永井 隆 長崎の花 目次 酉 給 出 島 白 魚 山の名 花十字 年中行事ω オランダ冬至 浦上川μ 長崎の名46 女の日帽 半身50 宴会員52 鼻一 さんさしぐれ 己 ユダヤ教会堂 ほうずき 乃 養 生 η 回復期 74 浦上人の顔 乃 ボートレース 外国町(一)ω 外国町(二)田 ホタル 84 恥主フランシスコ 死者の日 田 原子野 90 ステンドグラス ガーベラ 併 原子野蛮人 % 平戸の聖母 % 乃 ザベリオ ら ん 食 卓 夕 魚 長崎魚 爆心点 あの子らの碑 ひげ28 ------- 文化都市  ブエノスアイレスに亜国日報という日本字新聞があります。小ざっぱりした編 集で、アルゼンチンの日系市民の動きが一目で判り、なかなか面白い。私の書い たものを連載した縁でずっと送って来ます。またあちらの事情をまとめた書物や アルバムも次々送ってもらっています。  あの辺りはラテン・アメリカと言われ、ラテン系の民族が主に移住して国を建 てたのです。アルゼンチンはスペイン人が多かったと見え、国語はスペイン語、 隣のブラジルはポルトガル人が多かったと見え、ポルトガル語です、そしてラテ ン文化の町が発達していました。  ところが今では北米合衆国のアングロ・アメリカの文化がどんどんあそこへ入 りこんでいます。月々の雑誌の漫画に至るまで合衆国の今流行の顔が描かれてい ます。  ブエノスアイレスの古いスペイン風の、低い壁に囲まれたような町々が、今ど んどん壊されて、その代りにニューヨーク風の高いビルディングが一面ににょき にょき建てられています。波止場付近を斜上から写した空中写真を見て、私はうー んとうなりました。何千というビルディング、何億と数知れぬ窓、現代文明の物 質的な面がそっくり表れていました。  それを見て、直ぐに考えたのは、長崎の国際文化都市のことです。  長崎がどんなにがんばったって、とてもこんな美しいビルディング街を建てる ことは出来ません。これだけの資材を集めることが第一難しい。こういう形の文 化都市をねらうなら、いくらがんばっても世界の何十番目か、下の方でとても国 際文化都市と言われないでしょう。  どうしても長崎は精神文化をもった優れた都市となることをねらわねばなりま せん。 ------- 輪 光  キリスト教の絵を見ると、頭の後に光った輪を描き添えてある人物が出ていま す。この輪をニンブスと言って、それを描き添えてあるのは聖なるしるしです。  初めはキリストだけに描かれていましたが、七世紀から後は聖人たちにも描か れるようになりました。キリストは聖人ではなくて、天主ですから、輪光の中に 十字架を描き入れて、特別のあつかいになっています。  輪光が描き添えられるのは、教会から聖人の位に上げられた方々に限られます。 誰でも彼でも死んだ人でさえあれば輪光をつけるわけではありません。そして、 この聖人というのは、ただ立派な一生を送っただけではなく、その取次ぎによっ て奇蹟が二つ以上行われ、それが教会の正式の調査で確かめられねばなりません。 世間で素人が、ある人を勝手に聖人にまつり上げるのは許されません。  聖人ときめるのは天主であり、そのことを奇蹟によって人間界に通知されるの です。だから人間界がぼんやりしていて通知を見逃し、聖人として敬われない聖 人もたくさんあります。聖人かどうかは霊魂の有様によるので、人間の肉眼では 見定めることが出来ません。たくさんの慈善事業をして、世間から生仏さま、生 神さま、聖人などとほめられた人でも、霊魂が自分の名を売ろうとしたり、高ぶっ たりしていると、聖人には落第します。たとえ乞食で他人の世話にばかりなって も、霊魂が美しければ聖人になります。  日本には何千人の殉教者がありましたが、その中で聖人の位に上げられた者は、 わずかに二十六名、その次の位、福者に上げられた者が二百五名にすぎません。 いかに聖人とは稀なものかが判ります。  もちろん誰でも心掛け次第で聖人になれます。そして聖人になることが、すべ ての人の一生の目的です。 ------ 聖 人  「永井さんは聖人になるだろう」と一人が言った。  「何を言ってるの、なれるものですか、結婚して子供まであるんだもの」と一 人が言った∩、 1この間、女の人が三、四人集まってお茶を飲んでいるとき、こんな言葉が交 されたと、その場にいあわせた一人が私に報せ、本当はどちらですか? と尋ね ました。  カトリックで聖人と認められるには、死んでのちたしかに天国に迎え入れられ た証拠が奇蹟などによって示された人でなければなりませんCたとえば聖フラン シスコ・ザベリオや聖ベルナデッタなどのように、死体がいつまでも腐らず、、・・ イラでもなく、生きた肉体のまま保たれているのも奇蹟です。とにかく、にきび のしんほどの汚れか霊魂についていても天国へは入れないのですから、聖人にな るには生きている間に、よほど完全な徳の人となっておらねばなりません。今の 私の程度の人間が聖人になれるのだったら、天国の門は地獄の穴より広いでしょ ・つ。  だが結婚をしたら聖人になれないと言うのは、まちがいです。結婚をし、多く の子供を育てた主婦で聖人の位に上げられたお方もあります。人間は正しい生活 を送りさえすれば、必ずしも修道院に入らなくても聖人になる道を離れることは ありません。乞食で聖人になられたお方もあります。軽業師で聖人になったお方 もあります。お百姓の聖人もあり、学生の聖人もあります。売春婦から足を洗っ て聖人になった人もあります.聖ペトロは漁師、聖パウロは天幕職人、聖ルカは 医者、聖ヘルナルトは大学教授でした。1心の貧しい人は聖人になれます。  聖フランシスコ会の修道院長のミロハナ神父さまが私の肩を抱いて「あなたは 聖人になることが出来ます」と申されたことがあります、私は驚いて「なるもの ですか、私みたいな者がi」と笑いました。神父さまはまじめに「なれます、 なれますよ。人間はだれでも聖人になれます。実は聖人になる義務を持っている のです」と申されました。 --------- 千客万来  如己堂は細路のほとりにあって、年中、昼も夜も開けっ放しですから、お客の 絶え間がありません。昼は人間、夜は虫。来る虫もさまざまですが、おいでにな る人間の方もいろいろで……。  乞食の去ったあとへ大臣さんが来て坐ったり、最高裁判所長官と入れちがいに、 鯨肉売りが入って来たり、人相見と医学博士とかち合ったり、幼稚園の子供さん たちの群れが、自分自分の家の庭から折って来た花を束にしたのを持ってお見舞 いに来て、代表者が一時間前から先生について何十ぺんもけいこした「センセイ、 ゴビョウキは、イカガデスカ……」を目をつむって述べ、先生の合図でいっせい に、ぴょこんとおじぎして引揚げたかと思うと、諸国行脚の宗教家が宗論をふっ かけに立ち現れる。安い焼酎のにおいをぷんぷんさせ、柱につかまりながらも、 ゆらゆら体がゆれるほど酔っぱらった人が来て、涙を流して私の本をほめている うちに、くだを巻き始める。酒の勢いで会いに来たのでしょう。  一言教えを受けたい、と言って来る学生。私は初対面の人に教える力はないと 言ってすぐ断ります。何か身の回りの御世話をしたいという女。人の世話よりわ が身の始末、と言ってこれも私は断ります。  いきなりザラ紙と鉛筆をとり出す新聞記者さん。あっちからのぞき、こっちへ 回ってねらうカメラマン。人は変っても、尋ねる問いは同じ雑誌社の特派員。  必ず、まず「東京から来ました……」と東京に力を入れる東京人。ニューヨー クやブラジルから来た人だってあんなこと言わぬのに、あんなあいさつをするの は江戸っ子じゃない。  文学作家は私の内部を見透す目を光らせ、俳優さんは私の指一本の動きも見の がさず癖をつかもうとなさる。  いちばん妙なのが歌人で、私のそばに坐って、じいっと黙ったまま二十分、三 十分。歌が幾首かまとまってゆくところだな、と私は思い、こちらも黙ったまま。  絵描きさんの方は、モデルを固くならせまいと軽口をたたいてくださるから、 描き写されながらも私の気持は楽です。私の面の皮も厚くなるはず……。 ------- 有力者  弟の長男、隆臣は小学校三年生、カヤノは二年生です。隆臣は近眼がひどくて、 教室で後の方に坐ると黒板の字が見えないというので、席を前にきめてもらって いますが、それでも何かにつけて困るだろうと、眼鏡を買って与えました。眼鏡 をかけると良く見えるよ、と本人も大悦びで、学校へかけて行きました。かけて 行ったのは二日も続いたでしょうか、……教室で黒板も本の字もよく見えるよう になったでしょう? と尋ねると、うん……と答えるものの、いっこう浮かぬ顔 をしているので、おかしな子だと思っていると、三日目か四日目のこと、ふと、 この子の机の引出しに眼鏡は留守番をしているのを親が見つけました。   …なぜ、せっかく買った眼鏡をかけないの? 1いくら尋ねても口を割ら ない。誠の体験によると、休み時間に暴れることができないからだろう、とのこ とでした。何でも隆臣は力の強いこと同級生の中の三番あたり、すもうでいえば 関脇どころでしょう。横綱相当を天下一と言い、これは学問の出来不出来とは関 係なしに、級中の英雄だそうです。休み時間ともなれば一騎討ちの取組み合いが 至る所で開かれ、それを女の子が見ているそうで、十歳にもならぬ幼い者の世界 にも、すでにアザラシの生活に似たもののあるのを、興味ぶかいと思いました。  母屋でカヤノか叔母さんに向って、今日学校であったことを話しています。  「わたしの組のね、天下一の健ちゃんがね、おかしいじゃないの、叔母さん、 ほかの女の子のお友達をいじめるくせに、今日わたしにねえ、ウミホウズキやろ か、と言ったのよ」  すると、隆臣のいかにも分別くさい言葉が、その次に聞こえました。  「ははあ、分った、そいつはほれとるばい」 --------- あいさつ  夫と妻、あるいは親と子が、朝別れるとき、夕方会ったとき、日本人は互いに 間を二折くらい隔てて、 「行って来ます」 「お帰り」などと口だけであいさつし、 アメリカ人のように抱き合ったりなどは致しません。このならわしの違いは、.人 間感情の強い弱いによって起ったのでしょうか?1  あちらの人はねちねちしている、われわれはあっさりしているからだ、と言う 人もあります。  しかし私はそう思いません。これまでの日本が安らかな国であって、先祖代々、 毎日の暮しの中に、いのちの危い目にあうことがめったに起らなかったためだろ うと思います。朝別れるときに、あんなに強く抱き合うほど、何か恐ろしい事の 起りそうな世間ではなく、夕方帰って来たときに、ああ無事でよかったと、ひし と抱きつくほど、ひやひやして過ごす社会の有様でもありませんでした。  ところがアメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、昔から今に至るまで、今でもポ ケットにピストルを持っている人が多く、生命保険や傷害保険が盛んなことに よっても判るように、家を一歩出たら命がけという危い有様が続いているようで す。山を開いてゆく家族は『子鹿物語』などで知られるように、クマなどの恐ろ しいけものに出会います。町の人は軍やギャングにいつやられるか判らない。血 を流す革命はたびたび起り、国境が海で仕切られておらぬから隣の国の騒ぎはす ぐ伝わります。1こんな危い世間に出て行くのですから、別れるときはこれき りかと案じ、相見たときは、ああ生きていたかと、あんなにひしと抱き合う、そ れが続くうちに、ならわしとなったのではありますまいか?  引揚者と家族とが抱き合う有様は今日の日本では珍しいものではなくなりまし た。日本人だって、命がけの場合は自然そうなります。  このごろ大都会の若い人の家庭ではこの抱き合うあいさつが行われているそう ですが、全く今の都会の有様では、さもあるべし、と思われます。  抱き合いあいさつの無い天下太平にしたいものです。 ------ 舌  戦争が終ると入って来た占領軍の将校たちが読み捨てたアメリカの通俗雑誌を 開いてみて、まず目を吸いつけられたのは、さまざまの食物の天然色写真でした。 こちらがイモのつるやヒジキやドングリの粉などしか食えないころでしたから、 果物サラダの写真を見ては、これはサクランボ、これはパイナップル、モモとナ シ、はてこれはメロンかしら?……などとつぶやいてつばを飲みこみ、ソーセー ジ料理のかずかず並ぶぺージでは、たまらないにおいが紙から立って来るようで、 見とれながら舌打ちするという有様でした。  それはみな第二次大戦の間に食物保存法がどんなに発達したかを物語る広告で した。かんづめ、びんづめ、セロファン包み、冷蔵、脱水乾燥などの方法が四、 五年知らぬ間にこんなにも良くなっておりました。どんな小島や山の中で戦って いた兵隊も、本国の家庭で食うのと同じ物を食べることが出来ました。それは新 しさといい、味といい、種類の豊かさといい、全く故里の家の御馳走と同じであ り、しかも開けたらすぐそのまま飲み食い出来る重宝なものでした。本国にいる 人たちもこのかんづめ等のおかげで、料理に奪われる時間も少なく、忙しい仕事 の能率を上げることが出来ました。  こんな物を造る工業も大資本主義で、同じ物をたくさん、しかも安く造ること が出来ました。雑誌の広告を見ても、ハムはどの会社、ジュースはどこ、チョコ レートはどこと大ていきまっています。そしてそれが広い広い売りさばきの網を はっていますから、東部だろうと西部だろうと、至る所の町や村の食料品店には 同じ物が並んでいます。だから所名物は影をひそめ、どこでも同じ味の物を食っ ているわけです。  近ごろ私たちもこのアメリカの食物を口にすることが多くなりました。なるほど 研究が積まれただけあって、味は甘過ぎず辛過ぎず、万人向きに造ってあります。  けれども、アメリカ文化地域の何億かの人々の舌が同じ味に舌鼓を打っている ……と思うと、私の舌までがそのソーセージ会社に統一されたような変な気にな ります。 --------- 玄 義  カヤノが大きな声を張り上げて、公教要理を学んでいます。そらんじる気とみ えて、ふしをつけて読んでいます。  「……天主には、|聖父《ちち》と|聖《こ》子と|聖霊《せいれい》との三つの位格(ペルソナ)があります。 これを|天《ノ》主の三位と申します。聖父と聖子と聖霊はそれぞれ天主でありますが、 天主の性が一つしかありませんから、ただ一体の天主であります。これを天主の 三位一体と申します。三位一体のわけは、人間の知恵では悟ることが出来ません。 ただ天主の啓示によって信ずるのであります。……悟ることが出来ないでも、信 じねばならぬことを玄義と申します」  この子がもうこんな難しい事を学ぶようになったのか1寝たきりの私は、原 稿に追われて、何ひとつ見てやらずに過ごして来たが、世間さまのおかげで、か たじけないことだ……と感慨にふけりながら聞いております。  さきおととしのことでしたか、カヤノが純心幼稚園から帰って来て、修道女か ら教わったお話の受け売り-:  「オーガスおじさんが、海水浴に行ったらね、子供が貝殼でね、海の水をすくっ ては砂の中の池にざぶり、すくってはざぶり、こうやってね、はい……一つのペ ロさま、二つのペロさま、三つのペロさま、四つのペロさま、五つの……」 「カヤちゃん、カヤちゃん、ペロさまは三つまでだよ」 「うん、オーガスおじさんにも判らんたい……」  1これは聖オーカスチノと天使との問答の名高い話です。三位一体の玄義は 幼稚園の子にも判らず、小学生になっても判らず、父の私にも判らず、大博士オー ガスチンの大知恵をもってしても、幼子と同じく悟ることが出来なかったのです。 1天主の全知を人間の知恵で定めようとするのは、貝殼で大洋の水を汲み干そ うとする努力よりも分別がない。 -------- 野ざらし  「家内が生きていたら、あんな情ない写真を新聞に出させないだろうに……」  と親類の老人が嘆きました。たしかに近ごろは新聞の種のねらいも奇抜になっ て、写真を写すのに、ああしろ、こうしろとなかなか突飛な注文が多くなりまし た。取材部員も読者を悦ばせようとの一念から苦心をするのですから、私もこの 体で出来ることなら何でもして上げねばなりません。あとで独りになってから、 うんうんうなったり、薬を飲んだりするのは毎度のことです。こうして私の醜い 病体が天下のさらしものになります。自虐性の持ち主ででもない限り、こんな目 にたびたび遭うて、我慢出来るわけはありません。自分の醜さを隠したいのは人 情のつねであります。私だっていやです。カヤノも誠も写真に写されるのが一番 きらいです。だから誠はカメラを持ったお客の姿を見ると、こっそり逃げ出しま す。カヤノはそこまで知恵が働かぬのでつかまります。しかし茶目ですからシャッ ターの切られる瞬間に、口をとんがらかしたり、ほっぺたをふくらましたりして、 お客をまごつかせます。新聞に出ると学校で友達から、とやかく言われるので困っ ているのです。  しかし、私は子供をなだめます。社会生活をしているのだから、人を悦ばすた めには犠牲をささげねばなりません。  もし子供たちが好い気になって写りたがるようだったら、私は写らせないで しょう。自慢や自己宣伝の心が湧くのをいちばん恐れているからです。  原子爆弾の裂けたあとに転がっていた死体の醜さ。 ……その醜さをさらして 死んだ人の霊魂は、どんなに情けない思いをしたでしょうか?  だがしかし、私たちはその野ざらしの醜い死体を見たために、戦争をいとい、 永遠の平和を求める気になったのでありました。 -------- ビスケット  雲仙岳のすそ野はなだらかなスロープとなって四方へのび、不知火の海に流れ こんでいます。このすそ野には豊かな青草が茂り、至る所にこんこんと清水が湧 いています。昔から島原馬の産地として名がありましたが、このごろは牛を盛ん に飼っています。何しろ大きな山をぐるりと取巻いた牧場ですから、放し飼いに している牛の数もおびただしい。  その牛が出すミルクは生のまま長崎に運ばれ、また島原の工場で、バターやチー ズに作られていますが、今ではまだ一般にミルク製品か親しまれていないため、 ミルクが余って始末に困っているほどです。そこで島原ではミルク風呂が出来て、 旅人の汗をミルクで流しています。  この雲仙のすそ野はまたサトウキビの名産地でもあります。小麦もたくさん|穫《と》 れます。小麦粉、砂糖、ミルクーこれたけの原料がそろっているのですから、 その道の人なら直ぐにビスケットなどを作ることを考えるはずです。  まさにその通り1長崎には大きなヒスケソトエ場がありました。戦争の前に は一年に二回、割れたり欠けたりして箱に詰められぬビスケットをボストンバッ グに一杯くらい五十銭で売ったりしていました、今は統制でしばられ、作ってお らぬようです。  長崎のビスケットはポルトガルから|逸早《いちはや》く作り方を習い、古くから名物となっ ていました。ポルトガル語で、ビスカウストと言いました。一五九八年(秀吉が 死んだ年)にはルソン島で長崎から輸入するビスカウストについて書かれた経済 論文があるそうですり将軍家康、秀忠のころにはルソンヘ盛んに輸出されていま した。ちょんまげ職人が焼いた物でした。統制がはずされたら再び盛んに作って もらいたいものです。ミソを加えたり、ヨーカンを間にはさんだり、東洋風な工 夫をこらして。 ------- わがまま子  近所のどの家も建て直しに大人は総がかりで、子供は放ったらかしにされ勝ち です。家も狭くて遊び場もない、貧しくておもちゃも買えない-:-そんな有様で 今まで来ました。私の家は庭もコンクリート張りで、裸足でも危くないし、私が もともと医者だから少し血の出たくらいは手当が出来るし、人形も絵本もおも ちゃも皆さんから頂くので、遊ぶには事欠きません。それで私の家が自然と子供 の遊び場になりました。  毎日にぎやかなことです。1万事うまくいっています。  へ理屈を言い出す子があると、如己堂の中から、おおーい!---と大声が飛び 出します。そのほかは何をやらかそうと私はひっそりしています。それはそれは 大変な騒ぎで、ハトが屋根に群かって見とれています。  ところが1学期の終りの通知簿の注意書きに、カヤノは物の後始末が悪い、 と先生が記していました。また、わがままな所がある、とも書いてありました。  そこで、なぜそうなるか、気をつけて見ておりました。わけはいろいろありま したが、その中の一つは新しく見つけた点です、1家庭生活の中で養われた悪 い所でした。  自分の家が遊び場です。だれに気兼ねもありません。行きたい所に行き、飲み たいときに井戸水を飲みます。ほかの子供らは、気兼ねが全くないわけではない。 大人が庭を通れば道をあける。水を飲むにも一言ことわりを言う……そんなこと が、いつのまにか、大勢一緒に暮らす社会人としての慎みとなり、譲り合いの心 となるのでしょう。カヤノの方はそれを養うことがおろそかになったのです。  また絵本やおもちゃなども、よその子供は遊び終って帰るときに、きちんとそ ろえて返す。カヤノはただそれを受取るだけです。そこでいつしか、後始末の面 倒くさい仕事をしない癖がついたのでした。   我が子を我が家でばかり遊ばせるのも善し悪し。 ------ たなはた  たなばた祭は今の子供たちには余り興味が感ぜられない様子です。絵本などに 描いてあるから、まねてやってはいますが、私が子供のころに感じた、あのすが すがしいロマンチックな気分は、誠やカヤノの胸には起っておりません。  この辺りに工場はなくなり、目立つほどの煙を吐く煙突はなくなりましたけれ ども、町空の空気はやっぱり濁っているとみえ、星空の冴えはありません。冴え るまで澄みわたる空であって初めて天の川の美しさが現れ、見上げているうちに、 おのずからあのロマンスが生きて来るのです。  あの白いのが天の川、あれが織女、こちらが牽牛……と話しかける出鼻を折っ て、ああ、その話なら雑誌で読んだよ、昔の人は科学知識がなかったから、あの 星の集まりを川だと思ったんだね。……と今の子供は言います。  私らの子供のときには、朝早く畑へ出て、サトイモの葉にたまっている露の玉 を、ころころと、すずりに移し、それをすって、五色のたんざくに歌などを書い て、青竹につけました。そうすると習字が上手になると言われていました。今の 子供は習字を上手になろうと思いもしませぬし、たなばたにそんな力のない事を 知っていますから、朝早く起きて露とりに出もしません、  いよいよ、青竹を飾ったときの五色のたんざくの美しさ!……ことに次の朝早 くそれを川原にかついで出て、浜に並べて挿したのの美しさ、すがすがしさ! 今も私の目にあざやかに想い出されます。ところがネオンサインを見なれ、美し い|彩《いろど》りのドレスを着なれた今の子供たちは、川原の青竹の五色のたんざくの彩り にはほとんど心を動かさぬようです。  たなばたの竹の五色に一年一度の心をおどらせた昔の子供と、毎晩ネオン燈を 見て平気でいる今の子供と、どちらが楽しいでしょう。 ------ 雪のサンタ・マリア  八月五日は雪のサンタ・マリアさまの祝日。真夏に雪とはどうしたわけだろ う91というので、この日が人々によく憶えられているのでしょうか。それと も真夏の暑さも忘れ去る、すがすがしい名によって、たたえられるのでしょうか? ……これは真夏に白々と雪が積もった奇蹟の物語です。  四世紀の中ごろ、教皇リベリオのとき、ローマにヨハネという貴族がありまし た。