頽廃的傾向 婦女の見識と我麕 奥州白河十五万石の殿様、本多能登守忠義という人の次男で、一万石|分知《ぷんち》された長門守忠利と いう人がありました。この人は小さくとも大名であり、片輪老でもなかったのに、終身娶ること をしなかった。元禄十三年五月八日に六十八で死んだ人ですから、その若い時といえば、正保、 慶安頃の事ですが、その時分に親父の忠義が登城致しますと、幕府の命令でありまして、忠利の 妹に当る者を、播州姫路十五万石、松平下総守忠弘へ縁付けるように、ということでありました。 この忠弘は徳川家と甲州との取合いの時に名高い奥平大膳大夫信昌の四男で、母は家康の女の亀 姫という人である。当時としては大御所の外孫というので、大分幅が利いたわけですから、結構 な縁組に相違ありません。 そこで忠義は早速営中から、自分の屋敷へ幕命を伝えましたが、その時忠利がこう云った。松 平下総守といえば、大御所の御孫様のわけだから、まことにめでたい縁組である、けれどもその 忠弘なる者は、黒白の弁えもない人であるといって、世間で専ら評判している人であるから、そ れだけが心がかりである——。そうするとそれを聞いていた妹が、世間で取沙汰するほどの愚か な人のところへ、嫁に行くことはしたくない、と云った。そこへ親父が帰って来ましたが、妹の 方は断って貰いたいというし、忠利もまた、妹が愚人の妻たることを辞するというのは、まこと にありそうなことである、というものですから、とても幕命を奉ずるわけには往かない。何ほど 主君の命であり、その仰せが忝いことであるにしても、世間にも少いほどの馬鹿者の妻にたるこ とは、何にしても堪え難いことであるから、これは御辞退したい、けれども仰せ出されを背く上 は、一生嫁に参ることは致しますまい、と云い切る。仕方がありませんから、とうとう病気の趣 にして、この縁談を断るんではない、やめにしてしまわなければならぬようになった。長門守忠 利は、自分が最初に云い出したことから、女の一生を|寡住《やもめ》いにさせてしまったのは、如何にも|不 便《ふぴん》であるというので、自分も妻を迎えたかったのであります。 これは兄弟同士の義理立てでありまして、同胞の間でも義理合いを重んずる者は、こういった 按排だったのですが、それは別として、一体武門武士の立て前からいえば、号令の結婚にきまっ ている。それを本人のみならず、兄貴まで手伝って、武門の立て前を壤して行くことをした。女 が嫁に行くというのは、それが人道であって、そうして婦職を全うする、婦たる役目を尽す、と いう意味でありますから、相手が馬鹿であろうが、利口であろうが、そういうことは含まれてい ないように解釈されてもいたのです。ところがそれがそうでなくなった。今日の言葉で云えば、 目ざめたとか、覚醒したとかいうのでしょうが、そういう風に見識張って、相手を択むというこ とは、この時分としてはまことに少い、殆どないことである。これが推し拡がって行けば、武門 の立て前は壊れてしまう。君長たる者は背かれぬように号令しなければ、武門の立て前は維持し て行けません。女が自分の見識を張って、愚人の妻になるのは厭だという。それは御互いに許し て行こうとするのである。そういう気持は-後世のとは意味が違うにしても、とにかく相許そ うという風が、已に正保、慶安の際にあったのであります。 それですから上方の女を元禄、宝永度になって目ざめたように眺めるのも、実は遅蒔きの話な ので、またそれくらいの理窟を知っている女も、早くからありそうな話である。相手の見立て方 がいいとか、悪いとかいうことよりも、ここでは女が見識張るということ——この本多能登守の 娘などは、無理からぬ話ではありますが、見識張るということから、自然相手を択むことになる。 それが男えらみ、男にくみ、というようなことになって来る。男嫌いであるというために、遂に 一生嫁に行かずにしまう人間が出来る。これもまた婦女の好みの一つであります。それも結構な 女の至当な結論ならいいけれども、ただ見識を張るということになると、そこからは馬鹿な女の 非見識でも、同じように突張ることになって行く。それは我礒勝手の一端であるにしたところが、 やはり御遠慮なく、わけのわからぬことを突張っても行けるし、またそれが世の中のならわせに もなって来るのです。 そういう意味から後々は、縁談は親の自由にならぬ、というのが通り相場になりました。併し 江戸時代に於ては、まだ本人の自由にもならない。それは我饉気儘から起ったのに限る話ではあ りません。誰にしても自分が馬鹿だと思う者はないから、見識張るというようなことも、随分い ろいろな恰好になり、いろいろな結果になる。才女、才発とは早くから聞く言葉であり、「|賢女《けんによ》 立てをする」というのは慶長頃からある。貞享、元禄の頃まで「賢女もない」という一種の|通言《つうげん》 がありました。男まさりということは、若い女房にもいいましたが、殊に後家さんの場合にそう いった。実際に役に立つ女だったからではありますが、実際役に立たないでも、男まさりのつも りでいるのも随分あった。元禄度の上方にはそういうのが多かったが、江戸では明和、安永に沢 山居ります。 