米沢騒動 三田村鳶魚 上杉綱勝毒殺の伝説  吉良義央がその妻の兄上杉播磨守綱勝を毒殺したということは、『藩翰譜《はんかんぷ》』に書入 れがしてあったので、相応に注意されているが、何にせよ、毒殺だけに、証拠の明白 なものがない。米沢へいって聴いてみると、昔から坊間に、綱勝毒殺の伝説はある。 それを採録したものには、『米沢史談』がある、その『米沢史談』の記載は、  綱勝ハ定勝ノ子ニシテ、正保二年十一月、父ノ基業ヲ継グ、時ニ八歳ナリ、綱勝ノ  妻ハ、会津ノ城主保科|正之《まさゆき》ノ女ナリ、綱勝年長ジテ子ナシ、妹アリ、吉良上野介義  央二嫁シ、一男ヲ挙グ、綱勝一日其妹二謂テロク、吾二子ナシ、他日、汝ノ一子ヲ  得テ嗣子トセント、義央好俵ニシテ邪智アリ、之ヲ聴テ心|霜《ひそか》ニ悦ブ、上杉家ヲ横領 シテ其財ヲ掠ムルハ、此ノ一語二在リト、寛文四年閏五月一日、綱勝ヲ招キ、毒ヲ 食二入レテ之ヲ饗ス、饗了ハリ、綱勝帰途二就ク、輿中腹痛、血ヲ吐ク数升、大二 苦悶スルコト七昼夜、終二卒ス、年二十七、此時近侍頭福王寺八弥、須曳《しゆゆ》モ左右ヲ 離レズ、血二染ミ看護ス、八弥、本ト鳴島村ノ民渡辺久右衛門ノ子ニシテ、容色甚 美麗ナリ、綱勝嘗テ鳴島村二遊ビ、某寺院二休ス、八弥出テ茶ヲ献ズ、綱勝其美ヲ 愛シ、輿ヲ共ニシテ帰リ、寵遇日二盛ニシテ、遂二近侍頭二至ル、八弥賢ニシテ器 才アリ、此変二逢フヤ、保科正之ト謀リ、先ヅ嗣子ヲ定テ、而後喪ヲ発セント欲ス、 然ルニ、譜代恩顧ノ家人、中条知資、千坂高治、沢根恒高等、夙《つと》二八弥ガ微賎ヨリ 起テ権ヲ専ラニスルヲ妬ム、今亦嗣君擁立ノ功、八弥ノ手二帰センコトヲ濯《おそ》レ、霧 二吉良義央ト結托シテ、敢テ其議二従ハズ、先ヅ喪ヲ発ス、是二於テ、上杉二嗣子 ナク、家将サニ絶セラレントス、因テ、急ニ義央ノ子ヲ以テ養嗣子トナシ、漸ク祖 先ノ祀ヲ存スルヲ得タリ、是保科正之斡旋ノカナリ、当時ノ閣老酒井雅楽頭ノ達二、  播磨守卒し、実子無レ之、養子を致置くと難も、存命中|不《じやう》レ達二上聞一《ぷんにたつせざる》故、跡目|不《たつ》  レ可《べから》レ立《ず》と雛も、久家且甥を以て養子と為すの儀、保科肥後守達二上聞一故、苗字  御立被レ下、知行の儀米沢十五万石、被レ下二置之一、新規御取立程の儀と可二心  得一云々。 福王寺八弥ハ、綱勝ノ遺骸ヲ奉ジテ、紀州高野山二登リ、喪スル三年、米沢ノ事日  二非ナルヲ察シ、家族ヲ携ヘテ会津二|奔《はし》ル、人之ヲ藷スル者アリ、正之日ク、米沢  二人ナシ、忠ニシテ身ヲ全フシタル唯一ノ八弥アル而已《のみ》ト、遂二之ヲ禄ス。 こうである。 綱勝の病状 江戸家老千坂兵部の日記には、 一、閏五月朔日夜半自御腹中御痛、道是崩亜はつとくさんを御服用させ申候へば、  夜明迄七八度御とぎやく被レ成。 一、二日之晩自三日迄、内田玄勝臨鯛御療治也。 一、四日之晩自井上玄哲御療治、山下友仙針欽、同日自御腹以之外はり、御苦みつ  よし◎ 一、五日に御とぎやく、小豆のにしるの様なるを御はき被レ成。  一、六日之昼、御床之上にて御大便三度通る、然共、御腹張之事同前、御脈に数   有レ之由也。  一、二日自六日迄、おも湯被二召上η  一、七日卯之刻往生被レ成也。 とあるが、『綱勝年譜』には、「寛文四年閏五月朔、御登営あり、同日晩景より御病痢 に罹らせ玉ふに付、内田玄勝法眼医療あり」とあって、この日に、綱勝が式日登城を したのは知れているが、その帰途に吉良邸へ立ち寄ったことを書いたものを見ぬ。病 状はいかにも怪しいが、これだけで、毒殺の嫌疑はあるとしても、義央を下手人に擬 するには足りない。一体、毒殺の目的は、義央が長子三郎を養子にさせて、婦家の三 十万石を奪うにある。しかし、綱勝を殺しさえすれば、必然吉良の埣がその相続人に なれるというのでない以上は、折角毒殺しても徒労である。故に、四囲の事情を考え て、吉良三郎が養子になれるか否かをたしかめなければ、毒殺事件を肯否することは 出来ぬ。 