大御所様 大奥の賑やかな家斉将軍  三百年の栄華を極め、十五代の幸福を鍾《あつ》めた家斉将軍、文化・文政の治平は、時世 の酔っばらいが、夢か現《うつつ》か知らずに過した期間に咲いた野百合であった。游糸《かげろう》を綺《いろ》う 落花の片々、その隙を翅《つぱさ》も軽う飛び狂う胡蝶の心は問わずもあれ、見た眼の暢気《のんき》さ、 江戸の人心は、うわの空であったように思われている。こうした時代が何として出来 たかと穿鑿すれば、差し当って、閣老水野出羽守|忠成《ただあきら》の御利生である。実に文政元年 以来の、貨幣改鋳の恩賚《おんらい》である。水野の権勢の盛んであった文政八九年に掛けて、江 戸の子供の間に、ビワボンが流行した。これは鉄製の笛で、津軽笛というものである。 そこで「ビワボンを吹けばデワドン/\と金が鳴るかや今の世の中は」、この落首が 與ぜられた。金が鳴るのは賄賂の意味であったろうが、貨幣改鋳のことにして、この 落首を賞玩したい。それのみならず、水野閣老の施設の幕府に対する能毒は、最も熟 考を要する。けれども、彼が徳川氏の衰運を急がせたというのは、ほとんど定論にな ってもいる。十一代家斉、世を知って五十二年、天保八年四月、西丸ヘ隠居して大御 所様、将軍の隠居さんの大御所様たることは、亭主のあるほどの女は、皆奥様たるが ごとし、家康も、秀忠も、吉宗も、家重も大御所様であるのに、江戸を畢《おわ》るまで、大 師は弘法、祖師は日蓮の独占したように、大御所様といえば、十一代将軍のこととし てしまっていた。大御所様の時分には、と爺さんも婆さんも、世の中のよかった話に は、きっと持ち出した。その受売りが明治の中頃までも残っておって、江戸の春は文 化・文政、幕府の花は家斉将軍、とみだりに憧憬されたのも、著しき果報の人だと思 う。今川橋の地本問屋沢村屋の親仁が、三十余年以前の話に、武将七福神の見立絵を 出そうとして、家斉公の寿老人だけを案じたが、足利将軍以来の将軍という将軍に、 心配苦労のなかったのがない、他の六人の見立に困ってやめたと聞いた。成程成程、 江戸の人達は、十一代将軍を御苦労なしの人間と観じていたろう。気楽な人で一代済 んだ、おめでたい人物と心得ていたのである。当人の家斉公は、果して心配がなかっ たか、寝ていて小便垂れては見ても、岡目ほどには楽でない。景気のよい文政以後に しても、食わずに腹の膨れるはずもなく、着ずに膚《はだえ》の温かなわけもない。だが、こう 思い込ませたのも、決して偶然ではなかった。  化政の江戸の亭主役家斉公を福々しくしたのげ、女である、大奥の賑わしさである。 大奥の賑わしいのは、子女の多かったためであス…。何にせよ、男女五十五人の子持ち であったから、五十五回のお産・誕生・宮参り、これだけでも繁昌せざるを得ぬ。小 なる生殖作用にしても、自分だけでは済されない。是非相手が入用だ。まして多大な る生殖作用は、到底二人や三人の相手では足らぬ…。実に十八腹を要した。一体、孕む のは必然の事柄とはいえ、それが確定してもいない。寛政元年三月二十五日から文政 十年十月二日まで四十年間、毎年一人三二二強平均の生殖を続けても、それが幾割と かの割合勘定になっている。かつて計算したのに、十一代将軍には一妻二十一妾あっ た。天保十三年三月二十三日付の御沙汰書に、大御所様付|御客応答格《おきやくあしらいかく》上座|御中鴉《おちゆうろう》う た●てふ・やえ●みよ・いと・るりの五人に対して、「文恭院《ぷんきよういん》様(家斉将軍の論号) 御在世中、年来出精相勤候に付、上鴉年寄上座に被二仰付ことあって、御遺金二百 両ずつを賜わり、今後上繭年寄の俸給を与う、とある。いかにも、この五人は年来出 精して、うたは三男二女、てふは七男、やえは八男、みよは三女、いとは五男】女を 挙げている。同時に、御中繭とや●百瀬・すか・さよは、昇格もせずに、御遺金百両 ずつを戴き、さよ一人は、願いの通りお暇になり、他の三人は、従前の待遇を受け、 剃髪をも許された。御中薦に二様あって、生殖用御中薦と、お清《きよ》の御中薦とある。前 者は、当将軍の亮去《こしつきよ》によって御用済みになると、御位牌を賜わって、桜田の御用屋敷 に余生を送る例で、後者は、お暇になるのが多い。そこで、このとや・百瀬・すかの 三人が、お暇にならずに剃髪を許されたのをもって、御位牌頂戴の御中蕩だと合点さ れる。けれども、昇格した五人の御中繭は、出精した効があって、十八腹の内にはい ったが、この三人の御中繭は、出精しなかったのでもあるまいが、あいにく腹まで御 用に立たなかったのである。