水茶屋の女 三田村鳶魚 正札のない売笑  蔵前に青我《せいが》という水茶屋があって、そこに二十四五になる小意気な女が居りました。ところが 例の並木五瓶、あれはなかなか女好きな人でもあったのですが、この青我の女が馬鹿に気に入っ た。五瓶は大門通の高砂町の家から、浅草の観音様へ日参をする。長い間、日参をしているうち に、この女が目についたのですが、この女が目についてからは、半日ずつその水茶屋にいるので、 そのことは誰も知っているようになった。そこで或人が、大分御熱心のようですが、女が承知し て御手に入りましたか、と云って聞いたところ、五瓶は、いや、半日ではどうもものにならない、 一日付きっきりにしたら、ものになるかも知れない、と答えたという話が残って居ります。併し この女は、月囲いにすれば三分で用の足りる女だったのです。寛政以前に在っては、行燈にコ ぷく一銭」と書いて置く位ですから、置く茶代もきまりきった話でありましたが、五瓶がここヘ 通う時分は、もう文化度でありまして、懸行燈にも「御休所」と書くようになって居りますし、 殊に町中の水茶屋ですから、八文や十六文置いて行く者は無い。どんなに少くても五十か百、場 合によれば一朱も二朱も置いて行くことがある。五瓶は女の内情を知らないから、毎日大変茶代 を張込んだ。一年分も二年分もの囲い賃を茶代にして、猶且ものにならなかった。何しろ正札の ついていない女なので、こういう御愛敬がある。それに五瓶は上方者で、江戸の事を知らないか ら、こういう風にもなったのです。  水茶屋の女が月囲いでいくらという相場の出来ていた時代、五瓶が蔵前の水茶屋で浮かされて いる頃、芝の宇田川町へ若鶴、白滝という水茶屋が二軒出た。ここなどでは大分烈しいので、ち よっと転ぶのが三分、月囲いが五両ということになって居りました。水茶屋の姐さんだか、私娼 だかわけがわからたい。ちょっと転ぶのが三分などというのは、随分高い値段で、入山形《いりやまがた》に二つ 星という吉原の一番上等の華魁が、一両一分、その次の入山形に一つ星になりますと、三分位の ものである。然もこの位の華魁は、吉原にそう沢山いるわけではない。一枚絵とか、華魁絵とか いうやつで、世間へ出てもいれば、相当に名も知られている女なのです。水茶屋のチョンの間三l 分の連中などは、無論そんなものじゃたし、何という女だか、名前も知れていない。けれども正 札のついている華魁の方は、上等のでも割合に安いのに反し、水茶屋の女は、それほどでもない のに、割高に売れるということになる。こういうことは、この時代の様子をよく見せていると思 います。  そういう風でありますから、町々に出来る水茶屋の多いこと、通筋になると、一町に五六軒位 ある。そうしてそれは腰かけて茶を飲むだけの御客さんは下等なので、いずれも茶酌女が酒の相 手に出て来る。従って出茶屋と云って、葦賓張などは市内にはありません。皆居付の茶店で、今 日の喫茶店と思合せて見ると面白いと存じます。尤もこれはもう少し前、安永五年版の「風俗問 答」にも、「大和茶御休所は酒を第一とし、美人即|当廉《あいてになる》」と書いてありますから、化政度には じめて出来た話ではない。大茶屋、小茶屋ということは、随分古くから云って居りますが、水茶 屋は勿論小茶屋なので、葦篭張の出茶屋で、朝出て行って暮方には店をしまって帰るというもの、 上方で云う掛茶屋です。その一番古いのは神社仏閣の境内、1浅草とか、愛宕とか、神田、湯 島、市谷と云ったような場所には沢山ありますが、市内としましては、芝居の付近にあるのが早 かったのだろうと思う。享保十年二月四日に、木挽町五丁目の芝居町の河岸通に水茶屋が三十五 六軒ある、その水茶屋から町奉行に対して出願したのによりますと、従来日覆小屋掛で、日中だ け商売をして、暮方には家に帰るようになっていたが、今度芝居が土蔵造りになったから、水茶 屋ど屯も塗家に致したい、ということでありまして、それがその月の十八日に許可されて居りま す。これが定店《じようみせ》になったのでは、一番早かったろうと思います。これは芝居を見物する人々の世 話をする、後の芝居茶屋なのですが、それも享保の初めまでは出茶屋であったのです。 おろくを真似る  その次は享保十八年に、嵯峨の御釈迦様を江戸へ持って来て、回向院で開帳があった。元文四 年には信州善光寺も回向院で開帳して居ります。この両度の開帳によって、両国の川端へずっと 水茶屋が出来るようにたった。それから広小路の方にも大和茶屋が出来る。これが市街の中に水 茶屋の出来る二番手でありまして、同朋町にいた源七という上方者が、目論んだことから起った ようであります。上方には早くから出茶屋もあり、居付いている茶店もありましたから、それを 江戸へ移したものでしょう。  だんだん町の中に出茶屋でない水茶屋が出来て参りましたのは、宝暦以後のことで、町々の而 も通筋に、一町のうちに五軒も七軒も水茶屋があるようになったのは、化政度になってからであ ります。その水茶屋の女で名高かったのは誰かと云いますと、浅草寺の地内のごふく茶屋に、湊 屋おろくという女が居った。これは宝暦度の女ですが、この女は結び髪が上手で、その結び髪が 一種の流行になりまして、江戸中の水茶屋の女は多く結び髪にする。おろくの真似をするように なった。のみたらず深川の八幡前の女たどは、髪をぐるぐる巻にして、櫛巻の湯上り姿でいたの が賞翫だと云われたのも、この湊屋のおろくの影響であります。浅草と申せば、江戸の水茶屋と しては一番古いので「ごふく茶屋」というのは、御福の茶屋、又は呉服の茶屋とも書いてありま すが、元来は御仏供《ごぶく》の茶屋、即ち観音様へ上げる御茶という意味のものだった。目黒のごふくの 餅などというのも、やはり仏様へ上げる餅で、御仏供の餅から転じて来ているのです。この水茶 屋は三十六軒ありましたから、歌仙茶屋と云ったこともあります。それが享保には二十軒に減っ て、二十軒茶屋と申すようになり、文化度には十六軒、天保度には十軒という風に、だんだん少 くなって行きましたけれども、まだ二十軒茶屋の称は残って居りました。尤も浅草の茶屋は、こ の二十軒茶屋には限りません。並木や広小路にも沢山茶屋がありまして、明暦二年の「滑稽太平 記」の中などには、駒形の茶屋に女の牛鬼が出る、ということが書いてあります。「煎鑑]に建 長三年三月六日に、武蔵国浅草寺へ牛のようなものが忽然と現れ、寺の内を奔《か》け走った、その時 に寺僧が五十人ばかり食堂にいたが、その怪獣を見て二十四人が立ち所に病気になり、動けない ようになり、其中の七人はびっくりして即座に死んだとあります。林道春も「丙辰紀行」に「む かし此所より牛鬼の出て走りありきしことを、不図おもひ出て、馬こそ大士の化現《けげん》なれ、何とて 牛は出けるぞとをかしかりき」と書きました。そんな獣のことを持出すほど、怪しいのが明暦の 駒形にいたと見えます。「紫の一本」の中にも、天和の並木の茶屋の様子を書いて、いろいろ女 の名前を挙げて、面白く遊べたことが書いてある。