島津家お由羅騒動 三田村鳶魚 江戸の最後の一大御家騒動  大名は、正妻のない内は、妾腹の子供が生れても、お届けもせずにおく。もし正妻 に嗣子がない時に、初めて養子にする。それが嫡出の男子が出来た日には、兄でも庶 出であるから、日蔭者で仕舞わなければならない。実は兄だが、弟にされたために、 国元で仙台騒動のようなことをやって、君公の男子が出生すると、きっと死んで仕舞 う。幾人出来てもきっと死ぬ。ついにその君公の実際の兄貴の子が、君公の養子にな って、無事に済んだことがある。それはある西の方の大藩でもって、あんまりいうと いわゆる天機を漏すからいいますまい。(『村摂記』取要)これに類した記事を、往々 見掛ける。全く世間に知られぬではないが、江戸の最後の一大御家騒動は、事件の悲 惨な残酷なのにも拘らず、割合に知られておらぬ。西の方の大藩というのは、名にし 負う、薩摩・大隅・日向三国の太守、七十七万八百石の大諸侯を指すので、事は、島 津|斉彬《なりあきら》の身上に禍した、お由羅騒動をいうのである。薩侯二十九世斉彬の弟久光の生 母お由羅の方が、その所生をもって、二十八世|斉興《なりおき》公の世嗣にしようとしたのが好計 の起りで、島津豊後・碇山将曹・調所《ずしよ》笑左衛門・吉利仲・伊集院平なんどがこれに加 担し、一方に、近藤隆左衛門・高崎五郎右衛門(男爵高崎正風実父)等数十人が、忠 義に励んだために、当主斉興の激怒を買い、あるいは自裁・禁鋼・配流の厳科を受け、 あるいは本国を脱走するに至った。事態はかくのごとく容易ならず、実跡甚だ的櫟《てきれき》た るもので、到底隠し立てがなるものでないのを、不測にも、喧伝されずに、ややもす れば浬滅《いんめつ》しそうであるのは、畢寛するに、斉彬亮去の後、久光の長子忠義が薩侯三十 世に備わり、お由羅の方の腹から出た久光殿が、鹿児島藩政を予断されることになっ たから、閨藩《こうはん》の口を摩《つぐ》んで、嚢時《のうじ》の忠好正邪を語らず、歯を没して、凶計|匪謀《ひぽう》を言う ものもなく、血性男児の精神気塊の、日星河岳たるを顕揚しようともしないためであ る。 三代相伝の貧乏  二十六世島津上総介|重豪《しげひで》は、文化・文政の現代式のお大名様であった。八十九歳と いう長命の上に、子供沢山、長女は豊前中津十万石奥平大膳大夫昌男へ、二女は徳川 十一世家斉の御台所篤姫、長男は家督して中将|斉宣《なソのぶ》、二男は奥平昌男の養子になって 昌高、三男が島津左近久亮、十三男が福岡五十二万石の養子美濃守|長博《ながひろ》、三女は大垣 十万石の戸田伊賀守氏正の室、四女も桑名十二方石の松平近江守定和へ入輿し、五女 は戸沢千代鶴へ、六女は郡山柳沢謬之助に嫁し、η、、十五万千二百八十八石の奥方、七 女は水野甲斐守忠実の夫人、その弟が奥州八戸二万石の養子になって、南部遠江守|信 順《のぷゆき》、一門の繁栄、特に晩年は栄翁と申されて、大御所家斉の岳父とあって、当世の耳 目を一身に集めた。天下の三隠居と呼ばれた中の随一、現代かぶれのした栄翁、一年 就封の途次、長崎へ微行してシーボルトに逢って、海外の珍談に耳の正月をさせるほ どの賛沢、早速新医術を領内に流行させて、種痘が始まる、薬園が出来る。聖堂も持 えれば、造士館・演武館が建っ。文武の教育を奨励し、『成形図説』等の大著述が計 画される。鎌倉の頼朝の古墳さえ、わが祖先だとあって、修築する勢い。費用は一向 お構いなしの果ては、幕府をさえ借倒した。お約束の藩庫空乏、財政困難、一切万事 が家斉に似ている。親に似た子でなくて、婿殿に似た舅御、子供の多いから、貧乏ま で似ればもう沢山。  天明七年正月二十九日、栄翁殿の隠居によって、嫡子|斉宣《なりのぷ》の御乗出《おのりだ》し、生年十五歳 の修理大夫、侍読《じどく》秩父二郎・樺山某(名不明)を抜擢し、この二人によって倹約令の 実施を勉め、驕奢の後に急激な粗衣糖食《そいれいし》の強行、風上には栄翁隠居の賛沢、それをば よそに、勤倹尚武の風は吹き回わる。方角を見て吹かせる風だけに、若いお嫁さんの ようにも、食客のようにも吹かねばならぬ。千番に一番の兼ねあい、すこぶる骨の折 れた時俗匡正も、秩父・樺山の肋労《くろう》空しからず、すぐに験が見えてはきたが、積年の 逼迫は一時に救解し得べくもない。藩の財政は更に余裕がない。その整理に要する資 金さえもない。やむを得ず、十年間|参観《さんきん》御免の内願に及ぽうとした。当時の参観交代 は三年一回の制で、近国の大名でも随分苦しい課賦であるのに、四百十一里を隔てた 鹿児島から三十余日の行程ある江戸へ、上下数千人の往来、この費用というものは、 実に容易なことでたい。この内願は、制度の上から、到底認許さるべきわけではない。 財政整理などの理由ではなおさらのこと、元禄中に、熊本侯が庶母看病のために、た だ一回の参観交代を免除されたほかには、捗々しい前例も聞かぬ。多分、当将軍家斉 の夫人と薩侯斉宣と同胞であるのを利用して、特別無類の内願を、側面から持ち出そ うとしたのであろうが、この一件で大いに幕府つ悪感を買い、殊に栄翁の旨に杵《さから》った。 二十七世斉宣は、これがために、まだ三十七歳・という壮年なのにも拘らず、文化六年 六月に退隠、秩父は切腹を申し付けられ、その同志は、士籍を奪われ、あるいは免職 の処分を受けた。秩父は自裁に藩《のぞ》んで、家人に遺言すらく、「年来の忠義空しう、施 設皆水泡に帰し、剰《あまつさ》へ乖上戻主《くわいじやうれいしゆ》の科条に抵《あた》る。余の死所を得ざる尚ほ忍ぶべし、我 が宿昔《しゆくせき》の志を如何せん、我が屍を埋めん時、宜しく御城に面せしめ、永《とこし》へに向日の葵 心《きしん》を表せしめよ」と。かくて彼は従容《しようよう》として死についた。この際、二十一歳の頭顧《とうろ》を こそと剃り殿《こぽ》って、血気を夢の痕青く、散るには脆き嬰粟《けし》の花、藍簾に揺らぐ一櫓の 風よりも静かなる無参禅士、魂を魚板の響に駐し、心を棒喝《ぽうかつ》の際に警《いまし》め、南林福昌と 累董した藍谷某(伯爵吉井友実の叔父)。晩年に鹿児島城皇徳寺に幽栖する頃には、あ っばれ善知識の聞え高く、大西郷の師事したのもこの人である。さても隠居した斉宣 は、白金の別邸に十有三年、父子の対面だにもあらず、栄翁病篤に及んで、わずかに |暮間《じよくかん》の招引を得たというのも、後日の話。鹿児島では、文化六年の政変、隠居栄翁の 圧迫からきた変革を、近思録崩れ、また秩父崩れといっている。秩父二郎は、藩政改 革を相談するのに、『近思録』輪講会を利用したからである。 天下の大腫物  二十七世斉宣は、乃父《だいふ》の威圧によって、白金の別業に幽冤欝憤に沈める時、その長 子|斉興《なりおき》が春秋ここに十九、文化六年六月十七日、祖封を襲《つ》いで二十八世に備わった。 祖父栄翁、嫡子に懲りて、嫡孫の監視はいよいよ厳重である。大小の政務、ことごと く隠居の旨を承けて執行するよりほかはない。それは二十七世の人物が余程奇矯であ ったから、またしても先代と悲運を賓《つ》ぐのか、と懸念された。至極の外国嫌いとあっ て、日夕異国調伏の祈薦を修せられたのみか、一年就封の発途《はつと》に、阜隷《そうれい》をして、お江 戸もこれ限りと高歌させ、神奈川に着いた夜、江戸の留守居は汗馬一鞭、白沫噛ませ て馳せ付け、昨夜大変出来、西の丸が御炎上に相成ました、と言上した。それを聞い た薩侯、ナニ焼けたのであろう、炎上とは京都の御所か、伊勢の神宮の火事をいうの だ、将軍家の火災は焼けたでよろしかろう、と叱った。叱られた留守居は敗亡、早速 言い直して、全く焼けましたのでござります、付きまして、お見舞いに何か御献上に 相成りましておよろしかろうと存じまする、と申し上げる、と斉興、怒気満面、献上 とは何事ぞ、献上とは京都に対するほかは用うまじき言葉である、何なりともくれて 遣わせ、といわれた。篤姫の入輿に得意であった人の嫡孫、徳川十一世を婿にして栄 華を誇る栄翁の後人に、二十八世斉興のこの調了があるのは、そもそも天稟賦性《てんぴんふせい》の異 なるによるか、はた、幕府のありがたい祖父に対する反擾か、さるにても、斉興の斉 の字は、将軍の偏誰《へんき》頂戴の恩陰免れ難い表徴、言葉尤《ここぱとが》めの勤王、御祈薦仕立の嬢夷、 あわれ後年の流行そのままに出来ている殿様。そうかと思えば、ペルリが浦賀に入航 して修交を強要した時、江戸では今にも戦争が起るというので、民心の動揺甚しく、 上下の周章、黎庶《れいしよ》の荷担して四散するありさま、それを眺めて勤王穣夷の殿様は、殊 更に、この夜三田の藩邸で終宵の能楽、鼓の音は暁に徹した。すなわち、物情を鎮静 する効はあった。翌朝開門すると、扉に大膏薬が貼付してある。膏薬を剥いでみると、 天下の大出来物と書いてあった。  四囲の事情から激成されたにもせよ、矯々たる気象を有せる斉興も、祖父からの罵 絆を脱するに術なく、藩用は年々歳々に繁重し、文化の末年には、庶費年額五百万両 に達した。うべなる哉、渋谷の別邸の栄翁の我盤自恣は、この時に極った。その上に、 白金には若隠居の斉宣、三田には当主、本国には唐渚・玉里・鶴見崎・田の浦と、男 女七人のお住居、島津家の疲弊は、閨藩《こうはん》の溜息吐息を五色にしたのも当然、この大支 出を控えて、七十七万石、薩摩・大隅・日向の三国、琉球かけての太守様のお手許に は、二分金ただ一ツ、と聞いては驚かずにはいられぬ。借上米《かりあげまい》を通り越して、藩士等 が帯刀の飾具を取り外し、金銀を尽して献上するほどのことは、焼石の一滴、このま までは百二の都城《とじよう》も破産のほかはない現状。家貧うして孝子は出でず、姦臣がここか ら現われる。黒田騒動の倉八十太夫、加賀騒動の大槻長元、いずれも同じ筆法で、小 人鄙夫は財利に伴うて青雲の志を伸べる。 国法を無視した新財源 重豪付きのお茶道に、 |調所笑悦《ずしよしようえつ》という坊主があった。この笑悦は、川崎主左衛門と いう軽輩の二男に生れ、 始めは良八といったが、調所清悦の養子になって、友治と改 名し、表坊主から奥茶道に進み、名も笑悦と替え、性来の捷給《しようきゆう》敏弁、呼ばれずとも 返辞をする人間、十二分に宙竪《かんじゆ》の質を発揮したから、我儘者の重豪殿の殊寵を得たの は寛政の話、まだ笑悦は二十三歳であった。笑悦の便俵《べんねい》は、年とともに進歩する。利 口はますます上達する。斉興も負けじ魂の強い殿様であるが、お手元の淋しさ、二分 金一個にも萎れざるを得ない時、彼の才気で財政の整理をさせたならばと、百計尽き たところから、笑悦に属望された。斉興に召されて特命を承わって、笑悦は即座お受 けをするような坊主ではない。存じ寄りもござりますれば、と固辞してやまぬ。笑悦 辞退と聞いて、栄翁は大立腹、笑悦任用は意中のことであるのに、聴かぬとはけしか らぬと、早速に渋谷へ召喚した。彼の分疏《いいわけ》の模様によってはと、侃刀に手も掛けかね ない気色。笑悦もヘイヘイハイハイの年齢ではない、もうこの時は三十八歳、実は怒 らせるのが注文なのである。白金の風景は委細知っている。隠居の目玉が百燭光でも 頓着はない。程よく罷り出ると、その方は再三勝手重役を命ぜられながら、何故に主 命を黙止し辞退は致すぞ、予が面前において、その通り返答を致してみよ、ときた。 待ってましたと笑悦は、お受けを躊躇《ちゆうちよ》仕る次第、まずは一個のお願いがござりまする、 別儀でもござりませぬ、私事は元来身分なき御茶道のこと、一旦御勝手方の大役に 相成りますれば、いかに高命とは申しながら、藩中の軽侮は必然、まして陰口後言の |脂《かまびす》しく、折角の御委任も一事成らず、いたずらに畏頭畏尾におわろうも知れ申さず、 それ故、この後何人より私職事に付き言上候うとも、お聞捨て下しおかれましょうな れば、犬馬の労はものかは、一死をもって御奉公を励みまする、とダメを出して、そ の方申し分至極もっともじゃ、と素地を作って、御勝手方小納戸役調所笑左衛門にな りすまし、青坊主も黒々と蓄髪した。  重豪・斉宣・斉興、三代相伝の貧乏に対する笑悦の財政計画、これが常軌を逸した もので、倹約から出発する平凡な整理案でない。もし、秩父の覆轍によって、近思録 崩れを再演する粗衣礪食ならば、後日の伏禍《ふつか》もなかったろうが、それでは栄翁隠居が 納まらない。笑左衛門は経費削減を策せずして、収入の増加を企図した。就任早々、 江戸を立って帰国の途を急ぎ、大坂の蔵屋敷へ着いて、出入り町人を招集し、綿密に 商況調査に従事した。この調査によって、南方諸島のほかに産地のない黒砂糖の専売 と、唐物の密貿易とをもって、新財源となすべきを確認した。その黒砂糖専売は薩侯 の自由であろうが、密貿易は国禁である。鹿児島下町に下会所という役所がある。こ れは町奉行の詰所で、物価を監視し、売買の平準を司る、該藩の商務局である。大坂 の調査を決了して国についた笑左衛門は、ここへ町々の年寄どもを召集する令状を発 した。町人どもは、財政状況を悉知しているか八、、多分は御用金であろうと、少から ず恐慌の体である。当日がきてみれば、渋いながらも出頭しなければならないので、 四五十人の年寄が下会所へ集った。笑左衛門は、新任の挨拶の後で、その方どもも |粗《あらあら》々御内政向きは承知しておろうが、御用金を差し上げて御用を弁ずるのは容易なこ とであるけれども、それは一時のお凌ぎであって、永遠のことでない、よって、町 人・百姓等の迷惑にもならず、永遠に御勝手向きの御ために相成る儀もあらば、各自 腹蔵なく見込みを申し上げよ、と申し渡した。中未外の沙汰に、一同暫時言句もなかっ たが、下町年寄山元某・林某が進み出で、「その御手段の儀は、外に御仕方も在らせ られ候べきも、私共存寄りにては、御国産の第.たる大島其他の砂糖に御手を附けら れ、商人共の売買を差止められ、御手元にて一.子に御取扱ひ遊ばされ、大坂にて一定 の相場を立させられ然るべし、その上は、諸商人の島方に下り、窃に買取り候者、島 方糖作人の内証売いたし候者をば、屹度《きつと》御沙汰相成り、厳重に御処刑ある事となされ なば、後々には違背の者もなく、御勝手向第」の御為筋と存候」とあった。他の年寄 等もそれよろしからん、と異口同音に申し出でる。笑左衛門は、予も同案であるが、 この御事業一手御扱いと相成るにおいては、莫大の資金御入用なれども、ただ今は去 る御余裕もなければ、それを御困難なさる、これを蔵屋敷御出入り町人へ申し聞けな ば、資金調達も整うべき相談であるが、左様にては、御勝手向き御内情も自然世間に 漏れると申すもの、御体面もおよろしからず、御膝下の町人どもの面目もいかが、か れこれの影響を考え、三五年賦をもって、右の資金をお借上げなされ、相応の利子を 下さるべく間、この儀について、銘々の所存を申し上げろと、卑賎から身を起した笑 左衛門だけに、ゆるゆると、打ち拡げた網を徐々に絞る綱手の加減、年寄に安心させ て、さてごもっと㌔といわせずにはおかぬ。そこで年寄各個は、応分のお貸上げとい うので、即座に数万両を醸出したので、笑左衛門は腹案を現実するの機会を得た。大 島・徳之島・鬼界島を一括して、三島方という役所を設け、その役人には海老原宗之 丞等の財理に通じたものを採用し、島方一年の計を立て、砂糖専売の基礎を定め、収 穫を大坂に転漕し、時季を測って蔵屋敷で入札する。帰航を利用して北陸に回漕し、 |賎耀《せんてき》を図った。黒砂糖の専売はすこぶる良好の成績で、さすがに、財用|匿乏《きぽう》した歳計 を周急したのみならず、余儲《よちよ》を積んだのが維新の軍資になり、廃藩置県の際に、県庁 へ引き続いだ九十六万両、それが十年の役に薩軍の軍用になったのである。  笑左衛門は、当初に着眼した黒砂糖専売の一段落を見て、更に唐物密貿易に手を着 ける寸法、領内の開鉱を名として、幕府からi年賦で五万両の拝借金を得て、その一 万両をもって、表面上鉱山事業を企て、爾余《じよ》の四万両を資本に、琉球から福建へかけ ての沿岸貿易を始めた。国禁などには遠慮しない。定めて、彼の胆気《たんき》を褒める人があ ろう。密貿易の利益は、大いに島津家の財政を裕かにした。幕府への返金も渋滞なく 済ませる。倹約ぬきで財政整理を遂行した彼が手腕は凄じい。彼の技量に感心し、彼 の威勢に摺服《しようふく》して、笑左衛門を謄仰《せんぎよう》する者はあnても、侮蔑する者はない。着々たる 成功は職俸|葦《しきり》に進み、天保三年十月十二日には家老格側勤となり、四年には家老加判 の列に入り、三千二百五十石を領する門地をなした。  三代相伝の貧乏は、全く退治てしまって、江戸・大坂・鹿児島の三箇所に、各百万 両の非常準備金をさえ蓄えた。この上にも、不毛を拓《ひら》き殖産を講じ、甲突川筋を改修 し、遠く石工岩永三五郎を熊本に求め、西田橋以下の五大石橋を架設し、郡奉行中島 喜左衛門(十年役の駐将健彦の実父)に、宮之城土々呂の上流に舟揖《しゆうしゆう》を通ずるために、 |川内《せんだい》川の開撃を董督《とうとく》させる等、顕著な治績を挙げた。川内川の工事竣成については、 笑左衛門の奇談を伝えた。笑左衛門がこの開通式に臨場する際に、従来、家老その他 の役々の者が郷邑巡視の節、珍美を尽して饗応致す趣に聞えるが、右は甚だよろしく ない、自今はさようのことを致してはならぬ、と達した。中島郡奉行は、この度笑左 衛門殿巡視については、お達しの主意もあるから、一切他郷より佳肴珍毒を集めず、 ただ当地の土宜《どぎ》たる鶏・椎茸で饗応することに協議しておいた。いよいよ笑左衛門以 下が到着したので、予定の献立を呈した。笑左衛門は一見佛然、喜左衛門殿、かねて 家老座よりお達しの趣は御存知のはずであろう、しかるに、この饗応は何事でござる、 と詰《なじ》った。喜左は、お達しはさることながら、これ程の粗品はお差支えもあるまじく、 皆な当所有合せの品ばかりでござる、お用い下されば本懐の至り、と陳弁したが、彼 は罷り成り申さぬ、と排斥して、味噌汁・香の物の膳に、一餉を認めた。翌日になっ て、土々呂の急流に臨み、激滞奔瀬《げさたんほんらい》、矢を射るばかりの水勢に、巡視に来た笑左の一 行は、誰とて試乗をする者もない。