夫婦ともにあつい信仰をもち、つねに善い事をして天主を悦ばせようと努め ていました。二人の間には子がありませんでした。彼らは年老いて、大きな財産 を聖母マリアに献げようときめました。しかし、どういう風にして献げたらよい のか、天主の思召しをお示し願うために、ひたすら祈り、貧しい人々に施し、ま た自分らは断食して、おさとしを待っていました。  八月四日の夜中、二人は同じ夢を見ました。1聖母マリアさまが現れ、 「ローマのエスクイリーの丘に、私のために一つの聖堂を建てなさい。その場所 は、夜が明けたら白雪に被われているから、すぐ判るでしょう」と申されます。  夜が明けて、その告げられた丘へ行ったヨハネ夫婦は、ほんとうに白々と積もっ た雪を見出したのです。しかも、ちょうど聖堂にあてる敷地だけの土を被ってい る雪をー。  ヨハネはすぐに教皇に申し上げました。教皇は多くの司祭を従え、行列をつくっ てエスクイリーの丘に行かれました。そこには大勢のローマ市民も集まっていま した。  真夏の太陽はかんかんと照りつけていましたが、その白雪は消えもせず、終生 処女なりしサンタ・マリアの純潔のかたどりとして、すがすがしく、輝いていま した。  すぐに聖堂は建てられました。ローマの四大聖堂の一つ「サンタ・マリア・マ ジョーレ」がそれであります。  この物語はよほど昔の長崎人の心に深く刻まれたものとみえ、四百年の間、雪 のサンタ・マリアとして言い伝えられてきました。 -------- サンタ・カララ  この里のキリシタンが隠れていた昔のこと、八月十一日は「|善《よ》か|盆《ぼん》」と言われ て、信者はサンタ・カララの聖堂の跡のほとりに集まって祈りを献げたものだそ うです。   |家野《よの》は|好《よ》か|好《よ》か昔から好かよ   サンタ・カラナで日を暮らす  という盆踊り歌があったと伝えられていますから、役人の目をごまかすために、 盆踊りの風をよそおい大勢集まったのでしょう。  サンタ・カラナというのは土地の人のなまりで、一般にはカララと呼ばれてい ました。正しくは今聖クララととなえられている、クララ会を作った修道女であ ります。クララ姫はイタリアのアシジの公爵スチフィの長女でした。あの大聖フ ランシスコの徳をしたい、俗世間の楽しみ一切をなげうち、一枚の衣になわ帯を しめ、乞食となって清貧完徳の生活を送りました。今でも聖クララ会と言えば数 ある修道会の中でもいちばん貧しい、いちばん激しい犠牲と祈りをする仲間です。  この聖クララは浦上の婦人からいちばん敬われ、したわれていたようです。そ の名をつけたサンタ・カララの天主堂は、|家野《よの》郷の川上、すなわち今の大橋から 川の右岸を五十材ほど上った所にありました。私の家から二百材西に当ります。 慶長年間の迫害で天主堂が壊されたのちも、その土台石のほとりに毎年聖クララ の祝日には集まって祈りを献げ、それを隠し言葉で「善か盆」と言ったのです。  この天主堂の跡の川向うに、ベアトスさまの墓と呼ばれている、岩の高台があ ります。ベアトスとは福者すなわち聖人の次の位のお方です。ここではジワン親 子三人が火あぶりになりましたので、里人からは神聖な土地とされています。「善 か盆」の夜には、この岩の上に集まって祈ったものだそうです。1四方に見張 りを立てて役人を用心しながら、ひそかに祈りをとなえる群れ。川のほとり、日 の光にぬれて    。 ------- バランダ  長崎の家は二階が多い。狭い土地に町が出来ているので、いきおい家は上に伸 びたいのですが、幕府が慶安二年に、三階建を禁じたので、二階止まりになりま した。その前には今の県庁の所に三階建の大きなイエズス会本部があったそうで す。  二階は楽しい所です。二階へ上ると好い気持がして、何となく落ち着くもので す。本当の我が家の感じのする所です。一階は道とつながっていますから、半ば 公けのものみたいで、絶えずお客の出入りはあるし、前を通る人からは見られる し、とても鼻の横っちょにマクワウリの種をつけたまま坐ってはおられません。 二階へ上ってしまえばおへそのゴマもゆっくりほじくることが出来ます、三階や 屋上の物干しへ上ると、ちょっと地震の心配などで落ち着けますまい。何と言っ ても二階は夢多き空間です。  町の空気は下の方ほど汚れています。ちり、ほこり、ばい菌も多ければ炭酸ガ スの量も多い。二階へ上ると、それがずっと減ります、郊外の丘の上ほどではな いにしても。……それで息をするのも軽くなるのです。  また二階へは隣や向うの屋根越しに陽の光が射しこんで来ます。小庭の植え込 みの緑の梢をそよがして風も入って来ます。  幼子がとかく二階へ上りたがるのも、階段を登るのがおもしろいこともありま しょうが、魚がきれいな水の方へ行くように、体に快い所の味をおぼえて、あこ がれるのでしょう。  長崎の家の二階にはバランダが室の外へ差出ていました。バランダとはポルト ガル語で、今ならベランダという所です。ちょっとした板敷で、それに手すりが 付いていました。このバランダにくつろいで風に当っていると、宙に浮いている 自覚がありますから、酒を飲んだ後などには孫悟空気取りになれたものです、 ------- 年中行事  長崎の古い本を見たり、年寄りに聞いたりすると、元旦から大みそかに至るま で、日をきめた行事や、季節気候にふさわしい行事が次々と連なっていて、大人 も子供もそれを忠実に、人に負けぬようにやっていました。 (浦上のキリシタン 村の行事は全く別です。)  正月の門松、雑煮はどこも同じ。元旦に長崎人は必ず氏神さまと先祖の墓とへ 参りました。そして恩報じといって包丁など平素使っている道具を元日一日休ま せました。四日から八日まで市中の絵踏みが行われました。丸山芸者は旦那に絵 踏衣裳を作ってもらい、美しさを競って、なかなか賑やかなデモをやりました。 このころ七高山詣とて、町のまわりの七つの高い山に登り、頂の神社を拝みまし た。十日恵美須。十五日福済寺の上元祭。また諏訪神社の紅毛立湯立。十六日 三宝寺のエンマさん。二十日恵美須、骨正月.二十四日七面山の星祭。二十五日 ごろの西国巡礼の出発。なお十五日ごろオランダ人の江戸参礼出発があり、送別 宴会で賑わったのだそうです。  二月一日中島聖堂で孔子祭。初午は若宮稲荷社参り。十五日釈尊のねはん、い り花と黒豆。二十五日天神祭、二十五の神社を巡拝して天神札を打つ。風頭山の ハタ揚げ。  三月三日はひな祭。七日諏訪神社で紅毛入津繁栄祈願祭。またギオンさんの千 団子祭。十日金比羅祭。二十一日お大師さん。      というような事で、それが全市民、こぞって動いていたところへ、長 崎の特徴があります。すなわち、オランダ人との貿易の事と、神社と仏寺の賑や かな儀式と、キリシタンヘの警戒と……。  市民の方はキリシタンと疑われぬようにするため宗教行事には熱心でした。役 人の方はキリシタンに興味を持たせぬため、大いに宗教行事と集団行事とをすす めたのでした。  長崎で各派の宗教がそれぞれ盛んであるのは、宗派の間の激しい生存競走の結 果と思われます。 ------ オランダ冬至  出島のオランダ屋敷では冬至の日に大宴会を催しました。かねて出島へ出入り している通訳、役人、人夫、召使などは木で作った小さなオランダ船の模型を持 ち、ドラを鳴らしてオランダ人の部屋を回り、お祝いを述べ、祝儀をもらいまし た。  長崎の町学者古賀十二郎翁が調べて考えたところによりますと、このオランダ 冬至はその昔クリスマスの祝いだったとのことです。  オランダ人だけが貿易を許されたのは、彼らがカトリックすなわちキリシタン の仲間でないから、宗教行事を一切行わない条件をつけてのことでした。そこで 出島では宗教に関係ある事は何も行われておらぬように見えました。けれども彼 らとてプロテスタントですから、クリスマスだけは祝いたかったのです。ちょう ど冬至がクリスマスの少し前に当りますのと、冬至は、唐人屋敷の方でも|一陽来《イィヤンうイ》 |復《ホ》のめでたい日として、関羽張飛玄徳の三像をまつり、ぜんざい餅を食べ、冬至 団子を奉行などの役人に贈り、また人夫らは木で造った唐人船の模型を持ち、ド ラを鳴らして唐人屋敷を回り、お祝いを述べて祝儀をもらうならわしがありまし たから、それにならった風をしてお祝いをしたのです。日は少し違いますけれど も、冬至祝いにカムフラージュしてクリスマスを大っぴらにやったのでした。  その日の御馳走の第一は豚の頭の丸煮でありました。長崎古今集覧名勝図絵称 本にはこの場面の絵があります。左手に食卓があり、中央の大皿に豚の頭がのっ ています。口にミカンをくわえています。その横に野菜らしい中皿と香辛料びん の台が出ています。一人のオランダ人が立って右手の大ナイフで鶏の丸焼を切ろ うとしています。一人のオランダ人はすでに腰をかけ、その両側に遊女が寄りそっ ています、もう一人のオランダ人は遊女と話しながら席に着こうとしています。 右手から南方人らしい給仕が二人、一人はギヤマンコップを三つ丸盆にのせ、一 人はギヤマンの酒びん二つ丸盆にのせて持ってくるところ、足もとに白い犬が首 を上げ、鼻をうごめかしています。 ------ 浦上川  浦上川は|三山《みつやま》の北から出て、|川平《かわびら》の谷を下り、浦上の平地を貫き、長崎港の奥 へ流れ入ります。長さは十キロ余りもありましょうか。水の美しい、岩の面白い 谷川です。水が美しいのは源が金鉱地帯だからと言われています。岩が面白いの は、この辺りが古い火山地帯で、安山岩や玄武岩がにょきにょき噴き上げている からです。  この川に沿うて、登る西浦上の谷の村は長崎の名所になるでしょう。それは静 かな美しさに満ちた風景をもって旅人を慰めるだけでなく、川沿いのあちこちに 殉教の跡があって、潜伏キリシタンの美しい物語を川原の石が語って聞かすから なのです。  大橋で電車を降り、浦上川に沿う白い路を川上へとたどりましょう。五十材も 行かぬのにすでに殉教の跡を見ます。左岸の小高い岩の上に大きな碑が建ってい ます。それはベアトスさまの墓と呼ばれています。ジワン、ジワンノ、ミギル親 子三人火あぶりの跡。その対岸の川岸がサンタ・カララの聖堂の跡。純心修道院 の入口の「慈悲の聖母」像を弔いましょう。これは原子の火の中に賛美歌を歌い つつ昇天した白百合少女の墓。ずっと登って川平郷に入ると、左岸に原田善左衛 門夫婦火あぶりの跡、|難川原《なんごうら》。この辺りから川は安山岩をえぐり抜いて狭い、た ぎる瀬、カワゼリがしぶきにぬれて茂っています。カワセミが飛ぶ、イタチが遊 ぶ、ヤマドリが飛び立つ。路は坂となって登りゆくと畑がひらけ、木場の天主堂。 かずかずの信仰美談を伝える四百年来のキリシタン村。さらに杉の谷を登って行 くと、キリシタンの子供を落として殺したという|稚児《ちぺし》淵。その上に赤い血の色を した大岩があります。そこで多くのキリシタンを殺したのだそうで、ハツガンバ リと呼ばれています。ハツという娘が特に大いにがんばって信仰を守ったのだそ うです。  浦上川が殉教者の血の跡を洗うて流れるので、その水を入れた長崎の港はこん なに美しいのでしょう。 ------- 長崎の名  なぜこの港の名を長崎と呼ぶのでしょう? 歴史を調べる学者が説くところに よりますと1学者のほじくり出した事は大そう面白いものもあり、なあんた、 そんな事かと、がっかりさせられるものもありますがーどうも長崎の由来は余 り美しくもありませんね。  いちばん古くは「火の国ニギタ津ッ」と呼ばれたそうです。日本書紀には「玉 杵名邑」とあり、神功皇后は「玉の浦」と呼びなさったと伝えられます。浦上の 本原町から赤い玉が出ます。鎮懐石はこの石だとの話です。土地では|角《かど》の|崎《さき》の火 打石と言っていますが、玉の浦の名はこの赤い石に由来します。 「深津江」 「深 江浦」 「福富の津」とも呼ばれました。明人は「周抱海」と言いました。 「長崎」の名は伊豆国から亡命武士の姓と共に移されたものです。1平重盛の 孫は北条氏によって伊豆国長崎という所の領主となりました。その子孫は地名を とって姓として長崎氏と名乗りました。北条高時が新田義貞に討ち破られたとき、 長崎為基はなかなか武勇の士で、大いに戦いましたが、家来ことごとく打たれ、 ただ一騎、囲みを破って西国に走り下り、この深江浦にたどり着いたのでした。 里人1といっても三十人くらいの漁夫たちが彼を領主にして仕えました。子孫 代々ここにいるうちに、村の名を「長崎」と言うようになりました。足利義輝の とき、明船が貨物を積んで、この港へ入って来ました、その事が京都へ伝わると 将軍は小島備前守というのを遣わして船を見張らせましたが、小島氏が威張り散 らすので、長崎甚左工門大いに憤慨し、小島氏を夜討ちにして、自分も逃げまし た。あと長らく港には、定まった領主がいませんでした。つまりポルトガル船が 入って来て、良い港だと折紙を付けるまでは、全く間題にならぬ村だったのです。 (長崎名勝図絵による) ------- 女の日  女の日1と言ったら婦人のお方から怒られるかも知れませんが、婦人と言う のと、女と言うのと、本体は同じなのですから耳に聞いてすぐ判る方を使いましょ う。名をむつかしく改めさえすれば、世間から良い方に見直してもらえるという ものではありますまい。  コックが司厨士と名をかえて、台所を支配するサムライになっただけでは、スー プの味が良くはなりませぬ。職工が工員になったので技術が進んだでしょうか?  …大切なのは実際|有《も》っている力であって、呼ばれる名ではありません。 「婦人 の社会的地位向上」だの「家庭婦人を奴隷的雑務より解放せよ」だのと叫んだっ て、その言葉が何の意味か判らない女がたくさんいて、きょとんとしているのが、 今のすがたではありませんか?1  それを見てさらに「現代女性大衆は前世紀の悪習たる封建制度に甘んじ、敢え て旧弊を脱皮せんとする意欲なきを慨嘆し、ここにアタクシどもはー」と声を 大きくして街角で演説なさいましても、買物かごをぶら下げた女は「何ば言いよっ とじゃろかい、英語ばっかり使うて……いっちょん判らんたい」と言いすてて過 ぎるのです。 「あいや、しもうた、立って聞いちょる間に、クジラの氷がとけて ・…やれやれ、急いで帰らんば臭うなるばい……」  むつかしい言葉を使うのが文化の高い人とはあながち申されません。女より婦 人の方が上品だと言ったら、おかしくありませんか?……女の日と言わずに、婦 人の日と言ってみずから悦んで快い気持になっている、そのところに、女の値打 ちをかえって低くする何ものかがあるように思われます。  名前より中身!  言葉より力! ------- 半 身  夫婦になっている男と女とは、お互いに相手をベター・ハーフと考えるのだそ うですね。このハーフというのは半分のことですから、夫も妻もそれぞれ夫婦一 体の半身に当るわけでしょう。そういう夫婦はうまく行きます。ー魚を三枚に おろすと、右と左の片身と、中の骨のあらが取れますが、魚を二枚におろすとな ると、それをちょうどハーフに、すなわち真半分に割ることは難しい。夫婦がう まくべ夕1・ハーフを合わせた一体の場合がつまりこれです。ところが、中の背 骨を右の片身なり、あるいは左へなり付けて二枚におろすことは、これは易しい。 手軽に二枚におろせます。夫婦のうちのどちらが骨付きの大きい方で、もう一方 が骨なしの小さい片身だと、とかく大きい方が威張って、夫婦仲はうまくゆきま せん。もしまた家の外から見ると円満のようだったら、きっと小さい方が、じっ と辛抱しているのです。これが今までは夫婦の心得ぐらいに思いこまれておりま した。これは偽りの円満夫婦です。自分をあざむき、連れ合いをあざむき、子を あざむき、親をあざむき、世間をあざむいている仮面舞踏会です。  台所のかまの下敷みたいな夫、床柱の前の座蒲団みたいな妻1どちらもハー フではありません。夫と妻と実力が違うと、こんな夫婦になります。  女、氏なくして玉のこしーこんな言葉。目がねにかのうて三国一のむこ養子 1こんな言葉。  そんな言葉につられて、男も女も、自分の実力にふさわしくない大物をねらう から、一緒になって暮らすうちに、連れ合いから実力で押され、押し倒され、押 しつぶされ、下敷になり、一生見おろされて暮らすことになるのです。  人にはそれぞれ天から与えられた力に限りがあります。男も女も、自分の力に ふさわしい相手と夫婦になるのが本道でしょう。 ------- 宴会員  昔は役人と呼ばれていた職業の人々は今では公務員と宴会員となっているよう です。勤めに出るときに、弁当箱をそれと判る小さなハンカチに包んで持ってい るのが公務員で、何が入ってるか判らない皮カバンを持っているのが宴会員です。 なぜなら弁当箱ぶら下げては宴会員の勤務先へは行かれないからです。また公務 員には皮カバンに書類を入れて自宅へ持ち帰ってまで仕事に精出す気持がないか らです。もし皮カバンが本来の役目を果たし、書類を入れて往来するのに使われ るようだったら、町民どもが出した書類が何ヵ月も未決かごに積まれているはず がありません。  公務員も、宴会員も朝は、省とか庁とか所とかの字が下に付いた看板の出てい る建物へ入ります。公務員の方は夕方きまった時間に、その建物から、空気の抜 けた青風船みたいな姿で、真直ぐ歩いて出て来ます。宴会員の方はいつのまに、 勤務位置を移したのか、別の建物の、看板の下の一字が屋とか亭とか館とかになっ ている名の門から、ヘリウムのつまった赤風船みたいに、ふわり、ふわりと出て 来ます。  この赤風船組のやり方については世間でずい分やかましく言っていますが、な かなか盛んです。ずいぶん金のむだ|遣《づか》いになるはずで、一般の町民があんな生活 を続けたら破産はまちがいありません。家庭から苦情が出る、親族会議を開く、 准禁治産の裁判にかけるというような騒ぎとなります。だから昔も今も町民は自 粛自戒しております。  ところが宴会員の家庭から苦情が出たことも聞かず、破産になった話もないの はなぜでしょう91それところか、公務員の家族は青くやせているのにもかか わらず、宴会員の家族は反対に桃色に肥っています。そして亭主が赤風船になる のを喜んでいます。それは亭主の分だけ配給が浮き、食費が浮き、それを家族の 食卓に回すことが出来るからです。 ------ 鼻  弟は近眼鏡をかけていますが、向い合って話しているうちに、あらまた、と思 うほど度々ちょいと手を眼鏡にかけて直す癖があります。それは全く速い手の技 で、そのために人間がちょこちょこしているような感じを与えます。美しい癖で はないから、やめるように気をつけさすのですが、なおりません。よく見ていた ら、なおらぬも道理、眼鏡がずり落ちて、レンズの中心が目に合わなくなるので、 ちょいと手をやって、ずり上げねば困るのでした。  そこで、なぜずり落ちるのかと、よく見ると、鼻が低くて、眼鏡がかからない ためでした。弟にしろ私にしろ、出雲民族ですから、朝鮮系で、鼻はべしゃんこ の方です。こころみに自分の鼻をなでてみたら、私のも眼鏡のかかりそうにない、 すべり鼻でした。  それにつけて想い出すことがあります。私は大学一年の夏休みに後藤、堀永両 君と山岳部員として九州横断をしたことがありますが 東海岸の大分市に出たと き、日焼けのため、両君の鼻の皮が剥げているのに、私だけはほっぺたの皮だけ 剥げておりました。  もう一つ想い出すのは、子供のころ、かぐらを舞うのに、被ったお面です。私 らは菓子箱に墨で鬼などを描き、目と口を切り抜いて、すぐにお面を作り、それ を被って何の不自然も、不便も感じませんでした。それは出雲人の顔が平面だか ら、ボール紙の上に描き現すのに、鼻を高く現す必要を感じなかったし、また、 平面のボール紙のお面を被っても鼻がつかえて邪魔になる事もなかったからです。 このことは、西洋の仮面が大てい目から上をおおって、鼻から下は出している点 を考えると、いかにもそうだと思われるでしょう。  彫刻が西洋で発達し、日本で発達しなかった原因の一つに、この鼻の表現問題 があるかも知れません。 ------ さんさしぐれ  ラジオは仙台から「さんさしぐれ」を聞かせてくれました。  大勢の男の人が手を打ち鳴らして歌っていました。宮城野の広さが歌声のうし ろにありました。伊達政宗公のハイカラな、野心的な大きさも感ぜられました。 文句の上から受ける細さは、メロディーの上には余り表れておらぬように思われ ますが、如何でしょう9    この歌はすはらしい歌です。そしてとことなく ヨーロッパ風なにおいがあります。支倉六右工門をローマに送った仙台公ですか ら、あらゆる西欧文化を取り入れるのに努めていたことは疑いありません。その ときにあちらの音楽が入って来たことも当然考えられます。さんさしぐれの節ま わしを聞いていて、そんなことを考えました。  私が初めてこの歌を聴いたのは仙台の対橋楼で、あそこの娘さんたちが古風な 御殿女中の晴衣を着て、歌って舞ってくれました。品のいい、美しい歌に、しん から酔いました。歌も踊りも娘さんから教えてもらいましたが、もう忘れました。 あれは私が大学を卒業してすぐのことで、教室主任の末次先生について、ラジウ ムの定量を東北大学物理学教室へ頼みに行ったときのことでした。日本のラジウ ムの原基はそこに保管してあるのです。その大学の放射線医学の古賀教授は末次 教授のいとこに当ります。その夜、古賀教授が長崎から北上した二人を対橋楼に 招き、広瀬川の風とさんさしぐれでもてなして下さったのでした。  仙台から長崎までラジウムを守って坐り通した汽車の旅の長かったこと! 昔 この道を歩いて来た人々がたくさんいました。それは支倉六右工門の家来のキリ シタンたちでした。支倉がローマから帰ってみたら、日本ではキリシタン禁止で した。そこで信仰を捨てぬ者は長崎へ走りました。その子孫が今も西浦上に残っ ています。 ------ 配 給 「おうい、上野町いー、こめえ1五日分配給う……、十時からあー」  大きな声で呼んで行きます。 「何ですかあ91」とこかのおはさんが聞きかえす。 「米だあ、米五日分だよう……エジプト米だよう……」答えはもう遠い。 「お米だって、……やれやれ助かった」 「隣の奥さん、取りに行きましょうか?」 「はい、……ええと、五日分で、うちは幾キロになるかねえ?……」  近所の話声。  -…ありがたいことです。腹八分にも足りないけれども、とにかく飢えずに過 ごせたこの幾年。農家の苦労、学者の苦心、政府の努力、世界の同情のおかげで す。  本当のところを言えば、あんな戦争をしでかして、世界中に迷惑をかけ、今は まだ仲直りもしてもおらぬのですから、どんな目にあわされても文句はないとこ ろ。昔だったら、私たちは見殺しになっていたに違いありません。それが、こう してエジプトから米を送って来る、アメリカから小麦粉が送られる、キューバの 砂糖、南極鯨    。  人は人を愛せずにはおれないのではないでしょうか? 人が人を愛するのは本 能のせいではありますまいか?  人が人を憎み、傷つけ、殺そうとするのは、人間の知恵が先走りして自分で描 いた幻に惑わされるためではありますまいか?  隣のフジエさんが私のうちの米も受取って来てくれました。隣も人手がありま せん。ミチエは三歳で歩けるから先に立たせ、あとからフジエさんが天びん棒を 担いで帰って来ました。米の袋は二世帯分、後のかごに載せています。