希有の女スパイ 三田村鳶魚 内命を受けての赴任  明和七年の京都町奉行は、東が酒井丹波守(二条南神泉苑西)、西が太田播磨守(二条西千本 通角)でありました。太田は昨年から仙洞御所御造営を承りまして、二年越しで漸く|御出来《ごしゆつたい》にな り、その方が御用済みになりましたので、月番も勤めるようになりました。これで東西両町奉行 ともに公事訴訟を取扱う常態に復しましたが、それまでは二人で負担する京都町奉行を、一人で 引受けていたのですから、勢い手廻らないわけにもなります。 間もなく年も暮れて、明和八年の春になりました。穏かな町々の有様、物静かな土地だけに、 景色も忙しそうな眺めはありません。事もなげに見える中に、禁裹役人の私曲が募って行くのを、 両町奉行が心付かなかったのでもありませんが、多少怪しいと睨みはしても、御場所柄だけに容 易に手が付けられない。殊に去年十一月二十四日に御譲位がありまして、後桜町天皇は新しく御 造営にたりました仙洞御所へ御移りになり、新帝後桃園天皇は、幕府の名代をはじめ、諸大名か らの慶賀を受けさせられ、引続いて御即位の御式も挙げさせられます。洛中の賑い、事の紛れに 一年を過し、安永元年になってしまいました。  西の町奉行太田播磨守は、安永元年九月小普請奉行に転任し、跡役の長谷川備中守は僅か十箇 月勤めて、二年六月に病死しました。そこで七月になって山村信濃守が就任しまして、二年間に 三人も替ったわけです。東は酒井丹波守が明和七年の六月から勤役して居りましたが、安永三年 三月に死去しましたので、赤井越前守が跡役になりました。こういうわけでありまして、西の町 奉行太田播磨守は、先任故参で長く勤続したようでも、足かけ四年にしかなりません。西の方は 席の暖まる暇がないと形容されるべきほどに、頻繁に替りましたから、何分御奉行の尻が落著き ません。  山村信濃守は名を|良旺《よしはる》といいまして、信州木曽御関所預り、交代寄合山村甚兵衛の分家で、五 百石の家柄でしたが、早く御小姓になり、御先手頭から御目付を経て、京都町奉行になった人で す。この山村信濃守が赴任致します際に、幕閣は特に内命を授け、「近年禁裹御所方御賄入用莫 大にして、年々御取替高多く、是全く御所役人共、非分の義有レ之と相見え候得者、其方宜敷相 糺すべき旨」を命ぜられたのでありました。  京都町奉行が禁裹役人の私曲増長を怪しく眺めながら、三四年も手を著けずに置いたのを、山 村信濃守に機密を授けて、愈々|宮培《きゆうしよう》の内の罪悪を訐発しようとするのです。従来手が出せなか ったのは、御賄所が宮廷にあって、そこで事務を扱い、役人は全部|公家侍《くげざむらい》でありますから、町奉 行所属の与力同心では手が著けられません。手元や目明しといったような者の遣いようがないの ですから、証拠を握る方法がない。まして如何なる方面に如何なる関係を持った犯罪であるかが 知れないのですから、迂潤に騒ぎ出せば、町奉行などは造作もなく抛り出されてしまいます。の みならず公家から幕府へ難題を持出される筋道にもなりますので、もしそうなれば町奉行一分の 失錯どころの話ではたくなります。こういう危殆がありますから、事件に対して逡巡するように ばかりなって居ったのです。 誑しい連年の御用金増加  京都町奉行山村信濃守が赴任の際に、禁裹役人検挙の内命を受けましたのは、決して特別な任 務ではなく、実は当役としての本職なのであります。京都町奉行の職掌の専要は凡そ七項ありま して、   禁裏御所々々の警固、所司代の御下知を以て勤む、所司代参府の時は、是に替つて相勤る義、   御役の第一也。   |抑所《そもそも》司代の御役義は、禁裏守護におよび、西国三十三ケ国の藩鎮則探題の重役也、此下に   随ふ御役なれば、西国一締りの義に携り、万端米穀の豊凶等の儀迄も心を及す儀、御役の第   二也。   所司代御参府の節は、御朱印を預り奉り、且|御教書《みきようしよ》も護持奉り、洛中事あらば、諸大名を招   き集めて、禁裏を守護す、是御役の所詮にて、御治世においては、禁裹御所方御賄等の義、   平日町奉行の司る所にて、御物入の増減迄|委敷《くわしく》扱ふ、是御役の第三なり。   五畿内の寺杜御朱印を指揮す、尤寺杜奉行兼帯し、諸宮門跡たり共、皆町奉行の下知を聞く、   是当任とする所にて、御役の第四也。   山城大和近江丹波の四ケ国は、京都町奉行の支配にて、公家領諸大名領寺社領たり共、大と   なく小となく、皆当任の取捌く所にて、第五の御役也。   摂家宮方清華の御方堂上方共、|都《すべ》て御行跡其外何によらず、所司代の御目に止めらる、事な   れば、町奉行も平日其品を聞合せ、所司代へ申す、尤諸願ひ万事は伝奏を以て所司代へ申す、   所司代より町奉行へ調べ仰付けらる、諸奉行其品を糺し尋ねて、其善悪を所司代へ告る故、   摂家たりとも町奉行をかろしむること能はず、おのづから威勢は遠国諸奉行の上にたつて、   高位高官の人も恐れをなすの御役なれば、常に其身を慎しみ、政務の正路を専らとすること   肝要にして、則三十三ヶ国の手本なる義、御役の所にて、上方御代官も支配する事、御役の   第七なり。 ということになって居ります。禁裹御賄所役人検挙の如きは、当然の職務であり、殊に皇宮会計 の検査は当役の責任事項でありました。  当時禁裹御料は山城、丹波のうちで三万石でありましたが、それは御代官小堀数馬が取扱いま す。小堀は月々の御勘定を帳面に仕立てて、町奉行へ差出し、町奉行は一々算当しまして、相違 なければ所司代へ進達致します。それを所司代から江戸へ上申することになって居りました。と ころが明和の末から月々の御物入りが多くなりまして、御料では支払いが出来ず、始終御不足で ありました。拠どころありませんから、御取替という名義で繰り合せて置きますと、その秋の御 収納は直ぐその冬から春までの御用途になりますので、幕府の金庫から支出した御取替金は返り ません。いつも御不足の場合には、実は幕府が献金して補充して置くのでありましたが、名目だ けは御取替として、皇室の御会計へ御貸し申す体裁にしてあったのです。 この時は御即位式やら、仙洞御移徙やらで、臨時の御物入りもある筈ですから、大体に御察し 申上げて御取替をして居りましたが、それがその後も止みませんで、頻りに臨時御用が続きます。 幕府は不審を起して、所司代を経て禁裹御付から御賄所へ警告しましたが、そうするとその翌月 は前々よりも御支出が多かったので、その後は幕府から何等の沙汰をも加えませんでした。実際 上々に御入用があるならば、幕府の沙汰の限外でありますが、果して上々の御用途が増したのか どうか。御用途は増加したらしくはありませんが、御不足の場合は御取替で補填されて往くので、 それに何の察度もないのですから、実際の支払を担当している御賄所の者どもは、御買上品に二 重証文を商人から出させたり、値増しをした買上書を出させたりして、御勘定を掠め、各自の栄 耀歓楽にしているという評判が立ちました。この評判が誣説であるか、事実であるかはわかりま せんが、小堀は御賄所の報告によって御勘定帳を持える。町奉行は計数を算当するまでで、御買 上品に就いて一々突合せをすることがないのですから、数量や品質は全く知れません。それでは 代金の正否が吟味されぬわけなのです。  