柳営最後の御狂言師 三田村鳶魚 十二歳で西川の名取り 大正十二年の地震火事で、湯島新花町の松村琴荘氏の家が焼けましたが、懸命に搬出されて、 辛くも火炎を免れた坂東兼治の写真と、その舞扇一本とは、江戸の昔の史秘を語るのに究竟なも のであります。 坂東兼治という名は、今日では殆ど忘れられて居りましょうが、明治二十七八年までは明神下 の師匠といえば、演芸方面でも花柳方面でも、誰知らぬ者もない踊の御師匠さんでありました。 その人は二歳の時から、神田旅籠町一丁目三十二番地に住んで居りましたので、明神下の師匠で 通って居りましたが、本名は松村ぎん、江戸の世盛りであった文化十四年の春に、湯島の丸山某 の家に呱々の声を挙げ、翌年|襁褓《むつき》のまま伯母さんに貰われて、旅籠町の駿河屋、松村金次郎とい う鍛冶屋の娘になったのです。 この鍛冶屋の娘は四代目西川扇蔵について、踊の稽古をしました。文化、文政に踊の流行した ことは夥しいもので、武士も踊れば町人も踊る。茶番やら素人芝居やら、まだ足りないで花見と か、祭礼とか、開帳とかの出迎えにも仮装して押出す有様でしたから、八百八町の娘という娘に |踊《おどり》ッ子でないのはありません。その時にトコトンの教育費を惜しむ親父や御袋は、四里四方の内 には見つからないのです。恰も坂東三津五郎、中村歌右衛門、岩井半四郎、瀬川菊之丞のような 舞踊を誇る俳優が、江戸の人気を背負って立ちましたので、踊ッ子は座敷雛以上に舞台から仕入 れたのを、競って御俊いの晴れに致します。御俊いの景気は凄まじいものになりまして、日傘、 花簪、或は手拭の御揃いで繰出す花見などでは満足しない。祭礼の手古舞、もしくは踊屋台の演 技を覘うのです。そればかりではありません、当時の高等女子教育でありました大名奉公をする のにも、踊か三味線の嗜みがなければ採択されませんでした。踊で上った、三味線で御首尾した といえば、当人一代の名誉でもあり、父兄は勿論、親族一類までが自慢にするほどでありました から、市中の踊の師匠も沢山ある。志賀山、西川、市山、藤間などという家元もあれば、名々の 門葉もありまして、それぞれに繁昌し、女の師匠には中村、坂東、岩井などと、役者苗字を名乗 るのが多く、娘子供の稽古を引受けて、いい世渡りにもなったのです。 駿河屋の娘は文政十一年に西川の名取りになり、僅か十二歳でありましたが、一本立の御師匠 さんでありました。その格子戸に打った坂東照代と書いた標札も、まだ古びない天保六年には、 十九歳になって居りましたが、目に立ち易い踊の師匠の風俗、一種灘酒な気味から、江戸のすベ ての階級に類のない、別段な様子のものでありまして、一枚絵に描かれて錦絵の色彩うるわしく、 持て唯されもしたのです。照代は或時上野|御成《おなり》と聞いて、世子家慶の行列を拝観しようと、御成 道の懇意な家に出かけた。それは何月何日の事か知れませんけれども、西丸御年寄萩浦から駿河 屋へ御内談があって、照代はその年の内に萩浦の御部屋へ上ることになりました。 照代の上った西丸御年寄萩浦の部屋は、十一代将軍家斉の世子、従一位内大臣家慶の夫人、有 栖川中務卿織仁親王の七女|楽宮喬子《ささみやたかこ》を主とした大奥でありまして、その時楽宮様は四十一、家慶 世子は四十三でありました。 本丸でも西丸でも高級な女中の部屋には、お犬子供といって十二三歳の少女が居りましたが、 そのお犬の中で先に立つ者がお茶の間子供になります。これは|御茶所《おちやとこ》というのが正しいのだそう ですが、世間では専らお茶の間と云い慣して居りました。将軍や御台所の御側で働く、御中薦の 下働きにお三の間というのがありますが、お茶の間子供はその下に属して、御中繭の給仕をする のが役目なのです。 御茶の間は御中+腸、御次、お三の間乃至お末というような役名ではなく、またお茶の間という 部屋があるのでもない、お三の間に付属した一室をいうのです。お茶の間子供といいますけれど も、十七八歳から三十前後の者が多いので、中には五十余の老年者もある。それでもお茶の間子 供なのだから面白い。お茶の間の子供の上座-|頭分《かしらぷん》の者を「お茶どこ」といいまして、|御中居《おなかい》 格になり、はじめて軽い奥女中に准じた待遇を受けるのですが、やはり員外に置かれることに変 りありません。このお茶どこは柳営の御狂言師なので、大名の奥で狂言をする時には、町方から 呼上げますけれども、柳営では一切外間からは呼ばず、いつもお茶の間子供が御狂言を担当する のです。