してみれば、この三人と十八腹とで、二十一妾の計算に たる。家康公の後家好き、家光公の変り物好きなど、徳川氏代々の趣向があって、そ れぞれ内寵的個性を発揮しているが、家斉将軍ときては、すこぶる箸の忙しいお方で、 決して先祖を恥しめない程度の汎愛家であった。従って、記録されない御用の女が何 程あったろうか、御用の女が多いだけでも、大奥は賑わしい。 お年の数ほどの御子達 御当代は御子福者で、お年の数ほどお子達がある。おめでたいおめでたいといって いる内に、だんだんと成長して、嫁入り・婿入hリが始ってくる。     子女分布表 浅斉斉言斉斉言峰家淑事 |姫《ひめ》(鎮子) 慶(敏次郎) 姫(美 子) |順《ゆき》(菊千代) 明(保之丞) |衆《ひろ》(乙五郎) 民(銀之助) 姫(湖子《すみこ》) 十文十同十同十同十同十同十文十寛引 一政二二二--二化-政移 月二月十月十月十月十月十月六月十及 二年二四十四三三二三二一朔年十一入 十 十年八年日年十年十年日 五年團 九三日 八二  日ハ 日 日      日 日 縁 先 尾張中将斉朝室 有栖川織仁親王女 水戸少将斉脩室 紀伊大納言治宝養子 伏見貞敬親.土女 因幡少将斉穫養子 津山侍従康孝養子 福井侯嫡子仁之助室 元 姫 |斉《なり》 温 斉《はるなり》 良 盛 姫 斉《まさなり》 荘 文 姫 斉《たかなり》 彊 溶 姫 斉《ちかなり》 省《やす》 斉 裕 斉 宣 和 姫 喜代姫 末 姫 斉 善 (幸 子) (直七郎) (徳之佐) (国 子) (要之丞) (結 子) (恒之丞) (僧 子) (紀五郎) (松 菊) (周 丸) (操《もち》 子《こ》) (都 子) (貴 子) (民之助) 九同十同十天十同十同十同十同十同十同十同二同十同十同十同二同 月 一 二保- - 二 二 - - - 月 - - - 月 二六月四月三月十月十月十月十月十月十月九十九月八月五月五二四 十年十年朔年二二二一二年十年二年二年二年八年二年二年二年十年 五五日十年十年十-十十十日十十十三 日日 七七七日七三七 七七三日      日日日  日日日  日日日 会津少将容衆室 尾張中納言斉朝養子 館林侯武厚養子 佐賀侍従嗣子斉正室 田安右衛門督斉匡養子 高松侯孫頼胤室 清水中納言重好遺跡 加賀中将斉泰室 川越侯矩典養子 阿波侍従斉昌養子 明石侯斉詔養子 長門少将保三郎室 姫路侍従養子忠学室 安芸侍従斉粛室 福井中将斉承養子   永 姫(賢 子) 桐一駄稗五日  一橋民部卿斉位室   泰 姫(益 子) 桐二旦昨   因幡侍従斉訓室  化政の間に、嫁入りや婿入りの行われた数は、十八度である。前後二十六年に上l八 度、一年七箇月目には、一度ずつ御祝儀のある勘定である。御祝儀の度々に、老中・ 若年寄が御用掛りになっての騒ぎだ。嫁嬰《かしゆ》のいずれにもせよ、対手方の大名の疲憲《ひはい》は 甚しい。「道路の流言に御入輿も済ければ、早く参府有レ之べきよし、内々御沙汰あ りけれども、病と称し、今に東行の挙なし、これは、彼大臣、有司の中に、国財を靡 費《びひ》し、長崎|御固《おんかため》の軍儲《ぐんちよ》まで底を空して用ゐ尽せし故、其党類、厳科に処するもの彩《おびただ》し、 か、る上は国主も其罪なきにあらず、是より直に隠居なるべしと云ふ、江戸の邸第は、 去々年(文政八年)以来、土木の輪奥《りんかん》を極め、目出度御入輿万歳と称する内に、かく 内憂あること惜むべし」(『道聴塗説』文政十年)、佐賀侯鍋島直正が、公女盛姫を迎え て、三十五万七千石の身上も、財布を榑《はた》き、参観の費用にも差支えた。女房を貰う費 用のために、若隠居をしなければならぬとは、無情の至極、それもそのはず、「鍋島 真丸へ公主御入輿の後、彼末家紀伊守が話しとて聞しは、彼の方の御守殿《ごしゆでん》の楼を営作 せしとき、その出来方を大奥に伺ひしに、指図に、梯子を黒塗にすべしとなり、夫よ り、成就のうへ、御通路のことゆゑ羅紗《らしや》を鋪《しく》べしとのことにて、彼の黒塗の梯子《はしご》の上 には、総て羅紗にて覆しとぞ、紀州公には、かく羅紗を鋪ならば、下の黒塗に及ぶま じきに、大造なることよ、と語りしとぞ、其の余の事も皆かくの如しと、鍋島氏の入 費察すべし」(『甲子夜話』)、筆者が平戸侯だけに、同情したのがおもしろい。