昔からそういう風でありました中に、おろく が結び髪で名を取ったなどは、如何にも穏かな往き方で、宝暦の水茶屋女が、さまでに世の中で 引立ったものでなかったことも窺われます。 笠森おせん  それが明和度になりますと、明和の三美人と云われた二十軒茶屋の蔦屋およし、その外に名高 い堺屋おそでなんていう女が居った。このおよしが例の笠森おせん、柳屋お藤と並んで三美人と 云われたのであります。けれども同じ三美人と云われた中でも、およしは他の二人の評判には及 ばなかった。もうこの時分には、おろくの年齢の穿墾をする人が無い、と書いたものもあります から、前の湊屋おろくも此頃では四十を過ぎていたのでしょう。そこで浅草では、そういう水茶 屋の女の外に、楊枝を売っている柳屋お藤、これは銀杏の樹の下に店を出していたので、銀杏娘 と云われて、大分世問で持て唯されて居りました。然るにこのお藤は、明和六年三月十八日から 六月八日まで、観音様の御開帳があった、その御開帳の半ばから姿を消してしまって、どこへ往 ったかわからなくなった。その後も楊枝店には、おもん、お吉、おいく、おかん、などという美 人が出て来て、人気を煽って居りましたが、とてもお藤ほどには往かなかったようです。  そこでこの時分の水茶屋の女としては、笠森おせんが一番名高いことになる。これは谷中の鎗 屋五兵衛という者の娘で、年齢もお藤と同じでありましたから、どっちが美しい女であるかとい うことを当時の人に評判されて居りました。おせんが名高くなったのは、明和五年秋からのこと ですが、どうして場末も場末、殆ど江戸をはずれた谷中あたりの水茶屋にいる百姓の娘が、それ ほど評判になったかと云いますと、あの辺には「いろは長屋」と云って私娼がある。そればかり でなしに、感応寺の富というものがあって、江戸の人が大勢出かけて往った。そんなことでも無 ければ日蓮宗の信者が往く位のものなのですが、この富のために大変土地が繁昌する。そこでお せんも江戸の人の目につくようになったのです。  もう一つ、その頃の刊行物で見て往きますと、「娘評判記」というものに、踊子だけ十七人挙 げて、それがいずれも役者に見立ててある。誰は誰に似ている、という風に書いてあるのです。 「見立三十六歌撰」とか、「やつし御詠歌三十三番」などというもので見ると、それには水茶屋の 女も、楊枝屋の女も、踊子も入込になっている。「評判娘名寄草」は明和六年の刊行らしいので すが、二十八人の美女を挙げてあります。これは水茶屋の女も、芸者も、楊弓場の女も、踊子も 入込になって居りますが、その巻頭に三幅対として、左に「大極上々吉、日本橋文字久」、中の ところに、「極上々吉、笠森おせん」、右の軸に「大上々吉、麻布瀬川お兼」とあります。こう いう出版物を見て参りますと、若い美しいのが何よりの売物であった踊子から、人気が一転しか けていることがわかります。踊子はだんだん商売人風になって来る。殊に芸もあるのですから、 どうしても長く持たせなければならなくなる。娘という時代だけの売物には、自分もしにくくな る。それはやがて町芸者に移って往くわけになるので、だんだん年がたつに従って、自分もあど けたい風には厭きて来るのでしょうし、相手にたる方の気持もだんだん変って来ます。そういう 玄人と対照して、何の持えも無い、生地のままでいる水茶屋の女、それが又目立って来ることに もなるのです。 飛んだ茶釜  おせんは百姓の娘で、無論何の持えも無い。親の手伝いのために十三四から水茶屋に出て居り ましたが、それが目につき出したのは、人気が踊子から町芸者へ移ろうとする途端のことであっ たらしい。おせんは明和七年二月、二十歳の時に、御庭番を勤めていた倉地政之助の女房になっ た。士の女房になるのですから、西丸御門番之頭馬場五兵衛という人を仮親にして、縁組をした のです。あれだけ大評判の女が、御家人くらいの者のところへ嫁に往くというのは、考えように よってはおかしくもあります。だが百姓の娘、それが武士の妻になったのですから、大変な出世 です。却って水茶屋などへ出ている女を、微禄にもせよ双刀を帯する者が妻にするのを怪しんだ でしょう。元来倉地の家というものは、吉宗将軍が本家相続をする時に、紀州から御供して来た 倉地文右衛門の跡目である。文右衛門は笠森稲荷の大の信者で、感応寺から地面を借りて勧請し たのが此の社なので、その前に店を出している茶屋のことですから、別段の係合いが出来たので あろうと思う。おせんが嫁に往ってしまってから、親仁が茶店にいたというので、「飛んだ茶釜 が薬錐に化けた」という当時の流行言葉を解している人がありますが、薬錐は禿頭の親仁のこと で、この場合「飛んだ茶釜」というのはおせんのことだけれども、「飛んだ茶釜」はおせんに限 ったことではない。水茶屋であれば、いずれにしても茶釜は置いてある。そこに美しいのがいる から「飛んだ茶釜」と云ったので、それが当時の通言であったらしい。おせんも飛んだ茶釜には 相違ないけれども、おせんに限った話ではないのです。おせんの事は明和五年の七月から六年へ かけて、森田座で芝居にもなれば、風来山人も浄瑠璃に作って居り、黄表紙などにもなって居り ます。そうして盛におせんの景気を煽り立てたが、煽り立てると間もなく、本人はいなくなって しまった。人気というものは恐ろしいもので、おせんだけに、そういう人気が沸いたので、あと が続かない。谷中の茶店などはいくらもありましたが、それきりで評判になるような者も無かっ たのです。  けれどもこれが為に刺激されたものは、水茶屋の女でありまして、そのほか楊枝店などにも、 美い女がいて評判が高くなった。安永度になりますと、二十軒の茶店でも、十七八の綺麗なのを ずらりと並べている。それから間も無いことですが、愛宕下の薬師堂の前iこれは今日はあり ません、円福寺という寺が愛宕山の御別当をしていたのです。そこの水茶屋にいたのが、仙台路 考と云われた桜川お仙、桜川というのは、つい此間まで泥溝川《どぷがわ》のようになって流れて居りました。 あすこの町名にも桜川町というのがあった。このお仙は仙台生れじゃないかという話もあります が、それはどうだかわかりません。が、言葉に詑りがあって、聞き苦しかったそうで、何を云っ ても返事をせず、ただハイハイと云って笑ってばかりいたということです。これが女が美いから 評判になった。前の評判記のところで、踊子が役者の誰に似ているという評判のあったことを申 しましたが、笠森おせんや柳屋お藤にはそういうことは無かった。然るにこの桜川お仙は、路考 に似ているというところから、仙台路考と云われたので、この点は「娘評判記」と同じ往き方で あります。 難波屋おきた  併しこの二人のおせんなどは、今日で云うサービスがうまかったのではない、ただ女が綺麗だ というので名高くなったのです。ところへ持って来て、浅草大臣町の北側に難波屋おきたという 女が出た。これが大変な評判で、水茶屋の人気を再び浅草へ取戻した観があった。