従って柳営には御霍言師という名称もないわけですが、奥の子供と御中薦等の御給仕に 働いている者だけでは、上覧に入れるほどの芸があろう筈もありませんから、稍々|年闌《とした》けた、技 芸に堪能な者を選抜して採用する必要があったのです。 お茶の間子供の上座は御狂言の主演者でありました。お茶の間の景気は何といっても、鳴物よ り御狂言の方がいいからです。御狂言は毎年少くとも三四度は欠かさず、御狂言一度の費用は金 千両では足りませんでした。御鳴物に出演するお茶の問子供は、午前中は日常の勤務に出ますけ れども、午後からは御番を除かれ、御鳴物所に来て稽古を致します。御狂言へ出る場合は、幾日 でも御番に出ないのみならず、三座の芝居見物をも許される。殊に主演者は芝居見物をするばか りでたしに、移すといって歌舞伎役者について話し合い、著付|鬣《かつら》はいうまでもなく、大道具小道 具等もそのままに持えます。主演者はこれらの新調品を頂戴する外に、多分の御手当金をも拝領 するのですから、一度の御狂言にも大変な利得がありました。それ故に好んで三芝居の新狂言を 御覧に入れるようにするのであります。 一妻七妾、子女二十五人 楽宮様はお十六の文化六年十二月朔日に御婚礼をなされました。家斉将軍は一妻二十一妾を擁 して、四十年間に五十五子女を挙げましたが、その相続人に生れた家慶世子は、御親類の水戸烈 公が三十五年間に、一妻九妾から三十七子女を産ませているのに負けても居られますまい。試み にその生殖表を作って見ますと、左の通りであります。 家慶の年齢 子女の名 生母 年号 二十一 竹千代 楽宮 文化十年 ニ十二 達《サト》姫 さだ(押田氏) 同十一年 ニ十三 檮《トモ》姫 楽宮 同十二年 二十四 女子 さだ 同十三年 ニ十七 嘉《ヨシ》千代(登次郎) さだ 文政二年 三十 童形 かく(太田氏) 同五年 三十二 家|祥《サキ》(後に家定) みつ(跡部氏) 同七年 同 米姫 はな(菅谷氏) 同 三十三 初之丞 さだ 同八年 三十四 威《ミナ》姫 かく 同九年 同 春之丞 みつ 同 同 暉《テル》姫 はな 同 三十六 悦五郎 みつ 同十一年 三十七 直丸 ふで(稲生氏) 同十二年 四十 銀之助 ふで 天保三年 四十一 里姫 きん(竹本氏) 同四年 四十三 千恵姫 ふで 同六年 四十四 吉姫 きん 同七年 四十七 亀五郎 ふで 同九年 四十八 万釵《マサ》姫 きん 同十一年 五十 若姫 ふで 同十三年 五十三 田鶴若 琴(杉氏) 弘化二年 五十六 鋪《シキ》姫 同 嘉永元年 五十七 錬《リヨウ》姫 同 同二年 六十 長吉郎 同 同五年  家慶が四十三で千恵姫を挙げた年に坂東照代は入仕したのです。亀五郎の生れた前年、即ち天 保八年に将軍になり、万釵姫の生れた同十一年に、夫人喬子は逝去されて居ります。この勘定に よって、一妻七妾から二十五子女を得るのに三十八年を要し、それが二十一歳から六十歳までの 問であったことも知れます。三十四歳の時には一年に三子を産ませ、三十二歳では二子を儲けて 居りますが、六十一歳で嘉ぜられた家慶将軍は、没前四年まで生殖力を発揮して居ります。六十 四歳で薨去された水戸の烈公は、没前一年十一箇月に最後の二十二麿を産ませ、同じ年には正姫 をも連発させている、凄まじい老健には敵し得ませんが、五十五歳で泰姫の誕生を打切りとした 家斉将軍は、七十歳で蕘去されたのですから、そこに十五年の距離があります。最後の勇気は敵 前上陸に比すべき家慶将軍の没前生殖は、親に恥じぬのみならず、誰に対しても遜色はあります まい。一妻二十一妾の親と、一妻七妾の子とを対比して、生殖の多寡を論ずるのは無理ですが、 一腹の能率から見ますと、嫡出が二人、庶出では稲生氏が五人、押田氏、杉氏が各四人、竹本氏、 跡部氏が各三人、菅谷氏、太田氏が各二人でありまして、一腹当り三人余になる。家斉将軍は五 十五子女でありましても、それは二十二腹から出たのです。御ひまな方に御計算を願うまでもな く、二人半にしか当りません。この勘定では家慶将軍が親にまさって居ります。 家慶の世子であったことは随分長うございまして、家斉将軍の在職は五十六年も続き、六十五 歳にたって漸く大御所様になったのです。十三代将軍になった孫の家定が十四になるまで、本丸 を動かなかったのですから、家慶はお茶の間子供よろしくで、四十五歳まで世子で居りました。 それでも十二代将軍に饒倖であったことは、豪傑の子は余程優秀であっても、親より劣って見え るもので、名人に二代なしともいいます。必ずしも不肖でない、豚児でもなかった家慶は、大御 所様の栄華物語の陰翳のために、また嘉永の黒船闖入のために、彼の閨政は全く忘れられてしま いました。