しからば拙者試乗仕ろうと、喜左は扁舟一葉、危 く浮ぶ舶の上に、一刀を杖いて棒立ちに立つ勇壮な風格、笑左は他日、予は喜左ばか りは見損ねた、彼は真の壮士である、と人に語ったという。ただこの一話、奇しくも 笑左の心術を暴露している。蚤《はや》くおのれに権勢に傲って、壮士を恥しめる。財利に鋭 くなくては、当世の務めに疎い。とはいえ、黄白のほかを知らぬ人物、富貴のほかに 思うところのない濟輩。六大石橋工事のために、熊本から呼んだ岩永三五郎に、その 技量を試験するといって、自邸の石垣を築かした。それを後に島津石見が頂戴し、近 来伯爵|樺山資紀《かばやますけのり》の所有に帰し、今日では飛岡某に移った。その石垣は、笑左が公私を 冒認した証拠物である。  貧乏して好臣の萌芽を培《つちか》ったから、富裕になる頃は、凶華《きようげつ》ようやく発達して根幹を 張る。調所笑左衛門も便倭に立身の端を発したとはいえ、最初から悪逆を予期しては おらぬ。小人罪なし、玉を抱いては正大ならぬ心術の、成功がおのれを禍することを 悟らぬ。彼が茶坊主であった昔のおのれが心と、家老にまでも陞進《しようしん》させられた君恩と を、夢媒にも想い起したなら、巨道めでたき、好個の士人たるを得たであったろうに、 権勢に押《な》れて専横を行い、果てはお由羅の方・と提撃《ヂらいけつ》して、公子|斉彬《なりあきら》の身上に災し、御 家騒動の張本人になった。 大工の娘がお部屋様 斉興の夫人は、因州鳥取の城主三十二万石、 池田相模守治道の長女弥姫といわれた。 この奥方との間に、名君といわれた斉彬公が出来た。薩侯二十九世斉彬は、文化七年 三月ー十八日、江戸三田の藩邸で瓜々の声を揚げたので、嫡母弥姫が十九の時である。 幼名を邦丸と申され、閨秀弥姫|躬《みずか》ら懐抱して、一切、保母・乳人の手を籍《か》らなかった。 大家巨室の慣わせで、嬰児の哺育を自身にすることはなかったのに、習俗を破っても っばら扶披せられたのは、実に異数のことであった。  庶子晋之進、後に従一位前左大臣島津久光は、文化十四年十月二十四日、賎妾由羅 の産むところで、斉興の鍾愛は、所出のために加わり、大隅国熊毛郡種子島一万石、 種子島伊勢の養子になされても、幼年の故をもって城中に置かれた。時なる哉、斉興 の夫人池田氏は、享年三十三というに、文政七年八月十六日に逝去され、大円寺先埜 の次に、豊碑深く賢章院殿玉輪恵光大姉と勒《ろく》して、雨に蘇苔《せんたい》を養えば、貫き敢えぬ哀 子斉彬が清涙を宿して、風に散らす穎《かか》々の玉とも見るのみである。お由羅の方は、さ る頃から専房の寵に誇り、晋之進殿出生後はお部屋様である。殊に夫人が逝去したの で、燕脂虎《えんしこ》は翼を生じた。  三田の四国町に藤左衛門という大工の棟梁があって、女房お貞との間に二人の子供、 男の子は小藤次、女の方がお由羅である。お由羅は怜倒の上に天成の麗質、両親は蝶 よ花よと養育する間に、舞踊に三味線に、景色ようやく整いて、春待つ風情の美しく、 沈魚落雁閉月差花、娘盛りにならぬ内に、早くも近隣の評判、当人の望みとあって屋 敷奉公、町人・百姓の庭に咲くのを嫌うのであろう。薩邸の奥女中島野が部屋に紅一 点、恋の愛のという手数を掛けるまでもなく、お由羅はたちまち斉興の御用になって、 腹は借物、随宜に膨脹させて破裂させる。男か女か、男ならばという中にも、斉興の 第二子は、すでに岡山侯池田斉政の養子にな(.ている。お由羅の腹から首尾よく男の 子が出ましたら御喝采。お控え様は勿論、万一長子斉彬が早世すれば、七十七万八百 石の相続人、薩侯第二十九世に坐り込む赤子4、ある。娘ゆえ生れもつかぬ二本差、親 の藤左衛門は、お由羅の妊娠を聞いて大喜び、もう繋《のみ》も手斧《ちような》もいらぬと雀躍《こおど》りした。 落語でたびたび笑わせる赤井御門の守、盛んにござり奉る所存。罪のない父や兄のご ざり奉りたがるのとは違って、御用になるのを嬉しがって、窮屈なのを忘れるような お由羅ではない。興味のない奥勤め、好んで厚化粧を嗜もうはずのない町娘、変化の 乏しい部屋方、極彩色の野暮《やぽ》に身を婁《やつ》す若い女、文化・文政の時代思潮は、お由羅一 人を除外して干満するであろうか。  お由羅は、願望の通り公子晋之進を産んだ、、この公子を二十九世に押し立てたい。 寵倖に誇る部屋様の眼中には、弥姫夫人などはない。しかし、嫡庶の分を乱して、斉 彬を越えての相続は、尋常のことではゆけない。野望を遂げるには、加担人が必要で ある。お髭の塵を払うに怠らぬ武士は、専房の寵あるお部屋様の湯具の風を越《お》うのに 猶予しない。まず、御側用人調所笑左衛門・御側役伊集院平を手に付け、それから、 家老の島津豊後・碇山将曹・末川近江・二階堂志津馬・島津石見、側役の伊集院伊織、 番頭吉利仲、勝手方用人海老原宗之丞、側用人新納四郎左衛門、勘定奉行本田六左衛 門、屋久島奉行西田矢右衛門、御蔵方宮原甚五兵衛、広敷番頭牧仲太郎・三原藤五郎、 勝手役|迫田《せこだ》甚助等を語らい、一藩の勢力を集めて、晋之進殿擁立の党派を持えた。世 子斉彬の雇従《こしよう》近藤隆左衛門・仙波小太郎の両人は、剛直の士であった。何分定府でそ の左右を離れないから、調所以下の策応に甚しい不便である。そこで第一着に、近藤 を町奉行兼物頭に、仙波を馬頭にして本国へ転勤させた。斉興は異国嫌いであるのに、 世子は泰西の新知識を尊重し、高野長英・渡辺畢山に嘱して、盛んに翻訳に従事させ、 地理・物産の学を講ぜられ、特に洋式の砲術は書物の蒐集だけでは満足されず、必要 の器械を購入した。好物等は、これを冗費であると、財政の方から露言に及ぶ。お由 羅の方は、斉彬の居常について、その一挙一動にも不徳であるよしを吹聴して、つと めて親子の間を阻隔する。この間に、本田六左衛門を側用人に抜擢して、君側の機密 を握らせ、伊集院平の妹婿田中四郎兵衛を引い、て使番にし、納戸金を取り扱わせて、 お由羅の内証金の利殖を働かせる。四国町の小藤次は、お兄様というので、奥向役人 に化け込み、岡田小藤次利武と、生れも付かぬ武士になった。好党は人物の布置《ふち》を済 せ、着々世子排斥の運動を始めるのだが、も・こより御部屋様と利益の交換である。各 自が表面に堅く地歩を占めているものの、従来は裏面に保証がなかった。いつ、斉興 の機嫌に任かせて、天降りがあるかもしれぬ。それが好党組織後は、その方の心配は 全くない。安心して勝手なことが働ける。伊集院平が双刀と二百両の賄賂で、碇山・ 末川の両家老を周旋して、一味の西田矢右衛門を屋久島奉行にしたり、宮原甚五兵衛 のような怪しいのを米穀掛りにする。海老原宗之丞は、公用人夫で開拓した曾木・本 庄二郷の新田、作得の一石以上ある場所を、.一百文ずつで自分ヘ払い下げる。家老の 二階堂志津馬は、目黒の料理屋橋和屋の娘を妾にし、公金三千両を費消し、その妾が 井戸へ飛び込むなどの騒ぎもした。 賢君斉彬の稚立ち  世子斉彬は曾祖父栄翁の愛孫で、幼時は白金の別業に、大隠居の膝下に養育された。 一日、栄翁が手洗鉢としておられる長崎舶載の硝子の水盤、当時は無類の珍物で、大 分に秘蔵されたのを、頂戴したい、と突然に申された。かわいい孫の所望、一も二も なくそれを与えられて、何のために水盤が欲しいぞ、と尋ねられた。僅かに六七歳で あった世子は、「さればに候、毎朝小姓等が水盤へ水を移す折柄、殿れ易き破璃《はり》の見 る目危く、万一過失も候はズ、其者の罪科遁れんやうもなし、頂戴して者共の畏櫻を 散じたきまでに候」と申された。こうした稚立《おさなだ》ちである斉彬は、深く閨藩《こうはん》の人心を獲 ている上に、大隠居栄翁の愛護あり、まして文政七年七月十五日の初登城、同十一月 二十一日には、従四位侍従に任ぜられ、兵庫頭と称せらる。当将軍家斉の御台所は曾 祖父の女で、斉彬には大伯母に当る。こうした関係から、柳営の首尾はすこぶる付き である。騒動の本尊晋之進は、文政九年に改めて一門の首班、大隅国|姶羅《あいら》郡重富郷一 万千四百八十石、島津出雲忠公の養子になされ、又次郎忠教といわれた。天保十年十 二月に重富を相続し、山城と改称あり、やがで、周防または和泉と申され、養家の女 千百子を配とし、公爵島津忠義(斉彬養子)・島津久治(図書と称す、宮城家男爵長丸の 父)・男爵島津珍彦(重富家)・男爵島津忠欽(和泉家)を挙げた。それは後日の話。 斉彬の初登城によって、嫡庶の分は明確になり、世子たることも槌爾《ぞうじ》たるものである から、さすがの好党も、容易に目的を達せられぬ。世子が十七の文政九年、一橋民部 卿斉敦の長女英姫を迎えることになり、その十 月十一日に入輿された。新夫人は、 世子に長ずる四歳と聞えた。斉彬は六男六女の父である。 長子菊三郎 長女澄 姫 二女邦 姫 二子寛之助 三子|盛之進《もりのしん》 四子|篤之助《あつのすけ》 五子虎寿丸 六子哲 丸 五七二四四三四当 歳歳歳歳歳歳歳歳 文政十二年八月三日生、同九月十一日膓 天保八年八月一日生、同十一年八月六日蕩 天保九年十一月二十四口生、同十一年五月二十三日蕩 弘化二年七月二十八日生、嘉永元年五月十日蕩 弘化四年十一月二十九日生、嘉永三年十月四日瘍 嘉永元年十一月二十三日生、同二年六月二十日膓 嘉永二年四月二日生、安政二年閏七月二十四日膓 安政二年九月生、同六年正月二日蕩  このほかに、三女瞳姫は、三十世忠義(初名、忠徳)の室となり、明治二年四月二 十四日逝去し、五女寧姫は、忠義の継室となり、明治十二年五月二十四日、二十六で 逝去された。四女典姫は、久光の三男故男爵島津珍彦の夫人である。 床下に調伏の人形  世子斉彬に、女子はよろしいが、男児があっては、お由羅の匪謀の妨碍になる。毒 婦の相貌は、菊三郎以下の誕生に従って、明白に露出されてくる。好党の一人御広敷 番頭牧仲太郎は、お由羅の方の凶情を封《たす》巾け、その惇逆《はいざやく》を長ぜしむるために、兵道《ひようどう》の修 法を行じて、主君の嫡孫たる世子斉彬の赤子を呪誼し、百年の寿を奪って、ことごと く蕩去《しようきよ》させた。この兵道というのは、修験の類で、島津家中興以来、軍陣に臨むごと に、必ず怨敵調伏に兵道の修法を行わしめる例で、その効験は著明であるといって、 累世尊重したのである。牧は兵道の家に生れた者で、伊集院平の手に付いて、毒婦お 由羅の姦計に参与した凶徒である。牧は公暇に際し、領内の深山幽谷に潜行して、し きりに密修に勤《いそ》しみ、日高某・石塚某などいう二三輩をも伴って、例の兵道の呪誼に 忙しい。彼の挙措は、往々世人の不審を喚起するに至った。嘉永元年の五月、斉彬の 第二子寛之助が四歳で蕩去した時、床下に埋めてあった調伏の人形が発見され、その 包封の文字が、牧の自筆であると伝説した。かくては、いかで忠義憤激の士を出さず におろう。尚武に知られた海南の健児国、当主斉興の思うところとはいえ、毒婦姦臣 の横恣に委ねて、百二都城に日月の光なく、七十万石の提封に正大の気を失うに堪え ず、侶義の有志は腕を掘して起った。怪聞四方に播伝する中に、調伏の形代にする人 形を京都へ買いにやったと、またしても訪かしい風説が伝わる。相良市郎兵衛.同宗 右衛門は、前後の風聞について、大いに伊集院平を詰責した。平はその場を糊塗して、 たちまち両人を陥穽し、思いも掛けぬ遠島の処分をした。これを見て、血性あるもの、 誰か憤慨せずにおられよう。一概に呪誼という、それは直接に手を下さぬ人命犯なの である。何分必至の被害を観面に認められぬ。御家騒動の毒殺は、典医と終始通謀し てあるから、証跡の的確なのはない。昔でも毒殺には種々方法があって、芝居で見る ようた、即座に吐血して死ぬ、あんな単調なのばかりではない。山田一郎左衛門から、 吉井七郎右衛門への書中に、  江戸表御三男様(これは篤之助を指す、四男也)御誕生之御儀は誠に難レ有之処、盛  之進様にも、又々おかしな御病症に被レ為レ在候由、如何仕候はば、彼賊等を早訣  討可レ致哉と、昼夜安眠も出来かね候次第、御察可レ被レ下候。  篤之助の誕生は嘉永元年十一月である。その頃、盛之進が怪しい病気に罹った。そ して、三年越しの嘉永三年十月に蕩去した。奪命縮寿の術は、決して急遽に行われた のではない。この書面でも知れる。一藩忠義の士は、いかにして調所一味の姦邪を蔓 除《せんじよ》すべきか、と寝食も安んぜず、丹誠を凝しておった。藩情ようやく外間に漏れ、諸 公子が危殆であるのみか、今は斉彬の身上を懸念される向きも少からず、親族黒田美 濃守(福岡侯長博、斉彬の姉婿)のごときは、斉彬の身上安泰を、太宰府天満宮・筥崎 八幡宮に祈願されたという。当時斉彬が、吉井七郎右衛門・村野伝之丞・吉井七之丞 の三兄弟に与えた密書の中にも、  三9宰府筥崎祈薦之義云々、其通の事に御坐候。 とある。斉彬の危きことは、累卵にも喩えつべし。親族その他の同情は、ひたすら刻 下の救護を急がれた。黒田・南部・伊達(宗城)の三侯は、協議の上、伊達侯は、老 中阿部伊勢守を訪問して、薩藩の内情を訴えられた。その応答を節取して、斉興が世 子斉彬に対する情状を明白にしよう。  阿部。全体、大隅(斉興)心得は如何哉、将曹、仲(曹将は家老碇山、仲は番頭吉利 仲)杯もいか!哉。 伊達。……其内大隅にはまさか廃立の存念は有二御坐一間敷候得共、万一修理(斉  彬)子供無二御坐一候時は、周防(久光)事を養子に可レ仕存念は従来可レ有二御座(  内にて色々促し、疑惑の譲口をいたし候者も御座候間、迷の念可レ萌かと心痛仕候。  世子は公然決定されている。家督相続は、遅速こそあれ、それを異動するのは容易 でない。斉彬に男子がなくば、弟を順養子にするは、世間一般の例である。好党はこ れを悪解する。すなわち、残忍にも、順次六公fを斌虐《しぎやく》して、お由羅の産んだ久光 (忠教改名)を順養子にしたいのである。当主斉興も、毒婦の愛に引かれて、嫡孫の ないのを僥倖する。喝采された天下の大出来物も、椎席《じんせき》の中に潰《つい》えてしまい、尊撰の 意気も、股掌の間にグニャグニャになって、目尻はブラ下がる、鼻毛は髪より長くな る、口灘《よだれ》を升で量るようになっては、嫡孫|暴蕩《ぽうしよちつ》()原因を考える余地はない。ああ、四 国町の大工の娘は、薩侯父子を茶毒《とどく》した。斉興がその半生を暗愚にし、嫡孫を虐死さ せ、一藩忠義の士を残害したのは、自ら招いた依報《えほう》であろうが、世子斉彬に持ち越し て、その生涯を美人禍に沈めたのは、実に悲痛(旧)極みである。 1 芝居でも見ない忠臣  この際に厭起した忠義憤激の士は、町奉行兼物頭近藤隆左衛門・同役山田一郎左衛 門・船奉行高崎五郎右衛門を魁首として、家老島津壱岐・同二階堂主計・物頭赤山靭 負・大目付兼物頭名越左源太・馬頭仙波小太郎・屋久島奉行吉井七郎右衛門・裁許掛 中村嘉右衛門・同見習近藤七郎右衛門・同山口及右衛門・同島津清太夫・同新納弥太 右衛門・蔵方目付吉井七之丞・奥小姓村野伝之丞・道方目付村田平内左衛門・兵具方 目付土持岱助・宗門方書役肱岡五郎太・広敷横目野村喜八郎・郡見廻山之内作次郎・ 地方検見松元一左衛門・製薬掛兼御庭方高木市助・琉球館掛大久保次右衛門(利通 父)・広敷書役八田喜左衛門(後の知紀)・郡奉行大山後角右衛門・久光付小姓大山茂 一郎・藩士(職司不明)有川藤左衛門・小納戸役伊集院中二・山下市左衛門・有馬市 郎・関勇助広国・諏訪神杜宮司井上出雲守・無役木村仲之丞(後に村山松根と称す)・ 国分猪十郎・和田仁十郎・加治木郷士白尾某・葛城彦二・川辺郷士高江某等である。  中にも山田一郎左衛門清安は、学問もあり機略もあり、巨道士節めでたき人物、か つは風雅の資もあって、香川景樹に国風を習っ{名誉の歌口である。その人の景仰《けいごう》さ れたことは、数ある美談にもその襟度を偲ばしめる。紀州高野山に、十八世中納言家 久の像が安置してある。山僧はこれを口実にして、毎年御堂の修繕とか、年供だとか いっては、数百両の出費を要求する。去年も今年も限極のない要求に、支出も随分巨 額に上るので、形代を本国に迎え、城中で祭祀することに議決した。この議決を、逸 早く高野の方で偵知し、猜僧等は家久の像を隠匿し、表面紛失の届出をした。京都の 藩邸はこの捜索に従事したが、一向知れない。島津家にしては一大事件、祖先の形代 が紛失したとあっては、容易ならぬ。そこで、京都在勤の一郎左衛門に、内密捜索方 を命じた。山田は命を承け、すぐに高野に登山《とさん》し、身を変じ姿を翼し、豆腐屋や肥料 汲みにまでなって、密偵すること三年。苦心空しからず、たまたま一寺の縁の下に、 一小寵を発見した。ひそかに潜り込んで検視すると、紛れもない家久の形代である。 所在をたしかめた上は、一気に談示を済そうと、急いで下山した。不日に儀容を整え、 島津家使者山田一郎左衛門、家久公御形代御迎として登山、と披露して本坊へ乗り込 んだ。山僧の方では、三年以前お届けの通り、御形代は紛失、今日に及び発見いたさ ざる段、何ともお気の毒である、という挨拶。山田は、御形代でみれば盗難に罹るは ずもない、布施|睦襯《たつしん》に愚かもないこの方、紛失というさえ奇怪千万のお申し出、まし て三年の久しき捜索不行届きとは、御山の過怠申すべきようもなし、と難詰に及んだ。 山僧は、ごもっともの御談示、一々恐入りのほかはござらぬ、この上とも詮議の手を 尽し申す間、何分暫時の御猶予を相願う、と将の明かない応答。山田はすかさず、主 命にて登山の上は、御返答のみにて引取り申すもいかが、一応の穿墾が仕りたい、と 突っ込む。山僧は、お役目のこと、一山何のところといわず、御自由に御詮議なされ ておよろしかろう、と大きく出た。山田は前日見届けてあるから、別に奔労するまで もない。それをいささか潤色して、数箇所を点検した末、前日の所見の場所を探し当 てたようにして、首尾よく御形代を取り出し、貴僧等が千日の心労にも所在不明であ ったのを、拙者がかく易々と発見したのは、畢寛、先君在天の尊霊において、御帰国 を感納あらせらるる儀と存ずる、しかる上は、御形代御帰藩相成り、自今御山とは資 檀|無《これな》レ之《き》段、御承知なされたい、と積年累時の葛藤を、一時に菱除《せんじよ》してしまった。こ の処置を調詠した、山田と同門の京都の歌人赤尾官可の什が『桂園拾葉』にある。    