嫉妬が名物 騒動打に悋気講  風俗頽廃の傾向が甚しくなって参ります時には、女の方でも培気、嫉妬なんていうものは野暮 の行止りである、それも決して辛抱して慎んでいるのではない。悋気は女の慎むところ、疵気は 男の苦しむところ、といいますが、なかなかそんなわけのものではなくなっているのです。ここ で時世の変遷に就いて、女の悋気がどう変って行くか、ということを眺めますと、古いところで は女騒動というものがありました。これは「騒動打」ともいい、また「うはなり打」ともいって 居ります。寛永度まであったことで、主として武家の方にあった話でありますが、前妻を離縁し て間もなく新妻を呼入れた場合-五日とか、十日とか、乃至一箇月ぐらいで、直ぐに次の女房 を貰ったという場合には、前の女房はきまって自分の親戚の者や、一族の者を呼集めて相談をす る。そうしてそのままに置けぬということになりますと、一家一門の外にも達者な若い女を狩り 集める。その人の身分にもより、関係方面の広い狭いによって、いろいろになりますが、同勢が 二十人、三十人になることは珍しくない。五十人、百人になることもあったそうです。同勢が集 って日取りが決著しますと、前妻は自分の家来を以て、御覚えがおありのことと思うが、何月何 日何時に騒動に参る、ということを口上で新妻に申送る。新妻方でも家来を取次にして、御尤も の次第であるから、相心得て御待受け致す、何月何日に御出で下さい、という返事をする。中に は何分にも御詫び言を申すから、どうか御見合せを願いたい、といってあやまるのもありました が、そんな弱いことでは一生の恥辱になるからといって、申込を受ける方が多かったのです。 愈々当日になりますと、押かけて行く連中はてんでに棒、木剣、竹刀といううちにも、両方に 怪我が多くないようにというので、竹刀を持って行く者が多かったそうです。尤もこれは女ばか りで、男子は参加せぬことになって居りました。前妻は必ず駕籠に乗り、同勢は徒歩で、縊り袴 に襷、髪を振乱して鉢巻をする。中にはかぶり物を被っているのもあった。竹刀を持ち、脇差を さして先方の家へ押寄せる。向うでも待受けているのですから、門を八文字に開いてある。同勢 は台所から乱入しまして、鍋釜や戸障子、箪笥長持に至るまで、手当り次第に片ッ端からぶち壊 して行く。さんざんあばれさして置いて、時刻を見はからいまして、新妻の仲人と、待女郎をし た者と、前妻の待女郎とが出合って、中へ入って扱いの言葉を述べる。それでおしまいになるの です。こういう風に形式もきまり、習慣にもなっていたらしい。それですから親戚内にそういう 離縁された者があるために、二度も三度も騒動打に行くことを頼まれた者もありますし、腕ッ節 が強いために、十遍以上も頼まれたなどという女が、寛文頃まではまだ残っていたということで す。  併しこれは已に大分形式的になっていることがわかって居りますから、やがておしまいになる ことも察せられる。両方に怪我がないように竹刀を持って行く、ということでも、その程度はわ かると思います。ただ馬鹿にされたのが心外である、ということを表明するために、やって居る に過ぎぬ事柄のようである。この「騒動打」に就きましては、早く京伝なども考証して居ります が、「宝物集」とか、「源平盛衰記」とかいうようなものを引いて、随分古くからあったことを 云っても居り、それに就いての古図を出しても居ります。あまり上の方の事ばかりでなく、かな り下の方まで、そういう風習があったらしく見える。この時分のことを考えて見ますと、女とい うものは亭主の留守を預るために、後のように家庭的でなくて、大分世間的でありましたから、 女でも自分の一分を立てなければならぬ、ということを考えて居った。従って古いところには、 随分怪我をさせたり、打殺したりするようなこともあったろうと思われます。 またこの時分には若い女房が寄合って、悋気講ということをやりました。どういう風にしてこ の腹立たしさを癒そうか、ということを寄合って話すので、仮名草子の中には、「格気講」とい う名の本もあるそうです。