柳亭種彦の「田舎源氏」は、幕府の故老勝海舟すら、家斉将軍の大奥を描いたものだ と云っているほどで、|女謁芭苴《じよえつほうし》の盛なのも、十二世は知らぬ昔の話らしくなって居ります。 美女献納の果  家斉将軍の奥向に中野播磨守、水野美濃守、美濃部筑前守などのような、寵姫の近親縁類が跋 雇したのは誰も知って居ります。併し御側衆とか、御小姓頭取とか、御小納戸頭取とかいう方面 に潜んで、暗中飛躍を続けたにもせよ、未だ曾て政局の大正面に立ち現れたことはありません。 然るに家慶の時になりましては、天保の大改革を敢行するほどの信任を得た水野越前守忠邦が、 何によってあれだけの猛断を試みるまでの堅牢な立脚地を築き上げたでしょうか。御人払いの対 談の外に、将軍の寝所にさえ出入する希有な寵遇を受けたのは、実に美女献納の効果に外ならぬ のです。  水野忠邦が美女を献納した時日は知れませんが、竹本安芸守の女であるおきんの方が、家慶の 第七女を産んだのは天保四年七月であります。家慶が本丸に乗込んで十二代将軍になった天保七 年にも吉姫を産み、同十一年にも万釵姫を産んで居ります。この十年間はおきんの方と、稲生右 門の女であるおふでの方とが、御産の競争をしているように見えるので、如何にこの両人が寵幸 されたかが知れましょう。おきんの方は南鍋町の菓子鋪風月堂の娘で、沈魚落雁羞月閉花と御約 束の形容の役に立つ美人なのを、忠邦が見出して貰い受け、実弟の跡部山城守|良弼《よしすけ》の女として、 更に竹本安芸守の養女に取持えて西丸へ進めたのであります。  水野が文政十一年十一月、京都所司代から西丸老中に転じて、内府様(家慶)御付兼大納言様 (家定)御用を承るに至った因縁は、家斉の大奥を信心した外に、何といっても献上した風月堂 の娘が力強かったでしょう。天保五年三月に本丸老中に進み、愈々御用部屋へ入るに就いては、 十一代将軍の寵女おみよの方に願った効験だといいます。水野越前守の改革は家斉将軍薨去の後、 天保十二三四年に威勢を示し、十四年六月二十二日に家慶将軍の恩旨を伝え、越中国房の佩刀、 備前康光の短刀及び金の|麾《ざい》を賞賜されました。それが三箇月を隔てた閠九月十三日に老中の職を 免ぜられ、弘化元年に再度起用はされましたものの、復職後僅か九箇月目に辞職しなければなら なかったのです。寵姫おきんの方は本丸に移った後、天保十一年正月二十四日に御台所喬子が逝 去され、大いに寵幸の加わったその翌年の閏正月に大御所家斉が蕘去されました。水野忠邦は恰 もこの際に改革の猛手腕を伸べたのですが、九月十五日におきんの方が没した翌月免職になって 居ります。この見遁すべからざる事実が、従来水野の敗亡する理由の外に置かれていたのは怪誑 に堪えません。  天保改革の際におきんの方の実父モある風月堂の亭主が、隠密係を担当して、町奉行鳥居甲斐 守の下働きになり、市井の間に暴威を奮ったのみならず、養父になった跡部山城守良弼は大坂町 奉行になりまして、例の大塩平八郎と喧嘩をはじめ、意外な暴動を惹起しました。それでも貶舳舳 されずに江戸町奉行となり、勘定奉行に栄転しましたのは、幕閣の首班を兄に持った為ばかりで もありますまい。  天保の改革で庶政刷新、倹約属行、八百八町は奢侈品検挙で市民が眼玉を自黒させている真最 中の十三年、喜多村箔庭の「|聞之任《ききのまにまに》」に「先月廿三日浅草寺より三河島ヘ御成あり、女中多く御 供有レ之由、浅草辺にては此取沙汰決して致まじく、町内へ役頭より申付たりとぞ」という記事 があります。ここに先月とあるのは十月の事ですが、「徳川実紀」で見ますと、この日は|真間《まま》ヘ 出遊したらしいので、真間鴻の台は紅葉で名高い名所ですから、十二代将軍も看楓と酒落れたの かも知れません。将軍の出行に寵姫や侍女を引連れることは、東照大権現の家康が晩年までもお 梶、お勝などを従えて押廻した後は、十二代将軍の天保十三年まで打絶えて居りました。先例古 格を尊奉する幕府だけに、ここに徳川第一世の残された祖法を復與するつもりなのでしょうか。 二百年近くも見なかった女中の御供、それも多勢なのですから、市民は定めて目を|從耳《そばだ》てたでしょ う。真間にせよ、三河島にせよ、いずれにしても浅草川から舟路を取るのが遠御成の例でありま す。この舟の乗降は両国橋の際に殆どきまって居りましたが、或は花川戸のこともありました。 途中は皆乗物ですから、女中の御供も目立ちませんけれども、舟への乗降には是非とも正体を現 さなければなりません。この時は花川戸で乗り降りしたから、浅草辺の町々に命令して嵌口した のでしょう。