殊に江戸で申しますと、立派な町家の女房よりも、それは低い町家にある。裹店住いの嚊達に もなかなかそういうのがある。商家には店先へ女を出さないのが、江戸の仕来りでありまして、 小売店でも女房や娘を出すことはしなかったのですが、ただ或商売になると、そうも往かなくな る。天保頃になりますと、絵草紙屋なんていうものは、多く囲い者や岡ッ引などの女房が、女の いいのを見せつけるような風がありましたし、看板娘と称して店先に綺麗な娘を出して置くとい うことも、宝暦頃から少しはあったのです。けれどもそれはいかがわしい商人として、軽蔑され る風があった。それが珍しくないようになりましたのは、ずっと後・文久以後の話で、薩州さ んが江戸であばれ散すようになってからのことです。それから続けて行けば、明治の初め頃まで ある。甚しいのは、筆屋の娘が一々筆の先を嘗めて売ったので、「なめ筆」といって名高いのが 湯島にありました。また本所辺には「出し下駄」といって、下駄の鼻緒を|上《かみ》さんがたててくれる 時に、|際《きわ》どい様子を見せるので、名高いなんていうのがあった。帳場格子の中に算盤と帳面を控 えて坐り込んでいる、という風なのも、天保以後のことでありまして、当時は珍しかったが、そ れが珍しくなくたって来ました。 尤も女の子供が算盤の稽古をすることは、宝暦以来ぽつぽつあったことです。船宿の上さんで ありますとか、水茶屋の上さん、引手茶屋の上さんというようなものになると、これは前からあ りますが、こういうのは別物である。先ずそういう風な按排で、女の方がものを云うにも愛敬が あるし、御世辞もいいというわけでありまして、落語の中にも長屋の上さんの事を取入れた話が 沢山ある。後々は井戸端会議なんていう言葉が用いられるくらい、女の口はうるさかったので、 亭主は義理仁義の挨拶も出来ないが、女房の方がちゃんとしゃべる。安永、天明の職人の曝は皆 そうだったのです。その外にも口前のいい、人扱いが上手に出来る老が多かったのは、明和、安 永頃に盛であった踊子からの影響であろうと思います。|生娘《きむすめ》のような様子をしていて、なかなか そうでない、上手に取廻すことも出来れば、人扱いもうまかったのです。 踊子に影響された風俗 この踊子というものも、元禄度に盛であった踊子とは違います。元禄度の踊子は、初めから踊 子に仕立てるので、それで飯を食うために仕込んだものでありますが、それが諸大名に対して、 |直《じか》づけに召抱えられることもあって、大分景気がいい。何しろ年の若い女の子のことですから、 それに売笑がついて廻る。それがために料理茶屋というようなものが引立って参ります。料理茶 屋が引立って来るから踊子が盛になる、踊子が盛になるから料理茶屋も引立って来る、というわ けのものでありまして、料理茶屋は踊子との密会のために、盛にもなれば殖えもしたのです。そ れにつれて|式正《しきしよさつ》の料理——四条とか大草とかいう、きまりきった料理の外に、町料理というもの が進歩したのも、料理茶屋があったればこそで、その料理茶屋がそれほどになったのも、踊子の 売笑があった為であります。この踊子は出て匆々、即ち宝暦度から料理茶屋を|流行《はや》らせたばかり でなく、それがいろいろな私娼に化けても居ります。妾になる女が渡り奉公であるのも、珍しく ない話で、小便組なんていうのもその中から出たのですが、「|呼出《よびだし》」という私娼にもなり、「ケ コロ」という私娼も踊子の果が多かった。また「山猫」といって、売笑らしくなく惚れた腫れた に仕立てて、小宿で出会するようた者にもなったのです。 こういう踊子が、どうして宝暦以降に多くなり、明和、安永に盛になったか。後にはそれが女 芸者、江戸芸者となって、益々盛になったのですが、これは元文、延享にかかったところでは、 表店でも持っているような町人の娘達には、踊の稽古をする老がない。いずれ|店借《たながり》の娘で、親父 はその日暮しの者が多いので、そういう娘達が踊が上手になった為に、大名の奥へ連れて行って 芸をさせる。そうして相当な御礼が出るようになり、それで抱えられるようにもなった。思わぬ 出世が出来、思わぬ金が儲かるところから、これが殖えたのです。それは素人出の女で、元禄の は玄人仕立てでありますが、玄人仕立てにした踊子が大変景気がいいので、自分の苦しい中から 踊の稽古をさせて、飯の種になりはしないか、という風になったから、宝暦、延享の間に素人仕 立ての踊子が大分出来た。その成績がよかったので、だんだん広がって来る。ただ金儲けに娘を 食うという意味でたく、それが世の中の流行物になりますから、寛政度になると、相当な町家ど ころじゃない、武家までが踊を習わせるようになりました。  江戸中の娘で踊を習わぬ者は、殆どないといっていいくらいに殖えましたが、そうして稽古さ せると、娘の芸を自慢にして、|資本《もとで》を入れて御祭の屋台へ出す。御俊いも多くなって、その御俊 いにも相当資本を入れて出す、という風になって来る。その芸自慢が嵩じて、芸を申立てて諸大 名へ奉公に出る。無論貰った給金なんぞはあてにしません。