歌川豊国の娘 三田村鳶魚 大井川蓮台渡しの図 初代豊国の描きました三番物の錦絵に、奥方の大井川蓮台渡しの図があります。乗物のまま蓮 台に乗った年の若い奥方、幼少な姫君、それから川越人足の肩車に乗った女中など、多数の女が 縞麗に見えます。東海道の道中の錦絵も沢山ありますが、この図は綺麗でもあり、目先が変って も居りますので、異彩を放つように見える。今日私どもがそう思うばかりでなく、昔の人にも受 けたと見えまして、亀井戸豊国も同じ図を描き、その弟子の国|周《ちか》も同じ画を筆にしました。亀井 戸豊国というのは初代の弟子で、はじめ国貞といい、後に師匠の名を嗣いだ人です。晩年を亀井 戸で過しましたので、亀井戸豊国といわれました。二代目の豊国で、自分も二世豊国と申しまし たが、それよりも先に豊重という同門の一人が、二世を嗣いで一瑛斎豊国と称して居ります。亀 井戸は実際は三世でありますのに、師匠から直ぐに続ける意味で、三世といわずに二世といった のです。こういう次第で二世豊国が二人あることになりましたので、外問では各自の居所から、 本郷豊国、亀井戸豊国といい、遂に初代をも中橋豊国、或は槙町豊国というようになりました。  併し大名の奥方は入輿の場合を別として、大井川を渡るどころか、江戸から離れることは決し てありません。文久二年閨八月に諸侯の家族に帰国を命じ、元治元年十月に江戸ヘ引戻し方を令 しましたが、幕府が諸侯の妻子を江戸へ置かせたのは、人質のわけですから、如何なる事由があ っても、江戸を離れさせたかったのです。ただ文久二年に前例もない事をちょっと遣って見まし たが、直ぐに元治に取消しました。初代豊国が奥方の蓮台渡しを描きましたのは、文化度の事で ありますから、決して大名の家族が江戸を離れる筈はない。全くの想像画でありますので、私ど もはこの想像画に就いて、別に意を留めてはいなかったのです。然るに深川冬木町十番地に住む 伊川信三氏の妻女梅という人が、初代豊国の外孫で、故人の下画を多く所蔵していると聞きまし たので、その一見を求めました。 梅女の母はきんといって、初代豊国の娘です。豊国の妻はそのといって、槙町の|西宮《にしのみや》三次郎 の娘でありました。三次郎の家業は炊出しといいまして、千代田城の外廓の門衛である見付を警 固する者へ飯を供給する、今日の三食弁当のようたものでありましたから、元気のいい若者を沢 山使って、親分肌の派手な渡世だったのですが、豊国も同じ槙町に住んで居りましたので、娘の きんは殆ど三次郎の家で育った有様であったといいます。三次郎もまた頗る孫煩悩で、大変きん を可愛がりもしたのです。 伊川氏の家で豊国の多数の画稿を見るうちに、大井川の下画がありましたが、梅女の説明によ りますと、その若い奥方が祖母そので、幼少た姫君が母きんで、蓮台を担いでいる人足は、西宮 の若い者の誰彼であるということでありました。西宮が孫女を寵愛して、家内一同で取唯したか ら、豊国も偶然そういう立案をしたのでしょう。梅女も自分の母が曾祖父に愛されたことと、祖 父豊国が錦絵に描いたことを云おうとして、その画稿を説明したのです。私はその説明を聞いて、 従来注意もしなかったあの想像画が、豊国の妻と娘とを描いたものであるのを知り、今更のよう に心付いたことがあります。 画稿に見える驚くべき画才  豊国の倉橋熊吉は文化六年に西宮三次郎の娘そのを娶りましたが、新郎は四十一歳、新婦は十 六歳、二十五違いの夫婦なのですから、お半長右衛門を想像せざるを得ません。結婚の翌年にき んが生れまして、そのは十七歳で母になりましたが、赤ン坊をうるさがって、付き切りの乳母を 置くほどな若い我麕な女が、何で初老を越えた、親のような豊国の妻になりましたろう。三次郎 も云いなり放題な甘い親であるのに、どうして二十五も違う年寄のところヘ縁付けたでしょう。 如何にも不審なことでありますけれども、この解説は得られません。西宮親子に就いて不審であ るばかりでなしに、豊国に就いても四十一歳まで独身でいたということが、相応に疑うべき話で あります。或はそのは二度目の妻なのでしょうか。