高野山なる御墓所の事にあづかりて、山田清安    が世にぬきいでたる功ありけるを感じて   高野山苔の下まで武士《もののふ》の道に埋れぬ世にこそありけれ  山田の功労は、当時の士林におびただしく称賛された。家老調所笑左衛門も大満足 の体、不時の恩賞を沙汰せらるべき趣で、早速山田へ授賞の御沙汰を伝えた時に、山 田は、微功に対して過分の御沙汰である、願くけ恩賞に換えて、世俗の減子《へしこ》の慣行を 止められたい、と申し出た。山田の清廉なのに、笑左衛門もびっくりした。この時の 建議は、たちまち採用され、減子厳禁の令を封内に敷いたので、嬰児圧殺の悪習を瀞《てき》 蹴し、薩摩の蕃行はとみに改り、圧殺の残虐を免れた貧乏士族も、まだ沢山生き残っ ている。やがて、一郎左衛門は御形代を奉じて、威容粛々入国した。閨藩の士民は礼 装して沿道に堵列し、鹿児島市内は不時の股賑をみた。  山田の名声は一時に高く、殊勲は列侯の間に聞え、抽《ぬき》んでられて京都藩邸の留守居 となり、あたかも在勤中の弘化三年、仁孝天皇崩御ましまし、諒闇《りようあん》の内に春立ち返り て、四年の元旦を迎えた。所司代は、各藩邸及び市民に対して、諒闇はさりながら、 門松・注連飾《しめかざり》《ち》等、年頭の儀式一切遠慮に及ばず、と達した。一郎左衛門おもえらく けしからぬ布達もあるものかな、一天万乗の君(り諒闇に、率土の民誰か戒慎せざるべ き、まして賛穀の下にしてなおこの不恭あり、他日に幕誕ありとも、我が藩は今次の 布達に率由するに忍びず、と一切年始の儀礼を止め、藩邸の門松を廃した。土佐藩で も此辺《しへん》の論があって、諸藩邸の分野《ありさま》を視察させ、独り薩邸が戒慎せるを多とし、倣う て歳旦の祝儀を止めた。このこといつか叡聞に達し、右大臣近衛忠煕公は、奇特に思 し召さるる由の内旨を伝えられた。山田はこの無上の光栄に感じて、一首を右大臣家 に奉った。   雲ゐまできこえけるかなうれしくも藍間に鳴きし鶴のひと声  芝居で見る伊達安芸・小田|大炊《おおい》、いずれも老実撲直な人物、概して忠臣は不美術的 に出来ているが、お由羅騒動には、こうした都容閑雅な武士もあった。  高崎五郎右衛門は、もとの御歌所長正風の父で、温厚篤実のみか、世故にも老練な 人で、物頭《ものがしら》名越左源太が鮭範冬の別邸に密会して、近藤隆左衛門・山田一郎左衛門 とともに、好党の動静を探って世子斉彬に内報し、その身辺の警戒に勉めた。毒婦お 由羅の調伏呪誼に対して、兵道の高木市助・和田仁十郎をして、日州飯野|拘留孫《くるそん》山、 薩州谷山の烏帽子岳等で、山辺の郷士高江某としきりに開邪閑防の修法を行わしめ、 井上出雲守は神官であるから、世子の衣服を乞うて祓除を行う。志士義徒は三々五々 歌会に託して、密談凝議日もまた足らず、他念もなく君家の安泰を図る。それを労観 するような遅鈍なことでは、好邪凶暴の調所一味ともいわれる者の才覚が無になる。 圧迫抑制は、左から右から、切歯拒腕の輩に加わり、説明なしに、聞き召すところあ りとか、思召しによってとかいって、簡単に販蜘《へんちゆ》…もすれば、遠《つ》島にさえしてしまう。 親族の応援も幕閣への内願も、毒婦好臣を制駅する術とはならず、侶義殉忠の藩士等 が赤心も、いたずらに凶炎を煽る料とみえた。 弘化の白人禍  文政七年、英艦突如として宝島に来繋し、牛馬を剰掠《ひようりやく》し、あまつさえ、藩吏吉村九 助を銃殺して遁れ去った。これが薩藩白人禍の始まりである。爾来二十一年、辺警を 聞かず、封彊幸いに静詮であったが、弘化元年一二月十一日、仏国軍艦一隻琉球に入航 し、通信・貿易・布教の自由を強要した。藩王は、洋中の一孤島、土痩せ地薄きが上 に、国用足らず黎庶《れいしよ》窮乏し、僅かに日本度佳良島の備給を仰いで、藩命を支持する場 合、到底他邦と貿易する余裕がない、宗教は久しく孔孟を奉じ、郵倫《いりん》道徳の学を講ず、 今日外教を布くの要なし、といって峻拒した。仏艦は異日大艦隊を率いて来航し、更 に厳談をもって強要を貫徹すべしと威嚇し、宣教師ホールン"カシュンと通弁の清国 人漢吾志とを遺留《いりゅう》して、回航の績《ともづな》を解いた。そこで琉球の吏僚は、二人を那覇の天久 寺に移し、急を鹿児島の藩庁に報じ、遺留外人の処置を提議したから、守備のために 二百余の士卒を急派し、いまだ善後の策も定まらぬ同二年五月十五日、再度の辺警は 藩庁を驚かせた。這回《しやかい》は英船一隻入航し、錨繋三日にして去り、七月には二隻でまた 琉球へ来たが、別事もなく数日間停泊して出帆した。それが三年四月五日に第三回の 訪問をして、数日で帰航はしたが、医師ペテレン夫妻とその子女二人及び清国人二人 を残していったので、那覇の護国寺へ英船の遺留人を収容すると、ペテレンは、疾病 者あらば治療をしようと、お客様にならずに、落ち着き込んだ申し出をした。まだ英 船の混雑が済まない同年同月七日に、仏船が大小三隻で来た。仏人は上陸して琉吏と 応接し、欧州列国の形勢から、和交通商の避くべからざるを告げて、百方拒辞するの を耳にも入れず、前年の強要を固執して、すこぶる琉吏を悩めたが、それでも、一年 の後に重ねて来航すると言い残して、前度遺留した仏人を乗せ、閏五月二十四日に帰 帆した。この報道は、琉球から鹿児島へ、転じて江戸へ到達する。こう琉球が込み合 いましては、薩侯斉興も、お由羅に鼻毛を算えさせてのみはおられぬ。形勢危殆とあ って、老臣島津石見を下国させ、閏五月二十五口目、家老調所笑左衛門をもって、老中 阿部伊勢守正弘に琉球の事情を面稟《めんひん》させ、その指揮を求めた。阿部閣老は、熟慮の後、 幕吏筒井肥前守政憲をもって、世子斉彬に諮詞《しじゆス》した。阿部閣老の諮詞は、夙《はや》く世子の 人物を知って、その意見を求めたので、実は、従前宇和島侯の情願を聴いた時に、体 よく下手《げしゆ》することを避け、おもむろに機会を待^「ていたのではなかろうか。世子は、 琉球が清国の正朔を奉じいる以上、洋人が清国(旧、承認を得て通商を求める場合には、 拒辞の方法がない、故に、琉球をわが領域の外・こ見倣し、権《かり》に貿易を琉球王から許さ せ、我はこれを黙認することとし、布教は国害りほども不測であるから、この一事を 厳拒するにしかず、と答申された。幕議これを容れ、世子を国に下し、琉球開国に関 し、機宜の処分をなさしむるに決し、その旨を斉興に諭示した。  琉球国へ異国船渡来之儀に付、不二取敢→家老共の内、国許へ差下、重ね而之《ての》模様  に寄り、其方(斉興)も御暇可レ被二相願一との趣、被二申聞一候得共、今般之儀者不二  容易一次第に而、事柄に寄り候而者、御国体にも拘り可レ申程の儀に付、其方儀、  早速御暇可レ被二相願】筈に候得共、彼地之模様次第、於二当地一伺其他取計等之品も  可レ有レ之候間、嫡子修理大夫(斉彬)御暇被一相願(早速国許へ相越、諸事の取計  並取締向等、機変に応じ不レ失二御国威一様、寛猛之場合程能熟慮、指磨有レ之候方  と存候事。 という文面であった。よって斉興は、翌日左の書面を呈出して、世子斉彬の琉球代理 処分を請われた。  私領分琉球国へ異国船渡来に付、家老之内為二名代一早速国許へ差下、重ね而は模  様次第、御暇可二相願一含に而候得共、不二容易一役柄に付、私儀は於二御当地一伺等  之品も可レ有レ之候間、嫡子修理大夫御暇被レ下候は父、諸事取締向応レ機不レ失二御  国威一様、寛猛之間程能為レ致二指摩一候様仕度、此段相願申候、以上。   閏五月二十八日                           松平大隅守  幕府は即日その請を聴《ゆ》るし、恩賜を齎《もたら》せる老中を遣わして、慰問した。六月一日、 斉興父子の登営あり、大将軍家慶に謁し、将軍より琉球事件処分の委任命令を受けた。  琉球国へ異国船渡来之処、彼地之儀は其方一手之進退に委任之事故、此度之儀も存  寄一杯取計、尤国体を不レ失、寛猛之処置勘弁之上、何れにも後患無レ之様及二熟  慮(取締向等、機変に応じ取計可レ申事。  畢って、将軍は斉興父子を別室に延《ひ》き、懇命を伝え、名馬一匹を賜い、礼を厚うし て帰された。これぞ、斉彬が父君に代って藩国の政を摂行された始まりである。  斉彬公は、六月八日江戸を発せられ、途中大急ぎで二十五日鹿児島に着せられ、翌 二十六日、急使に宛《あ》つる丸木船を琉球に遣わし、通信・貿易はこれを允《ゆる》すも、布教の ことは堅く拒絶すべし、と命ぜられ、また、国老に命じて、権《かり》に海防のことを措置せ しめ、一隊の予備を整え、一隊を山川港に出しイ、、臨時の命を侯《ま》たしめ、一隊を派し て指宿《いぶすき》郷|摺《すり》の浜を戌《まも》らしめ、自ら国老等を率いイ、、西方海岸を巡視し、防備その他軍 務を督励し、この際、大砲鋳造所を創設せられた。  九月二十七日、仏国軍艦三隻また琉球に来舶し、同十月三日、司令官、兵員を率い て上陸し、条款十章を示し、領事を置き、商民を在留せしめ、互市を開かむことを迫 りしかば、琉球官司は理を陳べて、これを峻拒せしも聞かず、兵威をもって恐嚇し、 しいて条約に調印せしめ、同十九日、三艦ともに出帆した。これぞ、琉球が外交条約 を締結した始めである。翌弘化四年正月、斉興、江戸を発して鹿児島に帰られ、親し く琉球処分を議し、斉彬と席を同うして琉球官司に諭し、貿易開市の方法を指示し、 その順序を定め、また守衛の兵百余名を分遣した。  十月には、薩藩従来の軍制異国方を改めて軍役方とし、先規の法に泥《なず》まず、和漢洋 の方法を参酌し、島津周防(久光)をしてこれを監督せしめ、また蘭訳書を講究して、 その規模を増補し、新式の軍制により、兵員を率い、吉野原において、大小銃砲の練 兵を行い、大いに士気を作興せしめられた。この時初めて五十斤砲を発射した。これ は斉彬公の命によりて鋳造したもので、実に日本において該砲を試みた嗜矢である。 藩政摂行と凶炎煽起  世子斉彬は、在国一年四箇月に及び、異国船の処理をなし、大いに沿海の防備に勉 め、鋳砲・練兵に日もまた足らざるありさまであった。あたかも斉興が入部されたの で、世子は交替に江戸へ出られる。老公の左右に、家老島津豊後・島津将曹(碇山は この頃より島津を称す)・末川近江・側役伊集院平等の好邪が付着している。世子の施 設とはおのずから違って、外国人退散の祈薦をもっばらにして、海防はかえって等閑 になる。のみならず、お由羅の方は鹿児島におって、群小とともに世子を議言するの に忙しい。調所笑左衛門・二階堂志津馬の両人を江戸詰にし、世子を牽制し、簗籠《はんろう》す ることにもした。当時は、各藩ともに、世子が丁年に達すれば、当主は隠居する慣例 であった。老公斉興のごときも、十五歳で家督1たのである。しかるに、世子は不惑 の齢に達し、老公は六旬を越えてなお家督の沙沃もない。これはほかでもない、毒婦 お由羅が好物と結託して、わが腹を痛めた久光を、薩侯二十九世にする凶謀のためで ある。これだけでも、旧例古格にのみ依頼する封建時代には、世間の不審を招く。ま して輝るところもない好臣等の働きは、天下の耳目を從耳動せずにはいない。江戸市中 で、『調所笑草』『三国兼《さんごくけん》』などという草双紙や、章魚《たこ》の法衣を着た画の扇面を売り出 したのは、薩藩の内情を調刺したのであった。  この時、年来の密貿易が露顕したので、調所笑左衛門は毒を仰いで死し、二階堂志 津馬は免職謹慎を命ぜられ、島津将曹が代って一藩の権を執ることになって、一面、 幕府に対する体裁を繕ったが、老公斉興は、財政刷新の功が忘れられぬ。彼等が好謀 も、寵姫のために購着されて、知らずにいる。調所の死後の情状は、山田一郎左衛門 から吉井七郎右衛門へ送った書面の中に、明白である。  一、平の人物(平の馬場に住居せし故、調所をかくいえるなり)は名字を替させ、稲   留数馬と名乗らせ候、左候而《ささふらひて》、屋敷も表向は御取揚の由に候へ共、内実は、金子 六百両に直付《ねつけ》に而御買上に相成候由に御座候、左候而、数馬事は原良の屋敷へ引 移らせ、平之馬場屋敷は、島津石見殿を御移し被レ成候由に候へ共、是も代銀上 納に而移候由、左候而、初めは家蔵長屋廻り等の立物は、都《すべ》て置付の盤と申所に 而、六百両と為二相定一由候処、此節に至候ては、書院廻りと外廻りの長屋迄を 残し置、其外は都而《すべて》解崩し持移り候由、夫を石見殿より、居宅廻りと蔵二戸前丈 は残し置給度と相談有レ之候へども、聞入無レ之由、石見殿二男家土岐矢一郎|直 噺《ぢきぱなし》を承り申候、実に言語同断の次第に候、其上是迄の取込拝借は都而被レ下切、 数馬は病気に而御役も御免被レ成、上より出し御役御免に而は無二御座一候、右之 外には、彼党類のもの一人も御手付不レ申候而、干レ今大きかほに而ひぢを張り 候もの許に候、夫と申も、かの伊平又は碇等(伊平は伊集院平、碇は島津将曹の実 姓碇山なり)の仕打言語同断の事のみに而、頓《とん》と此以前に相替儀無二御座一候。 一、西田矢右衛門事、先日御用に而、屋久島奉行に御役入被二仰付一候而、来年琉 人立御馬立に被二仰付一候由、此儀、実以て不政事の第一と被レ存申候、御目付と 申ものに而、謀書の罪におち入るものを、未だ一年も不レ立内に、屋久島奉行に 御役入と申儀、前代未聞の次第、是は全く碇印(島津将曹也)の仕業之由、前以   て二百金に刀大小の進物為レ有レ之由承り申候、右の刀之事は、彼の廻りに居候   大工、西田へ被レ頼候而刀箱を作り候由、+ヘエ伊集院井嫡子某へ相噺候を、井上   某より直噺有レ之、しかのみならず、森十芹衛門、此節中小姓勤被二仰付一候に付、   拝借相願御免有レ之候御礼として、碇印へ礼.に参居候処へ、右之西田よりの進物   持込み候を見届申たる由承り申候、末印(家老末川近江)へも、伊集院平参候而、   矢右衛門の内願を申込み、是へも相応には"(…ノみ候哉之噺に御座候。  笑左衛門の子左門は、当時、世子の近侍を勤めて江戸におったが、一件暴露により、 諭旨して帰国させ、平の馬場の屋敷を没収したことにして、内々は金子六百両を与え、 城西原良の屋敷に移し、稲富数馬と名を変え、問もなく番頭に登用した。笑左は薩藩 財政の危殆を救うためにした密貿易、それについて私利私欲を加味したにせよ、国禁 を犯してまでも侯家に尽捧《じんすい》し、まして、事の露顕に及んだ暁には、一死をもって罪を 購った。世子が、彼等の横暴好曲に対しても、猶予の意味のあるのはここだ。老公は、 彼を藩の財政の犠牲と思い込んでおられるから、彼等を憐れみこそすれ、秋毫も信任 を楡《か》えられぬ以上は、調所の死が、些少もその凶情に影響するはずがない。今や世子 は、幕旨をもって、一時にせよ藩政を摂行した。これが藩主代謝の前提である。世子 の襲封は彼等の身の上である。御家騒動は、先代の寵臣がその権勢を維持するために、 新主の相続を防遇《ぽうあつ》する運動である。失うまいとするのも、得ようとするのも権勢であ るが、その争奪者の心術のままに、忠好正邪が分かれる。藩侯父子が志向を異にし、 信任するところの同じからざる薩藩のごとくにして、すべての御家騒動が出来るのだ。 お由羅なくとも、無事には済まぬ計算になっている。それを、毒婦お由羅が権勢維持 に熱中する好臣等と結託し、その運動を保証するから、凶炎は一段高くなる。この保 証がないと、左顧右晒《さこうべん》、到底手段を選ばず、悪虐無道を働くというわけにはゆかない。 御家騒動に御部屋様の必要な理由は、ここに存する。  幕旨をもって世子斉彬を起用した以上は、当主斉興の隠居は、目前に迫ったことで ある。島津豊後・島津将曹・伊集院平・吉利仲一味の飛躍は、ここを先途と劇甚を極 める。これを見た山田一郎左衛門・高崎五郎右衛門・近藤隆左衛門・赤山靭負・井上 出雲守・木村仲之丞・吉井七之丞等は、日夕、寺尾庄兵衛の別荘に密会して、好党の 行動を監視し、調所笑左衛門在職当時より今日までの罪悪を条挙し、特に忠好人物四 十余個を三段に表示したものを、在江戸の世子に呈上して、一日も早く襲封されて、 宿姦積邪を掃蕩せらるべき希望を述べた。この内申は七之丞の手になったもので、前 後三回、長さ十間に余る大文章であったという。この内申がいかなるものであったか は、世子が村野伝之丞に与えた嘉永二年正月の書中で諒察される。この際における世 子の意志も推し得られる。   度々之書面相達令二大慶】候、愈無《いよいよ》事珍重に在候、申遣の条々委細心得申候、要   用のみ返事申入候。  一、笑(笑は調所笑左衛門を指す)吐血之事、人円寺にては無レ之、宿にての事に御   座候、全く胃血之よしに御座候、最早死去の事も相知れ可レ申と存候。  一、笑(笑は調所也)雇従之もの、さぞく仰天いたし候事と存申候、委細可二申   遣一候。  一、二印(二階堂志津馬を指す)事、急に出立被二仰付一候、最早相知れ候事と存申   候、追々と様子も相変り可レ申候、此儀、兼而霞(霞は霞ヶ関黒田美濃守を指す)   申合せ、漸々と内沙汰出事にて御座候。(内沙汰は唐物密売の露顕の事を指す)  一、一〇Φ轟(洋字は由羅の方を指す)云々、又井上(出雲守を指す)云々、是又致二承   知一候、此度三人の切地さや形ちりめん六尺遣レ申候。  一、二三印附け可レ遣候、折角内密之取計専一に存申候。(切れ地は公及び世子衣類 の切れにて、井上が祈願のため用いたる者なるべし) 一、先比遣候修法は、当正月元日よりはじめ申候、不動尊も大慶に存候、両尊共に 修法いたし候。(有志より公のため神仏の護符を献じたることなるべし) 一、ヨヨ80(洋字美濃、和訓黒田侯を指す)守追々相談も致し、此度二並笑(二並笑 は二階堂と調所を指す)之事も出候事に御座候、御隠居一条は、既に阿部(老中) 同人へはなし御座候へ共、此儀は此度は発し不レ申候、其訳は、内々うつりて (覚りての義)右様成立候而者、此所も訳もなく候へ共、永々とかく御機嫌も不 レ宜候而、労不《かたがた》都合にも御座候得者、後々の為めもよろしく、来年琉人参府、英 人も帰り候は父、御ほめも可レ在、其処を取、大かた思召より起り可レ申、若《もしもし》々 思召無レ之節は、此節がよき時節と、内々うつりも可レ申との事に相成候て、此 節の笑と二之事出申候、左候得者、先御国中も立直り可レ申との相談に而、取計 候事に御座候、御隠(斉興を指す)阿(老中)出し安く(打出し安の義)、此度の 様に出候事は、陪臣(笑二を指す)ゆえ、甚だ致しにくき処を出候事に御座候、 西筑(江戸留守居西筑左衛門)何事も不レ承候、笑並二(調所の死亡と二階堂免職を 指す)此節の如きゆえに、見合せ候事かと存申候、内実は、御心願にもとてもむ づかしく、最早御隠(心願は斉興公が三位を望まれしこと、御隠居のこと)に而も 可レ然事と、阿も美(黒田侯)も申候事度々御座候得共、前文之趣相談候而、美 より申候而、成程尤との事に而、笑と二の事出申候、極内此段申入候。 