祖法を復與するのに何の遠慮も要らぬわけで、緊急嵌口令が野暮の行止りだなどと は決して申しません。  水野忠邦が失脚してから四箇月目、天保十四年十二月に発表した令達に「御勝手向の義今般|御 直《おじき》に仰出され候趣も有レ之、去丑年以来御入用格別相減候へども、未だ御入用は御収納の一倍に も相当り、所詮此の儘にては御暮しかた立ち難く候間、此の後御自身の上は御不自由を厭はせら れず、永世の御主法取立置候御事に候」とあります。丑年というのは天保十二年ですが、情けな い公方様は、暮しが立たないと生活難を叫んでいる。思えば天保の政革は幕府の運数を決すべき 時でもあり、また公方様の生活の危殆に迫った機会でもありました。ただその前年の春には日光 御杜参と出かけて大陽気に騒ぎ、冬には珍しく黄金の法馬三枚を鋳造して御蔵に貯えるという、 調子のよさに浮れたのにもせよ、女中の御供を金魚の糞のように長々と引張って、五十面を下げ た家慶将軍が、飛んだ先格旧例の復興を企てるに至っては、呆れ返ってしまうより外はないので す。 水野忠央の三妹配置  生活難を叫ぶ徳川十二世が、自身の不自由を忍んで経費を半減にするとは云いましたが、内寵 の倹約は少しも行われません。何としても襞姫の整理に忍びたいどころか、却って新進美人の入 仕を見ました。公方様の威勢も貧乏には敵し難いので、二十五人の子女のうち、世子になった家 定を除いて、他は大抵二三歳で死んで居ります。悉く成育しないのですから、葬儀が頻繁になる。 それを夜間ひそかに上野の凌雲院や芝の岳蓮社へ搬びもしました。誕生も多いから、一々に御祝 儀というわけに往きませんので、出生の発表を抜きにしたことすらありますが、そうは云っても 何としても忍ばれぬことがある。そこを覘われるのに気が付いても付かないでも、結局同じ事は 一つ事になるのであります。  家慶将軍の晩年の愛を|鍾《あつ》め、殊に専房の寵をほしいままにしたお琴の方は、はじめおひろの方 といいました。杉三之丞という小身な旗本の娘になって居りますけれども、実は紀伊新宮の城主 三万三千石、紀州家の御付家老水野対馬守|忠啓《ただあさ》の女で、これは美しいだけでなしに、頗る怜悧な 人でありました。御付家老であっては大名の格式が持てませんから、兄土佐守|忠央《ただひさ》が抱く青雲の 志のままに、先ず御付家老をやめて大名の列に入ろうとする運動の手先にならんがために、自ら 進んで将軍の姻褥に近付いたのです。その次の妹は西丸以来、久しい御馴染の御小姓薬師寺筑前 守の養女にして、御小姓平岡丹波守の妻にし、その次の妹もまた水野忠邦の弟跡部山城守の養女 にして、御側衆新見豊前守の妻にしました。水野忠央は三人の妹を材料に、将軍を捉えたのみな らず、その側を固めた上に、幕閣の首班水野忠邦との連絡をも作ったのであります。  世間では水野忠央が三妹を巧みに配置し、将軍の内外に結托したのを、後来の継嗣問題に対す る運動だと見て居りますが、病弱であるにもせよ、世子家定に子供のないのを見越して、十四代 将軍の相続を競争する準備とばかり考えるのは、水野忠央を余りに凄まじい先見家に仕立てるわ けです。紀州公方様といった家茂将軍擁立運動は、偶然の機会から起ったので、水野忠央の初一 念ではありませんけれども、その経過を顧みると、予め相続競争のために下地を持えて置いたら しくも解せられます。忠央の本心は幕府の陪臣たる御付家老が厭わしいので、将軍直属の大名に なりたかったのであります。三家の家来は陪臣にして陪臣にあらずともいいましたが、御付家老 でさえなければ、三万五千石の身上ではあり、殊に譜代恩顧の家柄ですから、老中になって幕閣 に立つ望みもある。家祖重仲から九代も引続いて、大名付合いをせずにいましたので、財力も蕩 蓄されましたから、さてこそ世間に乗出して見たくもなったのでしょう。  お琴の方は怜悧で別品なのですから、成績に疑いはない。まして御台所のない大奥で、寵幸第 一のおきんの方の没した後であり、御側衆や御小姓の援護もありますので、勇々以て優勢なもの になりました。競争者も出て来ません。弘化二年から嘉永五年まで、約九年間に二男二女を分娩 して居ります。忠央に就いては到底ここで話し尽されませんが、新たに新宮に遊廓を持える許可 を得て廻船を引付け、水野氏は暴富を致したということです。こうした利権の獲得も畢竟美しい 妹の御蔭であります。  水戸、彦根二藩の暴触を露出し、遂に桜田事変を惹起した大騒動は、継嗣問題に由来するもの でありまして、外交問題と切離して見ると、情況が分明になります。