寛政の二美人 と云われたのは、このおきたと、両国米沢町の西側に居った高島屋ヒサの二人で、ヒサはボウト ル園の横町にあった煎餅屋の妻だったそうですが、表の方へ出て来て水茶屋をやって居った。お きたの方は難波屋の娘なのですが、これが馬鹿に愛敬がよく、御世辞が上手で、茶代が少くても 変な扱いをするなんていうことは無い。それだから見物が立って、店の前が混み合って仕方がな い。あまり人が混んで困るから、水を撒かなければならぬ位であったそうです。けれども寛政頃 のこういう美人になりますと、看板の女は坐っていて御世辞を言うだけで、自分で茶を酌んで出 したりはしない。前の二人のおせんなどは、無論自分で茶を酌んだのですが、この時分にはもう そういうことは無かった。この難波屋おきたについては、そういう評判物でありましただけに、 水茶屋女小説とでもいうべきものが出来ている。それは寛政十一年に出版された「木木能美登《きぎのみど》 利」という本でありまして、小説ではありますけれども、大分事実を多く背負っているように思 われます。 住吉大明神の御利益  その筋をざっと申しますと、駿河の府中の近くに、桜井の弥兵衛という二十二三になる美男が ありました。田舎の人でありますが、風流気があって、発句の一つも作り、ちょっと手も書くと いう男です。それが友達七八人と伊勢参宮から京都見物をしようというので故郷を立った。これ は先年来思い立っていたのですが、七十を越した老母があって、途中を気遣ってなかなか許さな い。そのうちに老母が病気になったので、弥兵衛は住吉様へ病気平癒の祈願をした。幸いに全快 したので、その御礼参りに行きたい、ということを母親に云った。それならば信心のことである から、参宮から京見物ながら行って来るがよかろう、と云って許されたのです。友達同士で京へ 著きましたが、ここまで来たついでに大坂を見物して、住吉へ参詣したい、と弥兵衛が云い出し た。そうすると友達等は、まだ京都も皆見ていない、見物するところが沢山残っているし、伊勢 参りもしなければならない、そのうちには帰国する時期が来るから、とても大坂までは行けない、 と云う。弥兵衛はどうしても住吉様へ御礼参りをしなければならない。それでは皆はもっと京見 物をおしなさい、わしはこの間に住吉様へ参って来る、と云って友達に別れまして、夜船で大坂 へ下りました。翌朝八軒屋へ著いて、住吉までは一筋道だということでありましたが、どこをど う間違えたか、妙な山道へ入り込んだ。午過ぎから雨は降って来るし、何しろ笠ばかりで雨具の 用意が無いものですから、歩いて行くことが出来ない。漸く町並の煙草屋のあるところまで行き 著いたので、店先へ立寄って、雨やみをして居りましたけれども、雨はたかなかやまない。どこ かに雨具を売っているところは無いか、と云って聞くと、ここは七八軒しか家居の無いところで、 そういう店も無い、一体お前さんは何処へ行きなさるのか、と云って先方で聞いた。住吉へ御参 りしようと思うのですと答えると、それでは道が違っている。これは奈良へ行く街道だ、と云う。 併しだんだん雨は強くなって来るし、雨具は無し、弥兵衛も困ってしまって、この辺に宿屋があ りませんか、と聞くと、ここには宿屋が無い。それでは何処か頼んで泊めて貰うところはありま すまいかと云うと、土地のきまりで、旅人を泊めることは一切出来ぬことになっているので、ど こでも旅人を泊めることは出来ない、という答である。軒下でもいいから、一夜明かさして貰い たい、と云ったけれども、村の者からぐずぐず云われると困る、と云ってなかなか承知しない。  そうやって押問答しているところへ、村内の者だか何だか一人入って来て、亭主と何か曝き合 っていましたが、笑いながら出て行った。そうすると亭主の様子が急に変って、いや旅人、これ から三四丁行ったところに、長屋門の立った家がある。そこへ行って頼んだら、宿を貸してくれ るか、雨具を貸してくれるか、どっちかしてくれるだろう、と云うので、弥兵衛もまあよかった と思って、そこへ行って見た。成程、立派な長屋門があり、大きな玄関もある。そこからは若い 女の笑い声も聞えるし、女が七八人もいる按排で、機を織っている。案内を乞うと、女達が出て 来た。雨に降られて難儀をする旅人ですが、一晩泊めて貰うことは出来ますまいか、もし泊めて 貰うことが出来なければ、雨具でも貸していただけますまいか、と丁寧に頼んだ。女が引込むと、 今度は中年の男が出て来て、旅で雨具なしの上に、当所は宿屋なしであるから、さぞ御迷惑であ ろう、主人に申したところ、泊めて上げるがいいと申しますから、どうぞ御上り下さい、と丁寧 に云った。そういう挨拶のうちに塗盟を持って来る。見ると蒔絵のやつだし、手拭懸も蒔絵であ る。それで御洗足なさいと云うので、弥兵衛は、それは勿体ない、私はこれで結構です、と云っ て、玄関にある番手桶の中から水を掬い出して、足を洗って玄関から上る。小座敷へ通されると、 なかなか立派たものである。主人と見える立派な男、太り肉《じし》で総髪の男が、羽織袴に立派な脇差 をさして出て来た。今夜はろくな御世話も出来ぬが、ゆっくり御泊りなさるように、という挨拶 である。その容体を見ると、地代官でもあるような様子ですから、あなたは土地の御役人である か、と尋ねた。如何にも当所の役人である。この村の老どもは皆拙者の支配だから、拙者のとこ ろへ泊られる分には、村の者から何ともいうことは無い、安心して御泊りなさい、と云う。それ から寝間へ案内されると、夜具蒲団なども実に結構たものである。  翌日になると、雨はまだどんどん降っている。けれども見ず知らずのところに幾日も泊るわけ には往かないから、雨具を拝借したいと、女中達に云った。只今奥方が御目にかかる、というこ となので、そこに控えていると、やがて、奥方なるものが出て来た。これも立派た著物を著て、 |大造《たいそう》な容体をしている。この雨の中を御立ちなされるのは大変だから、もっと逗留なさるがいい、 娘が少しばかり琴を稽古して居りますから、御慰みに聴いていただきたい、と云って頻りに取持 ってくれる。やがて十六七くらいな綺麗な女が出て来る。取持ち医者のような者もついて来る。 腰元と見える者が三味線を持って来る。だんだん酒肴が運ばれて、大変な御馳走になる。弥兵衛 も一杯機嫌でつい時を過して、その晩もそこへ泊ることになった。夜までいろいろな合せ物をし たり、いろいろな芸尽しで酒宴が続いた。そのうちに主人夫婦もいなくなり、取巻もいなくなる。 大分御酒が過ぎたから、ここへ御休みになるように、というので、奥の一間へ案内される。室内 の物も立派なものずくめで、空だきでもしてあると見えて、いい匂いがしている。ところがこれ は娘の寝間なので、弥兵衛はそこで一夜を明すことになってしまった。  何だか知らないが、狐につままれたようで、気味が悪いような気がする。相手は美しい女だし、 取持ちがいいので、そのまま一夜を明したが、翌日になっても雨はあがらない。小雨が降ってい る。