踊や三味線を自慢にして、諸大名の 奥に勤める。御殿奉公をしない者は肩身が狭い。御殿奉公をしたということが、嫁入の条件にた りますし、御殿奉公の時には、芸のない者は奉公が出来ないという有様でしたから、それが名聞 であって、いい娘だから是非御殿奉公をさせなげればならぬといえば、親も子もその気になる。 相競って遊芸の稽古をするわけです。まだ十歳か、十歳未満でも、踊が上手でありますと、諸大 名へ「|御心切《おしんぎ》り」といって出たので、あなたのところの御子さんは、|縹緻《きりよう》がいいし、芸も上手だ から、御心切りにでも出したらどうです、といえば、それが御世辞であるようになった。御心切 りというのは獵燭の心を切ることで、子供にも出来る仕事です。もう少し古いところなら、お茶 小姓といったのと同じ事で、身分に構いなく、御心切りにも出られるし、奥勤めも出来る、とい うことになって、愈々それが盛になりました。殊にあの子は御心切りに出た娘だというと、嫁に 行く時に馬鹿に都合がいい。無論そういう風になりますと、人見知りもしないようになれば、口 も余計きくようになって参ります。 この時分に「オチヤツピイ」という言葉がひどく行われましたが、享和以来の言葉として、オ チャッピイを代表するところのものに、お多福半四郎といわれた四代目半四郎、これは小浪とか、 お軽とか、お七とかいう娘役をするので評判だった役者ですが、その子供で五代目になったのが、 やはり親譲りの芸風をやっている。このオチャッピイという言葉が起ったのは、五代目の半四郎 の時ですが、その往き方というものは、四代目から引続いたことである。何でありましたか、長 唄の文句に「口まめどりのおちやつぴい、にくてらしいほどかはゆらし」という文句があります が、これでオチャッピイの意味がよくわかると思います。またウブな娘らしいのが売物であった 踊子が、だんだんあどけないところがなくなって、遂に町芸者になって売人らしくなった、その 時に踊子の景気を、水茶屋の女が奪うようになったのです。笠森お仙はオチャッピイではない。 桜川のお仙もただハイハイとばかりいっていたという。それが娘らしい、|初《ういうい》々しいと見られ、可 愛らしいと眺められたのですが、それ以上に口まめどりになっても、初々しい可憐なところを失 わずに、オチャッピイが却って愛敬を添えたのです。 この時分には温厚慎重の風が廃れてしまいまして、前には「ボツトリ者」といえば褒める言葉 であったのが、ボイヤリとなり、ボンヤリと言換えられて、|誹《そし》る言葉にたって来て居ります。|落 著《おちつき》のある主婦という風は一切廃れて、切って廻して行く世話女房の風が好まれるようになった。 世話女房というのはどんなものかといいますと、材木屋の女房のようなものです。材木屋のこと だから、荷主が来れば饗応に連れて行く。いずれ花柳の|巷《ちまた》に出入するのですが、女房は自分の亭 主の通う先方の華魁に、よろしく頼んでやるという往き方をする。そういうのが気の通った女、 気の利いた女房とされて居りましたし、自分もまた荷主を上手に扱うというのが、男まさりであ るように云われて居りました。 それですから嫁に来た当座だって、袖をくわえてシナをしているようではいけません。御客が あるのを見かけて奥へ逃げ込むようなのは、大時代として扱われてしまう。|蓮葉者《はすはもの》、お転婆老、 それを詰めて「オテンキ」という。はしゃぎ者、跳ッ返り者といった按排である。小さい子供を 「お茶さん」というのは、オチャッピイを略したのです。よく笑って元気がいい、賑わしいもの になりますから、大口を聞いたからといって、顔を赧くしているようなことはない。あべこべに 張り込みを云って男を困らせる。そういう弁智、態度で男を扱う。子供の時からそういう風なの で、「|口才者《こうさいもの》」という言葉は、寛文頃の遊女評判記にも見えて居ります。普通はよく「小才」と 書いてありますが、これは「口才」の方がよろしいので、「小才」から「小才覚」になり、また 「|猪口才《ちよこざい》」ともなる。これらは男にいわれる言葉のようですが、もとはというと女の方から来て いる。つまり女の模様が大分変って来て、オチャッピイも生じたわけなので、そういうものが舞 台へ出て来るのは、時代がそういうものを喜ぶからのことなのです。 異国風俗に感服 そこで舞台の方を眺めますと、桜田治助あたりから、別けて二番目に骨を折るようになりまし たが、鶴屋南北の|生世話《きぜわ》に至っては、実に残酷卑狼を極めたものになっている。残酷卑狼なもの が歌舞伎劇であるように、ひと頃論じたこともありました。後から見るとそうも見えますが、実 は芝居も病的であり、世問も病的であったのです。即ち淫虐性の発露でありまして、それを今ま で誰も淫虐性だといって指摘した老のないのが、おかしく思われるくらいのものですが、舞台に 現れたオチャッピイがどんな発展の行程となったか、これで思い遣られる次第であります。 ところがこの生世話の芝居を喜び、オチャッピイを喜んでいる世間を、一つびっくりさせるも のが出て来た。