女豪竹本小伝 三田村鳶魚 船宿の娘で女義太夫 竹本小伝という女は、約三百年間の江戸時代に二人とないのみならず、明治、大正、昭和の世 の中にも、似寄った者が見付からないほどの女豪であります。それほどに超越していた竹本小伝 は、あのタレ義太と呼ばれた女義太夫語りの群れの中の傑物なので、彼は当時に名高うございま したが、また頗る奇抜な諢名が世間の耳を|欹《そばだ》てさせも致しました。それは「|塩梅《あんばい》よしのお伝」と いうのですが、これは煮売のおでん屋が、おでんおでん、塩梅よしのおでん、といって売り歩き ますから、その売り声を取ったのです。また「|土器《かわらけ》お伝」とも呼ばれましたが、二つの諢名の意 義は、筆者の説明に堪えぬところですから、読者の忖度に任せます。併しこの二つの諢名は、世 間に容易に諒解されて、竹本小伝の存在は当時に愈々益々顕著なものになりました。 木挽町七丁目というよりは、汐留といった方がわかりいいでしょう。あの河岸に扇屋万五郎と いう船宿がありました。扇屋にはおみね、おむらという二人娘がありましたが、昔の船宿は今日 の待合のようなもので、なかなか派手な、賑かな渡世です。陸上の乗物は駕籠だけで、それには 辻駕籠と宿駕籠とありますが、水上には屋根船がある。誰も陸上よりは水上を行く方が、酒落れ ているように思って居ヶましたから、船宿は遊船宿ともいいまして、乙な人が好んで乗るので繁 昌しました。明治になって軽快な人力車が出来ました為に、駕籠も屋根船も忽ちに片付けられて しまいましたけれども、まだ東京になりたての頃、人力車の出来ない前は、船宿が繁昌して居り ました。まして天保の改革以前は盛なものだったといいます。そうした船宿の二階は、来る御客 が皆酒落れたい人であり、乙な遊びがしたい連中なのですから、今日の待合より凄まじいものに なりました。従って船宿の女房なるものは、江戸の女の中の或標本にされるほど、意気な様子の ものでもあったのです。汐留の船宿扇屋の妹娘おむらが竹本小伝なので、おむらは姉のおみねと 共に|縹緻《きりよヰつ》はよかったのですが、浄瑠璃が上手であったから、竹本小伝で売出しました。芸のない 姉よりも評判女になる筈でもあります。 女豪竹本小伝を出すのには、タレ義太の群れは極めて相応して居ります。更に船宿の娘と来て は、商売柄として、そうした人間になれるように育ったことが肯えます。彼は船宿で成人しただ けではない、船宿の女房の腹から出て来たのです。その船宿の女房も、汐留の扇屋の女房は、た だの船宿の女房ではありません。「巷街贅説」に「天明寛政の頃、芝に名高きお伝と云ひし義太 夫節の名人あり」とありますが、初代芝桝のお伝が扇屋の女房なのです。関根|只誠《しせい》さんの「名人 忌辰録」に、 竹本於伝橄芝桝 江戸人形町に生る、婦人に稀成る上手、諸侯に召され、大に行はる、文化十三子年五月廿 七日没す、歳五十九、浅草専念寺に葬る。 竹枩で止芝桝 木挽町船宿扇屋万五郎娘、母は元祖お伝、三代目坂東三津五郎妻、後五代目瀬川菊之丞妻 となる、文政十一子年二月六日没す、歳三十九、西本願寺地中に葬る。 おむらの小伝は二代目芝桝でありまして、初代は母のお伝なのです。「名人忌辰録」も於伝、 おでんと初代二代を書き別けて居りますが、お伝というのは初代芝桝の名で、娘のおむらは芸名 として小伝といったのでしょう。小伝の年齢は「新古色事付」に「天明六丙午出生、文政十丁亥 年迄、四十二年に相成る」とあるのによって考えますと、おむらの小伝はお伝の芝桝が三十歳の 時の子であります。それに姉のおみねもあるのですから、芝桝はタレ義太の盛りを過ぎた二十幾 歳かで、扇屋の女房に納まったものと思われます。そうして見れば小伝が稀有な女豪であっても、 決して偶然だとは思われません。 小伝の母の芝桝に就いては、別段話が残って居りませんで、ただ初代芝桝が女義の一大権威で あったというだけです。天保八年版の「娘浄瑠璃品定」に 大極上々吉、竹本芝桝。 名人とは芝桝丈の事なるべし、扨こそ末世に芝桝の名跡、代々と打つ父き、上るりかたりの 開山といふべし。 (ひゐき)かがやとの取組はうけましたく。 