緒言  人おのおの長短あり、長を長とし、短を短とし、褒疑《ほうへん》これに伴ふは数の遭《のが》れざるところ、誰れ かこれを遺憾に思ふべき。しかれども濫《みだ》りに事実を構造して、棺を蓋ふも、いまだその名定まら ず、永く世に誤解せらるる人となるは、故人の不幸これより甚しきはなし。  平賀源内は今より百五十年前、世人いまだ工芸技術を度外視する時に当り、鉱物《傍点》を発見し、器 械《傍点》を模造して、物質的女明《傍点》を輸入し、戯曲《傍点》、小説《傍点》を著はして江戸女学《傍点》の発達を助け、あるひは薬 草《傍点》を採集し、あるひは小間物《傍点》を製作し、古今に比類少なき多芸多能、変化の窮りなきを、自ら竜《傍点》 の如《傍点》しと称す。  しかれどもつらつら当時の状況を考ふるに、孔孟の教へを説かざれば、学者に齢《よは》ひせられず、 修身斉家を口にせざれば、君子と目せられず、しかるに源内はひとり経済有用《傍点》の学を講じ、国利《傍点》 民福に着目し、不覇傲放段誉にかがつらはず、あるひは芸人に交り、あるひは小屋ものに親しむ をもつて、俗学《傍点》の祖《傍点》と罵られ、大山師《傍点》と嘲けられ、いまだその本領《傍点》を認《傍点》められざりき《傍点》|。  造化の理を知らん為め産物に心を尽せば、人我れを本草者と号《なづ》け、草沢医人《やぶいしや》の下細工人の様に  心得、已《やむ》に勝るのむだ書きに浄瑠璃や小説《よみほん》が当れば、近松門左衛門、自笑、其磧が類と心得  云々。 これ源内が終世《傍点》の遺憾《傍点》なりき。しかれども生前の誤解は是非もなし。死後に至りて荒唐無稽のこ とを附会し、彼が誤りたる事蹟を今日に伝ふるは、実に櫟斎老人著『平賀鳩渓実記』に起因せり。 そもそも櫟斎老人とは何人なるかを知らざれど、この実記《傍点》のものせられたるは、平賀源内の死後 九年、天明八年にありき。この著版行にならざりしも、写本にて伝はり、爾来源内の為人《ひととなり》は、こ の実記《傍点》にょりて解せらるるに至れり。今その一例を挙ぐれば、東条琴台の如きすら、『続先哲叢・ 談』に鳩渓を叙するや、この実記に拠《よ》れりしところ多し。もとより生前においても、甚だ誤解せ られ易き行為ありしがため、実記の外にも伝聞の疑はしきもの少からず。されどよぐよく実記の いかなる部類に属する書なるかを調ぶるに、『大岡政談』の類にして、実伝としてはほとんど取 るに足らざるものなり。けだし著者は漢学者流の着眼をもつて、勧懲主義を実伝に応用し、源内 が多才の故をもつて事を敗《やぶ》り、一生不遇に終るのみならず、また遂に終りをよくせざりしことを、 世間小才の徒の戒にせんと、事実虚談混合して、一部の伝記を作りしに過ぎず。著者もまたこれ を寓してその序にいへらく、 古人日、夢は五臓の煩にして、虚実見想喜怒哀楽の胸中に動くより起り、実に正夢の沙汰は稀  也、孔夫子の夢に周公を見ずと宣ひしは、周法の末に成れるを愁給ひし嘆辞也、予或夜夢中に、  一人の異人を夢る事分明也、異人日、我は是平賀|国倫《くにとも》也、汝が奇才を慕ふて、夢に我生涯の趣.  を知らしむ、汝是を一冊子として、才子の戒にすべし、総て才智勝れたるは人の玩弄にして、  国益に疎きもの也、又其才を頼んで身を果す媒介也と云、予夢覚て荘々然として其所を知らず、  几上に向て夢中の趣を記して、一冊子となして帳中に置事年あり、去人何某来て日、我足下の  夢物語を聞りと云、恥て答へず、何某切に筆を染て強て責て云、才の秀たるものゝ、能戒めな  らんと云にいなみがたく、かの荘周が夢に蝶と化し、覚て蝶の心を知らぬが如く、蝸牛の角振  分て跡先揃はぬ夢物語を、竹叢の閑居に書することしかり。    天明八年皐月     ,           乾坤無住  竹窓 櫟斎老人  時勢を諏するがために、古来夢物語に托したる例なきにあらず。これらは虚に托して実を写す にあれど、本書の夢物語は事実の無稽なるを夢に托して責を遭れたるのみ。ただ読者を面白がら せんことを専一としたれば、多少|実録体《傍点》の小説《傍点》としては趣味あるべし。しかれどもその他には採 用すべきところ少なし。ひとり怪しむ、後人のこの書にょりて源内の伝を綴らんとするものある を。悉《ことごと》く書を信ぜば書たきに如《し》かず、いかなる精確の書と称すれども、多少信ずべからざる点の あること論を侯《ま》たず。しかれども既に大体偽書と判定のつくべきを、真書として採用するは実に 無頓着といはざるを得ず。故に予はこの書にほとんど拠らず、拠らざれどもなほここに論及する は、けだし『鳩渓実記』には、世に蜀山の朱書と称する評解ありて、ほぽある点の誤謬を指摘し たり。その書入の果して蜀山なるや否やを詳かにせざれども、指摘せられたる箇所の精確ならざ るは明かたり。にもかかはらず、この実記《傍点》を信じ、かへつて蜀山の書入といふ説を排し、  蓋《けだ》し狡児蜀山の名を仮りて源内を傷つけ、並《あは》せて蜀山をも什《たふ》すものなり。 と、大いに実記《傍点》の説を強うせんとする人、維新後にあるを見たり。今日といへども、なほ世人の 半数は、恐らくこの類にて、『鳩渓実記』により彼を解釈する有様なれば、能ふ限りこの書の証 妄《ふまう》の点を指摘し、もつて源内の為人及びその本領を知るの端緒を開かんとす。予が本論を起草せ しは、今より三年前にありき。爾来諸書に得るところあり、叉先輩に質したるも少からず。今回 更に少しく補正して、『偉人史叢』の一編を充たすこととはなりぬ。もと源内の人物は、かくの 如く誤解せられ、一端流布せし謬伝つたはりつたはり、今に至りてほとんどその真相を得るに困 しむ。さればその真相を得んとして、かへつて推測臆断に陥りたる弊あるべし。また事実を明白 にせんとしたるの結果、叙事に流れ、評論に疎《うと》く、不知不識文勢を殺《そ》ぎ、趣味を失ふの恐れなし とせず。幸ひにして他日大いに源内の人物を論ずるの人出でん時、その参考ともならば、著者が 多少の骨折も空しからず、これ平賀源内を真に知るの一端となればなり。予今この書にょりて、 源内を世間に紹介したりといふものならんや。ゆゑにここに一言すと云爾。 明治二十九年八月十五日 著 者 識 ------- 目次 緒言 平賀源内年譜 第一 幼時 第二 本草家としての源内 第三 蘭学者としての地位 第四 田沼意次との関係 第五 世を滑稽に避く 第六 工業 第七 放庇論 第八 物理主義 第九 道義 第 十 性 行 第十一 述懐の狂歌 第十二 末 路 第十三 戯作者としての地位 第十四 飛花落葉 平賀源内年譜 享保十四年 元文四年 寛保二年 延享元年 延享四年 寛延元年 寛延二年 宝暦元年 宝暦二年 宝暦三年 讃岐国志度浦に生る。父は平賀茂左衛門国久と称し、高松藩|米厘《べいりん》の小吏なり。                   つ   ぽk 九月、藩主松平讃岐守頼桓卒す。子頼恭嗣ぐ、穆公と称す。 藩医三好某につきて本草学を修む。十四歳。 処士青木丈蔵(昆陽)挙げられて幕府の儒官となる。 処士田村元雄(藍水)本草学に長じ、『人参耕作記』を著しその名大いに顕る。 別に俸四口銀十枚を賜り、穆公の御薬坊主となる。二十歳。 正月、父茂左衛門残す。源内妹に養子(権太夫)を迎へて父の家を継がしむ。二十 一歳。 田沼主殿頭(意次)幕府の側衆となる。 長崎に遊び、和蘭の言語及び諸技術を学ぶ。二十四歳。 初めて江戸に出づ。田村元雄の門に入り、もつばら薬物弁識の術を修む。二十五歳。 宝暦七年 宝暦八年 宝暦九年 宝暦十年 宝暦+一年 宝暦十二年 宝暦十三年 明和元年 明和二年 明和四年 明和六年 田村元雄初めて物産会を江戸神田に開く。 田沼主殿頭加禄して万石の大名となる。源内甚だこの侯の寵遇を蒙る。三十歳。 九月、源内会主となりて、また物産会を江戸湯島に開く。三十一歳。 藩主の命を奉じて、封内の薬物を採集す。三十二歳。 ニ月、学術を専攻せんとて禄仕を辞す。九月、江戸において許さる。この年、和蘭《オラソダ》 貢使と竜骨を論ず。三十三歳。 閏四月、また薬品会を開く。動・植・磧物、総て集るもの一千三百種に及ぶ。三十 四歳。 五月、『物類品隲《ぶつるいひんしつ》』刻成る。人参培養・砂糖製造の二法を附記す。田村元雄幕府の 医官に挙げらる。この年『根南志具佐《ねなしぐさ》』を著す。これ戯作の初筆なり。三十五歳。 |火涜布《くわくわんぶ》を製し幕府に献ず。また物産会を開く。十月、『五百介図考』成る。三十六歳。 八月、『火洗布略説』刻成る。『神農本草経図註井倭名考』など成る。、三十七歳。 戯作『長枕褥合戦《ながまくらしとねかつせん》』を著す。田沼主殿頭二万石を加へられ、遠州相良の城主とな る。三十九歳。 中津藩医前野良沢年四十七、初めて蘭学を学ぶ。この年青木文蔵残す。四十一歳。 明和七年 明和八年 安永元年 安永二年 安永三年 安永五年 安永六年 安永八年 安永九年 戯曲『神霊矢口渡』を作る。この年長崎に再遊して通詞吉雄幸左衛門に学び、電気 器械を製す。四十二歳。 五月、幕府に上書し、天草島の陶土をもつて海外輸出の磁器を製せんと乞ふ。この 年三月、前野良沢・杉田玄白二人、初めて和蘭医説の翻訳を劔《まじ》む。四十三歳。 田沼主殿頭閣老となり、加禄して五万七千石を領す。四十四歳。 仙台侯の命を承け、その封内の鉄山を調査す。四十五歳。 これより先、秩父の銅坑を開く。この年荒川の舟運を通ず。戯作『放庇論』を著す。 この年『解体新書』刻成る。即ち前野・杉田等が翻訳せし和蘭医書なり。四十六歳。 戯作『天狗燭髄鑑定縁起《てんぐしやれかうべめききえんぎ》』を著す。四十八歳。この年田村元雄残す。五十九歳。 戯作『放庇論』後編を著す。四十九歳。 戯曲『荒御霊新田神徳《あらみたまにつたのしんとく》』を著す。穆公卒す、年六十一。十一月二十一日、源内|過《あやま》つ て人を殺し、十二月十八日獄中に死す。杉田玄白遺骸を橋場総泉寺に葬る。五十一 歳。 遺稿、戯曲『霊験宮戸川』梓行す。 ------ 第一 幼 時 。平賀源内、名は国倫《くにとも》、字は士舞、鳩渓と号す。風来山人・天竺浪人・紙鳶堂《しえんだう》・森羅万象等はみ なその戯号なり。また、浄瑠璃の作には、別に福内鬼外の戯号を用ゆ。讃岐国志度浦の人なり。 享保十四年己酉に生る。  平賀源内の年齢につき二説あり。一は杉田玄白選「処士平賀鳩渓碑銘」にして、残年安永八年 十二月十八日、五十一歳とあり。他は片山沖堂選『平賀源内伝』にして、残年は前同断なれども、 享年四十八と記して、殊更に「拠安原枝証考」と割註を施し、確実を証したり。予かつてものし たる『平賀源内』には、四十八歳の後説に従ひたれども、本編には前説に従へり。しかれども、 いづれが事実なるを弁知しがたし、いづれに拠るも、源内の生年を長短するの外、さしたるさし. ひびきなし。  源内の父は茂左衛門国久とて、高松藩の米凛に属する小吏たりしとぞ。源内はじめは元内と称 しけるを、後《か》に源内と改めたりといふ。その祖先の名を襲《おそ》へるものなるべし。けだし平賀氏は信 州の豪族平賀入道源心の後たりといふ。源心武田晴信に討滅せられてより、その喬孫《えいそん》讃岐に移り 住す。数世にして高松侯の小吏となりぬ。  源内幼にして才智衆にすぐれ、かつ大志あり。十四歳の時藩医三好某につきて本草学を修む。 「雀百まで躍りわすれぬ」といへる哩言の如く、この本草を学びし一事は、深く源内が先入主と なりて、生涯を決するの動因とはたれり。これより先き元文四年(源内十歳の時)藩主松平讃岐守 頼桓卒し、子頼恭嗣ぐ、穆公と称す。源内二十歳の時この侯に仕へ、御薬坊主とたり、月俸四口、 銀十枚を賜りぬ。けだし侯内外の物産を好まれ、広く和漢の鳥獣・草木・魚虫・介貝.金石類を 集め、その形像を写真して、和漢名・蘭名を註せらる。源内即ち君命により、預りてそのことを 資助せりといふ。ただし和漢・蘭名を註したるはたほ後のこととしるべし。  寛延二年、源内が二十一歳の時、父茂左衛門妓す。源内思ふところやありけん、妹に養子を迎 へて父の家を継がしめぬ。養子の名は権太夫と呼べり。(片山氏の『平賀源内伝』に、従弟とあり、さ ればいとこ夫婦にや)  かの『鳩渓実記』には、源内の父を定右衛門に作り、本草を学びし医師を植村徳庵に作り、実 弟万五郎なるものへ跡目相続を托したる如く記し、東条琴台が『先哲叢談続篇』にも、ほぽ同説 をかかげ、定右衛門を高松の家老笠井内記が家来としたる、事実相違せり。  源内が幼時につきては、荒唐無稽の説行はれ、あるひは天狗小僧、あゐひは神童の紳名《あだな》を得た りといふ。かかる賞詞は、わが邦従来の伝記には、誰れに限らずしばしば散見することなれども、 小児のうちの発明才覚も、畢寛は晩年の事業のいかんにょりて大いに発揚せらるる訳なれば、い かに神童にても、老後に至り為《な》す無き人は少しも称するに足らず。而して世に一人物の顕はるる は、多くこの事業を待ちて後にあり。幼少の時は、誰れも大なる相違はなかるべきか。源内とて |穎悟《えいご》の少年といふ外には、実は世に伝ふべき事実はなかるべし。しかしながら、後来戯文を作り、 世を驚かすの頓智奇想は、既に幼少の時より具はりしにや。小児の時夢中に発句を吟じたりとい ふを見るに、句のよしあしはしばらくおき、すこぶる啄木児の卵中に首肯《うなづ》く趣なき能はず。すな はちその句は、「霞にてこして落すや峯の滝」、これ大田南畝に、源内が語りしものなりとぞ、 『一話一言』に見えたり。  かくて源内は二十四歳の時、すなはち宝暦二年に瓢然去つて長崎に遊び、和蘭の言語及び諸技 術を学びたりといふ。しかれども僅かに留ること一年なれば、その学び得たるところも察せらる べし。同三年、初めて江戸に出づ。 『鳩渓実記』には、源内長崎に遊び、小通詞|彰城《さかき》東吉について蘭語を学び、また復古学派たる高 陽谷《かうやうこく》(渡辺忠蔵)と議論したる由を記すれど、高陽谷は仁斎または徂徠《そらい》のいづれの学派にも属せ ず、本来は詩人にして支那通詞の家柄なれば、自分もこれを継げりといふ。あるひは源内長崎に ありし時、彼につき華音にても学びしにや、さるにても、高陽谷は寛延中京師に出でて講説し、 諸名士に交り、一時名声を博したりといへば、これまた覚束《おぼつか》たし。  東条琴台の説には、源内藩を辞して大阪に来り、医師戸田旭山が許《もと》に一年余も寓居し、ここに て本草を研究せりといひ、また南畝の『奴凧《やつこだこ》』にも、「浪花にありて年を経しが、江戸に出て学 校を建てんと思ひて出で来りしが」とあり、更に宝暦の末に著はしたる戯作は、確かに京阪の間 に多少の年月住居して、その所の人情風俗をほぽ知りたる人なることを証す。これを察するに、 源内は江戸に出づる前、通路なれば京阪の間に一両年足をとどめしこと明かなり。源内は江戸に 来りし後、漢学は服部南郭に学び、石島筑波にもゆきかひしたりといふ。しかるに筑波は宝暦四 年に、南郭もまた同七年にみまかりしかば、その後はまた人の門に入らざりきといふ。また加藤 直種氏(加藤千蔭翁喬孫)所蔵の真淵が門人帳には、平賀源内の姓名ありと言ふ。さすれば賀茂真 淵につきて、国学をも修めたるものと覚ゆ。その多才多能なるや一事をもつて満足せず、あまね く多技に亙らんとするものの如し。その弊は深く究めざるにあり。しかれども、これむしろ源内 の源内たる所以《ゆゑん》にしで、南《傍点》畝のいはゆる摘句尋章に区々せず、学問の大意を運用すること自在に して、あたかも腹中万巻の書を蔵するものの如き㌔のか。ただに実用をこれ事として、紙上の空 論は源内がせざるところ、否、むしろ当時一部の学者の傾向なるが如し。徳川氏の初世、寛永・ 正保の頃、程朱学の盛んたる時にありては、学者の論|概《おほむ》ね空理に馳せ、実学といふものは、元禄 以降追々に発達せしところにして、享保・宝暦に至りては、儒者といへどもただ仁義道徳めみを 説かず、大いに経済に着目し、殖産技術に意を注ぎ、国益を計らんとする風、当時学者間に行は ーれたり。源内の如きも、この潮流に随ひて顕はれたる経済学者の一人なり。故に他の学はすべて 大体を知るをもて足れりとするも、その本草学は、最初より深く心を潜め、別に工芸の生面を開 く。はじめ源内は江戸に出で、田村元雄の門人となりて、更に本草学を修む。  そもそも本草物産の学は、貝原益軒によりて大いに面目を新たにしたれども、これを実地に施 し、もつて国用民利を興ししは、青木文蔵を噴矢《かうし》とすべし。文蔵は武蔵の人、名は敦書、字は昆 陽、幕府の儒官なり。文蔵はじめ京師に至り、伊藤東涯の門に学びしが、経義丈章よりも深くそ の心を潜めしは実学にありしかば、堀川の徒に類せざるところあり。文蔵かつて遠島流罪の者の、 食物に欠乏して往々天命を全うせず餓死するを歎じ、およそ罪ありて死刑にあらざるものは、遠 島流罪に処せらるる法なれども、要は天命を全うせしむるにあり、しかるに島喰《たうしよ》五穀実らざるた めに餓死を免れず、あに痛ましからずやと。すなはち五穀の外に食料に充《あ》つべきものを考へ、蕃 薯《ぼんしよ》にしくはなしとし、その趣を官に陳じ、官命を受けて享保二十年種子を薬園に試植せしに、好 結果を得て繁殖実に速やかなりしかば、『蕃薯考』一巻を著はし、これを上梓してその種子と共 に諸州に配分し、ますますその繁殖を計りぬ。今に至りて貧民の食料に乏しき輩、これにょりて 生命を繋ぐもσ彩多《あまた》、けだし文蔵が賜なり。時の人丈蔵を呼んで甘藷先生といふ。ゆゑに文蔵も みづから寿塚を作り、石に書して甘藷先生之墓といふ。  次には田村元雄なり、藍水と号す。江戸の人、世々医を業とす。元雄はやく本草をもつて名あ り。宝暦中幕府挙げて医官となす。時に新たに製参所を建つ。元雄命を受けてそのことを管す。 初め朝鮮人参栽培を幕府に献ず、およそ三度たれども皆繁殖せず。享保のはじめ対州侯また六根 を献ず。将軍吉宗命じてこれを日光山下に択種せしめ、その後三たびその地を移し、初めて生殖 するを得たり。すなはち諸州の民を募り、ますますこれを種ゑしむるに、漸くにして根株五百万 の多きに及ぶ。而して藍水最も人参の栽培に妙を得ければ、熟参を得ること一挙にして千有余本。 この時また、民間に人参を貴重の薬種として購《あがな》ひがたきを憂へず。元雄采薬のために三十余州を 経過し、人参・甘薦・薬種、その他物産の繁殖・製法について発明するところ少からず。平賀源 内は、田村元雄の高足の弟子にして、これら女蔵・元雄等諸名家の業を継ぎ、本草物産の学を実 地に施して、大いに世益を計りし人、近世実学者の名家に数ふべし。 第二 本草家としての源内  さて源内は田村元雄について、本草物産の学を研究すること三四年に及びぬ。折しも宝暦七年 丁丑、元雄、はじめて物産会を湯島に開く。これこの会のはじめにて、本邦に後年博覧会と称す べき会の権輿なりといふ。翌年またこの会を神田に開き、同九年には源内会主となりて、湯島に この会を継げり、同十年には杜友松田某、市ヶ谷に会す。源内もこれに列し、同十二年また源内 自ら会主となりて、薬品会を開けり。