それとつ り合いを保つために、前のかごには赤ちゃんの|香《かおり》が入れられています。かごがゆ らゆら揺れるので、赤ちゃんは気持ち好さそうに眠っています。 ----- 出 島  安政のころ書かれた「長崎名勝図絵」は、長崎史談会の手で昭和六年に出版さ れましたが、写生画がたくさん入っていて、説明もまことに判り易く、昔の学者 は研究態度もねんごろ、読者に対してもねんごろだったと感心させられます。そ のころの大学者は、鼻たれ小僧に親切であっただけでなく、百年後の病人たる私 をもうれしがらせてくれます。  その中から出島オランダ屋敷の有様をご紹介致しましょう。 「オランダ屋敷は西衛の南の海中にあり。門前はすなわち江戸町通りなり。かた ち扇面に似たり。俗に出島と名づく。もとは南蛮人の為に築かれし所なり。そも そも南蛮(ポルトガル)の黒船の日本に初めて来れるは天文十二年……二十八年 の間九州所々に渡海し元亀元年、この深江浦(長崎)にいかりをおろし・…-諸国 の商人、競い来り商売せしにより、ところも賑やかになりぬ……金銭を人に与え て其心をとらかし貧困の者には猶々恩恵を施し……ひとえに人を邪宗門に引入れ んと思うにより次第に帰依する者多くなる……太閤すでに蛮僧を禁じ給えども、 商売のみに来たれる黒船は苦しからずとありしにより……寛永十三年港の内に一 つの島を築き……蛮夷等ことごとく島の内に入れ貨物を取りて宿せしむ、出島屋 敷これなり……しかるに寛永十四年天草島原の賊民一揆を起し・…-出島におる所 の蛮夷等ことごとく帰されけり……出島全く空所となる。……黒船御禁止となり 比津の民世わたりぬべき生業なき事を憐れみ……多年平口に来たりし紅毛(オラ ンダ)商舶この津に至らしむべき江府よりの命ありて寛永十八年、辛巳のとしよ り長崎の港へ入来れる事となりぬ……出島の空きたるこの置かれける、これ紅毛 入館の始めなり……オランダ国は唐土天竺より西北にあたりて海上一万余里の国 なり……其人皆長大にして色白く髪赤く、ひとみ青くして白点あり……オランダ 言葉は実は下ドイツ言葉なり……ドイツ国字数二十六、一字一音あるいは二字三 字一音とす、あるいは一音乃至八九十音一意をなす、これをもって漢字数万字の 用に当る……」 ------ 白 魚  水ぬるむーという声を聞くと、私はふる里の松江の湖をほのほのと想い浮か べます。…・-大橋のらんかんに寄って見まわしている高等学校生の私がすでに絵 の中の一点景となって想い出されます。長いマントのすそを吹き上げた北風はも う訪れず、湖の面を渡って来るそよ風は温泉の湯気のようにじっとりしています。 東はるかな伯蓄大山には出雲富士の名にふさわしく雪が残っていますが、西はる か湖のはてに霞む石見三瓶山は雪消えて淡いむらさき、北、島根半島の山には緑 がにじみ、南、中国山脈は濃い、紺色の頂を重ねています。湖の上に影を落とす 雲の歩みものんびりしたもの、橋の下なる水もよどんで、浮藻はどちらへ流れよ うかと思案している。・-…この塩水と真水との出会うところを小さな白魚が水面 近く遊んでいるのです。  四つ手網がすうっと上がる。きらり、きらり、きらきら、ぴちぴち、春の陽の 光をはねちらして網のたもに落ちゆく白魚。  求め来て、青磁のはちに入れれば、ちょろちょろと泳ぐおかしさ。春雨のよう に透き通って、これならレントゲン線もいらぬ。  木の芽をすりこんだ酢味噌の中へ移せば、ぴちぴちと走る。それを箸につまん で口に入れる。ほの甘く、ほの苦く、そしてつるりと舌をすべるは春の触覚。… …桃畑の夕もやに向って一こん、二こん。 白魚  この浦上の浦上川も昔は白魚の名所で、それをとるヤナがずらりと並んだので ヤナノ川と呼ばれました。川岸から四つ網を入れてすくい上げたものです。町の 人々はチョンマゲ頭をつらねてピクニックに来て、川原に坐り、生きた白魚をさ かなに盃を重ねました、  今はこの川を挟んで工場も建ち、町も出来、水が汚れて、春の白魚の行事はな くなりました。その代り市民は南氷洋のクジラを食います。そしてこまやかな神 経も失いました。 ------- 山の名  浦上は南北に長い谷です。この谷がそのまま南へのびて港になっています。東 と西にはけわしい安山岩の山が岩肌を現して立ち連なっています。西側に迫って いるのが屏風岳、もとはクスノキが茂っていたのを原子爆弾が焼き払ったため、 垂直な岩が現れて、その名の通りの山となりました。南はそのまま稲佐山に連 なっています。北には谷を隔てて岩屋山がそびえています。浦上の主峰ですが草 山で、見る目には昼寝をしているような、やさしい山です。  東側に近く立っているのは金比羅山。これは金比羅神社があるので呼びなれた のですが、古くは環杵山と言い、港へ入ると正面に見えるので、長崎の主山とさ れていました。|崇《たか》岳とも呼ばれたそうです。木庵禅師がこの頂に遊び、凡塵を離 れた所と言って無凡山と岩に刻ませました。浦上の人は山の形からハカマ山と 言っていました。この山の北に連なるのがアングリ山です。また西の中腹に岩が こぶのように突き立っているのは|穴孔法《あなぼこう》と呼ばれていますが、この名は陰陽神の 淫祠に孔法さんが併せまつられている所から出た不潔な名です。もとは白巌山と 呼ばれていました。  西北には戸山、石神山、コウロ山が重なり、その奥には美しい三峰の山がそび えています。これは黒岳と名づけられていますが、だれも形から|三山《みつやま》と呼んでい ます。  これらの山のうち、土地の人が名を知っているのは高い山々1稲佐山、岩屋 山、金比羅山、三山だけで、あとは指さして、あの山と言うだけです。つまり今 の人は昔の人と違って、山と生活との直接関係をなくしてしまったのです。山だ けではなく、川の名、谷の名、星の名、をいちいち憶えておらなくても、毎日の 生活にさしつかえがないのです。人類は自然との間に文化のフィルターを入れま した。 --------- 花十字  長崎では古いキリシタンの墓があちらこちらにあります。けれども世間で考え られているほどたくさんはありません。島原の乱の後に、それこそ草の根を分け 土を起してキリスト教に関係するもの一切を見つけ出して片付けてしまったから です。墓石は割られて海に投げこまれました。今残っているのは、やぶの中や浜 辺など人目につかなかった所にあったものです、キリシタンの墓については片岡 彌吉君の詳しい研究があります,それは「キリシタン研究第二集」に載っていま す。彼は私の近くに住み、私と同じ年の歴史家です。前に、私が元気だったころ には、彼のお伴をして墓探しによく出かけたものでした。彼の論文に添えてある 墓石の写真は彼が愛用の小型写真機で写したものですが、距離計なんか無かった 時代の機械なので、いちいちひもを引っ張って距離を測って写さねばならず、私 はいつもそのひもの端を持って、ぴんと引っ張らされたものです.  ここは墓のありそうな地形たーなとと言いなから、やぶを分けて探す気分は 何とも言えぬロマンチックなものです。  それらしい野石が四つ五つも見つかろうものなら、そのコケむした石肌のどこ かに十字架のしるしはないか、字らしい彫り筋はないかと、心わくわく、目を子 供のように開いて念入りに調べました〔  かま?1か、なた?1かのような刃物で小さく石に十字を刻んだ物がちょ いちょい見つかりました。それは隠れキリシタンの墓です。何のしるしも無い捨 て石の墓はたくさんうちの近所にもあります。  りっぱなのはカマボコ型の墓石で、それには正しい花十字が彫ってあります。 その花十字をじっと見ていると、おもしろいことには、十字のあいまの地のとこ ろが、四ツ葉のクローバーになっているのです。 --------- ユダヤ教会堂  イスラエル問題が新聞に出るたびに私は昔長崎にいたユダヤ人たちの運命を想 います。今エルサレムを互いに取り合って、ユダヤ教を信ずるユダヤ人と、回教 を信ずるアラブ民族との間に激しい争いが続いています。  エルサレムはまたキリストが親しく多くの人々に教え、ついに十字架にかかり、 三日目に復活した所でありますので、キリスト教を信ずる者にとっても大切な町 であり、これを回教徒から取り返そうとして十字軍の起ったことはご承知の通り です。この町にはユダヤ教、回教、キリスト教がそれぞれ大きな教会堂を建てて います、三つとも一神教、しかも絶対に譲らない、、信徒は生命にかけても信仰を 守るのですから、ちょっと折合いは付きますまい。  ユダヤ民族は天主の選民として、正しい信仰を守っていたのですが、約束され た救い主がイエズス・キリストであったことを信じないで、かえってこれを殺し、 今に至るまで地上に物質的なユダヤ王国を建てる別の救世主の生まれるのを侍っ ています。  長崎にもユダヤ人が昔は多かったので、広馬場に赤れんが造りの教会堂があり ました。それは崖と道との間にせせこましく建っていて、ちょっと人目につきま せんでした。安息日になると人か集まって、お祭をしていました。いけにえの小 動物を焼くという煙が祭壇にのぼり、うす暗い堂内に立ちこめていました.その 祈りは絶望的希望の中にもだえる悲しみの調子を帯びていました片.  今イスラエル共和国を建てて血みどろになっている人々の中にも、長崎から 帰って行ったあの人らがまじっていることでしょう。  戦争中は何かの倉庫になっていました。今はどうなっているやら、うわさする 人もありません。 -------- ほうずき  風が吹いて来ました。青畳の上にカヤノが置いていったホウズキの殼がすうっ と風におされてすべり、私の手のとどくところへ来ました、一拾い上げて目の前へもっ てくると、甘苦いにおいが私にも幼い悦びを分かちました。さっきまでカヤノは そこに坐りこんで、つまようじをもってホウズキの種を抜くのに夢中でした。破らず にうまく太いしんを出すときなどは息も止めていたほどですから、とうとう出来 上がって、かわいい上歯と舌の間にはさんで、ギュウと鳴らしたときの悦びようと いったら……そのまま友達にギュウ、ギュウを自慢しに飛び出してしまいました。  畑の端に毎年生えるホウズキはカヤノのものときまっていますか.緑の葉「ば の陰に袋が赤く色づきそめるころから、毎日のように私のまくらもとにすり寄っ ては、 「もう中の実がうれているかも知れん……」 「早く取らぬとコガネムシに食われるかも知れん……」とか 「今日は下から三つ目まで赤くなったよ」  などと口説いて、私から、取っても好い、の許しをもらおうと待ちかねていた のです。  今あの子は広っぱへ行って友達に、舌の先へ巧みに載せた赤い球を見せびらか していることでしょう。  私の手に残っている袋殻は、幸福の抜け殻でした。  私はがらんどうになった殼の中をのぞきこんでいます。幸福はもぎ去られたけ れども、過ぎた幸福を想い起させるにおいはそこに残っておりました。  …-あの子の母は指先が器用でホウズキのしんを抜くことが上手で、また好き でもありました。いくつも、いくつも作って、あの子に与え、自分もくちびるに はさんで、ギュウと鳴らして、鳴らし方を教えていました。あの子は小さかった ので、歯でかみ破るばかりでしたが、母はやっぱり毎日たくさん作っては、与え ておりました。  あの子が自分でホウズキを作り、それをうまく鳴らすようになったのは昨年か らのことです。 --------- 養 生  昔は養生と言ったもので、それをこのごろでは闘病などと申されます。このご ろの日本人が言葉をおろそかに使う嘆きは、今さら私が申さなくともよろしいで しょうが、羽をむしって冷凍されたレグホンみたいな病人が骨をさすって「病と 闘う」などと力みかえっているのは、あわれと言うより、おかしいと感ずる方が 当っておりましょう。  あれは戦争中に、ほかの人々は戦場で闘っているのに、病人がのほほんと床に 寝ているのは義理が悪いと考えて自分も実は体内の病気の相手に激しく闘ってい るのだ、と理屈をつけて言い出したものでしょう。1あのころは何でもかんて も「闘う」と言わねば、国民でないとされたものでした。  平和になった今でもやっぱり、何でもかんでも「闘う」と呼ばねば、人民でな いと決めている仲間があります。 「闘う」1という、目には重戦車のように映る字を、私はもう見たくありませ ん。私に下さる見舞いの便りに「しっかり闘病して下さい」などと書いてあると、 うんざりします。  私の体の中には、なるほど病気があります。そいつを憎み、そいつを目がけて、 薬か何かをたたきつけ、そいつを退治するのが「闘病」なのでしょうが、生きて いる体はなかなか複雑なもので、お米の中にまじった砂粒をえり出すように手軽 にはゆきません。世間には気の短い病人や、浅はかな医者がいて、病気を憎んで 退治することばかりに気をとられ、手荒い療治をして、生命をおとすことが、ちょ いちょいあります。  私はこのごろ、私の体の中にのさばっている病気を愛する気持になれました。 体の中で闘いがなくなったので、病気はありますけれども、静かに落着いていま す。病気を下手につついて怒らせぬのも、一つの養生法でありましょう。 --------- 回復期  カヤノのかぜが治りました、新聞で見ると、はやりかぜの勢いも衰えたようで、 ここの学校でも休んでいる子は減りました。子供のことですから、少し気持が好 くなると、もう家の中にとじこもっておりません。友達の声を聞くと、外へ出て 遊びたがります。けれども、まだヴィールスが鼻やのどや肺の中に生残っていて、 くしゃみやせきと共に飛び出して、友達にうつってはなりませんから、いろいろ 教えて、すっかり好くなり、友達にうつるおそれのなくなるまで、絵を描いたり、 人形遊びをしたりして、独りで家の中におらせました。そして有明海でとれたカ キをスープにしたのと、長崎ミカンをうんと食べさせました。  春の陽ざしをいちめんに浴びて、回復期の幼子が芝生の上を歩いているのは、 ほんとうに楽しそうに見えます。おかっぱの髪の長く伸びたのが顔のあたりにう るさいのか、二つに分けて耳のうしろに束ねています。そのテープはお見舞いに 頂いた花束のセロファンテープを使っているので、透きとおったピンクの色も、 いたいたしく愛らしい。  いよいよ学校へ行けるようになりました。もし友達にうつってはなりませんか ら、白い新しいマスクをかけて行きました。 「行ってきまあす」と三べんも言っ て出かけました。私も「行ってらっしゃい」を三べん言いました。  早ひきして来るかーと気にしていましたが、昼からの勉強もすまして、友達 と一緒に帰って来ました。 「あのね、今日はおかしかったとよ。1答えのわかった人は9  と先生が言っ たからね。手を上げたら、はいカヤノさん、と当てられてね、はいと、立ったら ね、答えを忘れとったとよ……ははははは、先生もはははは、お友だちもははは は。頭にかぜが残ってるんだわ」 --------- 浦上人の顔  長崎人の顔は浦上人の顔とは違います。  浦上が長崎市に入ったのは新しいことで、今でも新市街地と言われることがあ ります。私が浦上のことを書くのに「この村」と呼んだり、 「この里」と言った り、また「この町」と言ったりして変に思われたかも知れませんが、表向きは市 内に入っていますから、町と言わねばならず、近くを見れば家もかなり寄り集ま り里と呼ぶにふさわしく、少し目を遠く見まわすと、浦上全体としては山も多く、 家もまはらで村の感じがします。1もとは浦上山里村と呼はれておりました。  長崎の港のにぎやかな町から、細い海沿いの道を来ると、浦の上手に当り、静 かな別天地、いかにも山里めいた、この小さな盆地に来るのでした。  浦上は代官の支配を受ける天領でした。大名の支配を受けていなかったので、 ほかの土地とは異なった気風を伝えていました。  隠れキリシタンとなってからは、信仰の異なる他の村人や町人とは結婚せずキ リシタン同士だけで結婚しましたから、おのずから血統は範囲の家系の間だけで 交わって伝わりました。今に至るまでおよそ三百五十年です。それが今日、浦上 では、親類縁類と伝わってゆくと、住人全部含まれると言われます。  そんな事情で浦上人というか、一団があるように思います。隣り合った長崎の 港町の人はこれと反対に内地の諸方から来た人々が思う存分入り交って来た、こ れまた特殊な一団であります。  長崎人と浦上人1これは顔も違えば、才能も違うように私には見えるのです が、いかがなものでしょう?……どう違うのかと聞かれても、別に統計をとって いるわけではないので、いわゆる科学的な答えが出来ません。しかし、とにかく 浦上人は古風で鈍感です。 -------- ボートレース  大学のボートハウスは今では大村湾に移って、ボートレースもヨットレースも そちらであるようですが、私の学生時代にはハゥスは長崎港の中の島の端にあり、 ボートレースも女神検疫所前からスタートして、造船所の大きなガンドリーク レーンの前を過ぎ、ジャイアントクレーンの前を過ぎ、ドックの前を過ぎ、太平 洋の航路の客船のデッキから打振るハンカチの下を過ぎ、大漁船の華やかに泊っ ている水の浦の波止を過ぎ、ニキロのコースを引いて、平戸小屋の波止場でゴー ルインするのでした。ニキロのレースはなかなか体力を|費《つか》うもので、すき焼きで 白い飯を腹いっぱい食い続けていた、そのころの選手でさえレースが終ると腰も 脚も腕も萎えて、シートの上に寝たまま、ボートを流しておりました。  私が中学校、高等学校生活を送った松江は宍道湖に臨む町で、ボートも盛んで したが、それは旧式のフィックスでした。大学のボートはフライディングなので、 なれるまでは調子がうまく合わず、それこそ腰が坐らずに困りました、私は大男 で、ばか力を|有《も》っているからとて三番を漕がされました。三番四番はエンジンだ、 何も考えず、もりもり漕げ、オールをぐっと押えてラムネ泡残せ、とコックスが 叫ぶ。四番は全国大会で優勝した米子中学の隅田という男で、その側が強いもの だから、ともすればボートが廻ろうとする。コックスは大いに腹を立て、三番永 井、何を怠けとるかあ、図体が太いばかりで力が足りんから差引きボートにとっ ちゃ重荷だぞ、海へ飛び込め!……ラスト百本、整調ピッチを上げろ、イーチ、 ニイ、イーチ、ニイ……。ドーン……号砲一発、ゴールイン。勝ったか、負けた か、そんな事はどうでも好い。オールを流して、そのまま仰向けに引っくり返り、 空を無心に眺めている。……白雲が流れる、カモメが流れる、……時間は流れて いないようでした。 -------- 外国町(一)  白秋詩集の初めの方、邪宗門の辺りのぺージがそのまま目の前に出て来る町が ありました。唐人屋敷から丸山の口に至るまでの通りがそれでした。  昔の唐人屋敷の跡、今は館内町と呼ばれている区域には古い神廟がかずかず 残っています。居留民も多いこととて、絶えず大きな線香が大陸の香りをくゆら し、その前の石土間に頭をうちつけて一心に拝む、てん足の女なども見られまし た。大通りの向いに大きな広東会館や、本場そのままの味を出す四海楼がありま した。そこで私は、牛肉のぼたもちを一度食べたことがあります。すぐ向いに赤 れんが造りのユダヤ教会がありました。  この辺りには中華人の店があって、五加皮酒、老酒、バラの花の入った茶、西 湖のハスの粉、青梅、ピータン(どろ卵)、西瓜の種、焼豚、冬瓜の砂糖漬、月 餅、湖州の筆、墨、赤い封筒、石ずり包丁、水仙などを売っていました。  それから長崎ハムで名を出した浦岡の店があり、その辺りから両側には照明の 華やかな外人相手の土産品店がずらりと並んでいました。日本人はてんで入らぬ ことにきまっていたようです。桜のすそ模様の長じゅばん、京名所の上に富士山 をのぞかした図柄を極彩色で描いた茶器、舞妓のだらりの帯のてかてかした風呂 敷、金糸銀糸で月にトラを刺したハッピ、などなど日本に見当らぬ日本みやげが 上品に飾ってありました。こんな店の主人や番頭はロシア語、フランス語、英語 なんでも話せました。しかしその言葉は並べてある商品と同じく、正しい各国語 ではなかったようです、看板は古びていて、みな横文字でした。フランスの船が 入るとフランス語の歓迎ビラをショウウインドーに出しました。ドイッのエムデ ンが来たときにはドイツ語を掛けました。  やっぱりアメリヵ船が入ったときが、いちばんよく売れたようです。 -------- 外国町(二)  外国人相手の店にも水兵相手、将校相手、金持相手とそれぞれ下等上等の区別 はあったようでした。酔っぱらった下級船員や、いれずみを手首にのぞかせた水 兵たちが大声で笑ったり歌ったりしながら、ひやかしている店には、京舞妓のハ ンカチ、人造真珠の首飾り、紹刺しのケースなどが並べてありました。金持相手 の店は静かで、客船から上陸して来た金髪の中年の夫婦などが、ベッコウ細工の 黒船や、天然真珠のブローチ、伊万里の赤絵皿を手に取って見ていました。こん な店のショウウインドーには、大きな真珠貝が口を開いて肉の間に、イモの葉の 露ほどもある真珠を見せているのが出してあったり、金銀ぞうがんの高さ四十セ ンチもあろう鐘楼の置時計が光っていたり、ベッコウで作ったワシが生きている かのように羽をひろげて、にらんでいたり、ピンクの五島サンゴが一本、百にも 余る小枝を火災の如くひろげていたり、大小さまざまの子安目がずらりと並ぶと ころもある……という風でその店その店の自慢の宝を惜しげもなく夜通し飾って、 客足を引止めていました、  カリフォルニアからレモンを直輸入して売っている店がありました。ハイカラ な日本人はそこで洋酒などを求めました。その近くに名代の桃まんじゅう屋があ りました。黒くすすけた古い店先に、桃の形の、両手の上に頂くほど大きな皮を むいて紅で半ば染めたまんじゅうが甘いゆげを立てて並べてありました。古風な 町の人はお祝いの贈答に必ずそれを求めたものです。  大徳寺の石段の下に動物の剥製を並べている店がありました。サル、ヘビ、キ ジなどたくさんの動物が浮世絵や古賀人形と入りまざって、ごたごた埃に埋もれ ていました⊂  八百屋が二、三軒ありました。チンピ、キョウニン、ニッケイの香りがひっそ り街へ流れ出ていました。  街が突当る所に人力車のたまり場があり、そこを曲ると福砂屋のカステラ。 ------ ホタル  想い起せば戦争の前の浦上は何もかも美しい里でありました。大橋あたり、浦 上川の右岸に沿うて上り行くと、サンタ・カララ堂の跡から三百材ほど川上に純 心修道院があります。  今はそこの修道女たちが経営する純心学園も同じ構内に出来て、幼稚園から中 学校、高等学校、大学までそろっていて、エプロンからパーマネントの女の子が、 ドングリコロコロからバッハまで歌っています。昔はささやかな女学校と幼稚園 だけありました。  前はひろびろとした青田で、さやさやと稲の|葉擦《はず》れを抱いた風は教室の窓をぬ け、後ろの川をこえて、殉教者ミギルの屋敷跡の方へ行きました。風の向きが変 ると、すぐ裏の川瀬の音を乗せた風が聖体の前に伏して祈っている修道女の白い べールにそっと触って、前の稲田へ走りました。  この修道院はとくべつ聖母マリアを敬っていました。八月二十二日は日本の守 護者聖母の清き御心の祝日です。この日にはとくべつの式を致しました。夕方か らみんな礼拝堂に集まってお祈りをしました。祈りといっても、ほとんどみなグ レゴリアン聖歌の合唱です。ここの合唱はきれいでした。  歌い続けているうちにすっかり夜となりました。  みんな手に手に、火を灯したろうそくを持ち、礼拝堂から行列して歌いながら 外へ出ました。  