二つの問題が引絡んでいる のは、殆ど同時の論争だからでもありますが、殊更に引絡ませたところに策略があるのです。こ うしたことは勿論十二代将軍の閨政に関係はありません。外交問題と入込みにしたのは、策略家 の所為に相違ないけれども、継嗣問題を彷彿させ、紀州党と水戸党と幕府とを三派にして、訂争 するようにしたのは、全く闔政と無関係でもありますまい。家斉は汎愛で寵姫の多きを貪りまし たが、家慶は鍾愛する方で、或時間は一人二人に凝ってしまうのですから、数にしては少いので す。  三島中洲が旧主板倉伊賀守勝静の談話として伝えたのに、家慶将軍は嗣子家定が多病であるた めに、後継者を心配され、特に紀州の|慶福《よしとみ》を召見された。慶福というのは家茂の前名ですが、そ の時はまだ六歳でありました。家慶の内意は家定は勿論、奥向でも一斉に諒知していたといい、 中根香亭氏も慶福がはじめて家慶に謁した時、十二代将軍は世子家定と三人で苑内の菊を見た、 苑内の規定は将軍父子以外の佩刀を許さぬのですが、幼年の慶福は規定を知らないから、刀を持 って来いと命じた、家慶は笑って咎めないばかりでなく、家定を顧みて、他日汝に所生なくばこ の児を養えと云われた、といって居ります。この話の中には請取れないところもありますが、と にかく伝説として聴いて置かなければなりません。 美人の一顰一笑 「徳川慶喜公伝」には、嘉永五年十二月の鶴御成に慶喜を連れて往かれようとして、老中阿部伊 勢守から止められ、家慶が少し早いかと云われたといい、鶴御成には世子の外に同伴の例のない ことを挙げて、早く慶喜嗣立の意があったのだとか、夭折した初之丞に容貌が似て居るといって 寵愛されたとかいってあります。危険な程度は前記の伝説と同様でありますが、水彦両派が贔廈 贔廣で製造したものと速断することも出来ません。けれども両立し得ない伝説を二つながら認め れば、家慶の意志が奇態なものになって来ます。大体が凝る人ですから、寵姫に|泥《なず》むために、そ の一顰一笑を買うようにもなるので、もしそうだとすれば紀州慶福に対する伝説は、お琴の方へ 撒布した愛敬が亢進した結果でないとも云われますまい。  それでは慶喜の方は如何なる熱愛心理によるのかといいますと、一体烈公が隠居させられまし たのは、御主殿の風紀を壊乱した罪科なのです。烈公の兄斉修の夫人峰姫は、十一代将軍の女で すが、入輿の当時から従っている上薦年寄唐橋という絶世の美人がありました。上薦年寄は女中 の最高級者でありまして、一生の奉仕でもありますから、全く嫁娶の事を絶って居るのみならず、 尼僧同様に不犯を誓う例になって居りました。従って将軍の命令でも、寵愛を受けることがない のを定格として居りますのに、その唐橋を烈公が迫奸して妊娠させたのですから、嫂でもあり養 母でもある峰姫が、自分の身辺の風紀を乱し、奥向の制度を毀したのを怒って幕府へ訴えた為で あります。  それですから到底尋常な事では、再び烈公を世の中へは出されません。さりとて烈公を日蔭者 にしてしまい、藤田も戸田も押込められていたのでは、折角の天狗党も消滅の外はありませんの で、躍起運動をはじめたのが高橋多一郎です。野村|彜之助《つねのすけ》、加治吉次郎、茅根伊予介、美濃部又 五郎、鮎沢伊太夫等の同志を誘いまして、領内の豪農を説き、烈公が世の中へ出られれば|郷士《ごうし》に 取立てるとか、百石取りの武士にするとかいって、条件付の金策をして柳営の奥向へ手を廻しま した。併し搦手へ迂回する運動は、外間から何ともなるものではありません。幕府直属の者でも 大奥との連絡は取れないのに、いくら親類であるにもせよ、水戸の家来の企て及ぶ筈はないので す。ただ女中の部屋へ随時出入するのは、奥医師だけですから、高橋等は奥医師坂幽玄、伊東宗 益に接近し、奥医師を通じて御錠口の三保野と結びました。御錠口というのは、御年寄の勤める 役です。  すると三保野が云いますには、上様を説きつけるのは、おさだの方とおみつの方とから持込ま せなければいけない、この二人は私が何とか骨を折って見ましょうが、大奥第一の権勢者姉小路 という上繭年寄が居る、この姉小路だけは自分の手で動かせません。姉小路を動かすには家斉将 軍の大奥に御年寄であった是生尼、今日は深川辺に隠居して静かに老後を過しておりますが、こ の人より外にはない、ということでありました。この是生尼は家慶将軍の御覚えもめでたく、そ れに姉小路が入仕の当初に大分世話になって居りますので、高橋多一郎が是生尼を担ぎ出して、 遂に姉小路を動かすようにしたのです。無論安い労銀で働く女ではありませんが、とうとう姉小 路が幕閣の方をも宜しくしなければいけないというようになりました。  