、三8(美濃、黒田侯を指す)宰府筥崎祈薦之儀云々、其通りの事に御座候。 、三ヨO(新納)の事云々、大慶に存候、必一、り此度之義御座候而も、猶更極密に 可レ致候。(有志新納弥太右衛門が志を表したることなるべし) 、一向(一向宗)之義云々、委敷申遣すべく候、此後は少々は存寄も豊後(家老 島津豊後)等えも申候事も出来申候、豊後ホ、追々自分存寄伺度、両三日跡に申候 事に御座候。 一、勧農之一条も、何はよろしく、何は百姓難儀と申儀、承度事に御座候。 一、給地(七拾七万石の内士族の四十万石を指す)云々之儀云々、実に窮士御すくひ 之為にも、相成候やらむ、様子委しく可ー申遣一候。 、吉利(吉利仲)も来年相済候は父、何卒思召より御隠之出候様致度ものと考居 候様子、万事、此節は吉と六豊(側役吉利仲、勘定奉行本田六左衛門、家老島津豊 後)と相談に而、取計候事に御座候。 、武士小路之儀云々、加様之儀も、此度は追々不二目立一様に改り可レ申候、吉利 と豊にも、急に改候と御不明之処出候間、追々悪事改正可レ致と、相談致候事に 御座候。 一、三8一8一(皆吉か、易老の名なるべし)易之儀云々、別紙披見いたし申候、易 之表よく当り候哉と存申候、此度、笑二退散に相当かと存申候。 一、二(二階堂)下着之後の様子委しく可二申遣一候、相応にきびしく被二仰渡一候様 子に而御座候、調左(笑左衛門の家督調所左門)にも御供御免に相成申候、此人も 下着の上御沙汰も可レ出様子に御座候、其地評判等、委しく可二申遣一候。 、有衛(有馬衛守という兵道者)事、近々御暇にも可二相成(実は御普請も阿(老 中)より響有レ之、止めに相成り候間、御立後御止め被二仰出'大破之分御取つく ろひ之筈に治定に相成候。 、海(勝手方用人海老原宗之丞)も下着後様子悉しく可二申遣一候、此人も追々は 追下られ可レ申、何を申も、急に手を附候而者御不徳に相成り、其処甚だ六ケし く御座候。 、目黒そば(二階堂の妾目黒橋和屋料理店の女)も二十日夜井戸へ入死申候、二も 去冬より今迄に金子等も余程つかひこみ、帳面を仲(吉利)へ次渡候事出来兼候 よし、御内用労、三千と申金之口行先不レ知金過半に御座候、其外追々筆紙に難 レ述様子、仲より一々申上候処、余程御仰天之様子に承り申候、吉豊(吉利と島 津豊後)等も御意不レ申候得共、来年御参府迄に御す\め申上、御参府後御隠之 様可レ致心得かとも存じ申候、右通りゆへに、先此度之様子見合せとても直りか ね候は父、又如何様にも致様も可レ有、西筑(西筑左衛門)等思ひ立も可レ然存候、 しかし表は先づよろしく相成り候へ共、奥の処甚だ心配に而御座候間、姦女(お 由羅の方か)退散之儀、折角工夫専一に頼み入申候。 、其外申入度事も御座候へ共、後便可二中遣一候、此節よりは、何時に便遣候而 もよろしく御座候。 一、篤之助(公の四男)弥ー丈夫の様子に御座候。 一、此度表に而者皆々大悦之様子、奥に而は冒轟し一β冒ヨΦ(ゆら.しま・やま の婦人の名なるべし)其外も、只驚き機嫌不レ宜様に存申候、尤阿(阿部侯)より 申事は、美(黒田侯)と吉利豊後の外六(本田六左衛門)も伊平(伊集院平)も誰 も知らず、全く思召に而出候処と、きびしく御沙汰も御座候得共、内々は皆々気   も附き居候様子に相見得申候。  一、去年着後より、追々伊平吉利等より承候に、外にこはきものはなく、只我らと   美濃こはき計り、外は何もかまひなくと、老人も二も存居候而、去々年より、別   而我等の事、追々申上之様子に聞得申候、委細は不二申遣一候、段々思ひ当る事   も御座候、伊平も利口ゆえに、着いたし、隠密入込之様子等承り候と、直に様子   替へ候而、何事も不レ残、豊六等へ打明ばなし申候様子に御座候、猶後便悉しく   可二申遣一候、其他の事も委敷可二申遣一候。  一、西筑の事もよろしく御座候得共、美濃三月は下着ゆへ、国え委細申出候は父、   同人事取計らひ候考へも可レ有と存申候、急ぐ事には無レ之候間、必ずせき不レ申、   加様く可レ致と申事、此方へ申遣候後に、弥ー丈夫の手段に而取計可レ申、必   ず髭忽之振舞有ましく候、先々要用申入候、後便万々可二申入一候也。    正月二十九日(事永二年己酉)  世子は、痛切に憤激する義徒の心を感ぜられながらも、懇ろに彼等を慰諭すること を忘れなかった。しかし、空言をもって慰諭したところが、隼《はや》り隼りに隼る猛夫《たけお》の情 を鎮めるのに足らぬことも、知っておられたから、来年黒田美濃守が江戸へ出るまで を隠忍しろ、それまで辛抱すれば、吉左右《きつそう》を得ス、時期になるぞ、といわれた。来春の 参観に、黒田美濃守(福岡侯)・南部遠江守(八戸侯)・奥平大膳大夫(中津侯)の親族 方が、世子の知友伊達宗城(宇和島侯)と江戸で会合し、幕閣に対し、斉彬家督の運 動をする手配であった。それに、阿部閣老は宇和島侯の内願を聴いて、徐々に強圧を 好党に加えた。この消息を書中に漏し、あわれ快刀乱麻を、と肩の從耳える近藤を、緩 和させようと勉められたのである。阿部閣老が薩藩の内情に手を下そうとするのも、 ひそかに紛訂を伏せるためである。もし、秋水 揮、元気に乗じて好者の血|髄瞳《どくろ》を提 げ出すならば、幕府は当面これが処置をせずにはおかれぬ。忠臣が君国に災するのは、 実にこうした場合にある。これはもっばら戒筋《かいちよぐ》しなければならない。それ故に、九月 の書札には、同じ意旨を繰り返してある。   書面致二披見一候、愈無事珍重存候、申遣候条々致二承知一候、以二一書一申入候。  一、高市(製薬掛兼御庭方高木市助を指す)書面請取申候。  一、近藤(隆左衛門)書面之儀云々、致一承知候、此方都合には、其方取次遣候へ   者、極上之都合に御座候、猶又今度も申遣候、近義一向之気質ゆへ、とかく跡先   之考薄く御座候間、其処よくく心得、鹿忽之振舞無レ之様に頼入申候、極内々 ながら来年美濃出府迄之処、必ず事立不レ申様に致度候間、其心得第一に可レ致 候。 、高木之儀、以来は其方取次候様、尤高木へも申遣候間、近の心に障り不レ申様 に、其方取次可レ致候、呉々も余り手広く不二相成一様に心掛け頼入申候。 、国分石つか(国分郷石塚といえる兵道者、牧仲太郎と修法せし者か)之儀云々、大 かた左様と存じ申候、何事も其通り雑説申ふらし候。 、遊(由羅の方)よりの金子之儀云々、此儀はとく承り居、伊平(伊集院)より も内々承りし事にて、伊織(斉興公の側役伊集院織衛)跡を伊平と三藤(三原藤五 郎)取はからひ候事に御座候。 一、給地高之儀云々、実に窮士御すくひ之為にも相成候やらむ様子、委しく可二申 遣候。 、将之調より(将は碇山将曹、調は笑左衛門)勘弁之よし尤に候、将は随分と心得 も有レ之ものにて御座候而、悪み候程のものにて無レ之様に被レ存候、御前之御都 合之言に言はれぬ事も有レ之、将之評判無レ拠請け候儀も有レ之候、近(近藤隆左 衛門)等の如く悪み候而は不レ宜、此処はよく心得可レ申候、近にも其処申遣候得 共、一図之心底ゆへ、中々承知不レ致と存申候間、何となく、其方にもよく心得 いたし、来年迄之処こらへ候様に、夫となぐ可レ申候。 】、キナ(幾那樹)之儀云々、弥に候得者、極々珍らしき品に御座候。 一、国分猪(国分猪十郎)之事、其後如何に候や承り度、伊平之様子も可二申遣一候、 牧仲(由羅方付広敷番頭牧仲太郎)弥ー伊平に取入る事と存候、夫々之儀如何承り 度そんじ申候、此書面書く迄、いまだ近之書面見不レ申候、後刻は参り可レ申と 存じ候、若又相変候儀御座候は父、書添申し可レ遣候。 一、高市へも封物遣し候、其方より可レ遣候、尤其方迄遣し候書面を高へ申聞候、 表向に無レ之候而は不レ宜候、其心得可レ致候、 一、重富(久光)え其方稽古云々、此頃は出不レ申候哉承度存申候、先日之行法も 委しく承度ぞんじ申候、此度も別段屋久島へも不レ遣候間、左様心得可レ申候、 何卒く、壱人に而も申合せもの少き様に可レ致候、とかく人多く御座候得老、 もれ安きものに御座候。 、高市、国分、和二(高木市助、国分猪十郎、和田仁十郎を指す、皆兵道者)等之儀、 何か評判も御座候や、余り祈薦等大造成る事に而無レ之哉、其段も心配被レ存申   候、宜敷心得可レ申、何ぞ承り候儀は早々可二申遣一候、先者返事早々申入候、猶   後便に可レ申候也。    九月二十九日(嘉永二年己酉)  この二翰は、伝之丞の実子村野山人が、今日も珍襲している。密書は、世子の側室 お須磨の方が、養家伊集院中二に送る私書の中に合封して鹿児島に達し、中二の家か ら、村野兄弟の手へ渡されたのである。 久光殿の御首頂戴  嘉永元年の収穫は、非常な凶轍《きようけん》であった。それに、苛敏訣求《かれんちゆうきゆう》して、百姓・町人の 疾苦を顧みない。斉興もすこぶる放恣な行状であった。君側の好輩も盛んに賛沢をす る。  一、去る二十二日、上(上は城より東を指す)士踊、甲突川尻塩浜にて御覧有レ之、   皆陣羽織にて、凡そ人数千二三百人有レ之候由、如レ例女中御召列れ候て、大奥   の桟敷も打ち申候て、障子立にて御覧相成候由、誠に歎かはしき事にては無二御 座一候哉、下(下は城西をいう)の踊は来る二十七日の賦《つもり》にて、是も女中拝見決し て可レ有レ之、士の皮かぶりたるもの共、如何様の面にて踊り致し候哉と、僚慨 千万此事に御座候、何分にも、家老の役あハて無きものと存申候。 、御聞及候通、去秋近年|珍敷《めずらしき》飢饒にて御座候処、矢張《やはり》定免上納被二仰渡'先年 よりの百姓痛み居候上、去年の事に至り候て、頓《とん》と諸郷百姓相労れ、立も起も 不二相成一候場所も有レ之、当時は如何にLても、下を御救ひの廉一ッ無レ之、誠 にく口惜きものに御座候、民は国君の子ル、]、国君は民の父也と、諺にも承り候 ものにて、ヶ様《かやう》の御取扱ひ一両年も打続き候へば、一日も制度行はれ申間敷、君 上只御独り御安楽にて、士民は飢渇に及候は歎かはしきものにて、既に聖語の教 にも相|戻《もと》り、ケ様の処より士民上に背き騒乱にも及び、破国にも相成候ためし古 今不レ少、実以て悲歎仕候外無二御座一候、如何様の思召にて、深き訳合も可レ有 レ之御座候へども、是等の事は現在の目前に御座候へば、よき方に見ても、其通 には見られ不レ申、即ち、人道天地に背き候世の中、どふぞ早く聖賢の世に戻り、 士民欣躍の世に成したき事、くれ人\も奉,存候、此事を思ひ出し候へば、外に は何も手に付き不レ申事に御座候、自然と人気も上に背き候程に成立、他邸へ対   し御恥かしき事にて御座候、此節厳に制度御行ひ御答目被二仰付一候一件、何も   色地相分り不レ申候故、人気いよいよ疑惑いたし、ケ様之事は御制度の破れ候端   にて、聖語にも、衆人殺レ之而後殺レ之、衆人賞レ之而後賞レ之とこそ承り及、即   ち疑惑いたし、此節の事にて現在此事思ひあたり申候。(吉井七之丞与家兄七郎右   衛門書)  この書面を見ても、当時の情況が察せられる。士踊は島津家古来の規模であって、 士分以上のものの執行するもので、薩摩では大いに尊重したものである。しかるに、 斉與は好輩とともに、凶轍をよそに、お由羅以下の奥女中を引き連れ、桟敷を打って 芝居のように見物した。かりそめにも、双刀を帯する者を優伶《いうれい》に擬し、始封以来定め られた演武の規模を雑劇に比べるとは、いかに累世相恩の主君にもせよ、健児に知ら れた薩摩武士の忍び難いところである。特に世子の公達を呪誼するの風聞、一時に高 く、世子の四男篤之助殿は、本年(嘉永二年)六月二十日、二歳で蕩去せられ、いよ いよ凶情を憎むこと深く、他の決心を促すこと、ようやく急である。  薩・隅・日の三国を掩う妖気を掃わんは、速やかに鹿児島城の君側を清うするにあ ると、世子が想望された通り、気短く胆太い忠義の人々は、例の名越左源太が縫範冬 の別荘に会合して、島津豊後・島津将曹・伊集院平・吉利仲等を屠る計画の相談。主 謀山田一郎左衛門は、好物を艶すは本よりながし、この際、周防殿(久光)を除き申 さずば相成らぬ、この殿在るが故に、毒婦も非望を懐き、姦臣も邪計を構える、まこ とにお痛わしくはあれど、来春吉野牧場の馬追いを機会に、鉄砲をもってお命を縮め 申すも、御家のためよんどころなき儀である、・こ発議した。山之内作次郎はこれを遮《さえぎ》 って、飛道具をもって掩殺するなどとは、卑怯である、我々は君主のために身命を捧 げている、事の成敗に関らず、一死を潔《いさぎよ》くすればよろしい、我々は周防殿に近づき、 尋常に次第をお聞かせ申した上、君国の御為、御首を頂戴致すのが本懐と存ずる、と 凄じい決意。ここで、山之内作次郎・松元一左衛門・肱岡五郎太・吉井七之丞の四人 で、将曹平仲の四好を謙教《ちゆうりく》し、高木市助が大砲て豊後の屋敷を射撃し、一家を塵殺《おうさつ》す る手配を定めた。  好党は細作を放って密偵する。秋水一揮党(ソ動静には、一刻も注視を怠らぬ。しか るに、血気盛んな土持岱助・村田平内左衛門∴円分猪十郎等は、一挙に好党を滅尽す る計画が嬉しくて泳えられない。愉快愉快と雀躍して、洩すともなく、往々密議を口 外した。同志の一人肥後平九郎は、日常、家老坐出役迫田甚助と懇意であったので、 好党は利を啖《くら》わしてこれを誘い、だんだんに引き付け、将曹や平の邸宅へも出入りす るようになった。肥後の口からも、鍵輯冬密会の模様を知った。その上に、但馬市助 が反覆して、同志の計画を伊集院平に密告したから、嘉永二年十二月三日、火急に思 召しの趣ありというので、近藤隆左衛門(町奉行兼物頭)・山田一郎左衛門(町奉行格 鉄砲奉行勤)・高崎五郎右衛門(船奉行)・土持岱助(兵具方目付)・村田平内左衛門 (道方目付)・国分猪十郎(無役)の六人に切腹を命じ、吉井七之丞(蔵方目付)・松元 一左衛門(地方検見)・山之内作次郎(郡見廻)・肱岡五郎太(宗門方書役)に蟄居を命 じ、中村嘉右衛門(裁許掛)・赤山靭負(物頭)・野村喜八郎(広敷横目)・村野伝之丞 (奥小姓)に謹慎を命じ、木村伸之丞の外出を差し留め、高木市助・和田仁十郎の二 人を捕えて入牢させた。これが近藤崩れの発頭である。  宮中・府中の別は、政治の枢要である。薩藩でも、奥(藩主方)と表(藩庁)とは、 厳重に隔てられておったが、近来は混同して、役人さえ表方から奥向きを兼勤し、奥 向きから表方を支配する。お由羅政治、御部屋様政治が行われた。それが、お由羅及 びその一味に危害を加えようとする運動を処分する時がきたのであるから、官紀も制 度もあったものではない。治罪手続きとして、裁許掛が検察糺弾した上に、その科情 を老職に申告し、藩侯の決裁を受くる定例であったのに、今度は、裁許掛を経ずに、 藩侯から老職へ直命し、老職から横目に命令し、特に好党に属する四本喜十郎・和田 八之進の両横目が担当し、一件の処断は、ことどとく伊集院平の専行に任かせたとい う。結審宣告という場合に、大目付川上矢五太大から、裁許掛川北孫左衛門へ、近藤 以下五人を、評定所御用の名をもって、単に切腹を命ぜよ、と達せしめようとした。 ところが、川上は肩を怒らせてこの伝令の違例であることを主張し、正式の伝達を拒 み、川北も硬直な人で、そんな無法な宣告は承知しない、裁判を経ずに、理由の知れ ないものを、断罪が出来るものか、と辞月を張っイ、論じた。すぐに川北を免職し、三原 喜之助が代って評定所へ伝達して、近藤以下の.処断を、逆施倒行してしまった。 美人禍の惨絶  近藤隆左衛門は、評定所御用の呼出しを受けたが、別に不調法の覚えはない、明日 は出廷して御用の次第を承ろう、といっていたのを、親戚郷田仲兵衛・本田孫右衛門 が、御裁許掛から内達もあったこと故、御国の作法により、今晩の中に割腹したがよ ろしかろう、と忠告した。近藤は、今は致し方もない、とすぐに自裁の準備をする。 もし親戚の忠告がなかったならば、彼は大いに評定所で裁許掛と争う所存であったろ う。急使を馳せて、村野・吉井・山下の三人を招き、おもむろに後事を託し、婁斗 目《のしめ》・上下《かみしも》に着替え、奥の一間に入り、従容として死についた。 「白雪ときえゆく身にも思ふぞよくもらぬ空の月の晴よと」、嘉永二年十二月三日の 夜も、木枯の音に閲《た》けて、暁窓白き七ツ半(午前五時)、身後の幽憤を絶命の辞に留 め、忠魂|永《とこし》えに侯家を擁護せんとす。  山田一郎左衛門も、この夜、井上出雲守・寺尾庄兵衛に対して、我等の忠義は空し ゅうなるとも、生き残った同志のある限りは、いかにも藩国の安穏に尽す人なきに非 ず、されど、好党今のごとくならば、袖手して凶計に沈むべきでないと、周到な善後 策を授け、「根をたえし岸のひたひのあやふ草あやふき世をも渡りぬるかな」の遺詠 を浮世の思い出に、哀れ大丈夫児の身も、朝礒《あさひ》に消ゆる厳霜《いずしも》の後夜《ごや》に凝りたる跡もな く、結ばぬ夢の痕なきがごとし。  高崎五郎右衛門も、井上出雲守を呼び寄せて、密談の末に、「おもふ事また及ばぬ に消ぬるとも心ばかりは今朝の白雪」の一首を残し、土持岱助・村田平内左衛門・国 分猪十郎と、一夜にして、骨鰻の士六人、斉しく刃に伏して、終天の恨を遺した。  寄券《きふん》の薫《かぐわ》しき寒梅は、百花に魁っ意ならずもあれ、臆前に義につきし六士の丹心は、 いかで南国の正気の先ならざらん。暦書は早く更《あらた》まりて、花|発《ひら》き鳥哺く、嘉永三年三 月四日、溶々たる波の色さえ青陽を喩《うつ》す薩摩潟、裏《じようじよ》々たる柳《う》の影だにも和照《わく》を見《あらわ》す鹿 児島城、風暖かに旦麗かなるべきを、時ならぬ瀟殺の気に天地を克剥《こくはく》した。この日ま た、厳科を義徒に課せ、虐刑を忠屍に加えた。