幕府は或は上々の御用途の増加であろうも知れぬ、そうならば已むを得ない事柄だとも考えま して、遅疑して決し難かったのですが、何の理由もなく、一時の事でなく、連年御用途の増加す るのを|誑《いぶか》りました。そのうちに上々の御用途増加ではない、御賄所役人の私曲だと聞きまして、 もう猶予することが出来なくなりました。  愈々山村信濃守の職務に属する権限に従って、その才能を発揮すべきを命じました。城狐社鼠 に喩えられる君側の奸人、器量の小さなやつは国を誤るほどの事は出来ないにしても、御用途を 掠めるくらいはいつも遣るものです。-是非とも悲劇に終らなければならぬ女スパイの登場は これからであります。 反間苦肉の一策  時は明和、安永、幕閣は田沼主殿頭意次の一人舞台でありまして、賑々しい都会政策は、並木 桜の花盛りのように見えます。破格な登用による種々な新人物が表面に現れて来まして、その頃 目立った山師、ケレン師の外に、退屈した世間を脅しもする頃でありました。  内命を受けて赴任する山村信濃守は、一切を胸底に収めて、黙々として著京しました。内命の 次第を知っている者は、幕閣からの通達によって所司代土井大炊頭|利里《としさと》ただ一人であります。山 村は同僚の東町奉行酒井丹波守にさえ漏しません。もとより隠密の御用なのですから、手付の者 にも云わないのです。組下の与力同心は、いずれも数代京住の|輩《やから》ですから、如何なる縁故があっ て、御所役人へ漏洩せぬとも限りませんので、その辺の遠慮から頗る忌避しまして、一件聞合せ のために、江戸から小十人衆、御|徒《かち》衆が内々で上京し、横目というので御小人衆も入洛して居り ますのを、組下の者どもに感知されぬ用心までして居りました。隠密御用で入洛した連中は、夜 陰人静まった頃でなければ、山村信濃守のところへ忍んで来ることを致しません。こうして著任 後の半年間、江戸から隠密御用で来ている人々と共に、懸命な捜索に力めましたけれども、何の 甲斐もないので、さすがの山村信濃守も手段方法に尽き果てて、命令の仕様もなく、隠密方も工 夫才覚が断えて、献策する者もなくたってしまいました。  今度上京した御徒目付の中井清太夫は、河内楠葉の郷士の伜でありましたが、親父の仁右衛門 が当世向の利口な男ですから、如才なくその向々へ取入って、清太夫を御普請役(四十俵五人扶 持)に採用して貰いました。微禄であるにもせよ、河内の在郷から出て来て、大名衆に抱えられ るどころの話ではない、新規御召出しというので天下様の御家来、御直参に有付いたのです。才 覚者の仁右衛門の伜だけに、清太夫も才走った上手者でありまして、身上も富裕ですから、賄賂 も惜し気なしに遣う。忽ちに御徒目付百俵五人扶持に進みました。御徒目付は骨の折れる役です が、その代り働きぶりも見せられる。御用向が広く、何に限らず勤めて出たければなりませんか ら、この場は御目付支配の中での大役で、励み場と申して居りました。殊に遠国御用、御庭向な どの|御直《おじき》の隠密御用では、器量次第、手柄は仕勝であります。清太夫も今度の上京には御勘定の 格式でありまして、これは百五十俵、御目付と同等で、この役から御旗本の列に入るのですから、 出世が目の先にぶら下っているようた気もしましたろう。清太夫はここで反間苦肉の策を立てま した。  内命を受けたからには、何とも手の著けようがございません、まだ詮議の目途も立ちません、 と云ってはいられない。今日の役人なら辞職でもすれば、如何にも責任を重んじたらしくも見え ましょうが、山村信濃守はあいにく昔の役人です。勿論幕府には武士でない役人は居りません。 武士は軍人ですから、一度畏りましたと引受けた以上、辞職や免官で済まそうとは思っていない。 