桜餅 三田村鳶魚 隅田堤の今昔  屋根船は見えなくなって、白魚が漁《と》れなくなっては、都鳥もいられなくなった。東 京の文明には薄倖な隅田堤《すみだどて》、江戸の春を彩った桜も、成島柳北が明治八年に一千株を 補植した心尽し、それさえ昔ばなしになって、花は年々に衰え、木は春毎に減じるよ うに思われる。人の心は上の空にもたれ、林立した煙突から噴出する煤気は、さすが の韶光《しようこう》を黒く曇らせてしまう。野趣を綺《いろ》う董・蒲公英《たんぽぽ》・蓮花草、地上の春のいろいろ に、羅綾《らりよう》に粧う女群の裳裾と艶を競う。その郊野に建て列ねた人家は稠密《ちゆうみつ》を極めて、 芽ざす若草の隙さえ惜しまれる。殺風景な地、没風流な天、向島の賑いが、ただ学生 の短艇競漕にのみ知られる。東京は広いというが、どこに伸び伸びした広やかな気の する場所があろう。東京は決して広 くない、鼻が閊《つか》えそうな都会である。 大都会とは到底思われない。大江戸 は花のお江戸であって、桜の多い都 会であったから、東京になっても持 ち越して、桜さくらで春を堪能した ものの、名木大木も一本桜で、並木 といえば、上野の桜、浅草の桜、そ れを天和・貞享の栄《は》えとした。享保 十九年に浅草観音の奥山ヘ千本桜を 植え、元文二年に飛鳥山を開いて、 桜の名所の数が殖えた後、寛政元年 の冬から、二年の春ヘ掛けて、中洲 の取払いと一緒に、大川筋の川俊い があった。その時に、浅草川の泥土 が、隅田川の土手普請に遣われた。「屋根船も屋形も今は御用船ちつ、んは止みつち つんで行」という狂歌は、その際のである。「隅田川の堤より桜の並木をうへしも此 頃の事也、むかしは此堤高からず、三囲稲荷《みめぐりいなり》石の鳥居笠木の、堤の上へ出たりし也、 三股中洲の新地とりはらひになりし時、其土を以て高く築上たり、さるゆへに、今も 此辺をゑがくには、堤の上より鳥居見ゆる図あり、是にておもひはかるべし」(『後見 草』)というので、隅田堤の栽桜は寛政二年なのが知れる。  桜のなかった頃の隅田堤は、「安永の末までは、梅若辺至て田舎、王子、亀井戸辺 とても、いり菜の平汁なりしに、今はいづれも料理屋ありて繁昌す」(『明和志』)。今 というのは文政のこと。青山録平という関東支配の代官が、老後の思い出に『明和 志』を書いたのであるが、隅田堤は、文政に至って江戸の名所になった。もう植え込 んでから約三十年も経っている。菊鳩《きくう》の創《はじ》めた新梅屋敷も、文化には知られ始めた。 尾上梅幸が松の隠居といわれた閑栖も、文政に構造された。石の罐詰|男《だん》の別業のとこ ろにあった、家斉将軍の寵臣中野播磨守の屋敷、札幌麦酒会社で売るとか殿すとかい う名園、にわかに惜しがられる老中水野出羽守の旧邸、向島方面に名残りを留めたも のを算えたら、大概化政の遺物逸話である。 長命寺畔の桜餅 『飛鳥川』という随筆に、「桜餅といふも、文政度にはじまり袋の名物になりぬ、文 政の始、下谷池の端の芥《ごみ》さらひし、土を寄せて.つの島めきて新土手と唱へ、こ\に も桜餅をひさぎける」とある。不忍《しのぱず》の新土手は文政三年の築造であるから、それより 前に、長命寺の桜餅があったのである。