へ詣でたら愛染明王のお堂を|訪《とぷ》らえと、あなたに教えたのは文覚様でございましたか」 「そうです、その文覚です、彼から教えられて当御堂を目的に今日こうして参詣いたしました」 「それはそれは、して見れば、あなたは以前からあの文覚様とお知合でいらせられますかな、そ れとも俗縁のゆかりでもおありなされてかな、ただしはまた至り得たところの、たまたまの御縁 でそれをお聞きになりましたかL 「左様彼とわたくしとは深い縁があります、恐らくそれは|七生《しちしよう》までもつながる縁でしょう、彼 をこの那智の滝に押し込んだものの一人が私でありとすれば、私をして|斯《か》く漂々の旅に無限の悲 しみの道を歩かせているのは彼の仕業です、彼と我との間は仇であって、同時に親友です、逆縁 であってまたそこから順縁が起っているのです、わたくしは彼を憎むことが出来ません」  と云って若い僧は|珠数《じゆず》を左の手に持ち添えた。 「わかりました、憎むことが出来ないで、その人に、ゆかりのあるあとを|徐《しず》かに訪ねてお出でに なる、あなたの面影をその当座から、やつがれは思い浮べて居りました、つまり、あなたのお出 でになることを心待ちに待っていたようなものです」 「では彼の文覚から、われ等身の上をお聞きになられたと見えますな、それで、どうやら、お近 づき早々、|生面《せいめん》のお方とは、わたくしに思われなかったのでございましょう、何分宜しく願いま す」 「何となくお懐かしさに堪えられない気持が致します、さあ、ずっと、打ち|寛《くつろ》いで炉辺へお寄り 下さいまし、今宵は焚火を致して夜もすがら語り明かそうではありませんか……語りながら鍋に かけた粟の、話と共に熟し行くのを待つと致しましょう」  堂守と旅の僧と世塵を離れたとは言いながら血の気の多い盛りの歳の春の夜をば愛染明王堂守 の炉辺に相対して語り明かそうとする。 「昔より今に至るまで、|彼人《あのひと》ほどの荒行を成し遂げたものはありませぬ、前代未聞というのが掛 値なしの文字通りです、永年この那智の滝の主とまで云われる今裸形の老人までが舌を捲いてい ますから、その他の行者も修験者も、その話をして、ただ身の毛をよだてるだけなのです、天然 の力に対しての人間の抵抗力もあそこまで行けるものかとの実際の修行の極度をあの人が見せて 呉れました。信念の力が超生理にわたるということを俗人ばらにまで呑み込めるようにして呉れ たのがあの人の道力です、それだけで那智滝は|歴劫《りやくごう》不思議の上にまた一つの新たなる力を加え ました、それは、滝を守る我々共までが一つの面目として、ひそかに語るところのものですL 「わたくしは、その事を、彼自身の口から聞きもせず、わたくしも敢えて聞こうとはせず、彼と も好んで語ろうとはしなかったのですが|此処《ヤいにち》へ来る途中、道俗の者、事に触れては皆その事の噂 です、自然わたくしの耳にもその事が熟しています.或は、聞いたところが事実を誇張している かも知れません。併し、彼としては、そうありそうな事で、わたくしに取っては、|寧《むし》ろ驚異では なくて悲痛です、彼の道力を彼の為に泣くより外はありませんでした」 「いゝえ路傍の人の語る処は必ずしも誇張ではありますまい、凡そ世には話ほどに聞いてならな い事と話より大きく信ぜねばならぬことがあります。文覚様の修行は、その後のものに属するの です、やつがれが此処でそれを繰返したとても、やはりあなたが今まで道中でお聞きになったと ころに敢えて加えるものがあるべしとも思われませぬが、物語の順序として、それを再び繰り返 してお耳に入れなければなりますまい、彼の人が滝本へ参りましたのは十二月十日余りのことで す、雪は那智の谷をうずめていました。大滝を残して天地は静かてす、谷の|梢《こずえ》も真白になってい ました。