迷乱 宮島資夫 『どうしてそう急に、山ん中なんかへ|這入《はい》ってしまう 気になったんだ』  山口が二三日中に、|江州《こうしゆう》の方へ行く為に懇意な二三 人の友人を招いて心ばかりの別杯を汲み交している時 に、その中の一人が思い出したように、こう尋ねた。 『どうしてって言われたって』と山口は困ったように 頭を掻いた。全く彼の頭の中はいつもいつも油煙の燻《くすぶ》 ったように混乱していて、明確な理論でその行動を支 配しているような人間ではなかった。たゞ何かしら自 分に不満な事や、つまらない事がつもりつもって、身 動きもとれないようになってしまうと、時々突拍子も なく見える事をやるだけだ。|然《しか》もそれは、彼自身にあ っては|極《きわ》めて自然な事に思われるほど、そしてまた彼 自身は自分を極めて内気な|温和《おとな》しい人間であって、従 って自分のする事はいつもしよう事なしに押つけられ て、進んだり退いたり変ったりするのであると自分で は思っているほどなのに、たゞ彼の周囲の人々が、奇 妙にそれを不思議がったりするだけの事である。そし て山口自身はまたそれを、不思議らしく眺め返してい るだけの事なのだ。  油煙に燻ったランプのホヤのような頭だと自分で思 い込んでいる山口には、友達からそう尋ねられた時で も、|俄《にわ》かに明確な答えは浮んで来なかった。本当をい えばーたゞ何も彼もいやになって、山へ行きたくな ったーというだけであるかも知れない。然しそれで は、既に三人の子の父である彼として、余り無責任だ と人はいうだろう。山の中へ入るといっても、|樵夫《きこり》に なるわけでもなければ、坑夫になるわけでもなく、|何《いず》 れは喰いつめるに決っているだけに、彼は|益《ます/\》々返事に 困ってしまったのだ。殊に彼に今そう尋ねた友人は、 優しい心の持主である事も彼は知っていた。彼に尋ね た人の眼の中には、彼の将来を気づかう心持が、あり ありと浮んでいるのを眺めた時、彼の|煤《すゝ》けたホヤのよ うな頭の中は、一層混乱してしまった。どうにかし て、その友人に今の自分の心持を納得させたいと、も がいてもみたのであったが、あせればあせるほど、彼 の頭は益々曇って行くのだった。 『実は去年の夏からの事なんだよ』としばらくしてか ら彼はやっと、まるでその事に関係のないような事を 言い出した。そして彼はその日の不快な追憶を再び描 き出そうとするようにじっと眼をつぶってみた。燻っ たホヤのような頭の中には、精気の抜けた疲れ切った 幽霊みたいな彼の姿が、|朦朧《もうろう》として、しかしまざ/\ と浮び出して来たのである。  真夏の暑い盛りの日の午前であった。山口はその日 も、毎日通いつけていた株式取引所の構内の柵にもた れて、ぽんやりと立っていた。けれどもそれは立って いるというよりは、洗濯物を引懸けたとでもいう様に、 たゞぐんにゃりと柵にもたれて、苦しそうな息をかす かについているだけである。取引所の構内は参観席に も立会場の中にも、例の通りに一杯に人がつまってい た。どれもこれも、生命か金かという人達ばかりであ る。彼等の仕懸けた株の一高一低は、つまり彼等の生 死の問題となるのであるから、暑さも人いきれも、|斜《はす》っ かけの参観席に|藁束《わらたば》のように突立っている苫しさも、 何も彼も忘れ果てて場立の振る手に、高台の叫声の方 に血走った眼をそゝいでいるのである。|一立会《ひとたちあい》の終る 毎に、一方は喜び一方は悲しんで、思い出したように |扇子《せんす》をバタ/\と動かしている。直取引が禁止になろ  こぐちおと うと小口落《》しがどうなろうと、バクチが命である彼等 は、現物取引の名の下に、小さな立会場の方では、日 本高速度だ、大島製鋼だ、と|甲高《かんだか》い声で|怒鳴《どな》りながら も、押し合いヘし合って、買手や売手を探し囲ってい る。幾十となく並んでいる電話の響き、場立の呼声、 高台の木の音、それ等一切の雑音に、混乱がこの広い 建物の中でぶつかり合って、限りない騒しさを繰り返 しているのである。けれども不思議な事には、その騒 しさの中には、あの運動会や歓迎などの群集の中に見 えるような、勇しい活気や|歓《よろこば》しさは見えなかった。並 いる人の顔には、喜ばしいにつけ悲しいにつけ、たゞ 餓鬼のようにがつくした物欲しそうな表情が|漲《みなぎ》って いるだけであるし、渦巻のように起る物音の中には、 がらくたとした陰気な騒しさがあるばかりであった。 そして|凡《すべ》て、それ等の熱病やみみたいな人々の上の方 で、扇風器が絶えず左右に回転しながら、単調に動い ていて、金網の中に立てた氷の塊が、だら/\と音も なく溶けて行くばかりであった。  