そうでなければ余りに晩婚であるということ になります。  併し二度目であるとすれば、社会の位地からいっても、財力からいっても、豊国は三次郎の敵 でない、遙かに低く乏しい分際であります。当時の浮世画師などは職人でありまして、画料をさ え手間といいました。手間取り-純粋な筋肉労働者として扱われて居ったので、勢力もない、 資力もない、位地もない、然も年寄の再縁に、親分株で不自由なく暮す三次郎が、どうして大事 の娘、それも初縁であるのを与えたか。その時分には芸術の尊重などという言葉すらないのに、 何の拍子で縁付けたものか、これは到底考えきれません。豊国は杵屋六左衛門に習って三味線を よく弾き、踊も藤間勘+郎に就いて稽古して居ります。西宮三次郎も踊を勘+郎に習いましたか ら、豊国と同門であるのみならず、素人芝居の仲間でもありました。彼等は踊が取持つ縁で、豊 国は親父の三次郎と懇意になり、心易くするうちに娘のそのと、お半長右衛門を実地に演じてし まったのだろうと想像したいのです。そこで三次郎はものを云わずに粋を通したのでしょう。江 戸ッ子肌の人達は、そのくらいの事は別段な話とも思わなかったかも知れません。  そのと豊国との間には、ただこのきんという娘が一人あっただけです。きんは七歳の文化十三 年に下谷御成道——今の黒門町の石川家へ御奉公に出ました。御奉公に上ったとはいうものの、 幼年のことですから、乳母が付いて居ったといいます。当時の風習で幼年老が大名の奥向へ、御 茶小姓といって奉公したものです。勿論民問から突入するのではありません。いずれもその藩の 家来達の娘が、御愛敬に奥方の御側へ出ているのですが、豊国の娘は例のお茶小姓ではなしに、 |御画具《おえのぐ》ときという名目でありました。 この石川家は伊勢亀山の城主で六万石、|主殿頭総佐《とのものかみふさすけ》といわれた方ですが、その殿様の御道楽は 浮世画で、俳優の似顔たどを描かれました。そうして画を豊国に習われ、国広という号をさえ持 って居られたのです。江戸一三百年の間に、浮世画師の弟子になったり、俳優の似顔を描いたりし た大名は、この石川主殿頭の外にはありません。無類一品の殿様であります。豊国代々の紋章に なりました、あの年の字を丸くした紋所も、亀山侯の黴章であるのを、殿様が初代に襲用を許し たのだそうです。こういう格別な縁故がありますので、きん女は諸事異例な取扱いを受けもした のでしょう。  きん女は十歳の文化二年以来、父豊国の手本によって画を習いました。無論御成道の石川邸で 稽古して居ったのです。現在深川の伊川氏に保存されている豊国の与えた御手本と、きん女の御 清書とを見ますと、驚くべき画才を示して居ります。一々の御清書に対して、豊国は丁寧に批語 を書き加えて居りますが、「見事に出来申候」とか、「今少し薄墨を濃く致し度候」とか、「上り 極上々吉、見事に出来申候、少しも直しなく候」とか、「上り、古今よろしく出来候、何卒此末 も此通りにお書き可レ被レ下候」とかいう按排であります。その中の一枚の清書は、きん女の十二 歳頃のものと思われますが、男舞の極彩色で、右傍に浪を描き「彩色のなみのもよふばかり今一 ぺん書べし、手がるに書べし、此の方は今度書べし」とあり、左傍に御幣を描いて「ごヘいのぽ ふまつすぐに書べし」と加筆したのは豊国です。この批語が他人行儀らしく見えますけれども、 自分の娘でも石川家にいるのですから、誰に見せてもいいように、言葉を注意してあるらしく思 われます。 画筆を棄てて菓子屋の主婦  瀬川菊之丞と関三十郎の似顔絵は、錦絵として刊行されたものであります。それには豊国門人 十一歳きん女画と明記してある通り、文政三年に描いたのです。習いはじめて僅かに二年、若干 の御手伝いがあったかも知れませんが、男舞の御清書と見較べて、とにかく異常な能力を持って いたことはたしかでしょう。この錦絵も御成道の屋敷で、きん女が描いたものたので、これを出 版する時に父親は、豊国女十一歳きん女と署名させようとした、然るにきん女は門弟衆と同じよ うに、豊国門人と何故書かせないのかと云って、遂に豊国女とせずに、豊国門人と書いて刊行し てしまったということです。  