けれども江戸時代になりまして、だんだん世の中が穏かになった結果、 亭主が家にばかりいるようになりましたから、女は自然世間向きでなくなり、家庭向きのものに 変って来た。ですから一分を立てるといっても、そう世間的にすることはなくなって参ります。 従って騒動打なんていうものもなくなったんだろうと思います。 騒動打と似たようで少し違うのが、吉原にあった「|踏合《ふみあい》」とか「引合」とかいうもので、これ は御客のことに関して遊女と遊女とが争うのですが、男は関係致しません。こういう大勢の争い は、後にはなくなりましたが、性悪の客に対する「髮切」とか、「|桶伏《おけぷせ》」とかいう制裁はありま した。先年鴎外漁史が書かれた「細木香以」1幕末の通人津国屋藤兵衛の話の中にもあります が、津藤は稲本の小稲のところへ通っている。然るに稲本に花鳥という肚の悪い女郎がありまし て、津藤がそれに騙されて、或夜ひそかに花鳥の部屋へ忍んで行ったのを、小稲の番頭新造であ る豊花が知って、忽ちに津藤を座敷へ引張り出して、大きな声でわめき立てた。そこで芸者のき わという者が留め女になって、津藤は内済金を取られた、ということがあります。これが踏合、 引合の最後の形式でありまして、騒動打が世間に絶えても、遊女町にはこういう形式になって残 っている。津藤の話は安政三年ですから、江戸の終りまで残っていたわけであります。 凄まじい奥方の焼餅  世間の騒動打こそ絶えましたが、二代将軍の夫人である江与の方が、大焼餅で評判が高いのみ ならず、上にも下にも個人として嫉妬で名高い人は随分多い。世の中がだんだん変って参ります から、嫉妬が強くても、それを何等かの行為に出して、世間中へ知れ渡るというほど、大袈裟な 嫉妬は減ってくるわけですが、騒動打は絶えても、悋気が全然綺麗になったとは云えない。女の 焼餠は自分の身分が世間向きでなく、家庭向きになったからといって、そう一遍に変化するもの ではありません。諸大名の奥方でも、ひどい話が伝わって居りますが、上州安中二万石、水野信 濃守|之知《ゆきとも》の奥方、これは三州刈谷の水野監物|忠善《ただよし》の女でありました。この人がひどい焼餅で、水 野が参覲交代によって江戸へ出て来た晩に、下屋敷の方へ行って、翌日になって上屋敷へ帰った。 そうしてその晩に奥へ入られたのですが、無論水野は女好きの人で、妾が大勢下屋敷に置いても あったのです。  奥方の方は、自分は気に入っても入らなくても正妻である。久しく国許に居って参府されたの だから、先ず本邸に来て自分に面会されて、夫婦の無事を喜ぶというのが、世間の常でもあり、 一般の礼法でもある、然るに江戸へ来ながら、直ぐに自分のところへ来ぬということは、正室を ないがしろにするものだ、といって大変怒って居られる。だから水野の顔を見るなり、御覚えが ありましょう、といって長押の薙刀を持って飛びかかって来た。水野は自分の女房ではあるし、 夜分でうち|寛《くつろ》いでいる時でもありますから、まさかに薙刀を持ってかかって来ようとは思ってい ない。びっくりして奥を飛出して、表へ逃げて行きましたが、もうその時は薄手ではありますけ れども、手を負っていたのです。邸内は非常な騒動で、その騒ぎが江戸中に知れるようになり、 やがてそれが将軍の耳にも入りましたので、これは乱心に相違ない、ということになって、信州 の松本へ|配流《はいる》され、水野の家は断絶してしまいました。  水野信濃守が奥方の薙刀にびっくり仰天して、奥から表へ逃げ出したのは、如何にも不覚らし い話で、みっともないようでありますが、こんな話は水野ばかりじゃない。大坂時代に荒大名と いわれた福島正則なども、奥方に薙刀で追駈けられて、表座敷へ逃げて来た。あとで正則が近臣 に話されたところによりますと、自分は今日までどんな戦場へ出かけて行っても、敵にうしろを 見せたことはないが、今日は畳の上で敵にうしろを見せた、どうも女の怒っている様ほど凄まじ いものはない、ということであったそうです。あれだけ荒武者の福島正則でさえ、恐れをなすく らいですから、水野信濃守あたりがびっくりするのは、寧ろ当然の話でありましょう。 