亭主が出て来て、私はちょっと城下まで出て行かなければならぬ用事があるが、支配内の老 に義太夫を語る者があるから、それを聞いてやってくれろ、と云う。もう今日は是非立ちたい、 と云ったけれども、たって止めて、義太夫を聞かされることになった。それがなかなかうまい。 夕景になると、また御馳走が出て、思わずそこへ泊ることになる。その晩に年輩の女が寝所へ出 て来て、昨夜あなたに御目にかかった娘御が、是非あなたと一緒に暮したいと云われる、併しこ のままでは工合が悪いだろうから、どこへでも連れて立退いて貰いたい、あなたは案内を御存じ でありますまいから、私が御供して行きます、手許に二百両ばかりの金があるから、ここを立退 いても困ることはない、是非娘御を連れて立退いて貰いたい、と云うのです。弥兵衛は驚いた。 それは飛んでもない話で、私にはとてもそんなことは出来ない、これだけ御世話になった上に、 娘御を連れて逃げるなんていうことは、御断り致します、と云うと、それは御尤もなようですが、 そういうわけにも往きますまい、というわけで、又いろいろ談じ込まれる。  弥兵衛も困ってしまって、何しろ私は住吉様へ参詣しなければならない、帰りには又ここを通 るから、明晩は必ず帰って来る、その上でどうとも御相談したい、と云った。それなら間違いの 無いように、と堅く約束をしまして、翌朝は住吉様へ参詣するというわけで、そこを立出でまし たが、後も先も一向わからぬ話で、何とも始末がつかない。不思議で仕方が無いから、町外れの 紙を売っている家へ来て、様子を聞こうとするけれども、あの長屋門の家へ二三日前から来てい る御客というのはお前さんか、御気の毒なことだ、というばかりで、いくら聞いても何とも云わ ない。漸く住吉様の参詣を済まして、明日はあの家へ帰らなければならぬが、何としても不思議 千万である、というので、もう一度紙を売る店へ立寄って、又亭主を口説いて見た。それほど困 らっしゃるのなら、あなたの合点の往かぬわけを話しましょう、あの長屋門の家というのは、こ の辺での賎民の頭である、そこであの頭の望みとして、どうかして娘に素人の婿が欲しいという わけで、いろいろなことをやっている、あなたの話では、煙草屋で道を聞かれたということだが、 あすこのところから先は、みな長屋門の家で支配しているので、私達とは身分が違うのだ、つま りそういう風にして、あたたを引込むようにしたのだから、容易なことで逃げられるものではな い、娘を連れて逃げれば、必ず途中で取押えて、村成敗にするとか何とかいう面倒を持ちかけ、 遂に娘の歎きによって婿にする算段にきまっている、これからあなたが御帰りなされば、否でも 応でもあの娘の婿にならなければならない、という亭主の話を聞いて、弥兵衛ははじめて合点し た。それだからと云って、私は今身分違いの者になることは出来ない、そういう事になっては生 きて居られない、国には老母があるので、そんな事が聞えたら、無論無事では居りますまい、何 とかして逃れなければならぬが、逃げ出す方法は無いだろうか、と云って頼んだ。余り歎くので 気の毒に思ったか、そこの家で、何とかして上げよう、ということになって、長持の中ヘ隠して 置いて、幾日かたって後、漸く婆さんのなりか何かにして、八軒家まで連れて行ってくれた。弥 兵衛はその御蔭で国へ帰ることが出来た。これが住吉大明神の御利益で、この案内してくれた亭 主が住吉大明神の化現、という風に書いてあります。  弥兵衛は五六十日もかかって、やっと村へ帰って来た。ところが一緒に行った友達は皆早く帰 って来たのに、自分の停だけが帰らぬのを苦にして、その前の日に老母が死んでしまった。弥兵 衛は自分が何故こんなに遅くなったのかと考えると、恥かしくって誰にわけを話すことも出来な い。親不孝であるということも自分の心を苦しめるし、村方に対して、一将を話すことも出来な いから、遂に駈落をして江戸へ行ってしまいました。  話替って例の娘の方は、どうしても弥兵衛の事が思いきれない。親仁は又親仁で、どうしても 取つかまえて婿にしなければならぬというので、娘は乳母と一緒に、かねて聞いて置いた弥兵衛 の村方までやって来た。けれども本人は駈落してしまっていない。多分江戸へでも行ったのだろ う、というのを聞いて、あとを追って江戸まで出て行った。江戸へ来て方々捜して見るけれども、 なかなか知れない。人出入りの多いところへ持って行って、水茶屋でも出せば、或は又逢うこと が出来るかも知れない、というので、生れ住所の名を取って難波津屋とし、名はおきさと云った、 と書いてある。これは当り障りがあるから、わざと難波屋を難波津屋、おきたをおきさと書き替 えたのでしょう。  小説の方はこれで済んで居りますが、この女はなかなか美しい女で、且大柄な女だったそうで す。それが小説にも書かれています通り、弥兵衛の所在が知れない。そのうちに弥兵衛よりまだ 美しい男が見つかって、身を隠した、ということになって居りますが、その後難波屋に年取るま で居った、という記載がありますから、多分その男を夫にして、矢大神門外の水茶屋に居ったの でしょう。  この弥兵衛の話と同じようなことは、「耳嚢」の中にあり、津村涼奄の「讃海」にも書いてあ ります。場所や何かは違いますが、話の筋はほぽ同じです。ただどちらの話も、辛うじて危難を 免れるところまでで、江戸へ来て水茶屋を出すことは書いてない。何か当時にこういう話があっ たのを、おきたの前身へ持込んだのかも知れませんが、越後その他の賎民の子供で、金に困るの でなしに吉原あたりへ出して、請出されて良民の妻になり、一生良民で送ることにしたい、親も 亦そうさせたいというところから、吉原へ身を売るという話が随分後々までもありました。弥兵 衛の一条はともかく、この時分は水茶屋が流行りまして、水茶屋の女が取唯されて居りましたか ら、この難波屋おきたなども、美しく生れたのを幸いに、首尾よく良民になり了せたものらしく 思われるのです。 あけぼののお直  難波屋おきたなどは、本人から云えば、まことにめでたいことになったのですが、文化度に山 門の前に石の鋪道が出来た。あれが出来る時分から、浅草の水茶屋の景気は、山下へ取られたよ うにたったので、おきたの後におきた程の者はありません。天保の頃になりまして、二十軒では 稲屋のおろくが随分名高かった。それから奥山の方では、弘化の頃に武蔵屋おふさというのがあ った。水茶屋の女には限りませんが、名高い女というと、錦絵になるのが何よりの事でありまし た。一枚絵に出た女、錦絵に出た女ということをよく云って、評判の女なら皆錦絵になっている のです。が、その後は錦絵になるような者は、奥山にも二十軒にも無かった。景気は二十軒より も奥山の方がよかったようです。  河内山の芝居へ出る三千歳なども、奥山の「あけぼの」という水茶屋にいた女ですが、その頃 は別に評判になるようなことも無かった。一体水茶屋に風流らしい名をつけるのも、化政度から のことのようですが、三千歳はお直といって、十七の年から、その「あけぽの」に出た。水茶屋 の女としては、一向何でもなかったのだけれども、直侍に引っかかって、芝居へ持出されたので 名高くなった。