これは|女唐人《めとうじん》ミーミという者の、長崎版の錦絵が当時の江戸を驚かしたのです。 この女唐人は、文政十二年七月に長崎へ著いた蘭船に乗って来たので、当年十九歳の若い女が、 唯一人でオランダから日本まで来たのである。どうして来たかといいますと、夫でありますエチ ヒペドフという人が、新婚後二箇月で日本にやって来た、それを追駈けて来たわけなのですが、 長崎のきまりによって上陸は許されず、やがて本国に送り還されてしまった。けれども本当に波 濤万里を隔てたオランダから、若い女」人で出て来るということは、何としても箱根から先を知 らない江戸の女と比べて見ると、成程びっくりする筈です。如何に夫が慕わしいからといって、 当時の日本の女と致しましては、法律が許さないからでもありますが、仮に法律が許したところ で、とても出て行きそうには思われません。 長崎に女異人が一人もいないということは、寛永十三年五月の法令に、|伴天連《ぱてれん》の子孫を遺して 置かぬように、ということがありまして、もし残って居る者があれば死罪にする、南蛮人が長崎 で儲けた子供、その子供を養子にした父母は追放する、ということになっている。そのために大 変沢山な混血児や、その妻なり夫なりというものを、日本から追払ったことがあります。その時 以来長崎には、外国人はいても女は差置かない、在留している者も女房を連れて来ない、という ことになってしまったので、そこへたった一人、ミーミという女唐人が来たのですから、実に珍 しい事のように思われた。ただその事実が珍しいばかりじゃない、吉利支丹伴天連の怪しからん 教えを奉じているという外国でも、女はこれほど夫に親切である、それもその筈で、オランダで は一夫一婦の制度だから、御互いにそういう情合いが厚いのである、ということが当時の識者に 響いた。それが更に持越して、明治の初めに一夫一婦論が大いに行われるわけになるのです。 この前後に於ては、オランダ人夫婦というものが注意されていたと見えまして、長崎和蘭屋鋪 の|乙名《おとな》、末次忠助の手紙というものが伝えられて居ります。それによりますと、彼方では法律が 厳しいから、上は天子から下は庶民に至るまで、一国を通じて二人女を持っている者はない、妻 のない男であっても、遊女を買うということは、本国では非常な恥辱になっている、もしそうい うことをする者があれば、役人にもなれないし、立身することも出来ない、そういう風であるか ら、姦淫ということは無いといってもいい有様である、というのです。 またこの時分に発表された、水戸の医者の佐藤平三郎が書いた「中陵漫録」の中にもこんな事 がある。大通詞の吉雄耕牛という者から聞いたところによると、オランダでは結婚に就いて政府 に願い出る、そうすると当人達を役所へ呼んで、両方とも他に思い思われているような者がある かないか、ということを聞き質した上で許可する、だから一度許可されて婚姻すれば、男が嫌っ て出すことも出来ず、女の方から出て行くこともない、もし男が勝手に妻を追い出すようなこと があれば、全財産を七三の割合——即ち七分だけつけてやらなければならぬ、これは京都所司代 板倉伊賀守の捉に似ている、縁約をしてまだ嫁に行かないうちに、夫たるべき者が死んでも、女 房になる方が死んでも、」定の期間が経過しないうちは、嫁にも行けなければ、嫁も貰えない、 長崎に勤めているカピタンでも、勝手に妾を持つことは出来ない、長崎に幾年も在勤して、現在 黒ン坊を三人使っているが、万事不行届でもあり、失費も多いから、妾を置いてそういう損のな いように、万事始末にして行きたいと思うが、どうであるかということを、本国の妻のところへ 云ってやって、妻の同意を得てからでなければ出来ない、妻がよろしかろうと云ってくれればい いが、さもなければ妾を置くことも出来ないのである、といってひどく感服して居ります。これ は丁度化政度で、日本の風儀が甚だ怪しくなった時に、こういうことを聞いたものだから、大変 感心したので、オランダの風俗がそれに相違ないものかどうか、などということは、この時分の 人間にはわからない。だから話の筋を|真《ま》に受けた。ミーミという女唐人が遙々夫を尋ねてやって 来た、その情合いに感じたのも、やはり同じ理由からでありますが、日本にもそう古くない時代 に、いろいろな話がある。何もそうびっくりするほどの事でもなかったのです。 四十年待って婚礼 鳥取の池田さんといえば、例の河合又五郎の一件で、旗本との喧嘩には懲り懲りしている家で すが、それがまたしても寛文十一年七月に、鳥取の家来で勤番の宅間八太夫という者が、旗本の 野々山瀬兵衛と大きな喧嘩をはじめました。その時に一緒に勤番に出て来ていた石河四方左衛門 という者がありまして、この人が決死の覚悟で応援に出かけた。その勇ましい話は一つ話に残っ ているくらいでありますが、この人が勤番が済んで、愈々家に帰るというので御暇が出た。一日 ゆるりと遊んでいい事になりましたから、同輩に誘われるままに、明日は浅草観音へ参詣しよう、 ということになった。如何にも宜しかろう、という話になりましたが、朝から出て行くのだから、 十分時間がある、一つ江戸の土産に吉原ヘ行こう、という議が起りました。 