庭に聖母マリアの御像が建っています。女学生、修道志願者、修練者、修道女 のろうそく行列が、花園の中の小路を通って、その御像の前へ進んで行きました。  みんなのかかげるろうそくの火に照らされて聖母の御顔はいよいよ気高く見え ました。歌声はいよいよ高くなりました。1そのとき、聖母の足もとのハラの しげみから、何百とも数知れぬホタルが飛びたち、高く高く夜空の星にまごうま で上って行きました。 ------ 聖フランシスコ・ザベリオ  聖フランシスコ.・ザベリオは平戸に住みましたが、長崎へは来ておりません。 それはそのはず、そのときは長崎は深江の浦と呼ばれるさびしい入江で、ごくわ ずかの漁夫などが住んでいるにすぎませんでした。あとになってポルトガル船が たまたまこの入江に入ってみて、良い港だと言い出し、キリスト教に固まった大 村侯がここに初めて自由港を設け、町を造ったのでした。  長崎はキリスト教の町として、ポルトガルの港町風に都市計画を立てて大きく なって行きました。十一の天主堂が町々の中心となっていました。クルス町、ロ カス町、デウス山などの名もついていましたC  浦上には聖フランシスコ・ザベリオ村がありました。それは中野郷に当ってい ます。中野郷は今の上野町、橋口町の一帯です。つまり私の住んでいる所であり ます。  上野町というのは大正年間に市に編入されるとき村長の相川さんがひとりで決 めて名づけたものです。上原、打越、野下、前田、長与道、浦中野の六つの字を 一つにまとめ、その名の中から二字採って上野としました。  聖フランシスコ・ザベリオ村のいわれは何も判っておりません。  私の家から西に百折も離れておらぬところに、聖フランシスコ・ザベリオ堂の 跡があります。これは慶応元年、大浦天主堂に神父さまが来たので、浦上の村人 たちが、信仰を打ち明けたとき、神父さまを招いてミサを献げてもらうため、民 家を造り直して天主堂にしたものでした。  これはわずかの間しか保てませんでした。間もなく役人探偵のかぎつける所と なり、ある夜どっと捕手に踏み込まれたのです。夜番をしていた守山甚三郎青年 は腹をきめて、さあ、しばりなされと言ったところ、捕手の面々、キリシタンバ テレンに術を使われたら恐ろしいとて、遠くから投げ縄を致して、十重二十重に くくり上げ、庄屋屋敷に引立てましたから、途中で頭にかけた縄がしまり甚三郎 青年は気絶致しました。 ------ 死者の日  十一月二日は死んだ信者の記念の日であります。仏教のお盆に当る日でしょう。 しかし別に盆おどりのような賑わいも致さず、提灯も並べず、精霊船流しなど催 しませんから、まだ世間一般には、この日のことが知られておらぬようで、その ためキリスト教徒は死者や墓を大切に思わぬなどと考え違いしている向きもある らしい。  昨日は諸聖人の大祝日でしたから、今日と二日続いて、死後の生活について黙 想するのに好い機会であり、天国にいる先祖たちにいろいろの祈りを天主に取次 いでもらうこともこの日に多く行われます。さらに大切なことはまだ煉獄にあっ て苦しむ霊魂が、早くつぐないを果たして天国へ引き上げられるよう、ミサにあ ずかって祈ることであります。  今日信者のする大きな行事は朝のミサに参ることと、墓参りとであります。他 所へ出かせぎに行っている若い者たちも帰って来て、身内の者がうちそろって参 ります。そのことが何より大きな楽しみであって、その他には別に騒いだり、飲 食いする必要も感じません。この日は静かな、そして血のつながる者のほの温い 想い出にそぞろにひたる一日です。だれの手にも絶えずロザリオが|爪繰《つまぐ》られてい る一日です。 「主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え」  この祈りはミサの間に、また墓の前で、幾度となくとなえられます。  どこの墓にも人影がじっとしています。それにしても同じ古さの木の十字架の 何と多さよ!……昭和二十年八月九日死んだ日はみな同じ!  ああーあの日 ------ 原子野  広島と長崎とは土地の形が違うので、同じく空で裂けた原子爆弾に吹き払われ、 焼き尽くされても、その全体の感じが異なっています。1広島の方は太田川の デルタに広く、平らにひろがっていて、広島駅のあたり、二葉山の上からでも南 を眺めたら、一望千里の灰と瓦の平面が海に続いていますから、あるいは「原子 砂漠」という感じがぴったりしたかも知れません。この言葉は広島の方から生ま れたのではなかったでしょうか? 長崎は狭い盆地で、東西から山が迫っていますので、砂漠という広い感じは受 けません。それで「原子が原」という名を使った人がかなりたくさんありました。 これも悪くはありませんが、原という字が上下にあって、目で見た感じはちょっ とおかしい。 「原子焼野」という名もちらほら耳にしました。 「原爆破壊地域」 などという字も出ましたが、いかにも役所口調で、それっきりはやりませんでし た。ほかの空襲のときにも一般に用いられていた「爆心地」というのは、それま でになじみだったため、よく使われて、今でも生きています〕けれども原子爆弾 が地に落ちて裂けたのではないから、ほんとうの爆裂の中心点をさすなら、五百 五十材の高さの空中に当ります。その真下の松山町の一点を「爆央」などと呼ん で区別する学者もありました。  ある日のことでした。松山町を通って見て来た人から、あの辺りに「アトミッ ク・フィールド」と英語で書いた目じるし板が占領軍によって立てられてあるこ とを伝え聞きました。早合点屋の私は、占領軍があの辺一帯をそう名づけたのだ と思い、そのまま翻訳して「原子野」とし、それからずっと私はそれを使ってき ました。……ところが間もなく「フィールド」は飛行場のことと知りました。あ そこに飛行場が新たに造られ、その目じるし板だったのです。……けれども「原 子野」は呼び易くて感じもぴったりしているので捨てたくありません。 ------- ステンドグラス  天主堂は西向きに建てられているのが、多いようです。浦上のもそうです。こ れはステンドグラスを透して射しこむ朝日、夕日の光を利用するためではありま すまいか?  宗教がそれぞれ違えば、その祭壇の気分もそれに伴って異なりますから、その 気分を醸し出すための光のあつかい方もまた変っております。日本の神社の氏子 たちは自然信仰の気持がこいので、おのずから祭壇に外界自然の醸し出す気分を みなぎらせようとして、たとえばその神社のあり場所を人里離れた森の中などに 選び、大きな杉の木立などで陽の光をさえぎっています。仏教のお寺の方はかし こい人間の頭でむずかしい悟りを開くため、外の浮世と厚いかべで仕切った本堂 の中で、人手でつくった光を灯して、こもっています。天主堂は信者のすべての 生活の中心ですから、町の真中にあって、大勢の人が自由に出入りするようになっ ており、また幼子の如くならねば天国へ行けない、と言われたので、子供みたい に無邪気に中を飾り立てて悦んでいます。そこが生きた天主のお住居ですから、 出来るだけ美しくしようと、てんでに考えています。窓々のステンドグラスを透 して天主堂の中へ入って来る光の五色のあやを初めて見る日本人は、何だか子 供っぽい華やかさを感じ、幽玄とか、森厳とか、荘重とかいう東洋風な宗教感覚 と異なるのにまごつくでしょう。  けれども五色の光の中にあってグレゴリアン聖歌を聞いているうちに、ちぐは ぐな気持は消え、全く別な、いきいきした宗教感情が胸の底から湧いてくるのに 感づくでしょう。  ことに朝のミサの最中に、祭壇の真上の東向きのステンドグラス窓がしだいに 明るくなってくるときの壮麗さは何とも言われません。それから夕方の聖体降福 式にはこんどは夕日が逆に天主堂の入口の上の窓から五色に彩られて射し込み、 正面の祭壇を照らすのです。 ------ ガーベラ  八重のガーベラを頂きました。燃える炎のような花びらが私のまくらもとで真 正面にこちらを向いています。  この花を昔は好きでした。しかし原子の火を見てから後は、この色は想い出を 引き出すので、無心に見入ることが出来なくなりました、この花だけでなく、サ ルビア、カンナなど、いずれも胸をおしつけます。  ガーベラの花をこんなに間近に見ていると、いつのまにか、それが大きく大き くひろがって、爆心のように見えてきます。  中心がへこんでいて、そこから花びらが放射線状に並んでいます。空から見お ろした浦上はちょうどこんな風に見えたに違いありません。爆央と見られる松山 町のテニスコートを中心点として放射線を引くと、すべての物体はこの放射線の 方向に倒されていました。このテニスコートは浦上盆地の中央にあって、しかも 少しへこんだ所にありました。  大きな爆裂があったとき、だれもが身近に爆弾が落ちたものと思いこみました。 飛び起きて逃げ出し、人々は口々に自分のいた所を爆心だと言いました。みんな は言っておいて、はてなと考え直しました.、一発しか裂けなかったからです。二 日目、三日目になり、爆心を探す者も出て来ましたが、結局それらしい大穴は見 つかりませんでした。それで爆弾が空で裂けたことが判りました。  そして、その中心占、は松山町のテニスコートの上ときまりました、ースギ、 モッコク、クスノキなど、また電信柱、家々の柱、墓石、火の見やぐらなど、倒 れている方向がみなこの一点に集まることを見出したからです。まくらを並べて 討死という言葉は少し当てはまりかねましょうが、おびただしい物体が正しい放 射線状に倒れている眺めは、半径ニキロもある花のようでした。  ガーベラの花を見ると想い出します。 ------ 原子野蛮人 第二次世界大戦で  死んだ人は    二千二百六万人  傷ついた人は  三千四百四十万人  なくなった財産-二千三百億トル  使った戦費は   一兆千百七十九億トル ということです。 ああ…… このほかに数であらわせない心の悲しさ苦しさ、 それから……かずかずの罪! 1これだけのものを人為は差出して、果たして何を得たのでしょうか? この戦争を起したとき、両方からそれぞれ筋の通ったような戦争目的が声高々 と読み上げられました、i世界水遠の平和のために、やむなく戦争を始めるの である……と。  しかもその二十一年前には、同じような掛け声で戦われた第一次世界大戦が終 り、永遠平和をたたえる講和条約が出来ていたのです。  それが何の役にも立っていません。御破算にして第二次大戦が原子爆弾で終り を告げ、こんな恐ろしい兵器が出来たからには、人類は今度こそは戦争を永遠に やめるであろう、やめねばならぬ……とトルーマンさんも言い、スターリンさん も言い、チャーチルさんも言い、だれもかれも言い、一時はほんとうにその気に なっていました。  ところが……それから五年経った今日、世界の有様は如何でしょうか?1  二千二百六万人は犬死をさせられたのでしょうか?  もしそんな愚かな大騒ぎを続けるなら二十世紀は後世の歴史から「好戦争時代」 とか「世界戦争時代」とか「人命無視時代」とか名付けられ、私たちは「原子野 蛮人」と呼ばれ、あざけられるに違いありません。 ------ 平戸の聖母  平戸は長く忘れられていた港でしたが、聖フランシスコ・ザベリオの記念式と ともに再び私たちの想い出の中に浮かび上がって来ました。我が国でいちばん古 い欧州貿易港であり、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの居留地であり、我 が国最初のキリシタン町でありました。そこには貿易風に帆を張って、南蛮紅毛 の黒船が集まって来ました、  五島や平戸の島々は陸地に対して斜めに連なっていますので、長崎の辺りでは 二百キロも開いている海が、平戸海峡ではニキロぐらいにせばまっています。南 から流れて来る暖流は、ろうとの中を流れるように平戸に集まり、そこを抜けて 玄海灘へ出ます。それでこの海峡は潮の流れが急であります。しかもその中に恐 ろしい浅瀬があるのです。いちばん名高い難所が広瀬という岩です。  この海峡に臨んで平戸港があります。平戸港に出入りする船は必ずこの海峡を 通らねばなりません。ところが、うっかりして急な潮の流れに乗ると、舵の自由 を失い、あれよあれよと騒ぐ間に広瀬の岩にたたきつけられ船は砕けて沈み、乗 組みの人々も潮の底に引き込まれてフカの餌となってしまいます。黒船の昔から、 汽船の今日に至るまで、毎年おびただしい数の大船小舟がここに沈みました。  これを防ぐために、このたび広瀬に灯台を建て、また潮の流れを変える堤防を 築きました。何しろ荒波の中での仕事なので、それこそ生命がけだったそうです。 玄海築港会社というのが請負うて仕上げました。働いた人々は秀吉の城跡で名の 知れた名護屋の呼子港のカトリック青年の一団でありました。工事が無事に終り ましたので、彼らはこの広瀬の灯台の傍に白い有田焼の聖母像を建てました。亡く なった舟乗りたちのために祈り、これからの航海安全を祈る心からでありましょ う。 ------- 聖ペトロ・聖パウロ 「告白の祈り1全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者 聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に向かって、われは思いと言 葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る。……」  毎日となえる祈りですが、子供の中には口のまわらぬのもいて、ペトロ、パウ ロをひと口に聖ペロペロと丸めてしまう。……丸められても好いでしょう、聖ぺ トロと聖パウロとは二大使徒であり、最後にはローマで福音を述べ、捕えられて 同じ六月二十九日にローマで殉教なされ、その記念日も一緒に六月二十九日に定 められています、  聖ペトロは初代教皇であって、彼は天国のかぎを持っている姿で表され、聖パ ウロは首を切られたので大きな刀を手に持っている姿で表されています。  聖ペトロはガリレアの海の漁夫であり、聖パウロはテント作りで暮らしを立て ておりました。どちらも貧しい労働者で、いつもそんな仲間と一緒に働き、安息 日などに素晴らしい説教をしたり、困っている友を助けました。  私たちは洗礼のときと堅信のときと一生に二回いわゆるクリスチャンネーム、 すなわち霊名を付けます。自分があやかりたい聖人の名を選んで付けるのですが、 いちばん多いのが女では聖マリァ、男では聖ペトロと聖パウロです。私は洗礼の ときパウロ、堅信のときペトロと名付けられました。私だけではありません。浦 上にはペトロ、パウロがいちばんたくさんいます。人々は自分の霊名の聖人の記 念の日にはお祝いをすることになっていますので、この日はたくさんの家でごち そうをしています。  徳川時代に隠れたキリシタンが持っていた日繰りには、この日は 「三平とろ、さん、はうろ、あほふすとろ」  と書いてあります。 「サン・ペトロ、サン・パウロ、アポストロ」で、アポス トロは使徒です。 ------ 月 餅  中秋の名月はどこの町でも村でも美しい。どこへ行っても月の名所はあります。 けれども長崎の月に特別の美しさがあると言われるのは、港と山と、澄みきった 空気と、灯を連ねた町などの組立てる風景のせいばかりでなく、この港にあって、 この月を見る人の多くが旅遠く来ている遊子であるからでしょう。  長崎に生まれ、長崎に育った人々は彦山の上に出る大きな月を|賞《ま》めます。玉園 山から、富貴楼のお座敷から、諏訪荘の二階から、目の前に美しいスカイライン を描いてそびえる彦山の上へ、のっと出る月を仰ぐも好し。迎陽亭から町屋根の 上にきらめく月を眺めるもまた好し。しかし、稲佐の方から港越しに望むのに勝 る大きな光景はありますまい。リオ・デ・ジャネイロの夜景を小さくしたようだ と言った人があります。  旅遠く来ている人は、この美しい夜景にそぞろ故里を想わずにはおれません。 港町のつねとして、一夜二夜をたまたまここに泊る人もありましょう、大学町の ことなれば、青春の幾年かを過ごす者もありましょう。ポルトガル、オランダの 昔から今に至るまで、欧米諸国の人々もここに居留地を営みました。出島にとじ こめられていた紅毛人はカピタン屋敷に集まって、チンタの酒をくみヒヨールを かなでたことでしょう。今はカナダの神父さまがケベックの川面の月の光を想い、 ポーランドの修道士がワルシャワの崩れた町角の月影をしのんでいます。  新地町の中華人の家々では、さまざまな供物を飾って、月に祈っております、 台湾の人、福建の人、上海の人、それぞれ故里のならわしが異なれば、備える月 餅もまたいろいろです。いろいろ味をつけた肉を詰めたものもあり、かずかずの 砂糖漬の果物を刻み入れたのもあり、油で揚げて、表に美しい言葉が赤い字で書 いてあります。1「万里無雲」 ------ からすみ 「ボラが来たそうー」  山の上の見張りが、とつぜん叫ぶ。  大きな声が秋晴れの樺島の漁師町の上を流れる。 「ボラが来たそうー」  同じ叫びが、漁師町の狭い路に遊んでいた子供たちの口から家々の中へ伝えられる。 「ボラが来たぞうー」  家の裏のさじきでイモを切っていた妻が、ゆうべの漁に疲れて眠っている夫の まくらもとへ走り寄って、同じ叫びを耳の穴へ吹きこむ。 「おう、来たかあーボラが……」  と漁夫はむっくり起き上がる。1 「ボラが来たぞうー。大漁だぞう」  島はたちまち叫び合う声に湧き立つ。夫も妻も子供らも、ボラだボラだ、と網 をそろえる、舟を浜からおろす。  紺色の沖のひとところに白波が立ち騒いで、光る物がしきりに跳び上がる。それ がしだいに湾の中へ寄せて来る。1恋に酔うて夢中になったボラの大群は、漁夫 がこっそり舟を漕ぎまわし、網を張りめぐらしたことも知らずに、渦をまいて寄っ て来る。……  網はしずかに引きしめられる。ボラがみずからの運命に気づいたときはもう遅 い。樺島の浜にはぴちぴちと跳ねる何百何千のボラ、  その腹を片っぱしから割いて、卵巣だけを取り、あとは捨てる。雄なんかまる で殉死したようなもの。  長崎港の東側を南にのびた野母半島、その先にある樺島に住んでいたことのある 私の妻が、秋になって、ある形の雲が出ると、ボラ漁の話を聞かせてくれたものでした。  この卵巣を塩漬けにして干して作ったのが、からすみです。その形が唐の墨に 似ているから付いた名だそうです。本家は台湾。昔は台湾から買入れていたそう ですが、作り方の秘伝を受けて長崎でも作れるようになりました。 --------- 三ケランゼロ  浦上の張方、つまり私の亡き妻の家に伝わっていた日繰り、すなわち教会暦は 一六三四年のものですが、その八月八日に 「さん、みげる、あるかん所、てちかさん」  と記してあります。  これは太陽暦になおすと九月二十九日に当りまして、ただいまのカトリック教 会暦には「日本の守護者聖ミカエル大天使」となっています。  ローマの聖堂で名の高い画家であり彫刻家であり、建築家であったミケランゼ ロ。iこれは彼の本名よりも霊名の方が人の口に親しまれたのであって、ミケ ランゼロ、すなわちミケル・アンゼロー大天使ミケルの名をつけたものであり ました。  浦上の古い信者のうちにも、この霊名をつけていた人は多くて、私の家の近く にある親子三人の殉教者の一人はミギルという少年です。火あぶりにされました、、  ミギルーミゲルーミケルーミカエルーミハエルーマイケル  国々 によって、時代によって呼び方は変りますが、多くの人々から親しまれ、敬われ た大天使です。  絵や彫刻に表された大天使ミカエルは天軍の大将でありまして、背に羽をひろ げ、長い槍を振って、悪魔の大将ルチフェルをやっつけています。悪魔の大将は 羽を生やした四足の龍で表されています。けれどもこの闘いはまだまだ勝負がつ いておりません。善と悪との違いがあるだけで、どちらも人間よりはすぐれた知 恵と自由意志とをそなえた霊であります。  聖フランシスコ・ザベリオが鹿児島で島津公に会うたのが九月二十九日で、彼 はこのとき日本の保護者と定めました。それでわが国の信者はとくべつ大天使に 親しんでいます。 --------- 諸聖人  長崎のいちばん古い町は桜馬場のあたりです。この上に城の|古祉《り  し》と呼ばれる丘 がありますが、それは最初の領主、といっても村長さんくらいの格の長崎氏の城 の跡、そのふもとにひとかたまりの村があったのです。あとで港を開いたとき、 ここにポルトガル人が居留地をつくりました。そしてその中心に大きな天主堂を 建てました。それは諸聖人の天主堂と名づけられました。ポルトガル語で「トー ドス・オスサントス」です。  この天主堂は長崎の三大天主堂の一つで、あの修道士ロレンソを始め、高山右 近の父飛騨守など、名高いキリシタンの墓もありました。  ところが家光将軍の下した厳しい禁教令によって、この天主堂が根こそぎ壊さ れたばかりでなく、墓も掘り返され、海の中へ投げ込まれ、今では僅かに外道井 戸が残っているくらいのことで、跡形もありません。  その代りに大きな仏の寺が建ちました。その名は|唐渡山春徳寺《とうどさんしゆんとくじ》。また東土の 山台とも呼ばれています。トードス・オスサントスのなまった名です。この寺に は御一新(明治維新)のころ、画僧鉄翁がいたので有名です。  十一月一日は諸聖人の大祝日です。教会で公けに聖人と認められているお方も 多いですが、私たちに知られないで天国へ凱旋なされたお方もおびただしい数で しょう。聖母マリアを始めとし、これらの多くの聖人たちを記念いたします。天 国の幸福にひたる彼らと共に悦び、天主の御恵みを感謝し、彼らを手本にし、ま た私たちのために祈りの取次ぎを願います。  聖アウグスチノは「彼らのした事を私に出来ないはずがない」と奮発して、つ いに放蕩息子から聖人に変りましたが、私たちが聖人になることを天国では期待 されているのですから、ならねばなりません。 ------- 待降節  教会の暦は待降節第一主日から始まりますので、一月一日はとくべつに記念と しては祝いません。この第一主日は使徒聖アンドレアの祝日十一月三十日にいち ばん近い日曜日をあてます。大体降誕祭の四週間前になります。一九五〇年十二 月三日の日曜日から教会暦の一九五一年度は始まるわけです。  浦上では昔からお正月の祝いは余りやらないならわしになっていて、門松、し め飾り、鏡餅も致しません。雑煮だけは子供たちがせびるので季節のものとして、 つくる家が多くなりました。  降誕祭までの四週間、信者は心をしずめて天主の降臨を待っています、  天主は人を救うために二度この世に降ります。第一回はベトレヘムの馬小屋に、 聖マリアの子になって生まれ、救世の仕事を始めなさいました。第二回は世界の 終りの日に公審判して救世の仕事を仕上げるためにキリストが再臨なさいます。  待降節はこの二つの降臨を待つ心をととのえる季節です。旧約時代の人々は予 言の通り救世主が人の子として生まれなさるのを待っていました。なぜならアダ ムとエワが犯した罪が原罪として人類に伝わっているので、その罪を天主から親 しく解いてもらわねば落ち着かぬからでした。  キリストが生まれ、洗礼によって原罪を除いて下さいました。けれども私たち は洗礼後に数々の罪を犯します。世界の終りがいつ来るのか判りません。