総て会を開くこと五度にして、亭主方より出すを主品とい ひ、来会者より携ふるを客品といへり。右五次の会に諸方より列したる出品は、およそ二千有余 種の多きに及び、出品者は実に三十余国に亙れりといふ。当時にありては稀有《けう》たる盛大の会にし て、その頃本草物産の流行したる状況を察するに足るべし。これは源内が催したる最後の会と知 るべし。さて物産会組織0大略を語れば、一物産会はもとより真面目の集会なれば、会席にては飲 酒を厳禁し、また食物等も一切会主よりは出さず、遠方の人は自ら弁当を携帯すべきを約したり。 さて物品を諸国より集むべき方法は、主なる国々(ただし当時は交通の不便なる世なれば、多くは海道 もよりなりし)に物産取次所といふを設け、各人よりはこの所へ受取り、更に三府に置きたる物品 請取所へ廻し、これより江戸の本会に送る仕組にて、閉会の後は、また右の逆戻しに持主の手へ 物品を返戻す。しかれども道中の往復とも運送費用の如きは、悉く本会の負担するところなり。  この会の会場は江戸湯島天神前京屋九兵衛方にして、会主平賀源内は、この時寓居江戸神田鍛 冶町二丁目不動新道にあり。右五次の物産薬品会に出品したる二千余種のうちより、特にすぐれ たる品物を選み、これを一書に編し、説明を施すこと極めて詳細、これを『物類品隲《ぶつるいひんしつ》』と名づく。 この書の凡例に曰く、  主客之物類皆以二上中下三等一品ソ之、此書之所三以名二品鷺一也、然地之産レ物、年有二近久{物有二  生熟→雛二一山一沢之内{物各自有二優劣→難下以二一石一木之上下一概中一山一沢之上下い今就二  当時所レ湊之物一品二鷺之→覧者勿レ拘。  弁説之累二千百言→不レ如三図絵之一覧而為二分了→因抜二珍品三十六種→別為二図絵一巻→ もつて本書の大体を知るに足るべし。附録には人参培養及び甘蕉培養並びに製造法を説き、源内 自画にて軋《テ》レ簾取《ヲル》レ漿《ヲ》ところを図す。同附録中に左の詞あり。  右人参培養は予手自植レ之数年、略其意を得るに似たり、甘薦のごときは、是を製すること不  レ多、故に難レ未レ得二其精詳一諸書に記する所と予が微《すこし》く試る所とを以て記レ之、甘薦可レ植の地  此法を以ち植試ること数年に至ば、自其法の詳なることを得べし、是不レ如二老圃老農一謂也。  右の丈意を考ふるに、人参培養は確かに実験に徴したり、されど甘簾培養に至りては、たとへ いささか試験するところあるも、多くは書籍上の知識といふに過ぎず。これ源内が卓上の空論を もつて、濫《みだ》りに人を誤らんことを恐れての注意なるべし。故に甘薦培養法はその方法を説きたる までにして、いまだ実地については、ほとんど施さざるものと見て可ならん。  因《ちな》みに『鳩渓実記』に、大阪の商人中島屋喜四郎に砂糖の栽培製造法を教へて、莫大の金を貧 りしことは虚諏なり。いはんや『物類品隲』に砂糖を植うべき地を指示したるに、たえて同書の 喜四郎に教へたる備後国を数へざるにおいてをや。  それはさておき、『物類品隲』は、実に源内が生涯の著述にして、これによりて著者が本草学 者の地位を世に発表し、大いにその誉れをほしいままにしたり。同書後藤氏の序にいふ、「嵯誰 知千載之下、乃有二若レ斯人一夷、鳩渓受二業藍水先生→語日寒二於水→青二於藍{蓋君之謂也」と。 まことに過褒といふべからず。同書中源内が事蹟につき、見るべきもの少からず。左に一二を摘 すべし。  宝暦十年庚辰の春なりき、府下柳原に大火ありしが、折しも田村元雄の家も類焼の災ひに罹り  ぬ、源内は其の後三日、今日もまた元雄を訪れんとて、隣町まで来りしに、積石の間に、十二  三ともおぼしき童子、餓《うゑ》に迫りたるにや、又病に罹れるにや、その所に倒れて殆ど死せるもの  の如し、源内は早速元雄に面し、云々の由告げければ、元雄も聞いて早速家を出で、両人とも  ども来り見れば、四肢既に冷却して脈搏もまた止まれり、源内は師の命により、朝鮮種和産人  参の効能を試すはこの時なりと、すなはち懐中よりこれを出して、口に含みょく噛み砕きて、 童子の口く入れ、水を与へなどして介抱せしに、須與《しゆゆ》にして小児の腹中鳴り、四肢動きはじめ、  漸《やうや》くにして蘇生しければ、さてこそと師弟の喜悦大方たらず、汝は何処《にいづこ》のものぞと問ひしに、  小網町長助が男にて、火に逐はれ倉皇して路を失し、いまだ親にも逢はず、今日にて三日絶食  しぬと答ふ。源内等不懲のことに思ひ、いろいろ手当をなして、懇ろに送り帰らしめきといふ。  けだしこれより以前、かの朝鮮人参を本邦に移し植ゑ、大いに収穫ありたれども、和産は舶載 の物とその効能同じからずとの証説、一時喧伝しければ、田村元雄の如き人参栽培家にとりては、 名誉上少からざる関係あり、いつがな試験をなし、効験いかんを明かにせんと思へるところなれ ば、かくは『物類品隲』に記して、世の証妄を弁じたるなり。  これも同年たりき。穆公の命を奉じて、源内は薬品を領内へ採りに行きしが、途次紀州へ廻り、 諸方にて種々の薬草・物産を採集して帰れり。その中新たに発見したる物も少からず。 「イケマ」これは蝦夷《えぞ》の産にして、世人は知るもの稀《まれ》なりしが、かつて源内高松侯の邸にありて、 仙台侯所蔵の草木図画を見し時、その種類ほとんど一千もありしが、写生の妙真に迫れり。その 中「イヶマ」といふ薬草の図あり。その草蔓延して形|薙薦《らま》に似たり。よりて物色してこれを求め しに、この年讃岐の領内にて発見したりといふ。  叉同年、駿河にも立寄り、志太郡大賀山にて、石筆材を発見せり。 「ロートアールド」和名石筆、紅毛人赤色を「ロート」といふ、「アールド」は土なり。これを 削りて筆の如くにして字を書するに、硯墨を用ひずして甚だ便なり、蛮産を上品とすれども、大 賀山の石材は蛮産に異なることなし。  これ本邦石筆を出す初めなりといふ。按ずるに、右は今いふ石盤上に書する石筆にはあらで、 むしろ鉛筆の類なるべし。  同十一年には家僕を伊豆へ派遣して、薬種を採集せしめたりしに、家僕の送致する薬品中に、 一封の朴消《ぽくせう》あり、これ源内が久しく求めたる品にて、これまでも薬品を採集することあれば、必 ずこれを思はざることなかりしが、このたび家僕を遣はすに当りても喜たこまごまとその形状を 示して教へたりしに、遂に其薬石手に入りしかば、その喜び知るべし。やがてこれを田村元雄に 示す。元雄もまた大いに喜び、早速これを官に致しければ、同年十二月、台命ありて源内を伊豆 へ遣はし朴消を製せしむ。源内命を受けて事に従ひ、翌年正月江戸へ帰り、製薬を献ぜしといふ。  けだし源内がはじめ家僕を伊豆に遣はししは、さきに伊豆の人に、鎮惣七といへるありて、源 内が神田の寓を訪ひし時、談たまたま本草のことに及びぬ。源内はかかる田舎人にして、よくこ        》ぶか の道を談ずるを訪り、いかにして教へを受けたりしかを問へり。彼答へていふ、われわれの住む 所、もと山海の間に崎嘔《きく》したる僻地、書を読み学問を修むることを知らざれども、往年並河誠所 先生の三島駅に寓せらるるや、経学を講ずるの暇、また本草学を授け、かつ曰く、耕作をすれば とて、時に磯歳あり、片時も油断すべからず、農夫たるものよろしく本草を学び、鳥獣草木の名 状等を識別しおき、やがて荒年の用に備へんには、益するところ少からざるべしと。故に我が輩 いささか本草のことを弁《わきま》へたるのみといふ。源内聞いて歎称してやまず。すなはち鎮氏の帰るを 幸ひ、家僕をかの地に従はしめ、薬草を採集するうちに朴消等の珍奇数種を得たり。これ取りも 直さず並河先生の教へに基くところと、深くその賜をよろこびぬ。源内が本草学に志|篤《あつ》き、概ね かくの如し。その業の進みしも宜《うべ》なり。 『鳩渓実記』に、源内が江戸に下るの途中、静岡に滞在し、経学を講じ傍ら本草学を教授したり といふ説は、恐らく右並河誠所の事蹟を附会したるものなるべし。  序に記す、並河誠所は、天民の兄にして五一郎と称す、伊藤仁斎の門人なり。掛川・川越の城 主に歴仕し、後、致仕《ちし》して江戸に出で、教授を業とす。既にして居を三島に構へ、常に本邦いま だ地誌あらざるを慨し、友人関祖衡と謀りてこれを選す。しかるに祖衡は河内史を草してみまか りければ、誠所ひとり屈せず、その志を継ぎ、『輿地通志《よちつうし》』中畿内の部六十一巻を著はし、これ を幕府に献ず。元文三年残す。 『物類品隲』中著名なみは、人参培養法、甘薦培養並びに砂糖製造法なり。殊に白砂糖を製する 法は本邦いまだ詳しからず。当時の人は白砂糖は舶来のものとのみ思ひしに、明和五年、大師河 原の百姓太郎左衛門なるもの、砂糖の製造を始め、近隣の人々彼について製糖を学びし由、『武 江年表』に記せり。これ源内の製法に拠《よ》りしや否を知らず。しかれども、源内既に『物類品隲』 中に説明して、世に公になれり。真に一事業の成就するやその源遠しといふべし。  源内が本草学に関する著述は左の如し。 『火沈布略説』『五百介図考』『神農本草経図註井倭名考』『食物本草』『日本彰譜』『薬草木石禽 獣魚介虫譜』『万国図』 第三 蘭学者としての地位 本草家としての源内は、当代の名家田村元雄が高足の弟子にして、 出藍の誉を得たり。けだし 本草学はその本領なればなり。而して源内が学者の側面ともいふべき蘭学の力はいかに。これを 論ずるには、まづ当時における蘭学の状況を述べざるべからず。そもそも本邦外国との交通は、 徳川氏以前に開け、足利時代には周防の大内氏など、密かに彼が文物を輸入したる事蹟あり。徳 川氏に至りては、耶蘇《ヤソ》教徒のしばしば反逆を企て、つひに章氷十四年に、彼等島原に拠りて一大 騒乱を醸《かも》して以来、国禁厳重にして、外国のこととしいへば、玉石合せ砕くの観ありて、つひに 本邦人にして外国語を弄《もてあそ》ぶものの跡を絶ちしが、なほ寛永・正保の頃までは、島原の残党もしく は私《ひそ》かに耶蘇教を奉じたるものの、幸ひにして罪を免れ、諸国に潜伏しゐたるには相違なし。こ れらの一証ともいふべきは、万治二年に『伊曽保物語』として板行の『イソツプ』の翻訳あり。 今世に伝はるものにては、この書本邦翻訳書の噛矢なるべし。しかれども、年かはり星移り、国 禁はますます厳にして、世の中はいよいよ泰平無事なりしかば、野心を包蔵して耶蘇教徒を煽動 し、虚に乗ぜんと隙を窺ひたる浪人の輩屯勢ひを失ひ、当時幸ひに討ち漏らされたる残徒も、追 追世を去りて、新たに外国語を弄ぶものもたきにより、元禄に至りては、その痕跡全く絶えぬ。 僅かに外国の技術のみ医者に伝はりしといへども、それはただ方法の上のみ。原書にょりて医学 を研究するが如きはほとんどなく、国禁の厳なる通詞の輩といへども、ただ片仮名の書留等にた より、口づから記憶に托して通弁の用を果ししに過ぎず。しかるにその禁の追々に緩う・なり、横 行文字を習ひはじめ、泰西の文物を輸入する媒介ありしは、八代将軍吉宗の治世(享保.元文の頃) にありき。  当時長崎にある和蘭語通詞西喜三郎・吉雄幸左衛門等申合せていふには、これまで通詞の家に て一切の御用向を取扱ふに、かの文字といふものはほとんど知らず、ただ暗記の力にょりて通弁 し来りしといへども、かくては複雑なる御用を欠くことなしといはれず、何卒《なにとぞ》われわればかりに ても横文字を習ひ、かの国書をも読み得るやうになれば、職を噴《むな》しうする恐れもなし、幸ひにこ のことの御許可相成らば、以来万事につけかの国の事情を詳らかにするを得て、御用を勤むるに 便り多かるべしと。ここに相談一決して、その趣申立てしに、至極もつともの願筋なりとて速や かに御免あり。これぞ厳禁後、公に蘭語を学ぶことの初めなりしと。  これより長崎において、西・吉雄など『コソストゥヲールド』といふ辞書を三通りまで写し、 頻りに蘭学を研究したり。将軍家においても、ある時蘭書の一本を御覧じたき命ありしかば、画 ある一本を上覧に入れしに、その体裁のすこぶる美たるを称賛せられ、必ず有用のことも多かる べしとの上意にて、御医師野呂元丈・御儒者青木文蔵両人へ仰付られ、蘭学を学ばしめらる。こ れ江戸にて蘭学を学びしはじめなり。しかれども、毎年一度づつ蘭人に附添ひ来れる通詞滞在中、 僅々煩雑の寸暇に学ぶことなれば、その進歩の度合も知るべく、この人々が学び得たるところは、 今いふ単語、かの国の字母二十五文字を僅かに知りしほどにとどまりしといふ。蘭学の解禁は最 初長崎に許され、次に江戸にてこれを学ばしめられしにより、漸《やうや》くにして識者の注目するところ となり、豊前中津侯の医官を勤めたる前野良沢、年四十余にして(宝暦の末、明和の初)青木文蔵 につき、はじめて蘭学を学ぶ。丈蔵その熱心に感じ、『和蘭文字略考』などいへる書を授け、漸 く蘭学の端緒は開きたるに似たれども、常人はみだりに横丈字を学ぶことは遠慮せりといふ。現 にその頃本草家と呼ばれし後藤梨春といへる人、『紅毛談』といふ仮名書の小冊を著はし、その うちに字母二十五文字を彫りて開板したるが、たちまちお各めとたりて絶板申付らる。  またその後、山形侯の医師安富寄碩といふ人麹町に住ひしが、この男かつて長崎に遊学して、 かの国の字母を習ひ、かつその丈字にていろは四十七丈字を綴り、人に誇りてかの国の書籍をも 読み、その事情にも通ずるが如く吹聴して、世人を驚かしたりといふ。  ともかく追々蘭学の開け行く有様なり。宝暦・明和の頃にも、一層その事情に通じ、甲比丹《カピタノ》ヤ ソーカラソスに従へりしバブルといふ外科医、またその弟子にして外科医をかねたる大通詞吉雄 幸左衛門等、江戸に来りてしばしば難治の患者に手術を施したることあり。いよいよ評判は高く なり、和蘭は医術並びに種々の技芸にも精《くは》しきことかくれなく、人気何となくそれに化せられ、 この頃よりもつばら官医の志ある方々は年々対話といふことを願ひ、彼の旅館へゆき治術方薬の ことを聞き、また天丈家の人も同じくその家業につき問ふところあり。長崎は御定法ありてみだ りにその旅館へ出入することもならざりしが、当時江戸は右の有様にてその人々は門人をも同道 なし、また門人と称してその席に列《つら》なるも自由たりき。杉田玄白は吉雄幸左衛門につき、蘭学及 び外科術を学び、平賀源内もまた同人について、蘭学及び技術を学べり。宝暦十一年のことたり き、甲比丹カラソス江戸に参し、例の如く彼の旅館に大勢集り、酒宴ありける時、源内もその座 に列しけるが、カラソス戯れに一つの袋を出し、この口を試みに開き玉ふべし、開きたる人には その品を進上すべしといふ、座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰れも開きかねたり、つひ に末座の源内に至りぬ、源内これを手に取りしばし考へゐたりしが、たちまち口を開き出しぬ、 座客は勿論、カラソスも大いにその才の敏捷なることを感じ、直ちにその袋を源内に与へたり。 これよりして甚だ情交厚くたり、その後はたびたび旅館を訪ひ、物産の事どもを尋ねしに、また ある日カラソス、一つの梅子やうの形のスラソガステーソといふ物を出し示せり。源内これを見 てその効用を問ひ、家に帰りて翌日別に一個の物を作り出して持ち行き、カラソスに見せけるに、 カラソスは見て、こは前日示したる物と同品なりといへり。源内曰く、示されたる品は貴国の産 なりや、または外国にて求められしにやと問ふに、カラソスさればなり、これは印度の地方セイ ロソといふ所にて求め来れりと答ふ。源内またその国にてはいかなる所に産するものなるか、と 問ふに、その国の伝説によれば、この物は大蛇の頭中より出る石なりといへり。源内聞いて、左 様にはあるまじ、これは竜骨にて作りし物なるべしといふ。カラソス訊り、およそ天地間に竜と いふ動物なきに、いかにしてその骨にて作らるべきか、と難問す。ここにおいて源内、おのれが 故郷なる讃州小豆島より出せる大なる竜骨を出し示し、これすなはち『本草綱目』といへる漢土 の書に、蛇は皮を換へ、竜は骨を換ふと説けり、今我が示すところのスラソガステーソは、この 竜骨にて作れる物なりといへり。カラソス聞いて大いに驚歎し、ますますその才に服したりとい ふ。カラソスこれによりて『本草綱目』を購《あがな》ひ、右の竜骨を源内より貰ひ受けて帰り、その返礼 として、『ヨソストソス』(禽獣譜)、『ドトニユース』(生植本草)、『アソボイス』(貝譜)などいへる 物産家に益ある書物どもを贈りたり。これらのことも直接対話にて弁じたることにはあらず、附 きそひたる内通詞・部屋附などいへる者にて、相互の間の情を通じて、事を弁ぜしにて、一字一 言自ら通知せしにはあらず。  かくの如く江戸にては、和蘭人との情交親密になりけれども、実際西洋のζとに通じたる人は なく、ただ何となくこのことを遠慮せる風俗はなきやうなり、久しく鎖されたる賢き門戸も、こ の頃漸く開きし心地して、蘭書など所持することも、公然とゆるしはなけれども、問女所持する 人もあるに至れり、と杉田玄白『蘭学事始』に見えたり。さればさきに源内が長崎に至り、蘭語 を学びしといふも甚だ覚束《おぽつか》なき学力なるのみならず、この時とてもその力はほぽ窺はるべし。所 詮当時にありては、かの国の書物を読み得る人はなかるべし。かの『根南志具佐』の序丈に、  唐人の陳紛看《チソプソカソ》、天竺の云々-、紅毛《オラソダ》の一《スツ》h距《ベラ》L恥《ポソ》㎜ と書き・無智をおどしたるも、実は安富某が横女字にていろはを綴り誇りし格に外ならじ。要す るに源内が蘭学の知識、むしろ当時蘭学者の一般の知識はみな一様にして、この辺に止まりレな るべし。杉田玄白の如きは、前の安富某に字母二十五文字を学びし人なりといふ。また『蘭学事 始』にいふ、  扱観4平賀源内などに出会し時に(玄白が)語合しは、逐々見聞する所、和蘭実測究理の事共  は驚入りし事ばかりなり、若《も》し直に彼国書を和解《わげ》し見るならば、格別の利益を得る事は必せり、  されども是まで其所に志を発する人のなきは口惜き事なり、何とぞ此道を開くの道はあるまじ  きや……と歎息せしは毎度の事なりき。 と。さればこの人々の一体は、単に医術・技芸の上にのみ蘭学に潜心せしにはあらで、明かに政 治上に注目せしといへども、時機いまだ到来せず、空しくその志を齋《もたら》して年月を経過せしなり。 これよりおよそ十年を隔てて、杉田玄白、前野良沢と謀り、かの有名なる『解体新書』の翻訳に 着手せしが、当時その翻訳の困難なること、一字一句を訳するに、終日を費ししこともありきと いふ。玄白がその原書を播《ひもと》きし時の感を述べて、果てしなき大海に乗り出したるが如く、更に方 角がつかざりき、とはさもあるべし。  さればこれら一体の人に、その知識の浅深を問ふの時にあらず。予輩は本邦に外国の丈物を輸 入したる率先者の名誉をもつて、彼等を待たざるべからず。而して源内の如き、この一体のうち にも、最初に蘭学に志し、かつ御儒者・医者などの外は、濫《みだ 》りにこれを弄ぶを許さざる時に当り、 常人より抜んでて学びし、その志を多として称せずんばあらず。 