一同は、それは宜しかろう、国許へのいい土産だろう、といって話が決著しそうになった。と ころが石河四方左衛門は妙な顔をして、皆の顔を眺めているから、同僚の一人が不審に思った。 石河氏は御同心でないのか、休日のことで、どこへ行っても差支ないから、吉原へ行こうという のだが、何でそんな|怪訊《けげん》な顔をしておいでにたるのか、といって尋ねますと、いや、それが大層 不審なのである、というのは別儀でもないが、各々方も国には御内室がおありのことと思う、拙 者も妻女を残して参っている、国を出る時に、在番の間に今日のような首尾があって、遊女に出 会することがあるかも知れない、ということを申して置けばよかったが、一向気が付かないで申 さずに来ている、只今一言の答もせずに、吉原へ参って遊ぶということは、甚だうしろ暗いこと で、それでは夫婦の義理が相立たぬ、もっと間があれば致しようもあるが、明日ということであ っては、鳥取へ使を出しても間に合わない、隠して吉原へ行ったところで、女房がそれを知るこ とはありはせぬが、私としてはそういう事を秘し隠しにして、他の女と不義をするというのは、 如何にも潔くないことである、そこのところが心に落ちかねるので、御返答も申上げなかったわ けである、と答えた。当時にはこういう人がいたのです。義理の夫婦という方からいえば、こう あるべきが当然である。オランダの話は嘘か本当か知らないが、カピタンが本国の女房の同意を 求めて妾を置くというのも、何もびっくりしたり、感心したりするほどの話じゃない。日本でも 義理堅い人はこういう風だったのです。オランダ話にびっくりしたのは、当時の一般がそういう ことを忘れていたからだろうと思います。 ところへ持って来て、もう一つ感心させられる話が出て来た。佐賀の鍋島の家来で、名前は坂 田常右衛門という人です。やはり佐賀の家中に許嫁の女がありましたが、丁度その時に江戸の勤 番になりました。年も二十歳を越えて居ったので、帰ったら婚礼をするために、先ず以て出かけ る前に結納だけ取交して置くがよかろう、というので、両方の親達がその通りにした。江戸へ出 た常右衛門は正直に怠るところなく勤めて居りましたから、首尾もよろしく御加増もいただいた。 従ってなかなか国へ帰る御暇が出ず、ずっと続けて江戸に在番を勤めて居ります。国許の両親は だんだん年を取って来ますし勞々で、どうか嫁の介抱を受けたい、というので家へ引取ってしま った。そうして待っていたけれども、常右衛門は江戸から帰って来ない。遂に舅姑も亡くなりま したが、それでもまだ常右衛門は帰れなかった。江戸在勤実に四十年、婿さんもだんだん年を取 って七十歳ということにたりましたから、老年の故を以て御役御免になって、国ヘ帰って来た。 そこで自髪頭の花嫁花婿で、婚礼をしたという話です。 この話がオランダ話の後で江戸に伝えられた。大概は江戸在番を一年もすれば、帰国するのが 当り前なので、その僅かな勤番の留守の間にさえ、|妻敵討《めがたきうち》の種を蒔くことが多かった。難産のた めに亭主が遠慮して一っ寝をしない、それが姦通の原因になったり、花嫁花婿を一つに寝かさぬ からといって、遂に情死を遂げるというような話は、已に前に述べた通りでありますが、世の中 の様子が悪くなって、いつでも風俗の|紊《みだ》れた例に引かれる安永、天明の世界に、この坂田常右衛 門のような夫婦があったということは、オランダの話がなくっても、感心していいわけである。 けれども義理ということを守って行く方からいえば、何もそうひどく人間離れのしたもののよう に、考えるにも及ばないかと思います。 享保度に已に判決例がありまして、町人であっても結納後の変改は相成らぬ、ということにな っている。変改したいといって牢屋に入れられたやつが、結婚するということで出されているの があります。これが武士のみならず、人間の本筋でありまして、この判決例は尤もなものだと思 いますが、それと違って享保から沢山ある夫婦約束、これは当人同士だけのもので、その数が多 くなった。享保以前にそういう約束をする者は、大概相手は娼婦です。こういうものは訴訟にな ったこともありませんが、どういう判決が下されるかといえば、多分認められなかったでしょう。 まあ手切れ話になってしまうのです。そこでこの礼式ということ、結納を取交すというのは、結 婚に当っての礼儀でありますが、この礼儀が風俗上の境界になっている。その境を取払ってしま うと、どうしても紊れ易くなる。その精神に於ては何ほどよくっても、仕切がついていないこと だから、紊れ易いのは当然の話であります。 ひどくなった妾 坂田常右衛門の話は安永、天明でありますが、それよりももっと手近いところで、当時大評判 になった女がある。文化八年十二月二十八日、貞節であるというので、美濃部伊織の妻ルンヘ銀 十枚の褒美を賜わった。ルンは房州浅井郡真間村の内木四郎左衛門という人の娘で、それが十四 歳の宝暦二年から、尾州の奥向に十四年勤めて居りましたが、給金を溜めて、身の廻り一通りを 持えまして、自分の親戚に御家人がある、それを仮親にして、番町の|大御番《おおごぱん》美濃部伊織のところ へ嫁に行きました。