朝日将軍義仲以来、天下に驍勇を知られた木曽生れで、別けて武功に誇る山村一族が、自分を見 立てて特命された御用を欠いたとあっては、一身の不面目であるのみならず、一門の名折れ、祖 先の恥辱になりますから、申訳には腹一文字に掻切ってと覚悟はして居ります。生甲斐のない自 身が惜しくはないけれども、御受けした御用を欠くのが残念だ、武士の|廃《すた》るのが無念千万だ、と 信濃守は苦悶に堪えません。それと並んで焦躁するのが中井清太夫で、上京の際に格別な優遇を 受け、御眼鏡で選任された隠密御用、出世が目の先にぶらぶらしているように思ったのに、知れ ません、わかりませんでは江戸へ帰れない。|切刃《せつぱ》詰った今の今、清太夫のように才走った、立身 出世の外には何もないような男でも、温い血の通う人間に相違ないだけに、さもさも苦しげに、 喘ぎ喘ぎ一策をすすめたのであります。  清太夫の故郷である河内の楠葉には実弟万太郎が居ります。この万太郎に当年二十一歳になる 娘がありまして、美人でもあり怜悧でもありましたが、その頃にしては嫁期を逸して居りました。 申分のない女であるのに、何故か縁遠い。その縁遠いのを疵にして、持参金を多く付け、御所役 人へ嫁に遣る、というのがその一策なのです。公家の諸太夫などという連中は、貧乏は江戸の御 家人と同様ですが、根性の綺麗でないことは比較になりません。女房食いは殆ど常習になって居 りますので、田舎の物持から来る持参嫁は、彼等が大喜びで咽喉を鳴らす代物でありました。 清太夫は伯父が一期の浮沈、中井一家の與廃、さては大切な隠密御用の次第を、委細に申含め て姪を縁付ける。これは女探偵の嫁入でありまして、妻になって夫の悪事を探るのですから、思 えば人倫を破壊する運動であります。差当って伯父が姪を残虐するわけで、当人が不便なばかり ではありません、決して許容すべき筋ではないのですが、何にしても幕命は重い。殊に上御一人 を掠め奉る滔天の罪悪は、もうこれより外に|対治《たいじ》する方途がないのです。信濃守も清太夫も共に 幕府の家来ですから、清太夫が骨肉の情を忍んで、姪女を棄てる覚悟をしたのに、信濃守が御忠 節と知りながら、人倫を破壊する所行を許したという非難を恐れて、躊躇するいわれはありませ ん。自分も清太夫も人外となって、幕命を空しくせず、武士の意地を立て抜き、禁裹に潜んで上 御一人の御為にならぬ奸邪の者どもを|取挫《とりひし》ごう、と漸く決心致しました。そこでスパイの嫁入に よって、捜索を遂行する打合せ万端を済ませ、信濃守は委細を所司代土井大炊頭へ上申し、江戸 から来ている隠密御用の面々を帰東させることにしたのです。 加筆入墨による請取書変造  中井清太夫は隠密御用の面々と共に、五十三次の駅路恙たく江戸に帰りまして、安永三年の春 を迎えました。女スパイは清太夫が退京しますと、間もなく縁談がととのい、禁裹御賄所役人の 妻になりました。それから半年たって、京の姪から江戸の伯父へ文通がありましたが、機敏な彼 女は清太夫に快心の眉を開かせました。  御賄所役人の私曲は宝暦の末からの事で、最初は銀高百目と纏ったことをせず、漸く十匁を二 十匁、二匁を三匁と目立たぬように、諸買物の請取書ヘ入筆するので、請取書の書き方が入筆改 竄するのに都合のよいのがある度毎に、手加減をしたのですが、それは金高が少かったからでも ありましょう、御代官や町奉行の眼に付かなかったのです。泥坊役人等は久しく入筆改竄が知れ ませんので、だんだん大胆になりまして、先年来は増長して入筆が甚しくなり、多額な金銀を御 代官から受取って、」同に配当している。