吉良義央の艶聞  播磨守綱勝は、先代弾正少弼定勝の庶子である。定勝の正妻は鍋島信濃守勝茂女 (市姫)で、寛永五年十一月五日に徳姫、同十年十一月二日に虎姫の二女を挙げた。 そして同十二年六月三日に没した。亀姫(同十四年五月二十二日)・綱勝(同十五年十 二月二十二日)・三姫(同二十年六月十一日)の一男二女は、側室生善院の出である。 この生善院は、近衛家の家来斎藤内匠頭の娘で、名を千といった。上杉家へ来たのは 寛永十四年で、定勝夫人の没後三年目、その人り二十三の時である。生善院はお腹様 であるから、綱勝の代には凄じい勢いがあった.綱勝が没した後には、いよいよ上杉 家を左右する勢力者となった。三姫は生善院の李女で、すこぶる鍾愛された。姉三人 は、いずれも大名の奥方になっているのに、三姫が一人だけが、高家のような貧乏な ところへ嫁したが、米沢の伝説では、三姫が吉良義央に恋煩いをした、生善院は吉良 などへやるのは不本意であったけれども、恋煩いというのに困って、余儀なく縁組を したという。吉良は美人系で、現存する三河華蔵寺の義央の木像、および米沢鳳台寺 の綱憲の木像でも知れる。綱憲入嗣の後は、上杉家にも容貌の秀麗な人が多かった。 三姫はついに義央の婦となった。十六歳で万治元年に輿入をした三姫は、二十一歳の 寛文三年十月二十八日に、三郎を産んだ。生善院は鍾愛する季女の初つ子、その喜び は思いやれる。しかし、兄の綱勝が、我に子なくば、他日汝の児を嗣子とすべし、と 妹にいったというのは肯《うけが》われぬ。この時綱勝はまだ二十六歳の壮齢であるから、決し て、児子があるの、ないのと、きまったことを言うべき時ではあるまい。『上杉年譜』 に従えば、十月に生れた三郎を綱勝の養子にせよ、と生善院から在米沢の綱勝へ、清 水少右衛門を使いに立てた。綱勝がこれを承知したので、翌年正月十八日には、三郎 を桜田の上杉邸へ呼んで祝宴を開いている。二月八日からは、三郎を上杉ヘ引き取っ てしまった。それで綱勝は、四月十二日に江戸ヘ参観し、自邸で初めて三郎と対面し たのである。この年譜は後で編纂したものであるから、油断がならぬ。もしその記載 が事実ならば、綱勝が暴逝しても、嗣子がなくはない。すなわち、養子三郎がある、 末期の急養子ではなく、前年にきまった養子である。何も上杉家が封地を半減される 理由がない。それが『福王寺八弥由来書』に、「寛文四年、播磨守綱勝様御逝去之節、 喜平治様(吉良三郎改名)御養子に被レ成度御遺言も、八弥、中将様(保科正之)に申 上候」ともあるし、酒井雅楽頭の演達《えんたつ》を見ても、 吉良三郎が綱勝の養子になっていないのが知れる。 仮養子の慣例  三郎を桜田の上杉邸へ置いたのは事実である、しかし、『上杉年譜』は、故意に矛 盾した記載を採用したものと思われる。当時の入名は、慣例として仮養子をする。仮 養子というのは、お暇が出て帰国する時に、在一一四中の不慮に備うるため、養子の名を 密封して、老中の手許まで差し出しておき、出府するとその返付を求める例なのであ った。これは親族中の一人を仮に申告しておくまでのもので、真に形式に過ぎない。 故に老中の方でも、決して開封しないのが例で、本人が無事に出府するまで、保管さ れたのである。「予が親類の一侯、在所に往くこて亡父の時、其弟の末家を継せたる を仮養子に願置て立しが、間もなく在所に於て疲したり、定て家頼《けらい》などの所為か、仮 養子の願書を申下して別人を願替て、残後に某氏養子となり、養父の忌服を受たり、 然ば、仮養子の願書は自筆調印の例なるが、印は人も押すべし、自筆は誰が書せしに や、近来の新事と云ふべし」(『甲子夜話』巻四)というのでも、仮養子願いの消息が 知れる。しかるに、『上杉年譜』は、仮養子の事実を把って、巧みに三郎が綱憲にな る経過を糊塗する手段にしたのであろうが、誰もその手は喰わない。仮養子であるか ら、四月十二日に綱勝が出府すると、前に呈出しておいた密封は、そのままに返却さ れる。