明和八年四月に平内という子供が生れましたが、その月に伊織は二条在番と いうことで、京へ上って行った。在番のうちに、然もその年の八月に喧嘩をして同僚を斬ったの で、その|科《とが》によって、九年八月に越前丸岡へ御預けということになり、美濃部の家は改易になっ てしまいました。 けれども伊織の祖母に当る老人が家に残っている。ルンはその老人と、自分の産んだ子供とを 養育して、五年の間を過して居りますうちに、親も子も死んでしまって、身一つになりました。 のみならず今まで貯えて置いたものも、綺麗に遣い果して、美濃部の菩提所へ付届けをすること も出来ないようにたってしまった。そこで安永六年から、御仲居ということで、また武家奉公を 致しました。今度は筑前の黒田家に勤めること三十二年、だんだん取立てられて|表使格《おもてづかい》になっ た。文化五年になりまして、もう老年でございますからというので、首尾よく御暇をいただいて、 故郷へ帰って参りましたが、長年勤めた功によって、終身二人扶持ということになりました。 そうしますと翌年の文化六年三月、俊明院殿の御法事の大赦がありまして、越前に預けられて いる美濃部伊織も、赦されて江戸へ帰って来ることになったので、ルンは大変喜んで、三十年来 貯えた金で伊織の家を作り、寡住い三十八年で、ここにはじめて老夫婦が同棲することになった のです。節女といったところで、別に斬ったり張ったりしたわけでもなし、どうしたわけでもな いが、このルンや前の坂田の妻のように、何でもないような仲で、よくこれだけ節義を守るとい うことは、義理というものを深く知っていなければ、決してやれるわけのものではありません。 ルンは長いこと武家奉公をして居りましたが、武家奉公の女にもいろいろありまして、大小名 の奥向に入って行く者には、民間から飛込む者が相当多い。その中には女の渡り者で、随分いい 加減ぶしの者がある。殊に妾に出るやつは猶更ひどいのです。|公家《くげ》の娘は自由恋愛の本家本元で すが、貧乏が薬になって、大名のところへ妾奉公に出るのを、身の落著き場と心得るくらいのも のである。大名は第二夫人を|御国御前《おくにごぜん》と申しまして、第一夫人とほぽ似寄った待遇を受ける。そ ういうことで満足して、自堕落にはならぬのが多かったのですが、ただ京から連れて来る女の中 には、随分無法なやつがある。江戸で採用するやつは猶更です。先ず奉公に出る時に、|捨金《すてがね》—— 仕立金というものがありまして、その上に給金が貰える。|仕著《しきせ》は四度ありますし、その上に御扶 持御賄がある。辛抱しているうちに女の子でも産めば、御腹様ということになる。もし男の子を 産めば、御部屋様というわけで、飛んでもない出世になります。|上《かみ》通りと申して主人並に扱われ るばかりでなく、親にも御扶持が出て、生れもつかぬ武士に取立てられることもあるのです。 けれどもこの時分に妾奉公をするやつは、なかなかそんな気にはなれない。武家奉公の中で一 番甚しかったのは妾で、その妾はどんなところから来るかといいますと、先ず素人側は浪人の娘 や町人の娘、玄人の方は踊子から出るのが多かったのです。どの道武家奉公ですから、窮屈でも あるし、一時にちっとずつ給金を貰っても、それは知れたものである。捨金を貰って、子供の出 来るのを待つなんていうことはしていられない。金儲けに忙しいから、色気を離れて欲気の方に なるので、宝暦度から明和、安永へかけて、小便組というものが出来ました。当時武家の悪弊と して算えられたのが、小便組、中間押、座頭金の三つで、小便組は川柳にも沢山ありますから、 ここへ十句ばかり挙げて置きます。 たれる晩古い小袖を二つ著る お妾はまづ火いぢりを断られ |消渇《しようかち》のきみかと殿も|初手《しよて》は聞き 兼ねて|工《たく》みし事なれば垂れるなり 容顔美麗そこで垂れこ亠で垂れ 御布団へ|寝手水《ねちようず》をさと|局《つぼね》いひ 布団まで背負はせて出せと御立腹 妾の持病小便や泡を吹き 御家老が灸据ゑてゐる寝小便 小便でお流となる仕度金 つまり厭がられるために寝小便をするので、その他に癲癇などという、厭がられる病の起った ように装う。「泡を吹き」というのはその方です。ここで面白い話は、医者に相談して灸をおろ す。鶏卵大の大きた灸を毎日沢山据えたら、その苦しさに堪えられないで、横著気をよして垂れ たくなった。それを聞き知って、方々の主人がそういう風にしたので、小便組が退治されるよう になった、と伝えられて居ります。これは小咄にもなっているし、いろいろなものに出て居りま すが、この頃の女が実にひどいものになっていたことは、これでよくわかると思います。それが 必ずしも商売人から出た者に限らない、素人から出たのにも、こんなやつが大分ありました。 妾という者は家来の扱いですから、自分の産んだ子にも様をつけて呼び、自分が産んだ子から 呼棄てにされる。ともかくも主従なので、武門の立て前からいえば、そんな乱暴なことが出来る わけのものじゃない。