峰の嵐が剣のように吹き来って|垂氷《たるひ》の巌を突切るのです、その時に彼の人は、ひたひた と滝壼に下り立って首際まで水につかり高らかに|慈救問《じくじゆ》を唱え出してから殆んど五日までの間は その滝壼で、あの人の呪文の響きが聞えました、そうして、たしか五日目にとうとう聞えなくな りました。それから間もなくこの前の流れへ、あの人の屍骸が流れついたものです、そこで滝を 守る我々が大騒ぎをして|彼方《あちら》の堂こちらの事務所から人を呼び集めて介抱にかかったものです、 』 五日も|拠《まう》って置いて、なぜ、それまでになってから騒ぐのだと、お|答《とが》めもありましょうかなれど、 我々としてはどこまでも修行をなさるお方の意志を尊重しなければなりません。真剣の修行者に 向って|姑息《こそく》の同情は禁物ですから如何なる荒行なりとも本人にその意志あって遙々この天下第一 と称せられた那智の滝まで行にお出でになるほどの人には敢えて意見や制止を加えないのが我々 の不文の律であり礼儀であります、ただ、あの慈救の|呪《じゆ》の、のうまくさんまんだあがたとい|糸《ちへちちちち ちちち》の 如く細くとも、それが聞えている間は我々は干渉を致さないことになっていますし、また修行の 当人も自らの道力のほどの限度を|験《ため》し得た以上は、この滝壼に屍骸をうずめるのが目的ではあり ませんから、それぞれ相当の時分にはお滝から出て参るものです、然るに、あの人の呪文の声が 五日間ほど続いて絶えなかった、その事だけに何をいうにも肉身の人間です、五日というのに堪 えきれず息絶えてここまで押し流された修行者の志を勇ましいとも哀れとも思いまして我々は打 ち寄って|藁火《わらび》を焚いて兎も角もと、あぶって見ますと定業ならぬ命は争われぬものです、駄目だ と思ってしたものが忽ちに息を吹き返したから、またしても我々の間の驚異で、呆れているうち に彼の人は大の|眼《まなこ》を見開いて介抱している我々をはったと|睨《にら》まえながら、やあ、我はこの滝に三 七日打たれて慈救の|三落叉《さんらくしや》を充てようと思う大願あるものを数えて見ると今日て|纏《わず》かに五日では ないか、まだ七日も過ぎないのに誰に頼まれて何者が此処へ引き上げたのだへ斯う云って我々を 叱り飛ばすのですから思わず身の毛をよだてましたよ、我々が身の毛をよだてて物をも云わずに いる間に彼の人は立って、もとの滝壼へ急いで、そこへ再び身を投げてしまいましたL 「成程身を投げたのです、投げたのに相違ありません」  旅の僧は幾度か|頷《うなず》いた。 「それから後の事は文覚様が大願を果されて後、みずから人に語られたお説てす、第二口目には 八人の童子が来てあの方の左右の手を取って引き上げようとなさるのを散々に|択《つか》み合って上らず、 第三日にまたも息絶えてはかなくなりました、その|時《ちち》は|髪《ぴん》ずらゆいたる天童が二人滝の上から下 りなされて世にも温かい香しい手をもて、あの方の頂上からはじめて、手足の爪先手裏に至るま で撫で下しなされた処から、あの方が夢心地になって再び息を吹きましたその時は、さすがの剛 腹我慢者もおのずから有難さに打たれて如何なる人にてましませば斯くは隣れみ給うとおだやか                                こんが ら  せいた か にたずねたそうです、天童の答えて日く我はこれ大聖不動明王の御使に金伽羅、勢多迦という二 童子なり文覚無上の願を起し幽冥の行を企つ行きて力を合せよと、明王の|勅《みことのり》によって来れるな り、夢心地にその言葉を聞くと持って生れた気象がむらむらと起り出して声を怒らしさては明王 は何処にましますぞと、滝の上を見上げる時に|都率天《とそつてん》にと答うる声があって雲井遙かに|昂《あが》らせ給 うあとを文覚殿、|掌《て》を合せて伏し拝み大歓喜の涙を流しつつ滝壼に帰ると、その後は吹き来る風 も身に沁まず落ち来る水も湯のようで三七日の大願を滞りなく済ませて那智の千日籠りにうつり ました、不動尊御来迎のことは我等凡眼には何とも申上げようがありません、落ち来る水を湯の 