姉小路は才女でもあり、美人でもありましたので、或は家慶と味な関係もあったという説もあ りますが、他の位置ならば知らぬこと、上薦年寄としては仇ッぽい伝説は請取りかねます。けれ ども家慶将軍は何事によらず、姉小路の註文は妙に傾聴されましたので、姉小路は烈公からの消 息を屡々上覧に入れました。それも緩和材料になるように、手紙の文句も打合せた上のことであ りましたろう。将軍をだんだん揉みほごして置いて、阿部伊勢守とも内談したのですが、阿部は 美男で、婦女の操縦に巧みな人です。大奥の気受けのいいことは、三百年間有数な老中でしたか ら、姉小路の内談を受けて委細呑込みました。抑々水野越前守のあとを引受けた阿部は、仕事は じめに烈公を謹慎隠居させたので、八方美人主義な彼に取って、実に迷惑な役廻りでしたが、事 情よんどころなく処分をしたのです。阿部は烈公を追込んで置くよりも、上手に利用した方が利 益であると考えて居りました。何しろ烈公は三家の一人でありまして、水野越前守が天保改革の 用心棒にするつもりで、むやみに煽り立てた為に、野心のある大名が水戸へ潜り、世間でも大立 物だと思うほどにしてしまったのですから、その烈公の怨みを買うのが損なことも知って居りま す。阿部は姉小路が水戸の躍起運動者に、正面に廻れと教えるのを点頭して居りましたので、烈 公が再び世の中へ出てからも、阿部の提灯持だと云われるほどにたってしまいました。 家慶将軍は水戸嫌いでありました。それに御三卿という清水、田安、一橋の三家は、将軍の近 親の継承する筋目のもので、その人のない時には空虚にして置いた例はありましても、親類にも せよ、遠い血統の者の相続する例はありません。阿部は当面の外交問題に烈公のする煽動宣伝を 恐れましたので、御機嫌を取って置く必要もある。蟄居御免以上に何か嬉しがりそうな事を見付 けようとして、水戸が貧乏で子供の多いことに気が付きました。そこで七郎麿に当主のない一橋 家を相続させることになった時、烈公が大喜びであった状態は、阿部閣老に送った書面にも見え て居ります。この前後には、孕まれて困った唐橋も、烈公の御執心が強いために京都から引戻さ れ、名も花の井と改めて水戸の奥向に居りました。唐橋は姉小路の妹だともいいますが、そうで たくても近親であったらしいので、烈公は禍を転じて福となす時期が来たのです。唐橋を通じて 姉小路に達する、頗る便宜な捷径をも利用し得られましたから、慶喜の一橋相続というものが、 阿部の策略のために案出され、再三御祈禳された姉小路の見せなければならぬ|御利益《ごりやく》として出現 しました。それを納得した家慶将軍は、嫌いな水戸の子供を何故辛抱したでしょう。惚れた弱味 だとすれば、姉小路との関係を否定し得ぬわけで、たしかでない伝説も棄てがたいのはここなの です。果してそうだとすると、慶喜を寵愛したのも、姉小路の歓心を買わんがための御愛敬でな ければ、御世辞だと見られることになります。 私どもは家慶が慶福を寵し慶喜を愛したという両存を許されぬ伝説は、全然ではないまでも必 ず幾分の事実があり、それが後来に継嗣問題の矛盾衝突を伏蔵したのを信ずると共に、それほど の重大事を、惚れた女の笑靨が嬉しくて、当座に無遠慮にやってのける徳川十二世が御気の毒に もなります。ただここでは家慶将軍が、美しいのに対して目も鼻もないことを云えば宜しいので すから、僅少た例証を提挙すれば十分だと思います。 江戸から東京への推移  嘉永六年七月二十二日に家慶将軍が蕘去されまして、寵幸の美人等は現今の芝今入町の御用屋 敷——俗にいう比丘尼屋敷へ引移りました。各自に頂戴した先将軍の御位牌を護持しながら、こ こで心静かに余生を送るのです。お琴の方も御用屋敷へ引移りまして、御本丸への御機嫌伺いを したり、増上寺への御廟参をしたり、その他は神詣で、寺参りの外に外出させない、捉のままの 無聊な年月を送って居りましたが、何としたことでありますか、御用屋敷へ来た御大工肝煎某の 容貌が、錦絵に鮮かな宗十郎にそのままだとか、半四郎に似ているとかいうことで、一度その人 を見てからは、曾て知らぬ心の餓えに悩むようにたりました。やがて仏参に托して生家の菩提所 へ通うことが多く、密々の|構曳《あいぴき》も度重なるうちに、さすがに寵幸を誇った美姫の末路も危くたっ て来ました。先将軍斃去の翌々年、何月でありましたか、兄忠央の急病とあって、浄瑠璃坂の屋 敷から知らせがありましたので、お琴の方は大急ぎで出かけましたが、何日たってもその姿は御 用屋敷に見えません。