そして、五月七日に綱勝が逝去した。すたわち、嗣子がないことになる。こう 解釈しなければ、酒井雅楽頭の演達と抵触する。それで、もし綱勝が米沢にいて病死 すれば、老中は保管してある密封を披《ひら》き、指定してある相続者に襲封させるのである。 故に、三郎が仮養子になって後、綱勝を米沢で殺せば、三十万石は曲折なしに吉良氏 に帰する都合である。綱勝の出府を待って手を下せば、仮養子の効果を獲られぬのみ か、綱勝が没して、嗣子がないとなれば、当然上杉家は改易されてしまうのでみれば、 何のために毒殺するであろう。 保科正之の養子論 保科肥後守正之は、綱勝の岳父である。上杉へ嫁したその娘春子は、万治元年七月 二十七日に没してはいるが、姻戚であるから、「土津遺事《はについじ》』にも、「上杉播磨守残す、 実子なく士民安堵せざるを以て、命あつて、米沢の仕置の事、公これをあづかりき」 し」とあるがごとく、正之は米沢侯家に干繋しておった。中条・千坂・沢根等が、八 弥の正之によって継嗣を定めんとするを遮り、古良義央と結託して、急に綱勝の喪を 発した、と『米沢史談』にあるのは、いかにも粗雑な言い方である。「上杉播磨守殿 御病気大切にて、御跡目も不レ被レ成二御坐一候闇.、井伊掃部頭殿、酒井空印殿、御相 談有レ之、御末男新助様(正統)御事御養子可レ然旨、御申候へども、御得心無レ之」 (『千年の松』)、それは綱勝の喪を発しない以前(旧、評議で、これを漏れ聞いて驚いたの は、生善院であろう。『米沢史談』は、八弥を遇大に視て、保科新助擁立の策を建て んとしたというが、新助継嗣の件は幕閣の評議tあって、決して米沢侯家の一家人た る八弥輩が、容易に計画し得べきでない。生善院はわが腹を痛めた綱勝を失った上に、 その跡を保科正之の子に取られては、身も蓋もないことになる。まして愛孫三郎があ る。わが子の跡はわが孫に立てさせたい。生善院の心からは、上杉氏も吉良氏もない。 わが子、わが娘、わが孫、婦女の私情として真にやむを得ない。そこで、急に綱勝の 喪を発して、養子の天降りを防ぐのであった。それがために、当主没して嗣子たく、 厳乎たる非養子論を有する人である、 まひ篤かりし時、二男新助正統をもて、 玉ふ事有しかど、言おく兼ての旨あり、 三郎、其家をつぐ、これ公の予じめ議する所なり」 の旨」というのは何か。「兼て御意被レ成候は、 当然改易さるべき事態になった。知 れたことであるのに、そうした場合 に陥ったのは、たまたまもって、生 善院が保科新助を防ぐに忙しかった 情況を、証明するものである。生善 院はお腹様で、その権威は米沢侯家 に、誰一人|拒止《きよし》する者もない。幕閣 の評議はいかにもあれ、保科正之は 生善院の心配は無用であった。「上杉播磨守や 播磨守家を嗣がしむべき旨を、老職の人々申 許容せず、播磨守没後、吉良上野介義央の子       (『土津遺事』)、この「言おく兼て     御家中子供無レ之者、養子仕候者は、 同姓の者吟味の上、養子可レ仕候、若し同姓無,之節は、不レ得レ已事に候、同姓の子 を差置き候て、他姓の子を養子仕候儀は、有る、よじき由、御教諭被レ成候」(『千年の 松』)、すなわちこれである。正之は、承応元年、初めて『小学』を読んで、深く朱子 の学を崇信し、その主張は一々に学問に根拠し方。それを正直篤実に行った人で、非 養子論のごときも、上杉に対してのみならず、「南部山城守卒、無レ子、有二二弟、遺 言云、弟皆不肖、不レ欲レ立レ之、願別有二台命エソ…レ後、幕府召二二弟一云、汝等不レ協二 亡兄之意→然惜二旧家之絶】今分二其地→賜二仲八.刀石、季二万石→先レ是老中議、以二 正純一為二之後'霊神不レ肯」(『土津霊神言行録』)、これは寛文四年九月のことで、上杉 の継嗣問題と僅かに四閲月後の話である。正+^け断じて異姓継承の非を執持するから、 新助を上杉の養子にはせぬ。その素志からみれぽ、吉良三郎の入嗣も選ばない。