山口はぐったりと柵に|凭《もた》れたまゝ、それ等の人々の 走り回る有様や、高台に立って大きな口を開けて怒鳴 っている、市場監督の顔を眺めている中に、何という 事もなく、彼は|俄《にわ》かに限りない倦怠を感じて来たので あった。その時の彼の頭も、無論曇り|硝子《ガラス》のように、 鈍く曇っていたのだから、それがどうして、何故に俄 かに倦怠を感じたか、という事は、彼自身にも無論判 らない事だった。いっもの通りに突然、発作的に、何 も彼もが、いやになって来たのであった。十二三年も 前から三年に一度位ずつやって来て、|間歇《かんけつ》的に見慣れ ていたこの場の中の一切の光景が、彼にはたまらなく いやなものとなってしまっていたのであった。  こ こまで話して来た時山口は、 『その時僕はね、また例の病が始まったな、と思って 柵のわきにあるベンチの上にぐったりと腰を下して、 じっと眼をつぶったんだ。けれどもね、その前の晩例 の亀井にさそわれてね、|無暗《むやみ》に飲まされた酒の酔が一 遍に頭の中へぐらくっと突き上げて来たかと思う と、こうなんだか、腹の中の臓腑をどかんと引っこ抜 かれてしまったように、げっそりとしてしまって、息 をつく気力すらないようになっていたのだった』と泣 くような顔をして、二本の指で額をぐっと押えなが ら、無理に笑ってそういった  まったくその時の山 口は、身体も心も生きている人ではなかったのだ。も し世の中に、生きてるとも死んでるともつかない人問 があるというならば、それは全くその時の彼の事であ ったのだ。彼の意識はともかくもまだ働き、眼も見え れば、耳も聞えていたのではあるけれど、それはたゞ 機械的に、或いは反射的とでもいうのか、たゞ働いて いるだけの事であって、肝心の身体の本当の真中に は、生きて行こうという、力も何もすっかり失くなっ てしまっていた。  山口はベンチの上に腰を下して、膝に|肱《ひじ》をついた手 で頭を支えて、じっと眼をつぶった時、彼の朦朧とし た心の底から、冷たいとも熱いとも、黒いとも白いと も訳のわからない、|然《しか》し恐ろしく執念深い寂しいもの が、こみ上げてくるのをはっきりと感じた。その寂し さという奴は、恋人と別れたとか、財産をなくしたと か、親が死んだとか子を失ったとかいうものとは、ま るでたちの違うものだった。そこには何が為にという あてもなければ、どういうわけもなかった。身体一め んの気孔の一つ一つから、命の精が奪われて行くよう な、-といって彼はいつも、それほど命を大切にし ているとは思っていなかったのだーあてもない空漠 とした、涙も恋しさも伴わない寂しさが、腹の底から 湧き出て来て、肩に突き上げて来ては腕から指へ腰に 流れては足の先まで、ぞうっ/\と流れては浸み渡っ て行くような、寂しさだった。  顔色を蒼白にして、歯を喰いしばって、じっと|首垂《うなだ》 れている彼の頭の前の方を、板付草履や靴の音を響か せて、ばた/\と通って行く人の足音は、彼の耳に依 然としてはっきりと響いていた。高台の方でカチンと 入れる木の音も、三部では今何の株が立会っていると いう事も、曇り切った彼の頭に、カラリとしてありあ りと映って来ていたのであった。けれどもたゞ肝要の 魂が身体の中から逃げ出してしまったような今の彼に は、指一本動かす事さえ出来なくなってしまっていた のだ。長い間山口は、その喧騒の只中で、じっと頭を 押えてうつ向いていた。生きてるとも死んでるともつ かない、真空のような奇妙な時間が恐ろしく長く続い たように、彼には思われたのであった。その時の事だ った。|真黒《まっくろ》に混沌と濁り切った彼の頭の底またた底の 方で、II俺はこんな所に長くいたら、死んでしまう に違いないのだーと変な声がつぶやくのを、彼の耳 だけがはっきりと聞いたように、彼には思われたので あった。  もとよりそれも例の通り、確かな理論の根拠があっ て、そういう結論に達したのでも何でもなかった。恐 らくそれは精気の|失《う》せた彼の身体が、苦しまぎれに、 |唸《うな》り出した声であったに過ぎなかったかも知れないの だ。けれどもその訳のわからない|囁《さゝや》きが、その時の疲 れ切った彼の心には、死刑の宣告よりも、恐ろしく響 き渡ったに違いないのだ。|真蒼《まつさお》な顔をして、彼は俄か にベンチからフラ/\と立ち上ると、|慌《あわ》てて場のそ との方へ歩み去った。第三部の方では、彼が|僅《わず》かの|思 惑《おもわく》を試みている、横浜倉庫株の二っほど手前に株が立 会われていた。