それでもその筋へは死去の御届が出て居りましたが、呼寄せた水野土佐守 はただ一刀に、昔を思えば不便な妹の首を、涙より先に落したと当時に風聞されました。 こうした失態は決して幾つもあろう筈がありません。才貌双絶なお琴の方は、三万五千石の武 士の家に生れ、新宮城主の家庭に育ち、殊に将軍の殊寵を受けた身で、明治、大正の新しい女と 同様た往き方をしたのです。或は八九十年前に覚醒していたのかも知れませんが、それに対して 少しも覚醒しない、坂東兼治の江戸前な女ぶりを話して見たいと思います。 照代は西丸へ上ったのですが、天保十二年に七年ぶりで外神田の自宅へ下って来る時は、本丸 からでありました。これは家慶が十二代将軍になって本丸へ移られましたので、御年寄萩浦の部 屋も引越したからです。十九だった照代も二十五になり、一の側の御年寄の部屋に法度の緊しい 大奥奉公をして居りまして、御茶の間勤めの御番に出ても、厳重に監視されて居ります。たとい 監視されませんでも、長局に起臥するのですから、男子の臭気もありはせぬのに、怪しからんこ とは照代が懐胎して居る。懐胎しても何の御咎めもないのみならず、萩浦から手当の御金を遣さ れましたので、この賜金と萩浦の消息とは、従姉を妻にした岡田平馬と、異母弟の谷崎久右衛門 とが保管致しました。久右衛門というのは、谷崎潤一郎、精二氏等の伯父に当る人ですが、賜金 などがあったということは、実に不審千万であります。この懐胎が不義密通でなかったのは容易 に想像されますが、照代は終生この事に就いて一言も云わずにしまいました。 照代は女児を分娩致しましたが、その後は自宅の舞台に立って、町娘の稽古に忙しく、踊の師 匠の賑わしい日を送って居りますと、家慶将軍の御台所の御姪、有栖川|韶仁《あきひと》親王の御女韶子女王 が、柳営の御養女ということで、天保十五年十一月、江戸ヘ御下向になり、|精姫《あきひめ》様と申上げまし た。天保は十五年で弘化と改元されましたから、その翌年の弘化二年に、照代は重ねて御本丸の 御茶の間に召され、御狂言を勤めるようになりました。精姫様は照代が御気に入りで、御望みの 御狂言も虞々ありました中に、照代の道成寺と、逆櫓の樋口を大変御好きなされ、特に似顔の人 形を栫えさせて賜わって居ります。のみならず亀治という名をいただきましたので、それからは 照代を改めて亀治といいました。その後田安の亀之助様(家達公の幼名)が徳川の家名を御立て なされるようにたりまして、御名を憚って兼治と呼び替えた時は、もう江戸ではない、東京にた って居りました。 精姫様が久留米の有馬中務大輔|慶頼《よしより》へ御入輿になりましたのは、嘉永二年十二月四日でありま すが、照代の亀治は御本丸の御馴染として、赤羽根の御住居へ御狂言に出ました。やがて御一新 といい、瓦解という世の中になりましたけれども、東京の最初は新しいところが見えません。当 時頻りに瓦解瓦解といいましたが、土崩瓦解した幕府の跡始末が容易に片付かない。江戸の面積 の六分を占めて居りました武家の屋敷地、大名旗本の邸宅が廃櫨となり草原となりましたが、明 治も十年以後、西南事件が済んでからは「春もや\けしきと、のふ月と梅」の観があります。明 治十四年に芝公園に紅葉館が構成され、そこの紅葉踊は貴顕紳士とかいう手合の灘を流させたも のです。紅葉館の女はいずれも美人の本場の京都産を輸入しましたが、中には上方風の踊ばかり ではと御好みなさる向もある。兼治は町娘の稽古ばかりでなしに、御姫様方の御運動にもなると 変に新しみをつけて、貴顕紳士の家庭へも出入し、有馬家は勿論、同家の御縁で小松宮家へも参 上して居りました。明治二十四年四月、彰仁親王の御所望で、山姥の山廻りを御覧に入れました のは、畢生の光栄でありましたが、兼治の名が世間に拡まり、花柳界までも明神下の師匠で通っ たのは、明治十六年から紅葉館の舞踊を引受けまして、専ら新作の振付に従い、上方踊との巧妙 な折衷に成功した為だといいます。それは二十七年七月七日に七十六歳で亡くなるまで、十余年 間続いたのです。 意地は江戸前の女 松村琴荘氏は明神下の師匠の孫ですが、久しく祖父を知らなかった。御本丸の萩浦から来た書 類や、賜金を預った谷崎久右衛門の弟に、江沢藤右衛門という者がありまして、この人も兼治師 匠の異母弟なのですが、藤右衛門は物故して嗣子の蔵之助が、親や叔父から聞いていた内々話を 琴荘氏に伝えました。兼治師匠が照代の昔、妊娠して御本丸を下ったのは、上様の御手が付いた のです。何分余りに異例な取扱いでありましたが、もし不義者であったたらば、誰が何と取繕っ てくれたところで、賜金などのあろう筈もなし、再度柳営に勤仕することなどは思いもよりませ ん。 