それは 間もなく、私たちが生きている間に来るのか、それとも死んだ後ずうっと先で来 るのかは判りませんが、とにかく、私たちの行いを審判して、永遠の幸福か、あ るいは永遠の死を言い渡されます。私たちはそれに備えねばなりません。 「改心せよ。けだし天国は近づけり」  待降節になさねばならぬ仕事はクリスマス・プレゼントの品定めや七面鳥探し ではありません。 ------- ナタラ  このごろでは、クリスマスと言う人が多くなってきましたが、浦上では御誕生 と言う人の方が多いようです。老人の中には古風にナタラと言っている人もあり ます。ナタラなどという言葉は聖フランシスコ・ザベリオの仲間が持ち込んだの ですから、この里では四百年近く生き残っていた言葉なのです。  キリストがベトレヘムの町はずれの馬小屋で生まれなさったのを祝うしきたり は、この浦上の里では今でもナタラと古風な呼び方をしたいほど、昔の姿が残っ ています。  クリスマス・ツリーを飾ることもありません。子供らが雑誌で見たり、町の飾 り物で見たりして親にせびると、近代的に飾り立てる家もないではありませんが、 大ていの家では致しません。サンタクロースの大仰な仮装も行われません。サン タクロースだのクリスマス・ツリーだのが大そうはやっているようですが、これ は例によって形だけをまねて、中味を捨てる日本式の文化吸収の一つでありまし て、いやな空騒ぎです。  贈物は、男の子供にこま、女の子供に羽子板を親類からくれるならわしがあり ます。大人は別に何もやりとり致しません。  ごちそうは山羊とブリ。別に意味はなく、しゅんだから用いるのでしょう。  子供にとっても、大人にとっても、老人にとっても、ナタラのいちばんの楽し みは馬小屋の人形です。どこの家でも、天主堂でも飾ります。それぞれ設計に工 夫を重ね、照明も巧みに用い、色を塗った彫刻の人形を置き、見たことはないけ れども実物そっくりの場面を表します。  天主堂の御子イエズス、聖母マリア、聖ヨゼフ、三人の王、数名の羊飼い、牛、 ロバ、番犬、羊の群れと、そろっています。家々のは、ずっと小型で、机の上に 飾ります。これだけ人物と動物がそろっている家、三人の王がまだ到着しない家、 羊飼いの一団がおらぬ家もあります。しかしイエズス、マリア、ヨゼフの三人は 必ずそろっています。貧しい家では御絵をピンで壁にとめて、子供がうっとり見 つめています。 ------ キュリー夫人  一九三四年七月四日の朝、サンセルム療養所でキュリー夫人は静かに死にまし た。まくらもとにはお嬢さんたちがいただけでした。ラジウム放射線による再生 不能性貧血という新しい病のために生命をおとしました。そのラジウムは彼女み ずから見つけ出したものでした。ひねくれた見方をするなら、自分を殺す物を見 つけ出し、長い間、可愛がり、とうとう骨の髄までしゃぶられてしまったのです。 文字通り骨の髄をおかされました。骨の髄は血を造るところ、そこをたたき潰さ れて再生不能性貧血が起ったのです。京都大学の故末次教授も同じ病でお亡くな りになりました。けれども一つの生命を犠牲にしたことによって、数知れぬ人々 の病が治されたことを考えましょう。  キュリi夫人の亡くなった記事は大きな新聞の三面のいちばん下の左端に小さ く出ました。地方新聞がニュースとして取上げなかったのはもちろんです。それ はただラジウムの発見者という意味で記事になったのです。今日ほど原子の問題 がやかましくない時代でありましたから、この記事に気づいた人が少なかったの も無理ありません。しばらく経ってから 「このあいだ死んだフランスの女学者の名はナスビ夫人だったかね、キュウリ夫 人だったかね?1」  と私に尋ねた人がありました。  このニュースのとどいたころは長崎のお盆ごろでしたので、私たちの教室では ラジウム室に集まって追悼会を催しました。黒リボンに飾られたキュリー夫人の 小ぢんまりした顔の写真の前に、キュウリの馬とナスビの牛とを作って供えてあ りました。  私たちはまた聖母の騎士修道院ヘミサを頼みました。この修道院はポーランド 人の神父や修道士が建てて間のないころでしたから、祖国のワルシャワ生まれの カトリック信者、マリア・スクロドフスカ・キュリーの霊魂のために祈ることを、 どんなに喜んだでしょう! ------ ら ん  墨絵の習い始めには、きまってランの葉をけいこさせられます。あのくらい単 純な物はないからでしょう。  一生のあいだ絵を描いて過ごした老画伯が最後に勉強するのはランの葉です。 これくらい単純であって、しかもその生命を筆の先に表すことの難しいものはな いからでしょう。  白い紙の上に五筆か七筆、すいすいと墨を残してランと言う。習い始めの若い 筆は先生の筆あとをまねて、とにかくランに見える絵を描きます。一生をこの道 に精通した老人は、筆と墨をもって生を写すわざの難しさを体験しましたから、 ランの葉を一枚描くにも心を整えて、ランの葉の中にこもる生命をつかもうと一 心不乱に筆を運びます。こうして描き残された画面からは、高い香りが放たれて います。草を楽しむ人もまたランから出て、ランに帰ると聞きました。  長崎は昔からランどころと言われています。古い火山地帯で岩山が多く、それ に原始林が茂っているし、好い気候と美しい水とがランの生えるのにふさわしい からなのでしょう。郊外の山の中をそぞろ歩きしているとき、低いきりぎしを登 ろうと、手を伸ばしてつかんだ草がランで、しずかな香りを放つ花を、群がり付 けていることなど珍しくありません。シュンランなどは顧みる人もないまま、幾 十年もその所に株を張ったのでしょう。せっかく、掘り起したって、持って帰れ ぬ大きな株になっていて、それこそ一株百花のめでたさを、いたずらに山の小鳥 にだけ見せています。  昔、長崎から出るお茶にはランの花がまぜてあったそうです。ランの花を塩漬 けにしておいて、桜湯のようにして飲むのも好いものです。清貧の味とでも申し ましょうか。 ------ 食 卓  長崎市民の食卓はゆたかである、と言われています。米がごく僅かしか出来な いので、御飯の方は少ないですが、牛、豚、鶏、兎などをたくさん飼っているの で、肉も乳も卵も、またバタi、チーズ、ハム、ソーセージなども多いし、何と 言っても北海道に次ぐ水産県なので、魚やエビや貝がどっさり市場に出ています から、食卓はにぎやかで、滋養分は多いのです。それに、野菜や果物がこれまた どっさり、四季を通じてよく出来ますから、肉類を食べすぎるおそれもありませ ん。  地方によっては、学校で料理をならっても、材料が手に入らぬため、授業料の 払い損をする所もありますが、長崎ではどんな料理でも材料に事欠く日はありま せん。家庭の台所を受持っている女の人は大助かりです。それで昔から、お客を 料理屋でもてなす事は稀で、自宅に招いて、主婦の得意の腕を見せる風がありま した。またごく親しい友達が四、五人誘い合って、夜中に不意に押しかけて来て 御馳走を出させる遊びがはやっていました。夜討ちというのです。このとき主婦 が少しも騒がず、次々と料理を出してもてなすと、一人前として認められたもの です。夜中にそれだけの材料がととのえられるのですから、大した町でした。  家庭の食卓は唐風と南蛮風とをまぜたようなものです.丸い飯台を家族が囲み ます。飯茶わん、汁わん、皿が二枚、赤いぬりばし一膳が一人一人の前に並べら れます。給仕してもらうのは御飯だけ。汁もお菜も卓の真中に大ばちに盛って出 してあるのを、おのおの好むまま勝手に取って食べます。もっと食べろとも言わ ぬ、食べすぎるなとも言わぬ。余れば鶏でも猫でも豚でも待っているものに与え ます。めいめい皿に食べ残しが出ぬだけ結局経済的です。その上、つぎ分けたり、 皿をたくさん洗ったりする手間がはぶけて台所の者は大助かりです。 ------ 夕 魚  このたびの戦争によって長崎人の食卓もすっかり変りました。食物の統制配給 のおかげです。ことしの四月からずいぶん自由になりましたが、それでも昔の姿 にかえることはありますまい。  昔は、朝は冷飯のお茶漬、つけ物、みそ汁1これだけにきまっていました。 どんな金持の家でもこうでした。朝早くから店を開き、あるいは働きに出る活気 のある港町だったから朝の台所の手間をはぶく必要があったのでしょう。昼も大 体この程度で、それに卵か肉か、煮しめが添えられました。一日のうちでいちば ん御馳走は夕飯で、これには必ず魚がつきました。|夕魚《ゆうざかた》と言われていました。 御飯も炊き立てのほやほやでした。すき焼きや火鍋の出る日も少なくありません。  この夕魚について考えるのですが、昔は一本釣りが主でしたし、今と違って港 に漁船が入って来るのは午後ではなかったでしょうか?……それで生きの好い魚 は夕飯に間に合うたのではありますまいか?--  今では網漁が主で、船は夜明けに港に入って来て、長崎駅裏の市場へ水揚げさ れます。魚を獲ってからポンポン蒸気で速く走るため、市場へ着くまでの時間は 著しく短くなって、市場の石畳の上へ並べられた魚はぴんぴん跳ねています。  魚の味は生きている間と、死んでからとではすっかり違います。死んでから直 ぐと、一時間後ではまたうんと違います。夜明けに水揚げしたのを昼飯に食うの と、夕飯に食うのとでは、味がすっかり変ります。味は一時間一時間落ちてゆき ます。魚の肉の方もそうですが、内臓ではそれがもっとよく判ります。蛋白質の 分解のためでしょう。  だから私たちは昼飯に魚を食べます。夕魚というならわしはやがて昼魚に代る かも知れません。 ------ 長崎魚  魚臭い魚は食えません。  料理をすると言って、手でいじくり回せば回すほど、まずくなるのは魚です。  魚が死んでから時間が経つにつれて魚の臭みが出て来ます。手でいじっている 間に時間は経って魚臭くなり、食えなくなってしまいます。  魚の味は、良い醤油を僅かにつけて、ぴちぴちぴちした肉を口に入れるか、生 きたままみそ汁のたぎった中に投げ込んで直ぐ食べるか、塩焼きにするか、その あたりに極まりでしょう。  釣り上げたのをすぐ舟の上で食べた人は、市場へ水揚げして、魚屋の店にいっ たん並べた魚はどんなに新しくても、まずくて食えないと言います。それなら、 海の中へもぐって行って捕えるなり口に入れてかじったら、さぞ真の味が判るだ ろうと私は思います。それを考えると、肉食の哺乳類であるクジラが、ほかの獣 と別れて海の中へ入ったまま、陸に上らなくなり、しかもあんなに大きな図体に なったのも、もっとも千万だとうなずかぬわけに参りません。アミエビのような 小さな生物、イワシなどを生きたまま、ぱくりと大きな口いっぱいにくわえ、も ぐもぐやったら、さぞうまいことでしょう。お醤油もワサビもいらないらしい。  それより味は落ちるにしても、長崎の魚はまことにうまい。  ぴんこしゃんこ跳ねるアラカブを投げ込んだみそ汁……木の芽を添えて。  目もと涼しい寒ブリの脂の乗った腹のあたりの刺身……厚さは一センチより厚 いくらいが好い。皮の方をちょっとあぶるのも乙なものー。  マダイの大頭の水炊き……目玉のとろりとした舌ざわり、薬味に唐ガラシとネ ギ、大根おろし、二杯酢でー。  アラの内臓の湯びき……肝臓は舌にもつれるように、胃袋は歯にさわやかに音 を立てる、ダイダイ酢の香りも加わってー。  玄海クジラの刺身、また小腸の湯びき……新しいから臭くない。  イセエビのがさがさ歩くのを、黒むらさきの衣を剥ぎ、切り出す肉は、透きと おってぴくりぴくりと動く、それにウズラの卵の黄味をまぶして食う。……まさ に竜宮の腰元の味。 ------ 爆心点  今では爆心のその点に大きな目じるしが立ち、その辺り一帯が記念公園となっ ていますので、旅の人も松山町停留所で電車を降りたら五十廿ばかり歩いて、す ぐそれと知ります。前にはよく、原子爆弾のおちた穴はどこにありますか?…… などと問われて、こちらが面くらったものでした。五百五十折も地面から離れた 空で裂けたので、地面には穴なんかあきませんでした。  この爆心点を決めるのに二つの方法がとられました。一つは倒された木などか ら爆風の方向を出し、それを伝ってゆくと一点に集中しましたので、そこを爆心 点と定めました。もう一つは地上に残っている放射線の量を測って、いちばん強 い所をそれと定めました。この二つの点は、一致しませんでした。二十μ川ばかり 離れていました。  そこはテニスコートでした。ネットを張る杭がそのまま突立っていました、ペ ンキが燃え上がったあとが黒く残っていました。コートの回りには五年苗のアカ シアかと思われる若木がずらりと植えてありましたが、小さい幹にもかかわらず、 一本も倒れず立っていました。目についたことは、その枝が別れる股の所で縦に 裂けていることでした。木は爆風が真上から来たことを示していました。  あくる年、ここいらに草が生えました。ウマコヤ、アカザなどもありましたが、 アレチノキクがいちばん多く生えました。いちめんに生えたと言っていいでしょ う、ところが放射線量を測っていちばん多い所を爆心点ときめた、その点を中心 にした同心円状に草の大きさが変っているのでした。半径五材の円は草が生えま せんでした。その外に小さなのが生え、遠くなるほど大きく草は伸び、三百併く らい離れた所では、ふつうのアレチノキクよりずっと大きくなりました。 -------- あの子らの碑  山里小学校の庭の隅に一つの碑が建っています。みかげ石の四角なさおの正面 に女の子の姿が浮いています。これは長目の四角の銅の板を裏から打ち出して浮 彫みたいに像をあらわし、それを銀メッキして石にはめこんであります。女の子 は年のころ十か十一か、両手を合わせ、上を仰いだ正面像で、炎らしいゆらめく ものの中に立ち、頭の後ろに後光めいた輪が光っています。  台石の正面には花をさす穴があり、だれかれ代る代るさしてくれるのでしょう、 季節の花が絶えません。  これはだれの碑ときまった子供の記念碑ではありません。1あの子ら…・-こ こに来て想い出す亡き子らの碑です。わが子を想い出す母もありましょう。友をし のぶ子もありましょう。この学校で原子爆弾に倒れて亡き数に入ったのは千二百名。  想い出すのはその子らのことが多いのですが、そのほか、この学校に通ってい る間に亡くなった子らもしのぶようにと建てられました。   あの子  壁に残った落書の  幼い文字のあの子の名  呼んでひそかに耳すます  ああ、あの子が生きていたならば  運動会のスピーカー  聞こえる部屋に出してみる  テープ切ったるユニホーム  ああ、あの子が生きていたならば  呼んでかえらぬ面影と  知ってはいても夕焼の  門に出てみる葉鶏頭  ああ、あの子が生きていたならば  これは不思議なことですが、あの女の子の顔はうちの死んだ子にそっくりです、 とだれもが言います。 -------- ひ げ  高山右近は人々の手本にしていい人物であったので、近ごろ彼を福者の位に上 げてもらおうという運動が起っています¢それで彼の絵姿を描きたいのですが、 わずかにスペインのある教会の壁画に昔描かれたのがあるだけで、さっぱり見当 がつきません。  右近はどんなヒゲを立てていたのでしょうか? 右近研究では第一人者と言わ れる片岡彌吉さんに私は尋ねてみました。  右近は若いころは武者ヒゲを生やしており、年をとってからはそり落としたで あろう、1と彌吉さんの答えでした。  それというのは、右近は信長、秀吉、家康の三つの天下に働いた大名でありま すが、信長、秀吉のときまでは一般に大いにヒゲを生やしていたものであり、家 康の代になってからヒゲを伸ばしては相成らぬとの法律が出たからであります。  秀吉が天下を取るまでは、至る所で、絶え間なく合戦が続いていました。その ころの|戦《しくさ》は鉄砲もありましたけれど、お互いの顔がはっきり見えるまで相迫って、 ごうごうと演説し、それから鼻と鼻をこすり合っての組打ちで勝負をつけました から、何でも強そうに見せかける必要がありました。それでヒゲも伸ばしたので す。加藤清正のようなすごいのから、秀吉のような辛うじて目につくのに至るま で、みんなヒゲを誇っておりました。……ヒゲは殺伐な気分のあらわれ、上品に 言えば尚武の風を示すものです。  それで、天下を|平《たいら》げた家康は、ふたたび闘争の起るを防ぐ手をいろいろ打った 中に、さむらいがヒゲを立てることを固く止めました。歴史の本の大名の絵姿を 見ると、よく判ります。  ピンと張ったヒゲをもっていたのは、大名行列の供奴だけでした。あれは付け ヒゲですが、彼らは人民に対して威張りたくて、あんな見事なヒゲで鼻の下を飾っ ていました。 -------- 立山の火  立山に火が灯る1赤い灯が秋の夜雨にぬれています。二十六聖人の記念公園 の上の方いちめんに赤い灯が並び、まるで生きているかのように息づいているの を、大浦天主堂の辺りから遠くながめていると、そこで美しい生命をささげた殉 教者たちを想い出します。  聖ルドビコ少年、聖アントニオ少年たち二十六人の聖人を始め、ここで打ち首、 火あぶり、十字架などの仕置を受けた多くの福者、また首をうめられた三万三千 三百三十三人の島原の乱の女子供など、そのほか名の残っておらぬ数々の殉教者 ・…:。その数は今灯っている電灯よりも多いのですc  秀吉、家康、秀忠、家光それに続く独裁者たちは、熱心にキリシタン狩りを行 いましたから、この立山一帯は長い間、殉教者の血を吸いました。その中でも一 六二二年九月十日の福者カロロ・スピノラ、セバスチアノ木村ら、五十五人の殉 教は、その数も多かったのですが、いわゆる大物が多かったので、特に「元和の 殉教」と呼び伝えられています。  外人司祭九名、それはイタリア、スペイン、ベルギー生まれ。日本人司祭木村 師は平戸の生まれ。いずれもそのころの教会の柱とも言うべき人々でした、その ほか修道士、伝道士、司祭をかくまった者の一族など……中に八十歳の老婆もあ れば、いとけない子もおりました。司祭たち二十五名は火あぶり、女子供ら三十 名は打ち首にあいました。彼らを囲んだ市民は三万人i。 「もろもろの民よ、主をほめたたえよ……」カロロ・スピラノ神父の歌う賛美歌 がひびきわたりました。多くの声がそれに合わせてもうもうたる炎と共に燃え上 がりました。  私はこの場面を想うたびに、こんな光景を幻に見ます。……四歳のイグナシオ の首が切られ、小さな体が前へのめる。そのとき、そこから一匹のむらさき色の チョウチョウがひらひらと飛び立つ。高く高く天へ上って行く。……それは草む らに坐らされて打ち首の順番を待つ幼子の心をしばし小さなチョウに引きつけ、 怖れを忘れさせて下さった天主の愛ではなかったでしょうか? -------- 少年使節  伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアノ、原マルチノーいずれも十四 歳。九州でいちばん美しい少年だったのでしょう。選ばれて日本の教会を代表し てローマヘ使いに行きました。長崎を船出したのが一五八二年一月十七日。  この年は信長が本能寺で殺された年ですから、百年の長きにわたり国を乱して いた戦が終ったところであり、外国から目新しい文化がどっと入り込んだときで ありました。少年たちは肝っ玉も太く、遠い国々へ勉強に行きたくてたまらない。 1ちょうと今日のような時代でした。  教会堂が二百ばかり、カトリック信者が三十万人ほどいました。 (一九四八年 の調べでは日本の教会が三百余り、信者が十一万人余りいます)  長崎を出て、風に帆を上げた船はインドからアフリカの南を回り三年かかって ヨーロッパに着きました。ローマに入ったのが一五八五年二月二十一日。1紅 顔の美少年はりっぱな青年となっていました。  時の教皇は太陽暦を改めたので有名なグレゴリオ十三世。1世界じゅうでい ちばん遠い日本から来た若い使節を抱きしめて悦び迎え、昼の御馳走を一緒にな さいました。  りっぱに使いの役目を果たして四人は帰りました。長崎へ着いたのが一五九〇 年七月一日。……二十二歳のいい男盛りになっていました。  いろいろのおみやげを持って帰りましたが、その中でも大切なのは活字印刷機 でした。この機械を島原の加津佐の神学校で使って、一五九一年「サントスの御 作業」という聖人伝を出版したのだそうです。これが、日本で初めての金属活字 を使った印刷です。 -------- 文化吸収  鳴滝のシーボルトの学校跡に立っていた立礼に書かれたことばの中に、  「……天下の俊秀この地に集まる……」という一句があります。  日本国じゅうから選ばれた若い人々が互いに競い合うて西洋の自然科学を研究 していた有様を想い浮かべると、同じように国を閉ざされていた戦争中の私たち の勉強ぶりが恥ずかしい…-  戦争が終り、科学の世界でも国の境はある程度とり払われました。外国語の論 文がどっと日本に流れ込みました。今日も流れ込んでいます。1このことは日 本の科学水準が低かった証拠です。  日本から外国へ流れ出た新しい知識も幾らかはありました。日本に水準の高い ものがあったのはそのわずかの部類です。  風のように、水のように、文化もまた、高い所から低い所へ流れて、世界じゅ う同じ高さの文化になろうとするものです。この文化の差が余りひどいと、台風 のように、滝のように流れ落ちるので、低い文化の社会はかえってたたき壊され ましょう。それが恐ろしいと考えるボスは自分の支配する社会の回りに堅い力i テンを張りめぐらします。  徳川幕府はちょっと考えて、力ーテンをすっかり張りめぐらさず、出島に小さ な孔をあけ、ここからシーボルトを通して、西洋の高い文化をちょびちょび取り 入れておりました。鳴滝の学校に集まった学生はすばらしい人物ぞろいでしたか ら大そう苦労をしなから、よくその務めを果たしました、それで、幕末に国を開 いても、どっと流れ込んだ文化の潮は日本の社会をたたき壊さずにすみました。 潰れたのは幕府だけでした。  シーボルトが出島を出て鳴滝へ文化を運んだ道は今の県庁前から、医大前、市 庁前を通る大道であったろうと思います、己の道はただ一つ、西洋文化吸入管だっ たわけです。 -------- みどり児  罪なき聖みどり児らの殉教者を想い、なぜそんな事が起ったかを考えるときは、 よほど心をしずめて、深く道理をたどって進まないと迷ってしまい、つまずいて 止まり、とても真のありがたい意味を悟ることが出来ません。  十二月二十八日、すなわちキリストが生まれて四日目はヘロデ王に殺されたベ トレヘムの大勢の赤ん坊たちの記念日です。  ユダヤの王ヘロデは救世主すなわち人類の王がベトレヘムに生まれた事を聞く と、生かしておいては自分を王の位から追い落し、代って天下を取るであろうと 考え、この朝早く軍隊を繰り出し、ベトレヘムの赤ん坊をみな殺してしまいまし た。その中のだれか一人が救世主となるはずだと思いましたから……。  ところが救世主イエズスはそのときもうベトレヘムにいませんでした。夜中に 天使がヨゼフに現れ、すぐさまマリアとイエズスを守ってエジプトヘ逃げよ、と 告げましたので、三人の聖家族は町を大急ぎで立ち去りました。それを一足ちが いで軍隊が剣を鳴らして襲ったのです。  ベトレヘムの赤ん坊は何もしておらぬのに刺し殺されました。何十人だったか、 何百人だったか判りません。イエズスの身代りの犠牲となりました。犠牲になる 事を自分では知らず、この朝いっせいに血まみれになって殺されました。