『兎園小説《とえんしょうせつ》』には、「去年甲申(文政七年)一 年の仕込高、桜葉漬込三十一樽、但一樽に凡二万五千枚程入、葉数〆七十七万五千枚 なり、但し餅一に葉二枚宛なり、此餅数〆三十八万七千五百、一つの価四文宛、此代 〆千五百五十四貫文なり、金に直して二百二十ヒ両一分二朱と四百五十文、但六貫八 百文の相場、此内五十両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛 なり」と、恐しい算盤高いことが書いてある。それと『嬉遊笑覧』の「近年隅田川長 命寺の内にて、桜の葉を貯へ置きて、桜餅とて柏餅のやうに葛粉にて作る、始は梗米 にて製せしが、やがてかくかへたり」をあわせて読めば、今日でも体裁を変えずにい るのが知れる。また文政の初めに、大分売れたのも知れる。よそで売る桜餅は、一枚 の葉で裏《くる》まれる、昔の居候の寝た時のようだ。柏餅のように、というのは、葛粉で持 えるばかりでなく、葉を二枚遣わないことも含んでいる。柏餅も一体は一枚でないも のだのに、早くから倹約されてしまった。向島のは、最初から桜の葉二枚に裏まれて いた。天保八年十一月二十五日、桜餅の老婆が没した時、村田了阿が、   寺の名の長き命もあだ桜|葉《は》つ葉《ぱ》六十四出の山風   始には唯腰かけの御茶の水後は桜のば父と云はれつ という二首の狂詠を送った。桜餅の店はこの老婆が仕出したので、寛政二年に桜を植 え込んだ時は、老婆も婆アさんどころではない、番茶も出ばなの、鬼も十七であった。  花見時の江戸中の人の足は、まず向島ヘ向かった。桜の隅田堤は、八百八町の繁昌 を、事新しく見せ付ける景気の凄じさ。それでも土地の者は油断なく、初めて植えて から五十五年目の弘化三年には、数百株を植え足していた。ペルリが来たのも、看《かんかん》々 |踊《おどり》から系統を引っ張って、「雨の夜」という滑稽な踊りに持える世の中、高野長英が 捕吏を迎えて自殺したのも噂の数にして、吉田松陰の浦賀で捉えられたなどは、話に もせぬ。品川のお台場が急造されるのも、流行唄《はやりうた》に唄ってしまう。心配する者が心配 し、騒ぐ者が騒ぐ、今日の何程違うかと、涙を腹の底に貯えて、貯金奨励の向うを張 る。悲しいという心理状態と、精力絶倫 という生理状態と、一個の身心で矛盾撞 突させて半年たたぬにこの始末と、ホー カイ氏を煩わした床次さんの再婚の原由 のように、我等の涙も尿中に混出すれば よいのに、天気の方へ影響して、降るや ら曇るやら、大正九年の春の空合に、迷 惑するのも我等の自業自得かしら、ホイ 時代錯誤、イヤ時代混雑、それではこの 頃の脚本家のようだ。  長命寺の桜餅は山本というので、老婆 の跡は、息子の金五郎がいる。『仮名文 章娘節用《かなまじりむすめせつよう》』の主人公と同名だけに、「目 本から口元までも、音羽や紀の国屋を一 つにしたよりよい御きりやう」であった かもしれぬ。この金五郎に男女の子供があった。弟の新六は三代目の桜餅の亭主、姉 のおとよは、天保十一年に生れて、無類の美女と当代の評判にされた。桜餅も、その 頃では売れるだけではなく、あっばれな隅田堤の名物になり済ましている。安政元年 三月、河原崎座の新狂言は、『都鳥廓白浪《みやこどりながれのしらなみ》』というので、市川小団次が忍の惣太で 大入大当、まだ河竹新七といっていた黙阿弥の作。馬琴の『墨田川梅柳新書』から採 って、しのぶの惣太の家を桜餅屋にしたから、この狂言を都鳥とも桜餅ともいった。 一体『都鳥廓白浪』は、天保元年中村座の春狂言『桜時清水清玄《さくらどききよみずせいげん》』の改造であった が、それについて、興味のある楽屋話がある。 