それから名高いのは細川越中守忠與の女、家老の長岡佐渡のところヘ嫁に行った人で、名をお こま殿と申します。佐渡は自分の家来の娘を、自分の内室の小姓にして使わせて居りましたが、 奥入りの時にいつもその女小姓を見るのに、なかなか美しい女である。佐渡はそれが気に入った けれども、おこま殿は主人の女でもあるし、正妻でもありますから、それを揮ってどうすること も出来ない。そこで老女に作略をさせまして、女小姓に宿下りをさせ、宿下りの暇に密会したの です。一両日過ぎてから、女小姓は何食わぬ顔をして立帰り、御目通りというわけで、おこま殿 の前へ出て来た。側勤めのことですから、そう遠くには居りません。畳を三畳ほど隔てて著座致 しまして、いろいろ家へ帰った間の事を御話しているうちに、おこま殿は頻りに|嗅鼻《かぎぱな》をして居ら れましたが、やがてこっちへ来いといって近寄せて、更に嗅ぎ直して云われるには、怪しいこと である、|其方《そち》の衣類には佐渡殿の移り香がある、ということでありました。  それから厳重な吟味が始まる。女小姓はいろいろ陳じたけれども、なかなか承知しません。と うとう佐渡と密会したことを白状した。そうすると、そうであろう、それなればこそ、と云うが 早いか、焼火箸を三度胸許へ刺し通して殺してしまった。どうしてそんな匂いを、おこま殿が嗅 ぎ出したかといいますと、細川家に伝わっている白菊という伽羅があった。長さ一丈二尺五寸、 太さ二尺五寸という大したものですが、それを三斎から譲られていたのを、嫁に来て後に夫であ る佐渡にくれた。佐渡が女小姓に逢う時に、御馳走ぶりにその香を余計焚いたので、匂いがまだ 消えずにいたのです。勿論伽羅は一木一銘のものですから、余所に同じ木や同じ香がある筈はな い。そこで忽ち密会が露顕してしまったのです。  奥州岩城二万石、内藤帯刀忠與の内室、これがなかなかひどい焼餠焼でありました。妾が孕ん だというのを聞きますと、早速呼びにやって、お前は殿様の御胤を宿したそうだが、まことにめ でたい事である、一つ安産をするように腹をさすってやるから、ということで化粧の間に連込ん だ。そうして仰臥させまして、かねて用意してあったのでしょう、大きな|火熨斗《ひのし》に燃え立つよう になった火を入れて、それで腹を撫でたから堪らない。あえなくも焼け死んでしまいました。 「女大学」ばかりでない  こういうような話はまだなかなかありまして、随分烈しい焼餅焼の女があった。大名以下のと ころにも、女を殺したということは沢山あるようです。そんな按排でありますから、元禄度にな りますと、嫉妬深い女は離縁するより仕方がないということが、自然と云い出されるようになり ました。後来は大変いろいろと論じられて居ります例の「女大学」1あれは貝原益軒先生が書 かれたということになって居りますが、実は貝原の御新造さんに損軒という人があって、その人 の書かれたものだと聞いて居ります。この中に有名な七去ということに就いて書いてあるので、 婦人に七去とて|悪《あし》きこと七あり、一には|品嬋《しゆうと》に|順《したがわ》ざる女は|去《さる》ベし、二には子なき女は去ベ し、是は妻を|娶《めとる》は子孫相続の為なれば也、然れども婦人の心正しく行儀よくして、妬ごころ なくば、去ずとも同姓の子を養ふべし、或は妾に子あらば妻に子なくとも去に及ばず、三に は淫乱なれば去る、四には悋気ぶかければ去る、五に癩病などの悪き疾有ば去る、六には多 言にして慎なく、物いひ|過《すごせ》ば、親類とも中悪くなり、家乱る亠ものなれば去べし、七には物 盗む心あるは去る、此七去は皆聖人の教なり。 というのでありますが、この中の嫉妬ということに就いて、また特に書いて居られます。 嫉妬の心|努《ゆめ》く|発《おこ》すべからず、男淫乱ならば|諌《いさむ》べし、|怒怨《いかりうらむ》べからず、妬甚ければ、其気色こ とばも恐敷|冷《すさま》しくして、却て夫に|疎《うと》まれ、見限らるるものたり、|若《もし》夫不義過有ば、わが色を 和らげ声を|雅《みやぴやか》にして諫べし、諫を聴ずして怒らば、まづ暫く止て、後に夫の|心和《なごやか》なる時、 復諌べし、|必気《かならず》色を暴くし、こゑをいら\げて夫に逆ひ叛ことなかれ。 