飽くまでも君臣主従ということで往かなければならぬのですが、そんなこ とはこういう人間にわかろう筈はない。殊に渡り老で、そっちにもこっちにも勤める。寝小便を 垂れてはまたその次へ、ぐるぐる廻って歩くのですから、娼婦ではないけれども、娼婦と同じよ うなものである。その時分の売色に「部屋廻り」というのがありまして、武家屋敷を廻って歩い て売色をする。御目見、御座敷たどと呼ばれていたやつと同じことです。小便組は勿論ですが、 その他の妾にしても、暇を貰えば次へ次へと移動するのですから、部屋廻り、御目見、御座敷な どと殆ど同じものである。私娼という名はついていませんが、事実は何も変ったことがないので あります。 なくなった玄人素人の境界  そういう者が武家にさえ入込んで、武家の立て前を壊して参ります。民間は猶更の事、この時 分には私娼という看板はなくて、私娼と同様の事をしている者が、なかなか多かったらしい。イ チコのようなものは「膝栗毛」の中にも弥次喜多が悪ふざけをするところがありますが、あれに 「|仰向笠《あおむけがさ》」という諢名があって、呼込まれて冠って来た笠を仰向けに置くやつは、売色もすると いうことになって居りました。釜払いも袂に鈴を入れていて、その鈴を鳴らすやつは売色をした といいます。その他昔からあって、この時分にもまだあった例の歌比丘尼、その後には寛文度の 女巡礼、これらも娼婦でないような顔をして、娼婦と同じようなことをするやつである。|中洲《なかず》が 繁昌であった時分から、地獄という者が出来ましたが、これは元来は「|地者《じもの》の極上」という言葉 だそうです。売色に対して「地色」という、その「地」なので、地色というのは、娼婦に対して 一般の婦女をいうのですが、上方の白人と同じことで、素人と称して売色をするやつたのです。 囲い者の中にも「月囲い」「半囲い」などという名目がありました。旦那を二三人持っている 奴もある。旦那取りともいって居りますが、その中には人妻もあった。それですから、この時代 に於て遊芸をする者は、勿論踊子や芸者には限らない。料理茶屋、水茶屋の女、といったような 者もあるのです。それからまた「二瀬」「おさすり雇ひ」「たきざはり」なんていう名のものも ある。いずれにしてもそういうたちの女の方が、懇望されることが多いので、自然縁付が早い。 そうして嫁に行くのに支度金を取り、親への養育金を取る。生涯扶持を取るようなことを持ちか けても、この方ならものになるので、全くの素人には夢にもないことです。この風が化政度には 嵩じて参りまして、男女の道が公然として金儲けに使われている。その点からいえば、まさに古 今の一時である、といって当時の識者から歎息されて居ります。 それですから無芸なやつよりも、芸のある者の方がいい。町々で遊芸を教える者が、安永まで は漸く百六人であったのが、文化には三千八百余人に殖えているようなわけであります。そうい う境涯の者どもは囲い者に致せ、芸者に致せ、産みの親が家来のようであり、娘が主人のようで ある。田舎者などは親子兄弟の間で、男女に関する話などをしない。これは江戸だってそうです が、その時分の江戸の人間は乱暴にたっても居りますし、芝居も始終いかがわしいところをやっ てのける。それを恥かしげもなく見て與じている時代ですから、どうやら真面目らしいのは田舎 に限られるようになったのです。そういう女達の母親になりますと、いろいろと娘の世話をする 下女のようなもので、旦那が来れば枕を並べて寝る世話までしてやる。旦那殿の出入りには履物 を揃えたりもする。看板のある遊女でも自分の床入りを親にさせるやつはありません。一体こう いう癖を仕勝手につけたのは何であるかというと、例の踊子である。橘町や薬研堀時代には、踊 子は皆振袖を著て来るので、飽くまでも娘のつもりでいたのです。それが後に柳橋、同朋町、本 町、日本橋となって来まして、もう娘ではない、眉を落して歯を染めて——これが江戸芸者にな り、町芸者となるのですが、その時でも母親が、いかがわしい場所まで出て来て働くことがあっ た。女芸者という名の起りは安永、天明度からだといいますが、その時分の深川には、床芸者な んていうものさえあったのです。 その時分からまた面白いことには、泥水稼業、それ|者《しや》、玄人、商売人などという言葉で呼ばれ ている女と、堅気とか、素人とか、ウブとか、地者とか呼ばれている連中とが、だんだんごちゃ ごちゃになって来る。双方が接近して境界がなくなったので、この境界をなくしたのは、礼儀作 法を取失っているためだと思います。ですから私娼も私娼らしくなく、公娼も公娼らしくない。 素人も紊人らしくなく、売色をしても恥かしくないような有様になっている。ここでびっくりす べきことは、安永、天明度に比べますと、立派な公娼の看板を持っている者に、里訛りとか、|廓《さと》 言葉とかいうものが少くなって、なるべく遊女臭くないようにして行くことが、目に立って見え る。愛敬がある、可愛らしい、ういういしいといったようなことが、公娼に向って喜ばれること になって参りました。 灰色か鼠色の女 こういうところから見ますと、たしかに素人と玄人とが歩み寄っている。