今の彼には、その株の高下ばかりが、 彼の生活を活かしも殺しもするのであったが、彼はも う株の立会を見るだけの興味も勇気もなくなってしま っていた。その時もしも彼のそばにいて、蒼い顔をし てフラ/\と場から出て行く姿を見た人があったなら ば、恐らく思惑に失敗して、喪心してしまった人間と も見たであろう。がそんな風にして、彼は危険な場所 からでも逃げ出すように、アタフタと取引所の中から そとに出てしまったのであった。  山口が毎日通う店に帰って来たとき、そこには彼の 仲間が三四人、探偵小説や講談雑誌を眺めながら、退 屈らしい顔をして坐っていた。その人達もつい一月ば かり前まで、直取引が盛んに行われていた時分には、 ともかく|口銭《こうせん》取りや|棒先稼《ぼうさきかせ》ぎで収入の道もあったのだ が、不意にやられた直取引の禁止とともに、商売は上 ったりとなってしまって、いつ解禁になるとも知れな い日を待ちながら、たゞこうして毎日店に通って来て は、自分でも苦しい無為の時を過していたのであっ た。それにまた、遊惰な暮しと、|泡《あぶ》く銭を取りつけた 習慣に、いつ成金になれるかも知れないという、自分 にもあてのつかない空想が、骨の髄までしみ込んでし まっている彼等には、今こうしてその日その日に困る ようになっていても、俄かに商売がえをする気もな く、それかといって苦しい労働に飛び込む勇気はまる で|失《な》くなってしまっているのだつた。  風通しの悪い暑苦しい店の片隅に、彼等がごちゃ ごちゃと固まって坐っているのを眺めた時、山口の疲 れた心は、また一層暗くなった。彼は店の上へ上る気 も起らないで、ぼんやりと土間の隅に立っていると、 『どうしました、横倉は』と敬ちゃんという男がいき なり尋ねた。 『まだ立会にならないんだ。どうせ持合だろ』と山口 はそっけなく答えたが、『どうだい、これからみんな で船へ行かないか』と彼も苦しまぎれについそんな事 をいってしまった。すると『あゝ行こう行こう』と第 一に大きな声で嬉しそうに行ったのは、この春私立大 学を出たばかりの、吉本というボートマンだった男だ った。『どうもこの店にいると、何だか窮屈で堪らな くなってくる、僕が行って学校の和船を借りるから、 皆して行こうよ、ねえ敬ちゃん』と彼は自分のそばに いた敬ちゃんの同意を|促《うな》がした。 『船、船は好いね、毎日こうやってじっとしているん で、全く身体が変になってしまった』 と探偵本から眼を離した、謙ちゃんという男も、すぐ にそれに同意した。彼等もやっぱり、この狭苦しい店 に坐って、あてもない空想と、苦しいその日の考えか ら、一時も早く逃れたい気に迫られていたらしかっ た。  一時間ほどたってから、山口の仲問の五人の者は、 M大学の|艇庫《ていこ》につないである、大きな和船に乗ってい た。そして山口は熱心に|櫓《ろ》を押していた。彼はそうし て、この炎天の下で運動して、身体中の汗を流し出し てしまったら、少しは気持もよくなるかも知れないと 考えて、夢中になって櫓を|漕《こ》いでいたのであつた。一 度大川の上流まで漕ぎ上って、下げ潮に乗って下って 来た時、彼等はその船を枕橋の下に|繋《つな》いだ。橋台の太 い柱に船をもやって、やつと船の中に坐った時、山口 はほっと息をついて、初めて川の面をゆるくと眺め 渡した。|濶々《ひろ/\゛》とした川面には、真夏の午の光がちか ちかと輝いて、向島の土手の上にも余り人通りは沢山 なかった。橋の上を人や|俥《くるま》が通る時には、ごろノ\と いう音がして汚い|砂埃《すなほこり》が落ちてくるようにも思われる のが、彼の気持を悪くはしたが、それでもこの涼しい 陰をもつ、橋の下から動き出そうとは思わなかった。 山口が黙ってぼんやりと坐っていると、川の流れは船 を静かにゆるく|揺《ゆる》がせた。 『どうしたんです今日は、恐ろしく顔色が悪いじゃあ りませんか』と敬ちゃんはその時気づかわしそうに彼 に尋ねた。山口は、 『何だか気持が悪くってね』とそれに答えたが、彼に もどうしてそう気持が悪いのかは解らなかった。昨夜 酒を呑み過ぎた事も、無論その原因の一つには違いな かったろうが、それにしても、いつもの気持の悪さと はまるでたちの違うものだった。彼はそれっきり黙っ てじっと橋台の太い柱に見入っていた。大きな太いそ の柱には、川上から流れてくる水がぶつかっては、小 さな渦をまいてぐるくと流れて行った。濁った水は また、その船のすぐ下にも、青黒く淀んで、どろ/\ と流れて行く。彼はその時、不思議にもその汚い水の 流れに|魅入《みい》られたようにじっと眺め入っていた。何だ か知れない|藁屑《わらくず》のようなものが水にもまれて眼の前を 過ぎて行った。