河原崎座の新狂言  饗庭篁村翁の書いたものの中に、「座元権之助、此の古狂言を選み出し、本読も済 み、'一座役割も納まりしが、肝腎の小団次が何か進まぬ気色なりしかば、権之助は新 七を遣りて其の考を聞かせたりしに、小団次はヂロリと下目に見て、何の用にてと言 ひしばかり、新七は膝を進め、今度の惣太役に付き、何か思召もあるかの様子故、其 の儀を伺ひに参りし、と述ぶれば、小団次は冷然と、私も当座は昨今の事、役につき て彼是申すやうな事はござらぬ、併し先づ考へて見て下さい、高い金を出して此小団 次を御抱へなすつて、明盲で子供を殺すだけの没を、座元が御見立なすつたのは如何 いふ御見込か、成程書下しの歌右衛門さんは名人だから、それでも御客が来ましたら うが、御存じの通り柄はなし、男前も口跡も悪い私に、其真似は出来ませんが、私の 方に考へはない、座元の方に定めてありませう`此の小団次の体に箱まるやうにして 下さるか、左もなくば御辞退申さうと思ひます、と捻りて出しに、新七は驚き、早速 権之助の方に到りて、此趣を語れば、権之助は人に当惑し、意地の悪い奴だナ、それ なら其の様に本読の時に不承知を云へばいLに、今となつて、そんな事をいふとは、 仕様のネエ奴だ、併しいふ通り、大金を出した者を、気の乗らない事を無理にさせて も面白くない、仕方がない、どうにか工夫して納めて呉れとの頼みに、新七は我家へ 帰り、徹夜工夫して、堤の殺しの場ヘチョボを入れ、舞台と花道を割ぜりふに直し、 倦《どうさて》翌朝、小団次方へ其本を持参し、一直しして見ましたが、御気に入るかどうか先づ 聞いてください、と正本を読たてしに、小団次は昨日の不興に引かへ、にこ/\とし て聞終り、よく直りました、是なら私にも出来ませう、ドゥも昨日は我儀を云つて、 コレ茶をいれなほして来いよと、俄に機嫌なほり、自ら初日を急ぎて出して見ると、 何が倦、梅若丸を勤めしは、後に近世女形の名人と言はれし沢村田之助が、まだ由次 郎の頃の評判の子役、小団次の実、由次郎の花、舞台は花盛りの向島の堤の月、花実 情景ともに具はりて、見物大喝采」とある。黙阿弥は三度書き替えて、珍しい大評判 を取った芝居を持え上げた。この時から小団次との提撃《ていけつ》が成り立って、江戸末期の梨 園を賑わし、後世に、名優、名作者の誉れを残すこととなったのである。桜餅の山本 では、河原崎座の開場中、日々桜餅五箱ずつを芝居へ贈り、大いに自家広告に芝居町 の景気を利用した。ある向き向きへは、相応の散財を厭わなかったという。その機会 に、娘の評判を煽り立てる算段をした。おとよはその時ようよう十四歳、蕾の桜は、 梢を霞のように紅《べに》ぽかしにしたほどの眺めでもあったろう。  安政二年十月二日の大地震、霧《おぴただ》しい死傷の上に、大火災に遭った江戸の騒擾と、市 民の難渋とは、実に多大なものであった、しかし、職人・人足という方面は、急に景 気付いて、銭回りがよいから鼻息も荒くなる。江戸ッ子を明治・大正に記憶されるの は、この震災の付け元気の結果である。深川の仮宅《かりたく》の繁昌も、腹掛けの丼でザクザク いわせる連中の頭数で、何程賑わしさを増したであろうか、市中の景気も引き立って 見えた。三百年間稀有の外交家といわれた、幕関の首班福山侯阿部伊勢守正弘は、二 十五歳で、天保十四年閏九月十一日に老中に列Lた。こんな若い大臣はかつてない。 のみならず、嘉永には総理大臣の位置を占めていた。阿部閣老は評判のよい人で、落 首にさえ褒めたのがある。