しか し、福王寺八弥が綱勝の病床から伝えた遺言と、生善院の私情とに考えて、米沢侯家 の安穏のために、忍んで尽力したのであろう。幕閣は正之の衷心を知らずに、再度新 助を南部家の後嗣に擬した。山城守重直は、遺言をもって後事を幕命に委ねた。上杉 とは事情が違って、全く顧慮するところがないのであるから、老中等は正之に励めた のである。正之は、係累の有無や事情の可否によって取捨するのではない、自家の学 問によって、異姓相続を許さぬのである。この時の正之の口誼は、『千年《ちとせ》の松』に、 「中将様御挨拶に、是よりさき、上杉播磨守跡目の儀は、我等娘も彼家の後室にて罷 在候事に候へば、遣候ても不レ苦程の儀さへ得心不レ仕候、南部家へは何の好身《よしみ》も無 レ之候へば、たとひ上意たりとも、達て御断可二申上一由被レ仰候」とある。毛利元雄 氏(今の乃木元雄伯)などは、梶死《さし》すべきであろう。 毒殺の否定  義央は、生善院が長子三郎を寵愛するのを知ってはおったろう。綱勝に児子がない 場合には、三十万石の相続者に、わが子がなれる、と予想したかも知れない。けれど も、仮養子になった機会に、慣例を利用する心魂で、綱勝を米沢で殺せば格別、江戸 で殺したところが、得るところはない。生善院の三郎を愛するというだけを頼みにし て、凶行をあえてしても、それが幕府に対して何の効もない。何程生善院が愛したに せよ、それが相続者たる決定にならぬのをよく知っている。綱勝の死を欲する者は、 三郎の継承という利益を望む義央のほかにはないが、その利益が望まれないとすれば、 義央も毒殺を敢行する必要がない。果してしからば、毒殺する者がない。綱勝の病状 は怪しくても、毒殺は到底否定しなければならぬ。綱勝毒殺の伝説は、『米沢史談』 にある通り、福王寺八弥を大立物とするために、一般の疑惑を来し、米沢騒動がお話 になるのである。 福王寺八弥  八弥が児小姓《こごしよう》をしていたのは、南置賜《みなみおいたま》郡広幡村字成島竜宝寺(真言宗)で、美男で あったから綱勝の寵を得たのだ、と伝説されている。それでは、八弥が男色から寵愛 されたらしくみえるが、綱勝は寛文四年閏五月七日に二十七で卒去し、八弥は元禄十 年四月四日に五十八歳で没した。勘定してみるまでもなく、二っ違いであった。これ で、寵用の因由が男色でないのが知れる。まし、\八弥は農民の子ではない。郡代渡 辺久右衛門の三男で、明暦元年十二月二十四日に、綱勝の小姓になっている。渡辺久 右衛門は、家老に亜《つ》ぐ位置にいるのでみれば、木子にもせよ、八弥を寺の児小姓にす るはずがない。浅場・福王寺・小山田の三家は、三手高家といって、藩臣の上席を占 める家柄で、殊に福王寺は、長尾伊元以来譜代旧功の筋目とあって、米沢侯家では最 も面目を施したものである。この福王寺専助信繁に男子がない。綱勝の命をもって、 渡辺八弥をその嫡女に配し、一跡相続を申し渡され、福王寺八弥信繁ということにな った。勿論、綱勝の寵用によるのである。八弥は再三の加増で千石の俸禄を受け、寛 文三年十月には、御小姓組頭に累遷した。重恩の主であるから、八弥は追腹の覚悟を した。この時、幕府は保科正之の提議に従い、殉死を禁じている(寛文三年五月二十 三日)。正之は八弥が禁令を犯すのを気遣った。米沢の家老黒川右衛門の日帳に、     十二日(寛文四年五月、綱勝没して初七日に相当する)  一、福王寺八弥、肥後守御前へ被二召出'追腹堅無用之由被二仰渡一候事、付御意之   趣、長右衛門来次方へ申含候間被二聞届→其元にても被二相届→尤之事。 とあって、正之自身に戒諭したのみならず、米沢の家中へも、八弥を監督するように 達したのである。八弥は、寛文四年五月二十七日、綱勝の遺骨を奉じて高野山に登り、 剃髪して幻智と改め、三回忌まで山籠りをした。寛文八年八月三日、宇都宮城主奥平 大膳亮忠昌卒去の際、家来杉浦右衛門が殉死した科《とが》、法度違犯によって、出羽山形へ 転封を命ぜられ、二万石の削地処分を受けた。