その次には短い棒片が、踊るようにし て通って行った。じっと眺め入ってると、底の知れな い汚い水の流れが、えたいの知れない暗欝な、何の手 がかりもないような寂しい世界へ、彼の心をだん/\ と引きずり込んで行ったのだった。それがどういう動 機であったのだかは、彼自身にも判らなかった事だっ た。何とも知れない不思議な発作に襲われた山口は、 フラノ\と立ち上ると、水の面を目懸けて飛込むとい うよりは、|寧《むし》ろ落ち込もうとするように、その前半身 を船からそとへのめらせかけた時だった。 『危いっ』という声と共に、吉本が彼の衣物をつかま えて、後ろに力強くぐっと引いた。山口は力なく、ぐ たりとそこに尻餅をついた。そして、蒼い顔をして、 『はゝ』と勢のない笑い声を洩したのだが、その瞬間 に、彼の身体の中を恐ろしい死の戦慄が、電気の様に ぞっと流れたのであった。 『どうしたんです君、危かった、もう少しで落ちると ころだったのに』と吉本は不思議そうな顔をして尋ね た。 『全く危かったね』と敬ちゃんも、何か腑に落ちない ように口を出した。 『いゝやね、小便をしようと思って立つたんだけど、何 しろ身体がふら/\してやがるもんだから』と言って 山口は薄笑をしながら、『落ちれば徳利だからブク!\ と行っちまうところだったのに』と言つて誤魔化して しまったが、彼の心の中はまだひどい恐怖にびく/\ と|戦《おのお》いていた。 『帰ろうじゃないか、ねえ君、そうして陸に上ったら どっかで湯へ入って行こうよ、何だか恐ろしく疲れち ゃった』と言って山口は船の中にごろりと横になって しまった。|脅《おぴ》えた彼はもう再び水の流れを見るのさえ 恐ろしくなっていたのであった。 『その時からなんだよ君、僕はもう再びあすこへは行 くまいと思ってね、家へ引込んでぼんやりと暮してい たんだ。けれども然し、どうして僕はそう俄かに発作 的に水へ飛込みたかったかは自分でも中々判らなかっ た』と話してしまうと、山口はまた薄ぼんやりと笑っ た。 『で、それでどうして山へ行こうっていう気になった んだい』と今度は友人のTが尋ねた。 『いやそれからなんだ話はね、それから後も僕は、黙 ってじっと家へ引込んで暮していた。するとね、毎朝 のように眼が|醒《さ》めると、丁度身体が宙に浮んでいるよ うな、変な|寂蓼《せきりよう》を感ずるようになってしまったんだ。 何といって好いかな、つまり、世間とは何の交渉もな ければ、そうかといって、自分自分がはっきりと充実 もしていない、生きたとも死んだともつかない状態の 延長なんだ。実際僕はそれが為に長いこと苦んだ。何 しろこっちの頭には、例の精確な理解という奴がなく って、何かしらもや/\っと起ってくると、あとから 一生懸命になって考えてみるだけの人間だからね、さ てどうして自分がこんなに気力のない、生きたくも死 にたくもない、いや生きてるとも死んでるともつかな い人間となってしまったのか、という事をさん/\゛に 考えたが、この頃になってやっとそれは、エゴイスト の落る地獄だという事が判ったんだ。僕も最初|兜町《かぷとちよう》 へ十年振りぐらいで逆戻りをした時には、金を|儲《もう》けて あれをやって、これをやって、という希望を沢山持って いたんだが、さて毎日々々あの気狂じみた生活をして いる中に、その日のつまらない生活に疲れては、夕方に なると酒を飲んで歩くようになった。つまり今度は、 今夜はどうして酒を飲もうかという為に働くようにな ってしまったんだ。そうして最初持っていた希望から は、いつか離れてしまっていた。その中に僕の望んで いたような状態に対する要求が世の中にはだん/\|熾《さか》 んになって来たが、僕はもう、それに参加する気力さ えもなくなってしまったのだ。つまり君、直《ジキ》が禁止に なると、ぽんやり講談本を読んでいる手合と何の変る 所もない生活さ。が、まあ然しそれでも、東株だ郵船 だって駆《か》けずり回って、夕方に小粋《こいき》な料理屋で一杯や って満足していられさえすりゃ申分はないんだけど、 矢張りどうも、いくら誤魔化しても、誤魔化し切れな いのは、心のどっかに|潜《ひそ》んでいる、要求という奴だ。 たゞその要求だけが、自分を本当に生かしもすれば、 世の中とも本質的に|繋《つなが》っているのだのに、それを君、 強いてぶっ切って、自分だけ一人で暮そうとするもん だから、いつの間にか、魂は逃げちまうし、身体は宙に ぶら下ったように、頼りないものになってしまったん だ。そうして時には、こんな事じゃいけないって、心 のどっかから頭を出そうとしてくると、酒でもって自 分では|甘《うま》く誤魔化したつもりでいる中に、今度は君、 もう何をするにも指一本動かす勇気もなくなってしま ったんだ。