一体この七去ということは「|大戴礼《だいたいれい》」の文であります。ですから「女大学」にも「聖人の教な り」と書いてあるのですが、同じ「大戴礼」には、三不去ということがありまして、これもやは り聖人の教えのわけである。第一は妻を迎える時には、その家があったが、貰って後に里方がな くなった場合、第二は里方の両親及び自分の父母の喪を済した女、第三は娶る時には貧しかった が、その後富貴になった場合、こういう条件のある女は離縁しない、ということになって居りま す。それを「女大学」に書かなかったのは、女に教える本だからで、三不去というのは男に規定 されたことだから、女に説く必要はないのです。それがためにどの婦女読本にも、七去を書いて 三不去を書かないようになったから、片手落ちのように聞えますけれども、これは決してそうで はない。この「女大学」を読んで見ますと、この頃新聞によく出ている相談欄というものと、よ ほどよく似たところがあります。大いに七去を説きながらも、大分掛酌してあるので、まことに 時世相応な婦女保身の術とも見られる。時世を離れて、むやみに「女大学」の評論などをするの は、甚だよろしくないと思います。  それよりもっとこまかに悋気に就いて云って居りますのは、元禄十年に刊行された「女筆調法 記」というものがあります。これは居初氏の女つなの書いたものですが、この文章などは、今日 何子女史などといわれる人の書くものとよく似て居りまして、或は良人操縦説というような気持 も見えるものであります。 りんきの心あるまじき事 それ人の夫として、淫乱なるは家をほろぽし、妻にもいくばく心をやましめ、子孫までもた えはて、後には草露のちまたとなる、浅ましきは此まどひなり、され共此みち、まよへばい よくまよふ、かしこきとてもと父まらず、異見にもか廴はらず、みづからとしてもやめが たし、婦人の心入にて大かたはやむべきなり、|先《まず》其男、淫心つよくして傾城茶屋へかよひ、 内のつとめはものうく、万事に|付《つけ》、うらめしきていありとも、少も恨み思ふべからず、培気 は三毒の蛇心ときけば、腹たつるこ\ろ外にあらはれいづれば、かほのけしきかどくしく おそろしきものなり、そのおそろしき顔を守りて内にゐんという男はあらじ、夫を外へ出さ じと思はんには、万事につき、夫の機嫌のよきやうに物事あいくしく、かりにも其癖あし くせずして、何にてもその人の|数寄《すき》たる事をくはだてなぐさめたるがよし、その夫、外へ出 る時は、とも人\こしらへ出して留守居よくつ亠しみて、帰り入なば、よろこぶけしき色に 出してたつかしく、うれしき風情をあらはして、いさみつかへば、その夫はぢて外ありきを と父まるもの也、又夫のたらひ、めしつかひの女などを思いて、本妻をそばむる事なり、そ の女、いやしき者の癖として、主人の威光をかりて、主の女房をないがしろにして、家内に はびこりおごるとも|腹立嗔事《はらたていかる》なかれ、人、岩木たらねば、わが夫をとる女は、身にしみてに くうのろはしくもあるべけれども、かへりておとなしく、むかしより男のならひ、かくある 物ぞと堪忍の水にて胸の炎をうちしめし、心をしづめて少もはらたつ色をみせず、愛くし くもてなし、夫の心にさからはず、にくき女をそばめず、|恩物厚《おんもつあつく》とらせて、なつかしくかた らひ、た父昼夜家を大事とをさめ、出入の者にもさやうの噂いひきかせず、たとへかくやと 問ふ人ありとも、もゆる火に薪をそふる悪心のもがりぞと心得て、とかくいひまぎらはして、 よの咄しにたし、|重《かさね》てさやうの人には出あはぬやうに、おそれ遠のき、うとむ心あらば、そ の夫はづかしく、わがあやまりを思ひしりて、あだ心をやめ、もとの契りにかへるべし、妾 も又わが身のつたなき事をしりて、本妻の心入はづかしくも、おそる廴心出来て、おのれと |退心《のきごころ》になるべし、かくあればそのいへ次第にとみて、妻の心入のありがたき事、おのづから よそ人も聞つたへて、かたりひろめ、もてなさば富貴せん事うたがひなし、是を賢女と名付 べし。 