そうした性能の動き から、各個の生活が変って参りますことは、実に著しいものでありまして、その最も適切な例で、 今目前に見ることが出来るのは、僧侶の妻帯が一番いいと思う。これは明治以来の出来事であり ますが、そのために寺院生活がすっかり変って、僧侶が出家でなくなった。それから来る変化の ひどいことは、皆様が御覧の通りであります。今文化、文政を主として、世間の女どもの性能が どうであるかということ、その動き方の変化が何ほど江戸の生活を変えて行ったかということは、 実に恐るべきものがある。時世、時代の心持からいうと、私娼は公娼との間を行き、素人は私娼 と堅気、|生地《きじ》の間を行くようになって参りますから、どれも白でもなければ黒でもない、灰色で ある。その灰色の女が現代式の女として喜ばれ、時世の先に立って行く。その女どもは女郎では ありませんから、正札もついて居らず、値段もわからない。厭ならよせ、こっちも厭だ、という 風がある。先ず釣寄せて置いて、御頼み申してものにする、というような工合になって行きます から、男がだんだん釣寄せられて、その御機嫌を取るようになる。それがまたずっと拡がって、 一般婦女の好みというものが、御機嫌取りから世間の好みにもなって来るのです。 青髭のある口で菓子を食うのはおかしい、といって寛政度には笑い草になりましたが、助惣焼、 いくよ餅、千鳥焼、鹿の子餅、羊嚢、饅頭、といったようなものが、だんだんと進んで参りまし て、製法もよくなれば、味も旨くなる。菓子、餠菓子の進歩、発達、普及はそういうものとして でありますが、それには役老の紋、役者の名をつけたのが沢山ある。それが世間の習いになって、 目立たないようになって来る。|平秩東作《へづつとうさく》などは、明和の頃から婦人の好みが食物に及んでいる、 ということを申して居りますが、如何にも菓子の進歩の原因はそこにあろうと思います。 宝暦以来、早鮨が出来、化政度になりますと、|安宅《あたけ》の松の鮨が出来て、これは重箱一つ金五両 というところまで漕付けました。米に致せば十五六俵、役人の給料として考えると、小人目付、 御中間目付などの一年の給金である。更に軽い者にたりますと、|黒鍬《くろくわ》などは一年に十二俵しか貰 えません。然るに女が間食を好む。殊に若い女がそうですが、それらの喜ぶ菓子には高いものが 多く、一つ」匁、二匁というのがある。鮨の如きものでも、相応な役人の一年分の給金を、重箱 一つに入れて一時の慰み食にしてしまう、ということになる。女の嫌いな男はないし、芝居の嫌 いな女はない、というのが当時の言葉でありますが、その芝居には例の色男の標本が居ります。 昔は男色に引張られて、男が芝居を見に行ったのが、享保以来男色は衰えて、男色の一番の御得 意さんであります坊主でさえ、天悦、大悦ということを云い出した。天悦というのは字の通り二 人喜ぶ、大悦は一人喜ぶので、女色の方が結構なものだ、ということを云ったのです。 役者の方でも立役が騒がれて、女方はその割合に喜ばれない。化粧品などに致しても、衣類な どに致しても、やはり役者の紋や役者の名をつけたものが行われて居りますが、役老の好みであ るといって持唯されるものは、立役のものが多いのです。そこで女の嫌いな男はないから、婦人 の好みに引張られて、男もそれを蟲屓にする。文化度でありますと、一日芝居を見物するには、 一両二分より安くては見られません。米にして見れば三俵半で、三俵半の御加増を受けるという ことは、幕府の者に致しても、諸大名の家来に致しても、なかなか容易ならぬ事であります。そ れを一日の芝居見物のために費して、惜しそうな顔もしないというのは恐ろしい。女の好きなや つは芝居も好きなので、芝居見物に行くような男は、どうせ女狂いをするやつにきまって居りま した。併し芝居見物はそれだけ物入りがあるけれども、角力の方は女の気がないから、費用が大 分違う。その費用の違うということも、ここで考えて見てもいいと思います。 役者の方には千両役者というものがありました。千両といえば、化政度にして三千石取る人の 一年の収穫である。幕府の役人でも三千石取るのは、芙蓉の間の役人で、布衣以上の者でありま す。大目付、町奉行、勘定奉行、百人組之頭、小普請支配といったような役廻りで、五六種しか ないくらいの高官である。同じ町奉行でありましても、京大坂は千五百石しか貰えないのです。 この役者の給金が、格別に高いことも考えて見なければたりません。役者がそれほど有力であっ たのは、女があるためなので、流行も昔は遊女町から起ったのが、この頃になりますと、芝居町 からはじまるようになっている。そういう風に金が入って参りますから、自然金をかける、また 金がかかるということになります。女がいい男だというのは、金のある人間のことなので、色も 恋もあったものではない。彼等が自由勝手を働くには金がなければならぬ。金によって放逸自恣 にたろうとする。こうなると彼等の動きは、性能のままに動くとばかりも見られなくなって来ま す。ただ世の中の女が皆灰色、もしくは鼠色になって、世の中を撹乱しているように見えるので す。