好党は乾きもやらぬ去年の碧血に飽か ず、怨魂なお屋宇を去らざるに、あえて乾坤正大の気を鎗磨し尽さんとして、内寵に 惚れたる斉興が歯兼《ろもう》πに乗じ、国君の権を纂《ぬす》み、到底個々の威福の資をなすに忙し、惨 なる哉美人の禍、酷なりというも疎《おろ》かなり。  物頭赤山|靭負《ゆきえ》久普は、日置《ひおき》家と称する公族、薩摩国日置郡日置郷八千七百五十四石 を領する該藩の巨室、一所持の家格を有せる、城代家老島津和泉久風の二男である。 識量高く交遊広く、内外|夙《つと》に重望を斯人に懸け一\大成を期待した。去年の近藤崩れ に連坐し、謹慎を命ぜられて、私領に引き籠っ、ていたのに、この日、たまたま終身遠 島の申渡しを受けた。生涯赦免のない刑罰を与えるのは自決の暗示で、これは一藩の 例であった。そこで、靭負は北堂に入り、慈萱《はは》に今生の訣別をする。志士たる者が死 に臨むのに、秋毫も襟懐を乱すべきものでない。この際、一点の酒たりとも無用であ る。酔いを借りたといわるるのが恥しい、甘醒《かんれい》を持て来いと、三国一の杯に忠誠無比 の心を酌んで、潔《いさぎよ》き終焉をからくれない鮮やかに、千入《ちしお》の間に遂げた。介錯を承った のが南洲の父西郷吉兵衛で、藩制によって一門重職に付けられる用達という役を勤め、 その父善兵衛が靭負の祖父島津但馬の知遇を得た以来、日置家との恩誼も篤く、二代 の恪勤《かくごん》は、さながら、この日この痛切なる属望に当り、面を掩うて春風を斬る電光を 閃かせた。吉兵衛は涙を飲んで、血量《けつうん》斑々たる隻袖《せきしゅう》を抱いて家に帰り、愴然として、 ただ一語、武士ほど物憂いものはない、彼は言の多きに堪えぬのである。忠義に凝り たる重臣を偲ぶに余る恨みの隻袖、腫気を宿《とど》めし鮮血に、また若干の涙の色、濃くも 深くも染めませる千入百入《ちしおももしお》、紅の痕に心を伝うべし、一子吉之助(南洲)二十四歳、 この隻袖を父に得て、終夜号泣したという。  自宅に蟄居中の吉井七之丞も、自裁を命ぜられ、家名断絶、家財没収の申渡しを受 けた。彼は泰通義峰庵主と法名を自選自書して、祖先の霊牌の下に蔵《おさ》め、「くれて行 くはるのかぎりに吹くかぜの花とこそちるわが身なりけれ」の一首を残し、親族村瀬 利兵衛の介錯で、行年二十五歳、花は桜の散るに早く、惜しや武士の命、夜半の嵐を 待たず。野村喜八郎も、親族野元林八(野村宗七と改め、長崎埼玉の縣令たり)が介錯 し、中村嘉右衛門も潔く自裁した。一日の中に四人の烈士が冤死《えんし》し、故二階堂主計は、 寄合格で六百八石の禄を領し、大目付を勤めた人であるが、客冬の処分に先立ち、十 二月十日に病没した。それを、山田一郎左衛門が京都の塩屋勘兵衛へ遣した書面と、 高崎五郎右衛門の日記とを証拠に、生前の罪科か追罰し、士籍を削り、墓碑を撤せし め、去年十二月十三日行方不明になった、兵道の高木市助・和田仁十郎の両人を物色 し、兵具所から足軽組を出して捜索させ、日州|誤《もア》目|集《かた》郡|飯野《いいの》郷|狗留孫《くるそん》の山中にて高木を 捕え、和田もまた縛されて、ともに繋獄中であったのに対して、遠島を申し渡し、村 野伝之丞は奥小姓から寺杜方取次に転じ、侯家(旧伝襲する虎之巻の修行を命ぜられて いたのを、去年召し上げられ、岩崎の宅を没収され、吉野村の抱地で謹慎しておった が、これも今度遠島になり、山之内作次郎・肱岡五郎太・松元一左衛門・名越左源太 (物頭)・吉井七郎右衛門(屋久島奉行)・山口及右衛門・島津清太夫・新納弥太右衛 門・近藤七郎右衛門(以上裁許方見習)・大久保次右衛門(利通父、琉球館蔵方)も、同 時に遠島になり、関広国・有馬一郎・八田知紀等は、謹慎を命ぜられた。  爬羅捌挟《はらてつけつ》し、株連蔓引《しゆれんまんいん》し、すでに烈士義徒を刻薄すること警しきに、射狼《さいろう》の心はな お爪牙《そうが》を磨き、肉を劇《き》り骨を刊《けず》っても、まだ廉《あきた》らぬのか、四月の二十八日、三首領に 追刑の令書を発し、一郎左衛門の妻歌子は、夫家《おつと》の重罪によって種ヶ島に流され、そ の述懐の「夢にだにまだしらざりしあら磯の浪を枕のもとにきく哉」、哀れにも優し き残生を、波濤に隔てたる絶海の一角に終った。隆左衛門の男欽吉(斉彬小姓役)、一 郎左衛門の男左太郎(高崎正風)は、父の故をもって遠島に処せられたが、左太郎は 幼稚であったから、十五歳を待って発遣された。ああ寡婦孤子は何の罪ぞ、良人に後 れ、厳君を喪える涙も、いまだ乾かざるに。                           近藤隆左衛門                           山田一郎左衛門                           高崎五郎右衛門  右被二聞召一通之趣有レ之、一世遠島被二仰付一筈にて、評定所御用申渡候処、致二切  腹一相果候付、右科相当にて、死体無二御構一旨申渡候段者、先般申越通に候、然《しかる》  所《ところ》、山田、高崎等、親類共より密書等追々差出、同類共及二糺合→又者山田より京  都町人塩屋勘兵衛方へ差遣候密書等も、同人より差出証拠証跡明白に相顕れ、大目  附方より御裁許掛へ調べの上、右三人事、専ら頭取にて致二密会→徒党を結び、御  政事向を致二誹諺'既に御国家御騒乱にも相及勢之筋等、色々有間敷義を書認め、  前文勘兵衛方へ差遣、公辺へ響入候様取計、御隠居御家督之義|相工《あひたく》み、且重御役等  可レ致二殺害一申渡しいたし、其外種々不レ謂悪意を企て、言語同断之至、別而不届  至極に付、士被二召放一於二境瀬戸→被レ行二|直礫《ぢかばえつけ》→隆左衛門には、一段悪意深候に  付、鋸挽《のこぎりびき》相当にて被レ行二直礫一候。  これは、藩情を幕府へ訴えたのを罪科として、更に死後を残虐するのである。文中 の塩屋勘兵衛は、閣老に縁故のある者で、山田が京都在勤中に呪近《じつきん》したところから、 この勘兵衛の手から、薩摩の機秘が幕閣へ逐次密告された。それかあらぬか、幕府の 偵吏が藩中に入り込んだ。嘉永三年正月二十三口の夜間、馬頭仙波小太郎の僕宇八が 出奔した。この宇八は薩摩の者でない、他国かしはいり込んだ奉公人。それで挙措に 不審なところもあったが、その遺留品によって、公儀の隠密方《おんみつかた》なのが知れた。去年、 井上出雲守・木村仲之丞・葛城彦二等が脱藩したので、凶状の外間に伝播するのを悩 んでおった好党は、目前に幕偵の俳徊した形跡を見て、周章狼狽一方ならず、多数の 足軽を封彊に急派し、非常線を緊張したけれども、ついに幕偵を逸してしまった。さ てこそ、三月四日、再度惨刑を侶義の徒に加えたのである。この際、吉利仲は長崎御 用という名義で江戸に潜行し、大家老島津石見も出府の途についたので、江戸家老島 津壱岐更迭説が、しきりに人口に上った。果して、壱岐は召し還され、四月二十六日、 近藤等の連累として、槻職《ちしよく》剃髪、隠居謹慎の命を受け、島津の称を止め、藩誰たる久 字及び栄号たる国名を剥奪されたので、受命の後二日に、武士の生涯を潔《いさぎよ》くした。壱 岐は名を久武といい、一所持格の身柄、百五十八石の分限で、侃誇《かんがく》の言議をもって、 閨藩の崇仰する人物であった。仙波小太郎も、同じく二十八日に自裁した。惨刑酷科 を忍び、幾多の烈士を虐げた当時の藩庁には、家老上座島津周防(久光)・家老島津 豊後・同将曹・同石見・末川近江、このほかに、二階堂主計と島津壱岐とがいた。そ の主計が病死した。残骸に刑罰を加え、壱岐をば召喚し、自裁させた。同列一席をさ え揮らず、いやしくも正人君子を除かざればやまぬ。烈士を刑すること三度にして、 三首領の塚を発《あぱ》き、追刑の本文により、鹿児島と谷山郷との中間にある境瀬戸の刑場 に遺体を搬出し、魂は未死ともいえば、彼の在天の英霊を凌辱せんとするか、屍は土 中に五箇月を経て、十字架上の長槍も、竹鋸の逆歯も、よく皿《じく》すべくもない。ただこ れ三個の慶欄せる腐肉団である。これをしも忍ぶベくば、人天何の能わざるものあら ん。暗雲の秋空を抹せる夜の月黒く、芒花《ぱうか》の風に戦《そよ》ぐ幾叢の影、燭罎は枯れて、余腫 を越《お》う射狼《さいろう》の声も稀れに、野草に冷露を宿《とど》めて、幽蚤咽《ゆうきようむせ》ぶ辺の陰火は、軽宵に度《わた》る 雨脚の細なるに淫《し》げく、嚇《しゆうしゆ》々たる鬼《う》突を満目荒涼の間に聴く。斉興は褒姐《ほうじ》の一笑を買 わんとするか、久光は桀紺《けつちゆう》の故轍を践《ふ》まんとすろ、か。人間何の心ありて、地獄変相図 にも見る能わざる光景を打開せるぞ。かくて、ケ光は東京の朝に左大臣となり、老い を告げて海南に堅臥《けんが》して、あまつさえ、至尊の優詔《ゆ えしよう》を拝するも再四に及び、野山の邸 中に児孫の孝養を受け、身後の余栄は国葬をさえ御沙汰あり。甘じて毒婦お由羅の非 望を長ぜしめ、斉彬に奪いて長子に与え、骨血(旧親に忍びて六甥を天折せしめ、天地 の正気を犯して無享《むこ》の忠良を我《そこな》う。かくて斉彬(旧一統絶え、久光の胤、永く公爵の家に 主たり。 三士の脱藩  井上出雲守は、上藤ヶ迫の諏訪神社の神職、小番格百五十石を領し、世々従五位に 叙せらるる筋目である。早く有志の群に投じ、共に秋水一揮の究極手段に同意してい たが、一旦密計の破れて、山田一郎左衛門が義につく夕、特に招かれてその最期を訪 問した。山田は、かく成り行く上は方途もない、日来入魂《ひごろじつこん》せし方々も、おそらくは無 事にあらざるべし、後図なくば、いかで君家の厄を済《すく》うべき、御辺は神職のことなれ ば、他国に知音もおわさんほどに、速やかに虎口を脱し福岡に走り、黒田美濃守に頼 り、遂初《すいしよ》の計をなし、時宜をもって江戸にも出てて、閣老に歎きても宿志を空しゅう せざらんこと、わが今生の至願にもあり、御辺への遺嘱でもある、と告げた。高崎五 郎左衛門も、自裁以前に、同じ言葉を繰り返したのであった。明くれば嘉永二年十二 月四日の払暁、木村仲之丞を訪い、夜前の次第を逐一に説話し、かつ我々の密策破れ し上は、好党の、世子に対する施為《しい》も気遣わし、一刻も早く、山田・高崎の遺嘱を実 現せん、脱藩の処分も、臆病者との後言も、それは覚悟の前であると、その座から発 足した。途中は坂口源七と変名して、別段の事故もなく、十二月九日、筑前福岡に着 し、黒田家の側役吉永源八郎について、封書を呈上した。福岡侯は、井上を村上源之 進と変名させ、志摩郡桜井村の神職浦下総守へお預けなされた。それが鹿児島へ聞え たから、藩吏を差し遣して引渡し方を請求したが、福岡では、後日の証人として相違 なく留めおかれる旨の返答で、空しく薩藩の出使は帰国し、改めて再度の交渉を開き、 引渡しを御承引なきにおいては、御親族中自然の場合にも立至り、両国の開曇《かいきん》も測ら れず、などと極端な辞令さえも用いて、極力引湾しを請求したけれども、我等が陣頭 に立つとも、それに厭いはない、阿部閣老より指揮あるまでは引き渡すこと罷り成ら ぬ、との挨拶、またしても撃退されてしまった。  木村仲之丞は、十二月三日、外出を差し留められ、翌年三月、謹慎を命ぜられ、兄 樺山喜兵衛が監視の下に、屋敷牢に入られておった。仲之丞は憂心|仲《ちゆうちゆ》々、しきり《う》|に 井上出雲守の運動を案じて、切にその応援のこふを兄に内談した。喜兵衛は深く決意 して、鋸を牢内に投じた。この鋸で格子を破り、三月十四日の深更に、鹿児島を脱出 した。弟の発足を見届けた喜兵衛は、監視不行届きの主誕を受けぬ間に、疾《と》く屠腹す るのであった。兄の芳志、一死をもって贈われたる仲之丞は、からくも、月の二十四 日というに、福岡に到着し、吉永源八郎の宅に入り、薩藩当路の罪科を条挙した封中 を、福岡侯に呈覧した。時あたかも、再度の引値、℃談判を拒絶された時であった。福 岡では、早く仲之丞の踪跡を秘し、藩士佐藤勘太夫の宅に隠匿し、谷右門という変名 を用いた。翌月に捕吏頭《とりものがしら》天野左仲の家に預けられ、永野次楽・北条右門などと、 種々の変名を使っていた。この頃、井上出雲守も工藤左門という変名を用いた。仲之 丞は、ついに玄海洋上の藍の島に潜《ひそ》み、『藍の島土産』という著書もある。薩摩では、 `一度脱走した者は、掌捕して遠島にするのが藩制である。しかるに、斉彬が襲封入部 の途次、筥崎八幡参詣の時、特に木村の拝謁を許され、久潤ながら主従の情を尽した。 爾後も、筑前にあって深く天下の志士に交り、西郷南洲が月照と西下するや、平野次 郎とともに、月照を下座郡大庭村の薩州の亡命葛城彦二が隠栖に誘い、葛城に月照次 郎を筑後の若津まで送らせたのは、この木村の斡旋である。井上・木村の二人が帰国 したのは文久のことで、出雲守が藤井良節、仲之丞が村山松根と改称したのは、後日 の談。  一体、筑前侯が井上・木村を庇護され、薩藩の交渉を拒絶されたのは、その内願に 感発された結果である。筑前侯は、凶情を詳悉されて、事態の容易ならざるを知り、 在江戸の宇和島侯(伊達遠江守宗城)に書信を送って、阿部閣老を動かし、その処置 を幕閣にさせようとした。この斡旋に宇和島侯を撰んだのは、薩の世子斉彬と交情親 密であったためである。宇和島侯は、福岡の来信により、井上・木村の内願書の転致 されたのを斉彬に示し、薩摩家の親戚南部|利剛《としひさ》とも相談の上、書類一切を阿部閣老に 呈覧し、嘉永三年六月十二日には、宇和島侯親しく阿部閣老を訪問し、大段左のごと き対談を遂げた。 宇。此内より追々呈覧したる書面は、御披見下され候や、実に御面倒の儀にて、恐 れ入りたる次第でござる。 阿。皆々熟覧致したる処、実に容易ならざる儀である、最早旧臆限り一旦始末も相 附きたる事と存じたるに、又々処分も多人数に相及び、殊に主罪も再度厳重の仕置 申付たるは、抑も如何なる仔細なるや。 宇。それは、山田切腹の後、其の知音なる京部市民塩屋勘兵衛と申者え遣はすべき 遺書ありしを、親類共より差出し、之れを開封致したる由の処、其文中に、兼て遣 し置きたる書面の宿意は、是非々々相達候様、頼み入るとの文意ありて、直に勘兵 衛方に手を入れ、山田より遣はしたる書面を引揚候に、表向き知れざる事までも、 巨細に分明致し、再度の答め申付たる趣に聞㌧ん候、全体、家老島津将曹等は、国内 騒乱にも相及ばむとする事情は勿論、斉興隠退に係はる事件などは、公辺に響かざ るやうに、手軽き処を以て内済するの含みなりしに、表向きばつと相知れ、右の通 り取計《とりはからひ》たるものと申事にて候、しかし最早此の度限りにて、処分も相済たる事と 存ぜられ候。 阿。一体、大隅(斉興)は如何が心得居るや、又、島津将曹、吉利仲などの心得は、 如何なるものなるや。 宇。此の儀は委曲弁知仕らず候へば、容易《たやす》く申上げ難たし、されど、大隅守儀は只 今も猶ほ亡|調所《ずしよ》笑左衛門を信用し、同人が為し置きたる事柄は、何事にまれ、悪し き事なきものと存じ居る模様にて、それ故、政事向も一切従前通にて、何一つ改革 したる事なく、只今にても、少し目立たる改革を致すものあれば、直に既黙《へんちゆつ》せられ 候勢ひにて、一体の儀は、是迄御聞にも相成たる事ならむ、又黒田美濃守より差出 したる書面中、木村仲之丞より再度申出せる書面の意味等より熟考仕候に、大隅 (斉興)には、まさか廃立の存念は之れあるまじけれど、万一修理(斉彬)子供なけ れば、周防(久光)を養子に致すべきの存念は、従来之れある事なり、加之《しかのみならず》、色 色と内輪より議言致すもの之れあり、為めに、大隅守にも迷の念、弥《いよいよ》≧萌すべく痛 心致し居ることに候、又、将曹、仲杯の人物は、何とも申上げ難し、されど、修理 の内話による時は、調所笑左衛門、二階堂志津馬、海老原宗之丞などの類とは柳《いささ》か ちがひ、少しは宜しき方にて、政事の悪弊も追々改正するの存意もあり、且っ海防 等の儀に付ても、将曹専ら尽力し、修理家督の件も、内々は心配致し居る趣に候、 何分側向の都合にて、中に立ち心痛致し、悪政改革等の儀も、一尺のものなれば五 六寸位づ二直し居るを、他方よりは、笑左衛門同様に疑惑するものあるを、将曹は 憤慨致すとの由に聞き及び候、されど、其の忠邪真偽の処は申述がたし、又仲事も、 随分よろしき評判はあれど、是亦確たることげ申上兼候。 阿。御内談は倦置き、全体のこと、大隅守が不行届より此の事件を惹起せしことな れば、公辺より御吟味に相成り、屹《きつ》と御沙汰枳成るに至るも、更に申訳あるべから ず、御内談は御内談として、実につまらぬ事である。 宇。左様の御沙汰相成りては、実に恐れ入たる次第、不行届には全く相違ござらぬ、 それゆえ、公辺より屹と御取調に相成、表向に御沙汰相成らば、一言の申訳もこれ あるまじく候、畢寛、其儀を黒田美濃守を始め一同心痛仕候次第にて、髪《ここ》に御内慮 を仰ぎ、表向に相成らざる様致し度との存八,心に候、且つ是迄大隅守も首尾能く相勤 めたる事なれば、此末隠居家督都合よく相済じ度との存念なれば、其段は幾重にも 厚く御含み置かれたし。 阿。何ぞ只今右の都合に相成と申事にてはあらざるも、大体の処を一寸御談話致し たる迄にて、此末の処平和に治り、早く隠居を致したらば然るべく存ずるより、御 談話致したる次第にて、只今の処は御心配あるにも及ばず、されど、藩内不穏の有 様は、随分世間に相知れ居ることゆへ、此末の処大事と存ずる事である。 宇。左様の次第ならば、有難く安心仕候、何分御意見の通り、此末平穏に帰し、隠 居致す事に相成らでは、相済み申まじく、追々美濃守も出府仕るべく、其上尚また 御賢慮を願ひ奉るべし、然るに、井上、木村の処置は、如何様に申し遣すべくや。 阿。左様、井上の事は御申合の通取計はれて然るべし。又美濃守も、参府までは其 儘に差置き度存念と察せられたり、其後に至り、薩藩へ引渡さねばならぬ様にては、 美濃守の存意も相達せざるべし、尤参府迄の処は、此方に於いても別に所存あり、 元来此度の儀は、此方にも見聞《けんもん》の次第ありて、容易ならざる事柄なれば、参府の上  は尚々直談致すべし、先づ留置に相成候て差支もなかるべし。 この時退庁時刻の太鼓を打ち出した。 宇。左様ならば、仰せ聞の趣を以て申遣すべし、美濃守如何計り有難く存じ申さむ。 阿。其れは先づ御控へ給はるべし。尚ほ篤と熟考の上、又々御談話申すべし、尚ほ 委細御談話致し度も、早御太鼓にも相成たれば、近日御沙汰申すべし。 