第四 田沼意次との関係  八代将軍吉宗、公然と蘭学の修業を許可ありしかども、この頃はいまだ学ぶべき人の階級に制 限をおかれて、いかなる人も、濫りにはこれを学ぶの自由なかりき。されど宝暦・明和に至り、 この制限は解かれたるにはあらざれど、これまでは遠慮したる庶人もまた黙許のすがたにて、蘭 書、舶来の器物などを弄ぶことを答められざることとなりぬ。これしかしながら、かくたり行き しには深き理由あり。時勢またこれをしからしめしといへ、隠然外国品を愛翫する権勢家、これ が加担人をなしたるによれり。その加担人とはけだし相良侯田沼|意次《おきつぐ》なりき。  意次はその父の代までは、僅かに骨吏《しより》なりし人、」朝風雲に乗じて忽ち万石以上の大名に列し、` 幕府の政権をほしいままにす。将軍家治の苗屍ずるや物議|鴛《がうがう》々意次の身辺に集り、今にしてさなが ら好臣の如く目せらる。その所業の善悪はしばらくおき、一時にかくの如き勢力を得るは、たと へ引援するところありたりとするも、またこれ一個の才物なることは疑ふべからず。この人頻り に官位昇進して、将軍家の御覚えめでたきに乗じ、私利を営み、驕著を極め、食膳起居、善尽し 美尽さずといふことなし。されば著修《しやし》日に長じて本邦の器物にてはもはや珍らしからず、支那・ 朝鮮といへども奇とするに足らず。僅かに意次を喜ばしめたるは、舶来の珍奇にて、晴雨計・寒 暖計・震雷験器・時計・望遠鏡・硝子細工等、室内の粧飾品に外国の器物を用ひたるは、意次に はじまれりといふ。上の好むところ下これを習ひ、当時一般に珍奇の物品を愛翫すること大流行 となり、これを有せざるものは人後の恥辱とし、競ひてこれを所持するの風習とはたりぬ。され ば偽物・模倣も沢山でき、日本橋大通りの如きは、「和蘭何々」と頭に和蘭の二字を冠せたる物 品を販売する家軒を並べ、その舶来品と否とにかかはらず、一般にこの看板を掲げて花主を引く の策となしたりといふ。、当時の和蘭熱かくの如し。これみた当路執政の好むところに追従して、 流行を来たせしに外たらず。蘭学を修むるも黙許のすがたにて、答められざりきといふも、実は その影響のみ。さればその目的は那辺ありしにせよ、本邦蘭学の開始については、田沼意次は間 接に力を与へたるものといはざるべからず。  而して田沼意次が、かくも外国の物品を愛翫するやうになりしには、別に原動力のあることに て、そは平賀源内の勧誘によれりといふ。いつの頃にや源内はひそかに田沼侯に取入り、侯の寵 遇を受けて画策するところ少からず。侯の嗜好を充たすために、珍奇の物品を買入るる役は、一 に源内の手を煩はせしことにて、しかも源内はこれを吹込みし人なり。今日その事実に徴しては、 事多く曖昧の中に没して知るべからざるも、源内が侯に取入りしは宝暦八年以前にありとぞ。 『先哲叢談続篇』に、源内がはじめて田沼意次に会見せし時の模様を記して、左の如くいへり。 (原文は漢文なればここには大意を抄出す。以下この類多し)  源内は相良侯(田沼意次)の臣三浦荘司たるものと識あり、荘司かねて源内の為人《ひととなり》を侯に推薦  せしに、侯大いに喜び、一日会見してますますこれを奇とし、すなはち宴を張り饗して家に帰  らしむ、源内暇を告げて帰らんとする時、侯手づから奥より砂糖の折一個を携へ、これを源内  に賜ふ、源内家に帰るといへども、かかる贈物は諸方より輻榛《ふくそう》することなれば、これを架に上  げておよそ半月ばかり打捨ておき、後開き見るに、何ぞ図らんその底には、小判にて金百両|耕《べん》  蔵《ざう》しあり↓かば、源内手を拍《う》ちて喜び、いたく侯の己《おの》れを知るに感伏して、これよりしばしば  出入して、侯の為に画策するところ少からず、侯また源内を遇すること極めて優渥《いうあく》、しばしば  資を投じて惜しまざれば、源内は侯の補助にょりてその工夫するところを実地に応用し、種々  の物品を製作してその費用をいとはざりき。  なほこの外に田沼侯に源内が取入りたる事実は、『鳩渓実記』にもほのめかし、『作者部類』に も某侯といひ、暗に田沼との関係を指せり。しかるに源内は、当時いまだ讃州侯との間に君臣の 関係絶えず、相変らず以前の資格にて、銀十枚と俸四人口とを受け居たり。されどこれ源内の大 望を満足さすべきに足るか。彼はその以前より、餓虎の羊群を待つがごとく、ある機会を覗ひし なるべし。今や田沼侯の己れを知るに当り、実に青雲の階梯を得たるものといふべく、前途すこ ぶる多望なり、この時において小禄を藩主より受くるは、その障碍《しやうがい》たるは火を見るよりも明かな り。源内あにここに着目せざらん。つひに彼は藩主に対し致仕を申出したり。再三留められしな るべし。されど源内の決心は動かすべくもあらず。しからば是非に及ばずとて、宝暦十一年九月 二十一日、漸くにして願意は聞届けられり。その折渡されし書面の詞に、  其方願の趣御内々達二御聴一格別の思召を以て御扶持切米被二召上一永御暇被二下置一候、尤御屋敷  へ立入候儀は、只今迄の通に可レ被二相心得一候、但他へ仕官之儀は御構被遊候。 と見えたり。なほ『作者部類』は、源内が致仕の理由として、左の如く記せり。 鳩渓が讃藩を去りたる事情を原《たづ》ぬるに、其身は小吏の子なるを以て、既に登用せらるゝと雛、  同僚の為に慢侮せらるゝ事多かるのみならず、其君寵に至るを妬む者も在しかば、久しき後心  もとなく思ふをもて、遂に侯に乞ひまつるに、再び師家に随従して、医学を研究せまく欲す、  身の暇を給はるべしと申せしかば、君侯惜み玉へども、申事の理りなれば、所望に任せ給はん  とて云々。  右は表裏二面の理由を説明したるものにて、源内が致仕の真相は、讃侯に仕へてはもはや望な し、去りて多望なる田沼侯に仕へんにしかずといふにありしなるべし。而して医学研究は実に口 実のみ。讃侯はこの真相を知りしや否や、もし知りしとすれば、すこぶる不快の感を抱きしなら ん。しかれども当時第一の権勢家に対し、一人の源内を競争せんこと利にあらざれば、表面の理 由をどこまでも理由として聴許せられしなるべし。故に「他へ仕官之儀は御構被遊候」と一本の |鑓《かすがひ》を打ちて、彼が今後の行動に注目せしなり。そもそも平賀源内と田沼意次との関係について は、疑惑の解けざる点すこぶる多し。もし源内が田沼へ出入せりとすれば、何故にその行動を曖 昧にせずして、公然と侯の禄を受けざりしか、また源内が平常の志望は一に仕官にあり、しかも 当時第一の権勢家の寵遇を蒙り、いふこと聴かれざるなく、唯一投足の労にして青雲に登りつべ き地位にありながら、つひに幕府の任用を得ざりしこと、不審の至りならずや。この疑惑を解く ものはかの一本の鍵なり。けだし「他へ仕官之儀は御構被遊候」とありて、源内の身体は条件附 となりぬ。仕官をするならば是非とも藩主,へ復帰せざるべからず。きれば『作者部類』にも「是 非召返し給はんとの思召す御ふくみありての事とぞ」と附記せり。その情実の纏綿《てんめん》せる察すべし。 これ源内が大なる失策なりき。けだし彼は首尾よく藩主との関係を絶ち、しかる後|徐《おもむ》ろに田沼の 声援によりて、好地位を得んと思ひたりしたらん。しかれどもその致仕を聴許せらるるに当り、 右の鑓のために、彼が企画は全く水泡に属しぬ。彼は生涯日蔭ものにて終らざるべからざる運命 に遭遇したり。これ田沼との行動のすこぶる曖昧なる所以《ゆゑん》なり。 第五 世を滑稽に避く  情実のためにその身の進退を束縛せらるるは、実に不愉快の極といふべし。されば致仕の後僅 かに一年を隔てて、宝暦十三年には、『根南志具佐《ねなしぐさ》』『風流志道軒伝』の二作を著はし、戯言に托 して、積る不平を漏らしたり。殊に『志道軒伝』は、後、安永六年に出でたる『放屍論』後編と 対し、源内が不平史の上巻ともいふべき大切の著なり。伝記・口説に残る事実は、当時の模様を 詳しく報ぜざれば、その内部にはいかなる情実の幡《わだかま》り、それに対する憤愚の状を察すべからざれ         心もと ど、これらの書を播かば、いかに不平に堪へざりしかを知るに足らん。第一にこれまでは戯作と いふものに筆を着けず、ほとんど専心して着実の方針をとりしものが、この時に至りて、たちま ち噴火山的馬鹿笑に破裂したるは軽々しく看過すべからず。けたしこれまでその行為を慎みしは、 一挙にして青雲に登らんとの志望ありしにょるべし。しかるに今や藩主に復帰するにあらざれば、 他に仕官することすこぶる困難なる事情ありとすれば、もはや自棄なり。この上は地位を下すも、 世の按斥《ひんせき》を受くるも、思ふ存分に天下を罵つて欝憤を散ぜんと、つひに戯作をはじめしなるべし。  今やこの不平史を播かんとするに当り、源内は何故に『志道軒伝』に托して、欝憤を漏したる か、まづ一言志道軒といふ人物に及ばざるべからず。  そもそもこの志道軒といふは、当時浅草寺の構内に軍書を講じて、生計を営む老人の僧なりき。 世の伝ふるところによれば、その昔は歴としたる寺院の知事をも務めたるほどの僧なりしが、身 持放将のために今の有様に堕落したるにて、男陰形の木をもちて節を撃ち、軍書を講ずる傍ら、 世を嘲り俗を罵り、新令出る毎に、目前これを議《そし》りて快となし、傍若無人の振舞をもつて一生を 終りたる変物なり。しかるに源内はこの志道軒に大いに同感を表し、その著成るや、一日志道軒 を湯島の某茶亭に招じ、源内は麻上下《あさがみしも》を着し、志道軒の前に進み、その書を朗読し、彼を饗応し て帰らしめきといふ。『志道軒伝』はもとよりこの僧の伝記にはあらず、ただ志道軒なる人物を 仮りて、己れが不平を漏らナ道具に使ひしまでなり。されど、かくこの僧を仮りたるは、そもそ も志道軒が縦横自在の放言に、富貴利達を屑とせずして、世人を蔑視したるをかへつて高しと見 たるにあり。志道軒は多少の女字あるものなれば、かつて『元無草《もとなしぐさ》』といふを作りぬ。源内が 『根南志具佐』はその名に因み、たほ『湊陰隠逸伝《なえまらいんいつでん》』を著して、その巻首に、志道軒が像の前に 源内は上下を着して、松茸を捧げ供ふる状《さま》を画き、「祭先師志道軒図」と題し、門人悟道軒と称 したり。けだしこれらの寓意は、源内この志道軒にょりて大いに得るところありしが故に、彼を 学んで胸中の欝悶を散ぜんとしたるたり。すなはち志道軒が露天の譲諺罵署《ざんばうばり》は、源内の筆に戯作 となれり。志道軒に対する源内はかくの如し。さはれ『志道軒伝』においては源内はいかに放言 せしか、彼は事を鎌倉に托して曰く、  漸く天下治まりf.鎌倉将軍|政《まつりごと》を専らにし、諸人太平の化を楽む、我は片旧舎に長《ひととな》りけるが、                     ひつさ                       しやうくあにたね  つく人ゴ思ひめぐらすに、高祖は三尺の剣を提げ、漢朝四百年の基を開き、相将量種あらんや  とは楚の陳渉《ちんしやう》が詞たり、今諸国の大小名を見るに、頼朝義経の騒尾《きぴ》について、匹夫よりして家  を起すもの少からず、我は治世に育ちたれば剣戟《けんけき》を起さんは天に逆ふの罪あり、然らば芸を以  て家を起さんと思ふ云々。  徳川氏の治世すでに久しく、天下ことごとくその徳に化して、太平を謳歌するの時に当り、い             かんくわ うηた かなる大野心家も、もはや干父に憩へてはその欲望を遂ぐる能はず。されば芸道をもつて身を立 てんとは、そもそも源内が初一念なるべし。つらつら往時に湖《さかのぽ》りて彼が境涯を察するに、彼が父 母の国を去りし時はいかなる大望を鷹《もた》らししか、あるひは心に大経論《けいりん》を画し、あるひは立身栄達 を手にとるが如く期して、人間の快事この時より大なるはなく、あるひは人情の紙よりも薄きこ とを知らず、あるひは世渡りの辛酸を嘗めず、人生の不如意を感ぜざることまたこの時より大な るはたく、未来の黄金時代を夢みしなるべし。かくの如き志望を抱きて故郷を出立せしも、早十 年の昔となりぬ。月俸四口銀十枚の小禄をもつて十年一日の如く謹慎し、職務を勤勉せしは何の ためなりしか、これ源内がいはゆる尺蟻《せきくわく》の屈するは将《まさ》に大いに伸びんとするがためなりしなり。  我もまた鈍刀《たまくら》ならねば鎌倉に至りて人間の益をたさんと、裏店の淵に身をひそめ、鰻鰯《うなぎ》、泥鰻《どぢやう》  と同じ様にぬらりくらりと世を渡りつゝ、つらく世上を窺ふに、平家四海に沈みて後、上下  太平の化に誇り、賢者あれども登庸《あげもちゆる》ことを知らず、北条、梶原に伝《つて》なきものは位に進むこと  能はず、大江、秩父なんどの賢諸侯ありといへども、近寄らんとすれば左右の俗士賢を忌むこ  と甚しく、其の余、和田、佐々木、土肥、千葉以下は自ら紅白粉《べにおしろい》をぬりて狂言縞語《きやうげんきぎよ》の戯れ、イ  ヨ市川の殿様とほめられ、或は大磯、小磯より女妓《おどりこ》なんど召抱へ、昼夜を分かず、サツサヲ  セくおせゝのかば焼、ぬッぺりとした和《やわら》かた譲諮面訣《ざんてんめんゆ》。       しきゐ                               '         きほく  当時は門閥の閾高く、小吏より興りて大身に至らんこと最も難し。しかれどもたまたま駿北の 野を過ぎる伯楽あり、群馬のうちより千里の逸物を抜いて、槽櫨《さうれき》の間に発死《へいし》するの憾なからしめ んとす。しかるにまた群小の徒、能を妬み才を忌み、駿足《きそく》を伸ばさしめず。無念骨髄に徹して忍 ばんとするも忍ぶ能はず。  功成名遂て身しりぞくは、春夏にさかへし草木の秋冬にしばむが如く、是即天の道なり、萢姦《はんれい》  が五湖にのがれ、張子房《ちやうしぽう》が赤松子《せきせうし》に托せしは、進退め時をしりたる、古今に類なき智者の手本、  また千里の馬たりとも伯楽を得ざる時、強ひて功を立んとするは、夏日に氷を求るに似たり、  讐《たとへ》わづかに出来たりとも室咲の梅の色香薄く、しかも盛久しからざるが如し、或はまた君を得  るとも、其身に鷹の能あるもの、摺餌蒔韻《すりゑまきゑ》にて畜《かは》んとせば、籠を離れて飛去べし、雲に入るの  勢ありとも、其身|餓《うゑ》に至りなば、却《かへつ》てすりゑにて事足れりとする、雀、天告子《ひぱり》にもおとるべし、  鷹は死すとも穂はつまず、主の目はぬき食ふべからず、速に世をのがるべし。  前に大江、秩父の如き賢諸侯と指せるは誰れ、また鷹に讐へたるは誰れなるか、強ひて説明を ,要せざるべし。源内は思ふこと一も成らず、ただ志道軒に托し、滑稽に世を逃がれしのみ。  但山林に隠るゝばかりを隠るとは云ふべからず、大隠は市中にあり、其かくるゝ事一にあらず、  売トにかくれ、医に隠れ、詩にかくれ、歌に隠れ、東方朔《とうぼうさく》は世を金馬門《きんばもん》にのがる、我汝に教る  も世界の人情をしりたる上にて、世を滑稽の間にさけよと教しに云々。  右は志道軒の諭したる詞。またみづから慰めたる詞には、  其時代に流行《はやる》ものは、坊主、金持、女の子、三絃《さみせん》、浄瑠璃、たいこもちの類なれば、和氏《くわし》が壁《たま》  の夜光なるは知らじと、我も夫より世を逃れ、山林に隠れ、木の実を食して餓を凌ぎけるが、  いつとなく仙術を得て飛行自在の身となり、風に任する身体なれば自ら風来仙人と号し。, といへり。その高慢と功名心との怒りを僅かに抑制したるは明かなり。仕官の望みほとんど失せ たるを覚り、すなはち戯作に筆を着け、  誠の道を以てするとも、却て俗人に近寄ざれば、後には世を捨るか世に捨らるゝの外には、い  でざるべければ、只東方朔が昔を追ひ、滑稽を以て人を近寄せ、能く近く讐をとりて俗人を導  くべし。 と放言高論、あるひは要路当局の暗愚無識を罵り、人を容《い》るる量なきを嘲りて穿胸国《せんきようこく》を画き出し、^ その他僧侶の堕落、学者の迂潤、医者の無学、武士の放逸、、山師の賊雇《ぱつこ》、市人の怠慢、詐欺博《さぎばく》亦|大《傍点》、 すべて人間の薄徳弱行を痛撃し、杜会の敗壊を暴露したるは、一に己れが志望を妨げられたる復 麟たるに外ならず。これを要するに源内の才気をもつて、薬坊主の地位に安んじ、月俸四口銀十 枚の小禄に甘んずるものにあらず。けだし他日の立身出世を期して、しばらく時節の到来するを 待ちしのみ。しかるに時節は到来したれども纏綿たる情実は、彼を一生日蔭のものになし畢《をは》んぬ。 後年に至るもこの情実は解けざりしにや、人ありて源内に仕官を進むるものあれば、讃州侯にも 仕へざる由を告げて断り、戯作の上にては放言して、女は美悪となく宮に入て妬まれ、士は賢不` 肖となく朝に入て悪《にく》まる、浪人の心易さは一箪《いつたん》のぶつかけ、一瓢《いっべう》のこなから、恒の産なき代りに. は主人といふ賛《むだ》もなし、僅か教化的《はちぱうず》の報謝米ほどにても、知行をとれば飯粒が足の裏へ粘り着い て自由にならず、行きたいところを経巡りて、いやな所は茶にしてしまふが身体の薬なりといへ り。これ実は表面を粧ふ酒々落々のみ。一端受けし小禄のために束縛せられしことの、いかばか り心外なりしかは、言外に溢れて痛切なるものあり。されどもこの不遇は、かへつて源内をして 有益の事業を成さしむるに利益ありしことは疑ふべからず。殊に資本は、窃《ひそか》に田沼意次の給する ところなりきといへば、この点には何不自由なかりしが如し。 第六 工 業  宝暦十四年明和と改元、時に源内三十六歳、多年研究の結果、すなはち本草学及び和蘭本草を 応用して、種々器械を製作せり。中にも火洗布《くわくわんぶ》はその原質石綿なり。『先哲叢談続篇』によれば、 その材を武州秩父山に採れりといふ。源内が作りしは香敷《かうしき》なり。そもそも火涜布にて香敷に製す れば、銀葉雲母《ぎんえふうんも》にまさりて質和かなれば、火気やうやく通るが故に、香気すこぶるおだやかなり といふ。南畝の筆記には、明和元年の春二月中旬、御勘定奉行一色安芸守につきて幕府に献じ上 覧に入ると。この年また和蘭人江戸に参向しければ、官儒青木文蔵が対話の序《ついで》をもつて、これを 和蘭人に見せけるに、彼等も大いに歎賞せしとぞ。  さて同年十月中旬、幕府よりは香敷に製したる火洗布をば長崎へ送らしめしに、十一月下旬、 長崎より清人の呈状来れる由にて、その写しを源内に給はれりといへども、委《くは》しきことは知るべ からず。されば清人より馬乗羽織にたさんとて、幅二尺四寸長九尺一寸なる布を望みけれども、 大なるものは織ること能はず、大抵三四寸のものに限れりといふ。「火涜布|隔火《かうしき》」包紙の銘に曰 く、   火涜之布 自レ古有レ名 彼妄造レ説 臆度意量 木皮斯調   鼠毛南荒 或果ソ証レ理 謂二伝者妄一津漠造レ物 寧可二推窮一   陽中有レ陰  陰中有ソ陽  入レ火不レ化  柔能制レ剛  昔彼西戎   今我東方  織二成素縷一 週以銀鍍一 一片隔火  百注襯レ香   書堂清供 繍房風情     明和甲申秋八月           大日本讃岐  鳩渓平賀国倫創製團團 右は翌年梓行の『火洗布略説』中に載せたり。