どうもこの女先生の訓言たるものは、二百年以前のものとは思われぬくらいに出来ている。併 しいくら教えたところで、またいくら|嗜《たしな》んで見たところで、教えきれるものでも、嗜みきれるも のでもありませんから、士の家にも民間にも、悋気嫉妬の騒ぎが絶えることはない。そこで川柳 にある「かこひ者する時分嚊まをとこし」というやつで、まことに御互い様たわけであります。 浮世草子などの中には、亭主が若衆を買い、遊女を買っていると、 行く、というようなことを沢山書いて居ります。 女房も負けないで役者買いに 女の心持の変化 先ずそういった按排式でありましたが、ここに一つ注意すべきものは、宝暦六年に刊行された 「教訓|反古溜《ほごだめ》」で、それにはこんなことが書いてあります。 妬む女を去といふ事、俗人心得違有、今いふ一通りの妬といふは、大かた夫たるもの\不身 持より事起る、其子細は外国の|阿蘭陀《おらんだ》などさへ、妻を持てばたとへ妓女の|類《たぐひ》にもあふ事なら ぬ捉にて、|若《もし》他国に行てかくして提を破る事、追て聞ゆれば刑罰にせらる\事なり、それを 手前勝手かしらねども、古聖の定法なりとて、男は幾人妻を持ても、妾を置くもくるしから ず、婦は一に終るなどいふて、二夫にまみえずなどといふ事、和漢ともにかたおちなる事と 云べし。 これはオランダの話が引いてある。オランダの話は前にも云いましたが、あれよりはこの方が まだ古いのです。従来の男女片落論は、ただ女は夫一人しか許されぬのに、男は女を幾入でも許 されている、ということを論ずるだけでありますが、ここにオランダの例を提起しまして、一層 切実に一夫一婦論を唱えた。後のミーミに就いて前に申したこと、あれの発頭にあるべきことで ありますが、ただそればかりでなしに、従来儒者の説によって支持されて来た日本の夫婦の有様 に就いて、その慣行を撃破するのみならず、儒者という者に対しても、大きな反駁を加えて居り ます。その云うところは、如何にも明白に受取れるので、明治の初めに副島種臣伯などが、一夫 一婦論を奏上しましたようなことも、全く西洋の理窟でない、実際の夫婦関係を見て、それに感 服して言上もされたのであります。  それですから後には、焼餅ぐらいは大威張りで焼いていいわけになって来ます。文化の初めに 書いた「|良姻《りよういん》心得草」などの中にも、全体悋気深い女は、夫を大切に思うから起るので、それを 離縁するのは余計なことだ、と書いてあります。これは女大学などに比べると、大変な割引、大 変な譲歩でありまして、百二三十年の間に随分大きな開きが出て来た。そういうことを云うよう にたったのは、男が焼いて貰いたいようになったので、それだけまた女が焼かなくなったんだろ うと思います。  またこういうことも云っている。我が妻は妬みらしいことが更にない、これは薄情である証拠 であろう、培気をしない妻はよろしくない、悋気を慎む妻でなければいけない、というのであり ますが、これは女の心持が変って来たことを、逆に教えたもののように思います。浮世草子など の中には、金持が息子の嫁を貰うのに、どうせ貰うなら焼餅深いのがいい、嫁が大焼餅ならば、 息子が金を遣わなくなる、という話が書いてありますけれども、文化、文政度になっては、もう そういうことは望まれません。風俗の紊れていることに就いては、明和、安永度というものが、 ひどく悪く云われて居りますが、文化、文政と申しますと、それから僅か五十年の隔りであるに 拘らず、なかなかそんなウブなものではない。焼餅を焼くなんていうのはみっともない、野暮な 話だ、という風にばかり考える。従って女が亭主を持つというよりも、男のあるということは、 性欲及び物欲を充す道具のように考えている。それは享保度にさえ、女一人が過せぬようなら離 縁しろ、といって男に迫る女がある、といって増穂残口などは女の誠の少いことを歎じて居りま すが、それより大分早く、西鶴も同じようなことを書いて居ります。