如き心得で三七日の荒行を済ました有様は、私共が|目《ま》のあたり見ての保証でございますL 「加賀の白山から越中の立山へ向う途中わたくしは彼に逢いました、その時に、かりそめの物語 ながら那智へ行かば愛染堂に立ち寄れ、そこに、わが心血を残して置いたと彼が云いました、彼 が心血を|濃《そそ》いで、のこして置くところのもの、あながちに那智の愛染堂とのみは限るまいが、そ う云われて見ると何れよりも、なつかしいものがある、さりとて、ここへ来たからとてわたくし は敢えて文覚になろうて彼が荒行のあとを学ぼうとは思いませぬ、また、那智に千日籠り|大峰《おおみね》三 度、葛城高野二度、高野、|粉河《こかわ》、|金峰山《きんぶせん》、白山、立山と彼があとを追って修練の道をたどろうと 云うのでもない、彼は魂を追いわれは影を追うのです」 僧が騒がないので堂守もしんみりとして、 「あなたの|仰有《おつしや》ることは、いじらしいほど物静かです、文覚荒行のお話をして上げても、あなた は一向に誇張せられません、多くの人に起る驚異の心があなたの胸には一向に湧き起らないよう です、あの方の強盛な道力と比べて、それがまた、やつがれに取っては一の驚異のようにお見受 け申します、目をつぶっていると存在を忘れてしまうほどに、あなたは静かです、この炉に焚く 煙よりも淡いものです」 「仰有る通り彼は燃ゆる火です、わたくしは、その燃ゆる火よりのぼる淡煙微憾のたぐいかも知 れません、そうです彼の燃ゆる火は那智の大滝も消すこと|能《あた》わざるほどに炎々たるものでありま した、彼に触るるものは皆焼かれます、あゝその燃ゆる火の為に焼かるゝ自分も他の者も不幸で す、ただ、焼くこと能わざる、その火よりのがれる煙のみが幸なのかも知れません、有るか無き かの、わたくし共が寧ろ熱火につつまれて到る処で|軽転《てんてん》する彼よりも幸なのかも知れません、わ たくしが思うのに世人が驚く彼の荒行というようなものは何でもないことです、それに驚く人は 軽業の剣渡りゃ演劇の血の雨に驚く人です、驚かし得たとて何でもありません、驚き得たとても 何でもありません、文覚にあっては左様な演劇者の沙汰ではないのです、彼は那智の滝壷へ飛び 込んで死にました。死に場処を天下第一の那智の滝に求めた彼の心情が、しおらしくわたくしは ただ涙がこぼれます、恐らく彼は、ここへ来る時もここを去る時も泣いていたでしょうへおさえ がたない涙を、定めてこの愛染堂の床の上へ那智の大滝の水の量ほども流して立ち去ったろうと、 ただ、それのみが懐かしくて彼の行き去りしあとを、とぶらおうとて来たようなものです」 「それを、あなたのお口からお聞き致しますと1愛染明王の御前にひさまずいて、彼の方が申 しますには、明王のお姿が、おれには、美しい人の面影に見えてならぬと申しました。あちらの 柱の下に正身の座を構えて夜を明かし、明くる|東雲《しののめ》には必ず御眼の末に露のあとがありました、 ああ、ゆうべもまた、夢を見たわい、三七日の滝も、千日の参籠も、ついにこの夢ばかりを拭い 去ることは出来ぬわい、愛染明王の血のような赤身が、おれの眼には乳のような軟肌に見えてな らぬわい、|貧瞑痴《とんじんち》を見破る三眼が芙蓉のまなじりに見ゆるわい、獅子の冠が指を染めるほどの黒 髪に見ゆる見ゆる、堂守殿、筆を貸し給え、おのが眼に見ゆる愛染明王の姿を絵に描いて見しょ うといって、あの文覚様が筆を執って|絵像《えすがた》をお描きになりました、それを拝見すると一たび笑む 時は国を傾けるほどの美しい人の姿です、その絵姿に賛して俗名遠藤武者|盛遠之《もりとおこれし》を|認《たた》むとしるし 一枚を取って明王の御前にそなえ、一枚を取って自ら笈の中へ入れて旅立たれました、よそ目に はこれ等も物狂わしい仕業でございます、彼は色相の愛惜に責められて此処に来りこの処を去る に臨んでまた色相の愛惜を|荷《にの》うて帰るぺ憐れむべき愚者よと、ある修行者はそれをあざ笑いまし たL 「その愚かしい稚気が寧ろ賢者の羨みであることを知らないのが憐れです、愛するものを愛する   はぱが として揮らぬ彼を誰が憎むことが出来よう、それ故に、実は袈裟も彼を愛していたのだろう。