幕府は同月五日をもって、特に大名を 召集し、奥平の顛末を告げ、更に禁殉の令を伝ゝ一'た。禁令は新たに布かれても、人情 はとみに改まらない。容易に当世の士風を改むろには至らぬ。延宝三年五月三日、阿 部豊後守忠秋卒去の際に、家来某は、追腹は法度であるが、先腹は制外だといって、 忠秋がまだ死なぬ中に自裁した。同年正月十九日に、浅野因幡守長治が卒去した。家 老の福尾勝兵衛は、屠腹するから法度違犯になろ、墓前に露座して飲食を絶つのは、 自然に死ぬのだから、規定とは別だ、といっで、刃物を用いない殉死を敢行した。か くのごとく、先腹やら断食やら、殉死法度を潜、【て、なお意地を張る士風を、外間か らも嘆美しておった。士林の風気がこうした場ム.目に、八弥が強制されて殉死をやめた のは、死ぬよりも辛い苦しいことであったろうが、一般が八弥を指弾するのも時世で ある。事情を分疏しても効はない。哲人とやらは時世を超越するというが、それも当 人一己のことで、その超越さ加減が、時世のお景物になるのではないが、奥平の処分 の後四十二年を経過した宝永六年にさえ、柳沢占保が殉死しないのを罵った落首があ る。八弥は、禁令といい、正之の戒諭といい、饒倖して殉死しなかったのではたいが、 五十石で新規に召し出され、十余年の間に千石の身上になった、その重恩の八弥が殉 死しないのは、同藩の一般からおもしろくなく思われた。実に、当時としては免れが たい運命である。八弥は寛文六年に高野から江戸へ帰って来たが、誰も対手にしない。 同年十月九日付で、柳瀬善右衛門に与えて、正之に事情を訴えた手紙に、その境遇が 大略認めてある。  去四年已前、播磨守死去之時分、拙者致二殉死一候而者、播磨守対二公儀→日来之不  心得にも相成、其上役義之障にも成候得ば、却而《かへつて》不忠に候間、是非留候様、殿様  (正之のこと)始吉良若狭守様並御一門中御列坐に而被二仰渡一候、重御意に付、無二  是非一致二存命一遺骨に附添、高野山に罷登候跡に而、不レ致二殉死一を家中に而相憎  み、武具、馬具、家財等迄致二欠所→町中へ引晒為レ致二売買一候由に候、此段、私  何様之誤有レ之、如レ斯仕候哉、喜平治(吉良三郎が上杉家に入りて改名)幼少、昌善  院、女之儀に候へば、可レ存儀無レ之、議人之取計に候間、委細御尋之上、善悪御  分被レ下度旨。  其上、福王寺之苗字は上杉家先祖より由緒有レ之、其上武功も候故、上杉家先祖よ  り謙信景勝迄之感状証文所持之家に候処、私若輩に候へ共、播磨守取立、其名跡申  付立置候家、只今断絶に申付、其上、家に持伝候兵具迄、町江差出、自他邦之老目  に為レ触候儀、隣国迄|無《はぱかり》レ揮《なく》候、此段、私儀は不レ及二是非一事ながら、播磨守申付 置候事、加様に仕候ては、主人死後被レ失二外聞}候儀、此段無二面目】仕合候、私 不レ致一殉死一を種々致二悪口(如レ斯に取行候蟻に候処、一命を惜候に無レ之、殿様 始御一門方之御意違背難レ成、高野に致レ供候事に候、喜兵治に御異見被レ加、誰成 共御見立之上、福王寺之苗字相続被二仰付一度旨。 其上、親久右衛門儀、郡代役勤候儀には訳有レ之事に候処、致二隠居一罷在候年、先 郡代役両人之内一人相果、欠候瑚、三人之奉行、六人之年寄、二十人之使番に播磨 守申付、郡代役可二相勤一者為レ致二入札一候ヘド、ー、二十六七人迄、久右衛門可レ然由 致二入札一候を以、猶吟味之上、寛文元年、久+H衛門郡代役被二申付一同四年迄相勤 候処、役人難題申懸、身上被レ致二没収一候、其子細は、播磨守在世之節、諸給人百 姓等迄困窮候間、何卒国中甘之筋相考候様被申聞一候故、奉行郡代並中条越前を 始相談之上、久右衛門致二才覚一一万両余之徳用を計、其中八千両余は、播磨守存 生之内に致二蔵納一残る千五百両余之金子、町在江貸渡候、借状証文槌に取置候処、 播磨守致二死去→百日も過不レ申内に、中条越前江戸より罷帰、徳用金之可レ致二勘 定一候、尤其間先郡代役不二相勤一様、昌善院被二申付一候由申渡候に付、兎角に不 