が、文化、文政の女は、と ても共稼ぎなどは出来なくなって居ったようであります。  已に武家の女でさえ、総模様や大模様を著るのが厭で、町人風を喜ぶようになっている。その 町人風なるものは、芝居者や遊女の風をそのまま受けているものであることは、前に云った通り でありますが、男がいじいじするのを見て、女房の方から、男のようでもない人だ、といって|嘲 笑《あざわら》うというのは、明和、安永度からあったことなのです。一体城下町になって、城のまわりに町 人を多く集める。殿様からしてが已に、そういう経済関係がなければ、だんだんやって行けない ようになっているので、商業が盛になって、金というものが町人どもの方に片寄って来ました。 従来の資本というものは土地が第一で、その次が金銀即ち貨幣でありましたが、それももとは武 士が持っていたのです。その証拠としては、京、堺の町人どもは皆武門武士から出ている。引込 浪人と称して、金を沢山持っているやつが、田舎でも大地主にたっている。それがだんだんに本 当の町人になってしまうので、城下町の町人にしても、やはりそういうものでありました。  戦争によって資本を得るということは、もうたくなっている。その戦争は皆私戦私闘で、それ が武士の商売でありましたが、その大きな儲けを取る武士の職業も、平和の世の中では成り立た ない。経済の力が何者をも支配するわけで、もう町人の天下ですから、金さえあれば何でも出来 る。すべてのものは商品である。これは|委《くわ》しく申せばいろいろありますが、とにかく金さえあれ ば何でも出来るということになって、間男でも首代で済む。女に対しても手切金で済む。男女の 道も売買になる。妾も女郎も芸者も囲い者も皆金である。男妾とか、|陰間《かげま》とかいうものも、皆金 で用が足りる。買い得るものは商品で、|沽《ちつ》らんとしているものである。それらはいずれも慰みも ので、面白おかしいという風にもなる。その勢いで参りましたから、寛政改革以前のところでは、 今日は何をして楽しもうか、ということを考えるのが、一つの仕事であったとさえ云われて居り ます。 避妊堕胎の風  都会が繁昌すればするほど、住民は都会ずれがする。都会ずれでいけなければ、世間ずれとい ったらいいでしょう。刺戟はだんだん強くなるばかりの都会生活ですから、人間の気も短くなっ て、忍耐するなんていう力も|鈍《にぷ》くなる。時世柄としても、夫も妻を頼むことが出来ず、実際頼み にもならない。妻の方でも夫を頼みにしない。「お前百までわしや九十九まで」というような気 持は全くありません。夫婦は年寄ってからが主なもので、交媾の事などはいつしか取離れ、二人 とも老境に入ってから、御互いに世話をして、親切ずくになって行く、それは親子よりも情合い のあるものである、などといって、「良姻心得草」は頻りに老夫婦の真情を説いて居りますが、 昔だって夫婦の倦怠期はあったのです。けれども気忙しい世の中でありますから、退屈してはい ません。却って新陳代謝するのに忙しいから、とても友白髪の境涯なんぞを気永く待っていられ るものではない。従ってその味を賞翫するわけには往かないのです。  女が亭主を頼むわけに往かなくなると、何も頼むものがありませんから、その時はただ愛せら れる、ということを頼むようになる。誰からでも愛せられる間を頼む。その関係は容色の消長に ある。従って容色を頼むことにたるので、容色が衰えれば、自然誰にも飽かれるわけであります。 夫婦というものが、容色のために愛せられているものとすると、どうしても或欲と欲とで繋いだ ものになりますから、夫婦相愛たんていうことは、ここでは望めません。そこで容色を保持する ことが、大分考えられて来る。そうなって来ますと、子孫を頼むとか、夫婦としても老境に入っ てからを頼む、というようなことをしては居られない。寧ろ子孫なんていうものを考えることは ないので、避妊、堕胎というようなことが盛になって来る。