とありますが、「かがや」というのは中村歌右衛門の事です。天保八年といえば、初代芝桝が没 して二十二年後でありますのに、世間が忘れないからこそ襲名するので、この三代目も初代に恥 かしくない上手であったといいます。それで天明、寛政の初代の盛時も忍ばれるわけですが、文 政十年の「座鋪女浄瑠璃番付」を見ますと、中橋松川町、竹本芝桝は勧進元、中橋松川町桝喜改 竹本小伝は西の関脇になって居ります。この小伝は二代目でしょう。芝桝といい、小伝といい、 当時の女義としては有力な名前だったと見えますので、かの両人はそれほどの位置を築き上げた のです。 年増の芸から娘子供へ 安永四年版の「爰かしこ」に「女義太夫の声も男の癪のたね」とありますが、酒落本にはそれ 以前から、遊廓に義太夫の女芸老があったことが見えて居ります。宝暦までは義太夫の太夫に関 東生れの者はなかったのに、もう明和になりますと、太棹が婦女の芸になっていたので、江戸町 奉行牧野大隅守が、明和五年に女義禁止令を出しているとも聞いて居ります。この牧野が退役し た後、天明度に盛返して、女義が景気づいて来た、その頃に初代芝桝が売出したのです。 当時は寄席というものがありませんので、諸大名の奥向へ呼ばれる。諸大名の奥向は男子禁制 ですから、女義には限らず、女芸人が呼ばれたものです。それが諸旗本の屋敷となりますと、大 分怪しくなるので、往々にして芸だけでなくなりもする。ましてその他の出先となれば、風俗上 面白くないのが多いのは申すまでもありません。明和以来は囲い者ということが流行し出しまし て、素人女さえ追々旦那を取る風になって来ましたから、女義も特別収入を確定させるために、 新しい流行を逐わずにはいなかったのですが、それでも芸の方は油断はしなかったらしい。もと より男性の太夫とは比較すべきものでないので、文政の番付にも「座敷女浄瑠璃」とありますよ うに、女義のは何としても御座敷浄瑠璃です。それが天保には娘義太夫と呼ばれるようになりま して、その頃の女義の連中には、十六七歳の者もありましたけれども、二十幾歳というのが多く、 中には四十歳の者さえ居るのに、平気で娘義太夫で通しました。江戸時代には娘というのは十二 三から十八九までで、二十歳から年増といいましたが、初代芝桝の時分には年増の芸、もしくは 中年の芸だったものが、稽古する年限もない娘子供の芸になったことも、凄まじい変化だと思わ れます。  文化二年九月に出ました女浄瑠璃禁止の法度に、社地、宮地、寺地、または日限を極め、出語 りなどと称する女浄瑠璃の與行は罷り成らぬとありますが、これは御座敷から一般公衆の前に進 出しようとする女義を防遏したのです。明和の禁制が天明に弛んで、だんだん女義の人数が殖え て来ましたから、御座敷だけでは供給過剰するのと、特殊の人に限られた娯楽を羨み、誰彼なし に面自がろうとする気込とが、都合よく出合いまして、女義は一般の需要を目がけて與行に移ろ うとしたのですが、再度の禁令のために、進展を阻止されましたので、重ねて供給過剰に悩まな ければならなくなりました。 ところへ文化十年に、|稚浄瑠璃《おさなじようるり》、竹染之介が現れました。染之介という少女が、老母養育のた めというわけで許可を得まして、江戸市中の寄席で毎夜出語りをしたので、その事は十九巻本の 「我衣」にこう書いてあります。 軍書講釈義太夫大に行はれ、竹染之介といふもの、十二歳にて出語りす、所々に夜|上《じよちつ》るりあ りて、歴々の太夫も及ばぬ大入也、又ひい子といふ者、六歳にて三段づつ語り、是も繁昌す。 看板にも稚浄瑠璃と書いたそうですが、これでは子供義太夫といった方がよろしい。再応の禁 令があるのに、染之介の與行が許可されたのは、老母養育という名目も名目ではありますが、何 よりも子供の演技であるから、風俗上の懸念がないためです。染之介は寄席與行の最初の女義な のですが、寄席というものがこの頃からだんだん出来て来まして、それが女義の景気を煽る究竟 な便宜でありました。寄席へ出演するようになっても、相変らず座敷浄瑠璃といってはいました けれども、歌舞伎にも人形にも遣えない芸の持主は、高座へ上るより外に公衆の前へ出る機会は ありません。