この火洗布は、幾個も製し、諸所へ出品せしも のと見えて、『閑散余録』(明和七年、伊勢南川維遷士長著)には左の如く記したり。  本草を講究して物産採薬を事とすることは、向井玄升より始るといふ、……江戸に田村元雄、  平賀源内、これらの人みな本草に名あり、火涜布は和名をヒネズミ(火鼠)といふ、中華にて  も甚珍重せるものなり、もと蛮国の制にて紅毛人など持るものなり、紅毛にも是を製するもの  今は絶たりとなり、然るを平賀氏考る所有て初て之を製す、予甲申の歳(明和元年)浪華にあ  り、戸田氏が物産会に出て、まのあたり見ることを得たり、予が見たるは、竹取物語に火鼠の  香盆といへることあるを以て、香盆に作りたるたり、いかにも烈火の中に入るゝに、かつて燃  ることなし、真に奇品なり、其席上に一好事の人あり、熟々視て日く、是石綿なるべしと、是  叉具眼の人といふべし、平賀氏は肥後の熊本にて、其法を得て作り出せりとなん。  戸田氏とは旭山のことなるべし。明和元年の頃には、江戸の物産会大阪に伝はりて、同じ物産 会をここにも開き、源内の火洗布出品になりしと見ゆ。(戸田旭山は大阪の医者にて、源内もこの人に 本草を学びしことありといふ、事実はしらず)  火涜布は右に見えたる通り、大なるものはできず、されば『鳩渓実記』に浅草の米倉を掩《おほ》ひ、 もつて江戸の火事を防がんと建白したるが如く記するは、もとより誇大の言たること明かなり。  明和七年、源内は再び長崎に遊びぬ。この時大通詞吉雄幸左衛門に学び、電気器械を製す。讃 州平賀氏の家には、今なほ源内が製したるその器械を所持する由、その構造の大体についていへ ば、箱炭取やうの箱に、「フラスコ」(即ち酒瓶なり)の底をその口程に円く抜きて、その所へ心 棒を通し、箱の中に横たへ、競櫨《ろくろ》仕掛にてその心棒を回転すれば、「フラスコ」共にキリキリと 廻り、その硝子の面に金メッキしたる針線の先が接触して、摩擦力を発し、傍へに碁盤をしつら ひ、四本の足の下には、電気の逃げ去らぬために陶器の皿を受け、碁盤の上に人を上らしめ、今 頻りに摩擦力を発しつつある針線の一端を人の身体に触るる時は、パッと火を生ず。このこと当 時にありてはすこぶる珍らしき工夫なりしかば、人々奇異の思ひをたし、諸大名より招待せられ て、ほとんど毎日のやうにその器械を使用して見せ、室を暗くなし暗中に火を発せしめ、人目を 驚したりといふ。 『鳩渓遺事』に、医家桂川甫周少しく蘭書に渉《あさ 》れども、六七部を解して、能はざるところは常に 源内に質せしが、ある時、甫周「エレキテル」の製作を案じて、いまだその艦奥《うんあう》を窮めず、たま たま源内の来りしかば、甫周すたはち源内に謀ていへらく、この器過半はその法を得たれども半 ば得ず、足下もし嚢底の智恵を尽して、この器を作り試んには、予が得たるところを告げんと、 源内いふ、小子願くば力を娼《つく》して工夫せん、甫周さらばとて云々と語るに、源内は要点を記Lて 家に帰り、その後数日家に籠居して工夫を凝らし、つひに「エレキテル」を構造したりと見えた り、もつとも甫周の弟森島中良は鳩渓門人なれども、甫周が鳩渓に蘭書を学びしや、また「エレ キテル」を甫周より授かりしや、二者ともに事実を得ず、鳩渓は吉雄幸左衛門に長崎にて学びし こと、大田南畝の随筆にもしかいへり。 一当時この「エレキテル」の作用を目撃したるもの、器械仕掛といふことを知るものは稀にして、 餌概幻術の如く思ひなせるも多かりしとぞ。源内みづからこの器の効能を述べて口μく、  そもく此器は西洋の人|電《いなづま》の理にょりて考へ、一旦工夫はつけたれども、其身の生涯にはな  らず、三代を経てやうやく成就したりといふ、阿蘭陀《オラソダ》人といへども知る者は至て少く、固より  朝鮮、唐、天竺の人は夢にも知らず、況《いはん》や日本開開以来|創《ロじ》めて出来たるに於てをや、其効用は  人の体より火を出して病を治するなり云々。  同八年、平賀源内、上書して天草島の陶土を以て、海外輸出の磁器を製せんことを乞ふ。  揖斐十太夫様御代官所 肥後国天草郡深江村産 一 陶器土《やきものつち》                            壱 包.  右之土天下無双之上品に御座候、今利《いまり》焼、唐津焼、平戸焼等、皆々此土を取越焼候、其内今  利、唐津は、日本国中|普《あまね》く行渡、唐人、阿蘭陀人も調帰候由、平戸焼は御献上に相成候故、  御領主より厳敷《きぴしく》被仰付、自由に売買相成不申由、若《もし》売買仕候はゞ、唐人、阿蘭陀人も大に望  可申由に御座候。 一 天草にても近年高浜村庄屋伝五右衛門と申者焼覚候得共、細工人不宜候故器物下品に御座  候、私存付候は天草か長崎にて功者成職人を呼集、器物之格好、絵之模様等差図仕、唐、阿  蘭陀之物好に合候様に工夫仕候て、段々職人共を仕込候はゞ、元来土は無類之上品に御座候  得ば、随分上焼物出来可仕奉存候、焼物之儀荒方鍛煉仕罷在候、其上先年讃岐にて私取立候  職人共之内、器用なる者共御座候得ば、右体之者共呼寄、外国より相渡候陶器手本に仕工夫  を加へ候はゞ、随分宜焼物出来可仕候、平戸焼など随分奇麗には御座候得共、未だ俗を離れ  不申候、今利、唐津は勿論之儀に御座候、今少之事にて風雅に相成候得共、片田舎之職人共  故、古より致来り候を漸仕覚候迄にて、新に工夫所は不参、唇唐物、阿蘭陀物を傍に置写候  ても、心に風流無御座候故、自然と下品に相成候、畢寛天草之焼物土は、南京焼、阿蘭陀焼   之土よりも抜群宜御座候得共、形不風流に御座候故、日本人外国物を重宝仕、高価を出候、   若日本之陶器外国に勝れ候得ば、自然と日本物にて事足り候、尤近きを賎み遠きを尊び候は、   常之人情に御座候得共、既に刀、脇差又は蒔絵物之類、日本が万国に勝れ宜御座候故、日本  .物にて事済候}陶器も日本製宜さへ御座候得ば、自然と我国之物を重宝仕、外国陶器に金銀   を費し不申、却て唐人、阿蘭陀人共も調帰候様に相成候得ば、永代之御国益に御座候、元来   土にて御座候故、いか程遣し候ても跡之減候気遣も無御座候、ケ様之事は其廻り遠き様なる   事故、表立押ては難申上御座候得共、成就仕候得ば御国益にて御座候、若成就不仕候ても私   一人之費骨折のみに御座候間、少も有余御座候得ば、内々にて天草へ参、様子次第にて心覚   之職人共呼寄、少々宛も製し出度奉存候、以上    明和八年辛卯五月                      平賀源内團  源内の建議は採用にたりしや否を聞かず。さはれ本邦産出の陶器に改良を加へて、外国へ輸出 すべしといひ、刀、脇差または蒔絵物之類は日本が万国に勝れて宜しきといふが如き、彼我識別 の判然として、あれにも心酔せず、これにも固着せず、実に着眼の非凡なるを証すべし。  なほ源内の着手せし事業にして、世に伝はれるは、安永元年に仙台侯の聴《へい》に応じ、かの地に赴 きてその封内の鉄山を調査し、また、秩父山より炉甘石《ろかんせき》と称する鉱物を発掘して、同三年荒川に 舟を通じ、これを江戸に運送したりといふ。(因みにいふ、右炉甘石は炭酸亜鉛にて、製煉の後亜鉛とな        'ささ          うぬぽれかがみ るべき原料なりと)些々たる業にては、俗に自惚鏡と称する硝子板に水銀を塗りて製する懐中かが み、金唐革《きんからかは》・紅革、あるひは伽羅《きゃら》の櫛(銀むね象牙の歯、月に郭公などの細工あり)等、みな源内が創《はじ》 めて製せしものたりαこれを要するに、源内はもと本草家に出で、中頃蘭学を修め、ここにほぼ 泰西の物理に通じ、これをひとり卓上の空論にとどまらしめずして、一々実地に応用し、不屈不 挽、本邦いまだこれたきところの器械・物品を製作して、かの舶来の珍奇に代へんとし、あるひ は鉱物を採掘して国益を計らんと企てたり。その事業多くは成らずといへども、そもそも本邦泰 西丈物の輸入は医術にはじまり、兵術・政学の如きは更に後に属す。しかれども今より百五十年 前、医術の漸く本邦に入るの際に当り、いまだ誰れも着眼せざる工芸技術に心を潜め、大いにそ の業の発達を図りしは、実に平賀源内の功といはざるべからず。 53 平賀源内 第七 放屍論 およそ杜会に伴はるる事業は、 著述にまれ、工芸にまれ、 何に限らず、杜会の智識より先進す ること、多くとも十歩を超ゆべからず。もし百歩ならんには、杜会はつひにその事業に追随する 能はず。かへつてこれを奇怪のこととなし、自己の無智を顧みず、他を罵るに至るべし。昔より 偉人志士のあるひは新説を唱へ、あるひは新事業を起し、世益を図らんとするや、妨碍《ぱうがい》百出、社 会はその進行を止め、夷狭《いてき》邪道と目し、これを世の外に放逐|損斥《ひんせき》し、偉人志士をして、彼等の犠 牲たらしむる例少からず。  源内の場合もまたこれに類す。もとよりその業は成功せざるが多し。彼が国益と大言したる下 には、鉱山の如きむしろ計画のみにして止み、出来《しゆつたい》したるものは僅かに三四寸ばかりの香敷の火 洗布、「エレキテル」その他櫛・金唐革・自惚鏡なれば、工芸技術のいまだ尊重せられざる封建 時代にありては、これが新奇の意匠工夫の巧妙なると、その発明の機智敏才とを察せずして、あ るひは小細工人の如く見倣《みな》すもあれば、あるひはその器物の奇怪なるに驚き、これ私利を貧るか の品玉師・大山師の好策と嘲弄しければ、源内は彼等が無学にして、理に通ぜず、かへつてこれ を証《し》ふるの甚しきを憤り、『放屍論』後編を著はして、大いに世間の無智蒙昧にしてなすなきを 叱責したり。  理にくらき輩は燧《ひうち》より出る火は常となる故怪まず、ゑれきてるより出る火は、飯綱幻術の様に      ` からくり                                 かたぐ                 すい  あまい  心得、叉は関振手づま人形と一つ事に覚え、慰に呼で見る労も多き中に、天丈暦数酸も甘も呑 込だ親玉をはじめ、理に通達せる人々は、問に骨ありて答るにはづみあり、人の分量智慧の程 をしらざる人は、僅の芸をいひ立に、口過する浪人者や、日待、月待に召るゝ雑劇の芸者同様 に心得たるぞ苦々し、凡天地の間に火程尊き物なく、其火の道理を目前に喩す故、ゑれきてる ほど尊き器《うつはもの》なし、又吾が日本神武帝より今年まで二千四百三十九年、死で生て入替る人其数 かぞへ尽されず、其大勢の人間のしらざる事を持んと、産を破り禄を捨、工夫を凝らし金銀を 費し、工出せるもの此ゑれきてるのみにあらず。是まで倭産《わさん》にたき産物を見出せるも亦少から ず、世間の為に骨を折ば、世上で山師と識《そし》れども鼠捕る猫は爪をかくす、我よりおとなしく人 物臭き面な奴に却て山師はいくらも有、人は芸を以て山の足代《あししろ》とし、我は山に似たるを以て芸 の助とす、顕るゝと隠るゝとは、讐ばあん餅とあんころ餅の赤小豆《あづき》の如し、まこと金をほしく 思ふて、是までの精力を一図に金銀計に凝て、一生|鰻鼠《むぐらもち》見る様た親父と成、生爪はもがれて も握たる金は放さず、徒然草にある通り、仮にも無常を観ずべからず、人は悪かれ我善かれ、 理義も糸瓜《へちま》も瓢箪《へうたん》も、沈香《じんこ》も焚《たか》ず屍も撒《ひ》らず、上手名人といふは扱置、下手といはるゝ芸もな く食て尿《はこ》して寝て起て、死だ所で残る物は骨と証文ばかりなりといふ様なわかちもしらず、 |弥出《いよいよ》るなら無間の鐘の、蛭《ひる》は扱置|腹蛇《まむし》や竜盤魚《いもり》を糞でこくせうに煮て食せても、食気に成て ためる時は、盲でさへも出来る金、出来ざる事もあるまじく、近い例はゑれきてるを両国か浅  草へ見せ物に出す時は、押へ付たる大金、豪猪《やまあらし》、綿羊《めんよう》なんどの例《ためし》もありと、すゝむる者も多け  れど、陰陽の理を尽せし物を、勿体なしと合点せず、されば曽子は飴を見て老を養ん事を思ひ、  盗妬《とうせき》は錠を明ん事を思ふ、それ相応の了簡、我は綿羊を見て、日本にて羅紗《らしゃ》、らせいた、ごろ  ふくれん、じよん、とろめん、へるへとあん、さるぜ毛既類の毛織を織らせ、外国の渡りを待  ず、用に給せんと心を砕き、人は手短に銭をせしめんと計る、いかに物いはぬ畜類じやとて、  毛を織て国家の益にもなる物を、らしやめんなんどあてじまいな名をつけ、絵具で体を塗りち  らし、引ずり廻して恥をさらす、綿羊の手前も気毒なり、世にあろ人は銭をほしがり、銭なき  ものは意地をはり、渇しても盗泉の水を飲ず、.道理で南瓜《かぽちや》が唐茄《とうなす》にて、いらざる工夫に金銀を  費す故に銭内なり、夫、熟《つらつらお》 惟《もんみれ》 ば、骨を折て識るゝは、酒買て尻切るゝ、古今無双の大だわ  け、屍の中落とは是ならん、けふよりゑれきてるをへれきてると名をかへ、我《ヂ》も三国福平が弟  子となり故郷をかたどりて四国猿平と改名し、庇撒芸《へつびりげい》の仲間へ入、芋連中と参会して尻の穴の  あらん限り、撒り習はばやと存ずるなり、  そもそも『放庇論』前編は、その頃曲庇の名人花咲男を仮りて、時弊を論じたる戯作なるが、 源内は唯一無二と尊信する火の理にょりて作り得たる「エレキテル」をば、尾籠なる放屍に託事 して「ヘレキテル」と号《なづ》けしたど、憤怒の甚しかりしを見るに足るべし。前にもいへる『放庇 論』後編は、『志道軒伝』に対し、源内が生涯の大議論にして見るべき点多し。彼は世人の無智 怠慢を罵りて、「馬の立合狗の芸仕込に馴れ教に順ふ」に、人とし禽獣にもしかざるは何事ぞと 叱責し、また「智恵ある者智恵なき者を議るには馬鹿といひ、たわけと呼び、あほうといひ、べ ら坊といへども、智恵なき者智恵ある者を議るには其詞を用ゆること能はず、只山師くと議 る」。もとより戯言とはいへども、多少知と無知との軋櫟《あつれき》といふ観なき能はず。『放庇論』一編は 僅かに一小冊の戯丈なれども、つらつら当時の形勢を観察すれば、二百年来我が国の閾を出入し たる泰西の新思想が、初めて源内の頭脳に宿りて、固有の旧思想と衝突をはじめたるものとも見 ゆべし。されど大勢はいまだ新思想の味方にあらざれば、源内の説は容れられず。杜会は一源内 を相手にして、盲目撃《めくらうち》に打ち、その新思想を排斥したり。源内は大勢に抗する能はず、一敗泥に |塗《まみ》れてまた奮起する能はず。 第八 物理主義 『放屍論』後編中、源内が天地自然に対する自説を述べたる一節あり。 その大意にいふ、  「エレキテル」より火の出る道理は、一天四海引くるめての大論にて、一朝一夕に論じがたし。  よく近く磐を取りて教へんため、さてこそ庇論に及びたり。それ仏法に地水火風空を五輪とい  へども、空と風とは体用にて、つまるところは四大なり。その中火が万物造化の座元にて、そ  の本を太陽と号け、その末を火と号く。火は四大の主にして人間も同じくこの四大より成れば、  四の物皆体中にあり。されば人間の体は小天地なり。霊魂は天地における日輪の如く、又燃る  火の如し。この日輪ましまさざれば、土は皆本体の石、水は皆本体の氷なる故、草木を生ずる  ことなく、魚竃を育すべき道なし云々。  これを初代|希臓《ギリシア》哲学者、物理派のヘラクライトスが火をもつて万物の大原とたし、生滅変化を 起す力なりといへる説と比するに髪髭《はうふつ》たり。また氏が物の変化する状を説明して、火その熱を失 へば変じて水となり、なほ更にその熱を失へば地となるといへると。源内が日輪ましまさざれば、 土は皆本体の石、水は皆本体の氷となるといへるも、その説明の方法こそ異なれ、万物熱気を失 へば潤沢膨脹の性を失ひ、自然と固体に変じ行く状態を示せるも相似たり。けだし源内は和蘭の 本草、すなはち物理学を研究するの間、しらずしらずそO説に薫陶せられたるものなるべし。  されば源内は、神に天照大神、仏に大日如来、皆太陽の別名なりと主唱して、神仏両部の説を 論破し、太陽を活仏活神の霊体と見倣したる謬信を斥《さ》け、自然に活力を有する物素として説明せ んと企て、太陽の活力あるは、燃ゆる火の活力あるが如し、すなはち太陽は四元の一の火なりと 説けり。更に一歩を進めて、小宇宙なる人間の霊魂もまた、大宇宙における太陽の如き物素なり といふ。『志道軒伝』に、  それ仏《傍点》法は寂滅を教とし、地獄極楽なんど名を付けて、愚痴無智の姥娼《うぱかエ》を教ふる方便にして、  智ある人を導くべき教にはあらず、人は陰陽のニツを以て体をなす、讐ば石と金ときしり合て  火を生ずるが如し、火の薪ある内は人の一生の如し、火消る時、跡に残る所の炭は即ち死骸な  り、其時消えたる火地獄へ行くや極楽へ行くや、汝此行衛を知らば地獄極楽ありとすべし。  たとへ小宇宙なる人間の霊魂を火なりとは断ぜざるも、人の活動するは、ある火の如きものの 作用にして、これすたはち霊魂なり。されば霊魂は不死不滅のものにあらず、四大空に帰しては、 何物をもとどめずとい》にありて、仏者の如く輪廻の説もなければ、因果の理もなし。この物素 がいかにして人間に生命を与へ、人間の活動を司るかは、説明を与へず。ただ漠然と石と金との かねあひにて火の出づる如く、陰陽は自然とかくの如き徳性を具へたるものと思惟したるが如し。 「用ゐれば鼠の子も上笑竿《かるわざ》をおぽえ、冊ゐざれば虎皮ノ揮も地獄の古着店に釣さる」、こはすこ ぶる譜誰の言に似たれども、源内の意見はここにあり。花咲男の尾籠なる業を論じて『放屍論』 を著はしたるも、その無用のものを利用したるを称したるにあり。綿羊をらしやめんと称し、織 物にすべき毛を彩色して、徒《いたづ》らに見せ物にしたるを罵りたるも、その有用の部分を没したるによ れり、天草の陶器土につき上書したるも、この主意に出たるに外ならず。源内の考へにては、す べて物の働きは、ただ用ひると用ひざるとの間に存す。物はみな死物なり、その活動するは他の 刺戟によれり。たとへば天地間の森羅万象は、太陽の活力にょりて生存するが如し。その大活力 は火なり、火以上は説明せず、されど源内はさながら機械的に運転するものと信じたるが如し。 これ物理学者の真面目といふべし。  されば源内の眼中には、すべて物の外に不可思議力の存在するを許さざるなり。したがつて彼 の眼には妖怪奇異の相出現せず。晩年に至り盲人の凶宅を購ひて顧みず。『木に餅の生弁』『菩提 樹之弁』等、愚痴無智の迷妄を嘲りたるもの、みなこの根抵に因《よ》らずんばあらず。ゆゑに源内は、 すべて五官に接触するものにあらざれば、宇宙間に存在する物なしと思量し、五官の第一段に横 はれる迷妄謬信の雲霧を払ひたり。これ一般の知識より高き二と一段、されどその弊やただ道理 をもつて世を支配せんとし、道理以外に不可思議の力あることを信ぜず、あはせて信仰をも失ひ たり。 第九 道 義  性行は多くその人《傍点》の道義に起因するものなれば、荷《かりに》も性行を論ずる前には、まづその道義を論 ぜざるを得ず。『飛だ噂の評』は、いささか源内が道徳に関する説を窺ふに足るべきものあり。 けだし源内は平常「大丈夫事を為す、時に臨んで狐疑《こぎ》猶予すべからず」といへる如く、果断勇決 の気質に富み、またすこぶる冒険的好奇心を有す。