きん女は十二の時に父から|国花女《くにかめ》という画号を貰いました。豊国の没後に柳島妙見の境内に建 てた、豊国先生|痙筆《えいひつ》碑の背面に「不拘碑営者、不録姓名」とありまして、弟子、孫弟子の画名が ずらりと彫ってありますが、門弟でありましても、建碑に拘り合わない者は記名してない筈です。 それに初代の門下として、 国政、国長、国満、国貞、国安、国丸、国次、国照、国直、国信、国芳、国忠、国種、国勝、 国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国時、国幸、国綱、国花女、国為、|国宅《くにいえ》、国英、国景、国 近。 を録してありますが、この中にきん女は画号国花女として出て居ります。建碑は文政十一年の八 月ですから、きん女ももう十九になっている。亡父のためにする建碑を旁観しても居りますまい から、如何にも碑営に拘ったことでありましょう。 初代豊国が没したのは文政八年正月七日で、寡妻そのは三十二歳でありました。そのが再縁し たのはその翌年ですが、二度目の夫は粕壁の木棉商植村平兵衛という者で、常に江戸ヘ商売に出 て来て居りました。そのは槙町の家に同棲して、粕壁の家へ往ったのは、よほど後のことのよう です。母のそのが再縁した年に、きん女も市谷田町の菓子店大黒屋渡辺伊兵衛と結婚しまして、 やがて大黒屋の嗣子金兵衛を頭に梅女まで、七人の子の母になりましたが、きん女が結婚する時 分には、父豊国の家は絶えて居りました。祖父の三次郎も豊国より一年先に物故しましたから、 二度目の父植村平兵衛が婚主になったということです。 きん女の国花女は何時御成道の石川邸から下って、槙町の家に居りましたか、父の没後は全く 画筆を抛って、また丹青に従事することもありませんでした。殊に大黒屋へ嫁してからは、商家 の婦として、なかたか画などを描いていられるものではありませんので、惜しいものですが、天 分を|暴珍《ぽうてん》してしまわざるを得ません。柳島の建碑は、きん女が大黒屋へ嫁して、足掛三年目の事 でありました。 建碑者の一瑛斎豊国は、二代目と肩書してあります。その人はただ襲名しただけでなしに、六 樹園の碑文にもコ陽斎の弟子、今の豊国」とある通り、倉橋の相続者です。きん女は先師の実 子でもあり、義理ある妹でもありますのに、本郷豊国といわれた二代目が、全く門人の扱いにし て居ります。碑背に彫った初代門下連名の順序で見ましても、格別な待遇がしてありませんで、 ただ画筆を棄てた菓子屋の主婦を、国花女にして収録しただけです。いわゆる名取りであるから の取はからいであるらしい。それにきん女が大黒屋へ嫁入した時に、倉橋の家が絶えたというの は不審でありまして、養子の二代目豊国がいるのに絶家する筈がありません。けれども二代目は 初代と同居して居らぬので、「東錦歌川列伝」に「二世豊国、家を出でて後、本郷春木町に住し、 名を豊重と称す、世に本郷豊国と云ふ」と書いてあります。家を出でてというのはどこの家です か、無論槙町の家ではない。「浮世画類考」には、初代豊国は芝の三島町生れで人形師の子だと いい、芳町、堀江町、上槙町川岸油座と住居を転々したとあります。三馬の「浮世風呂」初編の 序は文化六年に書いたものですが、その中にコタ歌川豊国のやどりにて三落笑亭可楽が落語を 聞く」とあり、「辰の|重九《ちようきゆう》に毫を起した例の急按」ともありますから、三馬が豊国の宅で可楽 の落語を聞いたのは、文化五年のことでしょう。これは「武江年表補正略」に「文政八年正月七 日浮世絵師歌川豊国死……中橋通横町に三笑亭可楽が隣家に居れり」というのから考えて、槙町 の宅らしく思われるのです。 尊重すべき馬琴の説 そこで初代豊国の墓所のある三田聖坂町の功運寺の過去牒を見ますと、 円成自伝信士黐籵監葫町人髮五郎丘ハ衛 夏屋妙清信女釀罐人形鬟郎兵簍 とあります。これが初代豊国の祖父母でしょう。それから 久岩良昌信士礪毒日葫町倉鑾良兵簍 法林妙戒信女幵朋幵等日人形屋五良兵衛妻 とあるのが豊国の父母らしいのです。人形屋は二代とも五良兵衛といったので、それが通り名に もなって居りましたろう。