喜代姫 を迎えた姫路の酒井家では、「姫路侯の世子、御婿と成りしより、大手の屋鋪《やしき》を結構 し、朱門|粉摘《ふんしやう》美々しく見ゆる杯《など》語れる者も有れども、予彼辺往来すること無ければ、 固より見も知らず、又或人云は、此頃新に中仕切門建て、番所も出き、武具を備へ、 越前家門内の如くなりと、予は御家門に准ぜらる二ことにや杯思ひしに、又此頃、鼎 (朝川善庵)が語るには、云々|仔細《しかじか》より起りて、かの中仕切門並番所等一切取払にな り、礎石までも取除たり」(『甲子夜話』続編)、天保三年十二月二十二日、お婿さんが 来て二十一日目に、新築の中仕切門取払いを命ぜられた。中仕切門等の構造は、御家 門の格式に付いたもので、徳川氏の親族たる表示である。それを酒井家では、親族の 待遇を受けておらないのに、公女を貰えば姻戚だ、と早呑込みをして新築したのか。 イヤ、なかなか、勝手にさようなことは、時代がらあるべきでない。大抵内伺いをす る例である。その指図がいろいろ差し線れる。ために、家老河合隼之助は切腹して、 答を一身に引き受けたような物騒な話もある。云女の入輿については、諸家に珍談が 沢山ある。それは他の機会を待とう。将軍の娘を貰えば、御守殿様というので、亭主 が毎朝御機嫌伺いをする。舅も、永く貴い嫁御を部屋住《へやずみ》にしておかれないから、新婦 のために早く隠居しなければならぬ。のみならダ、自分の家庭は、将軍家から付人の ために、ことごとく趣向を変えさせられて、随分窮屈であるらしい。寛政十一年に、 尾州へ入輿された淑姫の付人は、御用人以下の男子を除いて、大上繭一人、小上薦一 人、御介添《おんかいぞえ》二人、御年寄二人、中年寄三人、御中繭頭一人、御中繭八人、御小姓一人、 |表使《おもてづかい》三人、御右筆三人、御次六人、呉服之間《ごふくのま》九人、御三之間七人、御末頭《おすえがしら》二人、御 中居《おなかい》三人、御使番三人、小間遣《こまづかい》三人、御半下《おはした》Lー七人と『誠斎雑記《せいさいざつさ》』に書いてある。こ の多数の御付女が、盛んに御本丸の風を吹かせるのだから、たまったものでない。こ うした模様は前例明白、さすがに殿様に出来上った人達も承知している。誰も天降り の細君を希望する老はない。ただ貰わせられるのだから、是非に及ばぬ。それでも、 公女の押し付けは、まだまだよい方で、小糠三合の誇りのない大名気質で、かえって、 女尊男卑が、明治になれば新しがられるとでも思って済すこともあろうが、公子の押 付婿は真に悲惨事であった。強制されて、よんどころなく、至当な相続者を日蔭者に する苦しさ、ここに大名の悲しさをしみじみ感覚される。これがために奮起した。幾 多の騒動が内攻して、諸藩の沈痢《ちんあ》となり、病毒は久しく潜伏した。それが戊辰《ぽしん》を待っ て症状を暴露したのである。それは後日の物語。さて、当面は縁付かれた公子女が、 頻々として大奥へ出入りされる、その度ごとに、下賜品やら献上物やら、大奥女中の 爪さえ痛くなったという。それぞれに下される紙包、御目録一封なるものは、貨幣を |槌《しか》と奉書の包紙に貼付してある。頂戴した者は、一々爪でそれを剥がすのだ。爪の痛 くなるほど剥したとあっては、頂戴物の多かったのに驚かざるを得ぬ。哀れなる哉、 天降りの要婿を拝戴した大名の懐中。白羽の矢の立った大名は、それこそ前の世から の因果を持ち越したとも諦めさせようけれども、いい面の皮なのは三百六十余大名、 頭を揃えての献上物、それも内伺をする。何々を誰が献上してよかろう、という調子。 「御姫君様御事、此度山城守様御媒にて、大和守様へ御縁組御整、結納の御祝儀御互 に御めで度、さて、御道具も段々に揃ひまゐらせ候、御這子《おんはふこ》、御筒守《おんつつまもり》、御厨子《みづし》、黒棚 は河内守様より進じられ候、和泉守様には御長刀、摂津守様より御挟箱しんぜられ 候」(『女国尽』)、目の前に、手習師匠の書く女児の教科書を展開する。だんだんお道 具が揃ったところで、いずれも献上物、宛然たる本堂建立の状態。「御当代君御子福 者に渡らせ玉ひしかば、姫君方諸家へ御輿入あり、然共《しかれども》、御守殿と称せず御住居と名《なづ》 け、御婚礼と唱へず御引移といへり」(『即事考』)、のみならず、夫瘍《ようしよう》にも、御沙汰な しで夜間凌雲院へ運ぶやら、出産にも、御披露目りないのが多かった。実に、幕府はこ れらの臨時費に堪えなかったのである。しかし、献上物は堂々と貰う。子は自分で持 えても、嫁入り・婿入りの仕度は他人にさせる、都合は大変よろしい。心配がないだ けに、家斉将軍は子女を粗製濫造した。