京都には最も早く、そういう薬や手 術が行われて居ったようでありますが、それほどでなくても、乳母を置くという習慣が、明暦度 には中流以下にまで及んで居ります。乳を飲ませると、女の容色が早く衰えるので、哺乳を逃げ るようにする。もっと低いところでは、|里子《さとご》に遣ると称して、やはり哺乳を逃げる。そういう風 でありますから、不義いたずらによって子を産むことに困る者だけが、避妊、堕胎等を考えるわ けではないのです。  そこで水戸の藩医の穂積角庵が「救民妙薬集」という本を出した時に、京都の医者の芳村恂庵 が、世間広く板行するものの中に、堕胎、避妊の事を記して、誰にも知らせるというのは宜しく ない、と云って駁撃を加えました。それに対して幕府の医官であります望月三英は、それは一応 尤もであるが、民問にはどうしてもなくてはならぬ事だ、と云って更に反駁を試みて居ります。 それどころではない、天明元年には「呪詛調法記」という本が出て居りますが、その中にはいろ いろな方法によって堕胎、避妊を教えている。けれどもこれは馬鹿げた話でありまして、自ら抑 制さえすれば、堕胎避妊なんていうことをしなくても差支ない筈である。謹慎するところなしに、 無理に辻褄を合せようとするから、避妊、堕胎のような、無理な事をしなければならぬようにな るのです。西洋にも左様な事をする者があって、貧乏な人間とか、病人とかいうものは、どうし てもそうする必要があるというのですが、左様な人達は度合相当に抑制することが必要なので、 そういう時に抑制が出来ないほど、人間が浅ましく成り下っているとすれば、西洋の人間も随分 |欄然《あわれ》なやつが多いと見える。況んやそれを学んで、日本で復習をするに至っては、恥かしい行止 りであると思います。  明和四年十月になりまして、寒村僻地の男女、殊に農民問には堕胎をしてならぬから、そうい うことの無いようにしなければならぬ、これは常総に多い、といって、はじめて法令を出して居 ります。けれどもこれには刑罰が書いてありません。また棄子に就いての事も、法度を出して居 ります。棄子は棄てられた町村で養育することになって居りますが、棄てた者の罪は規定してな い。これは|間引《まぴき》と称して、産んだ子を直ぐ殺してしまうことが農村に多かったので、これを防ご うとしたのであります。関東方面に於きましては、貧乏村ほどそういう事柄が多くあって、それ がために猶更貧乏になるといわれて居りました。それですから御代官を勤めて最も評判のよかっ た竹垣三右衛門、早川八郎左衛門なんていう人達は、間引子に就いて、相当に養育する手段方法 を立て、人口を殖したというので|族表《せいひよう》されて居ります。寛政以来、諸藩でも人口の殖えて行くこ とを、成績の一とするようになりましたが、それにも拘らず、化政度の女は子を産むと容色が衰 えるというので、|石女《うまずめ》や遊女——遊女は全く避妊の法を講じていたのですが、そういうものを却 って嬉しがっていたことが、人情本などを読むとよく知れます。  そこで遂に天保十三年十一月には、中条流の女どもに対して、手術をしたり薬を与えたりした 者及び頼んだ者、共にきっと処分するといって法令を出して居ります。その時は大分衰えました が、全く絶えることはたかった。ですから川柳などにも、中条中条といって、子おろしの事が書 いてあります。中条というのは、大坂の時代に中条帯刀という人があって、婦人科をよくした。 その人の流儀が伝わったのだといいます。けれども自分の容貌を保護するために、いくら子を産 むことをやめたにしろ、否でも応でも年は取りますから、容色は衰えずには居りません。いつま でも若やいで、容色の衰えないようにしたいが、それは出来ない。末始終どうしたらいいかとい うことを、本人も考えれば、親兄弟も考えてやる風を生じました。この時は恰も町人の世界、貨 幣経済の世界でありますから、頼みになるものは金である、それによって安心出来る、というこ とになって、例の持参金というものが出て来る。この持参金は古くからあるのですが、古いとこ ろのと、新しいのとでは、その意味を異にしているように思われます。