水茶屋の女の話としては、こいつも一つ入れて置かなければなるまいと思います。 三千歳の素姓を云えば、こんなのが水茶屋女には多かったらしい。お直の親は越前福井の者で、 新し橋の脇の弥左衛門河岸に、万屋《よろずや》という酒店を出して居った。お直の生れたのは中橋ですが、 早く母親に死に別れたので、親仁は小さな酒店を出し、娘は前云った奥山の水茶屋の「あけぽ の」に出ることになった、そこで直侍に引っかかったのですが、あれは無類の美男だったそうで す。お直は直侍のために信州へ売り飛ばされた。何しろ一人娘のことですから、親仁が心配して、 いろいろやって見たけれども、何しろ相手が悪いのでうまく往かない。そこで町奉行へ訴えて、 漸く取戻すことが出来た。けれどもその費用に困るので、折角取戻すことは取戻したが、また吉 原へ身を沈めなければならなくたった。天保二年の細見を見ると、江戸町二丁目の邑田海老屋に 三千歳というわけで、名が出て居りますが、何にしてもそれは一朱の女郎です。芝居でやるよう に新造がついたり、禿がついたりするわけのものじゃない。一通りの女郎なので、華魁ではない のです。邑田海老屋の寮が根岸にあったかどうか、それは知りませんが、なかなか芝居のように は往かない身の上たのです。  直次郎と云えば河内山一件で、講釈や芝居ではえらいことになっているが、文政六年三月に入 牢しました時は、翌年三月に入墨、敲で所払いになった。牢にいる間に病人があって、その同監 の病人の看護をよくしたのが奇特である、というので、青絡《あおざし》五貫文貰って出獄して居ります。そ の罪科はどんなものかというと、女犯の坊主を往来中で脅迫して、五両の預り証文を取り、後に 一両で事を済ました。一両の恐喝罪ですから、そんなに重いわけも無い。その後直次郎は飯田町 の中坂で飯屋をして居った。この男の親は渡用人《わたりようにん》と云って、旗本屋敷を次々に勤めて歩くのです。 随分変なもので、先々の貧乏旗本に使われて往く、その間だけ士になる。士にたっている間は名 字があるけれども、本来は士でないから名字が無い。申渡書にも「四ツ谷忍町万助店佐吉同居直 侍事直次郎」とあって、名字なんぞはありません。つまらないものです。何しろ牢屋から出て飯 屋の亭主になれる男だから、大したものでないにきまっている。直侍は飯屋がうまく往かないの で、ぶらぶらしているうちにお直に引っかかったらしい。そうしてどういう事件かわかりません が、天保三年十一月二十三日に三十八で牢死して居ります。黙阿弥が上手に書いてくれたから直 侍も大した悪党になったし、お直も大した女になったが、事実はそれほどのものでもないらしい のです。 深川の八幡前  もう此頃になると、浅草の女も縞麗でなくなったと見えて、「浅草市ノ買物」という天保度の 俗謡に、   楊枝屋のお茶屋の姉さんは石の石蔵の再来か、眉毛を墨で引きならし、島田崩しやかた崩し、   市松崩しは恐れやす。 とあるのを見ても、だんだんむずかしい女が多くなったことがわかります。それから深川の方に なると、八幡前というのがなかなか名高い。深川の八幡様は寛永四年に建立されたもので、だん だんに繁昌して来ましたし、明暦元年九月から、大茶屋、小茶屋いろいろ建つようになった。そ の時分は何にしても江戸とかけ離れたところだから、所が繁昌するようにというので、法度が弛 められまして、社の手前二三町のところは、表店の茶屋に女が大勢置いてある。鳥居の内は洲崎 の茶屋といって、猶更三味線小唄で御客の相手をした。この法度が弛められるということは、寛 文四年五月に、すべて茶屋構えをしてあるところに女を置いてはならぬ、という法度があり、延 宝六年四月には、一軒に二人より多く女を置いてはならぬ、その他は妻、嫁、娘であっても、客 のところへ出してはならぬ、という法度がある。それを場所の悪いところだから差許す、という 意味になるのです。戸田茂睡の書いたところによると、深川八幡前の茶屋女の優美なことは、三 谷の遊女も爪をくわえ塵をひねる程である、とある。そうして花ぐるま屋のおしゅん、おりん、 沢潟屋《ゆるおもだかや》のおはな、桝屋のおてふ、住吉屋のおかん、などというのは、その中でもすぐれた女だ、 ということを書いている。一蝶の画いた八幡の茶屋の画が残って居りますが、そこには花ぐるま 屋のところが画いてある。この絵で見ると、表は水茶屋でありますが、茂睡の書いたものと引合 せて見ると、早くから他の水茶屋とは様子が違ったものです。後々辰巳という別の世界になりそ うな様子は、ここにも見えて居ります。  この一蝶の画いた八幡前の茶屋の様子というものは、天和二年の模様だろうと思われます。と いうのは、その年の八月十二日に天和改革の法度が出ている。この法度の出た後の模様は「御当 代記」に書いてあります。   八月十日過、江戸中、大小の茶屋ともに茶振女をおくべからず、たとへ娘よめ女房なりとも、   若き女たらばみせにおくべからず、茶屋も表はいか程も、その身に応じひろく可仕候、うら   は少《すこし》の座敷にてもかまヘベからず、おもてよりみえとほるやうにいたして、少のかげをも仕   まじきとの御ふれなるゆゑに、茶屋どもみな茶汲女を脇々もより次第にひきのけ、娘よめ、   わかき女房もちたるものは、脇々へ遣すべきやうもなければ、茶屋のまくをはらず、座敷の   畳をあげて、茶屋を仕廻|計也《ぱかり》、若き娘、よめ、女房もたぬ亭主も、わきくにて茶屋をしま   ひ、右之通りなれば、後のわざはひをきづかひ客をうけず、依之、浅草深川よりはじめて、   湯島、黒門、目黒、芝、高縄、清水谷等の小茶屋まで口をすぐべきやうなく、飢死をまちな   く計也。  なかなか手厳しい事であったらしい。それは江戸中だけの話ですが、ひどく抑えつけられるよ うでも、容易に抑えきれぬものと見えまして、その年の十一月二十日に、深川八幡付近で売女三 十余人というものが捕えられ、その主人が四人まで牢へ入っている。そういう按排ですから、天 和改革の御法度も十分に行われなかったのです。十二月にこの辺が焼けまして、そのあとの家作 を差止められた。これで一先ず八幡前の私娼掃蕩も出来たわけですが、元禄十年四月には又家作 が許可され、もとのようになりました。その後いろいろ変遷がありますが、水茶屋として話すべ きことは、ここにはありません。その按排式は、音羽や根津が、護国寺や根津権現が賑かになる と同時に、そこに水茶屋も出来ましたが、水茶屋としての話は、少いというより、まあ無いと云 っていい位なのと同じことであります。 茶店の体裁一変  目黒も早くから名高かったけれども、ここには振った女が出ない。高縄も他と同じく、天和改 革で片づけられたのですが、元禄六年四月、湊屋長助の願により、又水茶屋が出来まして、長助 の娘のお玉がちょっと評判になりました。その時は四阿屋建《あずまやだて》に青暖簾をかけ、街道筋に向い合っ て綺麗な女がいる、というので評判でありましたが、話を残すほどのことも無かった。