寄席芸人にたってはじめて大きな人気を持え出せたのです。 染之介は若衆姿で吊紗上下をつけて登場しました。この風は明治三十幾年まで、いや女義の衰 え切った今日でも同様なのです。染之介の男粧は少女であるので、|一際《ひときわ》愛らしくも見え、子供の 義太夫というのが興味になって、どこでも毎夜客留めの盛況でありました。染之介の評判は芸を 第二にし、その可憐な風采と稚弱な年齢とによって大きくなりましたので、これから女義に対し て、芸の外の賞美が有力になる道程が作られもしました。 染之介の景気が豪勢なために、一般の女義も引立っては来ましたが、中年義太夫や年増義太夫 では、その筋の睨みが心遣いですから、子供を先に立て、子供から娘へ移る。珍しいのが|身上《しんしよう》の 子供の芸では、どうしても飽きが来ますので、色気もあれば、芸も何ほどか芸らしくなっても居 る娘を、看板にするようになって参ります。寄席へ出るようになって、女義の景気は一時に引立 って来ました。文政十年、十一年の「女浄瑠璃番付」に、百七八十人の名前を列ねてあるのを見 ても、形勢は知れます。天明、寛政には初代芝桝の外に、江戸中に知られた女義が何人ありまし たろう。勿論寄席もなかったのですが、公衆の前に進出しなかった時代の女義と、文化、文政に 寄席へ出る女義との違い方は、如何にも甚しいので、與行によって江戸中の人気は女義に集り、 寄席も御蔭で繁昌致します。その時に大先輩である初代芝桝は故人になって居りましたが、小伝 はその時分にあっばれ女豪だと認められて、十二分に伎倆を発揮して居りました。併し彼も母に 続いて文化、文政の女義には先輩ではありましても、御座敷へも寄席へも出演するのではなかっ たのです。 女豪の面目発揮 「櫓下の面付」と「新古色事付」が板行されたのは、文政十年の事でありまして、「巷街贅説」 は、 今や戯場役者|秀佳《しゆうか》が妻たり、抑々淫婦にして、みそか男多かる中に、路考に密通して、其事 かくれなく、世の中に噺草とはなりぬ、さるを何人か戯れつくりけん、顔見世の入代り番付 に似せて、其たはれ男の数々を、浮世絵師歌川国貞が筆して写し出しつ、桜木に載せて専ら にもてあそぶに、程なく其板を禁ぜらる、この番付を摺出すの費、百金に余れりとかや、又 利を得ること二百金に過ぎたりと、|癡呆《たわけ》たる事にしはあれど、大江戸の広さ、他国にはあら じ。 といって居ります。秀佳は三代目坂東三津五郎、路考は菊三郎の子供で、三代目路考の養子にな りました、六代目瀬川菊之丞の事です。三津五郎の女房になっている小伝の新旧の情人を、顔見 世番付に擬して似顔で描いたというのは、「櫓下の面付」のことで、総計四十一人を挙げてあり ます。 この番付を悪戯半分に出版して、悪戯には資本を入れ過ぎたようですが、百両かけて二百両儲 けたというのですから、びっくりせざるを得ません。小伝に就いての落首や戯文の類は、沢山あ るらしいのですが、前記二種の外に、例の猿猴坊月成作、不器用又平画の一枚刷で、 |小女郎《こめろ》でんお伝を玉藻前に見立て、絵番付に模す。 浬槃像お伝を寝釈迦にして、情夫等を禽獣鳥類に擬す。 婬大記お伝の情事を年代記の体裁にしたるもの。 などがあり、その上に怪しからん著作が多数ありまして、「艷本極楽遊」三冊、「粋蝶記」三冊、 「風俗粋妓伝」三冊、同後編三冊、「恋の楽屋」三冊、「役者素人志多定」一冊等が知られて居り ます。 扇屋の娘二人、姉のおみねは中津侯の御留守居白井某の外妾となり、妹の小伝は芝口二葉町の 御用町人秋山新三郎の持物になりましたが、小伝は売出しても来ましたので、御用町人では物足 らなくなったところへ、出先の久保町の料理屋清水楼の取持で、福岡侯の江戸家老某に乗替えま した。娘二人の働きで、親父の万五郎の懐中は冬知らず、ほくほくもので居りますと、小伝は御 礼ごころもあったかして、媒介者の清水楼を御無礼したのがばれて、御家老様の御機嫌を斜めに してしまいました。けれども万五郎は深川新地へ五明楼という女郎屋を出したのが当り、汐留の 船宿の方も繁昌致します。