魂のない人間に、何が出来るわけはないん だが、人間っていう奴は、また殊に僕のような頭の濁 った人間には、中々そんな事に気がっかないで、マゴ マゴしている中に、今度は全く生きる力もなくなって しまったんだ。そうして君、あの薄汚い水の中に危く 吸い込まれそうになってしまったんだ。生きるだけの 気力のない人間は、死の方に余計誘惑されるのは当然 の事だ。僕は当然にそうなって、危くくたばりかけた 事に気がついた。それでとうとう山ヘ行く気になった んだよ』と長い話を終って、彼はやっと前にあった盃 をとって|乾《ほ》した。 『|然《しか》しそれで山ヘ行くっていうのは少し変だね』と今 度はKが冷笑するような顔で言った。 『変だよ実際、自分でも変だと思っている。然し、今 の僕には山へ行きたいという要求が、一番強いから、 山へ行くより|外《ほか》に仕方がない。自分でも時になんだ か、こう、マソヒズムみたいな気もするし、遊戯的な 感じもする。けれどもこれだけの家族を|引抱《ひつかゝ》えて、山 へ入り込んでしまうのは相当の決心も覚悟も必要とし た事だ。山へ入って一人してぽつねんと考えて居た ら、本当に何をしたら好いか、どこへ進んだら好いか が判るかも知れない。或いはまた、自分で|何《いず》れへかへ 本気に進みたくなって来るかも知れない。それでなけ れば困り切って死んでしまうか、労働でも何でもする 気が起ってくるか、それの決るのも大して遠い事じゃ ないと思っているんだ』と曇ったホヤのような頭の中 から、やっとそれだけの事を話してしまった時、山口 は|漸《ようや》く清々として、 『今夜はまあうんと飲んでくれ給え』と言って、彼は 前にいた友人に盃をさした。座敷にあった机も本箱も 売払ってしまった部屋の中は、いやにガランと淋しく なってはいたが、それでも彼の心は、どこか軽々と なっていた。けれども彼の友人達は、その晩はさすが にいつものように酔って歌をうたったり、悪くはしゃ ぐような事もしなかった。彼の話が終ってしばらくす ると、皆はぽつ/\と寒い町の方へ帰って行った。  その翌日も山口は終日家にいて、荷物の整理などを やっていた。いつもならば、 一月もまだ七草前である その日頃には、友人の家から家へと飲み歩いて、自分 の存在さえ忘れてしまったり、知りもしない人の家で 眼を醒して、俄かに驚いて極りの悪い思いをしなけれ ばならないような事を繰り返している事が多かった。 それでなければ、新年といえば極って不思議な哀愁と 寂蓼におそわれて、ぼんやりと暮す事が多かった。け れどもその日の彼は、これからどう変って行くか自分 にさえ解らない、自分の蓮命に対する|危倶《きぐ》と興味と、 それからまた近く行くベき山の中の寂蓼を極めた生活 に対する予想とで、彼の心は一杯になっていた。午過《ひるすぎ》 になって尋ねて来た、大野という友人と、彼はまた酒 を飲み初めた時にも、愉快らしい顔をして快活に話を 続けていた。表ての方で聞えていた。|凧《たご》の唸りの声も だんノ\止んで来て、|硝子《ガラス》のそとが薄暗くなりかけた 時分であった。山口の所にY署の刑事が尋ねて来て、 『いまT署から電話がかゝって来て、あなたにすぐ電 話口に出てくれといって来たのです、が』と知らせて行 った。 『何だいT署の電話っていうのは』と大野は不思議そ うに尋ねたが、山口にもそれがどんな用件であるのか 見当さえつかなかった。 『僕にも何だか判らないんだが、ともかくすぐ行って くら』と言って彼はすぐそばの警察へ駆けて行った。 電話口に出ると聞きなれた高等視察の声で、 『実はね、咋晩杉野君が、石田君を斬った事件に|就《つい》 て、杉野君を一応こっちへ拘留したんですがね、どう も逃走の|倶《おそ》れもなさそうだし、正月でもある事だから 身柄引受人さえあれば帰そうと思って本人に話した ら、あなたに保証人になって貰いたいという本人の希 望なんですが、どうでしょうか』と尋ねて来た。山口 はその突然の出来事に、そして、どうして杉野が石田 を切ったのか判らないのに驚いて、 『え、杉野君が石田君を切ったって、どうしてそんな、 事が起ったのか知ら』と尋ね返した。 『いやそれはこっちヘ来て本人に聞いて頂きたいので す。それで要するにあなたが保証人になってくれるか どうかをお尋ねしているのですが』と高等は更に尋ね 返した。 『いやそれは無論なるさ、今からすぐに行きます、と 杉野君に言っといてくれ給え』と言って彼は電話を切 った。そして急いで帰ってくると、一人ぽつんと酒を 飲んでいた大野に、 『君、杉野が石田を斬ってT署に引張られているんだ そうだ。