憎 むべくして憎めないのが彼です」 「あゝ承っている、やつがれ自らも、どなたに同情してよいか、わからなくなっています、文覚 様が描き残して行った彼の絵姿を御覧に入れましょうか、それとも、左様なものを御覧になるの は却って妄執の一つを加える|所以《ゆえん》とやらでございましょうならば遠慮致します」 「見せていただきましょう、よし、彼が燃ゆるような心血を注いで描いたものとしても今のわた くしは虚心平気をもって、それを見ることが出来るのです」 「も早や燈明の時刻でござりますな、先ずやつがれが受持ちの燈明を点ずべき処へ一々燈明を点 じ了ってから、粟もどうやら熟したようです、斯うして鍋を|卸《お》ろして置いて、その間に鉄瓶をか けます、火が燃え尽きそうでござりましたら、それなる|薪《たきぎ》を折りくべていただきましょうL 「承知致しました」  堂守は油壼を取って立ち上がった。滝より落つる流れに両分して、あちらには不動堂こちらに は愛染堂がある、彼の受持ちは流れをこちらにして愛染堂より大門への方面であった。  堂守が炉辺から消え去ったかと思うと愛染明王の前の壇が|遼《にわ》かに明るくなった。この堂までぼ んやりと余光がとどいて彼方の|旛蓋《ぱんがい》の下は火の燃えるように赤い。その赤い光の半ばは三眼六腎 の愛染明王の真赤な五体が燈明の光と相うつるのであった、燈明を捧げた堂守は、また去ってそ こにはいないのである。「彼の柱の下」と堂守が指した処、俗名遠藤武者盛遠が夜もすがらそこ で正身の座を構え明かしたという柱の下を若い僧は余念なく打ち見やると、 「ここへ来よ」と呼ぶ声がする、 「此処で沢山です」  若い僧は夢心地で答えた。  それにしても燈明を点しに行った堂守の帰ることがおそい、出て行く時の口ぶりではさまで遠 くもあるまいに、それに比べて帰ることのおそい、併し不思議な堂守ではある。彼は盛遠と可な りの内面にまで立ち入っての話し相手であったらしい。そうかと思えば全然その人の心事を知ら ないげな口吻もある。自分に対してもその通りで渡|辺渡《わたる》と知って迎えたのか、そうではないか、 この辺もよくわからない、併し話していればおのずから話せる相手である……相当の手ごたえの ある男である……これの前身も不思議でなければならぬ、と案じている処へ足音がした。 「幸い、泊り合せた旅のお方もおいでになります、随分お心置きなされますな」 「はい有難うございます……お言葉に甘えまして」  若い僧はこの声にわが耳を引立てた、前のはたしかに堂守の声に相違なかったが、あとのは妙 齢なると覚しき女の声であったから。 「おゝ、そなたはL  旅の僧即ち俗名渡辺|源左衛門尉渡《げんざえもんのじよう》は、堂守がつれて来た女人の姿を見ると、我を忘れて、そ なたと呼びかけた。 「つい、|其処《そこ》で逢いました女房衆でございますが、宿を|麓《ふもと》へ取りまして、やはり、あなた様同様 に、この愛染堂をたずねてお出でになりました」  堂守が紹介したので、女は改めて渡の前に手をついて、 「旅の御僧様、初めましてお目にかかります-…・はるばると都から……この愛染明王の御前をた ずねて参りましたもの、障りの多い女人の身をおゆるし下さいませ」  火にうつされた女の姿はこの上も無く美しかった、呆然としていた旅の僧は、 「もしや、あなたの名は|袈裟御前《けさごぜん》とはお呼びになりませんか」  無論、それはワザとたずねて見たのであるが、そのワザとも何かがあって、旅僧をしてそう云 わなければ居られないもののようにしたのである。|併《しか》し、女はその唐突な尋ねぶりを異様にも感 じなかったかして落着いて、 「いゝえ、わたしは袈裟御前ではございませぬL  そうあるべき筈である。