母の腕 の中でーあるいは母の手からもき取られて  母の目の前で  母の嘆きはい かはかりたったでしょうか?1聖書はここにこう書き添えています、 「かくて予言者エレミアに依りて言われたる事成就せり、日くラマに声あり、嘆 きにして大いなる叫びなりけり。ラケルその子供を嘆き、彼らの亡きに因りてあ えて慰めを容れず」  1子を失った母の嘆き、それはラケルも、ヘトレヘムの母親たちも原子野の 母親たちもーそのほか、多くの母親たちもみな同じです、とんなに慰められたっ てだめです。あえて慰めを容れずー。道理なく殺されたのですからー、  泣き通し、狂い続け、呼び疲れ、嘆き果てた末の末……天国に移し植えられた 小さな花の幻を見るでしょう. ------ みかん  長崎1  この字を見る、この名を聞く、そのとき幻のように見える光景はどんなもので すか?……春、夏、秋、冬、それぞれ異なった幻の像をあなたの想いに浮かべる でしょう。まことに未だ見ぬ長崎はあやしくも美しい。一つの気分だけは必ずあ るのにお気つきでしょう。それはIlほのほのとした温かさです。そして、それ はつまり愛であることを見きわめるでしょう。四季とりどりに姿こそ移れ、長崎 の心は愛であります。それはこの入江に新しく港をつくり、町を建てた大村純忠 公の愛が生きているからではありますまいか?  冬というのに人肌のように柔らかく温かい長崎一帯の気分は、静かな海に臨む 段々畑に金色に光るミカンによって表されていましょう。この光景を幻に想い浮 かべて下さい。  長崎ミカン、あるいは|伊木力《いきりき》ミカンと呼ばれる、大きな、甘い汁のたっぷり含 まれたミカンを召し上がったことがありますか?1このミカンはだらしなく甘 いのではなくて、酸味が付いているのが名物です。この味に何かこの土地の歴史 を暗示するものがあるように想われてなりません。  このミカンは長崎をふくめて昔の大村領一帯に出来ますが、よく出来るのは長 崎の北の郊外伊木力村を中心に大村湾を囲む村や町です。この大村湾の風景はの びのびとして真におだやかです。箱庭の感じが少しもない、、それで外国人は私た ちが首をかしげるほど、むやみに|賞《ほ》めます。この内海に臨んで大村の城下町があ ります、  今から三百九十年くらい前の殿さまは、日本で初めてのキリシタン大名、ドン ・バルトロメオ大村純忠公でありました。彼の領内には七万人のカトリックがお り、四十余りの天主堂がありました。そのうち十一の天主堂は自由港長崎にあり ました。  肥前の西海岸、黒潮の一つの支流の終るところ、長崎から平戸までの間は、ミ カンの名所であり、キリシタンの国でもありました。 ------- ぼうぶらの花  七時、十二時、その時計が母屋で鳴ると歌子かカスミが御飯を持って来ます。 私は寝ておりさえすれば食えます。その前に食う物を探す苦労もなし、火を起し て煮るわずらわしさもありません。食べたあとの皿の脂気も灰と砂で洗う手数も なし、お膳を下げに来たのに向って、うまかったとか、塩が多過ぎたとか言うば かり……。まことに結構な病人の身分となりました。  これが五年前は如何だったでしょう?-傷つき、焼出され、子供らと山の家 に暮らしておりました。恐ろしい原子爆弾症で人々が次々と死にゆく九月、私も また同じ症状を起し、四十度を越す熱が続き、下痢が続き、出血が止まらず、危 篤に陥ったのが九月二十日。意識を一旦失ったほどでしたが、辛うじて生命を保 ち、十月に入って、どうやら安心するところまで、持ち直しました。  秋陽はまだ暑くて、外へ出れば目まいを覚えるので、ひねもす寝こんで、いろ りの火種の番をしていました。誠は十歳、カヤノは四歳、もっぱら外に出て遊ぶ かたわら、おかず探しの役でした。 「おとうさん、これ食べられる?ー」  カヤノが小さい手に摘んでくる野の草の中から食べられるものを分け出して、 これを取っておいで、と教えます。ーノビル、ノギク、セリ、ムカゴ、スベリ ヒユ、ハコヘ    いちはん多く食へたのがサツマイモの若葉、ポウフラの若 葉、ボウブラの花。 (ボウブラとカボチャの区別は今は使い分けていません)  いろりの自在かぎにつるした鍋に、汁のだしは小川から誠が取って来たカワニ ナ、タニシ、サワガニ、ときにはアブラハヤ、ドジョウ。煮え立つころ岩塩を入 れ、カヤノの摘んで来た草を入れ、大きなボウブラの花を入れます。金色の花が 湯気の間に見える、すばらしい御馳走でした。 -------- 右近追放  高山右近大夫長房に会うたことがないので、知ったかぶりは慎みますが、さい わい右近の研究を最初にまとめた片岡彌吉教授が私の近くに住んでいて、いろい ろ話してくれました。彼が一九三六年に公けにした右近の伝記が手もとにあって 読んでいますので、この模範的日本人の一生について大いに学ぶところがありま して、新しい文化日本人の生き方についてまじめに考える人には、ぜひ右近をま ねて頂きたいと申し上げます。  手みじかに書いてみると1一五五二年生まれ。十一歳でカトリックになり、 霊名ジュスト。このころ父は大和の澤城主。十六歳で信長の京都入りに従うたの が初陣。それから大阪の高槻城に住み、熱心なカトリック教徒として徳をみがき、 福音の伝道に努め、余野城主黒田氏の長女ジュスタと結婚、二十一歳で高槻城主 となる。いよいよ美しい宗教生活を行い、周りの人々は感化されて改宗する者多 く、京阪地方に天主堂を多く建立。三十歳、本能寺の変に山崎合戦先陣の功。そ の後秀吉の武将として功多し。三十三歳、明石城主。三十五歳、秀吉の禁教令に より、一切を捨て信仰を守り野に下る。三十六歳、金沢に移り住み、信仰生活と 茶道に心を注ぐ。六十二歳のとき家康のキリシタン国外大追放令によって、一家 をあげて長崎よりマニラに流され、あくる年春病死。時に一六一五年二月三日午 前零時過ぎ。行年六三歳。葬式は殉教者に似た大がかりなもので、スペイン人の 長官を始め全市の主だった者がみな従い、千人ばかりの在留日本人も鼻が高かっ たと言うことです。右近の美しい一生の物語はすぐにヨーロッパに伝えられ、壁 画にさえ描かれました。1世界じゅうで知らぬは日本人ばかりなり。  右近は船待ちのため長崎にしばらく泊っていましたが、そのとき大阪冬の陣が 始まろうとしていました、彼を軍師に引き入れようとの秀頼の密使が長崎に着い たのは右近が船出した三日後だったそうです。また、それと知って右近を片付け ようと家康が走らせた刺客も間に合いませんでした。 --------- 御笑い  天皇さまの御生まれになった好い日1と聞くとすぐ紅白のお餅を想い出すの は、明治生まれにきまっています。日の丸の赤と白、菊の花の赤と白、そして大 きな赤餅、白餅。紋付に、えび茶のはかま、めずらしく白粉をつけた女先生の手 から半紙に包んだ二つのお餅を頂くときの静けさ。しかし、式場を出ると、うれ しさが一気に体じゅうから飛び出し、わーっと階段をかけおりる。……大事なお 餅がころころぴょんと大勢の足の間を跳ねる。わーっ……わーっ-…  あのころは、誕生祝いをするのが、この天長節、それからクリスマス。ところ が今年から年を満で数えるようになったので、私たち一人一人の誕生日が大切に なり、おそらく次第に外国式にお正月よりも誕生日をお祝いするようになりま しょう。  小学生のころ、御真影を仰ぐたびに、天皇さまは年から年中にあんなきちんと した御顔で過こしなさるのであろうか9i笑ったり、泣いたりなさらないのか しら91と私は考えたものでした。  昔の皇太子さまの御明け暮れのくわしい事は存じませぬが、笑ったり泣いたり なさる場合はよほど少なかったに違いありません。泣きたい場合が少なくなかっ たのではなく、泣きたくても周りのお付きの人々が妨げたのであり、笑いたくな い御気性ではないけれども、朗らかに高笑いなさるのを周りの老人がおさえたの でありましょう。天長節に紅白のお餅を頂いて、それを両手に高々とかかげ、御 殿の御庭を、わーっ、わーっと跳ねまわりなさったことがありましょうか?  天皇さまが心の底から御笑いになったことはめったにございますまい。それで 今でもまだ御笑いになる表情がぎこちないようにお見受け致します。  東京の方々や御迎幸の人々よ、天皇さまがくったくなく御笑いになる機会をた びたびつくって差上げなさいますように、この楽しい日にお願いします。 -------- 一杯の水  見舞客からきまって聞かれるのは、食物のことと飲物のこと。やさしい人はこ のつぎ訪ねるとき持って来て上げるから、何でもよい、欲しい物を言えと申され ます。いろいろ考えるけれども、寝て暮らす怠け者の私に食欲のあろうはずもな く、まあ欲しい物といえは、うまい生水1。  過ぎし昔を想い返して、何がいちばんうまかったか?1と考えてみると、やっ ぱり生水です。-それも、汗が出尽くし、舌も顔もからからに干からびるまで 激しく働いたあと、山谷の泉、庭の井戸から、そのまま汲んで飲んだ冷たい処女 水。  ビール、レモンジュース、カルピスなども、そんな場合はうまかったですが、 何と言っても単純な、味のない、岩の底から湧き出た冷水にまさる味はありませ んでした。味の無いところに無限の味がありました。  原子爆弾に打たれて、まさに死のうとする人々が口々に求めてやまなかったの は「水をー」 「水をー」1と水はかりでありました。ヒールをー  カルピス を!……ぜんざいを!……と叫んだ者はありません。  私も傷つき、血を失い、こんな死に臨む人々の中にまじって倒れていたとき、 むしょうに欲しかったのは水でありました。それゆえ、病院の裏山の高い所の泉 から、看護婦さんかだれかが冷水を一升びんに汲んで来て、飲ませて下さったと きの、そのうまかった味は今に至ってもまだ鮮やかに、のどもとに残っています。  今になって病床から、向うの白岩山のあたり、私がその水を飲んだ所を眺めな がら考えてみると、たぶんカシノ木原の木の間の泉、あのハコネサンショウウオ の住家の水であったろうと想われます。今ならば、たとい金の杯にあの水を汲ん で来て下さっても、私は飲まないでしょう。  私はレントゲンの医者だったので、ほかの人からよく「あなたの目はこわい、 向かい合っていると胸の中を見透かされるようでー」  と言われたものでした。  暗い透視室で、じいっ……と胸の中を見透かす仕事に十何年か目を使ったもの ですから、私の目はたしかにそんな感じを与えるようになっていました。  しかし医者が見透かすのは、肉体の深い所のありのままの姿です。1何か病 根がある、それが生まれながらのものか、小さい時に受けた傷によるのか、近ご ろ何かわけがあって起ったのか、治るものか、死の病か……。私はこれまで医者 として、ほかの人の肉体の中にひそんでいる病を見つけ出し、あばき、考える仕 事をしてきましたが、今では病人となって、もっぱら朝長先生から見られ役です。 先生から問われるままに腹が張ります、とか、耳が鳴ります、とか答えて、それ から舌をべろっと出して御覧に入れ、あかんべをさせられ、ひと通り、足の甲の むくみまで見てもらいます。これは、いくらなれても、自分の悪い所、汚い所を 見られるので、恥ずかしくないとは言えません。  ところが1作家は人間の心のありのままを見抜く人です。  川端康成さんが私の前に坐って、にっこり私の目を見入られたとき、私は心を 見透かされている……と感じました。  けれども、医者の目とまるで違ってこわい目ではありませんでした。  こちちから進んで、心のふくろの口ひもを開いて御覧に入れたくなりました。 しかしそんなことをしなくとも、いきなり心を見透かす目でした。  わずかに十分間ほどで立去られました。日本ペンクラブのメンバー十名が長崎 の心を見透かすがために来られた四月十八日の朝のことでした、私の傍には、紅 色のヨドガワツツジの一枝を有田焼に挿してありました。この花瓶は原子爆弾で 亡くなられた内科の角尾教授の遺品です。 ------ 野の石  原子野にころがっている焼石。熱線を受けた片面はあらあらしく焼傷を見せて います。ここに置かれたまま、すでに五年、ときおり雲の落とした影がその上を 通り過ぎるほか、何も変りのなさそうな静かな石。……しかし石にとっては、そ のときおりの雲の影が何よりも大きな変化を起させてくれるものなのです。うわ べだけ見たところでは、五年前も今も変らぬ野のすて石。しかし五年の間にこの 上を通り過ぎた雲の影は、堅そうにみえる石のしんにまで透っていたのです。文 学という恐ろしい仕事について、まるっきり素人であった私が作文の勉強をする 気になり、毎夜おそくまで原稿紙のこまに一字一字を書き込んでゆく人間に変っ たのも、ときおり私を訪れる人々の落としていった影のせいです、  長崎ペンクラブという団体が出来たのは、いつのことであったか、私はよく知 りませんが、その名を初めて聞いたときには、西洋代書人組合かと思いました。 そして別にこの考えが誤っていたとは感じませんでした。なぜなら、この町でぺ ンクラブが出来たという発会式記事が新聞に載ったきりで、そのあと別にそのメ ンバーが大いに作品を発表した記事がなかったからです。  だんだん気をつけてみると、いろいろの団体や、あちこちの田舎町で盛んにペ ンクラブが出来ていました。毛筆反対同盟なのか、少なくとも文学の仕事は余り やっておりません。  字引を引いてみました。1「イノターナソヨナル アソソソェーソヨン オ ブ ポエッ プレーライッ エディタース エッセイスッ エンド ノベリ スッ」……この中の主な頭文字PとEとNとを取って、つないで読んでペンとなっ たのでした。ペン屋さんの組合ではなく一九三六年に出来た、詩人、脚本作家、 編集者、評論家、小説家などの国際的平和団体でした。  四月十八日初めて日本ペンクラブのメンバーが長崎で文化講演会を開いて下さ いました。私も初めてペンクラブの真の意味を知りました。 ーこのペノなら原子爆弾に勝ちましょう。 1私も考えが変りました。この本物のペンクラフのためなら、成功を祈りたく なります。 ------ 学 会  文化の花は学会です。医学会は、四年に一回、東京で開かれますが、各専門の 分科会は毎年、各大学まわりもちで開かれます。学会こそは学者のひのき舞台で す。これまでのならわしでは、学位論文の原稿はこの全国学会で、専門家がみん な並んでいる前で公けにされ、そこで正しいと認められたら、博士の値打ちがあ ることになっていました。けれども学会の程度は博士論文などにあるのではなく、 博士に何十年前になったか忘れたほどの老大家がおのおの多年の研究成果を壇上 で公けにして、互いに論じ合うところに美しい花が咲きます。  文化の進んだ国の伝統のある大学をもつ町では全国の専門学者が勢ぞろいする 学会は、その町のもっとも誇る年中行事になっており、市長を始め町民こぞって 悦びます。このことは湯川教授がノーベル賞を受けられたときの有様からでも推 し測られるでしょう。……我が国で学会があのような国民みなの悦びとなる日は いつのことやら9ー  今米国へ招かれて講演などをしている日本の科学者が、同じ研究を我が国の学 会で発表したときには、世間から全く認められずに終ったのでした。今ごろになっ て、米国へ特派記者を送って素粒子論を承らせたりなど、まことにおかしいこと です。  長崎でもおのおの専門の学会が毎月開かれていますが、新聞に出ているのはお ざなりの小さな記録で、国際文化都市の最大事件としてトップに写真入りで掲げ られているのが、焼酒密造所の捕物大活劇。  これが反対になって、学会の後の夜会に市長夫妻が学者連中を招いている写真 をトップに出すような町の気分に変りたいものです。 ------- ロザリオ  ロザリオはカトリックのじゅず、と言って好いでしょう。珠を鎖で輪につない で、そのひと所から十字架が垂れているので、首飾りに似ています。大いばりで 首にかけてキリスト教徒の風をよそおっている|偽者《にせもの》もおります。じゅずですから 首なんかに掛けておいては使われません。いつも手に侍っていて、珠を一つ一つ 爪繰りながら、きまった祈りをとなえるのです。カトリックの大切な祈り-使 徒信経、主薦文、天使祝詞、栄唱をとなえ、救世主と聖母マリアの主な喜び、苦 しみ、栄え、おのおの五つずつの玄義を想うようになっていますから、これを手 に持っておれば聖堂の中とほとんど同じ祈りをささげることが出来ます。それで ポケット天主堂とも言えるでしょう、よく祈る人のロザリオは珠も鎖も指先で磨 かれて光っているものです。  私は「ロザリオの鎖」という本を書きましたが、それは特別に私が言い出した 言葉です。家の焼跡で妻の骨と共に見出されたロザリオの珠は焼けくずれて、し んの鎖だけが形を保って残っていたので、わざわざ鎖と言ったのでした。むざん な言葉でした。  この私の文章が外国語に訳されてあちこちの人に読まれたとみえ、たくさんの 友達が出来ました。ニューヨークのアイリーン・工ーガンさんや、コンコルドの ギブソンさんは何百本もロザリオを送って下さいました。それは原子野に手ぶら で祈り続けている人々から、まるで手のない人が義手をもらうような喜びをもっ て受取られました。  それは国々の作品でした。さすがイタリアのは深みがありました。アメリカ製 は華やかで、メキシコ製は粗雑でした。パレスチナのはカンラン樹で、エルサレ ムの修道院ででも作ったのでしょうか……やっぱりこんな手細工物は日本人が上 手です。日本の修道院でサンゴや真珠で作った物はすばらしい。 ----- 墓  自分の墓についてだれでも考えるでしょう。あんな墓が好い、こんな形が好い、 とそれぞれ好みもありましょう。しかし、なかなか心にかのうた設計は出来ませ ん。地球の上にはずいぶんたくさん墓があり、その下にはそれぞれ死人が埋めら れていますが、もし一日彼らに墓から出てもらって、自分の墓を見直させたら、 満足する者が幾体あるでしょう?  死んだ本人の気持と、後に残って墓を建てて上げた人々の気持とがぴったり合 わぬからです。死んであの世へ行ってみると、真理に直面するので、すべての本 質を悟るだろうと思われます。この世に生きている人はその本質がはっきり判ら ぬので、あらまし見当をつけて、墓でも何でも作るのでしょう。  長崎は墓を特別立派に作るので名高い町です。これは宗教の盛んな町のしるし で、まことに良いならわしです。春徳寺にある東海さんの墓は三十年もかかって 石を刻み、金をちりばめた大きな墓ですピ  人間は天主にかたどられて造られた尊いものです、大切にあつかわねばなりま せん.イワシを焼くように取りあつかっては、天主の御業をけがすことになりま す。  この死体は土に埋められ、やがてばらばらに分かれ土に帰りますが、世の終り には再び分子が集められ、もとの肉体に成り、それに霊魂が再び合わせられて、 もとの人間に復活します。これが私たちの信じている「肉身のよみがえり、終り なき生命」の信仰箇条です。このように、もう一度復活をするのですから、死体 は尊ばねばなりません。  従って墓は尊い所です。そう考えて建てねばなりません。しかし、むやみにで かでかと作るのは、高慢になるおそれがあります。  私の墓は小さな石一つ置いただけで好いです。もし是非とも字を刻まねばなら ぬならば、ルカ聖福音書第十七章の「我は無益の僕なり、なすべき事をなしたる のみ」をお借り致したいものです。 ------ ばらの雨 「私が天へ昇りましたら、バラの花を降らせましょう」と言い残してわずか二十 四歳でこの世を去った乙女-幼きイエズスの聖テレジア修道女ほど多くの人々 の心を動かした聖人はありません。一生病身で、修道院の病室に寝こんだまま、 世間に知られるような大仕事は何もせず、それどころか仲間の修道女たちの世話 になり通しだった、この名もない少女が、死んでのち近ごろ稀な大聖人とあがめ られたのはなぜでしょう?  波女が病床で書いた「小さき花」という本を読むと、人間が変ります。朝の光 に大きな目を開けて、にこにこしている赤ちゃんの心にまでかえります、そこに 信仰の極意があるのに気づきます。  聖テレジアは一八七三年に北フランスのアランソンで生まれ、十五歳でカルメ ル会修道院に入り、社会から離れ、苦業と祈りのうちに日々を送りました。苦業 と言っても特別の荒行ではありません。修道院の中で目上の修道女から言いつけ られた普通の仕事をひたすら従順に、ひたすらへりくだって、つねに天主を喜ば せようとのみ念じて、やりとげたに過ぎません。それは私たちにまねの出来るこ とでした。病人にも出来ることでした。聖テレジアは病身でした。しかし苦しみ をおさえ、その顔にはいつも明るい微笑が浮かんでいました。  一八九七年には静かに死に、二十八年後の一九二五年には早くも聖人の位に上 げられました。十月三日が記念日です。絵や彫像には胸にバラの花束と十字架を かかえ、修道服を着て、にこにこしている目のぱっちりとした少女として表され ています。 ------- 星 空  星空を仰ぐ夜となりました。星空がいちばん美しいのは秋の末でありましょう が、そのころはもう寒くて、庭に立って仰いでいるうちに、あごの下からかぜをひ きます。今は涼み台の上がいちばん気持好いので、みんな出て来て、どれがタナバタさ ま?……などとしきりに指で天の川のあたりを指しています。久しぶりに見ると、星 があんなに多いのか、こんなにも美しいものか、と感心するばかりです。  ときどき流れ星が光ります。子供らはそれに驚き、その美しさに目を見張って しばらくは流れ星の話でもちきりです。  けれども天文学の方から見ると、流れ星なんか、地球の周りに漂っていた名も ない宇宙の塵が、たまたま地球の引力のために、地球の空層に引きこまれ、あれ よと言う間に燃え果てただけのものです。子供らの目をこそ引かね、星座を形づ くる恒星こそは、いちいち名の有る大切な天体であります。  七月七日。1日本では悲しい恋のタナバタさまを祭ります。世界中の教会で は日本の二百五名の福者殉教者を祭ります。世界中の人々が今夜の星の数々を仰 いで想っているのは、東洋の小さな島で、美しい愛の血潮を流して、天に昇った 二百五名の物語です。  殉教の所は長崎の西坂がいちはん多く、そのほか大村湾の中の小島、温泉岳、 島原、平戸対岸の田平などでした。東京では品川地蔵でヨハネ原主人ら五十名が 火あぶりになっています。殉教者の最期はこの星空のように静かでした。流れ星 みたいに派手ではありません。  殉教者たちの一生について詳しい調査と判定が行われ、そのうち二百五名が ローマにおいて福者の位に上げられました。一八七六年七月七日のことで、それ からのち世界中の教会で公式のお祭りを致しております。 ------ 温泉岳  温泉岳は有明海の底から、ぷうっと吹き上げた火山で、その火口のあとに温泉 を噴き出しているので、その名をもらいました。近ごろになって、文字の感じな どにこだわる退屈な文士が温泉の代りに雲仙という、全く意味のない文字をあて ました。これは国の内だけに通用する文字であって、外国語に直せません。昔の 温泉岳という字であったら、どこの国の言葉にも意味を知らせることが出来ます。 ヨーロッパで名高いバーデン・バーデンは日本語に直せば、温泉温泉となりまし て、いかにも温泉の元祖のように聞こえ、名を聞いただけで行ってみたくなりま す。この島原半島をつくる山の上の温泉も「温泉温泉」なのですから、外国人が 聞くと、日本の温泉の元祖ぐらいに思い違いしてくれるかも知れないのに、雲の 仙人の温泉では、とても人間の長居の出来る所ではないと思うでしょう。  