その証拠は、  年 号 寛政元年 同同同同同同同 十八七六五四二 年年年年年年年 家斉公の年齢  十七  十八  二十  二十一  二十二  二十三  二十四  二十六 子女 淑姫 女子 竹千代 敏次郎 男子 敬之助 敦之助・綾姫・総姫 豊三郎●格姫 同十一年 同十二年 享和元年 同 二年 同 三年 文化二年 同同同同同同同同 十九八七六五四三 年年年年年年年年 同十一年 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 五百姫 峰姫 享姫●菊千代 舘姫・死産 死産●時之助・寿姫・浅姫 晴姫 虎千代・高姫 岸姫 元姫 友松・文姫●保之丞 要之丞 艶姫・盛姫 乙五郎・和姫●孝姫 溶姫●興五郎 銀之助 同十二年 同十四年 文政元年 同同同同同同同 十八六五四三二 年年年年年年年 四十三 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十 五十一 五十三 五十五  これだけ多数の内に、成育して嫁取女したのは一一十五人に過ぎぬ。二人は堕胎し、二 十八人は成育しなかったのである。かくも粗製濫造したが、大名の献上品は、善を尽 し、美を尽し、精緻を極めた。イヤ極めさせた、この影響として、賛沢な品物を製造 し、販売する風を市井に残した。 琴姫・久五郎・仲姫 信之進●末姫 陽七郎・喜代姫 永姫・直七郎・徳之佐 恒之丞・民之助 松菊 富八郎 紀五郎 周丸 泰姫 活描せる 『修紫田舎源氏』  肥満した女の話、あの女が妊娠したらというのが、お耳へはいって、早速その女が 御用になったという伝説がある。それが二十一妾中の誰のことか知らないが、善意に 解すれば、子孫繁昌のために、多産の婦を求められたといえよう。けれども、家鴨《あひる》に 文庫を背負わせた見立がおかしいというのを興じて、それを孕まさせたとなれば、ど うだろう。随分物好きな十一代将軍は、面白半分であったかもしれぬ。今も、講淫の 書であるとか、ないとかいわれている柳亭種彦の『修紫田舎源氏《にせむらさきいなかげんじ》』、その主人公光 氏は、家斉公の面白半分の様子を描いたといわれている。寛政元年二月四日、家斉公 が十七歳で薩摩侯島津|重豪《しげひで》の女茂姫(定子《ただこ》)を迎えた。その年の三月二十五日に、第 一女|淑姫《ひでひめ》を、お万の方(平塚氏)が産んだ。落首に、「薩摩芋ふける間を待ちかねて おまんをくうて腹はぼてれん」とある。茂姫は、天明元年九月二十三日、西丸ヘ入輿、 それから九年目に婚礼した。桃栗三年柿八年、それより長い、達磨さんの少林住居、 だが、茂姫は寛政元年に十六歳、十四の春までは待つのが当然、天明六年九月には、 十代将軍家治の亮去、碁《き》の喪を果して、八年正月には皇居の炎上、待ちかねた最後の 二年と、いささか若い将軍様をお察し申すほどならば、なにも講淫小説の主人公だろ うと疑うわけはない。『田舎源氏』、しかも初編の開巻第一に、  花の都の室町に、花を飾りし一構へ、花の御所とて時めきつ、旭の昇る勢ひに、文  字も縁ある東山、義正公の北の方、富徽《とよし》の前と聞えしは、九国四国に隠れなき、大  内為満が娘にて、既に去る年御産の紐、安らかに解給《ときたま》ひ、男子儲け給ひしかば、昔  しに弥増《いやまし》、人々の尊敬大方ならざりけり。 とある。義正の夫人が四国●九州に隠れなき大名の女というのは、あたかも薩摩侯の 女茂姫に当る。茂姫は、寛政八年三月十九日、公子敦之助を産まれた。去る年お産の 紐安らかに男子出生、というのも肯われる。次郎光氏は義正の第二子、家斉将軍の第 一子竹千代(寛政四年七月十三日生、同五年六月、一十四日天)はお万の方のお腹、第二 子敏次郎(寛政五年五月十四日生)は十二代家慶将軍のことで、お腹のお楽の方(押田 氏)は、文化七年五月二十日に死去した。『田舎源氏』の花桐は、次郎君五歳の夏に 没したとあるが、お楽の方は、敏次郎君の十八歳の五月に、物故したのである。花桐 は丹波の郡司間島知義の娘、お楽の方は御小納戸《おこなんご》押田藤次郎敏勝の女、それも、寛政 元年十二月十九日、赤坂の御守殿種姫様御付から、御本丸|御中璃《おちゆうろう》に転じたので、待ち かねたという言い訳は相立たないが、すでに花嫁が来て十箇月、花七日の喩えも過ぎ たからでもあろうか、実は待ちかねるなどという神妙な人ではない。この赤坂の種姫 様が、「義正公には其以前、御世を譲らん御男子なく、義勝公の嫡女たる稲舟殿へ婿 君を迎へて、国家を譲らん契約、其後、義尚《よしひさ》、光氏《みつうぢ》始め、数多の男子を儲けられ、彼 稲舟は打捨て、、有るか無きかの微《かすか》の住居」(『田舎源氏』第六編)の稲舟らしい。