その後は 品川の引手茶屋が兼営することになりましたから、どれほどのことも無い。白山も名高かったけ れども、私娼の方で話した方がいい位のものである。芝の切通《きりどおし》はなかなか名高い場所ですが、こ れは水茶屋の女としてではない、外の話があるのです。寺杜境内の出茶屋というものは、年を取 ってしまって、渡世向きが思うようにならぬ者の仕事にたって居った。床几が一ッ二ッ、土竈に 古茶釜をかけて、渋茶を酌んで出す程度のものなので、そこに小縞麗な女がいるというほどでた くても、茶酌女を置くようになったのは、寛文、延宝度以後の話なのです。明和、安永に水茶屋 女の景気立った後でも、一般の状況から云えば、寛政の流行物を挙げた中に、阿蘭陀《オランダ》の学問とい い女房のいる水茶屋とがあるのでも知れましょう。綺麗な茶酌女1それがどこにでもいたので はありません。茶屋構えにしてもその通り、爺さん婆さんの隠居仕事に相応したものであったの です。  その癖がいつまでもついて居りましたから、千住の茶釜ー吉宗将軍が、如何にも綺麗に茶釜 が磨いてあると云って褒められたという「爺の茶屋」などは、老人の而も爺がやっていたのです。 そういう風でありましたから、茶酌女を置くようになっても、土竈に古茶釜、茶だって結構なも のを飲ませるわけじゃなかった。それが延享の頃になると、芝の切通では、唐銅《からかね》の茶釜を沸《たぎ》らし、 蓋の音をリンリン鳴らして、茶碗も綺麗たものを使えば、茶も葦久保《あしくぼ》、宇治の銘茶を使うように たった。それからどこの茶店も手綺麗になって来たようです。殊に大和風呂などと云って銅壼な どを入れた竈にたり、綺麗事になって往って、茶店の体裁は一変した。その一変したのは、芝の 切通から始まったと云われて居ります。  方々の茶屋でうまい茶を飲ませるようになって、本当にうまい茶を飲ませるということから、 誰彼たしに茶の味をおぽえるようになった。それが拡がって茶漬屋というものが出来るようにも なって往き、茶菓子の方にもさし響いて来た、という事実がある。けれども、芝からは一人とし て名の聞えた茶酌女も出ず、何の御話も無いようであります。江戸の水茶屋としては、浅草が一 番多いのですが、それに続いて御話のあるのは、上野の山下だと思います。 山下の前だれ  明和七年の二月頃、笠森おせんが見えなくなって、そのあとヘ親仁が出ているようになった。 それから「飛んだ茶釜が薬錐に化けた」と云い難したという話は前に申しましたが、その頃上野 の山下に茶釜女というのが現れた。それは林屋お筆というので、この水茶屋へ出る前には、吉原 の江戸二の四ツ目屋という家の、大隅という華魁だった按排です。四ツ目屋という女郎屋は、そ んなにいい女郎屋でもたいようですから、この女も並な華魁で、別段大したものでもなかったら しいのです。けれどもなかなか評判になって、この茶釜女を見物に往く者があったと云います。 何にしても明和、安永と申せば、水茶屋女の景気が最もよかった時でありますが、一体上野の広 小路というものは、元文度に火事があって、その場所が火除地《ひよけち》というものになりましてから、賑 かな場所になって参りました。水茶屋などはそれ以前からあったのですが、広小路が出来てから は、更に繁昌して参りまして、山下の水茶屋のみならず、山下中が景気づいて来たのであります。  そういう繁昌な土地になりましてから、評判になった女というのは、このお筆からのようであ りますが、それより前にも山下に水茶屋はあったので、誰も知っている「江戸名物鹿子」あれは 享保十八年の板行でございます。これには「山下蔽膝《やましたまえだれ》」という前書があって、     一ト銚子足に恨やこぼれ萩 という句もあり、二階で酒を飲んでいる絵も入って居ります。山下のあの辺には「ケコロ」とい う私娼が沢山居った。これは宝暦度から寛政年間まで、なかなか盛であったのですが、この「ケ コロ」という名称は、蹴転《けころぱ》しという言葉が約《つま》ったのである、という風に云われて居ります。二朱 判吉兵衛の「大尽舞」というものは、元文頃に作られたものと思われますが、あの中の文句に 「二階座敷のまんなかほどで雪路《せつた》やろとてけころばしてしておいて」という文句がある。「蹴転 す」という言葉は、この頃からもうあったようです。茶屋女などに対して、チョンの間というの を、「蹴転す」と云ったらしい。その言葉はこの「大尽舞」にあるのから考えて、前の「江戸名 物鹿子」の中にある句でも、「足に恨やこぼれ萩」という「足」の字が、何か蹴転すということ を隠しているんじゃないかと思う。又ヶコロという前の名は、「前垂」といったのではないかと いうことも、この「江戸名物鹿子」の文句から考えられるし、転び芸者ということも、蹴転しと いう言葉の略ではないかと思います。  広小路になりません前の、上野の山下の水茶屋というものの風儀も、大体これで察し得るわけ でありますが、殊にケコロに就きましては、酒落本、黄表紙といったようたところで、存外にそ の様子を知ることが出来ます。「耳嚢」などの中には、ケコロ美談とでもいうような話がある。 また町奉行の依田豊前守が、宝暦年中に山下のヶコロを検挙した大騒ぎもある。これは御成当日 に、ケコロどもがちっとも揮るところなく、客たどを呼込んでいるのを見て、あまりに不届であ るということから、検挙するようになったのである、と伝えられて居ります。  このヶコロというものは、何時でも店を張っているのに、前垂掛で居った。京伝などは、紺の 前垂は情の濃いということを見せたのだ、と云って居ります。俗謡の中にも「紺の木綿に松葉を 染めて待つにこんとはきにかかる」というのがありますが、あれなどもこうした女どもの歌いそ うた文句だと思われる。京山は、彼等が前垂掛でいたのは、茶酌女の姿をしていたからだ、と云 って居ります。上野の正五九は殊に賑うのですが、毎月三日と十八日は両大師の御縁日があり、 晦日には両大師の宿坊が替る。両大師は申すまでもなく、元三《がんさん》大師と慈眼《じげん》大師ですが、その御姿 が上野三十六坊をぐるぐると廻られて、月が替ると宿坊も替るので、従って参詣する者も寺が違 って来るわけです。只今でも上野に残っている、赤地に金文字で両大師と書いた札、あれも今で は動かぬようになって居りますが、昔はぐるぐる廻るようになっていて、両大師のおいでになる 坊への方向は、あの札が向いているので、次から次へと札の向いている方をしるべにして行けば、 ひとりでに参詣が出来るようになっていた。今日のように作りつけになっていると、あすこに両 大師のあることはきまりきっているのですから、何のこともないのですが、昔は毎月御遷座があ った為に、あの札のぐるぐる廻るのが、参詣者に取って便利だったのです。そういう御縁日や御 遷座の日には、朝早くから両大師参詣の人が上野へ集る。人が集るから、山下の茶屋も景気がい い。ところで面白いのは、寛政の改革でケコロが一掃されたら、月毎の両大師参詣の人も大分少 くなったということであります。 