温泉岳の字を雲仙岳と改めたら、山の感じも美しくなるだろうと考えたところ に、これまでの文士のちっぽけな趣味がよく現れています。つまり鎖国民族の趣 味です。  名の文字がどう変ろうと山の気分は変りません。温泉岳は好い山です。博多か ら小型飛行機で五分間飛んだら、山の上のゴルフ場の芝生に着きます。女子供に も親しまれている面白い山です。ゴルフ場はカラスが白い球をくわえて行ってし まうので有名です。  冬の霧氷、春のッツジ、夏は地獄めぐり、秋はもみじ。1それはそれとして 美しい。しかし、ここでたくさんのキリシタンが殉教した物語を思い出して、そ ぞろ歩けば、霧氷には彼らの純潔と不屈の勇気を、ツツジには流した血を、もみ じには天国の栄光を見るような気がして、いっそう深くこの山のもつ味を知るこ とが出来ます。地獄と呼ばれている噴気孔こそはキリシタンが信仰のために苦難 をしのいだ跡どころ、これを哀れと嘆き、むごいと泣くは、いまだ彼らの心を知 らぬ人々〕殉教者たちは喜び勇んで、柔和に、へりくだって刑を受けたのであり ました。それゆえここを地獄と呼ぶのは当りません。天国へ彼らの霊魂を噴き上 げてくれた発射孔でした。 ------ 長わずらい  何年も病の床に寝て過ごして、つくづく感ずるのは、天主が私をことさらに深 く愛して下さっているということです。  病の苦しさ、思うままに体の動かぬじれったさ、なおりそうにもない悲しさ、 つのりくる貧しさ、人の手をいちいちわずらわす悩み……いつもそんなせつない 思いに包まれながら、いのちが絶えるでもなく、一日一日明るい朝日を窓から受 け入れて、日を重ね、月を重ね、年も幾度かあらたまりました。そこでいよいよ 天主の愛の通りいっぺんでないことを知ってきます。  如己堂の屋根にスズメが住んでいます、さえずるわ、まことに健やかな声です、 誠が出て来てチャボとハトにえさを与えると、スズメも屋根からいっせいに、こ ぼれ降りてお食事です。お食事がすむと、そこいらのカイドウ、スオウ、ミカン などの枝に群がって、また始まるおしゃべり。  そのおしゃべりが、ぴたっーと止まる時があります。……そのとき空を見る と、ハヤブサがすうっと低く、羽ばたきもせず流れます。スズメは戦闘機の下の 子供みたいです。 1動物の世界。そこでは絶えず生命がねらわれています。ねらわれている動物 はさらに自分より弱い動物の生命をねらっています。いのちをねらい、ねらわれ る。それが生まれてから死ぬまで絶え間なく。ほっと気をゆるすか、あるいは小 さな傷や病で体がすばしこく動かなくなると、たちまち敵に襲われて、殺され、 骨も残らず食われてしまいます。  それは小さなスズメだけではなく大きなゾウも同じ目にあいます、弱いハトだ けではない、強いトラでもワシでもフカでも病気をして寝こめば、すぐ食われて しまいます。  野や山を探して、病気で寝こんでいる動物を見ず、その死体も見つからぬのは 恐らく死ぬ前に食われてしまったからでしょう。  人間だけが、この通り長わずらいをして生き延びることが出来ます。もし私が ライオンだったら、とうの昔に食われて、完全に消え失せているでしょう。 ------ 別世界  このごろの新聞を見ると、二ぺージあって、表の方で毎日必ず目につくのは、 「戦」の文字、裏の方で毎日必ず目につくのが「殺」の文字。1新聞を作る人々 はよほどこんな問題を好きと見えます。買って読む私たちには、ちっとも面白く ありません。そんな事件をわざわざ報せて頂いたって、私たちには何の役にも立 ちません。びくびくさせられるだけ損です。  町の暴力団という一種特別の仲間が一つのがっちりした世界を作って生きてい るそうですね。そこに伝えられ、守られている考え方は、私たちの物の考え方と 全く違っています。そこではいつもピストル、刀などを持っていて、何か特別な 仁義というものに従って、手軽に人間を傷つけ殺すとのことです。その中に入る とそうするより他に生きる道がないのだそうで、若い者が大親分になるまでには 全く命がけの努力を続けねばならぬと言います。外から見ると変だなあ、と思わ れますが、その仲間には、変に考えられておらない。人生はこのようなものと決 めています。  彼らは相手を殺すことだけを研究しています。ハッパをかけるが、バッハを知 らぬ。ゴヤ、ドガ、ロダンなどの名を聞けば、強そうな名だがどこの大親分だろ う?1と首をかしげる。  似たような事は国家にもあります。個人でいえばけんか出入り、国々の間では 戦争。1日本はこれまでは戦争仲間の国でしたから 国民の心は戦争にはかり 引きつけられていて、戦争に強い国を偉いと思い、その武装した国と国とのかけ ひきを我が事のように明けても暮れても考える癖がついています。ところが、地 球の上には戦争仲間とは関係をすっかり絶って、第二次世界大戦の間も別世界で 平和文化をゆうゆう楽しんでいた国がありました。たとえばポルトガル、スイス∩  こんな中立国がどんなに好い国であるか、私たちはちっとも知らなかったので すね。  戦争好きな国家群から足を洗いたいものです。 ------- 石の肌  小学校の田川先生が遠足の帰りに私を訪れての話でしたが、山の上から浦上を 見おろすと、まばらの家々の姿はさすがにまだあの日のむごたらしさを残してい るものの、あちこちに色とりどりの花が見えていて、何となく明るい気持になり、 お弁当を食べながら、あの花で押し花を作って、外国や内地の小学校へ贈ろうと 相談したとのことでした。  私はその話を大変美しい企てだと思い、大いにやって下さい、と頼みました。  頼みついでに、もう一つ頼みました。それは学問としての目的をもって、この 原子野に、生きている動物と植物を集めて、系統だった標本を作る仕事でした。 これこそ今やれば、小学生にも出来る仕事ですが、時が経って原子野の性質を失っ てからでは、大げさな実験をせねばやれない大仕事になります。  原子野には原子問題を解くかぎが数え切れぬほど地面に転がっていました。け れども、その貴いかぎは時間が経つと共に消えて行きます、まるで氷で造ったよ うです。一つには本体の放射能がどんどん減ること、二つには科学を知らぬ住民 が材料を片付けること、三つには科学者が貧しくて研究出来ないこと、……私は 動けないので情けない、、  今私の目のとどく所に残っている原子爆弾の跡は、庭の万人塚のすそを取巻く 石の面だけでしょう。塚の正面のすそとコンクリートの庭との境に三十センチ角 ぐらいの赤紫色の安山岩の切石を並べていますが、その道端寄りの角から数えて 九つの目の石から表を原子熱で焼かれ、ぼろぼろとなって剥げ落ち、肌ののみ目 が失くなっています。八つ目までが焼けなかったのは、そこに防水液の空びんを 入れた箱が積んであったからです.その空びんは熱のために、おかしくひしゃげ ていました。 -------- ごほうび  カヤノも誠も遊び事なら何でも上手、それでお友達の間では人気者。1ちょっ と家の中へ入って本を読んでいても、外から「永井くうん」 「カヤノちゃあん」 と呼び出しが掛かります。 「おうい」 「はあい」と答えるときには、本も閉じな いで、そこへ置いたまま、もう飛び出しています。  そんな次第で二人とも昼間はとても勉強が出来ません。庭にだれも来ておらぬ ときには勉強できるだろう?……と誠にきけば、今にも誰かが誘いに来そうで落 ち着けない。そら、お父さん聞いてごらん、上のグランドでやってるじゃないか ::。なるほど、わあっ、ホームラン、ホームランと呼ぶ声。  そのほかハトの声、メジロの声、ヒヨコをねらう隣の黒ネコ、……まさに何事 か、大事件が家の外で起ろうとしている予感かして、とても昼間は机の前に坐っ ておれないのだそうです。  それでは夜は?……夜は昼間の疲れで、夕飯食って、私の体を湯で拭いてくれ たら、もうすぐ眠くなってしまって…  カヤノも同じこと、.、この子はまだ勉強をしたらどうなるか、しなかったらどう なるか、ちっとも知りませんから、大人になったら今のより大きな服を着ること だけが違うと思いこんで、いたってのんきに遊んでいます。  実は私も子供のときはこんな風にのんきでした。メダカみたいに暮らしていた ものです。だから遺伝でしょう。  それでカヤノも誠も家庭での予習復習が足りません、との報せを学校から受け ると、私もぼんやり出来ず、考えこみました。  せんべい、丸ボーロ、一口香、バターボール、チュウインガム、一つずつに糸 を一本ずつ付けて、それを読本のぺージごとにはさみ、そのべージを読み終った ら、そこのお菓子を食べてよし、とカヤノに申し渡しました。おしまいをガムに したのは、読み終って遊びに出てからのお楽しみにーリ  カヤノが丸ボーロまで読んだときに、外から「カヤノちゃん遊ぼう」……ヵヤ ノは「はあい」と答えたまま手早く残りの糸付きごほうびを引き抜いて、飛び出 して行きました。 ----- 蜜  長崎は花の多い所ですからミツバチの仕事もたくさんあります。昔はこの辺り の家々でもミツバチを二箱か三箱飼っていました。そんな家を訪れていると、人 なつこくなったハタラキバチが手の甲などにまつわりついて可愛らしいものでし た。庭からもぎたての夏ミカンをギヤマンコップにしぼり、これも巣からしぼっ たばかりの蜜のとろりとしたのを加え、井戸水を注いですすめられるのが、浦上 のならわしのようでした。  原子爆弾は別にミッバチを目的の一つに加えてはいなかったでしょうが、あえ なく全滅させてしまいました。たとい幾匹か運よくコンクリートの陰に生残って いたにせよ、見渡す限り花一つ無い焼野のこととて、幾日もたたぬ間に飢え死に したに違いありません。1浦上はしばし蜜無き里となりました。  本原の十字架山のふもとに住む辻忠治さんが一壼のハチミツを持って来てくれ たのは、あくる年の春でしたろうか?……そのとき私は敷居の外にすぐ開けた原 子野を見ていて、野蜜とイナゴだけを食べて暮らしていた荒野のヨハネを想いま した。  そのときの一壼の蜜の貴さー1山を越えて来た新しいミツハチの分団が浦上 に住みつき、乏しい花を探して、ようやく集めた蜜でした。原子爆弾の傷がよう やくふさがった私を元気づけようと、辻さんが持って来てくれた有難い蜜でした.、  ああ、あれから幾つの春また秋。今は至る所に花咲く浦上、ミツバチの群れも 増しました。私のまくらもとの瓶に挿す花にも絶えず訪れています。情けぶかい 里人が代る代るとどけて下さるのは、春早くはビワの蜜、……ことに香りのゆか しいのはミカン蜜です。浦上もやがて蜜の流れる里となるでしょう。 ------- 開会式  カヤノがおかっぱの上に赤はちまきをしめ、隆臣は白組とみえて白帽子を大き な頭に深く被り家を出たのは、運動会の案内に書いてある開会式の時間より一時 間も前でした。近所のどの子もみな同じように早目に走って行ってしまい、少し おくれてお母さん組がお重箱、大やかん、ござ、日がさを両手にかかえ、まだ学 校へ上がらない弟や妹に囲まれて前の道を通りました。この小さい子供たちは甘 柿の枝を手に持っているものもあり、小さな紙旗を打ち振って走るのもあります。 「本日は晴天なり、本日は晴天なり、マイクの調子はいかがですか、聞こえます か、先生、本日は晴天なり、本日は晴天なり、おうい、まだトラックの中へ入っ てはいけません、聞こえますね先生……」  スピーカーの声は田川先生らしい。私の家まで、がんがん聞こえて来ます。や がて心の浮き立つレコードがかけられました。  陽が高くなり、空はすっかり晴れました。開会式が始まったらしい。小さい者 の高い声なから大勢集まれば、校歌もここまで聞こえ「待ちに待ったる運動会、 来たれり来たれり」の一年一度の歌声も続いて湧き上がりました。この歌声の方 が校歌のときより大きく響いて来ました、隆臣もカヤノも顔を赤くし、口を大き く開けて歌っているのです。  列の中に並んで歌いながら、よそ見をして、回りの見物席の中に親を探してい る子供もあるでしょう。また見物席の方からも、我が子はどこにいるかと、同じ ように白いシャツとパンツの子供の列を一人一人探している親がありましょう。  カヤノが真直ぐ向うの青空を見つめて、空の向うまで聞こえるようにと、声を 張り上げて歌っているのが見えるようです。 -------- 運動会  今日はこの山里小学校区全体が浮き浮きして、前の路を通り過ぎる果物売りさ んまで、天びん棒の調子をとって景気よく小走りに行きます。運動会をあてこん で、湯ねりガキ、酒ねりガキ、島原トンゴガキ、中島青ミカン、菓子、ゆでグリ などを売りに来た近くの村人たちが、ついでにこの辺りの家々へも残り物を売り さばきに回っているのです。  スピーカーは絶えまなしに鳴っています。 「三年一組の女子、お遊戯の用意をして入口に集って下さい。……鉄棒の上に登っ ている男子、危ないから降りなさい、……お母さん方に申し上げます。ドウハッ セノ(落花生)の皮を捨てないように願います。    ただ今より五年生男子 の百併競争を行います。応援して下さい。はい、赤勝て、白勝て……」  切り替えて、ウイリヤム・テルの曲  やがて、きやあ………と湧き立つ応援の声。 「赤、勝てー   」 「白、勝てー   」  私も寝ながら、両方へ応援します一スピーカーのお蔭で、運動会の有様は目に 見えるようです。  お昼。1叔母さんたちがお弁当もちで皆行っていますから、こさをひろけて、 カヤノも隆臣も空いたおなかに、おいしく巻ずしなどを食べているのでしょう。 私のまくらもとにも、わざわざお重に詰めて同じ御馳走が置いてありました。卵 巻きのしんのタイデンプの赤の昔なつかしい色………。ひっそりした留守居に、 一時間余りもかかって、ひとり楽しいお昼をすましました。私が小学校だったこ ろも運動会には母がこんなお重を作って見に来たものでした。あのころは着物を 着たままで、ぞうりだけぬいで、体操も、遊戯も徒歩競争もやりました。  叔母さんたちは一足先に帰って、お風呂をたきつけ、夕飯の仕度にかかりました。  陽が傾いて、風が少し冷たく感じられるころ、閉会式の歌が聞こえました。  さあ、何等賞をもらってカヤノが帰って来るのかしらー? ------- 月の光  今では天主堂の崩れた跡も片付いて、ほんの少しばかり立ち残ったれんが壁と、 石の彫刻があるだけですから、見本というほどの物で、すごみもありません。  崩れた当時は、崩れ残りの壁が幾つとなく、にょきにょき突立ち、その敷地い ちめんに赤いれんがの大塊と、白い石とが積み重なり、首や手のもげた聖人像が その中からのぞいていました。  合同葬がいとなまれたのは十一月でしたが、その日天主堂の北の丘に建てた山 田市太郎さんの家に、にわかやもめの私たちが四、五人集まり、それぞれ亡くなっ た妻を始め、多くの死人のために祈りをした後で、皆が私に天主堂の崩れた有様 を描くようにすすめました。山田さんが障子紙と、筆や墨などの用意しました。 私はその場で二枚写生しました。  それを今になって見ると、我ながらぞっとします。  今あれを描き直しても、あんな鬼気迫るものはとても描けません。頭にまだ包 帯を巻いているころでした。天主堂跡がいちばん物すごく見えるのは月の夜でし た。にょきにょき突立つ、ぎざぎざの壁に月の光が当ると、太陽の下と違って影 が深く、そのうえ空気が青くよどんでいるので、全くこの世の姿とは思われませ んでした。1私はそれを描き残しておこうと思いました。  冬の月はさやかでした。寒いので私は毛布を頭から被り、写生帳を持ってトタ ン小屋を立ちいでました。その毛布は戦災者に配られた白くて堅い海軍用でした。 原子野はしらじらと照りわたり、ほんのばらりと小さなトタン小屋が黒い点々を 置いていました。辺り一面に新しいミイラのにおいが漂うていました。  ……私はふと思いました。・  白い姿を人が見たら、幽霊とまちがうのではなかろうか?  そう思ったら急に寒気がして、自分か幽霊に乗りうつられたように感じ、あわ てて毛布を脱ぎ小屋へ引き返しました。 ------- 病 気  原子爆弾が裂けたとき私はたまたまコンクリートの厚い壁の陰にいたので、爆 弾から出た一次放射線の直射を受けませんでしたが、その後すぐ外へ飛び出して、 けが人の救い出しをしましたから、空から降ってくる放射塵をかぶり、また地面 に出来た放射能物質からの放射線を受けたに違いありません。新しい原子野の放 射能地帯の地の上にまる三日間、患者や死人の世話と、自分の傷の手当に過ごし ました。ほかの多くの例と同じく、これだけの間、放射能地帯で死体扱いなどを していると、何週間か後にあの恐ろしい原子爆弾症を起すに充分な放射能を全身 に受けます。その前から私は慢性白血病にかかっていました。この病気は放射線 職業病としても起りますし、そうでない原因でも起ります。ちょうど皮膚ガンが 放射線職業病としても起るし、そうでない原因でも起るようにー。  さらに私は原子爆弾の爆風に吹き破られた窓ガラスのかけらで右半身に多くの 切り傷を受け、いちばん深いのが右側頸動脈を切られた傷でした。それは取りあ えず外科の調教授が組織縫合を施して血を止めて下さいました。それからのち私 は包帯で多くの傷を守り、つえをつき、仲間に助けられながら、西浦上の原子爆 弾症患者の手当をして回りました。  原子爆弾放射線による血液病患者が出始めたのは四週目でした。高い熱、下痢、 歯ぐきや鼻や傷からの出血、皮下出血斑点などがきまって起る症状でした。そし てどんどん死んでゆきました。  高い熱、下痢、傷からの出血などの症状が起って、私がついに意識を失う危篤 に陥ったのは七週目のことで、ほかにも多くの同病者がありました。  やっとのことで生命だけはつなぎましたが、それからは谷川のように下る一方 です。時に病勢のよどむことはありますが…. --------- 花 瓶  忘れ雪の積もった日でした。  この年は冬が暖か過ぎておかしいと言っていたら、菜の花のころ、にわかに寒 波が国の上を過ぎたため、ときならぬ雪が積もり、春草の緑の上に柔らかく被さっ た雪の白さは、またとなく深く見えました。  寒いと言っても春ですから、目に見える雪景色も何となくものやさしく、私は ガラス戸をすっかり開け放ってもらって、その名も珍しい忘れ雪の気分を味わっ ていました。  何となく今の私がこの忘れ雪みたいな気がするのです。すでに私のときは過ぎ ているのに、未練がましく、また姿を見せ、それもたちまちはかなく消えねばな りません。  そうしているところへ、長崎国際文化協会の皆さんが石田会長以下うち連れて 訪問です。この協会は長崎市内にある文化団体をことごとく集めて、平和文化の ために大いに働くというわけで、ついこのごろ出来上ったばかりの会でした。こ れから市内で催すいちいちの文化行事はこの協会が引受けることになりましょう。  私が名誉市民に椎された記念にと言って今日は協会から花瓶を一つ贈られまし た。花好きの私にとって何よりうれしい物でした。  花瓶は肥前三河内、木原皿山の現手焼、高さ二十三センチ、口径は十七センチ、 リンドウの花型、ウグイス色の地に白の刷毛目の美しい、十二代横石臥牛翁の名 作でした。その表に一面に長崎文化の詩や和歌や俳句が呉須で書いてあります。 臥牛翁はこの花瓶を焼き上げるのに、火を入れてから四日四晩、かまの前を離れ ず、目もねむらず、火の調子をととのえたとのことでした。  おもてなしの出し物は、出雲の薄茶(茶わんは松江袖師焼)、菓子は、唐津の 松露まんじゅう、松江の山川、別に波佐見焼青磁ばちに盛ったアップル.スノー。 ------- 通知簿  学期試験が終ると、にわかに私の庭が湧き立つほどににぎやかになり、中学生 が大勢集まってピンポンするやら、お茶の会をするやら、まさに野生の若い動物 のような朗らかさです。試験の間、この若い者たちは、まるで老子の弟子である かのように、しかめ面をして、それぞれの机の前にしばりつけられておりました。  学期試験は濃い霧のようなものですね。中学生は霧の中を磁石を頼りに進む船 の船長にたとえられるでしょう。  霧が晴れ、陽が照れば、うまく海を乗り切った船長はもちろんのこと、岩に乗 り上げて沈みかけている船長だって、ひとまずは喜びの声を上げるでしょう、  庭に集まって遊んでいる中学生たちは、みんな満点をとったような笑顔をして 遊んでいます〔  私は誠に向って、休みに入ったら直ぐ出雲の山奥へ遊びに行くようにすすめま した。誠も白雲が家の軒を過ぎる山の叔母さんの家へ行って、いとこたちと遊ぶ のを楽しみに待っていました。  ところが、いよいよ休みの第一日になったのに、誠は出雲へ遊びに出かけませ ん。何となく顔色もさえません。また庭へ来てピンポンをする中学生もほとんど いなくなりました、1とうしたことたろう9  と私にはわけが判りませんで した。二日目、三日目、同じです。  母屋の妹にそのわけを聞いてみました、妹はエプロンで手の甲を拭きながら、 にやにやと言いました。 「どこの子も、郵便の来るのを門のところで取るために、非常警戒をしているの ですよ」 「?……」 「学校から通知簿が父兄あてに送られて来るのですよ」 ------- 子供のバラ  かどべのツルバラは毎年五月五日に咲きそろいます。八重の紅色の花がこの日 になると、枝いちめんに、ぱっと咲きそろうのです。二、三日前から、ちらほら と、世間の陽気をうかがいのぞくかのように、先がけて咲く花もありますが、枝々 にぎっしり並んで首をもたげた、とんがりつぼみが、景気よくふくらんで紅をの ぞかせ、そのころには春の葉が伸びそろっているので、全体が何となく活き活き してみえます。大きなツルの茂み全体が、今にも中から何か若い力か爆発しよう として、ふくれ切った緑の風船みたいです。……こうして、五月五日の朝を迎え ます。  五月五日-台所の方は暗いうちからにぎやかです.珍しく子供たちも早起き して、台所でおしゃべりしています。今日は子供の日。かまどのあたりに、かん ばしい香りがみなぎっているのは、せいろうの中でカッカラモチが蒸されている からです。東京あたりではカシワの葉に包むのでカシワモチと呼ばれていますが、 長崎ではカッカラの葉に包みます。カッカラとはサルトリイバラのことです。  やがて朝日が庭に射すと、ハトも巣から降りてしきりに鳴きます。子供たちは 麦や豆を手に持って庭に出て来ます。 「うわあ!……花火事だい・…-」  ハトにえさをまくことも忘れて、今朝ぱっと咲きそろった紅バラの茂みに見と れています。  きのうまでの緑が一度に紅に変るのですから、鮮やかなもの。朝日に照り映え、 それが子供らの顔に反射して何もかも紅に染まったようです。  一年に一度、ちょうど子供の日に咲きそろい、一週間咲き続けて散り尽くす、 このツルバラを私は「子供のバラ」と名付けました。 ------- 作話症  一九五〇年五月十一日の各新聞は帝国銀行員集団毒殺事件の犯人と疑われて調 べられた男に死刑の求刑があった事を大きく報せていました。この男は一度自分 が犯人だと自白し、そのやり方を詳しく述べましたが、後になって自分の言った 事はみな作り話だったと言って、自白を取消しました。この男はたしかに作り話 の名人ではありました。  死刑が適当である、と検事が言ったとき、この男は顔にうす笑いを浮かべまし た。しばらくたってから発言を求め、裁判長に向って、自分が犯したのではない、 犯人は必ずほかにいる、と申しました。これから弁護士の弁論が始まります。弁 護士は無罪を信じている、と言っています。  死刑か? 無罪か?1判決は来月の終りごろらしいのですが、果たしてこの 男は正しい人なのでしょうか?  