種 姫は田安中納言宗武の第十四子、明和二年七月十五日生れ、十一歳の安永四年十一月 朔日に、十代将軍の養女になって、二十四歳の天明七年十一月二十七日、紀伊中将|治 宝《はるとみ》卿へ入輿された。十代家治公には、竹千代家基という世子(宝暦十二年十月二十五 日生)があった。明和三年四月には西丸大納言様で、種姫とは三っ違いなら、壼坂の お里のいわゆる兄さんなる者だが、四っ違いでもその意味に見られていたらしいけれ ども、当時分明に、大納言様御妹の御続きと発表されてある。家治将軍の世子は、安 永八年に十八歳で莞去され、第二子貞次郎も、宝暦十二年に生れて、翌年逝去された から、全く継嗣がなくなった。十代将軍は、二人のほかには、女子さえもなかったの である。家治公は吉宗将軍の嫡孫、嗣子として迎えられた家斉公は、一橋中納言|治済《はるさだ》 長職欧 煮雪苦 短 日! 4〜 勺 劃躰懸勢 麟の轟 Z 1… 【 家斉に擬した義正とお楽の方に擬した花桐(修紫田舎源氏) の第四子で、吉宗↓宗《むねただ》ヂ↓治済↓家 斉という継承。種姫は、吉宗↓宗武 ↓種姫という続柄である。こう見て くると、稲舟↓種姫を養った義止は、 家治将軍でなくてはならぬ。しかし、 花桐"お楽の方を側室とし、四国・ 九州に隠れなき大名から、富徽の前 "島津氏茂姫を迎えて妻とし、義尚、 光氏、その他の男子を設けた。特に、 「義正の側室数多ありて、男女の子 多く産めり」(『田舎源氏』八編)と もあれば、十代将軍らしくはない。 稲舟を「彼は我伯父義勝の遺子」と 光氏が言う。家斉公の父治済は宗丑ノ の子で、種姫の父宗武の弟である。 種姫H稲舟の父を伯父と呼ぶのは、治済でなくてはならぬ。なにも、直写したのでは ない『田舎源氏』の詮議に、そうまで窮屈に拘泥するにも及ぶまい。だが、義正H家 斉の子、花桐に産ませたのから考えて、光氏は敏次郎|家慶《いえよし》に当る。その光氏が稲舟と 密通したと『田舎源氏』では持えたが、敏次郎は種姫逝去の翌年生れたのであるから、 |見徳《けんとく》にもならない。この稲舟一件は、家斉将軍のことと断定したい。大体において、 義教11家斉、光氏H家慶ときわめられもしないが、巧みに紆余曲折して事実を匂わせ ながら、上手に忌誰《きき》を避ける。一人を一人に擬して描写せずに、数人の上に一人の話 を分賦した。たとえば、雲間の溝竜のごとく、首尾|爪角《そうかく》を随処に散見するまでで、決 して全形を露出させてはおらぬ。嫌疑を恐れたのみではない、実は詳しく知ってはい ないのである。ただ、当時盛んに風説された家斉・家慶両将軍の大奥談を、耳に任せ て聴き集め、それを手前料理にあんばいしたに過ぎぬ。風説だからといって、ことご とく捕風捉影とばかりも速断されない。けれども、奥詰を半日も勤めたことのない者、 あるいは、御広敷番《おひろしきぱん》などを幾年か勤めたにもせよ、お鈴廊下の向うの話を聞き込む便 さえないのでみれば、種彦が高屋彦四郎という、三百俵取りの小十人《こじゆうにん》であったという だけで、容易に信用されるわけのものでない。しかし、事実は別として、稲舟一件は たしかに風説されたものと思う。 春町の黄表紙  恋川春町の黄表紙『遺精先生夢枕《いせいせんせいゆめまくら》』に、「先若どの、おくがた十八にて後家となり、 いまださかりの黒髪をおしきり……」といい、「我ためにはまさしくあによめ」とい ってある女との密会、後の月見に座敷狂言を催し、家中の男女の見物を許した時に、 一件発覚に及んで、「言ひ名づけの聾丁七とのら、あるひは渡辺源五綱など、とんで 出て、此ありさまを見て歯をくひしばり、いかに御主人なればとて、ぬしあるものを ごんごどうだん……ところに家老大ぼしゆら之介」が来て取り扱ったとある。紀州家 老渡辺半蔵は、代々綱の字が付く。当時の半蔵は綱光といった。許嫁された婿は、い うまでもなく、紀伊家の十代|治宝《はるとみ》卿である。特に独居三年云々ともある。十代家治将 軍の世子家基は、安永八年二月に莞去され、種姫の縁組は天明二年二月であるから、 中間はちょうど三年になる。そして、その時十八歳であったが、家斉将軍は十五歳で ある。この黄表紙には刊行の年月がない。著者春町は、寛政元年七月七日に没してい る。『遺精先生夢枕』で、当代の内行を許発した罪科の申し訳に、切腹したという伝 説もある。何にせよ、この著述は、天明八年もしくは寛政元年の春に成ったのであろ う。天明七年十一月には、種姫が紀州ヘ入輿され、一年おいて寛政元年二月に、家斉 将軍が婚礼をされた。