前垂風俗  そこで前垂というものによって、上野山下の茶酌女の風俗を考えて見る。山下の茶酌女に限っ たことでもありませんが、とにかく茶酌女の風俗としては、前掛を取離すことが出来ない。例の 忠臣蔵の茶屋場、あれは料理茶屋のわけですが、女達が赤い前垂をかけている。この赤い前垂を かけるのは、宇治の選子《よりこ》のすることでありまして、宇治の選子は鉄漿《おはぐろ》をつけ、薄化粧をして、赤 前垂をかけ、手に鳥の羽を持って、唄をうたいながらお茶の葉の上中下を選り分けているのです。 赤い前垂は宇治の選子の姿からはじまったものではないかと思う。それもなかたか古い事であっ たと見えまして、有名な太閤さんの醍醐の花見の時、侍女達が茶店女に仮装しているのに、皆黒 い織子の前垂を掛けていたと見えます。一体宇治の選子が縞麗な前垂を掛けるということはお茶 の葉を扱うのですから、械くてはいけない。そこで新しい綺麗な布の、目に立つようなのを前垂 にしたのであります。  後には前掛というものは、衣服を汚さぬために掛けていると思う者が多くなり、前掛を掛けて いる婦女自身も、そう思っている者があったようですが、それは間違いでありまして、茶酌女に 致したところが、御客の前へ茶を持って出るのですから、濫襖《ぼろ》隠しにも綺麗な前掛を掛ける必要 があったのです。「太平楽府」は明和六年に狂詩を集めて出版したものですが、あれには晒の前 垂が、半分桔梗と鼠の染分けになっていたことが書いてあります。安永度になりますと、茶酌女 にいい御客がついて、前垂を持えて配らせるなどということも出来ました。水茶屋で新しい茶酌 女、即ち新子を出す場合には、紋所だの名前だのを染めて配るようなことも出来て来た。寛政度 には紺紹《こんがすり》を前垂にすることがあって、下の方に自い糸で山道なんぞが縫ってあった。今の人は紺 紹の前措などというと、造作《ぞうさ》もないように思うかも知れないが、昔は前掛地といって売出すので なく、一反のものを前揖だけに切るのだから、なかなか高くつく。安物の絹の裂地《きれじ》よりは、前掛 だけの紺紹の方が、却って高い位のものだった。けれどもそれが一時流行ったのです。  享和度には桟留《さんとめ》になって、その時から幅も広くなり、三布にして後で合せるほどの広さになっ た。前掛に裏をつけるー袷になったのもこの頃からです。天保度になりますと、広桟留の類を 締めるようになり、茶酌女などは丈の長いのは締めません。丈は短いけれども、紐は縫付けませ んで、別に縮緬の類の、大変伊達なものを幅広にして、切《きれ》の上から結ぶようになった。こうなっ て来ると、もう木綿には限りません。縮緬などが多くなり、夏になると麻とか、縮《ちぢみ》とかいうもの を締めるようになったから、前掛にも夏冬の別があるようになりました。そうなった時分には、 茶酌女だけの話ではなく、だんだん一般の婦女の上にひろがって来て居ります。何にしても実入《みいり》 のいい水茶屋女-勿論場所によることではありますがーたどは、文化度から縮緬を用いるこ とが珍しくなくなって、紋をつけたり、模様などを染め出しているのがいくらもある。その頃は 前からの衣裳法度もありますから、衣服の方はあまり立派なものは著られない。先ず木綿物に限 られて居ったのですが、前掛の方は種々様々で、前掛が水茶屋女の御晴《おはれ》のようになって居りまし た。  当時一般の婦女としては、前掛を揖けて自分の家から外へ出るということは、恥かしいように 思って居りましたが、文化度になりますと、誰彼なしに前掛を締めるようになり、遂には前掛に も不断のと、よそ行のとがあるようになって来た。もう前掛というものが、小料理屋や水茶屋な どの風俗ではなくなったのです。それが又弘化度になりましては、広桟留や唐桟、結城紬、縮緬 などというものが、珍しげもないものになって、紐もなかなか変ったのを選むようになり、紫鹿 子などをつけることが流行るようにたる。夏になると、ただの縮では面白くない、越後縮でなけ ればいけない、という風になった。下女なんぞのような給金の安い人達でさえも、紬や縮には厭 きて、縮緬や上布の前掛を掛けるようにたり、著物よりも前掛の方が価の高いものにもなって参 りました。又天保の末から弘化へかけたところでは、絹にも木綿にも前掛地を織り出すようにな って、自分の締める前揖というものが、自分の趣味、嗜好を現すように眺められる。どんな前掛 を締めている女はどうであるとか、こうであるとか云って、女の評判を前掛からするようにもな った。水茶屋女が江戸に残した風儀、それは文化度から最も著しくなって参りました。前掛の普 及した有様というものが、一番目立ったことのように思われます。  けれども、これはさすがに武家屋敷の方には無いことでありまして、主《おも》に民間の話であります。 民間といたしましても、前掛は失礼なものだといって、少しましな商家では台所限りのものとし てありました。お上さんは前掛を掛けません。下女その他の者も御客様の前へ出る時は、前掛を はずして出ましたが、中から下の女-裏店の嗅アなどになると、帯を締めずに前掛ばかりで外 を出歩くというような者が、だんだん多くなって参りました。それからちょっとした進物には、 前掛地を持って往くようた習わしさえ生じて来たのです。 上野広小路  ところで化政度の上野広小路は、どんな有様であったかと云いますと、それは十九冊本の「我 衣」によく尽して居ります。   下谷広小路の水茶屋へは文化丑年御触有て、見世のかLり大造に致すべからず、女を差置と   も、十三以下、四十以上を限り、美服等著すべからずとぞ、其当座は相守るやうにもみえし   が、年月のたつに随ひ、又々遣りすごし、茶汲女多く絹を著し、或は黒嬬子の帯などにて、   其美麗大そう也、十二文か、十六銅の茶代を置ては見向もせず、只田舎武士、或は山の僧な   ど、彼が口車に乗せられ、酒食三味線にうかれて、深夜まで遊びたはむれ、其外よからぬ事   のみ多し、一体此水茶屋にて召抱ゆる娘も、一ヶ年一両二分か、二両の給金なれば、さのみ   美服は著する事叶はず、皆彼武家出家などをたぶらかして著する也、今年の春(文化六)さ   る水茶屋の女、尤広小路にては名取なるが、年始に出たる衣裳、髪の飾り、中々金十七八両   と見えたり、小女一人、羽織著たる若い者一人、供に連れたり、抑是《そもそも》はいか成事ぞや、供   に連れたる小女も此家の召仕也、己も召仕なり、其主人はた!銭をまうくる女なるを以て娘   の如くあしらふ、是は渡世たればゆるしもすべけれど、己が召仕ふ下女に又下女をつけたる   は不審《いぶか》し、水茶屋の女などは、下賎の甚しきもの成るに、二人迄供を連れたる天下の法を弁   へざるとやいはん、さればこそ来年の初春には、此茶屋の地主の女房は、御所車に乗て年始   の礼に出られんもしれず。  この文によりますと、第一に文化二年の法度で、水茶屋の女の年齢を制限して居ります。