生年十六歳にして遠藤武者盛遠の手にかかって死んだ袈裟御前が、こ こに来るべきいわれはないのである、その事は、ここの旅僧であり、また死んだ袈裟の夫である この源左衛門尉渡が何人よりもよく知って届らねばならぬ筈である。 「そうでしょう、そうなければなりませぬ、それにゆかりのあるべきお人でもないに定まってい るが、さて」  旅僧は、詫ぶるでもなく、ひとり言でもなし、その言葉尻が淡い煙のように消えてしまう。 「けれども、わたくしを袈裟御前だと思召すならば、左様に思召し下されても一向、さしつかえ はござりませぬ、わたくしは、申さば袈裟御前の魂に|惹《ひ》かされて、これまで参ったようなもので ござりますから」  敢えて驚かぬ女は斯う云った、それで、淡い心持の旅僧は再び火にうつる女の|面《かお》をつくづくと 見て、 「あなたは袈裟御前の魂に惹かされてこれまで参ったと申されましたか」 「左様でございます」 「あなたは、袈裟を知って届りましたか、|若《も》しや、彼の女の友達ででもありましたか」 「いゝえ、袈裟御前と、わたくしとはお友達ではございませんでした、のみならず、親しくお目 にかかった事さえも無いのでございます、袈裟御前がお亡くなりになったのは、多分、今のわた くしと同じほどのお年であったことと存じますが、わたくしは、その時分はまだ、ほんの子供で ございましたから、あの方の心にいだいた苦しみに同情するの力さえ無いものでありました」 「それで、あなたは、袈裟の魂をどの辺に見て居られるのですか」 「はい、那智の愛染堂へ参らばそこに心血を残して置いたと、ある御僧様が教えて下さいました 事|故《ゆえ》に、日頃、愛染の御堂をなつかしく、今宵という今宵、|漸《ようよ》う望みを遂げて斯様に推参いたし ました次第でございます」 「はて、那智の愛染堂に参らば、そこに心血を残して置いたと、ある僧がそなたに教えたと云い やるか……さらば、その僧の名を文覚とは云われなかったかL 「はい、文覚様から承りました、それ故、わたくしは斯うして、たずねて参りました、たずねて 参りますと、先ず、あなた様からお前の名は袈裟御前ではないかと聞かれました時に、わたくし は嬉しゅうございました、その時に、わたくしの胸に、絶えて久しい春の血潮が湧きいでたよう にうっとりと致しました」 「よく、わかりません、拙僧の申分が、突然であったせいか、あなたのお物語も前後を、もう少 し事をわけて教えていただかないと、ただ、いたずらに拙僧はおどろかされてしまいます」 「どうも失礼を申しました、実は、わたくしが何も申上げぬ先から、あなた様は、すべてを御承 知の事と思いましたままに、はしたない申上げ様をしてお恥かしゅう存じます」 「いゝえ、お詫びは尋ね方のなめげであった拙僧から申さねばならないのですが、一体文覚は何 をあなたに教えました」 「文覚様から伺ったというよりも、わたくしが彼の上人様に申上げた方が多かったのでございま す。文覚様ほどに、よくわたくしの|繊悔《ざんげ》をお聞き下された方はありませぬ、また、わたくしの繊 悔を聞いていただくのに、あの上人様ほどのお方は無いのでございました、申さばおこがましゆ うございますが、|埣啄《そつたく》向時と申すのが、この度の機縁ではないかと存じました」 「それならば、あなたは文覚に向って何を繊悔なさいましたか、春の夜永に、それを、拙僧にお 聞かせ下さいますまいか」 「お尋ねなくとも申上げなければならないと思っていました、わたくしは五逆の罪を残らず犯し て参りました、今は、まじろぎもせずに斯う申上げることが出来るようになりましたのは、仏様 よりは寧ろ魔縁にひかされているのかも知れません、揮らず申上げます、わたくしは親を殺し夫 を殺して来た身の上のものでございますL 「はゝあL 「愛するということも、愛されるということも、つまりは殺すことでございます、人を愛するの は自分の命をその人に捧げたいからであります、人より愛せらるる時は、その人の命を取るか、 そうでなければ、やはりその人に命を捧げなければなりません、恋というものの最後が死である ことは、いずれ、あなた様にも充分に御存知の筈の事と存じます」 「無事に愛し、無事に愛せらるるということは出来ないものか」 「それは出来ませぬ、わたくしは断じて斯様に申します、恋というものにはよき程ということは ないものでございます、全く恋しないか、そうでなければ全部を恋しなければならない筈のもの でございます。