遺精先生が十七歳の姫君の婿になったというのは、新夫人|茂姫《しげひめ》 を指すので、「目かけとおもへど、粉糠《こぬか》三合だけにすこし遠慮して」、御付女中から二 人抜抽したというのも、一橋家からはいって宗家を継いだことを調したとみえる。捜 の腰元歌次や御持仏比丘尼《ごじぶつぴくに》とも通じたというのは、淑姫《ひでひめ》の生母お万の方が、種姫付の 女中から転勤したのに相当する。御持仏比丘尼は知らないが、御寝所を働くお伽坊主 へ手を付けられた話は、我等も祖母の口から聞いている。稲舟の正体はこれだ。しか し、十代将軍の世子夫人とするのはいけない。それは当時そう思われていたまでであ る。もとより、後家ではないから、髪を切ってはおらぬ。しからば、密会の事実があ るか、それは考究されていない。遺精先生が夜中に長局を巡回して、時によっては、 御末・御半下の部屋へさえも突入したとか、素肌に縮《ちぢみ》や繰子《もじ》の単帷《ひとえ》を着せて、犬の交 尾を見物させたとか、押褻《こうせつ》した婦女の総数が五十人に達したとかいうのと、一緒に留 保したい。『田舎源氏』の作者高屋彦四郎も、良死でないという。恋川春町も、切腹 したと伝説される。『田舎源氏』の引書目録の通り、『源氏提要』『源氏小鏡』『十帖源 氏』『をさな源氏』『源氏髪鏡』『紅白源氏』『雛鶴源氏』『若草源氏』『源氏若竹』『風 流源氏物語』『新橋姫物語』『源氏六条通』『弘徽殿《ころきでん》うはなり討』『葵の上』『弘徽殿鵜 羽産家《こうきでんうのはのうぷや》』等からのみ構思《こうし》されずに、『遺精先生夢枕』を見て発案したらしい。浜御殿 には宿泊されないのに、御座所に一個の枕があったというのでも、『田舎源氏』には 適当な材料である。十四五の時から六十九歳り}、七年まで、感心に好色本の種子を倦ま ずに持えた。普通に、この十一代将軍の生涯を三別する。初政の頃には、寛政の三忠 臣といわれて、松平越中守定信(将軍輔佐)・松平伊豆守信明(老中)・本多弾正少弼 (老中格)のお揃いで、後世にも好評の時代、天保八年四月西丸に隠居されてから、 案外な資料を芭死後に持ち越し、十二代将軍の時世に大葛藤を生じた大御所様時代、そ の中間が文化・文政度で、水野|忠成《ただあきら》が文化三年再び出でて、若年寄御奥掛りとなり、 九年、西丸御側御用人に遷り、十四年八月、御本丸を兼帯し、文政元年八月二日、老 中に進んだ。「沼津侯御側御用人なりし間は、多年屈伏して無きが如くなりしに、豆 州残して加判に登ると、権勢人目に輝く許りなりき」(『甲子夜話』)、忠成のことを用 いたのは、文化元年以降で、おもむろに権を君側に築き、かつ御勝手掛りとなって、 財政を掌中に収めた。その浸潤すること、決して旦夕でない。ただ、老中になってか らが目立ったのである。「水の出てもとの田沼になりにけり」といわれたのも、この 時であるが、「政苛《せいか》なるにあらず、自己を富さん計策にも至らず、花美の時破れがた く、温柔に過ぎ玉ひける」(『堀田甚兵衛記』)という評が穏当だと思う。女謁・苞萱《ほうしよ》の 盛をこの時に極めたのも、数多の寵姫が大奥に群がり、特に公子女の嫁嬰によって、 大名の格式競争を生じ、百方|蚤縁《いんえん》して格上げに熱中した。忠成は権力維持策として、 君側に党与を置く必要がある。それには、君寵ある者と結託するのが便利である。や がて、外問から、明らかに寵臣として、御側衆その他の奥勤めの人々を認め得るよう になった。寵臣の中にも、水野美濃守|忠篤《ただあつ》・中野播磨守清茂の両人は、最も顕著であ った。寛政六年六月、産後の悩みに倒れたお梅の方は、水野権十郎の妹で、その兄の ために末期のお願いに及んだ。そこで、権十郎の嗣子は、御側御用取次に進み、五千 石に加増された。それが水野美濃守である。中野はお美代の方の養父、一時は飛ぶ鳥 を落す勢いがあった。僅かに二人のことではあるが、適例として、この際の御役人様 を考えるに足りょう。まして公子女の要求は、たれ様御願い、なに姫君様御願いなる 者に至っては、十が十、百が百、ほとんどその全部が聴許されるのであった。水野忠 成は、その出願にも聴許にも働いている。「水野出羽守、政を取り候て、文政已来十 有余年之中に綱紀大に敗れ候」(川路聖謹『遊芸園随筆』)、すこぶる評判が良くない。 松平定信が早く退身したのは、尊号事件のために、大奥から駆除されたのである。そ の後を、松平信明がからくも支持していたが、これも大奥の圧迫でついに引退し、再 び出ても振わなかった。水野忠成は、死に至る上まで、大奥の歓心を失わなかったから、 威勢を墜さずにおった。大奥の強くなるのは、皿吊に内寵のためである。特に公子女の 多かったためである。