それで僕に身柄引受人になれというんだが、 君も一緒に行ってみないか』  と言いながら、彼は外套を着始めていた。 『うむ、行って見よう、然し君、杉野はスパイだって いう噂があったんだぞ』と大野も立ち上りながら言っ た。 『そうかね、ともかく行って見ようじゃないか』と二 人はすぐそとに出た。  山口は電車に乗ってからも、杉野の事をしきりと考 えていた。この前の年の四月に花見の会があった時に も、石田はしきりと杉野に喰ってかゝっていた。杉野 の話では、それはこの頃杉野が余り感情的に物を言う 為に、石田が彼を非難した事から始まったのだと話し ていたが、その時は一年ほどの間に俄かに大胆に勇敢 になった杉野の心持は判るまでも、疑う気の起らなか った事を彼は思い出していたのだった。それにして も、近頃細君を失って、|後添《のちぞい》の人が来たばかりな上 に、子|煩悩《ぼんのう》な杉野がどうして人を斬るまでに興奮した のかと彼は疑った。多くの集会の席上で感情的に露骨 に物を言う人問が排斥されやすい傾向のあった事は、 今までにも幾度かあった。もし原因がたゞそれだけと するならば、自分は無論杉野の方に味方しようと彼は 考えていたのであった。  T署の応接間に来た時、|顔馴染《かおなじみ》の高等視察はすぐに 出て来て、 『いやどうもご苦労でした。杉野君もつまらない事を やってね』と言ってにや/\と笑った。 『でそれは、君の方でその事件を知ったのか、それと も誰か告訴したのか、どっちなんです』と山口はすぐ に尋ねた。 『いや私の方は知らなかったんですがね、.右田君の代 理で訴えがあったものだから、杉野君を引致したんで さ』と高等は皮肉らしく笑った。 『アナキストという人間が、仲間内の事を警察に訴え るなんて』と山口は心の中で|呟《つぷや》いた。 『そりゃ面白いね、警察へ訴えるなんて変じゃない か』とそばにいた大野も面白そうに笑った。そして、 『ねえ君、まあ好いから杉野君をこゝへ連れて来給 え。そうして一体どうして石田を斬ったんだか僕達が 聞いてみようじゃないか、ねえそれが一番確かな話な んだ』と言い足した。 『いや取調べはもう済んでいるんですよ、何につまら ない酒の上からの事らしい。それでどうです山口君、 杉野君を引受けますか』と高等は手間取るのを恐れる ような顔をして尋ねた。 『引取るって言ったんだから引受けよう』 と言って山口はすぐに身柄引受書を書き始めた。酔の 少し回って来たらしい大野は、 『警察なんてこんなつまらない事にぐず/\してたら 駄目だよ、もうじき××が来ちまうから、その時は君 達はどうする』などと、高等相手に面白そうにからか っていた。山口が引受書を書いて渡すと、高等は扉の 向うに姿を隠したが、やがて杉野を連れて戻って来 た。 『何うしたの君』と山口がいきなり声をかけると、 『いやどうも有難う』と杉野は笑いながら挨拶をした が、彼の顔には、いつものような元気がなかった。 『まあどうか、喧嘩の原因は杉野君からよく聞いて下 さい。それでは山口君どうかよろしく頼みます』とい って高等が立上ったので、三人は警察の門を出た。そ して坂一つへだてた向うにある、友人の家の二階で話 をする事にきめて、彼等は電車に乗ってしまった。I l私の方は知らなかったが、向うから訴えがあったも のですからーといって、皮肉に笑った高等の顔を、 山口は不快な気持に思い出した。友人の家の二階に上 って腰を下した時、 『どうして君、そんなに石田君なんか切る気になった んです』と山口はすぐに杉野に尋ねた。 『いや|彼奴《あいつ》がね、いっでも僕の事をガボン僧正だ、ガ ボン僧正だって言い触らすんで、余り|癪《しやく》にさわるから とうとうやってしまったんです』と杉野は|口惜《くや》しそう な顔をして答えた。 『だって君、それはもういつかの花見時分からの事じ ゃないんですか、その時分は君が感情的だからいけな い、何でも自分の主張ばかり押通そうとするので排斥 されたっていう風に聞いていた。それがこんだは、ガ ボン僧正だっていうのは、つまり君がスパイだってい うんですか。そうして君、何かそんな風な事でもあっ たんですか、それは判然言っておいて貰わないと困る んだ。どうせもう斬合まで初めた以上、隠したって仕 方がない事だから』と山口は再び尋ね返した。 『そんな事があるもんですか、結局僕が、いつも集会 に出るたんびに感情的に物を言うのが石田の奴の癪に さわっていたものだから、初めは暴君的だなんて言っ ていたのが、だん/\悪くなってそんな事言いを出し たんですよ、そうしておまけに去年の暮には、原田の 家へ行ってまた、そんな事を言ったというのを聞いた もんだから、癪にさわって、一昨日の晩の新年会で、 彼奴をイキナリ斬ったんです。