レ及、郡代役差控、役人共に申付、勘定明白に相究候へば、町在へ貸渡候千五百両、 早々取立致二蔵納一候様、越前方より申聞候に付、郡代役差控、知行迄被二召上一候 体之者致二取立一候而も、将明申間敷候、奉行所より取立可レ然由、久右衛門申候へ 共、奉行所に而申付候義難レ成候、久右衛門に取立候様度々致二催促'却而、町在 へ此金子致二返済一間敷由内々申付候故、下々は幸之事にイタシ候而、樋に済候筈 之金銀も不二相済一候、久右衛門別に誤も無レ之候間、此金子一件を難題に申懸、押 籠可レ申謀に候、依而、寛文五年、又々証文等致二吟味一候而も、逼塞之体に而候故、 此方へ金子一円不二相済一候、如レ斯に而は蔵納難レ成候、奉行所より取立候様申候 へ共、是非々々久右衛門に納候様申に付、此儀難題と致二覚悟^此上は久右衛門手 前可レ致二蔵納一と相決、武具をも相払、追々金子相納候、此金納候へば、久右衛門 に可申懸一誤一円無レ之を以、早々立退候様、昌善院被二申付一候由、奉行共申渡候、 此段、誤候事無レ之、立退候儀如何候へ共、昌善院申付之上は、立之盤に而立退候 跡へ大勢押懸、家財下人等迄致二欠所→格別に相勤居候埣迄致二欠所一と及レ承候、 前条之次第、喜平治方へ可二申出一儀に候江共、幼少に候故、一門中江以二書付一申 立候、中将様には、播磨守死去之節之儀御存之事に候間、乍レ恐御願申上候、書付 之趣御穿墾被レ下候様相願候、御取上無レ之おゐては、不レ及二是非一令レ致二覚悟一候  旨申上候。  この文は『福王寺八弥渡辺久右衛門由来書』に記載してあるもので、また会津藩士 の由緒書ともいうべき『唖の独見』も同文である。大段三件の申請であるが、その第 一は、八弥が殉死しなかったのは、命を惜しんくひたすらに生を楡《ぬす》んだのではない、 全く正之中将の訓誠を奉じたのである、かつ殉兀法度に乖《そむ》けば、主家に重罰を加せら れる、それを揮ったのである、この次第を明白にして頂きたいというにある。重恩の 八弥が、先君の暴逝を傍視したといって、閨藩《こうはん》り士から侮蔑され、迫害される、その 根本の決定を求めたのである。この決定は、理論からも事実からも、有効に下されぬ。 何故となれば、米沢藩士の多数は、感情によっ.L、一概に八弥が殉死しなかったのを、 卑怯未練な振舞いであると思い込んでいる。何の事情も一向掛酌されぬ。先君在世の 日における八弥の栄達は、上杉の家中の全体が嫉妬せざるを得なかった。それがほと んど当然と思われていた追腹を切らなかった。、卑怯未練な臆病者になったのであるか ら、復讐的に、侮蔑・凌辱・迫害と拡張されてきた。殉死法度は国家の禁令であって、 知らぬ者はないはずである。殊に、正之が八弥の傍輩に伝語し、かつ自身にも彼の追 腹を遇止《あつし》した事実は、閨藩に知れ渡ったことであるが、八弥に対する娼嫉は押送りに なって、あたかも殉死問題に借りて、欝懐を散ずる便宜な機会に到着したのでみれば、 たとえ、会津藩から何等の辞令を出したにもせよ、寸分の功能をこの際に験わすはず はない。八弥もそれを知ってはおったであろうが、自家の面目を保つ方法としては、 主家の岳父でもあり、将軍の叔父でもあり、幕閣の首班でもある会津侯の威厳に待つ のほかはないと思ったのであろう。第二に、福王寺家を廃絶した回復、第三に、生家 渡辺久右衛門の雪冤を求めた。この二件は、いずれも不致殉死を家中にて相憎み、ま た、「私不レ致二殉死一を種々悪口」とあるがごとく、主として、第一に由来する迫害 の創庚である。  寛文六年十月十六日、八弥の上書によって、会津侯から上杉家ヘ談示があったので、 親族の吉良父子●畠山下総守・上杉伊勢守、及び家老の千坂兵部・竹俣|勘解由《かげゆ》等が会 合して相談したけれども、決定をみるに至らなかった。その後四年を経て、寛文九年 九月、八弥は更に会津侯に対して、前来の願意の遂げられぬ様子ゆえ、自分親子は上 杉家を退身いたしたい、その趣を出願したところが、当年八月、久右衛門の埣一人を 召し出すべき旨を達せられたけれども、久右衛門の冤罪については、不問に付せられ た。