同じ日の同じ紙面に、教皇さまが私に祝福を与えて下さった記事が小さく出て いました。それはヴァチカン九日発の報せで、ローマヘ行った田口司教さまに向っ て教皇さまが、永井は日本人の手本である、と仰せられ、特別に祝福を与えなさっ た、との事でした。  それを読んで私は恐ろしくなりました。私は一般に誤解されています。誤解の 種は私が世に出した多くの本です。それを読むと、いかにも私がすばらしい人物 のように想われます。いろいろの国の言葉に訳されて出ていますから、そのうわ さが外国にもひろがり、こんな男なら日本人の手本だと教皇さまもお考えになっ たのでしょう。……けれども、有りのまま白状すると、あの本に書いている事は、 私をあたかも善い人間であるかのように取りつくろっているのです。私の真の姿 は、大勢の銀行員を毒殺した犯人よりも悪い.私は作り話の名人であります。  人々をだました罪で、私の霊魂は死刑を求刑されておりはしないでしょうか? ------- くちべに  よく晴れた朝空です。港の方から太い汽笛が朝早くから鳴りひびいて来ます。 ボーウウ……大きく長いのはヨーロッパ航路の汽船でしょう。プーッと強く短い のは五島通いでしょう。  ここからは丘にさえぎられて港がじかに見えませんが、のどかな汽笛を聞いて いると、出船入船でにぎわっている有様が、あの丘を透かして、目に見えるよう です。  むかしは黒船が港に入って来ると、町じゅう寄るとさわるとそのうわさに酔う たものですが、今ではもうそれほどではありません。けれども遠い国の汽船が入っ て来ると、何かしら美しいロマンチックな気分を町じゅうに醸し出すことは、今も 昔も変りありません、1それか幼い子供たちの気持の上にすく現れて来ます、  庭に陽が射して来ました。 「カヤノちゃん……行こう!ー」  友達が学校へ誘いに来ました。カヤノは庭へ降りて行きました。しかし出かけ る気配はありません。何をしているのか、しきりに話しこんで、笑っています、 友達はつぎつぎ集まって来ました。大そうにぎやかな様子です。  だいぶん時計の針が動きました。やがて-… 「お父さん、行って来ます」  カヤノを先に立てて仲間が七人、テラスを横切ってバナナの向うへ、にこにこ 笑って通り過ぎました。1まあ、きれいなお嬢さんたちでしたこと!  大きい白バラを胸に飾り、小さいベニバラの花びらをくちびるに張りつけて、 「とこへ行くの91」  と後から大声に問えば 「フラノスヘー」 1この子たちは港に泊っている白いフランス汽船を見たに違いありません。  また汽笛が鳴りました。 ------- アマリリス  道向うの肉売りのおばあさんがアマリリスの花を二茎下さいました.四本茎が 立ったうち半分を私に、残り二本を自分のうちのマリアさまの御絵の前に飾った と言います。球根を植えてから今日まで楽しみ育てたかいあって、大きな花がひ と茎の上に六つずつも咲いています。この秋には球根も増すから、そのとき分け て、如己堂の庭にも植えるつもりだそうです。おばあさんはアマリリス作りには 腕におぼえがあります。  アマリリスは大した花です。大英帝国のどこかの離宮の御庭に咲いたって、けっ して位負けする花ではありません。けれども今この小さい部屋の中に咲き盛って いても、べつに威張っている風もない。ネパール王の食卓を飾っても落ち着いた ものでしょうか、肉売りばあさんのバラックの庭にも得意顔に咲いたのでしょう。  おばあさんは体が「う」の字みたいに曲って、ぽっとり、ぽっとりと歩いて、 豚の心臓や牛の肝臓なんかを行商しています。孫の礼子ちゃんは中学生です。あ の原子の火が礼子ちゃんの親と家と財産とをすっかり燃やしてしまったのです。 二人はあの日田舎へ出かけていて助かったのですが、それは泣くために、ひもじ い目をするために、雨にぬれるために、がたがた震えるために、人々から見下げ られ、いやしめられるために、なれぬ仕事に小さい力を出し尽くすために、この 世に生き残ったようなものでした。だれも同じように貧しいので、肉も臓物も売 れ難く、自分が食えばもとがなくなる、泣く日もたびたびでした。  そうして五年……老人と少女とが細々と働きながら、よくも生き抜いて来たも のです。なぐさめ励ましてくれたものとては、ただロザリオの祈りだけー……  昔は池のある庭もあり、アマリリスも幾株となく植えてありました。…  おばあさんはそれを想い出して、植えてみる気になったほど、この原子野の暮 らしが落ち着いてきたのでしょう。 ------- お見舞い  麦の刈り入れどきは幼い者らにとっても忙しい取り入れどきです。このころは 畑の隅のグミがお祭りの提灯のように美しく熟れるし、裏山の木イチゴのたわん だ枝に金色の実が馬の鈴みたいに光ります。ウメの実はまだ小さくて食べられま せんが、落ちはせぬか、なくなりはせぬかと毎朝のぞきに行かねばなりません。 夕方けろりとした顔で帰って来た子のクチビルも歯もむらさきに染まっているの は本原の山あたりまでクワの実を食べに行ったのでしょう、小さい口のまわりが いちめんに染まっているのに気づかないで、ほがらかに歯を見せて笑うのを見る と、我が子ながら、なかなかグロテスクです、何だか、ジャングル言葉でうなり 出しそうな気がします。  焼畑に二株植えておいたオランダイチゴが三年目の今年はもう一坪以上にひろ がって、これもまた子供らの早起きのたねです。今年はミルクの出まわりも多い ので、イチゴをサジでつぶして、|紅色《べにいろ》のミルクににじむ美しさも朝の楽しみです、 サジもステンレスのたのもしい光をもっています。戦争のあとに店に出たサジは 薄くて、イチゴをつぶそうと力を入れると、ふにゃりと首から曲ったものでした、 ビワも色づきました。まびかないから実の数は、多いけれども、店に並んでいる ものほどに大きくはなりません。それでも日を追うてオレンジ色からダイダイ色 に熟れてゆくのを見ると、早く取りたくて子供らはむずむずして来ます。  実の成る木がこれだけあると、木から木へ兄と妹の巡礼には事欠かぬようです。  ……夕方の今、カヤノが 「お父さん、お見舞い……」  と言って、私の手にムギワラかごをくれました.中には塩水で洗ったグミがいっ ぱい入っています。  ムギワラは今ちぎったばかりで快く香っています。だれに習ったものやら、幼 い手で編んだかごはいささか形が曲っています。 ------- 洋服  今私はすばらしいパジャマを着ています。淡い水色に、えんじ色のふちどり、 なかなかしゃれたもので、最も新しい型なのでしょう。ニューヨーク五番街の店 の名がえり裏に縫い付けてあります。値段は………。  私は日本人としては体の大きい方だし、腹はふくれていますので、このパジャ マは気持好く体に合っています。けれども、小さい家につつましく寝ている病人 にこの最新流行型の服が似合うかどうか?……ともあれ私は贈り主の御好意を悦 んで着ています。  その贈り主というのが、全く思いがけない次第で、知り合った父の古い友達で す。人間の一生は玉突き台の上をころがる玉のようなもので、玉は互いにくっ付 いたり離れたりしながら、思いがけない所へ、しかし一応の筋道はそれぞれに立 てて動きます。  ニューヨークからパジャマの他にかずかずの贈物を下さった坂井誓一郎さんと は、手紙によれば、私の父が書生時代に田野病院に一緒にいたことのある医学生 だったのです。坂井さんは東京の医学校を出るとすぐ米国へ渡られたそうです。 それは私の生まれる前の年でしたしそれっきり坂井さんは日本へ帰らず、消息も 絶ちました。このたび私の「長崎の鐘」をたまたまニューヨークで読み、古い友 達の子であるのを知って、なつかしさの余り、まるで我が子に贈るようにこまや かな心づかいで病人向きの品をそろえて下さいました。  手紙の中に、父が東京で国家試験に合格して医者になった日の有様を想い出し て書いてありました。1父は茶色の洋服を着て、得意満面でーおい、これを昨 日柳原で十五円出して買うた」と。 ------ 大歓迎  松竹映画の若原雅夫さん、月丘夢路さん、津島恵子さんの一行が「長崎の鐘」 の現地ロケーションに長崎へ来られたときは、まあ長崎では御巡幸に次ぐ大歓迎 だったそうです。  これは長崎で一人の平凡な市民がたどった人生を映画にするもので、画面の背 景はすべて長崎であり、醸し出される人の情も長崎人の持ち味でありますから、 市当局でも好意をもち、撮影隊の歓迎から、仕事の世話に至るまで市庁の方で熱 心に真心こめてやっておられました。市民の人気の湧いた事は、たしかに市当局 がそれほど力を入れる原動力になったようでした。  東京発急行列車は夕方七時過ぎ長崎に着きます。その時間前にすごい夕立があ りましたが、駅前に集まった市民はそれにも流れず、しだいに数を増して一万を 超しました。雨でびしょぬれになった上、水たまりのどろで仕立おろしの晴衣の すそは汚れてしまいましたが、やがて立ち現れようとする、生きた若原さん、月 丘さん、津島さんたちを一目見たい思いに何もかも忘れて、首骨を無理に伸ばし ておりました。  駅前で歓迎会を開く手はずになっていました。カヤノたちも花束を作って行き ました ーところが帰りがずいぶん遅くなりました、よれよれになって帰って 来ました。 「……ああ、いのちがあった!1」 「どうしたの?1そのざまは……」 「もう少しで押し殺されるところだったよ.けが人が出たよ、まあ、1あの人 数」-一行が列車から降りると、わっーとみんなが押し寄せたのだそうです。 警官隊も出て来ましたが、歓迎会も何も出来るものではなく、一行は自動車の中 に入って、そのまま宿舎に走りました。そのあとを自転車の大集団が追っかけた のだそうで「本物のお父さんや私たちが長崎駅に今ごろ行ったって、だれも見に 集まらないわねえ」 「うんーそれがモデルと芸術家の違いさ」 -------- 実 力  田中耕太郎先生はどんな仕事に就こうとすべてを神の御心のままに任せている と申されました。この言葉はのんき至極な人生観のように一応は聞こえるかも知 れませんが、どうしてどうして、なかなか大変な努力をせねば口に出せない言葉 なのです。  神の仰せのままに、すぐに大学教授になり、また国会議員になり、最高裁判所 長官になり、りっぱにその仕事をなしとげる実力を|有《も》っておらねば、御心のまま にとは言えますまい。  チンドン屋の旗持ちしか出来ない者が、神さま、どんな仕事でもお命じになっ た通り致しますーとは言えません。  どんな役でも務める実力があって初めて「我は主のつかい女なり、仰せの如く 我に成れかし」1という聖マリアの言葉をまねすることが出来ます。この言葉 は完全なけんそんと従順を表していますが、天主の母にふさわしい完徳の人の口 から初めて天に献げられたのでした。けんそんと従順の徳をそなえるためには、 まず実力を養わねばなりません。  実力のない者が低い位にいるのは別にけんそんではありません。  田中先生と私はそれから音楽について語りました。ラジオの名曲鑑賞の時間が 毎日楽しみだという点で話が合ったからでした。田中先生はピアノをたしなんで おられるとかねて聞いていたので、今も弾いておられますかと尋ねたら、ええ毎 日三十分は弾きます、この時ときいちばん心が潔まりますよ、との答えでした。  先生は三十歳からピアノを習い始めたのだそうです。1三十歳から……。そ して今でも先生についておられるとのこと。去年は一年かかってバイエルの復習 をやり上げたとか・-…。そんなに遅く始めて、しかも基本から正式にみっちり練習 を積んで、やってゆくー先生の実力の陰にはこの努力が積まれてあったのです一  前にはべートーヴェンが好きでしたが、このごろはだんだんモーツアルトが好 きになりました、どうも子供っぽい天真らんまんさに心が傾くようですよ、と先 生は言って、静かに笑いました。 -------- 道 具  同じ信仰に生きている者同士は、いつかは同じ天国で会うから必ずしもこの世 で会うておかなくともいいわけですが、しかし一度は会うてしみじみと語り合い たい気持をおさえきれぬものです。語ってみても、同じ信仰を持っているのだか ら考え方も同じで、私の言いたい事を彼が言い、彼はまた私の言葉にそのままう なずくばかりだから、別に面白い議論にもならず、一人の心を二つの口が代る代 る語り出すようなものです。しかし語り合うた後で、他のだれと話したときより も大きな慰めと強い信念を得たと感じるのは、一つの神の心につながる兄弟の愛 情をおぼえるからなのでしょう。  田中耕太郎先生が私を訪ねて下さったときにこの事をしみじみと感じました。 先生とは活字の上で前から知り合いでしたが、遠く離れ住み、互いに忙しかった ので会う機会がなくて過ぎました。戦争がすんで、どちらも大学の職を退き、私 は寝込んでしまって、なれぬ原稿書きを始めましたが、先生は文部大臣、参議院 議員、最高裁判所長官と、次第に大きな仕事に就かれました。こんど九州を回る 途中ちょっと如己堂へ立寄られたのでした。いつもは国際文化協会長として、|粋《いキし》 にくだけて訪ねて来なさる石田さんが今日は本職の裁判所長として少々固くなっ ての案内役でした〔すがすがしい雨のタベでした。  私が原稿を書くときには、神の御心のままに動かされる道具となるよう、百日 ばかり祈り続けてから鉛筆をとる、そうすると天から来た力がおのずから手を動 かして文章を書かせるような気がしますーと申しますと、先生もやっぱり同じ だと申されました。  この次にはどんな職に就こうなどと計画はしない、神の御心のままに私を使っ て下さいと祈りながら、今の仕事を完全になしとげる努力をしていますよーと 先生は申されました。 --------- 黒白  私のまくらもとへ来て、ただ今の世の中の有様を嘆く人は多いものです。けれ ども嘆き悲しむ人ははなはだ少なくて、嘆き憤る人が多いのは、その話しぶりの 景気がよいだけに、聞く私にとってはさみしいことです。  ことに酒に酔っぱらっている人は涙と汗を一緒に拭いて、痛く烈しく世界の 人々をののしります。日本中に自分のほかには善人が一人もおらぬと思いこんで いるようです。日本中にヤミがはびこり、自分一人が正しい火をかかげている気 持です。  私には世間の人の善い行い、美しい心の方が多く耳に入り、目につきます。私 のところへ訪ねて来る人々もほとんど皆善い人です。私には今の世の中がそんな に悪いとは思われません、  人間よりも知恵のすぐれた天使と悪魔とが絶えず傍についていて、互いに張り 合っています。天使のすすめに従うか、悪魔の|誘《いざな》いに乗るかーは人間が自由意 志できめます。善い事をするか、悪い事をするかは、そのときその場の人間の意 志に自由に任されてありますから、したがって責任も人間にあることになります、 だから、善人と見なされた人もあるときには悪魔の誘いに乗って悪い事をするか も知れませんし、悪人と呼ばれる人も天使のすすめに従うときには善い事をしま す。人間はこうして一生の間、天使についたり、悪魔についたり、千鳥足で歩い て行くのです。後の世から聖人と仰がれた人々でさえ死ぬる間際に「私は悪人で した。おゆるし下さい」と祈ったものでした。  神に向って自分の罪のゆるしを求めるなら、自分もまた自分に迷惑をかけた友 をゆるさねばなりません。今の世の中の有様を憤る人は友の罪をゆるさない人な のです、ゆるさないから心にいつまでも残り、世間には悪い友ばかりいるように 見えるのでしょう、  黒石と白石と一つずつ置いてゆく碁は黒白同じ数だけ並んでいるのですが、見 方によっては黒が目立って見え、また白が浮いて見えるものです。 ---------- 墓 地  長崎市有墓地のひと隅を借りて私の体を埋めることになりましたコ生きている 間は貴い霊魂と合わせられて、悪い事も善い事もやって来た肉身が、その霊魂と 離れて動けなくなり、見たところでは値打ちのない物体となったので、如己堂に いつまでも置くわけにはゆかず、まあ人目につかぬ土の中へ埋めようということ に決まった場合、墓地が定まっていたら後に残った身内の者たちもまごつかなく てすみましょう。  死体はやがて分解されて形を失いますが、しかしどこに捨てても構わぬという ほど値打ちのない物ではありません。世界の終りの日にこの肉身は復活し、霊魂 と再び合わせられ、神の公審判を受けることになっています.生きている間に悪 い事も善い事も霊魂と肉身との合致体がやったのですから、審判の結果の賞罰は 合致体が受けるのが当然です。だから墓の中の死体は未決の収容所にいるのです。 粗末にはあつかわれません。ここに一人の男の肉身があるから汚さないようにと 墓を作るのです、その目的が果たされさえすれば好いので、別に大きな重い石を 積み重ねる必要はありません。また死体の目玉がどこを見晴らすわけでもないか ら、景色の好い所を選ぶ必要はありません。どこでも好い。地球が墓なのですか らo  浦上の山には置き忘れられたような自然石がたくさん見当ります。これは隠れ キリシタンの墓です。役人の目をはばかり、石には字も十字架も彫ってありませ ん。この人たちこそ生きている間は神のために迫害をしのび、死んでもこんな素 知らぬ顔の墓に入り、神の心にかなった人々でした。私も出来ればこんな墓を建 てて欲しいものです、もし字を彫るならば聖書の中の一句を頼みましょうり 「我は益無きしもべなり、なすべき事をなしたるのみ」 -------- 妻の敵  夫は妻をいたわりつ、妻は夫を    という文句がありますが、夫婦が長い 年月その愛情を断たず、日と共にいよいよ深く愛し合ってゆくためには、ただ夢 のような蜜のような楽しみにとろけてばかりいては、おぼつかない。妻のために、 夫のために、お互いに相手のために悦んでささげる不断の犠牲と努力が必要だと は御承知の通り。  夫は外へ出て生活費をかせぐ、妻は家の中のこまごました仕事をするというの が、普通の家庭の姿です。夫の方も体の力、脳の力をしぼり出して働くのが、大 骨折りなら、妻の方だって洗い物から、ほころびつくろい、掃除、買出し、料理 と、それはそれは気苦労でもあり、体もこき使います。夫は妻のこの苦労を知っ てやさしくいたわる気持におのずからなり、屋台店ののれんを横目で見て通り、 薬屋でアカギレこう薬を買って帰るし、妻の方は夫の汗を想って、ぬかみそを毎 日かきまわし、タイデンプを作り上げます。1こうして愛情だけでなく、その 日その日の生活の上で共に暮らしてゆかねばお互いに生命が続かぬという点でも、 離れられぬものとなっています.  ところが、文明のすすんだ今日では、スイッチ一つひねれば重い物をつり上げ て運ぶ機械も出来て、昔は男だけにしか出来なかった力仕事も女に出来るという 風に、女も男と同じ仕事をして同じ金をもうけることが出来るようになりました から、女は必ずしも男と結婚しなくとも生きてゆけます。  男の方から言うと、かんづめ、冷蔵庫、電気掃除機、服屋などがあるので、妻 がおらなくても、家事に余りわずらわされずにやってゆけます。もし妻君が料理 ぎらいでかんづめ物ばかり食わせるなら、月給の半分を与えて、一緒に住む必要 はないと、夫たる者も思わざるを得ますまい。  かんづめの発達と離婚とは比例する。1かんづめ文明は妻を忙しい家事から 解放したと同時に、下手をすると愛情を妻にしばりつける綱をも切ることがあり ます。 --------- まんじゆう  誠が|小江《こえ》の浜へ海水浴に行きました。小江は浦上の西側の山を越せば七キロの 道のり、五島灘に向った小さな白砂の浜で、ハマユウがたくさん咲いています。 この山越しの路は、油木谷のけわしい坂を登りつめてから、岩屋山の南側の高原 を行くのですが、そこは行けども行けども同じようなススキ原で、所々にイワマ ツの群がり生える安山岩がにょきにょき突立っているばかり、人の家とてはなく、 森もないので、何の声も聞こえて来ない森閑とした一本路でした。この辺りにキ ツネが出て人をたますと言い伝えられていました。なるほど一人で歩いていると、 いつしか気持がおかしくなる静かすぎる路です。  これは私の妻が友達から事件のあったあくる日に聞いた話です。その友達とい うのは小江の隣の|手熊《てくま》浦から毎日長崎の小学校へこの路を通っている女教員でした。 その日は少し帰りがおそくなり、油木谷の坂を登りつめたときは薄暗くなり始めてい ました。前を見ると一人の男が、天びん棒で大きな荷をかついで急いでいました、女 先生はその男が、隣の式見湾の人であることを見極めました。これはいい道づれが出 来たと悦んで 「おじさあん、おーい。待ってよう……」  と呼びかけ、走りました。  すると男はびっくりして立止まり、ふり返って、目を見すえていましたが、に わかに荷の中に手を突っこみ、何か白い物を取り上げ 「たまされんそ。ーキツ不 このまんじゅうが欲しいのかソ」  と叫ぶなり、走り寄る先生をめがけ、まんじゅうを投げつけ、血相をかえて走 り出しました。町から買い込んだみやげのまんじゅうでしたろう。  先生は一人残されては怖いものだから 「待ってようーおじさん。キツネじゃないわよ」  と呼びかけ呼びかけ追いかけました。 「何ぬかす、だまされんぞ、まだ欲しいのかー」  男は立止まってはまんじゅうを投げ、走っては立止って投げ……とうとう 「しつこいキツネじゃ。もうこれきりだぞ」  荷物を投げつけて、一生の最高のスピードで走り去りました。 -------- アロハ  ハワイのシタスー・マスダが訪ねて来ました。マスダさんは日系のアメリカ市 民です。日本の大学へ留学したこともあり、今ではホノルルの聖フランシスコ病 院のレントゲン技師長を務めています。私のことをハワイの新聞や私の本で知っ て、昨年からたびたび慰めの小包や手紙を下さっていました。こんど日本との往 来が出来るようになったので、さっそく渡って来られたのです。  マスダさんの大きな目的は、日本の若い医学者や技術者をハワイヘ招いて勉強 の便をはかることでした。これは全くありがたい話で、アメリカ市民の隣人愛の 深さには心を打たれました。  マスダさんはその人選びに大そう忙しく京阪神を中心にあちこち講演や座談会 に出ていました、その忙しい中の日を割いて私を慰めるために長崎へ来ました。ア メリカ市民の隣人愛の深さに、我が身のことゆえ、いっそう強く心を打たれました。  私のまくらもとに坐ったマスダさんは重いおみやげの包みをハワイから持って 来て、長い間楽しみにしていた私との面会が出来て、ほっとしたのか、やっと汗 を拭き始めました。汗にぬれた手で私のヤツデの葉みたいに薄くなった手をにぎ りました。  ハワイのレントゲン技術学会長ミッチェルさんからのメッセージもとどけられ ました。その中に私のした仕事に敬意を払い、アロハを贈る……と書いてありま した。  マスダさんはこのアロハという言葉の意味を私に説明しようとしましたが、日 本語には直されぬ言葉だと言って、やめました、アロハはハワイの言語で、「お めでとう」 「万歳」 「ありがとう」など、いろいろの意味をもっているそうです。 この言葉はアロハ服を着るほどの特別なお祝いの席で互いに言いかわされます。 ハワイでのアロハシャツは、日本の紋付きと同じ儀式張った服だそうです。  マスダさんは、今日の訪問のような場合にはアロハシャツを着て来るのが礼儀 なのですが、こんど日本へ来てみたら、アロハシャツが妙な仲間に着られている ので、誤解されないため着ないで失礼しました、と言いましたり