其方も此方も都合がよろしく、扇屋の賑々しい汐合なので、御家老様 を引下った小伝も涼しい顔で、上方にはない、江戸にばかりある義太夫の女師匠で、母親の時か ら引続き稽古をして、いつに替らぬ様子で居りましたが、小伝ほどの者が安閑としては居りませ ん。間もなく秋山へ線を戻し、刷毛ついでに稽古に来る飯尾藤十郎を生捕りました。飯尾は南町 奉行所付の同心ですが、当時は市中定廻りで、八丁堀の旦那といわれる中でも、馬鹿に羽振がい い。金にもなりますので、これからは御用町人の秋山と、八丁堀の旦那の飯尾とが熱いくらべの 形で、いずれにしても損のないことではあり、小伝は面白おかしく見物して居りました。 深川の方が繁昌するにつれて、商売柄で地味な筈のない親父の万五郎は、追々と派手が嵩じて 来ました。自体芝居好きで、人気役者三津五郎が大の蟲屓と来て居りますから、見物の度毎にい つも大和屋を茶屋へ呼び、芝居休みには五明楼で暮させるほどでしたが、この親父の秀佳熱に、 いつか小伝が浮れ出して、熱い熱いで焦げそうになって居ります。秋山や飯尾に何の遠慮もあり ません。早速葭町へ押揖け女房と出ましたので、三津五郎も少からず恐縮しました。 永年連れ添う女房のお貞は二代目三津五郎——荻野伊三郎と改名した上方役者の娘で、妹は寺 島の梅幸の妻になって居ります。そこへ小伝に押掛けられましたので、人気商売の悲しさは、蟲 屓筋が大切だものですから、無理にお貞に暇をくれました。「|多話戯《たわけ》草紙」にはこう書いてあり ます。 三津五郎は葭町通り西床の裹に住居し、其暮しの広大なる事、言語に述べ難し、丑年の火事 に、深川|永木堀《えいぎぼり》へ寮を栫へ、十年程は栄燿にくらし、此間のお伝が行跡は筆紙に|演《の》べ難し、 三津右衛門、三十郎、七代目太夫、京桝屋三絃弾其外数多の者と密通せし事、|和印《わじるし》櫓下の面 付等に顕しあり。 丑年というのは文化十四年ですが、小伝が葭町ヘ乗込んで、三津五郎に女房お貞を追出させた のは、丑年の火事以前のことです。それから永木へ移って十年といえば文政九年、小伝の年齢か らいえば、三十二歳から四十一歳までの間に、間男七十人と算え立てられるところが、女豪の正 体を現した、筆紙に述べ難い活動でありましょう。間男番付ともいうべき「櫓下の面付」の出版 された文政十年には、恋男の三津五郎も、多年のやつれで多病になりました。そうでなくても小 伝にしては十一違いの亭主なので、不満足なこともあったればこそ、間男の数々も出来たのです。 まして病床で暮す日の多くなった三津五郎に連れ添う小伝は、亭主の健康であった時の情夫の数 を、そのままにしては置けません。ここで急激に増加したのですが、その新しい情夫の中に五代 目菊之丞がいたので、飛んだ騒ぎを生ずることになったのであります。 本夫、 情夫二日つづきの葬儀 五代目菊之丞は多門路考といわれ、十四歳で先代の養子になり、 十六歳で|立女形《たておやま》になった評判 の役老で、七代目団十郎に付いていたのですが、その頃は三津五郎と同座するようになって居り ました。芝居休みには永木へ泊り込み、大好きな手慰みに耽って居りましたが、そのうちに小伝 と出来合ったのです。さすがの女豪も病み疲れた本夫から、血気盛な路考に転じて、数多いこれ までの古い馴染とは格別な妙味を感じ、生れてはじめて有頂天になりました。従って菊之丞との 出合も無遠慮になり、人目も多く口も喧しい芝居者の世界でありますだけに、噂も余所とは違っ て賑わしい。三津五郎の耳にも入れば、弟子も気を揉み、とうとう大ごたごたになりましたので、 小伝は永木を出ることになりました。それを蟲贋筋の扱いで、再び小伝は三津五郎のところへ舞 い戻ることになったのですが、覆水が盆に還った天保二年の春、小伝は四十六歳、三津五郎は五 十七歳、菊之丞は三十歳でありました。 三津五郎として見れば、何も小伝を還したいわけではありませんけれども、拠どころない筋か らの扱いでもあり、五明楼は昔から扁を入れてくれるのでもありますから仕方がない。何分にも 路考の思い切れない小伝を連れ戻せば、是非とも二人の情交を見物していなければならぬのが辛 かったでしょう。