この雪冤の出来ぬ上は、是非に退身がしたいと申し出た。会津侯は再三米沢へ談 示されたので、吉良義央が斡旋して、寛文十年の春に至り、久右衛門へ十五人扶持を 給することになった。しかし、冤罪の糺明もな.\身分の回復も出来ない。前後五年 の交渉は、到底不調におわった。 会津侯の御預り 『唖の独見』に、「寛文十一年亥三月二十二日、上杉喜平治様御家来渡辺久右衛門、 福王寺八弥儀(略)友松勘十郎被レ存候通に候、旧冬吉良上野介殿、畠山下総守殿、 種々御取持候へ共不二将明一候、播磨守様御遠行之節八弥殉死之儀、中将様正之御意 を以相止候、就レ夫八弥儀難レ被レ為二捨置一被一胆召一候に付、久右衛門、八弥儀会津江 御預り被レ成候」とある。他家の家来が退身したいのを、家来にするということは、 例のない話である。故に、召し抱えたのではない、お預りなされたのである、緊切に いえば、引き取られたのである。当時は、実際引き取ったのに相違ないのだが、その 後慶応四年まで、会津の家来になっていた。これを後からみれば、疑問も起る。  保科正之は、殉死法度の発案者である。その人にして、自分の関与している上杉の 家から、違犯者を出すことを忍ばれぬ。闇斎学を丸呑みにした殿様は、八弥の殉死を 極力遇止された。それが閾藩の娼嫉を受けておった福王寺だけに、異様な影響を生じ た。もし娼嫉されていなかった者ならば、ただ冷笑熱罵の間に経過したのであろうに、 あいにく先君の寵臣であったために、八弥は惨酷な境涯に陥った。それから、江戸時 代に二件とはない違例な進退を見るに至った。無類な進退が付会の資料となって、八 弥が新助擁立の策主にも化け、会津侯もそれに関係があるらしく見られ、湖って綱勝 の暴逝も妙に牽連して、毒殺説に意味を加えた。八弥が会津藩へお預りになった事情 は、全く殉死制度の余波であるから、これを取り除けて、綱勝逝去のみを考えるなら ば、単に吉良氏の利害を打算して、すぐに彼が下手人であるか否かを、決し得られよ うと思う。 禁殉の発議者 『駿台雑話』に、 松平伊豆守信綱の三大功績とて、天下の殉死を禁じたるを算へある を、神沢杜口が「殉死停止の事は黄門光囲卿の執し給ふ事と、西山遺事杯に見えたり、 然るを、髪に伊豆守の功に揚る処、拠有《よりどころ》べし可二追考一」といヘるは謂はれあり。 『西山遺事』には、「威公御逝去に付、真木左京藤原景猶、山野辺右衛門大夫源義忠、 田代三郎右衛門藤原吉音を始めとして、其外御恩厚き者ども追腹可レ仕覚悟之由、西 山公御聞及ばれ、御自身左京が宅へ御出、達て御止めあそばし候……其後、此事上に 相達、殉死之儀、天下一統御停止也」とあり、」れ寛文元年七月のことにて、武家法 度と共に禁殉死を口達せしは、同三年五月なれ、は、約二年前なり。『事語継志録《じごけいしろく》』『松 平豆州言行録』には、殉死に関する発議建言をなしたることを載せず、ただ殉死に同 ぜざりし意図を見るべき一条を録せり。  慶安四年、大猷院様御他界あれば、其恩を厚〜蒙りける御方殉死有ければ、酒井讃  岐守殿、信綱公、此二人も殉死し玉ふベき処に、さなきとて、其頃色々沙汰するを、  少しも事ともし玉はず、忠臣の二君に仕ヘドヨと云は他姓の事ぞ、先君の御恩を蒙ら  ぬ臣や有べき、皆々御先代の御恩深く御取立の老なりとて、一分の名を以て悉く御  供申さば、幼君をば誰が守護し申べき、我々死にたらん弊を伺奴原の申事を、真の  志あらん人は誰思ふべき事と宣しとかや。  いかにも、当時殉死せざりし信綱を嘲弄せし落首多くあり。かかれば、才略をもつ て称せらるるその人にして、禁殉死を発議もしくは建言すべきにあらず。まして、信 綱の卒去は法度の前年にあれば、寛文三年の禁殉死令とは没交渉なるべきなり。しか らば、禁殉死の発議者は、必ず余人なるべし。あたかも、水戸侯光囲なるべきか。