もし僕が本当にスパイ だっていうのなら、そこにいた人間が僕を許すわけが ない筈だ』と言って杉野は唇をぴり/\と震わせた。 『それは本当にそうだ。僕達の仲間でスパイと言われ る事は、恥辱位の話じゃない、致命的の打撃なのだ。 今の僕なんかは、いくらスパイに来られても、|嗅《か》ぎ出 される程のことさえないのだから、|寧《むし》ろ恥かしい位だ が、それでも彼奴はスパイだと言われれば、どんな親 しい友人にでも用心をする事になってしまう。スパイ という噂を立てる位、完全に中傷の目的を達する方法 は外にありゃしない。それだけにもしそれが誤ってい たら、一番陰険な卑劣な方法だ。君がスパイをしない のにそんな事を言われたのなら、怒って斬るのが寧ろ 当然だ。それを何だってあの連中は石田君の代理まで して、君を告訴したのか知ら、それにふだんから、ア ナキストだと自称して、警察は仇のようにしている人 間じゃないですか、敵の事なら知らない事、仲間の事 まで訴えるなんて、僕はどうしても解らない』 『そりゃふだんからのいきさつがあるからですよ、つ まり皆が僕を邪魔にし出して来たのだ』と杉野は急い で山口の言葉を|遮《さえぎ》った。 『然しそれは|可笑《おか》しい、もし君が皆の仕事の邪魔にな るならば、|少時《しばらく》君は会に出るのを遠慮してくれって言 っても差支えないわけだ、何もスパイにまでしてしま わなくとも好いわけだが』 『だからほかの者はそう言わないのだ。そうして石田 がそう言うのを黙って許していたわけでしょう』 『それならば君益々けしからんじゃないですか、そう してその上に、君が石田を斬るとすぐに告訴するなん て、まるで御殿女中のやり方だ、どうせ君、石田君を 斬る位の覚悟を持った以上、どっちにしたって同じこ った。これからあの連中のいる所へ押しかけてって、 果して君がスパイであるかないか確かめて、いよく 判らなければ、もう一度喧嘩したって好いじゃない か、もし君が真実スパイでもないのにその悪名に|陥《おとしい》れ ようとするような奴ならどんな事をしたって|差支《さしつか》えな いわけだ』と言って、山口はすぐにも立上りそうな権 幕をしめした。 『その方がはっきりしていて面白いさ、杉野君がスパ イでなけりゃ、本当に何をやっても差支えないわけ だ。向うもまたそれに対して苦情の言えた義理じゃな い』と大野も一緒に立ち上る気勢を示した。山口はそ の時、杉野も喜んで、すぐにその家の階段を駆けてそ とに出ることと期待していた。けれども杉野はじっと して動かなかった。そして蒼、日くなった顔に、困惑し たような色を浮べて、 『君、それは今日だけはよしてくれませんか、僕は ね、実際警察にいても子供の事が種々と心配になって いたし、家の方でも実際僕が帰らないと弱る事がある んです。だから、今夜はどうかよして下さい。それに 僕は、もう少し落着て、君によく話したい事もあるの だから』と言って、立ちかけた二人を無理に押し止め た。それだけの覚悟を持って、石田に斬りつけまで した人間が、俄かに家の事を案じ出したのも、山口に は変な事に思われた。けれども自分にも|憶《おぽ》えのある、 興奮状態の過ぎ去ってしまってからの寂、蓼のある事を 思うと、彼は|強《しい》て自分の説を主張する気にもなれなか った。 『そうですか、然し僕はこの二三日中に家中で、少時 山籠りをしようと思っている。君をお尋ねする事も出 来ないかも知れないが、然し君が飽くまで彼の連中と 闘う覚悟なら、僕はどこまでも君と」緒に闘おうと思 っている。然し最後まで君を信じ通すのは僕だから、 その僕が欺かれた時には、君に対して何をしても差支 えないという事になるのです。それは者も判っている でしょうね』と念を押した。 『えゝそんな事は大丈夫ですよ』と杉野は軽く笑っ て、念頭にもない事のように打ち消してしまった。  杉野と別れてから電車に乗った時、 『杉野の奴は少し怪しいよ、しかしスパイにしたって けちな小犬だ。大した事はしやしないが、それにして も気を付けた方が好い』と大野は山口に|囁《さゝや》いた。 『そりゃあそうさ、一度スパイだって言われた以上、 僕が今迄彼にどんなに親しくしていたって、それだけ の用心はしなけりゃならない。がまたそれだけに親し さを破られた事が真実なのかどうかを疑うんだ。それ 江また彼奴はそれほど楽な暮しもしてはいないじゃな いか、僕の家へでも始終借金ばかりしに来るんだ。そ んな生活をする為に、友達を売ったり主義を利用した りして暮す位なら、魚を売るか、土方でもした方がど んなに気楽だか知れやしない』と山口は言った。 