全く与えてしまうか、そうでなければ全く奪ってしまわなければなりませぬ」 「あなたは、それを文覚に申しましたか、若し、そうでしたら、文覚は何と答えました」 「何とも、お答えになりませんでした、そうして、その時、お前は与えたか、或は奪うたかとお 聞きになりました」 「どちらを答えました」 「はじめに与えて、後に奪うたと申しました、それだけではおわかりになりませんでしょう、今 ぞ、恥を忘れてそれを白地に申上げますれば、わたくしは一つの誠を二つの人に分ちて与えてい ました、なお、言葉を改めて申しますと、わたくしは、夫を持ちながら他人を愛して居りました、 そうして、一人で二人の人を愛し得るものだと考えていました、なぜならば、わたくしは夫をも 憎みはしないし、その人をも悪くは思っていなかったからでございます、それですから、罪とい うことの前には目をつぶって、わたくしは同時に二人を愛し、同時に二人から愛せられることで、 息のつまるほどの苦しみに我を忘れていました。それが三年というもの兎も角も無事につづいた のはつづいたのでございます、その間に、わたくしは罪のおののきを感じたことよりも、女性の おごりを感じたことの方が多いのでございました、けれども、三年の後に至って夫がその事をさ とりました、彼はそれを知るにあたって|劇《はげ》しい|煩悶《はんもん》をしました、併しその時分にはわたくしは寧 ろ夫の煩悶を心地よしとするほどに度胸が定まっていたのでございます、一つは罪の当然の報い に、素直に首の座に直らねばならぬ責を|疾《と》うから覚悟していたせいかも知れませんが一つは、夫 がわたくしを殺し得ないことを知っていたからです、わたくしは、夫がそれを気取ってから後、 自分ながら驚くほど澄み渡る心で、じっと夫の煩悶を見つめて居りました、彼が苦しがるのを平 気でながめていました、なぜ、わたくしが左様な残酷な心で、じっとして居られたかを、あなた 様はお察し下さるでしょうと存じます、つまり、わたくしが夫を愛するよりも、夫がわたくしを 愛する心が強かったからですL 「強く愛することは奪うことだと、あなたは先刻お云いなすったようですが」    - 「どちらにも通用いたしましょう、わたくしの愛は二人に与えられるほどの分量を持っていまし たのに、夫は、わたくし一人をしか愛することが出来ませんでした、それ故、夫はわたくしの前 に苦しんで苦しみぬきました、彼は力一杯に苦しんでいましたけれど、私は冷静にながめて居ま した」 「そうして、その結果として、あなたは良人に死を与えたのですか」 「夫に死を与えたのみではありません、愛していた人にも同じものを与えました、ある夜わたく しの夫は、わたくしの恋人を誘うて、これを殺し自分も殺されました、二人の者は果し合って同 時に命を落しましたが、その時も、わたくしの心は澄みきっていました」 「成程、それは明らかに、あなたの手を以て二人の男を殺したものです、あなたの手に血がつい ては居りませんか」 「どうぞ御覧下さい」  女は、この時、白魚のような手をのべて旅僧の前にさし出した、旅僧はじっとその手をながめ ていたが、 「血のあとはありません  」 「わたくしの手に血がついていないばかりに世間の人は、わたくしの罪を知りませんでした、併 し、御僧様、もう一べん、わたくしの手を御覧下さいまし、世間の人はその血を見ることが出来 ないに致しましても、御出家のあなた様には、この血がおわかりにならぬ筈はございますまいと 存じます」 「それではもう一度お見せ下さい」      ほたび                           壮んしゆ  旅僧は、楕火を明るくして、再びつくづくとその白魚の繊手を見直した。 