今年因幡薬師の御戸帳を御寄進になった時、飯室左衛 門|大尉《たいじよう》は多分の金子を得て、島原の太夫若紫を受出したともいい、駈落させて、その後の扱いに 大金を出したとも聞いている、ということでありました。清太夫は早速向々へ諜報の逐一を申告 し、密々に京都へ急行しまして、山村信濃守へ委細を達する一方、任務を果した姪は病気を云立 てに生家へ帰り、急いで離縁してしまいました。  山村信濃守は直ちに活動を起しまして、手付の者をひそかに因幡薬師へ遣し、御寄進の御戸帳 を引上げましたが、事の漏洩を揮って、一山僧侶の禁足を命じ、厳戒によって、一切外間との交 通を絶ちました。町奉行所へは時を移さず、三井三郎助、島田八郎左衛門の呉服方手代を召喚し、 御戸帳を評価させますと、手代どもは銀一貫二百目ならば何時でも調進致します、と答えました。 よって御代官小堀数馬を招いて、御賄所役人から提出した因幡薬師御戸帳の請取書を調べました ところ、代銀十二貫二百目とあります。それという間に御戸帳を調進した町人某を召捕りました が、その申口によれば、代銀二貫二百目で御引受致し、その通りの請取書を、御役人中御したた めなされ、調印致したに相違なく、全く十二貫二百目の請取書ヘ調印致した覚えはございません、 というのです。そこでこの度御吟味につき、評価を申付けたところ、一貫二百目ならばきっと|出《しゆつ》 |来《たい》致す趣であるのに、二貫二百目で納入したことは、暴利を貪るに紛れもない、これにも申訳が あるか、と尋問しますと、その答弁に、平日の付届、時々の無心が多く、左様に高値に売上げな ければ、御所方へ調進する職人商人は立行き難きよしを申立てましたので、贈賄のために高く売 る、不正な商売をする老どもとあって、入牢を申付けました。 これで御賄所役人の加筆入墨による請取書変造の罪科は明白になりましたから、即夜禁裹御付 ——これは秀忠将軍の時、朝廷からの御請求によって設けられた、皇宮警察官とも申すべき役柄 です——水原摂津守、天野近江守へ達し、召捕方を指揮して、飯室左衛門大尉以下を揚り屋へ入 れ、吟味の次第は伝奏を経て、近衛関白へ上中し、勅裁を仰ぎましたところ、然るべく武家にて 仕置致すように、との御沙汰を拝しましたので、山村信濃守は禁裏御付天野近江守を立合として 一件を審理しました。いずれも加筆入墨ですから、納入商人と突合せれば、どんどんと片付きま す。安永三年八月二十七日、左の通り処分されました。   牢屋敷に於て死罪、田村肥後守、津田能登守、飯室左衛門大尉、存命に候へば同罪、吟味中   死、西池主鈴。   遠島、高屋遠江守、藤木修理、山本左兵衛、山口日向守、関目貢。   中追放、渡辺右近、本庄角之丞、|世続《よつぎ》右兵衛、久保田利兵衛、佐藤友之進、小野内匠。   其外洛中洛外並江戸構余多。   死罪の者伜は遠島、十四歳迄親類預け。   遠島の者伜は中追放、右同断。 永久に知られぬその名  これで一件は落著しましたが、次いで所司代土井大炊頭は山村信濃守、天野近江守へ左の通り 訓令致しました。   御所役人取次以下、私欲の筋、此度吟味の上、夫々御仕置仰付られ候、一体御所向役人共、   風儀宜しからず、私曲の儀をも前々より仕来りと心得違ひ、不法の儀ども多有レ之趣に付、   以来御取締方の儀、両人申渡、是迄の仕来りにても宜しからざる儀は相改、御所役人共、不   正の勤方、正当に相成候様取計、都度々々御入用向の儀は、向々より所司代へ申立候分、何   事に依らず、両人へ|相達《そうたつ》あるべく候間、吟味いたし、存寄の趣申達せらるべく候、之に依て   江戸より禁裹御賄頭一人、並勘使買物使兼役の者二人、仰付られ指遣はされ候、軽き役所ヘ   は信濃守同心三人出役の儀、猶御入用筋吟味として御勘定奉行支配、京都取調役仰付られ遣   はされ候間、諸事両人の手に付、指図いたし、御取締宜敷様申談取計はるべく候。  