『そんな事をして働く量見がある位なら、スパイなん かしやしないさ』といって大野は大きな声を出して笑 った。 『それもそうだね』と答えて山口も笑ったが、彼はす ぐに杉野の困る困ると言いながらも、小綺麗な生活を 続けている事や、当然巻き添えを喰わなければならな かったような事件にも、安閑として暮していた彼の態 度を不思議にも考えた。然しそれにしても、その本当 の具体的の証拠の上らない限り、スパイとして|斥《しりぞ》ける のは、寧ろ卑劣だと思う心の方が強く働いた。長い間 仲間外れとなっていた人達に対する反感が、彼の胸に は一層強く燃え上った。もし杉野が本当にスパイでな かったら、その時こそ彼等の卑怯な態度を|飽《あく》まで責め つけてやろうと彼は心に決していた。  三日ほど経ってから、彼は遠くの山の僧院の人とな ってしまっていた。静かな山の中の生活は、彼の疲れ 切った神経を少しずつ回復させていた。山口が山に 入って少時してから、彼の手許に、彼等の仲間を代表 した三名の人の名によって、杉野平吉がスパイである 事を公然と発表した通知状が送られた。それと同時に 杉野からも、原稿紙十枚にもわたるほどの弁明状が来 たのであった。静寂な山の中で静まり切っていた山口 の神経は、その二つの手紙の為に極度に興奮させられ てしまっていた。iもし自分に東京へ帰る旅費と時 間があるのならば、この手紙を携えて代表者の所ヘ押 しかけて、眼の前に黒白を決しさせてやるのだがー と彼はその手紙を持って、堪らなくなって部屋の中を うろつきながら、三日ばかりの日を興奮の中に送って しまった。  そして彼はその代表者に対しては、具体的の事実を 示してくれと言ってやった。それからまた他の友人に は手紙を引写して送ると共に、その人の意見を徴して やった。代表者の一人からは何れ逢った時に話すとい う返事が来た。スパイをした人間の行った事実を手紙 の中に書けないのは、当然な事に思いながらも、彼に はそれが何となく物足りなかつた。更に外の友人から の返事には、自分は矢張りこの疑われた人間よりも、 こゝに代表した人間を信ずる以上、彼が何と弁明して も彼をスパイと認めるより外に道はない。そして、こ の友人も杉野の為に一度危地に陥れられた事があると 思う事を折返して言って来た。それ等の事実には、山 目も携っていた事だけに、彼は何か新しく胸に|応《こた》える ものがあった。然しそれでも彼はまだ杉野をスパイと は認め切る事か出来なかった。いや或いは寧ろ、そう 認めたくなかったのかも知れなかった。そうしてもし も、杉野が本当にスパイでないという事が証明された 暁には、とまだ頼りにならない事を頼りとして、心の 隅に残しておいた。  一と月ほど経ってから、同じ山に来て暮していた角 野が、少時東京へ帰って行って、再び山に登って来た 時の事だった。 『なあ山口、こないだ俺が下谷のあの馬肉屋へ行った んだ。杉野の女房になってる女がいたという家さ、そ うして俺があすこの女中に杉野君はこの頃くるかい、 ほらお前の家にいた人をお嫁にした人さ、と聞いたら ばよ、あゝあの警察の方とよく一緒にいらっしゃる 方?って女中の奴は何にも知らないから一一一口いやがった が、だん/\聞いて見ると彼奴は本当にスバイなんだ。 イヤ俺も本当に呆れ返っちゃった。スパイなんて、何 だってあんな事が出来るもんかと思ってよ』とその男 には珍しく膝を叩いて眼を光らして言ってしまうと、 『バカにしてやがら』とはき出すように言い放って、 |仰向《あおけむ》けにごろりとひっくらかえってしまったのだ。  山口はそれを聞いた時、曇った頭の中ががらくと くずれてしまったような感じがした。そして、俺はど うして何時までも、彼奴を信じたがっていたのだろう ーと自分で自分を疑った。けれどもそれは結局杉野 を信じたかったのでも何でもなかったらしく彼には思 われた、それは魂の抜けた精気のなくなった人間が、 あらゆる危険を|冒《おか》しても、苦痛を忍び貧乏に堪えなが らも、生々と暮している人間に対する嫉妬であるとし か彼には思えなくなって来た。大川の濁った水が、彼 の疲れた身体を吸い込もうとしたように、がらん洞に なった彼の心の隙間を狙って、杉野がひそかに忍び込 んで来ただけの事に違いなかった。或いは杉野はそこ で自分の仲間らしい姿をさえ発見したのかも知れなか った。  そう思うと山口は、俄かに顔がかっと赤く なって来て、冷たい汗が脇の下から流れ出した。そし て、 『そうかねえ』と言うと共に、彼もごろりと仰向にな って、太い息をほっと吐いていたのであった。                       (大正十二年)