三津五郎も辛かったでしょうが、本夫といい、密夫といい、誰知らぬ者もない 役者だけに、小伝の評判は江戸中に拡がり、噂といえば女豪小伝でないことはありませんでした。 その年の三月三日に河原崎座が開いて、宿下り芝居の御約束の加賀見山の狂言ですが、岩藤の団 十郎、お初の菊之丞で、奥庭の場になると見物が承知しない。殺される筈の岩藤に振替えて、お 初をぶち殺せ殺せと総立ちになりました。芝居は大入ですが、小伝との一件で見物に騒がれて見 れば、菊之丞も江戸にはいにくい。芝居で騒がれて以来、菊之丞、小伝の憎まれること、江戸は 勿論、関八州、上方筋まで悪口しない者もありませんので、菊之丞は盆與行を見かけて、小伝を 連れて二本松へ駈落しました。いうまでもなく江戸にいて出演することの出来ないのに困って、 旅與行と逃げたのです。そうすると三津五郎の方は、早速先妻のお貞を呼び戻して、夫婦伸よく 暮して居ります。 逃げ出した菊之丞は二本松から出羽の庄内へ旅稼ぎをしましたが、九月の末の奥州筋はめっき りと寒くなりましたので、小伝は菊之丞と別れて、一人で江戸へ帰ります。御供は浜村屋に付い ている送りの権八で、この旅中の小伝が如何にも女豪らしいものであったことは、「多話戯草紙」 に書いてありますが、彼の眼から見れば、権八などは情夫の勘定には入りません。江戸へ著けば 全く知らん顔だったと書くにも及びますまい。 人の噂も七十五日で、もういい頃だろうと菊之丞は江戸に帰って、十一月十九日からの顔見世 に出勤致します。三津五郎は住宅の所在によって、永木の三津五郎といわれて居りましたが、菊 之丞がそれと同座したのは、いい気の菊之丞というべきでしょう。尤も永木は前来の病気で出場 しません。いい気の方は登場したけれども、七日目から発病して、翌天保三年正月七日に亡くな りました。三津五郎はそれよりも前、天保二年十二月二十七日に物故して居ります。双方の葬儀 は正月で、秀佳の方は九日、和泉町の自宅より二丁目、葭町より通町、木挽町表裹五丁目橋より 尾張町通りという道順でしたが、堺町から芝増上寺内月界院まで、その通り道は見物が群集して、 御祭のようでありました。翌十日は新乗物町の路考宅より二丁目、富沢町、村松町、薬研堀、両 国橋へかかり、亀沢町通り本所押上大雲寺まで、これまた見物で途上が賑いました。 昨日は三津五郎、今日は菊之丞、小伝の本夫、情夫が二日つづきの葬礼というので、江戸中は またこの噂に忙しうございましたが、秀佳、路考追善の錦絵は百五十版も出来たといいます。絵 草紙も沢山出たようですが、私どもの知っているのは、 三津瀬川上品仕立、柳亭録、国貞画。 三津瀬川法廼勝美、緑間山人作。国芳画。 葉名手桶忠臣蔵。 大仕掛忠臣狂言画本。 鮨牌落し咄し対面のせりふ。 の五種であります。路考は秀佳の女房役者でしたから、そこから趣向を立てて、興味をそそった ものでしょう。その後の小伝はどうなりましたか。「名人忌辰録」の没年も年齢も間違っている だけは明白です。 女義の最盛況は天保度に在るので、いろいろな奇談もありますが、天保十二年十一月二十七日 の大検挙に、三十六人捕縛されました。その罪科は改めて申すまでもありますまい。明治にたっ ても大変な景気でしたが、天保ほどではなかったようです。私どもは差当って女芸人たどの伝記 を書き立てる必要もないのですが、タレ義太に限らず、竹本小伝の存在が気になります。文化、 文政といえば大御所様時代で、江戸の最も成熟した時期とされ、天下泰平、幕府全盛、国民ノン キ、まことに結構な世の中と思われて居りますが、その時に竹本小伝が出現して、放縦自恣に経 過し得たのです。かれ一人の存在を以て、一葉落ちて梧桐に天下の秋を知るとは申しませんが、 文化文政の江戸はかれの放縦自恣するに相応した環境であった証拠は持って居ります。それは四 里四方全体ではないにしろ、いずれの場所にしても、竹本小伝の生活し得る区域の狭くなったの を確知した私どもは、大御所様時代を盛世だと思わぬのみならず、敢て衰世だというに憚りませ ん。タレ義太の先輩竹本小伝は女豪でありましたが、それは衰世の産物であります。明治、大正、 それよりも昭和の今日に、断じて竹本小伝は居りますまい。めでたい大御代に衰世の産物が居る べき筈はないのです。