寛 文五年に林春斎の選める姫路城主榊原式部大輔忠次の碑文中に、「五月損二益先代憲 章(諭二法制二十一条干群国侯伯朝臣^専預二其事^且愈位骨議禁二殉死→習俗忽革、 世教維新」とあれば、寛文の武家法度は、主として、姫路侯忠次が編制せるなり。 『土津霊神言行録《はにつれいじんげんこうろく》』を見るに、「寛文元年閏八月六日、禁二殉死一是霊神固所レ悪、而 内藤源介、承二其美意→急請レ禁レ之、即使三源介演二禁令→源介即演レ之、而上レ書、以 告三皆奉二承之^又同三年五月二十三日、於二営府一出二武家法度二十一条→諸大名登城、 列二坐於御前一霊神挨拶、入御之後、令三酒井雅楽頭演二禁殉之旨ことあり。土津霊 神とは、保科肥後守|正之《まさゆき》の論号なり。『千年の松』にも、「去る万治の初め、詩経秦風 黄鳥の篇、井に朱子殉葬論被レ為レ聞、殉死はもと戎狭《じゆうてき》の弊俗に出で候儀の処、近頃 其君のため殉死の多きを以て、家々相誇り候俗風に有レ之、其不仁なる儀と、久しく 御歎き思召し候、内藤源助自卓、江戸表へ罷在り候節被二仰含→今年、御家中殉死御 制禁被レ遊候、源助罷下り、思召の通、御家中(旧)者ども得心為レ仕、書面を以て言上 仕候に付、御感不レ斜御喜悦の趣、直に其裏に御認被レ下候、同三年、公儀にて武家 諸法度被二仰出一候節、追腹の儀、主人より堅く申含め、殉死不レ仕様可レ致、若し以 来於レ有レ之者、亡主不覚悟、越度たるべし、跳日の息も不届可レ被二思召一旨、諸大名 へ被二仰渡一候を、垂仁帝、孝徳帝以来の御仁政にもとて、殊に御満足被レ遊候、是中 将様専ら御建議被レ成候事と相聞え候」といへり。保科正之は、まづ会津藩に禁殉の 令を布き、幕府に建言せしにて、榊原忠次がこれを賛成せしも審《つまびら》かなり。『向陽軒夜 話』(林春斎)には、「将軍家御治世ノ始、御幼少故、法令仰セ出サレズ、今既二御成 長マシマセバ、御三代ノ吉例二任セ、御法度仰出サレ可レ然トテ、御沙汰二及、ヘリ、 春斎モ其席二加ハリテ、文言ノ相談二及ブ、右筆久保吉右衛門、飯高七兵衛筆者タリ、 肥後(保科正之)、式部大輔(榊原忠次)ハ、新条加ヘラレントテ申旨アリト難モ、豊 後守(阿部忠秋)旧文ヲ改メンコトヲ好マズ、春斎申ス所、或ハ用ラレ或ハ捨ラル、 ……殉死停止之事、肥後式部三老(阿部豊後守忠秋・酒井雅楽頭忠清・稲葉美濃守正則)、 トモニ条数ニノセタキト、サマ人〜評議アレドモ一決セズ、十一日(寛文三年五月) ニハ、肥後式部ハ出仕セズ、大和守(若年寄久世広之)、但馬守(同土屋数直)ヲ呼テ 三老相談アリ、十二日ニハ、紀伊亜相(頼宣)、尾張黄門(光友)、水戸参議(光囲) ヲ召テ条目為レ見、存寄趣ハ申サルベキ由仰出サル、是二由テ、黒書院ニテ三卿並二 股肥雅豊濃列坐シ、春斎吉右衛門、旧文ト新文トヲ対読ス、又殉死ノ相談二及ブ、三 卿重テ思慮ノ趣言上スベシトテ退出セラル、十五日、紀伊殿へ尾水両卿会合シ相談ア リケルトゾ、十八日、三卿登城、五輩相談ノ事アリ、二十日五輩(正之・忠次・忠 秋・忠清・正則)列坐、春斎モ其席二在テ、草案既二極マリテ上覧二備フ、殉死禁止 ノ事ハ、口上ニテ示諭スベキニ定リテ、条数二入ラズ」とありて、寛文法度に対して、 保科正之●榊原忠次が敢当せし事態を見るべし。故に、水戸侯光囲を、榊原忠次と駄 べて賛成せられたりとせんは、不可なし。されど、水戸侯を発議建言者とするを難《かた》ん ず。もしそれ松平信綱に至ては、更に関係するところなく、全く伝説の誤謬たるを断 ぜんと欲す。  後案に、松平信綱がことを書ぎたる『事語継志録』の序に、「先世忠臣若死、誰 受二樋裸之託'以擁二幼君一乎」といひしを挙げ、「造二厳廟^禁二天下殉葬之事^到二干 今→受二其賜一夷」と続けたり。信綱はおのが殉死せざる意を告げしことあれど、禁 殉の論ありしにはあらず。殉死せざりしその意志が、寛文法度に成就せしやうに言ひ 倣せるは、阿好の言なり。 この類の言説より、 信綱が禁殉の議を建てたるなど、 伝へられるるに至りしものか。