「成程  」  何処と云って汚れの認められない女の手を、僧はややしばらく見ていたが、 「ここに血のあとがありますね」  僧は、細い爪先の一端に針でついたほどの紅を発見した。 「はい、よく御覧になりました」  女は惚れ惚れとして自分ながら、その爪先に見入っていると、その血のあとが|浸《にじ》んで来た|蜘蛛《くも》 のように足を張ってその|浸《し》みが見ているうちに大きくなって行くのであった。 「おゝ、その血が浸みますぞL 「その儘にして置いて下さいませ」  血の浸むに任せていると、指の節々を浸み透った血は手の甲  手首i腕  と舞い上って 来た。 「おゝく|蘇栃《すおう》のような血の色L  人の驚くのに遠慮なく血は白い腕のどこまでも食い入って行くのであった。 「袖を上げてごらんなさい」  女は袖をまくり上げると二つの腕のふくらかな雪のように真白な肉にぽたぽたと滴るばかりな る血潮が、ずんずんと上って行くのであった。 「おわかりになりましたか」  この女の全身が|悉《ことごと》く真赤に染まってしまった時に、愛染明王の御前の燈明がぱったりと消え た、それと云い合せたように炉の火も倒れたもののように光を失った、暗い処で見ると赤いと見 ていた女の肉身はやっぱり暗も隠すことの出来ないほど白い。 「よく、わかりました」  旅の僧がうなずいた時に、 「お燈明が消えましたな、いや、消えたのではございません、光が衰え魔いたのでございます、 少々、お待ち下さいませ、程なく以前の通りに明るくなりますでございます」  最前、旅僧に引き合せたままで、|庫裡《くり》へかくれていた堂守が、この時|紙燭《しそく》をとぼしてそこへ出 て来た、消えかかった炉の火に薪を加えると、以前の通りの明るさになった。  この時、一方の炉辺に座を構えた堂守は、 「おゝ、あなた様は、よく似ていらっしゃいますなあ……L と今に始めぬように女の姿を見直して云った。 「誰に似て居りますか」 「あの、愛染明王の御姿に」 「わたくしが、愛染明王様のお姿に似ているとおっしゃるのですか」 「斯うまで、よく似ておいでなさろうとは思いがけない事です、最初、燈籠の蔭でお見受け申し た時は|黄昏《たそがれ》時であり、木立の闇でございましたから」 「堂守様、あなたも、わたくしにわからない事をおっしゃいます」 「わからないのも|御尤《もつと》もです、あなたはあそこの柱の下に正身の座を構えて、愛染明王のお姿が おれには美しい人の面影に見えてならぬわいと仰有った文覚様のことを御存知がないからです、 あれで夜をお明かしになって、明くる東雲には必らず御眼の末に涙の露を宿し、あゝ、ゆうべも また夢を見たわい、三七日の滝も千日の参籠も、ついにこの夢ばかりを拭い去ることは出来ぬわ いと仰有った時の事を御存知ないからです、愛染明王の血のような赤身が、おれの眼には乳のよ うな軟肌に見えてならぬわい、貧瞑痴を見破る三眼が芙蓉のまなじりに見ゆるわい、獅子の立髪 が指を染めるほどの黒髪に見ゆる見ゆる、堂守、筆を貸せ、おれが目に見ゆる愛染明王の姿を絵 に描いて見しょうとあって、あの文覚様が、筆を執って|絵像《えすがた》にお描きなされた、その一枚を私が 戴いて居ります、それを只今お見せ申しましょう」 と云って、堂守は、熟した粟の鍋を提げながら暗い所へ入ってしまったが、暫らくあって紙に包 んだ」枚の巻物を持って出て来た。 「あの上人様の御目では愛染明王のお姿がこの通りに見えるそうでございます」  燈を引きよせて、巻かれた紙をするするとのべて見ると、それは荒法師の描いた明王の姿とい うに似気なく、一たび笑めば国を傾くる美しい人の姿が色もあざやかに描きなされてあった。 