宇。委細畏り候、尚ほ御沙汰もあらば、参上御伺ひ仕るべく、さるに、木村事は申 合の如く、南部遠江守へ遣はし候て然るべきや。  阿。木村は左様取計相成然るべし。  この対話によって、宇和島侯が幕府の干渉を求めたのが知れる。阿部閣老は、公然 の沙汰として、薩藩の内訂に干渉するならば、皇津の家運を危殆にするものであるぞ、 という意味を隠約の中に示し、幕府が干渉して、斉興隠居、斉彬相続の捗びを付ける ことについての言責を避けた。しかし、表面|観然《てきぜハ》たる肯諾を与えはしなかったが、こ の後徐々に、宇和島侯の内願が効果を現してくる。 琉球事件の与うる転振  美人禍に沈める薩藩は、内訂にひたすら没頭して、別に洋上の外患から、宿構の姦 計を転挨《てんれい》するのを知らなかった。世子斉彬が江戸に去った後、琉球事件は果して何の 状ぞ。六月二十八日、薩侯斉與は、藩地から稟書を呈出した。これが老公を隠退に運 ぶ桿子《かんし》であった。  私領琉球国へ滞留罷在候、異国人共之儀に付而者、追々被二仰達}候御趣意之旨、  相心得致二指揮→仏朗西《フランス》人者無二異議一引払、英国人は未だ滞留いたし居候得共、国 中一統人気も平常に帰し、懸念之廉無レ之、此末帰国取計向等之儀、精々及二指図一 候趣は、昨年も御届申達置候通御座候、然る処、当秋|召列《めしつれ》、致二参府一候琉球使者、 玉川王子今般致二上着'事情勇申立候趣者、最初より種々難題申掛違乱之心配者、 専仏朗西人共に候処、仏人引払後者、英人至極平和に罷在、間々非人体盲目等之者、 |見当《みあたり》候得者、致二療養一可レ呉杯と申聞け、膏薬、菓子類相与候儀も有レ之、医薬相 学候様、追々相勤候得共、唐国之医術往古より相学致二用弁一候趣を以て、程能く 致二会釈一候処、近比に至候而者、稀に妻子|列立《つれたち》近辺致二歩行一等、柳難題等申掛候 儀無レ之、英人滞留辿何も平常に相替候儀無二御座→中山王始琉球役々共にも致二安 堵→国中末々に至人気も弥相治り、少も掛念之廉無レ之、尤差戻方に付而者、厚御 趣旨難レ有奉二拝承一候付、無二油断一致二計策一追々唐国ヘも願越、被レ遊二御安慮一候 様取計可レ仕旨、摂政三司官共より委曲申越候上、右玉川王子へ猶又事情細々申含、 稽安堵仕候儀に御座候、依レ之、此末英人差戻方、且取締向厳重申付越候様可レ致 候、此段御届申達候、以上  六月二十八日                          松平大隅守  琉球は決して上下安堵する所ではない。客年〔嘉永二年)十一月七日には、英舶ま た来り、軍機大臣の書を齋《もたら》し、交易を強要した車.実がある。それを一切隠蔽して無事 を粧うのは、幕府の視聴を掠めるのである。こ(…稟申書《ひんしんしよ》の執達を求め、藩老島津将曹 の書も、主として虚欺の文言であった。  琉球へ滞留罷在候、仏人去々秋無二異議一引払,英人は滞留いたし居候得共、一統  人気も平常に帰し、掛念之廉も無レ之趣共、夫夏国頭王子上国事情細々申出候に付、  御留主居勤大迫源七出府被二仰付→阿部伊勢守様之御内御届被二仰上一置候処、江戸  之使者玉川王子上着、琉球滞留之英人並妻子共、別而平穏に而、中山王始役々共に  も致二安堵(国中末々に至人気弥相治り、更に掛念之廉無レ之趣共、摂政三司官よ  り委曲申趣、玉川王子よりも事情労細々申出、則|形行《なりゆき》達二貴聞一稽被レ遊二御安堵一候  事に候、依レ之、尚又平穏之形行阿部伊勢守様へ御届被二仰上一度、別紙(前項の稟  申書)御案文之通、先月二十八日御日付被一仰付一被二差越一候間、御留主居等之被  レ致二吟味→少将様(斉彬)被レ達二御聴一思召寄之処老、何様共御取直、被レ為し在候  様と之御事候間、其段も被二申上'日積之上被二差出一候儀共、御都合能可レ被二取  計一候、此段御内用を以て申越候、以上  戌七月八日                           島 津 将 曹  島津石見殿 しかるに、藩老末川近江・島津豊後からの内報が達した。それは前者と柄整《ぜいさく》したも のである。 去年八月以来、琉球逗留英人時々之形行、且又、去年十一月七日英国船壱艘那覇え 来着、彼国軍機大臣より更に有無之品致二交易一度趣等之書状持越、又者、右船乗 頭よりも同様交易筋之儀申聞候に付、去午年(弘化三年)仏国大総兵交着之節、和 好交易等相断候趣を以て相断、勿論逗留英国人儀も、早々迎船差渡、列帰《つれかへり》候様、 軍機大臣え、委細文を以申越候趣共、琉球在番島津登、倉山作太夫より、別冊之通 追々届申越候、然処、英人一件、今日便以二別紙一被レ及二御届一通に候得者、自然前 条之次第外々え響合、彼是差障相成候而者、不二相済…訳合に候間、急度不レ洩様  可レ致二心得】候、別冊二綴り相添ヘ、此段以二御内用一申越候条、少将様(斉彬)可  レ被レ達二御聴一候、以上   戌七月八日                           末 川 近 江                           島 津 豊 後   島津石見殿  石見は、二書を斉彬世子に差し出して、とも^旧くも御覧を願った。世子は立地《たちまち》にそ の情偽を看破されたが、通例、この類の文書にけ、連状といって、藩老連署の式を用 いるのに、将曹一人の名をもって、藩国の一大車を通達したのは、測り難い意衷であ る、もし違言あらば、籍《か》りて父子の間に議構せえの企図なきにしもあらず、と世子は 早くも思慮されたので、二書の矛盾については、全く歯を没せられた。父子の際にも、 計画あり、権変ありて、御家騒動は凄じくなる(….である。世子は事の容易ならざるを 見て、内書を宇和島侯に送られた。  一、今度謝恩使(琉球王の使節)上国の序《ついで》、滞留英人之御届、去る六日差出相成候、   右老前文通之事にて、小子存意申候ても詮も無レ之、豊後、近江申遣候書面御届   には大相違に候得共、先其艦差出に相成申候、然るに、豊後等より之書面に而者、   滞留英人天主教専ら申す、め、我盤増長之様子、其上、去年十一月七日英船一艘   渡来に而、英国軍機大臣之書面持越申候、右之趣意は、滞留英人厚く手当預り恭 く、此上猶ほ又、折角可レ致二友愛一との事計りに而、列帰《つれかへり》之儀一円不二申来一且 以後琉球英弁利之為、諸色交易取結度、於二承知一者、彼国商客差遣居住いたし、 商法取組、両国之利益可二相計一旨申来、尤乗頭よりは書状之趣不レ存由に而御座 候得共、総理宙面会之節、致二商法一候て、格別利益可二相成一段申候由、夫故、 早速評議之上、断之趣、且滞留英人早々引取呉候之文言、取仕立相渡候処、十六 日早朝致二出帆一候由、且又、乗頭より申聞候には、又々返事可レ有レ之、六ケ月 も相立候は父、可レ致二渡来一趣為レ申候由。 、去年渡唐船滞留英人|列帰《つれかへり》之儀、唐国へ及二掛合一候処、右返答、当年唐船持登 之趣に而者、唐国帝承知にて広東総督へ命令有レ之候処、以二都合一英人へ可レ及二 示談一旨に而、中々急速可二相整一様子無レ之、且又、英船出帆後者、滞留英人弥 増長我盤申立、英臣之中山那覇居住之者と心得、英客と者申間敷、本国より如二 申来(折角友愛可レ致、其外品々申立、存意通不二相成一上は、以レ兵存意可二相 達一外無レ之由、或者日本え服従之儀分明に可二申聞一段、種々申立候、書面も相 見得申候。 一、余之箇条者、先づ兎も角も、第一英船渡来商法申掛候一条、唐国掛合之件、並 に日本服従之事、申掛候箇条、右三条御届不レ仕、秘密に仕候、如何にも不二相 済一事と存候、其上伯徳令(英人名)迄も列庶相成候へ者、国家之大事に候得者、 一度之御届手抜に相成候儀とも、先可也に御座候得共、中々根強国風之由故、申 立候上は容易に承引不レ致者必定に候、又当年蘭船風説之趣承及候へ者、印度辺 之英人等、皇国其外近国通商之心組有レ之哉に伝聞仕候、左候へ者、其手始に先 づ中山え参り候哉も難レ計、且又、数年英人滞留之上之儀、国事之形勢十分承知 に而、以後渡来之節、押付而商客差遣為レ致二居住一候か、又者、用兵恐怖いたさ せ候手段在間敷とは不レ被レ申、左様之次第に相成候而者、元来柔弱之人気之上、 防禦手当更に無レ之条、致二承知一外無レ之、金二干其時^兼而御内命奉レ蒙候通、 商法仔細に可二取組一申談候共、中々承引パ↑致、彼方十分に所置可レ致者必至と 奉レ存候。 万一右様之次第に相成、御届之節、様子により、去年渡来之事不二申上一候而者、 不都合に相成事有間敷とも不レ被レ申、又公辺に而異国之事、別而御配慮中、厚 き御世話有レ之候御時節、渡琉之水主等より、此儀響合可レ達二公聴}も難レ計、且 又、万一依二時宜→中山え渡来之英船、崎陽え渡来可レ致も難レ計、其節中山え渡 来之始末、可二申出一も難レ計、左候而、奉行より及二言上^急度御沙汰有レ之時は、 国家之大変此時と奉レ存候。 一、事実細々御届申達候上に候得者、致方も無レ之事に候得共、取かざり候上中山 之依二所置一而者、御国体に相響可レ申、左候得者、皇国之御恥辱誠不二容易一一大 事と奉レ存候、且又、御委任とは申ながら、依二次第一事実申上候は父、又々御差 図之趣も可レ有レ之処、秘密に致置不二申達一候而者、如何成御賢慮被レ為レ在候而 も、被二仰出一様も有間敷、只々無事平穏と被レ遊二御安慮一候処に、万一不意に商 法等之事御届候は父、猶更御配慮可レ被レ遊と、此儀も恐入存候間、阿閣え及二内 奏一候は父、御処置之御一助にも可二相成一哉、当事中山之形勢を病体に引競候得 者、最早心肺之憂に相成姿故、十分之手後れに而、全治之処無二覚束'乍レ去空 敷打過申候而、及二死亡一外無レ之、如二前文一病勢深重には御座候得共、少しも早 く治療相応之方法相用候は父、可レ救手段可レ有レ之、一日手後れに相成候得へ者、 夫丈之労相増可レ申者必定ゆゑ、早速及二内奏一候は父、良善之方法可レ有レ之哉と、 実に心配罷在候。 右申上候内にも、最早跡船渡来に而、難治之症到来居候も難レ計、此事承候より 日夜心痛罷在候。 一、右御届致二相違一候儀、無レ拠訳合可レ有ーナ。も難レ計候得共、一通相考候而者、 異船渡来商法申掛候儀、御届差出候而者、当秋琉人参府之故障に可二相成(其外 品々掛念之訳可レ有レ之存候得共、小事之儀、国家之大事と引競候得者、九牛が  一毛にも不レ及事、将曹等信実国家之為を存候得者、可二申争一儀当然に候処、機 嫌宜敷に任せ候条、全自己之為を計候心底不二相済一事と存候。 、右に付種々及二勘考一候処、密々に而も阿閤え及二内奏一候而者、同苗(父斉興公 を指す)心得違を顕はし、又者取かざり候罪を唱へ候様にて、不孝之名難レ遁、 先年人数相違之節者(弘化元年、仏船琉球に来航の時、守衛兵百五十余人を派遣し、 幕府へ七百余人と届け出たる事実を指されしなるべし)、笑左衛門悪智より事起り、 其上事柄も従二此節一者軽く、又者以後改正↓、〜為にも可二相成一哉と、美濃守(黒田 侯)等え及二内談一事実及二内奏一候得共、此節老夫よりも重事之上、度々事実相違 之上に候条、如何様致二歎願一置候而も、何と可レ被二仰出一も難レ計、其処も心痛 之事故、従順の道理を守り閉口可二罷在一哉、一体は不二容易一家之大事は勿論、 御国体にも響合候訳ゆえ、同苗(斉興公)乏取かざり申候儀も、所存承り、小子 所存も十分に可二申聞一筈に御座候得共、御存知之通之都合ゆえ、中々以難レ叶、 甚だ当惑仕候事に御座候。 、致二再考一候得者、此儘打捨置、万一外々より公辺え響合御沙汰相成候か、又 者異船渡来に而、中山英夷之手裡に落入候而者、皇国之御威光にも響き可レ申、 左候得者奉レ始二京師東都(誠に申訳之致様無レ之、千万年之後迄も恥辱難レ雪、 同苗老勿論、国家一変之基と奉レ存候、左候而者、先祖え対し候而も不二相済( 小子にも先代に無レ之昇進(いまだ世子中に、従四位下侍従左近少将に任ぜられたる なり)も被二仰付→為二名代一下向之節も先例も無レ之、御座之間え被二召出→殊に 厚蒙二上意一(弘化三年六月、琉球え仏国船渡来に依り、斉興に代り下国ありし時のこ と)施二外聞(其外御縁辺に付而者、是迄格外難レ有条々も有レ之候間、忠志を専 らと心掛、及二内奏一候方に可レ有レ之哉。 一、右様之儀、両端之所置、如何取計候は父、皇国之御一助とも相成、忠孝之道 全く、同苗並に国家後患無レ之為に可二相成一哉、種々及二工夫一候而も、愚存に難 レ及御座候、此儀不レ存内者致方無レ之候得共、承候而者、片時も難レ忘痛心仕候、  一体異国御届等之掛合者、国元家老連名に而申来候処、此節者御届書等、将曹一 名に而申参候而、事実之書面者、豊後、近汀両名に而申越候様子、如何成都合候 哉難二相分→家来えも此儀承候処、皆々不審の様子に罷在考付兼申候、豊後、近 江にも意味合有レ之、心配之余無レ拠、内分之取計に而申越候哉とも存候得共、 遠路之事情極め難二申上ハ一応内分に而問合せ申度御座候得共、遠国之儀手後に も相成申候、美濃守えも早便に而相談申遣候得共、是又遠国に而、往返も手間取 り、彼是心配仕候間、無二余儀一此段及二御内談一候条、何卒厚御憐察之上、尊慮 之程無二御遠慮一御教示奉レ願度、不レ得レ止事、此段奉二申上一候、将又、奥平左衛 門尉(昌高)、南部遠江守(信剛、皆公の大叔父)えも、先日以来相談仕候処、両 人共致二仰天一依レ事而者、御国体にも響合候事に而、打捨候而者如何にも恐入 候間、内奏之方可レ然申聞候事に御座候。 、右之通故貴所様にも、内奏之方と思召御座候は父、内奏可レ仕候得共、夫に付 而御沙汰等出候而、同苗身分に障り候様に而者、甚だたげかしき事に御座候間、 何分琉参等(琉球王子参府を指す)無レ滞相済候様仕度、大願に奉レ存候条、宜敷 御賢考可レ被レ下、箇様之訳に相成候も、笑左衛門等同苗え事実取繕ひ申置候悪 習に而、将曹始め当時の者共にも、程能く申置候より事起り候儀に相違無レ之、   如二前文一皇国の御威光にか、り候事すら如レ斯に候間、国中一同疑念を生じ、   及二混雑一候も無レ拠事と、実に赤面之至歎息仕候。  一、琉球事実書面之儀者、要用之写に而、近々可レ入二貴覧一候、先者内々御相談申   上度、以二書取一奉二申上一候、猶其内拝眉可二申上一候、以上    八月二十三日                           松平修理大夫    伊達遠江守様  内書に接して、宇和島侯は再度の斡旋を試みられた。それは老公斉興の隠退に関連 する。この斡旋には、自然裏と表とがある。もとより、外患によって斉彬の前途に横 わる障碍を除くのではないが、必至の情勢はしからざるを得ぬ。一体、斉興が虚偽の |稟申《ひんしん》をして、琉球処分の完了を粧うたのは、明年琉球人定例参府を機として、久しく 懸望した位階陞進をしたいためなのである。かかる虚栄のために、英舶来追を隠蔽し ようとする老公斉興、「カチューシャ可愛や、別れのつらさ、せめて泡雪解けぬ間と、 神に願いをララかけましょうか……」、ヵチュlシャをお由羅と修正すれば、いつで も、白髪頭を悼《ふ》って唄いかねない人物、外難も内訂もあったものではない。とはいえ、 稟申は虚偽である。外難はいまだ済まされていないとなれば、幕府は厳讃を加えなけ ればならぬ。そう公然の沙汰になっても困る。斉彬は父の罪悪を好発したくもない。 ただ、よそから化けの皮が剥げてきては大変、稟申は稟申にして、実際の琉球事情を 聞いておいて貰いたい。そうすれば、刻下の外難に処する方途も講ぜられる。また、 異日島津氏が幕府を欺岡《ごさもう》した科を免かれる。それ故、二重の報告を受けておいて貰い たいという困難な交渉を、宇和島侯は、斉彬の苦衷に同情して遂行したのである。す なわち、八月二十四日に、阿部閣老と会暗の打合せをした。  追々秋冷相加候処、御清栄奉レ賀候、然ば如別帳一修理大夫より密談申越候処、  不こ容易]重大之儀に付、唐突愚考にも難レ及当惑仕候間、極密にて御相談申上候末、  可レ及二返答一と奉レ存候、右に付明朝拝趨仕度、尤少々長談可二相成一に付、誰も不二  罷出一御請暇之朝に仕度、御都合次第日頃可,被二仰下一奉レ希候、参上迄に御賢考  被レ下度奉レ願候。 二十八日に至って、阿部閣老を訪問し、種々陳情内願に及ばれた。  宇。過日来呈覧致したる、修理大夫より内談の一条は、同人が心配致し居る次第は、  委曲書面上に分明し、其心痛当惑も如何計りかと存ず、且つ書面の上より想像する に、如何にも念入りたる事件にして、驚き入りたる取計ひ方でござる、是れに就き 種々愚考するも、何分容易ならざる事柄なれば、如何とも決し難く、返答に当惑し 居る次第でござる、元来大隅守(斉興)が職権上の事なれば、修理に於いては、遵 順沈黙致すべきは当然の儀なれど、斯くの如く重大の事柄は、権変を以て内奏致し、 蔭ながら大隅守が不行届の罪を贈ひ、忠孝の道を全うするは、理の当然とは存じ候 も、若し内奏致し、修理に於いて懸念する様に、万々一公辺より表向き御沙汰を蒙 らば、忽ち不孝の名を負ひ、又大隅守身上に係はり、却て内輪混乱を惹き起し、琉 球の処置も行届かず、内患は増長し、外患は愈相《いよいよ》加る道理にて、修理も不本意な がら、沈黙仕るの外手段あるまじく、されど、その処は閣老の御含みに任せ、仮令《たとへ》 内奏に及ぶも、当分の処は表向きの御沙汰無レ之様に致し、前述之通り内奏致すこ とにせば、第一公儀の御参考にも相成り、且は先祖に対し忠孝の道も相立つ訳とは 愚考致し居るも、何分公然の御沙汰を受申まじくやと、修理同様懸念仕るを以て、 平素御懇命を辱《かたじけな》うするに任せ、篤と御内談を遂げ返答に及ぶべく、何卒修理の真 情をも深く御隣察ありて、御教示下されたい。 阿。委細御尤の次第である、修理心痛之趣は、其誠実書面に溢れ、当惑の段尤の事 に存ず、渚《さてさて》々今にはじめぬ不将の処置である、右様の儀にては、琉球事件の御委任 は片時も御安心相成らず、実以て驚入たるこし一にて、容易ならざる次第である、一 体、大隅守は委細承知の上にて取繕ひ、其身昇進の障碍ともならむとの懸念より、 取隠したるものなるや。 宇。