されど彼は決して無謀の人にあらず。常にま た「小善たりとて捨つべからず、小悪なりとてたすべからず」と自ら戒しむところあり。一言|掩《おほ》 へば源内は極めて勘定高き性質を有せり。しかれども寝ても起きても飯と汁と香の物ばかりでは、 辛抱が出来ず、叉親の呼んでくれた女房ばかりにて満足してもをられず、甘いものが食ひたくな るはお定まりの人欲なれば、時には踏はづすこともあれど、同じ踏外しでもすることとせぬこと とあり、と論じ、為すべからざる箇条を挙げて曰く、  予若年の時漢書を読み、高祖関中に入て秦の苛法を去る、法三章を立つ、我も自ら法三章を約  して血気似齋〜す・盗・博亦キー鶴だなワ・此三つの悪しきことは小児もしりたる事なれども、  我しらず犯すこと有るたり、常に心を禁むべし。 と、右門人某に示し、平常の心得方を教へしものといふ。源内もこれに註釈して、「善の善たる 教にあらず」といへり。されど「いかなる扁柏《ひのき》の上材木でも初手から鉋《かんな》は掛られず、先づ手斧《てをの》に て荒削り、盗、博変、密夫の朽《くさり》さへ入らざれば、何時でも鉋はかゝるなり」といヘるを見れば、 盗・博突・密夫の三点を犯さざるをもつて、道徳の根抵と定めたるは明かなり。而してこの三ヶ 条は国法の禁ずるところ、源内の戒しむるところ、二者同点にありとすれば、その常道はすなは ち法律と同じ平面を保つ訳なり。道徳としてはもとより高き標準といふべからず。  そもそも有形世界を真実体と認め、人間は是非現世において満足を得ざるべからず、すなはち なるべく幸福に存在せざるべからず、とは源内が人生に対する意見なり。されば国家の法律さへ 犯さざれば、吾人の安寧を害せらるる恐れなし。吾人の安寧を保つは既得の幸福を保護する所以 なれば、源内の如く幸福なる生活をもつて、人間存在の第一条件とする人にとりては、法律に触 れざる限り品行を修すれば足れり。故に右三点に道徳の立脚地を定めしは異とすろに足らず。  かくの如く道徳の基礎定り、既得の幸福安全なることを得れば、次には進んでなるべく大たる 幸福を選ぶことを努めざるべからず、これ源内が終世奔命に労れし所以なり。されど幸福の選択 は容易の業にあらず。けだし幸福にも種々-あり、目前の幸福あれば→他日の幸福あり、目前の幸 福小なれども、他日の幸福大なるもあり。種々数多の中より、ひとり最大の幸福を選ばんとする は、極めて困難なる業といはざるべからず。しかれどもこれを等閑に附して、幸福の選択を忽《ゆるかせ》に せば、人間の不幸これより大なるはなし、これ吾人終局の目的たらんや。故に吾人は平常より心 に冷算を運らして小快楽を棄てて、なるべく大なる幸福を選ぶことに力を尽さざるべからず。こ れ源内の説と期せずして合するところなり。源内は常にこの冷算を行ひて、人生の目的を達せん と努めたるものなり。  大石内蔵介も遊里に在りては、面白き事世の風流の士とさのみ替る事なし、只敵を討つ事を忘  れざるなり、主親の敵のみ敵と思ふべからず、人々志す所、家業、芸術皆敵を持ちたり、討た  ずんばあるべからずと、行住座臥にこれを思へば、あちらの物よりこちらの称錘《ふんどう》が重き故、面  白き事になづまず、思ふ敵を討つと知るべし、興に乗じて酒を呑むとも、酒に乗じて興を呑む  事勿れ。  ここに敵といへるは、人々の為すべき本務を指したるにて、すなはち家業を励み、芸術を修め、 少しも油断なく、小康に安んぜず、小快楽に耽らずして立身出世を求むべし。けだし立身出世は 人生幸福の基本なればなり。これ源内の所説たり。  而して源内が生涯の事蹟を見れば、「国家の大益」または「世間の為」等の語をしばしばする にかかはらず、帰着するところは、汲女として一身の利益を営むにあり。その行動到底献身的事 業家と同じからず。己れの利益に反抗するものあれば、仮借せずこれを筆訣す。彼は利己主義の 道徳説を有するものなり。何時のことたりしか、世人の己れを山師なりといふを憤り、糠慨して 南畝に語つていへらく、  世人身の智計の足らざるを知らず、他人の智慧ある者を販して、山師々々、と呼ぶ、然れども  其の輩は概ね所謂《いはゆる》律義者にして、鞭策《べんさく》すれども前《すエ》まず、草木と同じく朽て混滅《びんめつ》す、貴《あに》大丈夫の  事ならんや、それ人は五鼎に食はざれば、五鼎に煮られんこそ本意なれ、古より和漢帝王、将  相公侯、皆山師ならざるはなし、成る時は帝王公侯、成らざる時は賊となり叛逆人となる、漢  皇、曹操、司馬艶《しぱい》、其の以下の帝王、我が本邦将軍宰相みな然り、成ると成らざるとにて、褒  販地を替る、豊人の遇不遇ならずや。  その大野心あるかくの如し。而して秩序・階級整然として乱すべからざるの世に、「我は治世 に育ちたれば剣戟を起さんは天に逆ふの罪あり、然れども芸を以て家を起さんと思ふ」といひて、 匹夫にして達し得べき芸術の範囲に駿足を伸べんとして、その大野心を抑制したるも、冷算の結 果、利己主義に基かざるはなし。かくの如く道徳の標準既に低うして、その行為の高尚ならざる は当然のみ。後に失望落胆の余り狂気して人をあやめ、終りを全うせざりしも、耐忍克己の徳性 を欠けるに因らずんばあらず。, 第十 性 行  源内はしばしば居を転ず。宝暦十二年の頃は、神田鍛冶町二丁目、不動新道の寓居にあり(藤 十郎新道ともいふにや)。明和四年の頃には同白壁町に住す。安永五年頃は、同大和町の代地細川 玄蕃頭屋敷前に住し、門前に一本の柳の木を植ゑ置きしといふ。深川清住町の住宅は、安永七年 の『飛だ噂の評』に別荘とあれば、居宅は同じく神田なりしなるべし。終に馬喰町検校の住みし 凶宅を購ひて移れり。これは安永八年の春の頃なるべし。  源内終身無妻、家には婦女を一宿たりとも置きしことなし。たまたま友人などの妻を姿らんこ とを勧むるものあれば、我れ今四方に家して帰する所を知らず、今更妻を嬰りて累を後に遺すに 忍びずとて、つひに聞かざりきといふ。されど書生を愛して常に六七人は家に絶えず。彼等のう ちには不遇の少年、または所縁なき老人などもあり。出羽国秋田の産にて福介といふは、久しく 源内につかへて実直のものなりしが、安永二年病に罹りてはかなくなりしかば、源内これを欄《あはれ》み、 己れが菩提所なる総泉寺へ厚く葬り、石碑を建て、その表に、「鉄肝道船禅定門」と戒名を鍍刻 し、後懇ろに弔ひけり。  源内は性来客を好み、来れば必ず厚遇す。ゆゑに当時名ある人士は勿論、芝居もの・偲儲師《くわいらいし》等 に至るまで彼と交際せり。その莫逆の友には平秩東作《へづつとうさく》あり。東作は立松東蒙、通称を稲毛屋金右 衛門といふ。もとは尾州藩士の子なり。少年の頃より流浪して江戸にさすらひ来り、生涯志を得 ずして四谷新宿に煙草店を開き、僅かに糊口を支ゆ。戯れにいふ、二本さしたる人と見れば、随 分いんぎんに敬ひて、仮りにも無礼をなすべからず、町人の無礼得のゆくことひとつもなし、憎 い奴とて切倒されずば、甘いやつとて借り倒さるべし、いづれにても怪我のもとなりと。東作は 狂歌を好み、戯作をもなして一世を調弄する、これまた一個の不平家たりしかば、源内とは同気 相求めて、さたがら水魚の交ありき。ここにまた大田南畝と称する粋士あり。性質洒落にして狂 詩・狂女に妙を得たること、世のあまねく知るところなり。これまた源内の友人にて、源内の事 蹟この人の筆記に存するが多し。そのはじめて南畝が源内に会見せしは、明和四年のことなりと いふ。『鳩渓実記』蜀山の加筆に左の一節あり、  予(蜀山)が平賀源内に初めて逢しは明和四年丁亥の秋也、四谷新宿煙草屋稲毛屋金右衛門は  内山資邸名淳時先生の門人にして知る人なり、内藤新宿へ尋ね行て、南条山人川名林助と云ふ  隠者に逢し時、祖挾の真蹟一幅古今|詩冊《しさん》を贈りしことあり、林助高野山に出立すと聞しゆへ、  右林助へ暇乞に行しなり、此時林助平賀源内方に寓居と聞て、神田白壁町へ尋行て源内にも初  て逢、夫より度々相見せしなり、寝惚先生丈集草稿を持参して悉くは読得ず、水掛論を読で聞  せしかば大に称歎せしなり、予も兼て源内が作の根無草、志道軒伝を見て面白く思ひ、其以前  に手づから写おきしなり。  時に南畝は十九歳、東作は三十七歳にして、源内は三十九歳なりき。この時源内は同文集に序 して、「鳴呼寝惚子乎、始可二与言二|戯家《たわけ》一已ム矢、語日、馬鹿不レ孤必有レ隣」と酒落たる詞あり。源 内が真面目の生涯の裏面は、これらの人々と交遊して、実に阿房を尽ししなり。  源内が下戸なりしことは、また南畝の筆記に見えたるが、夏など源内の技術を一覧せんとて招 待する人あれば、酒は好まず、馳走も無用たり、ただ身体の肥えたれば、なるべく涼しき所にお かれたしなど、その返事に申遣りしとぞ。色白く中丈にして少しく肥え、人品すこぶる好き人な りしといふ。若きうちより髪に白髪あり、人|紳名《あだかい》して平賀を、しらが源内とぞ呼びけり。  常に遊興を好み、劇場・花街に足を運ぶことしばしば、戯作の一部はその経験の結果なるべし。 しかし一書に、三十日十五日は北里の楼に遊び、書を楼中に携へ、著述をもここに草せしが如く 記するは誤りなり。源内は遊興おのづから度ありて流連せしことなしといひ、南畝の記には、「風 来山人芳町及び南方にのみ遊びて、北里の事は不通なりしが、箸紙客の替名をしるせば、丈には おのが本名をあらはしといへる語、山人の自讃なりき」と見えたり。かつ源内は遊女よりも野郎 を愛して艶聞あり。平秩東作の『二国連壁談《にこくれんべきだん》』といふ戯作は、源内が寵愛の優童芳沢国石がこと を綴りたるものにて、その中の人物内舎人鎌国またの名合派先生といふは、すなはち源内がこと なりといふ。この作敵討の趣向に出来、写本にて伝はれり。かかるところは源内も余人と異なら ず。やはり神田の兄貴《せなあ》にて、明和・安永間には、いくらもある江戸通人の模型なり。  源内が機智に富み、頓才の他に秀でたることは、既に蘭人の面前にて、智恵袋を解きしにても 明かなり。ある時のことなりき。柴野栗山、立原翠軒と借《とも》に散歩せしが、途次源内が住めりし近 辺を通りかかりぬ。栗山はかねて知人なれば、彼が家を訪づれんといふ。翠軒はその名を聞くと いへどもいまだ一面識なし、これよき幸ひと打悦び、栗山に紹介を頼みしに、栗山の日く、イヤ左 程熱心して見るほどの人物たらねど、ただ人品はすこぶる立派なれば一見の価値あるべし、学術 はなき人なりなど評しつつ相伴ひて、今日は御在宅にやと尋ぬるに、折しも書生取次に出て、栗 山等を案内せり。源内は夏のこととて数寄屋《すきや》の着物に絹の袴を着し、人品成程立派にして弁舌も また爽快なり。やがて源内は、近頃発明したる輪仕掛《ふいごじかけ》の火鉢を取出し、不女不武《よわからずつよからず》、程よき加減に 火を起し、自ら田楽を焼きて両人を饗応し、しばし雑談に時を費しけるが、栗山いふやう、戯言 に土左衛門といふは、溺死人の紳名なれども、女にもかくいうてよきか、とある人に問はれ、ハ タと行詰りしが、足下何か妙説ありやと。源内は思案するまでもたく、やはり土左衛門にてしか るべし、いかんとなれば世人好色家をさして、男女に限らず助兵衛といへば、女の溺死人を土左 衛門といふこと差支なかるべし、と咄嵯《とつさ》に答へしといふ(『鳩渓遺事』)。・また、南畝が『奴凧』に、  鳩渓義太夫本を初めて書きしは、神霊矢口渡也、三段目南瀬六郎由良兵庫の段は、曽我物語の  引き事にある杵臼鄭嬰《しよきうていえい》が事にて書きしなり、四段目の口、わたし守頓兵衛が所の丈を、はじめ  稲毛や東作よみて見て、此よしみね台《うてな》とも、今の六郷通りを来れば、矢口の渡しにかゝらず、  此言わけなくてはいかゞと難ぜしとき、直下に筆を採りて、六郷は近き世よりの渡しにて、其  水上は弓と弦、矢戸の渡しにさしかゝりと書きしを見て、さすがに東作も称嘆せしなり。 と見えたり。これらはまことに一例に過ぎざれども、源内が機智頓才に富めることを知るべし。 戯作は概ね一気呵成の女のみにて、絶えて推敵の痕《あと》を認めず。  源内は多才多能にして、諸芸に通じければ、一方よりは経済有用の士と称せられ、諸侯の家 老・用人などより、国利産物のことどもにて顧問を受け、また一般の人よりは、江戸第一の智慧 者と敬はれ、かつ任侠の性なりしかば、人の頼みによりて、種々工夫を運らし、彼等にしばしば 銭儲けの秘訣を授けしことあり。  かつて一商人源内に謀りていふ、小子商売に数年を費せども、さしたる金儲けをしたることな し、先生願はくは一奇策を授け玉へと。源内曰く、十人並のことをすれば十人並の儲けのみ、身 を捨ててこそ浮む瀬もあれといふ讐もあれば、並はづれたることを工夫すべし、幸ひ今冬期浅草 に市有りて、目出度ものを欲しがる時なれば、この機に乗じ、脱砂の陽物を作りて売るべし、これ も失敗せば江戸を退去する覚悟なかるべからず、それも江戸人の耳且は鋭ければ、彼等に認めら れなば、忽《たちま》ちひそひそ模造すべければ、与に秘して人に語るべからず、家の財を揮《ふる》うて金となし、 この物まづ二三千を作りて売るべしと教へたりしに、かの人謹みてその教への如くせしかば、大 いに利を得たりといふ。後までもこの物を市に販《ひさぎ》て縁起とせしは、実に源内の工夫に出でしとぞ。  また、安永七年、両国回向院において、信州善光寺如来の出開帳ありし時、総江源三郎・古沢 甚平などいへるものの工夫にて、飛んだ霊宝と称し、仏菩薩の形に作り、または鬼娘など観せ物 いづれも見物群集しけるを、烏亭焉馬《うていえんば》とて後には戯作者となりし男、その頃は大工なりしが、大 いに羨み、一日源内を訪づれて、このたびの開帳に何ぞ面白き工夫はなきかと、これもまた源内 の智慧を借りに来りしに、そはいと易きことたりとて、小き黒牛を一匹買ひ来れと命じければ、 焉馬詞の如くせしに、源内は一二夜過ぎてこれを焉馬に与ふるに、いかなる術や施しけん、牛の 背には南無阿弥陀仏と六字の名号ありあり之出現しぬ。焉馬大いに驚きかつ悦び、もとより才あ る男なれば、道理らしく縁起を持らへ、両国の観せ物場へ出せしに、観者|堵《と》の如く、焉馬また意 外の利を得たりければ、源内に厚く礼を述べ、その方法々尋ねけれども、源内笑ひて答へざりき。 (以上二件『鳩渓遺事』)  この外長崎に遊びし時、一門生の窮するもののために、古湯錘を鍍金《めつき》して売らしめたるなど、 悪戯に類する所行すこぶる多し。しかれども多くは他人のためにして、あるひは源内が工夫考慮 の一端を応用し、あるひはその化学作用を試みて、無智の人民を驚かせしのみ。その出入の徒、 かくの如く雑多にして、その所業またかくの如く奇なりしかば、世人よりは大山師・品玉使の親 分の如く目せられしは道理あり。また多少投機的事業家なることは争ふべからざるなり。 第十一 述懐の狂歌  高慢日に増長し不平ますます募る。けだし源内は、己れが才智に匹敵すべきもの天下になきを 信ずると同時に、また、己れの不遇に撫然たらざるを得ず。『天狗胴腹鑑定縁起《てんぐしやれかうべめききえんぎ》』を著はし、 陳皮も知らぬ医者と薬屋を無学文盲と罵るや、ある人これを開板する前に、その丈の幾分を削り 去て、世の嘲りを避くべしと勧むるものあり。源内答へて日く、  陳皮《ちんび》の事神農本草経には橘柚《きつゆ》と有、後世二物自ら別なり、或は方書に橘皮《きつび》と記し、陳皮、青皮  のわかちあり、然るを香川氏が薬撰に譜言《たはごと》をついてより、古方家と称する文盲医者ども、陳皮  を捨て青皮のみをつかふ、……習ひたくば教てやるべし、もし此悪たいを無念に思はゞ、薬屋  にもせよ医者にもせよ、遠い薬はさて置て、陳皮一味の事なりとも、わかるといふ人有ならば、  来りて我と議論せよ云々。  今日にありてはかかる露骨の筆法も奇とするに足らざれど、当時名聞にかかづらふ世に、その 人を指摘して、直戴に議刺《きし》す。漸く慢心昂上の兆を見るべし。しかるにこの頃に至り、源内はか ねて御勘定奉行松本豆州の顧問を受け、常にこれが参謀となり、奇計秘策を献じ、その身もまた 豆州を階梯とLて、青雲の志を貫かんと思ひしに、一事成る毎に世間源内を称せずして、豆州の 名のみ揚り、そのため豆州は官位も進みたれども、源内には及ばず、後には豆州かへつて彼を疎 んずるやうにたりければ、源内は憤癒に堪へずして、つひに失心するに至れり(『鳩渓遺事』)とい ふ説あり。  按ずるに松本豆州は、勘定奉行として田沼を助け、新法を施行して聚敏《しゆうれん》を事とせる人、源内こ れと密接の関係ありしものか。そはいづれにもあれ、源内これまでにしばしば仕官を勧められし ことあり。ある時館林侯二百石にて源内を召抱へたき旨、人を介して申入れられしに、源内答へ ていふやう、思召は難有く候へ共、私事旧藩の高松へも仕官仕らず、よりてこの儀は御免を蒙り たしと程よく断りきといへば、この場合に至り地位の得られざりしを失望すべき理由なし。ただ し寵遇春顧を蒙りたる人に、今や我が才能を妬まれ、かへつて疎外せられしことを遺憾に思ひ、 激怒の余り喪心に至りしは事実なるべし。  これより先き源内は、長崎より伽羅木《きやうぼく》を取寄せ、菅原櫛を細工したること前にいへり。この櫛 の意外に流行して、源内大いに利を得たりしかば、木室卯雲《きむろばううん》といふ人(幕府の御徒士目付より御広 敷番頭に進みたる狂歌の名人なり)、戯れに源内に狂歌を送りしことありしと見え、その返事に送り たる狂歌とそのはしがきとを、『放庇論』後編の巻末に附したるが、左に、  用ゐれば鼠の子も上尖竿《かるわざ》をおぽえ、用ゐざれば虎皮ノ揮《ふんどし》も地獄の古着店に釣さるとは、とつと  昔の唐人の寝語《ねごと》、真実で呵《しか》らるゝより座たりに誉らるゝが快《こしろよき》は人情なれば、虚言《うそ》と追従軽薄  をいはねば、人当世を知らぬといふ、抑《そもく》此当世といふもの今ばかり有にあらず、祝舵《しうだ》が俵有  て宋朝が美あらずんば難乎《かたひかな》、今の世に免れんことゝあれば、昔より有来りの当世にして、八百  蔵が助六は柏莚が助六なれども、人今更の様に心得るも片腹いたし、我も此当世をしらざるに  はあらねども、万人の盲より一人有眼の人を思ふて……只及ずながら日本の益をたさん事を思  ふのみ、或は適《たまく》大諸侯の為に謀りし事ども、国家の大益なきにしもあらざれども、狡兎《かうと》死し  て良狗烹《りやうくに》られ、高鳥尽て良弓|蔵《かく》る、細工貧乏人宝、鳴呼薄いかな、我|耳垂珠《みエたぶ》と悟を開き、露命  をつなぐ営《いとなみ》に、当時賎しき内職にて其|糟《かす》を舖《くら》ひ其銭をせしめんと思ひ付しを、早くも卯雲木室  君に尻尾を見出され、おくり給はる狂歌に、   酔て来て小間物見せのお手際は仕出しの櫛もはやる筈なり  実《げ》にや己をしらざるに屈して、己を知るに伸るとなんといへば、此御答申さんとて、わがまゝ  八百を書ちらす、固《もと》より己を知らざる人に見せるにはあらず、嵐音八が日、ア・気が違ふたそ  ふな、   かゝる時何と千里のこまものや伯楽もなし小づかひもなし                                 風来山人誌  つらつら源内の生涯を考ふれば、一に利己の働きといふべし。