従来 の水茶屋の法度では、幾人以上若い女を置いてはならん、ということでありましたが、それでも これは娘だとか、これは嫁だとかいう風に、雇人でないことにして、女を多く蓄える風があった。 そこで今度は、たとい女房であっても、嫁や娘であっても、若い女を御客のところへ出してはな らん、十三以上、四十以下の女を店に置いてはいけない、ということにしたのです。この法度で 注意されるのは、料理茶屋、水茶屋と続け書になっている。この料理茶屋、水茶屋と続けて、茶 酌女の年齢を制限するということは1当時の人の申すのによりますと、広小路の水茶屋から起 ったことで、主としてそこの取締のために規定されたのだ、と云って居ります。成程、上野の山 下には料理屋が多かったので、幕末になりましては、松源をはじめとして仲町へかけて、料理屋 が四十何軒もあったのであります。 人気は天保改革まで  それから文化六年に、又法度を出して同じ事を繰返して居りますし、文政六年六月にも、やは りその事を繰返して居ります。天保十三年の改革の時になりますと、料理茶屋、水茶屋の酌取女、 と書いてある。料理茶屋の方は酌取女でわかりますが、水茶屋の方も酌取女としてある。これは ちょっとおかしいですが、これによって当時の水茶屋がどういう按排のものであったかというこ ともわかるし、実際水茶屋に酌取女のいたこともわかると思います。この時分は諸方の出茶屋は あまり繁昌しませんで、市街地の茶店-定店《じようみせ》になっている方が盛であった。そこで法文の上に まで、水茶屋の酌取女ということが出て来るわけなのです。  天保改革の時には、水茶屋に対しては商売替を命じ、そこにいる女どもに対しては奉公の住替 を命じて居ります。又潔白な、正直な水茶屋に対しては、若い女は一切出してはならんll今度 は年齢も人数も構わずにそう命じている。そういう禁令の出ているのを眺めて、「我衣」の本文 を見ますと、何程やかましく云っても、始末のつかぬことがわかります。「我衣」の筆者である 曳尾庵は、広小路の水茶屋女の様子を見て、むやみに腹を立てて、ひどく叱りつけて居りますけ れども、これで上野広小路の水茶屋が、何程景気のいいものだったか、わかると思います。けれ どももうこの時分には、茶屋の数も多く、そこにいる女も評判な者が多くなりましたから、明和 安永度のように、景気のいいことはありません。相変らず一枚絵に出る女は勘くなかったけれど も、何屋の誰といって、その名が後々まで残るというような、上景気な女も無かったわけであり ます。  又水茶屋法度の上で見ますと、身売り同様の事を致す、ということが書いてある。「我衣」の 文では、水茶屋に抱えられる女は、一箇年一両二分か、二両のように云ってありますが、実際は そうでなかったらしい。いずれにも水茶屋女は、十五歳以上先ず二十歳どころと押えて、三十歳 位までの女ですが、一年にすると五両から七両位の給金を取ります。それが二三年という年季に たれば、三十両から五十両、或はそれより上のもあったということです。そうして見ると、吉原 へ身売りをするよりも、年季が短くて金が余計取れる。それだから水茶屋の方に出る女の多かっ たことも考えられます。天保の改革のため、水茶屋は殊にひどく抑えつけられましたけれども、 その改革が弛まりますと、間もなく又昔のようになって、前の体裁に立戻りました。  町中の水茶屋というものは、大概表が落間《おちま》になっていて、そこに床几や腰掛が出してあり、そ の上に絵莚《えむしろ》を敷いて、座蒲団が出してある。店の真中のところには、綺麗にした朱塗の竈があっ て、真鍮の釜が出してあった、その耳のところの鎧を渦巻にして、三尺ばかりも持上っている。 暖簾に軒提灯、片方には角行燈がついている。こういったのが町中の茶店の様子でありました。 奥の方には無論座敷があり、多くは二階建になっていたようです。神田明神でありますとか、湯 島でありますとか、愛宕山などもそうですが、不忍池などは、宝暦度、文政度にあそこへ土手を 持えまして、その新土手に水茶屋が出来て繁昌したことがあった。それも僅かの間で、直きにや められてしまいましたが、そういう展望のいい場所には、よく水茶屋があったようです。いずれ も寺杜の境内にあるのは出茶屋で、神田明神のは後々までありましたが、懸崖造りで丸太の柱に 葭賓囲い、展望にいい場所ですから、遠眼鏡などが置いてあった。暖簾も模様のある華かな暖簾 で、軒提灯なども綺麗なものだった。敷いてあるのは薄縁《うすべり》ですから、大したことはないけれども、 上には毛蔑や毛布が敷いてあって、なかなか綺麗に出来て居りました。これには勿論二階建など は無い。酒などを飲むことはたいけれども、そういうところですから、腰の瓢箪が出て来るとい うわけです。  いずれにしても天保以後の水茶屋では、御客さんを見かけて、茶釜の中の煮くたらかしの茶を 酌んで飲ませるようなことは無い。先ず香煎とか、ユカリとかいうものを持って出て、暫時にし て御煮花という順序だったようで、場所によっては随分名茶も出しますが、大抵は狭山の茶が多 いのです。狭山の茶は直ぐにパッと出る。二番は利かないけれども、最初は匂いも高く色合いも いいから、多くこういうところで使いました。江戸ツ子なんていう手合は、水茶屋なんぞにあま り行くものじゃないから、どっちでもいいけれども、あの連中には茶の味がわかる筈のものじゃ ない。水茶屋には、江戸ッ子なんて云われるよりは、幾分ましな人達が入込んだので、ところに よっては町の旦那株の人、若旦那といわれるような人も行った。此等になるとお茶もわかる。な ぜ一番先にお茶を持って来ないかというと、お茶を出す以上は煮くたらかしのを出すわけには往 かない。だからいい茶を出すところほど、先に茶を出さないで、香煎だの、ユカリだのを使う。 その後へ茶が出て来るので、こうやれば二重になる。二重に出した方が、御茶代の取りいい関係 もあります。が、ましな茶を飲ませようとすれば、客を見かけて直ぐに出せない。煮立った湯を 酌むが早いか、ザアアとやって持出せない。そこを手早い熱湯で差支ない香煎やユカリを出して 置いて、という段取にもなるのです。それほどの茶を出すのでなくても、勿体をつける気味もあ ったのでしょう。だが天保改革の後は、世の中の様子も変って来まして、それから先は楊弓場の 方へ人気を取られてしまったようです。  これより前、明和、安永の頃には投扇興などというものもあった。投扇與などというものは、 ちょっと面倒な仕組でありますが、それが酒の賭事になっていましたから、そこから一杯やるこ とにもなる。楊弓場もその頃からありました。そういう遊び事をやっている方が遊びいいわけで ありますが、明和、安永時分には、女のいいのがいる、ういういしい女がいる、ということで、 水茶屋の方へ景気を取られたのです。それが後にはだんだんそうでなくたって、ただお茶を飲ん で、女の顔を眺めて、長く空咄《からばなし》をしているのでは工合が悪い。自然何か遊び事のある方へ、人が 寄るようになったのでしょう。先ず水茶屋の女のことは、この位なものであります。