苛酷であった水野越前旧守忠邦の後を承けて、人気取りの匙 加減で、一時を隔着したのではない。寛猛の間を通るだけの政治が施せる人物だった らしい。大奥との関係も巧妙を極めたもので、後宮の権威と知られた上繭姉小路とも、 適当に連絡が取ってあったから、阿部内閣は決して背面の突撃を受けなかった。奥女 中等は一斉に阿部に傾倒していた。それには、彼の美貌が甚だ好都合であったと思わ れる。 婦女に人気のある阿部閣老は、 安政三年のちよぽくれに、 ゲヘル背負て、仮宅そ\りも、 自分もまた紅粉綺羅の人を好まれた。 ぶしやれの限りだ、夫さへあるのに、 |端反《はぞり》の裏金《うらきん》、  立派にかむつて、仮宅めぐりは、妾の見立か、あきれたことだよ、人の口には、戸  がたてられねエ、世間の評判、どうやらかうやら、おけちの始、旦那にや魔がさす、  妾にや羅がさす、明れば日がさす、降出しや傘さす、ヤレくく、コ、ラが第一、  チョボクレ所ダ、チョボクレく。 とあって、「端反の裏金、執権阿部勢州どの、悪説あり」と注がある。端反は陣笠の 端が反っているので、裏金も陣笠の裏が朱でなく、金を塗ってあるのだ。裏金の陣笠 は、幕府の高等官に限られたものである。その陣笠で、震災後に吉原の娼家が深川へ 仮宅して営業しているところへ、潜行したというのだ。事実はどうか知らないけれど も、阿部閣老はとにかくそうした噂をされた。桜餅のおとよが一枚絵に出たのは、算 え年の十八という安政四年十一月であるが、その時は、長命寺門内の店にはいなかっ たらしい。阿部閣老は石原に下屋敷があって、生母持名院(高野くみ子)をそこに住 わせた。しばしば過訪《かほう》して、老情を慰められたという。「朝散勿々不レ到レ家、直来二 別館一看二桜花一傍人勿レ怪二我心急一正恐三春風損二玉龍こ。題は「三月朔、於二石原別 館一」とあって、何年の三月だか知れない。柳営からすぐに下屋敷ヘ来て花を見たと いう胸中の閑日月、英雄の襟度の偲ばれる二十八字だが、その方ヘ掛けても凡ならざ る人物、錦絵の女に憧憬《しようけい》された痕跡が残ったものではあるまいか。実はこの頃、出安 の慶頼卿も、牛の御前へ御参詣があって、特におとよに桜餅を持参させてござる.、玉 萌の損じるのを惜しまれて、おとよは福山侯の奥向きに収容された。しかるに、安政 四年六月十七日、阿部閣老は三十九歳で卒去された。内寵の多いだけに、病気につい ても種々な説を伝えた。特におとよが入仕して聞もないのであるから、十万石の諸侯、 権勢の凄じい老中も、哀れ桜餅の娘のために生命を極《ころ》したといわれ、水戸の烈公を手 玉に取った阿部閣老も、おとよゆえに若死をさせられたと、当時は盛んに吹聴した。 桜鮮は後日のおとよ  阿部閣老卒去の後も、おとよは福山藩邸の奥深く住っていたが、維新の際に、向島 の生家へ戻って来た。四十二三の頃というから、明治十二三年であろう。内縁の夫と ともに、長命寺の裏門の脇へ、二階建の家を建てて桜鮮を始めた。おとよには、娘が 一人あったが、その娘が伝染病に罹って避病院へ送られると聞いて、大変驚いて病気 づき、大正三年九月十九日に、七十五歳で、福山の殿様の後を追っていった。娘も夫 も、前後相続いて没したから、桜鮮の建物は残っているが、さしも矯名の高かった錦 絵の女の跡は何にもない。ただ花の後の青葉若葉を突破した一竿、「幟高長命寺辺家、 下戸争買三月頃、此節業平吾妻滋、不レ吟二都鳥一吟二桜餅一」と、天保の狂詩のままに 山本の家から、竹籠を提げ出す人が絶えない。