「南無阿弥陀仏」  旅の僧は珠数を払った。 「この方のお姿が、わたくしに似ていると仰有るのでございますか」 「そうです、恐らく、どなたが御覧になっても生きうつしと御覧になるより外はありますまい、 これは、あなたの為にわざと『俗名遠藤武者盛遠認之』と銘をお入れになったものかも知れませ ん」 「那智の愛染堂にわが心血を残して置いたとおっしゃった文覚様のお言葉が思い合されます、け れども、わたくしは自分の姿を見ようとして、わざわざこれへ参ったのではございません」 「いゝえ、それです、それです」  珠数を払って、目をつぶっていた旅の僧がこの時、あわただしげに口をはさんだ。 「何がでございますか」  女は|審《いぷ》かしい|面《かお》を僧の方へ振り向ける、僧は一しきりしめやかになって、 「あなたは自分の姿をここへお見出しにお出でになったので、それを見出し得たあなたは無上の 幸ではありませんか、拙僧は深くおよろこびを申上げたいと思います」 「それでも、これは、わたくしの姿ではございませんもの」 「あなたでなければ誰です」 「愛染明王のお姿だとおっしゃったではございませんか」 「愛染明王のお姿は、あちらに御座あらせられる、御覧なさい、燈明が|煙《こヤつヤマつ》々として燃え上がる中 に、あの威|相蓬《たくま》しい御姿をごらんなさい」 「けれども、文覚上人のお目には、あの愛染明王様のお姿が、このような女人の姿に見えたのだ そうでございます、わたくしは、自分の姿をこの絵像の中に見出し得たとは、どうしても思われ ませんのでございます、また、わたくしの那智へ参りましたのは、それを求め得んが為ではなか ったと思って居ります、わたくしには、まだ、ここへ参りました大きな|理由《わけ》が別にあるように思 われてなりません」 ■それは何だと思召すのですか、何を求めに那智へ来たのですかL 「文覚上人の教えには、那智へ行って、その手を洗えと申されました、わたくしはこの血のつい た手を那智の大滝に打たれて、洗い去る目的の為に那智へ参ったのでございます、那智の大滝で なければ、わたくしのこの血の汚れを洗い去る霊場はございますまいかと、それ故ここへ参りま したつもりなのでございます」 「併し、那智の大滝も、あなたの血を拭い去ることが出来なかったら、どうします-・・-よく考え て見ますのに、あなたは血の汚れを知って、血のかがやきを知らないようです、あなたはその真 白い雪の肉身に、いまだ愛着を感じておいでなさるのではないか、寧ろ、その雪の肉身を血で汚 しつくして、彼の愛染明王の身色の大赤相にあやかりたいと|御発心《ごほつしん》にはなりませんか、あなたの 罪の血が時あって、全身を紅に染めなすのを、拙僧はまざまざと見せていただきました、それを 洗い去ろうと苦心なさるあなたは|翻《ひるがえ》って、常住不断その紅の血に染みておいでになろうとは思 いませんか。……」 「恐れ多いことでございます、愛染明王の大赤色の御相は罪の血の汚れではございますまい、わ たくし風情の身にのぼる血の色は肉と罪とのけがれです」 「いゝえ……人は申します、愛染明王の身色の赤きは大悲の心が骨髄を砕き大慾の血涙が八万四 千の毛孔より流れ出づるが故に赤いのだと教えられていますが、その大慈大悲こそ取りも直さず 大愛慾と大貧染の心です……いや斯様に解釈は申上げないが宜しいと思います、やはり、あなた は那智の滝へお出でにならずとも、つい、ここで、あなたは自身のお姿を発見し得たことをお悦 びになるが宜しいと思いますL 「お待ち下さい、今まで、色々とお話を承りましたが、まだ、御僧様のお名前を承りませんでし た、わたくしは、どうやらお懐かしさに堪えませぬ、お名前をお明かし下さいますまいか」 「名乗るまでもございませぬ、わたくしが源左衛門尉渡辺渡です、袈裟の夫でありました、その 人がわたくしです」  その翌日、その僧は、美しい女人をつれて愛染の堂を立ち出でた、その後、旅から旅、この男 女は相離るることが無かった。