その例は乏しくない。家斉公は、十五世の中で、賢明の方には いれる将軍様である。世間ではむやみに寛政の政績を感服して、後年は治平に狙《な》れ、 政事に倦《につ》んだという。松平定信の輔佐政治は、勘定合って銭足らずの懸念がある。か えって、松平信明の施政の方が妥当らしい。感服すべくば、むしろ後者にしたい。水 野忠成の大奥孝行、本人は、この他に内閣維持り方法はない、というであろう。この 人は養子だけに、自分の女房の取扱いから実験して、大奥孝行に成功したものしし思わ れる。膨《ま》れ物じゃあるまいし、何で家斉将軍が、倦むの潰れるのということがあろう。 一代の治績の好評を占めた、定信輔佐、信明執政の時にさえ、『遺精先生夢枕』の材 料、『田舎源氏』の骨子を持えた。弊根は夙《つと》に培《つらか》われている。死なざ止むまい漁色癖 だもの、 いかんとも仕方はあるまい。 外警|葎至《せんし》  露国使節レサノットの長崎到着は、文化元年九月七日である。この年五月十六日、 喜多川歌麿は、豊太閤の『醍醐看花図』を描きたる罪を問われ、入牢三日、手鎖五十 日の処分を受けた。これを、本年五月、天正以来の武者の名前・紋所等を顕し、また は紛らわしくして開板することを禁じた条令の違犯とするのは、請け取れぬ。玉山の 『絵本太閤記』も、この際|厳誕《げんけん》を得た。『浮世絵画人伝』に従えば、歌麿が法廷で自分 の画の典拠を彼に取った、と申し立てた、そのために、『絵本太閤記』が絶板禁売の 処分を受けたのである。それから、武者絵の制限を出したらしい。法令の方が錦絵よ りも後手であろう。一体、何故にそれほどまで、僅か三枚の錦絵を苛酷に扱うのか。 画中の豊太閤の五妻というのが、忌誰《きき》に触れたのではあるまいか。御台所|皇子《ただこさ》の北 政所《たのまんどころ》たるは疑いなく、他の五妻の、四ツ花菱の模様のある三条殿はおてうの方《さささ》(曾 根氏)なるべく、五曜の紋のかな殿はおるりの方(戸田氏)なるべく、丸に鷹の羽の 絵本太閤記 挿絵 紋所つけしお古伊の方はおやをの方(阿部 氏)なるべく、ただ橘の模様ある松の丸殿、 桜模様の淀殿の何人に擬すべきかを知らぬ。 されど、的指するところなきものとは思わ れぬ。「太閤|芳野《よしの》の花見の図、先年出せし 其時は、板元各を受けしよし、此度は出板 改なぐ、障もなければ売れもせず」(嘉永 元年『江戸噺』)、家慶将軍も内寵は相応に 盛んな方であったけれども、饒倖にも.一十 二妾の親を持ったので、世間に風聞されな かっ充、が、十二世の五妻五妾を算えるのは 造作もない。しかし、評判がないから売れ もした、い。お役人も目を光らせない。果し てしからば、文化度に大目玉を啖《くら》わせた密 旨は知れる。歌麿の一件落着はその年の七 月で、中間一箇月にして、レサノット使節は来着した。家斉将軍が千代田の後園に、 五妻とともに菊を賞しておられる時分である。わが漂流民を送還し来れる露国使節の 真意は、通商貿易にある。今やそのことの成らざるを知って、翌年三月、長崎を去っ た。あたかもこの頃流布した、   三月中、御勘定所御家人、なぐさみにこしらひたる戯文、其後、御用之書面に間   違差出候処、御附札にて下り、作者之衆中御答有レ之、右之戯文の写し、  一、近年引続米価安、諸家一統勝手向繰合差支に相成、おのづから農工商にも相響、   困窮仕候に付、御仁恵を以、種々御世話共有レ之候得共、兎角《とかく》直段引立不レ申、   弥増《いやまし》下落仕候に付、早速直段引立主法尚亦一同評議仕候趣、左に申上候、当時御   家人之内、至而忠信之もの一人御撰被レ成、右之者伝馬町に被レ遣入牢被二仰付一   候は父、天道無二其罪一を憐み、不時之冷気可レ有二御座一然上者、当田方《たうたかた》苗生立   不レ申、諸国一統不熟仕候、左候へば、米直段引立候者顕然之義に而、一人を罪   し諸国一統救之筋にも相成可レ申と奉レ存候、尤見越之義に御座候へ者、可レ然   被二思召一候は父、忠信之もの者、早々取調申上候様可レ仕候、此段奉レ窺候、本   文不時之冷気可レ有二御座一段申上候者、先年唐土燕之|郷術《すうえん》義、恵王に被二召仕一候   節、同役共議言仕、郷術を入牢被二申付一候節、同人仰天相歎き申候処、天道早   速土用中に霜を為レ降候段、書面に相見候に付、先例を以見合、本文之主法申上   候義に御座候。     