そもそもこの世の存在に始り、 存在する以上はたるべく幸福に生活せんと欲して仕官を求め、これを得んがために、芸道・学 問・技術を修め、これを悉く己れの目的を達せんとする手段に用ひ、その本領とする工芸も、美 術的細工も、戯曲著作も、源内にとりてはただ己れを利するの方便たるに過ぎず。なほ一生涯妻 を取女らざりしは、その理由累を後に残さざるにありといへども、功名を好む人往女にして独身者 あり。今に至りてその憤愚を慰むる愛の力なく、その断腸を縫ふに由なきは悲しからずや。  万人の盲目と世間を見限りながら、万一を僥倖して一人有眼の人を思ふは、執着の深きものと いはざるべからず。しかれどももし人間唯この世にのみ存在を求め、己れ一人の幸福を計らんと すれば、勢ひかくの如くならざるを得ず。「ア・気が違ふたそふな」これ決して戯言と見るべか らず。けだし発作せんとする狂乱を意味する詞なればなり。 第十二 末  路  安永八年の春の頃にや、源内は馬喰町にて大なる家を求めて住まへり。この家の前の主人とい ふは、盲人なれども欲深き男なりしかば、世にも悪《にく》むべき高利貸を営み、不正の利を貧りて暴富 を致せしものなるが、つひに事発覚に及びて処刑せられければ、その頃この家に毎夜幽霊顕れて、 「ここにありしが見えずく」といひつつ、その盲人が金を尋ぬるなどいひ触らしければ、その 家不吉となりて久しく売れず。値段次第に下りしを、源内はよき買物なりとて人々の諌めをも用 ひず、件《くだん》の凶宅を購ひ、やがて移り住みたりしに、いささかも怪異のことあらざりしが、後半歳 を出ずして、源内が身上に不慮のこと出来にければ、果して盲人の崇なりといひあへりける。(『作 者部類』)  されど源内は強《あなが》ちに奇を求めて、かかる不吉の家を購ひしにはあらじ。物理学者の常情として 誕妄の俗説に迷はされざりしのみ。また、怪異も源内が意気の鋭きに辟易したるにはあらじ。畢 寛この家に移りしには何も不思議はなけれども、まさに源内の心に異状ある時に際し、件の家に 移りて世の言の葉にのりしこそ口惜しけれ。  頃は同八年十一月一日、大田南畝その友人なる山内士訓が家に来りて歎息していへらく、さて さて一豪傑を失へり、平賀源内つひに失心して人を害せり、まことに気の毒なることをしたり。 今思へばこのたびのことこそあらめ(一月二月以前、ある人源内を訪づれ、紙を出して揮毫を請 ひしに、源内うべなひて、我れ近頃甚だ面白き絵の趣向浮びたれば、早速に画きて進ずべしと、 すなはち紙を展《の》べ、その座に画くところを見れば、岩の上に一人ありて溺《いばり》をたし、下にまた一人 ありて、易、の溺に汚されて坐して涕泣する状《さま》なりけり。やがて源内は筆をおきて、得意然として 喜色溝面に温る。その人画意の那辺にあるかを解し得ざれども、源内は常に人の意表に出ること 多ければ、恐らく深き寓意のあることなるべしと、携へ帰りて考ふること数日にして、つひにそ の意を得ざりしが今このことあり。さては狂乱の萌《きざし》既にかの時あらはれたるものにや、それにつ けてもあたら奇才を失ひしは、歎息の外なしと語りぬ(『鳩渓遺事』)。右は源内が失心したる前兆 ともいふべきか。  さて源内が何故に人を害したるかは、その理由|区々《まちまち》にして一定しがたし。まづ『作者部類』に ょりて記せば、  鳩渓が葱《あやまち》て人を害したる其故は、一諸侯当時別荘を修理し玉ふ事あり、出入の町人に課せて、  土木工匠の費冊まで計られしに、思ふに増て多かりければ、兼て親しく参りぬる鳩渓に、其|承《うけ》  課《おひ》書を示して其意見を問はれしに、鳩渓答て云ふ、此儀|某《それがし》に命じたまはゞ、此積り多寡三が  一にて成就すべしと申すに式り、去ば之て件の作事を鳩渓に課せんとありしに、始より其事を  承りたる町人、鳩渓をうらみ意趣を述て頗る争論に及びしかば、其家の役人等扱ひて和睦をと  とのへ、鳩渓と其町人と相倶に修造をなすべしと命ぜられたり、是によりて、鳩渓が宅へ其事  を掌る役人と、かの町人とを招きて、終日酒をすゝめけり、其折件の町人算勘の己れといたく  異なる所以を問ひしに、鳩渓答て、そは吾秘事なれども、かく和睦したれば隠すべくもあらず  とて、書冊を取出し見せ廿るに、此度の修法を詳《つまびらか》に記したるにて、讐へば此木石は何方より  云々の便りに、云々して取よすれば、費を省くこと云々、工匠も云々すれば日数幾日を減じて  云々の利分あり、君にも亦かばかりの費を省く、故に上下の利也といふよしを具にしるしてあ  りければ、件の町人骸嘆して、言下に感服したりける、斯て日は暮更閲けしかば、かの役人等  は辞して屋敷へ返りぬ、其件の町人は酩酊して立も得ざれば、そがまゝ臥して是を知らず、鳩 渓も痛く酔しかば、席をも去らで酔眠しつゝ、暁がたに及び、眠り覚てあたりを見るに、鰯《さしさ》に                いぶか              !       つひ 件の町人に見せたる書冊なし、訪りながらあちこちと隈もなく尋ねしに、寛にたづね得ざりし  かば、さてはかの町人が盗みたらんと疑ひて、熟睡したるを呼覚して云々と詰り問へども、素 より知るべき事ならねば、とにかくと陳ずるを鳩渓は聴ずして、言葉たゝかひつのるまゝに町  人を研《き》りかける、研られて一声あと叫びつゝ、外面ヘ逃去りしを追かくれども及ばざりしかば、 生べからずと思ひしか、覚期を究め家にかへり、調度なんどを取かたづくるに、ぬすまれたり とおもひし書冊、手箱の内より出にけり、是にいよく短慮の失を悔ゆれども、甲斐あらざれ ば、自殺せんとしたるほどに、門人井隣人等このよしを聞き、集ひ来て取とめ、遂に公訴に及  びしかば、やがて獄につながれしに、自殺せんとしたる時に、柳《いささ》か傷付きし所より、破傷風と  云ふ病にたりて身まかりぬ、安永中の事なりき。                 む,れもくらう 右『作者部類』の説は、高松の家宰牟礼黙老が『聞まゝの記』の大意を摘したるものと著者は いへり。この説に左祖《さたん》せしものは、片山沖堂が『平賀源内伝』なり。その一節に曰く、 蓋源内為二某侯一営二策別業→与二一商人一共レ之、風波忽起、遂殺二其人而{事出二註誤→源内亦自裁 未レ殊也、隣保救γ之、即日下レ獄、未レ盈二三旬一病レ傷而死、実安永八年乙亥十二月十八日也云々。 著者は某侯に註して「或日田沼侯意次也」といへり。而して右は全く前説に拠りたるものにし て、片山沖堂もまた讃州の人なれば、高松藩にてはこの説最も勢力ありしが、次には『作者部類』 の著者の説たり、 記者云、亥年平賀鳩渓が、人を害して獄に繋がれたりしといふ、風聞のさはがしかりし折は、  己れ十三歳の冬なりき(曲亭馬琴は明和四年に生る)、当時の街談巷説に平賀源内は、親しき友と  雛ども、著述の稿本を見る事を許さず、然るにいぬる日、常に源内許りしたしく交る米あき人  の子某、源内の他へ出たる折に来りて、其かへるを待ほどに、机上に置たるを心ともなく開き  つゝ、時うつるまで閲せし折、源内家に帰り来て、其稿本を恣《ほしいまま》に閲せしを怒り筈めて、うち  わぶれども聞かず、矢庭に刀を抜き閃かして、したゝかに研しかば、手を追ながら逃れたれど  も、療治届かずして死ければ、源内は獄につながれたりといへり云々。  米屋の停を害したりといふ説は、員正恭の『讃海《たんかい》』にもあり。その説は左の如し、  平賀源内と云儒者……日時計、虫目鏡など和蘭の製を考へ作り出し、その巧み彼邦の者と影方髭  たり、一とせエレキテルセイルラソといふ器和蘭よりわたりたるに、源内工夫をこらし、其製  にならひて造り出し……一時権門諸侯に伝翫し、奇特なる事にもてはやされたり、其事にたの  みし鍛冶又之を推へ出したるを、源内と公事になり終に鍛冶屋入牢して獄中に死したり---加  様に奇工に心を砕き、聡明なる男なりしかども、いかゞ致せしにや、乱心して御勘定奉行松本 伊豆守殿用人某、無二の知友なれば来しを刃傷し、並に商家米屋久左衛門伜久五郎と云者同席  に在しを切害いたし、即刻源内入牢に及び、終に牢中にて病死せり、惜むべき事なり、是安永  八年十月の事|也《に》、此日去年かぢや牢内にて死せし日にあたれりとぞ。 更に後説を確むるに力あるは、『鳩渓遺事』に載せたる「神田久右衛門町の代地録の写」なり、 これは源内が人を殺害せし時の記録なりといふ。その大意によれば、 安永八年十一月廿日の夜、半兵衛店讃州の浪人平賀源内方へ、富松町蔵地孫右衛門店秋田屋久 左衛門伜久五郎といふ者、及び佐久間町松本十郎兵衛家中、丈右衛門といふ者両人、折ふし止 宿なしける所、翌二十一日子細は知れず、源内刀を抜きて突然両人へ手疵負せぬ、丈右衛門は 右手の栂指を斬られて裏へ逃れ出で、久五郎は頭の頂天に一刀あびせられて表へ逃出しが、源 内はなほも追かけ、長右衛門といふ者の前にて難なく久五郎を組伏せ、止を刺さんとせし時、  いかにしけん源内は仰向さまに倒れ、え起きざりし間に、久五郎は辛うじて鰐の口をのがれた り、源内は敵を失ひ已むことを得ず宿所へ帰りしが、久五郎は長右衛門の表に休らひしを、長 右衛門内へ入れ検使を願ひ、種々手を尽して療治しけれども口供の後直に落命に及べり、丈右 衛門は新道より佐久間町木具屋へ逃込みしかば其所にて検使を受けたりしとぞ、さて源内は人  を害せし答にて同二十二日入牢、子二月(安永九年)牢死、四月二日落着す。 と見えたり。『諏海』『代地録』はともに、刃傷に及びし原因を詳かにせざれど、久五郎といふは 米屋の停とあるにて、ともに『作者部類』の説と同一たることを証すべし。更に南畝の『一語一 言』にも二人を殺しとあれば、一人居残りたる大工を傷つけたる前説にあらざることいよいよ根 抵固し。而して後説を立てて前説を排せんとするには左の理由あり。けだし黙老は実直なる筆記 者に相違なきも、高松藩中に伝はりし風説は、源内がかつて同藩に対し面白からざる行動ありし により、同藩にてはこのたび源内の失敗を、某侯すなはち田沼意次との関係に起因せりと証《し》ひし ことあるを、事実と信じて記したるにあり。また、前説を立てて後説を排せんとすれば左の理由 あり。けだし田沼意次は当時最も権勢ある人たれば、人々揮つて事実の真相を曖昧のうちに没し たるを、そのまま聞き伝へて一の風説をなし、諸家の随筆に留まりしことこれなりと。たとへ故 意にその説を成さざりしとするも、すべて事実の真相を得がたきは、某史家が稿を火《や》き筆を投じ たる讐もあり、伝聞の区々にして定まらざる、実にかくの如きものあり。而して右のいづれに随 ふべきは、人女によワて見解を異にすべけれど、予は他に確たる証拠なき間はむしろ後説に傾き を有せり。けだし予の考へにては、前にいへりし如く、源内は一時は田沼等の寵遇を得たるも、 余りに才能あるためにかへつて、後には忌まれつひに疎外せられしを遺憾に思ひ、絶望の極失心 せしものと判断すればなり。しかれどもこの問題は今容易に決定しがたかるべし。  さて源内が牢死のことについても、紛々としてその説一定せず。就中《むかんづく》好事の説といふは、源内 は牢死せずといふにあり。けだし源内は田沼侯の寵遇ある人なれば、侯源内が人を害し入牢した ることを聞き、いたく気の毒に思ひ、いかにもして助命したしと思へども、重き国法を破ること 叶はざれば、ここに一計を案じ、源内をして癖薬を服せしめ、一時絶命の体に粧《よそほ》はしめ、さて役 人も内命を受けしことなれば、牢死と披露して彼を出し、窃かに田沼の領地遠州相良にかくまひ、 捨扶持五十俵を与へて永年かくまひおかれしが、田沼の幕府を失脚するや、源内は隠るるに所な く、出羽庄内に走つて生涯を終りしといふ。そは庄内に一基の石碑あり、碑面に選れる文字を見 るに銘にもあらず、戒名にもあらず、何とも奇怪の丈字あるをよくよく調ぶれば、これ源内が作 りし浄瑠璃中の文句の石に刻まれたるにてありき。さればその碑石は源内の墓ならんといひ、な ほ甚しきは田沼侯源内を蝦夷《えぞ》へ遺はしける故、現に同地に源内の墳墓ありともいへり。更にこれ らの説を確かめんとして、丈化の初め八十余歳の源内を現に見たるものありといひ、そのいづれ ,が是なるかを知らずと疑ひ、橋場総泉寺の墓に源内が忌日を安永八年十二月十八日とのみあれど も、老樗軒が『墓所一覧』には没年詳かならずとあれば、老樗軒は源内が牢死せざるを知りて殊 更にその没年を記さざりしならんかとまで、考証がましく臆測を遅《たくま》しうするものありて、源内が 牢死せざるの説は段々|尾鰭《をひれ》を生ずるに至りぬ。しかれども西郷南洲が生存して露国にありきとい ふ奇談が、一時|喧《かまびす》しかりしと同じく、畢寛その人を惜しむの余り、かかる附会の説世間に勢力 を得るに至りしなるべし。これらの誕妄を布《し》くほどの原因、源内が牢死の状すこぶる曖昧なりし にもよるべし。けだし源内が牢死せしみぎり、親類へ下し賜りし死屍を検せしに、源内のむくろ にはあらで、他の罪人のむくろなりしかば、大いに驚き、親類共早速官へ申出しに、官にてはさ せる間違ひあるべきいはれなしと主張して毫も取合はざれば、已むを得ずその下げ渡されたる衣 類等を屍に替へて葬りしが、これ執政の源内を惜しみ、他の罪人をその身替りに立てて、本人は |潜《ひそ》かに助命ありしならんとの噂、当時高かりし起因たりといふ。しかれど・もこの根本の説さへ杉 田玄白は採用せず。この頃の法律、罪人の死体を親類へ下げ渡せられざれば、僅かに生前源内が 着凧せし衣類・履物等を官に請ひ受け、これを枢《ひつぎ》に蔵《をさ》めて葬送すとあり。これ実説なるべし。  源内牢死せし時五十一歳、時に安永八年十二月十八日、入牢してより僅かの後たり。従弟権太 夫葬主となりて、橋場総泉寺に葬り、智見霊雄居士と詮《おくりな》す。若州小浜侯の医師杉田玄白、生前源 内とは交り深く、私財をもつて墓表を建て、自ら碑銘を撰し、これに鏑《きざ》む。その丈に曰く、    処士鳩渓墓碑銘  処士平賀君、詳国倫、字子舞、号二鳩渓→称二風来山人→信州源心後也、先世避レ難徒二讃州志度  浦→家焉、君為"人嘉落不羅、少有二才弁→尚レ気剛傲、読書不レ事章句二局松侯挙為二小吏→.嘆  日、丈夫処レ世、当レ益二国家→安能黙二郷里一哉、無ノ何辞遊二子四方→窮二力産物→娼二理山川→  兼精二技術→対二諸侯一則以利レ国、対二庶人一則以利レ身、故海内無二賢愚一悉知二其名→諸侯或辟  レ之、皆不レ就、日、入生貴二適意→何復為二五斗米一折レ腰哉、人或勧レ姿レ妻、則日、今我家二干四  方→何更求二之累{終不レ嬰、君恒好レ客、客至則必留レ之為設二酒齪{日以継レ夜、未二嘗厭倦→  君素無二恒産→以レ之嚢中屡空、而曼然不レ省夷、君所ソ著之書、有二物類品隲五巻→行二於世→其  余我方所レ不レ知之薬物、及火涜布之類、自発明者百有余種、勇好二稗官小説一其撰又有二若干巻→  安永己亥、狂病殺ソ人、下レ獄、十二月十八日疾没二於獄中→時年五十一、官法不γ聴ノ取ソロノ、其  諸姪相謀、敏二君衣服履→以葬二浅草郷総泉寺{建レ石、以二余与レ君故旧→請二余銘フ之、銘日、   嵯非常 人好二非常事一 行是非常 何非常死  しかるに、当時公に罪人の墓を建つるを許さざる制規たりしかば、たちまち命下りてこれを取 殿《とりこぼ》てり。されば今はこの碑銘も知る人は稀なり。  これより先き源内獄中にありける時、知人に示したる発句あり。「乾坤の手をちゞめたる氷哉」、 後の人これを源内が辞世の句と称して、その末路を悲しまざるものなし。鳴呼《ああ》世に類なき奇才も 今や猛烈なる火を失し、水は本体の氷となり畢んぬ。その肉体もその事業も、ことごとく四大空 に帰して、年を終ることここに百十六年とはたりぬ。惨櫓たる彼が生涯の五十一年は、実に失敗 の歴史を人生に遺したりといふべし。紛々たる議論虚実相半ばしてその真相を埋没し、唯己にま さるのむだがきにものしたる小本・浄瑠璃本の作者として世に知られぬ。  才余りあれば功を貧り、功多ければ人の妬みを受く、人間処世の道甚難し。源内の才は一世に 溢れて、むしろこれを容るる場所の狭きを覚ゆ。故にその才を一所に集むること能はずして、諸 事に応用し、かへつて他人の領分を侵略し、人より嫉視せられたること少からじ。源内の生涯は 功名心をもつて起ち、功名心をもつて倒れ、さながら功名心の悲劇を演じたるものの如し。短所 も多く長所もまた少からず。その短所長所を斉《ひと》しく暴露して、表裏に一点の修飾を加へざりしは、 硝子板の透明たるが如く、実に源内の真面目といふべし。かの窃かに恥辱を犯して、表面には美 徳を粧ひ、口に君子を唱へて行為小人にしかざるごときは、けだし源内のせざるところ。これ源 内の出生が田舎漢たるにかかはらず、ひとり神田ッ児を気取り、不知不識侠《しらずしらずきやん》の淡如として快闇な る気風に薫陶せられし故か。  功は罪を購ふに余りあり。いまだ本邦の幼稚なる時に当りて、物質的文明の素を輸入したるは、 不朽に伝ふべき偉勲ならずや。紅革・自惚鏡・金唐革の類、たとへ物は小にして多くは外国品の 模造たるにせよ、その模造の方法をはτめて教ゆ、創造の名をほしいままにするに足れり。火洗 布・「エレキテル」、いまだ実用をなさざりきとするも、学理にょりて工芸に先鞭を着けしもの、 彼以前に誰れかある。まことに平賀源内は近世の奇才たることにおいて論なし。  附言す、源内の牢死を一説には安永九年二月といへり、この説にょれば同年春の発句に「去年 つぎし首でまた見る初日の出」。しかれども多数の説安永八年に一定す、故に採用せず。  源内妻なく子なし。平賀権太夫は源内が従弟にして、かつてその家を継げり、今にその子孫讃 岐にありといふ。その門人として名の聞えたるは、森島甫斎なり。  甫斎は有名の蘭医桂川甫周の弟にして、通称万歳、字は虞臣、狂名を竹杖為軽《たけつゑのすがる》と言ふ。戯号を 森羅亭万象・天竺老人・二世風来山人・源平藤橘といふ。甫斎、源内に私淑し、蘭学者としても 戯作者としても、髪髭として師の悌《おもかげ》あり。性行・生涯また源内の不羅奔放に似たるものあり。か つて金沢侯に聰せられて家臣の列に加へらる。しかれども素《もと》より望むところにあらざれば、居る 二と僅かに数月にして、遊学に托してつひに逃がる。甫斎名利に走らず、物に拘泥せず、また妻 を迎へず、瓢逸をもつて自ら居る。常に兄甫周の家に寄食して、もつばら蘭書の翻訳を助けしと いふ。著述『紅毛雑話』『蛮語筆』『万国新話』等あり、戯作には天明年間黄表紙の作者として、 朋誠堂喜三二・蓬莱山人・唐来三和等と騨馳《ていち》して筆鋒相下らず。『従夫以来記《それからいらいき》』は天明四年、『万 象亭戯作濫膓《まんざうていげさくのはじまり》』等その名の如し。