左様思召さる、儀は至極御尤にて、実に、言片語の申訳もござらぬ、それゆゑ、 修理も此処を心痛仕、琉球、薩摩の浮沈も此時と、深く懸念致し居る次第にて、尤 も大隅守儀も、委細は不承知の事ならむ、其訳柄は是迄大隅に心配致させざる様に と、笑左衛門かくし欺きたる習慣より、此節も同様、大隅には委細を申聞けず、将 曹より御届の手続に及びたる儀と想像致候、又大隅守に於いても、委細を承知せし 事なれば、箇様なる不都合はあるまじく、何分一路偏信のこと故、其辺明瞭致さざ るも、畢寛将曹等の不届より起りたるには、指違あるまじく、然らば、修理には如 何が返答致し然るべくや。 阿。さ様一体を申せば、極々不将の儀にて、表向き厳重の沙汰に及ぶは当然なれど、 段々是迄も内輪の次第を承知し、且修理の筋書も又貴所の御内談もあり、勇以て、 此際公然の御沙汰ありては、混乱を醸すべし、元来大家の不静詮は公儀に於てもお 好みなき事故、何様事実承知を致居り候方、此方の考にも相成るべし、就ては当分 御沙汰無レ之様相含み申すべく、依て内奏致すべき様御返答相成るべし、尤も外面 より見聞に達する事にも相成らば、其時は止むを得ざる次第なれど、其時といへど も、修理身上には、疑念を受け候様の心痛は無レ之様取計らふべし、此辺は安心し て内奏致さるる方然るべし、併し修理より直々内奏致されては、仮令内方の事柄と はいへ、何とか申向くることなしとも計られざれば、貴所迄差出さしめ、内見致し 申すべし。 宇。右様に御含み下さる\は、実に此上なき仕合にて、御蔭を以て忠孝両全の道も 相立申すべく、早速修理に返答致し、事実の書類貴覧に供すべく、何分にも表向き 御沙汰無レ之様致度、修理もさぞく難レ有安心致すべし、御不審の廉もあらば、 又々参殿致すべし。 阿。参り次第内々御報下されたし、扱大隅も最早隠居せねばならぬ事と存ずる。 宇。参り次第早速尊覧に供すべく、又大隅隠居の儀は、先日御内話の趣も之れあり、 唯今黒田美濃始め近親共も申合せ中の様子に承り候、段々御懇情を以て御教示に預 り、重々難レ有存候。  当日の対談により、二十九日密封した書面は、宇和島侯から阿部閣老ヘ呈出された。  この際|訪《いぶ》かしいのは久光である。時に三十≡歳、客年(嘉永元年)、正月より家老 座上席で、藩政を預り聴かれた。その人が琉球の、一件の稟申を知らぬはずはない。幕 府を欺岡《ぎもう》してまでも老公の虚栄心を満足させトまノとは、あまりに蒙昧過ぎる。万一こ の愚策が発露すれば、島津家の破滅ではないか。頑父を諌めるのもよい、好臣を抑え るのもよい、いかにもしてこの亡状を阻止すべきである。久光は闇愚な人だといわれ てはおらぬ。しかし近藤崩れで、赤山靭負等卜二人が切腹し、吉井七郎右衛門以下三 十余輩が、区々の処分を受けたのを知らなかったかして、後年、島津家の史籍掛市来 四郎を呼んで、近藤崩れの顛末を聴取し、予は今日初めてこれを聞けり、といったと やら、そうした調子に相違なくば、琉球の外舶逼迫も、亡状を極めた稟申も、「天草 洋」の詩ではないが、雲か山かでおったのであろう。 老公斉興の隠退 琉球に関する稟申のみならず、嘉永二年の冬より三年に掛けて、薩藩の紛擾はよう やく甚しく、事態分明に幕閣の偵知するところとなった。軽くしても、転封の処分は 免れ難い形勢である。幸いにして、斉彬世子の股憂《いんゆう》を諒する阿部閣老あり、親戚に、 黒田、南部、奥平の方々があり、世子の親友宇和島侯あり、調護百端《ちようごひやくたん》、ともかくも無 事なるを得た。やがて福岡侯が出府して、他の親戚両侯及び宇和島侯、西丸御留守居 筒井肥前守政憲の間に、老公退隠の策が講ぜられた。それとは知らない斉興老公は、 琉球国王の使節玉川王子を拉して江戸に来り、宿望を果し、年来の虚栄心を満足する つもりで、早速に官位|陞進《しようしん》の運動を始めた。正四位上宰相から三位に進もうというの である。幕府は、先格なしとて、老公の内請を斥《しりぞ》けた。先格がないというのは、診断 書を飾る語に過ぎぬ。実は官位陞進どころの話でない。かえって、御茶壼拝領を申し 付けられた。幕府の恒例で、退隠を調示する時に茶器を与えた。厳誕を加えずに引き 込ませようとする。その呼吸を知らないわけがない。ただ今引き込まれては大いに困 る将曹一派の好党が、巧みに斉興を操縦して、老後の虚栄心さえ煽動している際であ る。斉興の老毛垂《ぽうてつ》はいかにもあれ、茶壼と心中するは、好党の堪え得べきところでない。 すなわち、茶壼の効能は乏しくなる。頓服した一剤では、何の変化もこない。それで も、外科へ回さずに治療する医案で、更に十徳を下賜されることになった。こうした ものを、二点まで拝領する例はかつてない。隠居しろと、二度も調示される大名、諸 侯たる面目に掛けて、それほど頑強に抵抗する必要はない。三百年間、ただ斉興一人 あるのみだ。これらをみても、美人禍の劇甚な(旧'が知れよう。福岡侯は、斉彬世子の 幼時に就学され、殊に斉興が官位陞進の周旋を内嘱されている筒井肥前守をやって、 阿部閣老の旨を請わしめ、十一月十三日、島津将曹・吉利仲の両人をその私邸に喚ば せ、客年来の運動を完結させることにした。当ロ筒井肥前守は、両所を呼び出したの は別儀でもないが、かねがね仲へ申し聞けた通り、大隅殿内願の筋は、つぶさに伊勢 守殿に相願いおいたが、何分御挨拶振りがよろしくない、昨日も登城の上、なお相伺 いたるところ、昨年来大隅守家中の風評甚だよろしからず、公辺においてもきっと御 沙汰相成べきはずなれども、すぐに隠居を申し出ずるにおいてはそれまでなり、もし 遅延に及べば、大隅守一代の勤労も詮なきこ・とにもならん、との御内旨を承って当惑 致した、これまで大隅殿より御依頼筋についても、及ばずながら尽力致したなれども、 かようのことに立ち至っては、赤面の至りなれど、今日にては別に手段も無レ之に付、 篤と仰上げられ、御隠居の御決心|相成《あいなる》のほかに致し方もなし、かく成り行きては、一 刻の御延引も御ためよろしからず、そのもとらもこの儀篤と分別致し、帰邸の上、 早々申し上げられ、御決心相成りしかるべし、と申し聞けた。両人は、今日の用談が こうしたことであろう、と予想せぬでもなかった。仰せの趣委細畏り奉り候、御沙汰 の次第を篤《とく》と申し聞けましょう、と言うよりほかには仕方もないが、更に当惑の色は、 二人の面上にも見えた。肥前守はその上に押し被ぶせて、かようの儀は、拙者より申 出候さえ、実もってお気の毒に存ぜられ、まことに難渋のことである。特に初対面の 将曹殿へ、かようの儀を申し聞けるのも甚だ心苦しい、まして、両所より御主人へ仰 上らるるは、定めて御心痛御当惑のことであろう、ついては、用談の次第を自筆にて 認めおきたれば、この書取りにて大隅守殿へ言上いたされてよろしかろう、といって 覚書を渡した。これでもう抜き差しの出来ないようになる。寸分の動きも取れぬよう に、用意周到に運んでいく。筒井は、御隠居伺の儀は、南部遠州へ御相談の上、急い で御呈出がよろしい、一日の猶予も、その間に表向きの御沙汰が出でては、もっての ほかのことにもなろう、明日登城次第、そのもとらのお受けはすぐに伊勢守殿に申し 上げ、また、遠江守殿へも急々お取計いあるよう御談示も致そうと、そこへもここへ も釘を打つ。さすがに、将曹も今は覚悟しなければならぬ。落涙せんばかりに萎れ返 っていた。筒井は、まだかまだかと蛇の頭を撃ち続けた。大隅守殿は至って小心なお 方であるから、その驚愕も気の毒に存ぜられる。是非に及ばざる訳柄をよくよくその もと達より申し上げ、御自身より決心あるよらに取り計わるべし、それについて、大 隅守殿の性質として、驚樗のあまり、来る十五ヨの参府御礼、十九日の琉球人登城を お断りなさるか、押して登城されても、進退の度を失し、営中の批判を受けらるるも いかがなり、この辺の失態なきよう、そのもと達より申し上げらるべし、拙者も、十 五日には、営中にて直々申し上ぐる含みなれど、そのもと達も十分の決心をもって申 し上げられ、たとえ大隅守殿何様申さるるとも、今日の場合、ほかに道もなければ、 断然隠居の内伺いを取り急がるるよう、しかとそのもと達において承知致さるべきや、 そこを承りおきたし、という。両人は手も足車出ない。きっとお受合い申し上げ、 早々御内伺いのところ取り計うべし、と答え占ので、筒井は、しからば、拙者より 直々大隅守殿へ申し上ぐるにも及ばない、返す込す御為よろしきよう、二念なく老公 退隠を取り計らわれてよろしかろう、と告げた"  琉球国え滞留之英人差戻方之儀、御国体に不レ拘様、厚奉レ蒙二御内命一候付、昨年  帰国之上、猶又種々及二計策(清国え歎訴方深致二指磨一置儀御座候に付、来春御暇  被レ下候得者、直に致二帰国(右手当向並に海{序防禦之儀、手厚取計可レ申心得に候  得共、私事六十余歳罷成、其上持病之痔疾差起候節者致二難儀一候間、嫡子修理大  夫儀、年齢罷成候に付、厚申含家督相譲隠居奉レ願含に御座候、此段御内慮相伺候、  以上   十二月朔日義鯨                           松平大隅守  絞るようにして、ようやく内伺いだけは出させた。幕府は、七日をもって、隠居苦 しからず、と命令した。それから先例に遵《したが》い、国許往返の上、来春公式に隠居願を提 出する趣の届けを、十日付で出して、万事は明年というので、表面は順調に運んだよ うにもみえた。けれども、好党は執念深く世子の相続を妨げる。親戚やら宇和島侯や らの斡旋を遮ろうとする。事を琉球の外患に構えて、老公の南帰を遷延する計画らし い。世子は、好党の苦計に斉興が同意して、折角の進捗も頓挫するおそれのあるのに 心付かれたから、またしても、宇和島・八戸二侯に情況を密報して、前途に横わる阻 害を除く方法を急がれた。  先達而琉球国え渡来致し滞留罷在候異国人共之内、仏蘭西人之儀者、彼是配慮を相  加へ、被二取計→当時引払、一廉者御安心之儀に候得共、未だ相残候英国人、差戻 方之儀に付而者、去酉年厚き御沙汰之趣、相達置候次第も有レ之候処、今般琉球之  使者玉川王子参府に付、委細之事情等彼国より申越候由者、先達而届被二申聞一候、 右に付而者、此上心弛無レ之、差戻之儀精々勘弁を相加へ、一日も早く引払、御安  心被レ遊候様、取計可レ被レ申候、是等之趣、玉川王子えも得と申含遣、帰国之上  役々え委敷申談、取計方行届候様可レ被レ致候事。 と幕府は、十二月七日に訓示し、世子もまた、了「一川王子に諭達を与えた。 琉球え残居英国人差戻方之儀に付、別紙(前文)之通、従二公儀一被二仰渡'被レ遊二  御承知一候付、帰国之上中山王え相達、摂政一一ム司官えも申聞、被二仰渡一候通、役々  申談、此上猶心弛無レ之、差戻方之儀、精々勘弁を加へ、一日も早く引払候様、  抽二丹誠一可レ被二取計→此段可二相達一旨、御沙汰被レ為レ在候、左候而宰相(斉興)様  御事、追々御老年にも被レ為レ成、其上御持病之御痔疾も、被レ為二差起一候節者、  被レ遊二御難儀一候に付、御隠居被レ遊度思召に候間、御隠居被レ遊候而も、異国人一  条之儀者、是迄之通被レ遊二御指揮一被レ下候様奉レ願候処、其通之思召に候間、此段  も帰国之上、内々中山王え相達、摂政三司官えも可下被二申聞一置上事。  これで口実はない。しかし、老公の尻はすこぶる重く、翌年になっても、帰国の模 様がみえぬ。宇和島・福岡・八戸の三侯は、阿部閣老に内申して、最後の圧迫を加え ることにした。これがために、公式に呈出する隠居願はその期を早め、正月三十日に 進達され、即時に許可されて、まずは一段落をみるに至った。この時、老公斉興は六 十二歳、世子斉彬は四十二歳。二月二日、斉彬家督相続の事相済み、即日、従四位上 右近衛中将に任ぜられ、爾後薩摩守と申された。 南洲の六条議  三月九日、初入部とあって、江戸を発し、五月八日に鹿児島に到着し、やがて領内 に訓示を頒ち、新藩主の規模を閲揚《せんよう》した。 今度宰相様(斉興)御隠居、我等へ御家督蒙レ仰、別て令二心配一候、依て以来不二心 付一儀も候は父、無二遠慮一異見可二申聞一候、且又、各初役人末々に至るまで、専ら 御先代の規則に基き、我意私欲等無レ之、正路を心掛、上下の情意通達、国中之仕 置行届候様、利害得失を考へ、万端入念可二取計一候、諸士末々にも、弥文武忠孝 を志し、質素節倹之風儀を守り、信義を専として、武道之心掛可レ為二専一一候、農  工商にも、代々の法令を守り、夫々の職業を励み、父祖の孝養無レ怠、家業出精  専一に候。  右之趣、老中を初、領内一統無二心得違(可レA、、二承知→猶追々可レ申候。  斉彬は、専心一意藩治に勤め、種々の施設は、賢諸侯の実を現わした。特に昌言を |嘉《よろこ》んだので、意見を上言する者ようやく多く、西郷南洲も、伯父椎原与右衛門に止《よ》罪っ て、側用人種子島六郎を経て、建言書を上げた。この建言書は、六箇条から成ったも のと聞えた。しかし、前四箇条は知れているが、後二箇条は逸して、何事であったか、 ほとんど知れない。その知れている前四箇条とけ、  一、公、知政の初めに当り、国政を誤りたる宙.横の徒を販舳舳《へんちゆつ》する事。  一、お由羅の方以下の好人を処分すること。  一、近藤事件に付、流調《るたく》脱奔したる志士の罪を釈し、速に召還せらる二事。  一、兵政を改革し、範を水戸に取り、士気を振興する事。  南洲が急にするところは、藩政に励精するほかに、毒婦由羅の克治にある。そして、 その通謀者将曹一味の菱鋤《さんじよ》を伴う。まず内訂を鎮静し、好党を訣数《ちゆうりく》するを主とした南 洲は、爾後しきりに建白をしたが、最先のものは実にこの六条議である。新藩主斉彬 は、苦い経験を十分に味わっているはずである。従って、これらの処置は建言を待つ べきでない。その襲封の日において、閨藩《こうはん》の人面は、喜憂二色に分れた。賞罰はいま だ行われぬ、しかし、忠好の二徒は、己心にそれを譜知している。襲封はすなわち己 身の破滅と自覚している。しかるに、斉彬は因循して手を下さない。彼の賢諸侯とし て天下に知られたのも、この因循たるところにある。なによりも、おのれにつらかり し怨みを算盤に掛ける。自身の運命を横塞され、愛児を虐殺された、それを忍んで、 他日の計を急ぐ。南洲の建言に対する朱筆の答批は、斉彬の心事を髪髭するものであ る。第一条は、余が初政に当り、にわかに既黙を行うは、父の過ちを顕わすものであ って、子として甚だ忍びざるところである、子は父のために慶《かく》すということあり、こ の儀いかが。第二条、由羅が婦人の身として、政事向きに対し妨害を為したるは、甚 だ不都合である、されど、彼は父の愛妾にして、子としてこれを処分するは、情にお いてはもとより、人道にも背くことである。第三条、近藤事件に連坐した諸人を召還 することは、至極もっとものことである、しかし、今にわかに召還するは、これとて 父の過ちを顕わすものなれば、他日機をみて召還する意である。第四条、兵政改革の ことも至極もっとものことである、水戸侯の鋭意兵政を改革し、武を郊外に練らるる は、実に勇ましきことなれど、何事も嫌疑深き世の中なれば、にわかに内外の耳目を 惹くは、種々な嫌疑を受ける基《もとい》である、この点、水戸侯はいささか御思慮の足らざる ようである、殊に、わが藩は外藩のことなれば、深く注意して兵を練り、士気を振作《しんさ》 すること肝要である。以上は昨夜一通り思慮せLまま、朱筆を加えたるもので、その 当否もいかがと存ずれど、なお今後といえども、気付たることは、何事によらず意見 申し出ずべしとて、これを下渡された。これすなわち、南洲が初めて意見を建白して、 初めて公に知られた時である。(この建白書は、★郎の孫保が家に所蔵したるものなれど、 その所在を失せり)  斉彬は、好党に対して転職さえも申し付けない。ただ、家老末川近江が、収賄の形 跡分明なるによって、その職を奪った。それとても、事犯を許《あぱ》いて厳刑を加えずに、 諭旨免職の体であった。近藤崩れで厳誕を得た人々や、脱藩した人々の恩赦のごとき も、深く悲しんでおられたであろうが、遽《さよきよ》々として救解を企てられはせぬ。おもむろ に、老公斉興の三位特陞を機会に、封彊三国に大赦を行う時期を待つのであった。  斉彬が襲封をして、お由羅の好計を抑えたようでもあるが、決して根絶したのでは ない。底深く暗流は通じている。新藩主の側を、前代の遺物たる好邪が囲続している。 一人も替えずに藩治を革新した斉彬は、真に比濤稀《ひちゆうま》れなる明君に相違ない。大局に向 って雄飛しようとするので、藩内の動揺を避ける。封土における施設のごときも、妨 碍したい人間を駆使して、それで多数な成績を挙げている。けれどもさすがに、好党 には日常戒心を怠らない。斉彬の戒心については、南洲の伝えた逸話によって平生を 知られる。  安政元年正月二十一日、鹿児島を発って、江戸参観の途につかれた。南洲はこの行 に中小姓として随従した。この日斉彬は、水上坂の茶邸に憩われた時に、西郷吉兵衛 というのはいずれか、と侍臣に尋ねられた。しばしば建白を取り次いだ側役種子島六 郎、南洲に大刀流の剣法を教えた郡奉行大山後角右衛門、この両人は斉彬の輔博であ った。種子島・大山から、南洲の為人《ひととなり》について、つとに聞き知られたので、当座のお 尋ねもあったのである。すなわち、この日初めて、南洲は主君斉彬に謁した。三月六 日に江戸の芝邸に到着の後、近侍福崎七之丞の推薦で、ひそかに進謁し、庭方役にな った。庭方役は内庭の掃除監督というのが表面の職掌で、内実は江戸語でいう隠密な のである。これは諸方の機密を偵察する役で、諸侯の家にも、幕府にもあった。斉彬 はよく南洲の人物を知られたから、この任命があったので、以来西郷は、随時に主君 に接近することが出来た。斉彬は時々庭中に出で、西郷を召して、国事・藩事の機密 を談じた。ある日、斉彬は樹下に侍立《ちよりつ》して、庭石を移転せよと、吟附《ふんぷ》されたので、西 郷は詰旦から人足を指揮して、命のごとく雑作をしまって、斉彬の居室の外面の庭上 から、御指揮の通り出来《しつたい》に及んだ由を言上する・こ、あたかも権臣数輩が伺候しておっ た。斉彬はとっさに、「馬鹿が」と属声叱尾し方、。生涯にただ一度叱られた、と西郷 が異日の話草であった。かくまでに細心な警戒をしておられたのである。 