喪主は伜の熊吉(豊国)でも、名は通り名によって書いたのかとも思 われます。妻とあるのは夫に先立ったから、当主によって妻と書くので、伜の代になって居れば 母と書くのが例です。 豊国の分は 実彩麗蓍士艤醗史シ歌川豊驫驚 真相如月信女糠毎日豊国母 とありまして、倉橋氏の記載はこの後過去牒にないのです。埜域にもこの外に法名を刻した碑は ありません。それは養子である二代目豊国が家を去ったから、倉橋家には人間がなくなってしま ったのです。ここに豊国母とあるのは、養子源蔵(二代目豊国)が喪主であった証拠だと思いま す。そうして二代豊国の母と記された女は、「東錦歌川列伝」に「真相如月信女は、二世の義母 にて一世の妻なり」とあるのを、漫然肯定するのではありませんが、何としても初代の事と認め るより外はありますまい。この妻も養子の源蔵も、汎称して中橋、詳しく云えば上槙町の初代の 宅にはいなかったのですが、」体どこにいたでしょうか。宝暦以来の旧居である芝神明町の人形 屋の店舗を維持していたものかと思われます。彼女が天保五年に没した後に、二代目が本郷春木 町へ退いたというのも、恐らく神明町から転じたのでしょう。 私どもは初代豊国がその妻と別居していたことを信じたいので、長子直次郎が画を習わずに、 板木屋になったというのも、夫婦の長い別居の影響がないとも云えますまい。そうしてこの直次 郎が二代目の養母の腹から生れたのは勿論であります。従って西宮三次郎の娘そのは、初代と槙 町の宅に同棲はして居りましても、妻でもなければ妾でもない、ただ三次郎が両人の情事に対し て、粋を通したまでであったに過ぎないと思うのです。伊川梅女が話すように、初代の没後、き ん女が嫁入する時分に、倉橋が絶家していたならば——養子源蔵の二代目が居りますから、決し て絶家しはしませんが-寡婦のそのが再縁し、一人娘のきんを嫁に遣ってしまう、というよう な仕方があるものではありません。そこで私どもは滝沢馬琴が「後の為の記」に 歌川豊国は一男一女あり、女子は|陰《かく》し子なりければ、生涯父と不通なり、男子は彫工になり たるが、放蕩にて住所不定なり、因て弟子を夫婦養嗣したり、これを後の豊国といふ、画は いたく劣れり。 と書いてあるのを尊重したいのです。一男というのが直次郎で、一女は云うまでもなくきん女で すが、西宮三次郎は自分の娘そのを初代に与えたのではない。そのと豊国との情事を見ない顔を していただけであります。けれども孫は可愛い。公然夫婦にしたのではありませんから、我が孫 ではあっても、真正面から孫とも云いにくいようた気味がある。だから可愛いままに何となく自 分の方へ引取ってしまったのです。厳格にいえば娘は勘当、孫は親と不通にして手許に置くとい うところですから、馬琴の根性からは、如何にもあの通りに書く筈であります。 併し親分肌といいましても、江戸ッ子式の三次郎は、意味も形式もそこであったにせよ、四角 四面には遣らないと云ったものでしょうが、世間はそうばかりでもあるまい、といった調子があ りますので、「後の為の記」の本文は間違いのないものでも、意味だけのものにたってしまって、 実際は同棲を黙認したらしくない程度に豊国、そのを扱い、自宅へどんどん出入りもさせれば、 自身も豊国の方へ出かけたらしく、平気で一緒に遊び歩きもしたのです。併しそのやきんは倉橋 の家に対して、何等の権利も義務もなかったので、二代目が死んで十年も過ぎてから、国貞が国 芳と激しく名声を争った末に、師匠の実子であるというので、国貞がきん女に接近して、襲名の 口実を得ましたが、それまでは弟子達の間にも云出されずにいたらしい。はじめて出版する錦絵 に豊国女と書かなかったのも、二代目が門人扱いにしたのも、その女との関係が関係だけに、公 然と初代豊国の娘だというのには、都合がよくなかったのでありましょう。 大正九年に坪内逍遙先生が「芝居絵と豊国及其門下」の大著を公にされまして、多分た研究が 世間に出て居ります。私どもはただ馬琴の記述を維持して、陰し子一件をのみ云い試みればいい として、昼寝の暇を妨げないほどのものを書いたのです。