『稗史年表』にいふ、  万象亭以来記を著はして大に名あり、年代記に云万象亭の作おかしみをおもにとる、或人云、  万象亭は古風来山人の門人なり、戯作のはじまりの首に出せる浄るりは風来の作なりとぞ、按  に文化の初頃に京伝が校合して上梓したる近道太平記是なり。  また、浄瑠璃本を著はし、源平藤橘はその戯号なり。『おはん長右衛門』等の作あり。されど も源内0才に及ばざること遠し。戯作数部あれども略す。  文化九年の頃なりとか、平賀源内の伜なりと名乗るもの、中国辺を俳徊せしといふ。名は石、 竜田と号し、彦根・津山侯等に仕へて京師に住居し、技術遊芸に通ずる由吹聴し、揚火を製しこ れを打揚げて人々の見物に供し、また、蘭学者なりとて和蘭製の物品種々工夫するに妙を得、水 練はすこぶる達人にして、浮袋といふにて海中を歩行し、太刀を使ひ、その外の芸道何一つ心得 ざることなし。遊芸は京都にて学びしとて、   連 竹(鶴の巣ごもり一曲)  義太夫(少々)  宮薗節(引語り)   高砂舞(一曲)   口三絃(めりやす一曲)   象眼細工鍔   揚 火(三十ばん)  手 妻(品々)   箱入娘(細工物) 等を演じ、なほ歌学・武術にも行きわたり、書画も相応にでき、すこぶる万能の男にて、当時四 十歳なりき、と『筆まかせ』に見えたり。これらはもとより野師・品玉使の類なるべけれど、そ の名をかたりて業を営むものかくの如きを見ても、平賀源内の名のいかに海内に響きしかを知り、 また、その人物が当時一般に解せられたるところをも窺ふに足るべし。  源内の事蹟の信ずべきはほぼ本伝に収めたれども、更に逸事の伝ふべきものあれば、左に一つ 二つを拾ふべし。 一、源内が持てる平日の道具へさまざまの蛮名をたはぶれに名付けたる中にも、風流の蚊払ひを  製したり。くるくる振廻せば蚊悉く取る器物なり。これを号してマァストヵアトルと呼びたり  しは、おもしろき蛮名なりとてその頃評判せしことたり。(『理斎随筆』) 二、昌平の下吏浦井伝蔵かつて鳩渓に交る。鳩渓の行為怪しむべきもの頗る多し。或は通町に大  なる家を借りて住ひ、或は裏店に入りて、寒天小袖一枚にて顔ふ。しかれどもいかなる時も金  百両は必ず身をはなさず。この黄金さへあれば何事も成らずといふことなし、この物なければ 事を成し難しといへりとぞ。浦井氏は火洗布の成る時は紙捻《こより》を作りし一人たり。 三、南畝一日鳩渓を訪ふ。たまたま戸外に浪士笠を被りて銭を乞ふあり。鳩渓僕に命じて一銭を 与へしめていふ、浪人は相互ひのこと、われわれとても智術たければ彼と一般、人の門に立た ざるを得じと。南畝その自負の甚しきに驚きしといふ。 四、一とせ越後に赴きし時、ある一村門徒に帰依してかつて神を崇めず。折しもおかげ参りの流 行年にして、伊勢大神宮へ参詣するものひきもきらず。しかるにこの村のみは、前の理由にて 参詣するもの一人もなしと聞き、源内心にくき挙動かな、よしよし一工夫ありとて、三女御札 と称する小さき大神宮の御祓を紙鳶に附して高き山に登り、風に任せて一村落に蒔散らしける に、諸人驚き、これ神業なりと、.俄《マ》かに餅を春くやら御酒を供へるやら、遂に一村|挙《こぞ》つて大神 宮へ参詣し、それより神を崇めけり。戯号の紙鳶堂といふはこれに因《ちな》めりとぞ。(以上二件『鳩 渓遺事』) 第十三 戯作者としての地位 当時の状況  徳川氏の天下、元和以降五十年は登る旭日の如く、歳の始の如く、多望なる前途を齎らししが、 元禄より後五十年は天に沖する日の如く、欄慢たるさかりの春の如く、満望の光景、江戸時代の 全盛、この時をもてその絶頂に達したりといふべし。しかれども沖するものは傾き易く、満つる もの欠け易き、栄枯無常の世のならひ、更にそれより五十年を経るに至りては、打続ける太平に 慣れて、政綱|弛《ゆる》み、道徳廃れ、武運漸く振はず、これ宝暦・天明の江戸なり。  この時、市に法令を議る遊民あれども、有司これを制せず。賄賂行はれ、権家に出入する阿諌 譲諸《あゆざんてん》の乗物公行すれども、人々見て異と思はず。これを号けて権門駕籠といふ。権門はぶり・権 門師などの称呼は、当時の流行詞にして、いかに小人の践雇《ぱつこ》したる世の中なるかを知るべし。  因みにいふ、権門師とて当時権家へ心易く入込み、執事・用人等に馴れ睦び、諸士の立身出世 の媒介をなすこと、今の慶安・受宿の如し、役儀にょりて内金の価格を定め、事成るの後は謝礼 を取る規定なりしとぞ。  さるからに、俸禄を拠《なげう》ちて遊女と心中する旗本の士あれば、堺町・木挽町に男侶を弄ぶ僧侶・ 御殿女中ありて、道徳の制裁地に墜《お》ち、またいかんともすべからざる状態、武士の腰の物も、そ の頃遊客・粋士の差したるは、あながちに刀身は吟味せず、疵ありても鈍刀にても、ただ尊ぶは 細身なりけり。切羽《ル つば》・錨《はぱき》も焼付になし、鍔《つぱ》も目貫も外見ばかりの華著好み、柄なども三分糸の花 色たどにて巻きたるが、もつばら行はれたりしといふ。けだし当時の風俗かくの如く、上とたく 下となく、騎著を誇り、華美を競ひ、安逸を貧り、淫楽に耽るをこれ事として、他を顧みるもの なく、これあれば野暮の骨頂にして、世は挙りて風流才士の淵叢となりける。 大田南畝と平賀源内  中にもわけて当世の粋士と称へられ、風雅男《みやぴを》と持唯されしは大田南畝なり。そもそも南畝は幕 府旗本の士にして、地位卑賎ならず。学問はた学者たるの資格を有し、当代一般の智識を具へ、 加ふるに文才あり、頓智ありて、狂歌・俳文に巧みなり。性質は閑雅にして酒落、寡欲にして淡 泊、まことに当時江戸人の代表者として恥しからざる人物なりき。  しかれども南畝が行為及びその戯文を見るに、気力消磨したる柔弱の当世を代表せり。けだし 南畝がそのころの風流杜会に歓迎せられたるはいふまでもなく、なほ頑固他人を容れざるをもつ て高名なりし古賀精里にさへ、南畝は実に軽俊の才子にて学問もまた純正たらず、ただしその人 いかなる大人君子に接するも、毫も諸訣《てんゆ》の風なき一点は捨つべからず、と好遇せられたる事実あ りて、一方よりみれば、これ南畝が不屈の気質を表はすに似たれど、その実彼が粋士たる所以に して、円滑無角なるは南畝の特質なりき。  その著すところの狂歌・俳丈には、世人深く嘲世罵俗の意の見えたるが如く歎称すといへども、 これ口の悪き江戸人の通例にして、殊に学者にその筆鋒を向けたるは、多少事情のあることなる べし。その外は羽毛ほど軽き調刺の詞なきにあらねども、こは狂歌・俳文に通有せる穿《うが》ちにして、 ひとり南畝に著明なるにあらず。まことは世間へ対し、何の底意を挿まぬが南畝の天性なるべし。   世の中にかほどうるさきものはなしぶんぷといふて夜もねられず と詠じたるをば、当時の執政松平定信が弊政改革に対する嘲罵なりといふは、むしろ誇大の評と いはざるべからず。けだし幕吏の詰問に対して、南畝はあへて故意ありて詠じたるにはあらず、 ただ偶然に口ずさみせしのみ、と答へたるその丈字通りこそ、実に南畝の酒落の本領といふべけ れ、別段政治を議りたるにはあらねど、かかる窮屈なる規律にしたがふは、風流才士の煩はしと 思へるそのままの狂歌なり。 「酒色財」と題せる狂文にいふ、「願くは金の番人守銭奴とならで、酒色のふたつも程よく楽ま ば、五十年も百年にむかひ、百年も千代万代の心地なるべし」 と。またこれに三首の狂歌を添へぬ、   ちはやふる神代のむかしおもしろいことをはじめしわざをぎの道   全盛のきみあればこそこのさとの花もよし原月もよしはら   世の中はいつも月夜に米のめしさて叉申しかねのほしさよ  これ南畝が世間に対する見解を表白したるものにて、酒色財はかつて南畝が観念を離れず。否、 南畝一人にあらず、当代の意見またかくの如し。  南畝は一口に酒落ものにして、花に眠り月に囎《うそぶ》き、一生を面白をかしく送りたる外には、人生 に対して何等の考へをも有ぜず。したがつて功名の心もなし。その晩年の編述にかかれる『奴 凧《やつこだこ》』の巻末に附したる詞を見るに、  つらく思へば老病ほど、見たくでもなく忌々しきはあらじ、家内の者にはあきられて、よく  取扱ふ者なし、…一-酒のみても腹ふくるゝのみにて微醸《ぴくん》に至らず、物事に倦み退屈して面白か  らず、声色の楽もなく、唯寝るをもて楽とし、奇書も見るにたらず、珍事もきくにあきぬ、若  き時酒のみてとろく眠りし心地と、押《な》れたる妓のもとに通ひし楽は、世をへだてたるが如く -なりき。   ながらへば寅卯辰巳《とらうたつみ》やしのばれんうしと見し年いまはこひしき とありて、南畝が老後における病薄中の懐を述べたるなり。大いに望むところもなければ、世を |厭《いと》ふさまも見えず。子孫の栄を願ふにあらねば、世のためを思ふにもあらず。小康に安んじ、無 為を楽しみたる人の、今七十五歳にして長大息をしたるところは、身後の一大事を語るにはあら で、ただいささか家内の待遇に不平を漏らしたると、花に戯れし昔の蝶を夢みたるに過ぎず。ま ことに優遊自適の有様、ひとりこの老には限らず、当時快楽主義者の生涯は、おしなべてかくの 如きものなりしならん。  されど南畝にしてもし一歩を転ずれば、もはや太平楽の人にあらず。すなはちかかる沈滞せる 空気中に棲息するを満足せずして、一波動を挙げ、この優柔不断、無為の杜会に対し、長夜の惰 眠を覚破せんと勉むるなるべし。戦ひて勝つこと能はざれば、退いて身を世外におき、静かにそ の所に安心立命をもとむるか、しからざれば、世間と馳騨《ちてい》して苦闘煩悶、姥《たふ》れて止むの運命に至 叱、るべし。後者の地位に立ち、その難局に当りしものは平賀源内なり。  平賀源内は気骨ある南畝なりき。南畝は従来の世界に満足して毫も非望を懐かざれども、源内 はその無気力なる杜会に一刺激を与へて、更に幸福なる世界に改造せんとしたるもの。南畝は消 極的に快楽を買はんと欲し、源内は積極的にこれを得んと試みたり。されど時勢は彼の敵にして、 一も意の如くならず。これがために源内は大いに不満を懐き、あくまでも世に低抗し、蛯れて後 に止みぬ。その生涯の事蹟を説明するものは彼の戯作なり。かるが故に南畝の文は無邪気にして、 源内の文は竃気あり。  戯作者としては、源内は本邦従来の不完全なる体より見るも、いまだ小説といふべき作ほとん どなし。多くは作者述懐の戯丈たるに過ぎず。すなはち風来の作は、古き物語にも、支那小説に も、西鶴本にも、八丈字屋ものにも胚胎せず。彼はこれらのともかくも小説の系統をなしたる諸 作よりは脱化せずして、むしろ小説系図外の一戯丈家に負ふところ多し。その一戯女家とはけだ し増穂残口《ますほざんこう》なり。 増穂残口と平賀源内  増穂残口は国学者にして、名は最中、大和と称す。豊後の人、京師に出で、近衛家に仕へしと もいひ、あるひは吉田家に属する禰宜《ねぎ》ともいへり。国学者とは称すれども純然たる国学者にあら ず、神道・仏道の両部をかねたり。故にまた純然たる国学者の、ほとんど宗教趣味の欠けたるに 異なりて、仏教の素養のあるだけに、多少残口は宗教家の傾向を有しき。その主唱するところは いはゆる復古主義にして、一も二もなく当世を非難し、神代の風俗の素直に復《かへ》らしめんとするに ありき。而して残口は自説を述ぶるに戯文をもつてし、無智蒙昧の杜会を感化誘導せんと勉めた りき。残口八部書、すなはち『艶道通鑑《えんたうつがん》』の如きその一なり。残口の著は右の如きある目的を有 したれば、かの八文字屋ものなどの、単に読者の慰みに供したるものとは異なりて、神道|弘通《ぐつう》の 主旨を達せんためにしたれば、おのづから弁難解嘲の意を寓し、一種の調刺文を成すに至れり。 すなはち小説としては人物・脚色に見るべきものほとんどなく、ただ所思を述ぶるの文を行るに、 ある事柄を道具に使用し、あるひは空言を構ふ。短きは僅々数言を列ねたるに過ぎず、長きは三 四巻に亙ることあり。これを戯文、または狂文ともいへり。享保・明和の間この戯文の一体(半 紙本にして絵入の四五冊もの)大いに流行せしが、源内の作は就中出色文字なりき。源内はその行女 を、全く残口が戯文の体に習へるのみたらず、しばしば残口の言葉を仮りて、自家の説の後楯と したることあり。而して源内が、前に志道軒を自家の材料に使ひ、その不平を漏らしたるとは趣 を異にし、戯作者として源内が残口に対する有様は、少くとも先師と仰ぎたるにありき。残口は 極端の退歩主義を取り、源内は極端ならざるも、全くその方向を異にせる進歩主義を有する人た り。而してたとへ戯作上のみとはいへ、二者の着眼の一致せしは奇といふべし。けだし残口も源 内も斉《ひと》しくある目的のために戯作をなし、一は北せんとし一は南せんとす。その方向こそ真反対 なれ、借《とも》にある点に達せんとする旅行者なること相同じく、而して杜会は北するものにも、南す るものにも思想相伴はず、かへつて彼等の進歩を停めんとするの傾向あれば、残口も源内も借に その途上の障碍物に困《くる》しみ、そを除却して進行せんとす。すなはち彼等の戯作は、途上の邪魔も のを追ひ放たんの手段に用ひたるのみ。残口がすべてのことを神代の風俗に復帰せしめんと主唱 するや、源内が未来首年の丈明に一足飛びに達せんと焦心するや、いづれも世人の考へより隔絶 せること千里、彼等の惰弱無頓着は、二者の説を馬耳東風と聴流しぬ。これ残口も源内もほとん ど悶死せんとしたるところにして、,これを憤り、叱責痛罵し、唾沫飛散して玉ならぬ調刺の丈と なれり。これ残口と源内と期せずして意気相投じたるところ。故に源内は途上の障碍物を除くに、 残口の使ひし道具を借りたるなり。源内が自らの戯号に住所不定を意味して、風来といひ、天竺 浪人といふ。その語の起原は久しけれども、残口が戯文中しばしば口唱せられし女字たるを見れ ば、その出所はここにありしこと明らけし。また戯作に地獄廻りの趣向も新しからざれど、源内 が『根南志具佐』にこの趣向を用ひたるは、残口が『噸|死出《しで》の田分言《たわごと》』に拠りしこと疑ふべから ず。また『蛇蜆青大通《ぬけがらあをだいっう》』の如きは、残口が『艶道通鑑』の「伝聞昔の段」に胚胎せること分明な り。その序丈に、「残口翁が口真似に勃然《やつき》としたる悪口は世上の通を壁と見て」とあるにても知 れたれど、その半可通を罵る口吻は、僅かに残口の骨を換へたるに過ぎず。  潜者は溺れ騎者は落つと古人もいひし、雁の真似する石亀が瓢の黒焼を求め、生兵法がかうや  く売の儲に成とかや、根生の家暮とすはつた粋には其の事なし、半粋の族の下手気のぬけぬ未《なま》  じゆくし                                                     いやなるあぢ  熟柿がおのれ熟せりと甘味をつけれど、根からの美味たらねば、何所に否成味の出るは腐りつ  けるなり、くさりつけば万の物もくさし、兎角臭気の付族に真物はなしとしるべし、味噌はみ■  そながら味噌くさきはわろく、侍は侍ながら侍臭きはわろき如く粋も粋臭きは粋ならぬものぞ。 これを風来は、  扱|言語《ものいエ》も跡を詰め、笑話《おとしぱなし》の受売にそろく口拍子が廻つて来ると、おれは余程通だはへと、我  れと我手に印可を許し、人の咄の腰折てお先真暗に酒落ちらすを、心ある人々はさげすんで苦  笑すれば、扱はおれが口先には楯突者こそ無かりけると、仕たり顔する痴漢《べらぽう》ども、智慧は三文  とうがらし                のけ 、        、じゆくし  蕃椒の袋より狭く、高慢の高きこと前引の月躍はそこ退たり 彼の残口翁が小言に曰く 未熟  がき                                  どこぞ  柿が己れ熟せりと甘味を付れど、根からの美味ならねば、何所に否たる味の出るは腐の付るな  り、……粋も粋くさきは粋ならぬものぞとは、誠に古今の通言なり。 など、残口が仮声を使ふことかくの如し。畢寛源内の主義は残口と大いに隔りたるにもかかはら ず、壮快なる気質、滑稽の才、二者ほとんど相似たるところありしかば、かれの道具をこれの力 量にて使ひしまでといふべし。風来一たび出て、江戸作者に刺激を与へ、桃太郎一代記類の赤本 に変化を与へ、単に小児の翫弄《もてあそ》びなりける草双紙、この頃より滑稽を主として大人のものとなり ぬ。恋川春町・森羅亭万象・山東京伝・桜川慈悲成などが、黄表紙・洒落本を作るに当り、風来 に負ふところ少からず、戯作者としては、風来山人は近世江戸作者の筆頭と称すべし。 風来の女  風来の文は雑多なり。五七また耕麗《べんれい》、芝居の台詞あれば、江戸児の談話体もあり。しかれども これらはみな借物にて、風来には別に風来独得の丈体有り。すなはち記叙と議論との二丈体これ なり。議論とは作者自らの弁難攻撃文にして、鋭利なる筆鋒は人の肺脇に入り、是非善悪を識別 する判断力すこぶる明晰、機に臨み変に応じ、軽妙痛快しかも中に嚴然冒すべからざる威力あり。 紛乱錯雑の間にも奇と正とを失はず。罵署・嘲笑・該誰・愚弄・事実・虚談の乱脈を打て遜出《はうしゆつ》す る光景、はたはだ壮観といふべし。 『放庇論』『菩提樹之弁』の丈これなり。記叙とは客観的に事物の景色・来歴等を写すをいふ。 その筆の触るるところ、詳細にして電燈光下に虫の這ふも見のがさざれど、さりとて油絵の濃厚 なるにはあらず、極彩色め華麗にもあらず、その筆は走り、その筆は飛ぶ。一潟千里の勢、唯一 筆がきの墨画なり。『根南志具佐』両国夏の景色、  行川の流れはたえずしてしかももとの水にあらずと、鴨の長明が筆のすさみ、硯の海のふかき  に残る、すみだ川の流れ清らにして、武蔵と下総の堺なればとて、両国橋の名も高く、いざこ  と問はむと詠じたる都鳥に引きかへ、すれ違ふ舟の行方は秋の木の葉の散浮ぶがごとく、長橋  の浪に伏すは竜の昼寝をするに似たり、かたへには軽業の太鼓雲に響けば、雷も膀をかゝへて  逃去り、索麺《そうめん》の高盛は降りつゝの手年《てには》葉を移して、小人島の不二山かと思ほゆ、長命丸の看板  に親子連は袖を掩ひ、編笠提げた男には田舎侍懐をおさへてかた寄り、利口のはうかしは豆と  徳利を覆へし、西瓜《すいくわ》のたち売は行燈の朱を奪ふ事を憎む、虫の声々は一荷の秋を荷ひ、ひやつ  こいくは清水流れぬ柳蔭に立寄り、稽古じやうるりの乙はさんげくに打消され、五十嵐の ふん人\たるはかば焼の匂ひにおさる、浮絵を見るものは壼中の仙を思ひ、硝子《ぴいどろ》細工にたかる 群集は夏のむ柱かと疑ふ、鉢植の木は水に蘇り、はりぬきの亀は風を以て魂とす、沫雪の塩か らく、幾世餅の甘たるく、かんばやしが赤前だれはつめられた跡|所斑《ところまだら》に"若盛が二階座敷は 好次第の馳走ぶり、燈籠売は世帯の闇を照し、こはだの鮮は諸人の酔を催す、髪結床には紋を 彩り、茶店には薬錐をかゝやかす、講釈師の黄色なる声、玉子くの白声、あめ売りが口の旨 き、権《かや》の疾切が横なまり、燈籠草《ほエづき》店は珊瑚樹をならべ、玉蜀黍《とうもろこし》は鮫をかざる、無縁寺の鐘はた そがれの耳に響き、浄観坊が筆力は道楽者の肝先にこたゆ、水馬は浪に噺《いなエ》き、山猫は二階にひ そむ、一文の後生心は甲に万年の恩を戴き、浅草の代参りは足と名付けし銭のはたらき、釣竿 を買ふ親仁は太公望が顔色を移し、一枚絵を見る娘は王昭君がおもむきに似たり、天を飛ぶ蠕 幅《かうもり》は蚊を取らん事を思ひ、地に才《たエ》ずむよたかは客をとめんことをはかる、水に船かくの自由 あれば、嵐に輿やらうの手まはしあり、僧あれば俗あり、男あれば女あり、屋敷侍の田舎めけ る、町ものゝ当世姿、長き櫛短き羽織、若殿の供はびいどろの金魚を携ヘ、奥方の附き人\は                 こしもと                かち 今織のきせる筒をさげ、もゝのすれる泌は己が尻を引きずり、渡り歩行のいかつがましきは大 小の長きに指れたるが如し、流行《はやり》医者の人物らしき、俳譜師の風雅くさき、したゝるぺてぴん とするものは色有の女妓《おどりこ》と見え、ぴんとしてした二るきものは長局の女中と知らる、剣術者の  身のひねり、六尺の腰のすはり、座頭の鼻歌、御用達のつぎ上下、浪人の破袴、隠居の十徳姿、  役者ののらつき、職人の小いそがしき、仕事師のはけの長き、百姓の蟹のそゝけし、萄尭《すうぎやう》の者  も行き雑兎《ちと》の者も来る、さま人〜の風俗、色々の貌つき、押わけられぬ人群集は諸国の人家を  空しくして来るかと思はれ、ごみほこりの空に満るは、世界の雲も此処より生ずる心地ぞせら  る、世の諺にも、朝より夕まで両国橋の上に鎗の三筋たゆる事なしといへるは、常の事なんめ  り、夏の半より秋の初めまで涼みの盛りなる時は、鎗は五筋も十筋も絶やらぬ程の人通りなり、  名にしおふ四条河原の涼みなんどは、糸蟹にして僕にも連れべき程の賑ひにてぞありける。  