ついに一人の政岡なし  幕府も多事であるが、薩藩もまた多事である、、安政元年四月二十二日、米船一隻琉 球に来り、江戸政府と和親条約締結の報を齎し、六月七日には、ペルリ、軍艦一^隻を 率いて来着し、例の強要をあえてし、十七日、条約書を交換し、二年五月十二日には、 外国船がまた封内山川港に航到したという時勢∩斉彬の外交意見や、藩治の成績は、 『維新史』及び『照国公《しようこくこう》伝記』に委ねたい。ただ、公武合体論者として、水戸斉昭・ 尾張|慶恕《よしなり》・松平春嶽・伊達宗城・黒田|斉博《なりひろ》・山内容堂・鍋島|斉正《なりまさ》等と提摯《ていけつ》して、時簸 を極救《じようきゆう》しようと、大いに運動したというに留めておこう。  その後、老公斉興は芝白金の別邸に、お由羅は鹿児島玉里の別業にいる。好党の島 津豊後・島津将曹は、なお要路に当って、通謀の形跡歴々たるものがある。姦臣は新 藩主を喜ばず、お由羅は老公のお願いというので、有馬勝守・牧仲太郎を遣って、兵 道の御祈薦が盛んである。それかあらぬか、斉彬の公子という公子は、嘉永三年十月 までに、菊三郎・寛之助・盛之進・篤之助の四人、ことごとく蕩去《しようきよ》してしまった。五 男虎寿丸は嘉永二年閏四月二日の出生で、すでに世子の届けも済み、一藩忠義の目途 になっておられるものの、お由羅は斉彬の襲封を沮害したが、それも失敗して、老公 はよんどころなく隠居してしまった。もし斉彬の世子虎寿丸が慈《つつが》なく成育した暁には、 年来の非謀は、駿《はし》り去る自動車の砂煙一抹、いたずらに臭気を放散したに過ぎぬ。五 十四郡の御主でなくとも、松前鉄之助はあったが、日向・大隅・薩摩三州の大守の家 には、悲しや、一人の政岡がなかった。虎寿丸は七歳という安政二年閏七月二十四日 に逝去された。それも病症不詳とある。斉彬の公子五人、女子二人、都合七人までも、 お由羅の毒手に世を早くしたので、西郷吉之助・大山綱良・海江田信義《かいえだのぷよし》・樺山資之《かぱやますけゆき》な んどが、近藤・高崎等の遺志を継ぎ、一死を賭けてお由羅退治を計画した。  海南の正気なおいまだ混《ほろ》びず、三度忠義憤激(…壬を出し、毒婦好臣を珍滅《てんめつ》して、非 謀邪構を剰絶《そうぜつ》すべき企図のあることは、さすがに傑物と称せられた斉彬も、思い及ば なかった。斉彬は世嗣虎寿丸の蕩去を悲しみ、}てれが尋常な死でないのも知ってはお られたが、不義非道な臣隷を憎悪するよりも、一家の典刑を正しゅうするよりも、悼 ましい世嗣のことを転じて、この際に早く継嗣を定め、内外多事の目下に、いたずら に乃藩の紛訂をやめようと覚悟された。庶弟久光の長子忠義を継嗣にすれば、公武合 体論にさえ反対して、ややもすれば争端を発する好党を甘心させてしまえる、そうな れば、身辺の小葛藤がなくなる、意のままに大局の上に尽捧《じんすい》することが出来る。かく て、斉彬は近侍伊藤仙太夫に私語して、我今不幸にして男子ことごとく死す、庶弟久 光が嫡子を世嗣と定めたく思う、しかし、突然このことを公表しなば、老臣関勇助・ 有馬一郎等のわが思うところを喩《さと》らず、とみに憤激せんも測り難し、あらかじめわが 密意を関等に通じ、過錯なきように致させたい、汝より西郷へ相談の上にて、藩地へ の通報を取り計え、といわれた。西郷は継嗣の内旨を聴くや否や、すぐにその不可な ることを諌評した。けれども、わが意すでに決せりとあって、斉彬は耳を傾けられな かったという。久光は終生南洲を厭われた。その根本は、おのれが嫡子忠義の継嗣に 対して、西郷が当時に不可論を入諌したためである。西郷は諌謡の聴かれざるや、海 江田信義・大山綱良を帰国させ、継嗣の内旨を藩地の同志に告げた。  安政三年八月三日、西郷が在鹿児島の樺山資之に与えた手書に、  残暑|甚敷《はなはだしく》御座候処、御家内中様無二御痛^愈以《いよいよ》て御安康之筈奉二欣喜一候、随而《したがつて》  小弟無異罷在申候間、乍レ揮御安意可レ被レ下、扱御幼君御一周忌迄生ながらへ、貴  公杯直接に顔前奉レ拝候人に無二御座一候ては、其節の御苦さも不二相分一只無謀之  所行に見られ候半、相咄人さへ無レ之、中々忍兼候次第御想像可レ被レ下候、盆前よ  り暑邪に当られ、頓《とん》と痢病様にて、五十度計も潟し候へ共、もふは本服仕候、宿許  杯へ申遣程之儀も無レ之出仕候間、左様御思召可レ被レ下候、廿三日は御霊前え参詣  候処、頓と頭も上り不レ申、足も歩まれず、病後押て参詣仕、尚更之事に御座候、 いづれ当時の急務、御子様御出生の儀に御座候間、俊斎(有村俊斎、後の海江田信  義)杯被二仰談→日新公(島津家の中興相模守忠良)、大中公(其子修理大夫貴久)え  御至誠を以、御誕生被レ遊候様御誠願被二成下一度、神霊もなどか忠心を無になし  被レ申間敷と、被二相考一申候間、偏に奉二合掌一候。 とある。御一周忌まで生ながらえというのは、かねて大山等と謀って、島津豊後等の 好物を訣教しようとして、いまだ果たさない三し一をいったので、到底、毒婦お由羅の 腹から出た久光の子忠義、非謀によって主君斉彬を苦しめ、その公子女を七人までも 殺した、それを迎えて深仇に福し、宿怨に柞《さいわい》することは、西郷のいかにしても忍び得 べきでない。彼は方《まさ》に、天道是か非かと絶叫して、芝伊皿子の大円寺、主家の祖廟に 詣でて、丹誠を抽《ぬきん》で、公子の出生を懇薦したの、{、ある。爾来、藩地と呼応して、晴昔 の志を酬いなんとする。「将又《はたまた》、豊(好党の巨慰島津豊後)一条、当年(安政三年)暮 迄之内には首打落候儀と、燧《たしか》に見留御座候間、巨々細々御納意可レ被レ下候、其外何 迄御報知偏奉レ願候」(南洲が大山綱良に与えて口r部伊三次の帰参を報ずる書中の一節)、 彼は蔦直《まつしぐら》に進前せんとする。紫電一閃の計画は、ついに斉彬の聴くところとなった。 南洲等の暗中飛躍には痛く驚かれ、にわかに伊藤仙太夫と西郷とを召して、「聞く、 汝等過激の挙を催すと、素《も》とこれ国家に尽すの精神に外ならざるべきも、真に国家の 大事に任じ、天下の為めに尽さむとならば、尚ほ深く思慮せざるべからず、彼の権臣 の輩の如き、其の心術や不可なるべきも、筍《いやしく》も先君の重臣である、一旦軽率の挙措あ らば、是れ予をして孝道を失はしめ、永く人の子に堪へざらしめんか、予は先公に対 して、位を去り退隠するの外はない、仮令《たとへ》権臣の輩、如何に予が政策を妨害するある も、之を駕駅《がぎよ》し、其長短を弁識して、其任に膚《あた》らしめば、何の不可かあらん、徒《いたづら》に軽 挙事を発し、予を誘うて困厄に陥らしむるは、蓋《けだ》し汝等の志にあらじ」と。西郷当即 に公の言に警悟し、大いに軽挙を悔い、一書を鹿児島の同志に送り、公の意のあると ころを通じ、ついに事なきを得た。この時もし、紫電一閃を敢行したならば、再び一 藩の内訂を醸し、南洲といえども、おそらくは、その駿足を伸すことが出来なかった であろう。斉彬の慧眼達識は、事を未発に防止し、その掲館の日に至るまで、水戸の ような藩中の圏争《げきそう》はなかった。禍いを薫摘《しようしよう》の中に起すまいとする隠忍は、実に好輩の 僥倖となった。御家騒動は内攻して、表面に症状を見せなかった。大事の前に小事を |閣勉《かくほう》する。斉彬は終生美人禍に苦しみ、その児子をさえ罹災する時に当って、頭脳の 熱くならないのは、古往今来|匹儲《ひつちゆう》のない傑物、天下の憂いを一身の憂いとするその傑 物、静かなる打算の枠の外におかれながら、それを饒倖と思わずに、毒牙毒爪をほし いままにするかと思えば、五十余年の往事ながらに、今日も胸の鼓《ヤつ》ち血の湧く心地が する。それを当時に隠忍した斉彬の襟度は、想望するにも困難である。この翌々月の 安政二年九月九日に、第六の公子哲丸殿が出生された。お由羅は新公子をいかにせん とするぞ。この公子が好党に掛目されるほど、忠義に凝った武士の依頼するところで あった。それに、斉彬はすでに四十八歳、季年(旧。出誕だけに、鍾愛も一層である。保 育の人を撰ばれ、御博姻《おつけもり》として税所敦子、御抱博《おださもノ》として吉井七郎右衛門を抜擢された。 七郎右衛門は近藤崩れで、大島へ配流された鰻骨の士、惜しや、任についていまだ幾 許ならずして病没した。俵好邪知でない武士は、誰も彼もない、一藩を挙げて哲丸殿 の成育を心配する。藩公にこの上の出誕は望まれぬ。忠義の徒が仏神に起請した。そ の冥加とも思われる第六公子が、またしても前来の五公子と同じようなことにおわっ てはならぬと、卵を累ね氷を履む心地で、ひた、丁ら御成長に事なかれと、膳罧《ごび》にも思 い続けた。この頃は天下多事、講武に日もまた足らぬありさま、鹿児島城の二の丸ヘ 新しく射撃場が建ち、詰旦薄暮、隙もなく銃砲の演習がある。その音響は股々として 幼君の寝殿に震う。俗間では、赤子が雷鳴に怯《お》じて驚風を発す、と言い習わした。万 一にもそうした病因を誘ってはと、城下の士庶が心を痛めていた。黒田嘉右衛門清綱 は、幼君の御為に、射撃場を磯の別邸へ移転すべし、という建議書を呈出した。幾度 となく失明の憂いを実験し、殊に暮年の愛子を秘蔵する親心、舐積《しとく》の情はさながら、 容易に黒田の建議は納れられそうである。しかるに、賢侯斉彬は、黒田が忠想《ちゆうかく》を嘉賞 したまでで、射撃場は移転されなかった。懇ろに彼を慰諭された言辞は、偉人の風格 を顕呈している。射撃所を磯に移すとも、その付近には士庶の赤子がいるであろう、 わが愛子の驚悸を患うる者が、人の所生には患わしゅうないのか、予は実に人の赤子 に忍ぶ能わず、しからば、何の地かこの患なかるべき、方今軍備これ急なり、一日半 餉も講武をゆるがせにすべからず、思うに、世子は異日国家のために砲火を犯し、兵 馬の際に身をおくべき者、煩発《こちつはつ》に驚死するがごとくば、成人するとも何の沽侍《こじ》とかせ ん、刻下に股々として耳に盈《み》つるものは、まことに好個の薫陶であろう、彼の俗間の 習説は、鄙人の妄伝であって、嬰稚の病因は別に存せんと、聞く者皆薩侯の仁を称え た。 悪人栄えた大団円  薩侯斉彬は、安政元年正月に江戸へ出で、翌年の交替期には、外交上の諮詞《しじゆん》に備わ るため、特に幕命をもって就封を止められた。この時は、閣老阿部伊勢守正弘と提撃 して、難局を善済せんとするに忙しく、殊に一橋侯入嗣論の発案者として、もっばら 尽捧《ていけつじんすい》された。持説を現実するために、薩藩と幕府と通婚することとし、分家島津山城 守忠公の女敬子を養女にして、それを右大臣近衛|忠煕《ただひろ》の養女にして、徳川十三世家定 の御台所、後に天璋院様といわれた篤姫の入輿け、実に安政三年十二月十八日であっ た。意気投合した阿部閣老は、篤姫入輿の後、専ハ政四年の六月に卒去された。当時の 幕閣は、総理大臣兼内務大臣の阿部伊勢守と、外務大臣の堀田備前守|正睦《まさよし》との連合で あった。その阿部を失って、堀田閣老が首班に着いて一人舞台、安政四年十二月十五 日、幕府の諮問に対《こた》えた斉彬の上書には、条約締結のよんどころなきこと、及び一橋 |慶喜《よしのぶ》卿を継嗣とすべきことを主張した。そのヒに翌五年には、近衛左大臣忠煕に稟申《ひんしん》 して、慶喜卿の継嗣について内勅を求めた。  乍レ恐奉二言上一候、然者西丸へ御養君之義、什節存意之通老中へ申立仕候、右者閣  老更代之度毎に所置変化仕候、根本不レ堅故に御座候、此節異人申立|勇勘《かたがた》考仕候  処、此上万々一之儀御座候節、人心動乱仕候而は、天下之御為可レ恐事と奉レ存候  間、人望勇一橋を御養君被二仰出一候様申立候事に御座候、尤紀州、田安御近親に  御座候得共、中々|競《くらべ》候人物に而は無レ之と奉レ存候、勿論私計にも無レ之尾州を始め、  御家門国持有志之もの過半同意之事に而、追々申立候様子に承知仕候、右に付、誠  に恐入候得共、国家の御為少しも早く御養君被レ為レ在可レ然旨、内勅被二仰出一候御  事相叶間敷哉、尤閣老之内、堀田(正睦)、伊賀(松平伊賀守忠国)、久世(久世大和  守広周)三人者、越前守(松平慶永)より申立、能々承知之よしには御座候得共、  万々一外両卿(紀州・田安)之方に相成候得者、有志の面々望を失ひ候者必定と奉  レ存候、左候へば、天下の御為別而奉二掛念一候間、何卒以二賢慮一根本を御固め相成  候様奉二願上一候、尤も三条様(実万)ヘも此節奉二申上一候間、何分宜敷奉二願上一候、  且又、御台様にも兼而《かねて》申上置御承知御座候得共、猶亦此節申上候事に御座候、乍  レ恐書附此段奉二申上一候、恐埋謹言  かくて、安政五年正月三日に就封の途に上られ、旅程常のごとく、伏見の旅館に着 し、荏再《じんぜん》稽留して、京洛の春に逢い、嵐山看桜の帰途に一士人に竃《やつ》して、九門の内に 入られたこともあった。来秋琉人同行で出府の勘《みぎり》には、伏見・大坂の間で滞留のつも りであるが、伏見は土地狭陰ゆえ、東山近辺に邸地を選定せよ、と近侍に命ぜられた。 これが何の意であったか、当時に心付く者もなかった。三月十八日には、公式に所司 代訪問、近衛邸への参候、近衛家から内勅の転付を受け、三条大納言|実万《さねつむ》卿等、二三 の糟紳と密議されたこともあった。それで鹿児島へ帰着されたのは、五月の二十四日 であった。  井伊直弼が大老になったのは、斉彬がいまだ伏見の旅館に稽留しておった四月.一十 三日のことで、堀田閣老の勇断によって、井上|清直《きごなお》・岩瀬|忠震《ただなり》がハルリスと談判して、 仮条約に調印を済ませた(六月+九日)のは、鹿児島着後二十余日のことである。井 伊大老の勢力はなお振わず、勅許を得ずして仮冬約に調印することを難《かた》んじた。僅か に松平閣老(忠固)の断行に励まされて、ようやく同意したのである。斉彬は、松平 |慶永《よしなが》・伊達宗城・鍋島|斉正《なりまさ》の諸侯、堀田・松平・久世の諸閣老と開国論を執り、朝廷 の下問に対えて持論を宣明し(五月二十八日)、更に近衛右府に内書を呈して、仮条約 の勅許を求めた(六月五日)。しかるに、一橋慶喜卿の入嗣は、越前・宇和島・佐賀 侯等の主張者もあって、天下の大勢の帰響するし一ころであったにも拘らず、千代田城 の大奥では、しきりに、一橋侯の入嗣を嫌った。紀州の家老水野|忠央《ただなか》が、上薦歌橋と 結託し、将軍の生母本寿院を誘い、奥女中総掛りで、紀伊中納言|慶福《よしとみ》卿(十四世家茂) 迎立に必死運動をした。この娘子軍の羽翼とな一たのは、将軍の側にある平岡道弘・ 薬師寺|元真《もとざね》などであった。斉彬ははるかに江戸を観望し、来秋における企図を定めた。 これぞ東山近所に新邸の建造を必要とする因由である。親しく五千の精兵を帯びて入 洛するはずであったとか、されど、雄図は潭《すべ》て鏡花水月、ついに捉着すべからず、空 しく英姿を語るその一条を副えるまでである。藩地にある斉彬は、天高く馬肥ゆらく、 来ん初秋こそ、健児を提げて王畿に馳せ上り、方《まさ》に大義を天下に首侶せばやと、日夕 軍旅のことに肋労《くろう》しておられた。五月十七日に江戸を出発した西郷吉之助は、六月十 七日に鹿児島に着し、齋《もたら》せる越前侯(春嶽)の手書を呈し、かつ君公去後の形勢を、 子細に言上に及んだ。井伊大老は、堀田・松平両閣老を斥け、太田|資始《すけもと》・間部詮勝《まなべあきかつ》を 新たに閣班に入れ、将軍継嗣問題は、全く一橋入嗣論を棄却したことを諦聴《ていちよう》して、こ の上は、公武合体国家統一の尋常手段では策せられないのをたしかめ、いよいよ予定 の行動を必要とし、紫詔を禁闘に仰ぎ、幕府の自新を強要すべし、とあって、筑前 (黒田斉博)・越前(松平慶永)・水戸(徳川斉昭)・尾張(徳川慶勝)・土佐(山内容堂)・ 宇和島(伊達宗城)の諸侯に内書を頒った。この使者は西郷である。西郷は六月十八 日に福岡にゆき、藩主|斉薄《なりひろ》に謁し、七月七日大坂へ引き返して、大久保|要人《かなめ》から水 戸・越前・尾張の三家が厳誕を獲たと聞き、驚いて関東の変を君公に報じた。この報 道がいまだ到着しない七月八日、斉彬は参観の期の近づくままに、炎天を厭わず、南 郊天保山の調練場に萢《のぞ》み、終日野外に兵馬を観た。その翌九日、微悲《びよう》によって仮床に つかれたのが、十日には痢病と診断され、日を逐《お》うて重症と聞えた。君公病篤しと聞 いて、所在の社閣に祈穣する者霧しく、加世郷の日新公廟、伊集院郷の惟新公廟、国 分郷の八幡宮なんど、数十里に亙る間を奔走しブ、日夜回春を念願する中に、十五日 の清暁、ついに莞去を伝えた。侍医坪井芳洲・朝稲三益・清水養正が方剤《ほうざい》を誤り、こ の不慮を来したのだといって、剣を執って起つ*、あれば、お由羅の毒手は、ついに君 公の御身に及んだのであるといって、切歯する老もあった。七月二十三日入寺、二十 五日入棺、八月五日福昌寺先螢の次に葬り、順聖院殿英徳良雄大居士と法論《ほうし》した。享 年四十九。公は良死でない、侍医の誤診であったか、はた何であったか、これを説明 する書証も人証もあるべきでない。尽未来際《じんみらいさい》までも、樽として風聞として、あるいは 臆説、もしくは謬伝としてなりとも、島津氏二十世は良死でなかったと、権貴に阿訣《あゆ》 することを知らない史筆に残すのであろうか。  お由羅は嬉しかったろう。多年の本望が成就した。斉彬はその起つべからざるを知 って、庶弟和泉(久光)を病床に召して、その長子又次郎忠徳(忠義)を継嗣とし、 哲丸をば順養子にせよ(時に二歳)、汝は、始終輔保すベし、と遺言された。斉彬夫 人英姫も、五十四歳で、同年九月十五日に逝去、高輪大円寺中の豊碑は、芳樹院殿涼 月英容大姉、と深く深く彫られて、畢生外君の美人禍に患《くるし》まれた、その憂愁を分たれ たのも今や空し、幽芥細草の墓径に香ばしく、秋は白玉、零《こぽ》るる露は涙に擬《まが》えても見 られる。さるにても、公子哲丸が無事に成長して、大工の女の孫に継いで、薩藩三十 二世になろうとは思われぬ。しかし、先君の喪さえ終らぬ安政六年正月二日、まだ五 歳という極めて短い生涯とは、予想もしなかったのに、たちまちに蕩去の報を伝え、 斉彬の男系は全く絶滅しておわった。現在の島津家は、公爵だけでも二軒あるが、い ずれも久光の系統で、毒婦お由羅の、孫から曾孫《ひこ》と、永《とこし》えに血脈を伝えて、聖代に栄 えゆく家門めでたし。