子九月    御書取御附札   忠信之もの入牢申候は父、因縁と心得、仰天歎息不レ致候は父、右忠信者一人之   損失に可二相成一候は父、且引事燕国之義、R本と風土も違候訳有レ之候へば、何   れ試之上之事に被レ存候、併郷術程之忠信をえらみ候事、彼是可二手間取一哉、右   米価引上高等之義心付被二申聞一候者、則忠信に有レ之候。   先各方之内申合一人入牢致し候て、両年承.ためし方致し可レ然候、猶々得と勘弁   之上可二申聞一候事。    丑三月 という例の嘘讃《つくりぱなし》、何に興じてかくも該誰《かいぎやく》を極めているのか。長崎・江戸間に、ようや く早駕籠の数を減じただけであるのに、さても、官僚の末輩の心安さよ。レサノット 使節は、深く通商拒絶を憤慨し、随員クオストフ●タビドフの両人に船艇を与えて、 文化二年、樺太《からふと》に冠《あだ》せしめ、翌年九月には、択捉《えとろふ》を犯さしめた。蝦夷騒動は一時に全 国の視聴を從耳動し、辺彊《へんきよう》これより安からず、北警|淳《しきり》に至った。文化四年四月、幕府は、 仙台●会津二侯に、北彊の警備を命じた。魯冠が重ねて箱館を侵掠したので、老中堀 田摂津守|正敦《まさあつ》に、急に蝦夷を巡視させた。幕閣は上を下へと大混雑をやっていると、 八月十九日に、深川八幡の祭礼の群集で、永代橋が落ちた。「討死と落死とあるゑぞ と江戸ゑぞは箱だて江戸は箱崎」と暢気な落首が出来た。これは、箱館侵掠の際に、 わが警備隊に死傷があったのを引っ掛けたのである。文化五年には、八月十五日に、 英艦がほしいままに長崎港内に突入し、九年八月には、露人が三たび北地を犯した。 それでも、巣鴨染井の造り菊は大繁昌、音羽へ玉水簾という大滝が持えられて、この 新しい遊園も賑わしい。十年にも、露艦四たび北地に来り、前度の剰掠《ひようりやく》を謝し、彊界 測定の交渉を始めた。十四年九月、文政元年の五月、五年四月と、三度英艦が浦賀へ 来航した。求むるところは、通商貿易である。けれども、人心|悔《きようきよ》々としたらしく《う》|も ない。文政五年の春に、葺屋町河岸へ唐人踊の見世物、これが大入り、それから八百 八町の大流行となって、子供等までも、カンカンノウをおもしろがって踊っていた。 七年の四月には、英艦の宝島(薩摩)来冠があったのみならず、東海に出没して、黒 船の怖しさを見せ付けた。家斉将軍は、化政の間に、右大臣となり、左大臣となり、 太政大臣となって、三度も大饗宴を催し、生父一橋|治済《はるさだ》卿の准大臣饗宴もあった^り京 都から楽人●伶官を請うて、管絃の会もした。相撲の上覧もあった。浜御庭のお遊び も度々あった。中にも、文政九年八月二十一日、御台所|官《ただ》疋|子《こ》とともに、当処ヘ舟遊び された。七十五挺立の天地丸は、多事なる十一代将軍を載せて、秋の日和を波静かに 往返された。この日の記文は、『千世の浜松』という御台所のお筆に成ったのがある。 『田舎源氏』は、何故かこの光景を採用しなかったが、源氏絵という例の錦絵は、猶 予なく竜舟鵡首《りようしゆうげきしゆ》を描き出した。この時のことであろう。庭中の土手へ多数の銀煙管《ぎんざせる》 を樹《た》てて蕨《わらぴ》に擬し、侍女の采《と》るに任せたという伝説がある。婦女の得意になる時は、 華美の生活をする時なのである。派手な生活、やがて放縦にもなる。享和に延命院事 件あり、天保に智泉院事件あり、その中間の文化・文政には、ただ暴露しなかったの みで、鼠山の感応寺をすぐに破殿しなければなら、ぬ状況に立ち至ったのも、大奥女中 と僧侶との穣行《あいこう》からである。辺彊の警といっている内に、江戸湾へ英艦が乗り込んで も、腹の中が太平である、時世に頓着はすこしもない。楽翁は「此の船の寄すてふ事 を夢の間も忘れぬが世の宝なりけり」といわれたところが、何の対策があったろう。 何故に、この頃しきりに、外国の艦船がわが港湾に来るのであろうか、通商修交、開 国の問題は提出されている、下手の考え休むに似たり。夢の間も忘れないとして、黒 船黒船と思案ばかりで何となる。民間では、佃節やら潮来やら、また文政には、「花 の盛りに向島、不二と筑波をかざし草、すだの渡しの夕景色、鳥も埼《ねぐら》を急ぐ頃、鐘が 憎いぢやないかいな」(『巽の四季』)てなことを唄って、安全第一とも思っておらぬ。 さすがに家斉将軍は、辺警の至るごとに、通宵睡らず、沈思されたという。心配苦労 がないでもないのを、無理に浮世にしてしまって、ただ享楽を続ける分別とも思われ ないものの、奮発して百年の大計を立てるでもなく、思案勉げ首の渋面でもなく、結 局楽しい月日が多かった。それでも済んだ徳川十一世の生涯、とてもかくても、めで たかりける時とかやで、お祝の能は収場されるものである。