この文脈を受けて、更に一派を開き戯文をもつて鳴りしもの、丈化・丈政の間ひとり式亭三馬 あり。三馬は風来の衣鉢を襲ひし戯作者なり。  風来が女の欠点は狼褻の文字なり。例へば『放屍論』といふ、その標題既に狼褻なれば、丈字 もまた随つて狼褻なり。されど風来の筆にかかりては、読者割合にその醜を感ぜざるは何ぞや。 けだし理由は著者の本意そこにあらざるにもよるべけれど、これをかしみに打消さるる丈の特質 にあり。すたはち滑稽の魔力を有するによる。 滑  稽  滑稽の才なきものは調刺家たる能はず。けだし滑稽に托せずして人を罵れば、徒《いたづ》らに譲諺誹段《ざんぱうひき》 に亙りて文学上の価値を失ふ。しかれども調刺家の本意は、もと他人を中傷せんとするにあらず。 人を戒しめ彼をしておのづから自己の非を改めしむにあれば、なるべく攻撃の鋭鋒を見せざるを 良とす。これを掩ふには滑かなる絹の袋をもつてするか、あるひは軟き真綿をもつて包まざるベ からず。滑稽は調刺家の鋭鋒を包む真綿なり。これを掩ふ天驚絨《ビロ ド》の袋たり。今その一例として、 戯曲『実生源氏金王桜《みばへげんじこんわうざくら》』の一節を掲ぐべし。同書三段目、静御前が猿曳徳作の方にかくまはれて、 平家方の厳しき詮議最中、徳作は源氏の公達を慰め奉らんと、猿に一曲の舞を演ぜしめ、さて己 れは奥に入る、後には徳作の娘さつきとて、去年までは源氏の屋敷に宮仕せしが、お家の騒動よ り静と共に我が家へ帰り、主君へ博《かしづ》き、表面は名灸をすゑて日々の家業を助けける。  されば女の髪筋にてよれる綱には、大象も能《よく》つながれ、女のはける足駄にて作りたる笛の音に  寄るてふ秋の鹿ならで、娘の顔にひかされて、二人連なる田舎侍、表間近く立留り、「ナニ新  五右衛門殿、是れがお咄し申した灸すへのボツトリ者の内でござる」「いか様、ハァ権太兵衛  殿のお噂に承つたあの女、国元への咄しのたね、どうぞ一見致したい」と門口よりおとなひて、 「誰そたのもふく」といふ声に、「アイ」といらへて出る娘、二人は顔を打ながめ、「テモ見事、 御無心ながら灸がすへて貰ひたい」……「お二人様御一所に、サアくお肌を」「おつと任せ」 と諸肌ぬぎ、背中を向けて居並べば、硯引寄せ筆の軸、ひいやり掬《ぴつく》り、「ア・あついくく あついく」「ア・申し今のは墨でござります、まだ灸はすへませぬ」「ム・そんならさうとい  ふたがよい」「サア是れからが皮切」と仕なれし手つき、線香のてつとりばやにすへる内、娘  の膝が尻べたへ、さはる度々きいやきや、むほんのきざしそろくと、肩をよぢつて後ろ手に、  一人が出せば又一人、出す手と手の同士軍《どうしいくさ》、とは知らずして双方が、娘と思ふうてんつ共、ジツ  としめ合ふ嬉しさは、首筋元からぞつとして、是れは夢かや夢ならば、覚めたくと両方が、眩  き眩く口の内、互に隠す身塩梅、見るおかしさをこたへかね、有合|女《もぐさ》一つに寄せ、二つに分け  て身柱《ちりけ》もと、でつかりすへたる大灸《おほやいと》、ふすぼり返つて通る火に、二人は悔り「アイタ、、、、」、  飛退きたがら放さぬ手と手。  痴漢を画いてしたたかに笑へり。これ読みてその馬鹿らしさに抱腹すると共に、玄た幾度か趣 を換へて、この痴漢たるもの、漸然背に汗すべし。 戯  作  ある人源内に小説を作る方法を問ひし時、その答へに、「伝奇小説は遊戯に出づと雛ども、必 ず実に拠りて敷術《ふえん》すべし、然らざれば意趣浅薄にして見るに足らず。凡そ事は鉄を説て挺と為す、 これを虚といふ。筋を仮て挺となす、これを実の虚といふ。挺を以て挺となす、これを実の実と いふ。小説は筋を用ひて挺にかふるが如くして可なり」(『鳩渓遺事』)といへり。されば源内は全 くなきことを作らず、また有の儘を画かず。ある事実に根抵をおきてそが上に楼閣を建つる。こ れ源内が採用せし戯作の極意なるべし。その作また概ねこの方便によらざるはなし。   ○木に餅の生弁  (宝暦十一年)   ○根南志具佐前編五冊  (同+三年)  根なし草は、明和年間荻野八重桐といふ歌舞伎役者、中洲河に漁猟せし折、謬《あやま》りて水に落て身  まかりたる秤判、当時|燥《さわ》しかりしかば、そを物語の種にして作り設けたる也、其書甚しく時好                                   ψけね  にかなひて、三千部売れたりとて、後編に自負せられたり、よしや三千部は弐値なりとも、か  く読本のさかりに行はれたるものは有がたし、当時は国字稗説の未だ流行せざりしかば、此の 作者又浄瑠璃の新作をもて、一時に都下を燥がしたり、尚ほ文化まで死たずもあらば、必ずよ  み本にも新奇を出して、楮《かみ》の価を貴くすべし、誠に戯作の巨壁なれども、勧懲を旨として、窃  に蒙昧を醒すに足る親切の作編あるを見ず、只其の奇才は称すべし、其の徳は聞くことなし。  右は『作者部類』、の短評なり。この作の持て嚥されし一斑を窺ふに足るべし。当時男色のすこ ぶる行はるる時に当り、女形の俳優の水に溺れて死したるを、水虎《かつば》の所為に帰したろは、けだし 水に溺れて死するものは、水虎が後を襲ふにょるとの俗説を附会したる思ひ付の名作なり。   ○風流志道軒伝 五冊  (宝暦十三年)  戯作としては『根南志具佐』に及ばず。   ○男色細見菊の園   (明和元年)   ○里のをだまき評   (安永四年)   ○長枕褥合戦《ながまくらしとねかつせん》   (同四年)   ○天狗燭髄鑑定縁起  (同五年)   ○根無草後編 五冊  (同 六年)   ○放屍論後編     へ同六年)   ○放庇論前編     (安永三年)   ○飛だ噂の評     (同七年)  この外年月の詳かならざるものは左の如し。   ○太平楽巻物(阿千代之伝) ○力婦伝  ○仮名丈選  ○蛇蜆青大通  ○男色細見三   ツ巴  ○男色細見三の朝 浄瑠璃本  源内が浄瑠璃の作は、明和七年正月『神霊矢口渡』を初筆とす。その践にいふ、  一日吉田冠子(人形つかひにして吉田文三郎ともいふ、また浄瑠璃作者なり)来りて浄瑠璃の作を請ふ  こと頻り也、されば盲は蛇に畏《をじ》ず、下戸はぽた餅に逃げずと、不稽無上《めつたむしやう》の筆任せ、只初段の切、  三段目の口のみ予が筆にあらず、其の余は闇雲に綴合せども、今をはじめの作者の巣立云々。  この作を薩摩座にて操芝居に演じたれど、誰れ一人源内の作といふことを知らず、みな吉田冠 子の作なり、と持て唯しければ、源内大いに不平なりきといふ。しかれども源内の作にてはこの 作ほど当れるはなしと、なほ今も音曲に上ぽせ、芝居に演ずるはこの作のみ。ともかくこの作は、 冠子・玉泉堂・吉田二一等の連名にて、くろうとの手伝ひありしかば、舞台に適するやうできた るがゆゑなるべし。  源内がはじめこの作を案出せしは、かねて新田神杜の祠官は源内と親しかりしが、一日祠官源 内にいへるは、本廟は南朝の忠臣新田義興ぬしを祭れるにて、神霊殊に柄焉《へいえん》たれども、世に知る 人なきため、近来堂宇廃頽し、誰れ詣づる者なきを、何卒《なにとぞ》して神威のほどを知らしめんと願ふが、 足下にも我が志を助け給へ、と懇ろに頼みけるを、源内そは安きことなり、我に一策あり、待ち 給へとて別れしが、不日にして『神霊矢口渡』の出来、幸ひにして流行せしため、俳優・芸妓等 を初め、大方の人さへかの所に参詣し、さすが荒れにし社殿も、たちまちに修復するを得たりと いふ。  源内この浄瑠璃を作りしより、図に乗りて都合九番の作あり。そもそも浄瑠璃本はその形既に 一定し、ただ作者はその模型に従ひ伎禰を試みるの外なし。源内の作もまた千篇一律の木匡《わく》の中 にあり。例へば姦宰が主家奪略の陰謀にはじまり、宝器の紛失、これを尋ぬる忠良烈婦あり、愁 歎場は親子夫婦の愛別離苦、または主君の身替りに一命を落すなどの類にて涙をそそがせ、結局 は目出度お立といふ、お家騒動の筋なり。  さて源内の作の特質は、概して古色を帯べり。『前太平記古跡鑑《ぜんたいへいきこせきかがみ》』は平親王将門が没落の後の 物語にして、『霊験宮戸川』は浅草観音の由来を説くなど、題を選ぶこと既に古代なり。而して 江戸作者の真面目として荒事に富み、すべて誇大に画かれたるは、金平《きんびら》の系統を伝へたるものな り。あるひは神田明神、あるひは浅草観音、さては六郷近傍の新田明神などの縁起を説くなど、 江戸ツ児のよろこぶところ、作者の如才なきを知るべし。元来浄瑠璃作者は上方一手占めにて、 江戸にはほとんど名人なし。ひとり源内江戸作者のために万丈の気焔を吐く。『荒御霊新田神徳《あらみたまにったのしんとく》』 の後序にいふ、  近松翁世を戯場《けじやう》に避て数の浄瑠璃を作けるに、筑後、播磨の名人有つて普《あまね》く世上に行渡り、勧  善懲悪世を教ゆの一助たる事是近松氏の本心なり、中頃千前軒、文耕堂が類も亦、近松氏の意  をうけて作れる所正しければ、此道甚盛たりしが、いつの頃よりか衰へて、今時の作者は固よ  りそこ所ではなく、文法もしらず、てにをはを弁へず、嘲りを遠近に伝へ、恥を千載に残す、  読ぬ同士書ぬ同士……それも作者是も作者、鷹が飛ば飛で見たがる石亀仲間のじだんだ組、す  つぺらぽんの竈作《すつぽん》者、泥水に足を踏込首をすツこめ、敬白    亥のとし卯月上旬                    福内鬼外書  当時は浄瑠璃作者の名人近松半二全盛の時、しかも源内の眼中半二なく、浄瑠璃作者として大 天狗なること知るべし。 .『源氏大草紙』は、『神霊矢口渡』と同年八月の作。この作には一人の補助もなし。思ふに前の 作は、世問にf、は源内の作たることを知らず、吉田冠子の作といひ唯せし事情もあれば、例の我 慢の性質とて、ただ一人筆を着けしものなるべし。されど戯曲の秘訣はいまだ得ざりしにや、こ の作は酒落のみ多く、一幕も真面目に見らるるなし。読みて多少をかしみはあれど、全篇残らず が道外に過ぎて、真の戯曲としての価値少し。 『弓勢智勇湊《ゆんぜいちゆうのみなと》』は、翌年正月二十日。この作には前作に懲りてか、吉田仲治を補助とせり。しか も脚色小力細工にして、まづは平凡の作といふの外なし。 『轍椿葉相生源氏《わかみどりあひおひげんじ》』は、安永二年。この作完結に至らず。 『前太平記古跡鑑』は、同三年。この作前に比して勝れたるところあり。源内が戯曲の才は、こ の頃に至り漸く見るべし。 『忠臣伊呂波実記』安永四年。 『荒御霊新田神徳』安永八年。こは初作『神霊矢口渡』の世に持て唯され、多くの作中、かほど の当り作なければ、人に勧められてその後日話一編を綴りしもの。この作の出板になりしは源内 の死期に先だつこと九ヶ月なり。門人森羅万象・二一天作等の手伝いあり。葺屋町結城座にて操 芝居に演じたる由、その口上に見えたり。 『霊験宮戸川』は、安永九年三月。故人の作として世に出づ、これ源内が戯曲中の名作なり。 『実生源氏金王桜』、この作は源内の死後二十年、寛政十一年に遺稿として、三段目の終りまで を出板す。福内鬼外の絶筆なり。  都合九番の浄瑠璃本、多くは他人の補助を仰がざりしは、功をもつばらにせんとの本意に出で しものならん。本草学者より一足飛びの浄瑠璃作者にして、くろうとの作者を圧倒す。これを見 ても源内が才の非凡たりしを察すべし。    第十四 飛花落葉  四方山人かつて風来が遺文を集めて小冊となし、これに飛花落葉と号け、今に世に伝ふるとこ ろたり、ここにその名を仮りて面白き短き丈一つ二つ。          * 翻訳は不朽の業、御高|恩須弥山《しゆみせん》よりも高きにほこりたる事を知らずして、いろくの物好は栄 曜の至りなりと、自ら吾身を返りみて、   むきすぎてあんに相違の餅の皮名は千歳にかちんたる身を          *   ㎜孔洲豹噺石香  拠蜷れ窃"れ帥紳   二十袋分入靖踊蛾叱町仁故文       口 上  トウザイく抑《そもく》私住所の儀八方は八ッ棟作り、四方に四面の蔵を建んと存立たる甲斐もなく、 段々の不仕合|商《あきなひ》の損相つゞき、渋団扇にあふぎたてられ、後ヘも先ヘも参りがたし、然所去 御方より何ぞ元手のいらぬ商売おもひ付くやうにと御引立被下候、はみがきの儀、今時の皆様 は能御存の上なればかくすは野夫《やほ》の至也、其穴を委く尋ね奉れば防州砂に匂ひを入、人々のお もひ付にて名を替るばかりにて、元来下直の品にて御座候へ共畢尭袋を持候の板行をすり候の あのゝものゝにて手間代に引ケ候、依之此度箱入に仕世上の袋入の目方二十袋分一箱に入、御 つかひ勝手よろしく、袋が落ちり楊枝がよごれると申やうなへちまな事の無之様仕かさでせし める積《つもり》にて、少ばかり利を取下直に差上申候、尤薬方の儀、私は文盲怠才にてなんにも不存候 へども、是も去御方より御差図にて、第一に歯をしろくし口中をさはやかにし、あしき臭《か》をさ り、熱をさまし、其外しゆ人〜ざつた富士の山ほど功能有之由の薬方、御伝へ被下候、応《ユさく》かき かぬかのほど私は夢中にて一向存不申候へ共、高が歯をみがく肝心にて其外の功能はきかずと も害にもならず、また伝へられた其人も丸で馬鹿でもたく候へば、よもや悪しくはあるまいと 存教の通薬種をゑらみ、随分念入調合仕ありやうは、銭がほしさのまゝ早4売出申候、御つか ひ被遊候て万一不宜候はゞだいなし御打やり被遊候ても高のしれたる御損、私方は塵つもつて 山とやらにて大に為に相成候、一度切にて御求不被下とても御恨可申上様は無御座候、若又御 意に入ずば能はと御評判被遊被下候へば、皆様御贔負御取立にて段々繁昌仕表店罷出金看板を 輝かせ、今の難儀を昔語と御引立のほど隅からすみまでつらりつと奉希上候、其為の御断左様 にクワチくくくく。  丑霜月 日             -   てつほう丁うら店の住人                                 川合惣助元無  売弘所休拍綴洞梱町湘傭帥礁曝叫胴刻加肪鵬旅荻り                                 ゑびすや兵助 出店は勿論無御座候せり売等一切出し不申候折々私自身出申候。 江戸男色細見序 餅好酒中の趣をしらず、上戸は又|羊嚢《ようかん》の旨きを憎む、寒暑昼夜はかはる人〜時をなし、春の花 秋の紅葉何れをか捨、いづれをかとらん、男色女色の異なるも亦しからん歎、吉原に細見あれ ば、堺町木挽町には四季折々の番附有て、世の人|普《あまね》くありがたがれども、恨《うらむ》らくは此道の盛な る事をしらざる愚痴無智の凡夫もあらんかと、晶負の腕をさすりつつみづから有頂天に登り、 夢中に筆を採て、ところ斑《まだら》の譜言《せんげん》をそこはかとなく書付れば、馴染の名に至てその顔ちらく として目《ま》のあたりに出たるはア・ラ不思議や、生霊《いきれう》にあらずんば是親玉のかたまりならん、ヤ イ餅好の衆生どもみだりに是を笑ふことなかれ、 して酒中の趣をしらん。   きのえ申葉月の比    水虎散人悪寒発熱《かつぱさんじんおかんほつねつ》中に書す   道行|颪《しらみ》の妹背筋《いもせすぢ》 ナソト一番誤てその粕《かす》を食ふに至らば、 漸に                              駄爪本加久太夫直伝 恋すてふわが名はまだき立出る、襟の縫目やはだ着のうら、なれし故郷をふり捨て、何国をあ てとさだめたくおちて行身は人のみか、颪の身にも恋のふち深き妹背の二疋づれ、生れ付たる 数々のあし手まどひのはかどらぬ、大椎《だいずい》峠|天柱《ちりけ》の原|風門《ふうもん》が谷うちわたり、いとかうくたるけ んぺきの峨々たる峯をよそに見て、背筋海道とぽくとたどり出るぞうざくし、見上ればは るかのみねに生茂る木λの梢や烏羽玉《うぱたま》の、夜昼わかぬ所にも頭しらみはすむとかや、世上の人 のわる口に花見鼠と浮名立、身のたのしみもいつしかにきのふはけふの瀬とかはる、あすやさ                       ちしご つてやもえ出るくさのにそよぐ風さへも、もしや知死期のつかひかと世を忍ぶ身の一ト筋に、一 千手の御手につくくと杖とたのみし七九の里、四くはくはんもんを打越て鳥のそらねや帯の 関、十四十六初恋に思ひみだれし物心、血汐《ちしほ》の酒のゑひまぎれ縫めの糸のたまさかに、ほころ びそめしころび寝の、そのむつ言にいひかはし取かはしたる誓紙の、からすかはひ男とだきし めてたとへ野の末山のおく、虎ふす野辺の足の毛や爪の地ごくへ落るとも、はなれはせぬとい はしやんしたその言の葉が、しみ付てわたしが背《せな》の入ぽくろ、苦労する身のうき旅もみんなわ しからおこつた事、こらへてやいのとよりそへば男もともに打しほれ、親のゆるさぬ不義いた づら襟の住居も叶はねば、かく落ぶれし二人が中、心はやたけにはやれども走らふにも飛ぶに も、のみならぬ身のかなしさとそゞろ涙にくれけるが、ハア・まよふたり誤たり、実《げ》に数なら ぬ此身にも先祖の誉れに王猛が、傍若無人と名を伝へ不思議を残す節穴に、恨をむくひしため しもあり、叉水中にうかんでは磁石にかはるの徳あれば、ゆびにひねられ灰吹の底のもくずと しづむとも、屍《かぱね》に誉有明のつきぬ妹背の旅づかれ、いざや急がん夜明なば東しらみと人やとが めん、兎《と》にかくに身の用心の腰眼《やうかん》や雲のかけはし白たへの、加賀越中の国境ふんどし谷のかた ほとり、肛門寺《こうもんじ》とて名にしおふ大師の古郷ふし拝み、蟻《あり》のとわたり打過て金だの宿にぞ三重着 にけり。