御賄所は大改革が行われ、禁裹の会計出納は幕府の手で取締ることにしました。京都町奉行、 禁裹御付が監督するのみならず、禁裹御賄頭には稲生金八郎、御取調役には佐久間甚八、若林源 内、勘使買物使には木村|周蔵《ちかぞう》、保田定平が新任されて著京しました。江戸役人は御所役人と入混 りになって執務するようになり、これまでは|地下《じげ》役人が御付の武家より上座して、何事にも差図 をしましたが、今度から地下役人は一切武家支配ということに定められたのです。  この御賄所改革によって、禁裏の会計は急に潤沢になりました。外間から手の著けられないの を得意にして、何ほど御所役人どもが御手許を御窮屈にしたでしょう。それは幕府の御仕向けが 宜しくない、徳川氏の罪悪だとさえ云われましたが、御料の少いことを十分知っている御所役人 どもが、その上に私曲を働く。彼等は何という|罰中《ぱちあた》りでありましょうか。御場所柄として、何時 もこうした人非人がそこから出たがるので、大きいのは君側の姦俵、小さいのは|御榻《ぎよとう》に近く住む 鼠賊であります。  身を犠牲にした中井清太夫の姪、彼女がなかったら禁裹の御掃除は出来ません。山村信濃守の 忠節に対しては、後桃園天皇は良旺の取はからいよろしきよし御感あって、骨折出精の段を御賞 美になり、品々の御下賜がありました。それで幕府も面晴れがしたのですが、それほどの女であ っても、名をだに伝えて居りません。誰の妻になったのかも知らせない。まして離縁して父母の 家へ帰った後の消息は全く絶えて、事跡は尋ねようも知れようもないのです。  私どもは女探偵の働きを、本件の外に一つ知って居ります。それは谷中延命院一件に出て来る 寺社奉行脇坂淡路守の家来某の娘で、尼になったともいわれ、自殺したともいわれて居りますが、 その名も知れません。この中井清太夫の姪と全く同様であります。私どもは痛ましいその人の成 り行く末を知りたくありません。昔から極秘にされ、つとめて知れないようにしたのは、一般の 同情が然らしめたのです。我国の婦女は男子と採算的にその貞操を保つのではない。人に対し事 に対して考えては居らぬので、如何にしても保持すべきものとして居ります。ここが全く別段で ありまして、世界中に無類なわけであります。  探偵というものは、仕事の性質からして闇中の作業になりますので、周囲が明るければ自分の 身体だけでも暗くしたがる。我国には従来裁判小説はありましたが、探偵小説がなかったという ことは、国民性を考える者の逸し難いところであります。喜べないもので欠き難いものは少くあ りません。世間に獄舎があり、家に雪隠があるようなものですから、已むを得ない作業としての 探偵を拒もうというのではありませんが、その闇中に働く暗い影、黒い人、そういう姿にまで女 性を頼むのは、あまり男性が役に立たな過ぎるではありませんか。真に男子は役に立たない。こ こから出て来る女探偵——ー御所役人一件にしろ、延命院一件にしろ、彼女二人は何を以て成功し たのか。痛ましい姿にならなければ成功せぬ女探偵に対して、私どもはその成功を褒める心持に はなれないのです。また彼の二人も成功に誇ろうと思って、難儀な役目を買って出たのでは毛頭 ない。全く切ない、苦しい義理に殉じたのであります。その義理立ての美しさ、その心根の愛し さに、悲しい自己を隠したい気持を、何で押破ろうとする者がありましょう。悲劇の主人公達も、 その辺の御心配は無用であります。