十二代将軍の大奥のみならず、いつでも寵幸を得た者は、仮親をして何の某の娘に化け、御中 繭になりすますのです。然るに照代は何故に下げてしまったのか、何故に御中薦に製造しなかっ たのか、谷崎、岡田両家で保管する筈の萩浦の消息さえ取失われて、今日何一つ伝わらぬ上は、 当時の事情を想像するのも困難ですが、多分御手の付いたことを表向にしないで、病気引きにで もしたのでしょう。勿論御胤を宿したことは、全く隠蔽してしまったのです。 明神下の師匠には後にも先にもただ一人の娘であるおあいさんは、毎日御稽古の地を弾いて居 りましたが、私どものおぼえているおあいさんは、四十を越しても色白な面長な、生際の濃い、 ちゆうぜ… 美しい顔付の人で、中背で痩形な、まことに温和な様子に見えました。そのおあいさんが十二代 将軍の御落胤だとは、知ろうようもありません。天保十二年に生れたおあいさんは、十三代家定 将軍の妹で、第十女万釵姫と第十一女若姫との間に挾まるわけですから、そうすればおあいさん ではない、愛姫様なのです。殊に家慶将軍の子女では、家定将軍とおあいさんの外に成育したの はないのですから、何ほど大切にされたか知れますまい。当然大諸侯に輿入をして、御住居様と 仰がれる身分なのですが、謀叛気が出るようなのは、却って真の御胤でない証拠でしょう。ただ 鷹揚に悠々閑々としているところが贋物でない有難味かも知れません。 おあいさんは決して身の上の事を云わず、有福な踊の師匠の娘として、何の事もなく御婿さん を貰い、現代に漢詩で知られた琴荘先生を子に持ちました。徳川十二世の外孫にしては、琴荘先 生は大分酒落れ過ぎて居ります。猛火の中から僅かに祖母の遺品が搬出されたのを喜ぶ琴荘先生 も、今年は既に六十一であります。生母の御落胤おあいさんは、明治二十六年三月六日に故人に なってしまいました。 けれども話はそれだけでは済みません。二十五歳で御本丸を下り、七十七歳で没するまで、四 十年の長い歳月の間に坂東兼治の身の上には色めかしい樽もたかったのです。無論嫁にも行かず、 婿も取らず、萩浦の御部屋へ呼び迎えられる前も、御約束の男嫌いでありました。一生に男とい っては、家慶将軍より知らないのですが、それとても惚れようも腫れようもない。実は御成道へ 御成拝観に出た時に、見染められただけのことたのです。江戸時代には将軍や世子の通過する沿 道の家々は、亭主も子供も男たる者の数を尽して、軒下へ荒菰を敷いた上へ出て、平伏していな ければならないのですが、婦女はこれに反して、畳の上でいながら行列を拝して差支ありません でした。当時の照代も知人の家に往って、表座敷から拝観していたのを、家慶世子が乗物の内か ら見付けたので、御目に止めたというのは見染めたことなのです。 然るに懐胎させた上に、如何なる事情があったか知れませんが、御本丸を下ったといえば聞え がいいようなものの、実は手当金を与えて追払ったので、たしかに貞操蹂瀰事件であります。慣 例のままに御中薦に取立てないのは、路傍に芽ぐむ柳は折り次第、野に咲く花は摘み放題と思わ れたに相違ありません。町人、芸人と卑下されるのには慣れていたでしょうが、千本桜のおさと も、三位中将維盛さまとわかった時、雲井に近い御方と鮨屋の娘では、何よりも分際が違うのに 泣いて居ります。それが二人の関係を懸隔するのを合点しても、やはり涙は止りません。目の前 のおきんの方は、菓子屋の娘で御中薦なのです。菓子屋の娘と鍛冶屋の娘と何の違いがあるか。 おさとのようた恋はないにしても、怨みは遙かに多いわけであります。 野に放たれた照代は兼治になった晩年まで、怨みはあっても恋のない人のために、平気で孤独 た暮しをしました。漢字の意義の変らぬ限り、貞操という文字は二つながら、変革さるベき意味 を持ちません。間違っても二人に許さないのが婦女の見識でもあるのです。三万五千石の新宮城 主の娘は身後に醜名を残し、菓子屋の娘は時代相応に婦徳を傷つけずに了りましたが、それは御 用屋敷に於ての事で、明神下の師匠は全く自由な境涯にいたのです。御嫁さんに往っても、御婿 さんが来ても、誰からも非難されぬ勝手な身分である。嬉しい筈のない仕向けをされても、江戸 前の意地は凄まじいもので、またの相手を見付ければ——先の相手が江戸に二人とないだけに、 今度は是非とも自分を安くしなければなりません。|沽券《こけん》を下げるくらいなら寡婦で暮すというと ころに、物々しい儒者先生の貞操論にも教えられず、 の見識があるのです。 苦しがった本能論にも外れた、 江戸前の女